ショスタコーヴィチ

2014年05月15日


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ザンデルリンクは、ショスタコーヴィチのすべての交響曲を録音したわけではないが、録音した交響曲はいずれも素晴らしい名演だ。

本盤の2曲も、ザンデルリンクならではの名演と高く評価したい。

ザンデルリンクは東独出身の指揮者であり、特に独墺系のブラームスなどに数々の名演を遺したが、ムラヴィンスキーの指導の下、レニングラード・フィルにおいて、相当数の演奏を行ったことを忘れてはなるまい。

したがって、ムラヴィンスキーが得意としたショスタコーヴィチやチャイコフスキーにおいても、名演の数々を遺したのは必然の結果と言えるだろう。

前述のように、本盤に収められた第1番、第6番ともに名演であるが、特に、筆者は第6番に感銘を受けた。

同曲の初演者であるムラヴィンスキーの演奏もいくつか遺されており、いずれも名演ではあるが、特に、第1楽章において、スコアリーディングは完璧ではあるものの、いささか物足りない感があるのは否めないところ。

ザンデルリンクは、この第1楽章が感動的だ。

ロシア的な美しい抒情が満載の楽章であり、ザンデルリンクはゆったりとしたテンポで進行させていくが、例えばバーンスタインのように演出過多な大仰さもなく、高踏的な美しさを保っているのが見事だ。

第2楽章や第3楽章になると、師匠ムラヴィンスキーにはさすがにかなわないが、それを除けば、間違いなくトップクラスの演奏であることは否定できない。

東ドイツが気合いを入れて録音したショスタコーヴィチは、アナログ成熟期の優秀録音だ。

ザンデルリンクの広がりある深い演奏が重くずっしり響いてくる。

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2014年04月15日


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凄い演奏だ。

本年に発売された交響曲の新譜CDをすべて聴いているわけではないが、おそらくは随一の演奏と言えるのではないだろうか。

ショスタコーヴィチの交響曲第4番は、いわゆるプラウダ批判を受けて、長年に渡って自ら封印されたとの悲劇的な過去を有している。

第13番以降の3曲は別格として、第5番〜第12番の諸作は、人によっては作風が酷似しているとの評価もあるが、第4番については、当時の社会主義体制とは無関係に、才能の赴くままに作曲されたという特質がある。

それだけに、第4番をショスタコーヴィチの最高傑作と評する識者もいるほどであるが、少なくとも、偉大な傑作であると評価することについては異論はないのではないかと考えられるところだ。

とにかく、第4番は、ショスタコーヴィチの他の交響曲と比較しても、最も大胆極まりない書法で作曲されている。

冒頭の強烈な不協和音による主題の後は、多種多様な旋律が貨物列車のように連続して連なっており、終楽章の終結部において冒頭の主題が再現されるまでは殆ど脈略がないとさえ言えるほどの複雑怪奇な曲想である。

耳をつんざくような不協和音やブラスセクションの咆哮、霧のような弱音による旋律の繊細さなど、目まぐるしく曲想が変化する同曲にショスタコーヴィチが込めたメッセージを汲み取ることは困難ではあるが、スターリンによる大粛清が行われ、ショスタコーヴィチの知人にも処刑の魔の手が迫っていた中で作曲されたことに鑑みれば、死と隣り合わせの粛清への恐怖や粛清された者への鎮魂、そして独裁者スターリンへの怒りなどが盛り込まれていることは十分に想像できるところだ。

したがって、スコアに記された音符の表層だけをなぞっただけの演奏では、とても同曲の本質を描き出すことができないことは自明の理であると言えるだろう。

インバルは、1992年にもウィーン交響楽団とともに、交響曲全集の一環として同曲をスタジオ録音しているが、そもそも問題にならないと言える。

通常の意味では立派な演奏ではあるが、当時のインバルによる自己抑制的なアプローチが、同曲の本質を描き出すのにやや不十分になっているのとあわせて、必ずしも優秀とは言い難いウィーン交響楽団が、当該演奏をいささか迫力に欠けたものとしていると言えるからだ。

同曲のこれまでの名演としては、筆者としては、ラトル&バーミンガム市交響楽団による演奏(1994年)、チョン・ミュンフン&フィラデルフィア管弦楽団による演奏(1994年)、ゲルギエフ&マリインスキー(キーロフ)劇場管弦楽団による演奏(2001年)が3強を占める超名演と考えているが、これらの演奏に共通するのは、それぞれの指揮者が新進気鋭の指揮者として飛ぶ鳥落とす勢いにあったということである。

三者三様の演奏ではあるが、強靭な生命力や思い切った解釈を施しているという意味においては共通しており、そうした芸風こそが各演奏を超名演たらしめていると言ってもいいのではないか。

これに対して、本演奏のインバルは、今や現代を代表する大指揮者。

前述の3つの名演の指揮者とは比較にならないほどのキャリアと円熟した指揮芸術を有した存在である。

しかしながら、インバルは、前述の3つの名演に優るとも劣らない、いや、人によってはそれらを凌駕すると評価するかもしれない圧倒的な名演奏を成し遂げることに成功したと言えるだろう。

本演奏においては、かつてのインバルの特質でもあった自己抑制的なアプローチは殆ど聴くことはできない。

もちろん、演奏全体の造型に対する配慮、そして厳格なスコアリーディングに根差した緻密さは窺えるが、かつての欠点でもあったスケールの小ささなど微塵も感じることができない。

思い切った強弱の変化やテンポの振幅を駆使して、同曲に込められたショスタコーヴィチの心底を鋭く抉り出していく指揮芸術の凄味は圧巻の一言であり、演奏の彫りの深さ、内容の濃密さという意味においては、前述の3つの名演を頭一つ抜けた存在であると言っても過言ではあるまい。

いささか大仰な表現にはなるが、前述の3つの名演によって同曲の真の魅力が明らかにされていたところ、インバルによる本演奏によって、同曲の真の魅力がさらにグレードアップされたと言ってもいいのではないだろうか。

インバルの壮絶な指揮に、しっかりとついていき、アンサンブルが殆ど乱れることがないなど、持ち得る実力を最大限に発揮した東京都交響楽団の好パフォーマンスにも大きな拍手を送りたい。

