マーラー

2022年08月17日


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20世紀最後の巨匠、サー・ゲオルグ・ショルティが亡くなる直前の最後のコンサートを収録したもので、曲目はマーラーの交響曲第5番。

これが最後の録音となるそうだが、不思議な運命を感じる。

まず、オーケストラがチューリヒ・トーンハレ管弦楽団であるが、このオーケストラはショルティがデッカと契約して最初の録音を行ったオーケストラ(1947年のこと)だということがまず一つ。

そして、ショルティがシカゴ交響楽団と最初に録音した曲もマーラーの交響曲第5番(1970年のこと)だったことがもう一つ。

さらに言えば、ショルティが世界大戦時を過ごしたスイスで最後の録音となったことにまで運命的なものを感じてしまう。

演奏を聴いての感想だが、この巨匠は最後まで見事に自分のスタイルを貫いたのだな、ということがよくわかる。

チューリヒ・トーンハレ管弦楽団と言えば軽妙・清澄な響きが特長の伝統あるオーケストラであるが、シカゴ交響楽団と比べたとき、その力量では分が悪いのは否めない。

しかし、ショルティはこのオーケストラからも卓越したドライヴで「ショルティ・サウンド」を引き出したと言えよう。

それは枯淡の境地でも老境の熟達でもなく、まさにショルティの純粋な音楽への信念そのものの結晶のように感じられた。

そういった点では、むしろ1990年にシカゴ交響楽団とライヴで録音したものより、この録音の方が若々しい萌芽と明確な方向性を感じるのは、オーケストラとの新鮮な顔合わせからだろうか。

金管の膂力の伝わる張りのある音色はまさにショルティならではで、やや速めのインテンポで聴き手を引っ張る推進力も見事。

衰えを感じさせないどころか、時計が早まるかのような求心力にはなぜか「若さ」を感じてしまう。

そのショルティの力の源は何処から来たのだろうか。

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2022年08月13日


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1990年11月30日 ムジークフェラインザール、ウィーンに於けるライヴ録音。

ショルティ&シカゴ響のヨーロッパ・ツアーの際にムジークフェラインザールで行われた演奏会のライヴ録音。

ショルティは20世紀後半を代表する指揮者の一人であるが、我が国の音楽評論家の間での評価は実力の割に極めて低いと言わざるを得ない。

先般、お亡くなりになった吉田秀和氏などは、数々の著作の中で、公平な観点からむしろ積極的な評価をしておられたと記憶している。

しかしながらヴェルディのレクイエムなどを除いて事あるごとに酷評している未だに影響力の大きい音楽評論家をはじめ、ショルティを貶すことが一流音楽評論家の証しと言わんばかりに、偏向的な罵詈雑言を書き立てる様相ははっきり言っておぞましいと言うほかはないところだ。

ニキシュは別格として、ライナーやオーマンディ、セル、ケルテスなど、綺羅星の如く登場したハンガリー人指揮者の系譜にあって、ショルティの芸風は、強靭で正確無比なリズム感とメリハリの明晰さを旨とするもの。

そうした芸風でシカゴ交響楽団を鍛え抜いた力量は、先輩格のライナー、オーマンディ、セルをも凌駕するほどであったと言えよう。

もちろん、そうした芸風が、前述のような多くの音楽評論家から、無機的で冷たい演奏との酷評を賜ることになっているのはいささか残念と言わざるを得ない。

確かに、ショルティの芸風に合った楽曲とそうでない楽曲があったことについて否定するつもりは毛頭ない。

少なくともショルティの演奏の全てを凡庸で無内容の冷たい演奏として切って捨てる考え方には全く賛同できない。

ショルティの芸風に合った楽曲は多いと思うが、その中でも最右翼に掲げるべきなのは何と言ってもマーラーの交響曲と言えるのではないだろうか。

当盤はマーラーを愛し続けてきた偉大な指揮者による、記念碑的名演だ。

第1楽章から張り詰めた力感で聴き手を説得させ、第2楽章はよい意味での中庸を得ており、スケルツォ楽章のアンサンブルと密度の高い表情も特筆したい。

第4楽章も豊かな共感が波打つように示され、フィナーレはまさに誠実そのものの表現だが極めて説得力が強く、最後の高潮も壮大きわまりない。

加えて、本演奏の素晴らしさはシカゴ交響楽団の超絶的な技量であろう。

いかにショルティが凄いと言っても、その強烈無比な指揮にシカゴ交響楽団が一糸乱れぬアンサンブルを駆使してついていっているところが見事である。

まさにショルティ統率下のシカゴ交響楽団がいかにスーパー軍団であったのかを認識させるのに十分なヴィルトゥオジティを最大限に発揮している。

かかるシカゴ交響楽団の好パフォーマンスが、本演奏を名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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2022年07月27日


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ザンデルリング生誕100周年記念したセットで、その5年前に出た95周年記念盤に続いてベルリン・クラシックからリリースされた。

残念ながら彼は2011年に98歳で鬼籍に入っている。

両親がユダヤ系だったためにドイツの国籍を剥奪され、若い頃からソヴィエトで研鑽を積み、戦後は旧東ドイツを中心に活躍した指揮者としては珍しくマーラーをレパートリーにしていた。

2歳年下のコンドラシンもスラヴ系の指揮者には珍しくマーラーを系統的にレコーディングしたが、ザンデルリングのような経歴を持つ人が世紀末的なウィーンのデカダンスの魅力を伝えるマーラーに情熱を捧げたことには驚かされる。

それは特に最後の未完交響曲第10番に表れている。

交響曲第10番嬰ヘ長調は第一楽章だけが演奏可能な状態でスコアが残されたが、それ以降は加筆する必要があるので、指揮者はオリジナル稿を尊重して第一楽章のみを演奏するか、補筆版を使った完成形で全曲演奏するかの選択に迫られる。

ザンデルリングは後者の立場を取っていて、デリック・クックの第3稿をもとにして独自の解釈を加えて演奏している。

それだけこの作品に懸ける強い情熱が感じられる。

これはリカップリングされた第9番でも言えることだが、彼はフルトヴェングラーのようにマーラーを熟れ切った果実のように演奏するのではなく、より分析的にサウンドを作り上げていく。

第9番のように様々なエレメントが交差する曲では、彼のようなある種の冷徹さがモダンな響きを作り上げていると言っていいだろう。

ベルリン交響楽団も彼らの実力を発揮した優れた演奏で、当時の西側の著名なオーケストラに引けを取らない腕前を示している。

最初には『大地の歌』が収録されているが、ペーター・シュライアーが珍しく感情をあらわにした表現が聴ける。

これもザンデルリングの解釈だろう。

アルトのビルギッド・フィニラは真摯に歌っていて好感が持てるが、ブルーノ・ワルター盤のキャスリーン・フェリアーの歌唱を聴き直してしまった。

それくらいフェリアーの死を予感した歌声は天才的なものを感じざるを得ない。

音質は極めて良好で、オーケストラのそれぞれの楽器の解像度も想像以上に良かった。

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2022年07月18日


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マーツァルのマーラーは、第1弾〜第3弾となった「第5」、「第3」、「第6」は大変な名演であった。

その後のシリーズを大いに期待したが、それに続く演奏も決して悪い演奏ではないものの、マーツァルにしてはやや低調な出来が続いていたような気がする。

しかし、この「第1」は、マーツァルの純音楽的なアプローチが曲想に符合していることもあり、「第6」以来の中庸の美演、名演である。

およそ作為的要素のない、自然な仕上がりで、マーツァルはチェコ・フィルの色合いを引き出すストレートな、若書きらしさで魅せる解釈を示している。

マーツァルのマーラーは、バーンスタインやテンシュテットのような劇的な演奏、カラヤンのような耽美的な演奏、ショルティのような鋭角的な演奏と言うような、一言で言い表すことが可能な特徴があるわけではない。

むしろ、オーケストラを無理なく鳴らし、曲想を伸びやかに歌い上げる点が素晴らしい。

確かに上記の指揮者たちのような強烈な個性があるわけではなく、物足りない部分もあるが、この曲を美しくまとめたマーツァルの手腕は高く評価されよう。

いい意味でのローカル色が残るチェコ・フィルと組んでいることもプラスに働いていると思われる。

またチェコ・フィルも実にいい風合いで、いつもながら弦楽器の質感が伝わってくるような美しさは特筆ものであろう。

この「第1」でも、最強奏から最弱音に至るまで表現の幅は実に広く、特に、最強奏における金管楽器の光彩陸離たる響きは、幻惑されるような美しさだ。

今までにさまざまな「第1」を聴いてきたが、マーツァル&チェコ・フィルの演奏にはみずみずしさがある。

またあちらこちらに美しい瞬間があり、まるでチェコやボヘミアの美しい田園地帯を想像させる。

ホールの残響も素晴らしく、SACDによる優秀な高音質録音も実に水準の高いものであり、本盤の価値をさらに高めることに貢献している。

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2022年07月11日


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ホーネック&ピッツバーク交響楽団によるマーラーの交響曲チクルスの第4弾の登場だった。

既発売は第1番、第3番及び第4番という初期の交響曲であったが、今回は中期の第5番。

これまで好評を博してきたこのコンビによるマーラーの交響曲チクルスの真価が問われる曲目と言うことができるだろう。

ホーネックのアプローチは、バーンスタインやテンシュテットなどのように思い切ったテンポや強弱の変化、そしてアッチェレランドを駆使するなどによるドラマティックな演奏ではなく、むしろ近年のマーラー演奏に一般的な、曲想を精緻に、そして丁寧に描き出していくという演奏を基調としている。

そして、このような近年の一般的な演奏の中でも、特にホーネックの場合は、オーケストラの中でヴァイオリンを長年にわたって演奏してきただけあって、各楽器セクションの精緻な響かせ方には際立ったものがあり、各楽器セクションの細やかな動きをおそらくはこれ以上は求め得ないほど完璧に音化しているのが素晴らしい。

マーラーの交響曲の演奏において必要不可欠な剛柔のバランスも見事に取られるとともに、前述のような際立った精緻さによって他の演奏ではなかなか聴くことが困難な音型も聴くことが可能となっており、単にスコアに記された音符の表層だけを取り繕っただけの内容の希薄な面白みのない演奏にはいささかも陥っていない点を評価したい。

また、とりわけ、第3楽章におけるテンポの思い切った振幅や、第4楽章における効果的なゲネラルパウゼの活用など、精緻かつ丁寧なアプローチの中にも個性的な解釈を的確に散りばめてくれているのも素晴らしい。

ピッツバーク交響楽団は必ずしも一流のオーケストラとは言い難いが、それでもホーネックの薫陶の下、他の一流オーケストラと遜色がないほどの名演奏を繰り広げているのも見事である。

マーラーの心情の吐露が顕著に表れてきた中期の交響曲第5番だけに、我々聴き手の肺腑を打つのは、バーンスタインやテンシュテットなどによるドラマティックな演奏であるが、ホーネックによる本演奏のような精緻なアプローチもまた、同曲の魅力の一面を表現したものとして高く評価をするのにいささかも躊躇するものではない。

そして、本盤の魅力は、こうしたホーネックの精緻なアプローチを完璧に捉えきった極上の高音質録音である。

ピッツバーク、ハインツ・ホールの豊かな残響を活かしたSACDによる現在望み得る最高の音質は、マルチチャンネルが付加されていないにもかかわらず臨場感においても申し分がないところであり、ホーネックの精緻なアプローチをより一層際立たせるのに大きく貢献していることを忘れてはならない。

いずれにしても本盤は、演奏、録音の両面において極めて水準の高い素晴らしい名SACDと高く評価したい。

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マーツァルは、チェコ・フィルとともにマーラーの交響曲全集の録音を行っている途上にあるが、「第8」と「大地の歌」「第10」を残したところで中断してしまっている。

その理由は定かではないが、既に録音された交響曲の中では、本盤に収められた「第6」と「第5」「第3」が特に素晴らしい超名演に仕上がっていると言えるところであり、他の交響曲の演奏の水準の高さからしても、是非とも全集を完成して欲しいと考えている。

さて、この「第6」であるが、これが実に素晴らしい名演なのだ。

「第6」の名演と言えば、いの一番に念頭に浮かぶのがバーンスタイン&ウィーン・フィルによる超名演(1988年)だ。

これは変幻自在のテンポ設定や、思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使したドラマティックの極みとも言うべき濃厚な豪演である。

おそらくは同曲に込められた作曲者の絶望感や寂寥感、そしてアルマ・マーラーへの狂おしいような熱愛などを完璧に音化し得た稀有の超名演である。

これに肉薄するのがテンシュテット&ロンドン・フィル(1991年)やプレートル&ウィーン響(1991年)の名演であると言えるだろう。

ところが、マーツァルの演奏には、そのようなドラマティックな要素や深刻さが微塵も感じられないのだ。

要は、マーラーが試行錯誤の上に作曲した光彩陸離たる華麗なオーケストレーションを、マーツァルは独特の味わい深い音色が持ち味のチェコ・フィルを統率してバランス良く音化し、曲想を明瞭に、そして情感を込めて描き出している。

まさに純音楽に徹した解釈であると言えるが、同じ純音楽的な演奏であっても、ショルティ&シカゴ響(1970年)のような無慈悲なまでの音の暴力にはいささかも陥っていないし、カラヤン&ベルリン・フィル(1975年)のように耽美に過ぎるということもない。

「第6」をいかに美しく、そして情感豊かに演奏するのかに腐心しているようであり、我々聴き手も聴いている最中から実に幸せな気分に満たされるとともに、聴き終えた後の充足感には尋常ならざるものがある。

チェコ・フィルは、その独特の味わい深い音色が持ち味の中欧の名門オーケストラであるが、マーツァルは同オーケストラをバランス良く鳴らして、マーラーの光彩陸離たる華麗なオーケストレーションが施された曲想を美しく明瞭に描き出している。

この「第6」でも、最強奏から最弱音に至るまで表現の幅は実に広く、特に、最強奏における金管楽器の光彩陸離たる響きは、幻惑されるような美しさだ。

とはいえ、端正な音楽造りに定評あるマーツァルとしては異例なほど迫力に満ちた演奏で、特に終楽章では少々の乱れを度外視した荒々しい表現に驚かされる。

ビロードのような艶を誇るチェコ・フィルの弦楽セクションがここでは非常に鋭角的で、ヴァイオリンの切れ味、ゴリゴリとした低弦の威力が圧巻だ。

金管の迫力も凄まじいものであるし、金属打楽器やピッコロは鮮烈、ハープまでが雄弁な自己主張をおこなって、アンサンブルを優先したいつものチェコ・フィル・サウンドを大幅に踏み越えた圧倒的な勢力を聴かせてくれる。

それでいて、スコアに記された音符のうわべだけを音化しただけの薄味な演奏には陥っておらず、どこをとってもコクがあり情感の豊かさを失っていないのが素晴らしい。

本演奏を聴いていると、心が幸福感で満たされてくるような趣きがあり、聴き終えた後の爽快感、充実感は、他の演奏では決して味わうことができないものであると言えるだろう。

これは間違いなくマーツァルの類稀なる音楽性の豊かさの賜物であり、いずれにしても本演奏は、前述のバーンスタイン盤などのドラマティックな名演とはあらゆる意味で対極にあるものと言える。

「第6」の魅力を安定した気持ちで心行くまで堪能させてくれるという意味においては、素晴らしい至高の超名演と高く評価したい。

このような純音楽的な名演において、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音は実に効果的であり、本名演の価値を更に高めるのに大きく貢献している点も忘れてはならない。

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2022年06月16日


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マーラーの交響曲第3番は、重厚長大な交響曲を数多く作曲したマーラーの作品の中でもとりわけ最大規模を誇る楽曲である。

したがって、この長大な楽曲を聴き手にいささかの冗長さを感じさせずに聴かせる演奏を行うのは至難とも言える。

同曲演奏史上最高の名演であるバーンスタイン&ニューヨーク・フィル盤(1987年)は、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱、猛烈なアッチェレランドを駆使するなど彫琢の限りを尽くしたドラマティックな演奏を行うことによって聴き手を深い感動に導いた。

このような劇的な表現は、聴き手にある種の張り詰めた緊張感のようなものを強いるとも言えるだろう。

これに対して、本盤に収められたマーツァルによる演奏は、長大な同曲をいささかも飽きさせることも、そして緊張感を強いることもなく、終始楽しく聴くことが可能である。

チェコ・フィルは、その独特の味わい深い音色が持ち味の中欧の名門オーケストラである。

マーツァルは同オーケストラをバランス良く鳴らして、マーラーの光彩陸離たる華麗なオーケストレーションが施された曲想を美しく明瞭に描き出している。

それでいて、スコアに記された音符のうわべだけを音化しただけの薄味な演奏には陥っておらず、どこをとってもコクがあり情感の豊かさを失っていないのが素晴らしい。

本演奏を聴いていると、心が幸福感で満たされてくるような趣きがあり、聴き終えた後の爽快感、充実感は、他の演奏では決して味わうことができないものであると言えるだろう。

これは間違いなくマーツァルの類稀なる音楽性の豊かさの賜物である。

前述のバーンスタイン盤とはあらゆる意味で対照的な純音楽的な演奏としては、本演奏は随一の超名演と高く評価したい。

また、チェコ・フィルの極上の美演も本名演の魅力の一つである。

第1楽章のホルンの朗々たる響きは雄渾な美しさを誇っている。

第3楽章における名手ミロスラフ・ケイマルによるポストホルンの演奏は、チェコの大自然を彷彿とさせるような澄んだ音色が美しさの極みである。

第4楽章のビルギット・レンマートの歌唱も見事であり、第5楽章におけるプラハ・フィルハーモニー合唱団及び児童合唱団も最高のパフォーマンスを示している。

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2022年06月13日


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マーツァルは、チェコ・フィルとともにマーラーの交響曲全集の録音を行っていたが、「第8」と「大地の歌」、「第10」を残したところで中断してしまっている。

その理由は定かではないが、既に録音された交響曲の中では、本盤に収められた「第5」と「第3」が特に素晴らしい超名演に仕上がっている。

他の交響曲の演奏の水準の高さからしても、是非とも全集を完成して欲しいと考えていたところである。

さて、この「第5」であるが、これが実に素晴らしい名演なのだ。

「第5」の名演と言えば、いの一番に念頭に浮かぶのがバーンスタイン&ウィーン・フィルによる超名演(1987年)だ。

これは変幻自在のテンポ設定や、思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使したドラマティックの極みとも言うべき濃厚な豪演であった。

おそらくは同曲に込められた作曲者の絶望感や寂寥感、そしてアルマ・マーラーへの狂おしいような熱愛などを完璧に音化し得た稀有の超名演である。

これに肉薄するのがテンシュテット&ロンドン・フィル(1988年)やプレートル&ウィーン響(1991年)の名演であろう。

ところが、マーツァルの演奏には、そのようなドラマティックな要素や深刻さが微塵も感じられないのだ。

要は、マーラーが試行錯誤の上に作曲した光彩陸離たる華麗なオーケストレーションを、マーツァルは独特の味わい深い音色が持ち味のチェコ・フィルを統率してバランス良く音化し、曲想を明瞭に、そして情感を込めて描き出している。

まさに純音楽に徹した解釈であるが、同じ純音楽的な演奏であっても、ショルティ&シカゴ響(1970年)のような無慈悲なまでの音の暴力にはいささかも陥っていない。

はたまたカラヤン&ベルリン・フィル(1973年)のように耽美に過ぎるということもない。

「第5」をいかに美しく、そして情感豊かに演奏するのかということに腐心しているようである。

我々聴き手も聴いている最中から実に幸せな気分に満たされるとともに、聴き終えた後の充足感には尋常ならざるものがある。

いずれにしても本演奏は、前述のバーンスタイン盤などのドラマティックな名演とはあらゆる意味で対極にあるものと言える。

「第5」の魅力を安定した気持ちで心ゆくまで堪能させてくれるという意味においては、素晴らしい至高の超名演と高く評価したい。

このような純音楽的な名演において、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音は実に効果的であり、本名演の価値を更に高めるのに大きく貢献している点も忘れてはならない。

