ショスタコーヴィチ

2022年08月08日


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フィラデルフィア管弦楽団を率いての、指揮者チョン・ミョンフンによるショスタコーヴィチ「第4」は、緩急のコントラストを大きくつけ、劇的な要素を巧みに抽出して、雄弁な音楽を創り出している名演。

この「第4」にはムラヴィンスキー盤がないだけに、チョン・ミュンフン盤の価値は高い。

ラトル、ゲルギエフの録音と共に、この交響曲の3強の一角を占める名盤と言えよう。

血のように赤い鮮烈な響きがショスタコーヴィチの絶望の叫びを伝え、第1楽章のクライマックスなど狂躁の極みとなるが、少しもうるさくなく、外面的にも陥らず、驚くべき雄弁な内容を湛えつつ、落ち着きさえ感じさせながら進む。

第2楽章の音彩の愉しさも最高だが、その中にいつも人間の孤独が流れているのだ。

そして、第3楽章に入ると、オーケストラは光彩陸離と鳴り切り、しかも厳粛な葬送行進曲の魂の訴えを失わず、ヴァイオリンの泣けるほどの美しさがそれに続く。

音楽は幻想的で透明な天才の筆致の中に消えてゆくが、チョン・ミュンフンの棒も絶妙である。

それに、この20世紀音楽がちょっとハイドンみたいに聴こえるという点が面白い。

これを聴いていると、ハイドンからショスタコーヴィチまでおよそ150年経っているにもかかわらず、人間の発想、特に笑いの構造は変わっていたいのだなぁと思わされる。

特に第1楽章は、なんだか諧謔のオンパレードのようで、普通のショスタコーヴィチ演奏とはまったく印象が異なる。

そのユニークさは高く評価したい。

フィナーレもうるさすぎない。

ショスタコーヴィチの音楽は暴力的に鳴りすぎて嫌だという人にはとても快いだろう。

なお音質については、1994年のスタジオ録音ということもあって、充分に満足できる音質と言える。

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2022年08月02日


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これは素晴らしい名演だ。

インバルは、我が国の手兵とも言える存在である東京都交響楽団とともに既にマーラーやブルックナーの交響曲の数々の名演を遺しているが、それらの名演にも増して優れたショスタコーヴィチの交響曲の圧倒的な名演の登場と言えるだろう。

インバルは、ショスタコーヴィチの交響曲第5番を、フランクフルト放送交響楽団(1988年)、ウィーン交響楽団(1990年)の2度にわたって録音しており、本盤の演奏は3度目となる同曲の録音ということになるが、過去の2つの名演を大きく凌駕する圧倒的な超名演だ。

ウィーン交響楽団との演奏は、解釈としては申し分のないもののオーケストラの力量に若干の問題があり、インバルによる同曲のこれまでの代表的な演奏ということになれば、フランクフルト放送交響楽団との演奏というのが通説である。

しかしながら、フランクフルト放送交響楽団との演奏から本演奏に至るまでの23年の歳月は、インバルという指揮者の芸風に多大なる深化をもたらしたと言っても過言ではあるまい。

何よりも、楽曲に対する追求度が徹底しており、そもそも演奏のものが違うという印象だ。

一聴すると何でもないようなフレーズでも、よく聴くと絶妙なニュアンスに満ち溢れており、演奏の濃密さには出色のものがあるとさえ言える。

フランクフルト放送交響楽団との演奏では、その当時のインバルの芸風の特色でもあるが、テンポの変化なども最小限に抑えられるなどやや抑制的な解釈であったが、本演奏においては、随所に効果的なテンポの変化を施すなど、インバルの個性が余す所なく発揮されている。

それでいて、いささかもあざとさを感じさせることはなく、加えて演奏全体の造型が弛緩することなど薬にしたくもない。

まさに、楽曲の心眼への徹底した追求と効果的なテンポの変化を駆使した個性的な解釈、加えて演奏全体としての造型美など、同曲の演奏に求め得るすべての要素が備わったまさに稀有の名演に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

これほどの高水準の演奏を成し遂げるに至ったインバルという指揮者の偉大さを大いに感じるとともに、今後のインバル&東京都交響楽団という稀代の名コンビによるショスタコーヴィチの交響曲演奏の続編が進行中なので大いに期待したい。

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2022年06月25日


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ベルリン・クラシックスのリイシュー盤で、ザンデルリングがベルリン交響楽団とセッション録音したショスタコーヴィチの6曲の交響曲のうちの2曲。

彼は1936年からユダヤ人迫害を避けて当時のソヴィエトに亡命した。

1941年からはレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任した。

1960年にベルリン交響楽団の芸術監督になりドイツ帰国を果たした。

レニングラード時代はムラヴィンスキーの薫陶を得たので、当然ショスタコーヴィチとの親交も深めた。

ムラヴィンスキーはショスタコーヴィチの交響曲第5、6、8、9、10、12番を初演している。

ちなみに第4、13番はコンドラシン初演だが、彼らは作曲家と交流のあった最も優れた指揮者だったと言えるだろう。

しかし演奏スタイルはそれぞれに異なった特徴があり、ザンデルリングは恣意的な表現を避けた客観的で、しかし骨太な中に緻密さを備えた几帳面な演奏だ。

第1番ヘ短調の第2楽章のピアノの鮮烈なパッセージとオーケストラとの掛け合いも生気に満ちた表現だし、第3楽章の他の作曲家からの剽窃的な導入も巧みにまとめている。

終楽章はショスタコーヴィチの将来の交響曲を暗示する暗さの中に火花の散るようなドラマティックなフィナーレになっている。

これが彼のレニングラード音楽院での卒業作品とは思えない早熟のオーケストレーションの腕を示している。

第6番ロ短調は3楽章のみの交響曲だが第1楽章ラルゴの渓谷を流れる清冽な水のような弦楽部の神秘な美しさ、第2楽章アレグロのスケルツォ的な快活さ、それは偉大なタランテッラと言えるかも知れない。

そして第3楽章の小気味良いリズム感などは、ザンデルリングに呼応するベルリン交響楽団のアンサンブルの巧さを披露している。

ザンデルリングにいわゆる爆演は求められないが、どんな場合でも度を外すことなく的確な音楽性を繰り広げる指揮者として敬意を表したい。

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2022年05月20日


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ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906-1975)の15曲の弦楽四重奏曲は、数の面からだけでなく、音楽の質や内容の点でも、彼の15曲の交響曲に並ぶ位置を占めている。

初心者のために敢えて言っておくが、日本の絶滅した音楽評論家の誤解と迷信による解説は一切参考にしないでほしい。

いずれにしても難解なことに疑いの余地はないので、手引きとして参考にしていただければ幸甚である。

筆者が参考にした解説は旧東ドイツの女流音楽学者ジーグリド・ネーフ博士(Siegrid Neef)の筆によるものである。

ボロディン弦楽四重奏団の演奏そのものは、1980年代前半のものがほとんどで、それ以前のものも含まれているが、いずれにしても、まだ旧ソ連が立派に存在していた時代のものである。

しかし解説は、年代は明記されていないが、その内容からボロディン弦楽四重奏団の全集の後に執筆されたものであることが、その内容から明白である。

ネーフは1985年に東ベルリンで出版された「ロシア・ソヴィエト・オペラ・ハンドブック」という大部で、便利な本の著者として広く知られていた。

彼女はベルリン国立歌劇場の文芸部員を長年勤めて、19世紀ロシアだけでなく、ソ連の作曲家オペラを数多く手がけてきた。

一方、本格的な音楽学者でもあり、東ドイツきってのソ連音楽通の一人といって良いだろう。

それだけに、ソ連時代の矛盾を自ら実感してきた経験を持ち、ショスタコーヴィチの作品に対しても、同時代を生きた芸術家の一人として、共感を抱くところが多いのであろう。

この解説において、彼女の語り口は生々しく、まさに本音を語っていると言えるだろう。

長年にわたって、ソ連の優等生作曲家と考えられていたショスタコーヴィチが、実は反体制な創作傾向を持っていたことが明らかになったのは、偽書とされるヴォルコフのいわゆる「自伝」が1979年に西欧に出版されてから、ショスタコーヴィチの作品に隠されている真の意味を考えることが、一気に一般化した。

しかし、想像に基づく推論は別として、具体的には、その本質がなかなか分からないままであった。

とくに後期の作品では、自作からの引用が多く、引用の意味が興味を引くが、どこからの引用であるかはもちろん、その背景を解明することは、容易ではなかった。

なぜならば、ショスタコーヴィチの作品は広く知られているものも少なくないが、一方で、ソ連時代には、ほとんど知られていない作品も、決して少なくなかったからである。

そのようななかで、ネーフはこの弦楽四重奏曲全集の解説のなかで、かなり具体的に、ショスタコーヴィチの音楽の反体制的な本質に迫っている。

ネーフが社会主義体制の下で学問や芸術の活動を続けながら、体制が本来的に抱えてた矛盾に、日常的に直面していた体験があるからであろう。

ショスタコーヴィチはかつて「音楽は思索と観念を通して、つまり、普遍化の過程を通して、その力を獲得する。そして、弦楽四重奏曲においては、思索は深淵で、観念は純粋でなければならない」と述べた。

弦楽四重奏曲にたいするショスタコーヴィチの興味は、1924年から1974年まで、半世紀を越えて続いていたが、初心者の実験から円熟した老齢者の熟達へといった、発展という感じは少しもない。

すでに最初の出発点から、基本的な観念、つまり、はかなさと死に対する悲しみや、野蛮な力の行使と暗黒な時間の経過に対する抗議は、ふさわしい巧みさをもって表現され、語られている。

現実社会で政治の暴力さを増すにつれて、作曲家の内面的力と見通す目の明快さが増大した。

このような発達の印しの一つが、彼のアダージョ楽章に見出される。

それらはことごとく、内面性と真実性に満ち満ちている。

ここには苦悩の音楽があり、その苦悩と折り合う能力が見出される。

作曲家のもっとも美しい憧れの総和として、これらの楽章は20世紀の、そして、20世紀のための音楽となっている。

ショスタコーヴィチは弦楽四重奏曲において、ドストエフスキーが「人生の呪うべき問題」「死のこと」と定義したものを、さらにまた、「何百万の人々に、個々の人生の魂のなかで何かが行われているかを示し、そして、全人類の魂が何によって満たされているかを、個々の人々に明かす」という彼の欲求によって支えられている過程を、抽出して見せたのである。

ボロディン四重奏団は日本にいくどか来ていて、その緻密な演奏を賞賛するファンは少なくないであろう。

驚異的なアンサンブルの妙もさることながら、明白な主張に裏打ちされた、彼らの明快な演奏は、心憎いばかりである。

何も考えずに聴いても、ダイナミックな音響の対比と、歯切れの良いアーティキュレーションは、そのものとして十分面白い。

しかし、それにネーフの解説を重ね合わせて聞くと、彼らの演奏が主張している、ショスタコーヴィチの音楽の背後に隠された意味を聞き取ることができて、面白さは一段と深まるだろう。

まして、不自由なロシアの生活を垣間みたことのある人であれば、いや、そうでなくても、偽善的な現代社会の本質に飽き飽きしている人であれば、そこに表現されている人の心の深い悲しみを、共感を持って実感することができるであろう。

このボロディン弦楽四重奏団の弦楽四重奏曲全集は、20世紀が生んだ鬼子、社会主義社会という矛盾に満ちた現象を、そこに生きた人間の心の機微を通して、憎々しいまでに明白に、多面的に描き上げている。

これは21世紀の現在を生きるわれわれに、20世紀を振り返る絶好のチャンスを与えてくれる、まさに哲学的な内容をもった全集であるといっても過言ではないだろう。

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2022年05月19日


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最近のデジタル録音の鮮明かつ華麗な《第7》を聴きなれた耳には、この異様なまでにデッドでゴツゴツの演奏はショックかも知れない。

それはまるで、総天然色の新作映画を見慣れてしまった目に、戦時中の白黒のニュース映画が異様な印象を与えるのに似ている。

しかし、そのどんな色彩もかなわない強烈なリアリティは見るものを圧倒する。

このムラヴィンスキー&レニングラード・フィル盤は、そんな時代を封じ込めた歴史的1枚だ。

確かにショスタコーヴィチの交響曲は、デジタル時代になって鮮明かつ華麗な西側オーケストラの演奏が出てきてから、単なるロシア音楽の枠を越えて世界的な広がりを見せ始めた。

しかし、その国際的な普及の度合いと反比例するように「イデオロギー的」あるいは「政治的」な信念のような側面は薄められ、どうも純粋に音楽的にのみ捉え初めているような気がする。

でも、ショスタコーヴィチの音楽はまぎれもなく、「トンでもないこと」を信じていた時代の「トンでもない交響曲」なのである。

現代のようになれ合いの美音でまとめた優等生的な音楽にはない、八方破れでバランスを失したオーケストラが、デッドなホールでその信念と推進力だけを頼りに自分たちの時代の交響曲を力いっぱいゴリゴリ鳴らす。

そうやって自分たちの時代の音楽を作っていった時代があったのだ。

そんな凄絶な、まさに鳴り響く歴史としての音楽の記録がここにはある。

ムラヴィンスキーらしい、大仰な身振りとは無縁の直截的なアプローチだが、圧倒的な重量感が素晴らしい。

両端楽章の内から湧き上がる力感も凄いが、ことに第3楽章の深い慟哭が沁みる。

旧ソヴィエトの録音がアメリカのヴァンガードから発売された経緯はよく分からないが、旧ソヴィエトの音源が世に出るのは大歓迎だ。

できればスヴェトラーノフやロジェストヴェンスキー、ハイキンやイワーノフといった指揮者の名盤を復活させてほしい。

ウクライナに侵攻して今は世界中から厳しい視線を浴びるロシアだが、この交響曲に虚心に耳を傾け、かつては自らが被侵略国の苦難を味わったことを改めて思い出してもらいたいものだ。

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2022年05月18日


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《ミケランジェロの詩による組曲》は、ショスタコーヴィチの死の前年の傑作ながら、現役盤が少ない作品である。

この作品(以下『ミケランジェロ組曲』)は、そのミケランジェロの11の詩に、ショスタコーヴィチが、作曲した、男声独唱とオーケストラのための声楽組曲である。

ミケランジェロの詩11篇に付曲した音楽は、ショスタコの苦悩に満ちた心情を反映するかのように、暗く重い。

バスのポルスターが力強く艶のある声、テンションの高いオケ、壮絶な演奏だ。

この作品(『ミケランジェロ組曲』)は、ヴァイオリン協奏曲第1番や交響曲第14番と並ぶ、ショスタコーヴィチの最高傑作の一つである。

それにも関わらず、この作品が、交響曲第14番と同様、演奏会で取り上げられる事が極めて稀である。

まだネット配信が普及していない頃、CDも殆どないという時代に、筆者は本盤を持っているのにも関わらず、長らく謎のまま放置していた。

ルネサンス美術の巨匠、ミケランジェロは、同時に、優れた詩人でもあった。

あのシスティナ礼拝堂の『最後の審判』やダヴィデ像、ピエタ像の彫刻で有名なルネサンスの芸術家が書いた詩に付曲したものである。

芸術や愛、そして憤りなどを詩情豊かに綴ったダンテ風の詩なのだが、音楽は無駄がなく、切羽詰まった心情吐露を聴くごとく暗く重い(全11曲)。

この曲を聴くと、ミケランジェロの詩の深さと、それらの詩にショスタコーヴィチが抱いた深い共感に打たれずにはいられない。

中でも、「創造」(第8曲)、「死」(第10曲)、「不滅」(第11曲)の3曲の精神的深さは、殆ど形而上学的だ。

その最後の曲(「不滅」)の中で、死を迎えた詩人が、「だが、私は、生きている」と歌う一節には、何度聴いても感動を覚えずにはいられない。

この言葉は、死を間近に感じたショスタコーヴィチ自身の遺言だったのではないだろうか?

この作品に使れているミケランジェロの詩の選択には、ショスタコーヴィチのメッセージが込められている。

そこには、明らかに体制批判的なメッセージがあるようだが、そんな事は、大した事柄ではない。

筆者が打たれるのは、むしろ、こうしたショスタコーヴィチの死への思いである。

このディスクは、ミケランジェロの詩をドイツ語訳で歌うヴァージョンである。

それが、ドイツ語の深さ、美しさと相俟って、ショスタコーヴィチの音楽の素晴らしさを際立たせている事が、深く印象的である。

ショスタコーヴィチが託した晩年の心境を読み解いていくかのような感興を覚えさせる名盤であるが、繰り返し聴くのにはちょっとつらい歌曲だ。

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ショスタコーヴィチのオペラ《ムツェンスクのマクベス夫人》(1932年)は衝撃的な作品だ。

強姦、情事、殺人、死体遺棄、司祭や警官への揶揄、因人のシベリア送りまでが、ここまでリアルに作曲されたオペラは稀であろう。

当初、世界的に歓迎されたこの問題作が、ただ一人スターリンのお気に召されなかったことから、ショスタコーヴィチに危機が訪れたことは周知の事実。

以後、ショスタコーヴィチは常に命の危険を感じながら、本音を隠すような苦渋の創作活動を強いられることになる。

だが、このオペラには25歳の天才が未だ何の制約も受けず、創作の翼をどこまでも伸ばしてゆく、やりたい放題の素晴らしさがある。

映像では、マリス・ヤンソンス指揮による2006年ネーデルランド・オペラ公演が、作品の真髄に肉迫する凄演だ。

性描写や人の残虐性をギリギリの芸術性で描くクシェイ演出が冴えわたる。

カテリーナ役のウェストブロークの情念も艶めかしく、セルゲイを演ずるヴェントリスが、憎たらしいほどこの放蕩人役に嵌っている。

映画《カテリーナ・イズマイロヴァ(「マクベス夫人」の改訂版)》(ジャピロ監督)も一度は観たい。



オリジナルの《ムツェンスクのマクベス夫人》ではなく、改作された《カテリーナ・イズマイロヴァ》がDVDで視聴できる。

といっても上演の記録ではなく、1966年に制作されたソ連(当時)の映画だ。

カテリーナはヴィシネフスカヤが歌い、演技もしているが、ほかの役は歌手が歌い、演技しているのは俳優だ。

《カテリーナ》ではあるけれど、なにしろ映画なので、いろいろな省略はある。

当局への配慮から性的な描写が穏便に改訂された無念さはあるが、背景となるロシア豪商の有様、シベリアへの辛い道行き、カテリーナが身を投げる川の冷たさなど、実写でなければ体感できない面白さがある。

