マーラー

2019年10月01日


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ニューヨーク・フィルが放送録音を集め、自主製作盤で出したマーラーの交響曲全集が、1998年秋、日本に入ってきた時は、思わず色めき立った。

NYPではマーラー自身が指揮台に立っており、それ以来、脈々とマーラー演奏の伝統が受け継がれている。

ワルター、バルビローリからブーレーズ、メータまで、様々な指揮者による、音で聴ける「マーラー演奏史」のなかで、筆者が最も深い感銘を受けたのが、ミトロプーロスによる第6番である。

彼は20世紀の音楽を得意とし、マーラーも好んで演奏し、1947年にはNYPと、第6番の米国初演を行っている。

1960年にミラノで急逝したのも、交響曲第3番の練習中に起きた心臓発作が原因だったから、文字通りマーラー作品に殉じたと言えなくもない。

問題は、彼のそうしたマーラーに示した強い共感を追体験できる良質の録音が、思ったほど多くないことだ。

セッションでは、1940年に当時の手兵・ミネアポリス響と行った第1番の世界初録音(ソニーからCD復刻済み)があるぐらいで、あとは時折り世に出るライヴ盤で、至芸をしのぶしかない。

この第6番でまず強烈な印象を残すのは、異常なまでの高い燃焼度だ。

切迫した気分で低弦がリズムを刻み出す第1楽章冒頭から、指揮者、オケともにテンションの高さは明白。

概してテンポは速めで、「悲劇的」な曲想を深く抉った苛烈なまでの劇的盛り上げや、心の底からの痛切な歌い込みに、ぐいぐい引き込まれる。

渾身の力を振るったフィナーレでは、ライヴならではの凄まじいクライマックスを築き上げる。

もちろん現代音楽の名手らしく、見通しの良い造形にも欠けていない。

最後までパワフルな合奏を聴かせるNYPの威力もさすがで、マーラー作品に潜む独特な音色を見事に表出している。

愛好家がエアチェックしてテープを基に復刻したモノーラル録音ながら、音質も聴きやすい。

ただし反復に一部省略があるうえ、第2、3楽章が通常と入れ替わり、2楽章がアンダンテ、3楽章がスケルツォとなっている。

演奏当時の文献や資料によると、第6番の本番は、聴衆の入りは今ひとつだったものの、演奏が終わると、当時では極めて珍しいことに、楽員までが観客の熱烈な拍手に同調して、ミトロプーロスを称えたという。

また彼は、長大なマーラー作品に慣れていない聴衆のために、第2楽章と第3楽章の間で休憩時間を設け、当時の評論家も新聞記事でそれを支持しているが、マーラーが一般にも浸透した現代では信じがたいことだ。

この曲のオンエアに向けた彼の執念などを読むにつけ、一世一代の熱演の陰には、作品を聴衆に何とか広めたいという真摯な使命感があったと推察され、胸が熱くなる。

弟子のバーンスタインに連なっていく現代のマーラー演奏を考える上でも、まことに忘れ難いドキュメントである。

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2019年09月14日


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昨年2018年6月にバンベルク・コンツェルトハレで行われたライヴ録音だが、91歳のブロムシュテットがマーラーの交響曲第9番ニ長調を実に矍鑠とした指揮で、ひとつの革新的なマーラー像を示したところが高く評価される。

これまでこの曲はマーラーの他の作品の持つ傾向や彼の心理状態を反映させた、世紀末的な諦観や死生観、或いは病的なほどの耽美な表現がつきまといがちだった。

ブロムシュテットはこうした解釈や先入観を一度拭い去って、現代の指揮者としての作品の再構築をしているようだ。

それだけに隅々まで一点の曇りもない透徹したサウンドの中に、マーラーの意図した音楽的構想がくっきりと浮かび上がっている。

そこには感傷的でもなければ脆弱さも感じられない、至って健康的で堂々たるマーラーが響いてくる。

長大な第1楽章も全く飽きさせないだけの高い音楽性を保った構成が素晴らしい。

第2楽章での田舎風のレントラーにも特有の力強さが漲っているし、活性化されたロンドや清冽な終楽章にも人生の黄昏というイメージは似合わない、むしろ新しい生命の神秘とでも形容したくなる演奏だ。

随所に表れるソロの部分を聴く限りではバンベルク交響楽団の団員個人個人の音色や奏法にはそれほど華やかさはない。

それでも、おそらくヨーロッパでも最も美しいハーモニーを創り上げるオーケストラのひとつだろう。

特にヤクブ・フルシャが首席指揮者に就任してからは、彼らのアンサンブルのテクニックは格段に向上している。

ブロムシュテットが彼らとの共演にマーラーの第9番を選んだことも、スタンドプレイをしなくてもこの曲の魅力を充分に表現し切ることができる力量と柔軟な姿勢に注目したからだろう。

将来の彼らの演奏にも期待したい。

尚音質は極めて良好で、ライヴながら客席からの拍手や雑音は皆無だ。

1枚ずつ独立したシンプルなジャケットとライナー・ノーツを収納するダブル・ジャケット仕様になっている。

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2019年07月28日


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1960年マーラー生誕100年祭に於けるライヴ録音で、ワルターの最上のステージを伝える貴重な記録であり、この時彼は実に83歳。

体力の限界を理由に一度は断りながら、ウィーン・フィルの熱烈なラヴコールに応え、ムジークフェライン最後の指揮台に立ったものである。

ワルターの勇断は名コンサート・マスター、ボスコフスキー率いるウィーン・フィル渾身の演奏ぶりによって報われた。

指揮者、楽員双方が、最後の共演であることを意識し、お互いの最高の面を見せ合ったのだろう。

マーラーの「第4」は、全曲を通してワルターの気合は十分で、決め所での迫力にも事欠かないし、匂い立つ弦がいっそうの芳香を放ち、魅惑の花々が咲き乱れる。

ウィーン・フィルが、それこそ身も心も美の女神にゆだねながら演奏している、とてつもなく美しい場面が続く。

殊に第3楽章の深遠な叙情には、ワルターのウィーンへの、そして人生への告別の歌のようで、涙なしに聴くことはできない。

唯一残念なのは、ソプラノ独唱の人選ミスで、シュヴァルツコップの歌唱は、ドイツ語のディクションの明瞭さが仇となり、説明くさい音楽になってしまっている。

このフィナーレは純粋さ、可憐さ、素朴さが求められる至高の音楽であり、シュヴァルツコップの起用は、化粧の匂いが強すぎるのである。

マーラーの「第4」とともに演奏されたシューベルトの《未完成》は、筆者の知る限り、同曲の最美の演奏である。

ワルター&ウィーン・フィルと言えば、誰もが、懐かしい郷愁、甘美な歌などを連想したくなるものだが、ここに聴く《未完成》は、まったく違う。

あるのは、死にゆく者、去りゆく者の魂の慟哭ばかりで、これは交響曲版《冬の旅》なのである。

第1楽章は傷ついた者の凄惨な旅路だ。

《冬の旅》で言えば、裏切られた恋人の家に別れを告げ、街を去る第1曲「おやすみ」から、第5曲「菩提樹」で菩提樹のささやきを振り切り、運命の深淵に引きずり込まれる「鬼火」に相当するだろうか。

胸一杯の愛情と未練を残しながら、この世から去りゆかねばならなかったシューベルトの魂の叫びが聴こえてくるようだ。

第2楽章は、破滅した者、絶望した者が見た一場の夢であり、幸福な昔への悲痛な階層である。

《冬の旅》で言えば、束の間の甘い夢である第11曲「春の夢」、抑えていた孤独から激情が爆発する第12曲「孤独」などにも喩えられるだろう。

《未完成》を書いていた頃のシューベルトはまだ25歳、「死」の影が眼前に迫っていたわけではないが、その初期の症状をすでに感じていたのではないだろうか。

もっとも、《未完成》は断じて標題音楽ではなく、交響曲版《冬の旅》説は、あくまで音楽の本質を見極めるためのヒントに過ぎないことを申し添えておく。

ともあれ、ワルターとウィーン・フィルのライヴは、その艶やかで美しい音色と、崩れるような風情、そして肺腑を抉るティンパニの最強奏などによって、胸から心臓を取り出して、我々に見せてくれるような、恐ろしくも美しい名演となった。

音質もALTUS盤で聴く限り、大変魅力的で、マイクが楽器に近く、それでいてバランスも悪くない、聴く者を夢見心地にさせてくれる名録音である。

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2019年07月15日


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フィッシャー=ディースカウが録音した作品は、シューベルト、シューマン、ヴォルフなどの歌曲全集をはじめ膨大な数にのぼるし、また第一線での活動時期が長かったこともあって、何回も録音している曲もある。

そうした中にあっても、この演奏は彼の最高の演奏の1つに数えられる。

1曲めの『さすらう若人の歌』では、マーラー特有のデカダンス的な雰囲気とただならぬ緊張感が漂っているという意味では1951年のウィーン・フィルとのライヴが優っているが、音質の面ではスタジオ録音の当1952年盤をお薦めする。

どちらも20代だったフィッシャー=ディースカウの絶唱が堪能できる演奏で、51年の破綻寸前のはげしい慟哭の迸るライヴに対して、このスタジオ録音は内容と形式、声とオケとが完璧なバランスを得て模範的な演奏を示し、歌曲録音史上の金字塔の1つに数えられる。

フィッシャー=ディースカウなんと27歳の時に、青春の溌剌とした息吹きや、言い知れぬ深い挫折の詠唱が他の誰にも増して秀逸だ。

フィッシャー=ディースカウとフルトヴェングラーは、1951年のザルツブルク音楽祭で『さすらう若人の歌』で共演した。

フルトヴェングラーは、フィッシャー=ディースカウの自己投入のはげしい歌いぶりに触発され、敬遠気味のマーラーを見直すきっかけを得たほどだった。

フルトヴェングラーがフィッシャー=ディースカウに「君のおかげでマーラーをようやく理解できるようになった」と言ったのは有名だが、優れた演奏家が互いに触発されて生まれた稀有の名演の記録であり、今なお最高の演奏でもある。

翌年フィッシャー=ディースカウとともに『トリスタンとイゾルデ』を録音した折、セッションが余ったので、それを利用して『さすらう若人の歌』を録音しようと指揮者自ら申し出た。

フルトヴェングラー指揮するフィルハーモニア管弦楽団は、後の時代のより洗練された緻密な響きではないにしても、指揮者のロマン性とマーラーの病的なまでに凝った音楽性を恐ろしいほど反映させている。

フィッシャー=ディースカウはフルトヴェングラーの薫陶を受けた後、この曲を彼の最も得意とするレパートリーに加えて、その後もライヴやセッションでしばしば採り上げ、そうした録音も少なからず残されている。

それぞれに優れた演奏であると同時に、年齢とともに表現の移り変わりも感じられるが、中でも1969年のラファエル・クーベリック指揮、バイエルン放送交響楽団との協演が彼の壮年期の頂点をなすものだろう。

しかしその中にあっても、これは単に若かりし頃のフィッシャー=ディースカウの歴史的名盤の域をはるかに越えた芸術品だし、フルトヴェングラー指揮の管弦楽部の表現と見事に一体化している。

2曲めの『亡き子を偲ぶ歌』は当初からバリトン・ソロとオーケストラを想定して書かれた作品だが『さすらう若人の歌』と同様音域が非常に広く、歌唱技術的にも困難であるばかりでなく、幼い娘を失った父親の内面的な屈折した悲しみという特殊な表現を要求されることからバリトン歌手による録音はそれほど多くない。

ここでのルドルフ・ケンペ指揮、ベルリン・フィルとのセッションは、フィッシャー=ディースカウが極めた精緻な心理描写が面目躍如たる演奏で、この曲の代表盤と言ってもいいだろう。

尚女声で歌われたものとしてはコントラルトのキャスリーン・フェリアーを迎えたブルーノ・ワルター指揮、ウィーン・フィルの1949年盤が質の高い演奏としてお薦めできる。

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2019年06月15日


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ショルティ(1912-97)は20世紀後半のオーケストラ音楽を機能美という点から究め尽くしたマエストロであった。

作品が何であれ、ショルティには鳴り響くべきサウンドの理想というものがあり、それは情緒や詩情の表出以前に、機能美という観点からまず達成されなくてはならなかった。

そのためには最先端のテクニックを持つオーケストラが必要であったが、1969年にショルティはシカゴ交響楽団の音楽監督に就任することで、いよいよ彼の時代を作り出すことができたのである。

バイエルン州立歌劇場、フランクフルト市立歌劇場、ロイヤル・オペラとオペラハウスの音楽監督を歴任してきた背景を持つショルティではあったが、シカゴ交響楽団への就任は思えば、ようやく57歳にして彼が初めて手にしたコンサート・オーケストラのポストであった。

既にウィーン・フィルとの《ニーベルングの指環》をはじめ、ブルックナーやベートーヴェンの名演を聴かせてきていたショルティではあるが、第1弾のデビュー録音をマーラーの《交響曲第5番》としてニューコンビの顔見せを行なった。

それは1970年3月のことで、同時に《交響曲第6番》も録音されたが、この《第5番》こそはマーラー演奏史に新しい時代が来たことを告げるともに、現代のオーケストラが持ち得る機能性、機動力の凄まじさというものを見せつけた画期的事件となった。

マーラーの交響曲とは、なるほどこれほど輝かしく、ドラマティックな刺激と甘美な誘惑に満ち、その破格の表現の振幅に聴き手が鼓舞され、打ちのめされ、狂喜してしまう、そんな世界であったことを初めて教えられたのである。

各セクションの鳴りっぷりの良さも驚異的で、トランペットのハーセス、ホルンのクレヴェンジャー、トロンボーンのフリードマン、テューバのジェイコブスといったアメリカ屈指の名手たちが集まったブラス・セクションの充実ぶりはまさに破格であった。

それが世界の最先端を走っていたデッカの超優秀録音で収録されたのだから、全66分が瞬く間に過ぎ去り、興奮も冷めやらぬうちに再生するというリスニングが続いたものである。

ショルティのシカゴ時代も1991年には終わり、97年には他界、いつしか録音から半世紀もの歳月が経過しようとしているが、この名盤への愛着はますます大きくなるばかりである。

優雅、洗練にはいささかも傾かず、感触は今なおごつごつとして、直線的だが、ショルティはこれでいいのである。

あの鋭い眼で世界をキッと見据えて、俺の音楽はこうだ!と宣言していく演奏、その潔い責任の取り方と情熱の化身となることを怖れなかったショルティの素晴らしさが凝縮しているマーラーである。

マーラー・ルネサンスを告げた歴史的名盤であり、オーケストラの表現力を頂点にまで究めたショルティの至芸が、今回SACD化で望み得る最高音質で蘇る。

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2019年06月09日


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イタリアの名指揮者クラウディオ・アバド(1933-2014)は21世紀に入って大病を患い、生死の狭間をさまよった。

だが、奇跡的復活を遂げ、ベルリン・フィルの音楽監督としての職務も2002年には完全に全うし、晩年はフリーな立場で自身の音楽活動をさらに掘り下げ、その成果を披露していた。

そんなアバドが新たなる意欲と情熱をもって取り組んだのが、スイスのルツェルン祝祭管弦楽団の再編・再生であった。

第2次大戦以前、ヒットラーに追われた音楽家たちを中心にトスカニーニが組織した歴史を持つこのオーケストラは長らく音楽祭の母胎として栄光の歴史を築き上げてきた。

しかし、20世紀半ば以降になると本来の意味を失ってしまった。

アバドはこの歴史的オーケストラを21世紀に生まれ変わらせようと世界の演奏家たちに声をかけたが、なんとベルリン・フィルの首席、元首席奏者はもとより、クラリネットのマイアー、チャロのグードマンら世界的ソリストたちが結集した。

結果的にスーパーワールド・オーケストラとでも言うべき陣容を整えることになった。

2003年8月、マーラーの交響曲第2番《復活》をもってアバドはこのオーケストラの指揮をスタートさせた。

そしてここで鑑賞するマーラーの交響曲集は確かに21世紀を象徴する意味を持つ演奏としてその姿を顕したと言ってよいだろう。

そこには若き日から機会あるごとにこれらの交響曲を採り上げてきたアバドの熟成の歩みが凝縮されると同時に、演奏家がまるで1人の無垢な聴き手となって音楽に奉仕する、そんな新次元の演奏を作り出したように思われてならない。

演奏家が聴き手になってしまったのでは演奏は成立しない。

それは百も承知だが、そうではなく、感動的作品を前にしたときの想いには聴き手も演奏家も区別はないということである。

つまり演奏家も感動する原点に立ち戻って作品の最良の再現に努める、そんな演奏なのである。

「19世紀は作曲家の時代」「20世紀は名演奏家の時代」と仮に考えると、「21世紀は聴き手の時代」ということになろうか。

だがそれは聴き手が主役になるといった意味ではないだろう。

音楽家も含めて、聴き手が本来持つべき作品への無垢な姿勢と謙虚さとを持ちながら作品に立ち向かう時代ということではないか。

アバドの新しいマーラーの交響曲集が与える感動は、演奏家もまた聴き手の精神を持つべき時代が来つつあることを予感させる。

指揮者道を歩み続けてきたアバドが見せ始めた未来の演奏の時代、この演奏から何かが変わっていく予感がする。

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2019年06月06日


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キリル・コンドラシン(1914-1981)が晩年にコンセルトヘボウ管弦楽団と演奏したアムステルダム・ライヴ音源がターラ・レーベルから3枚のCDで個別にリリースされているが、いずれも客席からの咳払いが聞こえる以外録音状態は極めて良好で、音質に恵まれたステレオ録音になる。

このディスクは昨年リマスタリングされジャケットのデザインを一新したリイシュー盤で、1979年11月29日のコンサートからマーラーの交響曲第7番が収録されている。

ライナー・ノーツにはコンドラシンと楽曲についての簡易な日本語による解説が掲載されている。

ちなみにこのシリーズはフランクの交響曲とベルリオーズの劇的交響曲『ロメオとジュリエット』抜粋1枚、シベリウスの交響曲第2番及びシューベルトの劇付随音楽『ロザムンデ』よりの1枚で完結している。

モスクワ生まれのコンドラシンは1978年にオランダに亡命し、コンセルトヘボウ管弦楽団の常任指揮者として西側での目覚しい音楽活動を開始した。

旧ソヴィエト時代から既にショスタコーヴィチの交響曲全集とマーラーの交響曲選集をメロディアにレコーディングしている。

奇しくも彼の最後のコンサートがやはりマーラーの交響曲第1番で、マーラーがコンドラシンにとって極めて重要なレパートリーだったことが証明されている。

第7番は5楽章構成の大曲だが、かろうじて第1楽章が調性の変化が曖昧なソナタ形式の名残りを残している。

第2楽章と第4楽章にナハトムジークの表示がある以外には楽章間の繋がりが稀薄な上に、交響詩のようなストーリー性も欠いているため、凡庸な演奏ではとりとめもない散漫な印象を与えかねない。

コンドラシンは比較的速めのテンポ設定で緊張感を逸することなく、テノール・ホルンやギター、マンドリン、カウベルなど通常のオーケストラでは使われない楽器にも雄弁に語らせる色彩感覚にも優れた手腕を示している。

そこにはダイナミズムの絶妙なバランスも窺わせている。

至るところに現れるヴァイオリン、ウィンド、ブラス及びパーカッション・セクションのソロの部分ではコンセルトヘボウ管弦楽団の首席奏者達の面目躍如で、そのサウンドは決して派手ではないにしても伝統の重みと余裕を感じさせているのは流石だ。

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2019年05月27日


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2011年のマーラー生誕150周年、そして没後100年を記念した限定ボックス・セットで、現存する彼の真作を網羅した18枚のCDで構成されている。

こうした全集物では、その会社と契約しているアーティストしか登場しないために、いきおい演奏者が偏向的になりがちだが、このセットで特徴的なのは総ての交響曲に異なった指揮者とオーケストラを配分して、各曲の代表的な演奏が鑑賞できるという趣向だ。

また今回もグラモフォンだけでなく、傘下のフィリップスやデッカの音源も採用されている。

勿論録音時期も方式も若干違うので、その点では統一性を欠いているのも事実だが、マーラーのようにそれぞれの曲に多彩な個性を与えた作曲家の作品には、むしろこうした八方美人的な企画が功を奏している。

これからマーラーを聴き始める人にとってはコスト・パフォーマンスが高いことも手伝って格好のサンプルになるだろう。

また一部には既に生産中止になっているCDも含まれているので、一家言あるマーラー・ファンにも充分支持されるべき内容だろう。

ちなみにワーナーからリリースされている16枚組のコンプリート・ワークスと比べてみると、演奏者の違いは言うに及ばないが、演奏水準の高さにおいては当セットに勝るとも劣らない内容を持っている。

ただワーナーのほうはどちらかというと歴史的名録音が多く、そのせいで音源も1940年代から70年代のものが中核をなしている。

一方こちらでは一番古いもので1966年のハイティンク、コンセルトヘボウによる第3番で、当然ステレオ録音。

更にはワーナーには欠けているピエール・ブーレーズとシカゴ交響楽団による交響曲第2番の初稿に当たる交響詩『葬礼』、及びウェーバーのオペラ『3人のピント』からマーラーが補完した間奏曲をプレトニョフ指揮のロシア・ナショナル管弦楽団の演奏で聴くことができる。

ワーナーでは歌詞対訳が総てCDに収録されているのに対し、グラモフォンのブックレットには写真と曲目紹介があるだけで、対訳その他は省略されている。

どちらも一長一短あるので、どれを選択するかは鑑賞する方のコンセプト次第ということになるだろう。

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2019年04月10日


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ロシアを代表する巨匠指揮者コンドラシンが1981年に南西ドイツ放送交響楽団を指揮してマーラーの交響曲第6番『悲劇的』を演奏したアルバムは、彼が世を去る2ヶ月ほど前にバーデン=バーデンで行われたライヴの模様を収録したものである。

