ショスタコーヴィチ

2016年08月26日


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エフゲニー・ムラヴィンスキーと手兵レニングラード・フィルによるショスタコーヴィチの交響曲第5番ニ短調Op.47及び第12番ニ短調Op.112『1917年』の2曲を収録したSACD盤である。

ライナー・ノーツには前者が1965年10月24日のモスクワ音楽院大ホールでの放送用ライヴ、後者が1961年10月1日のレニングラード・ライヴで1962年1月6日のプラハ放送用ブロードキャスト音源と記載されている。

同じプラガ・ディジタルスから既にリリースされたレギュラー・フォーマット盤と同一データだが、これらの音源はその後日本ムラヴィンスキー協会の事務局長だった天羽健三氏の調査によると、実際には第5番が1978年6月13日ウィーン・ムジークフェライン・グローサー・ザールでのライヴ、第12番は1961年モスクワ・ラジオ・ラージ・スタジオでのセッションと判明しているようだ。

なるほどフランク・フォアマン/天羽健三編のディスコグラフィーを閲覧すると、より信頼性の高いと思われるこちらのデータが記録されている。

ライヴ録音が多かった彼らの音源ではしばしば起こる混乱の一例だ。

どちらも良好なステレオ録音で、しかも両者の間には17年間の開きがあるにも拘らず、いずれ優るとも劣らない音質には正直言って違和感さえ感じられる。

特に第5番はライヴにしては聴衆を隔離でもしたかのように客席からの雑音や拍手は一切なく、データに関してはいくらか疑問が残らないでもないが、リマスタリングの効果は上々で、両翼型オーケストラ特有の音響が鮮明に蘇って、彼らの典型的なコラボの真骨頂を堪能することができる。

第1楽章のピアノを交えた重厚なカノンや終楽章の執拗に打ち込まれるティンパニの連打には弥が上にも高まる緊張感と執念とも思える迫力が示されている。

ショスタコーヴィチはロシア革命と社会主義をテーマに扱った一連の交響曲を作曲しているが、第12番は『1917年』の副題付でレーニンと10月革命をイメージした作品になり、後半の大規模なオーケストラのサウンドを殆んど限界まで全開させるムラヴィンスキーの統率力と、それに応えるレニングラードの大奮闘はソヴィエトの威信を懸けた凄まじい演奏だ。

ムラヴィンスキーはショスタコーヴィチの才能に関して、当初からその作品を通じて高い芸術性に理解と共感を示して、プロコフィエフを始めとする他の20世紀のロシアの作曲家の作品よりも好んで採り上げている。

このディスクに収録された2曲の他にもムラヴィンスキー&レニングラード・フィルが初演を飾ったショスタコーヴィチの交響曲は第6、第8、第9、第10番があり、全15曲の交響曲のうち6曲までの初演を彼らが手掛けている。

ちなみに第4番及び第13番はキリル・コンドラシン、最後の第15番は息子のマキシム・ショスタコーヴィチの初演になるが、1948年から10年間に及んだジダーノフ批判でショスタコーヴィチが退廃的作曲家のレッテルを貼られたことによって、ムラヴィンスキー自身にも当局からの圧力がかかったとも言われている。

そうした不幸にも拘らず彼らが演奏を繰り返すことによって、現在これらの交響曲が西側でも独自の価値を獲得し、オーケストラのレパートリーとして定着しているのはまさに彼らの功績と言えるだろう。

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2016年04月13日


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プラガ・ディジタルスのSACD盤シリーズで、ムラヴィンスキーは既にリヒテルとの協演で2枚、その他にオイストラフとショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲を収めた1枚がリリースされているが、今回彼が振ったオーケストラル・ワークのレパートリーから更に2枚が加わった。

演奏については今更言及するまでもない評価の高い名盤なので、音質がどの程度改善されたかが鑑賞のポイントになるだろう。

ショスタコーヴィチが1961年2月12日のライヴ、スクリャービンの方が1958年12月22日のセッションのどちらもモノラル録音で、演奏の質とその意義を考えればSACD化の価値は充分に見出せるが、当時の欧米の大手メーカーに比較するとこれらの音源とその保存状態は理想的とは言えないのも事実だ。

改善された点は高音部の伸びと音場に奥行きが感じられるようになったことで、その結果以前より無理のない柔らかで潤いのある音質が得られている。

モノラル録音では楽器ごとの分離状態がある程度確保されることで臨場感が補われるので、その意味では成功しているし、また僅かながら音像に立体感が出ている。

特に管弦打楽器が一斉に鳴り響く総奏の部分では再生し切れなかった音の塊りが、より自然に響いている印象を受ける。

ショスタコーヴィチの交響曲第8番ハ短調はムラヴィンスキーに献呈され、彼によって初演された作品なので、指揮者自身にも強い思い入れがあった筈だし、ライナー・ノーツによればこの曲はジダーノフ批判の波に曝されて1948年から56年まで上演禁止の憂き目に遭っていた。

交響曲としての色調はいたって暗く、ムラヴィンスキーによって鍛え抜かれたレニングラード・フィルの統率感と凄まじいばかりの集中力がただならぬ雰囲気を作り上げている。

第3楽章のミリタリー的なファンファーレの応酬にも硬直した感じがないのは流石で、それに続くパッサカリアへの劇的な変化にも必然性がある。

当時の放送用ライヴだが、幸い客席からの雑音は最低限に抑えられている。

一方スクリャービンの交響曲第4番『法悦の詩』は官能的な演奏とは言えないが、逆にある種硬質な透明感が曲の神秘性を醸し出している。

2台のハープ、オルガン、チェレスタや多くのパーカッションが活躍するこの曲こそステレオ録音で聴きたいところだが、ムラヴィンスキーによって冷徹に熟考されたダイナミズムとバランスはそうした弱点を超越して特有の色彩感も感知させている。

ちなみに同SACDシリーズでムラヴィンスキーのオーケストラル・ワーク第2集、バルトーク、オネゲル及びストラヴィンスキーの作品集がリリースされている。

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2015年11月26日


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東京都交響楽団とのショスタコーヴィチ「第4」が2012年レコード・アカデミー賞を受賞したインバル70代半ばの解釈を、プレートルとのマーラーで実力をみせた1990年代ライヴ盤が近年高い評価を受けたウィーン交響楽団との組み合わせで聴く異色の全集。

全世界にインバルの名を知らしめたのマーラーに始まって、ラヴェル、ベルリオーズへ、短期間にある作曲家の作品を集中的に録音・発表することによってその全体像を明らかにするというインバルのアプローチとそれを実現させる力量は、そしてこのウィーン交響楽団とのショスタコーヴィチ交響曲全集に至って、一段と大きな成果を生み出した。

全体主義政権下における芸術家の苦悩、そしてその作品の本質への理解を後世に託したショスタコーヴィチの心の声が、全15曲を俯瞰することによって、より深く感得されることであろう。

フランクフルト交響楽団との多くの名盤の陰で、評判は当時も今も高くないが、管や打楽器の名演、弦の弱奏、タクトへの迅速な反応に優れたオーケストラと、練習に厳格そうな指揮者とが、双方一心に演じている。

都響ライヴと趣が違う「第4」も、指揮者の指示にオケが敏捷に動き、第3楽章後半での管と弦との掛け合いでは、フレーズごとに表情を変えながら頂点に向かっていくドライブが心地よい。

スペクタクル派と対極な「第7」でも個性が発揮され、第3楽章が宗教的なら、フィナーレはモールス信号Vを連打で表したと言う爆音が膨張するなど、聴き所は沢山ある。

さらに初期交響曲の「第1」は若々しくも老練、「第2」の近代的な音作りや奇怪なサイレン音は指揮者の心中をみるようで、「第3」はスケールが大きく、管・打楽器の演奏は恰好が良い。

他に比べ人気の低い「第6」から、この演奏が「深い森に冷たい陽がさすように始まり、最後は乱痴気騒ぎで終わった」と聴こえれば、本曲の魅力が知れると共に、全集に共通して最初モヤモヤ始まり終わりにつれてダイナミックさを増していく指揮者のポリシーが知れる。

しかしこれは聴き手の好みを分けることになるだろう。

開始が「第6」と似た「第12」も、楽譜への忠実さが定評なインバルだからこそ、終楽章での大胆なリズム変化や打楽器の炸裂は面白い。

「第8」「第11」は深刻すぎずも要所を押さえ、「第9」は管楽器のソロが優れており、第1楽章は軽快、第2楽章は奇怪、第5楽章は雄弁で、「第10」のトランペットソロの技巧とともに印象に残った。

歌手の声がよい「第13」も、煙幕の中から音が始まり、狂言と悲しみを歌う後の至福の旋律が天国へつれてゆく。

そして最後の「第15」は、他の同曲盤と比べても名解釈であり、「第1」の快活さに通じる第1楽章に続き、第2楽章の金管と独奏チェロの掛け合いはたそがれて、第3楽章のソロアンサンブルも上手い。

終楽章はヴァイオリン協奏曲の主題が魔界的に降臨し、バルトークの夜の音楽風なコーダは、暗い道を管・打楽器がどこまでもか細くつぶやき、ついにふっと吹き消えて終わる。

しかし全集の中でも「第5」と「第14」は、他の数ある名盤に譲るかもしれない。

現在、全集プロジェクトが進行する若いペトレンコの現代的な演奏と聴き比べたりすることにより、1990年代に録音された本作からも、ショスタコーヴィチを当時新たに描こうと、時代を先取ったインバルの意欲が伝わってきた。

ショスタコーヴィチの苦悩の音楽が理解されるようになった今こそ、評価されてよいものに思う。

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2015年09月19日


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このSACDに収録されたショスタコーヴィチの3曲の協奏曲は、いずれも歴史的録音の範疇に入るもので、ロストロポーヴィチ及びオイストラフはこれらの曲の初演を果たしたソリストでもあり、またピアノ協奏曲を弾き振りするバーンスタインとニューヨーク・フィルは初演の翌年に早くもアメリカでの演奏を手がけたメンバーだ。

総てオリジナル・ステレオ・ソースからのDSDリマスタリングによるSACD化なので、多少のヒス・ノイズは致し方ないが、全体的にかなり鮮明な音質が再現されていて、これらのセッションの生々しい雰囲気を感じることができ、高度な鑑賞にも充分堪え得るクオリティーを持っている。

3人のソリストの集中力に漲る演奏とその表現力の多様さに驚かされる1枚だ。

チェロ協奏曲第1番変ホ長調はユージン・オーマンディ指揮、フィラデルフィア管弦楽団との1959年のセッションになり、ロストロポーヴィチの張り詰めた緊張感が全曲に亘って貫かれた厳格な印象を与える演奏で、またオーマンディの鋭利な指揮も注目される。

この曲にはオブリガート・ホルンが加わるが、ホルン奏者のメイソン・ジョーンズも力強い表現でチェロに拮抗している。

ピアノ協奏曲第2番はバーンスタインの軽妙洒脱で、とびっきり粋なセンスが活かされた、彼の気性に良くマッチした曲だ。

第2楽章の、この作曲家にしては珍しくロマン派的な哀愁が作品を随分親しみ易いものにしているのも事実だろう。

録音データを見ると1961年11月となっているが、バーンスタイン、ニューヨーク・フィルのセッションは1958年で、おそらくこれはソニーからリリースされているものと同一音源であることが考えられる。

またバーンスタインのディスコグラフィーにも1961年にこの曲を録音した形跡は見当たらない。

プラガは以前にも物議を醸したレーベルなので、データの信憑性については疑問が残る。

CDの最後を飾るヴァイオリン協奏曲第1番イ短調は、神秘的である一方、ハチャトゥリァンの同協奏曲のように民族的な底力を持った曲で、それはあるいは彼からの影響かも知れない。

しかし第3楽章のパッサカリアの荘厳な風格と長いソロ・ヴァイオリンのカデンツァはショスタコーヴィチのオリジナリティーに富んだ部分で、ここではオイストラフのパワフルで鮮やかなソロが白眉だ。

両作曲家のヴァイオリン協奏曲がどちらもオイストラフに献呈されていることを思えば、当時彼が如何に信頼の厚かった演奏家であったか想像に難くない。

初演と全く同じメンバー、ムラヴィンスキー指揮、レニングラード・フィルによる1956年の演奏が堪能できるのも特徴だ。

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2015年09月11日


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リヒテルは幸いロシアのヴィオラ奏者、ユーリ・バシュメットとこのソナタ集を遺してくれた。

このCDに収められているのはヒンデミットの『ヴィオラ・ソナタヘ長調』Op.11-No.4、ブリテンのヴィオラとピアノのための『ラクリメ』Op.48及びショスタコーヴィチの『ヴィオラ・ソナタ』Op.147の3曲で、いずれも1985年3月6日から8日にかけて行われたフライブルクでのコンサートからのライヴ録音になる。

ここでは勿論名手バシュメットの理知的で精緻なヴィオラが白眉だが、ヒンデミットのソナタでは意外なほどヴィオラを歌わせるように作曲されていて、それとは対照的に広い音域を駆使した非常に技巧的で華麗なピアノ・パートをリヒテルが巧妙に支えているのが聴き所だ。

一方ブリテンの曲は『ダウランドの歌曲の投影』という副題付だが、ダブル・ストップ、フラジオレット、トレモロやピチカートなどの弦楽器特有のテクニックがフルに使われた一種のファンタジーで、バシュメットの高度な表現力が張り詰める緊張感の中で活かされている。

またショスタコーヴィチでもヴィオラ特有の暗く奥深い響きと両者の集中力が、ドラマティックで不気味な曲想をいやがうえにも高めている。

沈潜した両楽章に挟まれた第2楽章の民族舞踏を思わせるアレグレットは、全曲中最も激しく情熱的な死の舞踏を想起させる。

ヴィオラはその音色の性質と音域から、普段はオーケストラの内声に入って和声を支える役目を負わされ、ソロ楽器としては滅多に扱われることがないが、バシュメットの手腕によってその芸術性を再認識させられるのがこのソナタ集だ。

彼らの協演したコンサートでは、この他にシューマンのピアノとヴィオラのための4つの『お伽の絵本』のモスクワ・ライヴがドレミ・レーベルからリリースされているし、バシュメットが指揮者にまわったテルデックからの協奏曲集もある。

リヒテルのアンサンブルへの参加は他のピアニストに比較して決して少なくない。

一流どころのピアニストが歌曲や他のソロ楽器のための伴奏にまわること自体、彼らのコンサートの習慣からしても、あるいは主催者側のスケジュールの調整や費用の面からしても、それほど簡単でないことが想像される。

しかしリヒテルはロストロポーヴィチとのチェロ・ソナタ集に代表されるように若い頃から伴奏や連弾、あるいは弦楽アンサンブルとの協演を盛んに手がけている。

彼のこうした情熱を考えると、広い視野を持ってさまざまなジャンルに取り組んだオールマイティな音楽観が、逆に純粋なピアノ曲にも反映されていると言えるだろう。

それがリヒテルの音楽を包容力に富んだ懐の深いものにしている理由のように思われる。

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2015年08月08日


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1986年8月28日、ロイヤル・アルバート・ホールでのライヴ録音で、ハイティンクが得意とするショスタコーヴィチの交響曲の待望の再録音の登場だ。

ハイティンクは、本盤に収められた交響曲第10番を約10年前にも同じロンドン・フィルとともに、ショスタコーヴィチの交響曲全集の一環としてスタジオ録音(1977年)していることから、本演奏はハイティンクによる同曲の2度目の録音ということになる。

ところで、ハイティンクほど評価が分かれる指揮者はいないのではないか。

長年に渡ってコンセルトへボウ・アムステルダムの音楽監督をつとめ、ポストカラヤン争いでも後継者の候補の一人と目されベルリン・フィルの団員にも愛された指揮者であり、そして現在ではシカゴ交響楽団の音楽監督をつとめるという輝かしい経歴の持ち主であるにもかかわらず、ハイティンクの名声が揺るぎないものとは言い難い状況にある。

ハイティンクは全集マニアとして知られ、数多くの作曲家の交響曲全集を録音している。

いずれも決して凡演というわけではなく、むしろいい演奏ではあるが、他の指揮者による演奏にも優るベストの名演を成し遂げているとは言い難いのではないだろうか。

このように、ベターな演奏を成し遂げることが出来てもベストの名演を成し遂げることができないところに、ハイティンクという指揮者の今日における前述のような定まらない評価という現実があるのかもしれない。

もっとも、ハイティンクが録音した数ある交響曲全集の中でも、唯一ベストに近い評価を勝ち得ている名全集がある。

それは、完成当時はいまだ旧ソヴィエト連邦が存在していたということで、西側初とも謳われた前述のショスタコーヴィチの交響曲全集(1977〜1984年)である。

これは、ハイティンクに辛口のとある影響力の大きい有名音楽評論家さえもが高く評価している全集だ。

もっとも、当該全集については、すべての演奏がベストの名演というわけではないところが、いかにもハイティンクらしいと言える。

ハイティンクは、ロンドン・フィルとコンセルトへボウ・アムステルダムの両オーケストラを使い分けて全集の録音を行ったが、どちらかと言えば、コンセルトへボウ・アムステルダムを起用した演奏の方がより優れていた。

したがって、当該全集に収められた交響曲第10番の演奏は、いささか不満の残る内容であったことは否めないところだ。

ところが、本盤に収められた約10年ぶりの本演奏は、当該全集に収められた演奏とは段違いの素晴らしい名演に仕上がっていると評価したい。

本演奏におけるハイティンクのアプローチは直球勝負。

いずれの演奏においても、いかにもハイティンクならではの曲想を精緻に、そして丁寧に描き出していくというものであり、ショスタコーヴィチがスコアに記した音符の数々が明瞭に表現されているというのが特徴である。

したがって、ショスタコーヴィチの交響曲の魅力を安定した気持ちで味わうことができるというのが素晴らしい言えるところだ。

加えて、本演奏には、晩年を迎えたハイティンクならではの奥行きの深さが感じられるところであり、さすがにムラヴィンスキー&レニングラード・フィルによる超名演(1976年)ほどの凄みはないが、同曲に込められた作曲者の絶望感などが、淡々と進行していく曲想の中の各フレーズから滲み出してくるのが見事である。