ショスタコーヴィチは原作《ムツェンスクのマクベス夫人》の性的などぎつい部分を改訂し、30年近く封印されたこのオペラ映画を再登場させた。

カテリーナ役のヴィシネフスカヤが名演を博し、シャピロ監督の演出の冴えと相俟って、見ごたえのある作品に仕上がっている。

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2022年05月17日


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ザンデルリンクはムラヴィンスキーに師事するとともに、ショスタコーヴィチと親交があったこともあって、ショスタコーヴィチを得意としており、交響曲第15番については2度にわたってスタジオ録音している。

最初の録音が、本盤に収められたベルリン交響楽団との演奏(1978年)であり、2度目の録音が、クリーヴランド管弦楽団との演奏(1991年)である。

いずれ劣らぬ名演と言えるところであり、特に1991年の演奏については円熟の名演とも言えるが、筆者としては、より引き締まった演奏全体の造型美を味わうことが可能な本演奏の方をより上位に掲げたい。

ザンデルリンクはムラヴィンスキーが音楽監督時代のレニングラード・フィルの客演指揮者として研鑽を積んだ。

ムラヴィンスキーのような全軍水も漏らさぬ指揮官のこわもてのイメージはなく、精緻だがオーケストラの持ち味を生かした柔軟な音楽作りが冴えている。

強引と思われるような牽引や聴き手を疲弊させるようなこともない、豊かな音楽性を引き出すことにかけては第一級の腕を持っていた。

彼は旧ソヴィエト時代にショスタコーヴィチと個人的な交流を持っていたので、作曲家の良き理解者として作品に寄り添った解釈が聴きどころだ。

決してシニカルにならず、いたって真摯な表現力と緻密な統率から表現される繊細なサウンドはザンデルリンクならではのものだ。

本演奏も、さすがに、師匠であるムラヴィンスキーの演奏(1976年)ほどの深みや凄みには達していない。

それでもザンデルリンクによる彫りの深い表現が全体を支配するなど、外面だけを取り繕った薄味な演奏にはいささかも陥っていないと言えるところだ。

加えて、ドイツ人指揮者ならではの堅固な造型美や重厚な音色が演奏全体を支配しており、その意味では、ムラヴィンスキーによる名演の持つ峻厳さを若干緩和するとともに、ドイツ風の重厚さを付加させた演奏と言えるのかもしれない。

いずれにしても、本演奏は、ムラヴィンスキーなどのロシア系の指揮者以外の指揮者による演奏の中では、最右翼に掲げられる素晴らしい名演と高く評価したい。

第1楽章はおもちゃ箱をひっくり返したような無邪気さが特徴だが、荘重なブラスのコラールで始まる第2楽章、十二音技法の第3楽章は音楽的統一性に首を傾げたくなる。

そして終楽章では再び他の作曲家の作品からの剽窃がオンパレードとなり、パッサカリアの古い技法も使われる。

ショスタコーヴィチはそれまでの総ての音楽技法を集大成したような交響曲に仕上げた。

結局彼は他人から何を言われようと、自分の書きたい音楽をこの交響曲に纏めたのではないだろうか。

それが奇しくも彼の最後の交響曲になったのは言うまでもない。

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2022年05月12日


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ザンデルリンクはこの作品を構成している限りないほどの音楽的あるいは心理的な動機を整然と纏め上げて、ショスタコーヴィチ自身の言葉から発せられていないメッセージを伝えようとしているように思われる。

彼は自分の作品がジダーノフ批判に曝されたことも影響して、芸術を語る時にも当局の監視を常に意識していた筈だ。

第1楽章の後半にみせるドラマティックなサウンドと終楽章の静謐だが不気味な余韻を残す終焉に、作曲者の抑圧された心情が隠されているようにも感じられる。

第4楽章パッサカリアでのヴァリエーションの連なりには音量的なクライマックスがなく深遠に渦巻くような情念が、最後のフルートのフラッタリングまで緊張感を持続させている。

この作品でもショスタコーヴィチはソナタ形式を始めとしてスケルツォ、パッサカリアやフーガなどの伝統的な手法を執拗に繰り返して、交響曲に対する彼の作曲上のコンセプトを明確にしている。

彼がマーラー以降の交響曲作家たる存在感を示す面目躍如の作品に仕上げているが、ザンデルリンクの演奏は至って真摯でスコアの本質を読み取った解釈と言えるのではないだろうか。

ベルリン交響楽団の精緻だが派手になり過ぎない音響もこの曲に相応しい。

録音会場に使用されたベルリンのイエス・キリスト教会はカラヤン、ベルリン・フィルが使った同名の教会ではなく、当時の東ドイツ側に属していて、現在ではエヴァンゲリスト教会と改名されている。

内部はドレスデンのルカ教会に比較するとやや小振りでシンプルだが、ゴシック様式の高い天井と頑健な壁面が影響していると思われるしっかりした明瞭なサウンドが得られ、ショスタコーヴィチの精緻なオーケストレーションを再現するには理想的な会場だったことが想像される。

1976年の収録だが非常に鮮明であることに加えて、UHQCD化による透明度の高い音質で、ドイツ・シャルプラッテンの原音の特徴が良く表れている。

この頃の彼らのアナログ音源が西側に匹敵する音質を誇っていたことも納得できる1枚だ。

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2022年05月06日


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第二次世界大戦終結後、ドイツの首都だったベルリンはアメリカ合衆国・イギリス・フランス、そしてソ連の戦勝四カ国が分割して統治することとなった。

そこでは、ナチス時代に押さえつけられていた反動もあり、一気に活発な文化活動が展開されることとなるのだが、それには占領側の理解と協力も不可欠だった。

意外なことにというべきか、四カ国の統治地域の中で最も活発な文化活動を行うことが出来たのは、断然、ソ連占領地域だったという。

占領統治を行うソ連軍の高位軍人の中に、文化芸術を愛好する者がかなりの数いたらしい。

そんな彼らにとって、ベルリンの地で「世界最高のオーケストラ」ベルリン・フィルの演奏を楽しむことが出来るというのは、降って湧いた僥倖であったことだろう。

この時、困難な時代ながらもベルリン・フィルはルーマニア生まれの若き指揮者セルジウ・チェリビダッケのもと、活発な演奏活動を繰り広げていた。

ベルリン・フィルの十八番とも言えるベートーヴェンの交響曲のパート譜さえ事欠く有様だったが、チェリビダッケは占領軍の協力も取り付け、猛烈な勢いでベルリン・フィルの再生に取り組んでいた。

チェリビダッケがこの時期にベルリン・フィルのシェフになったのは半ば偶然のようなもので、ベルリン・フィルとしては東欧から来たよくわからない若者に自らの運命を託すことになったのだが、このルーマニアから来た指揮者は、凄まじい才能と熱意を持っていた。

チェリビダッケとベルリン・フィルの演奏は、乾いたベルリンの人々の心の糧となり、人々はベルリン・フィルのコンサートに押し寄せた。

そんな中、チェリビダッケとベルリン・フィルはショスタコーヴィチの《レニングラード》を演奏することとなった。特別演奏会で、客席にはソ連軍人の姿もあった。

この演奏会の詳細を調べ切ることは出来なかったのだが、譜面入手のことも考えると、恐らくソ連の主導のもとに開催される演奏会だったのだろう。

ソ連に攻め込んだドイツ軍が包囲したレニングラードの街に捧げられたこの交響曲が、ソ連に占領されたベルリンで、「総統のオーケストラ」ベルリン・フィルによって演奏されるとは!

演奏会が開催されたのは1946年12月21日、前述したようにチケットは売り切れ、満員の聴衆を前にしての演奏会だった。

演奏終了後、盛大な拍手で演奏会場は包まれ大成功だった。

演奏終了後、ソ連軍高官が舞台に立ち、簡単な感謝の言葉を述べた。

しかし、チェリビダッケにとって、真の栄光の瞬間はこの次に訪れた。

聴衆の中から、背の高い一人の男が歩み寄り、チェリビダッケに握手を求めたのだった。

その男の名は、ウィルヘルム・フルトヴェングラー。

ドイツ・オーストリアで最も高い人気を持ち、その演奏はドイツ音楽の権化・ドイツ音楽の精髄と称されるほどの伝説的指揮者だった。

第二次世界大戦中も指揮台に立ち続けたフルトヴェングラーは、この時期、ナチスとの関係を疑われ占領国による裁判の途中にあり、音楽活動を禁じられていた。

ベルリンの人々は、フルトヴェングラーがベルリン・フィルに戻ってくることを心待ちにしていた。

その不在を埋める指揮者としてのチェリビダッケである。

しかし、フルトヴェングラーの帰還を待っていたのはチェリビダッケも同じだった。

チェリビダッケにとって、フルトヴェングラーは崇拝の対象ですらあった。

彼が帰ってくるまで、ベルリン・フィルを持ち堪えさせる。

その気持ちでチェリビダッケはタクトをとっていて、そのフルトヴェングラーが、演奏終了後、握手を求めてきたのである。

チェリビダッケは全ての苦労が報われたと思っただろう。

今回、改めて聴いてみたのだが、上手く、確かに良い演奏で、隠れた名盤と言っても良い。

特筆すべきは弱音部の繊細さと美しさ、貧弱な録音からでも、その音楽の異様なまでの美しさは伝わってくる。

これは確かに、後になって聴くことが出来るチェリビダッケの音楽に他ならず、既に、チェリビダッケはチェリビダッケだったのだ。

この時期のチェリビダッケとベルリン・フィルは、ナチス時代に禁じられた音楽を猛烈に演奏していた。

まずはなんといっても、ドイツ音楽の大本流ながらユダヤ系ということで演奏が禁じられたメンデルスゾーンの復権は、何にも増して一番に取り組まなければならないことだった。

これに加えベートーヴェンやブラームスの演奏は当然のこととして、その他にも、ナチス時代に「退廃音楽」とされたり敵国の作曲家だったりして演奏されなかった作曲家の作品。

ヒンデミット、バルトーク、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ブリテン、そしてショスタコーヴィチ、その中での《レニングラード》である。

ベルリンの人々にとって、特にその作曲の経緯が引っかかるということもなかったようである。

何よりも、まず、素晴らしい音楽を楽しめること、それが第一だった。

そして占領地ベルリンの人々は、《レニングラード》に盛大な拍手を送ったのだった。

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2022年05月05日


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音質的には同音源のUHQCD盤の方をお薦めするが、オリジナルのマスター自体も良い状態なのでコストパフォーマンスではこちらも選択肢として挙げておきたい。

ザンデルリンクはナチスの迫害から逃れて旧ソ連に亡命していたが、1960年にドイツ帰国を果たしてからヨーロッパでもその実力が知られるようになった。

25年に及ぶソヴィエト滞在はショスタコーヴィチとの交流やムラヴィンスキーからの薫陶で、スラヴ系の作曲家の作品を本家で開拓したという大きな収穫の年月だった。

このディスクのショスタコーヴィチの交響曲第5番は、1982年に古巣ベルリン交響楽団を振ったセッション録音でドイツ的で真摯で重厚な演奏の中に緊張感を崩さないオーケストラへの采配が聴きどころだ。

あえて指摘するなら外面的な派手なアピールは皆無なので、玄人受けはするが入門者にとってはいくらか地味に感じるかもしれない。

例えばアンチェル指揮チェコ・フィルの演奏では終楽章で希望を感じさせる色彩を感知させながら壮大なコーダを築き上げている。

それに対して、ザンデルリンクは頑固なまでに色調を変えず黒光りするような最後に仕上げている。

アンチェルの開放性と解釈を違えている理由は、やはり彼のソヴィエト時代の研鑽によるものだろう。

ザンデルリンクは1937年11月21日のムラヴィンスキー、レニングラード・フィルによるこの作品の初演に立ち会った可能性がある。

またショスタコーヴィチ自身から作曲の成り立ちについても聞き出していたのではないだろうか。

以前はプラウダに掲載された体制への反動分子という汚名返上のための回答としての社会主義リアリズムのプロパガンダ、つまり恭順の意を示した作品のイメージが浸透していた。

最近では第4番の初演撤回の後も彼の作曲への理念は根本的に変化していなかったというのが一般的な見方だ。

結果的に初演は大成功に終わり、図らずも彼の当局への名誉回復になったのだが、どうもショスタコーヴィチ自身には彼らの目論見とは別の構想があったように思われる。

その後1948年に今度はジダーノフ批判に曝されてモスクワ及びレニングラード音楽院の教授職を追われることになるのは象徴的な事件だが、この時彼は巧妙に立ち回って迎合的な作品を発表する。

このあたりの複雑な心理状態と行動にショスタコーヴィチの苦悩が秘められている。

録音会場になったイエス・キリスト教会は当時の東ベルリンにあり、現在ではエヴァンゲリスト教会に改名されていて、カラヤン、ベルリン・フィルが使った同名の教会とは異なっている。

こちらも大編成のオーケストラの演奏に対応する優れた音響空間を持っている。

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2022年05月04日


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素の音だ。

なんの飾りもなく、ただただ作品の本質に迫る音。

これは、どんな能弁よりも、心に強く、深く迫ってくる。

素で勝負できるなら、これほどの強みはない。

このディスの音源は演奏水準の高さと録音状態の良さで現在でも評価が高くUHQCD化もされた。

こちらは従来のレギュラー・フォーマット・バージョンでカップリングが交響曲第5番『革命』と『祝典序曲』になる。

ショスタコーヴィチの交響曲については、とかくこれらの曲の成り立ちに関するエピソードや当時のソヴィエトの社会情勢に対する作曲家の複雑な心境などが云々されて、聴き手もそうした暗澹たる状況を演奏の中に探しがちだ。

アンチェルの演奏にはそのような作品にまつわる澱のようなものを完全に濾過した解釈がある。

純粋にスコアに書き記された音楽だけから引き出される音響力学によって再現する姿勢は終生変わらなかった。

交響曲第5番でアンチェルの普遍的な力強いサウンドは彼独自の表現だ。

アウシュヴィッツに収容された家族の中では唯一人生還を果たしたアンチェル自身の強制収容所での悲惨な体験が演奏に生かされているとすれば、それは人類愛に向けられている。

全篇を支配しているのは、胸を締め付けられるような寂寥である。

第1楽章では、草木ひとつない荒れ果てた地球に、ただ独り佇むような極限の寂しさがある。

第3楽章の慟哭も、心の奥深くから絞り出されるような涙のようではないか。

第4楽章も質実剛健な音楽づくりであり、いたずらに興奮を煽る要素は皆無。

実直に音を重ねていくだけなのに、そこに傷ついた心からの血の滲みが見てとれる。

コーダのティンパニに重ねられたグランカッサの強烈な打ち込みは人間本来の生命感を感じさせる。

ここではまたチェコ・フィルハーモニーの実力が遺憾なく発揮されている。

アンチェルの指揮に敏感に呼応する機動力と確実なアンサンブル、結束の素晴らしさは一朝一夕で得られるものではないだろう。

ブラス・セクションのやや渋みのある響きと、あくまでもしなやかな弦楽が重なる音色もチェコ・フィルの面目躍如だ。

彼らはドヴォルザークからスーク、マルティヌーやヤナーチェクに至るチェコの音楽に関しては独壇場の力量を発揮する。

またロシア物に代表されるスラヴの音楽、またモーツァルトから現代音楽に至る幅広いレパートリーは、どの指揮者の演奏を聴いても充分な説得力を持っている。

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2022年03月20日


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モスクワ出身の名指揮者キリル・コンドラシンの生誕100周年に当たる2014年にプラガから発売されたディスク。

コンドラシンは1978年のコンセルトヘボウ客演の際にオランダに政治亡命して西側での音楽活動を本格的に始めた矢先の1981年3月8日に突然他界した。

その死には当局がらみの暗殺説も浮上している。

コンドラシンは既に1958年のチャイコフスキー・コンクールで優勝したヴァン・クライバーンの凱旋公演にも随伴していて、冷戦時代の旧ソヴィエトの指揮者の中ではいち早く西側での演奏を実現した人だ。

本盤に収められた音源はいずれも今回が初めてのリリースではないが録音も保存状態も極めて良好で、リマスタリングによって奥行きと立体感の感じられる音響が蘇っている。

『バビ・ヤール』はモノラル・ライヴ、カンタータ『10月』の方はステレオ・セッション録音になる。

交響曲第13番『バビ・ヤール』はユダヤ人虐殺が行われたウクライナの地名をタイトルに持ち、ロシアに受けつがれる反ユダヤ主義を非難する内容となっている。

旧ソ連ではタブーのテーマだったゆえ反体制的とみなされ、1962年12月の初演の際にも演奏者に当局から圧力がかかったとされている。

この録音は世界初演の2日後の再演時のライヴであるが、出演者もほぼ同じで、ショスタコーヴィチも臨席、緊張が生々しく伝わってくる。

当初はショスタコーヴィチの多くの作品の初演を手がけていたムラヴィンスキーが指揮する予定だったらしいが、ソヴィエトのユダヤ人差別政策を仄めかす詩の内容が検閲に引っかかり、ムラヴィンスキー降板の後もこのコンサート以降の音楽活動への影響を恐れて土壇場まで歌手の入れ替わりが続いたようだ。

当時のコンドラシンは当局からの執拗な妨害にあって苦境に立たされていた筈だが、逆に言えばそうした状況にあってこの凄まじいまでの集中力に支えられた初演が可能だったのかも知れない。

コンドラシンは作曲家の抉り出した心理描写と映像のように浮かび上がる情景を音像として驚くほど冷静に、しかしまた劇的に表現し切っているし、モスクワ・フィルも流石に巧い。

バス・ソロを歌うグロマツキーは朴訥として器用な歌手ではないが、詩の表す陰鬱で悲愴な情感は良く出していて、この危険な役回りを引き受けたことを潔しとしたい。

ショスタコーヴィチ本人を始めとする初演遂行側の表現の自由に賭けた熱意と圧迫を受けていた人道的思想の発露が漕ぎ着けた初演は大成功を収めたと伝えられているが、結果的に考えるならば後の政治亡命も起こるべくして起こったと言わざるを得ない。

コンドラシンはこの作品初演成功後、交響曲第4番やオラトリオ『ステンカ・ラージンの処刑』の初演も飾っている。

一方プロコフィエフのカンタータ『10月』は、帝政ロシア崩壊に至る一連の事件から10月革命20周年を記念した曲で、ここでもコンドラシンは冷徹に音楽的バランスを熟慮してそれぞれの部分の強烈な個性を的確に捉えているが、何故かここでは第1、2、4、7、9部のみの尻切れトンボで収録されているのが残念だ。

一般に風変わりなオーケストレーションと合唱、モノローグによるグロテスクな奇曲という評価だが、プロコフィエフの作曲技法はかえって洗練された鋭利さを感じさせる作品だと思う。

プラガのデータについては鵜呑みにできない怪しげなところが無きにしも非ずだが、交響曲第13番については1962年12月18日に初演が行われ、この音源は同年12月20日の同一メンバーによる再演ライヴから収録されたものらしい。

