バーンスタイン

2017年02月12日


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バーンスタインのニューヨーク・フィル時代のハイドンがまとめられて格安で再発売された。

バーンスタインのハイドンのよさはもっと知られてよく、シンフォニックな厚みのある演奏は、いかにも巨匠風の大芸術だ。

バーンスタインのハイドンは、精緻なアンサンブルや古典主義的な美を求めるよりは、解放的な愉悦感で一貫している。

特に《時計》は作品とぎりぎりのところで、そのバランスが美しく保たれた演奏になっている。

カラヤン盤がオーケストラの威力によって聴かせるならば、この演奏は全体にみなぎる熱気が魅力である。

指揮台の上で飛び跳ねるというバーンスタインのエネルギッシュなスタイルは、なにも激しい曲ばかりではなく、このような作品にまでもあらわれている。

一糸乱れぬ完璧な合奏力でひきあげたカラヤン盤に対し、バーンスタインの表現は、もっと開放的である。

こうしたハイドンの演奏は、バーンスタインの独壇場と言えよう。

《驚愕》は1970年代のものにしては珍しく大編成によっているが、いかにもユーモリストのバーンスタインらしい、明るく健康的なウィットに富んだ演奏で、新鮮な味わいをもったすがすがしい表現だ。

爛僖僉Ε魯ぅ疋鶚瓩噺討个譴燭覆瓦笋なハイドンの音楽がそのままバーンスタインの人柄に乗り移ったように聴こえてきて、気持ちがよい。

《V字》では、子供らしい活気あふれる無邪気さと、慈父のようなあたたかみのある気配りの対話が生き生きと浮かび出て、ハイドンの本質にふれている。

第3楽章でのユーモア感はさまざまな表情を見せ、そのこまやかさとゆたかさは他に例を見ない。

終楽章は遊びまわる子供の疲れを知らぬ活気にあふれている。

人間に対する親愛感に満ちた演奏だ。

第102番では、オラトリオ《天地創造》に通ずる気宇壮大な世界が展開され、清新な空気を胸いっぱいに吸い、心が広々とし、この世に生きるよろこびが感じ取れる。

ミサ曲第9番《ネルソン・ミサ》では、バーンスタインの切れのよいリズムの中に刻まれるハイドンの抒情が、なんとも現代的である。

と同時にハイドンの本質である完成された古典主義の造型が、この特質を明らかにしていく快さも兼ねている。

独唱者ではソプラノのジュディス・ブレゲンが抜群で、テクニックといい音楽性といい、その仕上がりは他の3人を引きはなしている。

ミサ曲第12番《ハルモニー・ミサ》では、古典的均整に行儀よく収まらず、力と行動性を持ったこのバーンスタインのハイドンは、それ故に現代の生存不安に対するヒューマニスティックな訴えを前面に押し出し、作曲者の〈健康さ〉が、病に冒された現代の人々に確かな〈救い〉を与える。

オラトリオ《天地創造》にも真の人間讃歌がみなぎっていて、この上なく感動的で、オケもコーラスもこの熱に押しまくられ素晴らしい力感をみせる。

バーンスタインの古典は、一般に見逃されているようだが、彼のハイドンやモーツァルトは、構成のしっかりした実に立派なもので、ぜひ再認識してほしいと思う。

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2015年09月11日


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バーンスタインの最初で最後となったプッチーニのオペラ。

この録音が行われた当時(1987年)、バーンスタインはローマ聖チェチーリア音楽院の名誉院長の地位にあったが、同音楽院管弦楽団との録音はこれが初めてだった。

バーンスタインとプッチーニ、一見意外な組み合わせだが、《ボエーム》はバーンスタインが幼い時からこよなく愛したオペラだったという。

それだけに、ここではただならぬ思い入れゆえの灼熱の指揮ぶりが聴ける。

ドラマや音楽が高揚する部分での異常なスロー・テンポはどうだろう。

まるで音楽の陰に隠された秘密をのぞき込もうとするかのようだ。

オペラというよりも、声と管弦楽によるシンフォニーといった面白さがある。

語感ではなく音色によるバーンスタイン盤の不思議な魅力にも注目したい。

バーンスタインが狙った効果は青春群像の舞台上での再現であろう。

歌手はそれなりに好演しているが、個人的には青春群像を描くにはバーンスタインは歳をとりすぎたという印象がする。

《ウェストサイドストーリー》がヒットした頃の破天荒というか無鉄砲というか、快速に飛ばしまくる元気なバーンスタインの方が曲には合っているような気がする。

最後のシーンでロドルフォが嗚咽せず、静かに終わっていくのが、泣き叫ぶよりもむしろ深い悲しみを誘う感じがするのが印象的である。

異色のプッチーニとして注目したい。

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2015年08月09日


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アイザック・スターンをソロ・ヴァイオリンに迎えた20世紀の作曲家の作品3曲を収めたSACDで、総てバーンスタイン指揮、ニューヨーク・フィルハーモニックとの協演になる。

ベルクの『ヴァイオリン協奏曲』が1959年、バルトークの2曲、『ラプソディー第2番』が1962年、『ヴァイオリン協奏曲第2番』が1958年のそれぞれがセッション録音だ。

プラガは版権の切れた古い音源を続々とSACD化しているが、演奏の質はともかくとして音源自体が劣化している場合もあるので、その出来栄えとなると玉石混交だが、この3曲に関しては初期ステレオ録音であるにも拘らず、DSDリマスタリングの効果が発揮され、音場の広がりや高音の鮮明さも時代を超越した生々しい音響が再現された成功例と言えるだろう。

スターン、バーンスタインの両者も30代後半から40代前半の若々しい覇気に満ちた演奏が何よりも魅力で、彼らの新時代のクラシック音楽に賭けた情熱と意気込みが伝わってくる。

ベルクの『ヴァイオリン協奏曲』では、その精緻な作曲技法の理論は別にしても曲中に仄かな官能性が潜んでいる。

バーンスタインはそうした隠された官能美を意識的に引き出しているように思える。

第1楽章ではウィンナ・ワルツの断片さえ聞こえてくるが、それが如何にもバーンスタインらしく妖艶に響いてくるし、第2楽章のコラールも彼のフィルターを通すと全く斬新なエレメントとなって浮かび上がってくる。

そこにはバーンスタインの作曲家としてのベルクへの強い共感があるに違いない。

また張り詰めた緊張感の中で、あたかも走馬燈のように揺れ動くスターンのソロは、ベルクの鮮烈な回想を見事に音像化している。

この作品はアルマ・マーラーの娘マノンの夭折を追悼するために作曲されたが、奇しくもベルク自身の白鳥の歌になってしまったようだ。

バルトークの『ラプソディー第2番』ではスターンの大地から湧き上がるようなヴァイタリティーに漲るソロが、この曲のエスニカルなイメージを決定的にしているが、『ヴァイオリン協奏曲第2番』では、作曲家によってそうした原初的なパワーがより普遍化され、いわゆる民族主義から昇華された洗練の域に踏み込んでいる。

スターン自身もまた20世紀の作品を多く初演しているだけあって、時代の動向に敏感に反応しながらも独自の新しい演奏スタイルを追求していたことが理解できる。

最後にニューヨーク・フィルのアンサンブルの正確さとパワフルで完全燃焼しているサポートにも注目したい。

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2015年08月07日


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バーンスタインとウィーン・フィルの共同作業は、売り物のマーラーやベートーヴェンばかりでなく、ハイドンでも見事な成果を上げている。

バーンスタインのハイドンのよさはもっと知られてよい。

ハイドンというと、わが国ではあまり人気がないが、それは杓子定規の堅苦しい演奏が多いせいではないか。

しかし、バーンスタインのハイドンを聴いて、音楽の楽しさを感じない人はおそらくいないだろう。

まず音の響きが感覚的に洗練され、もうそれだけで聴き手の心を奪い、すぐれた作曲家でもあるバーンスタインらしく各部の構成が見事に分析・総合され、しかもそうした構造を描くだけでなく、旋律の流れが実に流麗である。

ここでも、バーンスタインは、ワルターのように、細やかな表情づけにこだわることなく、おおらかにあたたかく表現していて、魅了される。

いかにもユーモリストのバーンスタインらしい、明るく健康的なウィットにとんだ演奏で、新鮮な味わいをもったすがすがしい表現だ。

“パパ・ハイドン”と呼ばれたなごやかなハイドンの音楽が、そのままバーンスタインの人柄に乗り移ったように聴こえてきて、気持ちがよい。

ウィーン・フィルを起用したのも成功で、このオーケストラ独自の典雅な音色を駆使して、生き生きとした音楽を展開している。

しなやかな弦の歌、まろやかな管のアンサンブル、溌剌としたリズムの躍動感、そのいずれもがハイドンの純音楽的な美しさと魅力を際立たせる。

ウィーン・フィルというオーケストラのすばらしさを、これほどわからせてくれる演奏も少ない。

第88番「V字」は立体感に富む弦と管のバランスが実に自然で、それが、ウィーン・フィル特有のいぶし銀の響きとバーンスタイン特有の生命力を端的にあらわしている。

精密さを求めるより、楽しさに重点をおくバーンスタインが、ニューヨーク・フィル時代には成し得なかったオーケストラとの阿吽(あうん)の呼吸を実現し、メヌエット楽章のスフォルツァンドや強弱の対照を面白く聴かせてくれる。

第92番「オックスフォード」もそうだが、ウィーン・フィルの美しい響きをいかしながら、バーンスタインは、ハイドンの音楽のもつ明るく、楽天的な味わいをうまく表現している。

その一方で、底抜けの明るさの中にも時としてかげりが生じ悲しみがよぎるのを豊かな感情をこめて演奏している。

バーンスタインの表現はウィーン・フィルの芳醇な音色をいかしながら溌剌とした自然な歌に満ち溢れて、ハイドンの最もハイドンらしい面を聴かせる。

第94番「驚愕」は、音そのものが形容を絶する美しさで、プルトを減らしたためか透明度も高く、素晴らしく魅惑的な演奏だ。

その豊麗な響きと流麗さは、他のオーケストラからは求められないものだ。

もちろんバーンスタインの表現も音楽に共感した演奏にのみあらわされるような生命力があり、各部がくっきりと表出されていて、ハイドンの真髄が端的に伝わってくる。

第2楽章の驚かしばかりではなく、全曲のあちこちにハイドンらしい機知やウィットがちりばめられ、ライヴの熱気と高揚と力の爆発が加わって、まさに鬼に金棒。

まさにハイドンの豊かな生命力の理想の表現であり、これほど溌剌として率直、歌にみちた古典の演奏は滅多に聴くことができない。

晩年のバーンスタインは、音楽の奥行きをより深めていったけれど、同時にウィーン・フィルを振ると、決まってこのオーケストラの個性を最大限に発揮させていた。

この演奏もそのひとつで、濃厚な隈取りのなかに、優美でしなやかな感性がうまくいかされている。

筆者はハイドンのような音楽が認められないのは、つねづね音楽受容の後進性を表わしているのではないかと考えているが、このような演奏を聴けばハイドンの熱烈な愛好家が激増することになろう。

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2015年05月17日


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これはどうしようもない演奏だ。

一時はカラヤンと覇を争うほどの大指揮者であったバーンスタインが、何故にこのような駄演を行ったのか理解に苦しむところだ。

第2番の第1楽章はそれでもまだましと言える。

大仰で濃厚の極みとも言うべき音楽は、シベリウスの音楽というよりはマーラーの音楽を鑑賞しているような錯覚を起こさせるが、テンポなども含めとりあえずは常識の範囲内におさまっており、少なくとも凡演のレベルには達していると言える。

ところが第2楽章。

バーンスタインは何を勘違いしたのであろうか。

にわかには信じ難いような超スローテンポで曲想を進めていくが、ここまでいくともはや音楽ではなく単なる音の羅列ではあるまいか。

バーンスタインが、このような音の羅列で何を表現したかったのかは不明であるが、少なくともこの楽章に関しては、よほどのバーンスタインの熱狂的なファンでないと、全体を聴き通すことすら苦痛であると言えるだろう。

第3楽章は、本演奏の中ではもっともまともな演奏と言える。

中間部の粘ったような音楽はいかにも晩年のバーンスタインであり、その濃厚な体臭に辟易としないでもないが、少なくとも第2楽章の音の羅列を聴いた後では一服の清涼剤のように感じる聴き手は筆者だけではあるまい。

そして終楽章であるが、思わず耳を覆いたくなる。

シベリウスが作曲した旋律の中でも特に勇壮で美しい名旋律を、バーンスタインはテューバを最強奏させることによって品の悪い騒音に変容させてしまった。

このような演奏を聴いていると、聴いていて恥じらいさえ覚えるほどであり、晩年のバーンスタインはあらゆる楽曲をマーラーの音楽であると思っていたのではないかと勘繰りたくもなる。

いずれにしても、本演奏は同曲演奏史上でも最悪の駄演であり、熱狂的なバーンスタインのファンだけに存在意義がある演奏と言えるだろう。

バーンスタインは、1960年代にもニューヨーク・フィルを指揮して同曲を録音しており、それはヤンキー気質丸出しの外面的な演奏とは言えるが、本演奏よりはよほど優れているのではないかと考えられるところだ。

併録の第7番も、晩年のバーンスタインならではの大仰にして濃厚な演奏であり、筆者としても到底容認し難い凡演であると言えるが、第2番ほどのデフォルメはなされておらず、駄演とまでは言えないのではないかと考える。

もっとも、ユニバーサルはベスト100のCDを選定するに際して、何故に本盤を選定したのであろうか。

シベリウスの管弦楽曲集においてヤルヴィ盤(オーケストラはエーテボリ交響楽団)を選んだのであれば、交響曲第2番&第7番においても同様にヤルヴィ盤を選定すべきである。

このような駄演をベスト100に選定したユニバーサルに対して、この場を借りて猛省を促しておきたい。

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2015年05月15日


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途轍もない超名演だ。

このような超名演が発掘されたことは、クラシック音楽ファンにとっては何よりの大朗報であり、本盤の発売を行うに際して努力をされたすべての関係者に対して、この場を借りて心より感謝の意を表したい。

バーンスタインは、ワルターやクレンペラーといったマーラーの直弟子ではないが、おそらくは今後とも不世出であろう史上最高のマーラー指揮者。

何よりも、DVD作品を含めると3度にわたってマーラーの交響曲全集を録音(最後の全集については、交響曲「大地の歌」や交響曲第8番及び第10番の新録音を果たすことが出来なかったことに留意しておく必要がある)したことがそれを物語っており、いずれの演奏も他の指揮者の演奏を遥かに凌駕する圧倒的な超名演に仕上がっているとさえ言える。

バーンスタインは、そうしたマーラーの数ある交響曲の中で最も愛していたのは、マーラーの交響曲中で最高傑作の呼び声の高い第9番であったことは論を待たないところだ。

バーンスタインは、本盤が登場するまでの間は、同曲について、DVD作品を含め4種類の録音を遺している。

最初の録音は、ニューヨーク・フィルとのスタジオ録音(1965年)、2度目の録音は、ウィーン・フィルとのDVD作品(1971年)、そして3度目の録音は、ベルリン・フィルとの一期一会の演奏となったライヴ録音(1979年)、そして4度目の録音は、コンセルトヘボウ・アムステルダムとのライヴ録音(1985年)である。

本盤の演奏は、コンセルトヘボウ・アムステルダムとの演奏が1985年5〜6月のものであることから、その約2か月後の1985年8月のものであり、現時点では、バーンスタインによる同曲の最後の演奏ということになる。

9月には、同じくイスラエル・フィルと来日して、今や我が国では伝説的となった同曲の至高の超名演を成し遂げるのであるが、当該来日公演のCD化がなされていない現段階のおいては、本盤の演奏こそは、バーンスタインの同曲演奏の究極の到達点と言っても過言ではあるまい。

本盤の演奏は、壮絶な迫力(例えば、第3楽章終結部の猛烈なアッチェレランド、終楽章の濃厚かつ情感豊かな味わい深さなど)を誇っているとさえ言えるだろう。

これは、イスラエル・フィルという、同じユダヤ人としてのマーラーへの深い共感度を誇ったオーケストラを起用したこと、そして、録音を意識しないで演奏を行っていたであろうことに起因するオーケストラの渾身の熱演ぶりにあると言えるのではないだろうか。

おそらくは、同曲の最高の演奏という次元を超えて、これほどまでに心を揺さぶられる演奏というのはあらゆる楽曲の演奏において稀であるとさえ言えるところであり、まさに筆舌にはもはや尽くし難い、超名演の前に超をいくつ付けても足りないような究極の超名演と高く評価したい。

音質も非常に優れたものと言えるところであり、コンセルトヘボウ・アムステルダムとの演奏が今一つの音質であっただけに、大きなアドバンテージとも言えるだろう。

これだけの超名演だけに、可能であれば、SACD盤で発売して欲しかったと思う聴き手は筆者だけではあるまい。

それにしても、本演奏がこれだけ素晴らしいだけに、どうしても更なる欲が出てくる。

あの伝説的な来日公演をCD化することはできないのであろうか。

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2015年05月11日


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レナード・バーンスタインは、その晩年にウィーン・フィルとともにモーツァルトの主要な交響曲集のライヴ録音を行ったところであり、本盤に収められた交響曲第25番及び第29番はその抜粋である。

