シューベルト

2017年03月24日


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シューベルトは600曲余りの歌曲を生み出し、それらのすべてに接したいと思うのはシューベルティアンの見果てぬ夢だった。

その願いを満たしてくれたのが、フィッシャー=ディースカウという超人的な歌い手によるこの大全集だった。

フィッシャー=ディースカウは古典から現代までにわたり、信じられないような量の声楽曲を歌い、演じ、録音してきたが、その膨大な録音群の中でひときわ高峰を成しているのがこのアルバムである。

勿論ここには男声用の歌曲しか収録されていないが、シューベルトの歌曲を窺う史上空前の最も重要なマイルストーンとなった。

以来別の企画でシューベルトの歌曲全集がリリースされたり、また目下進行中のシリーズもあったりするが、一歌手による一人の作曲家の作品への録音としてはレパートリーの上でも前人未到の驚異的な記録だし、今後も望めないだろう。

1966年から72年にかけての録音の集大成で、この21枚のCDに収められたシューベルトの歌曲は、3大歌曲集57曲とその他の男声用の作品406曲で構成され、その数だけでも実に463曲に及んでいる。

フィッシャー=ディースカウの声も芸術的な表現力も充実しきっていた時期の歌唱を満喫できるのが最大の魅力だが、これらの歌には、いわゆるやっつけ仕事としての歌唱がまったくないということも驚嘆すべきことだ。

ひとつひとつの曲に丹念な想いが込められ、精緻でありながら千変万化の巧みな表現と語り口調の絶妙さは傑出している。

ピアノのジェラルド・ムーアについて言えば、彼は伴奏を芸術の域に高めた功労者として知られているが、また自身の個性よりも常に曲趣と歌手の持ち味を生かすというニュートラルな立場を貫いた、まさに伴奏者の鏡のような存在だった。

彼は1967年に公開のコンサートからは退いたが、その後もこうした録音活動によって円熟期の至芸を鑑賞できるのは幸いだ。

まさにフィッシャー=ディースカウ&ムーアという稀代の名コンビによる共同作業の最高の結晶である。

更にフィッシャー=ディースカウは400曲を超えるこの大全集と前後して、わずか10年と少しの間に、ヴォルフとブラームス、シューマンの大全集の録音も行っている。

ベートーヴェンやメンデルスゾーン、レーヴェらの歌曲と合わせ、実に1000曲を超える録音を残してくれた。

フィッシャー=ディースカウは、どれほどの決意と使命感を持ってこの超人的な難事業にチャレンジしたのであろうか。

楽々と成し遂げられているように見えるが、これらは貴重な人類の宝というべきもので、奇蹟的と言うしかない偉業だ。

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2017年03月10日


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巨匠リヒテル圧巻の名演として余りにも良く知られたシューベルトのピアノ・ソナタ第21番変ロ長調は、作曲家の最後を飾る作品のひとつであり、奇しくも彼の人生の終焉を垣間見るような寂寥感がひしひしと伝わってくる。

わずか31歳で生涯を閉じたシューベルトが、このように臓腑を抉るような深淵の境地を自己の音楽に映し出すことができたのはまさに天才のなす業だが、それを直感的に悟って表現し得たリヒテルの感性と技巧も恐ろしいほどに研ぎ澄まされている。

第1、2楽章をリヒテルは実にゆったりと弾き進み、足取りは滞りがちで鉛のように重く、異常に遅いテンポだが、ほの暗く、不安な気分を強調していて、この曲のもつ微妙なニュアンスを心憎いまでに描き出している。

余韻嫋々で抒情美の極みといっても過言ではなく、その中でシューベルトが背景にくっきりと浮かびあがり、聴く者を魅了する。

第3、4楽章は快いテンポが演奏を支配し、軽快なシューベルトの世界が出現、力のあるピアニストが余裕をもって音楽する楽しみが強く感じられる演奏だ。

また第19番ハ短調ソナタの終楽章ロンドは駆け抜けるようなイタリアの舞曲タランテッラを使っていて、何とも快いリズムに乗って、緊迫した世界が醸し出され、現世の儚さの中に限りない永続性を願っているようにも聞こえる。

また第1楽章では、明と暗のコントラストを巧みに生かしつつ、実にしっかりした構成的なシューベルトを聴かせる。

これらの急速楽章は、弾き手が凡庸だと退屈に感じられるのに、優れた構成家であるリヒテルの手にかかると時間を感じさせない。

シューベルトの演奏としては、きわめてスケールの大きな表現で、剛と柔とを巧みに対比させながら、強い説得力をもっていて聴かせる。

どちらも1972年のザルツブルクにおけるセッションで、第19番は17世紀に建設されたクレスハイム城、一方第21番は19世紀に再建されたアニフ城での録音になる。

リヒテルが都会のコンサート・ホールを避けて、あえて郊外にある閑静な歴史的古城を選んでいるのは、その音響効果だけではなく演奏への霊感を高めるための手段なのかもしれない。

セッションとしての録音活動にはそれほど熱意をみせなかったリヒテルの遺した録音は、系統的に作曲家の作品群を追ったものではないが、ライヴ音源からとなると本人が承認したか否かに関わらず、彼の死後収拾がつかないほどの量のCDがリリースされている。

しかも販売元のレーベルは多様を極めていて、それぞれの音質に関しても玉石混交なのが実情だ。

その中でも録音状態の良好なものは1970年代以降のもので、マニアックなリヒテル・ファンでなければこのアルト・レーベルからの一連のCDがリヒテル円熟期の至芸を極めて良好な音質で堪能するための良い目安になるだろう。

このシリーズはセッションとライヴの両方の音源から採られているが、英オリンピア倒産以降ライセンス・リイシューとしてレジス・レーベルから再発され、廃盤になったものをアメリカのミュージカル・コンセプツ社が英国マンチェスターからアルト・レーベルとして配給しているという複雑な経緯がある。

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2017年03月08日


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ピアノ・ソナタ第13番イ長調でシューベルトはおよそソナタ形式を展開させるには不適当と思われる長い歌謡調のメロディーを主題に持って来ている。

それはベートーヴェンの小さなモチーフが曲全体を構成して堅牢な楽曲を作る方法とは明らかに異なった作法を試みたと言わざるを得ない。

シューベルトのそれは美しいメロディーが走馬燈のように移ろい再び戻ってくる。

各楽章間のつながりも一見密接さを欠いた、取り留めのない楽想の連なりにさえ感じられる。

しかしリヒテルはそのあたりを誰よりも良く心得ていて、こうした長大な作品に冗長さを全く感じさせない、恐ろしいほどの冷静沈着さと集中力を持って曲全体を完全に手中に収めてしまう。

リヒテルはもうこれ以上遅くはできないというぎりぎりのところまでテンポを落とし、しかも音色美に過剰に依存することもせず、感情表出の深い境地に静かに分け入ってゆく。

特有のカンタービレからは喜遊性を退けて、その喜びは沈潜してしまう。

こうした込み入った表現を可能にしているのは、円熟期のリヒテルの内省的な深い思考をシューベルトの音楽の中に反映させ得るテクニックの賜物に違いない。

ここではひたすらシューベルトの音楽に沈潜した大家の、年輪を経た円熟した肉声が語りかけてくる。

もともと、人知れずシューベルトをこつこつレパートリーにしてきたリヒテルだけに、その精神世界の深みが素晴らしい。

このディスクのソナタでは、決して派手ではないが、淡々とシューベルトならではのデリカシーの奥底まで案内してくれる。

特に、ピアノ・ソナタ第14番イ短調はリヒテルの唯一の録音で、彼の数々の演奏の中でも傑出している。

音の表層をなぞるだけでは決して表現し得ない世界であり、こういう演奏を聴くと、リヒテルがなぜ巨人であったかが分かろうというものだ。

即興曲第2番と第4番は、ところどころにあらわれるシューベルトならではの孤独感と哀感を、繊細に表現していて聴かせる。

ともすると平凡になってしまうこれらの小品も、リヒテルの手にかかると精神的に深い音楽となってしまうから不思議だ。

このCDに収められた4曲はいずれも1979年に行われた東京でのライヴから採られていて、会場の緊張した雰囲気がよく伝わってくる演奏で、録音状態と音質の良さでは群を抜いている。

だが版権の関係か、あるいは日本のメーカーが興味を示さなかったためか、アメリカのミュージカル・コンセプツ社が英国マンチェスターから配給しているマイナー・レーベル、アルトが細々とリリースしているのが惜しまれる。

音源は英オリンピアのライセンスだったが、同社倒産の後は英レジスが引き取り、更に廃盤となったものをアルト・レーベルから再発しているという複雑な事情がある。

しかし皮肉にもリヒテル円熟期の至芸を堪能するのにこれら一連のCDが非常に高い価値を持っていること自体、意外に知られていないのが実情だ。

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2017年03月06日


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シューベルトのピアノ・ソナタは実際にコンサートで取り上げられる機会がそれほど多くない。

中でもこの東京公演で演奏された第9番ロ長調D.575及び第11番へ短調D.625は特別なチクルスでもない限りその魅力に触れることは皆無に近い。

これらの曲は牧歌的な素朴な響きと親密な雰囲気を持っているが、いわゆる弾き映えのしない曲なのでリヒテルがこの録音を遺してくれたことは幸いという他はない。

同時代のウェーバーも歌謡調の旋律を多用したピアノ・ソナタを書いているが、彼は誰よりも劇場に生きた作曲家らしくピアニスティックな華麗な技巧を前面に出してオペラ風の起承転結を明快にしているのが対照的だ。

その点シューベルトはソナタ形式により忠実で、思索的な音楽語法に秀でている。

リヒテルのシューベルトを聴いていると時間が経つのを忘れてしまうほど、率直にその純粋な魅力に引き込まれるし、また彼がこうした野心的でない曲をレパートリーにしていたことにも興味が惹かれる。

それは彼が如何にシューベルトの音楽観に共感を得ていたかの証明でもあるだろう。

なかば忘れられようとしているシューベルトが20歳頃に書いた慎ましい2曲から、リヒテルは豊かな情趣を引き出し、音楽の楽しみを心得た人の心には何の拘りもなく素直に入り込んでくる演奏だ。

リヒテルはモンサンジョンのドキュメンタリー『謎』の中のインタビューで「シューベルトは誰も弾かないが、私自身が楽しめるものなら聴衆にもきっと楽しんでもらえる筈だ」と語っている。

例によって緩急自在に弾きわけながら、音楽の流れは自然で、しっとりとした情感に満ち、心の底深く訴えてくる。

尚第11番は第3楽章が完全に欠けた未完の作品で、バドゥラ=スコダなどによって補筆された版もあるが、リヒテルはこのソナタが作曲された1818年に単独で書き遺されていた『アダージョ変ニ長調』D.505を当てていて、作品としての問題点を感じさせる以前にある真実の表現をもった音楽となっている。

またこのCDには他に『楽興の時』D.780より第1,3,6番がカップリングされているが、リヒテルの演奏の凄さを示している。

シューベルトの小品に対し、楽しさに溢れたロマンティックなものを求めがちだが、そういう常識を覆す演奏で、リヒテルの手にかかるとシューベルトの孤独の魂、哀しみの深さがしみじみと滲み出てくる。

小品であっても、彼の眼差しは作品の底まで射抜いているかのようだ。

いずれも1979年に東京文化会館、NHKホール及び厚生年金会館ホールで催されたコンサートのライヴ録音で音質はきわめて良好。

東京でのコンサートからの一連の音源は優秀なものだが日本からはリリースされておらず、現在では外盤を調達するしかないが、このアルト・レーベルからはリヒテルのシューベルトのソナタ集だけでもライヴ、セッションを含めて既に3枚出されている。

ライセンスは総て英オリンピアが持っていたもので、同社倒産以降はレジス・レーベルが引き取り、その廃盤に当たってアメリカのミュージカル・コンセプツ社がマンチェスターからアルト・レーベルとしてリイシューしている。

このシリーズのライナー・ノーツは見開きの3ページで英語のみ。

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2016年07月05日


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モーツァルトの権威でもあったイングリット・ヘブラーは、早くからシューベルトのピアノ・ソナタの録音も積極的に行っていた。

この7枚組のセットは彼女が1960年からほぼ10年に亘って残したフィリップス音源をまとめたもので、2種類のモーツァルト・ピアノ・ソナタ全集と並ぶ価値の高いアルバムとしてお薦めしたい。

その特徴はそれぞれの曲の古典的な様式感をしっかりと押さえながら端正な弾き込みですっきりまとめているところにある。

シューベルト晩年のソナタでは、リヒテルの喜怒哀楽を遥かに超越した言い知れぬ諦観を感じさせる哲学的な深みが忘れられないが、ヘブラーのそれは異なったポリシーによる、むしろロマン派的解釈の深入りを避けた、サロン風の洗練された手法が対照的な演奏だ。

しかしそこには仄かな哀愁が漂っていて、歌曲作曲家としての詩情の表出やダイナミクスの変化も豊かで、しばしば指摘される作品の冗長さも感じさせない。

シューベルトは未完成のものも含めるとピアノ・ソナタを21曲ほど作曲しているが、ヘブラーはこのうち12曲を採り上げている。

勿論その中でも代表作になる第18番『幻想』及び第19番から第21番までの最後の3部作も含まれるが、未完の第15番『レリーク』は選択から漏れている。

またここには幻想曲『さすらい人』がないのも残念だが、その他の小品は磨きぬかれたテクニックで弾いた珠玉のセッションが揃っていて、決して個性の強い演奏ではないが、そのテンポの取り方やタッチの処理も真似のできないようなエレガンスと機智が感じられる。

尚CD5と7に収録された4手連弾用作品ではルートヴィヒ・ホフマンとの協演になる。

フィリップスの音源は極めて良好で、時代を感じさせない瑞々しい音質が得られている。

このコレクターズ・エディションは最近パッケージを一新して、内部もシンプルな紙ジャケットになったが、内容的には見るべきものが多くこれからのリリースにも期待できるシリーズのひとつだ。

ライナー・ノーツは22ページで、曲目及び録音データの他に、英、仏、独語による簡易な解説付。

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2016年05月27日


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ヨーロッパには、白鳥は死ぬ前に一声だけ美しい鳴き声をあげる、という言い伝えがあるが、それに因んで作曲家の亡くなる直前に書かれた作品を倏鯆擦硫劉瓩噺討鵑任い襦

シューベルトのこの歌曲集も文字通り彼の死の年に書かれた歌曲14曲を集めたもので、没後ハスリンガーによってまとめられ、《白鳥の歌》のタイトルで出版された。

深々としたバスの声で歌われる《白鳥の歌》は珍しいが、その代表格であり、かけがえのない名演奏と思えるのは20世紀ドイツを代表する偉大なバス・バリトン、ハンス・ホッターによるこの録音だ。

この歌曲集には、以前から名盤の数が多く、どれが特によいのか、多くの人にはそれぞれの支持盤があり、意見はかまびすしい。

筆者自身、愛聴している盤はいくつかあるが、なかでもとりわけしみじみとした情感をたたえ、深い味わいを感じさせる演奏として、まずこのホッター&ムーア盤をあげたいと思う。

この歌曲集を全曲歌うには、軽妙さから重苦しい沈鬱さまでの幅広い表現を必要とするので、概してバリトンが歌った時に良い結果が出るようで、典型的なテノールや重いバスには荷が重すぎるようだが、バスというよりはバス・バリトンとして歌っていたホッターの意外に軽やかな表現が忘れられない。

ホッターが、日本でよく知られるようになったのが、名伴奏者ジェラルド・ムーアとのこの《白鳥の歌》(1954年録音)あたりからだったという。

当時のホッターは45歳の円熟期にあり、シューベルト最晩年の深い抒情を見事に表出した名演で、若くして老いたシューベルトの晩年の人生観から晴朗な諦観を汲み出し、そのしみじみとした味わいは、聴き手の心を包み込むような深い慈愛に満ちている。

〈セレナーデ〉の深さ、〈アトラス〉の迫力と孤独…、このような歌は技巧から生まれるものではなく、歌い手の内面から投影されて現れるものだ。

しかもその内面のなんと穏やかで包容力のあることか! 耳を傾けていると心が慰められる。

シューベルトは《水車屋》や《冬の旅》、それにこの《白鳥の歌》を通して牋Δ良垪澂瓩鯆謬罎靴拭

《冬の旅》の荒涼とした冬景色、《白鳥の歌》の都会での孤独はまさにその譬えであり、若くして死と向き合わねばならなかった作曲家の晩年の人生観を映している。

それは深い孤独のなかから生まれた晴朗な諦観と言ってもよいものだが、その核心にもっとも深くふれているのがこのホッター盤で、シューベルトの最晩年の心象風景をこれほど的確にとらえ、滋味ゆたかで慰撫に満ちた演奏もまれだ。

ホッターの《白鳥の歌》は、この深い孤独感を身に迫る凄味で歌い出していて、そのいぶし銀のような声と深い人生観照は、作曲家が陥っていた孤独感に一体化するほど親密にふれている。

確かに孤独は恐ろしいが、それから逃れようとしても、それはつねについてまわる。

それならむしろ孤独を凝視し、それに徹してみてはどうか。

リルケは「飲むのが苦しければ、ぶどう酒そのものとなれ」と歌った。

そのときその苦みは身体をあたため、それを友とするようになるだろう。

真の孤独を知った者だけが、真に人間を愛せる。

この演奏からひびき出ているのはその意味だ。

孤独の苦しみのなかでは、かすかな希望も見失われがちだが、ホッターは忍耐強く、ヒューマンな懐の深い包容力を示し、必ずや出口は見つかると励ましてくる。

それはおそらく孤独の極にあったシューベルト自身も勇気づけられるほどの共感力だ。

これが45歳の演奏なのだから、ホッターはなんと成熟した演奏家だったのだろう!