いずれにしても、本演奏は、諸説はあると思うが、筆者としては、前述の3つの名演を大きく凌駕し、同曲の多種多彩な名演の中でも最高峰に君臨する至高の超名演と高く評価したい。

音質も素晴らしく、同曲の複雑きわまりないオーケストレーションが鮮明に再現されるのはSACDならではのものであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

このような至高の超名演をSACDによる超高音質で堪能できることを大いに歓迎したい。

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2014年03月29日


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ムラヴィンスキーが1973年の初来日公演でショスタコーヴィチ「第5」を異常とも言える緊迫感で演奏したときの貴重な記録で、彼の芸術を知る上で欠く事のできない至高の名盤と言えるだろう。

ショスタコーヴィチの交響曲は、ある批評家が言っていたと記憶するが、とんでもないことを信じていたとんでもない時代の交響曲なのである。

したがって、楽曲の表層だけを取り繕った演奏では、交響曲の本質に迫ることは到底不可能ということだ。

世評ではハイティンクやバーンスタインの演奏の評価が高いように思うが、筆者としては、ハイティンクのようにオーケストラを無理なく朗々とならすだけの浅薄な演奏や、バーンスタインのように外面的な効果を狙った底の浅い演奏では、とても我々聴き手の心を揺さぶることは出来ないのではないかと考えている。

ムラヴィンスキーの演奏は、ハイティンクやバーンスタインの演奏とは対極にある内容重視のものだ。

ショスタコーヴィチと親交があったことや、同じ恐怖の時代を生きたということもあるのかもしれない。

しかしながら、それだけではないと思われる。

本盤の「第5」など、ムラヴィンスキーにとっては何度も繰り返し演奏した十八番と言える交響曲ではあるが、にもかかわらず、ショスタコーヴィチに何度も確認を求めるなど、終生スコアと格闘したという。

その厳格とも言えるスコアリーディングに徹した真摯な姿勢こそが、これだけの感動的な名演を生み出したのだと考える。

社会主義体制下で「抑圧の克服から勝利へ」というこの曲のテーマをショスタコーヴィチと共に地で生き抜いたムラヴィンスキーの壮絶なる想いが、レニングラード・フィルの鉄の規律から放たれる鋭利なハーモニーと一見クールな演奏の深淵から炎の如き熱情の煌めきとなって溢れ出てくる。

芝居っ気の全くない辛口の演奏であり、「第5」に華々しい演奏効果を求める者からは物足りなく感じるかもしれないが、その演奏の内容の深さは、ほとんど神々しいばかりの崇高な領域に達している。

レニングラード・フィルの鉄壁のアンサンブルも驚異的であり、特に、妻でもあるアレクサンドラのフルートやブヤノフスキーのホルンソロ(特に第4楽章中間部)は、筆舌には尽くしがたい素晴らしさだ。

ムラヴィンスキーは数々の「第5」の録音を遺しており、いずれも名演の名に値するが、録音も含めると、本盤を最上位の超名演と高く評価したい。

音質は従来CD盤でも十分に満足できる出来映えであったが、HQCD化により更に鮮明になり、力強さが増したように感じられる。

SACD互換機をお持ちでないリスナーには本HQCD盤をお薦めしたい。

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かつてPHILIPSからもリリースされていたムラヴィンスキー晩年の有名なライヴ音源。

他のレーベルからもリリースされていたが、いずれも入手が難しいものばかりだったため、この廉価盤のALTO(旧REGIS)の復刻盤は貴重なもので、何よりも音質が安定している。

というのも、かつてPHILIPSからリリースされていたアルバムはやや高めのピッチで収録されていたため、全体に甲高い音に感じられるという弱点があったが、こちらはピッチが正常なものに修正されているのが有難い。

演奏はショスタコーヴィチの交響曲第8番の決定盤と長らく言われ続けているだけあって、これ以上は考えられないほど凄絶なものだ。

「第8」は、作曲者生前の公式発表によれば、ナチス侵攻による苦難とそれに打ち克つソヴィエト連邦を描いた作品ということになるが、それはショスタコーヴィチによる巧みなカモフラージュであり、スターリンの独裁による圧政が重ね合わされていたのだ、という説もある。

後者については、ソ連崩壊後だから言えることで、当時、そんな思い切ったことができただろうか、という疑問も残るが、少なくとも、ムラヴィンスキーの演奏を聴く限り、後者に説得力があるように思う。

圧政に苦しむ者、虐げられた者を鞭打つような、情け容赦のなさ、一片の慈悲のなさが、ムラヴィンスキーの強い意志とレニングラード・フィルの鋼鉄のアンサンブルによって再現されているが、その重く、暗い生活を、旧ソ連市民へ向け、世界へ向け、告発しているかのようではないか。

ライヴでありながら、一点の隙も見せない凄みが作風とマッチして、聴く者の背筋をも凍らせるのである。

激しさだけではなく、落ち着いた静けさの中にも常に緊張感が漂い、どのフレーズにも熾烈で痛切な思いが込められている。

レニングラード・フィルのアンサンブルやソロの巧さには本当に舌を巻くほどで、ムラヴィンスキーの他のライヴ録音と比較しても、完成度や録音状態はトップクラスであろう。

真摯に曲に立ち向かった極めて説得力の強い名演奏である。

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2014年03月28日


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ショスタコーヴィチの交響曲第5番も「森の歌」も初演者であるムラヴィンスキーによる歴史的名演として名高いもの。

ムラヴィンスキーにとってもシンボルとなっている「第5」は、何度も録音を繰り返し、いずれも素晴らしい演奏揃いであるが、この1954年のスタジオ録音をベストとする人が多い名演中の名演。

ムラヴィンスキーの重量感豊かな演奏法があますところなく示された素晴らしい表現だ。

少しもつくろわずに率直に処理しているが、そこには情緒もあれば民族性も描き出されている。

暗さと淋しさ、寒さを感じさせる音感、ロシアをそのままに響かせたこの演奏は誰にでもできるものではない。

一方、なかなか聴く機会がない「森の歌」は、1948年のジダーノフ批判により苦境に追い込まれたショスタコーヴィチが、当局の批判に応えて書いた大作である。

植林計画をテーマとしたもので、極めて民族色の濃い音楽となっている。

「森の歌」は、亡命することなく祖国でしたたかに生涯を全うしたショスタコーヴィチの苦しみを見るような苦い作品だが、ムラヴィンスキーの微塵の妥協もない演奏は、さながら鋼鉄の如しである。