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2022年06月12日


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マーラー9番目の交響曲であるが、第9番という通し番号を持っていない。

番号なしの理由については、ベートーヴェンやブルックナーが交響曲を第9まで書いて死んだので第9番を書くと自分も死ぬのではという恐怖にかられた作曲者が第9という番号を避けたのだ、というアルマ・マーラーの証言が、あまりにもよく知られてきた。

「大地の歌」、第9、第10交響曲という最後の3曲が「死」もしくは「告別」を中心モティーフにしていることは議論の余地がない。

それを1907年に作曲者を襲った三つの「運命の打撃」のせいにする「人生」と「芸術」の安易な結びつけも、これまで常套的におこなわれてきた。

これらは主としてアルマが作った、晩年のマーラーをめぐる伝説の一環である。

「大地の歌」は優秀な二人の歌手を必要とするものの、演奏時間は60分弱と手ごろであるし、オーケストラの編成もさほど大きくないことから、マーラー受容史の上では第1、第4交響曲と並んで、比較的早くからよく知られてきた作品、それどころか彼の代表作とされてきた作品である。

代表作というレッテルを撤回する必要は今でもまったくないと思うが、ここにはアルマ作による伝説の効果を如実に見ることができる。

アルマが故意に嘘の話をでっち上げたわけではないが、第9という番号や死の強迫観念をめぐる物語は、まだ世に知られる亡夫の作品を売り出そうという彼女の商策にとっては、結果としてまことに効果的な小道具となったのである。

実際には、この曲に「第9」という番号がないのは、代わりに「大地の歌」という表題があるせい、つまり交響曲と歌曲のハイブリット作品であるせいである。

マーラーの交響曲のなかで、作曲者自身がタイトルをつけ、それを最後まで残したのはこの曲だけである。

作曲の過程を見ても、この曲が番号付きの他の交響曲とは違う手順で作曲されたことがよく分かる。

マーラーの交響曲は、これまで主として夏休み休暇中にパルティチェルが書かれ、オペラのシーズンに入ってから、暇を見つけては、それをフルスコアに仕上げてゆくという手順で書かれていた。

しかるに、「大地の歌」の場合、最初に書かれたのはピアノ伴奏譜である。

ピアノ伴奏譜からフルスコア用の草稿のが作られ、オーケストレーションされる一方で、実際にピアノで弾くには難しすぎる最初のピアノ伴奏譜からは、より弾きやすい出版用のピアノ伴奏譜が作られる。

これはマーラーの歌曲手順とまったく同じであり、その結果、彼の管弦楽伴奏歌曲のすべてには、ピアノ伴奏譜も存在している。

ただし、「大地の歌」の場合は、出版用ピアノ伴奏楽譜の作成は途中で中断されてしまい、そのために現在は出版され、演奏や録音にも使用されているピアノ伴奏譜は演奏至難なものとなっている。

これは、この曲が当初、歌曲として作曲され始めながら、やがて交響曲へと、つまり交響曲と歌曲というマーラーが生涯にわたって作曲し続けた二大ジャンルを統合する意欲作といったことを示している。

ちなみにだからといって、マーラーの交響曲全集に「大地の歌」を外すのは指揮者の見識を疑う。

ノイマン、マゼール、アバド、ギーレン、シノーポリ(後に「大地の歌」だけ単発された)らは何故「大地の歌」を録音しないのか?

晩年のバーンスタインも「大地の歌」以外の交響曲とほとんどの歌曲は録音したのに「大地の歌」だけ録音せずに逝去したのはかえすがえすも残念なことである。

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2022年05月27日


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ヤクブ・フルシャ手兵バンベルク交響楽団の演奏活動は、そのままレコーディングされて前回まではドヴォルザークとブラームスの交響曲をカップリングしたSACDがリリースされた。

今回はレーベルを変えてレギュラー・フォーマットのCDを二組出した。

そのひとつがこのディスクのマーラーの交響曲第4番で、もう一組はブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」を四つのバージョンで演奏した4枚組だ。

フルシャはSACDでのリリースを好んでいるが、音質は極めて良好といえる。

特にマーラーの4番はアンサンブルが重要視されている。

なかでも第二楽章ではヴァイオリンを始めとしてフルートやオーボエなどのウィンド・セクションからブラス・セクションまでのソロパートが大活躍する。

フルシャの繊細で几帳面な合わせ技が聴きどころで、決して四角四面な演奏ではなくつづれ織りのように艶やかだ。

終楽章は「天上の生活」が歌われるが、通常のソプラノではなくフルシャはメゾ・ソプラノのアンナ・ルチア・リヒターを起用している。

彼女の輪郭のはっきりした、しかしやや影のある声質が、独特の中性的な雰囲気を醸し出している。

これもフルシャのこの作品に対する解釈のオリジナリティーを示している。

ちなみにバーンスタインはボーイ・ソプラノに歌わせている。

フルシャの要求だろうが、バンベルクは非常に正確に音程をとるオーケストラで、和音を美しく響かせるときにはヴィブラートを避けている。

それがフォルテの時にはより力強く響くし、弱音の時でも和音が濁らずに鮮明に聞こえる。

彼らの演奏はこれからも水準の高いCDのリリースが期待できる。

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2022年05月02日


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本盤に収められた演奏は、マーラーの「第9」演奏史上最も美しい演奏であるだけでなく、カラヤン&ベルリン・フィルが成し遂げた数々の名演の中でも究極の美を誇る至高の超名演と高く評価したい。

カラヤン&ベルリン・フィルの黄金時代というのは1960年代及び1970年代というのが大方の見方だ。

1982年末になると、ザビーネ・マイヤー事件が勃発し、カラヤンとベルリン・フィルの関係が修復不可能になるまで悪化するが、それ以前の全盛期のカラヤン&ベルリン・フィルの演奏はそれは凄いものであった。

一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブル、ブリリアントな金管楽器による朗々たる響き、桁外れのテクニックを披露する木管楽器、雷鳴のように轟くティンパニなどを展開するベルリン・フィルをカラヤンは卓越した統率力で纏め上げ、流麗なレガートを駆使して楽曲を徹底的に美しく磨きあげた。

そうして生み出された演奏は、まさにオーケストラ演奏の極致とも言うべきものであり、かかる演奏に対しては、とある影響力のある某音楽評論家などは精神的な内容の浅薄さを批判しているが、それを一喝するだけの圧倒的な音のドラマの構築に成功していた。

本演奏は、前述のザビーネ・マイヤー事件が勃発する直前にライヴ録音されたものであり、カラヤン&ベルリン・フィルが構築し得た最高の音のドラマがここにあると言えるだろう。

スタジオ録音に固執しライヴ録音を拒否してきたカラヤンが、本演奏の3年前にスタジオ録音した同曲の演奏(1979年)を、当該演奏も完成度が高い名演であるにもかかわらず、本ライヴ盤に差し替えたというのは、カラヤン自身としても本演奏を特別視していた証左であると考えられる。

マーラーの「第9」には、バーンスタイン&コンセルトヘボウ盤(1985年)やワルター&ウィーン・フィル盤(1938年)といった、マーラーが同曲に込めた死への恐怖と闘いや生への妄執や憧憬を音化したドラマティックな名演があり、我々聴き手の肺腑を打つのはこれらドラマティックな名演である。

これに対して、カラヤンによる本演奏は、それらのドラマティックな名演とはあらゆる意味で対極にある演奏であり、ここには前述のような人間のドラマはいささかもなく、純音楽的な絶対美だけが存在している。

しかしながら、その圧倒的な究極の音のドラマは、他の指揮者が束になっても構築不可能であるだけでなく、クラシック音楽史上最大のレコーディング・アーティストであったカラヤンとしても、晩年になって漸く構築し得た高峰の高みに聳えた崇高な音楽と言えるところであり、バーンスタイン盤などの名演との優劣は容易にはつけられないものと考える。

その意味で、筆者としては改めて本盤を、カラヤン&ベルリン・フィルによる究極の到達点として高く評価したい。

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2022年05月01日


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広範なレパートリーを誇るとともに、余人を寄せ付けないような膨大な録音を遺したカラヤンであったが、マーラーの交響曲については、必ずしも主要なレパートリーとしては位置づけていなかったようだ。

カラヤンが録音したマーラーの交響曲は、第4番、第5番、第6番、第9番、そして「大地の歌」の5曲のみであり、これに少数の歌曲が加わるのみである。

同時代の大作曲家であるブルックナーの交響曲全集を録音した指揮者にしてはあまりにも少ない。

むしろ、クラシック音楽ファンの中には、カラヤンの指揮するマーラーの交響曲全集を聴きたかったと思っている人も多いのではないだろうか。

生涯で唯一バーンスタインがベルリン・フィルを振った、あの"事件"(1979年10月)のすぐ後に、同演目で録音されたのが、本盤である。

録音は翌年の9月まで実に3回にも及び、あたかも強烈なバーンスタインの臭気を一掃し、自らの美学を徹底させるような入念さを印象づける。

とどめはライヴによる再録音(82年)!

こうした同作品へのこだわり(対抗意識?)を反映してか、演奏はまさにバーンスタインとは対極にあり、カラヤンは、きわめて純粋な音の建造物を作っている。

デュナーミクの振幅と表情が大きく、巨匠的で、しかも尖鋭である。

演奏としてはこの上なく磨かれているのだが、意外に共感に乏しい感がある。

したがってバーンスタイン盤こそドラマティックな超名演として第一に掲げるべきであろうが、本盤のカラヤンによる演奏は、それらの演奏とは一線を画する性格を有している。

何よりも、当時蜜月の関係にあったカラヤン&ベルリン・フィルが、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な名演奏を展開しているのが素晴らしい。

唸りをあげるような低弦の迫力、雷鳴のように轟きわたるティンパニ、ブリリアントに響き渡るブラスセクションなど、凄まじいまでの迫力を誇っている。

一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルは、もはや人間業とは思えないような凄さであり、加えて、カラヤンならではの流麗なレガートが演奏全体に艶やかとも言うべき独特の美しさを付加させているのを忘れてはならない

もちろん、そうした美しさが、前述のバーンスタインなどの名演にあった強靭な迫力をいささか弱めてしまっているというきらいもないわけではない。

他方、終楽章における徹底して磨き抜かれた耽美的とも言うべき極上の美しさには抗し難い魅力が満ち溢れている。

我々聴き手の肺腑を打つ演奏と言えば、前述のバーンスタインなどの名演を掲げるべきであろうが、聴き終えた後の充足感においては、本演奏もいささかも引けを取っていない。

筆者としては、全盛期のカラヤン&ベルリン・フィルならではの磨き抜かれた美しさの極みとも言うべき素晴らしい名演と高く評価したい。

常にオーケストラの豊麗さを保ちながら、精緻な造型を鮮明に浮かび上がらせるのみならず、マーラーの毒やアクをきれいさっぱり洗い流し、何か天上的な至福に満ちた世界を描き出すようだ。

美しすぎるマーラーだ。

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ベルリン・フィルとの一期一会の名演を紹介して、舌の根が乾かないうちに何をと思われるかもしれないが、これも途轍もない超名演だ。

このような超名演が発掘されたことは、クラシック音楽ファンにとっては何よりの大朗報であった。

また、先般SACD盤の発売を行うに際して努力をされたすべての関係者に対して、この場を借りて心より感謝の意を表したい。

バーンスタインは、ワルターやクレンペラーといったマーラーの直弟子ではないが、おそらくは今後とも不世出であろう史上最高のマーラー指揮者。

何よりも、DVD作品を含めると3度にわたってマーラーの交響曲全集を録音(最後の全集については、交響曲「大地の歌」や交響曲第8番及び第10番の新録音を果たすことが出来なかったことに留意しておく必要がある)したことがそれを物語っており、いずれの演奏も他の指揮者の演奏を遥かに凌駕する圧倒的な超名演に仕上がっているとさえ言える。

バーンスタインは、そうしたマーラーの数ある交響曲の中で最も愛していたのは、マーラーの交響曲中で最高傑作の呼び声の高い第9番であったことは論を待たないところだ。

バーンスタインは、本盤が登場するまでの間は、同曲について、DVD作品を含め4種類の録音を遺している。

最初の録音は、ニューヨーク・フィルとのスタジオ録音(1965年)、2度目の録音は、ウィーン・フィルとのDVD作品(1971年)、そして3度目の録音は、ベルリン・フィルとの一期一会の演奏となったライヴ録音(1979年)、そして4度目の録音は、アムステルダムとのライヴ録音(1985年)である。

本盤の演奏は、コンセルトヘボウとの演奏が1985年5〜6月のものであることから、その約2か月後の1985年8月のものであり、現時点では、バーンスタインによる同曲の最後の演奏ということになる。

9月には、同じくイスラエル・フィルと来日して、今や我が国では伝説的となった同曲の至高の超名演を成し遂げるのであるが、当該来日公演のCD化がなされていない現段階のおいては、本盤の演奏こそは、バーンスタインの同曲演奏の究極の到達点と言っても過言ではあるまい。

本盤の演奏は、壮絶な迫力(例えば、第3楽章終結部の猛烈なアッチェレランド、終楽章の濃厚かつ情感豊かな味わい深さなど)を誇っているとさえ言えるだろう。

これは、イスラエル・フィルという、同じユダヤ人としてのマーラーへの深い共感度を誇ったオーケストラを起用したこと、そして、録音を意識しないで演奏を行っていたであろうことに起因するオーケストラの渾身の熱演ぶりにあると言えるのではないだろうか。

おそらくは、同曲の最高の演奏という次元を超えて、これほどまでに心を揺さぶられる演奏というのはあらゆる楽曲の演奏において稀であるとさえ言えるところであり、まさに筆舌にはもはや尽くし難い、超名演の前に超をいくつ付けても足りないような究極の超名演と高く評価したい。

音質も非常に優れたものと言えるところであり、コンセルトヘボウとの演奏が今一つの音質であっただけに、大きなアドバンテージとも言えるだろう。

これだけの超名演だけに、可能であれば、SACD盤で発売して欲しかったと思う聴き手は筆者だけではあるまいと思っていたところにハイブリッドSACD盤の発売され、心から歓迎したい。

それにしても、本演奏がこれだけ素晴らしいだけに、どうしても更なる欲が出てくる。

あの伝説的な来日公演をCD化することはできないのであろうか。

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マーラーの交響曲第9番は名盤も数多いが、1950年代からマーラー作品を率先して採り上げ、マーラー・ブームの火付け役となったバーンスタインの演奏こそ聴くべきだろう。

やはり1979年10月、バーンスタインがカラヤンの牙城ベルリン・フィルに乗り込んで行なった演奏会のライヴは白熱的であると同時に一途な思いが灼熱の炎となって聴き手を魅了するものとなっており、まさに一期一会の名演と言うにふさわしい。

時に作曲者に成り代わるかのような説得力と吸引力でマーラー演奏を推進してきたバーンスタインの指揮に、ベルリン・フィルが完全に一体化し、その心の楽器となって熱演を披露していることが手に取るようにわかる。

筆者がこの演奏を、マーラーの9番における最高の演奏と考えるのは、もちろん「バーンスタインがベルリン・フィルを生涯ただ一度だけ指揮した珍しい演奏」という単純な理由からではない。

1992年、ついにこの演奏がCD化されたとき、心の底から震撼した。

「こんな曲が世の中にあったのか!とにかく凄い演奏に違いない」

バーンスタインに嫉妬して、この演奏会の実現やそのレコード化を妨害したと言われたカラヤンが亡くなって3年が経っていた。

そして肝心のバーンスタインも、すでにこの世の人ではなかったのである。

ベルリンのリアス放送局のテープから直接CD化された音のクオリティーは極めて高い。

陶酔的なところは徹底して甘く歌い、不安なところは阿鼻叫喚地獄のような恐怖心を描き出すベルリンの第9は、まさに一期一会の演奏である。

この演奏会が特殊な状況下で行われたということは、金子建志氏の著作『マーラーの交響曲』に詳しい。

やはりこれだけの名演が成し遂げられるには、日常を離れた何かがなければならないのだろう(大戦中のフルトヴェングラーのライヴ録音が、録音の古さを超えて今日の人々の胸を打つのは、指揮者もオーケストラも聴衆さえも明日の命をも知れない状況下で、全身全霊、音楽に打ち込んだからに違いない)。

練習開始時は乗り気でなかったといわれるベルリン・フィルだが、本番は違う。

プライドを捨てて、のたうち回りながら、乾坤一擲の勝負に出ているのだ。

ある雑誌で、この演奏を駄演と決めつけ、「不感症の女を相手に苦戦するプレイボーイ」とたとえた評論を読んだことがある。

別の雑誌では、「バーンスタインのムームーという声ばかり耳について、肝心のオケの意気はさっぱり上がらない」といったようなことも書かれていたが、どうしてそのように感じられるのか分からない。

オケは表現の限界に挑戦すべく、熱演しているではないか。

ベルリン・フィルの首席クラリネット奏者、カール・ライスターは著作『ベルリン・フィルとの四半世紀』のなかで、この演奏会について「オーケストラは彼の足下にひれ伏した」と証言し、「私のベルリン・フィルにおける25年のうちでも圧倒的なクライマックスともいえる事件であった」と語っている。

ライスターはカラヤンとのモーツァルトのクラリネット協奏曲の録音体験を「いやな思い出」とはっきり書く人である。

想像するに、ベルリン・フィルはバーンスタインに霊感を受け、自分たちの音楽としてこの9番を演奏したのではないか。

それが時にバーンスタインの意図からはみ出ることもあり、バーンスタインはところどころうめき声をあげたのだろう。

しかしそのような軋み、内的葛藤をはらむことにより、この演奏は日常から切り離され、超名演となったのである。

正直に話そう。

筆者は長年バーンスタインのマーラーの9番はコンセルトヘボウ盤を最高の名演と評価してきた(弊ブログの熱心な読者の方ならご存じのはず)。

しかしオーディオを新調して改めて聴いてみると、とても良い演奏には違いないが、それにもかかわらず、ベルリン・フィルとの極限まで斬り込んでいく厳しさに欠けていたのだった。

イスラエル・フィルとのテルアヴィヴでのライヴ録音も、案の定、とても良い演奏だったにもかかわらず、筆者にとってベルリン・フィルとの演奏を超えるものではなかった。

新聞や雑誌で1985年9月に、バーンスタインとイスラエル・フィルとの来日公演(あいにく音響の悪いことで知られるNHKホール)を新聞や音楽雑誌で「世紀の大名演」と書かれていたり、あるいはバーンスタイン自身が、イスラエル・フィルとの9番を会心の出来と語った記事を読んだが、もはや「ベルリン・フィルを超える演奏を!」などと期待していない。

指揮者も、オーケストラも作品の世界を真摯に、そして逞しく生き抜いている、そんな感動へと誘う究極の名演というべきで、もう、このような演奏は二度と現れないだろう。

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2022年04月09日


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1960年マーラー生誕100年祭に於けるライヴ録音で、ワルターの最上のステージを伝える貴重な記録であり、この時彼は実に83歳。