バーンスタインは、かつてニューヨーク・フィルの音楽監督の時代には、いかにもヤンキー気質の爽快な演奏の数々を成し遂げていたが、ヨーロッパに拠点を移した後、とりわけ1980年代に入ってからは、テンポは異常に遅くなるとともに、濃厚でなおかつ大仰な演奏をするようになった。

このような芸風に何故に変貌したのかはよくわからないところであるが、かかる芸風に適合する楽曲とそうでない楽曲があり、途轍もない名演を成し遂げるかと思えば、とても一流指揮者による演奏とは思えないような凡演も数多く生み出されることになってしまったところだ。

具体的には、マーラーの交響曲・歌曲やシューマンの交響曲・協奏曲などにおいては比類のない名演を成し遂げる反面、その他の作曲家による楽曲については、疑問符を付けざるを得ないような演奏もかなり行われていたように思われる。

本盤の演奏においても、ゆったりとしたテンポによる熱き情感に満ち溢れた濃厚さは健在であり、例えば、これらの楽曲におけるワルターやベームの名演などと比較すると、いささか表情過多に過ぎるとも言えるところだ。

もっとも、オーケストラがウィーン・フィルであることが、前述のような大仰な演奏に陥ることを救っていると言えるところであり、いささか濃厚に過ぎるとも言えるバーンスタインによる本演奏に、適度の潤いと奥行きを与えている点を忘れてはならない。

バーンスタインがこのウィーン・フィルを指揮した演奏は、オーケストラを巧みにドライヴした熱気と力強さにあふれている。

楽員の自発性が尊重された演奏であり、バーンスタインの指揮の下、ウィーン・フィルはその真髄を完全に体現している。

第25番は洗練された美の極致とも言える鮮麗なサウンドで、聴き手を魅了してやまない。

第29番も極めて音楽的に絶妙な表現で、造形も端正そのものだし、木管の自発的で豊かな表現力にはもはや形容する言葉もない。

近年のモーツァルトの交響曲演奏においては、古楽器奏法やピリオド楽器を使用した小編成のオーケストラによる演奏が主流となりつつある。

そうした軽妙浮薄な演奏に辟易としている中で本演奏を聴くと、本演奏には血の通った温かい人間味を感じることが可能であり、あたかも故郷に帰省した時のように安定した気持ちになる聴き手は筆者だけではあるまい。

バーンスタインのシンフォニックな厚みのある演奏は、いかにも巨匠風のスケールの大きな大芸術だ。

稀代の指揮者バーンスタインの名盤というと、おそらく、誰もが真っ先に思い浮かべるのはマーラーの交響曲の熱演だろう。

確かにあれは圧倒的な出来映えなのだけれど、このモーツァルトの交響曲もまた、それに劣らぬ歴史的名演ではないかと筆者は考えている。

バーンスタインの古典は、一般に見逃されているようだが、彼のハイドンやモーツァルトは、構成のしっかりした実に立派なもので、ぜひ再認識してほしいと思う。

いずれにしても、本演奏は、近年の血の通っていない浅薄な演奏が目白押しの中にあってその存在意義は極めて大きいものであり、モーツァルトの交響曲の真の魅力を心行くまで堪能させてくれる人間味に溢れた素晴らしい名演と高く評価したい。

クラリネット協奏曲も秀演で、シュミードルの独奏は甘く美しく、まさにウィーン独自の音と音楽であり、ここではバーンスタインもサポートに回って、豊麗なバックグラウンドをシュミードルに提供している。

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2015年05月02日


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バーンタインの演奏するマーラーは、「人類の遺産」と称しても過言ではなく、バーンスタインこそが史上最大のマーラー指揮者であることは論を待たないところだ。

バーンスタインは、本DVD作品を含めて3度にわたってマーラーの交響曲全集を録音した唯一の指揮者でもあるが(最後の全集は残念ながら一部未完成)、そのいずれもが数多くのマーラーの交響曲全集が存在している現在においてもなお、その輝きを失っていないと言えるだろう。

本盤に収められたマーラーの交響曲全集は、バーンスタインによる2度目のものに相当する。

収録は1970年代に行われており、オーケストラは、ウィーン・フィルの起用を軸としつつも第2番においてロンドン交響楽団、「大地の歌」においてイスラエル・フィルを起用している。

各オーケストラの使い分けも実に考え抜かれた最善の選択がなされていると評価したい。

このようなオーケストラの起用の仕方は、最初の全集が当時音楽監督をつとめていたニューヨーク・フィルを軸として、第8番はロンドン交響楽団が起用したこと、3度目の全集においては、ウィーン・フィル、コンセルトへボウ・アムステルダム、そしてニューヨーク・フィルの3つのオーケストラを起用したこととも共通している。

バーンスタインのマーラー演奏はいずれも極めてドラマティックなものだ。

バーンスタインは、かつてニューヨーク・フィルの音楽監督の時代には、いかにもヤンキー気質の爽快な演奏の数々を成し遂げていたが、ヨーロッパに拠点を移した後、ウィーン・フィル等を叱咤激励してマーラーの音楽を懸命になって啓蒙していたところだ。

変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、そして猛烈なアッチェレランドを駆使するなど、その劇的な表現は圧倒的な迫力を誇っており、聴いていて手に汗を握るような興奮を味わわせてくれると言えるだろう。

こうしたバーンスタインのマーラー演奏のスタイルは最晩年になってもいささかも変わることがなかったが、晩年の3度目の全集では、より一層表現に濃厚さとスケールの大きさ、そして楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような奥行きの深さが加わり、他の指揮者による演奏を寄せ付けないような至高の高みに達した超名演に仕上がっていたと言える。

本盤に収められた演奏は、50代の壮年期のバーンスタインによるものであるだけに、3度目の全集のような至高の高みには達してはいないが、前述のようなドラマティックな表現は健在であり、とりわけトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫や強靭な迫力においては、1度目や3度目の全集をも凌駕しているとさえ言えるだろう。

ストレートで若干荒削りな演奏と言えなくもないが、スコアに記された音符の表層をなぞっただけの洗練された美を誇る演奏などに比べれば、よほど本演奏の方がマーラーの本質を捉えていると言えるとともに、我々聴き手に深い感動を与えてくれると言えるだろう。

マーラーの交響曲のテーマは、楽曲によって一部に例外はあるものの、基本的には死への恐怖と闘い、そしてそれと対置する生への妄執と憧憬であると考えるが、バーンスタイン以上にそれを音化し得た演奏は、テンシュテットによる最晩年の演奏以外には存在しないと言っても過言ではあるまい。

本全集の各演奏こそは、史上最大のマーラー指揮者であったバーンスタインがヨーロッパに軸足を移してから漸く成し得た究極の名演奏と言っても過言ではあるまい。

そして在りし日のウィーン・フィルとバーンスタインとの蜜月時代を確認するには、最良の1組と言えるだろう。

いずれにしても、本全集は、稀代のマーラー指揮者であったバーンスタインによる映像作品による全集として、今後ともその存在価値をいささかも失うことがない名全集と高く評価したい。

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2015年04月03日


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最初にLPで発売予定時から絶賛されていた演奏で、その年のレコード・アカデミー賞を受賞した、バーンスタイン晩年の最高度に円熟した演奏である。

現在カタログには、40種類以上の現役盤がひしめいているが、結局魅力度ということにかけては、バーンスタイン指揮ウィーン・フィルが、圧倒的な貫禄であたりを睥睨している。

バーンスタインは押しも押されぬ史上最大のマーラー指揮者であると考えるが、その精神分裂的な性格がマーラーと通底するシューマンの交響曲や協奏曲を除けば、バーンスタインの指揮する独墺系の音楽は今一つ彫りの深さを感じさせる演奏が少ないと言える。

とりわけ、1980年代半ば以降のバーンスタインには、異常なスローテンポによる大仰な表情づけの演奏が増えてきたことから、マーラーやシューマンの楽曲を除いては、いささかウドの大木の誹りを免れない浅薄な凡演が多くなったと言わざるを得ない。

しかしながら、本盤に収められたブラームスの交響曲全集は、1981〜1982年のライヴ録音ということもあって、1980年代後半の演奏のような大仰さがなく、ウィーン・フィルによる名演奏も相俟って、素晴らしい名演に仕上がっていると言えるのではないだろうか。

いずれの曲も、ライヴならではの迫力で、スケールの大きな巨匠風の演奏であり、ロマンティシズムに溢れた演奏である。

バーンスタインはウィーン・フィルの柔らかなアンサンブルを駆使して、ふっくらと聴き手を包み込むような、包容力溢れる暖かい手触りの名演を展開している。

バーンスタインは己の感情をストレートにぶつける事によって古典的形式美の奥に封印された喜怒哀楽の全てを漏らさず紡ぎ出し、劇的でスリリングでしかも朗らかな歌心にも溢れた極めてロマン的なブラームス像を打ち出した。

バーンスタインは、1960〜1964年にかけてニューヨーク・フィルとともにブラームスの交響曲全集をスタジオ録音しているが、それはいかにもヤンキー気質丸出しのエネルギッシュな演奏であり、随所に力づくの強引な最強奏も聴かれるなど外面的な効果だけが際立った浅薄な演奏であった。

しかし、本盤に収められた演奏では、バーンスタインの音楽に彫りの深さを感じることが可能であり、持ち前のカロリー満点の生命力に満ち溢れた演奏に、ウィーン・フィルによる極上の美演が付加されることにより、演奏全体に潤いと適度な奥行き、そして重厚さを付加することに成功している点を忘れてはならない。

ウィーン・フィルはブラームスの交響曲を初演したオーケストラで、それだけにここでも並々ならぬ自信が感じられる。

バーンスタインはそうしたオーケストラの魅力を余すところなく発揮させており、ライヴ録音ならではの白熱的な演奏を展開している。

ウィーン・フィル独特の弦の柔らかな響きと管楽器の美しいハーモニー余すことなく表現して、指揮者と楽団の知的で親密さがなければ実現できなかったであろう快い緊張感に支えられた均質な演奏に聴き手は高い満足度を感じる全集であると言えるだろう。

いずれにしても、本全集は、バーンスタインによるエネルギッシュな力感溢れる指揮に、ウィーン・フィルによる美演が加わったことにより、剛柔バランスのとれた素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

仮に、本全集の録音に際して、バーンスタインがウィーン・フィル以外のオーケストラを起用していたとすれば、これほどの魅力的で奥行きのある演奏にはならなかったのではないかとも考えられるところだ。

録音は1981〜1982年のデジタル・ライヴ録音であるが、従来盤でも充分に満足し得る高音質である。

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2015年02月02日


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ショスタコーヴィチの「第5」については、筆者としてはムラヴィンスキー盤を唯一無二の名演と高く評価してきたが、バーンスタイン盤も著しく世評が高いため、無視するわけにはいかない。

バーンスタインの2度目の録音であるが、旧盤に比較して、全体の解釈にはあまり変更はないものの、抒情的な箇所ではより繊細な表現を見せるなど、外面的な効果や受けを狙った派手な音出しなどしない音楽に深く入り込んでゆくような演奏が展開され、彫りの深い演奏になっている。

バーンスタインは、スタジオ録音よりライヴのほうが本領を発揮するのかもしれないと思うような腹にズシリと響く怒涛のように押し寄せる快感、観客もあまりの迫力に静まり返っているような緊張感が素晴らしい。

特に、第3楽章において、そのような表現が顕著であり、ライヴならではの熱気も相俟って、実に感動的な名演を成し遂げている。

バーンスタインの「第5」の特徴として揚げられるのは終楽章の終結部。

初演者のムラヴィンスキーをはじめ、ほとんどの指揮者がゆったりとしたテンポで壮大に締めくくるが、バーンスタインは快速のテンポで突き進む。

ただ、例えばマゼールのように、素っ気ない感じはいささかもなく、快速のテンポの中に熱い血が通っているのは、さずがと言うべきであろう。

暗くて、ひねくれて、爆発もし、嘆き、皮肉、辛辣な批判、暗号と、生きる為に迎合もせざるを得なかったショスタコーヴィチの音楽、また、バーンスタインの代表的名盤とも言えるだろう。

ニューヨーク・フィルの音はとても明るく、特に管楽器は色彩豊か、そのキラキラした音で深刻な曲を演奏すると表現主義的な特徴が強調されてとてもいい。

ベストの演奏であるかどうかは別として、一発勝負の録音で聴衆を感動させる完璧な演奏は作曲家でもあるバーンスタインという天才指揮者でないと不可能といっても言い過ぎではないであろう。

併録のチェロ協奏曲は、ヨーヨー・マのチェロが実に上手く、なおかつ説得力があり、オーマンディの併せ方も見事というほかはないだろう。

低音域の多用と曲の雰囲気からソリストによっては重たい音楽になってしまいそうな曲だが、ヨーヨー・マの軽やかで、自然に流れていくようなチェロ独奏は、この曲の本来の姿だと思われるショスタコーヴィチ独特のクールさや、シニカルな感じをうまく表現している。

ここには、旧ソ連時代の鬼気迫る暗い雰囲気というような要素はないが、このようなノーマルなアプローチにより、かえってショスタコーヴィチの高踏的な芸術を色眼鏡を通さずにダイレクトに味わうことができるといった点も考慮に入れておきたい。

本盤はSACDでも出ているが、SACDにしては音質はイマイチ。

これに対して、Blue-spec-CD2は、あくまでも筆者の印象ではあるが、SACDよりは多少音質が改善されたのではないかと思われる。

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失恋した若者の悲しみと絶望が描かれた『さすらう若人の歌』、子供の死に対峙する心境が簡潔な書法と凝縮された表現力で綴られた『亡き子を偲ぶ歌』、『最後の7つの歌』として出版され、後に同じ詩人の5曲をまとめた『リュッケルトの詩による5つの歌曲』。

マーラーの管弦楽伴奏による3つの歌曲集を、バーンスタインが名バリトン歌手のハンプソンとウィーン・フィルという望み得る最高の共演者を得て録音した1枚。

バーンスタインは、マーラー演奏史上最高の指揮者であったと考えるが、生涯に、ビデオ作品も含め、3度にわたって、主要な歌曲集を含めた交響曲全集を完成させた。

もちろん、それには一部語弊があり、3度目の全集については、ついに交響曲第8番、第10番、「大地の歌」を録音することができずに世を去ってしまい、過去の録音で補填せざるを得ない事態に陥ったのは、実に残念なことであった。

いずれの全集も、バーンスタイン=マーラー指揮者という名に恥じない素晴らしい名演であるが、やはり、最も優れているのは、最後の全集と言えるのではなかろうか。

当該全集の諸曲の録音時には、併行して、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、シベリウスの交響曲などで、大仰なテンポ設定を駆使した駄演を悉く行っていたにもかかわらず、マーラーでは、同様に大仰とも言えるゆったりとしたテンポをとっているにもかかわらず、いささかもそのような演奏には陥らず、むしろ、そうした大仰なテンポが真実のように聴こえるのが素晴らしい。

これは、バーンスタインがマーラーの本質を鷲掴みにしていることの証左であり、バーンスタインがまさにマーラーの化身となっているとも言える。

本盤の3つの歌曲集は、当該全集の中でも、最も後年の録音、特に、『さすらう若人の歌』と『リュッケルトの詩による5つの歌曲』は、バーンスタインの死の年の録音であり、健康を害している中での思い入れたっぷりの、そして命がけの演奏は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な深い感動を与えてくれる。

ハンプソンも、そうしたマーラーの化身と化したバーンスタインの下、最高のパフォーマンスを示している。

ハンプソンの若々しい声とバーンスタインによる表現の陰影に富んだオケ、この組み合わせが絶妙だ。

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2015年01月21日


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ワイセンベルクは、カラヤンと数多くのピアノ協奏曲を録音することによって、世に知られる存在となったが、カラヤンとの演奏では、どちらかと言えばカラヤンペース。

カラヤン&ベルリン・フィルのゴージャスな演奏の中に、どうしても埋没してしまうような印象がぬぐえなかった。

特に、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集などが最たるもので、ワイセンベルクもベルリン・フィルの1つの楽器と化してしまったような感があった。

ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番でも、ベートーヴェンほどではないが、SACD盤を聴いても、ワイセンベルクの個性が格別に光った演奏とはとても言えなかったように思われる。

ところが、本盤は、バックがバーンスタインにかわったこともあり、ワイセンベルクの十八番である楽曲ということもあってか、実に個性的な演奏を繰り広げている。

バーンスタイン指揮のフランス国立管弦楽団との共演が、ワイセンベルクを一味違ったものに仕立て上げた。

ワイセンベルクは抜群のテクニックと、透明感溢れるピアノタッチが魅力であるが、ここでも、バーンスタイン指揮の下、最高のピアニズムを展開している。

バーンスタインの雄渾な音楽と、一歩も引けを取らないワイセンベルクの、ダイナミックで明確なタッチが生み出す美しい音色が、ラフマニノフの抒情を余すところなく表わしている。

