マーラー

2015年04月21日


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テスタメントによるジュリーニ&ベルリン・フィルシリーズの第3弾の登場だ。

これまでの第1弾や第2弾においても驚くべき名演が揃っていたが、今般の第3弾のラインナップも極めて充実したものであり、そしてその演奏内容も第1弾や第2弾にいささかも引けを取るものではない。

本盤には、ハイドンの交響曲第94番「驚愕」とマーラーの交響曲第1番「巨人」が収められているが、いずれも素晴らしい名演と高く評価したい。

ジュリーニは、レパートリーが広い指揮者とは必ずしも言い難い。

また、レパートリーとした楽曲についても何度も演奏を繰り返すことによって演奏そのものの完成度を高めていき、その出来に満足ができたもののみをスタジオ録音するという完全主義者ぶりが徹底していたと言える。

したがって、これほどの大指揮者にしては録音はさほど多いとは言い難いが、その反面、遺された録音はいずれも極めて完成度の高い名演揃いであると言っても過言ではあるまい。

本盤の両曲については、いずれもジュリーニの限られたレパートリーの1つであり、マーラーの交響曲第1番「巨人」についてはシカゴ交響楽団とのスタジオ録音(1971年EMI)、そしてハイドンの交響曲第94番「驚愕」についてはフィルハーモニア管弦楽団とのスタジオ録音(1956年EMI)、そしてバイエルン放送交響楽団とのライヴ録音(1979年独プロフィール)が存在しており、これらはいずれ劣らぬ名演であった。

本盤の演奏は、いずれもベルリン・フィルとのライヴ録音(1976年)であり、マーラーの交響曲第1番「巨人」はスタジオ録音の5年後、ハイドンの交響曲第94番「驚愕」はスタジオ録音の20年後の演奏に相当することから、ジュリーニとしても楽曲を十二分に知り尽くした上での演奏であったはずである。

もっとも、本演奏が行われた1976年は、カラヤン&ベルリン・フィルの全盛時代に相当するところだ。

したがって、ベルリン・フィルが完全にカラヤン色に染まっていた時期であるとも言えるが、本演奏を聴く限りにおいてはいわゆるカラヤンサウンドを殆ど聴くことができず、あくまでもジュリーニならではの演奏に仕上がっているのが素晴らしい。

ジュリーニの格調が高く、そしてイタリア人指揮者ならではの豊かな歌謡性と気品のある極上の優美なカンタービレに満ち溢れた指揮に、ベルリン・フィルの重厚な音色が見事に融合した剛柔バランスのとれた名演に仕上がっていると言えるのではないだろうか。

そして、ライヴ録音ならではの熱気が演奏全体を更に強靭な気迫のこもったものとしており、その圧倒的な生命力に満ち溢れた迫力においては、ジュリーニによる前述の過去のスタジオ録音を大きく凌駕していると考える。

なお、ハイドンの交響曲第94番「驚愕」については、1979年のライヴ盤との優劣の比較は困難を極めるところであり、これは両者同格の名演としておきたい。

録音も今から30年以上も前のライヴ録音とは思えないような鮮明な高音質であると評価したい。

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2015年04月20日


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アバドはレパートリーがきわめて広範であるために、一般的にはそのような認識がなされているとは必ずしも言い難いが、いわゆるマーラー指揮者と評しても過言ではないのではないだろうか。

マーラーの交響曲全集を1度、オーケストラや録音時期が異なるなど不完全な形ではあるが完成させているし、その後も継続して様々な交響曲の録音を繰り返しているからである。

ライバルのムーティが第1番しか録音していないのと比べると、その録音の多さには際立ったものがあり、こうした点にもアバドのマーラーに対する深い愛着と理解のほどが感じられるところである。

アバドのマーラー演奏の特徴を一言で言えば、持ち味の豊かな歌謡性ということになるのではないか。

マーラーの長大な交響曲を演奏するに当たって、アバドの演奏はどこをとっても豊かな歌心に満ち溢れている。

したがって、マーラー特有の随所に炸裂する不協和音や劇的な箇所においても歌謡性を失うことがいささかもなく、踏み外しを行ったりするなど極端な表現を避けているように思われるところである。

もっとも、アバドもベルリン・フィルの芸術監督に就任するまでの間にシカゴ交響楽団などと録音された演奏では、持ち前の豊かな歌謡性に加えて、生命力溢れる力感と気迫に満ち溢れた名演の数々を成し遂げていた。

しかしながら、ベルリン・フィルの芸術監督就任後は借りてきた猫のように大人しい演奏が多くなり、とりわけ大病を克服するまでの間に演奏された本盤の第5番は、物足りなさ、踏み込み不足を感じさせる演奏であったとも言える。

アバドはその後、大病にかかる直前、そして大病降伏後の演奏では、豊かな歌謡性に加えて、楽曲の心眼に鋭く踏み込んでいくような彫りの深さが加わったと言えるところであり、特に、ベルリン・フィルとの第3番、第4番、第6番、第7番及び第9番、ルツェルン祝祭管との第2番は圧倒的な名演に仕上がっている。

しかしながら本演奏も、彫りの深さといった側面ではいささか物足りないという気がしないでもないが、今日の耳で改めて聴いてみると、かかる欠点は殆ど目立つことなく、持ち前の豊かな歌謡性が十分に活かされた素晴らしい名演に仕上がっていると評価したい。

これほどまでに、歌心に満ち溢れるとともに情感の豊かさを湛えている同曲の演奏は類例を見ないところであり、バーンスタインやテンシュテットなどの劇的な演奏に食傷気味の聴き手には、清新な印象を与える名演であると言っても過言ではあるまい。

もっとも、こうした細やかな配慮の行き届いた演奏であっても、根源的な音楽の力感ともいうべきものがいささかも失われていないのである。

アバドの意図を汲み最高の演奏で応えたベルリン・フィルに対しても大いに拍手を送りたい。

欲を言えば、現在のアバドなら、さらに楽曲の心眼に鋭く踏み込んでいくような彫りの深い演奏が可能であると思われるところであり、出来得ることならば再録音を望みたいと考える。

録音は従来盤でも十分に満足できる音質であったが、今般のSHM−CD化によってさらに鮮明な音質に生まれ変わった。

アバドによるこのような名演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2015年04月13日


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インバルがかつての手兵であるフランクフルト放送交響楽団とともにスタジオ録音を行ったマーラーの交響曲全集(1985年〜1988年)は、インバル&フランクフルト放送交響楽団の実力を世に知らしめるとともに、インバルの名声を確固たるものとした不朽の名全集である。

それどころか、録音から30年以上が経過した今日においても、あまたのマーラーの交響曲全集の中でも上位を占める素晴らしい名全集と高く評価したい。

インバルのマーラーに対する評価については百家争鳴の感があるが、こんなに深くスコアを読み、練習を重ね、見事な演奏をしたマーラーは少ない。

それは、指揮者が小粒になった今日において、それだけインバルの存在感が増した証左であるとも考えられる。

インバルのマーラーは、近年の東京都響やチェコ・フィルとの一連のライヴ録音では随分と変容しつつあるが、全集を構成する本盤に収められた交響曲第8番の演奏においては一聴すると冷静で自己抑制的なアプローチであるとも言える。

したがって、演奏全体の装いは、バーンスタインやテンシュテットなどによる劇場型の演奏とは対極にあるものと言えるだろう。

しかしながら、インバルは、とりわけ近年の実演においても聴くことが可能であるが、元来は灼熱のように燃え上がるような情熱を抱いた熱い演奏を繰り広げる指揮者なのである。

ただ、本演奏のようなスタジオ録音を行うに際しては、極力自我を抑制し、可能な限り整然とした完全無欠の演奏を成し遂げるべく全力を傾注している。

マーラーがスコアに記した様々な指示を可能な限り音化し、作品本来の複雑な情感や構造を明瞭に、そして整然と表現した完全無欠の演奏、これが本演奏におけるインバルの基本的なアプローチと言えるであろう。

しかしながら、かかる完全無欠な演奏を目指す過程において、どうしても抑制し切れない自我や熱き情熱の迸りが随所から滲み出している。

それが各演奏が四角四面に陥ったり、血も涙もない演奏に陥ったりすることを回避し、完全無欠な演奏でありつつも、豊かな情感や味わい深さをいささかも失っていないと言えるところであり、これを持って本盤におけるインバルによる演奏を感動的なものにしていると言えるところだ。

前述のように、インバルによる本演奏に対する見方は様々であると思われるが、筆者としてはそのように考えているところであり、インバルの基本的なアプローチが完全無欠の演奏を目指したものであるが故に、現時点においてもなお、本盤に収められた交響曲第8番の演奏が普遍的な価値を失わないのではないかと考えている。

このようなアプローチが、曲によってはやや物足りない印象を与えることがあるが、今回HQCD化された「第8」については、曲の性格にもよるのだろうが、インバルのアプローチとの抜群の相性の良さを感じる。

インバルは、厳格なスコアリーディングによる相当に緻密で彫琢の限りを尽くした演奏を繰り広げており、インバルの圧倒的な統率力の下、独唱陣や合唱団も実にうまい。

これらのスケール雄大で圧倒的な名演を、ワンポイント録音が完璧に捉え切っている様は、驚異と言うほかはない。

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2015年04月12日


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ライナー&シカゴ交響楽団によるマーラーの交響曲の録音は、本盤に収められた「大地の歌」と第4番の2曲しか遺されていない。

マーラーが今ほど演奏されなかった1950年代の貴重な録音で、ライナーにとっても珍しいレパートリーだった。

しかしながら、遺された演奏は、文学性に耽溺することなく、シカゴ交響楽団のパワフルで底力のある響きと木管や金管の見事なソロ・ワークで、作品の魅力をストレートに引き出したステレオ初期の名盤であり、いずれも一聴に値する名演であると評価したい。

R.シュトラウスと直接語らい、マーラーと同時代の空気を呼吸していたが故に、「私たちの次の世代こそが」演ずるべきと語ったライナーの貴重な録音で、優しさと構成感の強い(故に作品の本質とは齟齬も?)美演。

世紀末ウィーンを拠点とした後期ロマン派の音楽には精通しているので、決して勝手が分からぬ状況になっている演奏ではなく、独自の美意識に従って解釈されたマーラーである。

シカゴ交響楽団によるマーラーの演奏としては、後年のショルティによる全集が有名である。

同じハンガリー人であることもあり、表向きは類似しているとも言えるところだ。

両者ともに、全体を引き締まった造型で纏め上げるとともに、シカゴ交響楽団の卓越した技量を存分に駆使して、壮麗にオーケストラを鳴らしていくというアプローチを行っている。

もっとも、ショルティの演奏と大きく異なるのは、ライナーの演奏は、オーケストラの技量臭をいささかも感じさせないということであろう。

ライナー時代のシカゴ交響楽団には、特に高弦において顕著であるが艶やかな美しさに満ち溢れていたと言える。

したがって、本演奏においても、シカゴ交響楽団の持つ艶やかな音色が、ライナーの引き締まった剛直とも言える演奏に、適度の潤いと温かみを付加することに成功し、いささかも無機的には陥らない情感豊かな演奏に仕立て上げるのに大きく貢献している。

包容力溢れるカナダ出身のコントラルトのフォレスター、明るい音色で歌い上げるテノールのルイス、ともにワルターからも信頼を得ていた「大地の歌」の当時最高の解釈者2人の歌唱も聴きもので、最高の歌唱を披露していると高く評価したい。

そして、何よりも素晴らしいのはSACDによる極上の高音質である。

本演奏は1959年のスタジオ録音であるが、今から50年以上も前の録音とは思えないような鮮度の高い音質に生まれ変わっている。

当時のシカゴ交響楽団の滑らかな欧州サウンドが蘇っており、艶やかな音色が鮮明に再現されるというのはほとんど驚異的ですらある。

独唱とオーケストラの分離の良さも相俟って、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、ライナーによる希少なマーラーの名演を、現在望み得る最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2015年04月10日


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インバルがかつての手兵であるフランクフルト放送交響楽団とともにスタジオ録音を行ったマーラーの交響曲全集(1985年〜1988年)は、インバル&フランクフルト放送交響楽団の実力を世に知らしめるとともに、インバルの名声を確固たるものとした不朽の名全集である。

それどころか、録音から20年以上が経過した今日においても、あまたのマーラーの交響曲全集の中でも上位を占める素晴らしい名全集と高く評価したい。

インバルのマーラーに対する評価については百家争鳴の感があるが、こんなに深くスコアを読み、練習を重ね、見事な演奏をしたマーラーは少ない。

それは、指揮者が小粒になった今日において、それだけインバルの存在感が増した証左であるとも考えられる。

インバルのマーラーは、近年の東京都響やチェコ・フィルとの一連のライヴ録音では随分と変容しつつあるが、全集を構成する本盤に収められた交響曲第9番及び第10番(アダージョ)の演奏においては一聴すると冷静で自己抑制的なアプローチであるとも言える。

したがって、演奏全体の装いは、バーンスタインやテンシュテットなどによる劇場型の演奏とは対極にあるものと言えるだろう。

しかしながら、インバルは、とりわけ近年の実演においても聴くことが可能であるが、元来は灼熱のように燃え上がるような情熱を抱いた熱い演奏を繰り広げる指揮者なのである。

ただ、本演奏のようなスタジオ録音を行うに際しては、極力自我を抑制し、可能な限り整然とした完全無欠の演奏を成し遂げるべく全力を傾注している。

マーラーがスコアに記した様々な指示を可能な限り音化し、作品本来の複雑な情感や構造を明瞭に、そして整然と表現した完全無欠の演奏、これが本演奏におけるインバルの基本的なアプローチと言えるであろう。

しかしながら、かかる完全無欠な演奏を目指す過程において、どうしても抑制し切れない自我や熱き情熱の迸りが随所から滲み出している。

それが各演奏が四角四面に陥ったり、血も涙もない演奏に陥ったりすることを回避し、完全無欠な演奏でありつつも、豊かな情感や味わい深さをいささかも失っていないと言えるところであり、これを持って本盤におけるインバルによる演奏を感動的なものにしていると言えるところだ。

前述のように、インバルによる本演奏に対する見方は様々であると思われるが、筆者としてはそのように考えているところであり、インバルの基本的なアプローチが完全無欠の演奏を目指したものであるが故に、現時点においてもなお、本盤に収められた交響曲第9番及び第10番(アダージョ)の演奏が普遍的な価値を失わないのではないかと考えている。

もっとも、楽曲がマーラーの最高傑作である第9番及び第10番(アダージョ)だけに、やや踏み込み不足の点も否めないところであり、どちらも、インバルらしい明晰で、最初から最後まで、計算し尽くされた、非凡な演奏だとは思うのだが、このCDに収められた2曲の演奏は、逆に明晰すぎて、何か物足りない感じが残るのである。

近年の円熟のインバルには、更に素晴らしい名演を期待したいところであるとも言えるところだ。

音質は、初出時から高音質録音で知られたものであり、デンオンのPCM技術によって、かなりクリアかつ素直に録音されていて、ゴールドCD仕様のボックスのみならず、従来CD盤でも十分に満足できる音質である。

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本盤には、クーベリックが手兵バイエルン放送交響楽団とともに1967年から1971年という短期間で完成させたマーラーの交響曲全集のうち、交響曲第5番(1971年スタジオ録音)が収められている。

本盤の録音当時は、近年のようなマーラー・ブームが到来する以前であり、ワルターやクレンペラーなどのマーラーの直弟子によるいくつかの交響曲の録音はあったが、バーンスタインやショルティによる全集は同時進行中であり、極めて希少な存在であったと言える。

そして、本演奏は、既に録音から40年が経過したが、現在においてもその価値をいささかも失うことがない素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

本演奏におけるクーベリックのアプローチは、ある意味では極めて地味で素朴とも言えるものだ。

バーンスタインやテンシュテットのような劇場型の演奏ではなく、シノーポリのような楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした明晰な演奏を旨としているわけではない。

また、ブーレーズやジンマンのような徹底したスコアリーディングに基づいた精緻な演奏でもなく、シャイーやティルソン・トーマスのような光彩陸離たるオーケストレーションの醍醐味を味わわせてくれるわけでもない。

クーベリックはむしろ、表情過多に陥ったり、賑々しい音響に陥ることがないように腐心しているようにさえ思われるところであり、前述のような様々な面において個性的な演奏に慣れた耳で聴くと、いささか物足りないと感じる聴き手も多いのではないかとも考えられる。

しかしながら、一聴するとやや速めのテンポで武骨にも感じられる各旋律の端々から滲み出してくる滋味豊かさには抗し難い魅力があると言えるところであり、噛めば噛むほど味わいが出てくる演奏ということが可能である。

地味な演奏というよりは滋味溢れる演奏と言えるところであり、とりわけ、マーラーがボヘミア地方出身であることに起因する民謡風な旋律や民俗的な舞曲風のリズムの情感豊かで巧みな表現には比類がない美しさと巧さがある。

バイエルン放送交響楽団というヨッフム、クーベリックが手塩にかけて育んだ素晴らしい音楽性を持つオーケストラと共に、クーベリックはこの「第5」でも全く見事な音楽的純度の高さを示している。

