マーラー

2014年08月27日


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本盤に収められた演奏は、マーラーの「第9」演奏史上最も美しい演奏であるだけでなく、カラヤン&ベルリン・フィルが成し遂げた数々の名演の中でも究極の美を誇る至高の超名演と高く評価したい。

カラヤン&ベルリン・フィルの黄金時代というのは1960年代及び1970年代というのが大方の見方だ。

1982年末になると、ザビーネ・マイヤー事件が勃発し、カラヤンとベルリン・フィルの関係が修復不可能になるまで悪化するが、それ以前の全盛期のカラヤン&ベルリン・フィルの演奏はそれは凄いものであった。

一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブル、ブリリアントな金管楽器による朗々たる響き、桁外れのテクニックを披露する木管楽器、雷鳴のように轟くティンパニなどを展開するベルリン・フィルをカラヤンは卓越した統率力で纏め上げ、流麗なレガートを駆使して楽曲を徹底的に美しく磨きあげた。

そうして生み出された演奏は、まさにオーケストラ演奏の極致とも言うべきものであり、かかる演奏に対しては、とある影響力のある某音楽評論家などは精神的な内容の浅薄さを批判しているが、それを一喝するだけの圧倒的な音のドラマの構築に成功していた。

本演奏は、前述のザビーネ・マイヤー事件が勃発する直前にライヴ録音されたものであり、カラヤン&ベルリン・フィルが構築し得た最高の音のドラマがここにあると言えるだろう。

スタジオ録音に固執しライヴ録音を拒否してきたカラヤンが、本演奏の3年前にスタジオ録音した同曲の演奏(1979年)を、当該演奏も完成度が高い名演であるにもかかわらず、本ライヴ盤に差し替えたというのは、カラヤン自身としても本演奏を特別視していた証左であると考えられる。

マーラーの「第9」には、バーンスタイン&コンセルトヘボウ盤(1985年)やワルター&ウィーン・フィル盤(1938年)といった、マーラーが同曲に込めた死への恐怖と闘いや生への妄執や憧憬を音化したドラマティックな名演があり、我々聴き手の肺腑を打つのはこれらドラマティックな名演である。

これに対して、カラヤンによる本演奏は、それらのドラマティックな名演とはあらゆる意味で対極にある演奏であり、ここには前述のような人間のドラマはいささかもなく、純音楽的な絶対美だけが存在している。

しかしながら、その圧倒的な究極の音のドラマは、他の指揮者が束になっても構築不可能であるだけでなく、クラシック音楽史上最大のレコーディング・アーティストであったカラヤンとしても、晩年になって漸く構築し得た高峰の高みに聳えた崇高な音楽と言えるところであり、バーンスタイン盤などの名演との優劣は容易にはつけられないものと考える。

その意味で、筆者としては改めて本盤を、カラヤン&ベルリン・フィルによる究極の到達点として高く評価したい。

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2014年08月11日


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バーンスタイン晩年の録音は、ほぼすべてがライヴ録音であるのだが、録音を意識していたせいか、限りなくスタジオ録音に近い、いわゆる自己抑制したおとなしめ(と言ってもバーンスタインとしてはという意味であるが)の演奏が多い。

ところが、第8番は、録音を意識していない正真正銘のライヴ録音であり、この猛烈な暴れ振りは、来日時でも披露したバーンスタインのコンサートでの圧倒的な燃焼度を彷彿とさせる。

これほどのハイテンションになった第8番は、他の演奏では例がなく、同じく劇的な演奏を行ったテンシュテットなども、遠く足元にも及ばないとさえ言える。

猛烈なアッチェレランドの連続や、金管楽器の思い切った最強奏、極端と言ってもいいようなテンポの激変など、考え得るすべての表現を駆使して、第8番をドラマティックに表現していく。

バーンスタインもあたかも火の玉のように燃えまくっており、あまりの凄さに、合唱団とオーケストラが微妙にずれる点があるところもあり、正真正銘のライヴのスリリングさも満喫することができる。

それでいて、楽曲全体の造型が崩壊することはいささかもなく、聴き終わった後の興奮と感動は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分だ。

「大地の歌」と第10番から「アダージョ」は、2度目のビデオによる全集の中から抜粋したものとなっており、演奏内容は名演ではあるが、二番煎じの誹りを免れない。

ただ、第8番はザルツブルク音楽祭におけるライヴ録音であり、全く別テイクなので、本セットは、この第8番を聴くだけでも十分にお釣りがくるものと言える。

そして、第9番こそは、マーラーの交響曲の総決算であるだけに、その神髄である死への恐怖と闘い、それと対置する生への妄執と憧憬がテーマと言えるが、これを、バーンスタイン以上に表現し得た指揮者は他にはいないのではないか。

第1楽章は、死への恐怖と闘いであるが、バーンスタインは、変幻自在のテンポ設定や思い切ったダイナミックレンジ、そして猛烈なアッチェレランドなどを大胆に駆使しており、その表現は壮絶の極みとさえ言える。

これほど聴き手の肺腑を打つ演奏を他には知らない。

第3楽章の死神のブルレスケも凄まじいの一言であり、特に終結部の荒れ狂ったような猛烈なアッチェレランドは圧巻のド迫力だ。

終楽章は、生への妄執と憧憬であるが、バーンスタインの表現は濃厚さの極み。

誰よりもゆったりとした急がないテンポにより、これ以上は求め得ないような彫りの深い表現で、マーラーの最晩年の心眼を鋭く抉り出す。

そして、このようなバーンスタインの壮絶な超名演に潤いと深みを付加させているのが、コンセルトヘボウ・アムステルダムによるいぶし銀の音色による極上の名演奏と言えるだろう。

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第5番におけるバーンスタインのアプローチは、大仰なまでに濃厚なものであり、テンポの緩急や思い切った強弱、ここぞという時の猛烈なアッチェレランドの駆使など、マーラーが作曲したドラマティックな音楽を完全に音化し尽くしている点が素晴らしい。

ここでのバーンスタインは、あたかも人生の重荷を背負うが如きマーラーの化身となったかのようであり、単にスコアの音符を音化するにとどまらず、情感の込め方には尋常ならざるものがあり、精神的な深みをいささかも損なっていない点を高く評価したい。

オーケストラにウィーン・フィルを起用したのも功を奏しており、バーンスタインの濃厚かつ劇的な指揮に、適度な潤いと奥行きの深さを付加している点も忘れてはならない。

第6番におけるバーンスタインのアプローチも、他の交響曲と同様に濃厚さの極みであり、テンポの緩急や強弱の変化、アッチェレランドなどを大胆に駆使し、これ以上は求め得ないようなドラマティックな表現を行っている。

それでいて、第3楽章などにおける情感の豊かさは美しさの極みであり、その音楽の表情の起伏の幅は桁外れに大きいものとなっている。

終楽章の畳み掛けていくような生命力溢れる力強い、そして壮絶な表現は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な圧巻の迫力を誇っている。

そして、素晴らしいのはウィーン・フィルの好パフォーマンスであり、バーンスタインの激情的とも言える壮絶な表現に、潤いと深みを加えるのに成功している点も高く評価したい。

第7番も、第1楽章の葬送行進曲における激しい慟哭から天国的な美しさに至るまで、表現の幅は桁外れに広範。

これ以上は求め得ないような彫りの深い濃密な表現が施されており、その情感のこもった音楽は、聴き手の深い感動を呼び起こすのに十分だ。

また、第7番の愛称の理由でもある第2楽章及び第4楽章の「夜の歌」における情感の豊かな音楽は、至高・至純の美しさに満ち溢れている。

終楽章の光彩陸離たる響きも美しさの極みであり、金管楽器や弦楽器のパワフルな力奏も圧巻の迫力を誇っている。

録音の当時、やや低迷期にあったとされるニューヨーク・フィルも、バーンスタインの統率の下、最高のパフォーマンスを示しているのも、本名演の大きな魅力の一つであることを忘れてはならない。

歌曲集も超名演であり、バリトンのハンプソンの歌唱も最高のパフォーマンスを誇っていると高く評価したい。

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2014年08月10日


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第1番におけるバーンスタインは、テンポの思い切った緩急や強弱、アッチェレランドなどを駆使して、情感豊かに曲想を描いている。

それでいて、いささかも表情過多な印象を与えることがなく、マーラーの青雲の志を的確に表現し得たのは驚異の至芸であり、これは、バーンスタインが同曲の本質、引いてはマーラーの本質をしっかりと鷲掴みにしている証左である。

オーケストラにコンセルトヘボウ・アムステルダムを起用したのも、本盤を名演たらしめるのに至らせた大きな要因であり、光彩陸離たる響きの中にも、しっとりとした潤いや奥行きの深さを感じさせるのが素晴らしい。

第2番におけるバーンスタインの解釈は実に雄弁かつ濃厚なものだ。

粘ったような進行、テンポの緩急や強弱の思い切った変化、猛烈なアッチェレランドなどを大胆に駆使し、これ以上は求め得ないようなドラマティックな表現を行っている。

また、切れば血が出るとはこのような演奏のことを言うのであり、どこをとっても力強い生命力と心を込めぬいた豊かな情感が漲っているのが素晴らしい。

バーンスタインのドラマティックで熱のこもった指揮にも、一糸乱れぬアンサンブルでしっかりと付いていっていったニューヨーク・フィルの卓越した技量も見事である。

ヘンドリックスやルートヴィヒも、ベストフォームとも言うべき素晴らしい歌唱を披露している。

ウェストミンスター合唱団も最高のパフォーマンスを示しており、楽曲終結部は圧巻のド迫力。

オーケストラともども圧倒的かつ壮麗なクライマックスを築く中で、この気宇壮大な超名演を締めくくっている。

第3番におけるバーンスタインの表現は、どこをとってもカロリー満点で、濃厚で心を込め抜いた情感の豊かさが演奏全体を支配している。

特に、終楽章は特筆すべき美しさでスケールも気宇壮大、誰よりも遅いテンポで情感豊かに描き出しているのが素晴らしい。

他方、変幻自在のテンポ設定や、桁外れに幅の広いダイナミックレンジ、思い切ったアッチェレランドなどを大胆に駆使するなど、ドラマティックな表現にも抜かりがない。

このように、やりたい放題とも言えるような自由奔放な解釈を施しているにもかかわらず、長大な同曲の全体の造型がいささかも弛緩することなく、壮麗にして雄渾なスケール感を損なっていないというのは、マーラーの化身と化したバーンスタインだけに可能な驚異的な圧巻の至芸である。

特筆すべきは、ニューヨーク・フィルの卓越した技量であり、金管楽器(特にホルンとトロンボーン)にしても、木管楽器にしても、そして弦楽器にしても抜群に上手く、なおかつ実に美しいコクのある音を出しており、本名演に華を添える結果となっている点を忘れてはならない。

ルートヴィヒの独唱や、ニューヨーク・コラール・アーティスツ及びブルックリン少年合唱団による合唱も、最高のパフォーマンスを示している点も高く評価したい。

第4番は、終楽章にボーイ・ソプラノを起用したことにより数々の批判を浴びている曰くつきの演奏ではあるが、筆者としては、確かにボーイ・ソプラノの起用には若干の疑問は感じるものの、総体としては、素晴らしい名演と高く評価したい。

バーンスタインは、同曲に対しても、他の交響曲へのアプローチと同様に、雄弁かつ濃厚な表現を施している点を高く評価したい。

バーンスタインの名演によって、マーラーの第4番の真価が漸くベールを脱いだとさえ言えるところであり、情感の豊かさや内容の濃密さ、奥行きの深さといった点においては、過去の同曲のいかなる演奏にも優る至高の超名演と高く評価したい。

バーンスタインの統率の下、コンセルトヘボウ・アムステルダムも最高のパフォーマンスを示しており、バーンスタインの濃厚な解釈に深みと潤いを与えている点を忘れてはならない。

さすらう若人の歌は、バーンスタインの死の年の録音であり、健康を害している中での思い入れたっぷりの、そして命がけの演奏は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な深い感動を与えてくれる。

ハンプソンも、そうしたマーラーの化身と化したバーンスタインの下、最高のパフォーマンスを示していると言える。

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2014年08月03日


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シノーポリが心臓発作で急逝してから約11年の歳月が経った。

まだ50歳代という働き盛りでの急な逝去であったことから、現在においてもそのあまりにも早すぎる死を惜しむファンも多いと聞く。

そのようなシノーポリの遺した最大の遺産は、様々な意見もあろうかとは思うが、やはり本盤に収められたマーラーの交響曲全集と言えるのではないだろうか。

本盤には、1990年に録音された嘆きの歌やその他の主要歌曲集、そしてシュターツカペレ・ドレスデンを指揮した番外編でもあった交響曲「大地の歌」も収録しており、シノーポリがDGに録音したマーラーの交響曲や主要な歌曲のすべてが網羅されている。

シノーポリのマーラーについては賛否両論があるようであるが、筆者としては評価しており、本全集も素晴らしい名全集と高く評価したいと考える。

シノーポリのマーラーへのアプローチは、他の指揮者とは全く異なる実に個性的なものであった。

シノーポリは、精神医学者であり作曲家でもあるという異色の経歴を持つ指揮者であったが、おそらくはそれに起因するスコアリーディングには余人には及ばない凄みがあったのではないかと考えられる。

シノーポリは、マーラーの作曲した複雑極まりないスコアに記されたすべての音符を一音たりとも蔑ろにすることなく光を当て、完璧に音化することに腐心しているようにさえ思われる。

おそらくは、これほどまでに楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした明晰な演奏というのは比類がないと言えるのではないか。

もっとも、ここまで細部に拘ると音楽の自然な流れを損ってしまうということが懸念されるが、シノーポリは音楽がごく自然に流れていくように各旋律を徹底して歌い抜くのである。

要は、細部に至るまでの彫琢と歌謡性の豊かさという2つの要素を兼ね備えた稀有の演奏を成し遂げているということであり、ここにシノーポリのマーラーのユニークな魅力がある。

もちろん、かかるアプローチがうまく適合しない楽曲もある。

例えば、第6番は細部への彫琢の末に成し遂げられた明晰さが、ある種の楽天的な雰囲気の醸成に繋がってしまったきらいがあり、同曲の演奏としてはいささか物足りない出来となってしまっている。

もっとも、かかるシノーポリの芸風に符号した楽曲ではとてつもない名演に仕上がることになり、特に、第2番、第5番、第7番及び第10番は文句のつけようのない名演である。

第2番の終楽章の中間部はいささか冗長さを感じさせる箇所ではあるが、シノーポリの演奏にかかると、同じく軽薄さが指摘されている第7番の終楽章も含め、密度の濃い充実した音楽に聴こえるのが素晴らしい。

また、第5番の楽曲の心眼に切り込んでいくような鋭さも見事である。

そして、第10番は、誰よりもゆったりしたテンポで奥行きのある深沈とした音楽が連続するが、とりわけ後半の強烈な不協和音とその後の天国的な美しさの対比は、聴いていて戦慄を覚えるほどの凄みのある表現であると言えるだろう。

この第10番については、昨年発売されたテンシュテット&ウィーン・フィルによる一期一会の名演(1982年)、そして同じくシノーポリによるシュターツカペレ・ドレスデンとのライヴ録音(1981年)と並んで3強の一角を占める至高の超名演と高く評価したい。

いずれにしても、シノーポリのマーラーは他の指揮者による演奏とは全く異なる個性的な演奏ではあるが、マーラーの交響曲を愛する者であれば一度は聴いていただくことを是非ともお薦めしたい。