このような彫りの深い名演を聴いていると、ハイティンクが今や真の大指揮者になったことを痛感せざるを得ないところだ。

ハイティンクの確かな統率の下、旧盤でも演奏したロンドン・フィルが持ち得る実力を最大限に発揮した入魂の名演奏を繰り広げているのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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2015年08月03日


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凄い演奏だ。

このような凄い演奏が遺されていたということは、ザンデルリンクのファンのみならず、クラシック音楽ファンにとっても大朗報と言えるのではないだろうか。

東独出身のザンデルリンクは、旧ソヴィエト連邦においてムラヴィンスキーにも師事し、ショスタコーヴィチと親交があったこともあって、ショスタコーヴィチの交響曲を得意としていた。

すべての交響曲を演奏・録音したわけではないが、第1番、第5番、第6番、第8番、第10番、第15番の6曲についてはスタジオ録音を行っており、いずれ劣らぬ名演に仕上がっている。

ショスタコーヴィチの15ある交響曲の中で、どれを最高傑作とするのかは諸説あると思われるが、盟友であったムラヴィンスキーに献呈された第8番を最高傑作と評価する者も多いのではないかとも思われるところだ。

ザンデルリンクも、前述のようにムラヴィンスキーに師事していたこともあり、同曲にも特別な気持ちを持って演奏に臨んでいたのではないか。

前述のベルリン交響楽団とのスタジオ録音(1976年)もそうしたことを窺い知ることが可能な名演に仕上がっていたが、本盤の演奏は、当該演奏をはるかに凌駕する圧倒的な超名演に仕上がっていると高く評価したい。

ザンデルリンクによる本演奏は、師匠であるムラヴィンスキーの演奏とはかなり様相が異なるものとなっている。

ムラヴィンスキーによる同曲最高の名演とされる1982年のライヴ録音と比較すればその違いは顕著であり、そもそもテンポ設定が随分とゆったりとしたものとなっている(ザンデルリンクによる1976年のスタジオ録音よりもさらに遅いテンポをとっている)。

もっとも、スコア・リーディングの厳正さ、演奏全体の堅牢な造型美、そして楽想の彫りの深い描き方などは、ムラヴィンスキーの演奏に通底するものと言えるところだ。

その意味では、ショスタコーヴィチの本質をしっかりと鷲掴みにした演奏とも言えるだろう。

ムラヴィンスキーの演奏がダイレクトに演奏の凄みが伝わってくるのに対して、ザンデルリンクによる本演奏は、じわじわと凄みが伝わってくるようなタイプの演奏と言えるのかもしれない。

ショスタコーヴィチの交響曲は、最近では数多くの指揮者が演奏を行うようになってきているが、その本質を的確に描き出している演奏はあまりにも少ないと言えるのではないだろうか。

ショスタコーヴィチは、旧ソヴィエト連邦という、今で言えば北朝鮮のような独裁者が支配する政治体制の中で、絶えず死と隣り合わせの粛清の恐怖などにさらされながらしたたかに生き抜いてきたところだ。

かつて一世を風靡した「ショスタコーヴィチの証言」は現在では偽書とされているが、それでも、ショスタコーヴィチの交響曲(とりわけ第4番以降の交響曲)には、死への恐怖や独裁者への怒り、そして、粛清された者への鎮魂の気持ちが込められていると言っても過言ではあるまい。

したがって、ショスタコーヴィチと親交があるとともに、同時代を生き抜いてきたムラヴィンスキーの演奏が感動的な名演であるのは当然のことであり、かかる恐怖などと無縁に平和裏に生きてきた指揮者には、ショスタコーヴィチの交響曲の本質を的確に捉えて演奏することなど到底不可能とも言えるだろう。

一般に評判の高いバーンスタインによる演奏など、雄弁ではあるが内容は空虚で能天気な演奏であり、かかる大言壮語だけが取り柄の演奏のどこがいいのかよくわからないところだ。

かつてマーラー・ブームが訪れた際に、次はショスタコーヴィチの時代などと言われたところであるが、ショスタコーヴィチ・ブームなどは現在でもなお一向に訪れていないと言える。

マーラーの交響曲は、それなりの統率力のある指揮者と、スコアを完璧に音化し得る優秀なオーケストラが揃っていれば、それだけでも十分に名演を成し遂げることが可能とも言えるが、ショスタコーヴィチの交響曲の場合は、それだけでは到底不十分であり、楽曲の本質への深い理解や内容への徹底した追求が必要不可欠である。

こうした点が、ショスタコーヴィチ・ブームが一向に訪れない要因と言えるのかもしれない。

旧ソヴィエト連邦と同様の警察国家であった東独出身であるだけに、ザンデルリンクの演奏も、前述のようにショスタコーヴィチの本質をしっかりと鷲掴みにしたものであり、とりわけ最晩年にも相当する本演奏は、数あるザンデルリンクによるショスタコーヴィチの交響曲の名演の中でも最高峰の名演であり、同曲の数ある名演の中でも、ムラヴィンスキーによる1982年の名演と並び立つ至高の超名演と高く評価したいと考える。

音質についても、1994年のライヴ録音であるが、文句の付けようのない見事な音質に仕上がっていると評価したい。

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2015年06月30日


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2014年はモスクワ出身の名指揮者キリル・コンドラシンの生誕100周年に当たる。

コンドラシンは1978年のコンセルトヘボウ客演の際にオランダに政治亡命して西側での音楽活動を本格的に始めた矢先の1981年3月8日に突然他界した。

その死には当局がらみの暗殺説も浮上している。

コンドラシンは既に1958年のチャイコフスキー・コンクールで優勝したヴァン・クライバーンの凱旋公演にも随伴していて、冷戦時代の旧ソヴィエトの指揮者の中ではいち早く西側での演奏を実現した人だ。

このSACDに収められた音源はいずれも今回が初めてのリリースではないが録音も保存状態も極めて良好で、リマスタリングによって奥行きと立体感の感じられる音響が蘇っている。

『バビ・ヤール』はモノラル・ライヴ、カンタータ『10月』の方はステレオ・セッション録音になる。

交響曲第13番『バビ・ヤール』はユダヤ人虐殺が行われたウクライナの地名をタイトルに持ち、ロシアに受けつがれる反ユダヤ主義を非難する内容となっている。

旧ソ連ではタブーのテーマだったゆえ反体制的とみなされ、1962年12月の初演の際にも演奏者に当局から圧力がかかったとされている。

この録音は世界初演の2日後の再演時のライヴであるが、出演者もほぼ同じで、ショスタコーヴィチも臨席、緊張が生々しく伝わってくる。

当初はショスタコーヴィチの多くの作品の初演を手がけていたムラヴィンスキーが指揮する予定だったらしいが、ソヴィエトのユダヤ人差別政策を仄めかす詩の内容が検閲に引っかかり、ムラヴィンスキー降板の後もこのコンサート以降の音楽活動への影響を恐れて土壇場まで歌手の入れ替わりが続いたようだ。

当時のコンドラシンは当局からの執拗な妨害にあって苦境に立たされていた筈だが、逆に言えばそうした状況にあってこの凄まじいまでの集中力に支えられた初演が可能だったのかも知れない。

コンドラシンは作曲家の抉り出した心理描写と映像のように浮かび上がる情景を音像として驚くほど冷静に、しかしまた劇的に表現し切っているし、モスクワ・フィルも流石に巧い。

バス・ソロを歌うグロマツキーは朴訥として器用な歌手ではないが、詩の表す陰鬱で悲愴な情感は良く出していて、この危険な役回りを引き受けたことを潔しとしたい。

ショスタコーヴィチ本人を始めとする初演遂行側の表現の自由に賭けた熱意と圧迫を受けていた人道的思想の発露が漕ぎ着けた初演は大成功を収めたと伝えられているが、結果的に考えるならば後の政治亡命も起こるべくして起こったと言わざるを得ない。

コンドラシンはこの作品初演成功後、交響曲第4番やオラトリオ『ステンカ・ラージンの処刑』の初演も飾っている。

一方プロコフィエフのカンタータ『10月』は、帝政ロシア崩壊に至る一連の事件から10月革命20周年を記念した曲で、ここでもコンドラシンは冷徹に音楽的バランスを熟慮してそれぞれの部分の強烈な個性を的確に捉えているが、何故かここでは第1、2、4、7、9部のみの尻切れトンボで収録されているのが残念だ。

一般に風変わりなオーケストレーションと合唱、モノローグによるグロテスクな奇曲という評価だが、プロコフィエフの作曲技法はかえって洗練された鋭利さを感じさせる作品だと思う。

プラガのデータについては鵜呑みにできない怪しげなところが無きにしも非ずだが、交響曲第13番については1962年12月18日に初演が行われ、この音源は同年12月20日の同一メンバーによる再演ライヴから収録されたものらしい。

プロコフィエフの方は1966年5月5日のセッションと記載されている。

ライナー・ノーツには『バビ・ヤール』のみだがロシア語のローマ字発音表記の歌詞に英語対訳が付けられている。

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2015年06月26日


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クルト・ザンデルリンクは、2011年9月18日、ベルリンにて98歳の生涯を終えた。

2002年に引退をしてからは指揮活動から遠ざかってはいたが、現役時代に行った演奏の数々の中には素晴らしい名演も数多く存在しており、その死は誠に残念至極であり、この場を借りて、改めてザンデルリンクの冥福を心からお祈りしたい。

ザンデルリンクはムラヴィンスキーに師事するとともに、ショスタコーヴィチと親交があったこともあって、ショスタコーヴィチを得意としており、交響曲第15番については2度にわたってスタジオ録音している。

最初の録音が、ベルリン交響楽団との演奏(1978年)であり、2度目の録音が、クリーヴランド管弦楽団との演奏(1991年)である。

いずれ劣らぬ名演と言えるところであり、1978年盤はより引き締まった演奏全体の造型美を味わうことが可能と言えるが、特に1991年の演奏については懐の深い円熟の名演とも言えるところであり、筆者としては、本演奏の方を僅かに上位に掲げたいと考える。

ショスタコーヴィチの交響曲は、最近では数多くの指揮者が演奏を行うようになってきているが、その本質を的確に描き出している演奏はあまりにも少ないと言えるのではないだろうか。

ショスタコーヴィチは、旧ソヴィエト連邦という、今で言えば北朝鮮のような独裁者が支配する政治体制の中で、絶えず死と隣り合わせの粛清の恐怖などにさらされながらしたたかに生き抜いてきたところだ。

かつて一世を風靡した「ショスタコーヴィチの証言」は現在では偽書とされているが、それでも、ショスタコーヴィチの交響曲(とりわけ第4番以降の交響曲)には、死への恐怖や独裁者への怒り、そして、粛清された者への鎮魂の気持ちが込められていると言っても過言ではあるまい。

したがって、ショスタコーヴィチと親交があるとともに、同時代を生き抜いてきたムラヴィンスキーの演奏が感動的な名演であるのは当然のことであり、かかる恐怖などと無縁に平和裏に生きてきた指揮者には、ショスタコーヴィチの交響曲の本質を的確に捉えて演奏することなど到底不可能とも言えるだろう。

ザンデルリンクの場合は、東独という、旧ソヴィエト連邦と同様の警察国家の出身であること、そしてムラヴィンスキーに師事していたこともあって、ショスタコーヴィチの交響曲の本質への深い理解については、人後に落ちないものがあったと言える。

本演奏も、さすがに、師匠であるムラヴィンスキーの演奏(1976年)ほどの深みや凄みには達していないと言えるが、それでもザンデルリンクによる彫りの深い表現が全体を支配するなど、外面だけを取り繕った薄味な演奏にはいささかも陥っていないと言えるところだ。

加えて、ドイツ人指揮者ならではの堅固な造型美や重厚な音色が演奏全体を支配しており、その意味では、ムラヴィンスキーによる名演の持つ峻厳さを若干緩和するとともに、ドイツ風の重厚さを付加させた演奏と言えるのかもしれない。

いずれにしても、本演奏は、ムラヴィンスキーなどのロシア系の指揮者以外の指揮者による演奏の中では、最右翼に掲げられる素晴らしい名演と高く評価したいと考える

マーラーもまったくただものではなく、ザンデルリンクの凄さを思い知らされる演奏である。

ザンデルリンクが創り出す音楽は、さしずめブロンズ像のようなもので、細部の再現性ではなく、全体の大づかみな構築を問うている。

だから、作品が逞しく聴こえるところであり、この逞しいとは、もちろん他人よりも大きな音を出すとか響きが分厚いということではない。

たとえば両端楽章は大きな振幅でうねるが、そのうねりに神経質なところがなく、実に自信があるのだ。

このザンデルリンク流が細部ほじくり型より容易な演奏法だということはまったくない。

単にうるさいところは強く弾き、メロディは歌いまくればこういう演奏になるかと言えば、そんなことはないのである。

フレージングの力学に通じ、どうすれば音楽が自然に流れるように聞こえるのかを知らなければならない。

ザンデルリンクはその技のきわめつきの名手であり、彼の手にかかると、複雑なこの交響曲もじつにやすやすと流れていくのである。

たとえば第4楽章は、誰もが心をこめて歌う楽章だが、感情移入という点では、バーンスタインのほうがザンデルリンクよりもよほど熱烈だ。

ザンデルリンクの演奏では感情の力学ではなく、響きの力学に従って音楽が先へ進む。

だから、この楽章がことさら嘆きとか悲しみを訴えることはなく、美的なものとして現れてくるのだ。

筆者は、この太い名木を組み合わせて作ったような感触のフィナーレが大好きである。

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2015年05月10日


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本セットには、第一期ボロディン弦楽四重奏団によるショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第1〜13番(1962〜72年ステレオ録音)が収められている。

1945年に結成、チェロのベルリンスキーを精神的支柱に、今なお数多い現代の弦楽四重奏団をリードする、ロシアの名クヮルテットによるショスタコーヴィチの弦楽四重奏録音の復活を大いに歓迎したい。

結成時のオリジナル・メンバーによるボロディン・クヮルテット、いわゆる「ドゥビンスキー時代」の彼らのかけがえのない録音がChandos Historicalから着々と世に出ているが、中でもこれは特に注目に値するセットと言えよう。

演奏はどれも最高の評価を獲得してきたもので、数あるショスタコーヴィチの弦楽四重奏録音の中にあって、その厳しいスタイルはまさに空前絶後。

結成当初から作曲者に演奏法を直接指導されたという同団の演奏には、「ボロディンSQなくしてショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲は語れない」との絶賛が数多く寄せられている、いわばショスタコ四重奏の規範として知られる名盤である。

レコーディング当時、まだ作曲されていなかった第14番と第15番を含んでいないのは残念とはいえ、この時期の彼らの演奏をまとめて聴けるこのセットの価値にはまさに圧倒的なものがある。

ショスタコーヴィチは、弦楽四重奏曲を交響曲と同様に15曲も作曲したが、これはバルトークによる6曲の弦楽四重奏曲と並んで、20世紀における弦楽四重奏曲の最高傑作との評価がなされている。

確かに、作曲書法の充実度や、内容の奥深さなどに鑑みれば、かかる評価は至当であると考えられる。

ショスタコーヴィチは、旧ソヴィエト連邦という、現在で言えば北朝鮮のような非民主的な独裁国家で、粛清の恐怖を耐え忍びながらしたたかに生き抜いた作曲家であった。

かつて一世を風靡した「ショスタコーヴィチの証言」は現在では偽書とされているが、ショスタコーヴィチに関して記したその他の様々な文献を紐解いてもみても、その交響曲や弦楽四重奏曲などには、かかる粛清の恐怖や、スターリンをはじめとする独裁者への批判や憤り、独裁者によって粛清された犠牲者への鎮魂などが色濃く反映されている。

したがって、旧ソヴィエト連邦の時代を共に生き、粛清への恐怖に実際に身を置いた者こそが、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲に込められたこのような深遠な世界をよりうまく音化することができると言えるのではないだろうか。

ボロディン弦楽四重奏団は、前述の通り旧ソヴィエト連邦下において1945年に結成され、それ以降も旧ソヴィエト連邦において活動を行ってきた団体である。

したがって、その演奏は、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の心眼に鋭く切り込んでいくという鋭さ、そして凄みにおいては、他のいかなる弦楽四重奏団が束になってもかなわないレベルに達していると言えるところであり、その演奏の彫りの深さは、尋常ならざる深遠さを湛えている。

とりわけ、晩年の弦楽四重奏曲の凄みのある演奏には戦慄を覚えるほどであり、これは音楽という次元を通り越して、あたかもショスタコーヴィチの遺言のように聴こえるのは筆者だけではあるまい。

なお、ボロディン弦楽四重奏団は、1978年から1984年にかけて、本録音当時作曲されていなかった第14番及び第15番を含むすべての弦楽四重奏曲の録音を行っており、各楽曲の本質への追求度という意味においては当該演奏の方が数段上であると考えられなくもないが、その分、演奏自体はかなり冷徹なものとなっていると言えなくもない。

新盤も決定的名盤と記されるに相応しい全集であるが、そのあまりにも透徹した非人間的な響きに敬遠を覚えた人も少なくないと思う。

しかしこの旧盤には新盤にはないロマンティシズムの人間的響きが感じられ、未だ旧ソ連の鉄の教育による同質音楽ではなく、ハイドン、ベートーヴェンにもひけをとらない「四重奏」の音楽を堪能できるものとなっている。

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2015年05月06日


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本盤に収められたロストロポーヴィチによるショスタコーヴィチの交響曲第5番については、かつてLPで聴いた時のことを鮮明に記憶している。

本演奏の録音は1982年であるが、この当時は、現在では偽書とされている「ショスタコーヴィチの証言」が一世を風靡していた時期に相当し、ロストロポーヴィチのショスタコーヴィチとの生前における親交から、本演奏は証言の内容を反映した最初の演奏などともてはやされたものであった。