たった一度だけ聴くのなら、他の録音の方が耳に残るかもしれないが、このクーベリック盤は、聴けば聴く程にその味わいを増してゆく。

派手な「香辛料」も「添加物」も加えていないクーベリックの演奏は、それ故に対位法的なバランスの良さと、その内に込めた内的共感の高さで、我々を魅了する。

いずれにしても、近年の賑々しいマーラー演奏に慣れた耳を綺麗に洗い流してくれるような演奏とも言えるところであり、その滋味豊かな味わい深さという点においては、今後とも普遍的な価値を有し続ける至高の名演と高く評価したい。

なお、クーベリックはスタジオ録音よりも実演でこそ実力を発揮する指揮者であり、本演奏より10年後のライヴ録音が独アウディーテから発売されている。

テンポも本演奏よりも速く、強靭な生命力や気迫においては、本演奏よりも優れた演奏と言えなくもないが、音質やオーケストラの安定性などを総合的に考慮すれば、本名演の価値はなお不変であると考える。

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2015年04月08日


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ショルティは、バーンスタインやクーベリックなど、一部の限られた指揮者によってしか演奏されていなかったマーラーの交響曲にいち早く注目し、その後のマーラー・ブーム到来の礎を作り上げたという意味では、多大なる功績を遺したと評価できるのではないだろうか。

それにしても、我が国におけるショルティの評価は不当に低いと言わざるを得ない。

現在では、ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」以外の録音は殆ど忘れられた存在になりつつある。

我が国においては、故吉田秀和氏のように好き嫌いを別にして公平に指揮者を評価できる数少ない音楽評論家は別として、とりわけとある影響力の大きい某音楽評論家が自著においてショルティを、ヴェルディのレクイエムなどを除いて事あるごとに酷評していることに大きく起因していると思われるが、そうした批評を鵜呑みにして、ショルティの指揮する演奏を全く聴かないクラシック音楽ファンがあまりにも多いというのは極めて嘆かわしいことである。

ショルティは、若き日にコンセルトヘボウ・アムステルダムと「第4」の名演を残しており(1961年)、ショルティ自身も、本演奏の出来には相当に満足していたようで、その出来映えに愛着に近い強い自信をもち、再録音の必要はないと公言していた。

後年、1970年の交響曲第5番の録音をはじめとして、シカゴ交響楽団とのマーラーの交響曲全集の録音を開始したが、その際、第4番を再録音するかどうかについて相当に逡巡したとのことであった。

そうした中でのこの新盤(1983年)は22年を経て録音されたものであり、ショルティの円熟をことさら印象づける。

今回のシカゴ交響楽団との演奏ではオケの合奏能力をフルに生かし、緻密で繊細な響きを作り出しており、ショルティはこの曲に合わせて徹底的に室内楽的な表現を施しているが、旧盤よりもさらに角がとれ、表情が自然でありながらも自由で大胆である。

しかし、それはあくまでも自然な流れを損なわず、みごとな造形の均衡をもたらしている。

いずれにしても、ショルティとしても突然変異的な名演と言えるほどで、ショルティの指揮芸術の特徴でもある切れ味鋭いリズム感や明瞭なメリハリが、本演奏においてはあまり全面には出ていないとも言えるところだ。

マーラーの交響曲の中でも、最も楽器編成が小さく、メルヘン的な要素を有する「第4」は、かかるショルティの芸風とは水と油のような関係であったとも言えるが、本演奏では、そうしたショルティらしさが影をひそめ、楽曲の美しさ、魅力だけが我々聴き手に伝わってくるという、いい意味での音楽そのものを語らせる演奏に仕上がっていると言えるだろう。

ショルティも、多分に楽曲の性格を十二分に踏まえた演奏を心がけているのではないかとも考えられるところであり、逆に言えば、円熟期のショルティにはこのような演奏を行うことが可能であったということだ。

これはショルティの指揮芸術の懐の深さを表わすものであり、とある影響力の大きい音楽評論家などを筆頭にいまだ根強い「ショルティ=無機的で浅薄な演奏をする指揮者」という偏向的な見解に一石を投ずる演奏と言えるのではないだろうか。

終楽章のソプラノのキリ・テ・カナワによる独唱の表情豊かな歌もこの作品にふさわしく、そのロマン溢れる歌唱は美しさの極みであり、彼女独特の節まわしで色気のある歌声を聴かせ、最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

シカゴ交響楽団の緻密で繊細な響きは英デッカによる極上の優秀録音によって完全に捉えられており、別の意味で唖然とさせられる。

筆者としては、いまだ未聴のクラシック音楽ファンには是非とも一聴をお薦めしたい名盤と高く評価したい。

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マーラーの交響曲第9番は、マーラーが完成させた最後の交響曲だけに、その内容には途轍もない深みがある。

その本質的なテーマは、諸説はあるとは思うが、忍び寄る死への恐怖と闘い、そして、生への憧憬と妄執であると言えるだろう。

それだけに、他の交響曲では通用するアプローチでも、第9番に限っては、スコアに記された音符の表層だけをなぞっただけの演奏では、到底名演になり得ないとも言えるところだ。

ショルティは、ロンドン交響楽団とのスタジオ録音(1967年)に続いて、手兵シカゴ交響楽団とともに本盤に収められた2度目のスタジオ録音(1982年)を行っている。

旧盤は、スコアに記された音符の背後にあるものへの追求や彫りの深さといった点においては、いささか不足していると言わざるを得なかったが、新盤は、スーパー軍団と称されたシカゴ交響楽団の卓越した技量を見事に統率するとともに、楽曲の心眼にも鋭く踏み込んだ懐の深い円熟の名演である。

ここでのショルティは、客観性と主観性、それに近代的なリリシズムを見事に結びつけており、完成度の高いマーラーを聴かせている。

ショルティは音の威力と鮮やかなメリハリの効果を与えたきわめて明快な表現で、緊張感にあふれた演奏を行っていると同時に、オーケストラの技量が存分に発揮されており、いかにもショルティらしい現代的な感覚の演奏だ。

いずれにしてもシカゴ交響楽団というヴィルトゥオーゾ・オーケストラの機能を遺憾なく発揮させた1つの頂点を示したものとも言えよう。

まさに、本演奏は有名レストランでシカゴ交響楽団が出す豪華料理と高級ワインを味わうような趣きがあり、我々聴き手は、ただただレストランにおいて極上の豪華な料理と高級ワインを堪能するのみである。

もっとも、あまりの料理やワインの豪華さに、聴き手もほろ酔い加減で幻惑されてしまいそうになるが、本演奏は、それほどまでに空前絶後の「燦然たる音の饗宴」に仕上がっている。

ショルティ&シカゴ交響楽団のコンビは、なにを演奏した場合でも生き生きした動感をみなぎらせていたが、このマーラーも例外ではない。

冒頭から意志的な力とコントロールで均衡感の強い音楽を組み上げているが、同時に自在な呼吸に支えられた豊かな表情があり、成熟を感じさせる演奏だ。

かつてのワルターに代表される詩情豊かなゆったりしたマーラーとは別種の現代的な感性に根差したマーラーの出現であり、鮮明にして整然とした世界が生み出されてゆく。

しかしながらショルティは、マーラーを即物的にとらえ、非情に再現しているのではない。

マーラーが奏でた牴劉瓩紡个垢訖瓦らの共感、それが持続低音となってこの演奏を支えている。

精妙に再現されながら豊かな味わいに乏しい演奏に時折接することがあるが、精緻であると同時に動感を失わず、味わいにも富んでいるのがショルティだ。

ショルティのプロフェッショナリズムのもと、ホールの癖を逆手にとって強靭な個性を確立したシカゴ交響楽団。

両者の持ち味が遺憾なく発揮されたマーラーで、驀進するブルレスケばかりでなく、フィナーレの弦も表情豊か、あらためてこのコンビの凄さを感じる。

マーラーを古典として眺め、そこに自然な音楽像を作り出した感動的名演と言えよう。

聴き終えた後の充足感が、例えばバーンスタイン&コンセルトヘボウ・アムステルダム盤(1985年)などの名演に必ずしも引けを取っているわけでもなく、筆者としてはマーラーの演奏様式の一翼を担った名演として高く評価したいと考える。

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2015年04月02日


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本盤の売りは、同じくエクストンレーベル(オクタヴィア)から発売されたアシュケナージ&チェコ・フィルによるR・シュトラウスの管弦楽曲集の名演盤(1998年)と同様に、何と言ってもシングルレイヤーによるマルチチャンネル付きのSACDによる臨場感溢れる極上の音質のあまりの素晴らしさであろう。

数年前には殆ど絶滅の危機に瀕していたSACDであるが、2010年よりユニバーサルがシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化シリーズ開始したことや、EMIが2011年よりSACDに参入したことによって、急速に息を吹き返しつつある。

ネット配信が隆盛を極める中で、パッケージメディアの最後の砦はSACDと考えるところであり、今後とも、大手メーカーが引き続きSACDの発売を積極的に行っていただくことを強く要望しておきたいと考える。

ところで、ユニバーサルやEMIによるSACD盤は、その殆どはマルチチャンネルが付いていない2チャンネル方式となっている。

SACDが発売された当初はマルチチャンネルが売りであっただけに、SACDの復活は嬉しい反面で、いささか複雑な思いがしているところでもある。

オクタヴィアも数年前からマルチチャンネル付きのSACDの発売を取りやめてはいるが、本盤のような圧倒的な高音質SACDを聴くと、このままマルチチャンネル付きのSACDが衰退していくのは大変惜しい気がするところだ。

マーラーの交響曲のような立体的とも言うべき豪壮華麗なオーケストレーションの魅力を満喫するためには、何と言ってもマルチチャンネル付きのSACDは必要不可欠とも言えるところであり、マーラーの交響曲第7番のマルチチャンネル付きのSACD盤が、他にはシャイーなどの一部の演奏に限られていることに鑑みても(バーンスタインの旧盤は3チャンネル)、本盤の価値は極めて高いと言わざるを得ないのではないかと考えられる。

演奏内容については、マーラーの交響曲の中でも特に奥深い内容を湛えた第7番だけに、必ずしも名演との評価をすることは困難と言えるかもしれない。

もっとも、並み居るスタープレイヤーが揃ったチェコ・フィルによる名演奏も相俟って、後述のようなアシュケナージによる音楽そのものを語らせる指揮ぶりが、マーラーの交響曲第7番の魅力を浮かび上がらせることに成功しているとも言えるところであり、少なくとも佳演の評価は可能であると言えるのではないだろうか。

本演奏の特徴を一言で言えば、楽曲の魅力をダイレクトに表現した自然体の演奏ということになるのではないかと考えられる。

本演奏においては、特別な個性などは全く存在していない。

奇を衒うことなど一切排して、ただただ音楽そのものを語らせる演奏に徹しているとさえ言える。

楽曲の聴かせどころのツボを心得た語り口の巧さも見事に功を奏しており、表情づけの巧みさや各楽器セクションのバランスの良い鳴らし方なども相俟って、マーラーの交響曲第7番の美しさ、魅力を、安定した気持ちで心行くまで満喫することが可能な演奏に仕上がっているとも言えるだろう。

むろん、アシュケナージのマーラーだから深い味は期待できないが、優秀な録音と相俟ってオーケストラの音が実に瑞々しく雄大に捉えられており、感覚的ではあるがそれなりに楽しめる。

いずれにしても、本盤は、演奏内容としては佳演であるが、シングルレイヤーによるマルチチャンネル付きのSACDによる臨場感溢れる極上の鮮明な高音質録音であることに鑑みれば、総体として推薦に値するディスクではないかと考える。

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2015年03月31日


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インバルがかつての手兵であるフランクフルト放送交響楽団とともにスタジオ録音を行ったマーラーの交響曲全集(1985年〜1988年)は、インバル&フランクフルト放送交響楽団の実力を世に知らしめるとともに、インバルの名声を確固たるものとした不朽の名全集である。

それどころか、録音から20年以上が経過した今日においても、あまたのマーラーの交響曲全集の中でも上位を占める素晴らしい名全集と高く評価したい。

インバルのマーラーに対する評価については百家争鳴の感があるが、こんなに深くスコアを読み、練習を重ね、見事な演奏をしたマーラーは少ない。

それは、指揮者が小粒になった今日において、それだけインバルの存在感が増した証左であるとも考えられる。

インバルのマーラーは、近年の東京都響やチェコ・フィルとの一連のライヴ録音では随分と変容しつつあるが、全集を構成する本盤に収められた交響曲第4番の演奏においては一聴すると冷静で自己抑制的なアプローチであるとも言える。

したがって、演奏全体の装いは、バーンスタインやテンシュテットなどによる劇場型の演奏とは対極にあるものと言えるだろう。

しかしながら、インバルは、とりわけ近年の実演においても聴くことが可能であるが、元来は灼熱のように燃え上がるような情熱を抱いた熱い演奏を繰り広げる指揮者なのである。

ただ、本演奏のようなスタジオ録音を行うに際しては、極力自我を抑制し、可能な限り整然とした完全無欠の演奏を成し遂げるべく全力を傾注している。

マーラーがスコアに記した様々な指示を可能な限り音化し、作品本来の複雑な情感や構造を明瞭に、そして整然と表現した完全無欠の演奏、これが本演奏におけるインバルの基本的なアプローチと言えるであろう。

しかしながら、かかる完全無欠な演奏を目指す過程において、どうしても抑制し切れない自我や熱き情熱の迸りが随所から滲み出している。

それが各演奏が四角四面に陥ったり、血も涙もない演奏に陥ったりすることを回避し、完全無欠な演奏でありつつも、豊かな情感や味わい深さをいささかも失っていないと言えるところであり、これを持って本盤におけるインバルによる演奏を感動的なものにしていると言えるところだ。

前述のように、インバルによる本演奏に対する見方は様々であると思われるが、筆者としてはそのように考えているところであり、インバルの基本的なアプローチが完全無欠の演奏を目指したものであるが故に、現時点においてもなお、本盤に収められた交響曲第4番の演奏が普遍的な価値を失わないのではないかと考えている。

インバルのマーラー演奏のベースは、厳格なスコアリーディングによる緻密な解釈ということになると思うが、だからと言って、安全運転の体温の低い客観的な演奏ではない。

それどころか、本盤の「第4」について言えば、第2楽章の流麗なレガートや、第3楽章の抒情から最強奏のパッションの爆発に至るまでのダイナミックレンジの広さや変幻自在のテンポ設定など、バーンスタインやテンシュテット風の個性溢れる劇的解釈も散見される。

ただ、インバルの演奏が、この両者の演奏と大きく異なるのは、決して踏み外しをしないということであろう。

それ故に、曲によっては、例えば「第9」などには顕著であるが、物足りなさを感じることがあるのは事実である。

しかし、「第4」の場合は、インバルのこうしたアプローチとの相性も抜群であり、名演に仕上がったと言っても過言ではないと思われる。

ワンポイント録音の素晴らしさが、HQCD化によりさらに鮮明になったことも特筆しておきたい。

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2015年03月26日


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往年の名指揮者ブルーノ・ワルター(Bruno Walter 1876-1962)がCBSレーベルに録音した一連のマーラー(Gustav Mahler 1860-1911)作品を7枚のCDに収録したBox-set。

LP時代に高価だった名盤が続々と安価で販売され、名演奏がきわめて身近になったが、このセットもその好例で、品質がきわめて高い。

演奏は言うまでもないが、復刻が丁寧でばらつきが少ないことが特色である。

ワルターはマーラーの弟子であり親友でもあった。

景勝地シュタインバッハで夏の休暇を楽しむマーラーを訪ねたワルターが美しい景色に見とれていると、マーラーが「それ以上眺める必要はないよ。全部私の今度の交響曲にしてしまったからね。」と言ったのは有名だ。

マーラーの死後に彼の交響曲「大地の歌」と「第9」を初演したのがワルターである。

マーラーはユダヤからカトリックに改宗したが、ワルターは終生ユダヤ人だった。

そのため、第2次世界大戦で彼は拠点をドイツからオーストリアへ、そしてアメリカへと移さざるを得なくなる。

そうして、アメリカで数々のマーラーの名録音が生まれ、それがこのアルバムだ。

もう1つ逸話を。

当時CBSはマーラーの「第1」を録音するにあたり、指揮者にバーンスタイン(Leonard Bernstein 1918-1990)を起用することも考えていて、当人も乗り気だった。

しかし、ワルターとのレコーディングが先に終了したことから、シェアの問題もあり、バーンスタインに計画の中止を申し出たが、彼は承服しなかった。

そこで、CBSのスタッフは実際に録音されたワルターの演奏をバーンスタインに聴いてもらった。

聴き終わったバーンスタインは「素晴らしい。これは彼の交響曲だ。」と延べ、自ら録音の中止を快諾したそうだ。

ワルターの音楽の価値、バーンスタインの大きな人柄など様々なことを示すエピソードだ。

ブルーノ・ワルターのこのマーラー交響曲集は本当に素晴らしい。

バーンスタインのマーラーも確かに素晴らしいが、このワルターの演奏はそれを遥かに凌駕する。

バーンスタインの解釈より、マーラーの混沌とした宇宙がよりはっきりと感じられ、遥かにロマン的であり、マーラーの心情がひしひしと伝わってきて、こちらの感情も溢れ出しそうになる。

マーラーの音楽の根底に流れているのは「うた」なんだとあらためて理解することができる。

この演奏を聴いたら、バーンスタインのみならず、他のいかなる指揮者もマーラー演奏を断念してしまうのではないかと思わずにはいられないが、それほどに素晴らしい演奏である。