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2014年08月02日


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本盤には、ショルティが完成させた唯一のマーラーの交響曲全集が収められている。

膨大なレコーディングとレパートリーを誇ったショルティであるが、マーラーの交響曲についても比較的早くから取り組んでおり、1960年代というマーラーが知る人ぞ知る存在であった時代にも、ロンドン交響楽団と第1番、第2番、第3番、第9番、そしてコンセルトへボウ・アムステルダムとともに第4番のスタジオ録音を行っている。

また、第1番についてはウィーン・フィルとのライヴ録音(1964年)が遺されており、既に1960年代にはマーラーの交響曲はショルティのレパートリーの一角を占めていたのではないかと考えられる。

本盤に収められた全集は、ショルティが1970年以降に行ったシカゴ交響楽団とのスタジオ録音のみで構成されているが、このうち1970年及び1971年に録音された第5番〜第8番は、前述の1960年代の各スタジオ録音やライヴ録音と共通する演奏様式であり、他方、1980年〜1983年にかけてスタジオ録音された第1番〜第4番と第9番は、1980年代に入って演奏に若干の奥行きが出てきた円熟の演奏様式であり、演奏傾向に若干の違いがあることに留意しておく必要がある。

もっとも、ショルティのマーラーの交響曲演奏に際しての基本的アプローチは何ら変わりがない。

強靭なリズム感とメリハリの明瞭さは、ショルティの鋭角的な指揮ぶりからも明らかであり、これは、最晩年になっても変わりがないものであった。

したがって、ショルティのマーラーには、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされている。

ただ、第5番〜第8番については、全体に引き締まったシャープな響きが支配しているのに対して、第1番〜第4番と第9番には、若干ではあるが、響きに柔和さと奥行きが出てきているように思われる。

いずれにしても、どの曲もショルティの個性が発揮された名演であるが、筆者としては特に第3番、第5番、そして第8番を高く評価したい。

第5番は、本全集の第1弾となったものであるが、筆者はこれほど強烈無比な演奏を聴いたことがない。

耳を劈くような強烈な音響が終始炸裂しており、血も涙もない音楽が連続している。

まさに、音の暴力と言ってもいい無慈悲な演奏であるが、聴き終えた後の不思議な充足感は、同曲の超名演であるバーンスタイン&ウィーン・フィル盤(1987年)やテンシュテット&ロンドン・フィル盤(1988年)にいささかも引けを取っていない。

第8番は、ショルティがシカゴ交響楽団を引き連れてヨーロッパを訪問中にウィーンで録音されたものであるが、精密機械のような豪演を繰り広げるシカゴ交響楽団と圧倒的な名唱を繰り広げる合唱団等が融合した稀有の名演であり、同曲をこれほど壮麗かつスケール雄大に響かせた演奏は他にも類例を見ないのではないかと考えられる。

第3番は、故柴田南雄氏が「燦然たる音の饗宴」と評した演奏であるが(氏は、それ故に内容空虚であることを指摘して、本演奏を酷評している)、これほど本演奏を評した的確な表現はあるまい。

まさに、本演奏は有名レストランでシカゴ交響楽団が出す豪華料理と高級ワインを味わうような趣きがあり、我々聴き手は、ただただレストランにおいて極上の豪華な料理と高級ワインを堪能するのみである。

もっとも、あまりの料理やワインの豪華さに、聴き手もほろ酔い加減で幻惑されてしまいそうになるが、本演奏は、それほどまでに空前絶後の「燦然たる音の饗宴」に仕上がっている。

確かに、故柴田南雄氏が指摘されているように、楽曲の心眼に鋭く切り込んで行くような奥深さには欠けている演奏であるが、聴き終えた後の充足感が、例えばバーンスタイン&ニューヨーク・フィル盤(1988年)などの名演に必ずしも引けを取っているわけでもなく、筆者としてはマーラーの演奏様式の一翼を担った名演として高く評価したいと考える。

そして、これまでにも若干触れてはきたが、本全集の最大のメリットはシカゴ交響楽団の超絶的な技量であろう。

いずれの演奏も、ショルティ統率下のシカゴ交響楽団がいかにスーパー軍団であったのかを認識させるのに十分なヴィルトゥオジティを最大限に発揮しており、各演奏を名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

それにしても、我が国におけるショルティの評価は不当に低いと言わざるを得ない。

現在では、楽劇「ニーベルングの指環」以外の録音は殆ど忘れられた存在になりつつある。

これには、我が国の音楽評論家、とりわけとある影響力の大きい某音楽評論家が自著においてショルティを、ヴェルディのレクイエムなどを除いて事あるごとに酷評していることに大きく起因していると思われるが、かかる酷評を鵜呑みにして、例えば本全集のような名演を一度も聴かないのはあまりにも勿体ない。

筆者としては、本全集を楽劇「ニーベルングの指環」に次ぐショルティの偉大な遺産であると考えており、英デッカによる極上の優秀録音であることに鑑みても、いまだ未聴のクラシック音楽ファンには是非とも一聴をお薦めしたい名全集と高く評価したい。

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2014年08月01日


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近年様々なライヴ録音が発掘されることによってその実力が再評価されつつあるテンシュテットであるが、テンシュテットによる最大の遺産は、何と言っても1977年から1986年にかけてスタジオ録音されたマーラーの交響曲全集ということになるのではないだろうか。

テンシュテットは、当該全集の掉尾を飾る「第8」の録音の前年に咽頭がんを患い、その後は放射線治療を続けつつ体調がいい時だけ指揮をするという絶望的な状況に追い込まれた。

テンシュテットのマーラーの交響曲へのアプローチはドラマティックの極みとも言うべき劇的なものだ。

これはスタジオ録音であろうが、ライヴ録音であろうが、さして変わりはなく、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使して、大胆極まりない劇的な表現を施している。

かかる劇的な表現においては、かのバーンスタインと類似している点も無きにしも非ずであり、マーラーの交響曲の本質である死への恐怖や闘い、それと対置する生への妄執や憧憬を完璧に音化し得たのは、バーンスタインとテンシュテットであったと言えるのかもしれない。

ただ、バーンスタインの演奏があたかもマーラーの化身と化したようなヒューマニティ溢れる熱き心で全体が満たされている(したがって、聴き手によってはバーンスタインの体臭が気になるという者もいるのかもしれない)のに対して、テンシュテットの演奏は、あくまでも作品を客観的に見つめる視点を失なわず、全体の造型がいささかも弛緩することがないと言えるのではないだろうか。

もちろん、それでいてスケールの雄大さを失っていないことは言うまでもないところだ。

このあたりは、テンシュテットの芸風の根底には、ドイツ人指揮者としての造型を重んじる演奏様式が息づいていると言えるのかもしれない。

いずれにしても、本盤に収められた演奏はいずれも圧倒的な超名演であり、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な凄みのある迫力を湛えていると評価したい。

オーケストラはいずれも必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルであるが、テンシュテットのドラマティックな指揮に必死に喰らいつき、テンシュテットとともに持ち得る実力を全面的に発揮させた渾身の演奏を繰り広げていると言えるところであり、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

マーラーの交響曲全集はあまた存在しており、その中ではバーンスタインによる3つのオーケストラを振り分けた最後の全集(1966〜1990年)が随一の名全集と言えるが、聴き手に深い感動を与えるという意味において当該バーンスタインの全集に肉薄し得るのは、本盤のテンシュテットによる全集であると考える。

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2014年07月31日


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バーンスタインはマーラーの交響曲全集をDVD作品を含めると3度にわたって録音した唯一の指揮者である。

本盤に収められた全集はその3度目のものであるが、正確に言うと、バーンスタインは本全集を完成する前に惜しくも鬼籍に入ってしまったところだ。

というのも、第8番、「大地の歌」そして第10番の新録音を果たすことができなかったからであり、それ故に、第8番については没後発見されたザルツブルク音楽祭でのライヴ録音(1975年)、「大地の歌」については本盤には未収録、第10番は2度目のDVDによる全集中の演奏(1974年)をCDに焼き直したものが収められているところである。

このような若干の未完成というハンディはあるものの、本全集こそは、あまた存在する様々な指揮者によるマーラーの交響曲全集に冠絶する至高の超名全集と高く評価したい。

バーンスタインは、かつてニューヨーク・フィルの音楽監督の時代には、いかにもヤンキー気質の爽快な演奏の数々を成し遂げていたが、ヨーロッパに拠点を移した後、とりわけ1980年代に入ってからは、テンポは異常に遅くなるとともに、濃厚な表情づけの演奏をするようになった。

それは本全集においても例外ではなく、その演奏は、これまでの1度目、2度目の全集と比較してもテンポの遅さや濃厚さが際立っている。

しかしながら、他の作曲家による楽曲は別として、マーラーの交響曲や歌曲においては、こうしたゆったりとしたテンポによる濃厚さがすべてプラスに作用していると言えるだろう。

そして、バーンスタインのアプローチは、ゆったりとしたテンポや濃厚な表情づけを基軸としつつ、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、そして大胆なアッチェレランドを駆使してこれ以上は求め得ないようなドラマティックな演奏を行っていると言えるところだ。

マーラーの交響曲のテーマは、楽曲によって一部に例外はあるものの、基本的には死への恐怖と闘い、そしてそれと対置する生への妄執と憧憬であると考えるが、バーンスタイン以上にそれを音化し得た演奏は、テンシュテットによる最晩年の演奏以外には存在しないと言っても過言ではあるまい。

こうした渾身の大熱演が我々聴き手の肺腑を打つのであり、前述のように、第8番や第10番など、1970年代の録音も一部に含まれてはいるが、本全集の各演奏こそは、史上最大のマーラー指揮者であったバーンスタインがその最晩年になって漸く成し得た究極の名演奏と言っても過言ではあるまい。

マーラーに縁があった3つの超一流のオーケストラを起用したのも特徴であり、奥行きのある深沈とした表現が必要不可欠な第9番には北ヨーロッパの楽団ならではのくすんだいぶし銀の音色が魅力のコンセルトへボウ・アムステルダムを起用したり、壮麗な迫力を必要とする第2番にニューヨーク・フィルを起用するなど、各オーケストラの使い分けも実に考え抜かれた最善の選択がなされていると評価したい。

第4番の終楽章ではボーイソプラノを起用するなど、若干のやり過ぎの感も否めないところではあるが、本全集全体の評価を貶めるほどの瑕疵があるわけではないものと考える。

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2014年07月26日


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マーラーの交響曲第5番が凄い演奏だ。

これほどまでに心を揺さぶられる演奏についてレビューを書くのはなかなかに困難を伴うが、とりあえず思うところを書き連ねることとしたい。

いずれにしても、テンシュテット&ロンドン・フィルの1984年来日時におけるマーラーの交響曲第5番のライヴ録音が、ついに発売されることになったのは、クラシック音楽ファンにとって大朗報とも言えるところだ。

テンシュテットと言えば、何と言ってもマーラーの交響曲の様々な名演が念頭に浮かぶが、交響曲第5番についても複数の録音を遺している。

最初の録音は、交響曲全集の一環としてスタジオ録音された演奏(1978年)、次いで本盤の来日時にライヴ録音された演奏(1984年)、そしてその4年後にライヴ録音された演奏(1988年)の3種が存在しており、オーケストラはいずれも手兵ロンドン・フィルである。

いずれ劣らぬ名演ではあるが、随一の名演は1988年の演奏であることは論を待たないところだ。

というのも、テンシュテットは1985年に咽頭がんを患い、その後は放射線治療を続けつつ体調がいい時だけ指揮をするという絶望的な状況に追い込まれた。

したがって、1988年の演奏には、一つ一つのコンサートに命がけで臨んでいた渾身の大熱演とも言うべき壮絶な迫力に満ち溢れていると言えるからだ。

次いで、本盤に収められた1984年の演奏が続くのではないだろうか。

テンシュテットのマーラーの交響曲へのアプローチはドラマティックの極みとも言うべき劇的なものだ。

これはスタジオ録音であろうが、ライヴ録音であろうが、さして変わりはなく、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使して、大胆極まりない劇的な表現を施している。

かかる劇的な表現においては、かのバーンスタインと類似している点も無きにしも非ずであり、マーラーの交響曲の本質である死への恐怖や闘い、それと対置する生への妄執や憧憬を完璧に音化し得たのは、バーンスタインとテンシュテットであったと言えるのかもしれない。

ただ、バーンスタインの演奏があたかもマーラーの化身と化したようなヒューマニティ溢れる熱き心で全体が満たされている(したがって、聴き手によってはバーンスタインの体臭が気になるという人もいるのかもしれない)に対して、テンシュテットの演奏は、あくまでも作品を客観的に見つめる視点を失なわず、全体の造型がいささかも弛緩することがないと言えるのではないだろうか。

もちろん、それでいてスケールの雄大さを失っていないことは言うまでもないところだ。

このあたりは、テンシュテットの芸風の根底には、ドイツ人指揮者としての造型を重んじる演奏様式が息づいていると言えるのかもしれない。

本盤の演奏は、さすがに前述のように、1988年の演奏ほどの壮絶さは存在していないが、それでもテンポの思い切った振幅を駆使したドラマティックにして濃厚な表現は大いに健在であり、まさにテンシュテットのマーラー演奏の在り様が見事に具現化された至高の超名演と言っても過言ではあるまい。

カップリングのモーツァルトの交響曲第35番「ハフナー」は名演の範疇には入ると思われるが、テンシュテットとしては普通の出来と言える。

音質については、FM東京の音源だけに従来CD盤でも比較的良好な音質である。

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2014年07月25日


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バーンスタインは、ビデオ作品を含め3度にわたってマーラーの交響曲全集を録音した唯一の指揮者であるが、3度目の全集については、実際には、交響曲第8番、第10番、そして「大地の歌」を録音することなく鬼籍に入ってしまった。

3度目の全集を構成する各交響曲や歌曲集のいずれもが至高の超名演であっただけに、大変に残念なことであると考えている。

本盤の「大地の歌」は、このような事情から3度目の全集の中に収められていないが、実際には1966年の録音であり、バーンスタインが2度録音した「大地の歌」のうちの最初のもの。

しかも、ウィーン・フィルにデビューしたての頃の録音である。

したがって、バーンスタインも、名門ウィーン・フィルを前にして、相当に気合が入っていたのではないだろうか。

同時期に録音された歌劇「ファルスタッフ」では遠慮があったと言えるが、マーラーにおいては、確固たる自信からそのような遠慮など薬にしたくもなかったに相違ない。

他方、ウィーン・フィルにとっては、カラヤンを失ったばかりでもあり、カラヤンに対抗するスター指揮者を探すべく躍起となっていた時期であった。

それ故に、本盤では、意欲満々のバーンスタインと、自らの新しいヒーローを前にして全力を尽くしたウィーン・フィルの底力が相乗効果を発揮した至高の名演ということができるのではないかと考えられる。

「大地の歌」には、ワルター&ウィーン・フィル(1952年)とクレンペラー&フィルハーモニア管弦楽団(1964年)という歴史的な超名演が存在するが、本盤は、この両者に唯一肉薄する名演と高く評価したい。

なお、本演奏において、独唱には通常のアルトに代わってバリトンを起用しているが、ここでのフィッシャー・ディースカウの独唱は、違和感をいささかも感じさせず、むしろバリトンの起用にこそ必然性が感じられるような素晴らしい名唱を披露している。