コンドラシンは旧ソヴィエトのオーケストラとマーラーの第2番及び第8番を除く交響曲集を録音しているが、当時の西側に活動の本拠地を移してからも、機会に応じて頻繁にマーラーを採り上げている。

このディスクは2011年にリリースされたCDのライナー・ノーツの表紙を一新したリイシュー盤で、1981年に制作された放送用音源だったためか、音質では78年のレニングラード・フィルとの録音よりはるかに優っている。

レニングラード・フィル盤も極めて緊張感に満ちた迫真の内容を聴かせていたたが、この南西ドイツ放送交響楽団盤は、前回との比較では、全曲で2分半ほど演奏時間が拡大した結果、細部のより克明な表現が印象的な仕上がりとなっている。

手元にあったハイティンク、コンセルトヘボウ、クーベリック、バイエルン放送交響楽団及びアバド、ベルリン・フィル盤と聴き比べてみたが、コンドラシンが一切の弛緩を許さない、恐るべき緊張感の中に音楽の必然性を感じさせて卓越している。

クーベリックも激情的な演奏だが、オーケストラのやや強引な牽引という印象を否めない。

勿論アバドの極彩色で華麗な音像絵巻のように仕上げた、巨大なスケールのベルリン・フィルの演奏もマーラーの壮大な音楽的構想を映し出していて素晴らしい。

演奏時間をみてもコンドラシンが最も短く、全曲を通して68分ほどだが、第1楽章から立ち上がりの凄まじさを聴かせながら、終楽章は他の指揮者を圧倒して25分と破格に速い。

また多くの指揮者はスケルツォを第3楽章に入れ替えて第4楽章との相乗効果を狙うが、彼はクーベリックと同様に緩徐楽章アンダンテを第3楽章に置いて、フィナーレとの対比を図っている。

アンダンテはマーラー特有の半音階を使った詠嘆調のメロディーが同時期に作曲した『亡き子を偲ぶ歌』の死生観と相通じていることを感知させるが、ここでのコンドラシンは緊張感を保ちながら比較的落ち着いて歌わせている。

この作品のオーケストレーションではシロフォン、銅鑼、ベル、カウベル、ハンマーやスレイベルなどおよそありとあらゆる打楽器を取り入れた多彩なパーカッション群のサウンドも、殆んど狂気と紙一重のマーラーの精神状態を反映していて興味深い。

特に終楽章で波状的に現れる、荒れ狂う疾風怒濤のような曲想では、コンドラシンは南西ドイツ放送交響楽団の機動力をフルに活用して、全く破綻のないクライマックスを築き上げている。

1981年3月7日、コンドラシンは急遽テンシュテットの代役として、アムステルダムのコンセルトヘボウでハンブルク北ドイツ放送交響楽団を指揮し、マーラーの交響曲第1番を演奏したのを最後に、演奏会終了後に心臓発作を起こして帰らぬ人となってしまったが、最後の演奏会のプログラムが他ならぬマーラーであったというのも、この名匠のなんとも象徴的な最期としてあまりに有名だ。

かつては演奏機会も限られていたマーラーの音楽がポスト・スターリン時代になってようやく一般的になり始めたばかりの旧ソビエトで、マーラー受容を牽引する役割を担った第一人者がコンドラシンであった。

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2019年03月01日


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マーラーが生前、自作の最高の指揮者と認めていたのは愛弟子のワルターではなく、メンゲルベルクであった。

メンゲルベルクもまたマーラー作品の熱烈な支持者であり、擁護者、推進者であることを誇りに思うという相思相愛の仲だった。

メンゲルベルクはマーラーの、マーラーもまたメンゲルベルクの自作の演奏を誰よりも高く評価していた。

そのためこの録音は、異端視されるメンゲルベルクの録音の中では比較的多く聴かれている。

しかしメンゲルベルクのマーラーは極めて少なく、この交響曲第4番の他には第5番のアダージェットと、当録音と同日の「さすらう若人の歌」があるのみ。

第4番のアムステルダム初演はマーラー指揮コンセルトヘボウ管弦楽団で、1905年2月にはメンゲルベルク指揮の同楽団がハーグ初演を行った。

演奏は巧緻を極め、委曲を尽くした解釈であり、マーラーのロマンと感傷のすべてを音にしており、歴史的にも貴重な文献というべきだろう。

愛弟子ワルター以上にマーラーの高い評価を得た彼のマーラーの曲で、見事なテンポ・ルバートにまかせて、とりわけ情緒的な誇張はしていないのだが、その情緒を実に幻想豊かに生き生きとしたものにしている。

マーラーの表情の細かな変化は見れば見るほどうるさくなるような多様な変化をしているのだが、それを驚くほど微細に厳格にとらえていろいろ工夫しながらマーラーの求めた効果を出そうと努力している。

弟子であるというだけで、時にはとんでもないイモ演奏までも祭りあげられてしまう傾向は考えものだが、少なくともこの演奏は最高に面白い。

多分、マーラー自身もここまで大胆にはやっていないのではないかと思わせるほど、緩急自在、他に類のない濃密で個性的な音楽がつくられていく。

それはロマン的表現の極致であるが、マーラーは、メンゲルベルクの解釈を尊重していた。

それは作曲者の指示を存分に生かして表現的な音楽を作り出そうとしていたためである。

もっとも極端になると限度を越えているという印象をもつ人もあろう。

ところがそれが芝居とわかっていながら、そのなかに真実味を発見させ、結局は観衆を巻き込んでしまう名優に似て、メンゲルベルクの音楽は、その一種の毒が魅力的である。

冒頭からのけぞるような強烈なリタルダンドで始まるが、その後も大小さまざまにテンポを変え、それに弦楽器のポルタメントも加わり、むせるようにロマンが展開される。

その固い友情が、一夜にマーラーとメンゲルベルクの棒で第4交響曲を2度演奏する、などという前代未聞の演奏会を開かせたのである。

あのマーラー作品を指揮したメンゲルベルクによる交響曲の録音が「第5」のアダージェットを除き「第4」ひとつだけに終わったことは、返すがえすも残念なことである。

ナチスの台頭さえなければ、1940年代も記録がのこされていただろうにと思うとなおさらに。

しかし、この1曲だけでも、メンゲルベルクのマーラーの凄さは分かる。

コンセルトヘボウ管弦楽団のアンサンブルの強力さは、何より聖と俗がない交ぜになった音響がマーラーの本質とぴたりと重なる。

徹底した訓練によって様式美にまで究められた表現、ポルタメントやテンポルバートの1つひとつに真実が宿っていて、まるで工芸品のように美しいマーラーがここにある。

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2018年07月28日


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戦後フルトヴェングラーが楽壇に復帰した後の1949年から54年にかけてウィーン・フィルとの共演7曲とフィッシャー=ディースカウ、フィルハーモニア管弦楽団によるマーラーの『さすらう若人の歌』及び同フィルハーモニアとのワーグナー『トリスタンとイゾルデ』第3幕への前奏曲の9曲をリマスタリングしたSACD盤で、音質は録音年やライヴ、セッションによってある程度の差があることは事実だが概ね良好だ。

またグルックの『アルチェステ』序曲を始めとして殆んどの曲目に擬似ステレオ音源が使われている。

プラガではリニューアルの時に積極的にEMIの擬似ステレオ音源を採用しているが幸い音場の広がりはそれほど不自然ではなく、あざとくない程度の臨場感のアップにも繋がるので、ひとつの可能性として評価できるだろう。

今回初SACD化されたラヴェルの『スペイン狂詩曲』も擬似ステレオ音源だが、1951年のライヴとしてはかなり鮮明な音質が再生される。

演奏はフルトヴェングラーらしくデカダンス的な雰囲気が横溢していて、これはこれで面白いが古典主義的な傾向を持ったラヴェルの表現としては意見が分かれるところかも知れない。

マーラーの『さすらう若人の歌』に関しては、1951年8月のザルツブルグでのフィッシャー=ディースカウ、フルトヴェングラーの出会いが縁となってつくり出された歴史的名演だ。

マーラー、ディースカウ、フルトヴェングラーの三者が渾然一体となって稀有の一刻をつくり上げている。

戦後のフルトヴェングラーのマーラーはこの曲と『亡き子をしのぶ歌』の2曲のみで、録音は『さすらう若人の歌』のみ3種類残されている。

筆者としては、このセッションの1年前、1951年のウィーン・フィルとのザルツブルク・ライヴを選んで欲しかった。

音質では劣っているがロマン派爛熟期特有の世紀末的な唯美主義や背徳までも感知させる得難い演奏だからだ。

尚このライヴは昨年UHQCD盤で復活している。

こちらのフィルハーモニアとのセッションはより精緻で音質にも恵まれているが、音楽的には前者の方が濃密だ。

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2018年04月07日


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アバドは1970年代後半から、ウィーン・フィルやシカゴ響とマーラーに取り組み、ベルリン・フィルの首席指揮者となってからは、同オーケストラもまじえて録音を行ない、1995年にはそれらをまとめてアバドとしては初めてのマーラー交響曲全集を完成した。

この中で突出した出来を示していたのはやはりベルリン・フィルとの演奏(第1、第5、第8番)であっただけに、同楽団のみの全集の完成が切に望まれた。

その後、第3、4、6、7、9番についてはベルリン・フィルとのライヴ盤がリリースされ、それらにルツェルン祝祭管との第2番が加わってアバドの新全集が完結することになった。

作品が持つ世界に過度にのめり込むことなく、スコアをありのままに表現するアバドのアプローチは不変で、しかも、音楽が持つエネルギーはいささかも減じることはなく、マーラーの演奏史に新たな1ページを刻んだ全集と言える。

ワルターらの第一世代、バーンスタインらの第二世代に次ぐ、マーラーが広く国際化された時代である第三世代の名演奏としてマーラー演奏史に残る金字塔だ。

アバドは、マーラーの音楽の各部分を緻密に克明に再現し、歌が中断し分断されるマーラーの音楽の構造が抜群の音楽性をともなって見通しよく示される。

こうした点に、部分をつないで歌をわかりやすく全うしようとする前世代のマーラー演奏とは異なるアバドの特質が聴き取れるが、さらにアバドの場合、個々に分断されて自立し、並列する部分をひとつひとつの歌の可能性を追求して、その微細なパッセージを可能とあらば気合いを込めて歌い込む。

バーンスタインに代表される感情を表だてた演奏とはまた異なる魅力があり、アバドがスコアに率直に対峙した結果をそのまま音化したような演奏が非常に新鮮だ。

鋭いリズムとしなやかなカンタービレに鋭敏に反応するベルリン・フィルの筋肉質な響きも素晴らしく、ストイックとも言える姿勢を貫いた演奏は強い説得力を持っている。

アバドにはベートーヴェンやシューベルトの全集もあるが、何よりもマーラーの交響曲で彼の美学がいちばん貫徹しやすかったのだろう。

彼のそれの基本はさまざまな色合いの縦糸と横糸の精妙な織りなしにある。

絹のような艶っぽさと光沢感、手ざわりのなめらかさなど、どこをとっても繊細で緻密、スケール感にも欠けず、コラージュ風の構成のマーラーの交響曲にはぴったり。

クールに見通す強靭な構成力と過不足のない知的な表現力がバランスよく保たれた、まったくモダンなマーラーとなっており、むろんベルリン・フィルの信じられないくらいのクォリティの高さも魅力のひとつだ。

マーラーの交響曲から連想されるロマン的な情感を求めると物足りなさをおぼえるだろうが、新ウィーン楽派の先駆者だったことを強く印象づけるし、辛口ではあるが前向きの作曲家だったことがわかる演奏でもある。

そしてここで聴けるマーラーは確かに21世紀を象徴する意味を持つ演奏としてその姿を顕したと言ってよいだろう。

そこには若き日から機会あるごとにこれらの交響曲を採り上げてきたアバドの熟成の歩みが凝縮されると同時に、演奏家がまるで1人の無垢な聴き手となって音楽に奉仕する、そんな新次元の演奏を作り出したように思われてならない。

演奏家が聴き手になってしまったのでは演奏は成立しない、それは百も承知だが、そうではなく、感動的作品を前にしたときの想いには聴き手も演奏家も区別はないということである。

つまり演奏家も感動する原点に立ち戻って作品の最良の再現に努める、そんな演奏なのであり、アバドのマーラーの魅力と特質と現代性はここにある。

「19世紀は作曲家の時代」「20世紀は名演奏家の時代」と仮に考えると、「21世紀は聴き手の時代」ということになろうか。

だがそれは聴き手が主役になるといった意味ではなく、音楽家も含めて、聴き手が本来持つべき作品への無垢な姿勢と謙虚さとを持ちながら作品に立ち向かう時代ということではないか。

アバドのマーラー新全集が与える感動は、演奏家もまた聴き手的精神を持つべき時代が来つつあることを予感させる。

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2017年02月20日


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小澤征爾&ボストン交響楽団が1980〜1993年、13年をかけて完成したマーラー交響曲全集で、両者の厚い信頼関係が成し遂げた金字塔と言えるBOXだ。

そして、この録音が数多くの演奏の中でもひときわ優れ、独自の音楽的な地位を保っていることは誰もが認めるところである。

1980年代と言えば小澤の評価が世界的に急上昇し、ついには1990年代の頂点に至る過程でもあったが、その原動力として、この全集が果たした役割は大きい。

当時の小澤は世界的な巨匠という責任と期待の前に立って、最終的なジレンマにあったのではないか。

それは、結局音楽における内面性、精神性と言われてきた奥義のようなものを異文化から来た人間がどう獲得するかという問題になり、これは小澤が独自のスタイルを保ちながら、しかもどれだけ燃焼度を高く確保していけるかという問題でもあった。

そういう意味において、小澤のマーラー録音の展開を追っていけたことは、また文化史的に極めてスリリングな体験と言うべきであったのかも知れない。

小澤はマーラーの「第9」を、ボストン交響楽団の音楽監督としての最後の演奏会で取り上げたほどであり、マーラーのスペシャリストとしての呼び声も高い。

小澤のマーラー演奏は東洋的諦念観の理解に裏打ちされていると特徴付けられるが、作曲者と完全に一体化した師バーンスタインの情緒的スタンスから一歩踏み出したオリジナルの強さがここにはある。

ポスト・バーンスタイン=ユダヤ的身振りを模索する客観的でセンシティヴなマーラー像、すなわちバーンスタインのマーラー以後、一体どんなマーラーがあり得るのか、その小澤なりの回答、なのであろう。

小澤のアプローチは全体を通していわゆる純音楽的なものであるが、マーラーの荘重な世界を、熱い魂がほとばしるような演奏で表現している。

小澤のマーラーには、こってりとした民族的な味付けや濃厚な感情移入は感じられず、むしろ絶対音楽として客観視された主旨で統一されている。

バーンスタインやテンシュテットの劇的で主観的なアプローチとはあらゆる意味において対照的であるが、だからと言って物足りなさは皆無。

明晰な響きと自在なリズム、カンタービレのしなやかな美しさ…しかし、何といっても小澤の音楽には絶対的な優しさがあり、この美質が小澤のマーラーを価値あるものにしている要因なのだろう。

バーンスタインほどオケを振り回さず、しかし客観的になりすぎず、音を丁寧に積み重ねながらぐいぐいと聴く者を引き込んでゆく。

一方、小澤のマーラーは非常にセンシティヴな響きを持っており、フランスの印象派や、武満やメシアンを思い出させるような、あるいは小澤があるエッセイでマーラーと比較していたアイヴスも連想させるような繊細さを感じさせる。

このように小澤のマーラー観とは、外部からくる様々な感覚を綜合した、ある種アール・ヌーヴォー的な作曲家というところにあり、そのアプローチは主観主義的であるよりもむしろ客観的・知的・純音楽的である。

また小澤独自のリズムの切れの良さと旋律の歌わせ方の明快さもよく出ており、そういう特質が最も良く生かされているのが、小澤向きの「第8」や「第2」「第1」だろう。

小澤の、楽曲の深みに切り込んでいこうとする鋭角的な指揮ぶりが、演奏に緊張感といい意味でのメリハリを加味することに繋がり、切れば血が出るような熱き魂が込められた入魂の仕上がりとなっている。

録音も優秀で、ボストン交響楽団の洗練された弦や木管、輝かしいブラスを、フィリップス・クオリティのサウンドで堪能できる高水準でシンフォニックな全集である。

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2017年02月18日


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ドイツの長老指揮者ミヒャエル・ギーレン(Michael Gielen 1927-)が、1988年から2003年にかけて、南西ドイツ放送響と録音したモダニズムに徹した鋭利な知の切れ味を堪能させる新解釈の高品質かつ均質性の高いマーラー(Gustav Mahler 1860-1911)の交響曲全集。

交響曲第10番は第1楽章のみ(2005年にクック版の全曲を録音、別売)で、「大地の歌」は含まれない(1992年に第1,3,5楽章、2002年に第2,4,6楽章を録音したが、当アイテムには含まれなかった)。

ギーレンのマーラー演奏は、細部まで見通しのよい堅牢な造形、緊密に練り上げられたテクスチュア構築など膨大な情報処理に秀でている点が特徴的で、素材間の緊張関係や声部の重なり合いの面白さには実に見事なものがある。

オーケストラの楽器配置が第2ヴァイオリン右側の両翼型である点も見逃せない重要なポイントで、マーラーが意図したであろうパースペクティヴの中に各素材が配されることによって生ずる響きや動きの妙味に説得力があり、多用される対位法や、素材引用への聴き手の関心が無理なく高められるのも嬉しいところだ。

どの交響曲も、指揮者のスタイルをしっかりと投影し、解析的で、情緒を抑制しながらも、自然で音楽的な起伏に満たされている。

この全集は、特にマーラーの音楽に存在する構造的な秘密を解明し、そこから導かれる「力」の存在に意識的でありたいと思う聴き手には、絶好のものだ。

ギーレンは、明らかにこれらのマーラーの音楽から、「情」ではなく、「知」に働きかけるものに焦点を当てている。

明瞭にされる声部、音型の変換、構造上の楽器の役割、そういったものを厳密に定義付け、細部を突き詰めることにより、音像を作り上げ、音楽を構築していく、建築学的な音楽と言っても良い。

しかし、音色は決して冷たくはなく、むしろ不思議な暖かさを宿し、的確な起伏により、新鮮な高揚感を得て、鮮烈な興奮を聴き手に与えてくれる。

ごく簡単に、筆者が当演奏から受けた印象を、各曲ごとにまとめると、以下の様な感じになる。

第1番;1つ1つの楽器の明朗な響きと、そして、濁りのない合奏音によって、瑞々しく描かれている。

第2番;細かいモチーフを繋いだダイナミクスへの動線、さらに休符の意味まで厳密に突き詰めた演奏。この曲の劇場的な一面と一線を画している。第5楽章の冷静極まりない進行から、前半部の巨大なコラール、そして合唱を交え、コーダに向かう一連の流れは非常に美しく、ルネサンス・ポリフォニーを聴いているかのよう。

第3番;アダージョまで徹底したインテンポの表現で、鋭く線的に描かれたシャープなスタイル。シャイーに近いが、ギーレンの方がやや即物的な味わい。

第4番;厳密性がややシニカルな味わいを見せる。天国の音楽と言うより、瞬間瞬間の音色を追求。

第5番;引き締まったテンポで、クールに徹したモダニズムの極致的美演。動物のように激しく叫び、のた打ち回るだけが主張なのではないことを教えてくれる。

第6番;全体の中では古典的なアプローチ。だが新ウィーン楽派に連なる表現主義的な面をよく伝える。

第7番;従来のロマンティックな解釈とは完全に一線を画した演奏。第4楽章の各モチーフの扱いに卓越した冴えを見せる。

第8番;オペラ的なショルティとは対極をなす名演。テクスチャーの織り込みが細かく、驚かされる。終幕近くのソプラノがマジカルな効果を放つ。

第9番;オーケストラの技術を駆使した演奏。この曲の場合その成果が暖かみではなく、不安や恐怖の感情へと誘導されるのを感じる。独奏ヴァイオリンの深いニュアンス。

第10番;第9番に近いがより暗黒的、虚無的なものを意識させる。

以上、当然の事ながら、それぞれの感想がその曲固有のものというわけでなく、全集を通じて重複するものもあるが、筆者の素直な感想を曲毎に書くと、このようになる。

ギーレンは、テンシュテット(Klaus Tennstedt 1926-1998)のように、音の1つ1つの表現力は強いわけではなく、シャープで、冷酷なまでに素っ気ないが、ただ、その素っ気ない音が同時に鳴らされたとき、その組み合わせ方がドラマティックで、ロマンティックで、エロティックなのだ。

マーラーの音楽の多面性を見事にあぶり出した稀代の名演、名全集で、情感、知性、さらに哲学と、マーラーの音楽を深く追求した実にずっしりと重みのある全集に仕上がっている。

いずれにしても、現代最高のマーラー指揮者による素晴らしい全集だと思うので、是非推奨したいが、ギーレンのマーラー・シリーズは、単品で揃えると、併録してある楽曲がなかなか興味深いので、経済的に余裕のある人は、そちらの方がいいかもしれない。

バーンスタイン(Leonard Bernstein 1918-1990)やショルティ(Georg Solti 1912-1997)とは大いに聴き味を異にするマーラーではあるが、彼らの演奏を支持する人であっても、もっと多層的で新たな感興を呼び覚ましてくれるギーレンのマーラーだと思うので、広く推薦したい。

すぐれた演奏は本当の自分を映し出す鏡となるが、この演奏は鏡にふさわしく、よく磨かれているはずだ。

また、録音状態も自然な質感をもった優秀なもので、ヘンスラー・レーベルで行われた録音だけでなく、第4番、第7番、第10番アダージョというINTERCORD時代にリリースされていた音源まで大幅な音質改善が図られているのも良心的である。

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2016年04月29日


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極限の美を追求した、カラヤンならではの磨き抜かれた壮絶な演奏を体感できる1973年録音盤。