体力の限界を理由に一度は断りながら、ウィーン・フィルの熱烈なラヴコールに応え、ムジークフェライン最後の指揮台に立ったものである。

ワルターの勇断は名コンサート・マスター、ボスコフスキー率いるウィーン・フィル渾身の演奏ぶりによって報われた。

指揮者、楽員双方が、最後の共演であることを意識し、お互いの最高の面を見せ合ったのだろう。

マーラーの「第4」は、全曲を通してワルターの気合は十分で、決め所での迫力にも事欠かないし、匂い立つ弦がいっそうの芳香を放ち、魅惑の花々が咲き乱れる。

ウィーン・フィルが、それこそ身も心も美の女神にゆだねながら演奏している、とてつもなく美しい場面が続く。

殊に第3楽章の深遠な叙情には、ワルターのウィーンへの、そして人生への告別の歌のようで、涙なしに聴くことはできない。

唯一残念なのは、ソプラノ独唱の人選ミスで、シュヴァルツコップの歌唱は、ドイツ語のディクションの明瞭さが仇となり、説明くさい音楽になってしまっている。

このフィナーレは純粋さ、可憐さ、素朴さが求められる至高の音楽であり、シュヴァルツコップの起用は、化粧の匂いが強すぎるのである。

マーラーの「第4」とともに演奏されたシューベルトの《未完成》は、筆者の知る限り、同曲の最美の演奏である。

ワルター&ウィーン・フィルと言えば、誰もが、懐かしい郷愁、甘美な歌などを連想したくなるものだが、ここに聴く《未完成》は、まったく違う。

あるのは、死にゆく者、去りゆく者の魂の慟哭ばかりで、これは交響曲版《冬の旅》なのである。

第1楽章は傷ついた者の凄惨な旅路だ。

《冬の旅》で言えば、裏切られた恋人の家に別れを告げ、街を去る第1曲「おやすみ」から、第5曲「菩提樹」で菩提樹のささやきを振り切り、運命の深淵に引きずり込まれる「鬼火」に相当するだろうか。

胸一杯の愛情と未練を残しながら、この世から去りゆかねばならなかったシューベルトの魂の叫びが聴こえてくるようだ。

第2楽章は、破滅した者、絶望した者が見た一場の夢であり、幸福な昔への悲痛な回想である。

《冬の旅》で言えば、束の間の甘い夢である第11曲「春の夢」、抑えていた孤独から激情が爆発する第12曲「孤独」などにも喩えられるだろう。

《未完成》を書いていた頃のシューベルトはまだ25歳、「死」の影が眼前に迫っていたわけではないが、その初期の症状をすでに感じていたのではないだろうか。

もっとも、《未完成》は断じて標題音楽ではなく、交響曲版《冬の旅》説は、あくまで音楽の本質を見極めるためのヒントに過ぎないことを申し添えておく。

ともあれ、ワルターとウィーン・フィルのライヴは、その艶やかで美しい音色と、崩れるような風情、そして肺腑を抉るティンパニの最強奏などによって、胸から心臓を取り出して、我々に見せてくれるような、恐ろしくも美しい名演となった。

音質もALTUS盤で聴く限り、大変魅力的で、マイクが楽器に近く、それでいてバランスも悪くない、聴く者を夢見心地にさせてくれる名録音である。

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2022年04月06日


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テンシュテットは亡命するまで東欧に籍を置いており、また指揮者としての全盛期に癌で亡くなっているため、活躍した期間は実質非常に短い。

その短期間の活動でもっとも重要なレパートリーがマーラーであったのだが、彼のマーラーには大きな問題がある。

正規録音のオーケストラがロンドン・フィルハーモニー管弦楽団なのである。

ロンドン・フィルはベルリン・フィル、ウィーン・フィル、コンセルトヘボウ管弦楽団、バイエルン放送響などに比べて明らかに実力は低い。

同じイギリスのオーケストラのロンドン交響楽団やフィルハーモニア管弦楽団などと比べても劣る。

もともと北ドイツ放送交響楽団の音楽監督をしていたのに、あまりに厳格であったためごく短期間で決裂してしまう。

そしてその後は必ずしも一流とは言えないロンドン・フィルとの録音が殆どとなってしまった。

この演奏は数少ない北ドイツ放送響との演奏であり、しかも稀代の名演と謳われるものである。

正直、震撼させられるような演奏である。

マーラーに個人の苦悩の姿を見る人にとっては、いかなる手段を尽くしても聴かなければいけないディスクだろう。

特に第2番『復活』は徹底していて、緩急の変化も激しく、じつにたくましいタッチでマーラーの天国と地獄を描き出すのだ。

第2楽章は、骸骨が躍る「死の舞踏」のように不気味だ。

第4楽章の伴奏も深く、何かの拍子に音楽が途切れ、突然の沈黙が襲うのではないかという不安まで感じさせる。

そして、フィナーレでは一転、酒池肉林、否、阿鼻叫喚の白熱ぶりで、合唱はまるでミサ曲のように荘重敬虔に歌い出し、それがやがてユートピア待望の叫びに移り行く。

ロマン主義とは引き裂かれていることなのだと、これほどまでにわからせてくれる演奏は少ないだろう。

もはやこの演奏を聴かないでマーラー・ファンは名乗れないとすら言ってよいかもしれない。

北ドイツ放送響はテンシュテットを嫌って、両者の関係はたちまち途絶えたが、それもそのはず、こんな演奏を常にさせられていたら身が持たない。

頭もおかしくなるかもしれない。

人間は真実よりも自己保存選ぶというちょっと寂しい教訓を与えてくれる。

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2022年03月07日


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イタリアの名指揮者クラウディオ・アバド(1933-2014)は21世紀に入って大病を患い、生死の狭間をさまよった。

だが、奇跡的復活を遂げ、ベルリン・フィルの音楽監督としての職務も2002年には完全に全うし、晩年はフリーな立場で自身の音楽活動をさらに掘り下げ、その成果を披露していた。

本セットには、アバドによるマーラーの新交響曲全集(第8番を除き再録音)が収録されているが、その内容からすると、果たして交響曲全集と称することが可能か疑問である。

アバドは、若き頃からマーラーを得意としており、DVD作品を含め数多くの演奏・録音を行ってきている。

ところが、その録音の経緯をつぶさに見てみると、必ずしも全集の完成を目的として行われたものではないことがよく理解できるところだ。

収録されたのは、アバドが大病にかかる前後のベルリン・フィルとの演奏(第2番のみルツェルン祝祭管弦楽団)であるが、アバドも、そしてベルリン・フィルもともに渾身の力を発揮した圧倒的な超名演に仕上がっている。

アバドによるベルリン・フィルの様々な改革の成果がはっきりと出てきた頃の充実ぶりを実感できる、新たな境地に到達した演奏と言えるだろう。

ライヴ録音ということもあって、アバドの、そしてベルリン・フィルのコンディションもかなり良かったのではないかとも思われる。

そして本セットに収録されたアバドのマーラー新交響曲全集は確かに21世紀を象徴する意味を持つ演奏としてその姿を顕したと言ってよいだろう。

そこには若き日から機会あるごとにこれらの交響曲を採り上げてきたアバドの熟成の歩みが凝縮されると同時に、演奏家がまるで1人の無垢な聴き手となって音楽に奉仕する、そんな新次元の演奏を作り出したように思われてならない。

演奏家が聴き手になってしまったのでは演奏は成立しない。

それは百も承知だが、そうではなく、感動的作品を前にしたときの想いには聴き手も演奏家も区別はないということである。

つまり演奏家も感動する原点に立ち戻って作品の最良の再現に努める、そんな演奏なのである。

「19世紀は作曲家の時代」「20世紀は名演奏家の時代」と仮に考えると、「21世紀は聴き手の時代」ということになろうか。

だがそれは聴き手が主役になるといった意味ではないだろう。

音楽家も含めて、聴き手が本来持つべき作品への無垢な姿勢と謙虚さとを持ちながら作品に立ち向かう時代ということではないか。

アバドの新しいマーラーの交響曲全集が与える感動は、演奏家もまた聴き手の精神を持つべき時代が来つつあることを予感させる。

指揮者道を歩み続けてきたアバドが見せ始めた未来の演奏の時代、この演奏から何かが変わっていく予感がする。

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2022年03月02日


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ワルターはマーラーの交響曲第9番の初演者である。

もっとも、初演者であるからと言って演奏が素晴らしいというわけではなく、晩年のコロンビア交響楽団とのスタジオ録音(1961年)は決して凡演とは言えないものの、バーンスタインなどの他の指揮者による名演に比肩し得る演奏とは言い難いものであった。

しかしながら、本盤に収められた1938年のウィーン・フィルとのライヴ録音は素晴らしい名演だ。

それどころか、古今東西の様々な指揮者による同曲の名演の中でも、バーンスタイン&コンセルトヘボウ盤(1985年)とともにトップの座に君臨する至高の超名演と高く評価したい。

筆者としては、もちろんワルターの実力について疑うつもりは毛頭ないが、本演奏が超名演になった要因は、多分に当時の時代背景によるところが大きいのではないかと考えている。

ワルターがウィーンの不穏な情勢の中で振った美しくも凄まじいマーラー演奏。

本演奏が行われたのは第二次大戦前夜、まさにナチスドイツによるウィーン侵攻が開始される直前のものである。

ユダヤ人であることからドイツを追われ、ウィーンに拠点を移して活動をしていたワルターとしても、身近に忍び寄りつつあるナチスの脅威を十分に感じていたはずであり、おそらくは同曲演奏史上最速のテンポが、そうしたワルターの心底に潜む焦燥感をあらわしているとも言える。

同曲の本質は死への恐怖と闘い、それと対置する生への妄執と憧憬であるが、当時の死と隣り合わせであった世相や、その中でのワルター、そしてウィーン・フィル、更には当日のコンサート会場における聴衆までもが同曲の本質を敏感に感じ取り、我々聴き手の肺腑を打つ至高の超名演を成し遂げることに繋がったのではないかとも考えられる。

ワルターならではのロマンティックな情感もさることながら、特に第3楽章を中心としてきわめて激しい気迫、鋭角的なアゴーギク、尖鋭な推進力が目立ち、それはほとんど聴く側に一種の危機感すら覚えさせる。

まさに、本演奏は時代の象徴とさえ言える唯一的な歴史的演奏のひとつであり、そこには言うなればこの交響曲の一種死を予感させる音の錯綜を通じて、社会的情勢の一触即発的な空気までも見事にリアライズしたものと評することもできそうである。

また、当時のウィーン・フィルの音色の美しさには抗し難い魅力があり、本名演に大きく貢献していることを忘れてはならない。

もしかするとこれはある種別格の録音なのかも知れない。

録音の古さは否定しがたいけれども、その折の無比の熱気は現在でもストレートに伝わってくる。

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2021年12月20日


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個人的にはレギュラー・フォーマット盤10枚は割愛しても良かったと思うが、これからクーベリック演奏集のコレクションを始めたいという入門者にとってはリマスター盤のリリースは朗報だろう。

いずれにしても過去の名演奏家の記念碑的なコレクションは、ハイレゾによる音源のみの配信よりも、形として残るハード・メディアの方がまだ支持されることを熟知した企画と思われる。

同音源による従来盤CDとブルーレイ・オーディオを抱き合わせにするアイデアは専用の再生機器の普及状況に合わせたストラテジーだろう。

ただここで注目されるのは当然音質の変化なので、ブルーレイ・オーディオを聴き比べた感想を書いてみることにする。

同セットに組まれているCDと聴き比べると歴然としているが、DSDリマスタリングによるブルーレイ盤では解像度が俄然アップした。

そのために弦楽部は勿論フルートやオーボエなどのオーケストラのそれぞれの楽器の音像のディティールの違いが明瞭に感知できる。

レギュラー・フォーマット盤では音量が嵩上げされているが雑味も混入している。

ブルーレイではその点がすっきりして濁りや余計な音場の拡がりがなく、圧倒的な情報量のためか滑らかでより自然な音色が得られている。

同じ音量で鑑賞するとブルーレイの方が僅かにコンパクトに聞こえるが、ボリュームを上げると精緻な音質が破綻なく拡大される。

この差は明らかだ。

独アウディーテ・レーベルからクーベリックのマーラー・ライヴ・シリーズが出て久しいが、ようやくこの指揮者のマーラー演奏に注目が集まってきた状況下ではある。

それにしては指揮者クーベリックとバイエルン放送響とによる「マーラー/交響曲全集」(DG盤)が、いくぶんなりとも等閑視されすぎているのではないだろうか。

この全集は、1967年から71年にかけてつくられたもので、マーラーの全集盤のなかでは最も初期に属するもののひとつである。

その点でも意義があるのだが、内容的に言っても充分すぎるほど充分に現在でも通用するものである。

クーベリックという指揮者は、決してサービス精神にあふれるというタイプではないものの、ややもすると地味に見えがちなそのたたずまいの内には、伝えるべき多くの事柄を秘めており、いつも中味の濃い演奏をつくりあげていて、決してルーティン・ワークになってしまうことがない。

きちんとした構成力と、力強く、落ち着きのある表現とで、全体を堂々とまとめあげている。

マーラーの音楽再現にぜひとも必要な複雑な要素に対しても、クーベリックは余裕をもって応じきっており、危うさがない。

この作曲家の理解にはロマン主義者であるとともに現代人であるという二元性が必要なのだが、クーベリックの演奏はその二元性をうまく釣り合わせているのである。

全10曲の交響曲を通して、特にどれがすぐれているということはないものの、弱いものはひとつもなく、いずれも水準が高く、安心して聴くことができる。

今日の若い指揮者たちのマーラー演奏でよく見かけるような、表面上は整然としているものの、中味はなんにもないといったものとはおよそ正反対に位置している演奏内容だ。

各部が精密で動きの明快な「復活」、複雑な音構成の処理の鮮やかな「第3」、旋律に左右されずに抑制した表現の「第4」、「第8」の構成力、「第9」の個々の楽章の多彩な表現などにクーベリックの特徴が出ている。

マーラーの音楽と真摯に取り組もうとする聴き手には、ぜひとも注目してもらいたい全集である。

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2021年12月09日


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デッカ創立90周年、ハイティンク生誕90周年記念に合わせて発売されたマーラー交響曲全集ブルーレイオーディオ盤で、アビー・ロード・スタジオでオリジナル・アナログ音源から24ビット/96kHzリマスタリングされているだけあって従来盤に比べて確かに音質向上が認められる。

1962年9月から1971年9月までの9年をかけて録音されたこの全集は、奇を衒わぬハイティンクの正統的な解釈と、オーケストラの技術水準の高さ、そしてセッションがおこなわれたアムステルダム・コンセルトヘボウの響きの良さを素直に収録した音質面での魅力もあり、マーラー作品を知るためのスタンダードな演奏として長く愛好されてきたものだ。

ハイティンクはその後、いくつかの作品で再録音もおこなっているが、たとえば第4番でのみずみずしい美しさや、第1番や第3番での率直で推進力に富むアプローチの魅力が減ずることはないだろう。

この全集は1972年度のフランス・ディスク大賞、同年のオランダ・エジソン賞を受賞しており、欧米では現在もたいへん高い評価が与えられている。

1962年にはハイティンクが国際マーラー協会の名誉会員に推薦されており、1971年に国際マーラー協会から金メダルを贈られている。

我が国におけるハイティンクの評価は、大器晩成型と評され、1980年以前の録音はあまり評価が芳しくないようだ。

しかし、上記のように、ヨーロッパでは既にハイティンクのマーラーには定評があるのだ。

ほぼ同時期に完成されたバーンスタインの「刺激的」なマーラーに対して、ハイティンクのアプローチはより音楽的で美しい。

なめらかに流動する充実感の強い音楽で、構成的にも隙がない。

ハイティンクは、オーケストラのすぐれた技巧を生かしながら、マーラーの表現を透明に表すことにすべてを捧げている。

緻密なアンサンブルもマーラーの場合は必須のものといえるが、その点でも申し分ない。

コンセルトヘボウ管という、メンゲルベルク、ベイヌムが手塩にかけて育んだ素晴らしい音楽性を持つオーケストラの感性豊かな魅惑的な演奏と共に、ハイティンクはこのマーラー全集でも全く見事な音楽的純度の高さを示している。

たった一度だけ聴くのなら、他の録音の方が耳に残るかもしれない。

しかしこのハイティンク盤は、聴けば聴く程にその味わいを増して行く。

派手な「香辛料」も「添加物」も加えていないハイティンクの演奏は、それ故に対位法的バランスの良さと、その内に込めた内的共感の高さで我々を魅了する。

この一組は、マーラーにゆかりの深いコンセルトヘボウでの録音ということでも、長くその価値を失わないに違いない。

近年コンセルトヘボウは近年指揮者と楽員のグローバル化で、個人的なテクニックやアンサンブルの力量ではヨーロッパ最高峰のオーケストラになったが、彼らが伝統的に持っていた良い意味でのローカル色が失われつつあるのも事実だろう。

その意味でもこのマーラー交響曲全集には彼らの最も象徴的な時代の記録が刻まれていると言えるのではないだろうか。

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2019年10月01日


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ニューヨーク・フィルが放送録音を集め、自主製作盤で出したマーラーの交響曲全集が、1998年秋、日本に入ってきた時は、思わず色めき立った。

NYPではマーラー自身が指揮台に立っており、それ以来、脈々とマーラー演奏の伝統が受け継がれている。

ワルター、バルビローリからブーレーズ、メータまで、様々な指揮者による、音で聴ける「マーラー演奏史」のなかで、筆者が最も深い感銘を受けたのが、ミトロプーロスによる第6番である。

彼は20世紀の音楽を得意とし、マーラーも好んで演奏し、1947年にはNYPと、第6番の米国初演を行っている。

1960年にミラノで急逝したのも、交響曲第3番の練習中に起きた心臓発作が原因だったから、文字通りマーラー作品に殉じたと言えなくもない。

問題は、彼のそうしたマーラーに示した強い共感を追体験できる良質の録音が、思ったほど多くないことだ。

セッションでは、1940年に当時の手兵・ミネアポリス響と行った第1番の世界初録音(ソニーからCD復刻済み)があるぐらいで、あとは時折り世に出るライヴ盤で、至芸をしのぶしかない。

この第6番でまず強烈な印象を残すのは、異常なまでの高い燃焼度だ。

切迫した気分で低弦がリズムを刻み出す第1楽章冒頭から、指揮者、オケともにテンションの高さは明白。

概してテンポは速めで、「悲劇的」な曲想を深く抉った苛烈なまでの劇的盛り上げや、心の底からの痛切な歌い込みに、ぐいぐい引き込まれる。

渾身の力を振るったフィナーレでは、ライヴならではの凄まじいクライマックスを築き上げる。

もちろん現代音楽の名手らしく、見通しの良い造形にも欠けていない。

最後までパワフルな合奏を聴かせるNYPの威力もさすがで、マーラー作品に潜む独特な音色を見事に表出している。

愛好家がエアチェックしてテープを基に復刻したモノーラル録音ながら、音質も聴きやすい。

ただし反復に一部省略があるうえ、第2、3楽章が通常と入れ替わり、2楽章がアンダンテ、3楽章がスケルツォとなっている。

演奏当時の文献や資料によると、第6番の本番は、聴衆の入りは今ひとつだったものの、演奏が終わると、当時では極めて珍しいことに、楽員までが観客の熱烈な拍手に同調して、ミトロプーロスを称えたという。

また彼は、長大なマーラー作品に慣れていない聴衆のために、第2楽章と第3楽章の間で休憩時間を設け、当時の評論家も新聞記事でそれを支持しているが、マーラーが一般にも浸透した現代では信じがたいことだ。

この曲のオンエアに向けた彼の執念などを読むにつけ、一世一代の熱演の陰には、作品を聴衆に何とか広めたいという真摯な使命感があったと推察され、胸が熱くなる。

弟子のバーンスタインに連なっていく現代のマーラー演奏を考える上でも、まことに忘れ難いドキュメントである。

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2019年09月14日


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昨年2018年6月にバンベルク・コンツェルトハレで行われたライヴ録音だが、91歳のブロムシュテットがマーラーの交響曲第9番ニ長調を実に矍鑠とした指揮で、ひとつの革新的なマーラー像を示したところが高く評価される。

これまでこの曲はマーラーの他の作品の持つ傾向や彼の心理状態を反映させた、世紀末的な諦観や死生観、或いは病的なほどの耽美な表現がつきまといがちだった。

ブロムシュテットはこうした解釈や先入観を一度拭い去って、現代の指揮者としての作品の再構築をしているようだ。

それだけに隅々まで一点の曇りもない透徹したサウンドの中に、マーラーの意図した音楽的構想がくっきりと浮かび上がっている。

そこには感傷的でもなければ脆弱さも感じられない、至って健康的で堂々たるマーラーが響いてくる。

長大な第1楽章も全く飽きさせないだけの高い音楽性を保った構成が素晴らしい。

第2楽章での田舎風のレントラーにも特有の力強さが漲っているし、活性化されたロンドや清冽な終楽章にも人生の黄昏というイメージは似合わない、むしろ新しい生命の神秘とでも形容したくなる演奏だ。