その名唱は上手過ぎるとさえ言えるが、これだけ堪能させてくれれば文句は言えまい。

テノールのキングも、ディースカウにいささかも劣らぬ好パフォーマンスを示しているのも素晴らしい。

英デッカならではの艶やかで鮮明な高音質録音も素晴らしく、この名演に華を添えている。

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2014年07月18日


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このケーゲル盤は、マーラーのモザイク風の作品を断片から1つ1つを吟味し、組み合わせていったような精妙さをもつ演奏だ。

アゴーギクやデュナーミク、管弦のバランスのそれぞれに意味があり、音楽的に彫りが深い。

そのため、いささか分析的ではあるが、晴朗・透明で、マーラーの抒情性を的確に表出している。

しかし、よく聴いてみると極めて異常な世界とでもいうのか、他に例を見ない演奏である。

血の通わない音楽というのか、血は通っているが冷たい血とでもいうのか、こんなパッと聴いたところ楽しくないんなぁという感じのする演奏は稀であろう。

美しいながらも、冷たいナイフを頬に当てられているように感じてしまう。

他の指揮者よりもっと高い見地に立って全体を俯瞰するとこういう演奏になるのであろうか。

マーラーの音楽の美しさを表現できていると思うのであるが、どこかひっかかるものがある。

第3楽章の美しさは素晴らしく雄弁に聴こえるのだが、曲にのめりこまないとでも言うのか、どこか心ここにあらずという感じがするのだ。

ロマンティックで耽美的な音楽を優美に、そしてじっくりと聴かせてくれる演奏なのだけれど、このほっぺたが千切れそうに冷たい体感温度の低さは何なのだろうか。
 
遠くに突き放してみたらこんな感じで見えるとでもいうのか、能でいう離見をすればこうなるのかもしれない。

とは言え、筆者としては、このような演奏もマーラーの解釈としては十分成立すると考えている。

この曲を初めて聴く人にお薦めできる演奏ではないが、このような素晴らしい演奏もあるという感じで聴く分には良いだろう。

もし弱点があるとすれば、終楽章でのカサピエトラの歌唱かとも思うが、彼女は癖のない歌唱で、幾分ぶっきらぼうな表情が、この第4楽章の楽しげで無邪気で残酷なおとぎ話の一面の真理をついている。

ちなみに第2楽章のソロ・ヴァイオリンはジェルジ・ガライが担当している(ケーゲルはガライとは、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲を録音していた)。

ピストル自殺さえしなければ、ケーゲルを語る時『狂気のケーゲル』などという形容詞はおそらく不似合いだっただろう。 

このマーラーには絶頂の幸福感と、興奮すらも俯瞰でみつめる安定感がある。

筆者としては、ワルター、バーンスタイン、テンシュテットに次いで愛聴している。

ケーゲルの『大地の歌』の録音があったならば、さぞかしと思わせる。

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2014年06月30日


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バルビローリは、どちらかと言えば北欧音楽や英国音楽を得意のレパートリーとした指揮者として広く知られているが、マーラーの交響曲についてもコンサートで頻繁に採り上げるとともに、ライヴ録音などを含めると相当数の録音を遺しているところである。

交響曲第6番「悲劇的」についても複数の録音が遺されており、ベルリン・フィルとの演奏(1966年(ライヴ録音))、そしてニュー・フィルハーモニア管弦楽団との演奏(1967年(ライヴ録音及びスタジオ録音(本盤)の2種))の3種の録音が存在している。

今後も、更に録音が発掘される可能性は否定できないが、これら3種の録音はいずれ劣らぬ名演である。

この中で、1966年ライヴ録音盤と1967年ライヴ録音盤は、オーケストラがベルリン・フィルとニュー・フィルハーモニア管弦楽団の違いがあるものの、演奏全体の造型やテンポ、そしてアグレッシブな豪演などと言った点においてはほぼ共通するものがある。

これに対して、本演奏は、バルビローリにとっても同曲の唯一のスタジオ録音ということもあるが、これらの2種のライヴ録音とは、その演奏の性格が大きく異なっているところだ。

そもそもテンポが大幅に遅くなっている。

トータルの時間でも10分以上の遅くなっているのは、前述のライヴ録音盤がいずれも約73分であることに鑑みれば、大幅なスローダウンと言えるだろう。

それだけに、本演奏におけるバルビローリの感情移入の度合いには尋常ならざるものがある。

バーンスタインやテンシュテットなどに代表されるドラマティックな演奏や、はたまたブーレーズなどによる純音楽に徹した演奏などとは異なり、滋味豊かな情感に満ち溢れるとともに、粘着質とも言うべき濃厚な表情づけが特徴である。

ここぞという時のトゥッティにおける強靭な迫力にもいささかも不足はないが、そのような箇所においても独特の懐の深さが感じられるのが、バルビローリによるマーラー演奏の性格をより決定づけているとも言えるだろう。

本演奏でもかかるアプローチは健在であり、ゆったりとしたテンポによるこれほどまでの濃厚で心を込め抜いた演奏は、かのバーンスタイン&ウィーン・フィルによる超名演(1988年)ですらすっきりとした見通しの良い演奏に感じさせるほどであり、聴き終えた後の充足感には曰く言い難いものがある。

なお、バルビローリは、近年ではマーラーの最終的な決定を尊重するという意味で主流になりつつあるが、当時としては珍しい、スケルツォ楽章(第2楽章)とアンダンテ楽章(第3楽章)を入れ替えるバージョンで、1966年ライヴ録音盤と1967年ライヴ録音盤では演奏を行っていたが、本演奏では従来どおりの入れ替えないバージョンで演奏を行っているのは実に興味深いと言えるところだ。

また、バルビローリの濃厚で粘着質な指揮に、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団も必死で喰らいつき、持ち得る実力を十二分に発揮した渾身の名演奏を展開しているのも素晴らしい。

いずれにしても、本演奏は、バルビローリの同曲への深い愛着と思い入れを感じることが可能な入魂の名演と高く評価したい。

併録の「メタモルフォーゼン」も、いわゆるバルビローリ節が全開の名演であり、各フレーズを心を込めて情感豊かに感動的に歌い上げているのが素晴らしい。

ニュー・フィルハーモニア管弦楽団の弦楽合奏の卓越した技量も大いに賞賛したい。

音質は、1967年のEMIによるスタジオ録音であり、従来盤については今一つ冴えない音質であったが、ARTリマスタリングが行われたことによって、若干ではあるが音質改善が見られたように思われるところだ。

ところが、今般、シングルレイヤーによるSACD盤が発売されるに及んで大変驚いた。

音質の鮮明さ、音圧、音場の幅広さのどれをとっても、これまでの既発CDとは段違いの素晴らしさであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。

いずれにしても、バルビローリによる至高の超名演を超高音質のシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2014年06月25日


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本盤には、ショルティが完成させた唯一のマーラーの交響曲全集を構成する交響曲第6番が収められている。

中期の交響曲として同様に分類される第5番をショルティは3度にわたって録音しているのに対して、第6番は本盤が唯一の録音であるが、これは、ショルティが本演奏に満足していたのか、それとも第5番ほどに愛着を持っていなかったのか、その理由は定かではない。

それはさておき、演奏は凄まじい。

これは、同じく1970年に録音された第5番や第7番と共通していると言えるが、まさに強烈無比と言っても過言ではないほどの壮絶な演奏と言えるのではないだろうか。

ショルティのマーラーの交響曲演奏に際しての基本的アプローチは、強靭なリズム感とメリハリの明瞭さを全面に打ち出したものであり、その鋭角的な指揮ぶりからも明らかなように、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされていると言えるところだ。

こうしたショルティのアプローチは、様相の変化はあっても終生にわたって殆ど変わりがなかったが、かかるショルティの芸風が最も如実にあらわれた演奏こそは、本盤に収められた第6番を含む1970年に録音された第5番〜第7番のマーラーの中期の交響曲の演奏であると考えられる。

それにしても、第5番のレビューにおいても記したところであるが、筆者はこれほど強烈無比な演奏を聴いたことがない。

耳を劈くような強烈な音響が終始炸裂しており、血も涙もない音楽が連続している。

まさに、音の暴力と言ってもいい無慈悲な演奏であるが、聴き終えた後の不思議な充足感は、同曲の超名演であるバーンスタイン&ウィーン・フィル盤(1988年)やテンシュテット&ロンドン・フィル盤(1991年ライヴ盤)にいささかも引けを取っていない。

あまりにも強烈無比な演奏であるため、本演奏は、ショルティを好きになるか嫌いになるかの試金石になる演奏とも言えるのかもしれない。

加えて、本演奏の素晴らしさはシカゴ交響楽団の超絶的な技量であろう。

いかにショルティが凄いと言っても、その強烈無比な指揮にシカゴ交響楽団が一糸乱れぬアンサンブルを駆使してついていっているところが見事であり、ショルティ統率下のシカゴ交響楽団がいかにスーパー軍団であったのかを認識させるのに十分なヴィルトゥオジティを最大限に発揮している。

かかるシカゴ交響楽団の好パフォーマンスが、本演奏を壮絶な名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

音質も英デッカによる1970年の録音当時としては極めて優秀なものである。

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2014年06月21日


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ブーレーズはDGに相当に長い年数をかけてマーラーの交響曲全集を録音した。

演奏は、あらゆる意味でバーンスタインやテンシュテットなどによる濃厚でドラマティックな演奏とは対極にある純音楽的なものと言えるだろう。

ブーレーズは、特に1970年代までは、聴き手の度肝を抜くような前衛的なアプローチによる怪演を行っていた。

ところが、1990年代にも入ってDGに様々な演奏を録音するようになった頃には、すっかりと好々爺になり、かつての前衛的なアプローチは影を潜めてしまった。

もっとも、必ずしもノーマルな演奏をするようになったわけではなく、そこはブーレーズであり、むしろスコアを徹底的に分析し、スコアに記されたすべての音符を完璧に音化するように腐心しているようにさえ感じられるようになった。

もちろん、スコアの音符の背後にあるものまでを徹底的に追求した上での演奏であることから、単にスコアの音符のうわべだけを音化しただけの薄味の演奏にはいささかも陥っておらず、常に内容の濃さ、音楽性の豊かさを感じさせてくれるのが、近年のブーレーズの演奏の素晴らしさと言えるだろう。

本演奏においても、そうした近年のブーレーズのアプローチに沿ったものとなっており、マーラーの「第4」のスコアを明晰に紐解き、すべての楽想を明瞭に浮かび上がらせるようにつとめているように感じられる。

それ故に、他の演奏では殆ど聴き取ることが困難な旋律や音型を聴くことができるのも、本演奏の大きな特徴と言えるだろう。

さらに、ブーレーズの楽曲への徹底した分析は、演奏の表層においてはスコアの忠実な音化であっても、その各音型の中に、かかる楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような奥行きの深さを感じることが可能である。

これは、ブーレーズが晩年に至って漸く可能となった円熟の至芸とも言えるだろう。

いずれにしても本演奏は、バーンスタイン&コンセルトヘボウ・アムステルダムによる名演(1987年)とあらゆる意味で対極にあるとともに、カラヤン&ベルリン・フィル(1979年)の名演から一切の耽美的な要素を拭い去った、徹底して純音楽的に特化された名演と評価したい。

第4楽章におけるバンセもそういったブーレーズの解釈と意図に沿った歌唱を行っている。

このようなブーレーズの徹底した純音楽的なアプローチに対して、最高のパフォーマンスで応えたクリーヴランド管弦楽団の卓越した演奏にも大きな拍手を送りたい。

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2014年06月18日


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ジュリーニは、レパートリーが広い指揮者とは必ずしも言い難く、また、レパートリーとした楽曲についても何度も演奏を繰り返すことによって演奏そのものの完成度を高めていき、その出来に満足ができたもののみをスタジオ録音するという完全主義者ぶりが徹底していたと言える。

したがって、これほどの大指揮者にしては録音はさほど多いとは言い難いが、その反面、遺された録音はいずれも極めて完成度の高い名演揃いであると言っても過言ではあるまい。

これは、1971年、ジュリーニがシカゴ交響楽団の首席客演指揮者を務めていた時代の、このオケとのつながりがいちだんと密になり始めたころ、ジュリーニ50代半ば過ぎのレコーディングで、彼にとって初めてのマーラー録音であったと記憶する。

その悠揚迫らざる棒さばきのもと、どちらかと言えば現代風の鋭利な解釈ではなく、音楽的な美しさの優先する健康体のマーラーを聴かせている。

音楽のスケールの豊かさ、いたるところにちりばめられた美しい歌、それにいきいきした生命力はいつもながらのものだが、ここではとくに、ジュリーニの知的な能力の高さを改めて痛感させられる。

何しろスコアの読みが精細かつシャープ、そしてそれが全曲を実に見通しよく、きっちりと組み上げているのだ。

シカゴ交響楽団も持ち前のパワーだけでなく、むしろ室内楽的とさえ言える繊細なアンサンブルを展開して、指揮者のめざすところに応えている。

あのパワフルなモンスター・オーケストラが、むしろ一貫して精妙なアンサンブルを確保しつつ、息の長い歌の美しさを、見事な流動感とともに描き尽くしているところがすばらしい。

ジュリーニの格調が高く、そしてイタリア人指揮者ならではの豊かな歌謡性と気品のある極上の優美なカンタービレに満ち溢れた指揮に、シカゴ響の美しい音色が見事に融合した剛柔バランスのとれた名演に仕上がっていると言えるのではないだろうか。

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2014年06月14日


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最近では体調を崩してファンを心配させている小澤であるが、小澤はマーラーの交響曲を得意のレパートリーとしている。

今では入手難となっているが、かつての手兵であるボストン交響楽団とは全集を完成させているほどであるが、マーラーの数ある交響曲の中でも小澤が最も多くの録音を行っているのが交響曲第1番だ。

本盤に収められたボストン交響楽団とともに行ったスタジオ録音(1977年)、その10年後に前述の全集の一環として録音された演奏(1987年)、そして、サイトウ・キネン・オーケストラとともに行ったライヴ録音(2008年)の3種存在している。

いずれも名演と言えるが、3種の演奏のうちどれか一つをとれと言われれば、筆者としては躊躇なく本盤に収められた1977年のスタジオ録音を採りたい。

近年発売されたサイトウ・キネン・オーケストラとの演奏や、全集の一環として録音された演奏があまりにも目立つ存在であることから、本演奏は長らく輸入盤すら手に入らない状況におかれており、知る人ぞ知る存在に甘んじていたが、数年前にオリジナルジャケットによる待望のCD盤が発売され、長年の渇きが癒されたのであった。

そして、そのような隠れた名演が、今般、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤として発売されたというのは、本演奏の価値をあらためて世に知らしめるという意味において極めて意義が大きいと言わざるを得ない。

全集の一環として録音された演奏、さらにはサイトウ・キネン・オーケストラとの演奏は、功成り名を遂げた大指揮者による円熟の名演と言った趣きがあるが、それに対して、本演奏は若き小澤による畳み掛けていくような気迫や生命力が漲った演奏と言うことができるだろう。

マーラーの交響曲第1番は、マーラーの青雲の志を描いた作品とも言えるところであるが、本演奏の当時、いまだ40代であった小澤にとっては、同曲との相性が抜群のものであったと言えるのではないだろうか。