筆者としては、同曲の録音の中では、ホロヴィッツ&ライナーのXRCD盤を高く評価してきたが、厳しく張り詰めた緊張感で聴く者も一瞬も気の抜けないホロヴィッツの演奏とある意味対極にあるワイセンベルクの演奏には包まれる安心感と優しさが漂う。

バーンスタインは、特に、オペラ以外の分野では、カラヤンをも凌ぐ膨大なレパートリーを誇ったが、ラフマニノフの録音は極めて珍しいと言える。

それでも、本盤では、ワイセンベルクのピアノを立てつつ、ゆったりとしたテンポで、実に情感豊かな演奏を行っている点を高く評価したい。

バーンスタインの細やかなサポートが、ピアニストの微妙な動きを見事に浮き立たせていて、思わず聴き惚れてしまう。

フランス国立管弦楽団の独特の明るいサウンドも魅力的で、遅いテンポでうねるオケに、余裕綽々たる硬質なピアノが、ロマン的な大河小説のような世界をみせる。

併録の前奏曲は、フィギュアスケートでも有名になった『鐘』であるが、ワイセンベルクのピアノは、協奏曲以上に素晴らしく、最高のパフォーマンスを示している。

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2015年01月13日


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バーンスタインのウィーン国立歌劇場デビューでの大成功を受けて録音された「ファルスタッフ」で、バーンスタインとウィーン・フィルとの長い関係の出発点と言える名盤。

これはウィーン国立歌劇場が「アメリカの指揮者を呼びたい」と望んでバーンスタインに白羽の矢が立って実現した公演が大成功し、その結果生まれた録音である。

「ファルスタッフ」は、「アイーダ」や「オテロ」と比較するとスケールは小さいが、人生の酸いも甘いも知り尽くしたヴェルディの人生を達観したような遊び心に満ち溢れており、音楽の素晴らしさも含め、ヴェルディ最後のオペラの名に相応しい大傑作ではないかと考えている。

それだけに、これまで数多くの名演が成し遂げられてきた。

例えば、老獪な円熟の至芸を見せるカラヤンの1980年盤や、イタリア・オペラの真髄である豊かな歌謡性が魅力のアバドやジュリーニ盤などがあるが、本盤のバーンスタイン盤は、これらの名演とは異なった魅力がある。

それは、生命力溢れる気迫ということができるのではないか。

バーンスタインの指揮は晩年の演奏からは想像も出来ないほど鋭利であり、それに俊敏に反応するウィーン・フィルもさすがである。

冒頭の強靭な開始や終結部の力強さなどにもよく表れていると思うが、このような圧倒的な気迫は、ウィーン・フィルの力演によるところが大きい。

本盤の録音当時のウィーン・フィルは、カラヤンと一時的な喧嘩別れをして、カラヤンに対抗できるヒーローが欲しくて仕方がない時期であった。

それ故に、バーンスタインに大きな期待を抱いたに違いがなく、待望のヒーローを前にして、ウィーン・フィルが燃えまくっているのがよくわかる。

ここではウィーン・フィルの「やる気」が、それも自発的な「やる気」がビシビシ伝わってきて、活きのいい音楽が流麗にかつダイナミックに展開される。

バーンスタインは、本盤の録音について語る中で、ウィーン・フィルを指揮せずに指揮棒を降ろしていたなどという謙遜をしているが、逆に言えば、ウィーン・フィルにこれだけの演奏をさせたカリスマ性を高く評価すべきであろう。

アンサンブルの面白さが生命だが、バーンスタインの生命力あふれる指揮以下全員生き生きの名演で素晴らしい。

なお、ファルスタッフ役を、いささか不似合いなフィッシャー=ディースカウが演じているが、巧さにおいては群を抜いており、これだけの巧い歌唱を披露されれば文句は言えまい。

他ではリガブエのアリーチェが可憐で秀逸で、生来の発声がなんともチャーミング、この役の魅力を存分に表現している。

録音は英デッカが行ったこともあり、最新録音に劣らぬ素晴らしい出来映えで、ウィーン・フィル独特の艶のある響きを捉えて余すところがない。

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2014年11月30日


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バーンスタインがドイツ・グラモフォンに遺したマーラー交響曲音源の集成された廉価版ボックスで、マーラー生誕150年、バーンスタイン没後20年に合わせてリリースされたものだが、筆者が高校生の時に購入した最初のボックスのおよそ3分の1の厚み、5分の1というプライスに唖然とさせられるとともに時代の隔たりを感じる。

やはりマーラーといえば、バーンスタインの演奏が最も聴き応えのある、天下の名演と言い切ってしまって良いだろう。

バーンスタインは、実に気迫と共感のこもった白熱のロマン的な名演を聴かせる。

どの交響曲も最初の1音からマーラーの心がバーンスタインに乗り移ったような演奏で、聴き手に興奮を促してやまない。

バーンスタインはマーラーの苦悩と喜びを共に追体験したかのような、作品とひとつになった合一性を示している。

バーンスタインはマーラーと共に、笑い、泣き、歓喜の頂点を極め、苦悩のどん底に沈み、まさに作曲者と指揮者のホモジェニティ(同一化)の典型を示している。

マーラー・ファンにとっては最高の魅力だろうが、マーラー嫌いにとっては、はしたないの一語に尽きるだろう。

しかし、マーラーの交響曲をこれだけ自分の音楽として表現できる指揮者は、バーンスタインをおいて他にはいないだろう。

その包容力は途方もなく大きく、シンフォニックなスケール感においても、断然他を圧していると言って良い。

ユダヤ人としての属性が、2人の芸術家を見えない糸で結び付けているのだろうか。

ライヴ録音ならではの緊張感と精神的な迫力が感じられ、演奏の一回性の貴重さを改めて思い知らされる。

バーンスタインのマーラーを聴くと、これ以上の演奏は考えられないと、錯覚させられるから具合が悪い。

とはいえ、この全集を凌駕する演奏は、他にちょっと見当たらない。

実はこれだけの名演が生まれると、後攻の指揮者はしんどいことこの上ない。

少なくともバーンスタインを超える何かがないと、一敗地にまみれるのは、目に見えているからである。

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2014年11月05日


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ミスターミュージック(カラヤンが悪意なくバーンスタインにつけた綽名)として、指揮者としてだけではなく作曲家としても多種多様な活動をしたバーンスタインであるが、作曲家バーンスタインの最高傑作としては、何と言っても「ウェスト・サイド・ストーリー」を掲げるというのが一般的な考え方ではないだろうか。

本盤に収められている演奏は、バーンスタインが、ブロードウェイ内外の一流のミュージシャンを特別に編成して1984年にスタジオ録音を行ったものであるが、「ウェスト・サイド・ストーリー」の演奏史上最高の超名演と高く評価したい。

それは、もちろん自作自演であるということもあるが、それ以上にバーンスタインの指揮が素晴らしいと言えるだろう。

バーンスタインは、かつてニューヨーク・フィルの音楽監督の時代には、いかにもヤンキー気質の爽快な演奏の数々を成し遂げていたが、ヨーロッパに拠点を移した後、とりわけ1980年代に入ってからは、テンポは異常に遅くなるとともに、濃厚でなおかつ大仰な演奏をするようになった。

このような芸風に何故に変貌したのかはよくわからないところであるが、かかる芸風に適合する楽曲とそうでない楽曲があり、途轍もない名演を成し遂げるかと思えば、とても一流指揮者による演奏とは思えないような凡演も数多く生み出されることになってしまったところだ。

このような晩年の芸風に適合した楽曲としては、何よりもマーラーの交響曲・歌曲、そしてシューマンの交響曲・協奏曲が掲げられるところだ。

そして、米国の作曲家による楽曲についても、そうした芸風がすべてプラスに作用した名演の数々を成し遂げていたと言えるだろう。

したがって、本盤のような自作自演に至っては、バーンスタインのまさに独壇場。

水を得た魚のようなノリノリの指揮ぶりで、圧倒的な名演奏を繰り広げている。

テンポについてはおそらくは遅めのテンポなのであろうが、自作自演だけにこのテンポこそが必然ということなのであろう。

そして、濃厚にして彫りの深い表現は、同曲の登場人物の心象風景を鋭く抉り出していくのに大きく貢献しており、どこをとっても非の打ちどころがない完全無欠の演奏に仕上がっている。

独唱陣も、きわめて豪華なキャスティングになっており、とりわけマリア役のキリ・テ・カナワとトニー役のホセ・カレーラスの名唱は、本超名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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2014年11月03日


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バーンスタインは、マーラーの「第9」をビデオ作品も含め4度録音している。

ニューヨーク・フィル盤(1965年)、ウィーン・フィル盤(1970年代のDVD作品)、ベルリン・フィル盤(1979年)、そして本コンセルトヘボウ・アムステルダム盤(1985年)があり、オーケストラがそれぞれ異なっているのも興味深いところであるが、ダントツの名演は本盤であると考える。

それどころか、古今東西のマーラーの「第9」のあまたの演奏の中でもトップの座に君臨する至高の超名演と高く評価したい。

マーラーの「第9」は、まぎれもなくマーラーの最高傑作だけに、様々な指揮者によって数々の名演が成し遂げられてきたが、本盤はそもそも次元が異なっている。

まさに、本バーンスタイン盤こそは富士の山、他の指揮者による名演は並びの山と言ったところかもしれない。

これに肉薄する往年の名演として、ワルター&ウィーン・フィル盤(1938年)があり、オーパス蔵によって素晴らしい音質に復刻はされているが、当該盤は、多分に第2次世界大戦直前という時代背景が名演に伸し上げたと言った側面も否定できないのではないだろうか。

マーラーの「第9」は、マーラーの交響曲の総決算であるだけに、その神髄である死への恐怖と闘い、それと対置する生への妄執と憧憬がテーマと言えるが、これを、バーンスタイン以上に表現し得た指揮者は他にはいないのではないか。

第1楽章は、死への恐怖と闘いであるが、バーンスタインは、変幻自在のテンポ設定や思い切ったダイナミックレンジ、そして猛烈なアッチェレランドなどを大胆に駆使しており、その表現は壮絶の極みとさえ言える。

これほど聴き手の肺腑を打つ演奏は他には知らない。

第3楽章の死神のワルツも凄まじいの一言であり、特に終結部の荒れ狂ったような猛烈なアッチェレランドは圧巻のド迫力だ。

終楽章は、生への妄執と憧憬であるが、バーンスタインの表現は濃厚さの極み。

誰よりもゆったりとした急がないテンポにより、これ以上は求め得ないような彫りの深い表現で、マーラーの最晩年の心眼を鋭く抉り出す。

そして、このようなバーンスタインの壮絶な超名演に潤いと深みを付加させているのが、コンセルトヘボウ・アムステルダムによるいぶし銀の音色による極上の名演奏と言えるだろう。

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バーンスタインは、その生涯に、ビデオ作品を含め、マーラーの交響曲全集を3度に渡って録音した。

このような指揮者は今日においてもいまだ存在しておらず、演奏内容の質の高さだけでなく、遺された全集の数においても、他のマーラー指揮者を圧倒する存在と言えるだろう。

いずれの全集も歴史的名演と評してもいいくらいの質の高いものであるが、その中での最高傑作は、やはり、衆目の一致するところ、マーラーゆかりの3つのオーケストラを指揮して録音を行った最後の全集ということになるのではなかろうか。

この最後の全集で残念なのは、本盤に収められた「第8」と「第10」、そして、「大地の歌」を録音できずに世を去ったことである。

この全集の他の諸曲のハイレベルな出来を考えると、これは大変残念なことであったと言わざるを得ない。

特に、「第10」は、2度目のビデオによる全集の中から抜粋したものとなっており、演奏内容は名演ではあるが、二番煎じの誹りを免れない。

他方、「第8」は、2度目の全集に収められた「第8」とほぼ同時期の録音ではあるが、ザルツブルク音楽祭におけるライヴ録音であり、全く別テイク。

本盤は、この「第8」を聴くだけでも十分にお釣りがくるCDと言える。

バーンスタインの晩年の録音は、ほぼすべてがライヴ録音であるのだが、録音を意識していたせいか、限りなくスタジオ録音に近い、いわゆる自己抑制したおとなしめ(と言ってもバーンスタインとしてはという意味であるが)の演奏が多い。

ところが、本盤は、録音を意識していない正真正銘のライヴ録音であり、この猛烈な暴れ振りは、来日時でも披露したバーンスタインのコンサートでの圧倒的な燃焼度を彷彿とさせる。

これほどのハイテンションになった「第8」は、他の演奏では例がなく、同じく劇的な演奏を行ったテンシュテットなども、遠く足元にも及ばない。

猛烈なアッチェレランドの連続や、金管楽器の思い切った最強奏、極端と言ってもいいようなテンポの激変など、考え得るすべての表現を駆使して、「第8」をドラマティックに表現していく。

バーンスタインもあたかも火の玉のように燃えまくっており、あまりの凄さに、合唱団とオーケストラが微妙にずれる点があるところもあり、正真正銘のライヴのスリリングさも満喫することができる。

それでいて、楽曲全体の造型が崩壊することはいささかもなく、聴き終わった後の興奮と感動は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分だ。

録音が、若干オンマイクで、トゥッティの箇所で、音が団子状態になるのが惜しいが、演奏内容の質の高さを考えると、十分に許容範囲であると考える。

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2014年11月02日


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マーラーの「第7」は、最近では多くの指揮者によって数々の名演が成し遂げられており、他の交響曲と比較しても遜色のない演奏回数を誇っているが、本盤の録音当時(1985年)は、マーラーの他の交響曲と比較すると一段下に見られていたのは否めない事実である。

本盤と、ほぼ同時期に録音されたインバル&フランクフルト放送交響楽団による名演の登場によって、現代における「第7」の名演の隆盛への道が開かれたと言っても過言ではないところである。

その意味では、本盤に収められた演奏は、「第7」の真価を広く世に認知させるのに大きく貢献した至高の超名演と高く評価したい。

ここでのバーンスタインの演奏は、他の交響曲におけるアプローチと同様に実に雄弁であり、濃厚さの極みである。

バーンスタインの晩年の演奏は、マーラー以外の作曲家の楽曲においても同様のアプローチをとっており、ブラームスの交響曲全集やドヴォルザークの「第9」、シベリウスの「第2」、チャイコフスキーの「第6」、モーツァルトのレクイエム、ショスタコーヴィチの「第7」など、雄弁ではあるが、あまりにも大仰で表情過多な面が散見され、内容が伴っていない浅薄な凡演に陥ってしまっているものが多い。

ところが、同じようなアプローチでも、マーラーの交響曲や歌曲を指揮すると、他の指揮者の演奏を圧倒する素晴らしい名演が仕上がるという結果になっている。

これは、バーンスタインがマーラーの本質を誰よりも深く理解するとともに、心底から愛着を抱いていたからに他ならず、あたかもマーラーの化身のような指揮であるとさえ言える。

本盤の「第7」も、第1楽章の葬送行進曲における激しい慟哭から天国的な美しさに至るまで、表現の幅は桁外れに広範。

これ以上は求め得ないような彫りの深い濃密な表現が施されており、その情感のこもった音楽は、聴き手の深い感動を呼び起こすのに十分だ。

また、「第7」の愛称の理由でもある第2楽章及び第4楽章の「夜の歌」における情感の豊かな音楽は、至高・至純の美しさを誇っている。

終楽章の光彩陸離たる響きも美しさの極みであり、金管楽器や弦楽器のパワフルな力奏も圧巻の迫力を誇っている。

ここには、まさにオーケストラ演奏を聴く醍醐味があると言えるだろう。

「第7」の評価が低い理由として、終楽章の賑々しさを掲げる者が多いが、バーンスタインが指揮すると、そのような理由に何らの根拠を見出すことができないような内容豊かな音楽に変貌するのが素晴らしい。

録音の当時、やや低迷期にあったとされるニューヨーク・フィルも、バーンスタインの統率の下、最高のパフォーマンスを示しているのも、本名演の大きな魅力の一つであることを忘れてはならない。

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2014年11月01日


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マーラーの「第6」は、マーラーの数ある交響曲の中でも少数派に属する、4楽章形式を踏襲した古典的な形式を維持する交響曲である。

「悲劇的」との愛称もつけられているが、起承転結もはっきりとしており、その内容の深さからして、マーラーの交響曲の総決算にして最高傑作でもある「第9」を予見させるものと言えるのかもしれない。

マーラーの交響曲には、様々な内容が盛り込まれてはいるが、その神髄は、死への恐怖と闘い、それと対置する生への憧憬と妄執である。

これは、「第2」〜「第4」のいわゆる角笛交響曲を除く交響曲においてほぼ当てはまると考えるが、とりわけ「第9」、そしてその前座をつとめる「第6」において顕著であると言えるだろう。