広範なレパートリーを誇るとともに、余人を寄せ付けないような膨大な録音を遺したカラヤンであったが、マーラーの交響曲については、必ずしも主要なレパートリーとしては位置づけていなかったようだ。

カラヤンが録音したマーラーの交響曲は、第4番、第5番、第6番、第9番、そして『大地の歌』の5曲のみであり、これに少数の歌曲が加わるのみである。

同時代の大作曲家であるブルックナーの交響曲全集を録音した指揮者にしてはあまりにも少ないし、むしろ、クラシック音楽ファンの中には、カラヤンの指揮するマーラーの交響曲全集を聴きたかったと思っているリスナーも多いのではないだろうか。

そうした比較的数少ないカラヤンの録音したマーラーの交響曲の中で、先般、第6番のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化が行われる運びとなった。

筆者としては、第9番の1982年のライヴ録音のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を期待したいところであるが、いずれにしても、カラヤンの芸風が色濃く表れた稀少なマーラーの交響曲演奏の1つがSACD化されたことについて、大いに喜びたいと考える。

本盤に収められたマーラーの交響曲第5番は、全盛期のカラヤンとベルリン・フィルの徹底的に磨き抜かれた、甘美で艶やかな美音の洪水が聴き手を圧倒するが、起伏も豊かで、隅々にまで配慮が行き届いていて実に見事である。

同曲の名演としては、バーンスタイン&ウィーン・フィルによるライヴ録音(1987年)やテンシュテット&ロンドン・フィルによるライヴ録音(1988年)などが、ドラマティックな超名演として第一に掲げるべきであろうが、本盤のカラヤンによる演奏は、それらの演奏とは一線を画する性格を有している。

クラシック音楽史上最大のレコーディング・アーティストであったカラヤンによる本演奏は、それらのドラマティックな名演とはあらゆる意味で対極にある演奏であり、ここには前述のような人間のドラマはいささかもなく、純音楽的な絶対美だけが存在している。

しかしながら、その圧倒的な究極の音のドラマは、他の指揮者が束になっても構築不可能であるだけでなく、バーンスタイン盤などの名演との優劣は容易にはつけられないものと考える。

何よりも、当時蜜月の関係にあったカラヤン&ベルリン・フィルが、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な名演奏を展開しているのが素晴らしい。

うなりをあげるような低弦の迫力、雷鳴のように轟きわたるティンパニ、ブリリアントに響き渡るブラスセクションなど、凄まじいまでの迫力を誇っている。

一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルは、もはや人間業とは思えないような凄さであり、加えて、カラヤンならではの流麗なレガートが演奏全体に艶やかとも言うべき独特の美しさを付加させているのを忘れてはならない。

もちろん、そうした美しさが、前述のバーンスタインやテンシュテットなどの名演にあった強靭な迫力をいささか弱めてしまっているというきらいもないわけではないが、他方、第4楽章における徹底して磨き抜かれた耽美的とも言うべき極上の美しさには抗し難い魅力が満ち溢れている。

この「アダージェット」で、カラヤンは、テンポを極端に落とし、官能的とすら言えるほどの艶やかな歌を聴かせてくれる。

我々聴き手の肺腑を打つ演奏と言えば、前述のバーンスタインやテンシュテットなどの名演を掲げるべきであろうが、聴き終えた後の充足感においては、本演奏もいささかも引けを取っていない。

筆者としては、全盛期のカラヤン&ベルリン・フィルならではの磨き抜かれた美しさの極みとも言うべき素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

マーラーの抱えていたペシミズムやニヒリズムなどは一顧だにせず、あくまで自分の流儀をやり通したカラヤンは流石である。

本演奏については、数年前に他の交響曲とのセットでSHM−CD化が図られたが、音質の抜本的な改善は図られなかったと言える。

カラヤン&ベルリン・フィルによる極上の美酒とも言うべき究極の名演であり、可能であれば、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望みたいと考える。

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2016年01月01日


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マーラーの理解にはロマン主義者であるとともに現代人であるという二元性が必要なのだが、クーベリックの演奏はその二元性をうまく釣り合わせている。

各部が精密で動きの明快な「復活」、複雑な音構成の処理の鮮やかな「第3」、旋律に左右されずに抑制した表現の「第4」、「第8」の構成力、「第9」の個々の楽章の多彩な表現などにクーベリックの特徴が出ている。

バーンスタインが作曲者とともに大声で泣いたり笑ったりするとき、クーベリックはマーラーとともにその苦しみに耐えるタイプである。

これほど、マーラーの傷つきやすい心に同調し、その悲しみをさらに掘り下げるような演奏も珍しい。

だから、メルヘンのような曲調の「第4」にもどこかに影が付きまとうし、「第6」のアンダンテも、恋をする甘美さよりも切なさや胸苦しさの方に重心が置かれてしまう。

クーベリックがどんなに微笑もうとも、その内面にある大きな傷を隠すことはできない。

まして、死を意識した「第9」「第10」になると、その同調の仕方は半端でなく、聴いている我々まで苦しくなってしまうほどだ。

「一緒に苦しむなんて御免こうむる」という理由から、筆者は長年、この全集を我が身から遠ざけてきた。

しかし、作曲者や演奏家の苦しみに真正面から向き合うことも、人生には必要なことかも知れない。

一緒に大泣きすれば気持ちはサッパリするけれど、5分後には何も残っていないということもあり得る。

しかし、長時間苦しみを共にすれば、その分簡単に心から消えることはない。

その苦しみの体験が、他人への思いやりに転じたり、来るべき苦しみのための心の準備となることだってあるだろう。

近年、独アウディーテよりクーベリックのライヴが多数発売になり、「クーベリックの本領はライヴにあり」という声をよく耳にするようになった。

確かに、そのうちのいくつかは、スタジオ盤を凌駕する出来映えであるが、だからといって、この優れた全集の価値が消えるものではない。

当全集の良いところは、全10曲が短期間(1967〜1971年)に集中的に録音されているため、演奏スタイルに全集としての統一感があることだ。

「第6」「第7」などは、その求道的な姿勢がライヴ以上に曲想にマッチしているし、ライヴで発売されていない「第4」も、低音をしっかり弾かせるゴツゴツとした音づくりがとても新鮮に響く。

ソプラノ独唱が冴えないのが惜しまれるが、コンサートマスターであるケッケルトのヴァイオリン独奏が胸に染みる名演。

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2015年10月24日


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ブーレーズが15年の長きにわたって録音したマーラーの集大成BOXであるが、ブーレーズのマーラーは、若き日の前衛時代ではなく、むしろ角の取れたソフト路線が顕著となった時期の録音だけに、純音楽的なアプローチでありながら、比較的常識的な演奏に仕上がっていることが多いように思う。

それゆえ演奏は、あらゆる意味でバーンスタインやテンシュテットなどによる濃厚でドラマティックな演奏とは対極にある純音楽的なものと言えるだろう。

ブーレーズは、特に1970年代までは、聴き手の度肝を抜くような前衛的なアプローチによる怪演を行っていた。

ところが、1990年代にも入ってDGに様々な演奏を録音するようになった頃にはすっかりと好々爺になり、かつての前衛的なアプローチは影を潜め、オーソドックスな演奏を行うようになった。

もっとも、これは表面上のことで、必ずしもノーマルな演奏をするようになったわけではなく、そこはブーレーズであり、むしろスコアを徹底的に分析し、スコアに記されたすべての音符を完璧に音化するように腐心しているようにさえ感じられるようになった。

楽曲のスコアに対する追求の度合いは以前よりも一層鋭さを増しているようにも感じられるところであり、マーラーの交響曲の一連の録音においても、その鋭いスコアリーディングは健在である。

本演奏においても、そうした鋭いスコアリーディングの下、曲想を細部に至るまで徹底して精緻に描き出しており、他の演奏では殆ど聴き取ることが困難な旋律や音型を聴くことができるのも、本演奏の大きな特徴であり、ブーレーズによるマーラー演奏の魅力の1つと言えるだろう。

もちろん、スコアの音符の背後にあるものまでを徹底的に追求した上での演奏であることから単にスコアの音符のうわべだけを音化しただけの薄味の演奏にはいささかも陥っておらず、常に内容の濃さ、音楽性の豊かさを感じさせてくれるのが、近年のブーレーズの演奏の素晴らしさと言えるだろう。

本演奏においても、そうした近年のブーレーズのアプローチに沿ったものとなっており、マーラーのスコアを明晰に紐解き、すべての楽想を明瞭に浮かび上がらせるようにつとめているように感じられる。

もっとも、あたかもレントゲンでマーラーの交響曲を撮影するような趣きも感じられるところであり、マーラーの音楽特有のパッションの爆発などは極力抑制するなど、きわめて知的な演奏との印象も受ける。

黙っていても大編成のスコア1音1音に、目に見えてくるような透徹さが保たれている。

なおかつそれら各部が有機的に結合されつつ前進していくため、感情移入的演奏を耳にすると初心者には雑多に聴こえてしまいがちなマーラーの濃厚なロマンティシズムが、知らず知らずのうちにすっと聴く者に入ってくるのだ。

さらに、ブーレーズの楽曲への徹底した分析は、マーラーの本質である死への恐怖や生への妄執と憧憬にまで及んでおり、演奏の表層においてはスコアの忠実な音化であっても、その各音型の中に、楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような奥行きの深さを感じることが可能である。

これは、ブーレーズが晩年に至って漸く可能となった円熟の至芸とも言えるだろう。

いずれにしても本演奏は、バーンスタインやテンシュテットとあらゆる意味で対極にあるとともに、一切の耽美的な要素を拭い去った、徹底して純音楽的に特化された名演と評価したい。

もっとも、徹底して精緻な演奏であっても、例えばショルティのような無慈悲な演奏にはいささかも陥っておらず、どこをとっても音楽性の豊かさ、情感の豊かさを失っていないのも、ブーレーズによるマーラー演奏の素晴らしさであると考える。

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2015年09月27日


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テンシュテットによる最大の遺産は、何と言っても1977年から1986年にかけてスタジオ録音されたマーラーの交響曲全集ということになるのではないだろうか。

テンシュテットは、当該全集の掉尾を飾る「第8」の録音の前年に咽頭がんを患い、その後は放射線治療を続けつつ体調がいい時だけ指揮をするという絶望的な状況に追い込まれた。

それとともに近年様々なライヴ録音が発掘されることによってその実力が再評価されつつあるテンシュテットであるが、ここにテンシュテットの一連のマーラーのライヴ録音がまとまった形で集成されたことは、ファンには朗報に違いない。

テンシュテットのマーラーの交響曲へのアプローチはドラマティックの極みとも言うべき劇的なものだ。

マーラーの交響曲は非常に懐が深く、演奏者によって非常に個性豊かな様々な表情を見せるが、この集成はその中でも迫力にかけては1、2を争うものではないだろうか。

ことにテンシュテットはマーラーのライヴにおいては、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使して、大胆極まりない劇的な表現を施している。

かかる劇的な表現においては、かのバーンスタインと類似している点も無きにしも非ずであり、マーラーの交響曲の本質である死への恐怖や闘い、それと対置する生への妄執や憧憬を完璧に音化し得たのは、バーンスタインとテンシュテットであったと言えるのかもしれない。

ただ、バーンスタインの演奏があたかもマーラーの化身と化したようなヒューマニティ溢れる熱き心で全体が満たされている(したがって、聴き手によってはバーンスタインの体臭が気になるという者もいるのかもしれない)に対して、テンシュテットの演奏は、あくまでも作品を客観的に見つめる視点を失なわず、全体の造型がいささかも弛緩することがないと言えるのではないだろうか。

非常に熱の入った激情型の演奏ではあるが、バーンスタインのように没入し切ったような感じではなく、構成感もしっかりしている。

テンシュテットのマーラーは抒情性が豊かで、旋律の歌いまわしも美しく、何よりマーラー独特のダークなテンペラメントが顕著に表現されていて、個性的なマーラー演奏になっている。

マーラーの音楽の持つ不安定さ、壊れやすさ、デリカシーが理想的に尊重され丁寧に扱われている。

もちろん、それでいてスケールの雄大さを失っていないことは言うまでもないところだ。

このあたりは、テンシュテットの芸風の根底には、ドイツ人指揮者としての造型を重んじる演奏様式が息づいていると言えるのかもしれない。

また、テンシュテットのマーラーは、ライヴ録音だけ聴くと爆演指揮者のように思われるが、その実テンシュテットの取り組み方はかなり慎重で周到な準備を重ねた手堅い曲作りになっているのは見逃せない。

いずれにしても、本セットに収められた演奏はいずれも圧倒的な超名演であり、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な凄みのある迫力を湛えていると評価したい。

オーケストラはいずれも必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルであるが、テンシュテットのドラマティックな指揮に必死に喰らいつき、テンシュテットとともに持ち得る実力を全面的に発揮させた渾身の演奏を繰り広げていると言えるところであり、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

マーラーの交響曲のライヴ録音はあまた存在しており、その中ではバーンスタインによる3つのオーケストラを振り分けた最後の全集が随一の名演奏と言えるが、聴き手に深い感動を与えるという意味において当該バーンスタインの超名演に肉薄し得るのは、本セットに収められたテンシュテットによるライヴ録音の集成であると考える。

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2015年09月20日


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ラトル若き日の一大記念碑だ。

このマーラー全集を語る前に指揮者サイモン・ラトルについて一度おさらいしておきたい。

1955年にリヴァプールで生まれたサイモン・ラトルはイギリスを、というより現在のクラシック音楽界を代表する名指揮者と見なされている。

2002年からはベルリン・フィルの芸術監督に就任した。

ラトルはさまざまな意味でカラヤンのうちに先鋭化されたクラシック音楽の商業化に抗っているように見える。

たとえば彼はローカル楽団に過ぎなかったバーミンガム市交響楽団を鍛え上げて、世界級の名声を得た。

むろん、彼のもとにはさまざまな有名オーケストラから常任指揮者や監督にならないかという誘いがあったという。

しかし、彼はそうしたスピーディかつイージーなスターへの道をとりあえず拒むポーズを見せた。

それが、見かけだけの音楽家にうんざりした人たちの圧倒的な支持を受け、結局はベルリン・フィルの芸術監督という黄金の椅子を獲得するに至ったのである。

アーノンクールはカラヤン主義と対決するために挑発的にならざるを得なかったが、ラトルは特に挑発的にならずにすんでいるところに、時代の推移が見て取れる。

ラトルはひとことで言うなら、超弩級の優等生である。

勉強家でもあり、バロックから現代作品まで、他の指揮者が興味を示さない音楽にも積極的で、おまけに、音楽界の風向きを読む賢さも持っている。

もともと頭がよくて能力のある人が人一倍勤勉なのだから、なかなか他の指揮者は太刀打ちできない。

たとえば、彼が1986年、つまり、わずか30歳とちょっとのときに録音したマーラーの交響曲第2番「復活」(バーミンガム市交響楽団)が本セットに収められている。

これは今聴いても、非常に完成度の高い演奏で、ラトルは、驚くべき丁寧さで音楽を進めていく。

曖昧な点を残すのは我慢がならないといった様子で、細部を詰めていくのだ。

カルロス・クライバーのデビュー録音「魔弾の射手」は、まさに天才的としか言いようがないものだったが、ラトルのこれは超秀才と呼ぶのがふさわしい。

しかも丁寧だけでなく、ちょっと普通でないというか、人工的というか、妙に耽美的な部分もある。

ラトルは、特にマーラーを指揮したとき、部分的に非常に遅いテンポを取ることがあるのだが、それがバーンスタインのように心を込めるといったものではなく、作りものめいた耽美性を示すのがおもしろい。

ラトルにとってマーラーは常に最も重要なレパートリーである。

彼のマーラー演奏は「復活」にもよく表れているようにきわめて明快で、見通しのよい響きがする。

そして、音のひとつひとつが演劇的な表現性をもって、つまり心理的なダイナミズムの表現として聞こえてくることはあまりなく、逆に、ラヴェル的とでも言えるほど、意味を剥ぎ取られている。

だから、たとえば交響曲第7番をテンシュテットと比べてみるとよくわかるが、皮肉の色合いはまったく薄く、陰影もあまりない。

それゆえ、音楽にドラマを求める聴き手にとってはあまりに薄味にすぎようが、音楽とは音という絵の具を使った抽象画であると考える人には、実に魅力的だろう。

響きがよく練り上げられ、調和した、洗練された音楽であり、不安なおののきや危険な誘惑はまったくなく、健康的である。

筆者の正直な感想を記すなら、ラトル流はもちろんひとつの解釈あるいは演奏法として、存在してよいと思うし、立派な水準に達しているが、それだけで捉えきれないものがマーラーにはある。

バーンスタインやテンシュテットの強烈で、毒があって、自分の人生を問うているような、そして聴き手である自分の人生も問うているような圧倒的な演奏を知っているがゆえに、不満が消え去らない。

ここまで調和してしまうと、音楽がきれいごとになってしまっていると感じてしまう。

とはいえ、彼のマーラー全集は、現代において聴くことができる最高のマーラーのひとつであることは認めねばならない。

本全集でラトルはバーミンガム市交響楽団を軸に、「第5」「第10」ではベルリン・フィル、「第9」ではウィーン・フィルを起用しているが、目下のところ、バーミンガム市交響楽団との録音のほうが聴く価値があると思う。

さすがの超秀才も、これらの録音当時はベルリン・フィル、ウィーン・フィルのようなくせ者オーケストラを自由自在に操るまでには至っていないからだ。

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2015年09月15日


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凄い超名演だ。

これほどまでに心を揺さぶられる演奏についてレビューを書くのはなかなかに困難を伴うが、とりあえず思うところを書き連ねることとしたい。

いずれにしても、廃盤になっていたテンシュテット&ロンドン・フィルの1991年におけるマーラーの交響曲第6番のライヴ録音が再発されたのは、まだこの演奏を聴いていないクラシック音楽ファンにとって大朗報とも言えるところだ。

テンシュテットと言えば、何と言ってもマーラーの交響曲の様々な名演が念頭に浮かぶが、マーラーの数ある交響曲の中でもとりわけ第6番を得意としており、複数の録音を遺している。

最初の録音は、交響曲全集の一環としてスタジオ録音された演奏(1983年)、次いでライヴ録音された演奏(1983年)、そしてその8年後にライヴ録音された本盤の演奏(1991年)の3種が存在しており、オーケストラはいずれも手兵ロンドン・フィルである。

いずれ劣らぬ名演ではあるが、随一の名演は1991年の演奏であることは論を待たないところだ。

というのも、テンシュテットは1985年に咽頭がんを患い、その後は放射線治療を続けつつ体調がいい時だけ指揮をするという絶望的な状況に追い込まれたからである。

したがって、1991年の演奏には、死と隣り合わせの壮絶な演奏を展開しており、1つ1つのコンサートに命がけで臨んでいた渾身の大熱演とも言うべき壮絶な迫力に満ち溢れていると言えるからだ。

いささかも妥協を許さない全力投球の極めて燃焼度の高い渾身の演奏を繰り広げていたところであり、もはや涙なしでは聴けないほどの感動を覚える。

そうしたテンシュテットの指揮芸術は、最も得意としたマーラーの交響曲の演奏において如実に反映されていると言えるであろう。

テンシュテットのマーラーの交響曲へのアプローチはドラマティックの極みとも言うべき劇的なものだ。

これはスタジオ録音であろうが、ライヴ録音であろうが、さして変わりはなく、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使して、大胆極まりない劇的な表現を施している。

かかる劇的な表現においては、かのバーンスタインと類似している点も無きにしも非ずであり、マーラーの交響曲の本質である死への恐怖や闘い、それと対置する生への妄執や憧憬を完璧に音化し得たのは、バーンスタインとテンシュテットであったと言えるのかもしれない。

ただ、バーンスタインの演奏があたかもマーラーの化身と化したようなヒューマニティ溢れる熱き心で全体が満たされている(したがって、聴き手によってはバーンスタインの体臭が気になるという者もいるのかもしれない)に対して、テンシュテットの演奏は、あくまでも作品を客観的に見つめる視点を失なわず、全体の造型がいささかも弛緩することがないと言えるのではないだろうか。

もちろん、それでいてスケールの雄大さを失っていないことは言うまでもないところだ。

このあたりは、テンシュテットの芸風の根底には、ドイツ人指揮者としての造型を重んじる演奏様式が息づいていると言えるのかもしれない。

マーラーがこの曲を作曲したときと同じような心境に追い詰められたテンシュテットの大仰ではない、真に深い苦しみが刻印され、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な凄みのある迫力を湛えていると評価したい。

オーケストラは必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルであるが、テンシュテットのドラマティックな指揮に必死に喰らいつき、テンシュテットとともに持ち得る実力を全面的に発揮させた渾身の演奏を繰り広げていると言えるところであり、本演奏を超名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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2015年08月29日


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ショルティはマーラーの交響曲の中で特に規模が大きい「第2」を2度にわたってスタジオ録音している。

最初の録音はロンドン交響楽団(1966年)とのスタジオ録音、そして、2度目の録音は、本盤に収められたシカゴ交響楽団との唯一の交響曲全集の一環としてスタジオ録音された演奏(1980年)だ。

ショルティは、バーンスタインやクーベリックなど、一部の限られた指揮者によってしか演奏されていなかったマーラーの交響曲にいち早く注目し、その後のマーラー・ブーム到来の礎を作り上げたという意味では、多大なる功績を遺したと評価できるのではないだろうか。

我が国においては、故吉田秀和氏のように好き嫌いを別にして公平に指揮者を評価できる数少ない音楽評論家は別として、とある著名な某音楽評論家を筆頭に、ショルティに厳しい視線を送る音楽評論家があまりにも多いが、そうした批評を鵜呑みにして、ショルティの指揮する演奏を全く聴かないクラシック音楽ファンがあまりにも多いというのは極めて嘆かわしいことである。

ショルティの各楽曲に対するアプローチは、マーラーの交響曲だけにとどまらずすべての楽曲に共通していると言えるが、切れ味鋭いリズム感とメリハリのある明瞭さであり、それによってスコアに記されたすべての音符を完璧に音化していくということが根底にあったと言える。