小澤のアプローチが、そのまま同曲の魅力を際立たせているとも言えるところであり、もちろん、ワルター&コロンビア交響楽団によるスタジオ録音(1961年)やバーンスタイン&コンセルトヘボウ・アムステルダムによるライヴ録音(1987年)といった歴史的な超名演と比較して云々することは容易であるが、純音楽に徹した演奏という意味においては最右翼に掲げられる圧倒的な名演と評価しても過言ではないと考える。

ボストン交響楽団も、小澤の火の玉のような渾身の指揮にしっかりと付いていっており、最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

それにしても、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CDの音質は圧倒的だ。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても超一級品の仕上がりである。

いずれにしても、若き日の小澤&ボストン交響楽団による圧倒的な名演を、現在望みうる最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2014年06月12日


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アバドによるマーラーの交響曲第3番には、1999年のベルリン・フィルとの至高の超名演(ライヴ録音)が存在している。

当該演奏は、アバドが大病にかかる直前のベルリン・フィルとの演奏であるが、アバドも、そしてベルリン・フィルもともに渾身の力を発揮した圧倒的な超名演に仕上がっていた。

ライヴ録音ということもあって、アバドの、そしてベルリン・フィルのコンディションもかなり良かったのではないかとも思われるが、いずれにしても、このベルリン・フィル盤と比較すると本演奏は若干不利な立場に置かれていると言わざるを得ない。

しかしながら、筆者としては、ベルリン・フィル盤とは違った若き日のアバドならではの魅力のある素晴らしい名演と高く評価したい。

第2番もそうであったが、第3番においても、若きアバドのエネルギッシュな指揮ぶりは実に凄まじい。

とりわけ、第1楽章におけるトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と力感は、圧倒的な迫力を誇っている。

また、第2楽章以降におけるアバドならではの歌謡性豊かな表現には汲めども尽きぬ情感が満ち満ちており、その歌心溢れる柔和な美しさには抗し難い魅力がある。

もっとも、全体にバランスを重視するあまりピアニッシモがいささか弱過ぎるきらいがあることや、終楽章においては今一歩強靭な迫力が欲しい気がしないわけでもない(とりわけ終結部のティンパニが弱いのが問題で、本終楽章がベルリン・フィル盤と比較していささか劣っている)が、その壮麗な美しさは十分に魅力的であり、演奏全体に瑕疵を与えるほどのものではない。

そして何よりも特筆すべきはウィーン・フィルによる極上の美しい音色であり、とりわけ第1楽章におけるウィンナ・ホルンやトロンボーンソロの朗々たる響きや、第1楽章及び第4楽章におけるゲルハルト・ヘッツェルのヴァイオリンソロ、そして第3楽章のアドルフ・ホラーによるポストホルンソロは圧巻の美しさを誇っており、本名演に大きく貢献している点を忘れてはならない。

若き日のジェシー・ノーマンによる歌唱も、本名演に華を添えていると評価したい。

ウィーン国立歌劇場合唱団やウィーン少年合唱団も最高のパフォーマンスを発揮している。

録音については従来盤でも比較的満足できる音質であったが、前述のベルリン・フィル盤が存在することもあって、その陰に隠れた存在に甘んじていた。

もっとも、今般、SHM−CD化による高音質化が図られたというのは、本演奏の再評価に繋がるものと言えるところであり、大いに歓迎したい。

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2014年06月11日


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名指揮者(サー・ジョン・バルビローリ)と名オーケストラ(ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)が出会うとこれほどまでの凄い演奏が展開されるということを実証しているのがこのディスク。

ライヴでの共演がきっかけで生まれた、僥倖ともいえる名盤。

ベルリン・フィルは、今日に至るまで、マーラーの「第9」の名演を数多く成し遂げてきた。

本盤のバルビローリを皮切りとして、カラヤンの新旧2種、アバド、そして、最近のラトルに至るまで、カラヤン以降の歴代の首席指揮者が素晴らしい名演を遺してきている。

バーンスタインによる客演もあり、それは名演と評価するにはいささか躊躇するが、それでも大熱演を成し遂げたことは否定し得ない事実である。

こうした名演、熱演が目白押しの中で、バルビローリの名演こそ、その後のベルリン・フィルによる名演、熱演の礎になったのではないかと考える。

本盤の録音当時は、ベルリン・フィルは、必ずしもマーラーが好きではなく、演奏頻度も高くなかったと聞くが、そうした中で、このような名演を成し遂げたという厳然たる事実に対して、バルビローリの同曲への愛着と執念、そして、ベルリン・フィルとの抜群の相性の良さを感じずにはいられない。

この交響曲に内在する死への恐怖と闘い、それに対する生への妄執を、バルビローリは、思い入れたっぷりのコクのある指揮で、見事に表現し尽くしている。

特に、終楽章の美しさは出色のものがあり、ベルリン・フィルの厚みのある重厚な音色と相俟って、これ以上は求め得ないような絶美の表現に仕上がっている。

音質は、1964年のスタジオ録音であり、従来CD盤では今一つ冴えない音質であったが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって、見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったところだ。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、バルビローリ&ベルリン・フィルによる歴史的な超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2014年06月03日


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マーラーは基本的にクライバーのレパートリー外の作曲家であるし、この「大地の歌」をクライバーが振った経緯なども、これまでよく知られていなかったところであり、少なくともクライバーの方から進んで提案した曲目ではなかったらしい。

しかしクライバーは「大地の歌」の提案を承諾し、この曲を探究するために「ある指揮者」に直接教えを乞いに行った。

その指揮者はだれよりも「大地の歌」に通じていて、ベルリン時代まで遡ってカルロスの父の同僚でライヴァルのオットー・クレンペラーだった。

カルロスはチューリヒのクレンペラーを訪れ、「大地の歌」の楽譜をもとに検討することを求め、そして数時間ともに勉強した。

実に興味深い話であり、あのクライバーの「大地の歌」に、まさかクレンペラーの影響が紛れ込んでいるとは思いもしなかった。

演奏は、ありていに言ってしまえば、クライバー色に染まった「大地の歌」である。

その特徴は、まずテンポが速い。

第1楽章ではワルターのものと単純にタイムで比較すると1分も違うところからその速さが想像できるかもしれない。

特にせかせかした印象は無いのだが、例によってフレーズを過剰に動かすので生命力が感じられる仕上がりとなっている。

おそらく、その副作用で速くなってしまっているのだろう。

ルードヴィヒの歌唱は透明度が高いもので美しいと思う。

クメントはズートハウスに近い声質の持ち主で、表情付けに関してはうまいなと思った。

あまり親しみのない時期のライヴ録音であるのだが、戦前の録音と言われても納得してしまうレベルの音質である。

ヒスノイズは無いが、こもった音質で、全般にわたって像がぼやけた印象がぬぐえない。

客席録音の可能性が高いベルリン・ライヴの方が音質が良い。

しかしながら、歴史的音源の音質に慣れた方なら問題なく視聴できるレベルである。

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2014年06月01日


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マーラーから聴き始めたが、演奏はさすがに素晴らしいものだ。

バルビローリのようにロマンが沸々とたぎるようなものではないが、第1楽章からなかなか息の長いフレージングでぐいぐいと引っ張っていってくれる。

この指揮者の懐の深さは尋常ではない。

複雑に入り組んだポリフォニックなスコアをこうも見事に解きほぐされて、反応の良い素晴らしいアンサンブルによって供されると、もう筆者は深く心から満足し、マーラーの世界に浸っていられる。

ソロの部分、特にヴァイオリンのソロに今ひとつ美感を感じないのは惜しい。

木管はとても良いだけに、画竜点睛を欠くと言ったところか…、玉に瑕であって、価値をそれほど落とすものではないが。

クルト・ザンデルリンクのマーラーはこの演奏の十年ほど前にBBCフィルハーモニーを振ったものを持っている。

こちらの方が更に熱く、情熱的に感じられるし、完成度も高いが、フィルハーモニア盤も完成度という点では負けていない。

BBC盤の手に入る可能性が少なくなっている現在、フィルハーモニア管を振ったこの録音は貴重だ。

次いで、ショスタコーヴィチの第15番である。

これも1978年にベルリン交響楽団とドイツ・シャルプラッテンに録音していて、何度もCDで発売されているので、お持ちの方も結構いるだろう。

解釈がそれほど変わっているわけではないので、別によほどのことがない限り、両方持っていなければならないというほどのものでないが、第2楽章がより深刻さと幻想味を増しているように思われる。

オケもクリーヴランド管弦楽団になっていて、さすがに上手い。

しかし、旧東ドイツの威信をかけて録音した旧盤のベルリン交響楽団の上手さも尋常でない。

この2つの演奏も甲乙つけがたい出来映えだが、筆者は旧盤の方に少し愛着がある。

このレビューを書くために2つの大作を連続して聴くのはなかなか骨が折れる作業であった。

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2014年05月26日


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当盤は、GRAND SLAMレーベル設立以来の、最高の音質と言われ、信じられないほどの情報量の多さで、広がりの豊かさ、定位の明確さ、そして全体の艶やかで瑞々しい音色は腰を抜かさんばかり。

もともと、音質が良い盤だっただけに、当盤のさらなる飛躍的な音質向上には、耳を疑うばかりだ。

これは数多いワルターの録音の中でも最高傑作の一つに挙げられる名演中の名演である。

出来映えはニューヨーク・フィルとのモノーラルを遥かに凌ぎ、一点の無駄もない古典化された演奏である。

たとえば第1楽章のコーダや第2楽章をバーンスタインと比べてみれば、ワルターのほうがずっと淡々として枯れた解釈であることがわかるはずだ。

しかし、さらに付け加えなければならないのは、こうしたもろもろの芸、もろもろの巧さと情緒が、ワルター個人の芸術、マーラー自身の芸術という範囲を遥かに超えて、最も普遍的な音楽にまで達している点である。

たとえばメンゲルベルクのマーラーは、生前ワルター以上と讃えられたものだった。

しかしどこかにメンゲルベルクの癖とマーラー臭さを感じさせる。

メンゲルベルクを持ち出さなくても、ワルターの他の演奏がすでにそうだ。

ところがこの「巨人」は、ワルターが自分自身の個性を最大限にまで発揮しながら、それがすべてマーラーの音楽自体に純化し、そのマーラーの音楽がさらに個人的なものを脱して普遍性を獲得しているのである。

ワルター、マーラーという音楽家への好き嫌いを超越して、万人を感動させる芸術がここに生まれたのだ。

これこそ指揮者として最高の境地を言わねばならない。

かくしてこの演奏は、ワルター的、マーラー的、ウィーン的などという形容を許さず、それどころか録音ということさえも忘れさせてしまう。

耳を傾けてみよう。

スピーカーの前面いっぱいを、いや、聴いている部屋全体を満たす巨大な音の像、これは一体何であろうか。

機械音楽であることをまず忘れさせ、眼前にオーケストラや指揮者や楽譜が浮かぶという次元をも超越して、大きく結ばれる音像の出現、これこそワルターが成し得た不滅の理想像ではなかろうか。

そこにこそ音楽は善への使徒として美の究極の姿を示したのだ。

なぜならば、この録音を共に聴くことを許された幸福な人々に生まれる、類ない愛の心がそれを証明するからである。

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本作はメンゲルベルクの影が遺る戦後間もないコンセルトヘボウで、マーラー随一の愛弟子ワルターが「巨人」を振る歴史的に見ても貴重な国内初出音源。

マーラーはメンゲルベルクも得意としていたが、その本拠地での演奏だけに興味深い。

ワルターとメンゲルベルクは、マーラーの最もよき理解者であり、擁護者であった。

特にワルターはマーラーと時代と仕事を共有していただけに、その音楽に強い愛情を抱いていたに違いない。

ワルターは「マーラーが20世紀の世紀末を先取りしていた」と言うような思考とは無縁で、純粋に音楽自体に没入していた。

「巨人」も例外ではない。

ワルターはこの曲に流れる若々しい感情にいとおしむような眼差しを向ける。

その落ち着いた情感は音楽の構成に安定感を与えるし、第4楽章においても秩序を感じさせ、先行する3楽章からの流れとして納得させられる。

ワルターの解釈はそれほど自然で、音楽と一体化していると言えよう。

「運命の歌」は、ブラームスらしい渋さと暗い雰囲気を湛え、内部に激しい情熱を秘めた解釈で、合唱団も非常に気持ちのこもった歌い方だ。

前後の天国の部分を弱音効果で女性的に、中間の人間界の苦しみをきめ粗いくらい迫力をこめて演奏し、対照を鮮明に生かしている。

このようなワルター最盛期の名演を、仏ターラ社の優れたリマスタリング技術によって復刻された音質で味わうことのできることを大いに喜びたい。

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2014年05月24日


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ワルターとバイエルン国立管弦楽団の珍しいコンビによる1950年のライヴ。

20世紀最大の名指揮者のひとり、ブルーノ・ワルターは、1913年から1922年までミュンヘンのバイエルン国立歌劇場の監督で、ここで大変に充実した音楽活動をおこなっていた。

その後、活動の拠点をウィーンに移し、戦争によってアメリカに亡命したのは周知の通り。

戦後、故郷ベルリンやウィーンは何度か訪れているにもかかわらず、ミュンヘンはこの1950年の一度きりだったとかで大変貴重な録音。

LPでもCDでも海賊盤でも今までリリースされたことのない完全初出盤である。

ワルターの最も多忙な時期の録音で、それだけに若々しい活気がみなぎる演奏となっている。

しかも音楽にいかにも手づくり風のホームスパンのような素朴なあたたかさがある。

特に「未完成」がずばぬけた名演で、この曲のつきるところのない魅力を一度に解明してみせた感がある。

特に第2楽章は深く心をこめて歌う。

およそ考えられぬほどの高貴な抒情で満たされ、この音楽の限りなく永遠に続くことを願う気持ちすら起きる。

ワルターはマーラーの直弟子であり、マーラーと一心同体の人だ。

だいたいマーラーを得意にしている指揮者だが、なるほどこの演奏は素晴らしい。

マーラーが演奏したらこうなるだろうと思われるくらいにマーラーそのものになりきっている。

造形の安定度の高さも特筆に値するが、全4楽章をスケール大きい気宇でまとめていることも高く評価できる。

後年のステレオ録音の円熟した演奏もいいが、これはこれで改めて傾聴したい秀演。

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2014年05月23日


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1997年6月、欧州楽旅中のシカゴ響ケルン公演のライヴ。

力感にあふれ、振幅の大きなバレンボイムの指揮のもと、シカゴ響がパワーを全開にした痛快なマーラー演奏。

マーラーの第5番のDVDとしてベスト3に入る。

映像、音質ともに非常に優秀で、スーパー軍団の演奏映像がたっぷり楽しめ、あらためてシカゴ響の凄さが実感できる内容となっている。

シカゴ響だけにパワフルなのは間違いないが、その中に繊細さも溢れていて、何回聴いても聴き飽きることがなく、ライヴの緊張感もあり最高の出来映えと言ってもよかろう。

ショルティ時代とはまた違ったシカゴ響サウンド、名プレーヤーの面々が見られる非常に楽しめるすばらしいディスクである。

トランペットのハーセス、ホルンのクレヴェンジャー、トロンボーンのフリードマン、この三羽烏が当時もなお凄まじいプレーヤーである事が証明されている。

バレンボイムはベルリン・フィルとは幾多のDVDが有るものの、音楽監督を務めたシカゴ響との映像記録は非常に少ない。

日本では、バレンボイムはあまりいい評価がなされていないが、これを聴いてみるとどれだけすばらしい指揮者であるか理解できると思う。

その意味において、これは極めて貴重な作品といえる。

音質・画質ともに優秀だが、確かにこのDVDのシカゴ響はトータルとして素晴らしいと思う。

でもシカゴ響ならショルティが振った場合の凄絶な印象(1970年盤のSACDは強烈すぎる)に比べるともう一つ。

とはいえ、前記のようにすばらしい映像作品としては文句のつけようがないもので、十分推薦に値する。

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2014年05月21日


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近年では円熟の境地を迎えたものの、かつての光彩をすっかりと失ってしまったメータであるが、ロサンゼルス・フィルの音楽監督をつとめていた時代は凄かった。