このような人生の重荷を背負ったような内容の交響曲になると、バーンスタインは、まさに水を得た魚のようにマーラー指揮者としての本領を発揮することになる。

本演奏におけるバーンスタインのアプローチは、他の交響曲と同様に濃厚さの極み。

テンポの緩急や強弱の変化、アッチェレランドなどを大胆に駆使し、これ以上は求め得ないようなドラマティックな表現を行っている。

それでいて、第3楽章などにおける情感の豊かさは美しさの極みであり、その音楽の表情の起伏の幅は桁外れに大きいものとなっている。

終楽章の畳み掛けていくような生命力溢れる力強い、そして壮絶な表現は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な圧巻の迫力を誇っている。

そして、素晴らしいのはウィーン・フィルの好パフォーマンスであり、バーンスタインの激情的とも言える壮絶な表現に、潤いと深みを加えるのに成功している点も高く評価したいと考える。

これだけの超名演であるにもかかわらず、影響力のあるとある高名な音楽評論家が、バーンスタインの体臭がしてしつこい演奏などと難癖をつけ、ノイマン&チェコ・フィル盤(1995年)や、あるいは数年前に発売され話題を呼んだプレートル&ウィーン交響楽団盤(1991年)をより上位の名演と評価している。

筆者としても、当該高名な評論家が推奨する2つの演奏が名演であることに異論を唱えるつもりは毛頭ない。

しかしながら、本盤に収められたバーンスタイン&ウィーン・フィルの超名演を、これら2つの演奏の下に置く考えには全く賛成できない。

マーラーの「第6」のような壮絶な人間のドラマを表現するには、バーンスタインのようなドラマティックで壮絶な表現こそが必要不可欠であり、バーンスタインの体臭がしようが、しつこい演奏であろうが、そのような些末なことは超名演の評価にいささかの瑕疵を与えるものではないと言えるのではないか。

むしろ、本超名演に匹敵し得るのは、咽頭がんを患った後、健康状態のいい時にのみコンサートを開催していたテンシュテット&ロンドン・フィルによる命がけの渾身の超名演(1991年)だけであり、他の演奏は、到底足元にも及ばないと考える。

併録の「亡き子をしのぶ歌」も超名演であり、バリトンのハンプソンの歌唱も最高のパフォーマンスを誇っていると高く評価したい。

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マーラーの交響曲第5番は、マーラーの数ある交響曲の中でも最も人気のある作品と言えるだろう。

CD時代が到来する以前には、むしろ第1番や第4番が、LP1枚に収まることや曲想の親しみやすさ、簡潔さからポピュラリティを得ていたが、CD時代到来以降は、第5番が、第1番や第4番を凌駕する絶大なる人気を誇っている。

これは、CD1枚におさまる長さということもあるが、それ以上に、マーラーの交響曲が含有する魅力的な特徴のすべてを兼ね備えていることに起因するとも言えるのではないだろうか。

先ずは、マーラー自身も相当に試行錯誤を繰り返したということであるが、巧みで光彩陸離たる華麗なオーケストレーションが掲げられる。

次いで、マーラーの妻となるアルマ・マーラーへのラブレターとも評される同曲であるが、同曲には、葬送行進曲などに聴かれる陰鬱かつ激情的な音楽から、第4楽章における官能的とも言える極上の天国的な美しい音楽に至るまで、音楽の表情の起伏の幅が極めて大きいものとなっており、ドラマティックな音楽に仕上がっている点が掲げられる。

このように魅力的な同曲だけに、古今東西の様々な指揮者によって、数々の個性的な名演が成し遂げられてきた。

無慈悲なまでに強烈無比なショルティ盤(1970年)、官能的な耽美さを誇るカラヤン盤(1973年)、細部にも拘りを見せた精神分析的なシノーポリ盤(1985年)、劇的で命がけの豪演であるテンシュテット盤(1988年)、瀟洒な味わいとドラマティックな要素が融合したプレートル盤(1991年)、純音楽的なオーケストラの機能美を味わえるマーツァル盤(2003年)など目白押しであるが、これらの数々の名演の更に上を行く至高の超名演こそが、本バーンスタイン盤と言える。

バーンスタインのアプローチは大仰なまでに濃厚なものであり、テンポの緩急や思い切った強弱、ここぞと言う時の猛烈なアッチェレランドの駆使など、マーラーが作曲したドラマティックな音楽を完全に音化し尽くしている点が素晴らしい。

ここでのバーンスタインは、あたかも人生の重荷を背負うが如きマーラーの化身となったかのようであり、単にスコアの音符を音化するにとどまらず、情感の込め方には尋常ならざるものがあり、精神的な深みをいささかも損なっていない点を高く評価したい。

オーケストラにウィーン・フィルを起用したのも功を奏しており、バーンスタインの濃厚かつ劇的な指揮に、適度な潤いと奥行きの深さを付加している点も忘れてはならない。

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2014年10月31日


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終楽章にボーイ・ソプラノを起用したことにより数々の批判を浴びている曰くつきの演奏ではあるが、筆者としては、確かにボーイ・ソプラノの起用には若干の疑問は感じるものの、総体としては、素晴らしい名演と高く評価したい。

マーラーの「第4」は、マーラーのあらゆる交響曲の中で、最も古典的な形式に則った作品であり、楽器編成も第1楽章の鈴や終楽章の独唱を除けば、きわめて常識的である。

それ故に、いわゆるマーラー指揮者とは言えない指揮者によっても、これまで好んで演奏されてきた交響曲ではあるが、表情づけが淡泊であるというか、内容の濃さに欠ける演奏、スケールの小さい演奏が多かったというのも否めない事実であると言えるのではないだろうか。

もっとも、いくらマーラーが作曲した最も規模の小さい簡潔な交響曲と言っても、そこは重厚長大な交響曲を数多く作曲したマーラーの手による作品なのであり、何も楽曲を等身大に演奏することのみが正しいわけではないのである。

バーンスタインは、そうした軽妙浮薄な風潮には一切背を向け、同曲に対しても、他の交響曲へのアプローチと同様に、雄弁かつ濃厚な表現を施している点を高く評価したい。

バーンスタインの名演によって、マーラーの「第4」の真価が漸くベールを脱いだとさえ言えるところであり、情感の豊かさや内容の濃密さ、奥行きの深さと言った点においては、過去の同曲のいかなる演奏にも優る至高の超名演と高く評価したい。

バーンスタインの統率の下、コンセルトヘボウ・アムステルダムも最高のパフォーマンスを示していると言えるところであり、バーンスタインの濃厚な解釈に深みと潤いを与えている点を忘れてはならない。

前述のように、終楽章にボーイ・ソプラノを起用した点についてはいささか納得し兼ねるが、ヴィテックの独唱自体は比較的優秀であり、演奏全体の評価にダメージを与えるほどの瑕疵には当たらないと考える。

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バーンスタインが遺した3度にわたるマーラーの交響曲全集の中で、3度目の全集は、「第8」、「第10」及び「大地の歌」の新録音を果たすことができなかったものの、いずれ劣らぬ至高の超名演で構成されていると言えるのではないだろうか。

マーラーの「第3」は、重厚長大な交響曲を数多く作曲したマーラーの交響曲の中でも、群を抜いて最大の規模を誇る交響曲である。

あまりの長さに、マーラー自身も、「第3」に当初盛り込む予定であった一部の内容を、「第4」の終楽章にまわしたほどであったが、これだけの長大な交響曲だけに、演奏全体をうまく纏めるのはなかなかに至難な楽曲とも言える。

また、長大さの故に、演奏内容によっては冗長さを感じさせてしまう危険性も高いと言える。

ところが、生粋のマーラー指揮者であるバーンスタインにとっては、そのような難しさや危険性など、どこ吹く風と言ったところなのであろう。

バーンスタインの表現は、どこをとってもカロリー満点で、濃厚で心を込め抜いた情感の豊かさが演奏全体を支配している。

特に、終楽章は特筆すべき美しさでスケールも気宇壮大、誰よりも遅いテンポで情感豊かに描き出しているのが素晴らしい。

他方、変幻自在のテンポ設定や、桁外れに幅の広いダイナミックレンジ、思い切ったアッチェレランドなどを大胆に駆使するなど、ドラマティックな表現にも抜かりがない。

このように、やりたい放題とも言えるような自由奔放な解釈を施しているにもかかわらず、長大な同曲の全体の造型がいささかも弛緩することなく、壮麗にして雄渾なスケール感を損なっていないというのは、マーラーの化身と化したバーンスタインだけに可能な驚異的な圧巻の至芸である。

特筆すべきは、ニューヨーク・フィルの卓越した技量であり、金管楽器(特にホルンとトロンボーン)にしても、木管楽器にしても、そして弦楽器にしても抜群に上手く、なおかつ実に美しいコクのある音を出しており、本名演に華を添える結果となっている点を忘れてはならない。

ルートヴィヒの独唱や、ニューヨーク・コラール・アーティスツ及びブルックリン少年合唱団による合唱も、最高のパフォーマンスを示している点も高く評価したい。

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マーラーの交響曲第2番の優れた名演が、最近相次いで登場している。

一昨年以降の演奏に限ってみても、パーヴォ・ヤルヴィ&フランクフルト放送交響楽団、インバル&東京都交響楽団、そしてラトル&ベルリン・フィルが掲げられ、その演奏様式も多種多様だ。

また、少し前の時代にその範囲を広げてみても、小澤&サイトウ・キネン・オーケストラ(2000年)、テンシュテット&ロンドン・フィル(1989年ライヴ)、シノーポリ&フィルハーモニア管弦楽団(1985年)など、それぞれタイプの異なった名演があり、名演には事欠かない状況だ。

このような中で、本盤に収められたバーンスタインによる演奏は、これら古今東西の様々な名演を凌駕する至高の超名演と高く評価したい。

録音から既に20年以上が経過しているが、現時点においても、これを超える名演があらわれていないというのは、いかに本演奏が優れた決定的とも言える超名演であるかがわかろうと言うものである。

本演奏におけるバーンスタインの解釈は実に雄弁かつ濃厚なものだ。

粘ったような進行、テンポの緩急や強弱の思い切った変化、猛烈なアッチェレランドなどを大胆に駆使し、これ以上は求め得ないようなドラマティックな表現を行っている。

また、切れば血が出るとはこのような演奏のことを言うのであり、どこをとっても力強い生命力と心を込めぬいた豊かな情感が漲っているのが素晴らしい。

これだけ大仰とも言えるような劇的で熱のこもった表現をすると、楽曲全体の造型を弛緩させてしまう危険性があるとも言える。

実際に、バーンスタインは、チャイコフスキーの「第6」、ドヴォルザークの「第9」、シベリウスの「第2」、モーツァルトのレクイエムなどにおいて、このような大仰なアプローチを施すことにより、悉く凡演の山を築いている。

ところが、本演奏においては、いささかもそのような危険性に陥ることがなく、演奏全体の堅固な造型を維持しているというのは驚異的な至芸と言えるところであり、これは、バーンスタインが、同曲、引いてはマーラーの交響曲の本質をしっかりと鷲掴みにしているからにほかならない。

バーンスタインのドラマティックで熱のこもった指揮にも、一糸乱れぬアンサンブルでしっかりと付いていっていったニューヨーク・フィルの卓越した技量も見事である。

ヘンドリックスやルートヴィヒも、ベストフォームとも言うべき素晴らしい歌唱を披露している。

ウェストミンスター合唱団も最高のパフォーマンスを示しており、楽曲終結部は圧巻のド迫力。

オーケストラともども圧倒的かつ壮麗なクライマックスを築く中で、この気宇壮大な超名演を締めくくっている。

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2014年10月30日


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マーラーの「第1」は、マーラーの青雲の志を描いた作品である。

スコア自体は「第4」と同様に、他の重厚長大な交響曲と比較すると必ずしも複雑であるとは言えないが、演奏自体は、なかなか難しいと言えるのではないだろうか。

他の交響曲をすべて演奏した朝比奈が、「第1」を一度も演奏しなかったのは有名な話であるし、小澤は3度も同曲を録音しているが、最初の録音(1977年)を超える演奏を未だ成し遂げることが出来ていないことなどを考慮すれば、円熟が必ずしも名演に繋がらないという、なかなか一筋縄ではいかない面があるように思うのである。

どちらかと言えば、重々しくなったり仰々しくなったりしないアプローチをした方が成功するのではないかとも考えられるところであり、例えば、同曲最高の名演とされるワルター&コロンビア交響楽団盤(1961年)は、もちろんワルターの解釈自体が素晴らしいのではあるが、コロンビア交響楽団という比較的小編成のオーケストラを起用した点もある程度功を奏していた面があるのではないかと思われる。

ところが、バーンスタインはそうした考え方を見事に覆してしまった。

バーンスタインは、他のいかなる指揮者よりも雄弁かつ濃厚な表現によって、前述のワルター盤に比肩し得る超名演を成し遂げてしまったのである。

バーンスタインは、テンポの思い切った緩急や強弱、アッチェレランドなどを駆使して、情感豊かに曲想を描いている。

それでいて、いささかも表情過多な印象を与えることがなく、マーラーの青雲の志を的確に表現し得たのは驚異の至芸であり、これは、バーンスタインが同曲の本質、引いてはマーラーの本質をしっかりと鷲掴みにしている証左である。

オーケストラにコンセルトヘボウ・アムステルダムを起用したのも、本盤を名演たらしめるに至らせた大きな要因と言えるところであり、光彩陸離たる響きの中にも、しっとりとした潤いや奥行きの深さを感じさせるのが素晴らしい。

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バーンスタインは、その晩年にウィーン・フィルとともにモーツァルトの主要な交響曲集のライヴ録音を行ったが、本盤はそれらを集成したディスク集である。

バーンスタインは、かつてニューヨーク・フィルの音楽監督の時代には、いかにもヤンキー気質の爽快な演奏の数々を成し遂げていたが、ヨーロッパに拠点を移した後、とりわけ1980年代に入ってからは、テンポは異常に遅くなるとともに、濃厚でなおかつ大仰な演奏をするようになった。

このような芸風に何故に変貌したのかはよくわからないところであるが、かかる芸風に適合する楽曲とそうでない楽曲があり、とてつもない名演を成し遂げるかと思えば、とても一流指揮者による演奏とは思えないような凡演も数多く生み出されることになってしまったところだ。

具体的には、マーラーの交響曲・歌曲やシューマンの交響曲・協奏曲などにおいては比類のない名演を成し遂げる反面、その他の作曲家による楽曲については、疑問符を付けざるを得ないような演奏もかなり行われていたように思われる。

本盤の演奏においても、ゆったりとしたテンポによる熱き情感に満ち溢れた濃厚さは健在であり、例えば、これらの楽曲におけるワルターやベームの名演などと比較すると、いささか表情過多に過ぎるとも言えるところだ。

もっとも、オーケストラがウィーン・フィルであることが、前述のような大仰な演奏に陥ることを救っていると言えるところであり、いささか濃厚に過ぎるとも言えるバーンスタインによる本演奏に、適度の潤いと奥行きを与えている点を忘れてはならない。

近年のモーツァルトの交響曲演奏においては、古楽器奏法やピリオド楽器を使用した小編成のオーケストラによる演奏が主流となりつつある。

そうした軽妙浮薄な演奏に辟易としている中で本演奏を聴くと、本演奏には血の通った温かい人間味を感じることが可能であり、あたかも故郷に帰省した時のように安定した気持ちになる聴き手は筆者だけではあるまい。

いずれにしても、本演奏は、近年の血の通っていない浅薄な演奏が目白押しの中にあってその存在意義は極めて大きいものであり、モーツァルトの交響曲の真の魅力を心行くまで堪能させてくれる人間味に溢れた素晴らしい名演と高く評価したい。

音質は従来盤でも十分に満足できる高音質である。

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2014年09月24日


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本盤は、バーンスタインがベルリン・フィルを指揮した唯一の演奏会の記録である。

カラヤンがバーンスタインをベルリン・フィルの指揮台に立たせなかったとの説が横行しているが、筆者は、側近が親分であるカラヤンの気持ちを勝手に斟酌して、そのように仕向けたのではないかと考えている。

比較のレベルが低すぎてカラヤンには大変申し訳ないが、我が国の某党の某幹事長のケースに酷似しているとも言える。

しかも、カラヤンはこの時期、自分のレコーディング人生の最後を飾る作品として、ベルリン・フィルとともにマーラーの「第9」の究極の演奏を目指して、真剣に取り組んでいた。

しかしながら、バーンスタインの同曲への解釈とカラヤンのそれとは北極と南極ほどに大きく異なる。

そんな完全アウェイの中に、バーンスタインは果敢に飛び込んでいった。

その結果、両者の試行錯誤がはっきりと聴き取れる演奏になった。

バーンスタインは、解説書にある表現に例えるなら、あたかも不感症の女性のように、思い通りの音を出そうとしないベルリン・フィルをうなり声まで発して相当にイライラしている様子が窺え、ベルリン・フィルもアンサンブルの乱れなどに、バーンスタインの大仰な指揮への戸惑いが見てとれる。