随所に表れるソロの部分を聴く限りではバンベルク交響楽団の団員個人個人の音色や奏法にはそれほど華やかさはない。

それでも、おそらくヨーロッパでも最も美しいハーモニーを創り上げるオーケストラのひとつだろう。

特にヤクブ・フルシャが首席指揮者に就任してからは、彼らのアンサンブルのテクニックは格段に向上している。

ブロムシュテットが彼らとの共演にマーラーの第9番を選んだことも、スタンドプレイをしなくてもこの曲の魅力を充分に表現し切ることができる力量と柔軟な姿勢に注目したからだろう。

将来の彼らの演奏にも期待したい。

尚音質は極めて良好で、ライヴながら客席からの拍手や雑音は皆無だ。

1枚ずつ独立したシンプルなジャケットとライナー・ノーツを収納するダブル・ジャケット仕様になっている。

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2019年07月15日


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フィッシャー=ディースカウが録音した作品は、シューベルト、シューマン、ヴォルフなどの歌曲全集をはじめ膨大な数にのぼるし、また第一線での活動時期が長かったこともあって、何回も録音している曲もある。

そうした中にあっても、この演奏は彼の最高の演奏の1つに数えられる。

1曲めの『さすらう若人の歌』では、マーラー特有のデカダンス的な雰囲気とただならぬ緊張感が漂っているという意味では1951年のウィーン・フィルとのライヴが優っているが、音質の面ではスタジオ録音の当1952年盤をお薦めする。

どちらも20代だったフィッシャー=ディースカウの絶唱が堪能できる演奏で、51年の破綻寸前のはげしい慟哭の迸るライヴに対して、このスタジオ録音は内容と形式、声とオケとが完璧なバランスを得て模範的な演奏を示し、歌曲録音史上の金字塔の1つに数えられる。

フィッシャー=ディースカウなんと27歳の時に、青春の溌剌とした息吹きや、言い知れぬ深い挫折の詠唱が他の誰にも増して秀逸だ。

フィッシャー=ディースカウとフルトヴェングラーは、1951年のザルツブルク音楽祭で『さすらう若人の歌』で共演した。

フルトヴェングラーは、フィッシャー=ディースカウの自己投入のはげしい歌いぶりに触発され、敬遠気味のマーラーを見直すきっかけを得たほどだった。

フルトヴェングラーがフィッシャー=ディースカウに「君のおかげでマーラーをようやく理解できるようになった」と言ったのは有名だが、優れた演奏家が互いに触発されて生まれた稀有の名演の記録であり、今なお最高の演奏でもある。

翌年フィッシャー=ディースカウとともに『トリスタンとイゾルデ』を録音した折、セッションが余ったので、それを利用して『さすらう若人の歌』を録音しようと指揮者自ら申し出た。

フルトヴェングラー指揮するフィルハーモニア管弦楽団は、後の時代のより洗練された緻密な響きではないにしても、指揮者のロマン性とマーラーの病的なまでに凝った音楽性を恐ろしいほど反映させている。

フィッシャー=ディースカウはフルトヴェングラーの薫陶を受けた後、この曲を彼の最も得意とするレパートリーに加えて、その後もライヴやセッションでしばしば採り上げ、そうした録音も少なからず残されている。

それぞれに優れた演奏であると同時に、年齢とともに表現の移り変わりも感じられるが、中でも1969年のラファエル・クーベリック指揮、バイエルン放送交響楽団との協演が彼の壮年期の頂点をなすものだろう。

しかしその中にあっても、これは単に若かりし頃のフィッシャー=ディースカウの歴史的名盤の域をはるかに越えた芸術品だし、フルトヴェングラー指揮の管弦楽部の表現と見事に一体化している。

2曲めの『亡き子を偲ぶ歌』は当初からバリトン・ソロとオーケストラを想定して書かれた作品だが『さすらう若人の歌』と同様音域が非常に広く、歌唱技術的にも困難であるばかりでなく、幼い娘を失った父親の内面的な屈折した悲しみという特殊な表現を要求されることからバリトン歌手による録音はそれほど多くない。

ここでのルドルフ・ケンペ指揮、ベルリン・フィルとのセッションは、フィッシャー=ディースカウが極めた精緻な心理描写が面目躍如たる演奏で、この曲の代表盤と言ってもいいだろう。

尚女声で歌われたものとしてはコントラルトのキャスリーン・フェリアーを迎えたブルーノ・ワルター指揮、ウィーン・フィルの1949年盤が質の高い演奏としてお薦めできる。

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2019年06月15日


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ショルティ(1912-97)は20世紀後半のオーケストラ音楽を機能美という点から究め尽くしたマエストロであった。

作品が何であれ、ショルティには鳴り響くべきサウンドの理想というものがあり、それは情緒や詩情の表出以前に、機能美という観点からまず達成されなくてはならなかった。

そのためには最先端のテクニックを持つオーケストラが必要であったが、1969年にショルティはシカゴ交響楽団の音楽監督に就任することで、いよいよ彼の時代を作り出すことができたのである。

バイエルン州立歌劇場、フランクフルト市立歌劇場、ロイヤル・オペラとオペラハウスの音楽監督を歴任してきた背景を持つショルティではあったが、シカゴ交響楽団への就任は思えば、ようやく57歳にして彼が初めて手にしたコンサート・オーケストラのポストであった。

既にウィーン・フィルとの《ニーベルングの指環》をはじめ、ブルックナーやベートーヴェンの名演を聴かせてきていたショルティではあるが、第1弾のデビュー録音をマーラーの《交響曲第5番》としてニューコンビの顔見せを行なった。

それは1970年3月のことで、同時に《交響曲第6番》も録音されたが、この《第5番》こそはマーラー演奏史に新しい時代が来たことを告げるともに、現代のオーケストラが持ち得る機能性、機動力の凄まじさというものを見せつけた画期的事件となった。

マーラーの交響曲とは、なるほどこれほど輝かしく、ドラマティックな刺激と甘美な誘惑に満ち、その破格の表現の振幅に聴き手が鼓舞され、打ちのめされ、狂喜してしまう、そんな世界であったことを初めて教えられたのである。

各セクションの鳴りっぷりの良さも驚異的で、トランペットのハーセス、ホルンのクレヴェンジャー、トロンボーンのフリードマン、テューバのジェイコブスといったアメリカ屈指の名手たちが集まったブラス・セクションの充実ぶりはまさに破格であった。

それが世界の最先端を走っていたデッカの超優秀録音で収録されたのだから、全66分が瞬く間に過ぎ去り、興奮も冷めやらぬうちに再生するというリスニングが続いたものである。

ショルティのシカゴ時代も1991年には終わり、97年には他界、いつしか録音から半世紀もの歳月が経過しようとしているが、この名盤への愛着はますます大きくなるばかりである。

優雅、洗練にはいささかも傾かず、感触は今なおごつごつとして、直線的だが、ショルティはこれでいいのである。

あの鋭い眼で世界をキッと見据えて、俺の音楽はこうだ!と宣言していく演奏、その潔い責任の取り方と情熱の化身となることを怖れなかったショルティの素晴らしさが凝縮しているマーラーである。

マーラー・ルネサンスを告げた歴史的名盤であり、オーケストラの表現力を頂点にまで究めたショルティの至芸が、今回SACD化で望み得る最高音質で蘇る。

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2019年06月09日


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イタリアの名指揮者クラウディオ・アバド(1933-2014)は21世紀に入って大病を患い、生死の狭間をさまよった。

だが、奇跡的復活を遂げ、ベルリン・フィルの音楽監督としての職務も2002年には完全に全うし、晩年はフリーな立場で自身の音楽活動をさらに掘り下げ、その成果を披露していた。

そんなアバドが新たなる意欲と情熱をもって取り組んだのが、スイスのルツェルン祝祭管弦楽団の再編・再生であった。

第2次大戦以前、ヒットラーに追われた音楽家たちを中心にトスカニーニが組織した歴史を持つこのオーケストラは長らく音楽祭の母胎として栄光の歴史を築き上げてきた。

しかし、20世紀半ば以降になると本来の意味を失ってしまった。

アバドはこの歴史的オーケストラを21世紀に生まれ変わらせようと世界の演奏家たちに声をかけたが、なんとベルリン・フィルの首席、元首席奏者はもとより、クラリネットのマイアー、チャロのグードマンら世界的ソリストたちが結集した。

結果的にスーパーワールド・オーケストラとでも言うべき陣容を整えることになった。

2003年8月、マーラーの交響曲第2番《復活》をもってアバドはこのオーケストラの指揮をスタートさせた。

そしてここで鑑賞するマーラーの交響曲集は確かに21世紀を象徴する意味を持つ演奏としてその姿を顕したと言ってよいだろう。

そこには若き日から機会あるごとにこれらの交響曲を採り上げてきたアバドの熟成の歩みが凝縮されると同時に、演奏家がまるで1人の無垢な聴き手となって音楽に奉仕する、そんな新次元の演奏を作り出したように思われてならない。

演奏家が聴き手になってしまったのでは演奏は成立しない。

それは百も承知だが、そうではなく、感動的作品を前にしたときの想いには聴き手も演奏家も区別はないということである。

つまり演奏家も感動する原点に立ち戻って作品の最良の再現に努める、そんな演奏なのである。

「19世紀は作曲家の時代」「20世紀は名演奏家の時代」と仮に考えると、「21世紀は聴き手の時代」ということになろうか。

だがそれは聴き手が主役になるといった意味ではないだろう。

音楽家も含めて、聴き手が本来持つべき作品への無垢な姿勢と謙虚さとを持ちながら作品に立ち向かう時代ということではないか。

アバドの新しいマーラーの交響曲集が与える感動は、演奏家もまた聴き手の精神を持つべき時代が来つつあることを予感させる。

指揮者道を歩み続けてきたアバドが見せ始めた未来の演奏の時代、この演奏から何かが変わっていく予感がする。

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2019年06月06日


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キリル・コンドラシン(1914-1981)が晩年にコンセルトヘボウ管弦楽団と演奏したアムステルダム・ライヴ音源がターラ・レーベルから3枚のCDで個別にリリースされているが、いずれも客席からの咳払いが聞こえる以外録音状態は極めて良好で、音質に恵まれたステレオ録音になる。

このディスクは昨年リマスタリングされジャケットのデザインを一新したリイシュー盤で、1979年11月29日のコンサートからマーラーの交響曲第7番が収録されている。

ライナー・ノーツにはコンドラシンと楽曲についての簡易な日本語による解説が掲載されている。

ちなみにこのシリーズはフランクの交響曲とベルリオーズの劇的交響曲『ロメオとジュリエット』抜粋1枚、シベリウスの交響曲第2番及びシューベルトの劇付随音楽『ロザムンデ』よりの1枚で完結している。

モスクワ生まれのコンドラシンは1978年にオランダに亡命し、コンセルトヘボウ管弦楽団の常任指揮者として西側での目覚しい音楽活動を開始した。

旧ソヴィエト時代から既にショスタコーヴィチの交響曲全集とマーラーの交響曲選集をメロディアにレコーディングしている。

奇しくも彼の最後のコンサートがやはりマーラーの交響曲第1番で、マーラーがコンドラシンにとって極めて重要なレパートリーだったことが証明されている。

第7番は5楽章構成の大曲だが、かろうじて第1楽章が調性の変化が曖昧なソナタ形式の名残りを残している。

第2楽章と第4楽章にナハトムジークの表示がある以外には楽章間の繋がりが稀薄な上に、交響詩のようなストーリー性も欠いているため、凡庸な演奏ではとりとめもない散漫な印象を与えかねない。

コンドラシンは比較的速めのテンポ設定で緊張感を逸することなく、テノール・ホルンやギター、マンドリン、カウベルなど通常のオーケストラでは使われない楽器にも雄弁に語らせる色彩感覚にも優れた手腕を示している。

そこにはダイナミズムの絶妙なバランスも窺わせている。

至るところに現れるヴァイオリン、ウィンド、ブラス及びパーカッション・セクションのソロの部分ではコンセルトヘボウ管弦楽団の首席奏者達の面目躍如で、そのサウンドは決して派手ではないにしても伝統の重みと余裕を感じさせているのは流石だ。

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2019年05月27日


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2011年のマーラー生誕150周年、そして没後100年を記念した限定ボックス・セットで、現存する彼の真作を網羅した18枚のCDで構成されている。

こうした全集物では、その会社と契約しているアーティストしか登場しないために、いきおい演奏者が偏向的になりがちだが、このセットで特徴的なのは総ての交響曲に異なった指揮者とオーケストラを配分して、各曲の代表的な演奏が鑑賞できるという趣向だ。

また今回もグラモフォンだけでなく、傘下のフィリップスやデッカの音源も採用されている。

勿論録音時期も方式も若干違うので、その点では統一性を欠いているのも事実だが、マーラーのようにそれぞれの曲に多彩な個性を与えた作曲家の作品には、むしろこうした八方美人的な企画が功を奏している。

これからマーラーを聴き始める人にとってはコスト・パフォーマンスが高いことも手伝って格好のサンプルになるだろう。

また一部には既に生産中止になっているCDも含まれているので、一家言あるマーラー・ファンにも充分支持されるべき内容だろう。

ちなみにワーナーからリリースされている16枚組のコンプリート・ワークスと比べてみると、演奏者の違いは言うに及ばないが、演奏水準の高さにおいては当セットに勝るとも劣らない内容を持っている。

ただワーナーのほうはどちらかというと歴史的名録音が多く、そのせいで音源も1940年代から70年代のものが中核をなしている。

一方こちらでは一番古いもので1966年のハイティンク、コンセルトヘボウによる第3番で、当然ステレオ録音。

更にはワーナーには欠けているピエール・ブーレーズとシカゴ交響楽団による交響曲第2番の初稿に当たる交響詩『葬礼』、及びウェーバーのオペラ『3人のピント』からマーラーが補完した間奏曲をプレトニョフ指揮のロシア・ナショナル管弦楽団の演奏で聴くことができる。

ワーナーでは歌詞対訳が総てCDに収録されているのに対し、グラモフォンのブックレットには写真と曲目紹介があるだけで、対訳その他は省略されている。

どちらも一長一短あるので、どれを選択するかは鑑賞する方のコンセプト次第ということになるだろう。

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2019年04月10日


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ロシアを代表する巨匠指揮者コンドラシンが1981年に南西ドイツ放送交響楽団を指揮してマーラーの交響曲第6番『悲劇的』を演奏したアルバムは、彼が世を去る2ヶ月ほど前にバーデン=バーデンで行われたライヴの模様を収録したものである。

コンドラシンは旧ソヴィエトのオーケストラとマーラーの第2番及び第8番を除く交響曲集を録音しているが、当時の西側に活動の本拠地を移してからも、機会に応じて頻繁にマーラーを採り上げている。

このディスクは2011年にリリースされたCDのライナー・ノーツの表紙を一新したリイシュー盤で、1981年に制作された放送用音源だったためか、音質では78年のレニングラード・フィルとの録音よりはるかに優っている。

レニングラード・フィル盤も極めて緊張感に満ちた迫真の内容を聴かせていたたが、この南西ドイツ放送交響楽団盤は、前回との比較では、全曲で2分半ほど演奏時間が拡大した結果、細部のより克明な表現が印象的な仕上がりとなっている。

手元にあったハイティンク、コンセルトヘボウ、クーベリック、バイエルン放送交響楽団及びアバド、ベルリン・フィル盤と聴き比べてみたが、コンドラシンが一切の弛緩を許さない、恐るべき緊張感の中に音楽の必然性を感じさせて卓越している。

クーベリックも激情的な演奏だが、オーケストラのやや強引な牽引という印象を否めない。

勿論アバドの極彩色で華麗な音像絵巻のように仕上げた、巨大なスケールのベルリン・フィルの演奏もマーラーの壮大な音楽的構想を映し出していて素晴らしい。

演奏時間をみてもコンドラシンが最も短く、全曲を通して68分ほどだが、第1楽章から立ち上がりの凄まじさを聴かせながら、終楽章は他の指揮者を圧倒して25分と破格に速い。

また多くの指揮者はスケルツォを第3楽章に入れ替えて第4楽章との相乗効果を狙うが、彼はクーベリックと同様に緩徐楽章アンダンテを第3楽章に置いて、フィナーレとの対比を図っている。

アンダンテはマーラー特有の半音階を使った詠嘆調のメロディーが同時期に作曲した『亡き子を偲ぶ歌』の死生観と相通じていることを感知させるが、ここでのコンドラシンは緊張感を保ちながら比較的落ち着いて歌わせている。

この作品のオーケストレーションではシロフォン、銅鑼、ベル、カウベル、ハンマーやスレイベルなどおよそありとあらゆる打楽器を取り入れた多彩なパーカッション群のサウンドも、殆んど狂気と紙一重のマーラーの精神状態を反映していて興味深い。

特に終楽章で波状的に現れる、荒れ狂う疾風怒濤のような曲想では、コンドラシンは南西ドイツ放送交響楽団の機動力をフルに活用して、全く破綻のないクライマックスを築き上げている。

1981年3月7日、コンドラシンは急遽テンシュテットの代役として、アムステルダムのコンセルトヘボウでハンブルク北ドイツ放送交響楽団を指揮し、マーラーの交響曲第1番を演奏したのを最後に、演奏会終了後に心臓発作を起こして帰らぬ人となってしまったが、最後の演奏会のプログラムが他ならぬマーラーであったというのも、この名匠のなんとも象徴的な最期としてあまりに有名だ。

かつては演奏機会も限られていたマーラーの音楽がポスト・スターリン時代になってようやく一般的になり始めたばかりの旧ソビエトで、マーラー受容を牽引する役割を担った第一人者がコンドラシンであった。

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2019年03月01日


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マーラーが生前、自作の最高の指揮者と認めていたのは愛弟子のワルターではなく、メンゲルベルクであった。

メンゲルベルクもまたマーラー作品の熱烈な支持者であり、擁護者、推進者であることを誇りに思うという相思相愛の仲だった。

メンゲルベルクはマーラーの、マーラーもまたメンゲルベルクの自作の演奏を誰よりも高く評価していた。

そのためこの録音は、異端視されるメンゲルベルクの録音の中では比較的多く聴かれている。

しかしメンゲルベルクのマーラーは極めて少なく、この交響曲第4番の他には第5番のアダージェットと、当録音と同日の「さすらう若人の歌」があるのみ。

第4番のアムステルダム初演はマーラー指揮コンセルトヘボウ管弦楽団で、1905年2月にはメンゲルベルク指揮の同楽団がハーグ初演を行った。

演奏は巧緻を極め、委曲を尽くした解釈であり、マーラーのロマンと感傷のすべてを音にしており、歴史的にも貴重な文献というべきだろう。

愛弟子ワルター以上にマーラーの高い評価を得た彼のマーラーの曲で、見事なテンポ・ルバートにまかせて、とりわけ情緒的な誇張はしていないのだが、その情緒を実に幻想豊かに生き生きとしたものにしている。

マーラーの表情の細かな変化は見れば見るほどうるさくなるような多様な変化をしているのだが、それを驚くほど微細に厳格にとらえていろいろ工夫しながらマーラーの求めた効果を出そうと努力している。