当時は、ロンドン交響楽団とともに圧倒的な名演奏を繰り広げていたアバドや、ボストン交響楽団の音楽監督に就任して世界に羽ばたこうとしていた小澤などと並んで、新進気鋭の指揮者として次代を担う存在と言われたものであった。

かの巨匠カラヤンも、将来のクラシック音楽界を背負う指揮者としてアバド、小澤とともにメータを掲げていたこともあり、メータが当時、いかに華々しい活躍をしていたかを窺い知ることが可能である。

本盤に収められたマーラーの交響曲第2番「復活」の演奏は、メータがいまだ39歳の時に、ウィーン・フィルを指揮したものであるが、メータの類稀なる才能を感じさせる圧倒的な超名演と高く評価したい。

メータは、その後も同曲を録音しているが、本演奏の持つ魅力に迫る演奏を成し遂げることがいまだ出来ないでいるところだ。

とにかく、冒頭から凄まじいド迫力だ。

どこをとっても切れば血が噴き出てくるような力感が漲っており、随所に聴かれる畳み掛けていくような気迫や生命力にはただただ圧倒されるのみである。

大胆とも言うべきテンポの思い切った振幅や猛烈なアッチェレランド、そして強弱の変化などを効果的に駆使して、途轍もない壮麗な壁画とも言うべき圧倒的な音楽を構築しているのに成功していると言えるだろう。

それでいて、第2楽章や第4楽章などにおける繊細な美しさにも出色のものがあり、必ずしも若さ故の勢い一本調子の演奏に陥っていないことに留意しておく必要がある。

演奏によっては冗長さに陥りがちな終楽章も、緩急自在のテンポ設定を駆使した実に内容豊かな表現を垣間見せており、終結部のスケール雄大さも相俟って、おそらくは同曲演奏史上でも上位にランキングしてもいいような見事な演奏に仕上がっていると言えるところだ。

イレアナ・コトルバスやクリスタ・ルートヴィヒと言った超一流の歌手陣も最高のパフォーマンスを発揮しているとともに、ウィーン国立歌劇場合唱団もこれ以上は求め得ないような圧倒的な名唱を披露していると言えるだろう。

そして、特筆すべきは、ウィーン・フィルによる見事な名演奏である。

若干39歳のメータの指揮に対して、これほどの渾身の名演奏を繰り広げたというのは、ウィーン・フィルが若きメータの才能を認めていたに他ならないところであり、こうした点にも当時のメータの偉大さがわかろうというものである。

いずれにしても、本演奏は、若きメータによる圧倒的な名演であり、加えて同曲演奏史上でも上位を争う素晴らしい超名演と高く評価したい。

そして、本演奏の凄さは、英デッカによる今は亡きゾフィエンザールの豊かな残響を生かした極上の高音質録音と言える。

英デッカは、その録音の素晴らしさで知られているが、その中でも、本演奏は最上位にランキングされるものと言えるのではないだろうか。

したがって、従来CD盤でも十分に満足できるものであったが、数年前にSHM−CD化がなされ、それによって、更に良好な音質になったところであり、筆者もこれまでは当該SHM−CD盤を愛聴してきたところだ。

ところが、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD化が行われることによって大変驚いた。

従来CD盤やSHM−CD盤とは次元が異なる見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった。

オーケストラと合唱が見事に分離して聴こえるなど、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、メータによる圧倒的な超名演を、シングルレイヤーによるSACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2014年05月17日


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素晴らしい出来映えだ。

あまりに官能的で陶酔的な美をきわめた1997年ライヴの「第9」が大反響を呼んだシノーポリ&シュターツカペレ・ドレスデンによるマーラーであったが、これからさらに2年後の「第4」ライヴという興味深い録音である。

ブーレーズの透徹されて隙のない音、スコアと対峙するような解釈の「第4」も素晴らしいのだが、シノーポリのこの優しく包み込まれるような解釈はどうだろう。

出だしは例によって歩が遅いし、強烈なアゴーギクが掛けられた間奏部、また再現部では急に歩を速めたりと例によって昔から変わっていないスタイルなのだが、シュターツカペレ・ドレスデンがこのシノーポリズムを完全に飲み込んだ上で紡ぎ出す珠玉の旋律からはマーラーの楽しみ方に別の一つの道筋を付けていると今更ながら気が付かされた思いだ。

「第9」同様、シノーポリの様々な仕掛けがシュターツカペレ・ドレスデンの様式美によってうまく補完され、血肉化されている。

「第9」に関しては、そのためちょっとマイルドになり過ぎたと感じたものだが、「第4」なら何の不満もない。

ここでもやはり「第9」のときと同じく、フィルハーモニア管盤(1991年)と比較して両端楽章でそれぞれ2分ほど演奏時間が長くなっているのが目立った特徴。

なかでも終楽章は実際の時間以上に、出だしから極端に遅く感じられる。

最も目立つ特徴は終楽章、特に後半の「天上の音楽」の描写になってから、非常に遅いテンポがとられていることだろう。

これは指揮者自身が聴衆を前にした解説(時間の関係で音声は途中までだが、ライナーノートには全文収録しており、内容はやや散漫ながら、シノーポリの知性と教養が良く分かる)で述べている「子供の感じた非現実の天国」を表現したのだと言える。

ここでソリストに起用されたのはマーラー歌いとしてすでにキャリアも豊富なバンゼ。

ブーレーズ盤とはガラリと変わって、停止するかのように息の長いフレージングをシノーポリの意図を汲んで完璧に歌い尽くしている。

そうかと思えばシノーポリは第1楽章の主題が回帰するところでは一転、急加速。

交替してソプラノの甘美なメロディが登場するとまたもやグッとテンポを落としてくる。

このあたり、極端なテンポ・ルバートを基調としたシノーポリ美学の真髄といえるだろう。

死を目前にしたシノーポリが、必ずしも天上の世界は幸せばかりではないと、心に訴えかけてくるかのようだ。

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2014年05月13日


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『巨人』は1985年2月12日、『さすらう若人の歌』は1991年9月26日、ロンドン、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールに於けるライヴ録音。

テンシュテットがいかにライヴの人だったか、20世紀を代表するマーラー指揮者の1人だったか、そしてさらにテンシュテットの棒にロンドン・フィルが必死でついていっている様子が手に取るように分かる録音。

テンシュテット指揮によるマーラー『巨人』は、なんといってもこの指揮者の十八番であり、この演奏はテンシュテットにしては加速度が加わり、オケの高揚をテンシュテットが抑えている感じがして最も熱狂的。

大盛り上がりの金管楽器もさることながら、そこに絡み付いてくるうねるような粘着質な弦楽器。

木管もこれでもかと鋭い音を響かせる。

ライヴならではの臨場感もさることながら、生々しい音がスピーカーを通して体にまとわりついてくるような非常に濃厚で粘着質な演奏とでも言おうか。

EMIの録音が1977年10月、この間にどんな心境の変化があったか窺い知れないし、癌告知前、テンシュテットがまだまだ元気だった頃のライヴなのだが、とにかく、この粘り強くハイテンションな演奏にノックアウトされた次第。

過去に発売されたものも素晴らしかったが、この熱さ、情熱のほとばしりはテンシュテット最盛期の仕事の結果であろう。

しかし、演奏は文句無く「最高」なのだけれど、録音がよくないので最高の評価はできない。

カップリングは、『巨人』と使用動機などで密接に関連する歌曲集『さすらう若者の歌』。

バリトン独唱は、前年の1990年2月にバーンスタイン&ウィーン・フィルと共演してこの歌曲集を歌っていたトーマス・ハンプソン。

2年連続での強烈なマーラー指揮者との共演ということになった。

なお、テンシュテットはこの作品のセッション録音を残していないため、今回のリリースは、大変に有意義なものと言えるだろう。

ハンプソンは、いたるところで印象的に長いラインを引き伸ばし、多彩な色彩感を歌の間や中から紡ぎ出している。

オーケストラは、美しい集中力を発揮して、ハンプソンを伴奏している。

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2014年05月12日


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1984年4月13日 大阪フェスティバル・ホールに於けるライヴ録音。

今回リリースされる音源は、テンシュテット&ロンドン・フィルの初来日時、大阪で行われた演奏会をFM大阪のスタッフが収録したもので、いくつか残されているこの指揮者のライヴ音源の中でも、まずは屈指のハイ・クオリティと言っていい高音質が嬉しいところ。

マーラーの第5番など、冒頭のトランペット・ソロのリアルさ、ゴングやバス・ドラムのなんとも沈痛な響き、そして驚くほど生々しい弦楽セクションと、このレンジの広い作品が高域から低域まで見事なバランスで収められている。

暗く濃厚な音のインパクトはそのままに、より音が広大に広がった印象で、さらに緻密さが増した音質に仕上がっているのは、シングルレイヤーによるSACD高音質録音の威力によるものであろう。

マーラーの第5番はテンシュテット得意の演目で、「テンシュテットのマーラーのライヴ」として想像される演奏像を裏切らない、まさに熱演。

他にも1978年のスタジオ録音と、1988年のロンドンにおけるライヴ録音の2つのEMI盤が、同じロンドン・フィルとの演奏で残されているが、今回の1984年ライヴは、緩急のメリハリが3つの中でもっとも顕著に示され、情念傾注の強さと深さにおいて他盤より一歩抜きん出ているように思われる。

ライヴ録音につきもののアンサンブルの乱れなどもほとんど無く、内容の濃さは1978年のEMIのスタジオ録音盤に引けを取らないが、音楽的な流れの良さもこのライヴの方が上で、散漫になりがちなEMI盤より凝縮されている。

テンシュテット自身の言葉を借りれば、「マーラーは、私の人生」なのだが、まだ健康だった頃の1984年の当録音は、どちらかと言えば健康的な、深刻ぶらない演奏と言える。

カップリングとしてモーツァルトの「ハフナー」が入ってるが、この手の演奏の凄さを言葉で表現するのは難しく、マーラー的な分厚い音響の演奏とでも言うべきか。

ちなみにこの演奏会が行われた1984年は、テンシュテットがロンドン・フィル音楽監督に就いて1年目。

翌85年には癌を発病したことを考えれば、これはテンシュテットがまだ健康に恵まれていた時期の記録としても貴重なライヴ録音だ。

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2014年05月11日


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マーツァルのマーラーは、第1弾〜第3弾となった「第5」、「第3」、「第6」は大変な名演であり、その後のシリーズを大いに期待したが、それに続く演奏も決して悪い演奏ではないものの、マーツァルにしてはやや低調な出来が続いていたような気がする。

しかし、この「第1」は、マーツァルの純音楽的なアプローチが曲想に符合していることもあり、「第6」以来の中庸の美演、名演である。

およそ作為的要素のない、自然な仕上がりで、マーツァルはチェコ・フィルの色合いを引き出すストレートな、若書きらしさで魅せる解釈を示している。

マーツァルのマーラーは、バーンスタインやテンシュテットのような劇的な演奏、カラヤンのような耽美的な演奏、ショルティのような鋭角的な演奏と言うような、一言で言い表すことが可能な特徴があるわけではないが、オーケストラを無理なく鳴らし、曲想を伸びやかに歌い上げる点が素晴らしい。

確かに上記の指揮者たちのような強烈な個性があるわけではなく、物足りない部分もあるが、この曲を美しくまとめたマーツァルの手腕は高く評価されよう。

いい意味でのローカル色が残るチェコ・フィルと組んでいることもプラスに働いていると思われるし、またチェコ・フィルも実にいい風合いで、いつもながら弦楽器の質感が伝わってくるような美しさは特筆ものであろう。

この「第1」でも、最強奏から最弱音に至るまで表現の幅は実に広く、特に、最強奏における金管楽器の光彩陸離たる響きは、幻惑されるような美しさだ。

今までにさまざまな「第1」を聴いてきたが、マーツァル&チェコ・フィルの演奏にはみずみずしさがあり、またあちらこちらに美しい瞬間があり、まるでチェコやボヘミアの美しい田園地帯を想像させる。

ホールの残響も素晴らしく、SACDによる優秀な高音質録音も実に水準の高いものであり、本盤の価値をさらに高めることに貢献している。

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本盤に収められたマーラーの交響曲第6番は、アバドによる2度にわたる同曲の録音のうち最初のものに該当する。

最新の演奏は2004年にベルリン・フィルを指揮したものであるが、それは近年のアバドの円熟ぶりを窺い知ることが可能な至高の名演であった。

したがって、それより25年も前の本演奏の影はどうしても薄いと言わざるを得ないが、筆者としては、若きアバドならではの独特の魅力がある素晴らしい名演と高く評価したい。

1970年代後半からベルリン・フィルの芸術監督に就任する直前である1980年代後半にかけては、ある意味ではアバドが最も輝いていた時期であったと言えるのではないだろうか。

アバドもベルリン・フィルの芸術監督に就任した後は、借りてきた猫のような大人しい演奏に終始するようになるのだが、かかる輝ける時期のアバドは、生命力溢れる熱のこもった名演の数々を成し遂げていた。

本演奏でもそのような若きアバドならではのエネルギッシュな指揮ぶりが健在である。

とりわけ、第1楽章や終楽章におけるトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と力感は、圧倒的な迫力を誇っている。

また、第3楽章においては、アバドならではの歌謡性豊かな表現には汲めども尽きぬ情感が満ち満ちており、その歌心溢れる柔和な美しさには抗し難い魅力がある(アバドは、前述のベルリン・フィル盤では、第2楽章と第3楽章を入れ替えるという近年主流となりつつあるバージョンで演奏していたが、本演奏では、従来版に従って演奏していることについても特筆しておきたい)。

いずれにしても、本演奏は強靭な力感と豊かな歌謡性を併せ持った、いわゆる剛柔バランスのとれた名演に仕上がっていると言えよう。

また、シカゴ交響楽団も持ち前の超絶的な技量を惜しげもなく披露し、望み得る最高の演奏を繰り広げていることも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

併録の「リュッケルトの詩による5つの歌曲」も、シュヴァルツの歌唱ともども素晴らしい名演と高く評価したい。

録音は、従来盤でも比較的満足できる音質ではあったものの、前述のベルリン・フィル盤がSACD化されていることもあって、その陰に隠れた存在に甘んじていたと言えるが、今般、SHM−CD化による高音質化が図られたというのは、本演奏の素晴らしさに鑑みても大いに歓迎したい。

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2014年05月01日


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1964年8月16日、ザルツブルク祝祭大劇場に於けるライヴ(モノラル)録音。