ムラヴィンスキーの演奏は、もうこれ以上の演奏は考えられないほど壮絶で、ロシア音楽界の総力を結集したような力強い演奏である。

ムラヴィンスキーの棒は、この作品の持つ民族的エネルギーを情熱的、かつ率直に表現したもので、まさしく指揮芸術の頂点を極めた人の演奏だ。

それに応えて、バスのペトロフの野太い歌唱はいかにもロシアの大地を思わせ、泥臭い合唱も壮大な広がりをもった絶唱を聴かせてくれる。

「第5」は1954年の初期ステレオ録音、「森の歌」は1948年のモノラル録音なのでもともと音質は良好とは言えないが、とりわけ「森の歌」は空前絶後の超名演であり、両曲ともリマスタリングによりかつての国内盤よりも鮮明な音質になっているのが有難い。

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2014年03月12日


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フィラデルフィア管弦楽団を率いての、指揮者チョン・ミョンフンによるショスタコーヴィチ「第4」は、緩急のコントラストを大きくつけ、劇的な要素を巧みに抽出して、雄弁な音楽を創り出している名演。

この「第4」にはムラヴィンスキー盤がないだけに、チョン・ミュンフン盤の価値は高い。

ラトル、ゲルギエフの録音と共に、この交響曲の3強の一角を占める名盤と言えよう。

血のように赤い鮮烈な響きがショスタコーヴィチの絶望の叫びを伝え、第1楽章のクライマックスなど狂躁の極みとなるが、少しもうるさくなく、外面的にも陥らず、驚くべき雄弁な内容を湛えつつ、落ち着きさえ感じさせながら進む。

第2楽章の音彩の愉しさも最高だが、その中にいつも人間の孤独が流れているのだ。

そして、第3楽章に入ると、オーケストラは光彩陸離と鳴り切り、しかも厳粛な葬送行進曲の魂の訴えを失わず、ヴァイオリンの泣けるほどの美しさがそれに続く。

音楽は幻想的で透明な天才の筆致の中に消えてゆくが、チョン・ミュンフンの棒も絶妙である。

それに、この20世紀音楽がちょっとハイドンみたいに聴こえるという点が面白い。

これを聴いていると、ハイドンからショスタコーヴィチまでおよそ150年経っているにもかかわらず、人間の発想、特に笑いの構造は変わっていたいのだなぁと思わされる。

特に第1楽章は、なんだか諧謔のオンパレードのようで、普通のショスタコーヴィチ演奏とはまったく印象が異なる。

そのユニークさは高く評価したい。

フィナーレもうるさすぎない。

ショスタコーヴィチの音楽は暴力的に鳴りすぎて嫌だという人にはとても快いだろう。

なお音質については、1994年のスタジオ録音ということもあって、充分に満足できる音質と言える。

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2014年02月20日


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これは素晴らしい名演だ。

インバルは、我が国の手兵とも言える存在である東京都交響楽団とともに既にマーラーやブルックナーの交響曲の数々の名演を遺しているが、それらの名演にも増して優れたショスタコーヴィチの交響曲の圧倒的な名演の登場と言えるだろう。

インバルは、ショスタコーヴィチの交響曲第5番を、フランクフルト放送交響楽団(1988年)、ウィーン交響楽団(1990年)の2度にわたって録音しており、本盤の演奏は3度目となる同曲の録音ということになるが、過去の2つの名演を大きく凌駕する圧倒的な超名演だ。

ウィーン交響楽団との演奏は、解釈としては申し分のないもののオーケストラの力量に若干の問題があり、インバルによる同曲のこれまでの代表的な演奏ということになれば、フランクフルト放送交響楽団との演奏というのが通説である。

しかしながら、フランクフルト放送交響楽団との演奏から本演奏に至るまでの23年の歳月は、インバルという指揮者の芸風に多大なる深化をもたらしたと言っても過言ではあるまい。

何よりも、楽曲に対する追求度が徹底しており、そもそも演奏のものが違うという印象だ。

一聴すると何でもないようなフレーズでも、よく聴くと絶妙なニュアンスに満ち溢れており、演奏の濃密さには出色のものがあるとさえ言える。

フランクフルト放送交響楽団との演奏では、その当時のインバルの芸風の特色でもあるが、テンポの変化なども最小限に抑えられるなどやや抑制的な解釈であったが、本演奏においては、随所に効果的なテンポの変化を施すなど、インバルの個性が余す所なく発揮されている。

それでいて、いささかもあざとさを感じさせることはなく、加えて演奏全体の造型が弛緩することなど薬にしたくもない。

まさに、楽曲の心眼への徹底した追求と効果的なテンポの変化を駆使した個性的な解釈、加えて演奏全体としての造型美など、同曲の演奏に求め得るすべての要素が備わったまさに稀有の名演に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

これほどの高水準の演奏を成し遂げるに至ったインバルという指揮者の偉大さを大いに感じるとともに、今後のインバル&東京都交響楽団という稀代の名コンビによるショスタコーヴィチの交響曲演奏の続編を大いに期待したい。

音質も素晴らしい。

すべての楽器の演奏が明瞭に分離して聴こえるのは、SACDによる高音質録音による最大の成果とも言えるところであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、インバル&東京都交響楽団による圧倒的な名演をSACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2014年02月07日


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インバルは、現代最高のマーラー指揮者としての称号をほしいままにしているが、マーラーに私淑していたとされるショスタコーヴィチについても、ウィーン交響楽団とともにスタジオ録音による交響曲全集を完成させるなど、自らのレパートリーの軸としているとも言える。

とりわけ、ショスタコーヴィチの交響曲の中でも最もポピュラリティを獲得しているとされる第5番については、3度にわたって録音を行っている。

最初の録音は本盤に収められたフランクフルト放送交響楽団とのスタジオ録音(1988年)、次いで、前述の全集の一環としてスタジオ録音されたウィーン交響楽団との演奏(1990年)、そして、先般発売されて大きな話題となった東京都交響楽団とのライヴ録音(2011年)が存在している。

このうち、直近の2011年のライヴ録音については、近年のインバルの円熟ぶりが窺える圧倒的な名演であり、3種ある同曲の録音の中でも頭一つ抜けた存在であると言えるところだ。