このような指揮者とオーケストラの真剣勝負の格闘が、本盤に聴くような大熱演を生み出したと言えるだろう。

まさに、一期一会の奇跡の熱演である。

しかしながら、本盤は、果たして繰り返して聴くに足りる演奏と言えるのかどうか。

というのも、筆者は、ベルリン・フィルはともかく、バーンスタインが本演奏に決して満足していなかったのではないかと思うからである。

本盤が発売されたのが、カラヤン没後バーンスタイン存命中ではなく、バーンスタインの没後2年も経ってからであるというのも、それを表しているのではないだろうか。

バーンスタインのマーラーの「第9」の決定盤はあくまでもコンセルトヘボウ管弦楽団との1985年盤。

本盤は大熱演であることは認めるが、バーンスタインのベストフォームとは到底言えず、あくまでも一期一会の記録として記憶にとどめておきたい。

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2014年09月02日


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バーンスタインが史上最大のマーラー指揮者であることは論を待たないところだ。

バーンスタインは、DVD作品を含めて3度にわたってマーラーの交響曲全集を録音した唯一の指揮者でもあるが(最後の全集は残念ながら一部未完成)、そのいずれもが数多くのマーラーの交響曲全集が存在している現在においてもなお、その輝きを失っていないと言えるだろう。

本盤に収められたマーラーの交響曲全集は、バーンスタインによる最初のものに相当する。

録音は1960〜1975年という15年の歳月にわたってはいるが、その殆どは1960年代に行われており、バーンスタインがいまだ50歳代の壮年期の演奏ということが可能である。

オーケストラは、当時音楽監督を務めていたニューヨーク・フィルを軸として、第8番はロンドン交響楽団、「大地の歌」についてはイスラエル・フィルが起用されている。

このようなオーケストラの起用の仕方は、1970年代によるDVDによる2度目の全集がウィーン・フィルの起用を軸としつつも第2番においてロンドン交響楽団、「大地の歌」においてイスラエル・フィルを起用したこと、3度目の全集においては、ウィーン・フィル、コンセルトへボウ・アムステルダム、そしてニューヨーク・フィルの3つのオーケストラを起用したこととも共通している。

バーンスタインのマーラー演奏は極めてドラマティックなものだ。

変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、そして猛烈なアッチェレランドを駆使するなど、その劇的な表現は圧倒的な迫力を誇っており、聴いていて手に汗を握るような興奮を味わわせてくれると言えるだろう。

こうしたバーンスタインのマーラー演奏のスタイルは最晩年になってもいささかも変わることがなかったが、晩年の3度目の全集では、より一層表現に濃厚さとスケールの大きさ、そして楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような奥行きの深さが加わり、他の指揮者による演奏を寄せ付けないような至高の高みに達した超名演に仕上がっていた。

本盤に収められた演奏は、50代の壮年期のバーンスタインによるものであるだけに、3度目の全集のような至高の高みには達してはいないが、前述のようなドラマティックな表現は健在であり、とりわけトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫や強靭な迫力においては、2度目や3度目の全集をも凌駕しているとさえ言えるだろう。

ストレートで若干荒削りな演奏と言えなくもないが、スコアに記された音符の表層をなぞっただけの洗練された美を誇る演奏などに比べれば、よほど本演奏の方がマーラーの本質を捉えていると言えるとともに、我々聴き手に深い感動を与えてくれると言えるだろう。

いずれにしても、本全集は、稀代のマーラー指揮者であったバーンスタインによる最初の全集として、今後ともその存在価値をいささかも失うことがない名全集と高く評価したい。

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2014年08月20日


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これは素晴らしい超名演だ。

このうち、ラプソディ・イン・ブルーについてはバーンスタインによる旧盤(1958年)との優劣を比較することは困難を極めるが、それ以外の諸曲については、それぞれの楽曲の演奏史上トップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。

バーンスタインは、かつてニューヨーク・フィルの音楽監督の時代には、いかにもヤンキー気質の爽快な演奏の数々を成し遂げていたが、ヨーロッパに拠点を移した後、とりわけ1980年代に入ってからは、テンポは異常に遅くなるとともに、濃厚でなおかつ大仰な演奏をするようになった。

このような芸風に何故に変貌したのかはよくわからないところであるが、かかる芸風に適合する楽曲とそうでない楽曲があり、途轍もない名演を成し遂げるかと思えば、とても一流指揮者による演奏とは思えないような凡演も数多く生み出されることになってしまったところだ。

具体的には、マーラーの交響曲・歌曲やシューマンの交響曲・協奏曲などにおいては比類のない名演を成し遂げる反面、その他の作曲家による楽曲については、疑問符を付けざるを得ないような演奏が目白押しであったように思われる。

本盤に収められた楽曲はいずれも米国の作曲家によるものであり、それだけにバーンスタインの晩年の芸風がいずれもプラスに作用しているのではないだろうか。

ガーシュウィンのラプソディー・イン・ブルーについては、途轍もない超名演であった旧盤(1958年)と比較すると、テンポが遅くなるとともに濃厚な表情づけがなされているが、同曲特有の軽快なリズム感においてはいささかも損なっておらず、いい意味での円熟の名演に仕上がっていると言えるところであり、旧盤との優劣は容易にはつけられないのではないかと考えられる。

コープランドの2曲については、バーンスタインとしても自家薬篭中の作品であり、あたかも水を得た魚のような生命力溢れる力強さと濃厚な表情づけがうまくミックスされた素晴らしい名演に仕上がっていると評価したい。

その演奏の彫りの深さなどを考慮すれば、今後ともこれ以上の演奏を成し遂げるのは困難を極めると言えるだろう。

バーバーの弦楽のためのアダージョは、おそらくは同曲演奏史上最も遅いテンポをとっているのではないかとも考えられるが、その濃厚で彫りの深い表現は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な凄みのある名演である。

そして、自作自演でもある「キャンディード」序曲に至っては、まさにバーンスタインの独壇場。

同曲特有の躍動するようなリズム感と彫りの深い濃厚さが一体となった稀有の名演と言えるだろう。

音質については、従来盤でも十分に良好なものであったが、今般のSHM−CD化によって、若干ではあるが音質が鮮明になるとともに、音場が幅広くなったように思われる。

バーンスタインによる至高の超名演をSHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2014年08月14日


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バーンスタインのベートーヴェン全集(旧盤)は異様な充実感が全体を貫いている。

そして、この演奏は良くも悪くもバーンスタイン臭の充満した演奏である。

例えば「エロイカ」の第1楽章で、速めのテンポで畳み掛けながら緊張を緩めまいとしている点に、そうしたことが言える。

それにリズム感が異質だ。

これは、全体を通して言えることだから、明らかにこのリズム感はバーンスタインその人のリズム感である。

「第5」では、誰もがまず、テンポが極度に抑制されている、と気づくだろう。

もちろんバーンスタインはそのテンポを最後まで見事に維持している。

彼は恣意的になることを巧みに避け、主観的な要素さえも極力抑え、その意味では演奏の進め方は、まことに慎重である。

解釈者としての彼の力は、意外なところで余すところなく発揮されているのである。

「田園」は個性的な表現で、音楽が楽天的と言えるほどよく弾んでいる。

ドイツの伝統的な解釈とは異なる現代的な表現と言えるが、作品に共感した真実性は高く評価したい。

「第9」は劇的で起伏の激しい、主張の明快な演奏である。

もちろん、バーンスタインはこの巨大な作品の伝統的な演奏様式を十分に知った表現で、例えばトスカニーニのように徹底した解釈ではないが、それでも第1楽章の劇的な推進力や第3楽章の腰の強い表現など、バーンスタイン以外の何者でもない。

終楽章は各部分が的確な表現であり、楽想をくっきりと描いている。

独唱と合唱も見事だ。

「フィデリオ」序曲と「レオノーレ」序曲第3番も、バーンスタインの自己主張が強いが、それが作品の求める様式と一致しないところがあるのは惜しまれる。

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2014年08月11日


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バーンスタイン晩年の録音は、ほぼすべてがライヴ録音であるのだが、録音を意識していたせいか、限りなくスタジオ録音に近い、いわゆる自己抑制したおとなしめ(と言ってもバーンスタインとしてはという意味であるが)の演奏が多い。

ところが、第8番は、録音を意識していない正真正銘のライヴ録音であり、この猛烈な暴れ振りは、来日時でも披露したバーンスタインのコンサートでの圧倒的な燃焼度を彷彿とさせる。

これほどのハイテンションになった第8番は、他の演奏では例がなく、同じく劇的な演奏を行ったテンシュテットなども、遠く足元にも及ばないとさえ言える。

猛烈なアッチェレランドの連続や、金管楽器の思い切った最強奏、極端と言ってもいいようなテンポの激変など、考え得るすべての表現を駆使して、第8番をドラマティックに表現していく。

バーンスタインもあたかも火の玉のように燃えまくっており、あまりの凄さに、合唱団とオーケストラが微妙にずれる点があるところもあり、正真正銘のライヴのスリリングさも満喫することができる。

それでいて、楽曲全体の造型が崩壊することはいささかもなく、聴き終わった後の興奮と感動は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分だ。

「大地の歌」と第10番から「アダージョ」は、2度目のビデオによる全集の中から抜粋したものとなっており、演奏内容は名演ではあるが、二番煎じの誹りを免れない。

ただ、第8番はザルツブルク音楽祭におけるライヴ録音であり、全く別テイクなので、本セットは、この第8番を聴くだけでも十分にお釣りがくるものと言える。

そして、第9番こそは、マーラーの交響曲の総決算であるだけに、その神髄である死への恐怖と闘い、それと対置する生への妄執と憧憬がテーマと言えるが、これを、バーンスタイン以上に表現し得た指揮者は他にはいないのではないか。

第1楽章は、死への恐怖と闘いであるが、バーンスタインは、変幻自在のテンポ設定や思い切ったダイナミックレンジ、そして猛烈なアッチェレランドなどを大胆に駆使しており、その表現は壮絶の極みとさえ言える。

これほど聴き手の肺腑を打つ演奏を他には知らない。

第3楽章の死神のブルレスケも凄まじいの一言であり、特に終結部の荒れ狂ったような猛烈なアッチェレランドは圧巻のド迫力だ。

終楽章は、生への妄執と憧憬であるが、バーンスタインの表現は濃厚さの極み。

誰よりもゆったりとした急がないテンポにより、これ以上は求め得ないような彫りの深い表現で、マーラーの最晩年の心眼を鋭く抉り出す。

そして、このようなバーンスタインの壮絶な超名演に潤いと深みを付加させているのが、コンセルトヘボウ・アムステルダムによるいぶし銀の音色による極上の名演奏と言えるだろう。

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第5番におけるバーンスタインのアプローチは、大仰なまでに濃厚なものであり、テンポの緩急や思い切った強弱、ここぞという時の猛烈なアッチェレランドの駆使など、マーラーが作曲したドラマティックな音楽を完全に音化し尽くしている点が素晴らしい。

ここでのバーンスタインは、あたかも人生の重荷を背負うが如きマーラーの化身となったかのようであり、単にスコアの音符を音化するにとどまらず、情感の込め方には尋常ならざるものがあり、精神的な深みをいささかも損なっていない点を高く評価したい。

オーケストラにウィーン・フィルを起用したのも功を奏しており、バーンスタインの濃厚かつ劇的な指揮に、適度な潤いと奥行きの深さを付加している点も忘れてはならない。

第6番におけるバーンスタインのアプローチも、他の交響曲と同様に濃厚さの極みであり、テンポの緩急や強弱の変化、アッチェレランドなどを大胆に駆使し、これ以上は求め得ないようなドラマティックな表現を行っている。

それでいて、第3楽章などにおける情感の豊かさは美しさの極みであり、その音楽の表情の起伏の幅は桁外れに大きいものとなっている。

終楽章の畳み掛けていくような生命力溢れる力強い、そして壮絶な表現は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な圧巻の迫力を誇っている。

そして、素晴らしいのはウィーン・フィルの好パフォーマンスであり、バーンスタインの激情的とも言える壮絶な表現に、潤いと深みを加えるのに成功している点も高く評価したい。

第7番も、第1楽章の葬送行進曲における激しい慟哭から天国的な美しさに至るまで、表現の幅は桁外れに広範。

これ以上は求め得ないような彫りの深い濃密な表現が施されており、その情感のこもった音楽は、聴き手の深い感動を呼び起こすのに十分だ。

また、第7番の愛称の理由でもある第2楽章及び第4楽章の「夜の歌」における情感の豊かな音楽は、至高・至純の美しさに満ち溢れている。

終楽章の光彩陸離たる響きも美しさの極みであり、金管楽器や弦楽器のパワフルな力奏も圧巻の迫力を誇っている。

録音の当時、やや低迷期にあったとされるニューヨーク・フィルも、バーンスタインの統率の下、最高のパフォーマンスを示しているのも、本名演の大きな魅力の一つであることを忘れてはならない。

歌曲集も超名演であり、バリトンのハンプソンの歌唱も最高のパフォーマンスを誇っていると高く評価したい。

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2014年08月10日


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第1番におけるバーンスタインは、テンポの思い切った緩急や強弱、アッチェレランドなどを駆使して、情感豊かに曲想を描いている。

それでいて、いささかも表情過多な印象を与えることがなく、マーラーの青雲の志を的確に表現し得たのは驚異の至芸であり、これは、バーンスタインが同曲の本質、引いてはマーラーの本質をしっかりと鷲掴みにしている証左である。

オーケストラにコンセルトヘボウ・アムステルダムを起用したのも、本盤を名演たらしめるのに至らせた大きな要因であり、光彩陸離たる響きの中にも、しっとりとした潤いや奥行きの深さを感じさせるのが素晴らしい。

第2番におけるバーンスタインの解釈は実に雄弁かつ濃厚なものだ。

粘ったような進行、テンポの緩急や強弱の思い切った変化、猛烈なアッチェレランドなどを大胆に駆使し、これ以上は求め得ないようなドラマティックな表現を行っている。

また、切れば血が出るとはこのような演奏のことを言うのであり、どこをとっても力強い生命力と心を込めぬいた豊かな情感が漲っているのが素晴らしい。

バーンスタインのドラマティックで熱のこもった指揮にも、一糸乱れぬアンサンブルでしっかりと付いていっていったニューヨーク・フィルの卓越した技量も見事である。

ヘンドリックスやルートヴィヒも、ベストフォームとも言うべき素晴らしい歌唱を披露している。

ウェストミンスター合唱団も最高のパフォーマンスを示しており、楽曲終結部は圧巻のド迫力。

オーケストラともども圧倒的かつ壮麗なクライマックスを築く中で、この気宇壮大な超名演を締めくくっている。

第3番におけるバーンスタインの表現は、どこをとってもカロリー満点で、濃厚で心を込め抜いた情感の豊かさが演奏全体を支配している。

特に、終楽章は特筆すべき美しさでスケールも気宇壮大、誰よりも遅いテンポで情感豊かに描き出しているのが素晴らしい。

他方、変幻自在のテンポ設定や、桁外れに幅の広いダイナミックレンジ、思い切ったアッチェレランドなどを大胆に駆使するなど、ドラマティックな表現にも抜かりがない。

このように、やりたい放題とも言えるような自由奔放な解釈を施しているにもかかわらず、長大な同曲の全体の造型がいささかも弛緩することなく、壮麗にして雄渾なスケール感を損なっていないというのは、マーラーの化身と化したバーンスタインだけに可能な驚異的な圧巻の至芸である。

特筆すべきは、ニューヨーク・フィルの卓越した技量であり、金管楽器(特にホルンとトロンボーン)にしても、木管楽器にしても、そして弦楽器にしても抜群に上手く、なおかつ実に美しいコクのある音を出しており、本名演に華を添える結果となっている点を忘れてはならない。

ルートヴィヒの独唱や、ニューヨーク・コラール・アーティスツ及びブルックリン少年合唱団による合唱も、最高のパフォーマンスを示している点も高く評価したい。

第4番は、終楽章にボーイ・ソプラノを起用したことにより数々の批判を浴びている曰くつきの演奏ではあるが、筆者としては、確かにボーイ・ソプラノの起用には若干の疑問は感じるものの、総体としては、素晴らしい名演と高く評価したい。

バーンスタインは、同曲に対しても、他の交響曲へのアプローチと同様に、雄弁かつ濃厚な表現を施している点を高く評価したい。

バーンスタインの名演によって、マーラーの第4番の真価が漸くベールを脱いだとさえ言えるところであり、情感の豊かさや内容の濃密さ、奥行きの深さといった点においては、過去の同曲のいかなる演奏にも優る至高の超名演と高く評価したい。

バーンスタインの統率の下、コンセルトヘボウ・アムステルダムも最高のパフォーマンスを示しており、バーンスタインの濃厚な解釈に深みと潤いを与えている点を忘れてはならない。

さすらう若人の歌は、バーンスタインの死の年の録音であり、健康を害している中での思い入れたっぷりの、そして命がけの演奏は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な深い感動を与えてくれる。