プロコフィエフの方は1966年5月5日のセッションと記載されている。

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2022年03月19日


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1991年6月22日、ナチスのソ連進攻50周年記念日にライプツィヒで開かれた反戦記念演奏会でのライヴ録音。

オーケストラはユンゲ・ドイチェ・フィルハーモニー及びモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団員という独露の合同メンバーで結成されている。

ドイツの若者とモスクワのヴェテラン奏者が、互いのこだわりを捨てて共演したこの演奏には、深い感動が込められている。

決して声高になることなく、静かに悲劇性を描くのはこの作品の本質と触れ合っているためだろう、この長大な作品を短く感じさせる。

第1楽章の「戦争の主題」ひとつとっても、威圧的だけでないアイロニーが込められているし、同じ主題のしつこい反復を短く感じさせるほど音楽的だ。

第2楽章も清澄・純粋な美感にあふれている。

しかし圧巻は第3楽章で、作曲者の室内楽的な本質を知りつくした詩的とさえいえる表現で、作品の悲劇的な性格を抉る。

終楽章のクライマックスも感動的で、特殊な状況も含め感動を誘う名演である。

この演奏会を実現させた、ルドルフ・バルシャイはショスタコーヴィチに作曲を師事し、交響曲第14番『死者の歌』の初演をした、旧ソ連ラビンスク出身のヴィオラの名手にして名指揮者である。

演奏スタイルは、バーンスタインのような華やかさ・流麗さではなく、むしろ重厚さ・深さに比重を置いたものとなっている。

ある意味、奇を衒わない、基本に忠実なショスタコーヴィチと言えるだろう。

ショスタコーヴィチの語法を知り尽くしたバルシャイならではの意味深いアプローチは聴き応え十分だ。

バルシャイのアプローチも機知に富み、機敏さを決して失わないところなどは作品にまさにぴったり。

天才ショスタコーヴィチの交響曲を深く知ってみたいと思うのであれば、この作曲家にとことんこだわったバルシャイの情熱的な演奏を理解できるようにしておきたい。

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2022年03月07日


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このご時世だけに戦争の話題に踏み込まざるを得ないが、筆者としてもまさか自分が生きている間にショスタコーヴィチの時代が来るなど夢想だにしなかったところだ。

ショスタコーヴィチの「第7」はトスカニーニによるアメリカでの初演の歴史的記録である。

トスカニーニのショスタコーヴィチは、今では偽書であるとされているものの、一時は一世を風靡したヴォルコフの『ショスタコーヴィチの証言』によって、ボロカスに酷評されている。

ショスタコーヴィチ曰く、テンポといいリズムといいすべてが間違っていると評しており、これによって、証言をバイブルのように信奉する人など、本演奏を歯牙にもかけていなかったところである。

しかし、証言が偽書であるか否かにかかわりなく、いかなる楽曲も作曲者の手を離れると単なるスコアに過ぎず、絶対的に正しい演奏など存在しないのではないか。

例えば、多くの聴き手に感動を与えるフルトヴェングラーのベートーヴェンも、果たしてベートーヴェンが評価したかどうかはわからないのである。

筆者は、本演奏を、ファシズムに対して一切の妥協を排して批判し、公と正義を明らかに堅持し続けたトスカニーニならではの鬼気迫る歴史的名演と評価したい。

初演でありながら、これほどまでに説得力のある演奏を成し遂げるトスカニーニの類稀なる才能と情熱には感服するほかはない。

ショスタコーヴィチの「第7」は、バーンスタインの演奏がやたら世評高いが、筆者としては、あのような外面的な効果をねらった演奏では、この交響曲の持つ真の意味を表現できないのではないかと考えている。

その点ではトスカニーニの表現にいささかの抜かりはなく、この交響曲の持つ意味を深く抉り出そうという彫りの深い表現を行っている。

バーバーの「弦楽のためのアダージョ」編曲版の初演者であるトスカニーニの演奏は、やはり聴き逃せないだろう。

強く引き締まり、大きくうねる演奏は、しなやかに澄んだ抒情をたたえており、その深々とした表現は、作品に対する巨匠の愛着を真摯に示している。

音の状態は決して良くないが、戦時中の録音ということを考えると、信じられないようなオーケストラの圧倒的な力感を感じさせてくれるのが見事である。

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2022年03月02日


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ロシア人の作曲家ショスタコーヴィチ(1906-75)はソ連時代という過酷な時代に生きた音楽家であった。

芸術家といえども社会主義国家建設に寄与することが求められたし、戦争の現実も作曲家の運命を翻弄した。

またスターリンや党との関係も常に緊張したものであり、眉目に皺を作らないでは一日たりとも過ごせない生涯を送ったと言えよう。

ショスタコーヴィチが残した弦楽四重奏曲は全部で15曲で、ほぼ生涯の全域にわたって作られている。

もっとも《第1番》は1935年、《第2番》は1944年に作られているから、スタートは遅かったと言えよう。

だがそれだけにショスタコーヴィチは成熟した技法と人間としての明確な自覚を綴った作品ばかりとなっている。

しかもそれらの中にはしかめっ面のイメージとは対照的とも言える陽気さ、快活さすら刻印した作品も見られるから、弦楽四重奏の世界はショスタコーヴィチはが公的な顔という以上に彼の素顔を装うことなく、率直に記した肖像画であると言ってもよいであろう。

《第3番》は第二次世界大戦が終結した翌年の1946年に作曲されたもので、全5楽章構成の規模の大きな作品である。

5楽章構成という点はこれ以前に書かれた《交響曲第8番》《同第9番》も同じだが、この弦楽四重奏曲もまた交響曲を思わせる表現の密度と劇的表情を誇っている。

第1楽章はまるでディヴェルティメントのように楽しいのだが、これはどうやらカモフラージュのようで、続く楽章からはムードは一変、深刻かつ激越な感情をむき出しになった音楽が続く。

楽想のコントラスト、すさまじいばかりのエネルギーの対照が聴き手を当惑させるほどである。

消え入るように終わる終楽章まで聴いていると、生きることは決してなまやさしいものではない、と諭されるかのようである。

ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲はベートーヴェンのそれとともに弦楽四重奏団にとっては踏破、征服すべき目標としてそびえ立っている。

作曲者自身と弦楽四重奏曲の大半を初演したベートーヴェン四重奏団も、北の工作員のように鍛え上げられた厳しい外面と暖かな情愛を秘めた内面の稀有のもの。

そうだ、これらの作品は他者を圧倒する音楽ではなかったのだ!

圧政下に人間らしく生きようとする近代人の魂の苦悩抜きにショスタコーヴィチ作品は語れない。

国内現役盤への復活を切に願う。

ショスタコーヴィチの音楽は聴き手の胸を鋭く突く。

痛いほどだが、忘れられない教訓を残してくれる。

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旧ソ連の指導者にして20世紀最大の虐殺者とされるスターリン(1879-1953)の本当の怖さは私たちには推し量れないものだろう。

芸術家たちといえどもスターリンの意向を敏感に感じ取りながら筆を進めざるを得ず、不興をかえば強制労働やシベリア送り、悪くすれば命を奪われる状況だったのだから、これは怖ろしい。

子供が親を密告して表彰される世の中だったのである。

もちろんショスタコーヴィチもスターリンに悩まされた一人であった。

芸術家は自分のためではなく、革命によって獲得されたソ連邦の現実社会の発展と人民の幸福のためになる作品を書かなくてはならないという社会主義的リアリズムの規制が綿密に張り巡らされた時代であり、才能ある芸術家ほど壁にぶちあたった。

成功作と認められても安心できない、評価は政治情勢で変わってくるのだから、自ずと創作姿勢はカメレオン的にならざるを得なかった。

だがそんなスターリンも1953年3月5日に亡くなる。

ショスタコーヴィチがその年の夏から予定を繰り上げて書き上げたのが、この《第10番》であった。

足枷が取れたのだからさぞかし明るい作品かと期待されたが、スターリンの死をもってしても事態は何も変わらないことを見抜いていたのか、ショスタコーヴィチの筆はさらにペシミスティックになり、悲劇の深度を高めている。

地の底をはうような哀しみと阿鼻叫喚の叫びをコントラストも鮮やかに作品は展開、出口なしの人生交響曲とでもいうべき姿を形作っている。

第3楽章には愛する人へのメッセージを込めるなどショスタコーヴィチは過酷な時代にあっても愛を忘れなかった作曲家ではあるが、全体的には自分のための正と負のレクイエムといった雰囲気がある。

その結果、聴衆のことなど一切意識していないかのような暗鬱さが全曲を覆うという異例の交響曲となっている。

初演を行なったのはロシアの指揮界の巨人ムラヴィンスキーであった。

ショスタコーヴィチがもっとも信頼していた指揮者とも、嫌悪していた指揮者とも言われるが、さすがにロシア指揮界の巨人の演奏は作品を見事なる緊迫感とヴィルトゥオジティとで再現、歴史的名作にふさわしいドラマで聴き手に圧倒的感銘に浸らせる。

虚飾とは無縁の真実の人間の声を追求した演奏と言ってもよいであろう。

それと分かる笑顔もないし、幸福感の誇示もない。

高らかに鳴りわたる凱歌もないが、寡黙に生きる人間の内なる世界とは案外こういうものかもしれない。

声にならない悲劇を余すところなく描き出した名作であり、現代に生きる聴き手が避け難く持つ孤独感と不思議に呼応する真実の声のように思われる。

自分の心の城を守り抜くことすら危なかった時代の悲劇を映し出している。

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2022年02月25日


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キリル・コンドラシンは1965年から75年にかけて手兵モスクワ・フィルハーモニーとショスタコーヴィチ交響曲全集を完成させていた。

このボックスは本家メロディアからの11枚のCDのリイシュー盤で、既に現在入手困難になっているのが惜しまれる。

個別売りではまだマーケティングに流通しているようだが、曲によってはこのセットと同様法外なプレミアム価格がつけられている。

以前のヴェネツィア・レーベルからの12枚組と比較すると選曲、音質ともに優っていて、こちらが全曲ステレオ録音の音源を纏めているのに対してヴェネツィア盤は交響曲第13番を62年のライヴを加えた2種類、コーガンとのヴァイオリン協奏曲第1番を収録している。

メロディア盤はヴァイオリン協奏曲はオイストラフとの第2番のみだが、交響詩『10月革命』、カンタータ『我が祖国に太陽は輝く』及びオラトリオ『ステパン・ラージンの処刑』を加えたよりコンプリートなオーケストラル・ワーク集になっている。

コンドラシンは交響曲第13番の初演以来、ショスタコーヴィチの作品の最良の理解者だったことから、それらの演奏がある意味で理想的な解釈に基いている貴重な遺産でもある。

それは大指揮者ムラヴィンスキーが多くの初演を果たしながら、後年ショスタコーヴィチから離れてしまった事実とは鮮やかな対照を成している。

コンドラシンの亡命はかえって作曲家の精神を受け継いだ選択ではなかっただろうか。

15曲の交響曲の他に幸いドン・コサックの首領の最期を描いた『ステパン・ラージンの処刑』が収録されている。

この作品も極めて政治的な批判精神を扱っているので、コンドラシン面目躍如のレパートリーだったと思われる。

ステパン・ラージンが処刑場に引き出され、民衆から唾を吐きかけられるシーンは、ショスタコーヴィチ一流の情景描写が際立っているし、民衆がこの処刑に矛盾を感じ始めるあたりから、彼の作曲技法は殆んど精緻な心理描写になる。

コンドラシンの指揮はこうした心理的変化を熟知した恐るべき深みをもっている。

また彼が当時音楽監督だったモスクワ・フィルのミリタリー的な機動力も聴きどころで、抒情的な歌心にも不足していないし、決して硬直感もない。

むしろムラヴィンスキー、レニングラード・フィルの方が冷徹に感じられる。

この全集が録音された当時、ソヴィエトでもようやくステレオ録音が一般的になって、音質も西側並みに向上していた。

高音は及第点と言ったところで低音部も良く響いて色彩感にも不足していない。

欲を言えば中音域にもう少し厚みが欲しいところだが、総てが良好なステレオ録音だ。

ただし交響曲第13番『バビ・ヤール』は1967年の歌詞改訂版が使われている。

この作品の初演及び2日後の再演以降、当局からソヴィエトのユダヤ人迫害を仄めかす部分について歌詞を変更しない限り上演禁止の通告を受けた。

この演奏では音楽はオリジナルだが、歌詞の一部は詩人エフトゥシェンコ自身の改作によっている。

バスのエイゼンが美声だけに残念だ。

ちなみにディスコグラフィーを見るとコンドラシンはこの曲を5回録音している。

初演メンバーによる1962年のモノラル録音はプラガからハイブリッドSACD化されているが、最も音質に恵まれているのは80年にバイエルン放送交響楽団を指揮したライヴで、バスは英国人シャーリー・カークがロシア語で健闘している原語録音だ。

レギュラー・フォーマットとSACD盤がタワーレコードからリリースされている。

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2020年10月02日


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コンドラシン、モスクワ・フィルによるショスタコーヴィチ交響曲全集は本家メロディア盤が既に製造中止になっている。

法外なプレミアム価格を覚悟するか、個別売りで見つける以外にコレクションする方法がないのが残念だ。

ウラニアのリイシュー盤も再販の予定はないようで、いずれこのディスクも入手困難になるだろう。

ここに収録された3曲はいずれも当時のソヴィエト当局から睨まれたいわくつきの作品である。

大作の交響曲第4番はショスタコーヴィチ自身が初演撤回をした後、1965年にコンドラシンによって初演されているし、第9番はジダーノフ批判に曝されて汚名を着せられた。

また併録されたバス・ソロとコーラス付のカンタータ風バラード『ステンカ・ラージンの処刑』も隠された体制批判という印象を与える。

全曲音質にも恵まれたステレオ録音なので、コンドラシン・ファンには欠かせないコレクションに違いない。

今後これらのブルーレイ・オーディオ・ディスクなどの高音質盤が企画されることを期待したい。

亡命前のコンドラシンはモスクワ・フィルとショスタコーヴィチ交響曲全集を完成させた。

ムラヴィンスキーが第13番『バビ・ヤール』の初演を辞退してからは、その後の多くの作品の初演を飾った作曲家の最も良き理解者による演奏として価値の高い全集だ。

このディスクではムラヴィンスキー、レニングラード・フィルの恐るべき推進力とは異なった解釈で、ショスタコーヴィチの精緻なオーケストレーションと生々しいサウンドが忠実かつ明瞭に再現されている。

ムラヴィンスキーは反体制的な作品の演奏には消極的だったことが想像されるが、第13番では当局の検閲や初演への圧力で、目まぐるしいメンバーの交代があり、コンドラシンの全集でも歌詞を変更した改訂版での演奏を余儀なくされた。

『ステンカ・ラージンの処刑』もストーリーからすればかなり際どい内容を持っている。

逮捕されたコサックの首領ステパン・ラージン、彼はやはり反体制の象徴でもあるわけだが、その公開処刑の場面を劇的に描いた作品で、民衆は当初曳き回された彼に唾を吐きかけるが、次第にこの処刑に懐疑的になる。

秘密裡に亡命の機会を探っていたコンドラシンの下でタイトルロールを歌っているのが『バビ・ヤール』初演の筋金入りのバス歌手ヴィタリー・グロマツキーというのも決して奇遇とは言えない。

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2020年09月14日


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ロシアが誇るボロディン四重奏団が1990年代にヴァージンとテルデックにレコーディングした中から、スラヴ系作曲家の作品を8枚のCDに纏めたワーナーからのバジェット・ボックスである。

彼らの最も得意とするスラヴ的抒情、神秘や機知などが遺憾なく発揮されている。

ショスタコーヴィチに関しては新録音の弦楽四重奏曲全曲とその他の室内楽を収めた7枚組がデッカ・レーベルからリリースされている。

そちらもお薦めしたいが、このセットにも7曲の弦楽四重奏曲、ピアノ五重奏曲、ピアノ三重奏曲第2番及び弦楽四重奏のためのふたつの小品が収録されている。

尚ピアニストはデッカ盤ではアレクセイ・ヴォロディンだがこちらはレオンスカヤが弾いている。

彼らの演奏の特徴はカンタービレの美しさ、羽目を外すことのない節度を持った表現力や現代作品で聴かせるエスプリなどだ。

とはいえイタリア四重奏団のような自由奔放な歌心ではなく、より古典的だが洗練された趣味にあると言える。

しかしショスタコーヴィチでは、初期のメンバーが作曲家と直接交流を持っていたこともあって、真似のできないオリジナリティーに富んだ解釈が聴きどころだろう。

その神秘的な静謐や時折表れるスラヴ民族舞踏のリズムの再現は水を得た魚のようだ。

CD7はロシアのミニチュアと題された1枚で、ボロディンの『中央アジアの草原にて』を始めとする比較的親しみ易い小品や抜粋が集められているロシア音楽入門編と言ったところだ。

また最後のシュニトケのアンサンブルの1枚も普段それほど聴く機会がない貴重なサンプルだ。

1945年にモスクワで結成され、1955年旧ソ連邦政府よりボロディンの名が与えられた、ボロディン弦楽四重奏団について紹介したい。

初代メンバーはロスティスラフ・ドゥビンスキー(ヴァイオリン)、ウラディーミル・ラベイ(ヴァイオリン)、ルドルフ・バルシャイ(ヴィオラ)、ヴァレンティン・ベルリンスキー(チェロ)で、メンバーは替わりつつも現在も活動が続けられている。

初代メンバーとして62年にわたってカルテットを支えたチェロのヴァレンティン・ベルリンスキーは2007年夏に引退し、ウラディーミル・バルシンにバトンを渡している。

モスクワ音楽院で訓練を受けた彼らは、ロシアの室内楽の解釈において独自の伝統を維持しつつ更なる変化しながら、まとまりのあるアイデンティティによりその哲学と美学は音楽文化全体を具現化している。

ショスタコーヴィチはボロディン弦楽四重奏団の初代メンバーと親交深く、作曲にあたっても様々な相談を受けたという。

彼の室内楽作品は、旧ヴァージン・クラシックスとテルデックに1990-1995年に録音されたこのボックスの中心として置かれている。

時代の変遷に従い必然的にメンバーは交代しているものの、その縁は連綿と受け継がれ、ショスタコーヴィチの演奏においていまだ他の追随を許すことなく、他のロシア作品も多くの比類ない名盤ともなっている。

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2020年07月07日


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ベルリン交響楽団を離れた後のクルト・ザンデルリンク客演ライヴのひとつ。