筆者は「証言」をむさぼり読むとともに本演奏を収めたLPを聴いたものの、若かったせいもあるとは思うのであるが、今一つ心に響くものがなかったと記憶している。

その後、大学生になってCDを購入して聴いたが、その印象は全く変わることがなかった。

そして、先般SHM−CD化されたのを契機に、久々に本演奏を聴いたが、やはり心に響いてくるものがなかったと言わざるを得ない。

確かに、巷間言われるように本演奏には楽曲の頂点に向けて畳み掛けていくような緊迫感や生命力溢れる力強さなどが漲っているが、この時点でのロストロポーヴィチは、手兵のワシントン・ナショナル交響楽団をうまく統率し切れずに、いささか空回りしているような気がしてならないのだ。

加えてオケの演奏レヴェルが低く、ワシントンD.C.という都市にあるオケでありながら、ボルティモア交響楽団や、ピッツバーグ交響楽団、サンフランシスコ交響楽団、ヒューストン管弦楽団、ミネソタ管弦楽団などのローカル・オケとも比較が出来ないほど、サウンドが荒く、アンサンブルが成立していない状態での録音である。

このオケは、「ナショナル」という冠をつけているが、国立の楽団ではない。

ただ、アメリカ合衆国大統領の就任式で国歌等を演奏するのは、慣例としてこの楽団の仕事になっているらしい。

その割に、楽団の音色、響きは発展途上のオケのままという感じで、音色というか響きに滑らかさがなく、ざらざらしていて埃っぽい。

当然透明感がなく、第1楽章から平坦で変化のないフレーズどり(オケのサウンドがひどく、ダイナミクスレンジも狭いようだ)で、第3楽章などは聴くに堪えない音を出していて、鈍重な弦楽器の厚ぼったい響きに歯切れの悪さを覚えるだけである。

やや雑然とした演奏に聴こえるのもおそらくはそのせいであり、ロストロポーヴィチによる同曲の演奏であれば、いささか大人しくはなったと言えるが、後年の2つの録音、(ワシントン・ナショナル交響楽団との1994年盤(テルデック)又はロンドン交響楽団との2004年盤(LSO))の方がより出来がいいと言えるのではないだろうか。

特に後者は音質が優れているだけでなく、オケの演奏技術もかなり向上して、音程、サウンドのテクスチャー、音のブレンドなどに格段の進歩を見せている。

他方、プロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」からの抜粋については、ロシア風の民族色に満ち溢れた名演と高く評価したい。

ロストロポーヴィチがワシントン・ナショナル交響楽団の音楽監督を務めていた頃の、彼の内面の激情が燃えたぎるような精力的なこの演奏は、プロコフィエフの傑作に鮮やかに光を当てる結果を招来したと言えるだろう。

録音は、従来盤でもかつてのLPと同様に十分に満足できる音質であったが、今般のSHM−CD化によって音質がやや鮮明になるとともに、音場が若干幅広くなったことについては評価したい。

全体の評価としては、「ロメオとジュリエット」の名演とSHM−CD化による若干の高音質化を加味して準推薦の評価とさせていただくこととする。

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2015年04月30日


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旧盤から15年以上を経て、円熟のゲルギエフが再度問いかける、作曲70周年の問題作であるが、素晴らしい名演と高く評価したい。

現在の様々な指揮者の中で、ショスタコーヴィチの交響曲の名演を成し遂げる可能性がある指揮者と言えば、これまでの実績からして、本盤のゲルギエフのほかは、インバルが掲げられると思うが、他の指揮者による名演もここ数年間は成し遂げられていないという現状に鑑みると、現在では、ショスタコーヴィチの交響曲の演奏についてはゲルギエフとインバルが双璧と言えるのかもしれない。

いずれにしても、本盤に収められた名演は、このような考え方を見事に証明するものと言えるだろう。

第8番の過去の名演としては、初演者として同曲が有する精神的な深みを徹底して追求した決定盤の誉れ高いムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの名演(1982年)があり、本盤の演奏も、ムラヴィンスキーの系列に繋がるものと言える。

ゲルギエフ&マリインスキー劇場管弦楽団による、ショスタコーヴィチの交響曲第8番は、1994年9月に同じオーケストラとオランダのハーレムにて録音され、ロングセラーとなっていた。

今回は15年以上を経て、ゲルギエフの円熟ぶりと、手兵マリインスキー劇場管弦楽団を完全に手中に収めた神業の完成度に驚かされる。

旧盤で見られた未消化さや解釈の甘さは完全に払拭され、黒光りするような凄味が感じられるところであり、こうした幻想的で複雑な大曲にこそ、ゲルギエフの真価が最大に発揮し得ると言えるだろう。

ここでもゲルギエフは、楽曲の本質を抉り出していくような鋭さを感じさせる凄みのある演奏を披露しており、おそらくは、同曲演奏史上ベストを争う名演と高く評価したい。

全体として堅固な造型を構築しつつ、畳み掛けていくような緊迫感や、生命力溢れる力強さは圧巻の迫力を誇っている。

また、スコアに記された音符の表層をなぞるだけでなく、スターリン時代の粛清や死の恐怖などを描いたとされている同作品の本質をこれだけ音化し得た演奏は、おそらくはムラヴィンスキー以来はじめてではないかとさえ思われるほどだ。

その壮絶とも言える圧倒的な迫力は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分だ。

今回の演奏時間は65分38秒、旧盤より2分半ほど長くなっているが、注目は第1楽章のテンポの遅さ。

旧盤より2分半、ムラヴィンスキーの1982年盤に比べて3分半も遅く、数ある同曲の録音中でもかなり遅い部類に属する。

重苦しさに満ちながら、驚くほど強い緊張感が張り詰め、金縛りにあったように動けなくなる凄さ!ゲルギエフのテンポ設定に納得させられる。

急速楽章の第2、第3楽章はほぼ同じ演奏時間であるが、ラルゴの第4楽章は1分ほど速く、希望の兆しが見える第5楽章は逆に遅くなっている。

ことにパッサカリアの第4楽章が絶品で、こうした精密極まりない音楽でゲルギエフの見せるテクニックは誰にも真似できない凄さがあり、ショスタコーヴィチの天才性を改めて実感できる。

終楽章の不思議な重さにもゲルギエフの哲学が感じられる。

ゲルギエフの統率の下、手兵マリインスキー劇場管弦楽団は最高のパフォーマンスを示している。

マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音も、本名演の価値を高めるのに大きく貢献している点を忘れてはならない。

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2015年04月05日


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アバドは、私見であるが、これまでの様々な名指揮者の中でも、最高の協奏曲指揮者と言えるのではなかろうか。

ベルリン・フィルの芸術監督に就任する前には、ロンドン交響楽団とともに圧倒的な名演奏を成し遂げていた気鋭の指揮者であったアバド。

そのアバドは、ベルリン・フィルの芸術監督就任後、借りてきた猫のような大人しい演奏に終始するようになってしまった。

カラヤン時代に、力の限り豪演を繰り広げてきたベルリン・フィルも、前任者と正反対のアバドの民主的な手法には好感を覚えたであろうが、演奏については、大半の奏者が各楽器セクションのバランスを重視するアバドのやり方に戸惑いと欲求不満を感じたのではないか。

それでも協奏曲の演奏に限ってみれば、ベルリン・フィルの芸術監督就任以前と寸分も変わらぬ名演を成し遂げていたと言える。

チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番におけるアルゲリッチとの競演(1994年)、そして、レコード・アカデミー賞を受賞したブラームスのピアノ協奏曲第2番におけるブレンデルとの競演(1991年)など、それぞれの各楽曲におけるトップの座を争う名演の指揮者は、このアバドなのである。

本盤に収められた日本を代表するヴァイオリニストである五嶋みどりと組んで録音を行ったチャイコフスキーとショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲についても、こうした名演に系譜に連なるものとして高く評価したいと考える。

協奏曲の演奏に際してのアバドの基本的アプローチは、ソリストの演奏の引き立て役に徹するというものであり、本演奏においても御多分にも漏れないが、オーケストラのみの演奏箇所においては、アバドならでは歌謡性豊かな情感に満ち溢れており、格調の高さも相俟った美しさは、抗し難い魅力に満ち溢れている。

ここぞという時の力感溢れる演奏は、同時期のアバドによる交響曲の演奏には聴くことができないような生命力に満ち溢れており、これぞ協奏曲演奏の理想像の具現化と評しても過言ではあるまい。

チャイコフスキーやショスタコーヴィチの協奏曲に特有のロシア風のメランコリックな抒情を強調した演奏にはなっておらず、両曲にロシア風の民族色豊かな味わいを求める聴き手にはいささか物足りなさを感じさせるきらいもないわけではないが、五嶋みどりのヴァイオリン演奏の素晴らしさ、両曲の持つ根源的な美しさを見事に描出し得たといういわゆる音楽の完成度という意味においては、まさに非の打ちどころのない素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したいと考える。

五嶋みどりのヴァイオリンについては、もちろん技量においても何ら問題はないが、巧さを感じさせないところが素晴らしい。

要は、楽曲の美しさだけが聴き手に伝わってくるような演奏を心掛けていると言えるところであり、加えて、畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力が演奏全体に漲っているのが素晴らしい。

実演ということも多分にあるとは思うが、五嶋みどりの体当たりとも言うべき渾身の、そして楽曲の美しさを際立たせた演奏は、我々聴き手の感動を誘うのに十分であり、このような力強い名演奏を聴いていると、あらためて五嶋みどりの卓越した才能を感じることが可能だ。

一部の女流ヴァイオリニストにありがちな線の細さなどは微塵もなく、どこをとっても骨太のしっかりとした構えの大きい音楽が鳴り切っているのが見事である。

音質は、SACD化がなされることにより、臨場感のある素晴らしい高音質になっており、とりわけ五嶋みどりのヴァイオリンの弓使いが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的ですらある。

あらためて本演奏の凄みを窺い知ることが可能になるとともに、SACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。

いずれにしても、アバド&ベルリン・フィル、そして五嶋みどりによる素晴らしい名演をSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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2015年03月23日


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1990年5月5,6日、ウィーン・ムジークフェラインザールに於ける、楽曲の珍しい組み合わせによるコンサートの記録である。

一見凡庸な選曲に見えて、凡庸な指揮者では絶対に選択しないカップリングと言えるところだ。

18世紀的な勝利への凱歌と20世紀の勝利への凱歌への懐疑といった戦略的なカップリングにより、ベートーヴェンの「第5」の物語は見事に剥奪され、屈折した構造が白日の元に引きずり出されている。

そこに偶然とはいえウィーン・フィルの美音を重ねるとは、ショルティも相当な策士と言えたところであり、見事なまでに屈折したコンセプトアルバムとなった。

ショスタコーヴィチは、ショルティが最晩年になって漸く取り組みを開始した作曲家であるが、こうしたショルティのあくなき前向きな姿勢には頭を下げざるを得ない。

2曲とも快演だが、特にショスタコーヴィチの「第9」が聴きもので、ショルティの演奏は、今までこの曲に付き纏っていた曲の経緯などを全く顧慮しない典型的なものと言えよう。

この「第9」は、「第8」に次いで録音されたものであるが、全体を20分少々という快速のテンポを取りながら、その中から浮かび上がる造型的な美しさを目指しているようだ。

新古典主義的解釈でこの作品の本質を衝き、ショルティの凄いほどの統率力がウィーン・フィルの音を引き締めると同時に、このオケの柔らかな音色が、より一層、今までの演奏との違いを感じさせる。

この当時、ショルティは既に78歳に達していたはずであるが、とてもそうとは思えない、若き日の鋭角的なショルティを彷彿とさせる力感溢れるアプローチだ。

実にきびきびとして緊張感にあふれていながら色彩感があり、ショスタコーヴィチ特有のダークなアイロニーに富む楽想がつぶさに伝わってくる。

第1楽章からホルンなどの管楽器の響きが冴え渡り表情は明晰そのもので、第2楽章など史上最速の演奏ではあるまいか。

第3楽章の速度指定はプレストであるが、作曲者の指定通りの速度での演奏は、これが初めてであったと記憶している。

ウィーン・フィルらしからぬ荒々しさも感じられるところであり、アンサンブルがあちこちで悲鳴を上げる寸前まで追い込まれつつも、驚異的な機動力で見事に乗り切っている。

ショスタコーヴィチが「第9」に込めた諧謔的な一面を的確に描出しているという点でも、一定の評価をすべき好演であると考える。

ロシア的な色彩感が自然に表されているのも興味深い。

ベートーヴェンの「第5」は、ショルティの4回目にして最後の録音となったものだが、ここには枯れた味わいなど薬にもしたくない。

最晩年を迎えた指揮者とは思えないほどの速めのテンポでエネルギッシュな演奏を繰り広げている。

ただ、さすがにベートーヴェンだけに、ウィーン・フィルのしなやかにして優美な演奏が、全体としての印象を幾分柔和なものとすることに貢献しており、決して無機的な演奏に陥っていない。

ショルティの「第5」は、筆者としてはシカゴ響との1970年代または1980年代のスタジオ録音を採りたいが、本盤については、ウィーン・フィルとの組み合わせという意味で、それなりの存在価値はあると思われる。

全体的に強い緊張感と豊かな風格をもった演奏で、両曲ともライヴ特有の緊迫感を備えた好演である。

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2015年03月04日


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東独出身のザンデルリンクは、旧ソヴィエト連邦においてムラヴィンスキーにも師事し、ショスタコーヴィチと親交があったこともあって、ショスタコーヴィチの交響曲を得意としていた。

すべての交響曲を演奏・録音したわけではないが、第1番、第5番、第6番、第8番、第10番、第15番の6曲についてはスタジオ録音を行っており、いずれ劣らぬ名演に仕上がっている。

ザンデルリンクは、前述のようにムラヴィンスキーに師事していたこともあり、ショスタコーヴィチの交響曲を指揮するに際しては特別な気持ちを持って臨んでいたことを窺い知ることが可能な名演に仕上がっている。

ザンデルリンクによる本演奏は、師匠であるムラヴィンスキーの演奏とはかなり様相が異なるものとなっており、そもそもテンポ設定が全体的に随分とゆったりとしたものとなっている。

もっとも、スコア・リーディングの厳正さ、演奏全体の堅牢な造型美、そして楽想の彫りの深い描き方などは、ムラヴィンスキーの演奏に通底するものと言えるところだ。

その意味では、ショスタコーヴィチの本質をしっかりと鷲掴みにした演奏とも言えるだろう。

ムラヴィンスキーの演奏がダイレクトに演奏の凄みが伝わってくるのに対して、ザンデルリンクによる本演奏は、じわじわと凄みが伝わってくるようなタイプの演奏と言えるのかもしれない。

ショスタコーヴィチの交響曲は、最近では数多くの指揮者が演奏を行うようになってきているが、その本質を的確に描き出している演奏はあまりにも少ないと言えるのではないだろうか。

ショスタコーヴィチは、旧ソヴィエト連邦という、今で言えば北朝鮮のような独裁者が支配する政治体制の中で、絶えず死と隣り合わせの粛清の恐怖などにさらされながらしたたかに生き抜いてきたところだ。

かつて一世を風靡した「ショスタコーヴィチの証言」は現在では偽書とされているが、それでも、ショスタコーヴィチの交響曲(とりわけ第4番以降の交響曲)には、死への恐怖や独裁者への怒り、そして、粛清された者への鎮魂の気持ちが込められていると言っても過言ではあるまい。

したがって、ショスタコーヴィチと親交があるとともに、同時代を生き抜いてきたムラヴィンスキーの演奏が感動的な名演であるのは当然のことであり、かかる恐怖などと無縁に平和裏に生きてきた指揮者には、ショスタコーヴィチの交響曲の本質を的確に捉えて演奏することなど到底不可能とも言えるだろう。

一般に評判の高いバーンスタインによる演奏など、雄弁ではあるが内容は空虚で能天気な演奏であり、かかる大言壮語だけが取り柄の演奏のどこがいいのかよくわからないところだ。

かつてマーラー・ブームが訪れた際に、次はショスタコーヴィチの時代などと言われたところであるが、ショスタコーヴィチ・ブームなどは現在でもなお一向に訪れていないと言える。

マーラーの交響曲は、それなりの統率力のある指揮者と、スコアを完璧に音化し得る優秀なオーケストラが揃っていれば、それだけでも十分に名演を成し遂げることが可能とも言えるが、ショスタコーヴィチの交響曲の場合は、それだけでは到底不十分であり、楽曲の本質への深い理解や内容への徹底した追求が必要不可欠である。

こうした点が、ショスタコーヴィチ・ブームが一向に訪れない要因と言えるのかもしれない。

旧ソヴィエト連邦と同様の警察国家であった東独出身であるだけに、ザンデルリンクの演奏も、前述のようにショスタコーヴィチの本質をしっかりと鷲掴みにしたものであり、数あるショスタコーヴィチの交響曲の録音の中でも、かなり上位にランキングされる名演として高く評価したいと考える。

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2015年02月23日


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ヤンソンスは、現在ではラトルやゲルギエフなどと並ぶ世界を代表する人気指揮者の1人である。

コンセルトへボウ・アムステルダムとバイエルン放送交響楽団といった超一流の音楽監督を兼務するなど、名実ともに現代を代表する大指揮者であると言っても過言ではあるまい。

ヤンソンスが初来日したのは1986年で、当時、レニングラード・フィルの副指揮者をつとめていたヤンソンスは、ムラヴィンスキーが急病で来日をキャンセルしたこともあって、その代役としてレニングラード・フィルとともに数々の演奏会をこなしたのである。

本盤に収められたショスタコーヴィチの交響曲全集は、いまだヤンソンスが若かった初来日の2年後の録音(1988年)である第7番を皮切りとして、2005年に録音された第13番に至るまで、何と17年もの歳月をかけて録音がなされたものである。

そして、オーケストラについても、副指揮者をつとめていたレニングラード・フィルや現在音楽監督をつとめているバイエルン放送交響楽団、更には、ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、フィラデルフィア管弦楽団、ピッツバーグ交響楽団、ロンドン・フィル、オスロ・フィルといった世界各国の8つのオーケストラを起用して録音がなされているというのも、本全集の大きな特徴と言えるだろう。