ムーアのピアノ伴奏にも配慮が行き届き、力がこもっている。

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2016年05月18日


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ドイツ・リートを得意としたヘルマン・プライが、その最円熟期に録音したこれらのディスクは定評がある。

《冬の旅》はこの人にとって3度目の録音だけあって、その表現方法は以前よりもさらに練れており、今までのものと比べて今回のプライは冷静に作品を見つめ、かつてよりも深く旅人の心を歌い出している。

この演奏の大きな特色は、それまでにない冷静な目で作品を見つめていることで、プライの円熟ぶりがうかがえる。

F=ディースカウよりも、よりロマンティックな表現で、主人公の若者を、あたたかく見守るようにして歌い上げているのが特徴だ。

また年齢的な声の衰えを感じさせないどころか、かえって自由さを獲得している。

使用楽譜もクリティカル・ヴァージョンによっている。

南ニース生まれの若いピアニスト、ビアンコーニもしっかりとした弾きぶりだ。

ここには失意の青年への暖かい愛情が基本線にある。

《美しき水車小屋の娘》は、1985年に録音されたディスクで、プライにとって3度目の録音にあたる。

プライの声は、相変わらず若く艶やかさを失わず、以前の2回の録音と比べても、声の豊かさにはいささかの遜色もない。

内向的なF=ディースカウの歌唱に比べると、プライはこみあげる思いを外に表出していくタイプだ。

その明朗で新鮮な歌声はこの人ならではのもので、ひとりの青年の甘く悲しい恋愛物語を、実に率直に表現している。

前回の1973年の録音の時よりも、さらに淡々とした運びかたで、聴き手を自然と作品の中に引き込んでゆくような不思議な魅力がある。

《冬の旅》はバリトン、《水車小屋》はテノールで聴くのがいいという定説が出来上っているようだが、プライのいちずな若者そのものの歌は、まさにこの歌曲集の主人公そのものだ。

ビアンコーニのピアノも《冬の旅》の時よりさらにシューベルトらしいナイーヴな世界を描き出している。

以前は感興のおもむくまま、のびやかに歌い上げることの多かったプライだが、1984年に録音されたこの《白鳥の歌》の演奏は、内面を深く見据えた姿勢をとり、外面的な効果をねらわず、じっくりと豊かな音楽をつくりあげている。

若々しく美しい声は以前と同じだが、プライが今回もなお若々しさを失わず、これほどの年輪の豊かさを加えたのは喜ばしく、さらに人間的な味わいの加わった歌唱だ。

ここでは、かつての彼にみられた情感に溺れる傾向もなく、行き過ぎた表現もなく、素直な感動をもたらしてくれる。

特にレルシュタープの詩による歌曲がすぐれており、「すみれ」と「遠い地にて」は名唱。

ハイネの詩による曲では「アトラス」と「影法師」が素晴らしい。

ビアンコーニの伴奏も若いが、みずみずしい演奏。

録音は歌曲の録音の模範ともいえるきわめて鮮明な音質が素晴らしく、プライの艶やかな声が見事に収められている。

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2016年03月31日


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とにもかくにも存在感のある演奏である。

アファナシエフと言えば、例えばブラームスの後期のピアノ作品集とか、バッハの平均律クラヴィーア曲集などの、いかにも鬼才ならではの個性的な名演が思い浮かぶが、このシューベルトの最後の3つのソナタも、鬼才の面目躍如たる超個性的な演奏に仕上がっている。

アファナシエフが奏でるシューベルトは、凍りついた熱狂に満ち満ちていて、聴く者にある恐怖心を植えつける、凄い演奏ではある。

ただ、この演奏、私見ではあるが名演と評価するのにはどうしても躊躇してしまう。

確かにこれを初めて聴いたときは驚かされた。

シューベルトの長い長いピアノ・ソナタを、アファナシエフはさらにことさらゆっくりと弾いて行くのだ。

間のとり方も尋常ではなく、ついつい耳をそばだたされて聴かされてしまうという構図だ。

ところが、2回目聴くと、奏者の計算が見えてきてもはや驚きなどなくいわば冷めた観察眼による鑑賞へ転じてしまうのだ。

シューベルトの最後の3つのソナタは、シューベルト最晩年の清澄な至高・至純の傑作であり、短か過ぎる生涯を送った天才がもつ暗い底なしのような心の深淵、ともすれば自分も一緒に奈落へと引きづり込まれてしまうのではないか。

その内容の深さは他にも類例を見ないが、同時に、ウィーンを舞台に作曲を続けた歌曲王ならではの優美な歌謡性も持ち味だ。

ここでのアファナシエフの極端なスローテンポは信じられないほどだ。

ゆっくりとさらに断片化されたシューベルトのソナタは、1つ1つ刻印をきざむ様にしなければ前に進まない。

そこには美しい音もあるが、ある意味苦行とも言える部分がある。

これがシューベルトの苦悩なのかわからないが、アファナシエフの問いかけのような遅い進みは、様々な空想を孕む一方で、私達の集中力の限界との戦いというリアルな問題まで勃発している。

これは確かに存在感のある録音である。

しかし、聴く人にはある程度の覚悟を要する録音と言えるところであり、少なくとも「これからシューベルトを聴いてみる」という人にはお薦めできない。

特に各曲の第1楽章の超スローテンポ、時折見られる大胆なゲネラルパウゼは、作品の内容を深く掘り下げていこうという大いなる意欲が感じられるが、それぞれの緩徐楽章になると、旋律はボキボキと途切れ、音楽が殆ど流れないという欠点だけが際立つことになる。

これでは、作品の内容の掘り下げ以前の問題として、聴き手としてもいささかもたれると言わざるを得ない。

もっとも、ポリーニの無機的な演奏に比べると、十分に感動的な箇所も散見されるところであり、凡演というわけではないと考える。

シューベルトのこれらの楽曲について、ある程度知った人が「アファナシエフを聴いてみる」ためのディスクと言えよう。

Blu-spec-CD化によって、音質は相当に鮮明になった点は高く評価したい。

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2016年03月13日


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ワルター晩年の貴重なステレオ録音ライヴラリーの中でも特に素晴らしい演奏を味わえる1枚である。

両曲ともに、ワルターならではのヒューマニティ溢れる情感豊かな名演だ。

特に、「第5」については、この曲を語る上で忘れてはならない名盤で、他のどの演奏よりも美しく、同曲最高の名演と特に高く評価したい。

第1楽章など、実にゆったりとしたテンポで開始するが、その懐の深さは尋常ではなく、初めてこの曲を聴くような新鮮さを感じさせる。

緩徐楽章など天国的に美しく、随所に感じられるニュアンスの豊かさ、繊細さも至高・至純の美しさに満ち溢れている。

それでいて、第3楽章などは力強さに満ち溢れており、決して典雅な優美さ一辺倒には陥っていない。

比較的小品的な扱いをされるこの曲の魅力を再発見させてくれる素晴らしい演奏内容である。

DSDリマスタリングによる高音質化も、決して嫌みのない音質に仕上がっており、このシリーズでは成功例に掲げられるだろう。

「未完成」も初出以来多くの評論家やファンが認める名演中の名演で、この曲の持つロマンティシズムを情緒纏綿に謳い上げた素晴らしいもの。

「未完成」には、最近では、ウィーン風の優美な情緒よりも、よりシリアスにシューベルトの内面を掘り下げていく、いわば辛口の名演が増えつつあるが、本盤は、ウィーン風の優美な情緒を売りにした古典的な名演と言えるだろう。

かつての古典的な名画に「未完成交響楽」があるが、本盤の演奏はまさに、当該名画のイメージがあり、ウィーン風のニュアンス豊かな絶美の音楽がどこまでも醸し出されていく。

如何にもワルターらしい曲を慈しむような丁寧な表現が何とも素敵で、特にオーケストラがニューヨーク・フィルという事で、弦パートの絹のような芳純な味わいが何とも言えない。

特に、ゆったりとしたテンポで情感豊かに演奏していく第2楽章が特に秀逸だ。

冒頭の淡々とした表現から次第に盛り上がって行く様子も実に自然で、例によって曲の随所に「歌」が溢れているところがワルターの真骨頂と言えよう。

傑作歌曲を数多く残したシューベルトの曲中に潜む多くの「歌」を表現出来た最後の指揮者の1人がワルターであった事は紛れもない。

録音はSACD盤がベストであるが、DSDリマスタリングも「第5」ほどではないものの成功しており、通常CDとしては、やはり本盤を推したい。

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2016年01月13日


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フルトヴェングラー&ベルリン・フィルによる1951年の『ザ・グレイト』の音源は過去にドイツ・グラモフォンからシングルレイヤーの限定盤としてSACD化されていたものだが、今回プラガ・ディジタルス独自のリマスタリングによるハイブリッド盤がリリースされたことを歓迎したい。

カップリングされたもう1曲はベートーヴェンの交響曲第9番の終楽章で、1954年8月22日のルツェルン音楽祭からのライヴになる。

どちらもモノラル録音だがマスター・テープは、当時としては極めて良好な音質と保存状態でSACD化の甲斐がある音源であることに異論はない。

ベートーヴェンの『第9』が終楽章のみの収録というのは、如何にも余白を埋めるためのご都合主義としか思えないが、プラガでは近々全く同一音源の『第9』全曲のSACD化を予定しているので、これは一種のトレイラーとして聴いておくことにした。

ただしこの音源も既にアウディーテ・レーベルから2000年にSACDとしてリリースされていたものだ。

ちなみにヨーロッパではこのシューベルトの方が昨年末に既にメジャーなマーケットに出ていた。

15ページほどのライナー・ノーツには曲目解説とフルトヴェングラーのキャリア及びベートーヴェンの『第9』第4楽章のシラーの頌歌『歓喜に寄せて』の歌詞対訳が英、仏語で掲載されている。

シューベルトの交響曲第9番ハ長調『ザ・グレイト』は、当時のセッションとしては殆んど非の打ちどころのない音質を保っているのに驚かされる。

第1楽章冒頭のホルンは田園的な穏やかさで開始されるが、その後のテンポは柔軟かつ自在に変化して聴く者をフルトヴェングラーの世界に引き込んでおかずにはいない。

しかしオーケストラは常に清澄な響きを失うことがない。

勿論第1楽章の展開部や終楽章のクライマックスではブラス・セクションとの堂々たる総奏があるにしても、全体的には過度にドラマティックな表現や音楽の急激な変化を避けた、一点の迷いもない明朗なシューベルトが再現されているのが特徴だろう。

ベルリン・フィルの一糸乱れぬ精緻なアンサンブルも聴きどころで、SACD化によって楽器間の分離状態も向上して総奏部分でも音響がひと塊の団子状態になることが避けられている。

この時期のフルトヴェングラーのシューベルトの解釈が彼の第1回目の同曲の録音時とはかなり異なっているのも興味深い。

どちらも評価の高い演奏で、その優劣を問うことは殆んど意味を成さないだろうが、シューベルト的な豊かな歌謡性や抒情を感じさせるのがこの1951年盤だと思う。

こうした演奏を鑑賞していると、シューベルトが大上段に構えた管弦楽曲の作曲を目論んだ野心作というより、湧き出るような楽想を1曲の交響曲にまとめあげたという印象を受ける。

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2016年01月07日


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本盤はCDではなくMP3フォーマット音源であるが、以下は同音源のグラモフォン盤のCDのレビューになる。

ハンス・ホッターは生涯に5回シューベルトの歌曲集『冬の旅』全曲録音を行い、そのうち4種類がCD化されている。

その中で最も古いものがピアニスト、ミヒャエル・ラウハイゼンとのセッションで、1942年から翌43年にかけて収録されたホッター初の『冬の旅』だ。

この録音がよもやドイツ・グラモフォンの正規音源からのCD化されるとは思ってもみなかった筆者は、学生時代海賊盤CDを買い求めて聴いたが、録音状態は良好で、ホッターの声は充分満足のいく程度に捉えられているし、ピアノの音はやや後退していて歌と対等というわけにはいかないが時代相応以上の音質を保っている。

聴き比べるとやはり本正規盤で聴く方がより生々しい感じがして、角が取れたという印象を受けるが、決して悪いリマスタリングではない。

演奏の方だが、ホッターの他の演奏よりずっと恣意的なのに戸惑う。

ただでさえ遅いテンポを採っているにも拘らず、それぞれの曲中で更にテンポを落とす部分がしばしば聴かれる。

若々しいとは言え、低く重い声質の彼がこの暗い曲集をこのように歌っていることは意外だったが、後になってこうした解釈が時代的な趣味を反映していることに気付いた。

当時はまだロマン派の表現様式を引き摺っていた、言ってみれば最後の時期で、フィッシャー=ディースカウの出現あたりを機にドイツ・リートの世界では過度な表情をつけることやテンポを顧みずに思い入れたっぷりに歌う歌唱法は息の根を止められる。

だからより現代的な表現に慣れた耳にこの『冬の旅』は過去の遺物のように感じられるが、それでもホッターがこうした時代を経て、既にジェラルド・ムーアとの1954年のセッションではかなりモダンな歌唱になっているのは興味深いところだ。

ラウハイゼンの伴奏にももう少し強い主張があっても良いと思うが、録音のテクニック上の問題で歌を邪魔しないように配慮されているのかも知れない。

特にホッターのような低声の歌手を伴奏する場合には、ピアニストにも声を活かすための高度なテクニックが要求されるだろう。

いずれにしても、大歌手ホッターの原点を知る上では興味深いサンプルだ。

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2015年12月22日


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イタリア弦楽四重奏団のレパートリーの中でもベートーヴェン、モーツァルトと並んでシューベルトは、彼らのコンサートのプログラムの三本柱を成していて、こうした作曲家の作品では意外にも彼らの自然な音楽性の発露よりも、隅々まで徹底した音楽設計を貫いた硬派的な演奏が聴き所だろう。

ここでも彼らは決してシューベルトの作品に溢れるカンタービレの再現ばかりに腐心するのではなく、むしろそれぞれの曲全体を見極めた音楽構成に注目して、かなり自制した厳しい演奏に仕上げているように思う。

それがシューベルトの作品に往々にして露呈される冗長さを感知させることなく、最後まで聴き終えることができる理由だ。

確かに彼らの歌うカンタービレは美しいし、いざという時にはその天性とも言うべき武器を存分に披露するが、常に個々の楽器間のバランスを失うことなく、統制されたカルテットの態勢を崩さないのは流石だ。

また時には豪快なダイナミクスを使って非常にドラマティックな曲作りを試みるのも彼らの手法だ。

彼らの合わせ技の秘訣のひとつに楽器の配置への特別な配慮がある。

第1ヴァイオリンとチェロ、そして第2ヴァイオリンとヴィオラが対角線に向き合う形で、チェロが内側に位置している。

更に総てのレパートリーを暗譜演奏していた彼らは楽譜に気を取られることなく、お互いのアンサンブルに集中できたことも、演奏自体に自由闊達な印象を与える要因になっている。

この2枚のCDに収められた4曲の弦楽四重奏曲は、いずれもシューベルト後期の作品で、第12番ハ短調D.703は第1楽章のみが完成されている。

前作からの転用も頻繁に聴かれ、第13番イ短調D.804『ロザムンデ』の第1楽章には歌曲『糸を紡ぐグレートヒェン』、第2楽章には劇音楽のテーマがヴァリエーションとして、また第14番ニ短調D.810『死と乙女』には第2楽章に同名の歌曲を利用している。

こうした作法は既にハイドンの『皇帝』に先例が見られる。

一方第15番ト長調D.887は、ひとつのシンフォニーのような壮大な構想を持っていて、規模も最も大きく、彼らの演奏時間も55分に及んでいる。

それだけにイタリア弦楽四重奏団ならではの、オーケストラを髣髴とさせるスケールの大きな表現が特徴だ。

また第4楽章は第14番と同様のイタリア風タランテラで、熱狂的な舞曲から昇華された緊張感と迫力に満ちた無窮動的な終楽章を締めくくっている。

D.810及びD.703が1965年、D.804が1976年、そしてD.887が1977年の録音になり、音質はこの時代のものとしては極めて良好で、当時のフィリップスの技術水準の高さを示している。

ブックレットは24ページで曲目紹介、録音データの他に英、独、仏、伊語の解説と後半部にはフィリップス・デュオ・シリーズのカタログが掲載されている。

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2015年11月28日


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ニコライ・ルガンスキー初のシューベルト・アルバムになり、しかも作曲家最晩年の作品を採り上げているところに近年の彼の音楽的な充実ぶりが示されている。

そこにはデビュー当時からのルガンスキーのピアニズムの特徴でもある正確無比で華麗な奏法が健在だが、更に豊かなファンタジーや明暗の表出が加わって彼の表現力を一層深みのあるものにしている。

ピアノ・ソナタ第19番ハ短調はその後に続く2曲のソナタと並んで、まさにシューベルトの人生の終焉をイメージさせる、追い詰められた焦燥や諦観、そこはかとない幸福感とが交錯している。

このソナタは図らずもこうした複雑な音楽性と集中力を削ぐような長大な規模を持っているために、しっかりした音楽設計と同時に魅力を引き出して聴かせるアイデアが要求されるが、ルガンスキーの演奏はそうした課題に対してテクニックで逃げ道を探すのではなく感性で対峙している。

緩徐部分ではオーケストラを髣髴とさせる微妙なタッチの使い分けによる色彩感とスケールの大きさを、終楽章「タランテラ」では華やかさの中にも速度に抑制を効かせて晩年の作曲家の心境に寄り添った解釈を示している。

4曲の即興曲は全曲続けて演奏するとさながらピアノ・ソナタのようだし、ルガンスキー自身もそれを意識していると思える。

そう感じたのは、このCDのリリースを控えた10月27日にウィーン・コンツェルトハウスのモーツァルト・ザールで彼のリサイタルを聴いた時だった。

その晩はコンサートの前半の締めくくりにこの4曲を演奏したが、それぞれの曲の対照的な性格を弾き分けながら強い統一感を引き出して、あたかも1曲のソナタのように聴かせていた。

こうした音楽構想と演奏上のオーガナイズにも彼の実力が表れている。

これは余談になるが、このコンサートのプログラムはフランク、シューベルト、ラフマニノフとチャイコフスキーだったが、ウィーンの聴衆がすっかり満足して惜しみない喝采を贈った返礼として、ルガンスキー自身も乗り気になってその後に4曲のアンコールを弾いて更に会場を沸かせ、彼のエンターテイナーとしての柔軟な姿勢も見せていたのが印象的だった。

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2015年09月14日


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ルドルフ・ゼルキンがコロンビアに録音したシューベルト作品集で、ソロだけでなくピアノ五重奏曲『ます』を始めとするアンサンブル作品や歌曲も収録されているのが嬉しい。

ゼルキンの演奏には大衆受けを狙った媚びや派手なアピールなどは全くないが、逆に言えば表面的で小器用な表現を一切避けて真摯に弾き込んだ音による力学と音楽の構造を疎かにしない、より普遍的で純粋な音楽性の追究がある。

そこにシューベルトの高度に洗練された精神的な安らぎと喜びが表されているのではないだろうか。

それを理解するには全曲を通して鑑賞することが望ましい。

入門者にはゼルキンの饒舌を嫌った素朴さが物足りないかも知れないし、また演奏には情に流されない厳しさが存在するのも否定できないとしても、一度彼の演奏哲学の魅力を知ったならば新たな音楽的視野を広げることになるだろう。