ワルターの演奏は、典雅さと苛烈さがあり、その表出度のバランスが曲や演奏によって異なるのだけれども、どれも高い香りを感じさせるものだと思う。

どの交響曲も今なお名演の誉れが高いもので、特に「第1」と「第9」が素晴らしく、薫り高く、格調高く、切々と歌い上げている。

筆者が初めて「第2」を聴いたのがこのワルターの劇的な演奏であったが、懐かしいし、現代でも通じるシャープな迫力に満ちている。

また「大地の歌」は1952年のウィーン・フィルとの名盤が名高いが、こちらも味わいのある演奏だと思う。

いずれにしても、半世紀を過ぎた今でも、多くの人に愛聴される歴史的録音だろう。

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2015年03月20日


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過激さと冷静さが同居した、最高の名盤である。

テンシュテットが咽頭癌を患った後の演奏は、いずれも命懸けのものだった。

1つ1つのコンサートに臨む姿勢たるや、まさに神がかりのような凄まじく燃焼度の高いものであった。

テンシュテットが最も得意とした作曲家はマーラーであったが、現在発売されているマーラーの数々の名演の中でも、1991年のマーラーの「第6」と1993年の「第7」は、別格の超名演と高く評価したい。

明日の命がわからない中でのテンシュテットの大熱演には、涙なしでは聴けないほどの凄まじい感動を覚える。

本盤の「第7」を、過去に完成した全集中のスタジオ録音と比較すると、演奏の装いが全く異なることがよくわかる。

粘ったようなテンポ、思い切った強弱の変化やテンポ設定、猛烈なアッチェレランドを駆使して、これ以上は求め得ないようなドラマティックな表現を行っている。

そして、テンシュテットの演奏全般に言えることであるが、劇的な表現をしていながら細部をおろそかにせず明晰さを大切にしているので、不思議と見通しが良く、その表現が曲の性格に極めて合致している。

スコアに対するあくまでも客観的なアプローチを基盤としながら、具えられる豊かな音楽性、テンシュテットのマーラーに共通するこの魅力が、一種ユニークな作品とされている「第7」でも十二分に発揮されている。

細部の表現と一貫した音楽的流麗さの見事な両立、近代的な総合性の上に存在する後期ロマン派的音楽の香りに脱帽してしまう。

ふっと忍び寄る底知れぬ暗さと、ガツンと来る高揚、その落差は、まさにテンシュテットでありマーラーではないだろうか。

あまりの指揮の凄まじさに、テンシュテットの手の内をよく理解しているはずのロンドン・フィルでさえ、ある種の戸惑いさえ感じられるほどだ(特に、第1楽章終結部のアンサンブルの乱れなど)。

それでも、必ずしも一流と言えないロンドン・フィルが、ここでは、荒れ狂うかのようなテンシュテットと渾然一体となって、持ち得る最高のパフォーマンスを発揮しており、弦楽器の不気味さなどは、テンシュテットの思惑通りとても良く表現されていると思う。

演奏終了後の聴衆の熱狂も当然のことであると考える。

なお、テンシュテット自身はインタビューで、マーラーの音楽について「交響曲第7番が最も好きであり、特に第1楽章はマーラーの最高傑作」と述べているが、その思い入れがこの演奏からよく伝わってくる。

このCDに対抗できるのは、アプローチが全く逆のクレンペラー&ニュー・フィルハーモニア盤くらいであろう。

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2015年03月19日


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本盤には、クーベリックが手兵バイエルン放送交響楽団とともに1967年から1971年という短期間で完成させたマーラーの交響曲全集のうち、交響曲第2番「復活」(1969年スタジオ録音)が収められている。

本盤の録音当時は、近年のようなマーラー・ブームが到来する以前であり、ワルターやクレンペラーなどのマーラーの直弟子によるいくつかの交響曲の録音はあったが、バーンスタインやショルティによる全集は同時進行中であり、極めて希少な存在であったと言える。

そして、本演奏は、既に録音から40年以上経過したが、現在においてもその価値をいささかも失うことがない素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

本演奏におけるクーベリックのアプローチは、ある意味では極めて地味で素朴とも言えるものだ。

バーンスタインやテンシュテットのような劇場型の演奏ではなく、シノーポリのような楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした明晰な演奏を旨としているわけではない。

また、ブーレーズやジンマンのような徹底したスコアリーディングに基づいた精緻な演奏でもなく、シャイーやティルソン・トーマスのような光彩陸離たるオーケストレーションの醍醐味を味わわせてくれるわけでもない。

クーベリックはむしろ、表情過多に陥ったり、賑々しい音響に陥ることがないように腐心しているようにさえ思われるところであり、前述のような様々な面において個性的な演奏に慣れた耳で聴くと、いささか物足りないと感じる聴き手も多いのではないかとも考えられる。

しかしながら、一聴するとやや速めのテンポで武骨にも感じられる各旋律の端々から滲み出してくる滋味豊かさには抗し難い魅力があると言えるところであり、噛めば噛むほど味わいが出てくる演奏ということが可能である。

地味な演奏というよりは滋味溢れる演奏と言えるところであり、とりわけ、マーラーがボヘミア地方出身であることに起因する民謡風な旋律や民俗的な舞曲風のリズムの情感豊かで巧みな表現には比類がない美しさと巧さがある。

バイエルン放送交響楽団というヨッフム、クーベリックが手塩にかけて育んだ素晴らしい音楽性を持つオーケストラと共に、クーベリックはこの「第2」でも全く見事な音楽的純度の高さを示している。

たった一度だけ聴くのなら、他の録音の方が耳に残るかもしれないが、このクーベリック盤は、聴けば聴く程にその味わいを増してゆく。

派手な「香辛料」も「添加物」も加えていないクーベリックの演奏は、それ故に対位法的なバランスの良さと、その内に込めた内的共感の高さで、我々を魅了する。

いずれにしても、近年の賑々しいマーラー演奏に慣れた耳を綺麗に洗い流してくれるような演奏とも言えるところであり、その滋味豊かな味わい深さという点においては、今後とも普遍的な価値を有し続ける至高の名演と高く評価したい。

なお、クーベリックはスタジオ録音よりも実演でこそ実力を発揮する指揮者であり、本演奏より13年後のライヴ録音が独アウディーテから発売されている。

テンポも本演奏よりも速く、強靭な生命力や気迫においては、本演奏よりも優れた演奏と言えなくもないが、音質やオーケストラの安定性などを総合的に考慮すれば、本名演の価値はなお不変であると考える。

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2015年03月13日


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マーラー演奏の遺産ともいうべき最初の交響曲全曲レコーディングの後、テンシュテットが1990年にシカゴ交響楽団への唯一の客演をしたときの、まさに一期一会のライヴ録音。

近年様々なライヴ録音が発掘されることによってその実力が再評価されつつあるテンシュテットであるが、テンシュテットの最大の遺産は、何と言っても1977年から1986年にかけてスタジオ録音されたマーラーの交響曲全集であることは論を待たないと言えるのではないだろうか。

テンシュテットは、当該全集の掉尾を飾る交響曲第8番の録音(1986年)の前年に咽頭がんを患い、その後は放射線治療を続けつつ体調がいい時だけ指揮をするという絶望的な状況に追い込まれた。

したがって、1986年以降の演奏は、死と隣り合わせの壮絶な演奏を展開することになり、いささかも妥協を許さない全力投球の極めて燃焼度の高い渾身の演奏を繰り広げた。

そうしたテンシュテットの指揮芸術は、最も得意としたマーラーの交響曲の演奏において如実に反映されていると言えるであろう。

テンシュテットのマーラーの交響曲へのアプローチはドラマティックの極みとも言うべき劇的なものだ。

これはスタジオ録音であろうが、ライヴ録音であろうが、さして変わりはなく、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使して、大胆極まりない劇的な表現を施している。

かかる劇的な表現においては、かのバーンスタインと類似している点も無きにしも非ずであり、マーラーの交響曲の本質である死への恐怖や闘い、それと対置する生への妄執や憧憬を完璧に音化し得たのは、バーンスタインとテンシュテットであったと言えるのかもしれない。

ただ、バーンスタインの演奏があたかもマーラーの化身と化したようなヒューマニティ溢れる熱き心で全体が満たされている(したがって、聴き手によってはバーンスタインの体臭が気になるという者もいるのかもしれない)に対して、テンシュテットの演奏は、あくまでも作品を客観的に見つめる視点を失なわず、全体の造型がいささかも弛緩することがないと言えるのではないだろうか。

もちろん、それでいてスケールの雄大さを失っていないことは言うまでもないところだ。

このあたりは、テンシュテットの芸風の根底には、ドイツ人指揮者としての造型を重んじる演奏様式が息づいていると言えるのかもしれない。

テンシュテットは、マーラーの交響曲第1番を1977年にロンドン・フィルとスタジオ録音しているが、このシカゴ交響楽団との演奏の方がオーケストラの優秀さも相俟って最高峰に君臨する名演であるというのは自明の理である。

まさに圧倒的な超名演であり、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な凄みのある迫力を湛えていると評価したい。

オーケストラはテンシュテットの指揮ぶりに慣れていないシカゴ交響楽団であるが、テンシュテットのドラマティックな指揮に必死に喰らいつき、テンシュテットとともに持ち得る実力を最大限に発揮させた渾身の演奏を繰り広げていると言えるところであり、本演奏を超名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

最晩年のテンシュテットの棒に全霊のパワーで応えるオーケストラが、聴き手の心を大きく揺さぶり、終演後の聴衆の熱狂も当然のことと思われる。

音質は、1990年のライヴ録音ではあるが、数年前にリマスタリングの上でHQCD化がなされたこともあり、比較的良好な音質であると言えるところだ。

もっとも、テンシュテット最晩年の渾身の超名演だけに、メーカー側の段階的な高音質化という悪質な金儲け主義を助長するわけではないが、今後はシングルレイヤーによるSACD盤で発売していただくことをこの場を借りて強く要望しておきたい。

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2015年03月10日


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シューリヒトのINA音源シリーズを聴き“本当に生きた音楽”に接したという感激で一杯になった。

その中でも特に本盤を最上としても差し支えなく、このような崇高にして感動的なマーラーの「第2」を前にしては、ただただ首を垂れるのみである。

シューリヒトは、特に晩年、ブルックナーにおいて神がかり的な名演を遺したせいか、ブルックナー指揮者のイメージがどうしても強いが、平林氏の丁寧なライナーを読むと、実は、マーラーを得意とした指揮者であったとのことである。

さらに、シューリヒトは1910年9月にミュンヘンでマーラー自身の指揮による交響曲第8番を聴き心から感銘を受けたとある。

しかも3年後にはその曲をホームグラウンドであるヴィースバーデンで自ら指揮したということである。

その他でも、シューリヒトには、コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮した壮絶な「大地の歌」などもあり、マーラーの作品には深い思い入れがあるようだ。

本盤は、1958年の録音であるが、この時代には、マーラー指揮者として名を馳せたバーンスタインやショルティの全集なども完成しておらず、20世紀後半に訪れるマーラーブームなど予測できなかった時期である。

マーラー直系の弟子であるワルターやクレンペラーの演奏が幅を利かせた時代である。

このような時期に、メンゲルベルクは別格として、独墺系の指揮者がほとんど見向きもしなかったマーラーに果敢に挑戦したシューリヒトのマーラーへの深い愛着と、来るべき時代への先見性を高く評価するべきであろう。

この「第2」は、冒頭に記したように、マーラーを得意としたシューリヒトならではの崇高にして感動的な名演だ。

70代も半ばというのに満ち溢れんばかり情熱は驚異的であり、このシューリヒトの演奏は本当に心が躍るものである。

シューリヒトの指揮では、奏者が感情と理性とを生き生きとしかも惜しみなく発揮している感じがして、まるで清らかに迸る泉のようである。

どの楽章も聴きどころ満載であるが、特に、第2楽章の美しさなど出色で、何とロマンティックな演奏であろうか。

このような「第2」は初めて耳にするが、ブルックナーやベートーヴェンの演奏とも相通ずるものが感じられ、これこそまさにシューリヒトの至芸であろう。

第4、終楽章など、こんなに覇気があり、しかもしなやかな美しさに溢れた例は希有と言えよう。

特に、終楽章の合唱の高揚感は全身に震えが来るほどで、シューリヒトは合唱の扱いが本当に素晴らしいのであるが、そのよさがここでも十全に発揮されている。

終楽章の終結部の壮麗な合唱の直前に一瞬のゲネラルパウゼがあるが、これなども実に効果的だ。

こういうところを聴くにつけ、シューリヒトがいかにマーラーを愛し、深く理解していたのかがわかるというものだ。

マーラーを聴き込み、シューリヒトの他の演奏を聴き込んだリスナーには、大きな感動を味わえるのではなかろうか。

シューリヒトファンにとっても、単なる歴史的録音、資料的な価値にとどまらず、かけがえのない遺産と言っても過言ではない。

「さすらう若人の歌」も名演であり、録音も、1950年代後半のライヴ録音としては、かなり高いレベルにある。

この演奏とシュトゥットガルトのものは、颯爽としてどちらも楽しめるが、この盤は一層音質の抜けが良い。

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2015年03月01日


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インバルは1980年代に、当時の手兵であるフランクフルト放送交響楽団とともにマーラーの交響曲全集を録音した。

いずれも、名演揃いだと思うが、その中でも随一の名演はこの「第7」ではないかと考える。

レコードアカデミー賞を受賞したのも、確かこの「第7」だけであったはずである。

「第7」は、最近ではそのようなこともないと思うが、1980年代は、マーラーの交響曲の中では不人気の部類に属していた。

圧倒的な勝利と異様なパロディ性の共存といった相反する要素が混在したマーラー世界の象徴ともいえる作品。

クレンペラーによる超スローテンポのスケール雄大な名演や、バーンスタイン、テンシュテットによる劇的な名演もあったが、いずれも指揮者の個性の方が際立った演奏であり、「第7」の曲自体の魅力をストレートに表現してくれる演奏はほとんどなかったと記憶する。

そのような中で登場したインバル盤は、マーラーの「第7」の真価を知らしめた初めての名演と言えるものであり、更には、そうした評価は現代においても十分に通用するものと言える。

これまで「難解」と言われてきたこの曲の隅々にまで光を当て、この交響曲に込められたさまざまな意味・感情のすべてを的確に表現した同曲の決定的名演と言える。

骨太で推進力があり、立派な演奏で、ことさら曲の病的な面を強調することもなく、適度に暗さも感じられて絶妙なバランスの上に立った演奏とも言える。

インバルの解釈は、内なるパッションや個性をできるだけ抑制して、マーラーの音楽を純音楽的に響かせようとするものであり、名演ではあるものの、例えば「第9」など、いささか物足りなさを感じさせるものもあった。

しかしながら、「第7」については、そうしたアプローチがプラスに働いており、やや遅目のゆったりしたテンポをとりながら、尻上がりに調子が上向きになる。

「第7」は、終楽章は別にして、第1〜第4楽章には、マーラーの交響曲の中でも特に繊細な抒情や巧みな管弦楽法が際立っており、こうした箇所において、インバルはあらゆる音符に光を当てて、実に精密な演奏を心がけている。

特に第3楽章は、この曲のもつ怪奇趣味が良く現われて、聴き応えがある。

もちろん、終楽章の迫力は、インバルとしても、自己抑制を超えたパッションの爆発があり、いい意味でのバランスのとれた名演と高く評価できる。

この曲の場合ライナーノーツにある通り終楽章の解釈に議論が分かれており、インバルはそれを考慮に入れたのだろう。

考えてみればこの交響曲はブラームスの交響曲第1番のように恐ろしく長い年月をかけて作曲されたものとは背景はまったく異なる訳であり、フィナーレの勝利とはいえない空々しい悲喜劇を思わせる人間的な矛盾を描いたインバルの指揮は素晴らしいというほかはない。

この交響曲の後に作曲される「第9」と「第10」に関して転機となった貴重な交響曲であることについては疑いようがなく、後期ロマン派の複雑な体系の理解に繋がる名盤である。

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2015年02月22日


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既に多くのひとに語り尽くされている本盤であるが、それでも誰かに、この演奏の素晴らしさを伝えたくなる稀有の名盤であり、ちょうどテンシュテットが咽頭がんに倒れる直前の録音である。

当初は、全集の中に組み込まれる予定であったが、本演奏の中に、テンシュテットがどうしても取り直しをしたい箇所があったということで、当初発売の全集には組み込まれなかったいう曰くつきの演奏である。

全集の発売後、数年経ってから漸く発売されたが、マーラーの音楽が持つ美しさ、翳り、悲しみ、すべてを徹底的に追求したテンシュテットならではの表現による素晴らしい名演だ。

その深い表現はいつまでも色褪せることなく永遠の光を放っていると言えるところであり、まさにマーラー演奏の1つの規範になりうる、20世紀の偉大な録音と言えるだろう。

テンシュテットが取り直しをしたかどうかは、筆者は承知していないが、そのようなことはいささかも気にならないような見事な出来栄えと言えるところであり、救いのない悲壮感にあふれている。

演奏はこの曲で最も暗く沈鬱で救いのないような演奏で、作曲家がワルターに「この曲を聴いたら自殺者が出るのではないだろうか」と話していたそうだが、まさにこのような演奏が作曲家が考えていたものなのではと考えてしまうくらいテンシュテットの演奏は破滅的で、絶望的な悲愴感が漂った演奏である。