弟子であるというだけで、時にはとんでもないイモ演奏までも祭りあげられてしまう傾向は考えものだが、少なくともこの演奏は最高に面白い。

多分、マーラー自身もここまで大胆にはやっていないのではないかと思わせるほど、緩急自在、他に類のない濃密で個性的な音楽がつくられていく。

それはロマン的表現の極致であるが、マーラーは、メンゲルベルクの解釈を尊重していた。

それは作曲者の指示を存分に生かして表現的な音楽を作り出そうとしていたためである。

もっとも極端になると限度を越えているという印象をもつ人もあろう。

ところがそれが芝居とわかっていながら、そのなかに真実味を発見させ、結局は観衆を巻き込んでしまう名優に似て、メンゲルベルクの音楽は、その一種の毒が魅力的である。

冒頭からのけぞるような強烈なリタルダンドで始まるが、その後も大小さまざまにテンポを変え、それに弦楽器のポルタメントも加わり、むせるようにロマンが展開される。

その固い友情が、一夜にマーラーとメンゲルベルクの棒で第4交響曲を2度演奏する、などという前代未聞の演奏会を開かせたのである。

あのマーラー作品を指揮したメンゲルベルクによる交響曲の録音が「第5」のアダージェットを除き「第4」ひとつだけに終わったことは、返すがえすも残念なことである。

ナチスの台頭さえなければ、1940年代も記録がのこされていただろうにと思うとなおさらに。

しかし、この1曲だけでも、メンゲルベルクのマーラーの凄さは分かる。

コンセルトヘボウ管弦楽団のアンサンブルの強力さは、何より聖と俗がない交ぜになった音響がマーラーの本質とぴたりと重なる。

徹底した訓練によって様式美にまで究められた表現、ポルタメントやテンポルバートの1つひとつに真実が宿っていて、まるで工芸品のように美しいマーラーがここにある。

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2018年07月28日


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戦後フルトヴェングラーが楽壇に復帰した後の1949年から54年にかけてウィーン・フィルとの共演7曲とフィッシャー=ディースカウ、フィルハーモニア管弦楽団によるマーラーの『さすらう若人の歌』及び同フィルハーモニアとのワーグナー『トリスタンとイゾルデ』第3幕への前奏曲の9曲をリマスタリングしたSACD盤で、音質は録音年やライヴ、セッションによってある程度の差があることは事実だが概ね良好だ。

またグルックの『アルチェステ』序曲を始めとして殆んどの曲目に擬似ステレオ音源が使われている。

プラガではリニューアルの時に積極的にEMIの擬似ステレオ音源を採用しているが幸い音場の広がりはそれほど不自然ではなく、あざとくない程度の臨場感のアップにも繋がるので、ひとつの可能性として評価できるだろう。

今回初SACD化されたラヴェルの『スペイン狂詩曲』も擬似ステレオ音源だが、1951年のライヴとしてはかなり鮮明な音質が再生される。

演奏はフルトヴェングラーらしくデカダンス的な雰囲気が横溢していて、これはこれで面白いが古典主義的な傾向を持ったラヴェルの表現としては意見が分かれるところかも知れない。

マーラーの『さすらう若人の歌』に関しては、1951年8月のザルツブルグでのフィッシャー=ディースカウ、フルトヴェングラーの出会いが縁となってつくり出された歴史的名演だ。

マーラー、ディースカウ、フルトヴェングラーの三者が渾然一体となって稀有の一刻をつくり上げている。

戦後のフルトヴェングラーのマーラーはこの曲と『亡き子をしのぶ歌』の2曲のみで、録音は『さすらう若人の歌』のみ3種類残されている。

筆者としては、このセッションの1年前、1951年のウィーン・フィルとのザルツブルク・ライヴを選んで欲しかった。

音質では劣っているがロマン派爛熟期特有の世紀末的な唯美主義や背徳までも感知させる得難い演奏だからだ。

尚このライヴは昨年UHQCD盤で復活している。

こちらのフィルハーモニアとのセッションはより精緻で音質にも恵まれているが、音楽的には前者の方が濃密だ。

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2018年04月07日


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アバドは1970年代後半から、ウィーン・フィルやシカゴ響とマーラーに取り組み、ベルリン・フィルの首席指揮者となってからは、同オーケストラもまじえて録音を行ない、1995年にはそれらをまとめてアバドとしては初めてのマーラー交響曲全集を完成した。

この中で突出した出来を示していたのはやはりベルリン・フィルとの演奏(第1、第5、第8番)であっただけに、同楽団のみの全集の完成が切に望まれた。

その後、第3、4、6、7、9番についてはベルリン・フィルとのライヴ盤がリリースされ、それらにルツェルン祝祭管との第2番が加わってアバドの新全集が完結することになった。

作品が持つ世界に過度にのめり込むことなく、スコアをありのままに表現するアバドのアプローチは不変で、しかも、音楽が持つエネルギーはいささかも減じることはなく、マーラーの演奏史に新たな1ページを刻んだ全集と言える。

ワルターらの第一世代、バーンスタインらの第二世代に次ぐ、マーラーが広く国際化された時代である第三世代の名演奏としてマーラー演奏史に残る金字塔だ。

アバドは、マーラーの音楽の各部分を緻密に克明に再現し、歌が中断し分断されるマーラーの音楽の構造が抜群の音楽性をともなって見通しよく示される。

こうした点に、部分をつないで歌をわかりやすく全うしようとする前世代のマーラー演奏とは異なるアバドの特質が聴き取れるが、さらにアバドの場合、個々に分断されて自立し、並列する部分をひとつひとつの歌の可能性を追求して、その微細なパッセージを可能とあらば気合いを込めて歌い込む。

バーンスタインに代表される感情を表だてた演奏とはまた異なる魅力があり、アバドがスコアに率直に対峙した結果をそのまま音化したような演奏が非常に新鮮だ。

鋭いリズムとしなやかなカンタービレに鋭敏に反応するベルリン・フィルの筋肉質な響きも素晴らしく、ストイックとも言える姿勢を貫いた演奏は強い説得力を持っている。

アバドにはベートーヴェンやシューベルトの全集もあるが、何よりもマーラーの交響曲で彼の美学がいちばん貫徹しやすかったのだろう。

彼のそれの基本はさまざまな色合いの縦糸と横糸の精妙な織りなしにある。

絹のような艶っぽさと光沢感、手ざわりのなめらかさなど、どこをとっても繊細で緻密、スケール感にも欠けず、コラージュ風の構成のマーラーの交響曲にはぴったり。

クールに見通す強靭な構成力と過不足のない知的な表現力がバランスよく保たれた、まったくモダンなマーラーとなっており、むろんベルリン・フィルの信じられないくらいのクォリティの高さも魅力のひとつだ。

マーラーの交響曲から連想されるロマン的な情感を求めると物足りなさをおぼえるだろうが、新ウィーン楽派の先駆者だったことを強く印象づけるし、辛口ではあるが前向きの作曲家だったことがわかる演奏でもある。

そしてここで聴けるマーラーは確かに21世紀を象徴する意味を持つ演奏としてその姿を顕したと言ってよいだろう。

そこには若き日から機会あるごとにこれらの交響曲を採り上げてきたアバドの熟成の歩みが凝縮されると同時に、演奏家がまるで1人の無垢な聴き手となって音楽に奉仕する、そんな新次元の演奏を作り出したように思われてならない。

演奏家が聴き手になってしまったのでは演奏は成立しない、それは百も承知だが、そうではなく、感動的作品を前にしたときの想いには聴き手も演奏家も区別はないということである。

つまり演奏家も感動する原点に立ち戻って作品の最良の再現に努める、そんな演奏なのであり、アバドのマーラーの魅力と特質と現代性はここにある。

「19世紀は作曲家の時代」「20世紀は名演奏家の時代」と仮に考えると、「21世紀は聴き手の時代」ということになろうか。

だがそれは聴き手が主役になるといった意味ではなく、音楽家も含めて、聴き手が本来持つべき作品への無垢な姿勢と謙虚さとを持ちながら作品に立ち向かう時代ということではないか。

アバドのマーラー新全集が与える感動は、演奏家もまた聴き手的精神を持つべき時代が来つつあることを予感させる。

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2017年02月20日


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小澤征爾&ボストン交響楽団が1980〜1993年、13年をかけて完成したマーラー交響曲全集で、両者の厚い信頼関係が成し遂げた金字塔と言えるBOXだ。

そして、この録音が数多くの演奏の中でもひときわ優れ、独自の音楽的な地位を保っていることは誰もが認めるところである。

1980年代と言えば小澤の評価が世界的に急上昇し、ついには1990年代の頂点に至る過程でもあったが、その原動力として、この全集が果たした役割は大きい。

当時の小澤は世界的な巨匠という責任と期待の前に立って、最終的なジレンマにあったのではないか。

それは、結局音楽における内面性、精神性と言われてきた奥義のようなものを異文化から来た人間がどう獲得するかという問題になり、これは小澤が独自のスタイルを保ちながら、しかもどれだけ燃焼度を高く確保していけるかという問題でもあった。

そういう意味において、小澤のマーラー録音の展開を追っていけたことは、また文化史的に極めてスリリングな体験と言うべきであったのかも知れない。

小澤はマーラーの「第9」を、ボストン交響楽団の音楽監督としての最後の演奏会で取り上げたほどであり、マーラーのスペシャリストとしての呼び声も高い。

小澤のマーラー演奏は東洋的諦念観の理解に裏打ちされていると特徴付けられるが、作曲者と完全に一体化した師バーンスタインの情緒的スタンスから一歩踏み出したオリジナルの強さがここにはある。

ポスト・バーンスタイン=ユダヤ的身振りを模索する客観的でセンシティヴなマーラー像、すなわちバーンスタインのマーラー以後、一体どんなマーラーがあり得るのか、その小澤なりの回答、なのであろう。

小澤のアプローチは全体を通していわゆる純音楽的なものであるが、マーラーの荘重な世界を、熱い魂がほとばしるような演奏で表現している。

小澤のマーラーには、こってりとした民族的な味付けや濃厚な感情移入は感じられず、むしろ絶対音楽として客観視された主旨で統一されている。

バーンスタインやテンシュテットの劇的で主観的なアプローチとはあらゆる意味において対照的であるが、だからと言って物足りなさは皆無。

明晰な響きと自在なリズム、カンタービレのしなやかな美しさ…しかし、何といっても小澤の音楽には絶対的な優しさがあり、この美質が小澤のマーラーを価値あるものにしている要因なのだろう。

バーンスタインほどオケを振り回さず、しかし客観的になりすぎず、音を丁寧に積み重ねながらぐいぐいと聴く者を引き込んでゆく。

一方、小澤のマーラーは非常にセンシティヴな響きを持っており、フランスの印象派や、武満やメシアンを思い出させるような、あるいは小澤があるエッセイでマーラーと比較していたアイヴスも連想させるような繊細さを感じさせる。

このように小澤のマーラー観とは、外部からくる様々な感覚を綜合した、ある種アール・ヌーヴォー的な作曲家というところにあり、そのアプローチは主観主義的であるよりもむしろ客観的・知的・純音楽的である。

また小澤独自のリズムの切れの良さと旋律の歌わせ方の明快さもよく出ており、そういう特質が最も良く生かされているのが、小澤向きの「第8」や「第2」「第1」だろう。

小澤の、楽曲の深みに切り込んでいこうとする鋭角的な指揮ぶりが、演奏に緊張感といい意味でのメリハリを加味することに繋がり、切れば血が出るような熱き魂が込められた入魂の仕上がりとなっている。

録音も優秀で、ボストン交響楽団の洗練された弦や木管、輝かしいブラスを、フィリップス・クオリティのサウンドで堪能できる高水準でシンフォニックな全集である。

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2017年02月18日


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ドイツの長老指揮者ミヒャエル・ギーレン(Michael Gielen 1927-)が、1988年から2003年にかけて、南西ドイツ放送響と録音したモダニズムに徹した鋭利な知の切れ味を堪能させる新解釈の高品質かつ均質性の高いマーラー(Gustav Mahler 1860-1911)の交響曲全集。

交響曲第10番は第1楽章のみ(2005年にクック版の全曲を録音、別売)で、「大地の歌」は含まれない(1992年に第1,3,5楽章、2002年に第2,4,6楽章を録音したが、当アイテムには含まれなかった)。

ギーレンのマーラー演奏は、細部まで見通しのよい堅牢な造形、緊密に練り上げられたテクスチュア構築など膨大な情報処理に秀でている点が特徴的で、素材間の緊張関係や声部の重なり合いの面白さには実に見事なものがある。

オーケストラの楽器配置が第2ヴァイオリン右側の両翼型である点も見逃せない重要なポイントで、マーラーが意図したであろうパースペクティヴの中に各素材が配されることによって生ずる響きや動きの妙味に説得力があり、多用される対位法や、素材引用への聴き手の関心が無理なく高められるのも嬉しいところだ。

どの交響曲も、指揮者のスタイルをしっかりと投影し、解析的で、情緒を抑制しながらも、自然で音楽的な起伏に満たされている。

この全集は、特にマーラーの音楽に存在する構造的な秘密を解明し、そこから導かれる「力」の存在に意識的でありたいと思う聴き手には、絶好のものだ。

ギーレンは、明らかにこれらのマーラーの音楽から、「情」ではなく、「知」に働きかけるものに焦点を当てている。

明瞭にされる声部、音型の変換、構造上の楽器の役割、そういったものを厳密に定義付け、細部を突き詰めることにより、音像を作り上げ、音楽を構築していく、建築学的な音楽と言っても良い。

しかし、音色は決して冷たくはなく、むしろ不思議な暖かさを宿し、的確な起伏により、新鮮な高揚感を得て、鮮烈な興奮を聴き手に与えてくれる。

ごく簡単に、筆者が当演奏から受けた印象を、各曲ごとにまとめると、以下の様な感じになる。

第1番;1つ1つの楽器の明朗な響きと、そして、濁りのない合奏音によって、瑞々しく描かれている。

第2番;細かいモチーフを繋いだダイナミクスへの動線、さらに休符の意味まで厳密に突き詰めた演奏。この曲の劇場的な一面と一線を画している。第5楽章の冷静極まりない進行から、前半部の巨大なコラール、そして合唱を交え、コーダに向かう一連の流れは非常に美しく、ルネサンス・ポリフォニーを聴いているかのよう。

第3番;アダージョまで徹底したインテンポの表現で、鋭く線的に描かれたシャープなスタイル。シャイーに近いが、ギーレンの方がやや即物的な味わい。

第4番;厳密性がややシニカルな味わいを見せる。天国の音楽と言うより、瞬間瞬間の音色を追求。

第5番;引き締まったテンポで、クールに徹したモダニズムの極致的美演。動物のように激しく叫び、のた打ち回るだけが主張なのではないことを教えてくれる。

第6番;全体の中では古典的なアプローチ。だが新ウィーン楽派に連なる表現主義的な面をよく伝える。

第7番;従来のロマンティックな解釈とは完全に一線を画した演奏。第4楽章の各モチーフの扱いに卓越した冴えを見せる。

第8番;オペラ的なショルティとは対極をなす名演。テクスチャーの織り込みが細かく、驚かされる。終幕近くのソプラノがマジカルな効果を放つ。

第9番;オーケストラの技術を駆使した演奏。この曲の場合その成果が暖かみではなく、不安や恐怖の感情へと誘導されるのを感じる。独奏ヴァイオリンの深いニュアンス。

第10番;第9番に近いがより暗黒的、虚無的なものを意識させる。

以上、当然の事ながら、それぞれの感想がその曲固有のものというわけでなく、全集を通じて重複するものもあるが、筆者の素直な感想を曲毎に書くと、このようになる。

ギーレンは、テンシュテット(Klaus Tennstedt 1926-1998)のように、音の1つ1つの表現力は強いわけではなく、シャープで、冷酷なまでに素っ気ないが、ただ、その素っ気ない音が同時に鳴らされたとき、その組み合わせ方がドラマティックで、ロマンティックで、エロティックなのだ。

マーラーの音楽の多面性を見事にあぶり出した稀代の名演、名全集で、情感、知性、さらに哲学と、マーラーの音楽を深く追求した実にずっしりと重みのある全集に仕上がっている。

いずれにしても、現代最高のマーラー指揮者による素晴らしい全集だと思うので、是非推奨したいが、ギーレンのマーラー・シリーズは、単品で揃えると、併録してある楽曲がなかなか興味深いので、経済的に余裕のある人は、そちらの方がいいかもしれない。

バーンスタイン(Leonard Bernstein 1918-1990)やショルティ(Georg Solti 1912-1997)とは大いに聴き味を異にするマーラーではあるが、彼らの演奏を支持する人であっても、もっと多層的で新たな感興を呼び覚ましてくれるギーレンのマーラーだと思うので、広く推薦したい。

すぐれた演奏は本当の自分を映し出す鏡となるが、この演奏は鏡にふさわしく、よく磨かれているはずだ。

また、録音状態も自然な質感をもった優秀なもので、ヘンスラー・レーベルで行われた録音だけでなく、第4番、第7番、第10番アダージョというINTERCORD時代にリリースされていた音源まで大幅な音質改善が図られているのも良心的である。

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2016年04月29日


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極限の美を追求した、カラヤンならではの磨き抜かれた壮絶な演奏を体感できる1973年録音盤。

広範なレパートリーを誇るとともに、余人を寄せ付けないような膨大な録音を遺したカラヤンであったが、マーラーの交響曲については、必ずしも主要なレパートリーとしては位置づけていなかったようだ。

カラヤンが録音したマーラーの交響曲は、第4番、第5番、第6番、第9番、そして『大地の歌』の5曲のみであり、これに少数の歌曲が加わるのみである。

同時代の大作曲家であるブルックナーの交響曲全集を録音した指揮者にしてはあまりにも少ないし、むしろ、クラシック音楽ファンの中には、カラヤンの指揮するマーラーの交響曲全集を聴きたかったと思っているリスナーも多いのではないだろうか。

そうした比較的数少ないカラヤンの録音したマーラーの交響曲の中で、先般、第6番のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化が行われる運びとなった。

筆者としては、第9番の1982年のライヴ録音のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を期待したいところであるが、いずれにしても、カラヤンの芸風が色濃く表れた稀少なマーラーの交響曲演奏の1つがSACD化されたことについて、大いに喜びたいと考える。

本盤に収められたマーラーの交響曲第5番は、全盛期のカラヤンとベルリン・フィルの徹底的に磨き抜かれた、甘美で艶やかな美音の洪水が聴き手を圧倒するが、起伏も豊かで、隅々にまで配慮が行き届いていて実に見事である。

同曲の名演としては、バーンスタイン&ウィーン・フィルによるライヴ録音(1987年)やテンシュテット&ロンドン・フィルによるライヴ録音(1988年)などが、ドラマティックな超名演として第一に掲げるべきであろうが、本盤のカラヤンによる演奏は、それらの演奏とは一線を画する性格を有している。

クラシック音楽史上最大のレコーディング・アーティストであったカラヤンによる本演奏は、それらのドラマティックな名演とはあらゆる意味で対極にある演奏であり、ここには前述のような人間のドラマはいささかもなく、純音楽的な絶対美だけが存在している。

しかしながら、その圧倒的な究極の音のドラマは、他の指揮者が束になっても構築不可能であるだけでなく、バーンスタイン盤などの名演との優劣は容易にはつけられないものと考える。

何よりも、当時蜜月の関係にあったカラヤン&ベルリン・フィルが、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な名演奏を展開しているのが素晴らしい。

うなりをあげるような低弦の迫力、雷鳴のように轟きわたるティンパニ、ブリリアントに響き渡るブラスセクションなど、凄まじいまでの迫力を誇っている。

一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルは、もはや人間業とは思えないような凄さであり、加えて、カラヤンならではの流麗なレガートが演奏全体に艶やかとも言うべき独特の美しさを付加させているのを忘れてはならない。

もちろん、そうした美しさが、前述のバーンスタインやテンシュテットなどの名演にあった強靭な迫力をいささか弱めてしまっているというきらいもないわけではないが、他方、第4楽章における徹底して磨き抜かれた耽美的とも言うべき極上の美しさには抗し難い魅力が満ち溢れている。

この「アダージェット」で、カラヤンは、テンポを極端に落とし、官能的とすら言えるほどの艶やかな歌を聴かせてくれる。

我々聴き手の肺腑を打つ演奏と言えば、前述のバーンスタインやテンシュテットなどの名演を掲げるべきであろうが、聴き終えた後の充足感においては、本演奏もいささかも引けを取っていない。

筆者としては、全盛期のカラヤン&ベルリン・フィルならではの磨き抜かれた美しさの極みとも言うべき素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