ヤンソンスの芸風は、本全集の17年間に大きく変容しているとは言えるが、基本的には純音楽的なアプローチと言えるのではないだろうか。

ムラヴィンスキーの下で副指揮者をつとめていたにもかかわらず、ムラヴィンスキーのような楽曲の心眼に鋭く切り込んで行くような徹底して凝縮化された凄みのある表現を聴くことはできない。

さりとて、ゲルギエフやスヴェトラーノフ、そしてロジェストヴェンスキーなどによるロシア風の民族色を感じさせるようなアクの強さなども殆ど存在していない。

むしろ、楽想を精緻に、そして丁寧に描き出していくというものであり、他のロシア系の指揮者とは一線を画する洗練された演奏を行っているとさえ言えるだろう。

しかしながら、ヤンソンスの表現は洗練されているからと言って、スコアに記された音符の表層だけをなぞっただけの薄味の演奏にはいささかも陥っていない。

一聴すると淡々と流れていく各フレーズには独特のニュアンスが込められており、楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした表現を駆使していると言えるのかもしれない。

もっとも、17年もの歳月をかけただけに、初期に録音されたものよりも後年の演奏の方がより優れており、とりわけバイエルン放送交響楽団とともに録音した第2番、第3番、第4番、第12番、第13番の5曲は、素晴らしい名演に仕上がっていると評価したい。

これに対して、最初の録音であるレニングラード・フィルとの第7番は、いささか踏み込み不足が感じられるところであり、作曲者生誕100年を記念して発売されたコンセルトへボウ・アムステルダムとのライヴ録音(2006年)と比較すると、今一つの演奏であると言わざるを得ない。

その他の交響曲については、出来不出来はあるが、少なくとも今日のヤンソンスの名声を傷つけるような演奏は皆無であり、一定の水準は十分に保った演奏に仕上がっている。

前述のバイエルン放送交響楽団との5曲の名演やコンセルトへボウ・アムステルダムとの第7番の名演等に鑑みれば、ヤンソンスが今後バイエルン放送交響楽団、あるいはコンセルトへボウ・アムステルダムとともに、ショスタコーヴィチの交響曲全集を録音すれば、おそらくは現代を代表する全集との評価を勝ち得ることが可能ではないかとも考えられるところだ。

いずれにしても、本全集は、今日の大指揮者ヤンソンスへの確かな道程を感じさせる全集であり、最初期の第7番を除いては水準以上の演奏で構成されていること、そして破格の廉価であることに鑑みれば、初心者にも安心しておすすめできる素晴らしい全集であると評価したいと考える。

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2015年02月22日


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今は大指揮者との評価の高いハイティンクだが、かつて凡庸、平凡の代名詞のように言われていた時期があった。

そんなイメージを引きずってか、ハイティンクのショスタコーヴィチには迫力や厳しさが足りない、という先入観を持っている方は少なくないように思う。

たしかに、スヴェトラーノフばりの耳をつんざく金管の叫びとも、ムラヴィンスキーのような極限の美とも無縁だが、ただ上品なだけの大人しい演奏かというと、それも間違いである。

ことに「第4」「第8」といった阿鼻叫喚の作品で見せる鬼神の如き迫力は、一般にイメージされる温厚で良識のある(悪く言えば、凡庸な)ハイティンク像とは違うものだろう。

両演奏ともに、しっとりと美しい弦と懐の深いサウンドがあってはじめて、「ここぞ」という場面での気迫が生きてくるのである。

つまり、単純な叫びに終わらない含蓄があるのだ。

「第5」も、これほど静かで、心に染み入るアプローチは稀だが、それが却って、この作品の純粋器楽の美しさを浮かび上がらせている。

大声で叫ばなくても、否、敢えて叫ばないからこそ、聴き手の心にズシリと響く。

怒涛のフィナーレにおいても、自らは夢中にならずにオーケストラを燃え上がらせる大家の指揮ぶりだ。

静かなアプローチといえば「第6」第1楽章での、ひたひたと押し寄せる悲しみと嘆きに真の慟哭が認められるし、純粋器楽の美しさといえば「第9」の愉悦感も極上だ。

さて、この全集の白眉は、ヴァラディ(S)、フィッシャー=ディースカウ(Br)を独唱に迎えた「第14」であろう。

この「第14」の持つ独特の構成(2名の独唱者による11の連作歌曲風)は、まさにショスタコーヴィチの愛したマーラー「大地の歌」を彷彿とさせるだけでなく、音楽的な内容の深さにも十分に対峙できるものである。

この曲が一般的に知られていないのは、原曲のテキストがロシア語、または諸外国の詩のロシア語訳のため演奏頻度が少ないせいもあるのだろう。

この演奏では、ロルカ(スペイン)、アポリネール(フランス)、キュヘルベルケ(ロシア)、リルケ(ドイツ)によるテキストが、大胆にもそれぞれの原語で歌われているが、それが斬新であるとともに、きわめて強い説得力を持っている。

ヴァラディもフィッシャー=ディースカウも、まったく綺麗事でない、まるでベルク「ヴォツェック」の登場人物のような鬼気迫る歌唱を見せ、聴き手の魂を凍りつかせる。

ハイティンク指揮のコンセルトヘボウ管も超絶的な技巧で、この室内楽的なスコアの、精緻を極めた再現に成功している。

これは、もっともっと多くの方の耳に届けたい畢生の名演である。

ところで、ハイティンクの上質なアプローチのすべてが功を奏しているというわけではない。

「第7」など、恰幅の良い演奏だが、これは、ハイティンクの上質さが裏目に出ている例だろう。

弦主体のバランス感覚は良いとしても木管の色彩感が淡すぎて、この作品の持つヴァイタリティを表しきれないのである。

「第1」については、あまりにも落ち着き払った演奏により、才気煥発な学生ショスタコーヴィチというよりは、円熟した大人の音楽に聴こえてしまうのが、贅沢な難点と言えるだろう。

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2015年02月14日


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プレヴィンがかつて首席指揮者を務めたロンドン響と録音したショスタコーヴィチの大作、交響曲第8番。

高性能軍団ロンドン響を駆使して、プレヴィンが壮大な音のドラマを繰り広げる。

みごとな完成度をもった演奏だ。

ショスタコーヴィチの音楽はどれを聴いても、独裁体制下でのインテリゲンチャの生き方のむずかしさを考えさせられる。

体制に迎合すると見せかけて、研ぎ澄ました牙のちらつくこともある。

隠蔽が行き過ぎて自虐的、韜晦的になることもある。

この交響曲第8番も例外ではない。

第2次世界大戦中に作曲されたこの曲は、戦争の悲惨さを訴えながら、どんな苛酷な現実のなかでも譲ることのできない芸術家の良心を滲ませている。

むしろ現実が苛酷なほど、自己の芸術を磨くチャンスになる。

プレヴィンはそれを追求してゆく作曲家の超人的な努力に同調しつつ、同時に表面からは見えにくい芸術理念を、透かし彫りのように浮かび上がらせている。

この交響曲は、当初作曲者が表明したように人生を肯定的に表現したものか、それとも、のちに作曲者が遺言したように、レクイエム、悲劇の音楽なのか。

「物語」あるいは「神話」が付随した作品だ。

プレヴィンは、とりあえずそうしたものから自由になって純粋に音楽そのものに立ち向かう。

悲劇性を押し売りすることなく、逆に、耳に聴きやすくテクスチュアを整理することもない。

特筆すべきは響きの混ぜ合わせの妙で、極小の響きの断片が微細に色合いと明暗を変えてゆく。

第4楽章は入魂の名演で、とくに後半は静かな眩暈すら呼ぶ。

戦争の恐怖や悲惨さから生まれた曲ではあるが、いたわりに満ちた音色で奏でられるアダージョを聴くとき、プレヴィンは曲の背景にこだわることなく、あくまで音楽自身がもつエネルギーを描き出そうとしている気がする。

第5楽章も圧倒的だ。

人生の否定か肯定かという「物語」を超える、音楽のみが表現できるゲミュートが聴き手を包む。

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2015年02月03日


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ルドルフ・バルシャイ指揮ケルン放送交響楽団ほかによる、1992年〜2000年にデジタル録音された、ショスタコーヴィチ交響曲全集の廉価盤BOXである。

一見、地味な組み合わせだが、ショスタコーヴィチの真髄を精確に演奏している名盤と言えるだろう。

バルシャイはショスタコーヴィチに作曲を師事し、交響曲第14番『死者の歌』の初演をした、旧ソ連ラビンスク出身のヴィオラの名手にして名指揮者である。

1つ1つの交響曲が非常に丁寧に演奏されていて、全体的な出来映えが非常に高い。

演奏スタイルは、第5番を例にとると、バーンスタインのような華やかさ・流麗さではなく、むしろ重厚さ・深さに比重を置いたものとなっていて、ある意味、奇を衒わない、基本に忠実なショスタコーヴィチと言えるだろう。

中でも15曲中、最も重要な作品と言われる第4番、第8番、第10番の出来栄えは素晴らしいものがあり、第4番両端楽章でのフーガの緊迫感と声部バランスの完璧さや、第8番の2つのスケルツォ楽章における哄笑の切れ味、第10番でのテクスチュアの克明さなどまさに圧巻。

ショスタコーヴィチの語法を知り尽くしたバルシャイならではの意味深いアプローチは聴き応え十分だ。

もちろん、他の作品の出来栄えも優れたもので、迫力満点の標題交響曲としてマニアに人気の第11番『1905年』でも殺戮シーンの描写は圧倒的なものがあるし、同じく描写性の高い第12番『1917年』でも、弦楽の扱いが巧緻なぶん、構造面の魅力がよく伝わってくる。

声楽つきの第2番、第3番、第13番、第14番ではそれぞれの異なるテーマにふさわしいスタンスが取られており、特に、バルシャイ自身が作品の初演者でもある第14番『死者の歌』については、室内編成オーケストラによる多彩をきわめた音響の面白さが耳目を引く。

その他、第13番『バビ・ヤール』でのフーガや、第3番『メーデー』での文字通り行進曲風な楽想の処理、第2番『10月革命に捧ぐ』での過激な音響表出もひたすら見事。

第1番、第6番、第9番の3曲は、いずれも30分程度の規模の小さな作品ながら、聴きどころのぎっしり詰まった充実した作風ゆえファンが多い傑作。

バルシャイのアプローチも機知に富み、機敏さを決して失わないところなどは作品にまさにぴったり。

ショスタコーヴィチ最後の交響曲となった第15番では、ウィリアム・テルやマーラー、ワーグナーの引用などいつにも増してパロディ的な手法が多く使われるのだが、バルシャイの演奏は引用強調を主眼としないシリアスなものとなっている。

天才ショスタコーヴィチの交響曲を深く知ってみたいと思うのであれば、この作曲家にとことんこだわったバルシャイの情熱的な演奏を理解できるようにしておきたい。

ロストロポーヴィチやコンドラシンなどもショスタコーヴィチ交響曲全集を残しているが、聴きやすさという点ではこのバルシャイ盤が一番であり、特にショスタコーヴィチをまだ聴いたことがない人は、まずこの全集を聴いて気に入った交響曲を聴いていけば良いだろう。

バルシャイのショスタコーヴィチと言えば、熱気あふれる名演として有名な第7番『レニングラード』ライヴや、自身の編曲版による弦楽四重奏曲集、といったアルバムがこれまでリリースされていたが、今回のリリースは彼の実力を真に知らしめるものとして、大いに歓迎されるところだ。

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ショスタコーヴィチは、間違いなく20世紀を代表する作曲家であり、今後益々評価は高まっていくだろう。

特に「第5」は、ポピュラーな作品だけに、ロジンスキーの歴史的名盤以来、個性溢れる演奏が目白押しである。

ハイティンクの名は、一般には平凡、無個性の代名詞のように認識されている。

確かに、ブルックナー、マーラー、それを聴いても、魂の底光りが感じられないことが多い。

しかし、理由は不明だが、ショスタコーヴィチにはそれがあるのだ。

一聴すると、オーケストラを無理なく鳴らすだけの浅薄な演奏に聴こえなくもないが、コンセルトヘボウの豊穣な響きでもって、充実しきった演奏を繰り広げる。

ただそれだけなのに感動がある。

そこに、土臭い「ロシア訛り」のないことが幸いして、ショスタコーヴィチの理知的な面に光が当たるからなのか。

本盤の「第5」は、1982年に録音されているが、ハイティンクのディスクに接するに当たって、この年代は記憶しておいていい。

指揮者ハイティンクは、ずいぶんと早い時期からレコーディングを行なってきているが、必ずしもコンスタントに名盤・秀盤を送り出してきたというわけではない。

もうひとつ注文がつくところがあるなぁ、と思わせるのもいくつかあった。

とりわけ、その傾向は1960年代、70年代において強い。

ところが、その彼が80年代を迎える頃あたりから急速に充実、成熟し、出るディスク、出るディスク、いずれも中身が濃い音楽を聴かせてくれるようになっていった。

この「第5」は、そうした傾向を端的に象徴する1枚と言えよう(同じ時期に完成されたショスタコーヴィチの交響曲全集にも、当然同じことが指摘できる)。

重心の低い、しかも柔軟性のある音楽性が、ここでもたいそう効果的である。

「第5交響曲で扱われている主題は誰にも明白である。あれは《ボリス・ゴドゥノフ》の場合と同様、強制された歓喜なのだ」。

ヴォルコフの『ショスタコーヴィチの証言』が作曲者の肉声を伝えていることを前提にしての感想であるが、定評ある名盤が居並ぶなかでハイティンクの演奏が一際光彩を放つのは、彼がオペラ指揮者として、オーケストラによる情景描写、心理描写に優れた技量を備えていることと無関係ではないと思う。

『証言』以来、特にこの曲は聴く側にもいろいろと変化をもたらしたが、あくまでもスコアに則ったハイティンクの演奏は、作品のもつ劇的な性格や音響美など、すべてにおいて最もバランスのよい表現であり、まだ新鮮さを失っていない。

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2015年01月24日


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ハイティンクほど評価が分かれる指揮者はいないのではないか。

長年に渡ってコンセルトへボウ・アムステルダムの音楽監督をつとめ、ポストカラヤン争いでも後継者の候補の1人と目されベルリン・フィルの団員にも愛された指揮者であり、そして現在ではシカゴ交響楽団の音楽監督をつとめるという輝かしい経歴の持ち主であるにもかかわらず、ハイティンクの名声が揺るぎないものとは言い難い状況にある。

ハイティンクは全集マニアとして知られ、数多くの作曲家の交響曲全集を録音している。

いずれも決して凡演というわけではなく、むしろいい演奏ではあるが、他の指揮者による演奏にも優るベストの名演を成し遂げているとは言い難いのではないだろうか。

このように、ベターな演奏を成し遂げることが出来てもベストの名演を成し遂げることができないところに、ハイティンクという指揮者の今日における前述のような定まらない評価という現実があるのかもしれない。

もっとも、ハイティンクが録音した数ある交響曲全集の中でも、唯一ベストに近い評価を勝ち得ている名全集がある。

それは、完成当時はいまだ旧ソヴィエト連邦が存在していたということで、西側初とも謳われたショスタコーヴィチの交響曲全集(1977〜1984年)である。

これは、ハイティンクに辛口のとある影響力の大きい有名音楽評論家さえもが高く評価している全集だ。

本演奏におけるハイティンクのアプローチは直球勝負で、いずれの演奏においても、いかにもハイティンクならではの曲想を精緻に、そして丁寧に描き出していくというものであり、英デッカによる高音質も相俟って、ショスタコーヴィチがスコアに記した音符の数々が明瞭に表現されているというのが特徴である。

したがって、ショスタコーヴィチの交響曲の魅力を安定した気持ちで味わうことができるという意味においては、どの演奏も水準以上の名演であると言えるだろう。

もっとも、決して奇を衒ったり、踏み外しを行ったりすることのない演奏であることから、各交響曲に込められた粛清への恐怖や粛清された者への鎮魂、独裁者への激しい怒りなどを抉り出していくような鋭さにおいては、後述のように第13番を除いては必ずしも十分とは言い難い面があり、個々の交響曲のすべてがベストの名演というわけではないことにも留意しておく必要がある。

その意味では、最大公約数的に優れた名全集と言えるのかもしれない。

私見では、第1番〜第3番、第9番、第11番についてはゲルギエフ&マリインスキー劇場管による演奏、第4番についてはラトル&バーミンガム市響やチョン・ミュンフン&クリーヴランド管、そしてゲルギエフ&マリインスキー劇場管による演奏、第5番及び第6番、第8番、第12番、第15番についてはムラヴィンスキー&レニングラード・フィルによる演奏、第7番についてはスヴェトラーノフ&ソヴィエト国立響による演奏、第10番についてはカラヤン&ベルリン・フィルやムラヴィンスキー&レニングラード・フィルによる演奏、第14番についてはクルレンツィス&アンサンブル・ムジカエテルナによる演奏がベストの名演であり、これらの名演と比較すると、ハイティンクによるこれらの交響曲の演奏はどうしても見劣りすると言わざるを得ない。

また、ハイティンクは、ロンドン・フィルとコンセルトへボウ・アムステルダムの両オーケストラを使い分けているが、どちらかと言えば、コンセルトへボウ・アムステルダムを起用した演奏の方がより優れている。

そのような中で、コンセルトへボウ・アムステルダムと演奏した第13番だけは、何故に同曲だけなのかよくわからないところであるが、楽曲の心眼を鋭く抉り出していこうという彫りの深さが際立っており、同曲の他の指揮者による様々な演奏にも冠絶する至高の超名演と高く評価したいと考える。

いずれにしても、本全集は、ショスタコーヴィチの交響曲全集をできるだけ良好な音質で、なおかつすべての交響曲を一定の水準以上の名演奏で聴きたいという人、そして第13番の最高の超名演を聴きたいと思う人には、安心してお薦めできる名全集である。

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2015年01月22日


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ムラヴィンスキーの数ある同曲録音の中から、日本でのライヴ録音が図抜けて素晴らしい、ということは実に誇らしいことだ。