思い切った強弱の変化やテンポ設定、時折垣間見せるアッチェレランドなど、とてもスタジオ録音とは思えないようなドラマティックな表現を行っている。

テンシュテットは、咽頭がんに倒れて以降は、コンサートや録音の機会が著しく減ったが、本盤のような爆演を聴いていると、病に倒れる前であっても、1つ1つの演奏や録音に、いかに命懸けの熱演を行っていたのかがよくわかる。

テンシュテットの語り口も相変わらず素晴らしく、なかでも終楽章の「告別」では、夜の闇がまさに死を思わせるような世界が作り上げられており、ゾッとしてしまう。

特に「告別」後半の長いオーケストラの間奏部分は、前人未到の境地と言ってよいであろう。

ロンドン・フィルも、こうしたテンシュテットの鬼気迫る指揮に、よくついて行っており、独唱のバルツァやケーニッヒともども、望み得る最高のパフォーマンスを示していると言っても過言ではあるまい。

『大地の歌』といえば、クレンペラーやワルターの演奏が有名であるが、これは全く別方向からのアプローチであり、持っていて損はない。

そう何度も聴けるような演奏ではないが、それだけテンシュテットの個性の表れた名演と言えるだろう。

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2015年02月11日


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極限の美を追求した、カラヤンならではの磨き抜かれた壮絶な演奏を体感できる1973年録音盤。

1973年のベルリン・フィルとの公演で初めてマーラーの交響曲第5番を演奏するために、カラヤンは2年間におよぶリハーサルを繰り返し、その後、満を持してこの名高い録音が生まれたという。

カラヤンは、他の多くの独墺系の巨匠と同様に、マーラーを決して積極的に採り上げる指揮者ではなかったと言われる。

主要な交響曲作曲家の全集を悉く完成してきたカラヤンにしてみれば、確かに、そのような指摘は当たっているのかもしれない。

しかしながら、例えば同時代に活躍した巨匠ベームが、マーラーの交響曲の録音を一切遺さなかったのに比較すれば、「第4」〜「第6」、「第9」そして「大地の歌」の録音を遺しているカラヤンは、決してマーラーを毛嫌いしていたわけではないと言うことができるのではなかろうか。

むしろ、カラヤンの楽曲へのアプローチ、つまりは徹底的に磨き抜かれた美へのあくなき追求や完全無欠のアンサンブルといったものが、マーラーの交響曲ではなかなか発揮することができないという側面があったのではないかと思われる。

そう思ってみると、カラヤンが指揮した前述の楽曲の選択も、なるほどと思わせるものがある。

本盤の「第5」は、「大地の歌」を除くと、交響曲録音の先陣を切ったものである。

ベルリン・フィルの圧倒的な合奏力をベースにして、いかにも演出巧者らしいカラヤンならではのアプローチであり、特に、第4楽章のため息が出るような耽美的な美しさは、カラヤンの真骨頂というべきであろう。

もっと情感たっぷりに盛り上がる演奏が他にいくらでもあるが、カラヤンの演奏はあくまで緻密で正確に過度の情感を抑えたような指揮ぶりだ。

カラヤンらしいのはスコアに書かれたどんな音でも明確に分かりやすく表現していながら、全体の美観やバランスが全く崩れていないところで、今更ながら驚異的である。

もちろん、カラヤンの得意とは必ずしも言えない曲だけに、カラヤンとしてはややたどたどしい箇所も散見されるが、全体としてみれば、ある種の世紀末的なデカダンスの雰囲気が漂う耽美的で、なおかつ重厚さも併せ持つ名演と評価したい。

当時のライナーノーツを見ると、マーラーが古典と成り得るかどうかが論じられており、そのような状況でカラヤンがマーラーを取り上げたことが、ちょっとしたエポックメイキングな事であった。

だからこそ、カラヤンのこの録音は、定番だったワルターやバースタインの指揮したものとは、はっきり異なっている。

人気のある交響曲なので他の録音を既に所有している人も多いと思うが、本作は明晰さや美意識に溢れた作品に仕上がっており、今でもその価値を失っていない。

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2015年02月05日


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ガリー・ベルティーニの名前を飛躍的に高めたケルン放送交響楽団とのマーラー・レコーディングは、当初ドイツ・ハルモニア・ムンディで1980年代半ばからスタートし、その後EMIへと引き継がれ、最後の数曲は、同コンビ来日時のマーラー全曲ツィクルスがライヴ収録されて完結、日本の音楽ファンにはとりわけ意義深い全集となった。

数あるマーラーの交響曲全集の中でも、かなり上位にランクされる現代のリファレンス的名演であると高く評価したい。

ベルティーニは、必ずしもレパートリーの広い指揮者ではなかったが、そのような中で、マーラーについてはかなりの録音を遺した。

11曲の演奏は、いずれもベルティーニならではの鋭い審美眼が作品のあらゆる細部に行き届いた名演揃い。

まさにマーラー指揮者とも言える存在であったが、ベルティーニのマーラー演奏の特色は、許光俊氏がライナーノーツに記しておられるように、流麗なる美しさということになるであろう。

どんなに劇的な箇所に差し掛かっても、バーンスタインやテンシュテットのように踏み外したりすることはなく、どこまでも流麗な美しさを失わない。

それでいて、軟弱さなどとは皆無であり、劇的な箇所における力強い迫力にいささかの不足を感じさせることはない。

同世代のライバルのマーラー指揮者のインバルは、内なる激しいパッションをできるだけ封じ込めて、実に抑制的な表現につとめているが、ベルティーニは、あくまでも自然体で指揮をしており、こうした自然体のアプローチによって、硬軟併せ持つ、いい意味でのバランスのとれたマーラーを表現できるというのは、天性のマーラー指揮者の手による類稀なる至芸と言える。

本全集に収められたいずれの曲も名演の名に値するが、全集録音初期の「第3」は、その出来栄えの見事さで当時のあらゆる批評で絶賛を浴びたものであるし、「第2」は許光俊氏をうならせた高精度演奏、「第1」は、日本における“マーラー・ルネッサンス”最高の成果とうたわれた一連の来日公演のライヴと、マーラー好きにはどれも逸することができないところであろう。

特に、「第2」の第2楽章や「第4」の第3楽章、「第5」の第4楽章、「第6」の第3楽章、そして「第9」の終楽章など、緩徐楽章の決して耽美には陥らない高潔な美しさは、他の指揮者の追随を許さない高みに達している。

「第3」の第1楽章や「第9」の第1楽章などのいい意味でのバランスのとれたスケールの大きい演奏も見事であるし、合唱や独唱の入る「第8」や「大地の歌」なども素晴らしい名演だ。

良心的な価格でもあり、きわめて水準の高い名盤と評価したい。

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2015年02月04日


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近年様々なライヴ録音が発掘されることによってその実力が再評価されつつあるテンシュテットであるが、テンシュテットによる最大の遺産は、何と言っても1977年から1986年にかけてスタジオ録音されたマーラーの交響曲全集ということになるのではないだろうか。

テンシュテットは、当該全集の掉尾を飾る交響曲第8番の録音(1986年)の前年に咽頭がんを患い、その後は放射線治療を続けつつ体調がいい時だけ指揮をするという絶望的な状況に追い込まれた。

したがって、1986年以降の演奏は、死と隣り合わせの壮絶な演奏を展開することになるのであるが、それ以前の演奏についても、いささかも妥協を許さない全力投球の極めて燃焼度の高い渾身の演奏を繰り広げていた。

そうしたテンシュテットの指揮芸術は、最も得意としたマーラーの交響曲の演奏において如実に反映されていると言えるであろう。

テンシュテットのマーラーの交響曲へのアプローチはドラマティックの極みとも言うべき劇的なものだ。

これはスタジオ録音であろうが、ライヴ録音であろうが、さして変わりはなく、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使して、大胆極まりない劇的な表現を施している。

かかる劇的な表現においては、かのバーンスタインと類似している点も無きにしも非ずであり、マーラーの交響曲の本質である死への恐怖や闘い、それと対置する生への妄執や憧憬を完璧に音化し得たのは、バーンスタインとテンシュテットであったと言えるのかもしれない。

ただ、バーンスタインの演奏があたかもマーラーの化身と化したようなヒューマニティ溢れる熱き心で全体が満たされている(したがって、聴き手によってはバーンスタインの体臭が気になるという人もいるのかもしれない)に対して、テンシュテットの演奏は、あくまでも作品を客観的に見つめる視点を失なわず、全体の造型がいささかも弛緩することがないと言えるのではないだろうか。

もちろん、それでいてスケールの雄大さを失っていないことは言うまでもないところだ。

このあたりは、テンシュテットの芸風の根底には、ドイツ人指揮者としての造型を重んじる演奏様式が息づいていると言えるのかもしれない。

テンシュテットは、マーラーの数ある交響曲の中でもとりわけ第6番を得意としており、本盤の1983年のスタジオ録音の他にも、同年のライヴ録音、そして1991年のライヴ録音が存在している。

このうち、1991年のライヴ録音が最高峰に君臨する名演であるのは自明の理ではあるが、本盤に収められた演奏も圧倒的な超名演であり、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な凄みのある迫力を湛えていると評価したい。

オーケストラは必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルであるが、テンシュテットのドラマティックな指揮に必死に喰らいつき、テンシュテットとともに持ち得る実力を全面的に発揮させた渾身の演奏を繰り広げていると言えるところであり、本演奏を超名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

音質は、1983年のスタジオ録音ではあるが、リマスタリングなどはなされていないものの、比較的良好な音質であると言えたところだ。

このような中で、今般、待望のシングルレイヤーによるSACD化がなされるに及んで大変驚いた。

音質の鮮明さ、そして音場の幅広さ、音圧などのどれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、テンシュテットによる圧倒的な超名演を現在望み得る最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2015年02月02日


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失恋した若者の悲しみと絶望が描かれた『さすらう若人の歌』、子供の死に対峙する心境が簡潔な書法と凝縮された表現力で綴られた『亡き子を偲ぶ歌』、『最後の7つの歌』として出版され、後に同じ詩人の5曲をまとめた『リュッケルトの詩による5つの歌曲』。

マーラーの管弦楽伴奏による3つの歌曲集を、バーンスタインが名バリトン歌手のハンプソンとウィーン・フィルという望み得る最高の共演者を得て録音した1枚。

バーンスタインは、マーラー演奏史上最高の指揮者であったと考えるが、生涯に、ビデオ作品も含め、3度にわたって、主要な歌曲集を含めた交響曲全集を完成させた。

もちろん、それには一部語弊があり、3度目の全集については、ついに交響曲第8番、第10番、「大地の歌」を録音することができずに世を去ってしまい、過去の録音で補填せざるを得ない事態に陥ったのは、実に残念なことであった。

いずれの全集も、バーンスタイン=マーラー指揮者という名に恥じない素晴らしい名演であるが、やはり、最も優れているのは、最後の全集と言えるのではなかろうか。

当該全集の諸曲の録音時には、併行して、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、シベリウスの交響曲などで、大仰なテンポ設定を駆使した駄演を悉く行っていたにもかかわらず、マーラーでは、同様に大仰とも言えるゆったりとしたテンポをとっているにもかかわらず、いささかもそのような演奏には陥らず、むしろ、そうした大仰なテンポが真実のように聴こえるのが素晴らしい。

これは、バーンスタインがマーラーの本質を鷲掴みにしていることの証左であり、バーンスタインがまさにマーラーの化身となっているとも言える。

本盤の3つの歌曲集は、当該全集の中でも、最も後年の録音、特に、『さすらう若人の歌』と『リュッケルトの詩による5つの歌曲』は、バーンスタインの死の年の録音であり、健康を害している中での思い入れたっぷりの、そして命がけの演奏は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な深い感動を与えてくれる。

ハンプソンも、そうしたマーラーの化身と化したバーンスタインの下、最高のパフォーマンスを示している。

ハンプソンの若々しい声とバーンスタインによる表現の陰影に富んだオケ、この組み合わせが絶妙だ。

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2015年01月16日


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マーラーの交響曲第9番は、マーラーが完成させた最後の交響曲だけに、その内容には途轍もない深みがある。

その本質的なテーマは、諸説はあるとは思うが、忍び寄る死への恐怖と闘い、そして、生への憧憬と妄執であると言えるだろう。

それだけに、他の交響曲では通用するアプローチでも、第9番に限っては、スコアに記された音符の表層だけをなぞっただけの演奏では、到底名演になり得ないとも言えるところだ。

ショルティは、ロンドン交響楽団とのスタジオ録音である本演奏(1967年)に続いて、手兵シカゴ交響楽団とともに2度目のスタジオ録音(1982年)を行っている。

1982年の演奏は、スーパー軍団と称されたシカゴ交響楽団の卓越した技量を見事に統率するとともに、楽曲の心眼にも鋭く踏み込んだ懐の深い円熟の名演であるが、これに対して、本演奏については、今一つの踏み込み不足を感じさせる演奏と言える。

今般の一連のルビジウム・クロック・カッティングシリーズの演奏は、第3番を除いて名演の名に相応しい水準を保っているが、本演奏は第3番と同様に、佳演のレベルにとどまるのではないかとも考えている。

ショルティの指揮芸術の特徴でもある切れ味鋭いリズム感やメリハリの明瞭さは、本演奏においても健在であり、同曲の複雑な曲想を明瞭化するにも大きく貢献しているが、スコアに記された音符の背後にあるものへの追求や彫りの深さと言った点においては、いささか不足していると言わざるを得ない。

演奏の持つ力強さや迫力においては不足がないものの、我々聴き手の肺腑を打つに至るような凄味は感じられないところであり、どうしても、本演奏にはある種の限界を感じずにはいられないところだ。

もっとも、1960年代という、いまだマーラー・ブームが訪れていない時期において、マーラーの交響曲の中でも最も演奏が難しいとされる難曲第9番に果敢に挑戦し、少なくとも水準には十分に達し得た演奏を成し遂げたことについては、一定の評価をしておくことが必要であろう。

いずれにしても、本演奏は、1982年の2度目の演奏と比較すると、今一つの出来と言わざるを得ないが、本演奏当時はショルティがいまだ壮年期であったこと、そしてマーラー・ブームが訪れる前の演奏であることなどを総合的に勘案すれば、少々甘い気もするが、佳演と評価するには躊躇するものではない。

ロンドン交響楽団も、ショルティのメリハリのある指揮にしっかりと付いていき、持ち得る実力を発揮した見事な演奏を行っていると評価したい。

音質は、1967年のスタジオ録音であるが、英デッカによる超優秀録音であること、そして、今般、ルビジウム・クロック・カッティングがなされたことにより、十分に満足できるものとなっている点についても付記しておきたい。

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2015年01月09日


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ワルターは1911年に「大地の歌」を初演したが、マーラーの弟子・後継指揮者として、この曲を35才のワルターが世に問うたことは、彼自身が述懐しているように実に大きな飛躍のステップであった。

そんなワルターが遺した「大地の歌」の録音と言えば、ウィーン・フィルを指揮した1936年盤と1952年盤の評価が著しく高いため、本盤の評価が極めて低いものにとどまっている。

特に、1952年盤が、モノラル録音でありながら、英デッカの高音質録音であることもあり、ワルターによる唯一のステレオ録音による「大地の歌」という看板でさえ、あまり通用していないように思われる。

ミラーとヘフリガーの名唱を得て、マーラー解釈の神髄を披露し、演奏の質は非常に高いだけに、それは大変残念なことのように思われる。

確かに、1952年盤と比較すると、1952年盤がオーケストラの上質さやワルターが最円熟期の録音ということもあり、どうしても本盤の方の分が悪いのは否めない事実であると思うが、本盤には、1952年盤には見られない別次元の魅力があると考えている。

1960年の録音であり、それは死の2年前であるが、全体に、人生の辛酸を舐め尽くした老巨匠だけが表現することが可能な人生の哀感、ペーソスといったものを随所に感じさせる。

特に、「告別」には、そうした切々とした情感に満ち溢れており、ここには、ワルターが人生の最後になって漸く到達した至高・至純の境地が清澄に刻印されていると思われるのである。

ワルターの説得力に富むアプローチに加え、ヘフリガーの独唱も他に代えがたい深い詠嘆を湛えており、心に染み入るものがある。

第1楽章「大地の哀愁に寄せる酒の歌」の出だしから、ワルターと完全に融合し、マーラーの心境にひしと寄り添っているような一体感を醸しており、至芸と言えよう。

ニューヨーク・フィルも、ワルターの統率の下、最高のパフォーマンスを示していると言って良い。

DSDリマスタリングによって、音質がグレードアップされている点も特筆すべきであろう。

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2015年01月06日


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インバルは現代最高のマーラー指揮者の一人と言える。

インバルの名声を一躍高めることになったのは、フランクフルト放送交響楽団とともにスタジオ録音したマーラーの交響曲全集(1985年〜1988年)であるが、その後も東京都交響楽団やチェコ・フィルなどとともに、マーラーの様々な交響曲の再録音に取り組んでいる。

本盤に収められたチェコ・フィルとのマーラーの交響曲第7番の演奏も、そうした一連の再録音の一つであり、インバルとしては、前述の全集中に含まれた演奏(1986年)以来、約25年ぶりのものである。