したがって、2011年のライヴ録音を比較の対象とすると、他の演奏が不利になるのは否めない事実であるが、当該ライヴ録音を度外視すれば、本盤に収められた演奏は、十分に名演の名に値するのではないかと考えている。

少なくとも、オーケストラの優秀さなどを総合的に勘案すれば、2年後のウィーン交響楽団との演奏を遥かに凌駕していると言えるところであり、当時のインバルの演奏の特色を窺い知ることが可能な名演と評価してもいいのではないかと考えるところだ。

当時、同時並行的にスタジオ録音を行っていたマーラーの交響曲全集にも共通するが、当時のインバルの楽曲の演奏に際してのアプローチは、一聴すると冷静で自己抑制的なアプローチであるとも言える。

しかしながら、インバルは、とりわけ近年の実演、例えば、前述の2011年のライヴ録音においても聴くことが可能であるが、元来は灼熱のように燃え上がるような情熱を抱いた熱い演奏を繰り広げる指揮者なのである。

ただ、本演奏のようなスタジオ録音を行うに際しては、極力自我を抑制し、可能な限り整然とした完全無欠の演奏を成し遂げるべく全力を傾注している。

ショスタコーヴィチがスコアに記した様々な指示を可能な限り音化し、作品本来の複雑な情感や構造を明瞭に、そして整然と表現した完全無欠の演奏、これが本演奏におけるインバルの基本的なアプローチと言えるであろう。

しかしながら、かかる完全無欠な演奏を目指す過程において、どうしても抑制し切れない自我や熱き情熱の迸りが随所から滲み出している。

それが本演奏が四角四面に陥ったり、血も涙もない演奏に陥ったりすることを回避し、完全無欠な演奏でありつつも、豊かな情感や味わい深さをいささかも失うことなく、これを持って本盤におけるインバルによる演奏を感動的なものにしているのである。

もう少し踏み外しがあってもいいような気もしないではないが、それは2011年のライヴ録音の方に委ねればいいのであり、演奏の安定性、普遍性という意味においては、実に優れた名演と高く評価したい。

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2013年11月09日


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これは素晴らしい超名演だ。

ショスタコーヴィチの交響曲第4番には、ラトル&バーミンガム市交響楽団による名演(1994年)、チョン・ミュンフン&フィラデルフィア管弦楽団による名演(1994年)があるが、本演奏もそれらとともに3強の一角を占める至高の超名演と高く評価したい。

同曲は、ショスタコーヴィチの交響曲の中でも最も大胆極まりない書法で作曲されている。

冒頭の強烈な不協和音による主題の後は、多種多様な旋律が貨物列車のように連続して連なっており、終楽章の終結部において冒頭の主題が再現されるまでは殆ど脈略がないとさえ言えるほどの複雑怪奇な曲想である。

ショスタコーヴィチは、第5番以降の交響曲においては、表向きは旧ソヴィエト連邦政府当局の意向に従って、できるだけ分かり易い作風にするように努めたことから、ある意味では第4番こそは、ショスタコーヴィチが自らの才能の赴くままに自由に作曲することができた交響曲と言えるのかもしれない。

耳をつんざくような不協和音やブラスセクションの咆哮、霧のような弱音による旋律の繊細さなど、目まぐるしく曲想が変化する同曲にショスタコーヴィチが込めたメッセージを汲み取ることは困難ではあるが、スターリンによる大粛清が行われ、ショスタコーヴィチの知人にも処刑の魔の手が迫っていた中で作曲されたことに鑑みれば、死と隣り合わせの粛清への恐怖や粛清された者への鎮魂、そして独裁者スターリンへの怒りなどが盛り込まれていることは十分に想像できるところだ。

したがって、スコアに記された音符の表層だけをなぞっただけの演奏では、とても同曲の本質を描き出すことができないことは自明の理であると言えるだろう。

本演奏も含めた前述の3強を占める演奏は、いずれも同曲の心眼に鋭く切り込んでいくような凄みがあると言えるところだ。

筆者なりに、この3つの名演の性格の違いを述べるとすれば、畳み掛けていくような気迫や切れば血が噴き出てくるような圧倒的な生命力を有しているのはラトル盤、ラトルの表現をわずかではあるが抑制的にするとともに、演奏全体の造型をより堅固に構築したのがミュンフン盤、そして、本盤のゲルギエフによる演奏は、ミュンフン盤と同様にラトルの表現を若干抑制的にしつつ、楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした精緻な表現が施された演奏と言えるのではないだろうか。

あたかも、ゲルギエフが指揮する際のこまやかな指の動きを彷彿とさせるかのように、楽曲の細部に至るまで入念かつ精緻に表現し尽くしているとも言えるところであり、他の演奏では聴くことが困難な音型をも聴くことが可能なのも本演奏の大きなアドバンテージと言えるであろう。

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2013年11月02日


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本盤に収められたロストロポーヴィチによるショスタコーヴィチの交響曲第5番については、かつてLPで聴いた時のことを鮮明に記憶している。

本演奏の録音は1982年であるが、この当時は、現在では偽書とされている「ショスタコーヴィチの証言」が一世を風靡していた時期に相当し、ロストロポーヴィチのショスタコーヴィチとの生前における親交から、本演奏は証言の内容を反映した最初の演奏などともてはやされたものであった。

当時、まだ少年であった筆者も、証言をむさぼり読むとともに本演奏を収めたLPを聴いたものの、若かったせいもあるとは思うのであるが、今一つ心に響くものがなかったと記憶している。

その後、青年になってCDを購入して聴いたが、その印象は全く変わることがなかった。

そして、今般SHM−CD化されたのを契機に、久々に本演奏を聴いたが、やはり心に響いてくるものがなかったと言わざるを得ない。

確かに、巷間言われるように本演奏には楽曲の頂点に向けて畳み掛けていくような緊迫感や生命力溢れる力強さなどが漲っているが、手兵のワシントン・ナショナル交響楽団をうまく統率し切れずに、いささか空回りしているような気がしてならないのだ。