何度聴いてもなんと神聖な演奏であろうか。

まるで早朝の神社にお参りしたような張り詰めた空気がここにはある。

破格の技術を持つレニングラード・フィルは、決してその技を誇示することなく、ひたすら音楽のために奉仕する。

いかに低弦が唸ろうとも金管が吠えようとも、つねに格調の高さと節度を失うことがなく、「ロシアの」ということを超越した普遍的な芸術意識に貫かれている。

もっとも胸打たれる瞬間のひとつは、第1楽章後半のフルート・ソロ(ムラヴィンスキー夫人)とホルンの対話の部分である。

ヴィブラートの抑制された清冽なフルートの調べは、指揮者との愛の交歓のようで、聴きながら切なくなってしまう。

第3楽章にも同様の場面があるが、こんなフルートを吹かれてしまうと、ムラヴィンスキーでなくても、この人を愛してしまうに違いない。

このCDの価値を高めているのは、NHKによる良心的な録音、及びアルトゥスによる優れたリマスタリングにもよる。

会場ノイズを除去しすぎることもなく、徒らな効果も狙うこともなく、きわめて真っ当な音で勝負してくれたのが、何よりありがたい。

このような中で、今般、待望のシングルレイヤーによるSACD化がなされるに及んで大変驚いた。

音質の鮮明さ、そして音場の幅広さ、音圧などのどれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、ムラヴィンスキーによる圧倒的な超名演を現在望みうる最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

なお、この他のムラヴィンスキーによる同曲の録音では、1954年のスタジオ盤1984年のライヴ盤も聴いておきたい。

前者は何と言っても、ムラヴィンスキーが遺した唯一の商業録音として、その公式見解を知るという意味で。

後年よりさらに厳しい彫琢によるストイックさが魅力である。

後者は、アルトゥス盤よりもオン・マイクの録音による生々しさに別の魅力がある。

その直接的な迫力にグラッとくるが、日本公演のような神聖さは後退している。

前記フルート・ソロも断然アルトゥス盤が上である。

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世界初のショスタコーヴィチ交響曲全集である。

ハイティンクの全集には、ロシア訛りがなくて物足りない、という人には、最適の全集であろう。

もっとも、コンドラシンの演奏は、ロシア臭だけが売り物のローカルなものでなく、いずれも非常な熱演で、純音楽的にも高い水準である。

全集完成に13年を費やしているため、演奏や録音に多少のムラはあるが、1人の指揮者が同じ楽団で、1人の作曲家の生涯の仕事を追うのは意義深いことだし、コンドラシンが、楽曲を端正・率直に表出して、豊かな音楽を歌い出す指揮者であることも適任だったと言える。

コンドラシンといえば、ショスタコーヴィチ交響曲の2つの問題作、すなわちオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」などに対して始まった当局の批判をかわすために作曲者自らが上演を取りやめた「第4」、ユダヤ人迫害というソ連政府にとって蓋をしておきたい問題提起にムラヴィンスキーが初演指揮を辞退した「第13」の気骨ある初演指揮者として、作曲者と深い心の絆で結ばれていた。

だから、と言えばこじつけのように聞こえるかもしれないが、この2曲に関して、コンドラシンの録音を無視するわけにはいかない。

「第4」は、歴史的な初演直後の録音であるが、それにしても素晴らしい作品だ。

大衆性とは無縁ながら、インスピレーションの豊富さ、斬新さ、奇抜さという点では、次作「第5」をも遥かに上回る。

終楽章の後半、ドロドロと轟くティンパニに続くトランペットの強烈な不協和音では、一瞬、地球が軌道から外れたような衝撃が走る。

コンドラシンはそうした常識で計れない作品の魅力を深部で捉え、見事に音にしており、これ以外の表現が考えられないほど的確な構築の名演だ。

有り余るエネルギーを内に湛えつつ、抑制された語り口に始まりながら、徐々に熱を帯びてくる恐ろしさ、時折、顔をのぞかせる狂気など、一級の演奏芸術作品となっているのである。

余談ながら、ムラヴィンスキーが「《第5》以前の交響曲は指揮しない」として、この傑作を無視し続けたことは、まことに残念だ。

「第13」は、1968年の録音だが、初演者としての自信と使命感に裏打ちされた立派な演奏だ。

凍てつく大地をも揺るがすようなエイゼンの独唱とコーラスは、まさにロシアの男声はかくあるべし、と思わせる。

スタジオ録音とは思えないほど緊張感の持続した演奏であるが、音質がいまひとつなのは惜しまれる。

「第8」の凄絶さも群を抜いているが、ムラヴィンスキーにだけは敵わないようだ。

残る13曲も水準を超える演奏である。

オーケストラの耳を突き刺す大音響が、ときに煙幕となって作品の理知的なフォルムを曇らせてしまうこともあるけれど。

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2015年01月18日


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本盤の売りは何よりもXRCDによる極上の高音質録音ということになるのではないだろうか。

本盤に収められた演奏は1965年の録音であるが、約50年近く前の録音とはとても思えないような鮮度のある高音質に生まれ変わっており、あらためてXRCDの潜在能力に驚き入った次第である。

XRCDのポリシーとしては、マスターテープに刻み込まれた原音を忠実に再現するということであり、いかに約50年近く前と言えども、マスターテープには良好な音質が記録されている証左であるとも考えられる。

現在においても、1960年代に録音された演奏を収めたCDが大量に流通しているが、SACD化されたものは別格として、本盤のような水準に達した高音質のCDは非常に少ないと言わざるを得ない。

1960年代は、ワルターやシューリヒト、クナッパーツブッシュが最後の輝きを見せるとともに、クレンペラーなどの往年の大指揮者がなお活躍していた時代である。

これらの大指揮者による名演のうち、SACD化されたのは現時点ではワルターやクレンペラーによる一部の録音に限られており、その他の大半の録音はいまだに音質の抜本的な改善が図られているとは言い難い状況にある。

今後は、マスターテープに刻み込まれた原音を忠実に再現すべく、XRCD化や、あわよくばSACD化を行うことによって、かつての名演の再生につとめていただきたいと考えている。

本盤に収められた演奏は、1965年8月に録音された若き日のプレヴィンによるショスタコーヴィチの「第5」である。

プレヴィンにとって、協奏曲を除き、RCAにおける最初のクラシック音楽のレコーディングの1つとなった。

プレヴィンにとっては、いわばRCAにおける最初の交響曲アルバムとなったもので、1960年代の絶頂期のロンドン響から、若々しく濃密なサウンドを引き出して、「20世紀最大のシンフォニスト」であったショスタコーヴィチのオーケストレーションを緻密に再現した名盤としてLP時代から高く評価されている。

プレヴィンは、クラシック音楽のみならず、多種多様な音楽のジャンルでも活躍する万能型のミュージシャンと言える。

それ故に、プレヴィンのアプローチは、楽曲の聴かせどころのツボを心得た非常にわかりやすいものと言えるだろう。

本演奏においても、プレヴィンはいささかも深刻には陥ることなく、起承転結が明快な演出巧者ぶりを発揮している。

他方、ショスタコーヴィチが同曲に込めた粛清への恐怖や、それと裏腹の強制された歓喜などとは無縁の演奏でもあり、苦悩から歓喜へという単純な図式に基づいて外面的な効果を狙った演奏に陥っているとも言えなくもない。

しかしながら、本演奏の録音当時はショスタコーヴィチがなお存命であり、その評価が定まっていない時期であったことや、プレヴィンが本演奏に示した類稀なる音楽性の豊かさ、そして前述のXRCDによる素晴らしい高音質を加味すれば、名演との評価をするのにいささかの躊躇もしない。

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2015年01月17日


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「私の交響曲は墓標である」と言ったというショスタコーヴィチの交響曲であるが、この演奏はその中でも注目すべき1枚と言えよう。

ケーゲルは共産主義の正しさを確信し、それでも共産主義体制が崩壊してゆくことに危機感を募らせ、自ら命を絶ったといわれているが、このショスタコーヴィチの交響曲第5番は、そういう指揮者にしかできない演奏であることは間違いない。

ケーゲルはここで本領を発揮、全楽章を通して悲愴感に満ちているが、そういう意味では、この曲の悲劇性を皮肉にも非常に強く表現している。

まるで深い闇の底を覗き込むような音楽であるが、なかでも聴きどころは澄んだ悲しさの第3楽章に続く最終楽章。

冒頭から聴こえてくるのは、「革命の生の高揚」などではない。「恐怖の絶叫」「感情の爆発」だ。

続いてもその先には「勝利の喜び」などはない。その喜びは一種の絶望と諦観とでもいうべきものである。

したがって、文学的メッセージを鑑賞するには、ケーゲルの解釈は一定の評価をされるべきものであると評価したい。

しかしながら、オケの、ステージ上で何か事故が起こっているのではないかと思わせるほどのミス(拍子のカウントのずれやテンポのずれ)が散見される。

それは、ライヴ録音であるという点を考慮しても許容される範囲をはるかに逸脱していると言わざるを得ない。

これでもし、オケが一流だったら、ムラヴィンスキーに追随するかのような凄演になっていたのだろうと悔やまれる。

なお、終楽章のコーダでティンパニの連打に鐘を重ねているのは聴く者の度肝を抜くケーゲル独自の解釈と言えるが、この解釈は成功していると思う。

やはり曲そのものにそういうものを予感させる何かがあるからであろう。

最後は決して勝利の行進ではなく、強制された断頭台への行進なのである。ケーゲルはそれを明らかにしただけなのだ。

「第9」は、スタイリッシュでセンス抜群な古典風の端正な交響曲ではあるが、一聴してそれと判断してはいけない。

その底には恐怖の予兆とでもいった、闇の底から湧きあがる黒いマグマの様なものが流れているのだ。

聴く者を恐怖のどん底に落とすであろうこの1枚は、「癒し」などという言葉とはほど遠いものがあるが、そもそも「感動」とは人の心や価値観を脅かし、一種の恐怖を伴うものなのだ。

ケーゲルという指揮者を決して侮ってはならない。恐怖は静かな顔でこちらを窺っているのである。

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2015年01月11日


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ショスタコーヴィチの交響曲第5番は、ムラヴィンスキーにより初演された(1937年)。

彼はその翌年にレニングラード・フィル(現サンクト・ペテルブルク・フィル)の首席指揮者に就任するが、以来ショスタコーヴィチのほとんどの作品は彼の手によって世に送り出されている。

ムラヴィンスキーは、生涯をかけて何百回となくこのロシアの大地の匂いを感じさせる交響曲をとりあげてきた。

それに併せて、数多くの録音が遺され、いずれ劣らぬ名演であるが、演奏や録音の両方を兼ね備えた名演としては、本盤と来日公演での演奏ということになるのではないかと考える。

ムラヴィンスキーの自信と余裕が感じられ、特に全体に漲る迫力と緊張感は彼ならではのもの。

しかも彼の独裁的なオーケストラ統治のおかげで、その解釈表現は頑強に保たれることになった。

一言で言えば、襟を正したくなるような厳しい演奏で、一切の無駄を省き、一分の隙もない引き締まった彫琢をみせる。

この演奏もまさに完璧の一言で、ムラヴィンスキーらしい聴いていて恐ろしくなるほどの異様な緊張感と迫力で一気に聴かせる。

これを聴いていると、あの冷戦時代の緊張感、そしてショスタコーヴィチの苦悩が再現されるような思いにかられる。

ムラヴィンスキーの演奏を聴いていると、ショスタコーヴィチの演奏の王道は、今では偽書ととされているものの、『ショスタコーヴィチの証言』が何と言おうが、初演者であるムラヴィンスキー以外の演奏ではあり得ないと痛感させられる。

世評では、バーンスタインの演奏の評価が高いが、あのような外面的な効果を狙っただけの演奏では、ショスタコーヴィチの交響曲の本質を表現することはできないと考える。

ソヴィエト連邦、しかも独裁者スターリンの時代という、現代で言えば北朝鮮に酷似した恐怖の時代。

この恐怖の時代をともに生きた者でないとわからない何かが、この交響曲には内包されているはずで、ムラヴィンスキーの名演も、外面的な効果ではバーンスタインの演奏などには一歩譲るが、神々しいまでの深遠さにおいては、他の演奏が束になってもかなわない至高・至純の次元に達している。

ムラヴィンスキーの統率の下、レニングラード・フィルの鉄壁なアンサンブルも凄い。

ホルンのブヤノフスキーやフルートのアレクサンドラ夫人の巧さも際立っており、第2楽章のコントラバスの重量感溢れる合奏も凄まじい迫力である。

いずれにせよ円熟期にあったムラヴィンスキーの至芸が心ゆくまで味わえる素晴らしい名演奏には違いない。

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2015年01月10日


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以前メロディアから出ていた1959年のセッション録音(モノラル録音)である。

この名録音が久しぶりに容易に入手できるようになったことを歓迎したい。

この曲を戦争映画のサントラか無内容な音の大スペクタクルのように感じる人がいたならば、ケーゲルやコンヴィチュニー、同じくムラヴィンスキーのレニングラード初演などとともに、この録音をお薦めしたい。

録音の古さを超えて、この曲が単にレーニン賞受賞の体制御用達の曲でなく、絞り出すようなプロテスト、万感のメッセージが込められているのではと考えさせてくれる。

ショスタコーヴィチの交響曲の約半数、7曲を初演したムラヴィンスキーは、作曲家晩年の回想では理解していないと非難されたが、作品の普及に大きく貢献したことは事実である。

演奏について「曲の本質ではない演奏」という評がちらほら見られるが、ショスタコーヴィチとレニングラード・フィルは紛れもなく初演者であり、「そうじゃない!」と言わせたなどの数々のエピソードからショスタコーヴィチ本人の楽曲に込めた意思はムラヴィンスキー本人に伝わっていると断言できる。

全体的な構成感やその歌い回しでは今録音されている全ての「1905年」を通して変わらない一つの頑固なる意志が見て取れる。

それを以て「曲の本質を掴めていない」というのは何事か!? 作曲者の意思が現れる演奏こそ最も本質的な演奏なのである。

別な解釈からのアプローチを行った演奏は否定しないし、もし筆者が自身の作品の奇異な解釈に出会ったとして、それが面白いものならば面白いと思うだろう(事実、奇異な演奏というのは様々な淘汰の中で生き残ってきた演奏のみを今耳にすることが出来るのである)。

しかしそれによって刷り込まれたイメージのみを以て作曲者のアドバイスをも受けたこの初演者の演奏を「曲の本質ではない」と評するのは作曲家ショスタコーヴィチにも失礼である。

もし本当にそれでも本質的でない演奏と思うのであれば、それはショスタコーヴィチのアドバイスを受けていない第三者が誇張した演奏を最も本質的だ!と評しているということで、本当はそれこそ本質的ではないということを自覚するべきである。

この演奏も、絶壁に立たされたような恐ろしいまでの緊張感を感じさせる演奏だ。

でも、本当のところは、歴史を共有することができない私たちにはわからないのかもしれない。

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2014年10月24日


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ハイティンクが得意とするショスタコーヴィチの交響曲の待望の最新録音の登場だ。

ハイティンクは、本盤に収められた交響曲第4番を約30年前にもロンドン・フィルとともに、ショスタコーヴィチの交響曲全集の一環としてスタジオ録音(1979年)していることから、本演奏はハイティンクによる同曲の2度目の録音ということになる。

そして本盤に収められた約30年ぶりの本演奏は、当該全集に収められた演奏とは段違いの素晴らしい名演に仕上がっていると評価したい。

本演奏におけるハイティンクのアプローチは直球勝負。

いかにもハイティンクならではの曲想を精緻に、そして丁寧に描き出していくというものであり、ショスタコーヴィチがスコアに記した音符の数々が明瞭に表現されているというのが特徴である。

したがって、ショスタコーヴィチの交響曲の魅力を安定した気持ちで味わうことができるというのが素晴らしいと言えるところだ。

加えて、本演奏には、晩年を迎えたハイティンクならではの奥行きの深さが感じられるところであり、同曲に込められた作曲者の狂気や絶望感などが、淡々と進行していく曲想の中の各フレーズから滲み出してくるのが見事である。

このような彫りの深い名演を聴いていると、ハイティンクが今や真の大指揮者になったことを痛感せざるを得ないところだ。

ハイティンクの確かな統率の下、現在の手兵であるシカゴ交響楽団が持ち得る実力を最大限に発揮した入魂の名演奏を繰り広げているのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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2014年09月15日


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ショスタコーヴィチは、弦楽四重奏曲を交響曲と同様に15曲も作曲したが、これはバルトークによる6曲の弦楽四重奏曲と並んで、20世紀における弦楽四重奏曲の最高傑作との評価がなされている。

確かに、作曲書法の充実度や、内容の奥深さなどに鑑みれば、かかる評価は至当であると考えられる。

ショスタコーヴィチは、旧ソヴィエト連邦という、現在で言えば北朝鮮のような非民主的な独裁国家で、粛清の恐怖を耐え忍びながらしたたかに生き抜いた作曲家であった。

かつて一世を風靡した「ショスタコーヴィチの証言」は現在では偽書とされているが、ショスタコーヴィチに関して記したその他の様々な文献を紐解いてもみても、その交響曲や弦楽四重奏曲などには、かかる粛清の恐怖や、スターリンをはじめとする独裁者への批判や憤り、独裁者によって粛清された犠牲者への鎮魂などが色濃く反映されている。

したがって、旧ソヴィエト連邦の時代を共に生き、粛清への恐怖に実際に身を置いた者こそが、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲に込められたこのような深遠な世界をよりうまく音化することができると言えるのではないだろうか。

ボロディン弦楽四重奏団は、旧ソヴィエト連邦下において1945年に結成され、それ以降も旧ソヴィエト連邦において活動を行ってきた団体である。

したがって、その演奏は、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の心眼に鋭く切り込んでいくという鋭さ、そして凄みにおいては、他のいかなる弦楽四重奏団が束になってもかなわないレベルに達していると言えるところであり、その演奏の彫りの深さは、尋常ならざる深遠さを湛えている。

とりわけ、最晩年の弦楽四重奏曲の凄みのある演奏には戦慄を覚えるほどであり、これは音楽という次元を通り越して、あたかもショスタコーヴィチの遺言のように聴こえるのは筆者だけではあるまい。