当該全集の中で、最も優れた演奏は同曲であった(全集の中で唯一のレコード・アカデミー賞受賞盤)ことから、25年の歳月が経ったとは言え、当該演奏以上の名演を成し遂げることが可能かどうか若干の不安があったところであるが、本盤の演奏を聴いて、そのような不安は一瞬にして吹き飛んでしまった。

実に素晴らしい名演であり、正に、近年のインバルの充実ぶりが伺える圧倒的な超名演と言っても過言ではあるまい。

かつてのインバルによるマーラーへの交響曲演奏の際のアプローチは、マーラーへの人一倍の深い愛着に去来する内なるパッションを抑制して、可能な限り踏み外しがないように精緻な演奏を心掛けていたように思われる。

全集の中でも特に優れた名演である第7番についても例外ではなく、全体の造型は堅固ではあり、内容も濃密で立派な名演奏ではあるが、今一つの踏み外しというか、胸襟を開いた思い切った表現が欲しいと思われることも否めない事実である。

ところが、本演奏においては、かつての自己抑制的なインバルはどこにも存在していない。

インバルは、内なるパッションをすべて曝け出し、どこをとっても気迫と情熱、そして心を込め抜いた濃密な表現を施しているのが素晴らしい。

それでいて、インバルならではの造型の構築力は相変わらずであり、どんなに劇的かつロマンティックな表現を行っても、全体の造型がいささかも弛緩することがないのは、さすがの至芸と言うべきであろう。

いずれにしても、テンポの効果的な振幅を大胆に駆使した本演奏のような密度の濃い表現を行うようになったインバルによる超名演を聴いていると、バーンスタインやテンシュテット、ベルティーニなどの累代のマーラー指揮者が鬼籍に入った今日においては、インバルこそは、現代における最高のマーラー指揮者であるとの確信を抱かずにはいられないところだ。

オーケストラにチェコ・フィルを起用したのも功を奏しており、金管楽器、特にトランペットやホルンなどのブラスセクションの卓抜した技量は、本超名演のグレードをさらに上げる結果となっていることを忘れてはならない。

そして、SACDによる極上の高音質録音も、本超名演を鮮明な音質で味わえるものとして大いに歓迎したい。

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2015年01月04日


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テンシュテットの最大の遺産は、何と言っても1977年から1986年にかけてスタジオ録音されたマーラーの交響曲全集であることは論を待たないと言えるのではないだろうか。

テンシュテットは、当該全集の掉尾を飾る交響曲第8番の録音(1986年)の前年に咽頭がんを患い、その後は放射線治療を続けつつ体調が良い時だけ指揮をするという絶望的な状況に追い込まれた。

したがって、1986年以降の演奏は、死と隣り合わせの壮絶な演奏を展開することになるのであるが、それ以前の演奏についても、いささかも妥協を許さない全力投球の極めて燃焼度の高い渾身の演奏を繰り広げていた。

そうしたテンシュテットの指揮芸術は、最も得意としたマーラーの交響曲の演奏において如実に反映されていると言えるであろう。

テンシュテットのマーラーの交響曲へのアプローチはドラマティックの極みとも言うべき劇的なものだ。

これはスタジオ録音であろうが、ライヴ録音であろうが、さして変わりはなく、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使して、大胆極まりない劇的な表現を施している。

かかる劇的な表現においては、かのバーンスタインと類似している点も無きにしも非ずであり、マーラーの交響曲の本質である死への恐怖や闘い、それと対置する生への妄執や憧憬を完璧に音化し得たのは、バーンスタインとテンシュテットであったと言えるのかもしれない。

ただ、バーンスタインの演奏があたかもマーラーの化身と化したようなヒューマニティ溢れる熱き心で全体が満たされている(したがって、聴き手によってはバーンスタインの体臭が気になるという者もいるのかもしれない)のに対して、テンシュテットの演奏は、あくまでも作品を客観的に見つめる視点を失なわず、全体の造型がいささかも弛緩することがないと言えるのではないだろうか。

もちろん、それでいてスケールの雄大さを失っていないことは言うまでもないところだ。

このあたりは、テンシュテットの芸風の根底には、ドイツ人指揮者としての造型を重んじる演奏様式が息づいていると言えるのかもしれない。

テンシュテットは、マーラーの交響曲第1番を1990年にもシカゴ交響楽団とともにライヴ録音しており、当該演奏の方がオーケストラの優秀さも相俟って最高峰に君臨する名演であるというのは自明の理ではあるが、本盤に収められた交響曲第1番の演奏も圧倒的な超名演であり、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な凄みのある迫力を湛えていると評価したい。

オーケストラは必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルであるが、テンシュテットのドラマティックな指揮に必死に喰らいつき、テンシュテットとともに持ち得る実力を全面的に発揮させた渾身の演奏を繰り広げていると言えるところであり、本演奏を超名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

音質は、1977年のスタジオ録音ではあるが、数年前にリマスタリングの上でHQCD化がなされたこともあり、比較的良好な音質であると言えたところだ。

このような中で、今般、待望のシングルレイヤーによるSACD化がなされるに及んで大変驚いた。

音質の鮮明さ、そして音場の幅広さ、音圧などのどれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、テンシュテットによる圧倒的な超名演を現在望み得る最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2014年12月21日


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ブーレーズは、かつては前衛的な解釈で聴き手を驚かすような演奏を数多く行ってきたが、1990年代に入ってDGに様々な録音を行うようになってからは、すっかりと好々爺になったように思われる。

もちろん、だからと言って、演奏自体の質が落ちたということはいささかもない。

老いても前衛時代の残滓はなお残っているところであり、むしろ、いい意味での硬軟バランスのとれた名演奏を行うことが多くなったと言えるのではないだろうか。

特に、1990年代から2000年代の長きにわたって録音されたマーラーの交響曲全集には、そうした名演奏が数多く含まれているように思われる。

交響曲「大地の歌」も、そうした近年のブーレーズの芸風がプラスに働いた名演と高く評価したい。

「大地の歌」の名演としては、ワルター&ウィーン・フィル(1952年)とクレンペラー&フィルハーモニア管(1964年、1966年)が双璧とされてきた。

前者はどちらかと言うとウィーン・フィルの美演を最大限に活かした耽美性を強調した演奏、後者は同曲の心底にある厭世観を鋭く抉り出した演奏と言うことが可能ではないかと考えられる。

これら両名演に対して、ブーレーズの演奏は、「大地の歌」が有する耽美性や厭世観を極力排して、徹底してスコアに記された音符を精緻に表現することにつとめた演奏と言えるのではないだろうか。

もっとも、かつてのブーレーズであれば、さらに徹頭徹尾、冷徹な演奏を繰り広げることもあり得たと思うが、本演奏では、精緻な中にも随所に豊かな情感が込められているのが素晴らしい。

このような演奏を聴いていると、かの前衛的なブーレーズに対して、到底似つかわしくない円熟という表現をついに使わざる得なくなったのではないかと感じずにはいられない。

メゾ・ソプラノのウルマーナとテノールのシャーデも、このようなブーレーズの新しい円熟の芸風に符号した見事な歌唱を披露している。

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2014年12月16日


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ジンマンが手兵トーンハレ管弦楽団を指揮して、2006年から2010年という短期間で成し遂げたマーラーの交響曲全集がついにボックス化される運びとなった。

本全集で何よりも素晴らしいのは、すべての交響曲がマルチチャンネル付きのSACDによる臨場感溢れる極上の高音質であるという点であろう。

SACDによるマーラーの交響曲全集というのは、既に完成されているものとしては、他にバーンスタイン(第1回)やティルソン・トーマスによる全集しかないという極めて希少であるだけに、本全集の価値はその点だけをとってみても、極めて高いものと言わざるを得ない。

演奏自体も実に素晴らしい。

ジンマンのアプローチは、曲想を精緻に、そして丁寧に描き出していくというものであり、ある意味ではオーソドックスなものと言えるだろう。

もっとも、ジンマンの場合は、各楽器の鳴らし方に特徴的なものがあり、透明感溢れるクリアさが全体を支配しているとさえ言える。

これは、ジンマンが成し遂げた古楽器奏法によるベートーヴェンの交響曲全集にも通底するものと言えるところであり、マーラーによる複雑なオーケストレーションをこれほどまでに丁寧かつ明瞭に解きほぐした演奏は、レントゲンで写真を撮るかの如き精密さを誇るかのブーレーズの精緻な演奏にも比肩し得るものであるとも考えられる。

それでいて、演奏が冷徹なものになることはいささかもなく、どこをとっても豊かな情感に満ち溢れているのがジンマンのマーラーの素晴らしいところであり、これはジンマンの優れた音楽性の賜物と言っても過言ではあるまい。

ジンマンの統率の下、トーンハレ管弦楽団も持ち前の卓越した技量を発揮して最高のパフォーマンスを発揮している点も、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

本全集で残念なのは、交響曲「大地の歌」や主要な歌曲集が含まれていないことであるが、その一方で、第1番には「花の章」を付加したり、第10番についてはアダージョのみではなく、一般的なクック版に代わってクリントン・カーペンター補筆完成版を使用した全曲演奏を行っており、収録曲については一長一短と言うところではないかと考える。

また、本全集の大きなアドバンテージは、大変な廉価であるということであり、演奏内容の素晴らしさと臨場感溢れる鮮明な高音質、そして低価格であることを考慮すれば、現時点では最も安心してお薦めできる名全集と高く評価したい。

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2014年12月15日


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インバルがかつての手兵であるフランクフルト放送交響楽団とともにスタジオ録音を行ったマーラーの交響曲全集(1985年〜1988年)は、インバル&フランクフルト放送交響楽団の実力を世に知らしめるとともに、インバルの名声を確固たるものとした不朽の名全集である。

それどころか、録音から20年以上が経過した今日においても、あまたのマーラーの交響曲全集の中でも上位を占める素晴らしい名全集と高く評価したい。

インバルのマーラーに対する評価については百家争鳴の感がある。

それは、指揮者が小粒になった今日において、それだけインバルの存在感が増した証左であるとも考えられる。

インバルのマーラーは、近年の東京都響やチェコ・フィルとの一連のライヴ録音では随分と変容しつつあるが、全集を構成する本盤に収められた交響曲「大地の歌」の演奏においては一聴すると冷静で自己抑制的なアプローチであるとも言える。

したがって、演奏全体の装いは、バーンスタインやテンシュテットなどによる劇場型の演奏とは対極にあるものと言えるだろう。

しかしながら、インバルは、とりわけ近年の実演においても聴くことが可能であるが、元来は灼熱のように燃え上がるような情熱を抱いた熱い演奏を繰り広げる指揮者なのである。

ただ、本演奏のようなスタジオ録音を行うに際しては、極力自我を抑制し、可能な限り整然とした完全無欠の演奏を成し遂げるべく全力を傾注している。

マーラーがスコアに記した様々な指示を可能な限り音化し、作品本来の複雑な情感や構造を明瞭に、そして整然と表現した完全無欠の演奏、これが本演奏におけるインバルの基本的なアプローチと言えるであろう。

しかしながら、かかる完全無欠な演奏を目指す過程において、どうしても抑制し切れない自我や熱き情熱の迸りが随所から滲み出している。

それが各演奏が四角四面に陥ったり、血も涙もない演奏に陥ったりすることを回避し、完全無欠な演奏でありつつも、豊かな情感や味わい深さをいささかも失っていないと言えるところであり、これを持って本盤におけるインバルによる演奏を感動的なものにしていると言えるところだ。

前述のように、インバルによる本演奏に対する見方は様々であると思われるが、筆者としてはそのように考えているところであり、インバルの基本的なアプローチが完全無欠の演奏を目指したものであるが故に、現時点においてもなお、本盤に収められた交響曲「大地の歌」の演奏が普遍的な価値を失わないのではないかと考えている。

メゾ・ソプラノのヤルト・ヴァン・ネス、そして、テノールのペーター・シュライアーも最高のパフォーマンスを発揮していると高く評価したい。

音質は、初出時から高音質録音で知られたものであり、ゴールドCD仕様のボックスのみならず、従来CD盤でも十分に満足できる音質である。

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2014年12月13日


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本盤には、クーベリックが手兵バイエルン放送交響楽団とともに1967年から1971年という短期間で完成させたマーラーの交響曲全集のうち、交響曲第3番(1967年スタジオ録音)が収められている。

本盤の録音当時は、近年のようなマーラー・ブームが到来する以前であり、ワルターやクレンペラーなどのマーラーの直弟子によるいくつかの交響曲の録音はあったが、バーンスタインやショルティによる全集は同時進行中であり、極めて希少な存在であった。

そして、本演奏は、既に録音から40年が経過したが、現在においてもその価値をいささかも失うことがない素晴らしい名演と高く評価したい。

本演奏におけるクーベリックのアプローチは、ある意味では極めて地味で素朴とも言えるものだ。

バーンスタインやテンシュテットのような劇場型の演奏ではなく、シノーポリのような楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした明晰な演奏を旨としているわけではない。

また、ブーレーズやジンマンのような徹底したスコアリーディングに基づいた精緻な演奏でもなく、シャイーやティルソン・トーマスのような光彩陸離たるオーケストレーションの醍醐味を味わわせてくれるわけでもない。

クーベリックはむしろ、表情過多に陥ったり、賑々しい音響に陥ることがないように腐心しているようにさえ思われるところであり、前述のような様々な面において個性的な演奏に慣れた耳で聴くと、いささか物足りないと感じる聴き手も多いのではないかとも考えられる。

しかしながら、一聴するとやや速めのテンポで武骨にも感じられる各旋律の端々から滲み出してくる滋味豊かさには抗し難い魅力があると言えるところであり、噛めば噛むほど味わいが出てくる演奏ということが可能である。

地味な演奏というよりは滋味溢れる演奏と言えるところであり、とりわけ、マーラーがボヘミア地方出身であることに起因する民謡風な旋律や民俗的な舞曲風のリズムの情感豊かで巧みな表現には比類がない美しさと巧さがある。

いずれにしても、近年の賑々しいマーラー演奏に慣れた耳を綺麗に洗い流してくれるような演奏とも言えるところであり、その滋味豊かな味わい深さという点においては、今後とも普遍的な価値を有し続ける至高の名演と高く評価したい。

なお、クーベリックはスタジオ録音よりも実演でこそ実力を発揮する指揮者であり、本演奏とほぼ同時期のライヴ録音が独アウディーテから発売されている。

テンポも本演奏よりも速く、強靭な生命力や気迫においては、本演奏よりも優れた演奏と言えなくもないが、音質やオーケストラの安定性などを総合的に考慮すれば、本名演の価値はなお不変であると考える。

音質については、筆者は1989年に初CD化された全集を所有しており、それは現在でも十分に満足し得るものである。

しかしながら、今般、待望のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤が発売される運びとなった。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても超一級品の仕上がりであり、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、クーベリックによる素晴らしい名演を、現在望みうる最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2014年12月05日


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ワルター最後の録音のひとつ。

1938年のワルターとウィーン・フィルによる凄絶な歴史的名盤によって、コロンビア響との録音は影が薄くなってしまったが、最後の録音のひとつという感傷を抜きにしてもこの演奏には心を打たれる。

様々な音楽書を読むと、本盤の演奏を、戦前のライヴ録音と比較して、好々爺となったワルターの温かい演奏と評価する向きもあるようだが、果たしてそう言い切れるだろうか。

確かに、戦前の壮絶なライヴ録音と比較すると、若干角が取れた丸みも感じられなくはないが、むしろ、死を間近に控えた老巨匠とは思えないような生命力に満ち溢れた力強い名演だと考えている。

初演者であるワルターは、さすがにこの曲に共感をもって、隅々まで曲を手中に収めた表現である。

全体に作品の歌謡性を豊かに生かしており、ワルターの芸術性を最もよく表現した演奏である。

「死を予感する者の悲劇的で絶望的な別れの曲だ」とワルターが言ったこの曲が彼の死別の曲ともなった。

第1楽章の初めの死への悲しみを伝える神秘的な弦の低音動機からしてワルターは聴く者の心をつかんで離さない。

その後のテンポや強弱の振幅の幅広さには凄まじいものがあるし、第2楽章や第3楽章は、やや遅めのテンポで濃厚な味わいを醸し出している点も素晴らしい。

終楽章も、戦前のライヴ録音と比較すると、やや遅めのテンポで、情感溢れる演奏を行っており、あたかもワルターが実り多き人生に別れを告げようとしているような趣きさえ感じさせる。

悲劇的なものがきつく厳めしくのしかかってこないで、詩情のヴェールを通して心にしみ入ってくるのである。

それゆえ、ワルターの表現は柔和ではないかと、訝る向きもあるだろうが、それは、ワルターがクレンペラーのように、死に怯えるマーラーをとことん追いつめることがないからである。

「恐怖」に怯える魂を慰める大きな愛こそ、ワルター芸術の神髄なのだから。

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2014年11月30日


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バーンスタインがドイツ・グラモフォンに遺したマーラー交響曲音源の集成された廉価版ボックスで、マーラー生誕150年、バーンスタイン没後20年に合わせてリリースされたものだが、筆者が高校生の時に購入した最初のボックスのおよそ3分の1の厚み、5分の1というプライスに唖然とさせられるとともに時代の隔たりを感じる。