マーラーの抱えていたペシミズムやニヒリズムなどは一顧だにせず、あくまで自分の流儀をやり通したカラヤンは流石である。

本演奏については、数年前に他の交響曲とのセットでSHM−CD化が図られたが、音質の抜本的な改善は図られなかったと言える。

カラヤン&ベルリン・フィルによる極上の美酒とも言うべき究極の名演であり、可能であれば、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望みたいと考える。

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2016年01月01日


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マーラーの理解にはロマン主義者であるとともに現代人であるという二元性が必要なのだが、クーベリックの演奏はその二元性をうまく釣り合わせている。

各部が精密で動きの明快な「復活」、複雑な音構成の処理の鮮やかな「第3」、旋律に左右されずに抑制した表現の「第4」、「第8」の構成力、「第9」の個々の楽章の多彩な表現などにクーベリックの特徴が出ている。

バーンスタインが作曲者とともに大声で泣いたり笑ったりするとき、クーベリックはマーラーとともにその苦しみに耐えるタイプである。

これほど、マーラーの傷つきやすい心に同調し、その悲しみをさらに掘り下げるような演奏も珍しい。

だから、メルヘンのような曲調の「第4」にもどこかに影が付きまとうし、「第6」のアンダンテも、恋をする甘美さよりも切なさや胸苦しさの方に重心が置かれてしまう。

クーベリックがどんなに微笑もうとも、その内面にある大きな傷を隠すことはできない。

まして、死を意識した「第9」「第10」になると、その同調の仕方は半端でなく、聴いている我々まで苦しくなってしまうほどだ。

「一緒に苦しむなんて御免こうむる」という理由から、筆者は長年、この全集を我が身から遠ざけてきた。

しかし、作曲者や演奏家の苦しみに真正面から向き合うことも、人生には必要なことかも知れない。

一緒に大泣きすれば気持ちはサッパリするけれど、5分後には何も残っていないということもあり得る。

しかし、長時間苦しみを共にすれば、その分簡単に心から消えることはない。

その苦しみの体験が、他人への思いやりに転じたり、来るべき苦しみのための心の準備となることだってあるだろう。

近年、独アウディーテよりクーベリックのライヴが多数発売になり、「クーベリックの本領はライヴにあり」という声をよく耳にするようになった。

確かに、そのうちのいくつかは、スタジオ盤を凌駕する出来映えであるが、だからといって、この優れた全集の価値が消えるものではない。

当全集の良いところは、全10曲が短期間(1967〜1971年)に集中的に録音されているため、演奏スタイルに全集としての統一感があることだ。

「第6」「第7」などは、その求道的な姿勢がライヴ以上に曲想にマッチしているし、ライヴで発売されていない「第4」も、低音をしっかり弾かせるゴツゴツとした音づくりがとても新鮮に響く。

ソプラノ独唱が冴えないのが惜しまれるが、コンサートマスターであるケッケルトのヴァイオリン独奏が胸に染みる名演。

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2015年10月24日


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ブーレーズが15年の長きにわたって録音したマーラーの集大成BOXであるが、ブーレーズのマーラーは、若き日の前衛時代ではなく、むしろ角の取れたソフト路線が顕著となった時期の録音だけに、純音楽的なアプローチでありながら、比較的常識的な演奏に仕上がっていることが多いように思う。

それゆえ演奏は、あらゆる意味でバーンスタインやテンシュテットなどによる濃厚でドラマティックな演奏とは対極にある純音楽的なものと言えるだろう。

ブーレーズは、特に1970年代までは、聴き手の度肝を抜くような前衛的なアプローチによる怪演を行っていた。

ところが、1990年代にも入ってDGに様々な演奏を録音するようになった頃にはすっかりと好々爺になり、かつての前衛的なアプローチは影を潜め、オーソドックスな演奏を行うようになった。

もっとも、これは表面上のことで、必ずしもノーマルな演奏をするようになったわけではなく、そこはブーレーズであり、むしろスコアを徹底的に分析し、スコアに記されたすべての音符を完璧に音化するように腐心しているようにさえ感じられるようになった。

楽曲のスコアに対する追求の度合いは以前よりも一層鋭さを増しているようにも感じられるところであり、マーラーの交響曲の一連の録音においても、その鋭いスコアリーディングは健在である。

本演奏においても、そうした鋭いスコアリーディングの下、曲想を細部に至るまで徹底して精緻に描き出しており、他の演奏では殆ど聴き取ることが困難な旋律や音型を聴くことができるのも、本演奏の大きな特徴であり、ブーレーズによるマーラー演奏の魅力の1つと言えるだろう。

もちろん、スコアの音符の背後にあるものまでを徹底的に追求した上での演奏であることから単にスコアの音符のうわべだけを音化しただけの薄味の演奏にはいささかも陥っておらず、常に内容の濃さ、音楽性の豊かさを感じさせてくれるのが、近年のブーレーズの演奏の素晴らしさと言えるだろう。

本演奏においても、そうした近年のブーレーズのアプローチに沿ったものとなっており、マーラーのスコアを明晰に紐解き、すべての楽想を明瞭に浮かび上がらせるようにつとめているように感じられる。

もっとも、あたかもレントゲンでマーラーの交響曲を撮影するような趣きも感じられるところであり、マーラーの音楽特有のパッションの爆発などは極力抑制するなど、きわめて知的な演奏との印象も受ける。

黙っていても大編成のスコア1音1音に、目に見えてくるような透徹さが保たれている。

なおかつそれら各部が有機的に結合されつつ前進していくため、感情移入的演奏を耳にすると初心者には雑多に聴こえてしまいがちなマーラーの濃厚なロマンティシズムが、知らず知らずのうちにすっと聴く者に入ってくるのだ。

さらに、ブーレーズの楽曲への徹底した分析は、マーラーの本質である死への恐怖や生への妄執と憧憬にまで及んでおり、演奏の表層においてはスコアの忠実な音化であっても、その各音型の中に、楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような奥行きの深さを感じることが可能である。

これは、ブーレーズが晩年に至って漸く可能となった円熟の至芸とも言えるだろう。

いずれにしても本演奏は、バーンスタインやテンシュテットとあらゆる意味で対極にあるとともに、一切の耽美的な要素を拭い去った、徹底して純音楽的に特化された名演と評価したい。

もっとも、徹底して精緻な演奏であっても、例えばショルティのような無慈悲な演奏にはいささかも陥っておらず、どこをとっても音楽性の豊かさ、情感の豊かさを失っていないのも、ブーレーズによるマーラー演奏の素晴らしさであると考える。

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2015年09月27日


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テンシュテットによる最大の遺産は、何と言っても1977年から1986年にかけてスタジオ録音されたマーラーの交響曲全集ということになるのではないだろうか。

テンシュテットは、当該全集の掉尾を飾る「第8」の録音の前年に咽頭がんを患い、その後は放射線治療を続けつつ体調がいい時だけ指揮をするという絶望的な状況に追い込まれた。

それとともに近年様々なライヴ録音が発掘されることによってその実力が再評価されつつあるテンシュテットであるが、ここにテンシュテットの一連のマーラーのライヴ録音がまとまった形で集成されたことは、ファンには朗報に違いない。

テンシュテットのマーラーの交響曲へのアプローチはドラマティックの極みとも言うべき劇的なものだ。

マーラーの交響曲は非常に懐が深く、演奏者によって非常に個性豊かな様々な表情を見せるが、この集成はその中でも迫力にかけては1、2を争うものではないだろうか。

ことにテンシュテットはマーラーのライヴにおいては、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使して、大胆極まりない劇的な表現を施している。

かかる劇的な表現においては、かのバーンスタインと類似している点も無きにしも非ずであり、マーラーの交響曲の本質である死への恐怖や闘い、それと対置する生への妄執や憧憬を完璧に音化し得たのは、バーンスタインとテンシュテットであったと言えるのかもしれない。

ただ、バーンスタインの演奏があたかもマーラーの化身と化したようなヒューマニティ溢れる熱き心で全体が満たされている(したがって、聴き手によってはバーンスタインの体臭が気になるという者もいるのかもしれない)に対して、テンシュテットの演奏は、あくまでも作品を客観的に見つめる視点を失なわず、全体の造型がいささかも弛緩することがないと言えるのではないだろうか。

非常に熱の入った激情型の演奏ではあるが、バーンスタインのように没入し切ったような感じではなく、構成感もしっかりしている。

テンシュテットのマーラーは抒情性が豊かで、旋律の歌いまわしも美しく、何よりマーラー独特のダークなテンペラメントが顕著に表現されていて、個性的なマーラー演奏になっている。

マーラーの音楽の持つ不安定さ、壊れやすさ、デリカシーが理想的に尊重され丁寧に扱われている。

もちろん、それでいてスケールの雄大さを失っていないことは言うまでもないところだ。

このあたりは、テンシュテットの芸風の根底には、ドイツ人指揮者としての造型を重んじる演奏様式が息づいていると言えるのかもしれない。

また、テンシュテットのマーラーは、ライヴ録音だけ聴くと爆演指揮者のように思われるが、その実テンシュテットの取り組み方はかなり慎重で周到な準備を重ねた手堅い曲作りになっているのは見逃せない。

いずれにしても、本セットに収められた演奏はいずれも圧倒的な超名演であり、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な凄みのある迫力を湛えていると評価したい。

オーケストラはいずれも必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルであるが、テンシュテットのドラマティックな指揮に必死に喰らいつき、テンシュテットとともに持ち得る実力を全面的に発揮させた渾身の演奏を繰り広げていると言えるところであり、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

マーラーの交響曲のライヴ録音はあまた存在しており、その中ではバーンスタインによる3つのオーケストラを振り分けた最後の全集が随一の名演奏と言えるが、聴き手に深い感動を与えるという意味において当該バーンスタインの超名演に肉薄し得るのは、本セットに収められたテンシュテットによるライヴ録音の集成であると考える。

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2015年09月20日


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ラトル若き日の一大記念碑だ。

このマーラー全集を語る前に指揮者サイモン・ラトルについて一度おさらいしておきたい。

1955年にリヴァプールで生まれたサイモン・ラトルはイギリスを、というより現在のクラシック音楽界を代表する名指揮者と見なされている。

2002年からはベルリン・フィルの芸術監督に就任した。

ラトルはさまざまな意味でカラヤンのうちに先鋭化されたクラシック音楽の商業化に抗っているように見える。

たとえば彼はローカル楽団に過ぎなかったバーミンガム市交響楽団を鍛え上げて、世界級の名声を得た。

むろん、彼のもとにはさまざまな有名オーケストラから常任指揮者や監督にならないかという誘いがあったという。

しかし、彼はそうしたスピーディかつイージーなスターへの道をとりあえず拒むポーズを見せた。

それが、見かけだけの音楽家にうんざりした人たちの圧倒的な支持を受け、結局はベルリン・フィルの芸術監督という黄金の椅子を獲得するに至ったのである。

アーノンクールはカラヤン主義と対決するために挑発的にならざるを得なかったが、ラトルは特に挑発的にならずにすんでいるところに、時代の推移が見て取れる。

ラトルはひとことで言うなら、超弩級の優等生である。

勉強家でもあり、バロックから現代作品まで、他の指揮者が興味を示さない音楽にも積極的で、おまけに、音楽界の風向きを読む賢さも持っている。

もともと頭がよくて能力のある人が人一倍勤勉なのだから、なかなか他の指揮者は太刀打ちできない。

たとえば、彼が1986年、つまり、わずか30歳とちょっとのときに録音したマーラーの交響曲第2番「復活」(バーミンガム市交響楽団)が本セットに収められている。

これは今聴いても、非常に完成度の高い演奏で、ラトルは、驚くべき丁寧さで音楽を進めていく。

曖昧な点を残すのは我慢がならないといった様子で、細部を詰めていくのだ。

カルロス・クライバーのデビュー録音「魔弾の射手」は、まさに天才的としか言いようがないものだったが、ラトルのこれは超秀才と呼ぶのがふさわしい。

しかも丁寧だけでなく、ちょっと普通でないというか、人工的というか、妙に耽美的な部分もある。

ラトルは、特にマーラーを指揮したとき、部分的に非常に遅いテンポを取ることがあるのだが、それがバーンスタインのように心を込めるといったものではなく、作りものめいた耽美性を示すのがおもしろい。

ラトルにとってマーラーは常に最も重要なレパートリーである。

彼のマーラー演奏は「復活」にもよく表れているようにきわめて明快で、見通しのよい響きがする。

そして、音のひとつひとつが演劇的な表現性をもって、つまり心理的なダイナミズムの表現として聞こえてくることはあまりなく、逆に、ラヴェル的とでも言えるほど、意味を剥ぎ取られている。

だから、たとえば交響曲第7番をテンシュテットと比べてみるとよくわかるが、皮肉の色合いはまったく薄く、陰影もあまりない。

それゆえ、音楽にドラマを求める聴き手にとってはあまりに薄味にすぎようが、音楽とは音という絵の具を使った抽象画であると考える人には、実に魅力的だろう。

響きがよく練り上げられ、調和した、洗練された音楽であり、不安なおののきや危険な誘惑はまったくなく、健康的である。

筆者の正直な感想を記すなら、ラトル流はもちろんひとつの解釈あるいは演奏法として、存在してよいと思うし、立派な水準に達しているが、それだけで捉えきれないものがマーラーにはある。

バーンスタインやテンシュテットの強烈で、毒があって、自分の人生を問うているような、そして聴き手である自分の人生も問うているような圧倒的な演奏を知っているがゆえに、不満が消え去らない。

ここまで調和してしまうと、音楽がきれいごとになってしまっていると感じてしまう。

とはいえ、彼のマーラー全集は、現代において聴くことができる最高のマーラーのひとつであることは認めねばならない。

本全集でラトルはバーミンガム市交響楽団を軸に、「第5」「第10」ではベルリン・フィル、「第9」ではウィーン・フィルを起用しているが、目下のところ、バーミンガム市交響楽団との録音のほうが聴く価値があると思う。

さすがの超秀才も、これらの録音当時はベルリン・フィル、ウィーン・フィルのようなくせ者オーケストラを自由自在に操るまでには至っていないからだ。

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2015年09月15日


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凄い超名演だ。

これほどまでに心を揺さぶられる演奏についてレビューを書くのはなかなかに困難を伴うが、とりあえず思うところを書き連ねることとしたい。

いずれにしても、廃盤になっていたテンシュテット&ロンドン・フィルの1991年におけるマーラーの交響曲第6番のライヴ録音が再発されたのは、まだこの演奏を聴いていないクラシック音楽ファンにとって大朗報とも言えるところだ。

テンシュテットと言えば、何と言ってもマーラーの交響曲の様々な名演が念頭に浮かぶが、マーラーの数ある交響曲の中でもとりわけ第6番を得意としており、複数の録音を遺している。

最初の録音は、交響曲全集の一環としてスタジオ録音された演奏(1983年)、次いでライヴ録音された演奏(1983年)、そしてその8年後にライヴ録音された本盤の演奏(1991年)の3種が存在しており、オーケストラはいずれも手兵ロンドン・フィルである。

いずれ劣らぬ名演ではあるが、随一の名演は1991年の演奏であることは論を待たないところだ。

というのも、テンシュテットは1985年に咽頭がんを患い、その後は放射線治療を続けつつ体調がいい時だけ指揮をするという絶望的な状況に追い込まれたからである。

したがって、1991年の演奏には、死と隣り合わせの壮絶な演奏を展開しており、1つ1つのコンサートに命がけで臨んでいた渾身の大熱演とも言うべき壮絶な迫力に満ち溢れていると言えるからだ。

いささかも妥協を許さない全力投球の極めて燃焼度の高い渾身の演奏を繰り広げていたところであり、もはや涙なしでは聴けないほどの感動を覚える。

そうしたテンシュテットの指揮芸術は、最も得意としたマーラーの交響曲の演奏において如実に反映されていると言えるであろう。

テンシュテットのマーラーの交響曲へのアプローチはドラマティックの極みとも言うべき劇的なものだ。

これはスタジオ録音であろうが、ライヴ録音であろうが、さして変わりはなく、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使して、大胆極まりない劇的な表現を施している。

かかる劇的な表現においては、かのバーンスタインと類似している点も無きにしも非ずであり、マーラーの交響曲の本質である死への恐怖や闘い、それと対置する生への妄執や憧憬を完璧に音化し得たのは、バーンスタインとテンシュテットであったと言えるのかもしれない。

ただ、バーンスタインの演奏があたかもマーラーの化身と化したようなヒューマニティ溢れる熱き心で全体が満たされている(したがって、聴き手によってはバーンスタインの体臭が気になるという者もいるのかもしれない)に対して、テンシュテットの演奏は、あくまでも作品を客観的に見つめる視点を失なわず、全体の造型がいささかも弛緩することがないと言えるのではないだろうか。

もちろん、それでいてスケールの雄大さを失っていないことは言うまでもないところだ。

このあたりは、テンシュテットの芸風の根底には、ドイツ人指揮者としての造型を重んじる演奏様式が息づいていると言えるのかもしれない。

マーラーがこの曲を作曲したときと同じような心境に追い詰められたテンシュテットの大仰ではない、真に深い苦しみが刻印され、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な凄みのある迫力を湛えていると評価したい。

オーケストラは必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルであるが、テンシュテットのドラマティックな指揮に必死に喰らいつき、テンシュテットとともに持ち得る実力を全面的に発揮させた渾身の演奏を繰り広げていると言えるところであり、本演奏を超名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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2015年08月29日


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ショルティはマーラーの交響曲の中で特に規模が大きい「第2」を2度にわたってスタジオ録音している。

最初の録音はロンドン交響楽団(1966年)とのスタジオ録音、そして、2度目の録音は、本盤に収められたシカゴ交響楽団との唯一の交響曲全集の一環としてスタジオ録音された演奏(1980年)だ。

ショルティは、バーンスタインやクーベリックなど、一部の限られた指揮者によってしか演奏されていなかったマーラーの交響曲にいち早く注目し、その後のマーラー・ブーム到来の礎を作り上げたという意味では、多大なる功績を遺したと評価できるのではないだろうか。

我が国においては、故吉田秀和氏のように好き嫌いを別にして公平に指揮者を評価できる数少ない音楽評論家は別として、とある著名な某音楽評論家を筆頭に、ショルティに厳しい視線を送る音楽評論家があまりにも多いが、そうした批評を鵜呑みにして、ショルティの指揮する演奏を全く聴かないクラシック音楽ファンがあまりにも多いというのは極めて嘆かわしいことである。

ショルティの各楽曲に対するアプローチは、マーラーの交響曲だけにとどまらずすべての楽曲に共通していると言えるが、切れ味鋭いリズム感とメリハリのある明瞭さであり、それによってスコアに記されたすべての音符を完璧に音化していくということが根底にあったと言える。

マーラーの「第2」について言えば、1966年の演奏はいかにもショルティならではの強烈無比な演奏で、第1楽章冒頭から終楽章の終結部に至るまで、ショルティの個性が全開。

アクセントは鋭く、ブラスセクションは無機的とも言えるほど徹底して鳴らし切るなど、楽想の描き方の明晰さ、切れ味の鋭いシャープさは、他の指揮者によるいかなる演奏よりも(ブーレーズの旧盤が匹敵する可能性あり)、そしてショルティ自身による1970年のマーラーの「第5」の演奏にも比肩するような凄味を有していると言えるだろう。

かかるアプローチは終生変わることがなかったとも言えるが、1980年代以降になると、演奏に円熟の成せる業とも言うべき奥行きの深さ、懐の深さが付加され、大指揮者に相応しい風格が漂うことになったところだ。

その後ショルティは前述のように、「第2」を1980年になって、当時の手兵であるシカゴ交響楽団とともに再録音を行っているが、この1980年の演奏は、1966年の演奏とはかなり様相が異なり、鋭角的な指揮振りは健在であるとは言うものの、聴き手を包み込んでいくような包容力、そして懐の深さのようなものが存在し、聴き手にあまり抵抗感を与えないような演奏に仕上がっている。