やや雑然とした演奏に聴こえるのもおそらくはそのせいであり、ロストロポーヴィチによる同曲の演奏であれば、いささか大人しくはなったと言えるが、後年の2つの録音、(ワシントン・ナショナル交響楽団との1994年盤(テルデック)又はロンドン交響楽団との2004年盤(LSO))の方がより出来がいいと言えるのではないだろうか。

他方、プロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」からの抜粋については、ロシア風の民族色に満ち溢れた名演と高く評価したい。

録音は、従来盤でもかつてのLPと同様に十分に満足できる音質であったが、今般のSHM−CD化によって音質がやや鮮明になるとともに、音場が若干幅広くなったことについては評価したい。

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2013年07月31日


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ハイティンクが得意とするショスタコーヴィチの交響曲の待望の最新録音の登場だ。

ハイティンクは、本盤に収められた交響曲第15番を約30年前にもロンドン・フィルを起用して、ショスタコーヴィチの交響曲全集の一環としてスタジオ録音(1978年)していることから、本演奏はハイティンクによる同曲の2度目の録音ということになる。

そして、本盤に収められた約30年ぶりの本演奏は、当該全集に収められた演奏とは段違いの素晴らしい名演に仕上がっていると評価したい。

本演奏におけるハイティンクのアプローチは直球勝負。

いずれの演奏においても、いかにもハイティンクならではの曲想を精緻に、そして丁寧に描き出していくというものであり、ショスタコーヴィチがスコアに記した音符の数々が明瞭に表現されているというのが特徴である。

したがって、ショスタコーヴィチの交響曲の魅力を安定した気持ちで味わうことができるというのが素晴らしい。

加えて、本演奏には、最晩年を迎えたハイティンクならではの奥行きの深さが感じられるところであり、さすがにムラヴィンスキー&レニングラード・フィルによる超名演(1976年)ほどの凄みはないが、同曲に込められた作曲者の絶望感などが、淡々と進行していく曲想の中の各フレーズから滲み出してくるのが見事である。

このような彫りの深い名演を聴いていると、ハイティンクが今や真の大指揮者になったことを痛感せざるを得ない。

ハイティンクの確かな統率の下、かつての手兵であるロイヤル・コンセルトへボウ管弦楽団が持ち得る実力を最大限に発揮した入魂の名演奏を繰り広げているのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

さらに、本盤で素晴らしいのは、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音である。

音質の鮮明さ、臨場感など、どれも一級品の仕上がりであり、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第だ。

いずれにしても、ハイティンクによる円熟の名演を、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2013年06月07日


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スヴェトラーノフの若き日の圧倒的な名演の登場だ。

いまだショスタコーヴィチが存命の時代であり、なおかつ旧ソヴィエト連邦が存在していた時代。

しかも、東西冷戦下で、旧ソヴィエト軍を中核としたワルシャワ条約機構軍がチェコの民主化を阻止するために、チェコ全土を占領化に置くといういわゆる「プラハの春」が勃発した日の翌日の演奏である。

当時の西側諸国からすれば、こうした東側諸国、とりわけ旧ソヴィエト連邦による軍事行動は許し難い暴挙であり、旧ソヴィエト連邦への敵対意識が否応なしに高まっていたことは想像に難くないところだ。

そのような中で、旧ソヴィエト連邦の指揮者であるスヴェトラーノフとソヴィエト国立交響楽団(現ロシア国立交響楽団)が、当時、旧ソヴィエト連邦政府に忠実な作曲家であると西側諸国では誤解されていたショスタコーヴィチの交響曲第10番を、ロンドンで演奏するということは、当時の西側諸国の旧ソヴィエト連邦への悪感情を考えると、ある意味では実に無謀な行為であったとも言える。

実際に、コンサートは抗議の声で騒然となり一時は演奏を中断せざるを得なくなったとのことであり、本盤においても冒頭の何小節かが何人かの聴衆の抗議の声で聴き取れなくなるなど、当時の厳しい状況が生々しく記録されている。

しかしながら、そうした厳しい状況の中でもめげることなく、最後まで演奏を行ったスヴェトラーノフ、そしてソヴィエト国立交響楽団の不屈の精神力にまずは拍手を送るべきであろう。

そして演奏も素晴らしい。

さすがに、本演奏には、後年のスヴェトラーノフの演奏のようなスケールの大きさは存在していないが、前述のような逆境を演奏に最大限に生かしたとも言えるような、圧倒的な生命力や強靭な気迫が演奏全体に漲っている。

ショスタコーヴィチと同時代を生き、そして例えて言えば現在の北朝鮮のようなとんでもない共産党独裁国家であった旧ソヴィエト連邦下に生きていたスヴェトラーノフとしても、同曲に込められた独裁者スターリンへの怒り、粛清への恐怖と粛清された者への鎮魂などのあらゆるメッセージに深く共感していたはずであり、そうしたものを十分に汲み取った彫りの深い凄みのある表現が、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な迫力を誇っていると考えられるところだ。

もちろん、ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルによる超名演(1976年)ほどの深みには達しているとは言い難いが、39歳の若きスヴェトラーノフが、前述のような逆境を乗り越えて、これだけの凄みのある豪演を成し遂げたことを高く評価したい。

演奏終了後の圧倒的な熱狂は、冒頭の抗議の罵声を含めて考えると、いかに本演奏が当日の聴衆に深い感銘を与えたのかがよく理解できるところだ。

併録のチャイコフスキーやR・コルサコフの楽曲も、スヴェトラーノフならではの強靭な迫力とメランコリックな抒情が相俟った素晴らしい名演だ。

音質は、1960年代のライヴ録音、しかもモノラル録音ということもあって、音場が今一つ広がらない(特に、交響曲第10番の第1楽章)のが残念ではあるが、アンビエント・マスタリングによってかなり聴きやすい音質になっている点を評価したい。

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2013年05月01日


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両曲ともに素晴らしい名演だ。

現在の様々な指揮者の中で、ショスタコーヴィチの交響曲の名演を成し遂げる可能性がある指揮者と言えば、これまでの実績からして、本盤のゲルギエフのほかは、インバル、ラトルなどが掲げられると思うが、インバルは、ウィーン交響楽団との全集完成以降は新たな録音が存在せず、ラトルも「第4」の超名演以外には論ずるに値する名演を成し遂げているとは言い難い。