ハンプソンも、そうしたマーラーの化身と化したバーンスタインの下、最高のパフォーマンスを示していると言える。

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2014年07月31日


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バーンスタインはマーラーの交響曲全集をDVD作品を含めると3度にわたって録音した唯一の指揮者である。

本盤に収められた全集はその3度目のものであるが、正確に言うと、バーンスタインは本全集を完成する前に惜しくも鬼籍に入ってしまったところだ。

というのも、第8番、「大地の歌」そして第10番の新録音を果たすことができなかったからであり、それ故に、第8番については没後発見されたザルツブルク音楽祭でのライヴ録音(1975年)、「大地の歌」については本盤には未収録、第10番は2度目のDVDによる全集中の演奏(1974年)をCDに焼き直したものが収められているところである。

このような若干の未完成というハンディはあるものの、本全集こそは、あまた存在する様々な指揮者によるマーラーの交響曲全集に冠絶する至高の超名全集と高く評価したい。

バーンスタインは、かつてニューヨーク・フィルの音楽監督の時代には、いかにもヤンキー気質の爽快な演奏の数々を成し遂げていたが、ヨーロッパに拠点を移した後、とりわけ1980年代に入ってからは、テンポは異常に遅くなるとともに、濃厚な表情づけの演奏をするようになった。

それは本全集においても例外ではなく、その演奏は、これまでの1度目、2度目の全集と比較してもテンポの遅さや濃厚さが際立っている。

しかしながら、他の作曲家による楽曲は別として、マーラーの交響曲や歌曲においては、こうしたゆったりとしたテンポによる濃厚さがすべてプラスに作用していると言えるだろう。

そして、バーンスタインのアプローチは、ゆったりとしたテンポや濃厚な表情づけを基軸としつつ、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、そして大胆なアッチェレランドを駆使してこれ以上は求め得ないようなドラマティックな演奏を行っていると言えるところだ。

マーラーの交響曲のテーマは、楽曲によって一部に例外はあるものの、基本的には死への恐怖と闘い、そしてそれと対置する生への妄執と憧憬であると考えるが、バーンスタイン以上にそれを音化し得た演奏は、テンシュテットによる最晩年の演奏以外には存在しないと言っても過言ではあるまい。

こうした渾身の大熱演が我々聴き手の肺腑を打つのであり、前述のように、第8番や第10番など、1970年代の録音も一部に含まれてはいるが、本全集の各演奏こそは、史上最大のマーラー指揮者であったバーンスタインがその最晩年になって漸く成し得た究極の名演奏と言っても過言ではあるまい。

マーラーに縁があった3つの超一流のオーケストラを起用したのも特徴であり、奥行きのある深沈とした表現が必要不可欠な第9番には北ヨーロッパの楽団ならではのくすんだいぶし銀の音色が魅力のコンセルトへボウ・アムステルダムを起用したり、壮麗な迫力を必要とする第2番にニューヨーク・フィルを起用するなど、各オーケストラの使い分けも実に考え抜かれた最善の選択がなされていると評価したい。

第4番の終楽章ではボーイソプラノを起用するなど、若干のやり過ぎの感も否めないところではあるが、本全集全体の評価を貶めるほどの瑕疵があるわけではないものと考える。

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2014年07月27日


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本盤に収められたベートーヴェンの交響曲第7番とブリテンの4つの海の間奏曲は、バーンスタインによる生涯最後のコンサートの記録である。

死の2か月前の演奏でもあるということもあって、本演奏にはただならぬ雰囲気が漂っていると言えるだろう。

ニューヨーク・フィルの音楽監督時代のバーンスタインは、いかにも陽気なヤンキー気質の爽快な演奏を繰り広げていた。

ところが、ヨーロッパに拠点を移し、ウィーン・フィルを恒常的に指揮するようになってからは、テンポは異常に遅くなりとともに、濃厚でなおかつ大仰な演奏をするようになった。

とりわけ、1980年代に入ってからは、かかる特徴が顕著であり、マーラーの交響曲・歌曲やシューマンの交響曲・協奏曲などにおいては比類のない名演を成し遂げる反面、その他の作曲家による楽曲については、疑問符を付けざるを得ないような演奏が目白押しであったように思われる。

このような芸風の著しい変化は、バーンスタインによる体力の衰えが原因なのか、それともバーンスタインの音楽の捉え方がより深化したのかは正直なところよくわからない。

バーンスタインには熱烈なファンも多いことから、かかる芸風の変化を持ってバーンスタインは真の巨匠になったと評価する人もいることも十分に考えられる。

しかしながら、他方では、かかる常識はずれのテンポにとても付いていけないと感じる聴き手が多いのも事実である。

その意味では、本盤の演奏は両曲ともに、かかる晩年の芸風が顕著にあらわれており、途轍もない遅いテンポと重苦しい雰囲気に演奏全体が包まれていると言えるだろう。

ましてや、バーンスタインの体調の悪さも多分にあると思うが、ボストン交響楽団にも戸惑いが見られ、アンサンブルなども大幅に乱れるなど、バーンスタイン、そしてボストン交響楽団によるベストフォームにある演奏とはとても言い難いと言えるところだ。

したがって、本演奏を凡演として切り捨ててしまうのは容易ではあるが、筆者はむしろ、死の2か月前、体調も最悪であったにもかかわらず、渾身の力を振り絞って本演奏会に臨んだバーンスタインの直向きさに強く心を打たれるのである。

そう思って本演奏を聴くと、いかに本演奏が渾身の大熱演であったのかが理解できるところだ。

本演奏はまさに、死を間近に控えたバーンスタインが最後の力を振り絞って成し遂げた魂の音楽であると言えるところであり、その渾身の直向きさが我々聴き手の肺腑を打つのである。

このような魂の音楽に対しては、大仰で重苦しい演奏であるとか些末なアンサンブルのミスなどとは無関係であり、ただただ虚心になって最晩年のバーンスタインによる渾身の大熱演を鑑賞するのみである。

いずれにしても、本演奏は、特にマーラーの交響曲や歌曲において偉大な名演を成し遂げてきた大指揮者バーンスタインの最後の演奏としては痛々しさを感じずにはいられないが、バーンスタインが人生の最後に成し遂げた魂の音楽として、未来永劫に語り伝えたい演奏と高く評価したいと考える。

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2014年07月25日


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1981年11月21日 パリ、シャンゼリゼ劇場におけるライヴ録音。

厳格さのなかに官能的かつ宗教的な響きが内在し、静かな思索と哲学的な沈潜をも感じさせるフランク唯一の交響曲の、バーンスタインとフランス国立管弦楽団による演奏会のライヴ盤。

バーンスタインが活動の拠点をヨーロッパに移し、ドイツ・グラモフォンと契約を締結して数多くの名盤を次々と生み出していった頃の録音で、作品への感情移入の濃厚な演奏と言えるだろう。

演奏はバーンスタインらしくダイナミックで、フランス国立管弦楽団の管楽器群の冴えた音が聴きものである。

バーンスタインはフランス国立管弦楽団の輝かしい響きと管楽器群の明るい響きとを適度に生かして、とかく暗い感じに仕上げられがちなフランクの交響曲を、色彩豊かなものにしている。

このような渋い作品には演奏のコントラストが少々派手気味の方が聴き手に与えるインパクトが強烈になる。

第1楽章は遅く、粘って粘って、ようやくクライマックスに到達したかと思わせてすぐに萎えることの繰り返し。

第2楽章は夢見るように美しい。

第3楽章は一気呵成に進め、全体の流れをうまく構成することで音楽の重みをストレートに味わわせ、圧倒的な盛り上がりを実現しつつ、くどいと思わせるところがない。

つまり作品の重厚さよりも、フランス風の色調の輝きと響きの軽やかさを表出している。

しかしながら、この曲としては多少デモーニッシュに過ぎるかとも思うが、楽譜の指定よりもはるかに自由なテンポ設定には説得力もあり、この曲の魅力を引き出し、新鮮に聴かせているという点では見事。

オケもふんわりとした抑制と音の美しさがあり、怒号しないフォルテが心地よい。

バーンスタインがマーラーに取り組んだときと同じ姿勢で描き出したフランクというところであろうか。

この曲を愛する人であればぜひ聴いておいてほしい演奏。

併録のサン=サンースの「ギリシャ神話」を題材にして作曲された交響詩「オンファールの糸車」は、バーンスタイン風というか、なかなか線の太い表現を聴かせており、この作品が持つファンタジーな楽想を巧みに表現した演奏になっている。

調べたところ、おそらく同曲はバーンスタインが遺した唯一の録音である。

ライヴ録音だが聴衆ノイズはほとんどなく、たっぷりとした残響のあるものではないが、オケの響きはしっかりと捉えられていて、繊細さにも不足はない。

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筆者はバーンスタインを押しも押されぬ史上最大のマーラー指揮者であると考えているが、その精神分裂的な性格がマーラーと通底するシューマンの交響曲や協奏曲を除けば、バーンスタインの指揮する独墺系の音楽は今一つ彫りの深さを感じさせる演奏が少ないと言える。

とりわけ、1980年代以降のバーンスタインの録音には、異常なスローテンポによる大仰な表情づけの演奏が増えてきたことから、マーラーやシューマンの楽曲を除いては、いささかウドの大木の誹りを免れない浅薄な凡演が多くなったと言わざるを得ない。

しかしながら、筆者も本盤に収められたベートーヴェンの交響曲全集を久々に聴き返してみたが、1977〜1979年のライヴ録音ということもあって、1980年代の演奏のような大仰さがなく、ウィーン・フィルによる名演奏も相俟って、素晴らしい名演に仕上がっていると言えるのではないだろうか。

バーンスタインは、1961〜1964年にかけてニューヨーク・フィルとともにベートーヴェンの交響曲全集をスタジオ録音しているが、それはいかにもヤンキー気質丸出しのエネルギッシュな演奏であり、随所に力づくの強引な最強奏も聴かれるなど外面的な効果だけが際立った浅薄な演奏であった。

本盤に収められた演奏でも、バーンスタインの音楽に彫りの深さを感じることは困難であるが、持ち前のカロリー満点の生命力に満ち溢れた演奏に、ウィーン・フィルによる極上の美演が付加されることにより、演奏全体に潤いと適度な奥行き、そして重厚さを付加することに成功している点を忘れてはならない。

いずれにしても、本全集は、バーンスタインによるエネルギッシュな力感溢れる指揮に、ウィーン・フィルによる美演が加わったことにより、剛柔バランスのとれた素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

仮に、本全集の録音に際して、バーンスタインがウィーン・フィル以外のオーケストラを起用していたとすれば、これほどの魅力的で奥行きのある演奏にはならなかったのではないかとも考えられるところだ。

録音は、この廉価盤でも十分に満足できる良好な音質である。

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バーンスタインは、ビデオ作品を含め3度にわたってマーラーの交響曲全集を録音した唯一の指揮者であるが、3度目の全集については、実際には、交響曲第8番、第10番、そして「大地の歌」を録音することなく鬼籍に入ってしまった。

3度目の全集を構成する各交響曲や歌曲集のいずれもが至高の超名演であっただけに、大変に残念なことであると考えている。

本盤の「大地の歌」は、このような事情から3度目の全集の中に収められていないが、実際には1966年の録音であり、バーンスタインが2度録音した「大地の歌」のうちの最初のもの。

しかも、ウィーン・フィルにデビューしたての頃の録音である。

したがって、バーンスタインも、名門ウィーン・フィルを前にして、相当に気合が入っていたのではないだろうか。

同時期に録音された歌劇「ファルスタッフ」では遠慮があったと言えるが、マーラーにおいては、確固たる自信からそのような遠慮など薬にしたくもなかったに相違ない。

他方、ウィーン・フィルにとっては、カラヤンを失ったばかりでもあり、カラヤンに対抗するスター指揮者を探すべく躍起となっていた時期であった。

それ故に、本盤では、意欲満々のバーンスタインと、自らの新しいヒーローを前にして全力を尽くしたウィーン・フィルの底力が相乗効果を発揮した至高の名演ということができるのではないかと考えられる。

「大地の歌」には、ワルター&ウィーン・フィル(1952年)とクレンペラー&フィルハーモニア管弦楽団(1964年)という歴史的な超名演が存在するが、本盤は、この両者に唯一肉薄する名演と高く評価したい。

なお、本演奏において、独唱には通常のアルトに代わってバリトンを起用しているが、ここでのフィッシャー・ディースカウの独唱は、違和感をいささかも感じさせず、むしろバリトンの起用にこそ必然性が感じられるような素晴らしい名唱を披露している。

その名唱は上手過ぎるとさえ言えるが、これだけ堪能させてくれれば文句は言えまい。

テノールのキングも、ディースカウにいささかも劣らぬ好パフォーマンスを示しているのも素晴らしい。

英デッカならではの艶やかで鮮明な高音質録音も素晴らしく、この名演に華を添えている。

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2014年07月24日


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これは素晴らしい名演だ。

若き日のバーンスタインによる傑作の一つと言っても過言ではあるまい。

バーンスタインは、1980年代に入ると、演奏のテンポが大幅に遅くなるとともに、濃厚でいささか大仰な演奏を行うようになった。

マーラーの交響曲・歌曲集など、極めて優れた円熟の名演もある一方で、かかる晩年の芸風が大きくマイナスに働き、ウドの大木の誹りを免れないような凡演も多かったというのも否めない事実であった。

しかしながら、ニューヨーク・フィルの音楽監督(1958〜1970年)を務めていた時代の若き日のバーンスタインの演奏は、こうした晩年の芸風とは正反対であり、若武者ならではの爽快で溌剌とした快演を数多く行っていたところだ。

ある意味ではヤンキー気質丸出しの演奏と言えるところであり、オーケストラにも強引とも言うべき最強奏させることも多々あったが、それ故に音楽内容の精神的な深みの追求など薬にしたくもない薄味の演奏も多かったと言えるところだ。

もっとも、自ら作曲も手がけていたという類稀なる音楽性の豊かさは顕著にあらわれており、自らの芸風と符号した楽曲においては、熱のこもった途轍もない名演を成し遂げることも多かったと言える。

例えば、この時代に完成されたバーンスタインによる最初のマーラーの交響曲全集(1960〜1975年)は、後年の3つのオーケストラを振り分けた全集(1966〜1990年)とは違った魅力を有している。

そして、本盤に収められたガーシュウィンやグローフェについても、当時のバーンスタインの芸風と符号しており、爽快で圧倒的な生命力に満ち溢れたノリノリの指揮ぶりが見事である。

とりわけ、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」においては、バーンスタインが指揮のみならずピアノまで受け持っているが、その才気が迸った情感のこもったピアノ演奏は、本名演の価値をさらに高めることに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

円熟という意味では後年の演奏(1982年)を採るべきであるが、圧倒的な熱演という意味においては本演奏もいささかも引けを取っていないと考える。

また、「パリのアメリカ人」は、あたかもこれからヨーロッパに進出していくバーンスタインの自画像を描いているような趣きがあり、自らに重ね合わせたかのような大熱演は、我々聴き手の度肝を抜くのに十分な迫力を誇っている。

グローフェの組曲「グランド・キャニオン」の各場面の描き分けの巧みさは心憎いばかりであるし、どの曲も圧倒的な名演奏を仕上がっているのが素晴らしい。

音質は、今から約50年前のものであり、必ずしも満足できるものではなかったが、数年前に発売されたシングルレイヤーによるSACD盤は、DSDリマスタリングも相俟って、見違えるような高音質に生まれ変わったところだ。

若きバーンスタインによる名演を従来盤とは別次元の鮮明な音質で味わうことのできることを大いに喜びたい。

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バーンスタインは、クラシック音楽史上最大のマーラー指揮者であると考えるが、これに対して、ブルックナーについては交響曲第9番しか演奏していない。

その理由は定かではないが、自らの芸風との相性や宗教上の問題など、様々な問題があったのかもしれない。

もっとも、交響曲第9番については、2度にわたって録音していることに鑑みれば、バーンスタインは同曲に対しては深い愛着と拘りを有していたと考えられるところだ。

最初の録音は、当時の手兵であったニューヨーク・フィルとの演奏(1969年)、そして2度目の録音が本盤に収められたウィーン・フィルとの演奏(1990年)である。

最初の録音は、いかにも若き日のバーンスタインならではの爽快な演奏と言えるだろう。

この当時のバーンスタインは、ヤンキー気質の爽快な演奏の数々を成し遂げていたが、当該演奏もその一連の演奏に連なるものであったと言える。

そのようなバーンスタインも、ニューヨーク・フィルの音楽監督を離任し、ヨーロッパに拠点を移した後、とりわけ1980年代に入ってからは、テンポは異常に遅くなるとともに、濃厚でなおかつ大仰な演奏をするようになった。

このような芸風に何故に変貌したのかはよくわからないところであるが、かかる芸風に適合する楽曲とそうでない楽曲があり、途轍もない名演を成し遂げるかと思えば、とても一流指揮者による演奏とは思えないような凡演も数多く生み出されることになってしまったところだ。