ピアノ・ソナタでもシューベルトをより古典派の作曲家として捉えた、節度をわきまえた誇張のない表現が特徴だが、楽章どうしの有機的なつながりが図られていて曲全体が緊密にまとまっている。

かえって『即興曲』や『楽興の時』などの小品集では自由闊達なロマン派的解釈を示している。

尚変ロ長調『遺作』はセッションとカーネギー・ホール・ライヴの2種類を聴き比べることができるが、ライヴでは演奏終了後客席からの拍手喝采を受けている。

アンサンブルではブッシュ兄弟とのピアノ三重奏曲がCD3に収録されている。

ゼルキンは十代の頃からアドルフ・ブッシュのパートナーとしてヨーロッパ各地での演奏活動を始めた。

この演奏はアドルフの亡くなる前年に録音されたもので、彼のイントネーションはやや乱れがちだが、ゼルキン亡命後も生涯に亘って続いた彼らの厚い友情には感慨深いものがある。

ピアノ五重奏曲『ます』のピアノ・パートではゼルキンがアンサンブル全体を締めくくる要の役割を果たして、冗長になりがちなこの曲にしっかりとした形式感を与えている。

ふたつの歌曲『流れの上で』はホルンの、『岩の上の羊飼い』はクラリネットのそれぞれオブリガートが付いたシューベルト晩年の珍しい作品だ。

特に後者はコロラトゥーラ・ソプラノのために書かれ、ヨーデルを模しているが、この曲の歌詞に使われている詩は複数の詩人の作品を彼が任意に繋げたもので、この時期のシューベルトが自身の歌曲に斬新な試みを始めていたことが興味深い。

こうした曲目の伴奏にゼルキンを迎えているのは随分贅沢なことだが、それだけにソロのホルンやクラリネットも良く制御され、ヴァレンテの清楚な歌唱を引き立てて文学的な趣向を高めている。

古い音源では一部に音揺れが聞こえるが音質は概して良好。

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2015年08月23日


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シューベルトのピアノ・ソナタ第18番と言えば、最晩年のアラウの感動的名演が忘れられないが、このアファナシエフ盤は、とにもかくにも存在感のある演奏である。

アファナシエフと言えば、例えばブラームスの後期のピアノ作品集とか、バッハの平均律クラヴィーア曲集などの、いかにも鬼才ならではの個性的な名演が思い浮かぶが、このシューベルトのピアノ・ソナタ第18番も、鬼才の面目躍如たる超個性的な演奏に仕上がっている。

アファナシエフが奏でるシューベルトは、凍りついた熱狂に満ち満ちていて、聴く者にある恐怖心を植えつける、凄い演奏ではある。

ただ、この演奏、私見ではあるが名演と評価するのにはどうしても躊躇してしまう。

確かにこれを初めて聴いたときは驚かされた。

シューベルトの長い長いピアノ・ソナタを、アファナシエフはさらにことさらゆっくりと弾いて行くのだ。

間のとり方も尋常ではなく、ついつい耳をそばだたされて聴かされてしまうという構図だ。

ところが、2回目聴くと、奏者の計算が見えてきてもはや驚きなどなくいわば冷めた観察眼による鑑賞へ転じてしまうのだ。

シューベルトのピアノ・ソナタ第18番は、最晩年の3大ソナタの清澄な至高・至純の傑作に連なる名作であるが、短か過ぎる生涯を送った天才がもつ暗い底なしのような心の深淵、ともすれば自分も一緒に奈落へと引きづり込まれてしまうのではないか。

その内容の深さは他にも類例を見ないが、同時に、ウィーンを舞台に作曲を続けた歌曲王ならではの優美な歌謡性も持ち味だ。

ここでのアファナシエフの極端なスローテンポは信じられないほどだ。

ゆっくりとさらに断片化されたシューベルトのソナタは、1つ1つ刻印をきざむ様にしなければ前に進まない。

そこには美しい音もあるが、ある意味苦行とも言える部分がある。

これがシューベルトの苦悩なのかわからないが、アファナシエフの問いかけのような遅い進みは、様々な空想を孕む一方で、私達の集中力の限界との戦いというリアルな問題まで勃発している。

そういう意味で、これは確かに存在感のある録音である。

しかし、聴く者にはある程度の覚悟を要する録音と言えるところであり、少なくとも「これからシューベルトを聴いてみる」という人にはお薦めできない。

特に第1楽章の超スローテンポ、時折見られる大胆なゲネラルパウゼは、作品の内容を深く掘り下げていこうという大いなる意欲が感じられるが、緩徐楽章になると、旋律はボキボキと途切れ、音楽が殆ど流れないという欠点だけが際立つことになる。

これでは、作品の内容の掘り下げ以前の問題として、聴き手としてもいささかもたれると言わざるを得ない。

もっとも、凡百の演奏に比べると、十分に感動的な箇所も散見されるところであり、凡演というわけではないと考える。

これはあくまで、シューベルトのピアノ・ソナタ第18番について、ある程度知った人が「アファナシエフを聴いてみる」ためのディスクと言えよう。

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2015年08月06日


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ダヴィッド・フレーはこれまで既に2枚のアルバムでシューベルトの作品集をリリースしている。

彼が最初に手がけたのがカナダのアトマ・レーベルから出た『さすらい人幻想曲』で、リストのロ短調ソナタとのカップリングだったが、それはどちらかというと彼のヴィルトゥオジティが発揮された1枚だった。

その後の彼はあえてメカニカルな技巧誇示を避けるような選曲で、自身のリリカルな感性を思いのままに表出させることに成功している。

エラートからの『楽興の時』ではこの小品集に独自のスタイルで幅広い表現の可能性を示したが、今回のソナタ第18番ト長調D.894でもシューベルトのウェットな歌心と音楽への愉悦に溢れている。

リヒテルの同曲の演奏を聴くと寂寥感が滲み出ていて作曲家の諦観を感じさせずにはおかないが、フレーは同じようにゆったりとしたテンポを取りながら、天上的な長さを持つ第1楽章を深い陰翳が交錯するような詩的な美学で弾き切っている。

シューベルトが数百曲ものリートをものした歌曲作曲家であったことを考えれば、こうした解釈にも説得力がある。

またもうひとつの愛らしいピース『ハンガリー風メロディー』D.817でもニュアンスの豊かさと殆んど映像的でセンチメンタルな描写が極めて美しい。

後半ではフレーのパリ音楽院時代の師、ジャック・ルヴィエを迎えてシューベルトの4手のための作品2曲を演奏している。

曲目は『幻想曲へ短調』D.940及びアレグロイ短調『人生の嵐』D.947で、彼らの連弾には聞こえよがしのアピールはないが、かえって抑制されたインティメイトな雰囲気の中に、変化に富んだタッチのテクニックを使い分けて彫りの深い音楽を浮かび上がらせている。

低音部を受け持つルヴィエも流石に巧妙で、フレーの構想するシューベルトの物語性をセンシブルにサポートしているのが聴き取れる。

フレーはコンサートはともかくとして録音に関しては目下のところフランス物には目もくれず、ドイツ系の作曲家の作品ばかりを取り上げている。

それは彼のラテン的な感性が図らずもゲルマンの伝統を受け継ぐ音楽にも対応可能なことを実証しているように思える。

ちなみに彼がこれまで録音したベートーヴェンのソナタは1曲のみだが、シューベルトの作品集への研鑽が来たるべきベートーヴェンへの足がかりになっているような気がしてならないし、またそう期待したい。

潤いのあるピアノの音色が効果的に採音された録音も充分満足のいくものだ。

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2015年07月29日


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ドイツのバス・バリトン、ハンス・ホッターの十八番を集めたリサイタル盤で、1973年ウィーンでのセッションになりホッター64歳の至芸がジェフリー・パーソンズのピアノ伴奏で収録されている。

筆者自身LP盤で聴き古した名演でもあり、またホッターの歌曲集としては数少ないステレオ録音なので新しいリマスタリングによって良好な音質でリニューアルされたことを評価したい。

ワーグナー歌手としても一世を風靡した名バス・バリトン、ホッターのもう一方の極めつけがシューベルトを始めとするドイツ・リートであった。

理知的で洗練された歌手であったホッターは持ち前の声量をコントロールして、ドイツ・リートでも抜きん出た存在で、フィッシャー=ディースカウの知的な歌唱とは対極にある、しみじみとした深い味わいは絶品だ。

ここに収められたヴォルフとシューベルトのアンソロジーはホッターが生涯に亘って歌い込んだ、いわば完全に手の内に入れた黒光りするようなレパートリーだけにその表現の深みと共に、時には呟き、時には咆哮する低く太い声が無類の説得力を持って語りかけてくる。

ホッターのステレオ録音によるリサイタル盤にはリヒャルト・シュトラウスの歌曲集を歌ったLPもあったので、できればそちらの方の復活も期待したい。

ホッターは稀代のワーグナー歌いとして名を留めているが、そのスケールの大きい、しかも内面的にも優れた表現ではシューベルトの『タルタロスの群れ』が素晴らしいサンプルで、この曲の不気味な嘆きをスタイルを崩さずに表現しきっている。

また『春に』はジェラルド・ムーアとの1957年の朗々たる名唱が残されているが、ここに収められた新録音ではホッターがこの年齢になって表出し得たある種の諦観がつきまとっていて、その高踏的な感傷が魅力だし、『鳩の使い』は彼の低い声がかえって純朴で内気な青年の憧れを感じさせる。

一方ヴォルフでは『鼓手』の朴訥とした呟きがフィッシャー=ディースカウの技巧を凝らした洗練と好対照をなしていて面白いが、ホッターは田舎出の少年の奇妙な空想を絶妙に歌い込んでいる。

欲を言えば『アナクレオンの墓』も聴きたいところだがこのCDには選曲されていない。

ここではまたジェフリー・パーソンズの巧みな伴奏も聴きどころのひとつで、ホッターのような低い調性で歌う歌手の場合、声の響きとのバランスを保つことと声楽パートを引き立てながら効果的な伴奏をすること自体かなりのテクニックが要求されるが、パーソンズはその点でも万全なピアニストだった。

廉価盤のため歌詞対訳は一切省略されていて、ごく簡単な曲目一覧と録音データ及びLP初出時のジャケット写真が掲載されている4ページのパンフレット付。

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2015年07月20日


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20世紀中盤を代表する名バス・バリトン、ハンス・ホッター全盛期のドイツ・リート集で、以前エンジェルからLP盤でリリースされていたジェラルド・ムーアとのセッション録音を集めた英テスタメント・リマスター盤。

その後に出されたEMIイコン・シリーズ6枚組とは曲目がかなりだぶってはいるが、シューベルトとブラームスでは同一曲でも録音年の異なるセッションから選択されているのがセールス・ポイント。

特に『音楽に寄す』『セレナード』『別れ』『春に』『菩提樹』『さすらい人の夜の歌』の6曲はホッター48歳の堂々たる風格で独自の境地を示した歌唱が堪能できるだけでなく、良好な音質でイコンの1949年盤に優っている。

既に廃盤の憂き目に遭っている音源なので、これだけでもリマスタリングされたこのCDを鑑賞する価値はある。

その1年前に録音されたブラームスを除いて残りの全曲が1957年収録で、この中の数曲は試験的なステレオ録音で残されている。

ワーグナー歌手としても一世を風靡した名バス・バリトン、ホッターのもう一方の極めつけがシューベルトを始めとするドイツ・リートであった。

理知的で洗練された歌手であったホッターは持ち前の声量をコントロールして、ドイツ・リートでも抜きん出た存在で、フィッシャー=ディースカウの知的な歌唱とは対極にある、しみじみとした深い味わいは絶品だ。

ピアノは総てジェラルド・ムーアが弾いていて、ここでも彼の伴奏に関するさまざまな理論が実践に移されているセッションでもある。

ホッターのような低い声で歌う歌手は、当然楽譜も自分の声に合わせた移調楽譜を使うわけだが、そのために伴奏者は音量の調節だけでなく、歌曲全体の雰囲気が暗く沈んでしまわないように注意を払わなければならない。

また作曲家が書いた、いわゆる原調とは全く異なった運指で歌手の声や表現を引き立てる奏法を編み出さなければならなかったムーアのテクニックの秘訣は、彼の著作『歌手と伴奏者』や『お耳障りですか-ある伴奏者の回想』などに自身の苦労話と共にユーモアたっぷりに紹介されている。

ライナー・ノーツは30ページほどで曲目一覧、録音データ、英、独、仏語による解説と全歌詞の英語対訳が掲載されている。

尚英テスタメントからはもう1枚、やはりムーアの伴奏によるホッターのヴォルフ歌曲集が独自のリマスタリングでのライセンス・リイシュー盤でリリースされている。

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2015年07月18日


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シューベルトの抒情的特質が最も純粋な形で発揮されたD.899、シューマンが曲集全体をひとつのソナタとみなしたこともあるD.935。

霊感溢れる楽想が凝縮した即興曲集は、シューベルトのピアノ曲のなかでも最も人気の高い清冽な詩情と孤独な心情を美しく謳い上げたピアノ芸術のエッセンスとも言える作品。

マリア・ジョアン・ピリスによる新鮮で瑞々しい表現による演奏解釈は従来から高く評価されており、聴き手をシューベルトの詩的な世界に誘う素晴らしい名演だ。

即興曲集は、楽興の時と並んでシューベルトのピアノ作品の中でも最も人気の高いものであるが、楽興の時とは異なり、一聴すると詩情に満ち溢れた各フレーズの奥底には作曲者の行き場のない孤独感や寂寥感が込められており、最晩年の最後の3つのピアノ・ソナタにも比肩し得る奥深い内容を有する崇高な作品とも言える。

したがって、かかる楽曲の心眼に鋭く踏み込んでいく彫りの深いアプローチを行うことは、同曲の演奏様式としての理想の具現化と言えるところであり、かかるアプローチによる演奏としては内田光子による彫りの深い超名演(1996年)が掲げられるところだ。

これに対して、ピリスのアプローチは、内田光子のように必ずしも直接的に楽曲の心眼に踏み込んでいくような彫りの深い表現を行っているわけではない。

むしろ、同曲の詩情に満ち溢れた旋律の数々を、瑞々しささえ感じさせるような透明感溢れるタッチで美しく描き出していくというものだ。

その演奏は純真無垢とさえ言えるものであり穢れなどはいささかもなく、あたかも純白のキャンバスに水彩画を描いていくような趣きさえ感じさせると言えるだろう。

ペダルコントロールも絶妙の巧さで、1音1音丁寧な指運から紡ぎ出されるピリスの音はどこまでも透明で柔らかく、心に優しく響きわたる。

もっとも、ピリスのピアノは各旋律の表層をなぞっただけの美しさにとどまっているわけではない。

表面上は清澄なまでの繊細な美しさに満ち溢れてはいるが、その各旋律の端々からは、同曲に込められた寂寥感が滲み出してきている。

ピリスは、音の1つ1つ、音型の1つ1つ、フレーズの1つ1つ、など、とても緻密に徹底した解釈をし、練り上げていくのだろう。

彼女の作り上げるそれらは、“自分はここをこう弾きたい”というメッセージを目一杯含み、聴き手に投げかけてくる。

型通り弾く人たちが多いなか、たとえばモーツァルトにしても、ショパンにしても、ピリスは雰囲気中心で弾くことは決してないし、かといってクールで理詰めな演奏をするわけでもない。

さて、今回のシューベルトも、基本的にはそうしたピリスの特質が色濃く表われた演奏で、よく考え抜かれ、それが演奏者の頭だけでなく、耳と体を通して発せられている、ということがよく分かる。

ピリスがシューベルトの音楽に対してどのような思い入れを持ち、どのように好んでいるかが、1つ1つの音から、フレーズから、全体から、よく伝わってくる、密渡の濃い演奏になっていると思う。

このようなピリスによる本演奏は、まさにかつてのリリー・クラウスの名演(1967年)に連なる名演と評価し得るところであり、即興曲集の演奏史上でも、内田光子の名演は別格として、リリー・クラウスによる名演とともに上位を争う至高の超名演と高く評価したいと考える。

録音は従来盤でも十分に満足できる高音質であったが、今般のSHM−CD化によって、ピリスのピアノタッチがより鮮明に再現されるとともに、音場が幅広くなったように思われる。

いずれにしても、ピリスによる至高の超名演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2015年07月11日


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アントン・デルモータ(1910-1989)は40年の長きにわたってウィーン国立歌劇場の専属として活躍したので、ウィーンの歌手と言って差し支えないだろう。

全盛期は1940年代から60年代の初めまでと言えるが、その後もリートなどでは活動を続けていた。

ただ、メジャー・レーベルに録音が少ないために日本ではほとんど発売されなかったように記憶する。

しかし1970年代になってからプライザー・レーベルに多くの録音を残してくれたのは有難い。

「冬の旅」もその中の1枚で、「冬の旅」の数ある録音の中でも独特の魅力を持っている。

いわゆる突き詰めた演奏ではなく、多少歌い崩し的な部分などもあり、全体としては技術、解釈ともに万全ではない。

それでも全盛期の甘い声と格調高い表現は十分に健在で、シューベルトの〈歌〉の本質を見事に突いた歌唱を聴かせてくれる。

とりわけ第1曲の「おやすみ」や第5曲の「菩提樹」などの素朴な歌謡旋律が曲の性格を決定付ける楽曲でのリリカルな情感は他に代えがたい魅力がある。

これほど〈歌うこと〉に重点が置かれた「冬の旅」は他に聴くことができない。

伴奏をしているのは夫人のヒルダ・デルモータで、やはり技術的には問題が残るが、歌と心の通った温かい表現が良い。

この演奏を聴いていると、シューベルティアーデで歌われていた「冬の旅」は、こんな感じだったのではと思えてくる。

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2015年07月08日


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本BOXには、田部京子が誠心誠意取り組んできた、シューベルト後期作品集が収められている。

クラシック音楽の世界には、この世のものとは思えないような至高の高みに達した名作というものが存在する。

ロマン派のピアノ作品の中では、何よりもシューベルトの最晩年に作曲された最後の3つのソナタがそれに相当するものと思われる。

その神々しいとも言うべき深みは、ベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタ群やブラームスの最晩年のピアノ作品にも比肩し得るだけの崇高さを湛えていると言っても過言ではあるまい。