他の指揮者による名演もここ数年間は成し遂げられていないという現状に鑑みると、現在では、ショスタコーヴィチの交響曲の演奏についてはゲルギエフの独壇場と言えるのかもしれない(もっとも、一昨年発売された若手指揮者のクルレンツィスによる交響曲第14番「死者の歌」は名演であったが)。

いずれにしても、本盤に収められた名演は、このような考え方を見事に証明するものと言えるだろう。

特に、第10番が壮絶な名演だ。

第10番の過去の名演としては、初演者として同曲が有する精神的な深みを徹底して追求したムラヴィンスキーの名演(1976年)と、鉄壁のアンサンブルと卓越した管楽器奏者の技量によって、圧倒的な音のドラマを構築したカラヤンの名演(1981年)が双璧であると考えられる。ゲルギエフは、この両雄の薫陶を受けた指揮者であるが、本盤の演奏は、どちらかと言うと、ムラヴィンスキーの系列に繋がるものと言える。

全体として堅固な造型を構築しつつ、畳み掛けていくような緊迫感や、生命力溢れる力強さは圧巻の迫力を誇っていると言える。

スコアに記された音符の表層をなぞるだけでなく、スターリン時代の粛清や死の恐怖などを描いたとされている同作品の本質をこれだけ音化し得た演奏は、おそらくはムラヴィンスキー以来初めてではないかとさえ思われるほどだ。

その壮絶とも言える圧倒的な迫力は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分だ。

他方、第3番は、ショスタコーヴィチの各交響曲の中でも、第2番と並んであまり演奏されない楽曲と言えるが、ゲルギエフは、同曲においても、楽曲の本質を抉り出していくような鋭さを感じさせる凄みのある演奏を披露しており、おそらくは、同曲演奏史上ベストを争う名演と高く評価したい。

ゲルギエフの統率の下、手兵マリインスキー劇場管弦楽団は最高のパフォーマンスを示していると言える。

マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音も、本名演の価値を高めるのに大きく貢献している点を忘れてはならない。

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2013年04月06日


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最近のデジタル録音の鮮明かつ華麗な《第7》を聴きなれた耳には、この異様なまでにデッドでゴツゴツの演奏はショックかも知れない。

それはまるで、総天然色の新作映画を見慣れてしまった目に、戦時中の白黒のニュース映画が異様な印象を与えるのに似ている。

しかし、そのどんな色彩もかなわない強烈なリアリティは見るものを圧倒する。

これは、そんな時代を封じ込めた歴史的1枚だ。

確かにショスタコーヴィチの交響曲は、デジタル時代になって鮮明かつ華麗な西側オーケストラの演奏が出てきてから、単なるロシア音楽の枠を越えて世界的な広がりを見せ始めた。

しかし、その国際的な普及の度合いと反比例するように「イデオロギー的」あるいは「政治的」な信念のような側面は薄められ、どうも純粋に音楽的にのみ捉え初めているような気がする。

でも、ショスタコーヴィチの音楽はまぎれもなく、「トンでもないこと」を信じていた時代の「トンでもない交響曲」なのである。

現代のようになれ合いの美音でまとめた優等生的な音楽にはない、八方破れでバランスを失したオーケストラが、デッドなホールでその信念と推進力だけを頼りに自分たちの時代の交響曲を力いっぱいゴリゴリ鳴らす。

そうやって自分たちの時代の音楽を作っていった時代があったのだ。

そんな凄絶な、まさに鳴り響く歴史としての音楽の記録がここにはある。

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2013年04月05日


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1971年に結成され、80年代末に惜しくも解散してしまったフィッツウィリアムSQの代表盤であった。

同SQは第13〜15番の英・米初演を行い、作曲者とも親交があった。

1973〜77年の録音で、英グラモフォン賞を受けている。

ショスタコーヴィチの全創作のなかで重要な位置を占める弦楽四重奏曲群をまとめて繰り返し聴けるようになったのはこの全集のおかげだった。

この作曲家のこのジャンルは変化にも富んでほんとうに面白い。

それをこの全集にわからせてもらった。

フィッツウィリアムSQの演奏は、鋭い切れ味と表現の求心性があるとともに、得も言えぬ暖かい情感が音楽にかよっている。

ここで展開される緊張感と共感に満ちた演奏は、圧倒的な感銘を与えずにはおかない。

このSQの自在な表現力と緻密なアンサンブル、それに切れ込みは鋭いが決して冷たくはならない、深い意味のこもった響きの豊かさには魅了される。

彼らはショスタコーヴィチの、抑圧された中での痛切な表情や、しかしそれでも決して失うことのなかった精神の強さを表現し尽くしており、見事というほかない。

それは生前の作曲家と直接の交流があり、つねにその四重奏曲をレパートリーの中心に位置づけてきたこの四重奏団の作品と作曲者への敬愛と信頼の情のなせるわざなのであろう。

作曲者と暖かく結ばれた演奏である。

後にボロディン四重奏団の優れた全集も出たが、当全集の価値は不変だ。

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2013年04月01日


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これは素晴らしい名演だ。

ショスタコーヴィチの交響曲の中でも、傑作でありながら、その陰鬱な内容から敬遠されがちな同曲であるが、本盤のような名演で聴くと、改めて、同曲がショスタコーヴィチの交響曲を代表する傑作の一つであることを再認識させられる。

指揮者もオーケストラも、そして独唱陣も無名の存在であるが、こうした無名の音楽家たちが、同曲演奏史上最高の名演を成し遂げたのだから、これは隠れた才能の発掘という一大快挙と言えるだろう。

「死」をテーマにした交響曲であり、陰鬱で暗いが、初めてショスタコーヴィチの本質に触れることが出来た。

「楽譜や文献から」作曲家の心境を汲み取り、「表情付けをしっかりとつけた」演奏というのはこれが初ではないだろうか。

第1曲冒頭の、心の底から絞り出てくるような悲痛な弦楽の音色からして、我々聴き手は、この名演の魅力にたちまち惹き込まれてしまう。

第1曲から第2曲、あるいは、第7曲から第8曲という、いわゆる動と静の描き分けが実に巧みであり、独唱陣の優秀さも相俟って、あたかも壮大なオペラを聴くようなドラマティックな演奏に仕上がっている。

前述の冒頭の表現もそうであるが、総体として弦楽器の合奏は見事であり、特に、低弦の響きの不気味さは、同曲の魅力を十二分に発揮するものとして、最高のパフォーマンスを示していると言える。