マーラーの「第2」について言えば、1966年の演奏はいかにもショルティならではの強烈無比な演奏で、第1楽章冒頭から終楽章の終結部に至るまで、ショルティの個性が全開。

アクセントは鋭く、ブラスセクションは無機的とも言えるほど徹底して鳴らし切るなど、楽想の描き方の明晰さ、切れ味の鋭いシャープさは、他の指揮者によるいかなる演奏よりも(ブーレーズの旧盤が匹敵する可能性あり)、そしてショルティ自身による1970年のマーラーの「第5」の演奏にも比肩するような凄味を有していると言えるだろう。

かかるアプローチは終生変わることがなかったとも言えるが、1980年代以降になると、演奏に円熟の成せる業とも言うべき奥行きの深さ、懐の深さが付加され、大指揮者に相応しい風格が漂うことになったところだ。

その後ショルティは前述のように、「第2」を1980年になって、当時の手兵であるシカゴ交響楽団とともに再録音を行っているが、この1980年の演奏は、1966年の演奏とはかなり様相が異なり、鋭角的な指揮振りは健在であるとは言うものの、聴き手を包み込んでいくような包容力、そして懐の深さのようなものが存在し、聴き手にあまり抵抗感を与えないような演奏に仕上がっている。

したがって、1980年の演奏に抵抗を覚えなかった聴き手の中にさえ、1966年の演奏のような血も涙もない演奏に抵抗感を覚える者も多いのではないかと思われる。

シカゴ交響楽団の光彩陸離たる華麗な演奏ぶりが際立っていることから、このような演奏を内容空虚と批判する音楽評論家も多いようであるが、聴き終えた後の充足感が、例えばバーンスタイン&ニューヨーク・フィル盤(1987年)などの名演に必ずしも引けを取っているわけでもない。

音楽の内面に入り、大きなうねりをもって歌い込むバーンスタイン盤と、音楽を客観的にとらえて、マーラーの音楽がもつ音響的凄さを全面的に出したショルティ盤は対極に位置する演奏である。

改めて本盤を聴くと、まず構築が非常に精微であり、尚且つ知・情・意のバランスが取れている。

それを踏まえた上で全盛期のシカゴ交響楽団は迷い無く豪快に鳴らし切って、器楽部分での不満は本当に全く無く(特にハーセスのトランペットは素晴らしい)、まさに名演だ。

かかる演奏を筆者としては、マーラーの交響曲の演奏様式の1つとして十分存在意義のあるものと考えており、好き嫌いは別として、ショルティの個性が発揮された名演と評価したいと考える。

シカゴ交響楽団も、ショルティのメリハリのある指揮にしっかりと付いていき、持ち得る実力を発揮した見事な演奏を行っているとともに、ソプラノのブキャナンやアルトのザカイをはじめとした声楽陣も最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

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2015年08月25日


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これは素晴らしい名演だ。

マーラーの交響曲第1番には、ワルター&コロンビア交響楽団(1961年)、バーンスタイン&コンセルトへボウ・アムステルダム(1987年)、テンシュテット&シカゴ交響楽団(1990年)といった至高の超名演があるが、本演奏はこれらの横綱クラスに次ぐ大関クラスの名演と言えるのではないだろうか。

マーラーの交響曲第1番はマーラーの青雲の志を描いた作品であり、円熟がそのまま名演に繋がるとは必ずしも言えないという難しさがある。

実際に、アバドは後年、ベルリン・フィルの芸術監督に就任後まもなく同曲をベルリン・フィルとともにライヴ録音(1989年)しており、それも当時低迷期にあったアバドとしては名演であると言えなくもないが、本演奏の持つ独特の魅力には到底敵わないと言えるのではないだろうか。

これは、小澤が同曲を3度にわたって録音しているにもかかわらず、最初の録音(1977年)を凌駕する演奏が出来ていないこととも通暁するのではないかと考えられる。

いずれにしても、ベルリン・フィルの芸術監督に就任するまでのアバドの演奏は素晴らしい。

本演奏でも、随所に漲っている圧倒的な生命力とエネルギッシュな力感は健在だ。

アバドは、作品全体の構造を綿密に分析したうえで、各要素を絶妙のバランス感覚をもって表現している。

細部までアバドの的確な眼差しが行き届き、精緻に仕上げられたマーラーで、シャープな感覚でとらえられ、描き上げられた演奏と言うこともできる。

アバドはこの作品の微細な部分を精緻な視点で掘り下げるとともに、大局的な観点からの構造把握も忘れておらず、ここまで明晰なマーラーを聴くのは、筆者としても初めての体験であった。

それでいて、アバドならではの歌謡性豊かな歌心が全曲を支配しており、とりわけ第2楽章や第3楽章の美しさには出色のものがある。

終楽章のトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と力強さには圧巻の凄みがあると言えるところであり、壮麗な圧倒的迫力のうちに全曲を締めくくっている。

いずれにしても、本演奏は、強靭な力感と豊かな歌謡性を併せ持った、いわゆる剛柔バランスのとれたアバドならではの名演に仕上がっていると高く評価したい。

また、シカゴ交響楽団の超絶的な技量にも一言触れておかなければならない。

当時のシカゴ交響楽団は、ショルティの統率の下、スーパー軍団の異名をとるほどのオーケストラであったが、本演奏でも若きアバドの指揮の下、これ以上は求め得ないような最高のパフォーマンスを発揮しているのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

音質は、ダイナミックレンジが異常なほど幅広い録音であることも大きな特徴で、オーディオファンにも関心を持たれていた名盤であり、従来盤でも比較的満足できる音質ではあったものの、前述のベルリン・フィル盤がSHM−CD化されていることもあって、その陰に隠れた存在に甘んじていたと言える。

しかしながら、今般、同じくSHM−CD化による高音質化が図られたというのは、本演奏の素晴らしさに鑑みても大いに歓迎したいと考える。

SHM−CD盤であらためて聴いてみると、強靭なパフォーマンス一点張りのなかに、アバドの温かい人間味を感じることができるのである。

このSHM−CD盤で、今までヴェールに包まれていてわからなかった当演奏の新たな側面を提示してくれたことはとても素晴らしいことだ。

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2015年08月17日


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マーラーの直弟子であるワルターやクレンペラーは、すべての交響曲の録音を遺したわけではないが、録音された交響曲については、両指揮者ともにいずれも水準の高い演奏を行っている。

交響曲第1番は、クレンペラーが録音していないだけに、ワルターの独壇場ということになるが、マーラーの愛弟子の名に恥じない素晴らしい超名演と高く評価したい。

コロンビア交響楽団という臨時編成の、しかも弦のプルトの少ないオーケストラを振って、死の1年前のワルターは一分の隙もない、最も音楽的、最も完璧なマーラーを世に残した。

それは、CBSコロンビアが、まだ40代に入ったばかりの若いバーンスタインを起用してマーラー全集を企画していることを知ったワルターが、すでに自分にはそれだけの体力がないことを悟り、最後の力をふりしぼって示した「これぞ真のマーラー」の姿であった。

この録音を耳にしたバーンスタインは、おそれおののき、全集録音を延期したのである。

「音楽は純粋に人を魅了し、楽しませ、喜ばせ、豊かにするのと同時に、人々に対して一種の倫理的な呼びかけをする」とワルターは言っている。

ワルターはマーラーの愛弟子だけに、マーラー作品の理解度が深く、ここでは、マーラーの青春時代の喜びと苦悩を描いたこの曲を、あたたかく表現している。

この作曲家ならではの耽美的な特徴を、実に見事に表出した演奏で、作品の全篇にあふれる清新な美しさと、ロマンティックな情感を、これほど自然にあらわした演奏も珍しい。

同曲は、マーラーの青雲の志を描いた、青春の歌とも言うべき交響曲であるが、死を1年後に控えた老巨匠であるワルターの演奏には、老いの影など微塵も感じられず、若々しささえ感じさせる力強さが漲っている。

マーラーの交響曲中、「第4」と並んで古典的な形式を維持した同曲に沿って、全体的な造型を確固たるものとしつつ、生命力溢れる力強さから、抒情豊かな歌い方の美しさに至るまで、マーラーが同曲に込めたすべての要素を完璧に表現している点が実に素晴らしい。

むしろ、マーラーが人生の最後の時期に至って、過去の過ぎ去りし青春の日々を振り返っているような趣きが感じられる演奏ということが出来るのかもしれない。

ところで、ワルターのマーラーを言えば、後期ロマン派風の濃厚な演奏、というように短絡的に考える人が多いが、事実は異なる。

師を誰よりも敬愛し、その音楽に傾倒したワルターであるが、そのスコアの読み方は他の指揮者とは違っていた。

マーラーがしつこいくらい丹念に書き込んだ、後期ロマン派時代の指揮者としての演奏プランをワルターは白紙に戻し、取捨選択し、すっきりとした古典音楽として再生した。

すなわち、いつの時代にも通用する芸術として古典化したのである。

テンポは速く、粘った表情もなく、ルフトパウゼもポルタメントもルバートも整理された。

第1楽章のコーダや第2楽章全体など、今の指揮者の方がずっと粘っている。

「スコアどおり」という考え方からすれば、ワルターのアプローチは主観的であるが、出てきた音楽は客観的、しかもマーラーの本質はぴたりととらえられている。

コロンビア交響楽団も、ワルターの統率の下、その編成の小ささをいささかも感じさせないような好演を示している。

音質もDSDリマスタリングによる鮮明な音質であり、可能ならばSACDやBlue-spec-CDで発売して欲しいと思った聴き手は筆者だけではあるまい。

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2015年08月12日


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アバドによるマーラーの交響曲第2番と言えば、いの一番にルツェルン祝祭管弦楽団との超名演(2003年ライヴ)が思い浮かぶ。

当該演奏は、大病を克服したアバドならではの深みと凄みを増した指揮とアバドと深い関係にあるルツェルン祝祭管弦楽団が、ともに音楽を創造していくことの楽しみを共有し合いつつ渾身の力を発揮した稀有の超名演に仕上がっていた。

したがって、このルツェルン盤の存在があまりにも大きいために、そしてウィーン・フィルとのライヴ録音(1992年)も存在しているため、更に約20年も前のスタジオ録音である本盤の演奏の影はいささか薄いと言わざるを得ないが、筆者としては、若き日のアバドならではの独特の魅力がある素晴らしい名演と高く評価したい。

本演奏におけるアバドのエネルギッシュな指揮ぶりは実に凄まじい。

とりわけ第1楽章や終楽章におけるトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と力感は、圧倒的な迫力を誇っていると言えるところであり、ベルリン・フィルの芸術監督に就任後、借りてきた猫のように大人しくなってしまったアバドとは別人のような力強い生命力に満ち溢れた熱い指揮ぶりである(アバドは芸術監督退任間近に胃がんにかかるが、胃がん克服後は、彫りの深い名演を成し遂げるようになったことを忘れてはならない。)。

それでいて、とりわけ第2楽章や第3楽章などにおいて顕著であるが、アバドならではの歌謡性豊かな表現には汲めども尽きぬ情感が満ち満ちており、その歌心溢れる柔和な美しさには抗し難い魅力がある。

終楽章の終結部の壮麗さも、雄渾なスケールと圧巻の迫力に満ち溢れており、圧倒的な感動のうちに全曲を締めくくっている。

シカゴ交響楽団も持ち前の超絶的な技量を如何なく発揮しており、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

また、キャロル・ネブレットとマリリン・ホーンによる独唱、そしてシカゴ交響合唱団による壮麗な合唱も最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

他方、マーラーの交響曲第4番は、アバドによる2度にわたる同曲の録音のうちの最初のもの(スタジオ録音)に該当する。

2度目の録音は、本演奏の約30年後にベルリン・フィルを指揮したライヴ録音(2005年)であり、それはベルリン・フィルの卓越した技量と、大病を克服したことによって音楽に深みと凄みを増したアバドによる彫りの深い表現、そしてルネ・フレミングによる名唱も相俟って、至高の超名演に仕上がっていたと言える。

したがって、ベルリン・フィル盤が燦然と輝いているために本演奏の旗色は若干悪いと言わざるを得ないが、それでも、本盤には若き日のアバドならではの独特の魅力があり、名演との評価をするのにいささかの躊躇をするものではないと考える。

交響曲第4番は、他の重厚長大な交響曲とは異なり、オーケストラの編成も小さく、むしろ軽妙な美しさが際立った作品であるが、このような作品になるとアバドの歌謡性豊かな指揮は、俄然その実力を発揮することになる。

本演奏は、どこをとっても歌心に満ち溢れた柔和な美しさに満ち溢れており、汲めども尽きぬ流麗で、なおかつ淀みのない情感の豊かさには抗し難い魅力がある。

それでいて、ここぞという時の力奏には気迫と強靭な生命力が漲っており、この当時のアバドならではのいい意味での剛柔バランスのとれた素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

オーケストラにウィーン・フィルを起用したのも功を奏しており、アバドの歌謡性の豊かな演奏に、更なる潤いと温もりを与えている点を忘れてはならない。

ゲルハルト・ヘッツェルのヴァイオリンソロも極上の美しさを誇っており、終楽章におけるフレデリカ・フォン・シュターデによる独唱も、最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

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2015年08月11日


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アバドによるマーラーの交響曲第3番には、ウィーン・フィルとのスタジオ録音(1980年)もあり、それは若き日のアバドならではの魅力のある素晴らしい名演と今でも高く評価したい。

しかしながら、1999年ベルリン・フィルとのロンドン公演に於けるライヴ録音が、旧盤と比べてもより緻密で精巧に仕上がっていると言えるところであり、筆者としては、新盤の方を至高の超名演として更なる上位に置きたい。

それどころか、バーンスタイン&ニューヨーク・フィル(1987年ライヴ録音)やテンシュテット&ロンドン・フィル(1986年ライヴ録音)などと並んで、数ある同曲の録音の中でも最高の名盤と絶賛したい。

本演奏は、アバドが大病にかかる直前のベルリン・フィルとの演奏であるが、アバドも、そしてベルリン・フィルもともに渾身の力を発揮した圧倒的な超名演に仕上がっている。

アバドによるベルリン・フィルの様々な改革の成果がはっきりと出てきた頃の充実ぶりを実感できる、新たな境地に到達した演奏と言えるだろう。

ライヴ録音ということもあって、アバドの、そしてベルリン・フィルのコンディションもかなり良かったのではないかとも思われる。

ベルリン・フィルとの他のマーラー録音もそうであったが、「第3」においても、アバドのエネルギッシュな指揮ぶりは実に凄まじい。

大胆でダイナミックな表現の演奏で、ライヴゆえのオーヴァー・アクションもあるだろうが、そうしたうわべだけに終わらず見通しの良いガッシリとした構成力やオケの性能の高さは一目瞭然であり、品のいいマーラーだ。

とりわけ、第1楽章におけるトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と力感は、圧倒的な迫力を誇っている。

また、第2楽章以降におけるアバドならではの歌謡性豊かな表現には汲めども尽きぬ情感が満ち満ちており、その歌心溢れる柔和な美しさには抗し難い魅力がある。

このアバド&ベルリン・フィルの演奏には温かみがあり、ウィーン・フィルとの演奏とは違う柔らかみのある響きが特徴で、約20年を経てアバドが余裕でオーケストラをコントロールしている様子が窺える。

もっとも、全体にバランスを重視するあまりピアニッシモがいささか弱過ぎるきらいがあるが、壮麗な美しさは非常に魅力的であり、第1楽章や終楽章終結部で強靭な迫力が漲っているところなど、旧盤を遥かに凌駕している。

そして何よりも特筆すべきはベルリン・フィルによる極上の美しい音色であり、弦も管も音色が美しく透明感があり、アンサンブルも見事。

とりわけ第1楽章におけるジャーマン・ホルンやトロンボーンソロの朗々たる響きや、第1楽章及び第4楽章におけるヴァイオリンソロ、そして第3楽章におけるポストホルンソロは圧巻の美しさを誇っており、本名演に大きく貢献している点を忘れてはならない。

全編を通じて柔らかい小春日和を思わせる、こけおどしのマーラーとは真反対の正統派マーラーと言えよう。

若き日のアンナ・ラーションによる歌唱も、本名演に華を添えていると評価したい。

ロンドン交響合唱団やバーミンガム市交響ユース合唱団も最高のパフォーマンスを発揮している。

録音については、従来盤では全体としてやや雲がかかったような雰囲気とやや音圧レベルが低くマイクが遠い感じがあり、録音が楽器の微細なニュアンスを拾いきれていないようなもどかしさがあった。

しかしながら、今般、SHM−CD化による高音質化が図られたというのは、本演奏の価値を高めることに貢献しており、大いに歓迎したいと考える。

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2015年07月27日


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ブーレーズはDGに相当に長い年数をかけてマーラーの交響曲全集を録音したが、本盤に収められたマーラーの「第1」は、その初期の録音(1998年)である。

ひと昔前のブーレーズと言えば「冷徹なスコア解析者」といったイメージの名演が多かったが、最近はそれに「人間味」が加わって、良くも悪くも万人向けのスタンスにシフトしてきたと考えられる。

1990年代後半から始まったこのマーラー・チクルスもその流れを汲んでおり、「聴きやすく」「わかりやすい」マーラー像をわれわれに提示してくれているような新たな名演がリリースされている。

演奏は、あらゆる意味でバーンスタインやテンシュテットなどによる濃厚でドラマティックな演奏とは対極にある純音楽的なものと言えるだろう。

ブーレーズは、特に1970年代までは、聴き手の度肝を抜くような前衛的なアプローチによる怪演を行っていた。

ところが、1990年代にも入ってDGに様々な演奏を録音するようになった頃にはすっかりと好々爺になり、かつての前衛的なアプローチは影を潜め、オーソドックスな演奏を行うようになった。

もっとも、これは表面上のことで、必ずしもノーマルな演奏をするようになったわけではなく、そこはブーレーズであり、むしろスコアを徹底的に分析し、スコアに記されたすべての音符を完璧に音化するように腐心しているようにさえ感じられるようになった。

楽曲のスコアに対する追求の度合いは以前よりも一層鋭さを増しているようにも感じられるところであり、マーラーの交響曲の一連の録音においても、その鋭いスコアリーディングは健在である。

本演奏においても、そうした鋭いスコアリーディングの下、曲想を細部に至るまで徹底して精緻に描き出しており、他の演奏では殆ど聴き取ることが困難な旋律や音型を聴くことができるのも、本演奏の大きな特徴であり、ブーレーズによるマーラー演奏の魅力の1つと言えるだろう。

もちろん、スコアの音符の背後にあるものまでを徹底的に追求した上での演奏であることから、単にスコアの音符のうわべだけを音化しただけの薄味の演奏にはいささかも陥っておらず、常に内容の濃さ、音楽性の豊かさを感じさせてくれるのが、近年のブーレーズの演奏の素晴らしさと言えるだろう。

本演奏においても、そうした近年のブーレーズのアプローチに沿ったものとなっており、マーラーの「第1」のスコアを明晰に紐解き、すべての楽想を明瞭に浮かび上がらせるようにつとめているように感じられる。

もっとも、あたかもレントゲンでマーラーの交響曲を撮影するような趣きも感じられるところであり、マーラーの音楽特有のパッションの爆発などは極力抑制するなど、きわめて知的な演奏との印象も受ける。

黙っていても大編成のスコア1音1音に、目に見えてくるような透徹さが保たれている。

なおかつそれら各部が有機的に結合されつつ前進していくため、感情移入的演奏を耳にすると初心者には雑多に聴こえてしまいがちなマーラーの濃厚なロマンティシズムが、知らず知らずのうちにすっと聴く者に入ってくるのだ。

さらに、ブーレーズの楽曲への徹底した分析は、演奏の表層においてはスコアの忠実な音化であっても、その各音型の中に、楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような奥行きの深さを感じることが可能である。

これは、ブーレーズが晩年に至って漸く可能となった円熟の至芸とも言えるだろう。

いずれにしても本演奏は、バーンスタイン&コンセルトヘボウ・アムステルダム(1987年ライヴ)やテンシュテット&シカゴ交響楽団(1990年ライヴ)とあらゆる意味で対極にあるとともに、ワルター&コロンビア交響楽団(1961年)の名演から一切の耽美的な要素を拭い去った、徹底して純音楽的に特化された名演と評価したい。

もっとも、徹底して精緻な演奏であっても、例えばショルティのような無慈悲な演奏にはいささかも陥っておらず、どこをとっても音楽性の豊かさ、情感の豊かさを失っていないのも、ブーレーズによるマーラー演奏の素晴らしさであると考える。

このようなブーレーズの徹底した純音楽的なアプローチに対して、最高のパフォーマンスで応えたシカゴ交響楽団の卓越した演奏にも大きな拍手を送りたい。

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2015年07月22日


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素晴らしい名演だ。

小澤征爾は、かつて1980年代に手兵のボストン交響楽団とともにマーラーの交響曲全集を録音しているが、問題にならない。

小澤のマーラーの最高の演奏は、手兵サイトウ・キネン・オーケストラとの「第2」(2000年)及び「第9」(2001年)であり、それ以降チクルスが中断されてしまったが、これら両曲については、古今東西の様々な名演の中でも十分に存在価値のある名演と高く評価したい。

小澤はマーラーの「第9」を、ボストン交響楽団の音楽監督としての最後の演奏会で取り上げたほどであり、マーラーのスペシャリストとしての呼び声も高い。

小澤のアプローチは両曲ともにいわゆる純音楽的なものであるが、マーラーの荘重な世界を、熱い魂がほとばしるような演奏で表現している。

小澤のマーラー演奏は東洋的諦念観の理解に裏打ちされていると特徴付けられるが、作曲者と完全に一体化した師バーンスタインの情緒的スタンスから一歩踏み出したオリジナルの強さがここにはある。