ハイドンが1997年、ショスタコーヴィチが99年にそれぞれベルリンで録音され、ベルリン・フィルハーモニーの自主制作によってリリースされた1枚。

音質は良好で客席からの雑音もハイドン演奏終了後の拍手以外は殆んど皆無に近い。

ベルリン・フィル特有の弦楽セクションの統一感と磨き抜かれた音色、またウィンド、ブラス・セクションの余裕のある表現力などが良く捉えられている。

ライヴに付き物の若干の乱れはあるものの、全体的に見れば彼らの実力が発揮された充実した演奏内容になっている。

このディスクにはハイドンの交響曲第82番ハ長調『熊』及びショスタコーヴィチの最後の交響曲第15番の2曲が収録されている。

どちらもザンデルリンクが繰り返し演奏して切磋琢磨した作品だけに、その安定感と確信に満ちた表現が彼の晩年のスタイルを良く表している。

ハイドンではベルリン・フィルの洗練されたテクニックがザンデルリンクによって手際よく纏められている。

ハイドンが最後の交響曲まで第3楽章にメヌエットを置くウィーンのスタイルを捨てなかったように、古典派の音楽から少しも逸脱することのない、しっかりした形式と構成感を示しながら、終楽章では凛としたクライマックスを形成している。

こうした作曲家の様式に対する拘りもザンデルリンクの知的なアプローチによって磐石に示されているところが秀逸。

後者は剽窃の交響曲とも言えるくらい、至るところにショスタコーヴィチ自身や他の作曲家の作品のモチーフが一見何の脈絡もなく使われていて、晩年の作曲家の遊び心とも思える自由闊達な作法に驚かされる。

ショスタコーヴィチと直接交流があったザンデルリンクだけに彼の解釈も、そうしたバーチャルな開放感を自在に描いている。

それは作曲家が抑圧された人生の最後の交響曲で初めて成し得た試みなのかも知れない。

ここでも全楽章を通じて首席奏者達のソロとアンサンブルが聴きどころだが、特にパーカッション群による神秘的な緊張感の中に終えるコーダは象徴的だ。

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2020年06月02日


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フィリップスからリリースされたコンドラシン、コンセルトヘボウ管弦楽団のライヴ・シリーズはCD8枚になる。

このディスクには1975年11月29日のプロコフィエフの交響曲第3番及び1980年3月6日のショスタコーヴィチの交響曲第9番がカップリングされている。

プロコフィエフの方は、自作のオペラ『炎の天使』から多くのモチーフを組み合わせて創作された交響曲だ。

コンドラシン、コンセルトヘボウの緊張感溢れるサウンドによって感知される緊密な構成感が、この曲の剛直でパワフルなプロフィールを良く表現している。

プロコフィエフが交響曲という伝統的な器を踏襲しつつ、鮮やかな手法でそれを満たしたことは注目される。

後者に関してはモスクワ・フィルとの交響曲全集がメロディアに遺されていて、その厳格な統率力と統一感は全曲盤を鑑賞して初めて実感できるのだが、コンセルトヘボウとの音源はそれとはいくらか異なった趣き、より融通性のある柔軟な響きで、意外なほど軽妙さが執拗に再現されている。

それはコンドラシンがオーケストラの持ち味を活かすことを忘れない指揮者だったからだろう。

その点では大先輩ムラヴィンスキーとは対照的だ。

それはまたこの作品の性質によるものかも知れない。

ソヴィエト当局は第2次世界大戦の勝利を誇示するモニュメンタルな交響曲を望んでいたが、ショスタコーヴィチはその期待を見事に裏切った。

というより彼には政権の意向に沿った作品を書くことは当初から念頭になかったかのように思われる。

第1楽章はおもちゃの兵隊のマーチさながらで、それほど盛り上がらない終楽章は当局にとっておちょくりとしか映らなかっただろう。

早速ジダーノフ批判に曝されてこの交響曲はお蔵入りになってしまう。

しかしその事実は、芸術家は時の政権の下僕にはなり得ないことを端的に示すことにもなり、亡命後のコンドラシンが母国ソヴィエトとの関係を揶揄するようなところにも面白みがあるのではないだろうか。

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2019年12月12日


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早くからショスタコーヴィチのオペラ《カテリーナ・イズマイロヴァ》はオリジナルの方が素晴らしく、20世紀のオペラの名作だ、と主張していたロストロポーヴィチが、1978年に録音したのがこれだ。

スターリンによって不当に黙殺されていたオペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》を、再び世に出し蘇生させることを願うロストロポーヴィチ夫妻の情熱と執念の強さが、ディスクの中から迸り出るような演奏である。

1934年にレニングラード(当時)で初演されたこの傑作オペラは、農村からシベリア流刑地までを舞台としたロシア・オペラ屈指の傑作ながら、不倫殺人を巡るテレビ三面記事的ドラマ展開のせいもあってか、その自然主義的表現と前衛的手法が「音楽ではないデタラメ」とロシア共産党からの批判を受け、そのまま封印されていた。

1963年に改題改作されて、いくぶん上品にして《カテリーナ・イズマイロヴァ》となって復活したが、それはオリジナルの凄さを薄めたもので、ベッド・シーンにしてもドタバタ・シーンにしても初稿のこちらの方が露骨で面白い。

その真価を世に知らしめたのが、ロストロポーヴィチとヴィシネフスカヤ夫妻によって初演44年後にセッション録音されたこの全曲盤であり、国際レコード批評家賞、モントルー国際レコード賞を受賞している。

体制に抹殺されていたこの傑作の最初の録音は、祖国を追われて間もないロストロポーヴィチがこの素晴らしいオペラを世に出そうという彼の意気込みと強烈な表現意欲が熱く伝わってくるし、ロシア的な濃厚さも、当然ながらいっぱいだ。

ロストロポーヴィチのダイナミックかつ繊細な指揮の下、悲しく激しい女の業を歌い上げるヴィシネフスカヤの絶唱を始め、ゲッダ、ペトコフ以下の名歌手達が、入神の演唱を展開している。

ロストロポーヴィチは鮮烈で刺激的な面に焦点を合わせて、聴き手を圧倒するが、指揮に乏しくなりかける人間的な視点をカテリーナを演じる夫人のヴィシネフスカヤが補ってゆく。

ユーイングとは全然違うヴィシネフスカヤの艶っぽいカテリーナは、こちらがもともと意図されたものか、と思えるところがあり、その官能性豊かな表現は見事なはまり役だ。

ゲッダのセルゲイもうまいが、指揮も含めて刺激的な場面での表現がやや感情過多に感じられるのは、管弦楽を抑え気味にした録音のせいもあろう。

新妻カテリーナが間男と図って夫に毒キノコを食べさせて殺してしまうという筋書きのこのオペラを、ショスタコーヴィチはこともあろうにフィアンセに献呈したのだそうだが、彼女はどんな顔をして聴いたのだろう?

優れたオペラに神話が必要なら、この20世紀の傑作は、充分すぎるほどの神話を持っている。

しかし、その神話から、これが前衛的で難解なオペラだと想像すると大間違いで、確かに挑発的だし、話は陰気で、聴いて心楽しくなるオペラではないけれど、実に聴きやすく、退屈しない作品だ。

これでいいんだろうかと疑ってしまうくらい、甘い音楽や官能的な響きで満たされている。

暗い物語にもかかわらず、考えようによっては、大変娯楽的で、悪女カテリーナの魅力にひかれて、その暗い結末までつきあってしまう、大衆性も備えたオペラなのではないだろうか。

世界中で急速に人気を得た理由が、聴けばよくわかる。

ロストロポーヴィチはチェリストとしても指揮者としても数多くの名盤を残しているが、歴史的意義と衝撃性において、これこそ彼の代表作であろう。

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2019年09月24日


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エマーソン弦楽四重奏団が1994年から99年にかけてアスペン音楽祭で行なったショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲全曲演奏会のライヴ録音で、その技量と知性を惜しむことなく注ぎ込んだ全集である。

ロシア人作曲家ショスタコーヴィチ(1906-75)はソ連時代という苛酷な時代に生きた音楽家であった。

芸術家といえども社会主義国家建設に寄与することが求められたし、戦争の現実も作曲家の運命を翻弄した。

またスターリンと党との関係も常に緊張したものであり、眉間に皺を作らないでは1日たりとも過ごせない生涯を送ったと言えよう。

ショスタコーヴィチの残した弦楽四重奏曲は全部で15曲で、ほぼ生涯の全域にわたって作られている。

もっとも第1番は1935年、第2番は1944年に作られているから、スタートは遅かったと言えよう。

だがそれだけにショスタコーヴィチが成熟した技法と人間としての明確な自覚を持ったうえで内面を綴った作品ばかりとなっている。

しかもそれらの中にはしかめっ面のイメージとは対照的とも言える陽気さ、快活さすら刻印した作品も見られるから、弦楽四重奏の世界はショスタコーヴィチの素顔を装うことなく、率直に記した肖像画であると言ってもよいであろう。

したがって、ベートーヴェンのそれとともに弦楽四重奏団にとっては踏破、征服すべき目標としてそびえ立っている。

1976年に創設されたアメリカのエマーソン弦楽四重奏団は作品や演奏の機会に応じて第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが入れ替わる(差がほとんどわからない)という柔軟なスタイルを持つ稀有なクヮルテットとして知られる。

しかしそれ以上に彼らの真摯かつ誠実な作品へのアプローチが毎回聴き手を感動させてきた実績を誇っている。

エマーソン弦楽四重奏団のショスタコーヴィチは、美しい音色と軽やかなリズム感を基調とした、洗練された現代的な演奏だ。

かつてのボロディン弦楽四重奏団のように聴くのが辛くなる程の冷徹さはなく、陰影の付け方も充分感じられ豊かである。

しかもベートーヴェンやメンデルスゾーンでは持て余し気味だった彼らの演奏技巧が、ここでは存分に羽ばたいている。

柔らかくひそやかな弱音(第1番第1楽章、第10番第1楽章、第14番第3楽章コーダ)からバリバリと音を割った暴力的な強音(第1番終楽章コーダ、第3番第3楽章、第8番第3楽章)まで、表現の幅が実に広い。

第7番第3楽章や第12番第2楽章冒頭での激情の猛烈な迸りなど、作曲者の想像した音世界をも超えてしまったのではないだろうか。

ここには深刻かつ激越な感情をむき出しに表現した素顔のショスタコーヴィチがあり、彼らの表現力の凄まじさは聴き手の胸を鋭く突き、痛いほどだが、感銘は交響曲に匹敵する。

作品を気迫と集中力をもって再現しながらも、もう一つ別の視点から作品を俯瞰して見据えていくようなアングルの大きさも特筆され、ショスタコーヴィチ作品の豊かさを聴き手がじっくり味わっていくことを可能にしている。

全15曲を聴くと、生きることは決してなまやさしいことではない、と諭されるかのようで、忘れられない教訓を残してくれる。

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2019年06月12日


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アシュケナージは紆余曲折の末、ショスタコーヴィチの交響曲全集を完成させ、世に問うている。

やはり全集録音を行ったネーメ・ヤルヴィ、ロストロポーヴィチなどを含めて、旧ソ連からの亡命者によるショスタコーヴィチ演奏には、何か共通のパトス、場合によっては怨念みたいなものが感じられる。

もっとも、アシュケナージは、すでに母国への里帰りを果たし、サンクトペテルブルク・フィルもこの全集に加わっている。

「ヴォルコフの証言」以後(証言それ自体の真偽のほどはさておいて)、ショスタコーヴィチの、特に「交響曲」を演奏する場合は、作曲者の体制下での葛藤をどう表現するかに注目が集まるようになった。

もちろん「ショスタコーヴィチの作中での体制賛美は、逆説的」というヴォルコフ認識は、証言の真偽によらず、大いにありえると思う。

しかし、アシュケナージのスタンスには、そのような「囚われ」がなく、純音楽的アプローチに徹していて、政治的な色が薄くなり、それが筆者には好ましい。

元来センスがいいのだし、それだけで音楽を作った割り切りは潔いが、指揮者としてのアシュケナージには、筆者としてもまだよく判らないことが多い。

音楽家としての彼は、多分曲によっては、言いたいこと、訴えたいことがたくさんあるのだろう。

ソヴィエト=ロシア音楽のある部分がそれで、そういう作品を指揮する時の彼は、棒のテクニックがといった次元の話を突き抜けてしまう。

中でも、超難曲の『第4』が最上の出来で、これは初演者コンドラシンによる1966年の録音を除けば、ロジェストヴェンスキー、ハイティンクを上回る緊張感と、抜群の構成感を持った演奏だった。

第5番、第8番、第10番ではサウンドのバランスがよく、急速部の足並みのよさが印象的だ。

ロイヤル・フィルの金管の音色がいつもより柔らかめなのがユニークで、それが音の彩に馴染んでいる。

サンクトペテルブルク・フィルとの録音となった第7番と第11番ではオーケストラの音色自体が抜群で、しかも必要以上の恰幅を求めないスマートさがよく、いわゆる「現代的」ショスタコーヴィチだ。

第1番、第6番、それにバルシャイの編曲による室内交響曲(原曲は弦楽四重奏曲第8番)や祝典序曲も好演、部分的にソフトフォーカス気味なサウンドを交えるあたりが巧みで、聴き心地がよい。

アシュケナージのアプローチは西欧風に洗練されていると言ってもいいし、やや焦点が不明瞭と批判することもできる。

ただ、この時期にきて、ショスタコーヴィチ演奏に様々なヴァリエーションが出てきたのは歓迎だし、アシュケナージは遠くから母なるロシアを見ているように思う。

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2019年05月19日


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ショスタコーヴィチの15曲の交響曲の中で、最も数多く演奏され、幅広いファンを獲得しているのが第5番であるということは、それなりの理由があることも事実であろう。

楽譜には今もって疑問を残すところがあるとしても、こうした位置に置かれる作品には、当然のことながら数多くのレコーディングも生まれているし、その中に心ひかれるものがいくつかあっても不思議ではない。

バーンスタインが1959年に、音楽監督に就任したばかりのニューヨーク・フィルと録音したこの演奏もそのひとつと言えるし、その後1979年にも、この顔合わせが来日した際の東京文化会館でのライヴがあるが、その双方が今もって高い評価を得続けている。

そのいずれをとるかは、その条件の違いをどう受け止めるかによって異なろうが、バーンスタインにとって、このベートーヴェンの第5交響曲にも相通ずるような“苦悩を突き抜けて歓喜へ”の理念を思わせるような作品への共感が、より率直に表出されていたのは、この最初の録音であるかも知れない。

ただ今回SACDハイブリッド盤で改めて聴いてみると、この演奏のインパクトの強さ、とりわけフィナーレの異様なまでの激しさは、バーンスタインが直感的に、この曲が単純な勝利の音楽ではないことをいち早く見抜いていた証ともとれるし、彼は時代を先取りしていたのだとも思える。

41歳という年齢的な若さもさることながら、演奏には覇気の迸りや気迫のこもった英気が滲み出ているのが容易に見てとれる。

それは、彼が実質的にまだ若かったということなのであろうが、オーケストラとの間の緊張感も含めて、その演奏にはライヴに匹敵するような強い気迫が感じられる。

この第5番はその代表的なものだが、彼の得意演目であったこともあって、冒頭から高いテンションの演奏が展開されている。

時として粗削りな表現がむき出しになってしまうところもあるが、表現力はかえって増すようにさえ思える。

その響きは、そうした面を反映してか、多少粗野なところもないではないが、そこに自己の音楽を自在に飛翔させ、新たな未来を見据えたようなその演奏は、聴く者に新鮮な感動と希望をもたらしてくれる。

ムラヴィンスキーの峻厳なイメージとは異なり、解釈は自在で溌剌とした気風に満ちており、いつ聴いても新鮮な感動と興奮を覚えさせる名演である。

まだショスタコーヴィチのもろもろの真実についてとやかく言われていなかったあの時代に、いち早くただならぬ問題提起をした、バーンスタインの本能的な洞察力に脱帽する。

カップリングされているコープランドの《ビリー・ザ・キッド》はニューヨークで生まれたが、育ったのはニューメキシコで、どちらの風土が彼により影響しているかはわかりにくいが、コープランドの創造したキッドは、凶悪な行状描写よりは、詩人が草原で夢想しているといった風貌に近い。

「ガン・バトル」のシーンも命がけで闘っているというよりは、バレエ音楽を意識し、ユーモラスなダンスを楽しんでいるといった印象だ。

おそらく彼はキッドに芸術家的なテンペラメントを見て、そんな要素を拡大しようとしたのだろう。

バーンスタインはそれを洞察し、抑制の効いたポエジー溢れる演奏を示している。

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2019年05月12日


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キリル・コンドラシンはショスタコーヴィチの交響曲第13番『バビ・ヤール』を生涯に5回録音しているので、このライヴが最後のものになる。

1962年の初演時には降板したムラヴィンスキーに替わってその重責を果たして大成功を勝ち得たのだが、それ以降ショスタコーヴィチの作品の最良の理解者として交響曲全集を始めとするオーケストラル・ワークやオラトリオの名演を遺してくれた。

ちょうどコンドラシンが『バビ・ヤール』を初演してから18年後となる1980年12月18&19日のバイエルン放送交響楽団との伝説的なライヴは、偶然と言われているが、全く同日の18年後であるこの演奏は翌年3月にアムステルダムで急逝したコンドラシンの遺言とも言うべき録音であり、『バビ・ヤール』の西側での録音としては、未だ並ぶものがないほどの超絶的な名盤である。

原作になるエフトゥシェンコの詩『バビ・ヤール』には旧ソヴィエト体制化のユダヤ人迫害を仄めかす部分が当局の検閲にかかって、初演の前から演奏家にも圧力が加えられ、ソロを歌うバス歌手も降板が相次いだといういわくつきの作品だ。

初演と2日後の再演はオリジナル版で演奏されたが、それ以降は歌詞を変えない限り上演禁止という措置が強制された。

実際メロディアからリリースされたコンドラシンのショスタコーヴィチ交響曲全集には改訂版が収録されているが、このディスクは幸い初演時に戻されたスコアが採用されている。

初演時のエフトゥシェンコの歌詞は、後のメロディアへの録音時には改訂版の使用を余儀なくされたため、ここで使用されているオリジナルの歌詞による演奏は一層価値がある。

この演奏は5種類の中ではライヴながら最も音質に恵まれ、ショスタコーヴィチによって緻密に仕上げられたオーケストレーションを細部まで聴き取ることが可能だ。

コンドラシンに率いられたバイエルン放送交響楽団も非常に精緻かつドラマティックで、一朝一夕のやっつけ仕事でないことは明らかだ。

彼はどのオーケストラとも徹底的に稽古をする指揮者としても知られていたが、そうした音楽的な厳しさもひしひしと感じられる。

またソロを歌う英国のバス歌手ジョン・シャーリー=カークとコーラスもロシア語に挑戦した原語上演であることも好ましい。

1962年ののっぴきならない逼迫した緊張感には及ばないとしても、作曲家の意志を貫いた鮮烈でスペクタクルな再現であることに違いない。

重々しく始まる冒頭から一貫してコンドラシンの強い主張と一種独特なテンションが持続されており、聴く者の心を鷲掴みにせずにはおかない驚異的な演奏だ。

ライナー・ノーツにはアルファベット表記のロシア語に日本語対訳が掲載されている。

尚リリース元のタワーレコードからはこのレギュラー・フォーマット盤の他にSACDバージョンでも入手可能だ。

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2019年04月16日


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《ムツェンスク郡のマクベス夫人》は、ショスタコーヴィチが生涯を通じて最も自由奔放な作曲を行った時期の総決算的な意味を持つ記念碑的作品の原典版。

意外にもショスタコーヴィチにはオペラが少なく、完成しているものは3作品で、このうちの1曲は本作品の焼き直し(改訂)だから、結局2曲となり、しかも、この2作は20歳半ばまで書き上げたものだ。

《ムツェンスク郡のマクベス夫人》が1936年の共産党批判を受けたため、ショスタコーヴィチがこの分野の作曲を犂躙鵜瓩犯獣任靴燭燭瓩世蹐Δ?