さらに、間の取り方が絶妙。

クルレンツィスの指揮は、若手指揮者とは思えないような堂々たるものであり、この間の取り方が素晴らしいが故に、同曲の命でもある打楽器が大いに生きてくることになるのである。

録音も実に鮮明で素晴らしく、この超名演の価値を高めるのに大きく貢献している。

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2013年03月04日


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チャイコフスキーは、交響曲や管弦楽曲、協奏曲、バレエ音楽、オペラなど、多岐にわたる分野において、数々の傑作を遺しているが、ピアノ曲や室内楽曲となると、傑作と評価される作品は、極めて少ないものとなってしまう。

もちろん、古今東西の作曲家でも、様々な分野で傑作を遺したオールランド・プレイヤーは、モーツァルトやベートーヴェンなど数えるほどしかいないところであり、室内楽曲やピアノ曲に傑作が少ないからと言って、チャイコフスキーの名声を傷つけるものでは決してないものと考える。

ただ、そうした傑作が少ないと評される室内楽曲の中でも、本盤に収められたピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の想い出」だけは例外だ。

それどころか、ベートーヴェンの「大公」にも匹敵する至高の大芸術作品として、高く評価されるべきものである。

そしてこの傑作の最高の名盤は、まぎれもなく、本盤の全盛期のチョン・トリオによる録音であり、強靱な構成力のなかにいっぱいの情感を溢れさせた名演だ。

兄弟ということで、鉄壁のアンサンブルを誇る息のあった名トリオが、チャイコフスキーの絶美の旋律を、透徹した表現で、完璧に歌い抜いているからである。

チャイコフスキーを得意とするチョン・キョン=ファの水を得た魚のように自由に動き回るヴァイオリンに加え、今や大指揮者となったミョン=フンの構成力、そして、ミョン=ファの受け渡しの妙。

チョン・トリオとしてもベスト・フォームを示している。

感傷に陥ることはいささかもなく、高踏的な美しさを常に保っている点も、このトリオならではの凄みであり、芸術性の高さであると考える。

併録のショスタコーヴィチも名演だ。

HQCD化による音質向上効果もなかなかのものである。

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2013年03月03日


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1959年8月16日 ザルツブルク・旧祝祭劇場に於けるモノラル・ライヴ録音。

バーンスタインは、マーラー指揮者としては、おそらくは大巨匠の一人と言えるだろう。

いや、もしかしたら、史上最高のマーラー指揮者と評価しても過言ではないかもしれない。

それに続くのがシューマンであると思うが、筆者は、その他の、特にドイツ系の音楽は、雄弁ではあるものの、深みがないのが大いに問題であると考えている。

これは、ショスタコーヴィチについても言えるところであり、一部の評論家が支持するシカゴ交響楽団との交響曲第7番など、雄弁ではあるが、それだけでは、ショスタコーヴィチの本質を表現することは不可能だ。

ショスタコーヴィチは、ソヴィエト連邦という、例えて言えば、今の北朝鮮のようなとんでもない国で、粛清の恐怖を耐え忍んで、したたかに生きていた。

こうした日常における死への恐怖は、ショスタコーヴィチの楽曲に色濃く反映されており、それをバーンスタインのような外面的で大仰な表現で演奏したのでは、表面をなぞっただけのきわめて浅薄な演奏に陥ってしまう危険性が高い。

例えば、交響曲第5番を初演者として十八番にしてきたムラヴィンスキーの数々の名演などと比較すると、バーンスタインの演奏のあまりの浅薄さにがっかりとさせられてしまうのだ。

雄弁な解釈であることはよくわかるが、うわべだけを繕った演奏では、とても、「第5」の真価を表現することは不可能である。

本盤も、そうしたバーンスタインの欠点がもろに出た演奏だ。

特に、終楽章の力づくの乱暴な荒れ狂った演奏は、ほとんど場違いな印象を与える。

そもそもショスタコーヴィチは、マーラーではないのだ。

録音も、底の浅いバーンスタインの演奏の性格をさらに際立たせることになっており、これまた大いに問題だ。

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2013年03月02日


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ショスタコーヴィチの15曲ある交響曲の中でも、第2番及び第11番(他に第3番も人気がない)は、最も人気のない部類に入ると思われるが、本盤は、そうした既評価を覆すのに十分な名演だ。

特に、第2番については、これまでの数々のCDの中でも随一の名演と言っても過言ではないのではなかろうか。

第2番は、早熟の傑作と称された第1番とは異なり、およそ交響曲とは言い難い独特の様式によって作曲されているが、ゲルギエフが指揮すると、起承転結のはっきりした立派な交響曲に聴こえるから大したものだ。

冒頭の暗い抒情から、後半部の壮麗な合唱に至るまで、ゲルギエフは実に精緻に楽想を描き出していく。

下手な演奏では取ってつけたように響くサイレンの音色も、ゲルギエフの場合は、決して唐突ではなく、楽想の中に見事に溶け込んでいるのが素晴らしい。

第11番も名演。

凡庸な演奏だと、冗長ささえ感じさせ、ウドの大木のように聴こえる同曲であるが、ゲルギエフの指揮によると、スケールの大きい、そして構成力のしっかりとした大交響曲に聴こえる。

また、交響曲としての枠組みや音響による描写よりも、作品全体の雰囲気を大切にした演奏で、十分にドラマティックでありながら、むしろしみじみとした情感が胸を打つ。

特に、全曲のクライマックスを、第2楽章の中間部ではなく、終楽章の終結部に持っていったのは素晴らしく、ゲルギエフがこの大交響曲をしっかりと理解し、全体像をよく把握していることがよくわかろうというものだ。

いわゆる爆演とは異なるが、聴後に残る感銘はその何倍も深い。

SACDマルチチャンネルによる極上の高音質録音も素晴らしい。

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2012年12月25日


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万人に訴えかける説得力を備えたゲルギエフとマリインスキー劇場管弦楽団によるショスタコーヴィチ交響曲シリーズの第1作にあたるこの演奏は、1994年にヨーロッパ楽旅を行った際に録音された。

ショスタコーヴィチの「第8」は、初演者で献呈者でもあるムラヴィンスキーによる超弩級の名演(1982年盤)があるだけに、他のいかなる演奏を持ってきても物足りなさを感じるのは否めない事実である。