小澤のマーラーには、こってりとした民族的な味付けや濃厚な感情移入は感じられず、むしろ絶対音楽として客観視された主旨で統一されている。

バーンスタインやテンシュテットの劇的で主観的なアプローチとはあらゆる意味において対照的であるが、だからと言って物足りなさは皆無。

明晰な響きと自在なリズム、カンタービレのしなやかな美しさ…しかし、何といっても小澤の音楽には絶対的な優しさがあり、この美質が小澤のマーラーを価値あるものにしている要因だろう。

バーンスタインほどオケを振り回さず、しかし客観的になりすぎず、音を丁寧に積み重ねながらぐいぐいと聴く者を引き込んでゆく。

小澤の、楽曲の深みに切り込んでいこうとする鋭角的な指揮ぶりが、演奏に緊張感といい意味でのメリハリを加味することに繋がり、切れば血が出るような熱き魂が込められた入魂の仕上がりとなっている。

サイトウ・キネン・オーケストラも、小澤の確かな統率の下、ライヴとは思えない完成度の高い演奏で指揮者の熱意に応えて、最高のパフォーマンスを示している。

世界中の名手を集めたサイトウ・キネン・オーケストラは、弦も金管も木管もパーカッションも世界で活躍しているソリスト集団なのがわかる豪華なラインナップ。

随所で素晴らしいソロが繰り広げられ、またアンサンブルも臨時編成とは思えない高い完成度を感じさせる。

オーケストラが小澤征爾のバトンのもとで自由自在に歌うさまは、まさに圧巻と言えるだろう。

サイトウ・キネン・オーケストラの持つ緻密なアンサンブル、広いダイナミクスの幅が小澤の棒によって見事にコントロールされ、プレーヤー個々の豊かな表現力と融合し、マーラーの世界を見事に表現している。

録音は、両曲ともに通常盤でも高音質であったが、特に、「第9」については今回はじめてSACD化され、更に鮮明さを増した点が素晴らしい。

他方、「第2」については、かつてSACDのシングルレイヤーディスクとして発売されており、今回のハイブリッドディスクはわずかであるが音質は落ちる。

今回の発売にあたっての不満点はまさにこの点であり、なぜ、「第9」だけの単独発売にしなかったのか、メーカー側の邪な金儲け思想に、この場を借りて大いに疑問を呈しておきたい。

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2015年07月17日


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マーラーの音楽は少年時代から好きだったが、これまで彼とその時代の芸術観についてそれほど深く知ることもなく聴いてきた。

しかしこの著書を読み進めていくと、マーラーという天才作曲家が育つべき下地が世紀末のウィーンを中心にすっかり準備されていたという印象を持つ。

言い換えれば、マーラーはこの時代に出るべくして出てきた時代の申し子なのだろう。

マーラーの人となりや作品がニーチェやワーグナーの哲学、フロイトの精神分析、そしてクリムトの芸術やオットー・ワーグナーの都市計画などと如何に密接に関わっていたか、また如何に彼がその時代の空気を敏感に反映させた音楽を創造していたかが理解できる。

勿論そうした作品が当時の人々から諸手を挙げて受け入れられたかといえば、必ずしもそうではなかった。

マーラーはウィーンを代表する優秀な指揮者として君臨していたが、本人の意志とは裏腹に作曲家としては名を成していなかった。

こうした事情を知ることによってマーラーの鑑賞が一層興味深いものになる筈で、またその作品の必然性を暗示する著者の構想は成功している。

一方でマーラーの虚像はルキーノ・ヴィスコンティの映画『ヴェニスの死』に負うところが大きいと著者は指摘する。

この作品はトーマス・マンの同名の小説からの映画化だが、マンが主人公である小説家アッシェンバッハにマーラーの姿を匂わせたのに対してヴィスコンティは彼を完全に作曲家マーラーに限定した。

そして「滅びの中で美しきものの幻影を執拗に追い求めながら自ら滅びていった」音楽家のイメージを創造する。

マーラーの音楽にはそうした芸術至上主義的で、かつ世紀末特有の退廃的な雰囲気が感じられるのは確かだろう。

しかし事実は小説よりも奇なりの例えに相応しく、実際の彼自身は抜け目のない実利的な合理主義者だったようだ。

だがその間の葛藤が音楽にも映し出されていることは真実であるに違いない。

この時代は来るべき時代の新しい潮流とロマン派の名残を残した潮流とが渦巻いていた。

そうした中でマーラーも生きていたし、作品には双方の影響が表れている。

面白い逸話としては、マーラーが自分の演奏する曲のオーケストレーションを、それがどれほど偉大な作曲家のものであろうと敢然と改竄したことが挙げられる。

当人は作曲家のイメージした音響の再現という大義名分を掲げてその行為を正当化していたようだが、これはマーラーよりも少し前の時代の音楽観のあり方だ。

ヴァイオリニストのヨアヒムがメンデルスゾーンのピアノ伴奏で演奏したバッハの無伴奏をシューマンが賞賛していることからも理解できるように、ロマン派の時代は現代よりも音楽が主観的であり、その普遍性はそれほど顧みられなかったのかも知れない。

それは決して作曲家への冒涜には繋がらなかった。

マーラーがモーツァルトやベートーヴェンのスコアに熱心に書き足した音符や曲想記号はひとつの時代の終わりを告げる証しでもあるだろう。

それはまた最終章「ワルター神話を超えて」に詳しく分析されてマーラーの後の時代の指揮者の解釈について突っ込んだ研究結果が述べられている。

マーラーの直弟子であり、師匠の作品の正当な再現者と思われているブルーノ・ワルターが、実は作曲者のイメージとはかなり異なった解釈による演奏をしていたというのは、あながち根拠のないこととは言えない。

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2015年07月06日


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「第2」は、バーンスタインやテンシュテットなどの激情的な名演、小澤やインバルなどの純音楽的な名演など、数多くの名演が目白押しであるが、そのような中で、マーラーの直弟子であるクレンペラーの名演はどのような位置づけになるのであろうか。

同じくマーラーの直弟子であったワルターが、「第2」に関しては録音のせいも多分にあるとは思うが、名演を遺していないだけに、俄然、クレンペラーの演奏の意義は高いとも言える。

クレンペラーは、ゆったりとしたインテンポによる威風堂々たる演奏だ。

バーンスタインのように、燃え上がるような激情が表に出ることはなく、かと言って、小澤などのように純音楽に徹しているわけでもない。

あくまでも、微動だにしないインテンポで、マーラーがスコアに記したあまたの旋律を荘重に歌いあげていく。

特に感心させられるのは終楽章で、ここの中間部は、名演と称されるものでもいささか冗長さを感じさせる箇所であるが、クレンペラーは、ここを幾分テンポを落として、終結部の復活の合唱への布石のように崇高に心をこめて旋律を歌いあげていく。

第4楽章のシュヴァルツコップの独唱も実に巧く、この「第2」は、楽曲の本質を個性的な見地で捉えるなど奥深い内容をそなえた重厚な名演と高く評価したい。

「第4」は、マーラーの交響曲の中でも最も柔和なニュアンスが漂う楽曲であり、それ故に、同曲には、ワルターやバーンスタインなど、どちらかというと柔らかいロマンの香り漂う名演が多いと言える。

これに対して、クレンペラーは剛毅にして重厚な演奏だ。

同じくマーラーの弟子ではあるが、演奏の性格は正反対で、ワルターの柔に対して、クレンペラーの剛と言えるだろう。

曲が柔和な「第4」だけに、クレンペラーの演奏については世評は必ずしも高いとは言えないが、筆者としては、クレンペラーならではの個性的な名演と評価したい。

前述のように、演奏全体の性格は剛毅にして重厚、冒頭からテンポは実にゆったりとしており、あたかも巨象の行進のように微動だにしないインテンポだ。

それ故に、ワルターなどの名演と比較すると、愉悦性にはいささか欠ける側面もなくはないが、深沈たる深みにおいては、ワルターと言えども一歩譲るだろう。

テンポの遅さ故に、他の演奏では聴くことができないような楽器の音色が聴こえてきたりするが、これを逆説的に言えば、「第4」の知られざる側面に光を当てたということであり、そうした点も高く評価したい。

シュヴァルツコップの歌唱は実に巧く、この異色の名演に華を添えている。

「第7」は、クレンペラーのマーラー演奏の、そして更にはクレンペラーのあらゆる演奏の頂点に君臨する不朽の超名演である。

第1楽章の冒頭から、この世のものとは思えないような重量感溢れる巨大な音塊が迫ってきて、その勢いたるや、誰も押しとどめることはできない。

まさに、巨象の堂々たる進軍であり、ゆったりとしたテンポによる微動だにしない重厚な歩みであるが、それでいて決してもたれるということはない。

それどころか、次はどのように展開していくのだろうかというわくわくした気持ちになるのだから、クレンペラーの芸格がいかに優れた高踏的なものであるのかがわかるというものだろう。

中間部のこの世のものとは思えないような至高・至純の美しさや、終結部のド迫力は、もはや筆舌には尽くしがたい素晴らしさだ。

第2楽章や第4楽章の夜曲も、同様に遅いテンポであるが、実に情感溢れる指揮ぶりで、そのスケールの大きな雄弁さにはただただ舌を巻くのみ。

終楽章は、下手な指揮だと単なるばか騒ぎに陥りかねない危険性をはらんでいるが、クレンペラーは、踏みしめるような重量感溢れるアプローチによって、実に内容のあるコクのある演奏を成し遂げている。

そして、終結部の圧倒的なド迫力。聴き終えて、完全にノックアウトされてしまったという聴き手は筆者だけではないだろう。

「大地の歌」は、ワルター&ウィーン・フィルの1952年盤と並ぶ2大名演である。

マーラーの直弟子であるワルターとクレンペラーは、マーラーの交響曲をすべて録音したわけではないが、両者が揃って録音し、なおかつ超名演となったのはこの「大地の歌」であると言えるのではないか。

クレンペラーの演奏は、ワルターのように、ウィーン・フィルの独特の美しさや、各楽章毎の描き分けを明確に行い、随所に耽美的とも言うべき色合いを出した演奏ではなく、微動だにしないゆったりとしたインテンポによる演奏だ。

しかし、随所に見られる深沈たる深みは、ワルターと言えども一歩譲ることになるのではなかろうか。

特に、「大地の歌」の白眉である第6楽章の『告別』の彫りの深さは秀逸であり、終結部の「永遠に」のあたりに漂うこの世のものとは思えないような抜け切ったような清澄な抒情は、クレンペラーという大巨匠が、晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地とも言うべき高みに達している。

歌手を比較すると、ワルター盤のフェリアーとクレンペラー盤のルートヴィヒは同格、他方、ワルター盤のパツァークはやや癖があり、ここは、クレンペラー盤のヴンダーリヒの畢生の熱唱の方を高く評価したい。

それにしても、現代においてもなお、この2大名演を凌駕する名演が表れていないのは何とも寂しい気がする。

「第9」は、間違いなくマーラーの最高傑作であるが、それだけに古今東西の様々な大指揮者によって数々の名演がなされてきた。

これらの名演には、それぞれ特徴があるが、どちらかと言えば、楽曲の性格に準じた劇的な演奏が主流のような気がする。

特に、ワルター&ウィーン・フィルや、バーンスタイン&コンセルトヘボウ、テンシュテット&ロンドン・フィルなどが超名演とされているのもその証左と言えるだろう。

そのような数々の名演の中で、クレンペラーの演奏は異色の名演と言える。

これほどの劇的な交響曲なのに、殆ど微動だにしない、ゆったりとしたインテンポで通した演奏は、純音楽的な同曲の名演を成し遂げたカラヤンやバルビローリなどにも見られない特異な性格のものと言える。

それでいて、マーラーが同曲に込めた死との闘いや、生への妄執や憧憬などが、我々聴き手にしっかりと伝わってくるというのは、クレンペラーの至高の指揮芸術を示すものと言えるだろう。

あまりのスローテンポのため、例えば、第3楽章の後半や終楽章の頂点において、アンサンブルに多少の乱れが生じるが、演奏全体から滲み出てくる同曲への深い愛着と情念を考慮すれば、殆ど気にならない演奏上の瑕疵と言える。

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2015年07月04日


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アバドはマーラーの交響曲第7番を2度録音しているが、1984年のシカゴ響とのスタジオ録音に続き、本盤には、2001年のベルリン・フィルとのライヴ録音が収められている。

1984年盤も、アバドがある意味では最も輝いていた時期の演奏でもあり、強靱な気迫と力強い生命力、そして豊かな歌謡性がマッチングした、いい意味での剛柔バランスのとれた名演に仕上がっていたと言える。

1970年代から1980年代にかけてのアバドの演奏には、このような名演が数多く成し遂げられていたと言えるが、1990年にベルリン・フィルの芸術監督に就任して以降は、借りてきた猫のような大人しい演奏に終始するようになってしまった。

もちろん、メンデルスゾーンの交響曲第4番やヤナーチェクのシンフォニエッタなど、例外的な名演もいくつか存在しているが、その殆どは大物揃いのベルリン・フィルに気後れしたかのような今一つ覇気のない演奏が多かったと言わざるを得ない。

その後アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督の任が重すぎたせいか、ベルリン・フィルの芸術監督を退任する少し前の2000年には癌に倒れることになってしまった。

そして、アバドはその癌を克服するのであるが、それは皮肉にもベルリン・フィルの芸術監督の退任直前。

そして、アバドはその大病を見事に克服するのであるが、死と隣り合わせの苛烈な体験を経たことによって、アバドの芸風には、それまでの演奏にはなかった凄みと底知れぬ彫りの深さが加わったと言えるのではないだろうか。

ベルリン・フィルの芸術監督に就任して以降は、借りてきた猫のように大人しい演奏に終始していただけに、その変貌ぶりには驚くべきものがあったとも言える。

その意味では、2000年以降のアバドは真の大指揮者となったと言っても過言ではあるまい。

本盤の演奏も、真の大指揮者アバドによるものであり、ベルリン・フィルの卓越した名技を活かしつつ、胃癌を発表した後の明鏡止水にも似たような境地が漂う何とも言えない深い味わいがあり、至高の名演に仕上がっていると高く評価したい。

本演奏の最大の優位点は、演奏全体を支配する奥行きの深さであり、アバドの音楽が表現する内容も凄絶な変貌を遂げており、そんな時期の情熱あふれる名演と言えるのではないか。

それだけに、本演奏においては、この時期のアバドとしては劇的な迫力を有するとともに、雄大なスケールを誇る名演に仕上がっていると言えるのではないかと考えられる。

したがって、本演奏には、シカゴ響との演奏には存在しなかった楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような彫りの深さが存在しているというのはある意味では当然であり、まさにアバドによる円熟の名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

もっとも、トゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫や強靭な迫力という意味においては、シカゴ響との録音と比較するといささか見劣りするとも言えなくもないが、むしろ、このように決して喚いたり叫んだりしない、そして奥行きの深い演奏の中にも持ち前の豊かな歌謡性をより一層際立たせたいい意味での剛柔バランスのとれた演奏こそが、アバドが目指す究極のマーラー演奏の理想像とも言えるのかもしれない。

各楽器セクションのバランスを重要視した精緻な美しさにも出色のものがあるが、ここぞという時の力奏にも強靭な迫力が漲っており、各フレーズの歌心溢れる徹底した歌い抜きにおいてもいささかも不足はない。

ベルリン・フィルも、このような深みと凄みを増したアバドによる確かな統率の下、持ち得る実力を十二分に発揮した最高のパフォーマンスを示していると評価したい。

音質は、本従来CD盤でも十分に満足できる高音質であると評価したい。

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2015年07月02日


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ショルティは偉大なマーラー指揮者の1人であると考えているが、ショルティが録音したマーラーの交響曲の中で、3種類もの録音が遺されているのは、現時点では第1番と第5番しか存在していない。

第5番は、ラスト・レコーディングも同曲であったこともあり、ショルティにとって特別な曲であったことが理解できるが、第1番に対しても、ショルティは第5番に比肩するような愛着を有していたのでないかと考えられるところだ。

3種類の録音のうち、ロンドン交響楽団とのスタジオ録音(1964年)が最初のもの、そして同年のウィーン・フィルとのライヴ録音(オルフェオレーベル)、そして本盤に収められたシカゴ交響楽団とのスタジオ録音(1983年)がこれに続くことになる。

いずれ劣らぬ名演と思うが、シカゴ交響楽団との演奏は、1964年の2種の演奏とはかなり性格が異なっている。

ショルティの各楽曲に対するアプローチは、マーラーの交響曲だけにとどまらずすべての楽曲に共通していると言えるが、切れ味鋭いリズム感とメリハリのある明瞭さであり、それによってスコアに記されたすべての音符を完璧に音化していくということが根底にあったと言える。

かかるアプローチは終生変わることがなかったとも言えるが、1980年代以降になると、演奏に円熟の成せる業とも言うべき奥行きの深さ、懐の深さが付加され、大指揮者に相応しい風格が漂うことになったところだ。

したがって、1983年の演奏は、1964年の2つの演奏とはかなり様相が異なり、鋭角的な指揮振りは健在であるとは言うものの、聴き手を包み込んでいくような包容力、そして懐の深さのようなものが存在し、聴き手にあまり抵抗感を与えないような演奏になっており、仕上がりの美しさと内容の豊かさにおいて、旧盤とは格段の違いを示している。

マーラー独特の憂愁の表現や、この名作特有のテーマである「さすらい」の不安定さ、若者の不安などの文学的要素を多分に蔵したこの曲の、あちこちにちりばめられた突発的に介入するエピソード的素材のすべてを、ショルティはものの見事にとらえ、変幻自在の対応で表現して、素晴らしく面白い。

シカゴ交響楽団の光彩陸離たる華麗な演奏ぶりが際立っていることから、このような演奏を内容空虚と批判する音楽評論家も多いようであるが、聴き終えた後の充足感が、例えばワルター&コロンビア交響楽団盤(1961年)やバーンスタイン&コンセルトへボウ・アムステルダム盤(1987年)などの名演に必ずしも引けを取っているわけでもない。

ショルティは、バーンスタインやクーベリックなど、一部の限られた指揮者によってしか演奏されていなかったマーラーの交響曲にいち早く注目し、その後のマーラー・ブーム到来の礎を作り上げたという意味では、多大なる功績を遺したと言えるのではないだろうか。

我が国においては、故吉田秀和氏のように好き嫌いを別にして公平に指揮者を評価できる数少ない音楽評論家は別として、とある著名な某音楽評論家を筆頭に、ショルティに厳しい視線を送る音楽評論家があまりにも多いが、そうした批評を鵜呑みにして、ショルティの指揮する演奏を全く聴かないクラシック音楽ファンがあまりにも多いというのは極めて嘆かわしいことである。

ショルティとシカゴ交響楽団の美しく、力強く、そして精密な演奏は、マーラーの音楽の持つ耽美的な色彩感と美しさと力強さ、迫力と爽やかさが見事に調和している演奏である。

ワルターやバーンスタインのような厭世観から来る、病的な暗さや思いつめたような絶望感や情熱とは無縁の世界のものであるが、作品の持つ耽美的なまでの美しさと爽やかさ、軍隊的な統制力と力強さが万全に発揮された名演と言えるだろう。

シカゴ交響楽団も、ショルティのメリハリのある指揮にしっかりと付いていき、持ち得る実力を発揮した見事な演奏を行っている。

特に弦楽器の合奏は素晴らしく、まるで春のそよ風が気持ちよく、爽やかに吹き抜けてゆくようだし、トランペットなどの金管楽器の閃光のような輝きは驚く程だ。

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2015年06月28日


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これはアバド最良の遺産のひとつである。

本盤に収められたマーラーの交響曲第4番は、アバドによる2度にわたる同曲の録音のうち最初のものに該当する。

最新の演奏は2005年にベルリン・フィルを指揮したものであるが、それは近年のアバドの円熟ぶりを窺い知ることが可能な至高の名演であった。

したがって、それより四半世紀以上も前の本演奏の影はどうしても薄いと言わざるを得ないが、筆者としては、若きアバドならではのファンタジーと幸福感に溢れた独特の魅力がある素晴らしい名演と高く評価したい。

アバドが最も輝いていた時期はベルリン・フィルの芸術監督就任前であり、この時期(とりわけ1970年代後半から1980年代にかけて)のアバドは、楽曲の頂点に向けて畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力、そして持ち前の豊かな歌謡性が付加された、いい意味での剛柔バランスのとれた名演の数々を成し遂げていた。

本演奏は、そうしたアバドのかつての長所が大きく功を奏し、ウィーン・フィルのふくよかでいぶし銀のような響きと、アバドの緻密さとさわやかな歌謡性がマッチした素晴らしい名演に仕上がっている。

マーラーの交響曲第4番は、他の重厚長大な交響曲とは異なり、オーケストラの編成も小さく、むしろ軽妙な美しさが際立った作品であるが、このような作品になるとアバドの歌謡性豊かな指揮は、俄然その実力を発揮することになる。

本演奏は、どこをとっても歌心に満ち溢れた柔和な美しさに満ち溢れており、汲めども尽きぬ流麗で、なおかつ淀みのない情感の豊かさには抗し難い魅力がある。

しなやかでふくよかなウィーン・フィルの音色が十分に生かされ、すべてが美しく歌っているからである。

それでいて、流麗なだけでなく充分に劇的で、生命力の躍動にも富んでおり、ここぞという時の力奏には気迫と強靭な生命力が漲っており、この当時のアバドならではのいい意味での剛柔バランスのとれた素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

オーケストラにウィーン・フィルを起用したのも功を奏しており(ウィーン・フィルがステレオで録音した初めての第4番)、アバドの歌謡性の豊かな演奏に、更なる潤いと温もりを与えている点を忘れてはならない。

ゲルハルト・ヘッツェルのヴァイオリンソロも極上の美しさを誇っており、終楽章におけるフレデリカ・フォン・シュターデによる独唱も、最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