リヒテルが加わったピアノ五重奏曲も、弦楽四重奏曲と同様の彫りの深い圧倒的な超名演だ。

なお、ボロディン弦楽四重奏団は、1960年代から1970年代の初頭にかけて、当時作曲されていなかった第14番及び第15番を除くすべての弦楽四重奏曲の録音を行っており、それも優れた名演であったが、各楽曲の本質への追求度という意味においては本演奏の方が数段上であると考えている(その分、演奏自体はかなり冷徹なものとなっていると言えなくもない)。

本演奏で唯一の難点は録音が今一つ冴えないということであり、これは旧ソヴィエト連邦下のメロディア録音であり致し方がない面もある。

もっとも、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の演奏史上最高の超名演でもあり、今後はXRCD化やSACD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。

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2014年09月14日


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2003年5月 ベルリン・フィルハーモニーに於けるライヴ録音。

巨匠スクロヴァチェフスキが、近年客演を繰り返すドイツの名門ベルリン・ドイツ響(旧西ベルリン放送響)の優秀さを存分に生かし、稀に見る緊張感を孕んだ強烈な演奏の登場で、これは確かに素晴らしい演奏だ。

スクロヴァチェフスキは、当曲をマンチェスターのハレ管弦楽団とも録音していたが、オーケストラの能力には如何ともし難い部分があったのは事実であり、今までどうしても優秀オケとの共演盤に恵まれなかっただけに、この演奏は歓呼を持って迎えられた。

スクロヴァチェフスキは、オーケストラに対し非常に要求の厳しい指揮者であり、その指示命令を完璧にこなすには、相当の技量を持ったオーケストラでないと上手くいかないことは、ファンなら良く知る所と言えよう。

ムラヴィンスキーを想起させる辛口でキリリと引き締まった快速テンポが採用され、変幻自在な棒さばきにベルリン・ドイツ響が見事に反応する様子は魔術のようである。

音量の強弱、大小のコントラストの強さは、凄絶を極めているが、指揮者が音楽をあまり締め付けず、手綱を緩めた結果、オケの自在性がその潜在力を最も発揮した例のように思われる。

ベートーヴェンでもブルックナーでも、スクロヴァチェフスキはあまりに厳格なコントロールがやりすぎの感を抱かせるときがあり、それが音楽をスケールの小さなものにしている気がする。

そんな演奏は「箱庭」の音楽などと揶揄されるが、ベートーヴェンでも「第9」やブルックナーでも「第6」(CD)、「第7」(ザールブリュッケン放送響の東京公演)など、はまった演奏のときは大抵オケに自在感があり、揺るぎない造形の上に一期一会の名演となる。

オーケストラのアルチザンとしては、造形の破綻は言語道断なのであろうし、造形を揺るがせてまで表現に賭けるという、あるいは造形には目を瞑って表現に賭けるなどということは、スクロヴァチェフスキには考えられないことなのだろう。

これが、ヨーロッパ・シリアス音楽の伝統というものであるが、その職人性が度外れな場合、悪くすると凝り固まった凡演ともなる。

CDのブルックナー全集は多くがそうしたものだったが、これは、いずれも造形に対する執拗な追究が音楽から色や艶を拭い去り、曰く言い難いインスピレーションを消去してしまうのだろう。

本ディスクは、スクロヴァチェフスキの美点がすべてプラスとなって、近年では、インバル&都響と並んで稀に見る名演となっている。

ショスタコーヴィチを愛する人は勿論、初めて聴く人にも一番にお薦めできる。

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エリアフ・インバルは、現在でも偉大な遺産としてその名を轟かせているフランクフルト放送交響楽団とのマーラーの交響曲全集のスタジオ録音(1985〜1988年)に引き続いて、ショスタコーヴィチの交響曲全集のスタジオ録音に着手した。

既に、フランクフルト放送交響楽団とともに交響曲第5番を1988年にスタジオ録音していたが、それとは別のプロジェクトとして、1990年から3年間かけて15曲の交響曲のスタジオ録音を行ったのであった。

当該交響曲全集プロジェクトは、当初は、レニングラード・フィル(サンクトペテルブルク・フィル)の起用が予定されていたが、契約の関係で困難となり、ウィーン交響楽団の起用に落ち着いた。

二流のオーケストラであるウィーン交響楽団を起用せざるを得なかった時点で、当該交響曲全集のいささか残念な運命は決定的になったと言わざるを得ないところだ。

レニングラード・フィルが困難であったとしても、何故にフランクフルト放送交響楽団の起用が出来なかったのであろうか。

この点は謎と言う他はないが、ショスタコーヴィチの交響曲を演奏する上での不可欠の要素とも言える、優秀な技量を有したオーケストラの起用が出来なかったことは、偉大な交響曲全集完成に際しての基盤そのものがと崩壊していると言っても過言ではあるまい。

交響曲第10番は、1990年にウィーン交響楽団とともにスタジオ録音を行っているが、オーケストラの力量が今一つであり、必ずしも名演とは言い難い結果となっていた。

このような中で、インバルは、昨年より、東京都交響楽団とともにショスタコーヴィチの交響曲第4番及び第5番の再録音を開始したところであり、両演奏ともに圧倒的な超名演との高い評価を勝ち得たところだ。

そして、そのような中で、今般、満を持して東京都交響楽団との交響曲第10番のライヴ録音が発売された。

本演奏は、1990年盤の演奏とはそもそも次元が異なる圧倒的な超名演に仕上がっていると高く評価したい。

インバルの本演奏におけるアプローチは、曲想を精緻かつ丁寧に描き出すという純音楽的なスタイルを基軸としている。

それでいて、いささかも単調には陥っておらず、インバルが得意としたマーラーの交響曲演奏においても顕著であるが、ありあまるパッションを演奏全体の堅牢な造型の中に封じ込めるという過程においてはみ出してきたものが存在しており、それが本演奏をして、内容豊かなものとしていると言えるところだ。

また、かつてのインバルの演奏に感じられた線の細さはなく、常に骨太の音楽が構築されている。

随所における彫りの深さ、懐の深さには出色のものがあり、まさに大指揮者の風格十分であると言っても過言ではあるまい。

そして、本演奏をして超名演たらしめるのに大きく貢献しているのは、前述のようなインバルの円熟の至芸に加えて、東京都交響楽団の圧倒的な名演奏である。

東京都交響楽団のブラスセクションや打楽器セクションは実に巧く、そして弦楽合奏の厚みのある響きは、ヨーロッパの一流のオーケストラに比肩し得るような力量を備えていると言ってもいいのではないだろうか。

いずれにしても、本演奏は、カラヤン&ベルリン・フィルによるスタジオ録音の演奏(1981年)、ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルによるライヴ録音の演奏(1976年)、スクロヴァチェフスキ&ベルリン・ドイツ交響楽団によるライヴ録音による演奏(2003年)と並んで4強の1角を形成する、圧倒的な超名演と高く評価したい。

そしてSACDによる超高音質録音も、本盤の価値を高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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2014年08月25日


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カラヤンがショスタコーヴィチの15曲ある交響曲の中で唯一演奏・録音したのは第10番のみだ。

その理由は定かではないが、オイストラフがカラヤンに、第10番をショスタコーヴィチの交響曲の中で最も美しい交響曲だと推薦したという逸話も伝えられている。

また、最も有名な第5番については、カラヤンがムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの豪演を聴いて衝撃を受け、2度と指揮しないと誓ったとの説もまことしやかに伝えられている。

そうした逸話などの真偽はさておき、カラヤンは第10番に相当の拘りと愛着を抱いていたようで、スタジオ録音を2度(1966年及び1981年)、モスクワでのライヴ録音を1度(1969年)行っている。

いずれも素晴らしい名演であるが、演奏の完成度と言う意味においては、本盤に収められた1981年盤を随一の名演と高く評価したいと考える。

本演奏でのカラヤンは、一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルを駆使して、曲想を徹底的に美しく磨き抜く。

加えて、ここぞという時のトゥッティの迫力も凄まじいもので、雷鳴のようなティンパニのトレモロは、殆ど悪魔的ですらある。

金管楽器や木管楽器のテクニックも桁外れで、分厚い弦合奏の揃い方は圧巻の技量だ。

これは、間違いなく、オーケストラ演奏の極致とも言うべき名演奏であり、かつて、レコード芸術誌において故小石忠男先生が使っておられた表現を借りて言えば、「管弦楽の室内楽的な融合」と評価したいと考える。

同曲の音楽の内容の精神的な深みを追求した名演と言うことになれば、ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの名演(1976年盤)を第一に掲げるべきであるが、筆者としては、これだけの徹底した音のドラマを構築したカラヤンの名演との優劣は、容易にはつけられないのではないかと考えている。

録音は、1981年のデジタル録音ということもあって、本盤でも十分に満足し得る音質である。

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2014年08月19日


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ここしばらくの間途絶えていたゲルギエフ&マリインスキー劇場管弦楽団によるショスタコーヴィチの交響曲チクルスであるが、15曲の交響曲の中で最大規模を誇る交響曲第7番が登場だ。

これまでのマリインスキー劇場管弦楽団の自主レーベルへの録音は、原則として、これまでゲルギエフが録音を行っていない交響曲に限定されていたところであるが、今般の交響曲第7番は、かつてフィリップスレーベル(現英デッカ)において録音を行った演奏(2001年)以来、11年ぶりの再録音ということになる。

当該フィリップス盤を評価する音楽評論家も結構多かったと記憶するが、筆者としては、ゲルギエフの指揮する際の特徴でもある細やかな指の動きを反映したかのような神経質さが仇となって、木を見て森を見ないような今一つ喰い足りない演奏であったと考えているところであり、あまり高い評価をしてこなかった。

ところが、本盤の演奏は、フィリップス盤とは段違いの素晴らしさである。

演奏時間でも、トータルで約4分近くも長くなっており、これは、ゲルギエフがいかに同曲に対して思い入れたっぷりに演奏しているかの証左ではないかとも考えられるところである。

ゲルギエフの指揮芸術の特質でもある細部への徹底した拘りは相変わらずであるが、フィリップス盤においては随所に施された個性的な解釈がいささかあざとさを感じさせ、それが演奏全体の造型を弛緩させてしまうという悪循環に落ちいっていた。

ところが、本演奏では、ゲルギエフならではの個性的解釈が、演奏全体の造型美をいささかも損なわない中においてなされており、フィリップス盤のようなあざとさ、わざとらしさ、大仰さを感じさせないのが素晴らしい。

第1楽章はなどは実にソフトに開始され、その後も鋭角的な表現が減じたように思われるが、ここぞという時の強靭な迫力にはいささかも不足はなく、むしろ懐の深い音楽を醸成し得るようになったゲルギエフの円熟ぶりを正当に評価することが必要であろう。

また、第3楽章については、演奏時間がフィリップス盤と比較して1分以上も伸びていることからもわかるように、ゲルギエフは本楽章の美しい旋律を心を込めて歌い抜いているが、陳腐なロマンティシズムに陥ることなく、格調の高さをいささかも失っていないのが素晴らしい。

終楽章は、逆に1分程度演奏時間が短くなっているが、それだけに畳み掛けていくような気迫や生命力がフィリップス盤以上に漲っており、終結部の壮絶な迫力は聴き手をノックアウトさせるだけの凄まじいものがある。

本演奏を聴くと、ゲルギエフのこの11年間の進境には著しいものがあると評価し得るところであり、今や名実ともに偉大な指揮者の仲間入りをしたと言っても過言ではあるまい。

いずれにしても、本演奏は、ゲルギエフの近年の好調ぶりを如実に示すとともに、今後のショスタコーヴィチの交響曲の再録音(例えば、第4番、第5番、第6番、第8番、第9番)に大いに期待を抱かせるだけの内容を有した素晴らしい名演と高く評価したい。

音質は、マルチチャンネル付きのSACD盤であり、かつてのフィリップス盤と全く遜色のない、臨場感溢れる極上の高音質録音となっていることについても評価しておきたい。

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2014年07月09日


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第7番「レニングラード」の凄演で知られるケーゲルのショスタコーヴィチを7曲収めたBOXセットで、ムラヴィンスキー以外の最重要解釈者、ケーゲルのショスタコーヴィチ完結編。

このセットは1958年から1986年までのライヴ録音をまとめたもので、第4番と第11番はモノラルであるが、他の5曲はステレオ録音で、特に1986年の第5番は良い状態となっている。

東独の指揮者だったケーゲルは、同盟国ソ連の作曲家ショスタコーヴィチの作品をよく演奏していた。

現代音楽を積極的に取り上げる合理主義、理知的な音楽作りを一面として、本来はロマンティックな嗜好が強い指揮者であり、思い入れの強かったマーラー、ショスタコーヴィチでは、憧憬を隠そうともしない蠱惑的な演奏を繰り広げることでも知られる。

演奏記録からもケーゲルのショスタコーヴィチへの偏愛は窺われるが、特に演奏年代に注目していただきたい。

第11番に至ってはラクリンによる世界初演、ムラヴィンスキーによるレニングラード初演から半年も経たぬ1958年の演奏である。

モノラルとはいえムラヴィンスキー盤を上回る良好な音質で、その切実な音楽表現はトーンクラスターに陥らぬ、ケーゲルの個人的思い入れすら感じられる、熱く魅力的な超名演だ。

第4番はコンドラシン初演の2年後の録音も存在するが、演奏内容はフィナーレに一工夫も二工夫もある1969年ライヴを採りたい。

元来ステレオ録音されたもののトラックダウンで(ステレオ録音は残念ながら廃棄された模様)、分離の良い素晴らしい録音である。

現代では、大規模大音量交響曲として、多くの指揮者が取り上げているが、この時代に2回もの演奏に固執したケーゲルの先見性には頭が下がる。

壮年期のケーゲルならではの異常なまでの切れ味が作品の持ち味と合致して痛烈な仕上がりになっている。

ベルリン芸術週間(もちろん東ドイツの)における高揚したエッジの効いた強烈な表現に、ケーゲル晩年の特徴である虚無的な雰囲気も感じさせる独特の音楽づくりが印象的な第5番は、東のベルリン芸術週間での演奏ということもあってか、終楽章のコーダになぜか鐘が加えられていることもポイントで、『ボリス・ゴドノフ』を彷彿とさせるその巨大な響きは実にユニーク。

この第5番を聴くだけでも購入の価値ありと言いたいところであるが、他の6曲も聴き応え充分な内容だ。

オペラティックな趣のある第6番、スタイリッシュでセンス抜群な第9番(第6番と第9番は作品のパロディ的性格をシニカルに表している)、ドイツ語版ゆえにクールな感触が際立ち、「大地の歌」を想起せずにはいられない第14番「死者の歌」、緊迫感みなぎる冷徹演奏が作品の真価をシリアスに示しザンデルリンクの独壇場を脅かす恐怖演奏の第15番と、どれも高水準な内容となっている。

西側では知られていないだけで、実は最重要ショスタコーヴィッチ解釈者であった、巨匠の遺産である。

隅々まで注ぎ込まれた英知があり、聴き込んだファンほど納得することは間違いなしと言える。

ケーゲルも草葉の陰でこのリリースをさぞかし喜んでいることであろう。

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2014年07月06日


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レナード・スラットキンは現在デトロイト交響楽団の音楽監督の地位にあり、2011年からはリヨン国立管弦楽団の音楽監督にも就任している。

スラットキンのキャリアの中で最も光り輝いていたのは1980年代にセントルイス交響楽団を率いていた時だろう。

メジャーレーベル(RCA)にどんどん録音し、日本にも同楽団と一緒にやってきたが、その後のクラシック音楽不況であまり名前を聞かなくなってしまっていた。

BBC交響楽団退任後、録音面では際立った活躍のないスラットキンであるが、セントルイス時代は、チャイコフスキーやラフマニノフなど、ロシア音楽を網羅的・積極的に演奏・録音して、高い評価を得ていた。

ショスタコーヴィチでは、第4番、第5番、第8番、第10番という大曲4曲をRCAに録音している。

オケはいずれもセントルイス交響楽団で、1986年から1989年にかけて毎年1曲ずつ録音されている。

この第8番は、CD初期に発売されて以来久々の復活となるもので、当時全米メジャー・ファイヴに匹敵する実力を備えていたセントルイス響の粘着力のある弦を土台にした、細部まで緻密に考え抜かれた解釈が見事。

現在では偽書とされているものの、少なくともヴォルコフの『ショスタコーヴィチの証言』が現れてから、多くの指揮者は以前のように、楽天的にこの曲を解釈できなくなったようだ。

極楽トンボな演奏をすると、「物知らず」「不勉強」のレッテルを貼られかねないからだ。

スラットキン指揮セントルイス響は、そうした『ショスタコーヴィチの証言』の線に沿った、最も現代的でグラスノスチ的な名演に数えられよう。

弦を中心としたオーソドックスな表現だが、全体に暴力的な要素は影を潜め、悲劇的な哀悼の念がしみとおるような演奏だ。

特に第2楽章のカリカチュアライズされた皮肉な諧謔精神や、第3楽章の鬱屈した怒りの爆発、さらに第4楽章のクールな抒情と哀しみの表情は、ショスタコーヴィチ自身のメッセージを聞く思いである。

併録のテミルカーノフの『祝典序曲』は、来日公演でもお馴染みの定番。

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時代を超えた先鋭的な響きが存分に表出された、スラットキン渾身の名演だ。

アメリカの名指揮者、レナード・スラットキンが手塩にかけて育て上げたセントルイス交響楽団はRCAに数多くの録音を残しており、それらの中でもロシア音楽との相性の良さは周知の通り。

スラットキンはセントルイス響時代に、ショスタコーヴィチの交響曲を4曲、RCAに録音している。

1986年に第5番、87年に第10番、88年に第8番、そして89年に第4番という順序で録音された。

1986年から1989年にかけてスラットキンが毎年1曲ずつ録音したショスタコーヴィチの交響曲4曲の中で、なぜか唯一国内でリリースされなかったのがこの第4番。

ショスタコーヴィチの交響曲の中で最大の編成で書かれ、マーラーなどの影響を強く受けた先鋭的な作風の故に、作曲から初演まで25年を要したこの大作を、スラットキンが渾身の力を込めて先鋭的な大作を、明晰な指揮で描出している。