これだけの至高の名作であるだけに、これまで数多くの有名ピアニストによって様々な名演が成し遂げられてきたところだ。

個性的という意味では、アファナシエフによる演奏が名高いし、精神的な深みを徹底して追求した内田光子の演奏もあった。

また、千人に一人のリリシストと称されるルプーによる極上の美演も存在している。

このような海千山千のピアニストによるあまたの名演の中で存在感を発揮するのは並大抵のことではないと考えられるが、田部京子による本演奏は、ブレンデル、シフの系統に繋がる、楽譜を研究し尽くした理知的なシューベルトが楽しめる逸品であり、その存在感を如何なく発揮した素晴らしい名演を成し遂げたと言えるのではないだろうか。

1994年リリースのシューベルト:ピアノ・ソナタ第21番において「次代を担う真に傑出した才能の登場」として、極めて高い評価を得た田部京子。

その後、発表した5枚のシューベルト・アルバムは、その全てがレコード芸術誌で特選を獲得し、田部は、日本を代表する「シューベルト弾き」としての比類なきポジションを確立した。

この田部の録音したシューベルトの後期3大ソナタを含む主要なピアノ作品をCD5枚のBOXは、シューベルト最晩年の深い諦観の世界をおのずと明らかにしてゆく、田部の極めて説得力の強い演奏の全貌が明らかになっている。

田部京子による本演奏は、何か特別な個性を施したり、はたまた聴き手を驚かせるような斬新な解釈を行っているというわけではない。

むしろ、スコアに記された音符を誠実に音化しているというアプローチに徹していると言えるところであり、演奏全体としては極めてオーソドックスな演奏とも言えるだろう。

とは言っても、音符の表層をなぞっただけの浅薄な演奏には陥っておらず、没個性的で凡庸な演奏などということも決してない。

むしろ、徹底したスコアリーディングに基づいて、音符の背後にあるシューベルトの最晩年の寂寥感に満ちた心の深層などにも鋭く切り込んでいくような彫りの深さも十分に併せ持っていると言えるところであり、シューベルト後期作品に込められた奥行きの深い情感を音化するのに見事に成功していると言っても過言ではあるまい。

いずれにしても本演奏は、シューベルト後期作品のすべてを完璧に音化し得るとともに、女流ピアニストならではのいい意味での繊細さを兼ね備えた素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

演奏全体に漂う格調の高さや高貴とも言うべき気品にも出色のものがあると言えるだろう。

しっとりと落ち着きのある音色と、清冽極まりないピアニズム、そして情感豊かな歌いまわしと深みを感じさせる表現等々、シューベルトのピアノ曲の妙味を引き出すのに過不足のない演奏が充溢している。

一方、「さすらい人幻想曲」は、ひとつのモチーフを中心に変奏手法を使って、ベートーヴェン的有機構造物を構築しようとした作品だが、田部は、その豊かな弱音のニュアンスを駆使して、強音がさほど強くなくてもしっかりと対比され、ダイナミズムが広く聴こえ、したがって大きなスケール感も出てくるという演奏を繰り広げていて、無理がなく、しかも美しい。

本BOXは、いつでもいつまでも聴いていたいと思わせる名演の集成と言えるだろう。

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2015年07月05日


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アーノンクールは1953年、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを組織し、今日のオリジナル楽器による演奏のブームの火付け役となった。

しかし、アーノンクールはさまざまな顔をもち、それらが彼の中で統一した1つの世界を作っているところに、ほかの音楽家とは異なった側面をもっている。

つまり、アーノンクールは一時、ブレンデルと組んで話題を呼んだこともあるが、むしろ重要なのはヨーロッパ室内管弦楽団とロイヤル・コンセルトヘボウとの共演である。

それぞれアンサンブルの個性が異なることもあり、そこから生まれてくる音楽が全く異なるのには驚かずにはいられない。

アーノンクールはこの老練なコンセルトヘボウとの共演によって、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスのそれとは別の世界を切り開いてきたように思う。

このモダン楽器の、しかもシューベルトはこれまで幾度となくさまざまな指揮者のもとで演奏してきた楽団では、オリジナル楽器の演奏がアーノンクールが求めた奏法、とくに語りかけるようなフレージングやアーティキュレーション、そこから作りだされる非常に弾力感のあるアンサンブルをそのまま求めることはしないかもしれない。

事実、この録音はかなりストレートで、全体に張り詰めたような力動感が漲っている。

演奏でとくに印象的なのはやはり第8番である。

アーノンクールの手にかかるとすべての音が柔和な相貌を得、とくに楽器1つ1つがそれぞれの表情をもちだす。

アーノンクールはさまざまな解釈によって作品の表面に蓄積した分厚い化粧を削ぎ落として、作品の地膚の美しさを引き出そうとしているかのようでもある。

しかし、同時にアーノンクールはモダン楽器を用いたときの演奏の利点と楽しさと魅力も同時に引き出そうとしているようだ。

同様のフレーズで、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスなら行なわないだろうと思われる解釈を、むしろ楽しみながら実践している。

ダイナミックなクレッシェンドや、たたみ掛けるようなクライマックス効果などはそうした一例である。

アーノンクールの指揮では常にそうであるが、さまざまな、これまで聞こえなかった、あるいは聞き落していた旋律や動機がくっきりと聞こえてくるが、この演奏でもそうである。

演奏の透明度が非常に高く、対旋律や背後に隠れている旋律が、それぞれきれいに聞こえてくるが、この大編成の近代的なオーケストラでも同様である。

メリハリのある音の運びと爽快なテンポ感と独特なフレーズの構成は、これが大管弦楽団であることを忘れさせるほどにしなやかな音楽を作り上げている。

それに第5番も忘れ難い。

これは作品の編成そのものが小さいこともあり、より駆動性のある演奏が実現されている。

柔和に語りかけるようなフレーズと、独特ないわば語尾の表現はこの第5番でよく発揮されている。

アーノンクールはどうして聴く者をこれほどまでに期待感を抱かせ、引っ張っていくのであろうか。

アーノンクールの演奏を聴くとどうしてもその先が聴きたくてたまらなくなるのである。

その劇的なダイナミックスや駆動性は、この楽団との共演で見事に醸し出されている。

そして第7番《未完成》も感動的である。

語りかけるようなその演奏は、それぞれの旋律をまさしくディアローグのように仕上げている。

全体がドラマ仕立てになっているということも可能であろう。

アーノンクールとロイヤル・コンセルトヘボウによるシューベルトの交響曲全集は、これまでのシューベルト解釈に一石を投じ、全く新しい世界を開いたものとして画期的なものとなろう。

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2015年06月29日


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フィッシャー=ディースカウが1951年にEMIとレコーディング契約をして以来の伴奏者だったピアニスト、ジェラルド・ムーアとのコラボレーションによるシューベルトの歌曲集。

先般のEMIによる過去の名盤のSACD化シリーズにおいては、若き日のフィッシャー=ディースカウによる一連のシューベルトの歌曲集も採り上げられることになった。

フィッシャー=ディースカウは、紛れもなく独墺系歌曲の最高の歌い手の1人であると言えるが、その最高の名唱とされているのは、何と言っても1970年代にジェラルド・ムーアと組んでスタジオ録音(DG)したシューベルトの3大歌曲集と言えるのではないだろうか。

本盤に収められたシューベルトの歌曲の演奏は、それよりも約20年ほど前の若き日の歌唱ということになるが、モノラル録音という音質面でのハンディはあるものの、1970年代の名唱とは違った意味で、素晴らしい名唱と評価したいと考える。

というのも、フィッシャー=ディースカウの歌唱は、あまりにも巧いために、後年の歌唱においては、その巧さが鼻につくケースも散見されるところであるが、本演奏においては、若さ故の気迫や熱き生命力が全体に漲っており、いささかも技巧臭を感じさせないのが素晴らしいと言えるからだ。

そして、勢い一辺倒の内容のない歌唱には陥っておらず、どこをとっても、シューベルトの音楽の素晴らしさ、美しさを心行くまで堪能させてくれるのが見事である。

巧緻な歌唱を支える若き日のフィッシャー=ディースカウの声は、言葉のニュアンスを深く、美しく伝えて、各曲の伝える世界を克明に描き出している。

本盤に収められた歌曲は、『魔王』や『セレナード』などのシューベルトの歌曲の中でも比較的有名なものを収めているところであるが、これら各歌曲の聴かせどころのツボを心得たいい意味での演出巧者ぶりは、本演奏当時の若き日より健在であると言えるところであり、まさに非の打ちどころのない名唱に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

本盤のピアノ演奏は、いつものジェラルド・ムーアがつとめているが、例によってジェラルド・ムーアによるピアノ演奏は、シューベルトの楽曲に特有の寂寥感に満ち溢れた美しい旋律の数々を情感豊かに描き出しており、フィッシャー=ディースカウによる名唱をより引き立てるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

音質は、モノラル録音というハンディもあって、従来CD盤の音質は、いささか鮮明さに欠ける音質であり、時として音が歪んだり、はたまた団子のような音になるという欠点が散見されたところであった。

ところが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。

従来CD盤とは次元が異なる見違えるような、そして1950年代のモノラル録音とは到底信じられないような鮮明な音質に生まれ変わったと言える。

フィッシャー=ディースカウの息遣いやジェラルド・ムーアのピアノタッチが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、フィッシャー=ディースカウ、そしてジェラルド・ムーアによる素晴らしい名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

なお、当たり前のことではあるが、前述の3大歌曲集のSACD化に際して、扱いにくい紙パッケージに封入したことや対訳を省略したユニバーサルに対して、本盤では通常パッケージで、なおかつ対訳が付いていることについても、この場を借りて評価をしておきたい。

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2015年06月27日


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フィッシャー=ディースカウが、ピアニスト、カール・エンゲルとのコラボレーションによるシューベルトの歌曲集。

先般のEMIによる過去の名盤のSACD化シリーズにおいては、若き日のフィッシャー=ディースカウによる一連のシューベルトの歌曲集も採り上げられることになった。

伴奏をムーアからエンゲルに代えてのシューベルト歌曲集第3巻は、シラーの詩による大作『水に潜る者』をはじめ、耳にする機会の少ない力作バラードを収めており、シューベルト・アルバムとしても珍しい企画と言えよう。

フィッシャー=ディースカウは、紛れもなく独墺系歌曲の最高の歌い手の1人であると言えるが、その最高の名唱とされているのは、何と言っても1970年代にジェラルド・ムーアと組んでスタジオ録音(DG)したシューベルトの3大歌曲集と言えるのではないだろうか。

本盤に収められたシューベルトの歌曲の演奏は、それよりも約20年ほど前の若き日の歌唱ということになるが、モノラル録音という音質面でのハンディはあるものの、1970年代の名唱とは違った意味で、素晴らしい名唱と評価したいと考える。

というのも、フィッシャー=ディースカウの歌唱は、あまりにも巧いために、後年の歌唱においては、その巧さが鼻につくケースも散見されるところであるが、本演奏においては、若さ故の気迫や熱き生命力が全体に漲っており、いささかも技巧臭を感じさせないのが素晴らしいと言えるからだ。

そして、勢い一辺倒の内容のない歌唱には陥っておらず、どこをとっても、シューベルトの音楽の素晴らしさ、美しさを心行くまで堪能させてくれるのが見事である。

本盤に収められた歌曲は、いずれもシューベルトの歌曲の中では必ずしも有名なものとは言い難いものであると言えるが、それでも各歌曲の聴かせどころのツボを心得たいい意味での演出巧者ぶりは、本演奏当時の若き日より健在であると言えるところであり、まさに非の打ちどころのない名唱に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

本盤のピアノ演奏は、いつものジェラルド・ムーアではなくカール・エンゲルがつとめているが、カール・エンゲルによるピアノ演奏も、シューベルトの楽曲に特有の寂寥感に満ち溢れた美しい旋律の数々を情感豊かに描き出しており、フィッシャー=ディースカウによる名唱をより引き立てるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

音質は、モノラル録音というハンディもあって、従来CD盤の音質は、いささか鮮明さに欠ける音質であり、時として音が歪んだり、はたまた団子のような音になるという欠点が散見されたところであった。

ところが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。

従来CD盤とは次元が異なる見違えるような、そして1950年代のモノラル録音とは到底信じられないような鮮明な音質に生まれ変わったと言える。

フィッシャー=ディースカウの息遣いやカール・エンゲルのピアノタッチが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、フィッシャー=ディースカウ、そしてカール・エンゲルによる素晴らしい名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

なお、当たり前のことではあるが、前述の3大歌曲集のSACD化に際して、扱いにくい紙パッケージに封入したことや対訳を省略したユニバーサルに対して、本盤では通常パッケージで、なおかつ対訳が付いていることについても、この場を借りて評価をしておきたい。

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2015年06月19日


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フィッシャー=ディースカウが1951年にEMIとレコーディング契約をして以来の伴奏者だったピアニスト、ジェラルド・ムーアとのコラボレーションによるシューベルトの歌曲集。

先般のEMIによる過去の名盤のSACD化シリーズにおいては、若き日のフィッシャー=ディースカウによる一連のシューベルトの歌曲集も採り上げられることになった。

フィッシャー=ディースカウは、紛れもなく独墺系歌曲の最高の歌い手の1人であると言えるが、その最高の名唱とされているのは、何と言っても1970年代にジェラルド・ムーアと組んでスタジオ録音(DG)したシューベルトの3大歌曲集と言えるのではないだろうか。

本盤に収められたシューベルトの歌曲の演奏は、それよりも約20年ほど前の若き日の歌唱ということになるが、モノラル録音という音質面でのハンディはあるものの、1970年代の名唱とは違った意味で、素晴らしい名唱と評価したいと考える。

というのも、フィッシャー=ディースカウの歌唱は、あまりにも巧いために、後年の歌唱においては、その巧さが鼻につくケースも散見されるところであるが、本演奏においては、若さ故の気迫や熱き生命力が全体に漲っており、いささかも技巧臭を感じさせないのが素晴らしいと言えるからだ。

そして、勢い一辺倒の内容のない歌唱には陥っておらず、どこをとっても、シューベルトの音楽の素晴らしさ、美しさを心行くまで堪能させてくれるのが見事である。

解釈の完成度において後年の諸録音に引けをとらず、かつ若き日のフィッシャー=ディースカウの美声を堪能できる点が嬉しい。

本盤に収められた歌曲は、いずれもシューベルトの歌曲の中では必ずしも有名なものとは言い難いものであると言えるが、それでも各歌曲の聴かせどころのツボを心得たいい意味での演出巧者ぶりは、本演奏当時の若き日より健在であると言えるところであり、まさに非の打ちどころのない名唱に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

ジェラルド・ムーアのピアノ演奏も、シューベルトの楽曲に特有の寂寥感に満ち溢れた美しい旋律の数々を情感豊かに描き出しており、フィッシャー=ディースカウによる名唱をより引き立てるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

音質は、モノラル録音というハンディもあって、従来CD盤の音質は、いささか鮮明さに欠ける音質であり、時として音が歪んだり、はたまた団子のような音になるという欠点が散見されたところであった。

ところが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。

従来CD盤とは次元が異なる見違えるような、そして1957年のモノラル録音とは到底信じられないような鮮明な音質に生まれ変わったと言える。

フィッシャー=ディースカウの息遣いやジェラルド・ムーアのピアノタッチが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、フィッシャー=ディースカウ、そしてジェラルド・ムーアによる素晴らしい名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

なお、当たり前のことではあるが、前述の3大歌曲集のSACD化に際して、扱いにくい紙パッケージに封入したことや対訳を省略したユニバーサルに対して、本盤では通常パッケージで、なおかつ対訳が付いていることについても、この場を借りて評価をしておきたい。

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2015年06月18日


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広範なレパートリーを誇ったカラヤンであるが、カラヤンは必ずしもシューベルトを得意とはしていなかったようである。

カラヤン自身は、シューベルトをむしろ好んでおり、若き頃より理想の演奏を行うべく尽力したようであるが、難渋を繰り返し、特に、交響曲第9番「ザ・グレイト」に関してはフルトヴェングラーに任せるなどとの発言を行ったということもまことしやかに伝えられているところだ。

実際に、レコード芸術誌の「名曲名盤300選」などにおいても、シューベルトの交響曲第8番「未完成」や交響曲第9番「ザ・グレイト」の名演として、カラヤン盤を掲げた著名な音楽評論家が皆無であるというのも、いかにカラヤンのシューベルトの評価が芳しいものでないかがよく理解できるところだ。

しかしながら、それほどまでにカラヤンのシューベルトの演奏は出来が悪いと言えるのであろうか。

本盤に収められているのは、カラヤンによる唯一のシューベルトの交響曲全集からセレクトされた2枚組である。

そして、カラヤンはシューベルトをその後一度も録音しなかった。

したがって、本演奏は、いずれもカラヤンによるこれらの交響曲の究極の演奏と言っても過言ではあるまい。

そしてその演奏内容は、他の指揮者による名演とは一味もふた味も異なる演奏に仕上がっている。

円熟のきわみにあった帝王とベルリン・フィルの名コンビぶりは、若書きの交響曲から、ゴージャスなサウンドを引き出して、比類のない魅力を引き出すことに成功。

ともに、3回ずつ、セッション録音を残している《未完成》と《ザ・グレイト》は、当ディスク所収の演奏が3回目のものであり、すみずみまでカラヤンの美学に貫かれているのが特徴だ。

本演奏に存在しているのは、徹頭徹尾、流麗なレガートが施されたいわゆるカラヤンサウンドに彩られた絶対美の世界であると言えるだろう。

シューベルトの交響曲は、音符の数が極めて少ないだけに、特にこのようないわゆるカラヤンサウンドが際立つことになると言えるのかもしれない。

したがって、シューベルトらしさといった観点からすれば、その範疇からは大きく外れた演奏とは言えるが、同曲が持つ音楽の美しさを極限にまで表現し得たという意味においては、全盛期のカラヤンだけに可能な名演と言えるのではないかと考えられる。

また、シューベルトの心眼に鋭く切り込んでいくような奥の深さとは無縁の演奏ではあると言えるが、これだけの究極の美を表現してくれたカラヤンの演奏に対しては文句は言えまい。

なお、カラヤンは当録音の以前にもシューベルトの楽曲を録音しているが、本演奏のような美の世界への追求の徹底度がやや弱いきらいがあり、筆者としては本演奏の方をより上位に掲げたい(カラヤンを好まない聴き手には、他の録音の方がより好ましい演奏に聴こえることも十分に考えられるところである)。

いずれにしても、本演奏は、全盛期のカラヤン&ベルリン・フィルが醸成した究極の美の世界、そしてカラヤン流の美学が具現化された究極の絶対美の世界を堪能することが可能な極上の美を誇る名演と高く評価したい。