やはりマーラーといえば、バーンスタインの演奏が最も聴き応えのある、天下の名演と言い切ってしまって良いだろう。

バーンスタインは、実に気迫と共感のこもった白熱のロマン的な名演を聴かせる。

どの交響曲も最初の1音からマーラーの心がバーンスタインに乗り移ったような演奏で、聴き手に興奮を促してやまない。

バーンスタインはマーラーの苦悩と喜びを共に追体験したかのような、作品とひとつになった合一性を示している。

バーンスタインはマーラーと共に、笑い、泣き、歓喜の頂点を極め、苦悩のどん底に沈み、まさに作曲者と指揮者のホモジェニティ(同一化)の典型を示している。

マーラー・ファンにとっては最高の魅力だろうが、マーラー嫌いにとっては、はしたないの一語に尽きるだろう。

しかし、マーラーの交響曲をこれだけ自分の音楽として表現できる指揮者は、バーンスタインをおいて他にはいないだろう。

その包容力は途方もなく大きく、シンフォニックなスケール感においても、断然他を圧していると言って良い。

ユダヤ人としての属性が、2人の芸術家を見えない糸で結び付けているのだろうか。

ライヴ録音ならではの緊張感と精神的な迫力が感じられ、演奏の一回性の貴重さを改めて思い知らされる。

バーンスタインのマーラーを聴くと、これ以上の演奏は考えられないと、錯覚させられるから具合が悪い。

とはいえ、この全集を凌駕する演奏は、他にちょっと見当たらない。

実はこれだけの名演が生まれると、後攻の指揮者はしんどいことこの上ない。

少なくともバーンスタインを超える何かがないと、一敗地にまみれるのは、目に見えているからである。

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2014年11月26日


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録音からすでに40年以上経過したが、今もって、当曲の最右翼に位置する名盤である。

ショルティ&シカゴ響のヨーロッパ公演の際におこなわれた録音で、史上最強といわれる豪華なキャストが話題になった。

ところで、日本のクラシック批評史上最大の汚点として決して忘れてはいけないのが、ショルティを不当に過小評価したことである。

日本のクラシック音楽評論家連中は、ドイツ精神主義を最高のものとして崇め奉るため、楽譜に忠実な指揮をするショルティを「精神性がない」「無機的」「血が通っていない」とことあるごとに貶していた。

クラシックを聴き始めた頃の筆者は、この批評を鵜呑みにしてショルティを無視してしまった。

それが大間違いであったことに気が付いたのが10年近く経った頃であった。

以来、筆者はショルティを貶した評論家連中を信用しないようにしている。

そのように、ショルティは実力の割には過小評価されている大指揮者だと思うが、このマーラーを聴くと、大規模なオーケストラや合唱団を意のままに統率する類稀なるショルティの力量を思い知らされる。

マーラーの交響曲の中でも、「第8」は個人的な主観に左右されにくい作品なので、ショルティの客観的なアプローチに一番しっくりくるのかもしれない。

もちろん、演奏のほうも素晴らしいもので、大作とはいえ、流動的な構造の第2部、がっちりと構造的に仕上げるなど、いつもながらのショルティの造型志向はここでも健在。

第2部とは対照的に構造的求心性の強い第1部では、持ち前のダイナミックなアプローチが好を奏し、いたるところに爽快な山場がつくられていてとにかく快適。

ショルティはバーンスタインのように感情移入やテンポの激変することはしないで楽譜に忠実に指揮している。

しかし、ショルティの凄いところは1音も無駄にすることなくしっかりと明瞭な音を鳴らしているところである。

しかも、音に色彩感があり彫りが深く、オーケストラ、ソリスト、合唱を見事にコントロールして最高の音楽を引き出している。

独唱者は見事に粒よりで、女声は完璧、男声では、何といってもコロの絶唱!力強い美声を惜しみなく披露し、第2部ではテキストのとおり、陶酔した最高のマリア崇拝の博士が聴ける。

ショルティは実に力強くオケとコーラスを引っ張り、遅滞も乱れもなく完璧な音響表現を成し遂げた。

第1部よりも第2部が一層鮮やかで、全演奏者が本当に1つになって頂点を目指すような、セッションレコーディングにおいても稀有な成果と言えよう。

ただ演奏するだけでも人手も経費の面でも大変な曲なのだが、録音、オケの技術、歌手陣、音、全部考えうる最高の演奏だと思う。

録音も極上で、最初のオルガンの音1つにしても神秘の合唱の銅鑼一発にしても最高、オーディオ的満足度の高さも相当なものがある。

聴き手は、今は無きゾフィエンザールの広大な空間に、全盛期のショルティ&シカゴ響がその超絶的なパワーを注いで鳴り響いたゴージャスな音響を、これも円熟期のK・ウィルキンソンが世界最高の録音技術をもってホールの空間ごと切り取ったスペクタクルサウンドにただ唖然とすることしか許されない。

現在でもあらゆる要素において、最高水準のスタンダードと言えるところであり、マーラーの「第8」の数々のCDの中でもトップを争う名盤だと思う。

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2014年11月06日


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交響曲第1番は素晴らしい名演だ。

同曲には、ワルター&コロンビア響(1961年)やバーンスタイン&コンセルトへボウ・アムステルダム(1987年)と言った至高の超名演があるが、本演奏はこれら両横綱に次ぐ大関クラスの名演と言えるのではないだろうか。

マーラーの交響曲第1番はマーラーの青雲の志を描いた作品であり、円熟がそのまま名演に繋がるとは必ずしも言えないという難しさがある。

実際に、アバドは後年、ベルリン・フィルの芸術監督に就任後まもなく同曲をベルリン・フィルとともにライヴ録音(1989年)しており、それも当時低迷期にあったアバドとしては名演であると言えなくもないが、本演奏の持つ独特の魅力には到底敵わないと言えるのではないだろうか。

これは、小澤が同曲を3度にわたって録音しているにもかかわらず、最初の録音(1977年)を凌駕する演奏が出来ていないこととも通暁するのではないかと考えられる。

いずれにしても、ベルリン・フィルの芸術監督に就任するまでのアバドの演奏は素晴らしい。

本演奏でも、随所に漲っている圧倒的な生命力とエネルギッシュな力感は健在だ。

それでいて、アバドならではの歌謡性豊かな歌心が全曲を支配しており、とりわけ第2楽章や第3楽章の美しさには出色のものがある。

終楽章のトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と力強さには圧巻の凄みがあると言えるところであり、壮麗な圧倒的迫力のうちに全曲を締めくくっている。

いずれにしても、本演奏は、強靭な力感と豊かな歌謡性を併せ持った、いわゆる剛柔バランスのとれたアバドならではの名演に仕上がっていると高く評価したい。

また、シカゴ交響楽団の超絶的な技量にも一言触れておかなければならない。

当時のシカゴ交響楽団は、ショルティの統率の下、スーパー軍団の異名をとるほどのオーケストラであったが、本演奏でも若きアバドの指揮の下、これ以上は求め得ないような最高のパフォーマンスを発揮しているのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

他方、交響曲第10番は、この後の録音がなされていないことから本演奏が現時点でのアバドによる最新の演奏ということになるが、その演奏内容の評価については美しくはあるが、かと言って他の演奏を圧するような絶対美の世界を構築し得ているわけではない。

楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような凄みはないが、他方、歌謡性豊かな情感には満ち溢れるなど魅力的な箇所も多々存在しており、ウィーン・フィルによる美演も併せて考慮すれば、佳演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

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2014年11月03日


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バーンスタインは、マーラーの「第9」をビデオ作品も含め4度録音している。

ニューヨーク・フィル盤(1965年)、ウィーン・フィル盤(1970年代のDVD作品)、ベルリン・フィル盤(1979年)、そして本コンセルトヘボウ・アムステルダム盤(1985年)があり、オーケストラがそれぞれ異なっているのも興味深いところであるが、ダントツの名演は本盤であると考える。

それどころか、古今東西のマーラーの「第9」のあまたの演奏の中でもトップの座に君臨する至高の超名演と高く評価したい。

マーラーの「第9」は、まぎれもなくマーラーの最高傑作だけに、様々な指揮者によって数々の名演が成し遂げられてきたが、本盤はそもそも次元が異なっている。

まさに、本バーンスタイン盤こそは富士の山、他の指揮者による名演は並びの山と言ったところかもしれない。

これに肉薄する往年の名演として、ワルター&ウィーン・フィル盤(1938年)があり、オーパス蔵によって素晴らしい音質に復刻はされているが、当該盤は、多分に第2次世界大戦直前という時代背景が名演に伸し上げたと言った側面も否定できないのではないだろうか。

マーラーの「第9」は、マーラーの交響曲の総決算であるだけに、その神髄である死への恐怖と闘い、それと対置する生への妄執と憧憬がテーマと言えるが、これを、バーンスタイン以上に表現し得た指揮者は他にはいないのではないか。

第1楽章は、死への恐怖と闘いであるが、バーンスタインは、変幻自在のテンポ設定や思い切ったダイナミックレンジ、そして猛烈なアッチェレランドなどを大胆に駆使しており、その表現は壮絶の極みとさえ言える。

これほど聴き手の肺腑を打つ演奏は他には知らない。

第3楽章の死神のワルツも凄まじいの一言であり、特に終結部の荒れ狂ったような猛烈なアッチェレランドは圧巻のド迫力だ。

終楽章は、生への妄執と憧憬であるが、バーンスタインの表現は濃厚さの極み。

誰よりもゆったりとした急がないテンポにより、これ以上は求め得ないような彫りの深い表現で、マーラーの最晩年の心眼を鋭く抉り出す。

そして、このようなバーンスタインの壮絶な超名演に潤いと深みを付加させているのが、コンセルトヘボウ・アムステルダムによるいぶし銀の音色による極上の名演奏と言えるだろう。

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バーンスタインは、その生涯に、ビデオ作品を含め、マーラーの交響曲全集を3度に渡って録音した。

このような指揮者は今日においてもいまだ存在しておらず、演奏内容の質の高さだけでなく、遺された全集の数においても、他のマーラー指揮者を圧倒する存在と言えるだろう。

いずれの全集も歴史的名演と評してもいいくらいの質の高いものであるが、その中での最高傑作は、やはり、衆目の一致するところ、マーラーゆかりの3つのオーケストラを指揮して録音を行った最後の全集ということになるのではなかろうか。

この最後の全集で残念なのは、本盤に収められた「第8」と「第10」、そして、「大地の歌」を録音できずに世を去ったことである。

この全集の他の諸曲のハイレベルな出来を考えると、これは大変残念なことであったと言わざるを得ない。

特に、「第10」は、2度目のビデオによる全集の中から抜粋したものとなっており、演奏内容は名演ではあるが、二番煎じの誹りを免れない。

他方、「第8」は、2度目の全集に収められた「第8」とほぼ同時期の録音ではあるが、ザルツブルク音楽祭におけるライヴ録音であり、全く別テイク。

本盤は、この「第8」を聴くだけでも十分にお釣りがくるCDと言える。

バーンスタインの晩年の録音は、ほぼすべてがライヴ録音であるのだが、録音を意識していたせいか、限りなくスタジオ録音に近い、いわゆる自己抑制したおとなしめ(と言ってもバーンスタインとしてはという意味であるが)の演奏が多い。

ところが、本盤は、録音を意識していない正真正銘のライヴ録音であり、この猛烈な暴れ振りは、来日時でも披露したバーンスタインのコンサートでの圧倒的な燃焼度を彷彿とさせる。

これほどのハイテンションになった「第8」は、他の演奏では例がなく、同じく劇的な演奏を行ったテンシュテットなども、遠く足元にも及ばない。

猛烈なアッチェレランドの連続や、金管楽器の思い切った最強奏、極端と言ってもいいようなテンポの激変など、考え得るすべての表現を駆使して、「第8」をドラマティックに表現していく。

バーンスタインもあたかも火の玉のように燃えまくっており、あまりの凄さに、合唱団とオーケストラが微妙にずれる点があるところもあり、正真正銘のライヴのスリリングさも満喫することができる。

それでいて、楽曲全体の造型が崩壊することはいささかもなく、聴き終わった後の興奮と感動は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分だ。

録音が、若干オンマイクで、トゥッティの箇所で、音が団子状態になるのが惜しいが、演奏内容の質の高さを考えると、十分に許容範囲であると考える。

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2014年11月02日


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マーラーの「第7」は、最近では多くの指揮者によって数々の名演が成し遂げられており、他の交響曲と比較しても遜色のない演奏回数を誇っているが、本盤の録音当時(1985年)は、マーラーの他の交響曲と比較すると一段下に見られていたのは否めない事実である。

本盤と、ほぼ同時期に録音されたインバル&フランクフルト放送交響楽団による名演の登場によって、現代における「第7」の名演の隆盛への道が開かれたと言っても過言ではないところである。

その意味では、本盤に収められた演奏は、「第7」の真価を広く世に認知させるのに大きく貢献した至高の超名演と高く評価したい。

ここでのバーンスタインの演奏は、他の交響曲におけるアプローチと同様に実に雄弁であり、濃厚さの極みである。

バーンスタインの晩年の演奏は、マーラー以外の作曲家の楽曲においても同様のアプローチをとっており、ブラームスの交響曲全集やドヴォルザークの「第9」、シベリウスの「第2」、チャイコフスキーの「第6」、モーツァルトのレクイエム、ショスタコーヴィチの「第7」など、雄弁ではあるが、あまりにも大仰で表情過多な面が散見され、内容が伴っていない浅薄な凡演に陥ってしまっているものが多い。

ところが、同じようなアプローチでも、マーラーの交響曲や歌曲を指揮すると、他の指揮者の演奏を圧倒する素晴らしい名演が仕上がるという結果になっている。

これは、バーンスタインがマーラーの本質を誰よりも深く理解するとともに、心底から愛着を抱いていたからに他ならず、あたかもマーラーの化身のような指揮であるとさえ言える。

本盤の「第7」も、第1楽章の葬送行進曲における激しい慟哭から天国的な美しさに至るまで、表現の幅は桁外れに広範。

これ以上は求め得ないような彫りの深い濃密な表現が施されており、その情感のこもった音楽は、聴き手の深い感動を呼び起こすのに十分だ。

また、「第7」の愛称の理由でもある第2楽章及び第4楽章の「夜の歌」における情感の豊かな音楽は、至高・至純の美しさを誇っている。

終楽章の光彩陸離たる響きも美しさの極みであり、金管楽器や弦楽器のパワフルな力奏も圧巻の迫力を誇っている。

ここには、まさにオーケストラ演奏を聴く醍醐味があると言えるだろう。

「第7」の評価が低い理由として、終楽章の賑々しさを掲げる者が多いが、バーンスタインが指揮すると、そのような理由に何らの根拠を見出すことができないような内容豊かな音楽に変貌するのが素晴らしい。

録音の当時、やや低迷期にあったとされるニューヨーク・フィルも、バーンスタインの統率の下、最高のパフォーマンスを示しているのも、本名演の大きな魅力の一つであることを忘れてはならない。

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2014年11月01日


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マーラーの「第6」は、マーラーの数ある交響曲の中でも少数派に属する、4楽章形式を踏襲した古典的な形式を維持する交響曲である。

「悲劇的」との愛称もつけられているが、起承転結もはっきりとしており、その内容の深さからして、マーラーの交響曲の総決算にして最高傑作でもある「第9」を予見させるものと言えるのかもしれない。

マーラーの交響曲には、様々な内容が盛り込まれてはいるが、その神髄は、死への恐怖と闘い、それと対置する生への憧憬と妄執である。

これは、「第2」〜「第4」のいわゆる角笛交響曲を除く交響曲においてほぼ当てはまると考えるが、とりわけ「第9」、そしてその前座をつとめる「第6」において顕著であると言えるだろう。

このような人生の重荷を背負ったような内容の交響曲になると、バーンスタインは、まさに水を得た魚のようにマーラー指揮者としての本領を発揮することになる。

本演奏におけるバーンスタインのアプローチは、他の交響曲と同様に濃厚さの極み。

テンポの緩急や強弱の変化、アッチェレランドなどを大胆に駆使し、これ以上は求め得ないようなドラマティックな表現を行っている。

それでいて、第3楽章などにおける情感の豊かさは美しさの極みであり、その音楽の表情の起伏の幅は桁外れに大きいものとなっている。

終楽章の畳み掛けていくような生命力溢れる力強い、そして壮絶な表現は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な圧巻の迫力を誇っている。

そして、素晴らしいのはウィーン・フィルの好パフォーマンスであり、バーンスタインの激情的とも言える壮絶な表現に、潤いと深みを加えるのに成功している点も高く評価したいと考える。

これだけの超名演であるにもかかわらず、影響力のあるとある高名な音楽評論家が、バーンスタインの体臭がしてしつこい演奏などと難癖をつけ、ノイマン&チェコ・フィル盤(1995年)や、あるいは数年前に発売され話題を呼んだプレートル&ウィーン交響楽団盤(1991年)をより上位の名演と評価している。

筆者としても、当該高名な評論家が推奨する2つの演奏が名演であることに異論を唱えるつもりは毛頭ない。

しかしながら、本盤に収められたバーンスタイン&ウィーン・フィルの超名演を、これら2つの演奏の下に置く考えには全く賛成できない。

マーラーの「第6」のような壮絶な人間のドラマを表現するには、バーンスタインのようなドラマティックで壮絶な表現こそが必要不可欠であり、バーンスタインの体臭がしようが、しつこい演奏であろうが、そのような些末なことは超名演の評価にいささかの瑕疵を与えるものではないと言えるのではないか。