1964年当時のショルティはまだシカゴ響の音楽監督就任前で、ロンドン響やパリ管などを振っていた時期。

若きショルティの溌剌とした指揮振りはまさにマーラーにはピッタリだと思う。

若かりしショルティ、となればさぞかしウィーン・フィルをゴリゴリいわせていたんだろうなぁと容易に想像がつくが、このCDも例外ではない。

気力体力充実し、パワーがみなぎっていた全盛期ショルティがウィーン・フィルをつかまえて、得意のマーラーをもの凄いボルテージで聴かせる。

打楽器の衝撃、金管楽器の異常な咆哮など、モノラルながら凄い激烈な迫力。

終楽章などショルティとウィーン・フィルが一体化して、ほとんど狂気の沙汰としか言いようのない爆発熱狂ぶりで、なにもここまでと唖然とするばかり。

異様なまでのテンションでばく進していくウィーン・フィルが必死になって大音量を炸裂させている様は理屈ぬきで楽しめる。

ウィーン・フィルの「巨人」と言えばクーベリックとマゼール、あとクレツキとこのザルツブルグでのショルティのライヴがあるくらいで意外と少ない。

ここではウィーン・フィルは後期ロマン派を演奏する彼らのいつもの蒸せるような香水の薫りとフェロモンを撒き散らすデカダンスの世界ではなく、ショルティの薫陶で見事なプロレスラーに変身し、鎧をまとった力持ちに変貌している。

聴いていて、そもそもどうしてショルティはマーラーが得意だったんだろうとも感じるが、得意のせかせか節を含め自信満々の演奏に青臭いさすらう若人のデリカシーは求めようもないが、非常な熱演と評価したい。

そういったショルティの演奏に賛否が分かれるのは仕方が無い。

でも、何も主張しない指揮者に比べればこれだけ強烈な個性を惜しげもなくさらけ出して、突きつけてくることができるのが、ショルティという指揮者のすばらしいところだ。

得意のバルトークも、相手が同郷のアニー・フィッシャー女史だけに、単に美しいだけではなく、アクセントが強くホットなアプローチが大変な聴きものである。

録音は、ちょっと音が遠いのが惜しまれるが、ウィーン・フィルの豊潤な響きを感じ取ることができる。

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2014年04月30日


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膨大なレコーディングとレパートリーを誇ったショルティであるが、マーラーの交響曲については特に早くから取り組んでおり、1960年代というマーラーが知る人ぞ知る存在であった時代にも、ロンドン交響楽団と第1番、第2番、第3番、第9番、そしてコンセルトへボウ管弦楽団とともに第4番のスタジオ録音を行っている。

また、第1番についてはウィーン・フィルとのライヴ録音(1964年)が遺されており、既に1960年代にはマーラーの交響曲はショルティのレパートリーの一角を占めていたのではないかと考えられる。

本盤に収められた1970年のスタジオ録音であるマーラーの交響曲第5番は、シカゴ交響楽団との初のマーラーの交響曲の録音。

ショルティは、本演奏を皮切りとして、シカゴ交響楽団とマーラーの交響曲をスタジオ録音することになり、それらをまとめて交響曲全集を完成させることになった。

その意味においては、本盤の演奏は、ショルティにとっても記念碑的な演奏として位置づけられるものと考えられる。

ショルティのマーラーの交響曲演奏に際しての基本的アプローチは、前述のように、強靭なリズム感とメリハリの明瞭さを全面に打ち出したものであり、その鋭角的な指揮ぶりからも明らかなように、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされていると言えるところだ。

こうしたショルティのアプローチは後年の演奏においても殆ど変わりがなかったが、そうしたショルティの芸風が最も如実にあらわれた演奏こそは、本盤の第5番の演奏であると考えられる。

それにしても、筆者は、これほど強烈無比な演奏を聴いたことがない(特に終楽章が凄まじい)。

耳を劈くような強烈な音響が終始炸裂しており、血も涙もない音楽が連続している。

まさに、音の暴力と言ってもいい無慈悲な演奏であるが、聴き終えた後の不思議な充足感は、同曲の超名演との呼び声が高く、本演奏とは正反対の血も涙もあるバーンスタイン&ウィーン・フィル盤(1987年)やテンシュテット&ロンドン・フィル盤(1988年)にいささかも引けを取っていない。

あまりにも強烈無比な演奏であるため、本演奏は、ショルティを好きになるか嫌いになるかの試金石になる演奏とも言えるのかもしれない。

加えて、本演奏の素晴らしさはシカゴ交響楽団の超絶的な技量であろう。

いかにショルティが凄いと言っても、その強烈無比な指揮にシカゴ交響楽団が一糸乱れぬアンサンブルを駆使してついていっているところが見事であり、ショルティ統率下のシカゴ交響楽団がいかにスーパー軍団であったのかを認識させるのに十分なヴィルトゥオジティを最大限に発揮している。

かかるシカゴ交響楽団の好パフォーマンスが、本演奏を名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

なお、ショルティは、同曲をシカゴ交響楽団とともに1990年にライヴ録音するとともに、最晩年の1997年にもトーン・チューリヒハレ管弦楽団とともに録音しており、それらも通常の意味における名演とは言えるが、とても本演奏のような魅力はないと言える。

それにしても、ショルティのマーラーの交響曲演奏の代表盤とも言うべき本演奏を今般シングルレイヤーによるSACD化したユニバーサルに対しては深く感謝の意を表したい。

今般の高音質化によって、ショルティの本演奏へのアプローチがより鮮明に再現されることになったのは極めて意義が大きいと言えるところであり、とりわけ終楽章の二重フーガの各楽器セクションが明瞭に分離して聴こえるのは殆ど驚異的とも言えるところだ。

いずれにしても、ショルティ&シカゴ交響楽団による圧倒的な超名演を、現在望みうる最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2014年04月21日


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マーラーの交響曲第5番はワルターのこの曲の唯一の録音であり、その意味でも大変貴重である。

ワルターの意外にも古典的な手堅さを見ることができる演奏であるが、どこをとっても、ワルターのこの曲に対する愛情が満ち溢れた名演奏だ。

全楽章に感興があふれ、その自然な呼吸の歌の起伏が、聴き手を魅惑せずにはおかない。

第1楽章の劇的な迫力も凄いが、有名な第4楽章〈アダージェット〉の旋律の歌わせ方は最高で、豊かなニュアンスで絶妙な表現を作っている。

第4楽章の〈アダージェット〉だけは前にウィーン・フィルとの録音(1938年)があるので、これが第2回目ということになるが、ニューヨーク・フィルから、よくもこれだけの人間味を表出し得たと感心させられる出来ばえを示している。

ウィーン・フィル盤ほど自然ではないが、粘りつくようなメロディーとリズム、そして人間味を肌いっぱいに感じさせるような弦の音、やはりワルターだけがよく成し得る名演と言えよう。

また、第2、3楽章あたりも充実した名演で、前者は各楽器がすべて意味深く生きた傑作だし、後者のウィンナ・ワルツの幻想はワルターの最も得意とするところで、洒落たリズムと歌に満ち溢れ、流れの緊迫感を常に失っていない。

細部まで音楽を自己のものとして消化し、権威をもってオーケストラをリードしている。

両楽章とも曲自体が非常に魅力的ですぐれており、ワルターの音楽性と相俟ってマーラー・ファンには何よりの贈り物であろう。

オーケストラも精気に満ちて素晴らしく、これは歴史的な記録として永く保存しておきたい名演だ。

歌曲集「若き日の歌」(から8曲)では、ハルバンがきめ細かく詩と音楽の情緒を表現して、ロマンティシズムの真髄に迫っている。

根っからのロマン主義者であったワルターであったが、指揮と同様、このピアノ伴奏でも過剰なルバートやデュナーミクを多用することなく、ハルバンの歌をより格調高く歌わせるような、巧みな指さばきを見せている。

こういう伴奏は歌手にとって歌いやすいのではないだろうか。

ハルバンの母性的な感情と可憐さを共有した、親しみやすい雰囲気はマーラーに最適である。

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2014年04月16日


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本盤の演奏は、ウィーン・フィルとのワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」のスタジオ録音(1958〜1965年)、ロンドン交響楽団とのバルトークの管弦楽のための協奏曲のスタジオ録音(1965年)と並んで、ショルティの初期の録音の中でのベスト3を形成する素晴らしい名演と高く評価したい。

ショルティは、本演奏を皮切りとして、マーラーのすべての交響曲(第10番を除く)の録音を開始することになったが、本演奏の価値はそれでもなお色褪せることなく、現在でもショルティの代表盤の地位を失っているとは言えないのではないかとも考えられるところだ。

ショルティ自身も、本演奏の出来には相当に満足していたようで、後年、1970年の交響曲第5番の録音をはじめとして、シカゴ交響楽団とのマーラーの交響曲全集の録音を開始したが、その際、第4番を再録音するかどうかについて相当に逡巡したとのことであった。

結局、1983年に再録音を行うことになり、当該演奏も一般的な意味における名演ではあるが、とても本演奏のような魅力は存在していないのではないかと考えられるところだ。

いずれにしても、ショルティとしても突然変異的な名演と言えるほどで、ショルティの指揮芸術の特徴でもある切れ味鋭いリズム感や明瞭なメリハリが、本演奏においてはあまり全面には出ていないとも言えるところだ。

マーラーの交響曲の中でも、最も楽器編成が小さく、メルヘン的な要素を有する第4番は、かかるショルティの芸風とは水と油のような関係であったとも言えるが、本演奏では、そうしたショルティらしさが影をひそめ、楽曲の美しさ、魅力だけが我々聴き手に伝わってくるという、いい意味での音楽そのものを語らせる演奏に仕上がっていると言えるだろう。

ショルティも、多分に楽曲の性格を十二分に踏まえた演奏を心がけているのではないかとも考えられるところであり、逆に言えば、若き日のショルティにもこのような演奏を行うことが可能であったということだ。

これはショルティの指揮芸術の懐の深さをあらわすものであり、とある影響力の大きい音楽評論家などを筆頭にいまだ根強いショルティ=無機的で浅薄な演奏をする指揮者という偏向的な見解に一石を投ずる演奏と言えるのではないだろうか。

また、コンセルトへボウ管弦楽団の北ヨーロッパならではの幾分くすんだ響きが、本演奏に適度の潤いと温もりを付加させていることを忘れてはならない。

終楽章のソプラノのシルヴィア・スタールマンによる独唱も美しさの極みであり、最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

音質は、1961年のスタジオ録音であるが、英デッカによる超優秀録音であること、そして、今般、ルビジウム・クロック・カッティングがなされたことにより、十分に満足できるものとなっている点についても付記しておきたい。

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本盤に収められたマーラーの交響曲第4番は、アバドによる2度にわたる同曲の録音のうちの最初のもの(スタジオ録音)に該当する。

2度目の録音は、本演奏の約30年後にベルリン・フィルを指揮したライヴ録音(2005年)であり、それはベルリン・フィルの卓越した技量と、大病を克服したことによって音楽に深みと凄みを増したアバドによる彫りの深い表現、そしてルネ・フレミングによる名唱も相俟って、至高の超名演に仕上がっていた。

したがって、ベルリン・フィル盤が燦然と輝いているために本演奏の旗色は若干悪いと言わざるを得ないが、それでも、本盤には若き日のアバドならではの独特の魅力があり、名演との評価をするのにいささかの躊躇をするものではないと考える。

交響曲第4番は、他の重厚長大な交響曲とは異なり、オーケストラの編成も小さく、むしろ軽妙な美しさが際立った作品であるが、このような作品になるとアバドの歌謡性豊かな指揮は、俄然その実力を発揮することになる。

本演奏は、どこをとっても歌心に満ち溢れた柔和な美しさに満ち溢れており、汲めども尽きぬ流麗で、なおかつ淀みのない情感の豊かさには抗し難い魅力がある。

それでいて、ここぞという時の力奏には気迫と強靭な生命力が漲っており、この当時のアバドならではのいい意味での剛柔バランスのとれた素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

オーケストラにウィーン・フィルを起用したのも功を奏しており、アバドの歌謡性の豊かな演奏に、更なる潤いと温もりを与えている点を忘れてはならない。

ウィーン・フィルのふくよかでいぶし銀のような響きと、アバドの緻密さと爽やかな歌謡性がマッチした名演と言えよう。

ゲルハルト・ヘッツェルのヴァイオリンソロも極上の美しさを誇っており、終楽章におけるフレデリカ・フォン・シュターデによる独唱も、最高のパフォーマンスを発揮している。

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2014年04月14日


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1939年4月8日 ニューヨークでのライヴ録音だが、この当時の放送録音でマーラーを味わうには無理があり、弱音部のニュアンスが捉えられていないのが致命的だ。

逆に強音部はうるさくなってしまう。

オケの音の出し方に含みがないので尚更と言えよう。

とはいえ、ワルターの第1回目の「第1」としての価値は高い。

第1楽章の若々しいテンポの張りとコーダの物凄い加速、第2楽章の嵐のように荒れ狂うスケルツォと、まるでウィンナ・ワルツのように力を抜き、速いテンポで洒落た表現をするトリオ、いつも積極的に語りかけるフィナーレ。

興味深いのは、マーラーがしつこいくらい指定した弦のポルタメント奏法をほとんど無視していることで、これがワルター個人の趣味なのか、あるいはマーラー自身の演奏もこの程度のものだったのか、今の指揮者がやたらと感じてもいないポルタメントを多用するのを聴くにつけ、考えさせられる。

ワルターこそは、元祖マーラー指揮者とも言うべき人なのであるが、どうも最近のマーラー指揮者とは少し雰囲気が違っている。

基本的に複雑系であるはずのマーラーの複雑さをそのまま提示はしないで結構バッサリと整理しているのだ。

このNBC交響楽団とのライヴ録音もそうだし、有名な晩年のコロンビア交響楽団とのスタジオ録音でもそうだ。

おそらくワルターという人はTPOに合わせて演奏スタイルをガラリと変えられる指揮者だったのだ。

もう少し具体的にいうと、アメリカとヨーロッパで2つの顔を使い分けている。

アメリカでは男性的な引き締まった演奏をしているかと思えば、ヨーロッパでは別人かと思うほどのロマンティックな演奏を展開していた。

このような単純な図式化は誤解を招きそうだが、言いたいのは、ワルターの本質はそのような状況に合わせて自分のスタイルを変えることができる、それも(これが大切なのだが)、驚くほど高いレベルで変えることができるところにあると思う。

ここで聴くことのできるNBC交響楽団との演奏でも、これほどまでに濃厚に青春のメランコリーを感じさせてくれる演奏はなかなかなく、流石と言うしかない。

それからもう一つ強調しておきたいのは、NBC交響楽団の素晴らしさである。

弦楽器群の美しさはまさに全盛期のウィーン・フィルのようだ。

コロンビア交響楽団とのスタジオ録音は編成の小ささからくる響きの薄さが悔やまれるだけに、貴重なライヴ録音と言える。

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2014年04月13日


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演奏内容はあまりにも有名なので、ここではあまり触れないが、HMVへのSP録音で有名なワルター&ウィーン・フィルの1938年1月16日録音については、当時のレコーディング・マネージャーだったフレッド・ガイズベルグがライナーに1944年に「グラモフォン」誌に書いた当時の回想録がまず読み物として充分素晴らしい。

そして、何と言ってもオリジナルSPからのリマスターが素晴らしく、74年前の録音としては充分鑑賞に堪えうる音に仕上がり、聴き手は、ワルターの紡ぎ出す「音楽」に集中できる。