とはいえ、ここではアバドがかなり自己主張しており、ウィーン・フィルの美演を聴くというよりはアバドの指揮に耳を傾ける演奏となった。

特に第1楽章は若々しく新鮮で、大変スマートなマーラーであり、また極めて分析的で、曲想の移り変わりに神経を使っている。

第2楽章のクラリネットにつけられたルバートの巧みさなど息もつかせぬ面白さである。

音質は、1970年代のアナログ録音であるものの、従来CD盤でも比較的良好な音質であり、数年前にはSHM−CD盤も発売されるなど、比較的満足できるものであった。

ところが、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化が行われるに及んで大変驚いた。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、アバド&ウィーン・フィルによる素晴らしい名演を、現在望み得る最高の高音質であるシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2015年06月21日


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凄い演奏だ。

これほどまでに心を揺さぶられる演奏についてレビューを書くのはなかなかに困難を伴うが、とりあえず思うところを書き連ねることとしたい。

テンシュテットと言えば、何と言ってもマーラーの交響曲の様々な名演が念頭に浮かぶが、交響曲第5番についても複数の録音を遺している。

最初の録音は、交響曲全集の一環としてスタジオ録音された演奏(1978年)、次いで来日時にライヴ録音された演奏(1984年)、そしてその4年後にライヴ録音された演奏(1988年)の3種が存在しており、オーケストラはいずれも手兵ロンドン・フィルである。

これらの中で1978年盤と1984年盤はシングルレイヤーによるSACD化がなされたこともあって、極上の音質に仕上がっているが、それでも随一の名演は本盤に収められた1988年盤であることは論を待たないところだ。

というのも、テンシュテットは1985年に咽頭がんを患い、その後は放射線治療を続けつつ体調がいい時だけ指揮をするという絶望的な状況に追い込まれた。

したがって、1988年の演奏には、1つ1つのコンサートに命がけで臨んでいた渾身の大熱演とも言うべき壮絶な迫力に満ち溢れていると言えるからだ。

テンシュテットのマーラーの交響曲へのアプローチはドラマティックの極みとも言うべき劇的なものだ。

これはスタジオ録音であろうが、ライヴ録音であろうが、さして変わりはなく、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使して、大胆極まりない劇的な表現を施している。

かかる劇的な表現においては、かのバーンスタインと類似している点も無きにしも非ずであり、マーラーの交響曲の本質である死への恐怖や闘い、それと対置する生への妄執や憧憬を完璧に音化し得たのは、バーンスタインとテンシュテットであったと言えるのかもしれない。

ただ、バーンスタインの演奏があたかもマーラーの化身と化したようなヒューマニティ溢れる熱き心で全体が満たされている(したがって、聴き手によってはバーンスタインの体臭が気になるという者もいるのかもしれない)のに対して、テンシュテットの演奏は、あくまでも作品を客観的に見つめる視点を失なわず、全体の造型がいささかも弛緩することがないと言えるのではないだろうか。

もちろん、それでいてスケールの雄大さを失っていないことは言うまでもないところだ。

このあたりは、テンシュテットの芸風の根底には、ドイツ人指揮者としての造型を重んじる演奏様式が息づいていると言えるのかもしれない。

本盤の演奏は、壮絶でテンポの思い切った振幅を駆使したドラマティックにして濃厚な表現は大いに健在であり、まさにテンシュテットのマーラー演奏の在り様が見事に具現化された至高の超名演と言っても過言ではあるまい。

溢れんばかりの熱気と雄大なスケールを持った名演が繰り広げられており、生き物のように息づく各フレーズや独特な熱気が、マーラーの体臭を伝え、この曲を語る上で欠かすことのできない録音だ。

音質は、1988年のライヴ録音ではあるが、数年前にリマスタリングがなされたこともあり、比較的良好な音質であると言えるところだ。

もっとも、テンシュテット晩年の渾身の超名演だけに、メーカー側の段階的な高音質化という悪質な金儲け主義を助長するわけではないが、今後はシングルレイヤーによるSACD盤で発売していただくことをこの場を借りて強く要望しておきたい。

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2015年06月15日


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本盤に収められたマーラーの交響曲第8番は、ブーレーズによるマーラーチクルスが第6番の録音(1994年)を皮切りに開始されてからちょうど13年目(2007年)の録音である。

このように13年が経過しているにもかかわらず、ブーレーズのアプローチは殆ど変っていないように思われる。

かつては、作曲家も兼ねる前衛的な指揮者として、聴き手を驚かすような怪演・豪演の数々を成し遂げていたブーレーズであるが、1990年代に入ってDGに録音を開始するとすっかりと好々爺になり、オーソドックスな演奏を行うようになったと言える。

もっとも、これは表面上のこと。

楽曲のスコアに対する追求の度合いは以前よりも一層鋭さを増しているようにも感じられるところであり、マーラーの交響曲の一連の録音においても、その鋭いスコアリーディングは健在である。

本演奏においても、そうした鋭いスコアリーディングの下、曲想を細部に至るまで徹底して精緻に描き出しており、他の演奏では殆ど聴き取ることができないような旋律や音型を聴き取ることが可能なのも、ブーレーズによるマーラー演奏の魅力の1つと言えるだろう。

今まで約25年間この曲を聴き続けてきたが、これほど鮮明でバランスのとれた演奏は初めてである。

俗物的な見世物の感が強い「第8」をこれだけ冷静に構築したブーレーズの手腕に拍手を贈りたい。

決して音楽に耽溺しない比類ないコントロールでまとめられた演奏に関しては否定する諸氏もおられようが、筆者は大いに評価したい。

音楽による生と宇宙の肯定を企図した「第8」は、第1部が(マーラーから見て)1000年前に中世マインツの大司教ラバヌス・マウルスが作ったラテン語賛歌、第2部がゲーテ「ファウスト」からの引用により構成されるが、第2部最後の「永遠に女性的なものがわれらを引いて昇り行く」という高揚した境地に至るまでの壮大なドラマが、ブーレーズ特有の緻密な音の積み上げにより巨大な峰にまで積み上がっていく様は「圧巻」である。

聴いてるだけでも大仕事だったろうということが想像されるが、この音の積み上げの「圧巻」が巨大なこの曲のボリュームと相俟ってこの作品を名盤としているように思う。

もっとも、あたかもレントゲンでマーラーの交響曲を撮影するような趣きも感じられるところであり、マーラーの音楽特有のパッションの爆発などは極力抑制するなど、きわめて知的な演奏との印象も受ける。

したがって、「第8」で言えば、ドラマティックなバーンスタイン&ウィーン・フィル(1975年ライヴ)やテンシュテット&ロンドン・フィル(1991年ライヴ)の名演などとはあらゆる意味で対照的な演奏と言えるところである。

もっとも、徹底して精緻な演奏であっても、例えばショルティのような無慈悲な演奏にはいささかも陥っておらず、どこをとっても音楽性の豊かさ、情感の豊かさを失っていないのも、ブーレーズによるマーラー演奏の素晴らしさであると考える。

過去と同時に未来を眺めていた作曲家、というのがブーレーズが各所で繰り返したマーラー評だが、そのような視点に立って、ロマン派的要素の濃厚なこの大作をブーレーズの緻密なフィルターを通して演奏してみたこの作品は、やはり「現代的」なのだと思う。

さらに、シュターツカペレ・ベルリンの落ち着いた演奏が、本演奏に適度の潤いと温もりを付加させていることも忘れてはならない。

ブーレーズは同曲をシュターツカペレ・ベルリンと録音したのは意外だったが、聴いてみてなるほどブーレーズの頭の中には全曲のきちんとした設計図があったのだな、と感心した次第である。

8人のソリスト、2つの混成合唱団と児童合唱団も最高のパフォーマンスを示している。

そして優秀な録音が、ブーレーズの緻密な隅々まで神経の行き届いた演奏を、見事に浮かび上がらせている。

最近のDGのオーケストラ録音は、目の覚めるようなものが多いが、巨大な管弦楽と合唱を伴ったこの交響曲では、セッション録音でなければ細部の音まで良く聴き分けられるのは無理だったと思う。

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2015年06月11日


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これは凄い演奏だ。

これほどまでに心を揺さぶられる演奏についてレビューを書くのはなかなかに困難を伴うが、とりあえず思うところを書き連ねることとしたい。

いずれにしても、テンシュテット&ロンドン・フィルの1990年におけるマーラーの交響曲第1番のライヴ録音が発売されたのはクラシック音楽ファンにとって大朗報とも言えるところだ。

テンシュテットは1985年に咽頭がんを患い、その後は放射線治療を続けつつ体調がいい時だけ指揮をするという絶望的な状況に追い込まれた。

したがって、それ以前の演奏についても、いささかも妥協を許さない全力投球の極めて燃焼度の高い渾身の演奏を繰り広げていたが、1986年以降の演奏は、死と隣り合わせの壮絶な演奏を展開することになるのである。

そうしたテンシュテットの指揮芸術は、最も得意としたマーラーの交響曲の演奏において如実に反映されていると言えるであろう

テンシュテットのマーラーの交響曲へのアプローチはドラマティックの極みとも言うべき劇的なものだ。

これはスタジオ録音であろうが、ライヴ録音であろうが、さして変わりはなく、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使して、大胆極まりない劇的な表現を施している。

かかる劇的な表現においては、かのバーンスタインと類似している点も無きにしも非ずであり、マーラーの交響曲の本質である死への恐怖や闘い、それと対置する生への妄執や憧憬を完璧に音化し得たのは、バーンスタインとテンシュテットであったと言えるのかもしれない。

ただ、バーンスタインの演奏があたかもマーラーの化身と化したようなヒューマニティ溢れる熱き心で全体が満たされている(したがって、聴き手によってはバーンスタインの体臭が気になるという者もいるのかもしれない)に対して、テンシュテットの演奏は、あくまでも作品を客観的に見つめる視点を失なわず、全体の造型がいささかも弛緩することがないと言えるのではないだろうか。

もちろん、それでいてスケールの雄大さを失っていないことは言うまでもないところだ。

このあたりは、テンシュテットの芸風の根底には、ドイツ人指揮者としての造型を重んじる演奏様式が息づいていると言えるのかもしれない。

テンシュテットは、マーラーの交響曲第1番を本盤と同年の1990年にもシカゴ交響楽団とともにライヴ録音しており、当該演奏の方がオーケストラの優秀さも相俟って最高峰に君臨する名演であるというのは自明の理ではあるが、本盤に収められた交響曲第1番の演奏も圧倒的な超名演であり、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な凄みのある迫力を湛えていると評価したい。

遅めのテンポで、細部まで抒情的に歌い込んだ美しい演奏で、何時にも増してテンポを細かく揺らし、細部の表現にこだわり音楽に没入していくが、テンシュテットの精妙な表現と一体化するロンドンフィルが見事で、冒頭から緊張感が途切れることなく、音楽はどこまでも自然に流れ高揚する。

喉頭がんの発病による活動休止から明けてのテンシュテットは、以前にもまして独特の凄みが加わったといわれるように、このフィナーレでも異常な緊迫感と熱気をはらんだ演奏内容となっている。

オーケストラは必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルであるが、テンシュテットのドラマティックな指揮に必死に喰らいつき、テンシュテットとともに持ち得る実力を全面的に発揮させた渾身の演奏を繰り広げていると言えるところであり、本演奏を超名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

カップリングのグリンカはテンシュテット初のレパートリーで、喉頭がんを発病する以前のもの(1981年)であるが、こちらも燃焼度の高い爆演を展開している。

なお、ボーナストラックには、テンシュテットがマーラーについて語る貴重なインタビューも収められている。

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2015年06月02日


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マーラーの交響曲第7番が凄い演奏だ。

これほどまでに心を揺さぶられる演奏についてレビューを書くのはなかなかに困難を伴うが、とりあえず思うところを書き連ねることとしたい。

いずれにしても、テンシュテット&ロンドン・フィルの1980年におけるマーラーの交響曲第7番のライヴ録音が発売されたのはクラシック音楽ファンにとって大朗報とも言えるところだ。

テンシュテットと言えば、何と言ってもマーラーの交響曲の様々な名演が念頭に浮かぶが、交響曲第7番についても複数の録音を遺している。

最初の録音は、交響曲全集の一環としてスタジオ録音された演奏(1980年)、次いで本盤に収められたライヴ録音された演奏(1980年)、そしてその13年後にライヴ録音された演奏(1993年)の3種が存在しており、オーケストラはいずれも手兵ロンドン・フィルである。

いずれ劣らぬ名演ではあるが、随一の名演は1993年の演奏であることは論を待たないところだ。

というのも、テンシュテットは1985年に咽頭がんを患い、その後は放射線治療を続けつつ体調がいい時だけ指揮をするという絶望的な状況に追い込まれた。

したがって、1993年の演奏には、1つ1つのコンサートに命がけで臨んでいた渾身の大熱演とも言うべき壮絶な迫力に満ち溢れていると言えるからだ。

次いで、本盤の1980年にライヴ録音された演奏が続くのではないだろうか。

テンシュテットのマーラーの交響曲へのアプローチはドラマティックの極みとも言うべき劇的なものだ。

これはスタジオ録音であろうが、ライヴ録音であろうが、さして変わりはなく、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使して、大胆極まりない劇的な表現を施している。

かかる劇的な表現においては、かのバーンスタインと類似している点も無きにしも非ずであり、マーラーの交響曲の本質である死への恐怖や闘い、それと対置する生への妄執や憧憬を完璧に音化し得たのは、バーンスタインとテンシュテットであったと言えるのかもしれない。

ただ、バーンスタインの演奏があたかもマーラーの化身と化したようなヒューマニティ溢れる熱き心で全体が満たされている(したがって、聴き手によってはバーンスタインの体臭が気になるという者もいるのかもしれない)に対して、テンシュテットの演奏は、あくまでも作品を客観的に見つめる視点を失なわず、全体の造型がいささかも弛緩することがないと言えるのではないだろうか。

もちろん、それでいてスケールの雄大さを失っていないことは言うまでもないところだ。

このあたりは、テンシュテットの芸風の根底には、ドイツ人指揮者としての造型を重んじる演奏様式が息づいていると言えるのかもしれない。

本盤の演奏は、さすがに前述のように、1993年の演奏ほどの壮絶さは存在していないが、それでもテンポの思い切った振幅を駆使したドラマティックにして濃厚な表現は大いに健在であり、まさにテンシュテットのマーラー演奏の在り様が見事に具現化された至高の超名演と言っても過言ではあるまい。

テンシュテットは明確なポリシーを持ち、決して妥協をしなかったが、ここでも燃焼度の高い、かなり切迫した表現であり、テンシュテット特有の振幅の大きい見事な演奏である。

オケが指揮者を信頼し、全身全霊をかけて音楽に没入する記録はそれほど多くないが、ロンドン・フィルも、まさに人生がこの演奏にかかっているかのようなのめりこみようだ。

カップリングのモーツァルトの交響曲第41番は名演の範疇には入ると思われるが、テンシュテットとしては普通の出来と言えよう。

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2015年05月23日


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インバルが東京都交響楽団を指揮して演奏したマーラーの新チクルスシリーズは素晴らしい名演揃いであるが、本盤に収められた「第5」も素晴らしい名演と高く評価したい。

インバルは、マーラーの「第5」をかつての手兵フランクフルト放送交響楽団とスタジオ録音(1986年)するとともに、東京都交響楽団とのライヴ録音(1995年)やチェコ・フィルとのライヴ録音(2011年)もあるが、本演奏は、それらの演奏をはるかに凌駕する名演と言える。

かつてのインバルは、マーラーへの人一倍の深い愛着に去来する内なるパッションをできるだけ抑制して、できるだけ音楽に踏み外しがないように精緻な演奏を心掛けていたように思われる。

したがって、全体の造型は堅固ではあり、内容も濃密で立派な演奏ではあるが、ライバルとも目されたベルティーニの歌心溢れる流麗さを誇るマーラー演奏などと比較すると、今一つ個性がないというか、面白みに欠ける演奏であったことは否めない事実である。

前述の1986年盤など、その最たる例と言えるところであり、聴いた瞬間は名演と評価するのだが、しばらく時間が経つとどんな演奏だったのか忘却してしまうというのが正直なところだ。

ワンポイント録音による画期的な高音質だけが印象に残る演奏というのが関の山と言ったところであった。

1995年盤や2011年盤になると、ライヴ録音ということもあり、インバルにもパッションを抑えきれず、踏み外しが随所にみられるなど、本盤に至る道程にある名演と言うことができるだろう。

そして、本盤(2013年)であるが、ここにはかつての自己抑制的なインバルはいない。

インバルは、内なるパッションをすべて曝け出し、ドラマティックな表現を施しているのが素晴らしい。

強靭なサウンドとマーラーの精神性をめぐらし、細部の細部にまで音に命を宿らせるインバルの真骨頂が全開している。

それでいて、インバルならではの造型の構築力は相変わらずであり、どんなに劇的な表現を行っても、全体の造型がいささかも弛緩することがないのは、さすがの至芸と言うべきであろう。

マーラーのスコアを細部に至るまで忠実に、そして美しく力強くニュアンス豊かに再現して、どの瞬間も音が意味深く鳴っている。

対位法の各声部はそれぞれが切れ込み鋭くエッジがきいていて、意味づけや存在感を主張し合っている。

そしてテンポや音量の変化も大きく刺激的で、決して表面上きれいにバランス良くまとめたような演奏ではなく、美しく官能的な旋律も、素直に酔わせてはくれない。

しかしそれこそがマーラーであり、インバルが表現したいことであろう。

好き嫌いが分かれるかもしれないが、筆者はこれこそがスタンダードとすべき名演奏と思われる。

いずれにしても、インバルが東京都交響楽団と、本盤のようなドラマティックな表現を駆使するようになったインバルを聴いていると、バーンスタインやテンシュテット、ベルティーニが鬼籍に入った今日においては、インバルこそは、現代における最高のマーラー指揮者であるとの確信を抱かずにはいられない。

オーケストラに東京都交響楽団を起用したのも功を奏しており、金管楽器、特にトランペットやホルンの卓抜した技量は、本名演のグレードをさらに上げる結果となっていることを忘れてはならない。

ワンポイント・レコーディング・ヴァージョンよる極上の高音質録音も、本名演を鮮明な音質で味わえるものとして大いに歓迎したい。

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2015年05月21日


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インバルは、東京都交響楽団との間で新マーラーチクルスを続行しているが、前作の第1番に続いて本盤も、この黄金コンビの好調さを表す素晴らしい名演だ。

インバルは、かつてフランクフルト放送交響楽団と素晴らしい全集を作り上げたが、当該全集では、インバルは劇的な要素をできるだけ抑制し、客観的な視点でマーラーがスコアに記した音符の数々を無理なく鳴らすというアプローチであった。

インバル自身には、マーラーへの深い愛着に去来する有り余るパッションがあるのだが、インバルは演奏の際には、それをできるだけ抑制しようとする。

それ故に、客観的なアプローチを取りつつも、いささかも無味乾燥な演奏に陥ることなく、内容の濃さにおいては人後に落ちることはない。

しかも、抑制し切れずに零れ落ちてくるパッションの爆発が随所に聴かれ、それが聴き手の感動をより深いものにするのだ。

ここに、インバルによるマーラーの魅力の秘密がある。

東京都交響楽団との新チクルスにおけるアプローチも、基本的には旧全集と同様であるが、旧全集と比較すると、パッションの爆発の抑制を相当程度緩和しており(ライヴ録音とスタジオ録音の違いもあるとは思うが)、これが新チクルスをして、旧全集よりもより一層感動的な名演に仕立てあげているのだと考える。

かかる点は、近年のインバルの円熟ぶりを示す証左として高く評価したい。

第1楽章は、冒頭のゆったりとしたテンポによる低弦による合奏の間の取り方が実に効果的。

トゥッティに至る高揚は雄渾なスケールで、その後の高弦による旋律の歌い方は、思い入れたっぷりの情感に満ち溢れていて美しい。

続く主部は、緩急自在の思い切ったテンポ設定、幅の広いダイナミックレンジを駆使して、実にドラマティックに曲想を抉り出していく。

随所に聴かれる金管楽器の最強奏や雷鳴のようなティンパニは、圧巻の凄まじいド迫力であり、かつての自己抑制的なインバルとは段違いの円熟のインバルならではの成せる業だ。

第2楽章は、オーソドックスな解釈であるが、弦楽器も木管楽器もこれ以上は求め得ないような情感の籠った流麗な音楽を紡ぎ出している。

第3楽章は、冒頭のティンパニによる強打の効果的な間の取り方が、第1楽章冒頭の低弦と同様で実に巧み。

その後も、ティンパニを始めとした打楽器群の活かし方は素晴らしく、打楽器を重要視したマーラーの本質を見事に衝いている。

中間部の金管楽器のファンファーレにおける猛烈なアッチェレランドは凄まじい迫力であるし、その後に続く弱音のトランペットのパッセージのゆったりしたテンポによる歌わせ方は、まさに天国的な至高・至純の美しさ。

終結部のトゥッティのド迫力は、もはや言葉を失ってしまうほど圧倒的だ。

第4楽章は、メゾソプラノの竹本節子の歌唱が実に美しく、それに合わせるかのように、東京都交響楽団も雰囲気満点の実に美しい音楽を奏でている。

終楽章は、冒頭圧巻の迫力で開始される。

その後は、ゲネラルパウゼや思い切った強弱の変化等を効果的に駆使しつつ主部に繋いでいく。

主部への導入部のティンパニは凄まじい迫力であり、主部は風格豊かな堂々たる進軍だ。

この部分は、下手な指揮者にかかると冗長さを感じさせてしまうのだが、インバルの場合は、緩急自在のテンポ設定、アッチェレランドの効果的活用、強弱の変化など、あらゆる至芸を駆使して実に濃密でドラマティックな音楽を構築しているのが素晴らしい。

合唱が導入されて以降は、スケール雄大な壮麗さが支配しており、圧倒的な高揚と迫力のうちに、全曲を締めくくっている。

独唱陣は、終楽章においても見事な歌唱を披露しており、二期会合唱団も大健闘と言える。

何よりも素晴らしいのは東京都交響楽団であり、インバルの見事な統率の下、最高のパフォーマンスを示している。

臨場感あふれる極上の高音質録音も、本盤の価値を高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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2015年05月15日