あまりに凄絶な内容はともかく、西欧の1920年代の前衛手法を巧みに取り込み、ドラマティックな表現力や緻密な構成、そして何より豊潤な旋律線は見事というしかない。

もしショスタコーヴィチが爛ペラ作曲家瓩箸靴導萍していたら、20世紀のオペラ史はかなり違ったものになっていただろう。

いずれにしても、同じ作曲家の6年前の佳作《鼻》などとは格違いの、20世紀のオペラの最高傑作のひとつである。

体制に抹殺されていたこの傑作のパリ初演の成果に基づくチョン・ミュンフン盤は、非常に優れた演奏である。

ダイナミック・レンジの大きな表現、歌と管弦楽のバランスも素晴らしく、この指揮者の緻密な音楽づくりと劇的センスの良さを強く印象づける。

このオペラには、太い描線で、濃く演奏するやり方があるとは思うけれど、もちろんチョン・ミュンフンはそうしてはおらず、細部のニュアンスを見事に拾い出す。

ここでも、さまざまなパロディやら何やらを投入して、まじめさと冗談の奇妙に混ざり合ったショスタコーヴィチの音楽を巧みに描いていくが、その際の手際の良さは大変なものだ。

このように作品の鮮烈さとともに叙情的な面にもよく配慮しながら入念緻密な音によるドラマを造形してゆくチョンは、刺激的な現代技法が隠し味に回る終幕が特に素晴らしい。

ここでちょい役の老囚を演じるクルト・モルの歌にただよう存在感もチョンの解釈を引き立てている。

20世紀を代表する傑作オペラの1つなのだと、この演奏なら得心がゆくし、暴力や性のオペラ化も、これならいける。

そして、この演奏の強みは、キャストがそれぞれ巧妙に歌で演技していることだろう。

性格的な役柄を得意にするユーイングをはじめ、ツェドニク(農民)、ザレンバ(ソニェートカ)、モル(老囚人)など、脇役まで隙のないキャストも充実している。

特にカテリーナを歌うマリア・ユーイングは、申し分なく魅力的な悪女になっていて、それに指揮者が同情の眼差しを注いでゆく。

あの手この手を繰り出して、暗いドラマを楽しませてしまおうとするショスタコーヴィチの狙いは、この演奏で存分に生かされることになった。

録音も歌唱と管弦楽のバランスに優れ、決別したチョンとパリ・オペラ座バスティーユの残した見事な記録でもある。

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2018年09月24日


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クルト・ザンデルリンクは1960年にベルリン交響楽団の首席指揮者としてドイツ帰国を果たして以来、ヨーロッパの楽壇でもその実力が認められるようになった。

ナチスの迫害を避けるための亡命だったが、25年に及ぶソヴィエト滞在はショスタコーヴィチとの交流やムラヴィンスキーからの薫陶でスラヴ系の作曲家の作品をレパートリーとして開拓することになった。

このディスクに収録されたショスタコーヴィチの交響曲第5番は、1982年に古巣ベルリン交響楽団を振ったセッション録音で、ドイツ的な真摯で重厚な演奏の中に緊張感を崩さないオーケストラへの采配が見事だ。

敢えて指摘するならば外面的な派手なアピールは皆無なので、玄人受けはするが入門者にとっては多少地味に映るかもしれない。

例えばアンチェル、チェコ・フィルの演奏では終楽章は希望を感じさせる色彩を放ちながら壮大に終わるのに対して、彼らは頑固なまでに色調を変えず、黒光りするようなコーダを形成している。

アンチェルの開放性と解釈を違えている理由は、やはり彼のソヴィエト時代の研鑽によるものだろう。

ザンデルリンクは1937年11月21日のムラヴィンスキー、レニングラード・フィルによるこの作品の初演に立ち会った可能性がある。

またショスタコーヴィチ自身から作曲の成り立ちについても聞き出していたのではないだろうか。

以前はプラウダに掲載された態勢への反動分子という汚名返上のための回答としての社会主義リアリズムのプロパガンダ、つまり恭順の意を示した作品のイメージが浸透していたが、最近では第4番の初演撤回の後も彼の作曲への理念は根本的に変化していなかったというのが一般的な見方だ。

結果的に初演は大成功に終わり、図らずも彼の当局への名誉回復になったのだが、どうもショスタコーヴィチ自身には彼らの目論見とは別の構想があったように思われる。

その後1948年に今度はジダーノフ批判に曝されてモスクワ及びレニングラード音楽院の教授職を追われることになるのは象徴的な事件だが、この時彼は巧妙に立ち回って迎合的な作品を発表する。

このあたりの複雑な心理状態と行動にショスタコーヴィチの苦悩が秘められている。

録音会場になったイエス・キリスト教会は当時の東ベルリンにあり、現在ではエヴァンゲリスト教会に改名されていて、カラヤン、ベルリン・フィルが使った同名の教会とは異なっているが、こちらも大編成のオーケストラの演奏に対応する優れた音響空間を持っている。

このディスクは旧東独ドイツ・シャルプラッテン音源を新規リマスタリングしたバージョンで、従来盤より滑らかでクリアーな音質が再生される。

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2018年08月27日


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ショスタコーヴィチは若い頃からクラシック以外のジャンル、ポピュラー・ミュージックやジャズにも造詣が深く、習作とは言えないほどのかなりの数の本格的な作品を書いているし、また映画音楽にも取り組んでそのオールマイティーな才能を発揮した。

それらは彼の後の交響曲などから見ればきわものとして扱われるが、作曲当時から大人気を博した作品群で、彼の意外なプロフィールを披露していて興味深い。

このディスクではジャズ組曲第1番及び同第2番、ピアノ協奏曲第1番ハ短調とヴィンセント・ユーマンスの『二人でお茶を』のオーケストラ用アレンジが収録されている。

演奏の方だがロイヤル・コンセルトヘボウのメンバーは流石に巧く、アンサンブルとしても洗練されていて、シャイーの纏め方にもケチのつけようがない。

しかしオーケストラが精緻になればなるほどプリミティヴで荒削りな側面やジャズの命とも言えるインプロヴィゼーションの面白さが失せてしまうことも事実だろう。

それゆえクラシックとして鑑賞するのであれば非の打ちどころのない演奏だが、組曲第1番などは純粋なジャズ・バンドで聴いてみたいという欲求に駆られるというのが正直な印象だ。

その点ピアノ協奏曲もさまざまな音楽からの影響を受けた作品ではあるにしても、クラシックの範疇に留まった再現は上出来で、ブラウティハムのピアノ・ソロも首席奏者マシュールスのトランペットも力強く冴え渡っている。

ジャズ組曲第2番は第1番よりも規模が大きくなっているが、実際にはステージ・オーケストラのための組曲で本来のジャズ組曲第2番は戦時中に紛失したようだ。

この作品はいわゆるジャズではないが、ショスタコーヴィチが交響曲で見せる暗澹とした重苦しい雰囲気とは全く異なった、底抜けに明るいイメージが同じ作曲家の作品とは思えないほどのコントラストに驚かされる。

最後の『タヒチ・トロット、二人でお茶を』はユーマンスの曲だが、指揮者ニコライ・マルコの提案した1時間以内でのオーケストラ・アレンジという賭けに応じて、22歳のショスタコーヴィチが僅か40分で仕上げたといういわく付の編曲物だ。

小粋で洒落たセンスと色彩感豊かなオーケストレーションに成功しているのも彼の天才性を示すエピソードだろう。

1988年から91年にかけてアムステルダム・コンセルトヘボウ大ホールでの収録で、当時のデッカの音質は極めて良好。

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2018年08月19日


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クルト・ザンデルリンクはナチスのユダヤ人迫害から逃れてソヴィエトに亡命し、ムラヴィンスキー音楽監督時代のレニングラード・フィルの客演指揮者として研鑽を積んだ。

尤もムラヴィンスキーのような全軍水も漏らさず統率する強面の指揮官というイメージはない。

ここでも緻密だがオーケストラの持ち味を活かした柔軟な音楽作りが冴えていて、決して強引と思われるような牽引もなければ聴き手を疲弊させることもない豊かな音楽性を発揮させることができた指揮者だった。

彼は録音活動にはそれほど恵まれなかったが、その実力はゲルマン、スラヴ系の作品に示された楽曲に対する手際の良い采配と音響力学の巧みな配分やあざとさのない歌心、クライマックスでの自然な、しかし力強い高揚感などに表れている。

特にザンデルリンクはショスタコーヴィチとはソヴィエト時代に個人的な交流があったために、作曲家の良き理解者でもあった彼が情熱的に取り組んだ重要なレパートリーだ。

交響曲第15番はロッシーニを始めとする他の作曲家や自作のパロディーの応酬が聴きどころだが、それはショスタコーヴィチの人生の走馬燈だったのかも知れない。

彼らの演奏はシニカルというよりスコアからのダイレクトな表現で、かえってこの作品の構想を真摯に捉えたものだと思う。

ベルリン交響楽団(現在のベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団)は旧東ドイツではシュターツカペレ・ドレスデン、シュターツカペレ・ベルリンやライプツィヒ・ゲヴァントハウスなどに続く典型的な質実剛健なオーケストラで、ザンデルリンクの下でその実力を培ってヨーロッパを代表する名門になるまでに至った。

それはこのディスクに収録されたショスタコーヴィチの最後の交響曲でも明瞭に聴き取ることができる。

この作品のいたるところにソロや複雑なアンサンブルがちりばめられていて、彼らの高い水準の合奏力とメンバー1人1人のテクニックが示されているし、勿論総奏の時の迫力も申し分のないものだ。

1978年に当時の東ベルリン・イエス・キリスト教会で収録されたドイツ・シャルプラッテン音源だが、西側と全く変わらない良好な音質で残されていて、今回のUHQCD化によって雑味の払拭されたサウンドが再生される。

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2018年02月26日


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このディスクは演奏水準と録音状態で既に高い評価を受けていたものだが、今回のUHQCD化によってその価値を更に高める結果になっている。

また前回のコロムビアからの日本盤では交響曲第5番と祝典序曲のカップリングだったのが、同じメンバーによる交響曲第1番との2曲に入れ替わり、より充実した選曲になったことも評価できる。

肝心の音質だが確実に向上していることが聴き取れる。

より古い1961年録音の第5番は64年の第1番に比べても遜色のない、透明感のある鮮明なサウンドと奥行きを感じさせる音場が得られ、終楽章コーダのティンパニの打ち込みも鮮やかに再生されるし、第1番のソロ楽器の独立性が保たれたカラフルなアンサンブルが印象に残る。

源音をCD化する時に必然的に起こる音質の劣化を最小限に食い止める手段として、個人的には肯定的に受け止めている。

ショスタコーヴィチの交響曲については、とかくこれらの曲の成り立ちに関するエピソードや当時のソヴィエトの社会情勢に対する作曲家の複雑な心境などが云々されて、聴き手もそうした暗澹たる状況を演奏の中に探しがちだ。

アンチェルの演奏にはそのような作品にまつわる澱のようなものを完全に濾過した解釈があり、純粋にスコアに書き記された音楽だけから引き出される音響力学によって再現する姿勢は終生変わらなかった。

それが作品に普遍的な価値を与えているのだろう。

アンチェル自身の強制収容所での悲惨な経験は、活かされているとすればそれは人類愛に向けられていて、彼の演奏を高踏的にしているのだと思わざるを得ない。

第5番は全体にゆとりのあるテンポで作品の悲劇性を素朴に表現しており、そこに西欧やアメリカとは異なるスラヴ的気質が表されているようだ。

アンチェルの演奏には技術的にデリケートな側面とおおらかな気分が同居しているのが興味深い。

終楽章を雄大に表出してクライマックスを盛り上げているのは現代の先駆を成す演奏だ。

チェコ・フィルのオーケストラとしての実力が遺憾なく示されているのもこのCDの特徴で、アンチェルの指揮に敏感に呼応する全体の機動力と結束にも驚かされる。

アンサンブル交響曲とも呼びたくなる第1番の様々な楽器によるソロの大活躍と一糸乱れぬ合わせの巧さも聴きどころだ。

ここにはアンチェル首席時代に迎えたチェコ・フィル第二の黄金期の面目躍如の演奏が記録されている。

彼らはドヴォルザークからスーク、マルティヌーやヤナーチェクに至るチェコの作曲家の作品の演奏では他の追随を許さないが、この2曲のショスタコーヴィチではロシア物との相性もすこぶる良いことを示している。

勿論スラヴ系以外でもモーツァルトに代表される古典から現代音楽のジャンルにおいても活躍が期待できるオーケストラだ。

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2016年08月26日


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エフゲニー・ムラヴィンスキーと手兵レニングラード・フィルによるショスタコーヴィチの交響曲第5番ニ短調Op.47及び第12番ニ短調Op.112『1917年』の2曲を収録したSACD盤である。

ライナー・ノーツには前者が1965年10月24日のモスクワ音楽院大ホールでの放送用ライヴ、後者が1961年10月1日のレニングラード・ライヴで1962年1月6日のプラハ放送用ブロードキャスト音源と記載されている。

同じプラガ・ディジタルスから既にリリースされたレギュラー・フォーマット盤と同一データだが、これらの音源はその後日本ムラヴィンスキー協会の事務局長だった天羽健三氏の調査によると、実際には第5番が1978年6月13日ウィーン・ムジークフェライン・グローサー・ザールでのライヴ、第12番は1961年モスクワ・ラジオ・ラージ・スタジオでのセッションと判明しているようだ。

なるほどフランク・フォアマン/天羽健三編のディスコグラフィーを閲覧すると、より信頼性の高いと思われるこちらのデータが記録されている。

ライヴ録音が多かった彼らの音源ではしばしば起こる混乱の一例だ。

どちらも良好なステレオ録音で、しかも両者の間には17年間の開きがあるにも拘らず、いずれ優るとも劣らない音質には正直言って違和感さえ感じられる。

特に第5番はライヴにしては聴衆を隔離でもしたかのように客席からの雑音や拍手は一切なく、データに関してはいくらか疑問が残らないでもないが、リマスタリングの効果は上々で、両翼型オーケストラ特有の音響が鮮明に蘇って、彼らの典型的なコラボの真骨頂を堪能することができる。

第1楽章のピアノを交えた重厚なカノンや終楽章の執拗に打ち込まれるティンパニの連打には弥が上にも高まる緊張感と執念とも思える迫力が示されている。

ショスタコーヴィチはロシア革命と社会主義をテーマに扱った一連の交響曲を作曲しているが、第12番は『1917年』の副題付でレーニンと10月革命をイメージした作品になり、後半の大規模なオーケストラのサウンドを殆んど限界まで全開させるムラヴィンスキーの統率力と、それに応えるレニングラードの大奮闘はソヴィエトの威信を懸けた凄まじい演奏だ。

ムラヴィンスキーはショスタコーヴィチの才能に関して、当初からその作品を通じて高い芸術性に理解と共感を示して、プロコフィエフを始めとする他の20世紀のロシアの作曲家の作品よりも好んで採り上げている。

このディスクに収録された2曲の他にもムラヴィンスキー&レニングラード・フィルが初演を飾ったショスタコーヴィチの交響曲は第6、第8、第9、第10番があり、全15曲の交響曲のうち6曲までの初演を彼らが手掛けている。

ちなみに第4番及び第13番はキリル・コンドラシン、最後の第15番は息子のマキシム・ショスタコーヴィチの初演になるが、1948年から10年間に及んだジダーノフ批判でショスタコーヴィチが退廃的作曲家のレッテルを貼られたことによって、ムラヴィンスキー自身にも当局からの圧力がかかったとも言われている。

そうした不幸にも拘らず彼らが演奏を繰り返すことによって、現在これらの交響曲が西側でも独自の価値を獲得し、オーケストラのレパートリーとして定着しているのはまさに彼らの功績と言えるだろう。

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2016年04月13日


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プラガ・ディジタルスのSACD盤シリーズで、ムラヴィンスキーは既にリヒテルとの協演で2枚、その他にオイストラフとショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲を収めた1枚がリリースされているが、今回彼が振ったオーケストラル・ワークのレパートリーから更に2枚が加わった。

演奏については今更言及するまでもない評価の高い名盤なので、音質がどの程度改善されたかが鑑賞のポイントになるだろう。

ショスタコーヴィチが1961年2月12日のライヴ、スクリャービンの方が1958年12月22日のセッションのどちらもモノラル録音で、演奏の質とその意義を考えればSACD化の価値は充分に見出せるが、当時の欧米の大手メーカーに比較するとこれらの音源とその保存状態は理想的とは言えないのも事実だ。

改善された点は高音部の伸びと音場に奥行きが感じられるようになったことで、その結果以前より無理のない柔らかで潤いのある音質が得られている。

モノラル録音では楽器ごとの分離状態がある程度確保されることで臨場感が補われるので、その意味では成功しているし、また僅かながら音像に立体感が出ている。

特に管弦打楽器が一斉に鳴り響く総奏の部分では再生し切れなかった音の塊りが、より自然に響いている印象を受ける。

ショスタコーヴィチの交響曲第8番ハ短調はムラヴィンスキーに献呈され、彼によって初演された作品なので、指揮者自身にも強い思い入れがあった筈だし、ライナー・ノーツによればこの曲はジダーノフ批判の波に曝されて1948年から56年まで上演禁止の憂き目に遭っていた。

交響曲としての色調はいたって暗く、ムラヴィンスキーによって鍛え抜かれたレニングラード・フィルの統率感と凄まじいばかりの集中力がただならぬ雰囲気を作り上げている。

第3楽章のミリタリー的なファンファーレの応酬にも硬直した感じがないのは流石で、それに続くパッサカリアへの劇的な変化にも必然性がある。

当時の放送用ライヴだが、幸い客席からの雑音は最低限に抑えられている。

一方スクリャービンの交響曲第4番『法悦の詩』は官能的な演奏とは言えないが、逆にある種硬質な透明感が曲の神秘性を醸し出している。

2台のハープ、オルガン、チェレスタや多くのパーカッションが活躍するこの曲こそステレオ録音で聴きたいところだが、ムラヴィンスキーによって冷徹に熟考されたダイナミズムとバランスはそうした弱点を超越して特有の色彩感も感知させている。