併録の劇音楽「ロザムンデ」序曲も、カラヤンの美学に貫かれた素晴らしい名演だ。

音質は、従来CD盤でも比較的満足できる音質であったと言える。

数年前にリマスタリングも施されたことによって、音質は更に鮮明になるとともに音場が幅広くなったように感じられるところであり、筆者も当該リマスタリングCD盤を愛聴している。

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2015年06月14日


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これまで多くの聴者によって支持を集めているメジューエワによるシューベルトのピアノ作品集もついに第3弾の登場となった。

曲目も、最後の3つのピアノ・ソナタのうちの第20番、そして同じイ長調のピアノ・ソナタとして有名な逸品である第13番、そして楽興の時などの有名な小品集も収められており、まさに第3弾の名に相応しいラインナップを誇っていると言えるだろう。

それにしても、演奏は素晴らしい。

いや、それどころか期待以上の見事さと言っても過言ではあるまい。

本盤の演奏においても、メジューエワの基本的なアプローチは、第1弾や第2弾の演奏と基本的には変わっていないと言える。

メジューエワは、スコアに記されたすべての音符の1つ1つをいささかも揺るがせにすることなく、旋律線を明瞭にくっきりと描き出していくというスタンスで演奏に臨んでいる。

それでいて、いささかも単調に陥るということはなく、強靱な打鍵から繊細な抒情に至るまで表現力の幅は桁外れに広い。

全体の造型は非常に堅固であるが、音楽は滔々と流れるとともに、優美な気品の高さ、格調の高さをいささかも失うことがないのがメジューエワの最大の美質である。

そして、細部に至るまでニュアンスは豊かであり、その内容の濃さはメジューエワの類稀なる豊かな音楽性の証左と言えるだろう。

シューベルトのピアノ曲は、もちろん最後の3つのソナタの一角を構成する第20番はもちろんのことであるが、その他の楽曲についても、ウィーン風の抒情に満ち溢れた名旋律の端々には寂寥感や死の影のようなものが刻印されているが、メジューエワによる本演奏は、かかる寂寥感や死の影の描出においてもいささかの不足もなく、前述のような気高くも優美なピアニズム、確固たる造型美なども相俟って、まさに珠玉の名演に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

第1弾及び第2弾の際のレビューにおいても記したところであるが、これほどの名演を聴くと、メジューエワの類稀なる才能をあらためて感じるとともに、今後の更なる成長・発展を大いに期待できるところだ。

今後、メジューエワがどのようなスケジュールでシューベルトのピアノ作品集の録音を進めていくのかはよくわからないが、第4弾以降にも大いに期待したいと考える。

特に、シューベルトのみならず、あらゆるピアノ・ソナタの中でも最高峰の傑作とされる最後の3つのソナタのうち、本盤の登場によって第19番及び第20番の2曲の録音が揃ったことになるが、第21番において、メジューエワがどのような演奏を成し遂げるのか、実に興味深いと言えるところだ。

音質についてもメジューエワのピアノタッチが鮮明に捉えられており、素晴らしい高音質であると評価したい。

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2015年06月12日


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メジューエワによるシューベルトのピアノ作品集の第2弾の登場だ。

前回は最晩年のピアノ・ソナタ第19番と晩年のピアノソナタ第18番を軸とした構成であったが、今回は中期の傑作であるピアノ・ソナタ第14番とさすらい人幻想曲を軸に、晩年の傑作である4つの即興曲、3つのピアノ曲などをカップリングした構成となっている。

前回の第1弾が圧倒的な名演であっただけに、大いに期待して聴いたところであるが、本盤の演奏もそうした期待をいささかも裏切ることがない素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

本演奏においても、メジューエワの基本的なアプローチは前回と変わっていないと言える。

要は、1音1音を揺るがせにすることなく、旋律線を明瞭にくっきりと描き出していくというスタンスで演奏に臨んでいるが、いささかも単調に陥るということはなく、強靱な打鍵から繊細な抒情に至るまで表現力の幅は桁外れに広いと言える。

全体の造型は非常に堅固であるが、音楽は滔々と流れるとともに、優美な気品の高さをいささかも失うことがないのがメジューエワの最大の美質である。

そして、細部に至るまでニュアンスは豊かであり、その内容の濃さはメジューエワの類稀なる豊かな音楽性の証左と言えるだろう。

また、本盤に収められた各楽曲は、晩年の傑作である4つの即興曲や3つのピアノ曲は別格として、その他の楽曲についても、晩年の楽曲ほどではないものの、ウィーン風の抒情に満ち溢れた名旋律の端々には寂寥感や死の影のようなものが刻印されているが、メジューエワによる本演奏は、かかる寂寥感や死の影の描出においてもいささかの不足もなく、前述のような気高くも優美なピアニズム、確固たる造型美なども相俟って、まさに珠玉の名演に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

重厚堅固な構築性と自発的即興性がバランスよく結びついた弾きっぷりは、メジューエワの一層の進化・深化を物語るものであると言えよう。

これほどの名演を聴くと、メジューエワの類稀なる才能をあらためて感じるとともに、今後の更なる成長・発展を大いに期待できるところだ。

今後予定されているメジューエワのシューベルトのピアノ作品集第3弾にも大いに期待したいと考える。

音質についてもメジューエワのピアノタッチが鮮明に捉えられており、素晴らしい高音質であると評価したい。

とりわけ、DSD録音がなされたさすらい人幻想曲などが収められた2枚目のCDについては極上の高音質録音であり、今後可能であればSACDで聴きたいところだ。

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2015年06月10日


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メジューエワが、ショパンやシューマンなどの数々の録音に引き続いて、シューベルトのピアノ作品集に着手した時期の録音だ。

素晴らしい活躍を続けるロシア出身の実力派メジューエワは、本盤においても、曲想を精緻に描き出していくという基本的なアプローチは変わっていない。

1音1音を揺るがせにすることなく、旋律線を明瞭にくっきりと描き出していく。

ピアノ・ソナタ第18番の第2楽章などにおける強靭な打鍵も女流ピアニスト離れした力強さが漲っているとも言える。

この演奏を聴くとシューベルトは歌の作曲家であると同時にリズムの作曲家でもあることを思い知らされる。

したがって、全体の造型は非常に堅固であるが、音楽は滔々と流れるとともに、優美な気品の高さをいささかも失うことがない。

そして、細部に至るまでニュアンスは豊かであり、その内容の濃さはメジューエワの類稀なる豊かな音楽性の証左と言えるだろう。

また、シューベルトの作品には、ウィーン風の抒情に満ち溢れた名旋律の数々が聴かれるが、その背後には寂寥感や死の影のようなものが刻印されており、これをどの程度表現できるかに演奏の成否がかかっている。

メジューエワは、繊細優美で愉悦感に溢れる音楽づくりは言うまでもなく、シューベルトの音楽のもうひとつの要素である寂寥感や死の影をそこはかとなく表出してゆく。

とりわけ、最晩年のピアノ・ソナタ(第19〜21番)の底知れぬ深みは、ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタにも比肩し得るほどの高峰にあるが、これを巧みに表現し得た深みのある名演として、内田光子盤が掲げられる。

メジューエワによる第19番は、年功から言ってさすがに内田光子の域に達しているとは言えないが、それでも、寂寥感や死の影の描出にはいささかの不足もなく、前述のような気高くも優美なピアニズム、確固たる造型美などを総合的に鑑みれば、内田光子盤にも肉薄する名演と高く評価したい。

確固たる造型に支えられた線の太さと、千万変化するタッチを駆使した玄妙な表現が一体化した恐るべきシューベルトで、ここに収められているどの曲も、傑作であることを、深く納得させてくれる演奏だ。

録音もメジューエワのピアノタッチが鮮明に捉えられており、素晴らしい高音質である。

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2015年05月24日


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この演奏ははっきり言って良くない。

アバドの後を追ってベルリン・フィルの第6代芸術監督に2002年に就任したラトルであるが、就任から5年間ほどは、名うての猛者たちを統率することがままならず、新機軸を打ち出そうという気負いだけが空回りした凡庸な演奏を繰り返していた。

これは、アバドと同様であり、ベルリン・フィルの芸術監督就任前の方が、よほど素晴らしい演奏を成し遂げていたとも言えるところだ。

ラトルは今日でこそベルリン・フィルを完全に掌握し、現代を代表する大指揮者の1人として数々の名演を成し遂げつつあるが、ベルリン・フィルの芸術監督に就任してから数年間は鳴かず飛ばずの状態が続いていた。

世界最高峰のオーケストラを手中に収め、それだけに多くのクラシック音楽ファンの視線は厳しいものとならざるを得ないが、そうしたことを過剰に意識したせいか、気負いだけが空回りした凡庸な演奏を繰り返していたと言えるところだ。

個性を発揮しようと躍起になるのは結構なことであるが、自らの指揮芸術の軸足がふらついているようでは、それによって醸成される演奏は、聴き手に対して、あざとさ、わざとらしさしか感じさせないということに繋がりかねない。

しかしながら、2008年のマーラーの交響曲第9番あたりから、漸くラトルならではの個性が発揮された素晴らしい名演を成し遂げるようになった。

芸術監督に就任してから5年を経て、漸くベルリン・フィルを統率することができるようになったことであろう。

先般、SACD化された芸術監督お披露目公演のマーラーの交響曲第5番も、意欲だけが空回りした凡庸な演奏であったし、その後もR.シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」、ベルリオーズの幻想交響曲、ブルックナーの交響曲第4番など、箸にも棒にもかからない凡演の山を築いていたと言える。

ラトルも、ベルリン・フィルの芸術監督就任後は、名うての一流奏者たちを掌握するのに相当に苦労したのではないだろうか。

そして、プライドの高い団員の掌握に多大なる労力を要したため、自らの芸術の方向性を見失っていたのではないかとさえ考えられるところだ。

それ故に、必然的に意欲だけが空回りした演奏に終始してしまっている。

本演奏も美しくはあるが根源的な力強さがない。

同曲を精緻に美しく描き出すことにつとめたのかもしれないが、本演奏を聴く限りにおいては、ラトルがシューベルトの交響曲第9番「ザ・グレイト」をこのように解釈したいという確固たる信念を見出すことが極めて困難である。

そうなった理由はいくつかあるが、やはりラトルの気負いによるところが大きいのではないだろうか。

ベルリン・フィルの芸術監督という、フルトヴェングラーやカラヤンといった歴史的な大指揮者が累代に渡ってつとめてきた最高峰の地位についたラトルにしてみれば、肩に力が入るのは当然であるとは言えるが、それにしてはラトルの意欲だけが空回りしているような気がしてならないのだ。

ベルリン・フィルの猛者たちも、新芸術監督である若きラトルの指揮に必死でついていこうとしているようにも思われるが、ラトルとの息が今一つ合っていないように思われる。

そうした指揮者とオーケストラとの微妙なズレが、本演奏にいささか根源的な力強さを欠いていたり、はたまた内容の濃さを欠いていたりすることに繋がっているのだと考えられるところだ。

もちろん、ベルリン・フィルの芸術監督に就任したばかりの若きラトルに過大なものを要求すること自体が酷であるとも言える。

現代のラトルがシューベルトの交響曲第9番「ザ・グレイト」の録音を行えば、より優れた演奏を行うことができたのではないかと容易に想定できるだけに、ラトルは、同曲の録音を行うのがいささか早過ぎたと言えるのかもしれない。

音質は、これまでHQCD化が図られることなどによって十分に満足できる良好な音質であると評価したい。

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2015年05月17日


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広範なレパートリーを誇ったカラヤンであるが、カラヤンは必ずしもシューベルトを得意とはしていなかったようである。

カラヤン自身は、シューベルトをむしろ好んでおり、若き頃より理想の演奏を行うべく尽力したようであるが、難渋を繰り返し、特に、交響曲第9番《ザ・グレイト》に関してはフルトヴェングラーに任せるなどとの発言を行ったということもまことしやかに伝えられているところだ。

実際に、レコード芸術誌の「名曲名盤300選」などにおいても、シューベルトの交響曲第8番《未完成》や交響曲第9番《ザ・グレイト》の名演として、カラヤン盤を掲げた著名な音楽評論家が皆無であるというのも、いかにカラヤンのシューベルトの評価が芳しいものでないかがよく理解できるところだ。

しかしながら、それほどまでにカラヤンのシューベルトの演奏は出来が悪いと言えるのであろうか。

ともに、3回ずつ、セッション録音を残している《未完成》と《ザ・グレイト》であるが、本盤に収められたの演奏はそれぞれ2回目のものであり、カラヤン&ベルリン・フィルがまさに黄金の絶頂期を迎える少し前のもので、この頃ならではの推進力ある演奏に仕上がっており、すみずみまでカラヤンの美学に貫かれているのが特徴だ。

《未完成》は1回目のフィルハーモニア管弦楽団との録音よりも、さらにカラヤンの自己主張が強い。

しかし作品を歪曲するものではなく、美しく魅力的なアプローチであり、なめらかな旋律線に独自の感覚美を与えながら、全体を感興豊かに表出している。

《ザ・グレイト》は《未完成》より明るい音質で、演奏は全体に速めのテンポをとり、強い推進力をもってシューベルトのスコアから劇性と交響性を引き出している。

重厚な響きが快速テンポで運ばれるドライブ感が痛快、輝く金管群も後年のものとはまた違った響きであり、聴いていて爽快で、ベルリン・フィルの超絶技巧が冴えに冴え、信じられない重低音が鳴り響き、轟き渡っている。

壮年期のカラヤン、まさに血の気が多い時期だったのだろう、非常に強力な統率力でオケをドライブしている。

天下のベルリン・フィルといえども、今ではこんな壮絶な演奏は不可能になってしまった。

そして、本演奏に存在しているのは、徹頭徹尾、流麗なレガートが施されたいわゆるカラヤンサウンドに彩られた絶対美の世界であると言えるだろう。

シューベルトの交響曲は、音符の数が極めて少ないだけに、特にこのようないわゆるカラヤンサウンドが際立つことになると言えるのかもしれない。

したがって、シューベルトらしさといった観点からすれば、その範疇からは大きく外れた演奏とは言えるが、同曲が持つ音楽の美しさを極限にまで表現し得たという意味においては、全盛期のカラヤンだけに可能な名演と言えるのではないかと考えられる。

また、シューベルトの心眼に鋭く切り込んでいくような奥の深さとは無縁の演奏ではあると言えるが、これだけの究極の美を表現してくれたカラヤンの演奏に対しては文句は言えまい。

なお、カラヤンは当録音の以後にもこの2曲を含むシューベルトの交響曲全集をEMIに録音しており、華麗さと美への追求はいっそう徹底していると言えるが、カラヤンのアプローチがより徹底している本盤のほうを筆者はより好んで聴いている。

特にカラヤンを好まない聴き手にとっては、本演奏の方がより好ましい演奏に聴こえることも十分に考えられるところである。

いずれにしても、本演奏は、全盛期のカラヤン&ベルリン・フィルが醸成した究極の美の世界、そしてカラヤン流の美学が具現化された究極の絶対美の世界を堪能することが可能な極上の美を誇る名演と高く評価したい。

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2015年05月03日


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定期公演の実況盤であり、良くも悪くも実演に於けるフルトヴェングラーの特徴が最大限に発揮された「ザ・グレイト」である。

それだけにフルトヴェングラーのファンには逸することのできぬものと言えよう。

フルトヴェングラーでも、これだけ感情を生に爆発させた例は珍しいほどだ。

第1楽章の主部をこんなに速いテンポで、これほど燃え上がるような迫力で指揮した人を筆者は知らない。

ものものしく、じっくりと開始して、次第に盛り上げてゆくという、フルトヴェングラーのいつものやり方とは違い、最初から夢中になっている。

したがって、著しく動的な演奏であり、聴く者もわれを忘れて引きずり込まれてしまう。

テンポの極端な変動も自在に行われ、第2主題はもちろんのこと、展開部へ入る瞬間の気分の変え方はまことに堂に行っている。

さらに提示部と展開部のそれぞれ終わりの部分や、コーダなどのアッチェレランドは常軌を逸しており、時には唐突である。

展開部の終わりで大きくテンポを落としたまま、再現部でア・テンポに戻らず、そのまま進行するのも即興的だ。

おそらく会場でこの実演に接していた人たちはフルトヴェングラーの呪縛にかかって興奮の極みを示してしたに違いなく、曲頭に多かった咳払いが主部に入るやほとんど聞こえなくなってしまうほどだが、1942年のフルトヴェングラーにはやや後年の円熟味が欠け、即興的にすぎて造型に乱れを見せているのは事実であろう。

にもかかわらず、これだけやり尽くしてくれればそんな疑問は吹っ飛び、裸身のフルトヴェングラーを垣間見る想いで、ファンにはこたえられない。

展開部の最後におけるホルンとティンパニの最強奏など、いったい何事が始まったのかと思うほどだし、コーダの決め方もさすがだが、ここだけはフィナーレの同じ部分とともに、音がマイクに入り切っていないもどかしさも残る。

第2楽章は毅然たる進行がシューベルトらしい温かいロマンティシズムを弱める結果になっているが、それでも曲が進むにつれてフルトヴェングラー独特の神秘な表情やテンポの揺れが頻出し、恍惚たる弦の歌も出て、細部まで堪能させてくれるのである。

スケルツォは速いテンポと素朴なリズムの躍動による生命力あふれた表現であり、メロディックな部分とリズミカルな部分でテンポがごく自然に変わるのも賛成だ。

最近は杓子定規な演奏が流行っているが、曲想によるテンポの動きは当然なくてはならぬところであり、それが自然であれば゛“イン・テンポ”なのである。

ただしこの楽章、アンサンブルや楽器のバランスに緻密さを欠くのと、トリオの平凡なのがマイナスと言えよう。

フィナーレは第1楽章とともに最もフルトヴェングラーらしい部分だ。

ことに冒頭を芝居気たっぷりな遅いテンポで開始し、みるみるアッチェレランドを掛けてゆくやり方はフルトヴェングラーならではの表現で、まったくうれしくなってしまう。

大時代だと笑う人もあろうが、これこそフルトヴェングラーのドラマであり、真実性にあふれているため、少しも不自然ではない。

むしろこのようなフルトヴェングラー節を享受できず、のめり込めない人のほうが不幸だと思う。

それにしてもフィナーレのテンポは速い。

ひびきとダイナミックスはあくまで凄まじく、トランペットが強奏され、再現部のスピード感は異常なほどで、ブルックナーの「第9」におけるスケルツォを想わせ、ついて行けない人もあろうが、会場で生を直接に聴けば、おそらく居ても立ってもいられないはずだ。