むしろ、本超名演に匹敵し得るのは、咽頭がんを患った後、健康状態のいい時にのみコンサートを開催していたテンシュテット&ロンドン・フィルによる命がけの渾身の超名演(1991年)だけであり、他の演奏は、到底足元にも及ばないと考える。

併録の「亡き子をしのぶ歌」も超名演であり、バリトンのハンプソンの歌唱も最高のパフォーマンスを誇っていると高く評価したい。

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マーラーの交響曲第5番は、マーラーの数ある交響曲の中でも最も人気のある作品と言えるだろう。

CD時代が到来する以前には、むしろ第1番や第4番が、LP1枚に収まることや曲想の親しみやすさ、簡潔さからポピュラリティを得ていたが、CD時代到来以降は、第5番が、第1番や第4番を凌駕する絶大なる人気を誇っている。

これは、CD1枚におさまる長さということもあるが、それ以上に、マーラーの交響曲が含有する魅力的な特徴のすべてを兼ね備えていることに起因するとも言えるのではないだろうか。

先ずは、マーラー自身も相当に試行錯誤を繰り返したということであるが、巧みで光彩陸離たる華麗なオーケストレーションが掲げられる。

次いで、マーラーの妻となるアルマ・マーラーへのラブレターとも評される同曲であるが、同曲には、葬送行進曲などに聴かれる陰鬱かつ激情的な音楽から、第4楽章における官能的とも言える極上の天国的な美しい音楽に至るまで、音楽の表情の起伏の幅が極めて大きいものとなっており、ドラマティックな音楽に仕上がっている点が掲げられる。

このように魅力的な同曲だけに、古今東西の様々な指揮者によって、数々の個性的な名演が成し遂げられてきた。

無慈悲なまでに強烈無比なショルティ盤(1970年)、官能的な耽美さを誇るカラヤン盤(1973年)、細部にも拘りを見せた精神分析的なシノーポリ盤(1985年)、劇的で命がけの豪演であるテンシュテット盤(1988年)、瀟洒な味わいとドラマティックな要素が融合したプレートル盤(1991年)、純音楽的なオーケストラの機能美を味わえるマーツァル盤(2003年)など目白押しであるが、これらの数々の名演の更に上を行く至高の超名演こそが、本バーンスタイン盤と言える。

バーンスタインのアプローチは大仰なまでに濃厚なものであり、テンポの緩急や思い切った強弱、ここぞと言う時の猛烈なアッチェレランドの駆使など、マーラーが作曲したドラマティックな音楽を完全に音化し尽くしている点が素晴らしい。

ここでのバーンスタインは、あたかも人生の重荷を背負うが如きマーラーの化身となったかのようであり、単にスコアの音符を音化するにとどまらず、情感の込め方には尋常ならざるものがあり、精神的な深みをいささかも損なっていない点を高く評価したい。

オーケストラにウィーン・フィルを起用したのも功を奏しており、バーンスタインの濃厚かつ劇的な指揮に、適度な潤いと奥行きの深さを付加している点も忘れてはならない。

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2014年10月31日


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終楽章にボーイ・ソプラノを起用したことにより数々の批判を浴びている曰くつきの演奏ではあるが、筆者としては、確かにボーイ・ソプラノの起用には若干の疑問は感じるものの、総体としては、素晴らしい名演と高く評価したい。

マーラーの「第4」は、マーラーのあらゆる交響曲の中で、最も古典的な形式に則った作品であり、楽器編成も第1楽章の鈴や終楽章の独唱を除けば、きわめて常識的である。

それ故に、いわゆるマーラー指揮者とは言えない指揮者によっても、これまで好んで演奏されてきた交響曲ではあるが、表情づけが淡泊であるというか、内容の濃さに欠ける演奏、スケールの小さい演奏が多かったというのも否めない事実であると言えるのではないだろうか。

もっとも、いくらマーラーが作曲した最も規模の小さい簡潔な交響曲と言っても、そこは重厚長大な交響曲を数多く作曲したマーラーの手による作品なのであり、何も楽曲を等身大に演奏することのみが正しいわけではないのである。

バーンスタインは、そうした軽妙浮薄な風潮には一切背を向け、同曲に対しても、他の交響曲へのアプローチと同様に、雄弁かつ濃厚な表現を施している点を高く評価したい。

バーンスタインの名演によって、マーラーの「第4」の真価が漸くベールを脱いだとさえ言えるところであり、情感の豊かさや内容の濃密さ、奥行きの深さと言った点においては、過去の同曲のいかなる演奏にも優る至高の超名演と高く評価したい。

バーンスタインの統率の下、コンセルトヘボウ・アムステルダムも最高のパフォーマンスを示していると言えるところであり、バーンスタインの濃厚な解釈に深みと潤いを与えている点を忘れてはならない。

前述のように、終楽章にボーイ・ソプラノを起用した点についてはいささか納得し兼ねるが、ヴィテックの独唱自体は比較的優秀であり、演奏全体の評価にダメージを与えるほどの瑕疵には当たらないと考える。

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バーンスタインが遺した3度にわたるマーラーの交響曲全集の中で、3度目の全集は、「第8」、「第10」及び「大地の歌」の新録音を果たすことができなかったものの、いずれ劣らぬ至高の超名演で構成されていると言えるのではないだろうか。

マーラーの「第3」は、重厚長大な交響曲を数多く作曲したマーラーの交響曲の中でも、群を抜いて最大の規模を誇る交響曲である。

あまりの長さに、マーラー自身も、「第3」に当初盛り込む予定であった一部の内容を、「第4」の終楽章にまわしたほどであったが、これだけの長大な交響曲だけに、演奏全体をうまく纏めるのはなかなかに至難な楽曲とも言える。

また、長大さの故に、演奏内容によっては冗長さを感じさせてしまう危険性も高いと言える。

ところが、生粋のマーラー指揮者であるバーンスタインにとっては、そのような難しさや危険性など、どこ吹く風と言ったところなのであろう。

バーンスタインの表現は、どこをとってもカロリー満点で、濃厚で心を込め抜いた情感の豊かさが演奏全体を支配している。

特に、終楽章は特筆すべき美しさでスケールも気宇壮大、誰よりも遅いテンポで情感豊かに描き出しているのが素晴らしい。

他方、変幻自在のテンポ設定や、桁外れに幅の広いダイナミックレンジ、思い切ったアッチェレランドなどを大胆に駆使するなど、ドラマティックな表現にも抜かりがない。

このように、やりたい放題とも言えるような自由奔放な解釈を施しているにもかかわらず、長大な同曲の全体の造型がいささかも弛緩することなく、壮麗にして雄渾なスケール感を損なっていないというのは、マーラーの化身と化したバーンスタインだけに可能な驚異的な圧巻の至芸である。

特筆すべきは、ニューヨーク・フィルの卓越した技量であり、金管楽器(特にホルンとトロンボーン)にしても、木管楽器にしても、そして弦楽器にしても抜群に上手く、なおかつ実に美しいコクのある音を出しており、本名演に華を添える結果となっている点を忘れてはならない。

ルートヴィヒの独唱や、ニューヨーク・コラール・アーティスツ及びブルックリン少年合唱団による合唱も、最高のパフォーマンスを示している点も高く評価したい。

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マーラーの交響曲第2番の優れた名演が、最近相次いで登場している。

一昨年以降の演奏に限ってみても、パーヴォ・ヤルヴィ&フランクフルト放送交響楽団、インバル&東京都交響楽団、そしてラトル&ベルリン・フィルが掲げられ、その演奏様式も多種多様だ。

また、少し前の時代にその範囲を広げてみても、小澤&サイトウ・キネン・オーケストラ(2000年)、テンシュテット&ロンドン・フィル(1989年ライヴ)、シノーポリ&フィルハーモニア管弦楽団(1985年)など、それぞれタイプの異なった名演があり、名演には事欠かない状況だ。

このような中で、本盤に収められたバーンスタインによる演奏は、これら古今東西の様々な名演を凌駕する至高の超名演と高く評価したい。

録音から既に20年以上が経過しているが、現時点においても、これを超える名演があらわれていないというのは、いかに本演奏が優れた決定的とも言える超名演であるかがわかろうと言うものである。

本演奏におけるバーンスタインの解釈は実に雄弁かつ濃厚なものだ。

粘ったような進行、テンポの緩急や強弱の思い切った変化、猛烈なアッチェレランドなどを大胆に駆使し、これ以上は求め得ないようなドラマティックな表現を行っている。

また、切れば血が出るとはこのような演奏のことを言うのであり、どこをとっても力強い生命力と心を込めぬいた豊かな情感が漲っているのが素晴らしい。

これだけ大仰とも言えるような劇的で熱のこもった表現をすると、楽曲全体の造型を弛緩させてしまう危険性があるとも言える。

実際に、バーンスタインは、チャイコフスキーの「第6」、ドヴォルザークの「第9」、シベリウスの「第2」、モーツァルトのレクイエムなどにおいて、このような大仰なアプローチを施すことにより、悉く凡演の山を築いている。

ところが、本演奏においては、いささかもそのような危険性に陥ることがなく、演奏全体の堅固な造型を維持しているというのは驚異的な至芸と言えるところであり、これは、バーンスタインが、同曲、引いてはマーラーの交響曲の本質をしっかりと鷲掴みにしているからにほかならない。

バーンスタインのドラマティックで熱のこもった指揮にも、一糸乱れぬアンサンブルでしっかりと付いていっていったニューヨーク・フィルの卓越した技量も見事である。

ヘンドリックスやルートヴィヒも、ベストフォームとも言うべき素晴らしい歌唱を披露している。

ウェストミンスター合唱団も最高のパフォーマンスを示しており、楽曲終結部は圧巻のド迫力。

オーケストラともども圧倒的かつ壮麗なクライマックスを築く中で、この気宇壮大な超名演を締めくくっている。

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2014年10月30日


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マーラーの「第1」は、マーラーの青雲の志を描いた作品である。

スコア自体は「第4」と同様に、他の重厚長大な交響曲と比較すると必ずしも複雑であるとは言えないが、演奏自体は、なかなか難しいと言えるのではないだろうか。

他の交響曲をすべて演奏した朝比奈が、「第1」を一度も演奏しなかったのは有名な話であるし、小澤は3度も同曲を録音しているが、最初の録音(1977年)を超える演奏を未だ成し遂げることが出来ていないことなどを考慮すれば、円熟が必ずしも名演に繋がらないという、なかなか一筋縄ではいかない面があるように思うのである。

どちらかと言えば、重々しくなったり仰々しくなったりしないアプローチをした方が成功するのではないかとも考えられるところであり、例えば、同曲最高の名演とされるワルター&コロンビア交響楽団盤(1961年)は、もちろんワルターの解釈自体が素晴らしいのではあるが、コロンビア交響楽団という比較的小編成のオーケストラを起用した点もある程度功を奏していた面があるのではないかと思われる。

ところが、バーンスタインはそうした考え方を見事に覆してしまった。

バーンスタインは、他のいかなる指揮者よりも雄弁かつ濃厚な表現によって、前述のワルター盤に比肩し得る超名演を成し遂げてしまったのである。

バーンスタインは、テンポの思い切った緩急や強弱、アッチェレランドなどを駆使して、情感豊かに曲想を描いている。

それでいて、いささかも表情過多な印象を与えることがなく、マーラーの青雲の志を的確に表現し得たのは驚異の至芸であり、これは、バーンスタインが同曲の本質、引いてはマーラーの本質をしっかりと鷲掴みにしている証左である。

オーケストラにコンセルトヘボウ・アムステルダムを起用したのも、本盤を名演たらしめるに至らせた大きな要因と言えるところであり、光彩陸離たる響きの中にも、しっとりとした潤いや奥行きの深さを感じさせるのが素晴らしい。

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2014年10月29日


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本盤にはクーベリックが1967年から1971年という短期間で完成させたマーラーの交響曲全集が収められている。

本盤の録音当時は、近年のようなマーラーブームが到来する以前であり、ワルターやクレンペラーなどのマーラーの直弟子によるいくつかの交響曲の録音はあったが、バーンスタインやショルティによる全集は同時進行中であり、本全集は極めて希少な存在であった。

そして、本全集は既に録音から40年が経過したが、現在においてもその価値をいささかも失うことがない素晴らしい名全集と高く評価したい。

本演奏におけるクーベリックのアプローチは、ある意味では極めて地味で素朴とも言えるものだ。

バーンスタインやテンシュテットのような劇場型の演奏ではなく、シノーポリのような楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした明晰な演奏を旨としているわけではない。

また、ブーレーズやジンマンのような徹底したスコアリーディングに基づいた精緻な演奏でもなく、シャイーやティルソン・トーマスのような光彩陸離たるオーケストレーションの醍醐味を味わわせてくれるわけでもない。

クーベリックはむしろ、表情過多に陥ったり、賑々しい音響に陥ることがないように腐心しているようにさえ思われるところであり、前述のような様々な面において個性的な演奏に慣れた耳で聴くと、いささか物足りないと感じる聴き手も多いのではないかとも考えられる。

しかしながら、一聴するとやや速めのテンポで武骨にも感じられる各旋律の端々から滲み出してくる滋味豊かさには抗し難い魅力があると言えるところであり、噛めば噛むほど味わいが出てくる演奏ということが可能である。

地味な演奏というよりは滋味溢れる演奏と言えるところであり、とりわけ、マーラーがボヘミア地方出身であることに起因する民謡風な旋律や民俗的な舞曲風のリズムの情感豊かで巧みな表現には比類がない美しさと巧さがある。

いずれにしても、近年の賑々しいマーラー演奏に慣れた耳を綺麗に洗い流してくれるような演奏とも言えるところであり、その滋味豊かな味わい深さという点においては、今後とも普遍的な価値を有し続ける至高の名全集と高く評価したい。

なお、クーベリックはスタジオ録音よりも実演でこそ実力を発揮する指揮者であり、本全集と同時期のライヴ録音が独アウディーテから発売されている(ただし、第4番と第10番は存在していない)。

当該独アウディーテ盤は、本全集には含まれていない「大地の歌」やSACD盤で発売された第8番など魅力的なラインナップであり、楽曲によっては当該ライヴ録音の方が優れた演奏がないわけではないが、オーケストラの安定性などを総合的に考慮すれば、本全集の価値はなお不変であると考える。

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2014年10月22日


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ショルティほど、実力の割に過小評価されている指揮者はいないのではないか。

カラヤンに匹敵するほどの膨大なレコーディングを行ったショルティであるが、現在では、楽劇「ニーベルングの指環」以外の録音は殆ど忘れられた存在になりつつある。

これには、我が国の音楽評論家、とりわけとある影響力の大きい某音楽評論家が自著においてショルティを、ヴェルディのレクイエムなどを除いて事あるごとに酷評していることに大きく起因していると思われるが、かかる酷評を鵜呑みにして、ショルティの演奏を全く聴かないのはあまりにも勿体ない。

特に、ショルティによるマーラーの交響曲の演奏は、いずれも一聴の価値のある名演揃いであり、今般、ルビジウム・クロック・カッティングによる高音質かつ廉価で、一連の録音が発売されることから、いまだ未聴のクラシック音楽ファンにも是非とも聴いていただきたいと考えている。

それはさておき、本盤には、ショルティが完成させた唯一のマーラーの交響曲全集を構成する交響曲第7番が収められている。

中期の交響曲として同様に分類される第5番をショルティは3度にわたって録音しているのに対して、第7番は、第6番と同様に本盤が唯一の録音であるが、これは、ショルティが本演奏に満足していたのか、それとも第5番ほどに愛着を持っていなかったのか、その理由は定かではない。

それはさておき、演奏は凄まじい。

これは、同じく1970年に録音された第5番や第6番と共通していると言えるが、まさに強烈無比と言っても過言ではないほどの壮絶な演奏と言えるのではないだろうか。

ショルティのマーラーの交響曲演奏に際しての基本的アプローチは、強靭なリズム感とメリハリの明瞭さを全面に打ち出したものであり、その鋭角的な指揮ぶりからも明らかなように、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされていると言えるところだ。

こうしたショルティのアプローチは、様相の変化はあっても終生にわたって殆ど変わりがなかったが、かかるショルティの芸風が最も如実にあらわれた演奏こそは、本盤に収められた第7番を含む1970年に録音された第5番〜第7番のマーラーの中期の交響曲の演奏であると考えられる。

それにしても、第5番のレビューにおいても記したところであるが、筆者はこれほど強烈無比な演奏を聴いたことがない。

耳を劈くような強烈な音響が終始炸裂しており、血も涙もない音楽が連続している。

まさに、音の暴力と言ってもいい無慈悲な演奏であるが、聴き終えた後の不思議な充足感は、同曲の超名演であるインバル&フランクフルト放送交響楽団盤(1986年)又はインバル&チェコ・フィル盤(2011年)、そして、テンシュテット&ロンドン・フィル盤(1993年ライヴ盤)などにいささかも引けを取っていない。

あまりにも強烈無比な演奏であるため、本演奏は、ショルティを好きになるか嫌いになるかの試金石になる演奏とも言えるのかもしれない。

加えて、本演奏の素晴らしさはシカゴ交響楽団の超絶的な技量であろう。

いかにショルティが凄いと言っても、その強烈無比な指揮にシカゴ交響楽団が一糸乱れぬアンサンブルを駆使してついていっているところが見事であり、ショルティ統率下のシカゴ交響楽団がいかにスーパー軍団であったのかを認識させるのに十分なヴィルトゥオジティを最大限に発揮している。