ちなみに同SACDシリーズでムラヴィンスキーのオーケストラル・ワーク第2集、バルトーク、オネゲル及びストラヴィンスキーの作品集がリリースされている。

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2015年11月26日


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東京都交響楽団とのショスタコーヴィチ「第4」が2012年レコード・アカデミー賞を受賞したインバル70代半ばの解釈を、プレートルとのマーラーで実力をみせた1990年代ライヴ盤が近年高い評価を受けたウィーン交響楽団との組み合わせで聴く異色の全集。

全世界にインバルの名を知らしめたのマーラーに始まって、ラヴェル、ベルリオーズへ、短期間にある作曲家の作品を集中的に録音・発表することによってその全体像を明らかにするというインバルのアプローチとそれを実現させる力量は、そしてこのウィーン交響楽団とのショスタコーヴィチ交響曲全集に至って、一段と大きな成果を生み出した。

全体主義政権下における芸術家の苦悩、そしてその作品の本質への理解を後世に託したショスタコーヴィチの心の声が、全15曲を俯瞰することによって、より深く感得されることであろう。

フランクフルト交響楽団との多くの名盤の陰で、評判は当時も今も高くないが、管や打楽器の名演、弦の弱奏、タクトへの迅速な反応に優れたオーケストラと、練習に厳格そうな指揮者とが、双方一心に演じている。

都響ライヴと趣が違う「第4」も、指揮者の指示にオケが敏捷に動き、第3楽章後半での管と弦との掛け合いでは、フレーズごとに表情を変えながら頂点に向かっていくドライブが心地よい。

スペクタクル派と対極な「第7」でも個性が発揮され、第3楽章が宗教的なら、フィナーレはモールス信号Vを連打で表したと言う爆音が膨張するなど、聴き所は沢山ある。

さらに初期交響曲の「第1」は若々しくも老練、「第2」の近代的な音作りや奇怪なサイレン音は指揮者の心中をみるようで、「第3」はスケールが大きく、管・打楽器の演奏は恰好が良い。

他に比べ人気の低い「第6」から、この演奏が「深い森に冷たい陽がさすように始まり、最後は乱痴気騒ぎで終わった」と聴こえれば、本曲の魅力が知れると共に、全集に共通して最初モヤモヤ始まり終わりにつれてダイナミックさを増していく指揮者のポリシーが知れる。

しかしこれは聴き手の好みを分けることになるだろう。

開始が「第6」と似た「第12」も、楽譜への忠実さが定評なインバルだからこそ、終楽章での大胆なリズム変化や打楽器の炸裂は面白い。

「第8」「第11」は深刻すぎずも要所を押さえ、「第9」は管楽器のソロが優れており、第1楽章は軽快、第2楽章は奇怪、第5楽章は雄弁で、「第10」のトランペットソロの技巧とともに印象に残った。

歌手の声がよい「第13」も、煙幕の中から音が始まり、狂言と悲しみを歌う後の至福の旋律が天国へつれてゆく。

そして最後の「第15」は、他の同曲盤と比べても名解釈であり、「第1」の快活さに通じる第1楽章に続き、第2楽章の金管と独奏チェロの掛け合いはたそがれて、第3楽章のソロアンサンブルも上手い。

終楽章はヴァイオリン協奏曲の主題が魔界的に降臨し、バルトークの夜の音楽風なコーダは、暗い道を管・打楽器がどこまでもか細くつぶやき、ついにふっと吹き消えて終わる。

しかし全集の中でも「第5」と「第14」は、他の数ある名盤に譲るかもしれない。

現在、全集プロジェクトが進行する若いペトレンコの現代的な演奏と聴き比べたりすることにより、1990年代に録音された本作からも、ショスタコーヴィチを当時新たに描こうと、時代を先取ったインバルの意欲が伝わってきた。

ショスタコーヴィチの苦悩の音楽が理解されるようになった今こそ、評価されてよいものに思う。

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2015年09月19日


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このSACDに収録されたショスタコーヴィチの3曲の協奏曲は、いずれも歴史的録音の範疇に入るもので、ロストロポーヴィチ及びオイストラフはこれらの曲の初演を果たしたソリストでもあり、またピアノ協奏曲を弾き振りするバーンスタインとニューヨーク・フィルは初演の翌年に早くもアメリカでの演奏を手がけたメンバーだ。

総てオリジナル・ステレオ・ソースからのDSDリマスタリングによるSACD化なので、多少のヒス・ノイズは致し方ないが、全体的にかなり鮮明な音質が再現されていて、これらのセッションの生々しい雰囲気を感じることができ、高度な鑑賞にも充分堪え得るクオリティーを持っている。

3人のソリストの集中力に漲る演奏とその表現力の多様さに驚かされる1枚だ。

チェロ協奏曲第1番変ホ長調はユージン・オーマンディ指揮、フィラデルフィア管弦楽団との1959年のセッションになり、ロストロポーヴィチの張り詰めた緊張感が全曲に亘って貫かれた厳格な印象を与える演奏で、またオーマンディの鋭利な指揮も注目される。

この曲にはオブリガート・ホルンが加わるが、ホルン奏者のメイソン・ジョーンズも力強い表現でチェロに拮抗している。

ピアノ協奏曲第2番はバーンスタインの軽妙洒脱で、とびっきり粋なセンスが活かされた、彼の気性に良くマッチした曲だ。

第2楽章の、この作曲家にしては珍しくロマン派的な哀愁が作品を随分親しみ易いものにしているのも事実だろう。

録音データを見ると1961年11月となっているが、バーンスタイン、ニューヨーク・フィルのセッションは1958年で、おそらくこれはソニーからリリースされているものと同一音源であることが考えられる。

またバーンスタインのディスコグラフィーにも1961年にこの曲を録音した形跡は見当たらない。

プラガは以前にも物議を醸したレーベルなので、データの信憑性については疑問が残る。

CDの最後を飾るヴァイオリン協奏曲第1番イ短調は、神秘的である一方、ハチャトゥリァンの同協奏曲のように民族的な底力を持った曲で、それはあるいは彼からの影響かも知れない。

しかし第3楽章のパッサカリアの荘厳な風格と長いソロ・ヴァイオリンのカデンツァはショスタコーヴィチのオリジナリティーに富んだ部分で、ここではオイストラフのパワフルで鮮やかなソロが白眉だ。

両作曲家のヴァイオリン協奏曲がどちらもオイストラフに献呈されていることを思えば、当時彼が如何に信頼の厚かった演奏家であったか想像に難くない。

初演と全く同じメンバー、ムラヴィンスキー指揮、レニングラード・フィルによる1956年の演奏が堪能できるのも特徴だ。

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2015年09月11日


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リヒテルは幸いロシアのヴィオラ奏者、ユーリ・バシュメットとこのソナタ集を遺してくれた。

このCDに収められているのはヒンデミットの『ヴィオラ・ソナタヘ長調』Op.11-No.4、ブリテンのヴィオラとピアノのための『ラクリメ』Op.48及びショスタコーヴィチの『ヴィオラ・ソナタ』Op.147の3曲で、いずれも1985年3月6日から8日にかけて行われたフライブルクでのコンサートからのライヴ録音になる。

ここでは勿論名手バシュメットの理知的で精緻なヴィオラが白眉だが、ヒンデミットのソナタでは意外なほどヴィオラを歌わせるように作曲されていて、それとは対照的に広い音域を駆使した非常に技巧的で華麗なピアノ・パートをリヒテルが巧妙に支えているのが聴き所だ。

一方ブリテンの曲は『ダウランドの歌曲の投影』という副題付だが、ダブル・ストップ、フラジオレット、トレモロやピチカートなどの弦楽器特有のテクニックがフルに使われた一種のファンタジーで、バシュメットの高度な表現力が張り詰める緊張感の中で活かされている。

またショスタコーヴィチでもヴィオラ特有の暗く奥深い響きと両者の集中力が、ドラマティックで不気味な曲想をいやがうえにも高めている。

沈潜した両楽章に挟まれた第2楽章の民族舞踏を思わせるアレグレットは、全曲中最も激しく情熱的な死の舞踏を想起させる。

ヴィオラはその音色の性質と音域から、普段はオーケストラの内声に入って和声を支える役目を負わされ、ソロ楽器としては滅多に扱われることがないが、バシュメットの手腕によってその芸術性を再認識させられるのがこのソナタ集だ。

彼らの協演したコンサートでは、この他にシューマンのピアノとヴィオラのための4つの『お伽の絵本』のモスクワ・ライヴがドレミ・レーベルからリリースされているし、バシュメットが指揮者にまわったテルデックからの協奏曲集もある。

リヒテルのアンサンブルへの参加は他のピアニストに比較して決して少なくない。

一流どころのピアニストが歌曲や他のソロ楽器のための伴奏にまわること自体、彼らのコンサートの習慣からしても、あるいは主催者側のスケジュールの調整や費用の面からしても、それほど簡単でないことが想像される。

しかしリヒテルはロストロポーヴィチとのチェロ・ソナタ集に代表されるように若い頃から伴奏や連弾、あるいは弦楽アンサンブルとの協演を盛んに手がけている。

彼のこうした情熱を考えると、広い視野を持ってさまざまなジャンルに取り組んだオールマイティな音楽観が、逆に純粋なピアノ曲にも反映されていると言えるだろう。

それがリヒテルの音楽を包容力に富んだ懐の深いものにしている理由のように思われる。

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2015年08月08日


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1986年8月28日、ロイヤル・アルバート・ホールでのライヴ録音で、ハイティンクが得意とするショスタコーヴィチの交響曲の待望の再録音の登場だ。

ハイティンクは、本盤に収められた交響曲第10番を約10年前にも同じロンドン・フィルとともに、ショスタコーヴィチの交響曲全集の一環としてスタジオ録音(1977年)していることから、本演奏はハイティンクによる同曲の2度目の録音ということになる。

ところで、ハイティンクほど評価が分かれる指揮者はいないのではないか。

長年に渡ってコンセルトへボウ・アムステルダムの音楽監督をつとめ、ポストカラヤン争いでも後継者の候補の一人と目されベルリン・フィルの団員にも愛された指揮者であり、そして現在ではシカゴ交響楽団の音楽監督をつとめるという輝かしい経歴の持ち主であるにもかかわらず、ハイティンクの名声が揺るぎないものとは言い難い状況にある。

ハイティンクは全集マニアとして知られ、数多くの作曲家の交響曲全集を録音している。

いずれも決して凡演というわけではなく、むしろいい演奏ではあるが、他の指揮者による演奏にも優るベストの名演を成し遂げているとは言い難いのではないだろうか。

このように、ベターな演奏を成し遂げることが出来てもベストの名演を成し遂げることができないところに、ハイティンクという指揮者の今日における前述のような定まらない評価という現実があるのかもしれない。

もっとも、ハイティンクが録音した数ある交響曲全集の中でも、唯一ベストに近い評価を勝ち得ている名全集がある。

それは、完成当時はいまだ旧ソヴィエト連邦が存在していたということで、西側初とも謳われた前述のショスタコーヴィチの交響曲全集(1977〜1984年)である。

これは、ハイティンクに辛口のとある影響力の大きい有名音楽評論家さえもが高く評価している全集だ。

もっとも、当該全集については、すべての演奏がベストの名演というわけではないところが、いかにもハイティンクらしいと言える。

ハイティンクは、ロンドン・フィルとコンセルトへボウ・アムステルダムの両オーケストラを使い分けて全集の録音を行ったが、どちらかと言えば、コンセルトへボウ・アムステルダムを起用した演奏の方がより優れていた。

したがって、当該全集に収められた交響曲第10番の演奏は、いささか不満の残る内容であったことは否めないところだ。

ところが、本盤に収められた約10年ぶりの本演奏は、当該全集に収められた演奏とは段違いの素晴らしい名演に仕上がっていると評価したい。

本演奏におけるハイティンクのアプローチは直球勝負。

いずれの演奏においても、いかにもハイティンクならではの曲想を精緻に、そして丁寧に描き出していくというものであり、ショスタコーヴィチがスコアに記した音符の数々が明瞭に表現されているというのが特徴である。

したがって、ショスタコーヴィチの交響曲の魅力を安定した気持ちで味わうことができるというのが素晴らしい言えるところだ。

加えて、本演奏には、晩年を迎えたハイティンクならではの奥行きの深さが感じられるところであり、さすがにムラヴィンスキー&レニングラード・フィルによる超名演(1976年)ほどの凄みはないが、同曲に込められた作曲者の絶望感などが、淡々と進行していく曲想の中の各フレーズから滲み出してくるのが見事である。

このような彫りの深い名演を聴いていると、ハイティンクが今や真の大指揮者になったことを痛感せざるを得ないところだ。

ハイティンクの確かな統率の下、旧盤でも演奏したロンドン・フィルが持ち得る実力を最大限に発揮した入魂の名演奏を繰り広げているのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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2015年08月03日


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凄い演奏だ。

このような凄い演奏が遺されていたということは、ザンデルリンクのファンのみならず、クラシック音楽ファンにとっても大朗報と言えるのではないだろうか。

東独出身のザンデルリンクは、旧ソヴィエト連邦においてムラヴィンスキーにも師事し、ショスタコーヴィチと親交があったこともあって、ショスタコーヴィチの交響曲を得意としていた。

すべての交響曲を演奏・録音したわけではないが、第1番、第5番、第6番、第8番、第10番、第15番の6曲についてはスタジオ録音を行っており、いずれ劣らぬ名演に仕上がっている。

ショスタコーヴィチの15ある交響曲の中で、どれを最高傑作とするのかは諸説あると思われるが、盟友であったムラヴィンスキーに献呈された第8番を最高傑作と評価する者も多いのではないかとも思われるところだ。

ザンデルリンクも、前述のようにムラヴィンスキーに師事していたこともあり、同曲にも特別な気持ちを持って演奏に臨んでいたのではないか。

前述のベルリン交響楽団とのスタジオ録音(1976年)もそうしたことを窺い知ることが可能な名演に仕上がっていたが、本盤の演奏は、当該演奏をはるかに凌駕する圧倒的な超名演に仕上がっていると高く評価したい。

ザンデルリンクによる本演奏は、師匠であるムラヴィンスキーの演奏とはかなり様相が異なるものとなっている。

ムラヴィンスキーによる同曲最高の名演とされる1982年のライヴ録音と比較すればその違いは顕著であり、そもそもテンポ設定が随分とゆったりとしたものとなっている(ザンデルリンクによる1976年のスタジオ録音よりもさらに遅いテンポをとっている)。

もっとも、スコア・リーディングの厳正さ、演奏全体の堅牢な造型美、そして楽想の彫りの深い描き方などは、ムラヴィンスキーの演奏に通底するものと言えるところだ。

その意味では、ショスタコーヴィチの本質をしっかりと鷲掴みにした演奏とも言えるだろう。

ムラヴィンスキーの演奏がダイレクトに演奏の凄みが伝わってくるのに対して、ザンデルリンクによる本演奏は、じわじわと凄みが伝わってくるようなタイプの演奏と言えるのかもしれない。

ショスタコーヴィチの交響曲は、最近では数多くの指揮者が演奏を行うようになってきているが、その本質を的確に描き出している演奏はあまりにも少ないと言えるのではないだろうか。

ショスタコーヴィチは、旧ソヴィエト連邦という、今で言えば北朝鮮のような独裁者が支配する政治体制の中で、絶えず死と隣り合わせの粛清の恐怖などにさらされながらしたたかに生き抜いてきたところだ。

かつて一世を風靡した「ショスタコーヴィチの証言」は現在では偽書とされているが、それでも、ショスタコーヴィチの交響曲(とりわけ第4番以降の交響曲)には、死への恐怖や独裁者への怒り、そして、粛清された者への鎮魂の気持ちが込められていると言っても過言ではあるまい。

したがって、ショスタコーヴィチと親交があるとともに、同時代を生き抜いてきたムラヴィンスキーの演奏が感動的な名演であるのは当然のことであり、かかる恐怖などと無縁に平和裏に生きてきた指揮者には、ショスタコーヴィチの交響曲の本質を的確に捉えて演奏することなど到底不可能とも言えるだろう。

一般に評判の高いバーンスタインによる演奏など、雄弁ではあるが内容は空虚で能天気な演奏であり、かかる大言壮語だけが取り柄の演奏のどこがいいのかよくわからないところだ。

かつてマーラー・ブームが訪れた際に、次はショスタコーヴィチの時代などと言われたところであるが、ショスタコーヴィチ・ブームなどは現在でもなお一向に訪れていないと言える。

マーラーの交響曲は、それなりの統率力のある指揮者と、スコアを完璧に音化し得る優秀なオーケストラが揃っていれば、それだけでも十分に名演を成し遂げることが可能とも言えるが、ショスタコーヴィチの交響曲の場合は、それだけでは到底不十分であり、楽曲の本質への深い理解や内容への徹底した追求が必要不可欠である。

こうした点が、ショスタコーヴィチ・ブームが一向に訪れない要因と言えるのかもしれない。

旧ソヴィエト連邦と同様の警察国家であった東独出身であるだけに、ザンデルリンクの演奏も、前述のようにショスタコーヴィチの本質をしっかりと鷲掴みにしたものであり、とりわけ最晩年にも相当する本演奏は、数あるザンデルリンクによるショスタコーヴィチの交響曲の名演の中でも最高峰の名演であり、同曲の数ある名演の中でも、ムラヴィンスキーによる1982年の名演と並び立つ至高の超名演と高く評価したいと考える。

音質についても、1994年のライヴ録音であるが、文句の付けようのない見事な音質に仕上がっていると評価したい。

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2015年06月26日


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クルト・ザンデルリンクは、2011年9月18日、ベルリンにて98歳の生涯を終えた。

2002年に引退をしてからは指揮活動から遠ざかってはいたが、現役時代に行った演奏の数々の中には素晴らしい名演も数多く存在しており、その死は誠に残念至極であり、この場を借りて、改めてザンデルリンクの冥福を心からお祈りしたい。

ザンデルリンクはムラヴィンスキーに師事するとともに、ショスタコーヴィチと親交があったこともあって、ショスタコーヴィチを得意としており、交響曲第15番については2度にわたってスタジオ録音している。

最初の録音が、ベルリン交響楽団との演奏(1978年)であり、2度目の録音が、クリーヴランド管弦楽団との演奏(1991年)である。

いずれ劣らぬ名演と言えるところであり、1978年盤はより引き締まった演奏全体の造型美を味わうことが可能と言えるが、特に1991年の演奏については懐の深い円熟の名演とも言えるところであり、筆者としては、本演奏の方を僅かに上位に掲げたいと考える。