そしてその中に、たとえば展開部の冒頭のように、テンポが落ち、テーマが思いがけぬみずみずしさで登場して、ハッとさせる部分も含まれているのである。

フルトヴェングラーはティンパニを人一倍活躍させる指揮者であり、ベートーヴェンの「第4」やブラームスの「第3」のように、ティンパニの追加がうるさく感じられる曲もあるが、この場合は成功していると思う。

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2015年05月02日


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筆者は他の演奏のレビューでもこれまでよく記してきたところであるが、シューベルトの交響曲第9番「ザ・グレイト」の演奏は極めて難しいと言える。

それは、レコード芸術誌の「名曲名盤300選」などにおいて、著名な音楽評論家が選出する同曲の名演の順位が割れるのが常であることからも窺い知ることができるところである。

このことは、シューベルトをどう捉えるのかについて定まった考え方がないことに起因すると言えるのではないかとも考えられる。

フルトヴェングラーによるシューベルトの交響曲第9番「ザ・グレイト」の名演として、本演奏以外に一般的に最もよく知られているのは、録音自体は極めて劣悪ではあるが、本盤と同じくベルリン・フィルを指揮した1942年盤(ライヴ録音)ということになるのではないだろうか。

当該演奏におけるフルトヴェングラーの表現はドラマティックそのもの。

あたかもベートーヴェンの交響曲のエロイカや第5番、第7番を指揮する時のように、楽曲の頂点に向けて遮二無二突き進んでいく燃焼度の高い演奏に仕上がっている。

このような劇的な性格の演奏に鑑みれば、フルトヴェングラーはシューベルトをベートーヴェンの後継者と考えていたと推測することも可能である。

しかしながら、本盤に収められた演奏は、1942年盤とは全く異なる性格のものだ。

ここでのフルトヴェングラーは、荘重な悠揚迫らぬインテンポで決して急がずに曲想を進めている。

シューベルトの楽曲に特有の寂寥感の描出にもいささかの不足もなく、楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような彫りの深さには尋常ならざるものがある。

本演奏は、あたかもブルックナーの交響曲のような崇高さを湛えていると言えるところであり、本演奏だけに限ってみると、フルトヴェングラーがシューベルトをブルックナーの先達であるとの考えに改めたとすることさえも可能である。

実際のところは、フルトヴェングラーがシューベルトを、そして交響曲第9番「ザ・グレイト」をどう捉えていたのかは定かではないが、あまりにも対照的な歴史的な超名演をわずか10年足らずの間に成し遂げたという点からして、フルトヴェングラーがいかに表現力の幅が極めて広い懐の深い大指揮者であったのかがよく理解できるところだ。

ただ、本演奏の弱点は、音質が必ずしも良好とは言えなかったところであり、従来盤ではフルトヴェングラーの彫りの深い表現を堪能することが困難であったと言わざるを得ない。

しかしながら、今般のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化によって見違えるような素晴らしい音質に生まれ変わり、フルトヴェングラーの遺産の中でも特筆すべき出来映えに仕上がったと言えるところだ。

第1楽章冒頭のホルンの音色はいささか古臭いが、第2楽章の豊穣な弦楽合奏の音色、第3楽章の低弦の唸るような重厚な響きなど、ここまで鮮度の高い音質に蘇るとは殆ど驚異的ですらある。

これによって、フルトヴェングラーの彫りの深い表現を十分に満足できる音質で堪能できるようになった意義は極めて大きいと考える。

ハイドンの交響曲第88番「V字」も、シューベルトの交響曲第9番「ザ・グレイト」と同様のアプローチによるスケール雄大で彫りの深い名演であり、第1楽章の弦楽合奏の豊穣で艶やかな響きなど、音質向上効果にもきわめて目覚ましいものがある。

いずれにしても、フルトヴェングラーによる至高の超名演を、このような高音質のSACD&SHM−CD盤で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2015年05月01日


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フィッシャー=ディースカウが1951年にEMIとレコーディング契約をして以来の伴奏者だったピアニスト、ジェラルド・ムーアとのコラボレーションによるシューベルトの歌曲集。

溌剌とした時代の若きディースカウの歌声が響き、当時から卓越した美声と表現力をもっていたことが、今回オリジナルの形そのままに復活したシューベルト歌曲集で十分に示されている。

先般のEMIによる過去の名盤のSACD化シリーズにおいては、若き日のフィッシャー=ディースカウによる一連のシューベルトの歌曲集も採り上げられることになった。

フィッシャー=ディースカウは、紛れもなく独墺系歌曲の最高の歌い手の1人であると言えるが、その最高の名唱とされているのは、何と言っても1970年代にジェラルド・ムーアと組んでスタジオ録音(DG)したシューベルトの3大歌曲集と言えるのではないだろうか。

本盤に収められたシューベルトの歌曲の演奏は、それよりも約20年ほど前の若き日の歌唱ということになるが、モノラル録音という音質面でのハンディはあるものの、1970年代の名唱とは違った意味で、素晴らしい名唱と評価したいと考える。

というのも、フィッシャー=ディースカウの歌唱は、あまりにも巧いために、後年の歌唱においては、その巧さが鼻につくケースも散見されるところであるが、本演奏においては、若さ故の気迫や熱き生命力が全体に漲っており、いささかも技巧臭を感じさせないのが素晴らしいと言えるからだ。

そして、勢い一辺倒の内容のない歌唱には陥っておらず、どこをとっても、シューベルトの音楽の素晴らしさ、美しさを心行くまで堪能させてくれるのが見事である。

本盤に収められた歌曲は、いずれもシューベルトの歌曲の中では必ずしも有名なものとは言い難いものであると言えるが、それでも各歌曲の聴かせどころのツボを心得たいい意味での演出巧者ぶりは、本演奏当時の若き日より健在であると言えるところであり、まさに非の打ちどころのない名唱に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

ジェラルド・ムーアのピアノ演奏も、シューベルトの楽曲に特有の寂寥感に満ち溢れた美しい旋律の数々を情感豊かに描き出しており、フィッシャー=ディースカウによる名唱をより引き立てるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

音質は、モノラル録音というハンディもあって、従来CD盤の音質は、いささか鮮明さに欠ける音質であり、時として音が歪んだり、はたまた団子のような音になるという欠点が散見されたところであった。

ところが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。

従来CD盤とは次元が異なる見違えるような、そして1955年のモノラル録音とは到底信じられないような鮮明な音質に生まれ変わったと言える。

フィッシャー=ディースカウの息遣いやジェラルド・ムーアのピアノタッチが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、フィッシャー=ディースカウ、そしてジェラルド・ムーアによる素晴らしい名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

なお、当たり前のことではあるが、前述の3大歌曲集のSACD化に際して、扱いにくい紙パッケージに封入したことや対訳を省略したユニバーサルに対して、本盤では通常パッケージで、なおかつ対訳が付いていることについても、この場を借りて評価をしておきたい。

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2015年04月24日


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ワルター晩年の一連の録音の中でも、彼の温かい人柄と鋭敏さの表れた屈指の名演奏と高く評価したい。

シューベルトの「第9」は超名曲であるが、演奏そのものは非常に難しいと考えている。

というのも、シューベルトが相当な意欲を持って作曲しただけに、ここには、あらゆる要素が内包されているからである。

ウィーン風の優美な情緒は当然のこととして、偉大なる先達であるベートーヴェンを意識した並々ならぬ意欲、最晩年のシューベルトならではの死への恐怖と人生への達観の境地、そして、後年のブルックナーの交響曲につながる巨大さだ。

同曲の名演が、どこか食い足りないのは、これらのすべての要素を兼ね備えるということが容易ではないことに起因するものと考えている。

そのような中で、ワルターの演奏は、ブルックナーの交響曲につながるような巨大さにはいささか欠けるものの、それ以外の要素についてはすべて兼ね備えた名演と言えるのではないだろうか。

まさにこの曲の「天国的な美しさ」が端的に伝わってくる名演と言えるところであり、シューベルト最後最大の、そして歌に満ち抒情あふれる美しいこのシンフォニーを、ワルターは心優しく温かくのびやかに歌いあげている。

それでいて、メリハリはきいているし、アゴーギグをきかせてテンポを動かし、リズムを生かしている。

各楽器の弾かせ方にもウィーン風の情緒が漲っているし、例えば終楽章にも見られるように、劇的な迫力においてもいささかの不足もない。

特に第3楽章のトリオの優美さは、もうこれ以上の演奏は考えられないくらい素晴らしく、他のどんな名指揮者が一流オケを振った演奏よりもこの曲の美しさが浮かび上がってくる様は、ワルターの至芸という他はない。

また、第2楽章の中間部の、シューベルト最晩年ならではの行き場のない陰りの音楽の絶妙な表現も見事の一言に尽きる。

コロンビア交響楽団も、ワルターの統率の下、極上の美演を披露しており、本名演に華を添えている点を見過ごしてはならない。

現代の指揮者では少なくなってしまった人間味あふれるのびやかなワルターの指揮とシューベルトのスケール雄大な曲が相俟って、聴き応えのするアルバムになっている。

DSDリマスタリングによって、音質が驚くほど鮮明でクリアになったのは、大変素晴らしいことだ。

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2015年04月14日


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アルバン・ベルク四重奏団は、1971年に第1ヴァイオリンのギュンター・ピヒラーをリーダーとして結成されたウィーンの団体で、ベルク未亡人の同意を得てこの名称を冠し、ベルクの作品でレコード・デビューを果たしたことは周知のとおり。

レヴェルの高いこのデビュー盤で、たちまちヨーロッパで一目置かれる存在となった。

ベルクにとどまらず、ウィーンとゆかりの深い作曲家の作品をレパートリーとして数々の録音を行なってきたが、このシューベルトの代表的弦楽四重奏曲2曲もそのひとつ。

これは、大変内容の充実したスケールの大きな演奏で、ウィーンの伝統に即しながら、新しい感覚で表現しているところが魅力だ。

アルバン・ベルク四重奏団は、モーツァルトやベートーヴェン、またブラームスなどのロマン派の作品、あるいはバルトークやベルク、ウェーベルンの曲にしても、かなり早い時期から独自の境地を開いており、年を経るごとに大きく変わってくるということがなかったように思われる。

そうした中でも、特にシューベルトの作品に対しては、決して構えた姿勢や力の入った表現ではとらえようとはせず、実にのびのびとした演奏を聴かせるが、それでいて、必要な内的緊迫感を見事に表現しているのが素晴らしい。

とりわけ《死と少女》は、彼らにとって決してルーティンなどになりえない、まさに唯一無二のかけがえのない世界だったようで、常に全力投球を惜しまなかった。

シューベルトの美しい旋律とハーモニーの陰に隠された恐ろしいまでの孤独と寂寥感をこのアルバン・ベルクSQの演奏は聴かせている。

第1ヴァイオリン奏者のピヒラーは、「シューベルトの音楽に表現された彼岸の世界ほど表現することが難しいものはない」とよく言っていたが、この《死と少女》の演奏は、その典型的な例と言えるところであり、これまでのウィーン流のたおやかなシューベルトのイメージを一蹴し、新風を吹き込んだ演奏である。

そのアンサンブルはきわめて緊密で、すこぶる明快、彫りの深い力感を重んじながら透明な響きで旋律をよく歌うと同時に、明晰で厳しくそして緻密にシューベルトの音楽の内面まで深く掘り下げて表現する。

したがって悲劇性と抒情性も含めてこの曲のさまざまな性格が迫真的に表現されている。

各声部の絶妙な語り口で暗いロマン的情熱を適度に引き出している第1楽章、深刻さよりも抒情性が優位に立っているような表現の第2楽章はひとつひとつの変奏もよく旋律の歌わせ方も見事であり、主部と中間部との際立った対比が巧みな第3楽章など、どこをとってみても彼ら独自の美しさが見事に表出していると思う。

この演奏には迸るような激しい情熱や異例なほどの緊張感に満ちた厳しさが溢れているだけに、その間を縫って明滅するように奏でられる抒情的な歌の彼岸の世界をくっきりと浮かび上がらせている。

シューベルトの音楽が、このように際立った鋭さと緊迫感をあらわにするのは、そう多くあることではない。

それでいて、音楽が硬直せず、洗練された情感をもっているのは、この団体の音楽性であろう。

カップリングされている《ロザムンデ》の演奏も聴き応えがあり、端正な造形で、この作品の歌と抒情とをすっきりとまとめあげていて、その爽やかさに惹かれる。

豊かな艶をもったピヒラーの第1ヴァイオリンを中心に、流麗に、そして強固に表現されたシューベルトだ。

特に第1楽章ではしなやかな歌も忘れておらず、動と静のコントラストを巧みに活用し、懐の深さを示している。

現代的な鋭利な感覚のなかに、この曲固有の優美な抒情性を無理なく共存させているところに、このSQの特色があると言えよう。

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2015年04月09日


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シューベルトの即興曲全8曲を演奏したものとしては、ブレンデルのCDが特に優れたものと言える。

そのシューベルトをおそらくは全ピアニストで最も理解しているブレンデルの即興曲集は格別の美しさだ。

まろやかなタッチで、これらの作品からロマンの息吹きを詩情豊かに弾き出した演奏で、その即興性に満ちた“歌”の美しさは比類がない。

ブレンデルは徹底して通俗性を排しながら、たおやかな歌が淡々と歌われてゆく。

和音の微妙なニュアンスも絶品で、ブレンデルのデリケートで考え抜かれたアプローチが、全面的に生かされていると言えよう。

ブレンデルはシューベルトの抒情を大切にしながらも、この曲集を2つのソナタのように、統一感のある構成力で美しくまとめている。

各曲とも、実に綿密に設計された演奏で、それぞれの曲の性格をしっかり浮き彫りにしており、細部まで完璧にコントロールされているが、音の柔らかさと流れの自然さが知と情の見事なバランスを保っている。

ブレンデルが弾くシューベルトは、ピアノ・ソナタも小品集も、安定と調和を聴き手に強く意識させるところがある。

決して激しすぎず、決して過剰な感情に溺れない、本質的に“中庸”を志向する気質なのだろう。

そうした中庸の落ち着きのある表現が、聴き手に精神的な安らぎをもたらし、潤いのある自然な抒情が感覚的な楽しみを与えてくれる。

しかもブレンデルの演奏は、1音1音がしっかりと打鍵されており、ピアニッシモまで良く聴きとれるので、曲の構成が良く分かる演奏である。

寂寥感と美しさが渾然一体となったシューベルトの即興曲集であるが、ブレンデルの演奏は、曲の構成が明瞭であるだけではなく、抒情と知性のバランスが良く取れている、模範的な演奏と言える。

これは、寂寥感も美しさも良く出ているが、情に流れたり、知的になり演奏が硬くなっていないと言う意味であり、ただ単に中庸ということではない、優れた演奏で、何度聴いても飽きない。

特に作品142の第3番は、纏綿とうたわれる歌が実に美しく、ウィーンの音楽家シューベルトを実感させるだろう。

聴き手を強引に自分の世界に引っ張っていこうとしないのに、聴き手がついてくる、それがブレンデルのシューベルトだ。

CDは新旧2種類の録音があるが、もちろんここではブレンデルの円熟の境地を示した新しいデジタル録音を推しておく。

新盤は、旧盤に比べると、ブレンデル独特の美しい音色と巧まざるその語り口にいっそう磨きがかかり、しかも一段と彫琢された音と表現が素晴らしく、シューベルトの孤高な世界と高貴な美しさを浮き彫りにしている。

自然な表情をもって、美しい佇まいのなかにも緊張感の漲った感動的な表現で、詩人ブレンデルの面目躍如たる名演だ。

筆者の知る限りでは、リリー・クラウス、内田光子と並ぶ即興曲の3強の1角を占める演奏と言って良く、今までシューベルトを敬遠していた人もこれを聴けばきっとシューベルトへの入り口が開けるはずだ。

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1997〜99年、ロンドン、アムステルダム及びフランクフルトでのライヴ録音。

新世紀を迎える年に満70歳になったブレンデルの、初のライヴ録音によるシューベルト・ソナタの2枚組。

丁寧にレパートリーを選び、深い洞察と研究に基づく滋味豊かな名録音を数々残してきたブレンデルが初めてライヴで収録したシューベルトのソナタ集である。

シューベルトのソナタは、ブレンデルにとって特別思い入れのある作品であり、後期のソナタはすでに2回のスタジオ録音を行ったが、第9番は今回が初めての録音となる。

シューベルトの作品に注ぐブレンデルの厳しくも温かい眼差しと、作品の内部に深く立ち入る真摯な態度を感じさせ、1度聴けば忘れがたく耳に残る、決して聴き飽きることのない見事な演奏だ。

1970年代前半、そして80年代後半にブレンデルは同じようなソナタ集を出しており、今回のアルバムの中には3度目の録音(第20番と第21番)となるものさえある。

ソナタとはいえ、ベートーヴェン的な構築性とは異なり、“枠”や“しがらみ”から解放されたような奔放なまでの自適さや闊達さ、そして汲めども尽きぬ歌心に満ちた旋律線などシューベルト固有の世界が広がる。

ブレンデルの演奏はこの“宝の山”の価値を思い知らせてくれており、とりわけ第20番や第21番などは、清冽な音色(タッチ)と熟成した表現が瑞々しい。

聴き手を構えさせることなく、ごく自然に引き込み、深い思索と詩情に浸らせてくれるところなど、ブレンデル自身が到達し得た至高の芸域を痛感する演奏だ。

本盤は、そうしたブレンデルの実力がよくわかるCDで、最後の作品は内田光子の演奏に及ばない部分もあるものの、初期作や「幻想」ではブレンデルの実力が存分に発揮されており、シューベルトの心境がピアノの響きから手にとるようにわかる好演である。

「幻想ソナタ」(D.894)は、出だしの主題フレーズの柔らかい和音の響きを巧妙な色合いの変化で悠長に歌い上げている。

また第21番(D.960)では、全楽章にブレンデルの落ち着いた深い情感が漲っており、特に長大な第4楽章を弾ききる集中力、出だしの旋律の躍動感あるタッチはブレンデルならではの円熟の表情である。