筆者は、フルトヴェングラーの歴史的復帰演奏会(1947年)の劣悪な音(従来盤)でも充分感動できるためか、世間一般の評判ほど音に不満を感じない。

そして、肝心の演奏であるが、第1楽章が24分47秒と現在の指揮者より若干速いテンポだが、速さを感じさせず、オケを充分歌わせている。

第4楽章も18分20秒と同様に速めであり、さすがにコーダの最弱音を聴くのはつらいが、表現内容は充分である。

全曲で70分13秒という速さは、ノイマンの指揮に似ているが、さすがに初演者であるワルターの思い入れに溢れた音楽の素晴らしさは唸らざるを得ない。

その急ぎ立てられるような演奏は、ナチの足音が近づいているという緊迫感があったからに違いない。

マーラーの交響曲第9番を語る時には、外せない1枚である。

ただし、HMVの親元EMIのCDは音質が悪いので、もし、そちらを既に聴いていて「音がどうも…」という人は、当盤を聴いてみていただきたい。

DUTTONらしく実に耳あたりのいい音で、ほんのりとステレオ感があり、ちょっと人工的であるが、ホールの後部席で聴いているような臨場感まで感じられる。

初めて聴く人にとっては、手元にある英EMIのLP復刻盤や東芝CD(初期盤)よりも、はるかに入り込みやすい音に仕上がっている。

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1950年8月24日 ザルツブルク、旧祝祭劇場に於けるモノラル・ライヴ録音。

「大地の歌」と第9交響曲の初演を務め、キャリアの初期よりマーラーの直弟子として作曲者と特別ゆかりの深かったことで知られるワルターであるが、ザルツブルク音楽祭も初めの40年間は、マーラーといえばほとんどワルターの独壇場であった。

ワルターによるマーラーの第4交響曲は現状での録音点数も13種を数えるが、1950年のウィーン・フィルとのライヴ演奏は、かねてより有名な内容でようやく正規音源よる初CD化となる。

その13種類全てを聴いたわけではないが、私見では、1955年11月のウィーンでのライヴ録音が出現するまではワルターによるマーラーの第4交響曲の王座にあったCDである。

第1回目のニューヨーク・フィルとのスタジオ録音以来、ワルターのこの曲に対する解釈は何よりもリリシズムを大切にしたものであり、その分メリハリの面白さや華やかな色彩美に欠け、のっぺりとした印象を与えがちであった。

ところが、このウィーン・フィル盤は彫りの深い各楽器の生かし方によって、第1楽章ではメルヘンの世界に遊ばせてくれるし、第2楽章は特に味が濃く、鋭い音彩やアクセントが作曲当時の前衛そのものだ。

第3楽章も息の長い主題を深く呼吸させながら歌ってゆくワルターの独壇場と言えよう。

ただしフィナーレだけはいつもの素朴さで一貫する。

他に2種あるウィーン・フィルとの第4交響曲ライヴも、1955年のギューデン、1960年のシュヴァルツコップと、それぞれソリストの個性が花を添えているが、やはりここではザルツブルク音楽祭の常連だったゼーフリートが凛とした佇まいで格別の魅力がある。

仏ターラ社の優れたリマスタリング技術によって復刻された録音だけに、各楽器の音質やその分離が非常に鮮明で、やや歪みがあるものの、当時のレコーディングの水準を大きく超えている。

ワルター&ウィーン・フィルの名演をこのような比較的良好な音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2014年04月10日


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ここ数年のインバルの新譜はいずれも素晴らしい。

指揮者がかつてと比較して小粒になったと言われる現代において、なお巨匠指揮者時代の残滓を感じさせるだけの存在感を有していると言えるところであるが、それはインバルのここ数年の偉大なる新譜によるところが大きいと思われるところだ。

インバルの名声を確固たるものとしたのは、かつての手兵であるフランクフルト放送交響楽団とともにスタジオ録音したマーラーの交響曲全集(1985年〜1988年)であるというのは論を待たないところだ。

この全集は、現在でもなお、録音から20年以上が経過した今日においても、あまたのマーラーの交響曲全集の中でも上位を占める素晴らしい名全集であるが、インバルは、数年前より、東京都交響楽団とチェコ・フィルを起用して、新しいマーラーの交響曲チクルスを開始している。

既に、チェコ・フィルと第1番、第5番、第7番、東京都交響楽団と第2番、第3番、第4番、第8番を録音しており、「大地の歌」は第8弾ということになる(フォンテックレーベルにも第6番を録音していることから、再録音するかどうかは予断を許さないが、それを加えると第9弾ということになる。フォンテックレーベルには、他に第5番を録音している)。

インバルは、前述の全集において「大地の歌」をスタジオ録音(1988年)していることから、今般の演奏は24年ぶりの録音ということになる。

前回の演奏もインバルの名声をいささかも傷つけることのない名演であったが、今般の演奏は、それをはるかに凌駕する圧倒的な超名演であると言えるのではないだろうか。

かつてのインバルによるマーラーへの交響曲演奏の際のアプローチは、マーラーへの人一倍の深い愛着に去来する内なるパッションを抑制して、可能な限り踏み外しがないように精緻な演奏を心掛けていたように思われる。

1988年録音の「大地の歌」についても例外ではなく、全体の造型は堅固ではあり、内容も濃密で立派な名演奏ではあるが、今一つの踏み外しというか、胸襟を開いた思い切った表現が欲しいと思われることも否めない事実である。

ところが、本演奏においては、かつての自己抑制的なインバルはどこにも存在していない。

インバルは、内なるパッションをすべて曝け出し、どこをとっても気迫と情熱、そして心を込め抜いた濃密な表現を施しているのが素晴らしい。

それでいて、インバルならではの造型の構築力は相変わらずであり、どんなに劇的かつロマンティックな表現を行っても、全体の造型がいささかも弛緩することがなく、骨太の音楽作りが行われているというのは、さすがの至芸と言うべきであろう。

いずれにしても、テンポの効果的な振幅を大胆に駆使した本演奏のような密度の濃い表現を行うようになったインバルによる超名演を聴いていると、バーンスタインやテンシュテット、ベルティーニなどの累代のマーラー指揮者が鬼籍に入った今日においては、インバルこそは、現代における最高のマーラー指揮者であるとの確信を抱かずにはいられないところだ。

メゾ・ソプラノのイリス・フェルミリオン、そして、テノールのロバート・ギャンビル、そして東京都交響楽団も、インバルの確かな統率の下、最高のパフォーマンスを発揮していると高く評価したい。

音質は、SACDによる極上の超高音質録音であり、本盤の価値を高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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2014年04月06日


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1950年6月19日、ウィーン・ムジークフェラインザール大ホールでのライヴ(モノラル)録音。

一度廃盤になったが、今般再登場したディスク。

超個性的な解釈で注目を集める往年の巨匠ヘルマン・シェルヘン。

その個性が最大限に発揮されているのがこのマーラー「第9」。

これはまことに熱烈なマーラー讃歌だ。

弦楽器はウィーン情緒満点のポルタメントを多用してぶんぶん歌うし、テンポの揺れもすごい。

第2楽章のレントラーも性格がはっきりしていて楽しい。

そしてこれがだんだんと狂気を帯びてくるところがすごい。

第3楽章もマーラーの精神の危機を感じさせてくれるし、終楽章アダージョの心の歌は、劣悪な音質を補って余りある。

驚くことに全曲で70分以下という史上最短の超ハイスピードな演奏になっているが、終楽章はこれだけ速いと、死が一刻と近づいてくる絶望的な恐怖心を感じてくる。

楽譜の変更やカット、意表をつく解釈の連続が、かえってマーラーの狂気をきわ立たせる。

所々オケがついていけてないものの、それがシェルヘンのライヴらしさになっているし、カットしまくり唸りまくりのマーラー「第5」の仰天ライヴ録音と比べたら、珍盤というほどでもない。

それどころか、一聴に値する記念碑的なマーラー演奏である。

シェルヘンの同曲録音はこれがスタジオ、ライヴ含め唯一の音源なので、貴重である。

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確かこれが初登場のライヴ録音。

シェルヘンはユネスコの後援で1954年にスイスのグラヴェサーノに、電子音楽を含む現代音楽の実験工房を開設したことで有名だが、指揮者としても数多い録音を遺しており、マーラーだけでなく、バッハやヘンデル、ベートーヴェンなどその分野は幅広かった。

演奏は葬送行進曲風の荘重な出だしから、鋭いミニアチュール風の彫りの細かさと剛直な力感で展開する。

第1楽章と第5楽章は、明確で力強い演奏を行っており、ウィーン交響楽団の音色は金管楽器や木管ではオーボエを中心に総じて魅力的だ。

第5楽章、マーラーと同じ時代を生きたクレンペラーは、第5楽章を相当遅く演奏する。

なんと約24分! このシェルへン盤は18分、クレンペラーの3/4の時間で演奏する。

クレンペラーは、テンポを遅くした分、巧みに細かい木管楽器/弦楽器の動きを明瞭に浮かび上がらせている。

しかし、これが「アレグロ、普通の弾き方で」なのかは甚だ疑問で、その点ではシェルへンのテンポの方が妥当といえるかもしれない。

第2楽章と第4楽章の2つの「夜の歌」は、オーケストラの特徴がここでもプラスに働き、純朴であり、そしてリリックだ。

第3楽章のスケルツォは、今日のシカゴ交響楽団やベルリン・フィルのような正確無比とはいかないが、ドイツ/オーストリア系の伝統的なオーケストラは、こうした3拍子の音楽で妙技を披露するのだ。

残念なのはオケの響きが薄手なことだが、風格ある演奏だ。

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2014年04月05日


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マーラー録音創世記の名盤!

あたかもライヴのような、流れを重視した現代ではあり得ないテイク。

シェルへンのこの録音のマーラーは、ウィーンの国立歌劇場のオケを採用しており、言うまでも無くかつてマーラーと関係の深かったオケの後継者達によるものなのだ。

前述したクレンペラー盤とともに、「第7」の最高を分け合うもうひとつの峰である。

全曲を貫く集中力とエネルギー、それでいて、ただの熱血漢の演奏ではなく、きわめて理知的なスコアの読みと合理的な音楽運びが光る。

シェルヘンは、この斬新な作品を1911年にオスカー・フリート指揮(ベルリン初演)で聴いた初々しい感動を忘れていないのだ。

まるで少年のようなひたむきさと、大人の知恵の両刀で、この巨大な作品に立ち向かっている。

長年行方不明だったこの演奏のマスターテープが発見され、優秀な国内盤CDで復刻されたとき、『レコード芸術』の批評に、「音が古くて、細部が判別できない」旨が書かれていた(残念ながら評者名は不明)が、いったいどんな装置で聴いたのだろう。

「モノーラル=古い=音が悪い」という固定観念をお持ちの気の毒な評者と思われる。

1950年代には、モノーラル録音技術がかなり完成されていたことも知らないのであろう。

また、この大曲をこれだけのクオリティで録音した偉大な先人たちへの敬意のかけらも見られないとは、想像力の欠如も甚だしい。

とりわけ当盤は、エンジニアの夏目久生氏とディレクターが拘りを持って製作した、入魂のデジタル時代のアナログ・ルネッサンスソフトによるもので、聴き慣れたはずの名盤がヴィヴィッドに蘇ったことを大いに喜びたい。

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20世紀を代表する巨匠指揮者ゲオルグ・ショルティの生誕100周年(2012年時)記念盤。

全編に厭世的な気分が流れ諦観や死の予感も漂うために「告別の歌」とも称される、マーラーが完成した最後の交響曲である第9番を収録。

当盤はショルティ第1回目(1967年)のロンドン交響楽団との演奏を録音したディスク。

空前絶後の激しいマーラー「第9」で、ショルティの最高の遺産の一つではないだろうか。

マーラーは基本的に非西欧的要素が無視できない、東欧の音楽ではないかとも思うのだが、ショルティにとってはバルトークと同じく血が近いのであろうか。

決して情感や思い入れを強調する型の演奏ではないけれど、マーラー独特のリズム、フレーズ、突発的な場面転換など、演奏者が真にマーラーに共感できてなければできない、きめ細かな表現で細部が埋められている。

マーラーを特に好きでもない指揮者の演奏では、第4楽章へのただの橋渡しにしか聴こえない中間楽章が、ここまで素晴らしい音楽になっているのは、ショルティのマーラーへの共感の証明であろう。

第4楽章も気品に溢れた素晴らしい音楽で、ショルティの世代のマーラー「第9」としては最上の演奏だと思う。

この時代(1960年代)にここまでマーラーのスコアに斬り込めたのはショルティだけだろう。

以前から思っていたが、ショルティは全て旧録音の方が面白く、マーラー然り、オケコン然りである。

ショルティはやはりオーケストラビルダーの第一人者であり、彼の振るオケはいずれも巧く、このロンドン交響楽団も実に巧い。

多数のマーラー「第9」のディスクが存在する現在ではコレクター向けかもしれないが、時代を考えると凄いものがある。

同じく名盤でほぼ同じ時期の録音のバルビローリ盤(EMI)と一緒に聴き比べてみると、いっそう面白いのではないだろうか。

音質は、1967年のスタジオ録音であるが、英デッカによる超優秀録音であること、そして、今般、ルビジウム・クロック・カッティングがなされたことにより、十分に満足できるものとなっている点についても付記しておきたい。

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20世紀を代表する巨匠指揮者ゲオルグ・ショルティの生誕100周年(2012年時)記念盤。

マーラーの交響曲第3番は自然をテーマにした交響曲で、全体を通じてまだ生命のない時代から動植物や人間の誕生を経て、天上の世界に至る発展の過程を段階的に表現している。

作曲当時、毎年夏に静養に訪れていたシュタインバッハの自然が霊感を与えたと言われている。

当盤はショルティ第1回目(1968年)のロンドン交響楽団との演奏を録音したディスク。

ショルティはロンドン交響楽団から鮮やかに冴え渡った響きを導き出して、流動性に富んだ劇的な表現でこの大作を巧みに再現している。

いかにもショルティらしい精緻な表現で、きちっとまとめあげているが、そのなかにも、楽曲のこまやかなニュアンスを巧みに表出している。

ショルティは後年シカゴ交響楽団とも収録しているが、やはり若き日(1960年代)のデッカでの録音がある意味面白く聴けるものだ。

このマーラー交響曲第3番はロンドン響を幾分か強引に鳴らせているが、メリハリを効かせた中に歌わせるところは歌わせ、ロンドン響もよく彼の意図についていっている。

元々ロンドン響は比較的融通性のあるオーケストラで、その辺りの能力は優れたものがあるが、ショルテイの狙ったアゴーギグもきっちり再現して一応の効果を上げてはいるようである。

テンポはやや速いと感じたがトータルでは標準時間で収まっている。

ヘレン・ワッツのアルト独唱をはじめ、声楽陣も万全の歌唱を聴かせている。

ロンドン響との「第1」「第2」「第3」「第9」、コンセルトヘボウ管との「第4」の録音がいずれも完成度が高かったためか、かつてショルティがシカゴ響と全集を再録音する話の時「ショルティが断った」という記事が思い出される。

音質は、1968年のスタジオ録音であるが、英デッカによる超優秀録音であること、そして、今般、ルビジウム・クロック・カッティングがなされたことにより、十分に満足できるものとなっている点についても付記しておきたい。

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2014年04月02日


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アバドによるマーラーの交響曲第9番と言えば、いの一番に1999年にベルリン・フィルとライヴ録音した超名演が思い浮かぶ。