したがって、1980年の演奏に抵抗を覚えなかった聴き手の中にさえ、1966年の演奏のような血も涙もない演奏に抵抗感を覚える者も多いのではないかと思われる。

シカゴ交響楽団の光彩陸離たる華麗な演奏ぶりが際立っていることから、このような演奏を内容空虚と批判する音楽評論家も多いようであるが、聴き終えた後の充足感が、例えばバーンスタイン&ニューヨーク・フィル盤(1987年)などの名演に必ずしも引けを取っているわけでもない。

音楽の内面に入り、大きなうねりをもって歌い込むバーンスタイン盤と、音楽を客観的にとらえて、マーラーの音楽がもつ音響的凄さを全面的に出したショルティ盤は対極に位置する演奏である。

改めて本盤を聴くと、まず構築が非常に精微であり、尚且つ知・情・意のバランスが取れている。

それを踏まえた上で全盛期のシカゴ交響楽団は迷い無く豪快に鳴らし切って、器楽部分での不満は本当に全く無く(特にハーセスのトランペットは素晴らしい)、まさに名演だ。

かかる演奏を筆者としては、マーラーの交響曲の演奏様式の1つとして十分存在意義のあるものと考えており、好き嫌いは別として、ショルティの個性が発揮された名演と評価したいと考える。

シカゴ交響楽団も、ショルティのメリハリのある指揮にしっかりと付いていき、持ち得る実力を発揮した見事な演奏を行っているとともに、ソプラノのブキャナンやアルトのザカイをはじめとした声楽陣も最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

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2015年08月25日


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これは素晴らしい名演だ。

マーラーの交響曲第1番には、ワルター&コロンビア交響楽団(1961年)、バーンスタイン&コンセルトへボウ・アムステルダム(1987年)、テンシュテット&シカゴ交響楽団(1990年)といった至高の超名演があるが、本演奏はこれらの横綱クラスに次ぐ大関クラスの名演と言えるのではないだろうか。

マーラーの交響曲第1番はマーラーの青雲の志を描いた作品であり、円熟がそのまま名演に繋がるとは必ずしも言えないという難しさがある。

実際に、アバドは後年、ベルリン・フィルの芸術監督に就任後まもなく同曲をベルリン・フィルとともにライヴ録音(1989年)しており、それも当時低迷期にあったアバドとしては名演であると言えなくもないが、本演奏の持つ独特の魅力には到底敵わないと言えるのではないだろうか。

これは、小澤が同曲を3度にわたって録音しているにもかかわらず、最初の録音(1977年)を凌駕する演奏が出来ていないこととも通暁するのではないかと考えられる。

いずれにしても、ベルリン・フィルの芸術監督に就任するまでのアバドの演奏は素晴らしい。

本演奏でも、随所に漲っている圧倒的な生命力とエネルギッシュな力感は健在だ。

アバドは、作品全体の構造を綿密に分析したうえで、各要素を絶妙のバランス感覚をもって表現している。

細部までアバドの的確な眼差しが行き届き、精緻に仕上げられたマーラーで、シャープな感覚でとらえられ、描き上げられた演奏と言うこともできる。

アバドはこの作品の微細な部分を精緻な視点で掘り下げるとともに、大局的な観点からの構造把握も忘れておらず、ここまで明晰なマーラーを聴くのは、筆者としても初めての体験であった。

それでいて、アバドならではの歌謡性豊かな歌心が全曲を支配しており、とりわけ第2楽章や第3楽章の美しさには出色のものがある。

終楽章のトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と力強さには圧巻の凄みがあると言えるところであり、壮麗な圧倒的迫力のうちに全曲を締めくくっている。

いずれにしても、本演奏は、強靭な力感と豊かな歌謡性を併せ持った、いわゆる剛柔バランスのとれたアバドならではの名演に仕上がっていると高く評価したい。

また、シカゴ交響楽団の超絶的な技量にも一言触れておかなければならない。

当時のシカゴ交響楽団は、ショルティの統率の下、スーパー軍団の異名をとるほどのオーケストラであったが、本演奏でも若きアバドの指揮の下、これ以上は求め得ないような最高のパフォーマンスを発揮しているのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

音質は、ダイナミックレンジが異常なほど幅広い録音であることも大きな特徴で、オーディオファンにも関心を持たれていた名盤であり、従来盤でも比較的満足できる音質ではあったものの、前述のベルリン・フィル盤がSHM−CD化されていることもあって、その陰に隠れた存在に甘んじていたと言える。

しかしながら、今般、同じくSHM−CD化による高音質化が図られたというのは、本演奏の素晴らしさに鑑みても大いに歓迎したいと考える。

SHM−CD盤であらためて聴いてみると、強靭なパフォーマンス一点張りのなかに、アバドの温かい人間味を感じることができるのである。

このSHM−CD盤で、今までヴェールに包まれていてわからなかった当演奏の新たな側面を提示してくれたことはとても素晴らしいことだ。

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2015年08月17日


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マーラーの直弟子であるワルターやクレンペラーは、すべての交響曲の録音を遺したわけではないが、録音された交響曲については、両指揮者ともにいずれも水準の高い演奏を行っている。

交響曲第1番は、クレンペラーが録音していないだけに、ワルターの独壇場ということになるが、マーラーの愛弟子の名に恥じない素晴らしい超名演と高く評価したい。

コロンビア交響楽団という臨時編成の、しかも弦のプルトの少ないオーケストラを振って、死の1年前のワルターは一分の隙もない、最も音楽的、最も完璧なマーラーを世に残した。

それは、CBSコロンビアが、まだ40代に入ったばかりの若いバーンスタインを起用してマーラー全集を企画していることを知ったワルターが、すでに自分にはそれだけの体力がないことを悟り、最後の力をふりしぼって示した「これぞ真のマーラー」の姿であった。

この録音を耳にしたバーンスタインは、おそれおののき、全集録音を延期したのである。

「音楽は純粋に人を魅了し、楽しませ、喜ばせ、豊かにするのと同時に、人々に対して一種の倫理的な呼びかけをする」とワルターは言っている。

ワルターはマーラーの愛弟子だけに、マーラー作品の理解度が深く、ここでは、マーラーの青春時代の喜びと苦悩を描いたこの曲を、あたたかく表現している。

この作曲家ならではの耽美的な特徴を、実に見事に表出した演奏で、作品の全篇にあふれる清新な美しさと、ロマンティックな情感を、これほど自然にあらわした演奏も珍しい。

同曲は、マーラーの青雲の志を描いた、青春の歌とも言うべき交響曲であるが、死を1年後に控えた老巨匠であるワルターの演奏には、老いの影など微塵も感じられず、若々しささえ感じさせる力強さが漲っている。

マーラーの交響曲中、「第4」と並んで古典的な形式を維持した同曲に沿って、全体的な造型を確固たるものとしつつ、生命力溢れる力強さから、抒情豊かな歌い方の美しさに至るまで、マーラーが同曲に込めたすべての要素を完璧に表現している点が実に素晴らしい。

むしろ、マーラーが人生の最後の時期に至って、過去の過ぎ去りし青春の日々を振り返っているような趣きが感じられる演奏ということが出来るのかもしれない。

ところで、ワルターのマーラーを言えば、後期ロマン派風の濃厚な演奏、というように短絡的に考える人が多いが、事実は異なる。

師を誰よりも敬愛し、その音楽に傾倒したワルターであるが、そのスコアの読み方は他の指揮者とは違っていた。

マーラーがしつこいくらい丹念に書き込んだ、後期ロマン派時代の指揮者としての演奏プランをワルターは白紙に戻し、取捨選択し、すっきりとした古典音楽として再生した。

すなわち、いつの時代にも通用する芸術として古典化したのである。

テンポは速く、粘った表情もなく、ルフトパウゼもポルタメントもルバートも整理された。

第1楽章のコーダや第2楽章全体など、今の指揮者の方がずっと粘っている。

「スコアどおり」という考え方からすれば、ワルターのアプローチは主観的であるが、出てきた音楽は客観的、しかもマーラーの本質はぴたりととらえられている。

コロンビア交響楽団も、ワルターの統率の下、その編成の小ささをいささかも感じさせないような好演を示している。

音質もDSDリマスタリングによる鮮明な音質であり、可能ならばSACDやBlue-spec-CDで発売して欲しいと思った聴き手は筆者だけではあるまい。

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2015年08月12日


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アバドによるマーラーの交響曲第2番と言えば、いの一番にルツェルン祝祭管弦楽団との超名演(2003年ライヴ)が思い浮かぶ。

当該演奏は、大病を克服したアバドならではの深みと凄みを増した指揮とアバドと深い関係にあるルツェルン祝祭管弦楽団が、ともに音楽を創造していくことの楽しみを共有し合いつつ渾身の力を発揮した稀有の超名演に仕上がっていた。

したがって、このルツェルン盤の存在があまりにも大きいために、そしてウィーン・フィルとのライヴ録音(1992年)も存在しているため、更に約20年も前のスタジオ録音である本盤の演奏の影はいささか薄いと言わざるを得ないが、筆者としては、若き日のアバドならではの独特の魅力がある素晴らしい名演と高く評価したい。

本演奏におけるアバドのエネルギッシュな指揮ぶりは実に凄まじい。

とりわけ第1楽章や終楽章におけるトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と力感は、圧倒的な迫力を誇っていると言えるところであり、ベルリン・フィルの芸術監督に就任後、借りてきた猫のように大人しくなってしまったアバドとは別人のような力強い生命力に満ち溢れた熱い指揮ぶりである(アバドは芸術監督退任間近に胃がんにかかるが、胃がん克服後は、彫りの深い名演を成し遂げるようになったことを忘れてはならない。)。

それでいて、とりわけ第2楽章や第3楽章などにおいて顕著であるが、アバドならではの歌謡性豊かな表現には汲めども尽きぬ情感が満ち満ちており、その歌心溢れる柔和な美しさには抗し難い魅力がある。

終楽章の終結部の壮麗さも、雄渾なスケールと圧巻の迫力に満ち溢れており、圧倒的な感動のうちに全曲を締めくくっている。

シカゴ交響楽団も持ち前の超絶的な技量を如何なく発揮しており、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

また、キャロル・ネブレットとマリリン・ホーンによる独唱、そしてシカゴ交響合唱団による壮麗な合唱も最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

他方、マーラーの交響曲第4番は、アバドによる2度にわたる同曲の録音のうちの最初のもの(スタジオ録音)に該当する。

2度目の録音は、本演奏の約30年後にベルリン・フィルを指揮したライヴ録音(2005年)であり、それはベルリン・フィルの卓越した技量と、大病を克服したことによって音楽に深みと凄みを増したアバドによる彫りの深い表現、そしてルネ・フレミングによる名唱も相俟って、至高の超名演に仕上がっていたと言える。

したがって、ベルリン・フィル盤が燦然と輝いているために本演奏の旗色は若干悪いと言わざるを得ないが、それでも、本盤には若き日のアバドならではの独特の魅力があり、名演との評価をするのにいささかの躊躇をするものではないと考える。

交響曲第4番は、他の重厚長大な交響曲とは異なり、オーケストラの編成も小さく、むしろ軽妙な美しさが際立った作品であるが、このような作品になるとアバドの歌謡性豊かな指揮は、俄然その実力を発揮することになる。

本演奏は、どこをとっても歌心に満ち溢れた柔和な美しさに満ち溢れており、汲めども尽きぬ流麗で、なおかつ淀みのない情感の豊かさには抗し難い魅力がある。

それでいて、ここぞという時の力奏には気迫と強靭な生命力が漲っており、この当時のアバドならではのいい意味での剛柔バランスのとれた素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

オーケストラにウィーン・フィルを起用したのも功を奏しており、アバドの歌謡性の豊かな演奏に、更なる潤いと温もりを与えている点を忘れてはならない。

ゲルハルト・ヘッツェルのヴァイオリンソロも極上の美しさを誇っており、終楽章におけるフレデリカ・フォン・シュターデによる独唱も、最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

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2015年08月11日


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アバドによるマーラーの交響曲第3番には、ウィーン・フィルとのスタジオ録音(1980年)もあり、それは若き日のアバドならではの魅力のある素晴らしい名演と今でも高く評価したい。

しかしながら、1999年ベルリン・フィルとのロンドン公演に於けるライヴ録音が、旧盤と比べてもより緻密で精巧に仕上がっていると言えるところであり、筆者としては、新盤の方を至高の超名演として更なる上位に置きたい。

それどころか、バーンスタイン&ニューヨーク・フィル(1987年ライヴ録音)やテンシュテット&ロンドン・フィル(1986年ライヴ録音)などと並んで、数ある同曲の録音の中でも最高の名盤と絶賛したい。

本演奏は、アバドが大病にかかる直前のベルリン・フィルとの演奏であるが、アバドも、そしてベルリン・フィルもともに渾身の力を発揮した圧倒的な超名演に仕上がっている。

アバドによるベルリン・フィルの様々な改革の成果がはっきりと出てきた頃の充実ぶりを実感できる、新たな境地に到達した演奏と言えるだろう。

ライヴ録音ということもあって、アバドの、そしてベルリン・フィルのコンディションもかなり良かったのではないかとも思われる。

ベルリン・フィルとの他のマーラー録音もそうであったが、「第3」においても、アバドのエネルギッシュな指揮ぶりは実に凄まじい。

大胆でダイナミックな表現の演奏で、ライヴゆえのオーヴァー・アクションもあるだろうが、そうしたうわべだけに終わらず見通しの良いガッシリとした構成力やオケの性能の高さは一目瞭然であり、品のいいマーラーだ。

とりわけ、第1楽章におけるトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と力感は、圧倒的な迫力を誇っている。

また、第2楽章以降におけるアバドならではの歌謡性豊かな表現には汲めども尽きぬ情感が満ち満ちており、その歌心溢れる柔和な美しさには抗し難い魅力がある。

このアバド&ベルリン・フィルの演奏には温かみがあり、ウィーン・フィルとの演奏とは違う柔らかみのある響きが特徴で、約20年を経てアバドが余裕でオーケストラをコントロールしている様子が窺える。

もっとも、全体にバランスを重視するあまりピアニッシモがいささか弱過ぎるきらいがあるが、壮麗な美しさは非常に魅力的であり、第1楽章や終楽章終結部で強靭な迫力が漲っているところなど、旧盤を遥かに凌駕している。

そして何よりも特筆すべきはベルリン・フィルによる極上の美しい音色であり、弦も管も音色が美しく透明感があり、アンサンブルも見事。

とりわけ第1楽章におけるジャーマン・ホルンやトロンボーンソロの朗々たる響きや、第1楽章及び第4楽章におけるヴァイオリンソロ、そして第3楽章におけるポストホルンソロは圧巻の美しさを誇っており、本名演に大きく貢献している点を忘れてはならない。

全編を通じて柔らかい小春日和を思わせる、こけおどしのマーラーとは真反対の正統派マーラーと言えよう。

若き日のアンナ・ラーションによる歌唱も、本名演に華を添えていると評価したい。

ロンドン交響合唱団やバーミンガム市交響ユース合唱団も最高のパフォーマンスを発揮している。

録音については、従来盤では全体としてやや雲がかかったような雰囲気とやや音圧レベルが低くマイクが遠い感じがあり、録音が楽器の微細なニュアンスを拾いきれていないようなもどかしさがあった。

しかしながら、今般、SHM−CD化による高音質化が図られたというのは、本演奏の価値を高めることに貢献しており、大いに歓迎したいと考える。

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2015年07月27日


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ブーレーズはDGに相当に長い年数をかけてマーラーの交響曲全集を録音したが、本盤に収められたマーラーの「第1」は、その初期の録音(1998年)である。

ひと昔前のブーレーズと言えば「冷徹なスコア解析者」といったイメージの名演が多かったが、最近はそれに「人間味」が加わって、良くも悪くも万人向けのスタンスにシフトしてきたと考えられる。

1990年代後半から始まったこのマーラー・チクルスもその流れを汲んでおり、「聴きやすく」「わかりやすい」マーラー像をわれわれに提示してくれているような新たな名演がリリースされている。

演奏は、あらゆる意味でバーンスタインやテンシュテットなどによる濃厚でドラマティックな演奏とは対極にある純音楽的なものと言えるだろう。

ブーレーズは、特に1970年代までは、聴き手の度肝を抜くような前衛的なアプローチによる怪演を行っていた。

ところが、1990年代にも入ってDGに様々な演奏を録音するようになった頃にはすっかりと好々爺になり、かつての前衛的なアプローチは影を潜め、オーソドックスな演奏を行うようになった。

もっとも、これは表面上のことで、必ずしもノーマルな演奏をするようになったわけではなく、そこはブーレーズであり、むしろスコアを徹底的に分析し、スコアに記されたすべての音符を完璧に音化するように腐心しているようにさえ感じられるようになった。

楽曲のスコアに対する追求の度合いは以前よりも一層鋭さを増しているようにも感じられるところであり、マーラーの交響曲の一連の録音においても、その鋭いスコアリーディングは健在である。

本演奏においても、そうした鋭いスコアリーディングの下、曲想を細部に至るまで徹底して精緻に描き出しており、他の演奏では殆ど聴き取ることが困難な旋律や音型を聴くことができるのも、本演奏の大きな特徴であり、ブーレーズによるマーラー演奏の魅力の1つと言えるだろう。

もちろん、スコアの音符の背後にあるものまでを徹底的に追求した上での演奏であることから、単にスコアの音符のうわべだけを音化しただけの薄味の演奏にはいささかも陥っておらず、常に内容の濃さ、音楽性の豊かさを感じさせてくれるのが、近年のブーレーズの演奏の素晴らしさと言えるだろう。

本演奏においても、そうした近年のブーレーズのアプローチに沿ったものとなっており、マーラーの「第1」のスコアを明晰に紐解き、すべての楽想を明瞭に浮かび上がらせるようにつとめているように感じられる。

もっとも、あたかもレントゲンでマーラーの交響曲を撮影するような趣きも感じられるところであり、マーラーの音楽特有のパッションの爆発などは極力抑制するなど、きわめて知的な演奏との印象も受ける。

黙っていても大編成のスコア1音1音に、目に見えてくるような透徹さが保たれている。

なおかつそれら各部が有機的に結合されつつ前進していくため、感情移入的演奏を耳にすると初心者には雑多に聴こえてしまいがちなマーラーの濃厚なロマンティシズムが、知らず知らずのうちにすっと聴く者に入ってくるのだ。

さらに、ブーレーズの楽曲への徹底した分析は、演奏の表層においてはスコアの忠実な音化であっても、その各音型の中に、楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような奥行きの深さを感じることが可能である。

これは、ブーレーズが晩年に至って漸く可能となった円熟の至芸とも言えるだろう。

いずれにしても本演奏は、バーンスタイン&コンセルトヘボウ・アムステルダム(1987年ライヴ)やテンシュテット&シカゴ交響楽団(1990年ライヴ)とあらゆる意味で対極にあるとともに、ワルター&コロンビア交響楽団(1961年)の名演から一切の耽美的な要素を拭い去った、徹底して純音楽的に特化された名演と評価したい。

もっとも、徹底して精緻な演奏であっても、例えばショルティのような無慈悲な演奏にはいささかも陥っておらず、どこをとっても音楽性の豊かさ、情感の豊かさを失っていないのも、ブーレーズによるマーラー演奏の素晴らしさであると考える。

このようなブーレーズの徹底した純音楽的なアプローチに対して、最高のパフォーマンスで応えたシカゴ交響楽団の卓越した演奏にも大きな拍手を送りたい。

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2015年07月22日


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素晴らしい名演だ。

小澤征爾は、かつて1980年代に手兵のボストン交響楽団とともにマーラーの交響曲全集を録音しているが、問題にならない。

小澤のマーラーの最高の演奏は、手兵サイトウ・キネン・オーケストラとの「第2」(2000年)及び「第9」(2001年)であり、それ以降チクルスが中断されてしまったが、これら両曲については、古今東西の様々な名演の中でも十分に存在価値のある名演と高く評価したい。