これほど強弱をつけて、シューベルトの美しさを見事に歌い込めるピアニストは、ブレンデルだけであり、理詰めで音楽が分かっている凄い人である。

現役ピアニストのほとんどはテンポを不用意に動かして、例外なく自滅している。

本来シューベルトに強弱をつけることは自殺行為なのであるが、この人ほどシューベルトが分かっていると、このような離れ業が可能なのであろう。

明らかに“シューベルト弾き”は存在すると思うが、ショパンやシューマンを得意にするピアニストから比べると、その数はほんのわずかであり、“誰でも”というわけにはいかぬが、ブレンデルはその中でも筆頭格的存在だ。

あと現役ではカツァリスがいい演奏を聴かせるが、その方法は伝統的な枠をしっかり守ったもので、ブレンデルのシューベルトは常識を突き抜けて素晴らしく、尊敬に値する。

円熟の巨匠、ブレンデルの溢れる歌心がホールの聴衆を温かく包んだコンサートの雰囲気までもが伝わるライヴ・レコーティングである。

ブレンデルの演奏は、シューベルトの音楽を十ニ分に表現した本当に美しいものであるが、体調が良く、シューベルトと対峙する気構えのある時に聴く分はともかく、体力や気力の萎えているときはさすがに厳しくしんどいところがある。

しかし筆者にとって決して手放せないディスクであることだけは確かだ。

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2015年04月08日


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リリー・クラウスが最も得意にしたのはモーツァルトであるが、最も彼女の個性を羽ばたかすことが出来たのは、シューベルト、それも即興曲においてであった。

モーツァルトを弾くにはある種の抑制が必要であり、クラウス自身、次のように語っている。

「モーツァルトの演奏を湖に例えれば、その湖底は激しく渦巻いていなければなりません。しかし、その表面は僅かに波立つ程度でなければいけないのです」。

しかしシューベルトはロマン派だからもっと自由に感情を吐露できるので、この即興曲において、クラウスは自分のすべてをぶちまけ、何の気がねもなく自分自身のあらゆる感情を出し尽くしている。

彼女は火のような情熱の持ち主であり、極めて多感な芸術家であるが、彼女としては抑制を大いに効かせた筈のモーツァルトでさえ、表情が強すぎる、という人も居るくらいだ。

ましてや、垣根がまったく取り払われたシューベルトでは、クラウスがあまりにも強い感情移入を果たしているため、表情が絶えず大きく、フォルティッシモのキメの粗さを見せる場面も無いではない。

醒めた眼で楽譜を眺め、それを卓越した技術でクールに音化することを良しとする現代の風潮に、クラウスのシューベルトは主観的でありすぎるかも知れない。

しかし、芸術というものは元来が自己主張であり、自分はこう思う、というものが強くあるからこそ人前で演奏するので、要はそれが感動的であるか否かの問題なのであって、自分の感情を殺しては芸術も何もありはしない。

もっとムラのないタッチで滑らかに弾かれた即興曲のディスクは他にもたくさんあるが、こんなに雄弁に語りかける、多彩な人間感情に満ちた演奏は決してあり得ない。

クラウスの表現の幅は実に広く、男性ピアニストをさえ凌ぐフォルティッシモの迫力、低音の充実と高音の燦くような輝き、音色の絶妙な変化、リズムの間の名人芸、痛切なアクセント、大きなクレッシェンドとデクレッシェンド。

そして、それらを駆使して表出されるのは、シューベルトが即興曲に托して歌い上げた人生のすべてである。

悲しい訴え、劇的な凄絶さ、優しい慰め、孤独感、迸る情熱、心からの祈り、それらがスケール雄大な造型と最高の音楽性の中に表われるのだ。

全8曲、すべてが名演の名に恥じないものばかりだが、わけても「作品90の2」はその比を見ない。

冒頭の波を打つような右手の音型からして、他のピアニストとはまるで違っており、何も特別なことをしていないのに音楽が泉のように溢れ、花のように香り、極めて自然に流れてゆく。

コーダの凄まじいアッチェレランドと終結の生きた間もクラウスならではの献身的な姿であり、まさに宝石のような一篇と絶賛したい。

「作品90の1」の壮大なバラードも見事で、大波の揺れるようなメロディの歌と、恐ろしい運命のリズムと、感じ切った心が忘れ難い。

また「作品90の4」の中間部で、左手の冒頭をまったくペダルを使わずに弾き始める大胆な表現にも息を呑む。

こんなに厳しい弾き方は他のピアニストには決してできないし、弱音の美しさを何にたとえよう。

クラウスは体全体、魂全体で嘆いていて、彼女の舞台姿が眼前に浮かぶような名録音と言えよう。

さらに「作品142の3」が絶品で、このヴァリエーションは最も高い意味における愉しみがあり、そこには愉悦の美音が氾濫し、哀しみの極みでさえもわれわれの心を慰めてくれる。

まさに音楽の行き着く至高の境地であろう。

クラウスは変奏の1つ1つを、お伽話のように語りかけ、最後、「お話はこれでお終い」というように全曲を閉じるのである。

「作品142の4」はクラウスの十八番で、多彩な音色と表現力を駆使した名人芸は、ついにこれ以上求め得ないギリギリのコーダとなって、驚くべき緊張の裡に終結する。

それは「作品90の2」のエンディングとともに、命を賭けて音楽と対決する真の芸術家でなければよく成し得ぬものと言えよう。

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2015年03月31日


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シューベルトは、歌曲の分野だけではなく、室内楽曲の分野においても数多くの作品を遺した。

かかる室内楽曲の中でも傑作とされるのは、弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」や弦楽五重奏曲などが掲げられると思うが、最も有名で親しみやすいのは、衆目の一致するところ本盤に収められたピアノ五重奏曲「ます」と言えるのではないだろうか。

そうした超有名曲であるだけに、古今東西の弦楽四重奏団が、有名ピアニストと組んでこぞって録音を行ってきているが、その中でも極上の美しさを誇っているのは、本盤に収められたスメタナ弦楽四重奏団による第1回目の録音であると考えられる。

スメタナ弦楽四重奏団にとって記念すべき第1回目の「ます」であるが、往年のファンにとってシューベルトの「ます」といえば、まず思い浮かべるのがこの録音であろう。

とにかく、往年のスメタナ弦楽四重奏団による演奏は、美しさの極みであると言える。

そして、スメタナ弦楽四重奏団の美演に見事に溶け込んでいるパネンカのピアノも負けず劣らず至純の美しさを誇っており、本演奏には、まさにピアノ五重奏曲を聴く真の醍醐味があると評価したい。

本演奏におけるアプローチにおいては、聴き手を驚かせるような特別な個性などはいささかも見られない。

曲想を精緻に丁寧に描き出していくというオーソドックスなものであるが、表面上の美しさを磨くだけにとどまることなく、どこをとってもコクがあり、豊かな情感に満ち溢れているのが素晴らしい。

「弦の国チェコの至宝」絶頂期のアンサンブルに、美しく溶け合うパネンカのピアノ、とめどなく溢れかえる歌に楽しさいっぱいのシューベルトと言えよう。

ピアノ五重奏曲「ます」の近年に成し遂げられた名演としては、ギレリス&アマデウスSQによる演奏(1975年)、ブレンデル&クリーヴランドSQによる演奏(1977年)、リヒテル&ボロディンSQによる演奏(1980年)、シフ&ハーゲンSQによる演奏(1983年)、田部京子&カルミナSQによる演奏(2008年)など、個性的な名演が目白押しではあるが、本盤のような情感豊かな美しい演奏を聴くと、あたかも故郷に帰省した時のように安定した気持ちになる聴き手は筆者だけではあるまい。

そして、何よりも素晴らしいのは、XRCDによる極上の高音質録音であり、アナログ期の代表的演奏を最上の音質で復刻されている。

本盤は1960年の録音ではあるが、とても50年以上前の録音とは思えないような、そして弦楽器の弓使いまでが聴こえてくるような鮮明な高音質に生まれ変わったのは殆ど驚異的ですらある。

音質最重視で贅沢にも1曲のみの収録であるが、丁寧かつ最新のリマスタリングが、アナログに針を下ろしたときの当時の興奮と喜びをふたたび約束してくれることであろう。

いずれにしても、スメタナ弦楽四重奏団とパネンカによる極上の美演を、望み得る最高の音質で味わうことができる本XRCDの登場を大いに歓迎したい。

さて、問題は価格設定であるが、いくらXRCDの極上の高音質と言っても、9800円というのはいくらなんでも高すぎるのではあるまいか。

しかしながら、アマゾンでは、マーケットプレイスから低廉に購入することができるので、比較的入手しやすいと思う。

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2015年03月30日


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1993年6月14日 ベルリン、フィルハーモニーに於けるもので、ミュンヘン・フィルとのライヴ録音から2週間後に行われたライヴ録音。

北ドイツ放送交響楽団の首席指揮者であったギュンター・ヴァントが`第2の手兵オケ`として鍛え上げたベルリン・ドイツ交響楽団とのライヴ演奏を収録したアルバム。

かつてベルリン・ドイツ響友の会の会員専用CDとして頒布されたことのある伝説的名演盤でもある。

演奏の性格は殆ど同じであり、あとは、オーケストラの音色とコンサートホールの音響だけの違いと言える。

ミュンヘン・フィルは、南ドイツならではのやや温かみのある柔和な音色が持ち味であるが、力量のある指揮者に恵まれた時のベルリン・ドイツ交響楽団は、ベルリン・フィルに匹敵するような重心の低い深みのある音色を出す。

本盤の名演はその最たるものであり、これほどの次元の高い演奏になると、あとは好みの問題と言えるだろう。

本盤の数年前にヴァントは北ドイツ放送響と同曲をライヴ録音、数年後にベルリン・フィルと同曲をライヴ録音しているが、演奏の内容に(オーケストラの力量も含めて)差は殆ど見られないが、終楽章の充実感・爆発度はこの演奏が一番との声高い。

シューベルトの「第9」は、ベートーヴェンによって確立された交響曲の形式を、その後のブルックナーの交響曲を予見させるまでに昇華させた傑作交響曲であるが、ブルックナーを得意としたヴァントの「第9」は、まさに、ブルックナーの交響曲を思わせるような荘厳さを湛えている。

眼光紙背に徹したスコアリーディングをベースに、全体の厳しい造型を堅持し、重厚にして剛毅な演奏を行っている。

それでいて、第2楽章の中間部などの抒情も高踏的な美しさを保っており、剛柔のバランスのとれた至高の名演と高く評価したい。

熱心なヴァント・ファンからは「心身充実していた1990年代前半〜半ばの演奏こそヴァントの真髄がきける」「ベルリン・ドイツ放送響の力量は北ドイツ放送響以上。ベルリン・フィルはオケのプライド強すぎてヴァントの意図が100%徹底していない。ミュンヘン・フィルはチェリビダッケの影が付きまとう。今回のベルリン・ドイツ放送響が最高」とまで噂されていた垂涎のライヴ演奏である。

厳しく引き締まった造形美に打ち抜かれた崇高にして超弩級の演奏からは、ヴァントの芸風の真髄と「真打ち登場!」の手応えを実感されるに違いない。

録音も1993年のライヴ録音としてはきわめて優秀で、本盤の価値を高めることに大いに貢献している。

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2015年03月14日


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ピアニストとして唯一“サー”の称号を与えられたクリフォード・カーゾン(1907〜82)は、イギリス出身でシュナーベルに師事、欧米で偉大なピアニストとして尊敬を集めた。

カーゾンはジョージ・セルが敬意を払ったただ1人のピアニストだけあって、技巧の誇張や表現の虚飾の微塵もない格調高い音楽を聴かせた。

磨かれた音の美しさとタッチの絶妙さと相俟って、(先生の)シュナーベルから学びとった造型とロジックが、しっかりとした骨格を与えている。

カーゾンには“シュナーベルのような”重厚で堅固なベートーヴェンやブラームスの演奏を期待させた。

だがカーゾンは、むしろシューベルトをひっそり弾くことに喜びを感じるようなピアニストであった。

こだわりの人ゆえに録音が少ないのだが、その希有なまでに気品あるピアニズムが聴けるのはありがたい。

両曲とも第1ヴァイオリンはボスコフスキーであるが、ウィーン・フィルの面々との相性もぴったりで、古き佳き時代のウィーンを偲ばせる、馥郁たるロマンを湛えた演奏で、優雅で風格ある演奏を聴かせてくれる。

まずは春のきらきらした光に包まれた《ます》が素敵で、清流のごときカーゾンのピアノと感興あふれるウィーンの弦が絡み合い、5月の森の生き物たちが生き生きと喜びを発しているかのようだ。

ともすればシューベルトを優美なリリシズムでロマン的に歌い過ぎる傾向のなくもないボスコフスキーらウィーンの演奏家たちに対して、カーゾンのピアノが、素朴と言っても過言ではないほどストレートに、シューベルト若き日の思いを落ち着いたテンポに乗せて展開する。

真ん中のスケルツォ楽章がきびきびと輝きにあふれたリズムが演奏に活力を加えるのも興味深いアンサンブルとなっている。

それを挟む第2楽章アンダンテ、第4楽章の《ます》の主題による変奏曲はきめ細かく歌い、カーゾンとボスコフスキーの妙技が楽しめる。

さらに両端楽章では華美を抑えぎみに若きシューベルトらしい素朴なリリシズムを浮かび上がらせる。

録音でもピアノを中心に弦が左右に配列されているが、ステレオ感の強調を避けて、全体のまとまりを重視した“渋い”仕上がり。

一方ドヴォルザーク円熟期の力作は、親しみやすい民族色と初々しい感情の輝きがあって、一篇の感傷詩集をひもとくような魅力があり、ドゥムカによる第2楽章など忘れられない美しさだ。

演奏もこぼれるような歌の心と豊かなリリシズムの息づかいにあふれ、しっとりとした情感と優美な歌が美しい。

カーゾンのピアノは作品の核心に肉薄していく力強さと底光りのする美しさがあり、まさに一家言をもつ大家の至芸と言えよう。

カーゾンの一見控えめだが様式的に隙のない知的なピアニズムを、やはり第1ヴァイオリンのボスコフスキー以下の弦が、ウィーン風のしなやかな奏法と響きで、心から尊重するかのように歌い奏し合う優雅なアンサンブルに、独自の風格を作り出している。

そして表情の移り変わりへの感受性豊かな対応、スケルツォ楽章は魔法のような色彩変化の連続だ。

ウィーン・フィルの首席メンバーのアンサンブルが演奏全体に甘美な憩いを添えた名盤であり、抗し難い吸引力で聴き手を虜にする。

各楽器の分離よりも響きのバランスを整えたロンドン/デッカ方式のこれは典型的録音の1つ。

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2015年02月25日


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卓越した構成力と驚異的な集中力、巨匠リヒテル壮年期の名盤。

発売当初から名盤として広く評価されてきたもので、この演奏を聴きながら、本物のリヒテルってどんな演奏なんだろう、と心を躍らせたものだった。

前へ前へと進むダイナミックな推進力にあふれたさすらい人幻想曲、シューベルトの音楽のロマンが美しく歌われてゆくピアノ・ソナタ第13番、いずれもリヒテルのピアノは聴き応えがある。

さすらい人幻想曲の名演についてはもう何も言う必要はなく、仏ACCディスク大賞受賞したもので、この曲の代表的な録音のひとつ。

シューベルトの名作2曲をリヒテルは卓越した構成力と驚異的な集中力で弾き切っている。

ともに緊迫感が漲り、スケール雄大な中にも豊かな情感を漂わせた名演で、録音以来40余年を経た今日でもベストに推される素晴らしい名盤である。

奥深いロマンティシズムに彩られたシューベルトだが、晩年の演奏より強い緊張感がある。

何よりも素晴らしいのは、壮年期のリヒテルの表現力の幅の広さであろう。

強靭な打鍵から、シューベルト特有の寂寥感溢れる繊細な抒情に至るまで、思い切った強弱や、テンポ設定の変化を駆使して、見事な演奏を成し遂げている。

これだけの様々な技巧を駆使しながらも、音楽がいささかも小さくはならず、スケールの雄大さを損なうことがないのは驚異的ですらある。

特に、ピアノソナタ第13番イ長調は、最晩年の傑作ピアノソナタである第20番と比較して、小イ長調と称されているが、リヒテルの第13番は、後年の第20番にも匹敵するようなスケール雄大な名演に仕上げている。

第13番には、内田光子や、古くはリリー・クラウスの名演もあるが、リヒテルの名演は、これらの名演にも十分に匹敵する深い内容を兼ね備えていると高く評価したい。

一番の魅力を感じたのは、ピアノ・ソナタ第13番の第2楽章のゆったりとした美しいメロディーが、リヒテルの澄んだピアノの音に乗って奏でられてゆくところの、どこまでも深く沈んでいく叙情感で、ファンタスティックな夢の風景のようなピアノの調べが、素敵である。

穏やかに微笑む第1楽章もいいし、最終楽章の柔らかなリズムと豪快さがまた素晴らしい。

次に印象に残ったのが、さすらい人幻想曲の終楽章のピアノで、躍動感みなぎる演奏に、リヒテル壮年期の活力があふれていて、聴いていてワクワクしてきた。

本盤の録音は1963年で、西側へ衝撃のデビューを果たし、欧米を席巻していた頃の録音。

つまり、リヒテルが鉄のカーテンの向こうから登場して間もない頃の録音であるが、当時の西側諸国がリヒテルから受けた衝撃の強さが、本盤を聴いているとよくわかる。

録音が古いために、従来盤では、リヒテルの透徹したタッチを鮮明に味わうことがやや困難な面があったが、HQCD化によって、相当程度、音質が鮮明になったのを大いに歓迎したい。

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2015年02月18日


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いずれも名演だ。

「エロイカ」は死の2年前、「未完成」は1年前の録音であり、モントゥーの最晩年の演奏ということになるが、気力が充実していて、老いを感じさせない。

全体としては音楽のスケールが大きく、懐が深く、やや速めのテンポの中に、絶妙なニュアンスや表現が込められている。

これは、人生の辛酸を舐め尽くした巨匠だけが成し得る至芸と言うべきであり、その味わい深さは、他のどの演奏にも優るとも劣らない至高・至純の境地に達している。

「エロイカ」は、全体的にテンポが速いし、重々しくなるのを意識的に避けた感じがする。

むしろ、軽快ささえ感じさせるが、それでいて、随所に温かみのあるフレージングが支配しており、演奏全体に潤いを与えていることを忘れてはならない。

自在に変化するスフォルツァンドといい、強弱の妙といい、小気味よいリズムと心地よいテンポの揺らめきといい、モントゥーが指揮する至高の「エロイカ」である。

この演奏には力んだり、人を驚かすところは一切ないが、第1楽章での威風堂々たる風格、葬送行進曲の哀愁とそこはかとなく感じさせる滋味など、曲に合致したイデーも余すところなく表出しており、しかもオーケストラの演奏力、音色の美しさも万全である。