アバドは、この演奏のあと大病を患うのであるが、当該演奏には死を予見したかのような凄みがあり、それまでのアバドによる様々な演奏とは一線を画するような至高の高みに達した超名演であった。

同曲の本質は、死への恐怖と闘い、そしてそれと対置する生への妄執や憧憬であると言えるが、アバドは、自らが死と隣り合わせになるという絶望的な境遇に陥ったことによって初めて、その音化に見事に成功したと言えるだろう。

ところが、当該演奏の約12年前の本盤に収められた演奏はどうであろうか。

様々な意見もあろうかとも思うが、筆者としては、聴き手の心の琴線に訴えかけてくるものが今一歩弱いと言わざるを得ないのではないかと考えている。

確かに、美しい演奏ではある。

本演奏において、ウィーン・フィルを起用したのも功を奏しており、このオーケストラの美音が演奏全体に独特の魅力を付加しているというのも否定し得ない事実ではある。

しかしながら、その美しさというのも、例えば、カラヤンのように、余人には及び難い絶対美の世界を構築し得る(1982年盤)のであれば、一つの方向性として説得力があるのだが、本演奏の場合は、美しさのレベルにおいてもとてもカラヤンの域に達しているとは言い難い。

また、第1楽章の死への恐怖と闘いについても、前述のアバドによるベルリン・フィル盤のような凄みには到底及んではおらず、いささか中途半端との誹りは免れないのではないかと考えられる。

もっとも、随所に聴かれる歌謡性の豊かな表現には汲めども尽きぬ情感が満ち満ちており、その歌心溢れる柔和な美しさには魅力があると言えるところである。

その意味では魅力的な箇所にも事欠かないとも言えるのかもしれない。

第10番については、この後の録音がなされていないことから本演奏が現時点でのアバドによる最新の演奏ということになるが、その演奏内容の評価については第9番と同様のことが言えるのではないか。

美しくはあるが、かと言って他の演奏を圧するような絶対美の世界を構築し得ているわけではない。

楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような凄みはないが、他方、歌謡性豊かな情感には満ち溢れており、その意味では魅力的な箇所も多々存在している。

いずれにしても、第9番、第10番ともに、踏み込み不足の誹りは免れないと言えるが、他方、魅力的な箇所も散見されるところであり、ウィーン・フィルによる美演も相俟って、総体として佳演との評価をするのにいささかの躊躇もするものではない。

なお、初出の時もそうであったが、アバドは、両曲をCD化するに際して、第10番を冒頭に配してその後に第9番をカップリングするという楽曲の配列にしているが、これは何か意味があるのであろうか。

少なくとも、第10番の内容に鑑みれば、第9番の終楽章の次に配するのが至当であると考えるのだが、少なくともアバドによる本演奏を聴いても、かかる特異な配置の説得力を勝ち取るだけの根拠を見出すのは困難であると言わざるを得ない。

録音は、従来盤でも比較的満足できる音質ではあったものの、今般、SHM−CD化による高音質化が図られたというのは大いに歓迎したい。

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2014年03月30日


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ブルーノ・ワルター最盛期の名演を、仏ターラ社の優れたリマスタリング技術によって復刻。

本作は正規盤初出のため音質が鮮明で、気力充実したワルターの指揮ぶりを堪能できる1枚。

最近では、ワルターのステレオ録音は彼本来の持ち味がかなり失われているという意見が広まっているようである。

豊麗にして端正闊達でありながら熱いエネルギーがあるというワルターならではの不思議な音楽の魅力は、ニューヨーク時代の演奏、とりわけライヴ録音に顕著に出ているのであるが、海賊盤はほとんどが音が悪くてあまり顧みられることはなかった。

この1953年のライヴは音も鮮明で、ワルターの深い音楽性がほぼ完全な形でとらえられた優秀な音質によって、地鳴りのするような迫力に満ち、気力充実したワルターの魅力を満喫できる。

「ハフナー」は、宇野功芳氏も「翌日のスタジオ録音よりもさらに凄まじい。テンポの変動、ホルンの最強奏、これこそアンチ・ロココのモーツァルトだ」と絶賛しているし、ライヴならではの気迫がみなぎるワルターの指揮は圧倒的だ。

マーラーの第4番も、少々のっぺりしたスタジオ録音とは大違いで、これは思っていたのと全然違う、音に生気と喜びが満ち溢れ、天上の音楽を何とも愛おしく聴かせてくれる。

深くまろやかでコクがあり、甘美で高雅な薫りが溢れ、しかも痛ましいほどの狂気が垣間見える。

ワルターの振るマーラーの「第4」といえば、他に1945年のニューヨーク・フィル盤や1960年のウィーン・フィル(告別コンサート)盤などが有名であるが、それらと比較してもこの1953年のニューヨーク・フィル盤が一歩秀でている。

とにかくニューヨーク・フィルの音に厚みがあり、血が通った演奏である。

ゼーフリートの声も清らかな声も素晴らしく、これぞ官能の極みと言えよう。

「ハフナー」はまさに沸騰するかのような活力が、マーラーでは耽美的な朗々たる歌が、それぞれ何と魅力的なことであろうか。

スコアの解析ばかりに執着して温もりのないマーラーや、ピリオド奏法そのものを売りにして中身の伴わないモーツァルトなど「真っ平御免!」という方は必聴。

まさに“本物の音楽”がここにあり、比較的良好な音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2014年03月29日


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ショルティは偉大なマーラー指揮者の一人であると考えているが、ショルティが録音したマーラーの交響曲の中で、4種類もの録音が遺されているのは、現時点では第1番しか存在していない。

これに次ぎ、3種類の録音が遺された第5番は、ラスト・レコーディングも同曲であったこともあり、ショルティにとって特別な曲であったことが理解できるが、第1番に対しても、ショルティは第5番に比肩するような愛着を有していたのでないかと考えられるところだ。

4種類の録音のうち、ケルン放送響とのモノラル録音(1957年)が最初で、本盤がそれに次ぐスタジオ録音(1964年)、そして同年のウィーン・フィルとのライヴ録音(オルフェオレーベル)、そしてシカゴ交響楽団とのスタジオ録音(1983年)がこれに続くことになる。

いずれ劣らぬ名演と思うが、シカゴ交響楽団との演奏は、1964年の2種の演奏とはかなり性格が異なっている。

ショルティの各楽曲に対するアプローチは、マーラーの交響曲だけにとどまらずすべての楽曲に共通しているが、切れ味鋭いリズム感とメリハリのある明瞭さであり、それによってスコアに記されたすべての音符を完璧に音化していくということが根底にあった。

かかるアプローチは終生変わることがなかったとも言えるが、1980年代以降になると、演奏に円熟の成せる業とも言うべき奥行きの深さ、懐の深さが付加され、大指揮者に相応しい風格が漂うことになったところだ。

したがって、1983年の演奏は、本演奏とはかなり様相が異なり、鋭角的な指揮振りは健在であるとは言うものの、聴き手を包み込んでいくような包容力、そして懐の深さのようなものが存在し、聴き手にあまり抵抗感を与えないような演奏に仕上がっていた。

シカゴ交響楽団の光彩陸離たる華麗な演奏ぶりが際立っていることから、このような演奏を内容空虚と批判する音楽評論家も多いようであるが、聴き終えた後の充足感が、例えばワルター&コロンビア交響楽団盤(1961年)やバーンスタイン&コンセルトへボウ管弦楽団盤(1987年)などの名演に必ずしも引けを取っているわけでもない。

これに対して、本演奏は第1楽章冒頭から終楽章の終結部に至るまで、ショルティの個性が全開。

アクセントは鋭く、ブラスセクションは無機的とも言えるほど徹底して鳴らし切るなど、楽想の描き方の明晰さ、切れ味の鋭いシャープさは圧巻の凄味を誇っている。

ショルティは、同年にウィーン・フィルとライヴ録音を行っており、演奏の性格は同様であるとも言えるが、オーケストラの安定性(ウィーン・フィルは、この当時、ショルティにかなりの嫌悪感を抱いていたと言われる)、オルフェオレーベルの今一つ低音が響いてこないもどかしさもあって、本演奏の方をより上位に置きたい。

いずれにしても、1983年の演奏に比して、あくまでも直球勝負の本演奏に抵抗感を覚える人も多いのではないかとも思われるが、筆者としては、マーラーの交響曲の演奏様式の一つとして十分存在意義のあるものと考えており、好き嫌いは別として、ショルティの個性が全開した名演と評価したい。

ロンドン交響楽団も、ショルティのメリハリのある指揮にしっかりと付いていき、持ち得る実力を発揮した見事な演奏を行っていると評価したい。

音質は、1964年のスタジオ録音であるが、英デッカによる超優秀録音であること、そして、今般、ルビジウム・クロック・カッティングがなされたことにより、十分に満足できるものとなっている点についても付記しておきたい。

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2014年03月26日


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20世紀最高のマーラー指揮者の一人であったサー・ゲオルグ・ショルティが、1992年に、マーラーゆかりのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団に客演した際のライヴ録音。

まず、かつてのシカゴ交響楽団を指揮してマーラーの交響曲全集を録音した頃のショルティの音楽とは一味違うことを最初に記しておく。

ライヴということで編成も小編成なのかもしれないし、あるいはオーケストラの特色もあるのかもしれないが、繊細で非常に丁寧である。

但し、マーラーの指示を細かく解釈するといった類の丁寧さではない。

歌唱もシカゴ盤に比較すると、内向的というか、しみじみと歌っているし、それに対する伴奏的な立場を堅持しているのかもしれない。

第1楽章、第5楽章などはパワフルではないが、特に老成した雰囲気でもなく、やや健康的にすぎるかもしれない。

それでも終楽章ではテンポをゆっくり取り、非常に儚げなタッチで不思議な浮遊感を保ちながら演奏していく、独特のメルヘンチックな音楽である。

コンセルトヘボウ管のアンサンブルはシカゴ響に優るとも劣らないのだが、ここまでショルティの自由にうねる表現に一糸乱れずついてきているのは大変であっただろう。

しかも、シカゴ響より温かみのあるコンセルトヘボウ管の弦楽器の音色は、まるでこちらまで涅槃の境地に連れて行かれそうになるくらい素晴らしい。

ショルティが一番最初にレコーディングしたという、1961年のコンセルトヘボウ管との交響曲第4番の第3楽章終結部もこんな音だったなぁと思い返した次第である。

音質も英デッカによる極めて優秀なものであり、ライヴ録音ではあるが、拍手や客席の音は特になく、演奏上の傷もない。

巨匠晩年の感動的な「大地の歌」であり、ショルティを食わず嫌いしている人は一度これを聴いてみてほしい。

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1957年6月17日に収録されたモノラル録音で、若き日のショルティが躍動感に溢れた熱い演奏を繰り広げている。

シカゴ交響楽団との新録音も素晴らしい演奏だが、この旧盤は率直なきびしい表現という意味では捨て難い。

ショルティが客観的で直截な音楽をつくっており、マーラーの作品の重量感が強調された演奏だ。

当時のショルティの棒には極めて率直な若々しさがあり、オーケストラを筋肉質と言えるほど引き締めている。

とにかく楽器を良く鳴らし、オーケストラのダイナミックレンジと機動力を最大限に活かしたような指揮は、(若き日の)ショルティの指揮スタイルのひとつであり、リズムの正確さ、鋭敏さも大きな特徴である。

後年の彼とは異なる新鮮な演奏と言うべきだろうが、そのため音そのものの力感とともに爽やかな抒情やほのかな甘さもある。

第1楽章から作品の劇性を直截的に表現し、とにかく凄いほどの力のこもった演奏で、今さらのようにショルティの統率力の見事さを感じさせる。

第2楽章のダイナミックな活気ある表現には力がみなぎっていて、こうした動きの強い部分にショルティの劇的な判断が生きることがよくわかる。

ショルティが力で押すだけの指揮者ではないことは、第3楽章の柔軟で清澄な表現が物語っているが、全体に誇張や作為がまったくない。

このマーラー若書きの作品をひたむきに演奏した迫力も凄いが、なかでも端正な表情のなかにあたたかい抒情が漂うのは聴き逃せない。

終楽章の高揚感も新盤と異なる説得力があって、激しい意志力に貫かれており、強固な表現は、きわめて劇性が強い。

新盤が発売された後もカタログに残るだけの価値のある演奏だろう。

モノラルながら音質も良好なので、いろいろな意味で(若き日の)ショルティを知ることのできる演奏だ。

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2014年03月25日


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これはいかにもショルティならではの強烈無比な演奏だ。

録音は1966年であり、かの歴史的な超名演であるワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」をウィーン・フィルとともにスタジオ録音している最中のもの。

かかる録音も終わりに近づいており、そうしたことに去来するであろう自らの指揮芸術に対する漲るような自信と誇りが演奏自体にもあらわれているかのようである。

ショルティの各楽曲に対するアプローチは、マーラーの交響曲だけにとどまらずすべての楽曲に共通しているが、切れ味鋭いリズム感とメリハリのある明瞭さであり、それによってスコアに記されたすべての音符を完璧に音化していくということが根底にあった。

かかるアプローチは終生変わることがなかったとも言えるが、1980年代以降になると、演奏に円熟の成せる業とも言うべき奥行きの深さ、懐の深さが付加され、大指揮者に相応しい風格が漂うことになったところだ。

したがって、ショルティは、マーラーの交響曲第2番を1980年になって、当時の手兵であるシカゴ交響楽団とともに再録音を行っているが、この1980年の演奏は、本演奏とはかなり様相が異なり、鋭角的な指揮振りは健在であるとは言うものの、聴き手を包み込んでいくような包容力、そして懐の深さのようなものが存在し、聴き手にあまり抵抗感を与えないような演奏に仕上がっていた。

シカゴ交響楽団の光彩陸離たる華麗な演奏ぶりが際立っていることから、このような演奏を内容空虚と批判する音楽評論家も多いようであるが、聴き終えた後の充足感が、例えばバーンスタイン&ニューヨーク・フィル盤(1987年)などの名演に必ずしも引けを取っているわけでもない。

これに対して、本演奏は第1楽章冒頭から終楽章の終結部に至るまで、ショルティの個性が全開。

アクセントは鋭く、ブラスセクションは無機的とも言えるほど徹底して鳴らし切るなど、楽想の描き方の明晰さ、切れ味の鋭いシャープさは、他の指揮者によるいかなる演奏よりも(ブーレーズの旧盤が匹敵する可能性あり)、そしてショルティ自身による1970年のマーラーの交響曲第5番の演奏にも比肩するような凄味を有していると言えるだろう。

したがって、1980年の演奏に抵抗を覚えなかった聴き手の中にさえ、このような血も涙もない演奏に抵抗感を覚える者も多いのではないかと思われるが、筆者としては、マーラーの交響曲の演奏様式の一つとして十分存在意義のあるものと考えており、好き嫌いは別として、ショルティの個性が全開した名演と評価したい。

ロンドン交響楽団も、ショルティのメリハリのある指揮にしっかりと付いていき、持ち得る実力を発揮した見事な演奏を行っているとともに、ソプラノのハーパーやアルトのワッツをはじめとした声楽陣も最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

音質は、1966年のスタジオ録音であるが、英デッカによる超優秀録音であること、そして、今般、ルビジウム・クロック・カッティングがなされたことにより、十分に満足できるものとなっている点についても付記しておきたい。

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classicalmusic

早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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