具体的には、マーラーの交響曲・歌曲やシューマンの交響曲・協奏曲などにおいては比類のない名演を成し遂げる反面、その他の作曲家による楽曲については、疑問符を付けざるを得ないような演奏が目白押しであったように思われる。

本盤に収められた演奏も、ゆったりとしたテンポによる熱き情感に満ち溢れた濃厚さは健在であり、例えば、本盤の後に登場したヴァントや朝比奈などの名演などと比較すると、あまりにも人間臭く、そして表情過多でもあって、ブルックナーの交響曲演奏としては異質にさえ感じられるとも言えるだろう。

したがって、本演奏をいわゆるブルックナー的な演奏ではないと言って切り捨てるのは容易であると考えられる。

しかしながら、本演奏は、死の数か月前の演奏ということもあって、バーンスタインが自らのこれまでの人生を自省の気持ちを込めて振り返るような趣きがあると言えるところであり、人生の諦観や枯淡の境地を感じさせるような独特の味わい深さが存在していると言えるのではないだろうか。

そして、ウィーン・フィルも、そうしたバーンスタインの心底に深く共感し、望み得る最高の演奏を展開しているとも言えるところだ。

バーンスタインのいささか荒々しささえ感じさせる指揮によるブラスセクションの無機的な響きも、ウィーン・フィルによる美音によって、独特の潤いと温もりを付加するのに貢献しているのを忘れてはならない。

いずれにしても、本演奏は正統派のブルックナー演奏とは言い難いものであるが、バーンスタインが最晩年に至って到達し得た至高・至純の境地をあらわした佳演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

音質は従来CD盤でも十分に満足できる高音質であったが、今般のSHM−CD化によって、音質がより鮮明に再現されるとともに、音場が幅広くなったように思われる。

いずれにしても、バーンスタインによる最晩年の佳演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2014年03月27日


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本DVDには、ショパンと同じポーランド生まれの類稀な才能を持ったピアニスト、クリスティアン・ツィマーマンと卓越したテクニックで独特の情感を創り出す天才指揮者、レナード・バーンスタインの共演が収録されている。

第1番は1984年、第2番は1985年の録音であり、ツィマーマンが30歳間近、バーンスタインが急逝する5年前の作品となるが、素晴らしい名演と高く評価したい。

バーンスタインは、かつてニューヨーク・フィルの音楽監督の時代には、いかにもヤンキー気質の爽快な演奏の数々を成し遂げていたが、ヨーロッパに拠点を移した後、とりわけ1980年代に入ってからは、テンポは異常に遅くなるとともに、濃厚でなおかつ大仰な演奏をするようになった。

このような芸風に何故に変貌したのかはよくわからないところであるが、かかる芸風に適合する楽曲とそうでない楽曲があり、途轍もない名演を成し遂げるかと思えば、とても一流指揮者による演奏とは思えないような凡演も数多く生み出されることになってしまったところだ。

具体的には、マーラーの交響曲・歌曲やシューマンの交響曲・協奏曲などにおいては比類のない名演を成し遂げる反面、その他の作曲家による楽曲については、疑問符を付けざるを得ないような演奏が目白押しであったように思われる。

本盤の演奏とほぼ同時期に、バーンスタインはウィーン・フィルとともにブラームスの交響曲全集をライヴ録音(1981〜1982年)しており、当該演奏もどちらかと言えば疑問符を付けざるを得ない点も散見されるところであるが、ウィーン・フィルの懐の深い音色が演奏を浅薄なものに陥るのを避けるための大きな防波堤になり、少なくとも佳演との評価は可能な演奏に仕上がっている。

一方、本盤の演奏においても、基本的には交響曲全集の場合と同様であり、いかにもバーンスタインの晩年の芸風が色濃く反映された演奏に仕上がっている。

両曲の第1楽章冒頭の超スローテンポによる開始には殆ど閉口させられるが、その後も極めて遅いテンポ、ゲネラルパウゼの多用、粘ったような曲想の進行、濃厚さの極みとも言うべき表情過多な表現などが駆使されており、これ以上は考えられないような濃密な音楽が構築されている。

したがって、いわゆるドイツ正統派のブラームス演奏とは百八十度異なる異色の演奏であり、バーンスタインがマーラーの交響曲の演奏で垣間見せるヒューマニティ溢れる熱き心で満たされているとさえ言えるだろう。

まさに、バーンスタインの体臭が芬々としている演奏と言えるところであり、これは好き嫌いが明確に分かれる演奏であるとも言えるところだ。

もっとも、本盤の演奏では、ツィマーマンのピアノが清新さに満ち溢れた名演奏を展開していることから、バーンスタインの体臭芬々たる濃厚な演奏が若干なりとも中和されていると言えるところであり、交響曲全集ほどの違和感を感じさせることがないと言える。

ツィマーマンのピアノ演奏については、若さ溢れる演奏でありながら、卓越した技術と音楽性がブレンドされ、既にヴィルトゥオーゾとしての風格が出始めている演奏だ。

これをバーンスタインがさらに昇華させており、ひとつの芸術作品としての存在感を示している。

ツィマーマンの若い頃の演奏を改めて観て感じたが、彼の音楽性はブレていないように思われる。

それは、ツィマーマンが音楽に対して真摯にそして一切の妥協を許さず向き合っている証拠である。

今なお進化し続けているのは、ツィマーマンの根幹にこれが存在するからなのだろう。

そして、ウィーン・フィルによる懐の深い美演が、演奏全体に独特の潤いを与えているのを忘れてはならないところだ。

いずれにしても、以上の点を総合的に勘案すれば、本盤の演奏を名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

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2014年03月17日


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まず、SACDシングルレイヤーとSHM−CDを組み合わせた本盤の超極上の高音質を高く評価したい。

本演奏は、もともと英デッカによる高音質録音であり、従来CDでもかなりの高音質を誇っていたが、その後、SACDハイブリッド盤、SHM−CD盤など、様々な高音質化への取り組みがなされてきた。

しかしながら、本盤は、これまでのCDとは一線を画する究極の高音質である。

演奏内容であるが、素晴らしい名演だ。

バーンスタインは、マーラー指揮者としては、歴史にも名が残る大巨匠と言えるが、他の作曲家の作品については、アメリカの作曲家など、一部を除いて疑問符をつけざるを得ないと考えている。

特に、ドイツ音楽は、雄弁ではあるが、底の浅さが目立つ浅薄な演奏が多く、名演とは言い難いものが多い。

ベートーヴェンやブラームスの交響曲全集など、ウィーン・フィルの力もあって、一定の水準には達しているとは思うが、大仰さだけが際立った演奏であり、せいぜい佳演という評価が精一杯。

シューマンは、作曲当時の病的な精神状態がマーラーのそれと似通った側面があるせいか、名演との評価は可能だと思うが、濃厚な表情づけのモーツァルトのレクイエムなど、凡庸な演奏には事欠かない。

しかしながら、そのような中でも、本盤は例外中の例外といった趣きの名演なのだ。

それには1966年という録音年代を考慮に入れる必要があるだろう。

バーンスタインも、ウィーン・フィルにデビューしたばかりであり、「リンツ」などウィーン・フィル任せでほとんど指揮しなかったであろうし、ピアノ協奏曲第15番におけるピアノも、ウィーン・フィルの演奏に合わせた印象を受ける。

こうした自我を抑えた謙虚な姿勢が、皮肉にも、このような素晴らしい名演を生み出したと言える。

当時のウィーン・フィルは、カラヤンを失い、カラヤンに対抗し得るスター指揮者の発掘にやっきとなっていたが、そうした力強い意気込みが、ウィーン・フィルをして、このような名演奏を成し遂げさせたのだとも言えよう。

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2014年03月03日


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バーンスタインによる晩年の演奏はその殆どが濃厚さの極みであり、時として異様に遅いテンポをとるなど大仰な表現が数多く散見されるところだ。

かつてのニューヨーク・フィル時代のヤンキー気質丸出しの爽快な演奏からすると、まるで人が変わったような変容ぶりである。

したがって、バーンスタインの晩年の演奏ほど賛否両論がある演奏はないのではないだろうか。

私見を申し上げれば、このようなバーンスタインによる晩年の演奏には苦手なものが多く、例えばドヴォルザークの交響曲第9番、チャイコフスキーの交響曲第6番、シベリウスの交響曲第2番など、とても聴くに堪えない場違いな凡演に成り下がっているとも考えている。

しかしながら、そのような晩年のバーンスタインが素晴らしい名演を成し遂げた楽曲がある。

それがマーラーの交響曲・歌曲であり、そしてもう一つが本盤に収められたシューマンの交響曲・協奏曲である。

このうちマーラーについては、もはや論ずる必要はないだろう。

変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使してドラマティックの極みとも言うべき演奏を展開しており、あたかもバーンスタインがマーラーの化身と化したような、他の追随を許さない超名演の数々を成し遂げていた。

そして、シューマンについてであるが、バーンスタインの指揮するドイツ音楽は雄弁ではあるが薄味のものが少なくない。

名演と評価し得るものもないことはないが、それはウィーン・フィルの魅力的な美演に起因するものであると言えなくもない。

しかしながら、シューマンに関しては、ウィーン・フィルによる魅力的な美演に関わらず、交響曲にしても協奏曲にしても素晴らしい名演に仕上がっていると言えるだろう。

その理由はよくわからないが、バーンスタインがシューマンの楽曲の根底に潜む心の病巣や絶望感のようなものに、マーラーの交響曲と通底するものを感じ取っていたのかもしれない。

このように、本盤に収められた演奏はいずれもバーンスタインならではのドラマティックとも言うべき名演なのであるが、マーラーの場合とは異なり、各曲の演奏史上最高の名演とは言えないということに留意する必要がある。

交響曲第1番であればクレンペラー&フィルハーモニア管(1965年)、第2番であればシノーポリ&ウィーン・フィル(1983年)、第3番はシューリヒト&パリ音楽院管(1953年)又はジュリーニ&ロサンゼルス・フィル(1980年)、第4番はフルトヴェングラー&ベルリン・フィル(1953年)が随一の名演であり、マイスキーが渾身のチェロ演奏を披露するチェロ協奏曲を除いてベストワンの名演とは言い難いが、最大公約数的には優れた名演集と高く評価したい。

録音は、従来CD盤でも十分に満足できる音質と言えるが、数年前に発売されたSHM−CD盤が現時点ではベストの音質である。

SHM−CD盤は現在でも入手可能であり、今後購入される方には是非ともSHM−CD盤をお薦めしたい。

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2014年02月26日


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筆者はこれまでにバーンスタインの晩年の演奏を、テンポを落とす箇所は極限まで遅く、逆に攻め込むところは一気に…という事大主義的で常軌を逸した解釈に疑問を呈してきたが、チャイコフスキーの「第5」の演奏は何故か少しも作為的ではなく、むしろ一段と説得力と必然性を伴っている印象を受けた。

第1楽章の序奏からして、ひたすら暗い。ターラーという下降する音が執拗に強調されるため、まったく救いようがない音楽になっているのだ。

しかも、主部に入ると突如テンポが速くなるので、ギクリとさせられる。もはや落ち込んでいることも許されず、せっつかれるかのようだ。

その後もテンポを大きく動かし、振幅の大きな音楽が続く。

チャイコフスキーはペシミスティックな人間だったが、彼の作品をこれほどまでにどん底の暗さで奏でた指揮者はあまりいない。

およそ15分の地点で訪れる崩壊感も、神経の細い人なら耳を覆いたくなるくらい、凄まじい。

世界的な名声を手に入れ、経済的にも豊かな音楽家がこのような異常な演奏をしてしまうところ、まさにそこにクラシック音楽としての恐ろしさがある。

第2楽章の開始も、途轍もなく重苦しい。まるで悪夢のようだ。

やがてホルンが美しいメロディを吹き始めるが、これは暗黒の中にあって一条の光にもなりきれない希望の気配である。

およそ4分の地点で聴かれるチェロとコントラバスの不気味な力といい、まさに絶望とほんのわずかの希望の交錯する比類のない音楽であり、ひたすらもがく人間がいるばかりである。

第4楽章も、まるで刑場に引き出されるといった気分で始まるのに驚かされる。やはりテンポは極限まで遅く、その上、随所で止まりそうに減速される。

この楽章は普通に演奏すると、妙に軽々しくまた騒々しくなってしまうのだが、バーンスタイン流は違う。

遅いところは極端に遅く暗く、速いところはとびきり速くという設定だから、前から続いてきた二元論的ドラマが持続するのだ。

いよいよ、最後、勝利の行進では、演奏家が作品を信じていること、音楽を信じていることがよくわかる。

そして、これは信じないと説得力をもって演奏できない種類の音楽では確かにあるのだ(作曲家自身ですら、完成させたあとで、何か嘘くさいと告白している)。

音楽は一挙に解放され、圧倒的なクライマックスに達するが、こんな演奏は純粋さがない人間には絶対に不可能である。

ニューヨーク・フィルがバーンスタインのやりたい放題、常識から言えば滅茶苦茶にブチ切れた解釈に食らいついてくるのにも感心するほかない。

さすがのバーンスタインもこのような異常な演奏は、長年率いたニューヨーク・フィル以外とはなかなか実現できなかった。

「ロメオとジュリエット」は「第5」ほど大胆な強調は行われていないものの、ここまで曲への共感を露わにした演奏は他にはないのではないかとすら思わせる名演奏である。

第一に、楽器の表現力の雄弁なこと。弦楽器のハーモニーは実に美しく、哀切感を盛り上げる。

しばしばうるさいばかりで雑な音をたてると悪評されるニューヨーク・フィルがこんな響きを出すこともあるのだと心底感嘆せずにはいられない。

若い恋人たちの逢瀬の場においては、弦楽器が濡れそぼつような響きを立てているし、フルートやオーボエは陶酔的に歌っている。

これを聴いていると、まるで自分が物語の主人公になったかのような気がしてくる。

いざとなればこんな震え上がるような演奏ができる、これが世界のトップオーケストラたちの恐ろしい実力なのである。

音楽が破局に向かっていく最中に聴かれる、大波が打ち寄せるような弦楽器のうねりに端的に表れているように、スケールも極大で、これでこそ、ロメオとジュリエットの悲劇が生々しい事件としてわれわれの眼前に広がるのだ。

その上、最後がとても印象的だ。普通、ここは浄化されたように奏される。ロメオとジュリエットは地上では不幸だったが天国で結ばれる、また、ふたりの犠牲を目の前で見て人々も自分たちの愚かさに気づき、仲直りをするはずだからだ。

だが、バーンスタインではまったく浄化されたように聴こえない。彼はこの都合のいい救いを信じていないようだ。むしろ、いささか憤怒の様子で曲は閉じられる。

現代の世界情勢を見ても、苦しみには終わりがない。この物語のようにうまく仲直りはできない。とするなら、このバーンスタインの演奏はきわめてリアルだと言うしかないだろう。

彼は晩年において、このように、同時代に匹敵する者がいないくらい、独自の表現世界へ入っていった。

内面の吐露、いや苦しみを吐き出すという言葉がぴったりの音楽で、私小説のような業苦の世界が提示された。

バーンスタインは、最後の最後に至るまで、現世の苦痛の中でもがいていたように見える。それゆえ聴衆が彼を圧倒的に支持したのではないかとも思うのである。

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2014年02月17日


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バーンスタインはホルストの組曲『惑星』を一度だけスタジオ録音している。

バーンスタインは、晩年に自らのレパートリーの再録音をDGに数多く行ったことから、もう少し長生きしていれば同曲の再録音をウィーン・フィルなどと行った可能性もあるが、晩年の芸風に鑑みれば、再録音が実現することが果たして良かったかどうかは疑問であるとも言える。

というのも、バーンスタインの晩年の演奏は、表情づけは濃厚の極みになるとともに、テンポは異常に遅くなったからだ。

マーラーの交響曲・歌曲やシューマンの交響曲・協奏曲については、かかる晩年の芸風が曲想に見事に符号し、圧倒的な超名演の数々を成し遂げるのに繋がったが、その他の大半の楽曲、とりわけ独墺系以外の作曲家の作品については、例えばチャイコフスキーの交響曲第6番、ドヴォルザークの交響曲第9番、シベリウスの交響曲第2番など、箸にも棒にもかからない凡演を繰り返したところである。

ところが、バーンスタインがニューヨーク・フィルの芸術監督をつとめていた1970年までは、こうした晩年の大仰な演奏とは別人のような演奏を行っていた。

良く言えば、躍動感溢れる爽快な演奏、悪く言えばヤンキー気質丸出しの底の浅い演奏。

もっとも、バーンスタインらしさという意味では、この当時の演奏を評価する聴き手も多数存在しているところであり、演奏内容の浅薄さはさておき、筆者としても当時のバーンスタインの思い切りのいい躍動感溢れる爽快な演奏を高く評価しているところだ。