ショスタコーヴィチの交響曲は、最近では数多くの指揮者が演奏を行うようになってきているが、その本質を的確に描き出している演奏はあまりにも少ないと言えるのではないだろうか。

ショスタコーヴィチは、旧ソヴィエト連邦という、今で言えば北朝鮮のような独裁者が支配する政治体制の中で、絶えず死と隣り合わせの粛清の恐怖などにさらされながらしたたかに生き抜いてきたところだ。

かつて一世を風靡した「ショスタコーヴィチの証言」は現在では偽書とされているが、それでも、ショスタコーヴィチの交響曲(とりわけ第4番以降の交響曲)には、死への恐怖や独裁者への怒り、そして、粛清された者への鎮魂の気持ちが込められていると言っても過言ではあるまい。

したがって、ショスタコーヴィチと親交があるとともに、同時代を生き抜いてきたムラヴィンスキーの演奏が感動的な名演であるのは当然のことであり、かかる恐怖などと無縁に平和裏に生きてきた指揮者には、ショスタコーヴィチの交響曲の本質を的確に捉えて演奏することなど到底不可能とも言えるだろう。

ザンデルリンクの場合は、東独という、旧ソヴィエト連邦と同様の警察国家の出身であること、そしてムラヴィンスキーに師事していたこともあって、ショスタコーヴィチの交響曲の本質への深い理解については、人後に落ちないものがあったと言える。

本演奏も、さすがに、師匠であるムラヴィンスキーの演奏(1976年)ほどの深みや凄みには達していないと言えるが、それでもザンデルリンクによる彫りの深い表現が全体を支配するなど、外面だけを取り繕った薄味な演奏にはいささかも陥っていないと言えるところだ。

加えて、ドイツ人指揮者ならではの堅固な造型美や重厚な音色が演奏全体を支配しており、その意味では、ムラヴィンスキーによる名演の持つ峻厳さを若干緩和するとともに、ドイツ風の重厚さを付加させた演奏と言えるのかもしれない。

いずれにしても、本演奏は、ムラヴィンスキーなどのロシア系の指揮者以外の指揮者による演奏の中では、最右翼に掲げられる素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

マーラーもまったくただものではなく、ザンデルリンクの凄さを思い知らされる演奏である。

ザンデルリンクが創り出す音楽は、さしずめブロンズ像のようなもので、細部の再現性ではなく、全体の大づかみな構築を問うている。

だから、作品が逞しく聴こえるところであり、この逞しいとは、もちろん他人よりも大きな音を出すとか響きが分厚いということではない。

たとえば両端楽章は大きな振幅でうねるが、そのうねりに神経質なところがなく、実に自信があるのだ。

このザンデルリンク流が細部ほじくり型より容易な演奏法だということはまったくない。

単にうるさいところは強く弾き、メロディは歌いまくればこういう演奏になるかと言えば、そんなことはないのである。

フレージングの力学に通じ、どうすれば音楽が自然に流れるように聞こえるのかを知らなければならない。

ザンデルリンクはその技のきわめつきの名手であり、彼の手にかかると、複雑なこの交響曲もじつにやすやすと流れていくのである。

たとえば第4楽章は、誰もが心をこめて歌う楽章だが、感情移入という点では、バーンスタインのほうがザンデルリンクよりもよほど熱烈だ。

ザンデルリンクの演奏では感情の力学ではなく、響きの力学に従って音楽が先へ進む。

だから、この楽章がことさら嘆きとか悲しみを訴えることはなく、美的なものとして現れてくるのだ。

筆者は、この太い名木を組み合わせて作ったような感触のフィナーレが大好きである。

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2015年05月10日


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本セットには、第一期ボロディン弦楽四重奏団によるショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第1〜13番(1962〜72年ステレオ録音)が収められている。

1945年に結成、チェロのベルリンスキーを精神的支柱に、今なお数多い現代の弦楽四重奏団をリードする、ロシアの名クヮルテットによるショスタコーヴィチの弦楽四重奏録音の復活を大いに歓迎したい。

結成時のオリジナル・メンバーによるボロディン・クヮルテット、いわゆる「ドゥビンスキー時代」の彼らのかけがえのない録音がChandos Historicalから着々と世に出ているが、中でもこれは特に注目に値するセットと言えよう。

演奏はどれも最高の評価を獲得してきたもので、数あるショスタコーヴィチの弦楽四重奏録音の中にあって、その厳しいスタイルはまさに空前絶後。

結成当初から作曲者に演奏法を直接指導されたという同団の演奏には、「ボロディンSQなくしてショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲は語れない」との絶賛が数多く寄せられている、いわばショスタコ四重奏の規範として知られる名盤である。

レコーディング当時、まだ作曲されていなかった第14番と第15番を含んでいないのは残念とはいえ、この時期の彼らの演奏をまとめて聴けるこのセットの価値にはまさに圧倒的なものがある。

ショスタコーヴィチは、弦楽四重奏曲を交響曲と同様に15曲も作曲したが、これはバルトークによる6曲の弦楽四重奏曲と並んで、20世紀における弦楽四重奏曲の最高傑作との評価がなされている。

確かに、作曲書法の充実度や、内容の奥深さなどに鑑みれば、かかる評価は至当であると考えられる。

ショスタコーヴィチは、旧ソヴィエト連邦という、現在で言えば北朝鮮のような非民主的な独裁国家で、粛清の恐怖を耐え忍びながらしたたかに生き抜いた作曲家であった。

かつて一世を風靡した「ショスタコーヴィチの証言」は現在では偽書とされているが、ショスタコーヴィチに関して記したその他の様々な文献を紐解いてもみても、その交響曲や弦楽四重奏曲などには、かかる粛清の恐怖や、スターリンをはじめとする独裁者への批判や憤り、独裁者によって粛清された犠牲者への鎮魂などが色濃く反映されている。

したがって、旧ソヴィエト連邦の時代を共に生き、粛清への恐怖に実際に身を置いた者こそが、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲に込められたこのような深遠な世界をよりうまく音化することができると言えるのではないだろうか。

ボロディン弦楽四重奏団は、前述の通り旧ソヴィエト連邦下において1945年に結成され、それ以降も旧ソヴィエト連邦において活動を行ってきた団体である。

したがって、その演奏は、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の心眼に鋭く切り込んでいくという鋭さ、そして凄みにおいては、他のいかなる弦楽四重奏団が束になってもかなわないレベルに達していると言えるところであり、その演奏の彫りの深さは、尋常ならざる深遠さを湛えている。

とりわけ、晩年の弦楽四重奏曲の凄みのある演奏には戦慄を覚えるほどであり、これは音楽という次元を通り越して、あたかもショスタコーヴィチの遺言のように聴こえるのは筆者だけではあるまい。

なお、ボロディン弦楽四重奏団は、1978年から1984年にかけて、本録音当時作曲されていなかった第14番及び第15番を含むすべての弦楽四重奏曲の録音を行っており、各楽曲の本質への追求度という意味においては当該演奏の方が数段上であると考えられなくもないが、その分、演奏自体はかなり冷徹なものとなっていると言えなくもない。

新盤も決定的名盤と記されるに相応しい全集であるが、そのあまりにも透徹した非人間的な響きに敬遠を覚えた人も少なくないと思う。

しかしこの旧盤には新盤にはないロマンティシズムの人間的響きが感じられ、未だ旧ソ連の鉄の教育による同質音楽ではなく、ハイドン、ベートーヴェンにもひけをとらない「四重奏」の音楽を堪能できるものとなっている。

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2015年05月06日


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本盤に収められたロストロポーヴィチによるショスタコーヴィチの交響曲第5番については、かつてLPで聴いた時のことを鮮明に記憶している。

本演奏の録音は1982年であるが、この当時は、現在では偽書とされている「ショスタコーヴィチの証言」が一世を風靡していた時期に相当し、ロストロポーヴィチのショスタコーヴィチとの生前における親交から、本演奏は証言の内容を反映した最初の演奏などともてはやされたものであった。

筆者は「証言」をむさぼり読むとともに本演奏を収めたLPを聴いたものの、若かったせいもあるとは思うのであるが、今一つ心に響くものがなかったと記憶している。

その後、大学生になってCDを購入して聴いたが、その印象は全く変わることがなかった。

そして、先般SHM−CD化されたのを契機に、久々に本演奏を聴いたが、やはり心に響いてくるものがなかったと言わざるを得ない。

確かに、巷間言われるように本演奏には楽曲の頂点に向けて畳み掛けていくような緊迫感や生命力溢れる力強さなどが漲っているが、この時点でのロストロポーヴィチは、手兵のワシントン・ナショナル交響楽団をうまく統率し切れずに、いささか空回りしているような気がしてならないのだ。

加えてオケの演奏レヴェルが低く、ワシントンD.C.という都市にあるオケでありながら、ボルティモア交響楽団や、ピッツバーグ交響楽団、サンフランシスコ交響楽団、ヒューストン管弦楽団、ミネソタ管弦楽団などのローカル・オケとも比較が出来ないほど、サウンドが荒く、アンサンブルが成立していない状態での録音である。

このオケは、「ナショナル」という冠をつけているが、国立の楽団ではない。

ただ、アメリカ合衆国大統領の就任式で国歌等を演奏するのは、慣例としてこの楽団の仕事になっているらしい。

その割に、楽団の音色、響きは発展途上のオケのままという感じで、音色というか響きに滑らかさがなく、ざらざらしていて埃っぽい。

当然透明感がなく、第1楽章から平坦で変化のないフレーズどり(オケのサウンドがひどく、ダイナミクスレンジも狭いようだ)で、第3楽章などは聴くに堪えない音を出していて、鈍重な弦楽器の厚ぼったい響きに歯切れの悪さを覚えるだけである。

やや雑然とした演奏に聴こえるのもおそらくはそのせいであり、ロストロポーヴィチによる同曲の演奏であれば、いささか大人しくはなったと言えるが、後年の2つの録音、(ワシントン・ナショナル交響楽団との1994年盤(テルデック)又はロンドン交響楽団との2004年盤(LSO))の方がより出来がいいと言えるのではないだろうか。

特に後者は音質が優れているだけでなく、オケの演奏技術もかなり向上して、音程、サウンドのテクスチャー、音のブレンドなどに格段の進歩を見せている。

他方、プロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」からの抜粋については、ロシア風の民族色に満ち溢れた名演と高く評価したい。

ロストロポーヴィチがワシントン・ナショナル交響楽団の音楽監督を務めていた頃の、彼の内面の激情が燃えたぎるような精力的なこの演奏は、プロコフィエフの傑作に鮮やかに光を当てる結果を招来したと言えるだろう。

録音は、従来盤でもかつてのLPと同様に十分に満足できる音質であったが、今般のSHM−CD化によって音質がやや鮮明になるとともに、音場が若干幅広くなったことについては評価したい。

全体の評価としては、「ロメオとジュリエット」の名演とSHM−CD化による若干の高音質化を加味して準推薦の評価とさせていただくこととする。

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2015年04月30日


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旧盤から15年以上を経て、円熟のゲルギエフが再度問いかける、作曲70周年の問題作であるが、素晴らしい名演と高く評価したい。

現在の様々な指揮者の中で、ショスタコーヴィチの交響曲の名演を成し遂げる可能性がある指揮者と言えば、これまでの実績からして、本盤のゲルギエフのほかは、インバルが掲げられると思うが、他の指揮者による名演もここ数年間は成し遂げられていないという現状に鑑みると、現在では、ショスタコーヴィチの交響曲の演奏についてはゲルギエフとインバルが双璧と言えるのかもしれない。

いずれにしても、本盤に収められた名演は、このような考え方を見事に証明するものと言えるだろう。

第8番の過去の名演としては、初演者として同曲が有する精神的な深みを徹底して追求した決定盤の誉れ高いムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの名演(1982年)があり、本盤の演奏も、ムラヴィンスキーの系列に繋がるものと言える。

ゲルギエフ&マリインスキー劇場管弦楽団による、ショスタコーヴィチの交響曲第8番は、1994年9月に同じオーケストラとオランダのハーレムにて録音され、ロングセラーとなっていた。

今回は15年以上を経て、ゲルギエフの円熟ぶりと、手兵マリインスキー劇場管弦楽団を完全に手中に収めた神業の完成度に驚かされる。

旧盤で見られた未消化さや解釈の甘さは完全に払拭され、黒光りするような凄味が感じられるところであり、こうした幻想的で複雑な大曲にこそ、ゲルギエフの真価が最大に発揮し得ると言えるだろう。

ここでもゲルギエフは、楽曲の本質を抉り出していくような鋭さを感じさせる凄みのある演奏を披露しており、おそらくは、同曲演奏史上ベストを争う名演と高く評価したい。

全体として堅固な造型を構築しつつ、畳み掛けていくような緊迫感や、生命力溢れる力強さは圧巻の迫力を誇っている。

また、スコアに記された音符の表層をなぞるだけでなく、スターリン時代の粛清や死の恐怖などを描いたとされている同作品の本質をこれだけ音化し得た演奏は、おそらくはムラヴィンスキー以来はじめてではないかとさえ思われるほどだ。

その壮絶とも言える圧倒的な迫力は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分だ。

今回の演奏時間は65分38秒、旧盤より2分半ほど長くなっているが、注目は第1楽章のテンポの遅さ。

旧盤より2分半、ムラヴィンスキーの1982年盤に比べて3分半も遅く、数ある同曲の録音中でもかなり遅い部類に属する。

重苦しさに満ちながら、驚くほど強い緊張感が張り詰め、金縛りにあったように動けなくなる凄さ!ゲルギエフのテンポ設定に納得させられる。

急速楽章の第2、第3楽章はほぼ同じ演奏時間であるが、ラルゴの第4楽章は1分ほど速く、希望の兆しが見える第5楽章は逆に遅くなっている。

ことにパッサカリアの第4楽章が絶品で、こうした精密極まりない音楽でゲルギエフの見せるテクニックは誰にも真似できない凄さがあり、ショスタコーヴィチの天才性を改めて実感できる。

終楽章の不思議な重さにもゲルギエフの哲学が感じられる。

ゲルギエフの統率の下、手兵マリインスキー劇場管弦楽団は最高のパフォーマンスを示している。

マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音も、本名演の価値を高めるのに大きく貢献している点を忘れてはならない。

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2015年04月05日


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アバドは、私見であるが、これまでの様々な名指揮者の中でも、最高の協奏曲指揮者と言えるのではなかろうか。

ベルリン・フィルの芸術監督に就任する前には、ロンドン交響楽団とともに圧倒的な名演奏を成し遂げていた気鋭の指揮者であったアバド。

そのアバドは、ベルリン・フィルの芸術監督就任後、借りてきた猫のような大人しい演奏に終始するようになってしまった。

カラヤン時代に、力の限り豪演を繰り広げてきたベルリン・フィルも、前任者と正反対のアバドの民主的な手法には好感を覚えたであろうが、演奏については、大半の奏者が各楽器セクションのバランスを重視するアバドのやり方に戸惑いと欲求不満を感じたのではないか。

それでも協奏曲の演奏に限ってみれば、ベルリン・フィルの芸術監督就任以前と寸分も変わらぬ名演を成し遂げていたと言える。

チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番におけるアルゲリッチとの競演(1994年)、そして、レコード・アカデミー賞を受賞したブラームスのピアノ協奏曲第2番におけるブレンデルとの競演(1991年)など、それぞれの各楽曲におけるトップの座を争う名演の指揮者は、このアバドなのである。

本盤に収められた日本を代表するヴァイオリニストである五嶋みどりと組んで録音を行ったチャイコフスキーとショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲についても、こうした名演に系譜に連なるものとして高く評価したいと考える。

協奏曲の演奏に際してのアバドの基本的アプローチは、ソリストの演奏の引き立て役に徹するというものであり、本演奏においても御多分にも漏れないが、オーケストラのみの演奏箇所においては、アバドならでは歌謡性豊かな情感に満ち溢れており、格調の高さも相俟った美しさは、抗し難い魅力に満ち溢れている。

ここぞという時の力感溢れる演奏は、同時期のアバドによる交響曲の演奏には聴くことができないような生命力に満ち溢れており、これぞ協奏曲演奏の理想像の具現化と評しても過言ではあるまい。

チャイコフスキーやショスタコーヴィチの協奏曲に特有のロシア風のメランコリックな抒情を強調した演奏にはなっておらず、両曲にロシア風の民族色豊かな味わいを求める聴き手にはいささか物足りなさを感じさせるきらいもないわけではないが、五嶋みどりのヴァイオリン演奏の素晴らしさ、両曲の持つ根源的な美しさを見事に描出し得たといういわゆる音楽の完成度という意味においては、まさに非の打ちどころのない素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したいと考える。

五嶋みどりのヴァイオリンについては、もちろん技量においても何ら問題はないが、巧さを感じさせないところが素晴らしい。

要は、楽曲の美しさだけが聴き手に伝わってくるような演奏を心掛けていると言えるところであり、加えて、畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力が演奏全体に漲っているのが素晴らしい。

実演ということも多分にあるとは思うが、五嶋みどりの体当たりとも言うべき渾身の、そして楽曲の美しさを際立たせた演奏は、我々聴き手の感動を誘うのに十分であり、このような力強い名演奏を聴いていると、あらためて五嶋みどりの卓越した才能を感じることが可能だ。

一部の女流ヴァイオリニストにありがちな線の細さなどは微塵もなく、どこをとっても骨太のしっかりとした構えの大きい音楽が鳴り切っているのが見事である。

音質は、SACD化がなされることにより、臨場感のある素晴らしい高音質になっており、とりわけ五嶋みどりのヴァイオリンの弓使いが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的ですらある。

あらためて本演奏の凄みを窺い知ることが可能になるとともに、SACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。

いずれにしても、アバド&ベルリン・フィル、そして五嶋みどりによる素晴らしい名演をSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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2015年03月23日


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1990年5月5,6日、ウィーン・ムジークフェラインザールに於ける、楽曲の珍しい組み合わせによるコンサートの記録である。

一見凡庸な選曲に見えて、凡庸な指揮者では絶対に選択しないカップリングと言えるところだ。

18世紀的な勝利への凱歌と20世紀の勝利への凱歌への懐疑といった戦略的なカップリングにより、ベートーヴェンの「第5」の物語は見事に剥奪され、屈折した構造が白日の元に引きずり出されている。

そこに偶然とはいえウィーン・フィルの美音を重ねるとは、ショルティも相当な策士と言えたところであり、見事なまでに屈折したコンセプトアルバムとなった。

ショスタコーヴィチは、ショルティが最晩年になって漸く取り組みを開始した作曲家であるが、こうしたショルティのあくなき前向きな姿勢には頭を下げざるを得ない。

2曲とも快演だが、特にショスタコーヴィチの「第9」が聴きもので、ショルティの演奏は、今までこの曲に付き纏っていた曲の経緯などを全く顧慮しない典型的なものと言えよう。