モントゥーのベートーヴェン演奏には、今ではあまり聴けない、旧き佳き時代のあたたかみがある(しかし、決して古臭くない)。

第1楽章の終結部のトランペットも楽譜どおりであるが、それでも弱々しさを感じさせないのは、この演奏が、威容と崇高さを湛えている証左であると考える。

終楽章のホルンの朗々たる吹奏は、他のどの演奏にも負けないぐらいの力強さであり、演奏全体の制度設計の巧さもさすがと言うべきであろう。

コンセルトヘボウ・アムステルダムの芳醇な響きと両翼配置の効果もあってか、重層的に書かれた副旋律が見事に絡み合い、構造が浮き彫りになっている演奏である。

ベートーヴェンが推敲に推敲を重ね、目指したであろう、ドラマと音響構造の両立がここまで昇華された演奏は他では聴けない。

「未完成」は、テンポ設定が緩急自在であり、その絶妙さは他のどの演奏よりも優れている。

第1楽章では、第1主題を速めに、第2主題をややゆったりとしたテンポ設定としているが、その効果は抜群で、いい意味でのメリハリの効いた名演奏に仕上がっている。

第2楽章は、全体としたゆったりとしたテンポで進行させ、白眉の名旋律を徹底して歌い抜いているのが素晴らしい。

これは、あたかも、モントゥーの輝かしい人生の最後のゴールを祝福するような趣きさえ感じさせて、実に感動的だ。

心して傾聴に値する名演、名録音である。

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2015年01月25日


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ジャニーヌ・ヤンセンは今年で34歳になる若手女流ヴァイオリニストの旗手の1人とされる存在であり、ヴィヴァルディの四季やベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲など、超個性的でありながらも芸術性がしっかりと担保された圧倒的な名演を成し遂げるなど、着実に確固たるキャリアを積み重ねてきた。

そして、今般、ジャニーヌ・ヤンセンの類稀なる芸術性の高さを証明するとともに、おそらくはジャニーヌ・ヤンセンのこれまでのCD中の最高傑作とも評価し得る決定的な名盤が発売される運びとなった。

本盤に収録されているのは、シェーンベルクの浄められた夜とシューベルトの弦楽五重奏曲ハ長調。

ジャニーヌ・ヤンセンが、「室内楽史上もっとも美しい2作品」と語る傑作だ。

この両曲の組み合わせは、もちろんジャニーヌ・ヤンセンの言うとおりなのであるが、それ以上にセンス抜群の意味深いものと言えるのではないだろうか。

シューベルトの弦楽五重奏曲ハ長調は、音楽史で言えば、前期ロマン派の作曲家に属するシューベルトの最高傑作の1つではあるが、最晩年の作品であるだけに、その後の作曲家の作品に繋がっていくような、当時としてはある種の革新性を有していたと言えるところだ。

そして、それは新ウィーン派の作曲家の旗手として、十二音技法を生み出したシェーンベルクの作品にも繋がっているとも言えるところであり、それ故にこそ、この両曲の組み合わせは意味深長なものと考えられるところである。

シューベルトの弦楽五重奏曲ハ長調の名演の1つとしてアルバン・ベルク弦楽四重奏団(第2チェロはハインリヒ・シフ)によるスタジオ録音(1982年)があるが、当該演奏は、同曲の美しい旋律を情感豊かに描き出す一方で、現代音楽にも繋がっていくようなある種の革新性も有していたが、本盤のジャニーヌ・ヤンセンによる演奏も、アルバン・ベルク弦楽四重奏団による演奏とは異なったアプローチではあるが、シューベルトの弦楽五重奏曲ハ長調の持つ革新性を希求するとともに、その延長線上において、シェーンベルクの浄められた夜を捉えるという考え方においては通底していると言えるだろう。

それにしても、ジャニーヌ・ヤンセンとその仲間たちのアンサンブルによる演奏は素晴らしい。

ヴィヴァルディの四季の演奏も、同様のアンサンブルによる個性的な超名演であったが、本盤の演奏もそれに優るとも劣らない超個性的、そして芸術性の高い超名演を成し遂げていると言っても過言ではあるまい。

シューベルトの弦楽五重奏曲ハ長調の清澄な美しさを情感豊かに歌い抜くという基本的なアプローチは維持しつつも、随所にジャニーヌ・ヤンセンならではのスパイスの効いた個性的な解釈が施されており、それがいささかもあざとさを感じさせることなく、格調の高い芸術性への奉仕に繋がっているのが見事である。

そして、時として聴かれる切れ味鋭いリズム感は、前述のような現代音楽に繋がる革新性を感じさせるものとして、かのアルバン・ベルク弦楽四重奏団の演奏を彷彿とさせるものとも言えるだろう。

シェーンベルクの浄められた夜も、シューベルトの弦楽五重奏曲と同様のアプローチによる名演であり、単なる美しさのみならず、随所に聴かれる芸術性に裏打ちされた個性的な解釈は、同曲を聴き飽きたというクラシック音楽ファンにも清新さを感じさせるものと言える。

いずれにしても、本盤の両曲の演奏は、ジャニーヌ・ヤンセンの類稀なる芸術性と才能、そして今後の前途洋々たる将来性を感じさせる圧倒的な超名演と高く評価したい。

音質もSHM−CD盤であることもあって、鮮明で十分に満足し得るものとなっていることも付記しておきたい。

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2015年01月15日


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シューベルトの即興曲集は、名旋律の宝庫である。

透明感溢れる清澄さをいささかも失うことなく、親しみやすい旋律が随所に散りばめられており、数々の傑作を遺したシューベルトの名作群の中でも、上位にランクされる傑作であると考える。

ルプーは、並みいる有名ピアニストの中でも、「千人に1人のリリシスト」とも評される美音家を自認しているだけに、このような即興曲集は、最も得意とする作品であり、ピアノの抒情詩人と言われたルプーの、代表的録音のひとつ。

即興曲は構成が不安定で、展開部が異常に長かったり、また無かったり、曲によっては変奏曲の形式をとるものもあるので、構築感を出すのが難しいと思われるが、ルプーの演奏は全体が1つの曲であるかのような見事な構築力であり、またこれほどまでに弱音をコントロールできるピアニストも珍しい。

正確にコントロールされたきらめくような粒立ちの美音に乗せて丁寧に歌われるシューベルトの調べにただ圧倒される。

弱音の美しさは言うに及ばず、フォルテも力強くしかも美しく響き、しかも決して軽くない。

繊細で濃やかなロマンが、全編を覆い、微細な陰影が、得も言われぬメランコリックな雰囲気とリリシズムを醸し出している。

晩年のシューベルトの曲に聴かれる死の影はここではその姿を潜めて、美しい自然の移り変わりを表現するかのような、さわやかな演奏である。

聴いていてあまりに自然に流れるので、テクニック面などどうでもよくなってくるが、聴き手にそうした思いを抱かせることこそ、最高のテクニックの持ち主であるという証左を示している。

この曲の代表的なCDとしてはリリー・クラウスと内田光子のものがよく知られているが、彼女たちの鮮やかな演奏に比べると、ルプーの演奏は少し系統が違う気がする。

全体に抑えたトーンで派手さでは劣るが、細かいコントラストや全曲を貫く優美さなどでは引けを取らないし、旋律を歌い上げる際の表現も見事。

デリケートさでは内田の方が上だろうが、神経質さが耳につく彼女の演奏と比べるとルプーにはそれが皆無。

我々聴き手が、ゆったりとした気持ちで安心して即興曲集を満喫することができるという意味では、オーソドックスな名演であると高く評価したい。

音質は、従来盤でも、英デッカの録音だけに透明感溢れる十分に満足し得る音質である。

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シューベルトの最後の3つのピアノ・ソナタは、ブルックナーの交響曲第7〜9番やマーラーの交響曲第9番などにも匹敵する至高の巨峰である。

31歳という若さでこの世と別れなければならなかったシューベルトの内面の深い死との葛藤や、生への妄執や憧憬が表れていると思うからだ(ブルックナーの交響曲については、神への崇高な畏敬などやや異なる面もあると思われるが)。

したがって、これら3曲を演奏する際には、演奏者側にも単なる技量ではなく、楽曲への深い洞察力と理解が求められると言えるだろう。

本盤のポリー二の演奏については、技量という意味においてはほとんど問題はない。

この作品をレコーディングするにあたり、ポリーニは、肉筆原稿(おそらく初版)にまで目を通した上で臨んでいる。

シューマンについてもそうだが、できるだけ作曲家の最初のインスピレーションを重要視していることがうかがえるところであり、単なる繰り返しと思いきや、微細な違いにも気を行き渡らせている。

他の作曲家の諸曲においてもそうであるが、研ぎ澄まされた技量や、透明感溢れる明晰なタッチによって、楽曲を一点の曇りもなくダイレクトに表現することにおいては、他のピアニストに比肩する者はいないのではないかと思う。

シューベルトのピアノ・ソナタはどれも演奏時間が長く、演奏の内容次第では途中で飽きてしまう可能性もあるが、ここに聴かれるポリー二の演奏は、弱〜中〜強音すべてが美しく、速いパッセージでも決して乱れることのないテクニックと相俟って、決して聴く者を飽きさせない。

また、決して中弛みしないいつもながらの集中力もさすがと言うべきで、構成の弱さを指摘されるシューベルトのピアノ・ソナタだが、ポリーニは一点の曇りもなく明晰に描き切っている。

しかし、シューベルトの後期3大ピアノ・ソナタの場合はそれだけでは不十分だ。

例えば第21番に目を向けると、第1楽章の低音のトリル。

ポリーニは楽譜に忠実に描いてはいるが、そこには深みとか凄みが全く感じられない。

例えば、内田光子やリヒテルなどの地底から響いてくるような不気味な弾き方と比較すると、浅薄さがあらわになってしまう。

終楽章の死神のワルツも、内田光子の後ろ髪を引かれるような弾き方に比べると、表層を取り繕っただけの底の浅さが明確だ。

本盤は、ポリーニの欠点が露呈しまった凡演であるが、本盤の録音されたのは今から約25年前。

彼がその後どれだけ成長したのか興味は尽きず、再録音を大いに望みたい。

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2015年01月12日


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20世紀後半にドイツが生んだ最も美しい声のリリック・テノールとして活躍の絶頂期を迎えながら36歳という若さで事故のため他界したヴンダーリヒが、最も得意としていた作品である本作は、全曲に一貫して流れる叙情を、天性の美声で堪能できる1枚。

「美しき水車小屋の娘」は、「冬の旅」とともに、シューベルトの2大歌曲集であるが、「冬の旅」が、死に際しても安住できないという救われぬ苦悩や絶望を描いた深みのある作品であるのに対して、「美しき水車小屋の娘」は、青年の恋と挫折を描いたみずみずしいロマン溢れる作品であり、「冬の旅」と比較すると相当に親しみやすい作品と言えるだろう。

このように、青年を主人公とした楽曲や、親しみやすさと言った作品の性格を考慮すれば、音声についてはテノールで歌うのが最も適しているのではないかと考える。

「美しき水車小屋の娘」には、本盤の数年後の1971年に録音されたフィッシャー=ディースカウ&ムーアによる定評ある名盤もあるが、バリトンということがネックであるのとともに、フィッシャー=ディースカウのあまりの巧さ故の技巧臭が、いささかこの曲のみずみずしさを失ってしまっているのではないだろうか。

その意味では、本盤の録音後、36歳という若さでこの世を去った不世出のテノール歌手、ヴンダーリヒによる演奏こそ、歴史的な名演と評価するのに相応しいものと言えるだろう。

筆者としてはこの曲集をフリッツ・ヴンダーリヒのための曲だったと考えているが、それほどに曲と声との相性のよさを感じている。

テノールと言えば、イタリア・オペラで主役を張るような歌手の、輝かしく華やかな声を思い浮かべる人も多いかもしれない。

しかしドイツ生まれのヴンダーリヒの声はそうしたものとは違い、美しく伸びやかではありながら繊細でどこか危ういニュアンスを含んだリリカルなテノールであった。

この歌曲集の主人公はさすらいに出た若者が恋に落ち、恋破れて自殺する物語を語り過ぎないで、でも美声だけでなく物語りの流れも感じさせ見事に聴かせている。

そうした物悲しくも線の細い青年の姿が、ヴンダーリヒの歌唱を聴くと素直に脳裏に浮かんでくる。

どのナンバーをとっても決してムラがなく、みずみずしい抒情に満ち溢れており、この曲の魅力を存分に味わうことができるのが素晴らしい。

「美しき水車屋の娘」は多くの歌手が録音しているが、歌の美しさは未だにこの録音が最高で、こんな素晴らしいテノールは、残念なことにその後現れていない。

ピアノのギーゼンも、ヴンダーリヒの歌唱を見事に支えている。

併録の3つの歌曲も名演であり、こうした名演を聴くと、ヴンダーリヒの早すぎる死が大変残念でならない。

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2015年01月11日


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ブレンデル絡みの室内楽曲2曲をカップリングしたディスクであるが、特にシューベルトのピアノ五重奏曲「ます」は、録音当時新鋭のクリーヴランド四重奏団員とブレンデルの息が合った見事な名演である。

けれん味のない颯爽とした演奏が心地良く、シューベルトの清々しいロマンティシズムを余すことなく表出した演奏として高い評価を得たもので、「ます」の様々な演奏の中でも、トップの座を争う名演と高く評価したい。

成功の要因は、ブレンデルのピアノということになるであろう。

既に引退を表明したブレンデルは、シューベルトのピアノ曲を好んで採り上げたピアニストであったが、必ずしも常に名演を成し遂げてきたわけではない。

例えば、最後のピアノソナタ第21番など、他のライバル、例えば、内田光子やリヒテルなどの綺羅星のように輝く深みのある名演などに比べると、踏み込みの甘さが目立つ。

いつものように、いろいろと深く考えて演奏をしてはいるのであろうが、その深い思索が空回りしてしまっている。

やはり、シューベルトの天才性は理屈では推し量れないものがあるということなのではないだろうか。

しかし、本盤のブレンデルについては、そのような欠点をいささかも感じさせない。

それは、ブレンデルが、クリーヴランド四重奏団員の手前もあると思うが、いたずらにいろいろと考えすぎたりせず、楽しんで演奏しているからにほかならない。

シューベルトの室内楽曲の中でも、随一の明るさを持つ同曲だけに、このような楽天的なアプローチは大正解と言えるところであり、それ故に、本演奏が名演となるに至ったのだと思われる。

ウィーン人はシューベルトに対して独特の感覚(自分たちの音楽)を持つと言われているが、まさにこの演奏のブレンデルがそのことを証明しているようだ。

クリーヴランド四重奏団員も、ブレンデルのピアノと同様に、この極上のアンサンブルを心から楽しんでいる様子が窺えるのが素晴らしく、弦の響きが締まっていて、渋めだが、密度が高くて清潔感のある演奏だ。

ブレンデルのピアノと弦楽器が見事に調和した馥郁とした演奏に心を奪われる。

スケールが大きく、ダイナミズムと叙情のバランスがポイントで、息の長いブレンデルの歌い込みをクリーヴランドのメンバーがフレッシュな表情で支えている。

ノリに乗って、美しい音で爽快に進んでいき、聴き終えた後の感じも、まさに爽快そのものである。

一方モーツァルトは、ふんわりと包み込むように暖かい管楽器の響きが印象的で、特にゆったりとした第2楽章が美しい。

20世紀後半に活躍した名ピアニストの1人ブレンデルの風雪に耐えた名演として、また名曲「ます」のオーソドックスだがモダンで生き生きとした代表的名演として、お薦めする1枚である。

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2014年12月18日


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本盤に収められたシューベルトの交響曲全集は、ベームのいくつか存在している様々な作曲家による交響曲全集の中でも、モーツァルトの交響曲全集と並ぶ最高傑作と言ってもいいのではないだろうか。

そして、シューベルトの交響曲全集については、現在に至るまで様々な指揮者が録音を行ってきたが、ベームによる本全集こそはそれらの中でトップの座に君臨する至高の名全集と高く評価したい。

ベームは、交響曲第8番「未完成」及び第9番「ザ・グレート」については、本盤の演奏以外にも複数の録音を遺しており、交響曲第8番「未完成」についてはウィーン・フィルとの演奏(1977年)、第9番「ザ・グレート」についてはウィーン・フィルとの演奏(1975年東京ライヴ録音)やシュターツカペレ・ドレスデンとの演奏(1979年ライヴ録音)の方をより上位の名演に掲げたいが、本盤の演奏もそれらに肉薄する名演であり、本全集の価値を減ずることにはいささかもならないと考える。

なお、LPの全集では収録されていた劇音楽「ロザムンデ」からの抜粋が収められていないのはいささか残念であるという点は敢えて指摘しておきたい。

本盤の演奏におけるベームのアプローチは、例によって重厚でシンフォニックなものだ。

全体の造型はきわめて堅固であるが、その中で、ベームはオーケストラを存分に鳴らして濃厚さの極みと言うべき内容豊かな音楽を展開している。

もっとも、ベームの演奏は必ずしも剛毅さ一辺倒ではなく、むしろ堅固な造型の中にも豊かな情感が満ち溢れており、いい意味での剛柔併せ持つバランスのとれた演奏と言えるだろう。

私見ではあるが、ベームによるシューベルトの演奏は、ウィーン風の抒情に満ち溢れた名演の数々を成し遂げたワルターによる演奏と、剛毅で古武士のような風格のあるクレンペラーの演奏を足して2で割ったような演奏様式と言えるのかもしれない。

そして、ベームのしっかりとした統率の下、素晴らしい名演奏を披露しているベルリン・フィルについても言及しておかないといけないだろう。

本演奏は、1963〜1971年のスタジオ録音であるが、この当時のベルリン・フィルは、終身の芸術監督カラヤンの下で、いわゆるカラヤン・サウンドに満ち溢れた重厚でなおかつ華麗な名演奏の数々を成し遂げるなど、徐々にカラヤン色に染まりつつあったところだ。

しかしながら、本演奏では、いささかもカラヤン色を感じさせることなく、ベームならではのドイツ風の重厚な音色で満たされている。

かかる点に、ベルリン・フィルの卓越した技量と柔軟性を大いに感じることが可能であり、本名全集に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

音質は、1960年代後半から1970年代初めのかけてのスタジオ録音であるが、従来盤でも十分に満足できるものである。

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