小澤はマーラーの「第9」を、ボストン交響楽団の音楽監督としての最後の演奏会で取り上げたほどであり、マーラーのスペシャリストとしての呼び声も高い。

小澤のアプローチは両曲ともにいわゆる純音楽的なものであるが、マーラーの荘重な世界を、熱い魂がほとばしるような演奏で表現している。

小澤のマーラー演奏は東洋的諦念観の理解に裏打ちされていると特徴付けられるが、作曲者と完全に一体化した師バーンスタインの情緒的スタンスから一歩踏み出したオリジナルの強さがここにはある。

小澤のマーラーには、こってりとした民族的な味付けや濃厚な感情移入は感じられず、むしろ絶対音楽として客観視された主旨で統一されている。

バーンスタインやテンシュテットの劇的で主観的なアプローチとはあらゆる意味において対照的であるが、だからと言って物足りなさは皆無。

明晰な響きと自在なリズム、カンタービレのしなやかな美しさ…しかし、何といっても小澤の音楽には絶対的な優しさがあり、この美質が小澤のマーラーを価値あるものにしている要因だろう。

バーンスタインほどオケを振り回さず、しかし客観的になりすぎず、音を丁寧に積み重ねながらぐいぐいと聴く者を引き込んでゆく。

小澤の、楽曲の深みに切り込んでいこうとする鋭角的な指揮ぶりが、演奏に緊張感といい意味でのメリハリを加味することに繋がり、切れば血が出るような熱き魂が込められた入魂の仕上がりとなっている。

サイトウ・キネン・オーケストラも、小澤の確かな統率の下、ライヴとは思えない完成度の高い演奏で指揮者の熱意に応えて、最高のパフォーマンスを示している。

世界中の名手を集めたサイトウ・キネン・オーケストラは、弦も金管も木管もパーカッションも世界で活躍しているソリスト集団なのがわかる豪華なラインナップ。

随所で素晴らしいソロが繰り広げられ、またアンサンブルも臨時編成とは思えない高い完成度を感じさせる。

オーケストラが小澤征爾のバトンのもとで自由自在に歌うさまは、まさに圧巻と言えるだろう。

サイトウ・キネン・オーケストラの持つ緻密なアンサンブル、広いダイナミクスの幅が小澤の棒によって見事にコントロールされ、プレーヤー個々の豊かな表現力と融合し、マーラーの世界を見事に表現している。

録音は、両曲ともに通常盤でも高音質であったが、特に、「第9」については今回はじめてSACD化され、更に鮮明さを増した点が素晴らしい。

他方、「第2」については、かつてSACDのシングルレイヤーディスクとして発売されており、今回のハイブリッドディスクはわずかであるが音質は落ちる。

今回の発売にあたっての不満点はまさにこの点であり、なぜ、「第9」だけの単独発売にしなかったのか、メーカー側の邪な金儲け思想に、この場を借りて大いに疑問を呈しておきたい。

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2015年07月17日


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マーラーの音楽は少年時代から好きだったが、これまで彼とその時代の芸術観についてそれほど深く知ることもなく聴いてきた。

しかしこの著書を読み進めていくと、マーラーという天才作曲家が育つべき下地が世紀末のウィーンを中心にすっかり準備されていたという印象を持つ。

言い換えれば、マーラーはこの時代に出るべくして出てきた時代の申し子なのだろう。

マーラーの人となりや作品がニーチェやワーグナーの哲学、フロイトの精神分析、そしてクリムトの芸術やオットー・ワーグナーの都市計画などと如何に密接に関わっていたか、また如何に彼がその時代の空気を敏感に反映させた音楽を創造していたかが理解できる。

勿論そうした作品が当時の人々から諸手を挙げて受け入れられたかといえば、必ずしもそうではなかった。

マーラーはウィーンを代表する優秀な指揮者として君臨していたが、本人の意志とは裏腹に作曲家としては名を成していなかった。

こうした事情を知ることによってマーラーの鑑賞が一層興味深いものになる筈で、またその作品の必然性を暗示する著者の構想は成功している。

一方でマーラーの虚像はルキーノ・ヴィスコンティの映画『ヴェニスの死』に負うところが大きいと著者は指摘する。

この作品はトーマス・マンの同名の小説からの映画化だが、マンが主人公である小説家アッシェンバッハにマーラーの姿を匂わせたのに対してヴィスコンティは彼を完全に作曲家マーラーに限定した。

そして「滅びの中で美しきものの幻影を執拗に追い求めながら自ら滅びていった」音楽家のイメージを創造する。

マーラーの音楽にはそうした芸術至上主義的で、かつ世紀末特有の退廃的な雰囲気が感じられるのは確かだろう。

しかし事実は小説よりも奇なりの例えに相応しく、実際の彼自身は抜け目のない実利的な合理主義者だったようだ。

だがその間の葛藤が音楽にも映し出されていることは真実であるに違いない。

この時代は来るべき時代の新しい潮流とロマン派の名残を残した潮流とが渦巻いていた。

そうした中でマーラーも生きていたし、作品には双方の影響が表れている。

面白い逸話としては、マーラーが自分の演奏する曲のオーケストレーションを、それがどれほど偉大な作曲家のものであろうと敢然と改竄したことが挙げられる。

当人は作曲家のイメージした音響の再現という大義名分を掲げてその行為を正当化していたようだが、これはマーラーよりも少し前の時代の音楽観のあり方だ。

ヴァイオリニストのヨアヒムがメンデルスゾーンのピアノ伴奏で演奏したバッハの無伴奏をシューマンが賞賛していることからも理解できるように、ロマン派の時代は現代よりも音楽が主観的であり、その普遍性はそれほど顧みられなかったのかも知れない。

それは決して作曲家への冒涜には繋がらなかった。

マーラーがモーツァルトやベートーヴェンのスコアに熱心に書き足した音符や曲想記号はひとつの時代の終わりを告げる証しでもあるだろう。

それはまた最終章「ワルター神話を超えて」に詳しく分析されてマーラーの後の時代の指揮者の解釈について突っ込んだ研究結果が述べられている。

マーラーの直弟子であり、師匠の作品の正当な再現者と思われているブルーノ・ワルターが、実は作曲者のイメージとはかなり異なった解釈による演奏をしていたというのは、あながち根拠のないこととは言えない。

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2015年07月06日


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「第2」は、バーンスタインやテンシュテットなどの激情的な名演、小澤やインバルなどの純音楽的な名演など、数多くの名演が目白押しであるが、そのような中で、マーラーの直弟子であるクレンペラーの名演はどのような位置づけになるのであろうか。

同じくマーラーの直弟子であったワルターが、「第2」に関しては録音のせいも多分にあるとは思うが、名演を遺していないだけに、俄然、クレンペラーの演奏の意義は高いとも言える。

クレンペラーは、ゆったりとしたインテンポによる威風堂々たる演奏だ。

バーンスタインのように、燃え上がるような激情が表に出ることはなく、かと言って、小澤などのように純音楽に徹しているわけでもない。

あくまでも、微動だにしないインテンポで、マーラーがスコアに記したあまたの旋律を荘重に歌いあげていく。

特に感心させられるのは終楽章で、ここの中間部は、名演と称されるものでもいささか冗長さを感じさせる箇所であるが、クレンペラーは、ここを幾分テンポを落として、終結部の復活の合唱への布石のように崇高に心をこめて旋律を歌いあげていく。

第4楽章のシュヴァルツコップの独唱も実に巧く、この「第2」は、楽曲の本質を個性的な見地で捉えるなど奥深い内容をそなえた重厚な名演と高く評価したい。

「第4」は、マーラーの交響曲の中でも最も柔和なニュアンスが漂う楽曲であり、それ故に、同曲には、ワルターやバーンスタインなど、どちらかというと柔らかいロマンの香り漂う名演が多いと言える。

これに対して、クレンペラーは剛毅にして重厚な演奏だ。

同じくマーラーの弟子ではあるが、演奏の性格は正反対で、ワルターの柔に対して、クレンペラーの剛と言えるだろう。

曲が柔和な「第4」だけに、クレンペラーの演奏については世評は必ずしも高いとは言えないが、筆者としては、クレンペラーならではの個性的な名演と評価したい。

前述のように、演奏全体の性格は剛毅にして重厚、冒頭からテンポは実にゆったりとしており、あたかも巨象の行進のように微動だにしないインテンポだ。

それ故に、ワルターなどの名演と比較すると、愉悦性にはいささか欠ける側面もなくはないが、深沈たる深みにおいては、ワルターと言えども一歩譲るだろう。

テンポの遅さ故に、他の演奏では聴くことができないような楽器の音色が聴こえてきたりするが、これを逆説的に言えば、「第4」の知られざる側面に光を当てたということであり、そうした点も高く評価したい。

シュヴァルツコップの歌唱は実に巧く、この異色の名演に華を添えている。

「第7」は、クレンペラーのマーラー演奏の、そして更にはクレンペラーのあらゆる演奏の頂点に君臨する不朽の超名演である。

第1楽章の冒頭から、この世のものとは思えないような重量感溢れる巨大な音塊が迫ってきて、その勢いたるや、誰も押しとどめることはできない。

まさに、巨象の堂々たる進軍であり、ゆったりとしたテンポによる微動だにしない重厚な歩みであるが、それでいて決してもたれるということはない。

それどころか、次はどのように展開していくのだろうかというわくわくした気持ちになるのだから、クレンペラーの芸格がいかに優れた高踏的なものであるのかがわかるというものだろう。

中間部のこの世のものとは思えないような至高・至純の美しさや、終結部のド迫力は、もはや筆舌には尽くしがたい素晴らしさだ。

第2楽章や第4楽章の夜曲も、同様に遅いテンポであるが、実に情感溢れる指揮ぶりで、そのスケールの大きな雄弁さにはただただ舌を巻くのみ。

終楽章は、下手な指揮だと単なるばか騒ぎに陥りかねない危険性をはらんでいるが、クレンペラーは、踏みしめるような重量感溢れるアプローチによって、実に内容のあるコクのある演奏を成し遂げている。

そして、終結部の圧倒的なド迫力。聴き終えて、完全にノックアウトされてしまったという聴き手は筆者だけではないだろう。

「大地の歌」は、ワルター&ウィーン・フィルの1952年盤と並ぶ2大名演である。

マーラーの直弟子であるワルターとクレンペラーは、マーラーの交響曲をすべて録音したわけではないが、両者が揃って録音し、なおかつ超名演となったのはこの「大地の歌」であると言えるのではないか。

クレンペラーの演奏は、ワルターのように、ウィーン・フィルの独特の美しさや、各楽章毎の描き分けを明確に行い、随所に耽美的とも言うべき色合いを出した演奏ではなく、微動だにしないゆったりとしたインテンポによる演奏だ。

しかし、随所に見られる深沈たる深みは、ワルターと言えども一歩譲ることになるのではなかろうか。

特に、「大地の歌」の白眉である第6楽章の『告別』の彫りの深さは秀逸であり、終結部の「永遠に」のあたりに漂うこの世のものとは思えないような抜け切ったような清澄な抒情は、クレンペラーという大巨匠が、晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地とも言うべき高みに達している。

歌手を比較すると、ワルター盤のフェリアーとクレンペラー盤のルートヴィヒは同格、他方、ワルター盤のパツァークはやや癖があり、ここは、クレンペラー盤のヴンダーリヒの畢生の熱唱の方を高く評価したい。

それにしても、現代においてもなお、この2大名演を凌駕する名演が表れていないのは何とも寂しい気がする。

「第9」は、間違いなくマーラーの最高傑作であるが、それだけに古今東西の様々な大指揮者によって数々の名演がなされてきた。

これらの名演には、それぞれ特徴があるが、どちらかと言えば、楽曲の性格に準じた劇的な演奏が主流のような気がする。

特に、ワルター&ウィーン・フィルや、バーンスタイン&コンセルトヘボウ、テンシュテット&ロンドン・フィルなどが超名演とされているのもその証左と言えるだろう。

そのような数々の名演の中で、クレンペラーの演奏は異色の名演と言える。

これほどの劇的な交響曲なのに、殆ど微動だにしない、ゆったりとしたインテンポで通した演奏は、純音楽的な同曲の名演を成し遂げたカラヤンやバルビローリなどにも見られない特異な性格のものと言える。

それでいて、マーラーが同曲に込めた死との闘いや、生への妄執や憧憬などが、我々聴き手にしっかりと伝わってくるというのは、クレンペラーの至高の指揮芸術を示すものと言えるだろう。

あまりのスローテンポのため、例えば、第3楽章の後半や終楽章の頂点において、アンサンブルに多少の乱れが生じるが、演奏全体から滲み出てくる同曲への深い愛着と情念を考慮すれば、殆ど気にならない演奏上の瑕疵と言える。

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2015年07月04日


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アバドはマーラーの交響曲第7番を2度録音しているが、1984年のシカゴ響とのスタジオ録音に続き、本盤には、2001年のベルリン・フィルとのライヴ録音が収められている。

1984年盤も、アバドがある意味では最も輝いていた時期の演奏でもあり、強靱な気迫と力強い生命力、そして豊かな歌謡性がマッチングした、いい意味での剛柔バランスのとれた名演に仕上がっていたと言える。

1970年代から1980年代にかけてのアバドの演奏には、このような名演が数多く成し遂げられていたと言えるが、1990年にベルリン・フィルの芸術監督に就任して以降は、借りてきた猫のような大人しい演奏に終始するようになってしまった。

もちろん、メンデルスゾーンの交響曲第4番やヤナーチェクのシンフォニエッタなど、例外的な名演もいくつか存在しているが、その殆どは大物揃いのベルリン・フィルに気後れしたかのような今一つ覇気のない演奏が多かったと言わざるを得ない。

その後アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督の任が重すぎたせいか、ベルリン・フィルの芸術監督を退任する少し前の2000年には癌に倒れることになってしまった。

そして、アバドはその癌を克服するのであるが、それは皮肉にもベルリン・フィルの芸術監督の退任直前。

そして、アバドはその大病を見事に克服するのであるが、死と隣り合わせの苛烈な体験を経たことによって、アバドの芸風には、それまでの演奏にはなかった凄みと底知れぬ彫りの深さが加わったと言えるのではないだろうか。

ベルリン・フィルの芸術監督に就任して以降は、借りてきた猫のように大人しい演奏に終始していただけに、その変貌ぶりには驚くべきものがあったとも言える。

その意味では、2000年以降のアバドは真の大指揮者となったと言っても過言ではあるまい。

本盤の演奏も、真の大指揮者アバドによるものであり、ベルリン・フィルの卓越した名技を活かしつつ、胃癌を発表した後の明鏡止水にも似たような境地が漂う何とも言えない深い味わいがあり、至高の名演に仕上がっていると高く評価したい。

本演奏の最大の優位点は、演奏全体を支配する奥行きの深さであり、アバドの音楽が表現する内容も凄絶な変貌を遂げており、そんな時期の情熱あふれる名演と言えるのではないか。

それだけに、本演奏においては、この時期のアバドとしては劇的な迫力を有するとともに、雄大なスケールを誇る名演に仕上がっていると言えるのではないかと考えられる。

したがって、本演奏には、シカゴ響との演奏には存在しなかった楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような彫りの深さが存在しているというのはある意味では当然であり、まさにアバドによる円熟の名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

もっとも、トゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫や強靭な迫力という意味においては、シカゴ響との録音と比較するといささか見劣りするとも言えなくもないが、むしろ、このように決して喚いたり叫んだりしない、そして奥行きの深い演奏の中にも持ち前の豊かな歌謡性をより一層際立たせたいい意味での剛柔バランスのとれた演奏こそが、アバドが目指す究極のマーラー演奏の理想像とも言えるのかもしれない。

各楽器セクションのバランスを重要視した精緻な美しさにも出色のものがあるが、ここぞという時の力奏にも強靭な迫力が漲っており、各フレーズの歌心溢れる徹底した歌い抜きにおいてもいささかも不足はない。

ベルリン・フィルも、このような深みと凄みを増したアバドによる確かな統率の下、持ち得る実力を十二分に発揮した最高のパフォーマンスを示していると評価したい。

音質は、本従来CD盤でも十分に満足できる高音質であると評価したい。

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2015年07月02日


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ショルティは偉大なマーラー指揮者の1人であると考えているが、ショルティが録音したマーラーの交響曲の中で、3種類もの録音が遺されているのは、現時点では第1番と第5番しか存在していない。

第5番は、ラスト・レコーディングも同曲であったこともあり、ショルティにとって特別な曲であったことが理解できるが、第1番に対しても、ショルティは第5番に比肩するような愛着を有していたのでないかと考えられるところだ。

3種類の録音のうち、ロンドン交響楽団とのスタジオ録音(1964年)が最初のもの、そして同年のウィーン・フィルとのライヴ録音(オルフェオレーベル)、そして本盤に収められたシカゴ交響楽団とのスタジオ録音(1983年)がこれに続くことになる。

いずれ劣らぬ名演と思うが、シカゴ交響楽団との演奏は、1964年の2種の演奏とはかなり性格が異なっている。

ショルティの各楽曲に対するアプローチは、マーラーの交響曲だけにとどまらずすべての楽曲に共通していると言えるが、切れ味鋭いリズム感とメリハリのある明瞭さであり、それによってスコアに記されたすべての音符を完璧に音化していくということが根底にあったと言える。

かかるアプローチは終生変わることがなかったとも言えるが、1980年代以降になると、演奏に円熟の成せる業とも言うべき奥行きの深さ、懐の深さが付加され、大指揮者に相応しい風格が漂うことになったところだ。

したがって、1983年の演奏は、1964年の2つの演奏とはかなり様相が異なり、鋭角的な指揮振りは健在であるとは言うものの、聴き手を包み込んでいくような包容力、そして懐の深さのようなものが存在し、聴き手にあまり抵抗感を与えないような演奏になっており、仕上がりの美しさと内容の豊かさにおいて、旧盤とは格段の違いを示している。

マーラー独特の憂愁の表現や、この名作特有のテーマである「さすらい」の不安定さ、若者の不安などの文学的要素を多分に蔵したこの曲の、あちこちにちりばめられた突発的に介入するエピソード的素材のすべてを、ショルティはものの見事にとらえ、変幻自在の対応で表現して、素晴らしく面白い。

シカゴ交響楽団の光彩陸離たる華麗な演奏ぶりが際立っていることから、このような演奏を内容空虚と批判する音楽評論家も多いようであるが、聴き終えた後の充足感が、例えばワルター&コロンビア交響楽団盤(1961年)やバーンスタイン&コンセルトへボウ・アムステルダム盤(1987年)などの名演に必ずしも引けを取っているわけでもない。

ショルティは、バーンスタインやクーベリックなど、一部の限られた指揮者によってしか演奏されていなかったマーラーの交響曲にいち早く注目し、その後のマーラー・ブーム到来の礎を作り上げたという意味では、多大なる功績を遺したと言えるのではないだろうか。

我が国においては、故吉田秀和氏のように好き嫌いを別にして公平に指揮者を評価できる数少ない音楽評論家は別として、とある著名な某音楽評論家を筆頭に、ショルティに厳しい視線を送る音楽評論家があまりにも多いが、そうした批評を鵜呑みにして、ショルティの指揮する演奏を全く聴かないクラシック音楽ファンがあまりにも多いというのは極めて嘆かわしいことである。

ショルティとシカゴ交響楽団の美しく、力強く、そして精密な演奏は、マーラーの音楽の持つ耽美的な色彩感と美しさと力強さ、迫力と爽やかさが見事に調和している演奏である。

ワルターやバーンスタインのような厭世観から来る、病的な暗さや思いつめたような絶望感や情熱とは無縁の世界のものであるが、作品の持つ耽美的なまでの美しさと爽やかさ、軍隊的な統制力と力強さが万全に発揮された名演と言えるだろう。

シカゴ交響楽団も、ショルティのメリハリのある指揮にしっかりと付いていき、持ち得る実力を発揮した見事な演奏を行っている。

特に弦楽器の合奏は素晴らしく、まるで春のそよ風が気持ちよく、爽やかに吹き抜けてゆくようだし、トランペットなどの金管楽器の閃光のような輝きは驚く程だ。

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classicalmusic

早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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