本盤に収められた組曲『惑星』は、ニューヨーク・フィルの音楽監督を退任した1年後の演奏ではあるが、かかる躍動感溢れる爽快な芸風は健在。

「火星」の終結部など、いささか力づくの強引な荒々しささえ感じさせる箇所がないわけではないが、楽曲が組曲『惑星』だけに違和感など微塵も感じさせることがない。

また、こうした標題音楽だけに、当時のバーンスタインの演奏の欠点でもあった、演奏の底の浅さなども致命的な欠陥にはならず、英国音楽ならではの詩情にはいささか不足するきらいはあるものの、強靱な迫力と躍動感に満ちた素晴らしい名演と高く評価したい。

併録のブリテンの「4つの海の間奏曲」は、組曲『惑星』以上にバーンスタインの多彩な才能を感じさせる超名演であり、演奏の持つ強靭な生命力や気迫という意味においては、最晩年のボストン交響楽団との名演(1990年)よりも優れた名演と評価し得るものと考えられるところだ。

ニューヨーク・フィルもバーンスタインの統率の下、その技量を十二分に発揮した渾身の名演奏を展開しているのが見事である。

音質は、従来盤が1971年のスタジオ録音だけに今一つの平板なものであったが、数年前に発売されたシングルレイヤーによるマルチチャンネル付きのSACD盤が圧倒的な高音質である。

そもそも、マルチチャンネルとシングルレイヤーの組み合わせは他にも殆ど例がないだけに、SACDの潜在能力を最大限に発揮した究極のSACD盤として、極めて希少なものである。

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2013年12月25日


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これもまたどうしようもない演奏だ。

一時はカラヤンと覇を争うほどの大指揮者であったバーンスタインが、何故にこのような駄演を行ったのか理解に苦しむ。

かつては筆者もこの濃厚な演奏を「メンゲルベルクの再来を思わせるスーパーロマンティシズムを感じる」などと絶賛したものだったが、それから歳を重ねるにつれて、聴く度ごとに、バーンスタインの表現の大仰さは、本来本質的に寡黙な作曲家であるシベリウスにそぐわないように段々感じられてきたところだ。

第1楽章はそれでもまだましと言える。

大仰で濃厚の極みとも言うべき音楽は、シベリウスの音楽というよりはマーラーの音楽を鑑賞しているような錯覚を起こさせるが、テンポなども含めとりあえずは常識の範囲内におさまっており、少なくとも凡演のレベルには達している。

ところが第2楽章、バーンスタインは何を勘違いしたのであろうか。

にわかには信じ難いような超スローテンポで曲想を進めていくが、ここまでいくともはや音楽ではなく単なる音の羅列ではあるまいか。

バーンスタインが、このような音の羅列で何を表現したかったのかは不明であるが、少なくともこの楽章に関しては、よほどのバーンスタインの熱狂的なファンでないと、全体を聴き通すことすら苦痛であると言えるだろう。

第3楽章は、本演奏の中ではもっともまともな演奏と言える。

中間部の粘ったような音楽はいかにも晩年のバーンスタインであり、その濃厚な体臭に辟易としないでもないが、少なくとも第2楽章の音の羅列を聴いた後では一服の清涼剤のように感じる聴き手は筆者だけではあるまい。

そして終楽章であるが、思わず耳を覆いたくなる。

シベリウスが作曲した旋律の中でも特に勇壮で美しい名旋律を、バーンスタインはチューバを最強奏させることによって品の悪い騒音に変容させてしまった。

このような演奏を聴いていると、聴いていて恥じらいさえ覚えるほどであり、晩年のバーンスタインはあらゆる楽曲をマーラーの音楽であると思っていたのではないかと勘繰りたくもなる。

いずれにしても、本演奏は同曲演奏史上でも最悪の駄演であり、熱狂的なバーンスタインのファンだけに存在意義がある演奏と言えるだろう。

バーンスタインは、1960年代にもニューヨーク・フィルを指揮して同曲を録音しており、それはヤンキー気質丸出しの外面的な演奏とは言えるが、本演奏よりはよほど優れているのではないかと考えられるところだ。

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もう晩年のバーンスタインの演奏に関して、優等生的に評するのは止めにしたい。

バーンスタインの芸風は、1980年代に入ってから大きく変化したように思われる。

テンポが著しく遅くなるとともに、表現は雄弁できわめて大仰なものとなったからである。

こうした変化は、バーンスタインの健康の衰えによるものなのか、それとも晩年になって感情移入の度合いが高くなってきたためなのか定かではないが、いずれにしても、その変化の大きさは、常識をはるかに超えているとさえ言えるだろう。

バーンスタインには、熱烈な愛好者も多く存在しており、そのような人からすれば、かかる演奏を持って、晩年になって新境地を開いたとか、スケールが雄大になったとか、あるいは真の巨匠になったなどと評価するのであろう。

しかしながら、一般の愛好者の中には、とてもついていけないと感じる人も相当数いるのではないだろうか。

かく言う筆者もその一人である。

マーラーや、精神分裂気質がマーラーと似通っているシューマンの楽曲の演奏については、筆者は高く評価している。

それどころか、特にマーラーについては、バーンスタインこそは史上最高のマーラー指揮者として高く評価しているところだ。

しかしながら、その他の作曲家による大半の楽曲の演奏については、雄弁であるが内容は空虚。

スケールはやたら大きいが、いわゆるウドの大木の誹りは免れないのではないかと考えている。

本盤に収められたドヴォルザークの「第9」も、そのようなバーンスタインの欠点が露骨にあらわれた凡演と言えるだろう。

バーンスタインは、最晩年になって、あらゆる楽曲がマーラー作曲の楽曲のように感じるようになったのであろうか。

粘ったような進行や表情過多とも言える大仰さはほとんど場違いな印象を与えるところであり、とりわけ第2楽章のあまりにも前に進んで行かない音楽にはほとほと辟易とさせられた。

バーンスタインは、1962年にニューヨーク・フィルと同曲を録音しているが、そちらの方がよほど優れた演奏であり、いかにもヤンキー気質の力づくの箇所もないわけではなく名演と評価するには躊躇するが、若武者ならではの爽快な演奏であった。

本盤での救いは、併録のスラヴ舞曲集であろう。

これとて、大仰さが気にならないわけではないが、交響曲よりはよほどまともな演奏と言える。

録音は交響曲が1988年、スラヴ舞曲集が1986年のライヴ録音であり、従来盤でも十分に満足し得る高音質であったが、今般のSHM−CD化によって、若干鮮明さを増すとともに音場が広がったように感じられる。

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もう晩年のバーンスタインの演奏に関して、優等生的に評するのは止めにしたい。

バーンスタインは、チャイコフスキーの第6番をマーラーの第6番と勘違いしているのであろうか。

確かに、同曲には「悲愴」と言う愛称が付いてはいるがそもそも「悲劇的」とは異なる。

しかも、もっと大事なことは、チャイコフスキーはマーラーではないということである。

最晩年のバーンスタインの演奏には、このような勘違いの演奏が極めて多かったと言わざるを得ない。

かかる勘違いの演奏は、本盤と同時に発売されたドヴォルザークの「第9」、モーツァルトのレクイエム、ショスタコーヴィチの「第7」、シベリウスの「第2」など、枚挙にいとまがないほどである。

同時期に録音されたマーラーの交響曲や歌曲の一連の演奏は、いずれもそれぞれの楽曲の演奏史上最高の超名演であるにもかかわらず、その他の作曲家による大半の楽曲の演奏に際しては、とても同一の指揮者による演奏とは思えないような体たらくぶりである。

バーンスタインは、このような勘違いの演奏を意図して行ったのか、それとも好意的に解釈して、健康悪化によるものなのかはよくわからないが、いずれにしても、これらの演奏の数々は、バーンスタインとしても不名誉以外の何物でもない。

本盤の「悲愴」の演奏も、粘ったようなリズムで少しも先に進んでいかない音楽であるが、その大仰さが例によって場違いな印象を与える。

スケールはやたら肥大化しているが、内容はきわめて空虚にして浅薄で、まさにウドの大木の最たるものと言えるだろう。

とりわけ終楽章の殆ど止まってしまうのではないかと思われるような超スローテンポにはほとほと辟易とさせられてしまった。

もちろん、バーンスタインには熱烈な支持者がいることから、このような演奏をスケールが雄大であるとか、巨匠風の至芸などと褒めたたえたりするのであろうが、一般の愛好者の中には、筆者のようにとてもついていけないと感じる人も多いのではないだろうか。

本盤の救いは併録のイタリア奇想曲であろう。

こちらの方は、例によって大仰な表現ではあるが、「悲愴」のような凡演ではなく、濃厚な味わいのある好演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

録音は、1980年代半ばのライヴ録音であり、もともと十分に満足できる音質であったが、今般のSHM−CD化によって、音質がやや鮮明になるとともに音場が広くなったように感じられる。

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2013年12月16日


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本盤には、バーンスタインがツィマーマンと組んでライヴ録音したブラームスのピアノ協奏曲第2番が収められているが、素晴らしい名演と高く評価したい。

バーンスタインは、かつてニューヨーク・フィルの音楽監督の時代には、いかにもヤンキー気質の爽快な演奏の数々を成し遂げていたが、ヨーロッパに拠点を移した後、とりわけ1980年代に入ってからは、テンポは異常に遅くなるとともに、濃厚でなおかつ大仰な演奏をするようになった。

このような芸風に何故に変貌したのかはよくわからないところであるが、かかる芸風に適合する楽曲とそうでない楽曲があり、とてつもない名演を成し遂げるかと思えば、とても一流指揮者による演奏とは思えないような凡演も数多く生み出されることになってしまったところだ。

具体的には、マーラーの交響曲・歌曲やシューマンの交響曲・協奏曲などにおいては比類のない名演を成し遂げる反面、その他の作曲家による楽曲については、疑問符を付けざるを得ないような演奏が目白押しであったように思われる。

本盤の演奏とほぼ同時期に、バーンスタインはウィーン・フィルとともにブラームスの交響曲全集をライヴ録音(1981〜1982年)しており、当該演奏もどちらかと言えば疑問符を付けざるを得ない点も散見されるところであるが、ウィーン・フィルの懐の深い音色が演奏を浅薄なものに陥るのを避けるための大きな防波堤になり、少なくとも佳演との評価は可能な演奏に仕上がっている。

一方、本盤の演奏においても、基本的には交響曲全集の場合と同様であり、いかにもバーンスタインの晩年の芸風が色濃く反映された演奏に仕上がっている。

第1楽章冒頭の超スローテンポによる開始には殆ど閉口させられるが、その後も極めて遅いテンポ、ゲネラルパウゼの多用、粘ったような曲想の進行、濃厚さの極みとも言うべき表情過多な表現などが駆使されており、これ以上は考えられないような濃密な音楽が構築されている。

したがって、いわゆるドイツ正統派のブラームス演奏とは百八十度異なる異色の演奏であり、バーンスタインがマーラーの交響曲の演奏で垣間見せるヒューマニティ溢れる熱き心で満たされているとさえ言えるだろう。

まさに、バーンスタインの体臭が芬々としている演奏と言えるところであり、これは好き嫌いが明確に分かれる演奏であるとも言えるところだ。

もっとも、本盤の演奏では、ツィマーマンのピアノが清新さに満ち溢れた名演奏を展開していることから、バーンスタインの体臭芬々たる濃厚な演奏が若干なりとも中和されていると言えるところであり、交響曲全集ほどの違和感を感じさせることがないと言える。

そして、ウィーン・フィルによる懐の深い美演が、演奏全体に独特の潤いを与えているのを忘れてはならないところだ。

いずれにしても、以上の点を総合的に勘案すれば、本盤の演奏を名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

音質は、本従来盤でも十分に満足できるものであるが、先般発売されたSHM−CD盤は、若干ではあるが音質が鮮明になるとともに、音場が幅広くなったように思われる。

バーンスタイン、そしてツィマーマンによる素晴らしい名演をSHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2013年11月30日


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バーンスタインは、その晩年にウィーン・フィルとともにモーツァルトの主要な交響曲集のライヴ録音を行ったところであり、本盤に収められた交響曲第40番及び第41番はその抜粋である。

バーンスタインは、かつてニューヨーク・フィルの音楽監督の時代には、いかにもヤンキー気質の爽快な演奏の数々を成し遂げていたが、ヨーロッパに拠点を移した後、とりわけ1980年代に入ってからは、テンポは異常に遅くなるとともに、濃厚でなおかつ大仰な演奏をするようになった。

このような芸風に何故に変貌したのかはよくわからないところであるが、かかる芸風に適合する楽曲とそうでない楽曲があり、とてつもない名演を成し遂げるかと思えば、とても一流指揮者による演奏とは思えないような凡演も数多く生み出されることになってしまったところだ。

具体的には、マーラーの交響曲・歌曲やシューマンの交響曲・協奏曲などにおいては比類のない名演を成し遂げる反面、その他の作曲家による楽曲については、疑問符を付けざるを得ないような演奏もかなり行われていたように思われる。

本盤の演奏においても、ゆったりとしたテンポによる熱き情感に満ち溢れた濃厚さは健在であり、例えば、これらの楽曲におけるワルターやベームの名演などと比較すると、いささか表情過多に過ぎるとも言えるところだ。

もっとも、オーケストラがウィーン・フィルであることが、前述のような大仰な演奏に陥ることを救っていると言えるところであり、いささか濃厚に過ぎるとも言えるバーンスタインによる本演奏に、適度の潤いと奥行きを与えている点を忘れてはならない。

近年のモーツァルトの交響曲演奏においては、古楽器奏法やピリオド楽器を使用した小編成のオーケストラによる演奏が主流となりつつある。

そうした軽妙浮薄な演奏に辟易としている中で本演奏を聴くと、本演奏には血の通った温かい人間味を感じることが可能であり、あたかも故郷に帰省した時のように安定した気持ちになる聴き手は筆者だけではあるまい。

いずれにしても、本演奏は、近年の血の通っていない浅薄な演奏が目白押しの中にあってその存在意義は極めて大きいものであり、モーツァルトの交響曲の真の魅力を心行くまで堪能させてくれる人間味に溢れた素晴らしい名演と高く評価したい。

音質は従来盤でも十分に満足できる高音質であったが、今般のSHM−CD化によって、若干ではあるが、音質がより鮮明になるとともに、音場がより幅広くなったように思われる。

いずれにしても、バーンスタイン、そしてウィーン・フィルによる名演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

そして、バーンスタインがウィーン・フィルとともに晩年に録音した他のモーツァルトの交響曲(第25番、第29番、第35番、第36番、第38番、第39番)やクラリネット協奏曲の演奏についてもSHM−CD化していただくとともに、可能であれば、本盤も含め、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を切にお願いしておきたい。

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これは素晴らしい超名演だ。

このうち、ラプソディ・イン・ブルーについてはバーンスタインによる旧盤(1958年)との優劣を比較することは困難を極めるが、それ以外の諸曲については、それぞれの楽曲の演奏史上トップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。

バーンスタインは、かつてニューヨーク・フィルの音楽監督の時代には、いかにもヤンキー気質の爽快な演奏の数々を成し遂げていたが、ヨーロッパに拠点を移した後、とりわけ1980年代に入ってからは、テンポは異常に遅くなるとともに、濃厚でなおかつ大仰な演奏をするようになった。

このような芸風に何故に変貌したのかはよくわからないところであるが、かかる芸風に適合する楽曲とそうでない楽曲があり、途轍もない名演を成し遂げるかと思えば、とても一流指揮者による演奏とは思えないような凡演も数多く生み出されることになってしまったところだ。

具体的には、マーラーの交響曲・歌曲やシューマンの交響曲・協奏曲などにおいては比類のない名演を成し遂げる反面、その他の作曲家による楽曲については、疑問符を付けざるを得ないような演奏が目白押しであったように思われる。

本盤に収められた楽曲はいずれも米国の作曲家によるものであり、それだけにバーンスタインの晩年の芸風がいずれもプラスに作用していると言えるのではないだろうか。

バーンスタインがピアノも受け持つガーシュウィンのラプソディー・イン・ブルーについては、活気に富みノリの良さが快い超名演であった旧盤(1958年)と比較すると、テンポが遅くなるとともに濃厚な表情づけがなされているが、同曲特有の軽快なリズム感においてはいささかも損なっておらず、いい意味での円熟の名演に仕上がっていると言えるところであり、旧盤との優劣は容易にはつけられないのではないかと考えられる。

「ウェスト・サイド・ストーリー」〜シンフォニック・ダンスについては、バーンスタインとしても自家薬篭中の作品であり、、ジャジィな魅力と場面に応じた巧みな描写が印象的であり、あたかも水を得た魚のような生命力溢れる力強さと濃厚な表情づけがうまくミックスされた素晴らしい名演に仕上がっていると評価したい。

混声合唱、児童独唱と管弦楽のための「チチェスター詩篇」には合唱陣の記載がないが、思い入れの深い力演である。

その演奏の彫りの深さなどを考慮すれば、今後ともこれ以上の演奏を成し遂げるのは困難を極めると言えるだろう。

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