この「第9」は、「第8」に次いで録音されたものであるが、全体を20分少々という快速のテンポを取りながら、その中から浮かび上がる造型的な美しさを目指しているようだ。

新古典主義的解釈でこの作品の本質を衝き、ショルティの凄いほどの統率力がウィーン・フィルの音を引き締めると同時に、このオケの柔らかな音色が、より一層、今までの演奏との違いを感じさせる。

この当時、ショルティは既に78歳に達していたはずであるが、とてもそうとは思えない、若き日の鋭角的なショルティを彷彿とさせる力感溢れるアプローチだ。

実にきびきびとして緊張感にあふれていながら色彩感があり、ショスタコーヴィチ特有のダークなアイロニーに富む楽想がつぶさに伝わってくる。

第1楽章からホルンなどの管楽器の響きが冴え渡り表情は明晰そのもので、第2楽章など史上最速の演奏ではあるまいか。

第3楽章の速度指定はプレストであるが、作曲者の指定通りの速度での演奏は、これが初めてであったと記憶している。

ウィーン・フィルらしからぬ荒々しさも感じられるところであり、アンサンブルがあちこちで悲鳴を上げる寸前まで追い込まれつつも、驚異的な機動力で見事に乗り切っている。

ショスタコーヴィチが「第9」に込めた諧謔的な一面を的確に描出しているという点でも、一定の評価をすべき好演であると考える。

ロシア的な色彩感が自然に表されているのも興味深い。

ベートーヴェンの「第5」は、ショルティの4回目にして最後の録音となったものだが、ここには枯れた味わいなど薬にもしたくない。

最晩年を迎えた指揮者とは思えないほどの速めのテンポでエネルギッシュな演奏を繰り広げている。

ただ、さすがにベートーヴェンだけに、ウィーン・フィルのしなやかにして優美な演奏が、全体としての印象を幾分柔和なものとすることに貢献しており、決して無機的な演奏に陥っていない。

ショルティの「第5」は、筆者としてはシカゴ響との1970年代または1980年代のスタジオ録音を採りたいが、本盤については、ウィーン・フィルとの組み合わせという意味で、それなりの存在価値はあると思われる。

全体的に強い緊張感と豊かな風格をもった演奏で、両曲ともライヴ特有の緊迫感を備えた好演である。

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2015年03月04日


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東独出身のザンデルリンクは、旧ソヴィエト連邦においてムラヴィンスキーにも師事し、ショスタコーヴィチと親交があったこともあって、ショスタコーヴィチの交響曲を得意としていた。

すべての交響曲を演奏・録音したわけではないが、第1番、第5番、第6番、第8番、第10番、第15番の6曲についてはスタジオ録音を行っており、いずれ劣らぬ名演に仕上がっている。

ザンデルリンクは、前述のようにムラヴィンスキーに師事していたこともあり、ショスタコーヴィチの交響曲を指揮するに際しては特別な気持ちを持って臨んでいたことを窺い知ることが可能な名演に仕上がっている。

ザンデルリンクによる本演奏は、師匠であるムラヴィンスキーの演奏とはかなり様相が異なるものとなっており、そもそもテンポ設定が全体的に随分とゆったりとしたものとなっている。

もっとも、スコア・リーディングの厳正さ、演奏全体の堅牢な造型美、そして楽想の彫りの深い描き方などは、ムラヴィンスキーの演奏に通底するものと言えるところだ。

その意味では、ショスタコーヴィチの本質をしっかりと鷲掴みにした演奏とも言えるだろう。

ムラヴィンスキーの演奏がダイレクトに演奏の凄みが伝わってくるのに対して、ザンデルリンクによる本演奏は、じわじわと凄みが伝わってくるようなタイプの演奏と言えるのかもしれない。

ショスタコーヴィチの交響曲は、最近では数多くの指揮者が演奏を行うようになってきているが、その本質を的確に描き出している演奏はあまりにも少ないと言えるのではないだろうか。

ショスタコーヴィチは、旧ソヴィエト連邦という、今で言えば北朝鮮のような独裁者が支配する政治体制の中で、絶えず死と隣り合わせの粛清の恐怖などにさらされながらしたたかに生き抜いてきたところだ。

かつて一世を風靡した「ショスタコーヴィチの証言」は現在では偽書とされているが、それでも、ショスタコーヴィチの交響曲(とりわけ第4番以降の交響曲)には、死への恐怖や独裁者への怒り、そして、粛清された者への鎮魂の気持ちが込められていると言っても過言ではあるまい。

したがって、ショスタコーヴィチと親交があるとともに、同時代を生き抜いてきたムラヴィンスキーの演奏が感動的な名演であるのは当然のことであり、かかる恐怖などと無縁に平和裏に生きてきた指揮者には、ショスタコーヴィチの交響曲の本質を的確に捉えて演奏することなど到底不可能とも言えるだろう。

一般に評判の高いバーンスタインによる演奏など、雄弁ではあるが内容は空虚で能天気な演奏であり、かかる大言壮語だけが取り柄の演奏のどこがいいのかよくわからないところだ。

かつてマーラー・ブームが訪れた際に、次はショスタコーヴィチの時代などと言われたところであるが、ショスタコーヴィチ・ブームなどは現在でもなお一向に訪れていないと言える。

マーラーの交響曲は、それなりの統率力のある指揮者と、スコアを完璧に音化し得る優秀なオーケストラが揃っていれば、それだけでも十分に名演を成し遂げることが可能とも言えるが、ショスタコーヴィチの交響曲の場合は、それだけでは到底不十分であり、楽曲の本質への深い理解や内容への徹底した追求が必要不可欠である。

こうした点が、ショスタコーヴィチ・ブームが一向に訪れない要因と言えるのかもしれない。

旧ソヴィエト連邦と同様の警察国家であった東独出身であるだけに、ザンデルリンクの演奏も、前述のようにショスタコーヴィチの本質をしっかりと鷲掴みにしたものであり、数あるショスタコーヴィチの交響曲の録音の中でも、かなり上位にランキングされる名演として高く評価したいと考える。

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2015年02月23日


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ヤンソンスは、現在ではラトルやゲルギエフなどと並ぶ世界を代表する人気指揮者の1人である。

コンセルトへボウ・アムステルダムとバイエルン放送交響楽団といった超一流の音楽監督を兼務するなど、名実ともに現代を代表する大指揮者であると言っても過言ではあるまい。

ヤンソンスが初来日したのは1986年で、当時、レニングラード・フィルの副指揮者をつとめていたヤンソンスは、ムラヴィンスキーが急病で来日をキャンセルしたこともあって、その代役としてレニングラード・フィルとともに数々の演奏会をこなしたのである。

本盤に収められたショスタコーヴィチの交響曲全集は、いまだヤンソンスが若かった初来日の2年後の録音(1988年)である第7番を皮切りとして、2005年に録音された第13番に至るまで、何と17年もの歳月をかけて録音がなされたものである。

そして、オーケストラについても、副指揮者をつとめていたレニングラード・フィルや現在音楽監督をつとめているバイエルン放送交響楽団、更には、ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、フィラデルフィア管弦楽団、ピッツバーグ交響楽団、ロンドン・フィル、オスロ・フィルといった世界各国の8つのオーケストラを起用して録音がなされているというのも、本全集の大きな特徴と言えるだろう。

ヤンソンスの芸風は、本全集の17年間に大きく変容しているとは言えるが、基本的には純音楽的なアプローチと言えるのではないだろうか。

ムラヴィンスキーの下で副指揮者をつとめていたにもかかわらず、ムラヴィンスキーのような楽曲の心眼に鋭く切り込んで行くような徹底して凝縮化された凄みのある表現を聴くことはできない。

さりとて、ゲルギエフやスヴェトラーノフ、そしてロジェストヴェンスキーなどによるロシア風の民族色を感じさせるようなアクの強さなども殆ど存在していない。

むしろ、楽想を精緻に、そして丁寧に描き出していくというものであり、他のロシア系の指揮者とは一線を画する洗練された演奏を行っているとさえ言えるだろう。

しかしながら、ヤンソンスの表現は洗練されているからと言って、スコアに記された音符の表層だけをなぞっただけの薄味の演奏にはいささかも陥っていない。

一聴すると淡々と流れていく各フレーズには独特のニュアンスが込められており、楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした表現を駆使していると言えるのかもしれない。

もっとも、17年もの歳月をかけただけに、初期に録音されたものよりも後年の演奏の方がより優れており、とりわけバイエルン放送交響楽団とともに録音した第2番、第3番、第4番、第12番、第13番の5曲は、素晴らしい名演に仕上がっていると評価したい。

これに対して、最初の録音であるレニングラード・フィルとの第7番は、いささか踏み込み不足が感じられるところであり、作曲者生誕100年を記念して発売されたコンセルトへボウ・アムステルダムとのライヴ録音(2006年)と比較すると、今一つの演奏であると言わざるを得ない。

その他の交響曲については、出来不出来はあるが、少なくとも今日のヤンソンスの名声を傷つけるような演奏は皆無であり、一定の水準は十分に保った演奏に仕上がっている。

前述のバイエルン放送交響楽団との5曲の名演やコンセルトへボウ・アムステルダムとの第7番の名演等に鑑みれば、ヤンソンスが今後バイエルン放送交響楽団、あるいはコンセルトへボウ・アムステルダムとともに、ショスタコーヴィチの交響曲全集を録音すれば、おそらくは現代を代表する全集との評価を勝ち得ることが可能ではないかとも考えられるところだ。

いずれにしても、本全集は、今日の大指揮者ヤンソンスへの確かな道程を感じさせる全集であり、最初期の第7番を除いては水準以上の演奏で構成されていること、そして破格の廉価であることに鑑みれば、初心者にも安心しておすすめできる素晴らしい全集であると評価したいと考える。

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2015年02月22日


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今は大指揮者との評価の高いハイティンクだが、かつて凡庸、平凡の代名詞のように言われていた時期があった。

そんなイメージを引きずってか、ハイティンクのショスタコーヴィチには迫力や厳しさが足りない、という先入観を持っている方は少なくないように思う。

たしかに、スヴェトラーノフばりの耳をつんざく金管の叫びとも、ムラヴィンスキーのような極限の美とも無縁だが、ただ上品なだけの大人しい演奏かというと、それも間違いである。

ことに「第4」「第8」といった阿鼻叫喚の作品で見せる鬼神の如き迫力は、一般にイメージされる温厚で良識のある(悪く言えば、凡庸な)ハイティンク像とは違うものだろう。

両演奏ともに、しっとりと美しい弦と懐の深いサウンドがあってはじめて、「ここぞ」という場面での気迫が生きてくるのである。

つまり、単純な叫びに終わらない含蓄があるのだ。

「第5」も、これほど静かで、心に染み入るアプローチは稀だが、それが却って、この作品の純粋器楽の美しさを浮かび上がらせている。

大声で叫ばなくても、否、敢えて叫ばないからこそ、聴き手の心にズシリと響く。

怒涛のフィナーレにおいても、自らは夢中にならずにオーケストラを燃え上がらせる大家の指揮ぶりだ。

静かなアプローチといえば「第6」第1楽章での、ひたひたと押し寄せる悲しみと嘆きに真の慟哭が認められるし、純粋器楽の美しさといえば「第9」の愉悦感も極上だ。

さて、この全集の白眉は、ヴァラディ(S)、フィッシャー=ディースカウ(Br)を独唱に迎えた「第14」であろう。

この「第14」の持つ独特の構成(2名の独唱者による11の連作歌曲風)は、まさにショスタコーヴィチの愛したマーラー「大地の歌」を彷彿とさせるだけでなく、音楽的な内容の深さにも十分に対峙できるものである。

この曲が一般的に知られていないのは、原曲のテキストがロシア語、または諸外国の詩のロシア語訳のため演奏頻度が少ないせいもあるのだろう。

この演奏では、ロルカ(スペイン)、アポリネール(フランス)、キュヘルベルケ(ロシア)、リルケ(ドイツ)によるテキストが、大胆にもそれぞれの原語で歌われているが、それが斬新であるとともに、きわめて強い説得力を持っている。

ヴァラディもフィッシャー=ディースカウも、まったく綺麗事でない、まるでベルク「ヴォツェック」の登場人物のような鬼気迫る歌唱を見せ、聴き手の魂を凍りつかせる。

ハイティンク指揮のコンセルトヘボウ管も超絶的な技巧で、この室内楽的なスコアの、精緻を極めた再現に成功している。

これは、もっともっと多くの方の耳に届けたい畢生の名演である。

ところで、ハイティンクの上質なアプローチのすべてが功を奏しているというわけではない。

「第7」など、恰幅の良い演奏だが、これは、ハイティンクの上質さが裏目に出ている例だろう。

弦主体のバランス感覚は良いとしても木管の色彩感が淡すぎて、この作品の持つヴァイタリティを表しきれないのである。

「第1」については、あまりにも落ち着き払った演奏により、才気煥発な学生ショスタコーヴィチというよりは、円熟した大人の音楽に聴こえてしまうのが、贅沢な難点と言えるだろう。

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2015年02月14日


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プレヴィンがかつて首席指揮者を務めたロンドン響と録音したショスタコーヴィチの大作、交響曲第8番。

高性能軍団ロンドン響を駆使して、プレヴィンが壮大な音のドラマを繰り広げる。

みごとな完成度をもった演奏だ。

ショスタコーヴィチの音楽はどれを聴いても、独裁体制下でのインテリゲンチャの生き方のむずかしさを考えさせられる。

体制に迎合すると見せかけて、研ぎ澄ました牙のちらつくこともある。

隠蔽が行き過ぎて自虐的、韜晦的になることもある。

この交響曲第8番も例外ではない。

第2次世界大戦中に作曲されたこの曲は、戦争の悲惨さを訴えながら、どんな苛酷な現実のなかでも譲ることのできない芸術家の良心を滲ませている。

むしろ現実が苛酷なほど、自己の芸術を磨くチャンスになる。

プレヴィンはそれを追求してゆく作曲家の超人的な努力に同調しつつ、同時に表面からは見えにくい芸術理念を、透かし彫りのように浮かび上がらせている。

この交響曲は、当初作曲者が表明したように人生を肯定的に表現したものか、それとも、のちに作曲者が遺言したように、レクイエム、悲劇の音楽なのか。

「物語」あるいは「神話」が付随した作品だ。

プレヴィンは、とりあえずそうしたものから自由になって純粋に音楽そのものに立ち向かう。

悲劇性を押し売りすることなく、逆に、耳に聴きやすくテクスチュアを整理することもない。

特筆すべきは響きの混ぜ合わせの妙で、極小の響きの断片が微細に色合いと明暗を変えてゆく。

第4楽章は入魂の名演で、とくに後半は静かな眩暈すら呼ぶ。

戦争の恐怖や悲惨さから生まれた曲ではあるが、いたわりに満ちた音色で奏でられるアダージョを聴くとき、プレヴィンは曲の背景にこだわることなく、あくまで音楽自身がもつエネルギーを描き出そうとしている気がする。

第5楽章も圧倒的だ。

人生の否定か肯定かという「物語」を超える、音楽のみが表現できるゲミュートが聴き手を包む。

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2015年02月03日


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ルドルフ・バルシャイ指揮ケルン放送交響楽団ほかによる、1992年〜2000年にデジタル録音された、ショスタコーヴィチ交響曲全集の廉価盤BOXである。

一見、地味な組み合わせだが、ショスタコーヴィチの真髄を精確に演奏している名盤と言えるだろう。

バルシャイはショスタコーヴィチに作曲を師事し、交響曲第14番『死者の歌』の初演をした、旧ソ連ラビンスク出身のヴィオラの名手にして名指揮者である。

1つ1つの交響曲が非常に丁寧に演奏されていて、全体的な出来映えが非常に高い。

演奏スタイルは、第5番を例にとると、バーンスタインのような華やかさ・流麗さではなく、むしろ重厚さ・深さに比重を置いたものとなっていて、ある意味、奇を衒わない、基本に忠実なショスタコーヴィチと言えるだろう。

中でも15曲中、最も重要な作品と言われる第4番、第8番、第10番の出来栄えは素晴らしいものがあり、第4番両端楽章でのフーガの緊迫感と声部バランスの完璧さや、第8番の2つのスケルツォ楽章における哄笑の切れ味、第10番でのテクスチュアの克明さなどまさに圧巻。

ショスタコーヴィチの語法を知り尽くしたバルシャイならではの意味深いアプローチは聴き応え十分だ。

もちろん、他の作品の出来栄えも優れたもので、迫力満点の標題交響曲としてマニアに人気の第11番『1905年』でも殺戮シーンの描写は圧倒的なものがあるし、同じく描写性の高い第12番『1917年』でも、弦楽の扱いが巧緻なぶん、構造面の魅力がよく伝わってくる。

声楽つきの第2番、第3番、第13番、第14番ではそれぞれの異なるテーマにふさわしいスタンスが取られており、特に、バルシャイ自身が作品の初演者でもある第14番『死者の歌』については、室内編成オーケストラによる多彩をきわめた音響の面白さが耳目を引く。

その他、第13番『バビ・ヤール』でのフーガや、第3番『メーデー』での文字通り行進曲風な楽想の処理、第2番『10月革命に捧ぐ』での過激な音響表出もひたすら見事。

第1番、第6番、第9番の3曲は、いずれも30分程度の規模の小さな作品ながら、聴きどころのぎっしり詰まった充実した作風ゆえファンが多い傑作。

バルシャイのアプローチも機知に富み、機敏さを決して失わないところなどは作品にまさにぴったり。

ショスタコーヴィチ最後の交響曲となった第15番では、ウィリアム・テルやマーラー、ワーグナーの引用などいつにも増してパロディ的な手法が多く使われるのだが、バルシャイの演奏は引用強調を主眼としないシリアスなものとなっている。

天才ショスタコーヴィチの交響曲を深く知ってみたいと思うのであれば、この作曲家にとことんこだわったバルシャイの情熱的な演奏を理解できるようにしておきたい。

ロストロポーヴィチやコンドラシンなどもショスタコーヴィチ交響曲全集を残しているが、聴きやすさという点ではこのバルシャイ盤が一番であり、特にショスタコーヴィチをまだ聴いたことがない人は、まずこの全集を聴いて気に入った交響曲を聴いていけば良いだろう。

バルシャイのショスタコーヴィチと言えば、熱気あふれる名演として有名な第7番『レニングラード』ライヴや、自身の編曲版による弦楽四重奏曲集、といったアルバムがこれまでリリースされていたが、今回のリリースは彼の実力を真に知らしめるものとして、大いに歓迎されるところだ。

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classicalmusic

早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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