かかるシカゴ交響楽団の好パフォーマンスが、本演奏を壮絶な名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

音質も英デッカによる1970年の録音当時としては総体として優秀なものである。

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2014年10月12日


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マーラーの交響曲第5番は、今やマーラーの交響曲の中でも最も人気が高く、なおかつ演奏機会の多い作品となっていると言えるのではないだろうか。

それにはCD時代になって1枚に収録することが可能になったことが大きく作用していると考えられるが、それ以上に、オーケストレーションの巧みさや旋律の美しさ、感情の起伏の激しさなど、マーラーの交響曲の魅力のすべてが第5番に含まれていると言えるからに他ならない。

したがって、第5番については、これまで数々の海千山千の大指揮者によって個性的な名演が成し遂げられてきたが、特に、圧倒的な名演として高く評価されているのは、ドラマティックで劇的なバーンスタイン&ウィーン・フィル(1987年)やテンシュテット&ロンドン・フィル(1988年)による名演である。

これに対して、本盤に収められたバルビローリによる演奏は、それらの劇的な名演とは大きくその性格を異にしている。

もちろん、軟弱な演奏ではなく、ここぞという時の力強さに欠けているということはないが、演奏全体がヒューマニティ溢れる美しさ、あたたかさに満たされていると言えるだろう。

また、バルビローリは、テンポの思い切った振幅を効果的に駆使して、同曲が含有する各旋律をこれ以上は求め得ないほど徹底して心を込めて歌い抜いているが、その美しさには抗し難い魅力が満ち溢れている。

第4楽章などは、意外にも速めのテンポで一聴するとあっさりとした表情づけとも言えなくもない。

しかしながら、よく聴くと、そうした速めのテンポの中で各旋律を徹底して歌い抜くなど耽美的な絶対美の世界が構築されており、これはかのカラヤン&ベルリン・フィルの名演(1973年)にも比肩し得る美しさを誇っているとも言えるが、カラヤンの演奏が圧倒的な音のドラマであるのに対して、本演奏はヒューマニティ溢れる人間のドラマと言えるのではないだろうか。

もっとも、バルビローリのヒューマニティ溢れる指揮に対して、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団は、熱演ではあるもののアンサンブルの乱れが見られるなど、必ずしも技術的には万全な演奏を展開しているとは言い難いが、技術的に優れていたとしてもスコアに記された音符の表層をなぞっただけの演奏よりは、本演奏の方がよほど好ましいと言えるところであり、聴き終えた後の感動もより深いと言えるところだ。

いずれにしても、本演奏は、バルビローリが遺した数少ないスタジオ録音によるマーラーの交響曲の演奏の中でも、ベルリン・フィルとの第9番(1964年)と並ぶ至高の超名演と高く評価したい。

併録のリュッケルト歌曲集もベイカーの名唱も相俟って素晴らしい名演に仕上がっている。

音質は、従来CD盤が今一つの音質であったが、数年前にリマスタリングが施されたことによってかなりの改善がみられたところであり筆者も当該リマスタリング盤を愛聴してきた。

ところが、今般、シングルレイヤーによるSACD盤が発売されるに及んで大変驚いた。

音質の鮮明さ、音圧、音場の幅広さのどれをとっても、これまでの既発CDとは段違いの素晴らしさであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。

いずれにしても、バルビローリによる至高の超名演を超高音質のシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2014年10月01日


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ワルターはマーラーの交響曲第9番の初演者である。

もっとも、初演者であるからと言って演奏が素晴らしいというわけではなく、晩年のコロンビア交響楽団とのスタジオ録音(1961年)は決して凡演とは言えないものの、バーンスタインなどの他の指揮者による名演に比肩し得る演奏とは言い難いものであった。

しかしながら、本盤に収められた1938年のウィーン・フィルとのライヴ録音は素晴らしい名演だ。

それどころか、古今東西の様々な指揮者による同曲の名演の中でも、バーンスタイン&コンセルトヘボウ盤(1985年)とともにトップの座に君臨する至高の超名演と高く評価したい。

筆者としては、もちろんワルターの実力について疑うつもりは毛頭ないが、本演奏が超名演になった要因は、多分に当時の時代背景によるところが大きいのではないかと考えている。

本演奏が行われたのは第二次大戦前夜、まさにナチスドイツによるウィーン侵攻が開始される直前のものである。

ユダヤ人であることからドイツを追われ、ウィーンに拠点を移して活動をしていたワルターとしても、身近に忍び寄りつつあるナチスの脅威を十分に感じていたはずであり、おそらくは同曲演奏史上最速のテンポが、そうしたワルターの心底に潜む焦燥感をあらわしているとも言える。

同曲の本質は死への恐怖と闘い、それと対置する生への妄執と憧憬であるが、当時の死と隣り合わせであった世相や、その中でのワルター、そしてウィーン・フィル、更には当日のコンサート会場における聴衆までもが同曲の本質を敏感に感じ取り、我々聴き手の肺腑を打つ至高の超名演を成し遂げることに繋がったのではないかとも考えられる。

まさに、本演奏は時代の象徴とさえ言える。

また、当時のウィーン・フィルの音色の美しさには抗し難い魅力があり、本名演に大きく貢献していることを忘れてはならない。

本演奏は奇跡的に金属原盤が残っていたが、当初発売の国内EMI盤は必ずしも良好な音質とは言えず、輸入盤(カナダプレス)も万全とは言えなかった。

Dutton盤やナクソス盤など、比較的良好な音質の復刻盤も存在したが、やはり決定的とも言える復刻盤はオーパス蔵盤ではないだろうか。

しかし現在オーパス蔵盤は入手難であり、筆者としては代替盤としてIron盤を推薦したい。

針音を削除しなかっただけあって、音の生々しさには出色のものがあり、ワルター&ウィーン・フィルによる奇跡的な超名演をこのような十分に満足できる音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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ブーレーズはDGに相当に長い年数をかけてマーラーの交響曲全集を録音したが、本盤に収められたマーラーの「第9」は、その最初期の録音である。

演奏は、あらゆる意味でバーンスタインやテンシュテットなどによる濃厚でドラマティックな演奏とは対極にある純音楽的なものと言えるだろう。

ブーレーズは、特に1970年代までは、聴き手の度肝を抜くような前衛的なアプローチによる怪演を行っていた。

ところが、1990年代にも入ってDGに様々な演奏を録音するようになった頃には、すっかりと好々爺になり、かつての前衛的なアプローチは影を潜めてしまった。

もっとも、必ずしもノーマルな演奏をするようになったわけではなく、そこはブーレーズであり、むしろスコアを徹底的に分析し、スコアに記されたすべての音符を完璧に音化するように腐心しているようにさえ感じられるようになった。

もちろん、スコアの音符の背後にあるものまでを徹底的に追求した上での演奏であることから、単にスコアの音符のうわべだけを音化しただけの薄味の演奏にはいささかも陥っておらず、常に内容の濃さ、音楽性の豊かさを感じさせてくれるのが、近年のブーレーズの演奏の素晴らしさと言えるだろう。

本演奏においても、そうした近年のブーレーズのアプローチに沿ったものとなっており、複雑なスコアで知られるマーラーの「第9」を明晰に紐解き、すべての楽想を明瞭に浮かび上がらせるように努めているように感じられる。

それ故に、他の演奏では殆ど聴き取ることが困難な旋律や音型を聴くことができるのも、本演奏の大きな特徴と言えるだろう。

さらに、ブーレーズの楽曲への徹底した分析は、マーラーが同曲に込めた死への恐怖や生への妄執と憧憬にまで及んでおり、演奏の表層においてはスコアの忠実な音化であっても、その各音型の中に、かかる楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような奥行きの深さを感じることが可能である。

これは、ブーレーズが晩年に至って漸く可能となった円熟の至芸とも言えるだろう。

いずれにしても本演奏は、バーンスタイン&コンセルトヘボウによる名演(1985年)とあらゆる意味で対極にあるとともに、カラヤン&ベルリン・フィル(1982年)の名演から一切の耽美的な要素を拭い去った、徹底して純音楽的に特化された名演と評価したい。

このようなブーレーズの徹底した純音楽的なアプローチに対して、最高のパフォーマンスで応えたシカゴ交響楽団の卓越した演奏にも大きな拍手を送りたい。

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2014年09月29日


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セル&クリーヴランド管弦楽団による演奏がいかに凄まじいものであったのかが理解できる1枚だ。

このコンビによる全盛時代の演奏は、オーケストラの各楽器セクションが1つの楽器が奏でるように聴こえるという、「セルの楽器」との呼称をされるほどの鉄壁のアンサンブルを誇っていた。

米国においては、先輩格であるライナーを筆頭に、オーマンディやセル、そして後輩のショルティなど、オーケストラを徹底して鍛え抜いたハンガリー人指揮者が活躍していたが、オーケストラの精緻な響きという意味においては、セルは群を抜いた存在であったと言っても過言ではあるまい。

もっとも、そのようなセルも、オーケストラの機能性を高めることに傾斜した結果、とりわけ1960年代半ば頃までの多くの演奏に顕著であるが、演奏にある種の冷たさというか、技巧臭のようなものが感じられなくもないところだ。

本盤に収められた演奏も、そうしたセルの欠点が顕著であった時期の演奏ではあるが、楽曲がマーラーやウォルトン、そしてストラヴィンスキーといった近現代の作曲家によるものだけに、セルの欠点が際立つことなく、むしろセルの美質でもある鉄壁のアンサンブルを駆使した精緻な演奏が見事に功を奏している。

特に、冒頭におさめられたマーラーの交響曲第10番は二重の意味で貴重なものだ。

セルはそもそもマーラーの交響曲を殆ど録音しておらず、本演奏のほかは、第4番(1965年スタジオ録音)と第6番(1967年ライヴ録音)しか存在していない(その他、歌曲集「子供の不思議な角笛」の録音(1969年)が存在している)。

加えて、第10番については、定番のクック版ではなく、現在では殆ど採り上げられることがないクレネク版が採用されているところである。

アダージョのみならず第3楽章に相当するプルガトリオを収録しているのも貴重であり、加えて演奏が精緻にして緻密な名演であることに鑑みれば、セルは、録音の数は少なくても、マーラーに対して一定の理解と愛着を抱いていたと言えるのではないだろうか。

ウォルトンのオーケストラのためのパルティータやストラヴィンスキーの組曲「火の鳥」は、いずれも非の打ちどころがない名演であり、クリーヴランド管弦楽団による一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルを駆使して、複雑なスコアを明晰に音化することに成功し、精緻にして華麗な演奏を展開している。

とりわけ、組曲「火の鳥」の「カスチェイ王の凶暴な踊り」においては、セルの猛スピードによる指揮に喰らいつき、アンサンブルにいささかも綻びを見せない完璧な演奏を展開したクリーヴランド管弦楽団の超絶的な技量には、ただただ舌を巻くのみである。

いずれにしても、本盤に収められた演奏は、全盛期にあったセル&クリーヴランド管弦楽団による完全無欠の圧倒的な名演と高く評価したい。

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2014年09月24日


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本盤は、バーンスタインがベルリン・フィルを指揮した唯一の演奏会の記録である。

カラヤンがバーンスタインをベルリン・フィルの指揮台に立たせなかったとの説が横行しているが、筆者は、側近が親分であるカラヤンの気持ちを勝手に斟酌して、そのように仕向けたのではないかと考えている。

比較のレベルが低すぎてカラヤンには大変申し訳ないが、我が国の某党の某幹事長のケースに酷似しているとも言える。

しかも、カラヤンはこの時期、自分のレコーディング人生の最後を飾る作品として、ベルリン・フィルとともにマーラーの「第9」の究極の演奏を目指して、真剣に取り組んでいた。

しかしながら、バーンスタインの同曲への解釈とカラヤンのそれとは北極と南極ほどに大きく異なる。

そんな完全アウェイの中に、バーンスタインは果敢に飛び込んでいった。

その結果、両者の試行錯誤がはっきりと聴き取れる演奏になった。

バーンスタインは、解説書にある表現に例えるなら、あたかも不感症の女性のように、思い通りの音を出そうとしないベルリン・フィルをうなり声まで発して相当にイライラしている様子が窺え、ベルリン・フィルもアンサンブルの乱れなどに、バーンスタインの大仰な指揮への戸惑いが見てとれる。

このような指揮者とオーケストラの真剣勝負の格闘が、本盤に聴くような大熱演を生み出したと言えるだろう。

まさに、一期一会の奇跡の熱演である。

しかしながら、本盤は、果たして繰り返して聴くに足りる演奏と言えるのかどうか。

というのも、筆者は、ベルリン・フィルはともかく、バーンスタインが本演奏に決して満足していなかったのではないかと思うからである。

本盤が発売されたのが、カラヤン没後バーンスタイン存命中ではなく、バーンスタインの没後2年も経ってからであるというのも、それを表しているのではないだろうか。

バーンスタインのマーラーの「第9」の決定盤はあくまでもコンセルトヘボウ管弦楽団との1985年盤。

本盤は大熱演であることは認めるが、バーンスタインのベストフォームとは到底言えず、あくまでも一期一会の記録として記憶にとどめておきたい。

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2014年09月08日


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本盤には、アバドによるマーラーの交響曲全集が収められているが、その内容からすると、果たして交響曲全集と称することが可能か疑問である。

アバドは、若き頃からマーラーを得意としており、DVD作品を含め数多くの演奏・録音を行ってきている。

ところが、その録音の経緯をつぶさに見てみると、必ずしも全集の完成を目的として行われたものではないことがよく理解できるところだ。

それは、本全集に収められた各交響曲の録音時期を見てもよく理解できるところであり、第1番はシカゴ交響楽団との演奏(1981年)に次ぐ2度目のベルリン・フィルとの録音(1989年)、第2番はシカゴ交響楽団との演奏(1976年)に次ぐ2度目のウィーン・フィルとの録音(1992年)、第3番はウィーン・フィルとの最初の録音(1980年)、第4番はウィーン・フィルとの最初の録音(1977年)、第5番はシカゴ交響楽団との演奏(1980年)に次ぐ2度目のベルリン・フィルとの録音(1993年)、第6番はウィーン交響楽団(1967年)に次ぐ2度目のシカゴ交響楽団との録音(1979年)、第7番はシカゴ交響楽団との最初の録音(1984年)、第8番はベルリン・フィルとの最初の録音(1994年)、第9番はウィーン・フィルとの最初の録音(1987年)、第10番はウィーン・フィルとの最初の録音(1985年)となっている。

要は、録音年代やオーケストラに何らの統一性がなく、とりあえず交響曲全集に纏めてみたといった類ものとも言えるところだ。

特に、アバドの芸風は1990年のベルリン・フィルの芸術監督就任後、そして2000年の大病の克服後にそれぞれ大きく変化してきており、本盤の全集であれば、第8番については録音自体がなかったということで致し方なかったとしても、第1番、第2番、第5番についてはそれぞれ旧録音を収録すれば、より統一性のとれた全集に仕上がったのではないかとも考えられるところだ。

アバドが最も輝いていた時期はベルリン・フィルの芸術監督就任前であり、この時期のアバドは、楽曲の頂点に向けて畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力、そして持ち前の豊かな歌謡性が付加された、いい意味での剛柔バランスのとれた名演の数々を成し遂げていた。

本盤の全集で言えば、第1番、第3番、第4番、第6番、第7番については、そうしたアバドのかつての長所が大きく功を奏した素晴らしい名演に仕上がっている。

もっとも、第9番及び第10番については、マーラーの交響曲の中でも最も奥の深い内容を有した楽曲であり、アバドのこのようなアプローチでは、いささか楽曲の心眼への踏み込み不足の感は否めないところだ。

また、アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督就任後は借りてきた猫のように大人しい演奏に終始するようになり、各楽器セクション間のバランスに執拗に拘るアバドと、カラヤン時代の名うての奏者がいまだ在籍していたベルリン・フィルとの間に少なからず軋轢も生じていたように思われる。

そのマイナス要素が顕著にあらわれた演奏が本盤に収められた第5番であり、これはもしかしたらアバドによるマーラーの交響曲のあらゆる演奏・録音の中でも最も出来の悪いものと言えるのかもしれない。

第2番は、ウィーン・フィルとの演奏であることもあって、本演奏の後に録音されたルツェルン祝祭管弦楽団との演奏(2003年)にはさすがにかなわないが、本演奏に先立つシカゴ交響楽団との録音(1976年)と比較すると、アバドの円熟が感じされる素晴らしい名演に仕上がっている。

第8番は、合唱付きの壮麗な迫力が持ち味であり、オペラを得意とするアバドにとってはむしろ得意とする楽曲である。

それだけに、本演奏においては、この時期のアバドとしては劇的な迫力を有するとともに、雄大なスケールを誇る名演に仕上がっていると言えるのではないかと考えられる。

いずれにしても、このように録音時期が異なることに起因するアバドの芸風の変化、また、それによる演奏の出来不出来など、全集としてはかなりの問題を有しているとも言えるが、大半の交響曲については名演と評価しても過言ではあるまい。

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classicalmusic

早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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