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凄い演奏だ。

これほどまでに心を揺さぶられる演奏についてレビューを書くのはなかなかに困難を伴うが、とりあえず思うところを書き連ねることとしたい。

いずれにしても、テンシュテット&ロンドン・フィルの1983年におけるマーラーの交響曲第6番のライヴ録音が発売されたのはクラシック音楽ファンにとって大朗報とも言えるところだ。

テンシュテットと言えば、何と言ってもマーラーの交響曲の様々な名演が念頭に浮かぶが、マーラーの数ある交響曲の中でもとりわけ第6番を得意としており、複数の録音を遺している。

最初の録音は、交響曲全集の一環としてスタジオ録音された演奏(1983年)、次いで本盤のライヴ録音された演奏(1983年)、そしてその8年後にライヴ録音された演奏(1991年)の3種が存在しており、オーケストラはいずれも手兵ロンドン・フィルである。

いずれ劣らぬ名演ではあるが、随一の名演は1991年の演奏であることは論を待たないところだ。

というのも、テンシュテットは1985年に咽頭がんを患い、その後は放射線治療を続けつつ体調がいい時だけ指揮をするという絶望的な状況に追い込まれたからである。

したがって、1991年の演奏には、死と隣り合わせの壮絶な演奏を展開しており、1つ1つのコンサートに命がけで臨んでいた渾身の大熱演とも言うべき壮絶な迫力に満ち溢れていると言えるからだ。

とはいえ、それ以前もいささかも妥協を許さない全力投球の極めて燃焼度の高い渾身の演奏を繰り広げていたところであり、本盤に収められた1983年にライヴ録音された演奏もそうしたことが言えるところだ。

そうしたテンシュテットの指揮芸術は、最も得意としたマーラーの交響曲の演奏において如実に反映されていると言えるであろう。

テンシュテットのマーラーの交響曲へのアプローチはドラマティックの極みとも言うべき劇的なものだ。

これはスタジオ録音であろうが、ライヴ録音であろうが、さして変わりはなく、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使して、大胆極まりない劇的な表現を施している。

かかる劇的な表現においては、かのバーンスタインと類似している点も無きにしも非ずであり、マーラーの交響曲の本質である死への恐怖や闘い、それと対置する生への妄執や憧憬を完璧に音化し得たのは、バーンスタインとテンシュテットであったと言えるのかもしれない。

ただ、バーンスタインの演奏があたかもマーラーの化身と化したようなヒューマニティ溢れる熱き心で全体が満たされている(したがって、聴き手によってはバーンスタインの体臭が気になるという者もいるのかもしれない)に対して、テンシュテットの演奏は、あくまでも作品を客観的に見つめる視点を失なわず、全体の造型がいささかも弛緩することがないと言えるのではないだろうか。

もちろん、それでいてスケールの雄大さを失っていないことは言うまでもないところだ。

このあたりは、テンシュテットの芸風の根底には、ドイツ人指揮者としての造型を重んじる演奏様式が息づいていると言えるのかもしれない。

前述のように第6番では、1991年のライヴ録音が最高峰に君臨する名演であるのは自明の理ではあるが、本盤に収められた交響曲第6番の演奏も圧倒的な超名演であり、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な凄みのある迫力を湛えていると評価したい。

オーケストラは必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルであるが、テンシュテットのドラマティックな指揮に必死に喰らいつき、テンシュテットとともに持ち得る実力を全面的に発揮させた渾身の演奏を繰り広げていると言えるところであり、本演奏を超名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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途轍もない超名演だ。

このような超名演が発掘されたことは、クラシック音楽ファンにとっては何よりの大朗報であり、本盤の発売を行うに際して努力をされたすべての関係者に対して、この場を借りて心より感謝の意を表したい。

バーンスタインは、ワルターやクレンペラーといったマーラーの直弟子ではないが、おそらくは今後とも不世出であろう史上最高のマーラー指揮者。

何よりも、DVD作品を含めると3度にわたってマーラーの交響曲全集を録音(最後の全集については、交響曲「大地の歌」や交響曲第8番及び第10番の新録音を果たすことが出来なかったことに留意しておく必要がある)したことがそれを物語っており、いずれの演奏も他の指揮者の演奏を遥かに凌駕する圧倒的な超名演に仕上がっているとさえ言える。

バーンスタインは、そうしたマーラーの数ある交響曲の中で最も愛していたのは、マーラーの交響曲中で最高傑作の呼び声の高い第9番であったことは論を待たないところだ。

バーンスタインは、本盤が登場するまでの間は、同曲について、DVD作品を含め4種類の録音を遺している。

最初の録音は、ニューヨーク・フィルとのスタジオ録音(1965年)、2度目の録音は、ウィーン・フィルとのDVD作品(1971年)、そして3度目の録音は、ベルリン・フィルとの一期一会の演奏となったライヴ録音(1979年)、そして4度目の録音は、コンセルトヘボウ・アムステルダムとのライヴ録音(1985年)である。

本盤の演奏は、コンセルトヘボウ・アムステルダムとの演奏が1985年5〜6月のものであることから、その約2か月後の1985年8月のものであり、現時点では、バーンスタインによる同曲の最後の演奏ということになる。

9月には、同じくイスラエル・フィルと来日して、今や我が国では伝説的となった同曲の至高の超名演を成し遂げるのであるが、当該来日公演のCD化がなされていない現段階のおいては、本盤の演奏こそは、バーンスタインの同曲演奏の究極の到達点と言っても過言ではあるまい。

本盤の演奏は、壮絶な迫力(例えば、第3楽章終結部の猛烈なアッチェレランド、終楽章の濃厚かつ情感豊かな味わい深さなど)を誇っているとさえ言えるだろう。

これは、イスラエル・フィルという、同じユダヤ人としてのマーラーへの深い共感度を誇ったオーケストラを起用したこと、そして、録音を意識しないで演奏を行っていたであろうことに起因するオーケストラの渾身の熱演ぶりにあると言えるのではないだろうか。

おそらくは、同曲の最高の演奏という次元を超えて、これほどまでに心を揺さぶられる演奏というのはあらゆる楽曲の演奏において稀であるとさえ言えるところであり、まさに筆舌にはもはや尽くし難い、超名演の前に超をいくつ付けても足りないような究極の超名演と高く評価したい。

音質も非常に優れたものと言えるところであり、コンセルトヘボウ・アムステルダムとの演奏が今一つの音質であっただけに、大きなアドバンテージとも言えるだろう。

これだけの超名演だけに、可能であれば、SACD盤で発売して欲しかったと思う聴き手は筆者だけではあるまい。

それにしても、本演奏がこれだけ素晴らしいだけに、どうしても更なる欲が出てくる。

あの伝説的な来日公演をCD化することはできないのであろうか。

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2015年05月14日


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凄い演奏だ。

いまや世界最高のマーラー指揮者として君臨しているインバルの勢いや、もはや誰もとどめることが出来ない。

インバルを世界的巨匠へ押し上げたマーラー演奏であり、圧倒的な技術とアンサンブルで驚くべき見事な演奏を繰り広げる東京都交響楽団と、両者のボルテージが最高潮へと導き、世界最高峰の演奏と言われるマーラーが姿を現す。

インバルによるマーラーの交響曲演奏と言えば、かつての手兵であるフランクフルト放送交響楽団との全集(1985年〜1988年)が名高いが、ここ数年にわたって、東京都交響楽団やチェコ・フィルとの演奏は、段違いの素晴らしさと言えるのではないだろうか。

本盤に収められた東京都交響楽団とのマーラーの交響曲第1番の演奏は、インバルとしては、前述の全集中に含まれた同曲の演奏(1985年)、チェコ・フィルとの演奏(2011年)に次ぐ3度目の録音となる。

同曲は、マーラーの青雲の志を描いた交響曲であるだけに、前回の全集の中でも非常に優れた演奏の1つであったし、チェコ・フィルとのものも大変素晴らしい出来映えであったが、本盤の演奏は更に優れた名演に仕上がっており、まさに、近年のインバルの充実ぶりが窺える圧倒的な超名演と言っても過言ではあるまい。

かつてのインバルによるマーラーへの交響曲演奏の際のアプローチは、マーラーへの人一倍の深い愛着に去来する内なるパッションを抑制して、可能な限り踏み外しがないように精緻な演奏を心掛けていたように思われる。

全集の中でも優れた名演の1つであった第1番についても例外ではなく、全体の造型は堅固ではあり、内容も濃密で立派な名演奏ではあるが、今一つの踏み外しというか、胸襟を開いた思い切った表現が欲しいと思われることも否めない事実である。

ところが、チェコ・フィルとの演奏、そして、東京都交響楽団との本演奏においては、かつての自己抑制的なインバルはどこにも存在していない。

インバルは、内なるパッションをすべて曝け出し、どこをとっても気迫と情熱、そして心を込め抜いた濃密な表現を施しているのが素晴らしい。

それでいて、インバルならではの造型の構築力は相変わらずであり、どんなに劇的かつロマンティックな表現を行っても、全体の造型がいささかも弛緩することがないのは、さすがの至芸と言うべきであろう。

いずれにしても、テンポの効果的な振幅を大胆に駆使した本演奏のような密度の濃い表現を行うようになったインバルによる超名演を聴いていると、バーンスタインやテンシュテット、ベルティーニなどの累代のマーラー指揮者が鬼籍に入った今日においては、インバルこそは、現代における最高のマーラー指揮者であるとの確信を抱かずにはいられないところだ。

さらに、前回のチェコ・フィルとの演奏よりも細かなニュアンスや間の取り方など、非常に深みのある味わい深い円熟の名演奏になっていて、同曲の代表的名盤との地位を確立したと言って良いだろう。

オーケストラに東京都交響楽団を起用したのも功を奏しており、本超名演のグレードをさらに上げる結果となっていることを忘れてはならない。

例えが適切かどうか分からないが、インバルと、都響及びチェコ・フィルとの関係は、フルトヴェングラーとベルリン・フィル及びウィーン・フィルとの関係に似ているような気がする。

つまり前者のパートナーとは徹底的に自分のやりたい音楽を追求し、後者はオーケストラの特性をある程度尊重して、ある意味余裕をもって遊んでいるという感じだ。

こういった使い分けが無理なくできて、どちらも素晴らしいところは、インバルが真の巨匠の域に達したことを示すものだろう。

そして、ワンポイント・レコーディングによる極上の高音質録音も、本超名演を鮮明な音質で味わえるものとして大いに歓迎したいと考える。

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2015年05月09日


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2011年3月4日&6日、アムステルダムのコンセルトヘボウに於けるライヴ録音で、ヤンソンス&コンセルトヘボウ・アムステルダムによるマーラーの交響曲チクルスの第6弾の登場だ。

演奏内容は、2012年秋にリリースされた「マーラー交響曲全曲ライヴ映像」に含まれていたものと同じであるが、このたびその映像もボーナスとして、ブルーレイ、DVDふたつのフォーマットで用意されるといううれしい配慮がなされている。

前作の「第3」や前々作の「第2」も名演であったが、今般の「第8」も素晴らしい名演と高く評価したい。

「第2」や「第3」もそうであったが、先ずは、録音の素晴らしさについて言及しておきたい。

本盤も、これまでと同様のマルチチャンネル付きのSACDであるが、世界でも屈指の音響を誇るコンサートホールとされるコンセルトヘボウの豊かな残響を活かした鮮明な音質は、これ以上は求め得ないような圧倒的な臨場感を誇っている。

特に、マーラーの合唱付きの大編成の交響曲の録音において、オーケストラの各セクション、独唱、合唱が明瞭に分離して聴こえるというのは殆ど驚異的な高音質であると言えるところであり、それぞれの楽器や合唱等の位置関係までがわかるほどの鮮明さを誇っている。

これまで、マーラーの「第8」では、インバル&東京都交響楽団ほかによる超優秀録音(本盤と同様にマルチチャンネル付きのSACD録音)にして素晴らしい名演があったが、本盤も当該盤に比肩し得る極上の高音質であり、なおかつ素晴らしい名演であると言えるだろう。

「第8」は、重厚長大な交響曲を数多く作曲したマーラーの手による交響曲の中でも最大規模を誇る壮大な交響曲である。

オーボエ4、イングリッシュホルン1、ホルン8のほか、チェレスタ、ピアノ、ハルモニウム、オルガン、ハープ2、マンドリンも擁する巨大オーケストラに加えて、児童合唱団や2組の大合唱団、さらには多くの独唱者たちというその特異な編成もさることながら、全曲の最初と最後に山場が置かれる独特の構成や、その間のさまざまな楽器の組み合わせによる多様なひびきの面白さ、カンタータやオラトリオを思わせるセレモニアルな性格に特徴がある。

したがって、全体をうまく纏めるのが難しい交響曲でもあると言えるところだ。

ヤンソンスは、全体の造型をいささかも弛緩させることなく的確に纏め上げるとともに、スケールの大きさを損なっていない点を高く評価したい。

また、その一方で、長丁場のドラマ作りが難しい作品とも言えるが、そこはヤンソンスのこと、中盤過ぎまで抒情的な部分が占める第2部では、埋もれがちな細部の掘り起こしにも余念がなく、第1部の冒頭主題が回帰する第2部終結部に至る道のりを丁寧な音楽づくりで手堅く纏め上げている。

そして、そのアプローチは、曲想を精緻に描き出して行くというきわめてオーソドックスで純音楽的なものであり、マーラーの光彩陸離たる音楽の魅力をゆったりとした気持ちで満喫することができるという意味においては、前述のインバルによる名演にも匹敵する名演と言える。

コンセルトヘボウ・アムステルダムは、前任のシャイー時代にその独特のくすんだようないぶし銀の音色が失われたと言われているが、本演奏においては、そうした北ヨーロッパならではの深みのある音色を随所に聴くことが可能であり、演奏に奥行きと潤いを与えている点を忘れてはならない。

豪華メンバーを揃えた独唱陣も素晴らしい歌唱を披露しており、バイエルン放送合唱団
、ラトビア国立アカデミー合唱団、オランダ放送合唱団、オランダ国立少年合唱団、オランダ国立児童合唱団も最高のパフォーマンスを示していると評価したい。

いずれにしてもヤンソンスがコンセルトヘボウに鳴り響かせた大宇宙を捉え切った極上の高音質SACD盤(同内容の全曲演奏を収録した映像特典つき)で味わえるのを大いに歓迎したいと考える。

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2015年05月07日


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巨匠ノイマンが最晩年にレコーディングした至高のマーラー・サイクルの頂点とも言える「第6」がSACDハイブリット化して再登場した。

これこそクラシック音楽演奏史上燦然と輝く金字塔であり、 このレコーディングの数ヶ月後に他界したノイマンの精神が、この演奏の細部にまで宿っている。

互いに敬愛を寄せるノイマンとチェコ・フィル、そのすべてが完全に昇華された充実の極みとも言える演奏が繰り広げられている。

もちろん、チェコ・フィルの顔と呼べる、唸るホルン・セクション、法悦するミロスラフ・ケイマルなど聴き応え満点の演奏内容だ。

全体を通して力強い演奏であるが、タイトルにとらわれない解釈も非常に好ましく、その内には人間の悲哀が込められているように感じられるところであり、そういう意味で「悲劇的」要素も充分に表出していると思う。

第1楽章は恐ろしい死の行進で開始されるが、冒頭からしてノイマンの気迫あふれた指揮は異次元空間を作り上げている。

チェロ、バスのリズムがすごい意味を感じさせるが、少しも力んではいないのに音楽的かつ有機的なのだ。

各楽器のバランスや全体の響き、ハーモニーの作り方も素晴らしく、例えばトランペットが柔らかい音で意味深く突き抜けたかと思うと、木管合奏が哀しく訴えかけ、ティンパニが心に痛みを感じさせつつ強打される、といった具合なのだ。

それにしてもオケの各パート、そしてマーラーのオーケストレーションを完璧に自分のものにしたノイマンの実力は神業とさえ言えよう。

この作曲家独自の鮮やかな音彩を保持したまま、常に深い内容を湛え、メカニックな楽器自体の音は1音たりとも出していない。

ホルンの最強音がため息に聴こえたり、ときにはかくし味の色合いを見せたり、あえかなデリカシーを魔法のように現出させたり…、アルマの主題は(2:30)に顔を出す。

第2楽章のスケルツォも冒頭のティンパニのアクセントから分厚く、音楽的な意味深さは相変わらずだし、その上メリハリの効果にも富み、各種打楽器の実在感、リズムの生命力、悪魔的なホルンなど、どこをとっても味わい濃厚であり、美感も満点、そしてそれらをマイクが100%とらえ切っている。

第3楽章は歌い方にもルバートにも心がこもり切り、マーラーの夢のように美しい管弦楽法がその心の訴えとともに表われるところ、これ以上の演奏を望むことはできない。

そして終楽章。

出のハープがものをいい、ヴァイオリンははかなく、突然の恐怖から低弦の雄弁な語り口にいたるわずか20小節ほどの間に激変する音楽の対処の仕方だけを見ても、ノイマン&チェコ・フィルの質の高さ、密度の濃さは際立っている。

演奏はどこまでも生々しく進み、アンサンブルは揺るぎなく、第1楽章のアルマの主題の変形である序奏主題の哀切さは、それが登場するたびに情感を増して比類がない。

コーダの途中(28:56)など、すでに力尽きたマーラーの姿であり、それゆえ、いっそうアルマを恋い慕うのだ(29:04)。

ティンパニによる破滅の運命の動機(29:20)もここでは弱いが、ついに終結の3小節で最後の鉄槌が振り下ろされ(31:18)、英雄は死ぬ。

マルチチャンネル付きのSACDによる臨場感あふれる極上の高音質録音も実に効果的であり、ノイマン&チェコ・フィルによる本名演の価値を更に高めるのに大きく貢献している点も忘れてはならない。

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マーツァルは、チェコ・フィルとともにマーラーの交響曲全集の録音を行っている途上にあるが、「第8」と「大地の歌」「第10」を残したところで中断してしまっている。

その理由は定かではないが、既に録音された交響曲の中では、本盤に収められた「第6」と「第5」「第3」が特に素晴らしい超名演に仕上がっていると言えるところであり、他の交響曲の演奏の水準の高さからしても、是非とも全集を完成して欲しいと考えている。

さて、この「第6」であるが、これが実に素晴らしい名演なのだ。

「第6」の名演と言えば、いの一番に念頭に浮かぶのがバーンスタイン&ウィーン・フィルによる超名演(1988年)だ。

これは変幻自在のテンポ設定や、思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使したドラマティックの極みとも言うべき濃厚な豪演であり、おそらくは同曲に込められた作曲者の絶望感や寂寥感、そしてアルマ・マーラーへの狂おしいような熱愛などを完璧に音化し得た稀有の超名演である。

これに肉薄するのがテンシュテット&ロンドン・フィル(1991年)やプレートル&ウィーン響(1991年)の名演であると言えるだろう。

ところが、マーツァルの演奏には、そのようなドラマティックな要素や深刻さが微塵も感じられないのだ。

要は、マーラーが試行錯誤の上に作曲した光彩陸離たる華麗なオーケストレーションを、マーツァルは独特の味わい深い音色が持ち味のチェコ・フィルを統率してバランス良く音化し、曲想を明瞭に、そして情感を込めて描き出している。

まさに純音楽に徹した解釈であると言えるが、同じ純音楽的な演奏であっても、ショルティ&シカゴ響(1970年)のような無慈悲なまでの音の暴力にはいささかも陥っていないし、カラヤン&ベルリン・フィル(1975年)のように耽美に過ぎるということもない。

「第6」をいかに美しく、そして情感豊かに演奏するのかに腐心しているようであり、我々聴き手も聴いている最中から実に幸せな気分に満たされるとともに、聴き終えた後の充足感には尋常ならざるものがある。

チェコ・フィルは、その独特の味わい深い音色が持ち味の中欧の名門オーケストラであるが、マーツァルは同オーケストラをバランス良く鳴らして、マーラーの光彩陸離たる華麗なオーケストレーションが施された曲想を美しく明瞭に描き出している。

この「第6」でも、最強奏から最弱音に至るまで表現の幅は実に広く、特に、最強奏における金管楽器の光彩陸離たる響きは、幻惑されるような美しさだ。

とはいえ、端正な音楽造りに定評あるマーツァルとしては異例なほど迫力に満ちた演奏で、特に終楽章では少々の乱れを度外視した荒々しい表現に驚かされる。

ビロードのような艶を誇るチェコ・フィルの弦楽セクションがここでは非常に鋭角的で、ヴァイオリンの切れ味、ゴリゴリとした低弦の威力が圧巻だ。

金管の迫力も凄まじいものであるし、金属打楽器やピッコロは鮮烈、ハープまでが雄弁な自己主張をおこなって、アンサンブルを優先したいつものチェコ・フィル・サウンドを大幅に踏み越えた圧倒的な勢力を聴かせてくれる。

それでいて、スコアに記された音符のうわべだけを音化しただけの薄味な演奏には陥っておらず、どこをとってもコクがあり情感の豊かさを失っていないのが素晴らしい。

本演奏を聴いていると、心が幸福感で満たされてくるような趣きがあり、聴き終えた後の爽快感、充実感は、他の演奏では決して味わうことができないものであると言えるだろう。

これは間違いなくマーツァルの類稀なる音楽性の豊かさの賜物であると言えるところであり、いずれにしても本演奏は、前述のバーンスタイン盤などのドラマティックな名演とはあらゆる意味で対極にあるものと言えるが、「第6」の魅力を安定した気持ちで心行くまで堪能させてくれるという意味においては、素晴らしい至高の超名演と高く評価したい。

このような純音楽的な名演において、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音は実に効果的であり、本名演の価値を更に高めるのに大きく貢献している点も忘れてはならない。

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2015年05月02日


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バーンタインの演奏するマーラーは、「人類の遺産」と称しても過言ではなく、バーンスタインこそが史上最大のマーラー指揮者であることは論を待たないところだ。