スラットキンとセントルイス響のショスタコーヴィチ作品の解釈・演奏は、華麗というかきらびやかというか、オーケストラの高度な技術も相俟った流麗な響きは特色である。

作曲者の置かれた政治的・社会的状況を背景に捉えると「これはショスタコーヴィチではない」という向きもいるかもしれないが、この作品の複雑な内容を整理し、堅実な解釈を施した演奏は、オーケストレーションというものの魅力を余すことなく堪能させてくれる。

確かに演奏レベルはピカイチで、あまり深刻になりすぎず、洗練された演奏が繰り広げられている。

過去のレビューにも記したように、同曲には、ラトル、ゲルギエフ、チョン・ミュンフンの録音が3強と言えるが、当盤は、この難解な傑作の入門の役割を果たすディスクとして、高く評価しても良いのではないかと考える。

第1楽章のフーガ〜プレストの難所(見せ場)は特に見事で、この時代のセントルイス響の弦楽器パートのアンサンブルの優秀さを実感する。

デジタル録音の技術も練れてきた頃のレコーディングであり、録音の素晴らしさも、この作品のテクスチュアを捉えるのに大きく寄与している。

再販終了となる前に、早めに入手されることをお薦めしたい。

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2014年06月19日


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東独出身のザンデルリンクは、旧ソヴィエト連邦においてムラヴィンスキーにも師事し、ショスタコーヴィチと親交があったこともあって、ショスタコーヴィチの交響曲を得意としていた。

すべての交響曲を演奏・録音したわけではないが、第1番、第5番、第6番、第8番、第10番、第15番の6曲についてはスタジオ録音を行っており、いずれ劣らぬ名演に仕上がっている。

ショスタコーヴィチの交響曲は、最近では数多くの指揮者が演奏を行うようになってきているが、その本質を的確に描き出している演奏はあまりにも少ないと言えるのではないだろうか。

ショスタコーヴィチは、旧ソヴィエト連邦という、今で言えば北朝鮮のような独裁者が支配する政治体制の中で、絶えず死と隣り合わせの粛清の恐怖などにさらされながらしたたかに生き抜いてきたところだ。

かつて一世を風靡した「ショスタコーヴィチの証言」は現在では偽書とされているが、それでも、ショスタコーヴィチの交響曲(とりわけ第4番以降の交響曲)には、死への恐怖や独裁者への怒り、そして、粛清された者への鎮魂の気持ちが込められていると言っても過言ではあるまい。

したがって、ショスタコーヴィチと親交があるとともに、同時代を生き抜いてきたムラヴィンスキーの演奏が感動的な名演であるのは当然のことであり、かかる恐怖などと無縁に平和裏に生きてきた指揮者には、ショスタコーヴィチの交響曲の本質を的確に捉えて演奏することなど到底不可能とも言えるだろう。

かつてマーラー・ブームが訪れた際に、次はショスタコーヴィチの時代などと言われたところであるが、ショスタコーヴィチ・ブームなどは現在でもなお一向に訪れていない。

マーラーの交響曲は、それなりの統率力のある指揮者と、スコアを完璧に音化し得る優秀なオーケストラが揃っていれば、それだけでも十分に名演を成し遂げることが可能とも言えるが、ショスタコーヴィチの交響曲の場合は、それだけでは到底不十分であり、楽曲の本質への深い理解や内容への徹底した追求が必要不可欠である。

こうした点が、ショスタコーヴィチ・ブームが一向に訪れない要因と言えるのかもしれない。

それはさておき、本盤のザンデルリンクの演奏は素晴らしい。

さすがに、師匠であるムラヴィンスキーの演奏ほどの深みや凄みには達していないが、旧ソヴィエト連邦と同様の警察国家であった東独出身のザンデルリンクだけに、ショスタコーヴィチの交響曲の本質への深い理解については、人後に落ちないものがあった。

加えて、ドイツ人指揮者ならではの堅固な造型美や重厚な音色が演奏全体を支配しており、その意味では、ムラヴィンスキーによる名演の持つ峻厳さを若干緩和するとともに、ドイツ風の重厚さを付加させた演奏と言えるのかもしれない。

いずれにしても、本演奏は、ムラヴィンスキーなどのロシア系の指揮者以外の指揮者による演奏の中では、最右翼に掲げられる素晴らしい名演と高く評価したい。

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2014年06月15日


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ザンデルリンク盤は1977年のスタジオ録音で音質が良く、ムラヴィンスキーとともに持っていたい。

ドイツ風の重厚な名演だ。

ザンデルリンクは、旧東ドイツ出身の指揮者ではあるが、旧ソヴィエト連邦において、ムラヴィンスキーの下、レニングラード・フィルの客演指揮者をつとめていたこともあり、ショスタコーヴィチの演奏について、ムラヴィンスキーの薫陶を得ていたものと思われる。

もちろん、ムラヴィンスキーの演奏とはその性格を異にするが、それでも、その演奏に通低する精神性においては、共通するものがあるのではないかと考える。

ショスタコーヴィチは、現在の北朝鮮のような国において、粛清の恐怖に耐えながら、したたかに生き抜いてきた。

そうした死と隣り合わせの恐怖が、各交響曲の根底にあると考えられる。

だからこそ、ムラヴィンスキーの演奏には、単に、初演者であるからというのにとどまらない、強い説得力があるものと言える。

ザンデルリンクも、前述のように社会主義政権下にあった東独出身であり、こうした恐怖には強く共感するものがあったと考える。

本演奏には、前述のような、厳しい造型美を旨とするドイツ風の重厚な佇まいに加えて、ショスタコーヴィチの交響曲の本質を鷲掴みにした凄みのある深い共感に満ち溢れている。

第1楽章は遅いテンポで格調高く、じっくりと攻めており、スケールが大きい。

閃きや鋭さはムラヴィンスキーの方が上だが、クライマックスにおける音の洪水には体が流されそうだし、(12:01)からのスタッカート指定を強調し、弦のリズムでものをいう表現は、前者とはまったく違うスタイルで、音彩もすばらしい。

この直後に連続する内容いっぱいの音楽は、どれほどの最強音になっても美感を失わず、しかも味わいは濃厚、ここだけはムラヴィンスキーを大きく超えている。

第2楽章の強靭なリズムとアンサンブルも聴きものだが、強音部になるととかく金管の音色の単調さが目立つのはどういうわけだろうか。

第3楽章は表現を整理しすぎ、整然とした佇まいがマイナスに作用しているが、冒頭部は美しいし、コーダの感慨深さも特筆すべきだ。

終楽章も、単なる苦悩から歓喜へというようなお祭り騒ぎにはなっておらず、ムラヴィンスキーの演奏と同様に、テンポを落とした幾分控えめな終結が印象的である。

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2014年06月12日


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ザンデルリンクはムラヴィンスキーに師事するとともに、ショスタコーヴィチと親交があったこともあって、ショスタコーヴィチを得意としており、交響曲第15番については2度にわたってスタジオ録音している。

最初の録音が、本盤に収められたベルリン交響楽団との演奏(1978年)であり、2度目の録音が、クリーヴランド管弦楽団との演奏(1991年)である。

いずれ劣らぬ名演と言えるところであり、特に1991年の演奏については円熟の名演とも言えるが、筆者としては、より引き締まった演奏全体の造型美を味わうことが可能な本演奏の方をより上位に掲げたい。

ショスタコーヴィチの交響曲は、最近では数多くの指揮者が演奏を行うようになってきているが、その本質を的確に描き出している演奏はあまりにも少ないと言えるのではないだろうか。

ショスタコーヴィチは、旧ソヴィエト連邦という、今で言えば北朝鮮のような独裁者が支配する政治体制の中で、絶えず死と隣り合わせの粛清の恐怖などにさらされながらしたたかに生き抜いてきたところだ。

かつて一世を風靡した「ショスタコーヴィチの証言」は現在では偽書とされているが、それでも、ショスタコーヴィチの交響曲(とりわけ第4番以降の交響曲)には、死への恐怖や独裁者への怒り、そして、粛清された者への鎮魂の気持ちが込められていると言っても過言ではあるまい。

したがって、ショスタコーヴィチと親交があるとともに、同時代を生き抜いてきたムラヴィンスキーの演奏が感動的な名演であるのは当然のことであり、かかる恐怖などと無縁に平和裏に生きてきた指揮者には、ショスタコーヴィチの交響曲の本質を的確に捉えて演奏することなど到底不可能とも言えるだろう。

ザンデルリンクの場合は、東独という、旧ソヴィエト連邦と同様の警察国家の出身であること、そしてムラヴィンスキーに師事していたこともあって、ショスタコーヴィチの交響曲の本質への深い理解については、人後に落ちないものがあった。

本演奏も、さすがに、師匠であるムラヴィンスキーの演奏(1976年)ほどの深みや凄みには達していないが、それでもザンデルリンクによる彫りの深い表現が全体を支配するなど、外面だけを取り繕った薄味な演奏にはいささかも陥っていないと言えるところだ。

加えて、ドイツ人指揮者ならではの堅固な造型美や重厚な音色が演奏全体を支配しており、その意味では、ムラヴィンスキーによる名演の持つ峻厳さを若干緩和するとともに、ドイツ風の重厚さを付加させた演奏と言えるのかもしれない。

いずれにしても、本演奏は、ムラヴィンスキーなどのロシア系の指揮者以外の指揮者による演奏の中では、最右翼に掲げられる素晴らしい名演と高く評価したい。

音質は、ハイブリッドSACD盤とハイパーマスタリング盤がほぼ同格の音質であると言えるだろう。

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2014年06月01日


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マーラーから聴き始めたが、演奏はさすがに素晴らしいものだ。

バルビローリのようにロマンが沸々とたぎるようなものではないが、第1楽章からなかなか息の長いフレージングでぐいぐいと引っ張っていってくれる。

この指揮者の懐の深さは尋常ではない。

複雑に入り組んだポリフォニックなスコアをこうも見事に解きほぐされて、反応の良い素晴らしいアンサンブルによって供されると、もう筆者は深く心から満足し、マーラーの世界に浸っていられる。

ソロの部分、特にヴァイオリンのソロに今ひとつ美感を感じないのは惜しい。

木管はとても良いだけに、画竜点睛を欠くと言ったところか…、玉に瑕であって、価値をそれほど落とすものではないが。

クルト・ザンデルリンクのマーラーはこの演奏の十年ほど前にBBCフィルハーモニーを振ったものを持っている。

こちらの方が更に熱く、情熱的に感じられるし、完成度も高いが、フィルハーモニア盤も完成度という点では負けていない。

BBC盤の手に入る可能性が少なくなっている現在、フィルハーモニア管を振ったこの録音は貴重だ。

次いで、ショスタコーヴィチの第15番である。

これも1978年にベルリン交響楽団とドイツ・シャルプラッテンに録音していて、何度もCDで発売されているので、お持ちの方も結構いるだろう。

解釈がそれほど変わっているわけではないので、別によほどのことがない限り、両方持っていなければならないというほどのものでないが、第2楽章がより深刻さと幻想味を増しているように思われる。

オケもクリーヴランド管弦楽団になっていて、さすがに上手い。

しかし、旧東ドイツの威信をかけて録音した旧盤のベルリン交響楽団の上手さも尋常でない。

この2つの演奏も甲乙つけがたい出来映えだが、筆者は旧盤の方に少し愛着がある。

このレビューを書くために2つの大作を連続して聴くのはなかなか骨が折れる作業であった。

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2014年05月15日


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ショスタコーヴィチの15曲ある交響曲のうち、どの曲を最高傑作とするかについては、様々な意見があることと思うが、第8番を中期を代表する傑作と評することについては異論はないものと考える。

第8番は、ショスタコーヴィチの盟友であるムラヴィンスキーに献呈され、なおかつ初演を行った楽曲でもあり、ムラヴィンスキーの遺した演奏(特に、1982年盤(フィリップス))こそがダントツの名演である。

その他にも、ゲルギエフやショルティなどの名演もあるが、筆者としては、ムラヴィンスキーの別格の演奏には、とても太刀打ちできないのではないかと考えている。

本盤のザンデルリンクの演奏も、師匠ムラヴィンスキーの名演と比較すると、随分と焦点の甘い箇所が散見されるが、それでも、十分に名演の名に値すると考える。

テンポは、ムラヴィンスキーの演奏と比較するとかなりゆったりとしたもので、その緩急のつけ方、弦の表情にも説得力がある。

あたかも、楽想をいとおしむかのようなアプローチであるが、それでも、柔和な印象をいささかも与えることはなく、全体として、厳しい造型を損なっていないのは、いかにも、東独出身の指揮者ならではの真骨頂と言えるだろう。

実に骨太でありながらも武骨ではなく、シャープな切れ味も持ち合わせている。

ロシア的な暗鬱さではなく、現代的に研ぎ澄まされた重圧感が、ショスタコーヴィチの精神の強靭さを見事に表現している。

第4楽章はこの盤の白眉で、底なしの暗さが良く、第5楽章も丁寧に描ききっており、手抜きがない。

力強い優秀な録音も手伝って、この曲の魅力に充分に浸ることができる演奏である。

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ザンデルリンクは、ショスタコーヴィチのすべての交響曲を録音したわけではないが、録音した交響曲はいずれも素晴らしい名演だ。

本盤の2曲も、ザンデルリンクならではの名演と高く評価したい。

ザンデルリンクは東独出身の指揮者であり、特に独墺系のブラームスなどに数々の名演を遺したが、ムラヴィンスキーの指導の下、レニングラード・フィルにおいて、相当数の演奏を行ったことを忘れてはなるまい。

したがって、ムラヴィンスキーが得意としたショスタコーヴィチやチャイコフスキーにおいても、名演の数々を遺したのは必然の結果と言えるだろう。

前述のように、本盤に収められた第1番、第6番ともに名演であるが、特に、筆者は第6番に感銘を受けた。

同曲の初演者であるムラヴィンスキーの演奏もいくつか遺されており、いずれも名演ではあるが、特に、第1楽章において、スコアリーディングは完璧ではあるものの、いささか物足りない感があるのは否めないところ。

ザンデルリンクは、この第1楽章が感動的だ。

ロシア的な美しい抒情が満載の楽章であり、ザンデルリンクはゆったりとしたテンポで進行させていくが、例えばバーンスタインのように演出過多な大仰さもなく、高踏的な美しさを保っているのが見事だ。

第2楽章や第3楽章になると、師匠ムラヴィンスキーにはさすがにかなわないが、それを除けば、間違いなくトップクラスの演奏であることは否定できない。

東ドイツが気合いを入れて録音したショスタコーヴィチは、アナログ成熟期の優秀録音だ。

ザンデルリンクの広がりある深い演奏が重くずっしり響いてくる。

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2014年04月15日


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凄い演奏だ。

本年に発売された交響曲の新譜CDをすべて聴いているわけではないが、おそらくは随一の演奏と言えるのではないだろうか。

ショスタコーヴィチの交響曲第4番は、いわゆるプラウダ批判を受けて、長年に渡って自ら封印されたとの悲劇的な過去を有している。

第13番以降の3曲は別格として、第5番〜第12番の諸作は、人によっては作風が酷似しているとの評価もあるが、第4番については、当時の社会主義体制とは無関係に、才能の赴くままに作曲されたという特質がある。

それだけに、第4番をショスタコーヴィチの最高傑作と評する識者もいるほどであるが、少なくとも、偉大な傑作であると評価することについては異論はないのではないかと考えられるところだ。

とにかく、第4番は、ショスタコーヴィチの他の交響曲と比較しても、最も大胆極まりない書法で作曲されている。

冒頭の強烈な不協和音による主題の後は、多種多様な旋律が貨物列車のように連続して連なっており、終楽章の終結部において冒頭の主題が再現されるまでは殆ど脈略がないとさえ言えるほどの複雑怪奇な曲想である。

耳をつんざくような不協和音やブラスセクションの咆哮、霧のような弱音による旋律の繊細さなど、目まぐるしく曲想が変化する同曲にショスタコーヴィチが込めたメッセージを汲み取ることは困難ではあるが、スターリンによる大粛清が行われ、ショスタコーヴィチの知人にも処刑の魔の手が迫っていた中で作曲されたことに鑑みれば、死と隣り合わせの粛清への恐怖や粛清された者への鎮魂、そして独裁者スターリンへの怒りなどが盛り込まれていることは十分に想像できるところだ。

したがって、スコアに記された音符の表層だけをなぞっただけの演奏では、とても同曲の本質を描き出すことができないことは自明の理であると言えるだろう。

インバルは、1992年にもウィーン交響楽団とともに、交響曲全集の一環として同曲をスタジオ録音しているが、そもそも問題にならないと言える。

通常の意味では立派な演奏ではあるが、当時のインバルによる自己抑制的なアプローチが、同曲の本質を描き出すのにやや不十分になっているのとあわせて、必ずしも優秀とは言い難いウィーン交響楽団が、当該演奏をいささか迫力に欠けたものとしていると言えるからだ。

同曲のこれまでの名演としては、筆者としては、ラトル&バーミンガム市交響楽団による演奏(1994年)、チョン・ミュンフン&フィラデルフィア管弦楽団による演奏(1994年)、ゲルギエフ&マリインスキー(キーロフ)劇場管弦楽団による演奏(2001年)が3強を占める超名演と考えているが、これらの演奏に共通するのは、それぞれの指揮者が新進気鋭の指揮者として飛ぶ鳥落とす勢いにあったということである。

三者三様の演奏ではあるが、強靭な生命力や思い切った解釈を施しているという意味においては共通しており、そうした芸風こそが各演奏を超名演たらしめていると言ってもいいのではないか。

これに対して、本演奏のインバルは、今や現代を代表する大指揮者。

前述の3つの名演の指揮者とは比較にならないほどのキャリアと円熟した指揮芸術を有した存在である。

しかしながら、インバルは、前述の3つの名演に優るとも劣らない、いや、人によってはそれらを凌駕すると評価するかもしれない圧倒的な名演奏を成し遂げることに成功したと言えるだろう。