バーンスタインは、本DVD作品を含めて3度にわたってマーラーの交響曲全集を録音した唯一の指揮者でもあるが(最後の全集は残念ながら一部未完成)、そのいずれもが数多くのマーラーの交響曲全集が存在している現在においてもなお、その輝きを失っていないと言えるだろう。

本盤に収められたマーラーの交響曲全集は、バーンスタインによる2度目のものに相当する。

収録は1970年代に行われており、オーケストラは、ウィーン・フィルの起用を軸としつつも第2番においてロンドン交響楽団、「大地の歌」においてイスラエル・フィルを起用している。

各オーケストラの使い分けも実に考え抜かれた最善の選択がなされていると評価したい。

このようなオーケストラの起用の仕方は、最初の全集が当時音楽監督をつとめていたニューヨーク・フィルを軸として、第8番はロンドン交響楽団が起用したこと、3度目の全集においては、ウィーン・フィル、コンセルトへボウ・アムステルダム、そしてニューヨーク・フィルの3つのオーケストラを起用したこととも共通している。

バーンスタインのマーラー演奏はいずれも極めてドラマティックなものだ。

バーンスタインは、かつてニューヨーク・フィルの音楽監督の時代には、いかにもヤンキー気質の爽快な演奏の数々を成し遂げていたが、ヨーロッパに拠点を移した後、ウィーン・フィル等を叱咤激励してマーラーの音楽を懸命になって啓蒙していたところだ。

変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、そして猛烈なアッチェレランドを駆使するなど、その劇的な表現は圧倒的な迫力を誇っており、聴いていて手に汗を握るような興奮を味わわせてくれると言えるだろう。

こうしたバーンスタインのマーラー演奏のスタイルは最晩年になってもいささかも変わることがなかったが、晩年の3度目の全集では、より一層表現に濃厚さとスケールの大きさ、そして楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような奥行きの深さが加わり、他の指揮者による演奏を寄せ付けないような至高の高みに達した超名演に仕上がっていたと言える。

本盤に収められた演奏は、50代の壮年期のバーンスタインによるものであるだけに、3度目の全集のような至高の高みには達してはいないが、前述のようなドラマティックな表現は健在であり、とりわけトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫や強靭な迫力においては、1度目や3度目の全集をも凌駕しているとさえ言えるだろう。

ストレートで若干荒削りな演奏と言えなくもないが、スコアに記された音符の表層をなぞっただけの洗練された美を誇る演奏などに比べれば、よほど本演奏の方がマーラーの本質を捉えていると言えるとともに、我々聴き手に深い感動を与えてくれると言えるだろう。

マーラーの交響曲のテーマは、楽曲によって一部に例外はあるものの、基本的には死への恐怖と闘い、そしてそれと対置する生への妄執と憧憬であると考えるが、バーンスタイン以上にそれを音化し得た演奏は、テンシュテットによる最晩年の演奏以外には存在しないと言っても過言ではあるまい。

本全集の各演奏こそは、史上最大のマーラー指揮者であったバーンスタインがヨーロッパに軸足を移してから漸く成し得た究極の名演奏と言っても過言ではあるまい。

そして在りし日のウィーン・フィルとバーンスタインとの蜜月時代を確認するには、最良の1組と言えるだろう。

いずれにしても、本全集は、稀代のマーラー指揮者であったバーンスタインによる映像作品による全集として、今後ともその存在価値をいささかも失うことがない名全集と高く評価したい。

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2015年05月01日


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これは同じくベルリン・フィルと1964年にスタジオ録音した第9番とともにバルビローリ屈指の名演だ。

バルビローリは、どちらかと言えば北欧音楽や英国音楽を得意のレパートリーとした指揮者として広く知られているが、マーラーの交響曲についてもコンサートで頻繁に採り上げるとともに、ライヴ録音などを含めると相当数の録音を遺しているところである。

交響曲第6番についても複数の録音が遺されており、本盤に収められたベルリン・フィルとの演奏(1966年(ライヴ録音))、そしてニュー・フィルハーモニア管弦楽団との演奏(1967年(ライヴ録音及びスタジオ録音の2種))の3種の録音が存在している。

今後も、更に録音が発掘される可能性は否定できないが、これら3種の録音はいずれ劣らぬ名演である。

この中で、バルビローリにとっても同曲の唯一のスタジオ録音は、2種のライヴ録音とは、その演奏の性格が大きく異なっているところだ。

そもそもテンポが大幅に遅くなっている。

トータルの時間でも10分以上の遅くなっているのは、前述のライヴ録音盤がいずれも約73分であることに鑑みれば、大幅なスローダウンと言えるだろう。

これに対して、1966年ライヴ録音(本盤)と1967年ライヴ録音盤は、オーケストラがベルリン・フィルとニュー・フィルハーモニア管弦楽団の違いがあるものの、演奏全体の造型やテンポ、そしてアグレッシブな豪演などと言った点においてはほぼ共通するものがある。

それだけに、本演奏におけるバルビローリの感情移入の度合いには尋常ならざるものがある。

バーンスタインやテンシュテットなどに代表されるドラマティックな演奏や、はたまたブーレーズなどによる純音楽に徹した演奏などとは異なり、滋味豊かな情感に満ち溢れるとともに、粘着質とも言うべき濃厚な表情づけが特徴である。

冒頭からウンウンうなりながらの熱演で、どっしりと重心の低い解釈で肉薄している。

ここぞという時のトゥッティにおける強靭な迫力にもいささかも不足はないが、そのような箇所においても独特の懐の深さが感じられるのが、バルビローリによるマーラー演奏の性格をより決定づけているとも言えるだろう。

本演奏でもかかるアプローチは健在であり、情感豊かにこれほどまでの濃厚で心を込め抜いた演奏は、かのバーンスタイン&ウィーン・フィルによる超名演(1988年)ですらすっきりとした見通しの良い演奏に感じさせるほどであり、聴き終えた後の充足感には曰く言い難いものがある。

「悲劇」を予想させるこの交響曲に広がる力の大きさをもって向かうバルビローリの感情移入した姿勢は、聴き手の共感を得、ひしひしと響きが伝わってくる。

なお、バルビローリは、近年ではマーラーの最終的な決定を尊重するという意味で主流になりつつあり、1967年スタジオ録音では従来どおりの入れ替えないバージョンで演奏を行っていたが、本盤に収められた1966年ライヴ録音盤と1967年ライヴ録音盤では当時としては珍しい、スケルツォ楽章(第2楽章)とアンダンテ楽章(第3楽章)を入れ替えるバージョンで、演奏を行っていたのは実に興味深いと言えるところだ。

第1、3楽章の強迫感、第2楽章の悠然としたスケール、そして度肝を抜くフィナーレはまさに必聴である。

また、バルビローリの濃厚で粘着質な指揮に、ベルリン・フィルが必死で喰らいつき、持ち得る実力を十二分に発揮した渾身の名演奏を展開しているのも素晴らしい。

いずれにしても、本演奏は、バルビローリの同曲への深い愛着と思い入れを感じることが可能な入魂の名演と高く評価したいと考える。

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2015年04月29日


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ブーレーズはDGに相当に長い年数をかけて、着実に歩を進めながらマーラーの交響曲全集を録音したが、ブーレーズのアプローチはどの交響曲に於いても、殆ど変っていないように思われる。

本盤に収められたマーラー最長のシンフォニーであり、複雑で膨大な構造を持つ第3交響曲を、解析能力抜群のブーレーズはウィーン・フィルとともに壮大に描き切っている。

マーラー嫌いにこそ真髄が味わえるとさえ感じさせるブーレーズによるマーラーチクルスは、すこぶる冴えわたっている。

かつては、作曲家も兼ねる前衛的な指揮者として、聴き手を驚かすような怪演・豪演の数々を成し遂げていたブーレーズであるが、1990年代に入ってDGに録音を開始するとすっかりと好々爺になり、オーソドックスな演奏を行うようになったと言える。

1970年代までは、聴き手の度肝を抜くような前衛的なアプローチによる怪演を行っていたが、かつての前衛的なアプローチは影を潜めてしまった。

もっとも、これは表面上のことであって、必ずしもノーマルな演奏をするようになったわけではなく、そこはブーレーズであり、むしろスコアを徹底的に分析し、スコアに記されたすべての音符を完璧に音化し、細部への拘りを徹底した精緻な演奏を成し遂げるべく腐心しているようにさえ感じられるようになった。

むしろ楽曲のスコアに対する追求の度合いは以前よりも一層鋭さを増しているようにも感じられるところであり、マーラーの交響曲の一連の録音においても、その鋭いスコアリーディングは健在である。

演奏においても、そうした鋭いスコアリーディングの下、曲想を細部に至るまで徹底して精緻に描き出しており、他の演奏では殆ど聴き取ることができないような旋律や音型を聴き取ることが可能なのも、ブーレーズによるマーラー演奏の魅力の1つと言えるだろう。

もっとも、あたかもレントゲンでマーラーの交響曲を撮影するような趣きも感じられるところであり、マーラーの音楽特有のパッションの爆発などは極力抑制するなど、きわめて知的な演奏との印象も受ける。

したがって、「第3」で言えば、ドラマティックなバーンスタイン&ニューヨーク・フィル(1987年ライヴ)やテンシュテット&ロンドン・フィル(1986年ライヴ)の名演などとはあらゆる意味で対照的な演奏と言えるところである。

もっとも、徹底して精緻な演奏であっても、例えばショルティのような無慈悲な演奏にはいささかも陥っておらず、どこをとっても音楽性の豊かさ、情感の豊かさを失っていないのも、ブーレーズによるマーラー演奏の素晴らしさであると考える。

作曲家のアイデンティティとも言える「角笛」シリーズの一隅を成す「第3」は、言わずもがなの壮大なスケールと切れの良さに繊細なフレージングの妙味が加わって無敵の演奏が繰り広げられている。

同曲は比較的大編成のオーケストラを要するため、音響バランスに注意が必要だが、ブーレーズの耳の良さ及び分析力のよって、見事に表現されている。

さらに、ウィーン・フィルの優美な演奏が、本演奏に適度の潤いと温もりを付加させていることも忘れてはならない。

特に第3楽章の舞台裏ポストホルン(首席トランペットのシューによる見事な吹奏)のノスタルジックな美音も印象的だ。

ウィーンの音楽家たちを率いて、ここまで客観的・分析的な演奏を構築した上に、総体としては“楽しめる”ものに仕上げる手腕は、いつまでも“作曲家の視点”ばかりを指摘していても的外れに終わってしまう、演奏家としての周到さと円熟を披瀝している。

バロック・オペラから現代作品まで幅広く、深みのある歌唱を繰り広げる絶好調のフォン・オッターの共演も話題性を超えたコラボレーションとして結実している。

加えてウィーン少年合唱団、ウィーン楽友協会女声コーラスも最高のパフォーマンスを示している。

演奏に刺激されてか、細部と総体のバランスも絶妙なすこぶる優秀な録音に仕上がっている。

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2015年04月27日


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ブーレーズは、15年もの長きにわたってマーラーの交響曲全集の録音に取り組んできたが、本盤は、その最後を飾るものである。

まさに、有終の美を飾る名演として高く評価したい。

全集の最後を、未完の交響曲第10番で終えるというのも、いかにもブーレーズらしい。

ブーレーズのマーラーは、若き日の前衛時代ではなく、むしろ角の取れたソフト路線が顕著となった時期の録音だけに、純音楽的なアプローチでありながら、比較的常識的な演奏に仕上がっていることが多いように思う。

そのような中で、今回の第10番は、もちろん、若き日のブーレーズのような切れ味鋭い前衛的な解釈が全体を支配しているわけではないが、近年のブーレーズに顕著な好々爺のような穏健的な解釈ではなく、むしろ、曲想を抉り出していくような冷徹とも言えるアプローチをとっている。

それ故に、甘さを一切排した、若き日のブーレーズを彷彿とさせるような名演に仕上がっている。

テンポがやや速めなのも、こうした傾向に拍車をかけており、私見ではあるが、ブーレーズが、マーラーの交響曲へのアプローチの仕方を、この第10番において漸く見出すことができたのではないかと思うほどだ。

演奏は、あらゆる意味でバーンスタインやテンシュテットなどによる濃厚でドラマティックな演奏とは対極にある純音楽的なものと言えるだろう。

ブーレーズは、特に1970年代までは、聴き手の度肝を抜くような前衛的なアプローチによる怪演を行っていた。

ところが、1990年代にも入ってDGに様々な演奏を録音するようになった頃には、すっかりと好々爺になり、かつての前衛的なアプローチは影を潜めてしまった。

もっとも、必ずしもノーマルな演奏をするようになったわけではなく、そこはブーレーズであり、むしろスコアを徹底的に分析し、スコアに記されたすべての音符を完璧に音化するように腐心しているようにさえ感じられるようになった。

もちろん、スコアの音符の背後にあるものまでを徹底的に追求した上での演奏であることから、単にスコアの音符のうわべだけを音化しただけの薄味の演奏にはいささかも陥っておらず、常に内容の濃さ、音楽性の豊かさを感じさせてくれるのが、近年のブーレーズの演奏の素晴らしさと言えるだろう。

本演奏においても、そうした近年のブーレーズのアプローチに沿ったものとなっており、複雑なスコアで知られるマーラーの第10番を明晰に紐解き、すべての楽想を明瞭に浮かび上がらせるように努めているように感じられる。

それ故に、他の演奏では殆ど聴き取ることが困難な旋律や音型を聴くことができるのも、本演奏の大きな特徴と言えるだろう。

さらに、ブーレーズの楽曲への徹底した分析は、マーラーが同曲に込めた死への恐怖や生への妄執と憧憬にまで及んでおり、演奏の表層においてはスコアの忠実な音化であっても、その各音型の中に、かかる楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような奥行きの深さを感じることが可能である。

これは、ブーレーズが晩年に至って漸く可能となった円熟の至芸とも言えるだろう。

併録の「子供の不思議な角笛」は、第10番とは異なり、いかにも近年のブーレーズらしい穏健な解釈であるが、コジェナーやゲルハーヘルの独唱と相俟って、ゆったりとした気持ちで音楽を味わうことができるのが素晴らしい。

ゲルハーエルには庶民的な風合いがあって実に好ましく、しかも彼には庶民を装っている自分を脇から眺める、もう1つの自意識もあって「塔の中の囚人の歌」では囚人の大言壮語に対するパロディの視点がちゃんと確保されている。

コジェナーも「美しいトランペットの鳴り渡るところ」ではまことに情が深く、メゾソプラノの落ち着いたトーンと、コジェナーならではの表現力豊かな歌唱が魅力的である。

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2015年04月26日


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ラトル&ベルリン・フィルの近年の充実ぶりを示す素晴らしい名演だ。

今後、本演奏を皮切りとしてマーラーチクルスを開始するようであるが、今後の録音に大いに期待できる名演である。

ラトルのベルリン・フィルへのデビューは、マーラーの「第5」であったが、意欲だけが空回りしたイマイチの演奏であったと記憶する。

その後の数年間は、ラトルもベルリン・フィルを掌握するのに苦労したせいか、凡演の数々を生み出すなど、大変苦しんだようである。

しかしながら、数年前のマーラーの「第9」あたりから、ベルリン・フィルを見事に統率した素晴らしい名演の数々を聴かせてくれるようになった。

本盤も、そうした一連の流れの中での圧倒的な名演だ。

第1楽章の冒頭から、ゆったりとしたテンポで重厚な深みのある音色を出している。

ここには、ラトルの「復活」に対する深い理解に基づく自信と風格が感じられる。

トゥッティにおいてもいささかも力むことがなく、力任せの箇所は皆無、テンポの緩急やダイナミックレンジの幅の広さは桁外れであり、随所にアッチェレランドをかけるなど、劇的な要素にもいささかの不足はない。

弦楽器のつややかな響きや、金管楽器の巧さも特筆すべきものであり、ベルリン・フィルも、アバド時代から続いた世代交代が、ラトル時代に入って、漸く安定期に入ったことを大いに感じることができる。

終結部の大見得を切った演出は実にユニークであるが、あざとさをいささかも感じさせないのは、ラトルの「復活」への深い共感と理解の賜物であると考える。

第2楽章は一転して速いテンポであるが、情感の豊かさにおいては人後に落ちるものではなく、決して薄味な演奏には陥っていない。

中間部の猛烈なアッチェレランドは実に個性的な解釈。

第3楽章は、冒頭のティンパ二の強烈な一撃が凄まじく、その後の主部との対比は実に巧妙なものがあり、ラトルの演出巧者ぶりを大いに感じることが可能だ。

それにしても、この楽章の管楽器の技量は超絶的であり、あまりの巧さに唖然としてしまうほどだ。

後半の金管楽器によるファンファーレは、凄まじい迫力を誇っているが、ここでも力みはいささかも感じられず、内容の濃さを感じさせるのが素晴らしい。

低弦の踏みしめるような肉厚の重厚な響きは、カラヤン時代を彷彿とさせるような充実ぶりだ。

第4楽章は、ゆったりとしたテンポで進行し、静寂さが漂うが、ここでのメゾ・ソプラノのコジェナーは、素晴らしい歌唱を披露している。

ベルリン・フィルも、コジェナーの歌唱と一体となった雰囲気満点の美演を披露している。

特に、木管楽器の美麗な響きは、カラヤン時代にも優るとも劣らない美しさであり、聴いていて思わず溜息が漏れるほどだ。

終楽章は、壮麗にして圧倒的な迫力で開始され、低弦による合いの手の強調が実にユニークで、ゲネラルパウゼの活用も効果的だ。

主部は堂々たる進軍であるが、随所に猛烈なアッチェレランドを駆使するなど、ドラマティックな要素にもいささかも不足はない。

合唱が入った後は、ゆったりとした荘重なインテンポで曲想を丁寧に描き出していく。

ソプラノのロイヤルや、メゾ・ソプラノのコジェナーも実に見事な歌唱を披露しており、ベルリン放送合唱団も最高のパフォーマンスを示している。

そして、壮大なスケールと圧倒的な迫力の下に、この至高の名演を締めくくるのである。

SACDによる音質の鮮明さや音場の幅広さも本盤の価値を高めるのに大きく貢献している点も忘れてはならない。

木幡一誠氏によるライナーノーツの充実した解説は、実に読みごたえがあり、スカスカのライナーノーツが氾濫するという嘆かわしい傾向にある中で、画期的なものとして高く評価したいと考える。

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2015年04月23日


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2007年収録の第6番でスタートし、2011年の第9番で完結したゲルギエフ指揮ロンドン交響楽団によるマーラーの交響曲全集が、10枚組のBOXセットとなって低廉に入手できる運びになったことをまずは喜びたい。

ゲルギエフのマーラー交響曲全集は、第8番を除きすべてロンドン、バービカンホールでのロンドン交響楽団とのライヴ録音である。

50代後半のいかにもエネルギッシュなゲルギエフらしい一気呵成な対応であり、手兵のオーケストラを一定期間集中させ、全曲に一貫した解釈を施すうえではこの短期決戦のライヴ録音は有効だが、その実、相当な自信に裏づけされたものであろう。

このシリーズは、すべてコンサートでの演奏をライヴ録音しているところにその特徴があり、実演における白熱の模様がストレートに肌で感じられるのも魅力のひとつと言えるところであり、第6番や第7番などはその最たる例で、極端なテンポ設定や荒削りでユニークなアプローチも際立っていた。

また、シリーズの大詰めの時期にあたる第5番と第9番では、同一プログラムを数多くこなしたのちに、周到な準備を経て収録に臨んだこともあり、完成度の高さでもゲルギエフがロンドン交響楽団のシェフに就任して以来、屈指の成果を示している。

ことに第9番は、ゲルギエフ&ロンドン交響楽団によるマーラーチクルスの中でも飛び抜けた内容を誇る名演と高く評価したい。

しかしながら、上記以外の各交響曲の演奏を顧みると、名演とイマイチの演奏が混在しており、玉石混交と言った状況にある。

これまで発売されたいずれの交響曲も、聴く前は、名演、駄演のどちらに転ぶかわからないといった予測が付かない不安があったが、総体としては、これまでの様々なマーラー演奏の中でもかなり上位にランキングできる素晴らしい名演集と評価してもいいのではないか。

ゲルギエフは、ここでは、チャイコフスキーやショスタコーヴィチ、ストラヴィンスキーなどで垣間見せた野性味溢れるドラマティックなアプローチは薬にしたくもない。

むしろ、自我を極力抑えて、マーラーの音楽を精緻に美しく描き出していくことに専念しているように思われる。

もちろん、演奏に強弱の起伏がないわけではなく、トゥッティにおける金管楽器やティンパニなどの最強奏は圧巻の迫力を誇っているのだが、いわゆる踏み外しがいささかも感じられないのである。

これは、ゲルギエフが、テンポの変化を最小限に抑えているのに起因しているのかもしれない。

したがって、この演奏の場合、ドラマティックな要素は極めて少なく、むしろ、スケールの壮大さで勝負した感がある。

このようなアプローチは、本来的にはマーラーのような劇的な要素が支配的な交響曲の場合には相応しいとは言えないが、前述のような壮大なスケール感と精緻な美しさによって、マーラーに新鮮な魅力を見出すことに成功した点は評価せざるを得ないのではないかと考える。

マーラーに、ドラマティックな演奏を期待する聴き手、バーンスタインやテンシュテットなどの劇的な名演を好む聴き手からは、物足りないとの批判が寄せられることは十分に予測されるが、音楽構成を大きく捉えて細部をよく彫琢し、かつメロディの美しさとリズムの躍動感を際立たせた演奏は抜群のバランス感覚を感じさせる。

筆者としては、マーラーに新しい光を当てた異色の名演として、高く評価したいと考えている。

SACDマルチチャンネルによる極上の高音質録音も、ゲルギエフの精緻なアプローチを鮮明に再現し得るものとして、大いに歓迎したい。

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classicalmusic

早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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