本演奏においては、かつてのインバルの特質でもあった自己抑制的なアプローチは殆ど聴くことはできない。

もちろん、演奏全体の造型に対する配慮、そして厳格なスコアリーディングに根差した緻密さは窺えるが、かつての欠点でもあったスケールの小ささなど微塵も感じることができない。

思い切った強弱の変化やテンポの振幅を駆使して、同曲に込められたショスタコーヴィチの心底を鋭く抉り出していく指揮芸術の凄味は圧巻の一言であり、演奏の彫りの深さ、内容の濃密さという意味においては、前述の3つの名演を頭一つ抜けた存在であると言っても過言ではあるまい。

いささか大仰な表現にはなるが、前述の3つの名演によって同曲の真の魅力が明らかにされていたところ、インバルによる本演奏によって、同曲の真の魅力がさらにグレードアップされたと言ってもいいのではないだろうか。

インバルの壮絶な指揮に、しっかりとついていき、アンサンブルが殆ど乱れることがないなど、持ち得る実力を最大限に発揮した東京都交響楽団の好パフォーマンスにも大きな拍手を送りたい。

いずれにしても、本演奏は、諸説はあると思うが、筆者としては、前述の3つの名演を大きく凌駕し、同曲の多種多彩な名演の中でも最高峰に君臨する至高の超名演と高く評価したい。

音質も素晴らしく、同曲の複雑きわまりないオーケストレーションが鮮明に再現されるのはSACDならではのものであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

このような至高の超名演をSACDによる超高音質で堪能できることを大いに歓迎したい。

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2014年03月29日


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ムラヴィンスキーが1973年の初来日公演でショスタコーヴィチ「第5」を異常とも言える緊迫感で演奏したときの貴重な記録で、彼の芸術を知る上で欠く事のできない至高の名盤と言えるだろう。

ショスタコーヴィチの交響曲は、ある批評家が言っていたと記憶するが、とんでもないことを信じていたとんでもない時代の交響曲なのである。

したがって、楽曲の表層だけを取り繕った演奏では、交響曲の本質に迫ることは到底不可能ということだ。

世評ではハイティンクやバーンスタインの演奏の評価が高いように思うが、筆者としては、ハイティンクのようにオーケストラを無理なく朗々とならすだけの浅薄な演奏や、バーンスタインのように外面的な効果を狙った底の浅い演奏では、とても我々聴き手の心を揺さぶることは出来ないのではないかと考えている。

ムラヴィンスキーの演奏は、ハイティンクやバーンスタインの演奏とは対極にある内容重視のものだ。

ショスタコーヴィチと親交があったことや、同じ恐怖の時代を生きたということもあるのかもしれない。

しかしながら、それだけではないと思われる。

本盤の「第5」など、ムラヴィンスキーにとっては何度も繰り返し演奏した十八番と言える交響曲ではあるが、にもかかわらず、ショスタコーヴィチに何度も確認を求めるなど、終生スコアと格闘したという。

その厳格とも言えるスコアリーディングに徹した真摯な姿勢こそが、これだけの感動的な名演を生み出したのだと考える。

社会主義体制下で「抑圧の克服から勝利へ」というこの曲のテーマをショスタコーヴィチと共に地で生き抜いたムラヴィンスキーの壮絶なる想いが、レニングラード・フィルの鉄の規律から放たれる鋭利なハーモニーと一見クールな演奏の深淵から炎の如き熱情の煌めきとなって溢れ出てくる。

芝居っ気の全くない辛口の演奏であり、「第5」に華々しい演奏効果を求める者からは物足りなく感じるかもしれないが、その演奏の内容の深さは、ほとんど神々しいばかりの崇高な領域に達している。

レニングラード・フィルの鉄壁のアンサンブルも驚異的であり、特に、妻でもあるアレクサンドラのフルートやブヤノフスキーのホルンソロ(特に第4楽章中間部)は、筆舌には尽くしがたい素晴らしさだ。

ムラヴィンスキーは数々の「第5」の録音を遺しており、いずれも名演の名に値するが、録音も含めると、本盤を最上位の超名演と高く評価したい。

音質は従来CD盤でも十分に満足できる出来映えであったが、HQCD化により更に鮮明になり、力強さが増したように感じられる。

SACD互換機をお持ちでないリスナーには本HQCD盤をお薦めしたい。

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かつてPHILIPSからもリリースされていたムラヴィンスキー晩年の有名なライヴ音源。

他のレーベルからもリリースされていたが、いずれも入手が難しいものばかりだったため、この廉価盤のALTO(旧REGIS)の復刻盤は貴重なもので、何よりも音質が安定している。

というのも、かつてPHILIPSからリリースされていたアルバムはやや高めのピッチで収録されていたため、全体に甲高い音に感じられるという弱点があったが、こちらはピッチが正常なものに修正されているのが有難い。

演奏はショスタコーヴィチの交響曲第8番の決定盤と長らく言われ続けているだけあって、これ以上は考えられないほど凄絶なものだ。

「第8」は、作曲者生前の公式発表によれば、ナチス侵攻による苦難とそれに打ち克つソヴィエト連邦を描いた作品ということになるが、それはショスタコーヴィチによる巧みなカモフラージュであり、スターリンの独裁による圧政が重ね合わされていたのだ、という説もある。

後者については、ソ連崩壊後だから言えることで、当時、そんな思い切ったことができただろうか、という疑問も残るが、少なくとも、ムラヴィンスキーの演奏を聴く限り、後者に説得力があるように思う。

圧政に苦しむ者、虐げられた者を鞭打つような、情け容赦のなさ、一片の慈悲のなさが、ムラヴィンスキーの強い意志とレニングラード・フィルの鋼鉄のアンサンブルによって再現されているが、その重く、暗い生活を、旧ソ連市民へ向け、世界へ向け、告発しているかのようではないか。

ライヴでありながら、一点の隙も見せない凄みが作風とマッチして、聴く者の背筋をも凍らせるのである。

激しさだけではなく、落ち着いた静けさの中にも常に緊張感が漂い、どのフレーズにも熾烈で痛切な思いが込められている。

レニングラード・フィルのアンサンブルやソロの巧さには本当に舌を巻くほどで、ムラヴィンスキーの他のライヴ録音と比較しても、完成度や録音状態はトップクラスであろう。

真摯に曲に立ち向かった極めて説得力の強い名演奏である。

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2014年03月28日


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ショスタコーヴィチの交響曲第5番も「森の歌」も初演者であるムラヴィンスキーによる歴史的名演として名高いもの。

ムラヴィンスキーにとってもシンボルとなっている「第5」は、何度も録音を繰り返し、いずれも素晴らしい演奏揃いであるが、この1954年のスタジオ録音をベストとする人が多い名演中の名演。

ムラヴィンスキーの重量感豊かな演奏法があますところなく示された素晴らしい表現だ。

少しもつくろわずに率直に処理しているが、そこには情緒もあれば民族性も描き出されている。

暗さと淋しさ、寒さを感じさせる音感、ロシアをそのままに響かせたこの演奏は誰にでもできるものではない。

一方、なかなか聴く機会がない「森の歌」は、1948年のジダーノフ批判により苦境に追い込まれたショスタコーヴィチが、当局の批判に応えて書いた大作である。

植林計画をテーマとしたもので、極めて民族色の濃い音楽となっている。

「森の歌」は、亡命することなく祖国でしたたかに生涯を全うしたショスタコーヴィチの苦しみを見るような苦い作品だが、ムラヴィンスキーの微塵の妥協もない演奏は、さながら鋼鉄の如しである。

ムラヴィンスキーの演奏は、もうこれ以上の演奏は考えられないほど壮絶で、ロシア音楽界の総力を結集したような力強い演奏である。

ムラヴィンスキーの棒は、この作品の持つ民族的エネルギーを情熱的、かつ率直に表現したもので、まさしく指揮芸術の頂点を極めた人の演奏だ。

それに応えて、バスのペトロフの野太い歌唱はいかにもロシアの大地を思わせ、泥臭い合唱も壮大な広がりをもった絶唱を聴かせてくれる。

「第5」は1954年の初期ステレオ録音、「森の歌」は1948年のモノラル録音なのでもともと音質は良好とは言えないが、とりわけ「森の歌」は空前絶後の超名演であり、両曲ともリマスタリングによりかつての国内盤よりも鮮明な音質になっているのが有難い。

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2014年03月12日


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フィラデルフィア管弦楽団を率いての、指揮者チョン・ミョンフンによるショスタコーヴィチ「第4」は、緩急のコントラストを大きくつけ、劇的な要素を巧みに抽出して、雄弁な音楽を創り出している名演。

この「第4」にはムラヴィンスキー盤がないだけに、チョン・ミュンフン盤の価値は高い。

ラトル、ゲルギエフの録音と共に、この交響曲の3強の一角を占める名盤と言えよう。

血のように赤い鮮烈な響きがショスタコーヴィチの絶望の叫びを伝え、第1楽章のクライマックスなど狂躁の極みとなるが、少しもうるさくなく、外面的にも陥らず、驚くべき雄弁な内容を湛えつつ、落ち着きさえ感じさせながら進む。

第2楽章の音彩の愉しさも最高だが、その中にいつも人間の孤独が流れているのだ。

そして、第3楽章に入ると、オーケストラは光彩陸離と鳴り切り、しかも厳粛な葬送行進曲の魂の訴えを失わず、ヴァイオリンの泣けるほどの美しさがそれに続く。

音楽は幻想的で透明な天才の筆致の中に消えてゆくが、チョン・ミュンフンの棒も絶妙である。

それに、この20世紀音楽がちょっとハイドンみたいに聴こえるという点が面白い。

これを聴いていると、ハイドンからショスタコーヴィチまでおよそ150年経っているにもかかわらず、人間の発想、特に笑いの構造は変わっていたいのだなぁと思わされる。

特に第1楽章は、なんだか諧謔のオンパレードのようで、普通のショスタコーヴィチ演奏とはまったく印象が異なる。

そのユニークさは高く評価したい。

フィナーレもうるさすぎない。

ショスタコーヴィチの音楽は暴力的に鳴りすぎて嫌だという人にはとても快いだろう。

なお音質については、1994年のスタジオ録音ということもあって、充分に満足できる音質と言える。

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2014年02月20日


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これは素晴らしい名演だ。

インバルは、我が国の手兵とも言える存在である東京都交響楽団とともに既にマーラーやブルックナーの交響曲の数々の名演を遺しているが、それらの名演にも増して優れたショスタコーヴィチの交響曲の圧倒的な名演の登場と言えるだろう。

インバルは、ショスタコーヴィチの交響曲第5番を、フランクフルト放送交響楽団(1988年)、ウィーン交響楽団(1990年)の2度にわたって録音しており、本盤の演奏は3度目となる同曲の録音ということになるが、過去の2つの名演を大きく凌駕する圧倒的な超名演だ。

ウィーン交響楽団との演奏は、解釈としては申し分のないもののオーケストラの力量に若干の問題があり、インバルによる同曲のこれまでの代表的な演奏ということになれば、フランクフルト放送交響楽団との演奏というのが通説である。

しかしながら、フランクフルト放送交響楽団との演奏から本演奏に至るまでの23年の歳月は、インバルという指揮者の芸風に多大なる深化をもたらしたと言っても過言ではあるまい。

何よりも、楽曲に対する追求度が徹底しており、そもそも演奏のものが違うという印象だ。

一聴すると何でもないようなフレーズでも、よく聴くと絶妙なニュアンスに満ち溢れており、演奏の濃密さには出色のものがあるとさえ言える。

フランクフルト放送交響楽団との演奏では、その当時のインバルの芸風の特色でもあるが、テンポの変化なども最小限に抑えられるなどやや抑制的な解釈であったが、本演奏においては、随所に効果的なテンポの変化を施すなど、インバルの個性が余す所なく発揮されている。

それでいて、いささかもあざとさを感じさせることはなく、加えて演奏全体の造型が弛緩することなど薬にしたくもない。

まさに、楽曲の心眼への徹底した追求と効果的なテンポの変化を駆使した個性的な解釈、加えて演奏全体としての造型美など、同曲の演奏に求め得るすべての要素が備わったまさに稀有の名演に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

これほどの高水準の演奏を成し遂げるに至ったインバルという指揮者の偉大さを大いに感じるとともに、今後のインバル&東京都交響楽団という稀代の名コンビによるショスタコーヴィチの交響曲演奏の続編を大いに期待したい。

音質も素晴らしい。

すべての楽器の演奏が明瞭に分離して聴こえるのは、SACDによる高音質録音による最大の成果とも言えるところであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、インバル&東京都交響楽団による圧倒的な名演をSACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2014年02月07日


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インバルは、現代最高のマーラー指揮者としての称号をほしいままにしているが、マーラーに私淑していたとされるショスタコーヴィチについても、ウィーン交響楽団とともにスタジオ録音による交響曲全集を完成させるなど、自らのレパートリーの軸としているとも言える。

とりわけ、ショスタコーヴィチの交響曲の中でも最もポピュラリティを獲得しているとされる第5番については、3度にわたって録音を行っている。

最初の録音は本盤に収められたフランクフルト放送交響楽団とのスタジオ録音(1988年)、次いで、前述の全集の一環としてスタジオ録音されたウィーン交響楽団との演奏(1990年)、そして、先般発売されて大きな話題となった東京都交響楽団とのライヴ録音(2011年)が存在している。

このうち、直近の2011年のライヴ録音については、近年のインバルの円熟ぶりが窺える圧倒的な名演であり、3種ある同曲の録音の中でも頭一つ抜けた存在であると言えるところだ。

したがって、2011年のライヴ録音を比較の対象とすると、他の演奏が不利になるのは否めない事実であるが、当該ライヴ録音を度外視すれば、本盤に収められた演奏は、十分に名演の名に値するのではないかと考えている。

少なくとも、オーケストラの優秀さなどを総合的に勘案すれば、2年後のウィーン交響楽団との演奏を遥かに凌駕していると言えるところであり、当時のインバルの演奏の特色を窺い知ることが可能な名演と評価してもいいのではないかと考えるところだ。

当時、同時並行的にスタジオ録音を行っていたマーラーの交響曲全集にも共通するが、当時のインバルの楽曲の演奏に際してのアプローチは、一聴すると冷静で自己抑制的なアプローチであるとも言える。

しかしながら、インバルは、とりわけ近年の実演、例えば、前述の2011年のライヴ録音においても聴くことが可能であるが、元来は灼熱のように燃え上がるような情熱を抱いた熱い演奏を繰り広げる指揮者なのである。

ただ、本演奏のようなスタジオ録音を行うに際しては、極力自我を抑制し、可能な限り整然とした完全無欠の演奏を成し遂げるべく全力を傾注している。

ショスタコーヴィチがスコアに記した様々な指示を可能な限り音化し、作品本来の複雑な情感や構造を明瞭に、そして整然と表現した完全無欠の演奏、これが本演奏におけるインバルの基本的なアプローチと言えるであろう。

しかしながら、かかる完全無欠な演奏を目指す過程において、どうしても抑制し切れない自我や熱き情熱の迸りが随所から滲み出している。

それが本演奏が四角四面に陥ったり、血も涙もない演奏に陥ったりすることを回避し、完全無欠な演奏でありつつも、豊かな情感や味わい深さをいささかも失うことなく、これを持って本盤におけるインバルによる演奏を感動的なものにしているのである。

もう少し踏み外しがあってもいいような気もしないではないが、それは2011年のライヴ録音の方に委ねればいいのであり、演奏の安定性、普遍性という意味においては、実に優れた名演と高く評価したい。

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2013年11月09日


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これは素晴らしい超名演だ。

ショスタコーヴィチの交響曲第4番には、ラトル&バーミンガム市交響楽団による名演(1994年)、チョン・ミュンフン&フィラデルフィア管弦楽団による名演(1994年)があるが、本演奏もそれらとともに3強の一角を占める至高の超名演と高く評価したい。

同曲は、ショスタコーヴィチの交響曲の中でも最も大胆極まりない書法で作曲されている。

冒頭の強烈な不協和音による主題の後は、多種多様な旋律が貨物列車のように連続して連なっており、終楽章の終結部において冒頭の主題が再現されるまでは殆ど脈略がないとさえ言えるほどの複雑怪奇な曲想である。

ショスタコーヴィチは、第5番以降の交響曲においては、表向きは旧ソヴィエト連邦政府当局の意向に従って、できるだけ分かり易い作風にするように努めたことから、ある意味では第4番こそは、ショスタコーヴィチが自らの才能の赴くままに自由に作曲することができた交響曲と言えるのかもしれない。

耳をつんざくような不協和音やブラスセクションの咆哮、霧のような弱音による旋律の繊細さなど、目まぐるしく曲想が変化する同曲にショスタコーヴィチが込めたメッセージを汲み取ることは困難ではあるが、スターリンによる大粛清が行われ、ショスタコーヴィチの知人にも処刑の魔の手が迫っていた中で作曲されたことに鑑みれば、死と隣り合わせの粛清への恐怖や粛清された者への鎮魂、そして独裁者スターリンへの怒りなどが盛り込まれていることは十分に想像できるところだ。

したがって、スコアに記された音符の表層だけをなぞっただけの演奏では、とても同曲の本質を描き出すことができないことは自明の理であると言えるだろう。

本演奏も含めた前述の3強を占める演奏は、いずれも同曲の心眼に鋭く切り込んでいくような凄みがあると言えるところだ。

筆者なりに、この3つの名演の性格の違いを述べるとすれば、畳み掛けていくような気迫や切れば血が噴き出てくるような圧倒的な生命力を有しているのはラトル盤、ラトルの表現をわずかではあるが抑制的にするとともに、演奏全体の造型をより堅固に構築したのがミュンフン盤、そして、本盤のゲルギエフによる演奏は、ミュンフン盤と同様にラトルの表現を若干抑制的にしつつ、楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした精緻な表現が施された演奏と言えるのではないだろうか。

あたかも、ゲルギエフが指揮する際のこまやかな指の動きを彷彿とさせるかのように、楽曲の細部に至るまで入念かつ精緻に表現し尽くしているとも言えるところであり、他の演奏では聴くことが困難な音型をも聴くことが可能なのも本演奏の大きなアドバンテージと言えるであろう。

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