そのような中にあって、本盤のゲルギエフ盤は、なかなかに健闘しており、部分的にはムラヴィンスキーを凌駕する箇所も散見される点を考慮すれば、名演と評価しても過言ではないものと思われる。

第1楽章は、ゲルギエフにしては随分と抑制された表現で開始されるが、その後の展開部では一転して、金管楽器による最強奏が炸裂する。

要は、冒頭の抑制された表現は、楽曲全体を見据えた上での計算された解釈ということであり、ここに俊英ゲルギエフのしたたかさがあらわれていると言える。

展開部終了後のイングリッシュ・ホルンは美しさの極みであるが、終結部のトランペットの絶叫はいささか凡庸のような気がした。

第2楽章は、ゲルギエフとしては普通の出来で、ゲルギエフならば、もう一段次元の高い演奏を望みたい。

第3楽章は、本演奏の中では問題が多いと言える。

丸みを帯びたリズムの刻み方はいかにも生ぬるく、これでは、この楽章の狂気は表現できないと思う。

しかしながら、終結部のティンパニの重量感溢れる強打は他のどの演奏よりも最高のド迫力。

続く第4楽章は本名演の白眉。

ピアニッシモを意識するあまり殆ど聴き取れないような軟弱な演奏が散見される中で、切々たる心の痛みを、力強さをいささかも損なうことなく気高く描いていくのは、俊英ゲルギエフならではの至芸と言えよう。

終楽章のシニカルな喜劇も、隙のない卓越した表現で描き、いわゆる「強制された平和」のうちに全曲を締めくくるのである。

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2012年11月05日


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ショスタコーヴィチの「第7」はトスカニーニによるアメリカでの初演の歴史的記録である。

トスカニーニのショスタコーヴィチは、今では偽書であるとされているものの、一時は一斉を風靡したヴォルコフの「ショスタコーヴィチの証言」によって、ボロカスに酷評されている。

ショスタコーヴィチ曰く、テンポといいリズムといいすべてが間違っていると評しており、これによって、証言をバイブルのように信奉する人など、本演奏を歯牙にもかけていなかったところである。

しかし、証言が偽書であるか否かにかかわりなく、いかなる楽曲も作曲者の手を離れると単なるスコアに過ぎず、絶対的に正しい演奏など存在しないのではないか。

例えば、多くの聴き手に感動を与えるフルトヴェングラーのベートーヴェンも、果たしてベートーヴェンが評価したかどうかはわからないのである。

筆者は、本演奏を、ファシズムに対して一切の妥協を排して批判し続けたトスカニーニならではの鬼気迫る歴史的名演と評価したい。

初演でありながら、これほどまでに説得力のある演奏を成し遂げるトスカニーニの類まれなる才能と情熱には感服するほかはない。

ショスタコーヴィチの「第7」は、バーンスタインの演奏が非常に世評高いが、この交響曲の持つ真の意味を表現している点ではトスカニーニの表現にいささかの抜かりはなく、この交響曲の持つ意味を深く抉り出そうという彫りの深い表現を行っている。

バーバーの「弦楽のためのアダージョ」編曲版の初演者であるトスカニーニの演奏は、やはり聴き逃せないだろう。

強く引き締まり、大きくうねる演奏は、しなやかに澄んだ抒情をたたえており、その深々とした表現は、作品に対する巨匠の愛着を真摯に示している。

音の状態は決して良くないが、戦時中の録音ということを考えると、信じられないようなオーケストラの圧倒的な力感を感じさせてくれるのが見事である。

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2012年10月12日


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初演者オイストラフによるショスタコーヴィチの第2協奏曲西欧初演ライヴ。

とんでもない録音が残されていたものだ。

作品の献呈者にして初演者である、オイストラフによるショスタコーヴィチの第2協奏曲は、モスクワ初演から間もない1967年11月26日におこなわれた演奏で、西側での初演ドキュメントという歴史的意味でも計り知れない。

オイストラフにはそのモスクワでの世界初演ライヴ録音をはじめ、また、すでにBBC LEGENDSには翌1968年8月のスヴェトラーノフとのライヴ録音などがあり、いずれも緊張感と手ごたえで圧倒的な存在感をみせつけているが、このたびのライヴもこの皮肉に満ちた問題作を抜群のテクニックで弾き切っており、また文字通り決定盤にふさわしい内容といえるだろう。

演奏は、この作曲者特有の諧謔性と悲劇性を併せ持つ名作の本質を、オイストラフが高度な技量を駆使して描いていく様は見事であり、オーマンディ&ロンドン交響楽団の合わせ方も素晴らしい。

ちなみに、当夜はLSOトラスト(信託基金)を目的としたガラ・コンサートということで、ブリス作曲のファンファーレで幕を開けている。

カップリングのチャイコフスキーは、大家オイストラフではやはりいくつもの別演奏を数えるなかでもっとも時期の新しいもの(1972年)。

オイストラフの十八番だけに数々の録音が遺されているが、本盤はその中でも最上位にランクされるものの一つではないだろうか。

チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲が持つロシア風の抒情を最大限に生かしつつ、卓越したテクニックにもいささかの不足もない。

テクニックはもとより緩徐楽章でのメランコリックな旋律の歌いまわしなど格別の味わいだ。

また、録音についても、両曲ともに、1960年代後半から70年代初めにかけてのライヴ録音とは思えないくらいの鮮明さだ。

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2012年10月04日


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「第4」には、ゲルギエフ、ラトル、ミュンフンの3大名演があり、いずれも同曲の複雑怪奇な特徴を活かした劇的な演奏であった。

それに比して、ビシュコフもトップクラス入りの資格十分の快演だが、冒頭から実に整然とした演奏を聴かせる。

いささか物足りないと思うほどだ。

しかし、楽曲が進むにつれ、ビシュコフの演出巧者ぶりにすっかり惹き込まれてしまった。

これは、まさにビシュコフによって計算され尽くした名演なのだ。

それゆえに、複雑怪奇な「第4」が、厳しい造型のもと、古典的な大交響曲のように整然と聴こえる。

これは「第4」の演奏史上でも稀有のもので、ビシュコフの類いまれなる才能の証左だと思う。

同じオケを振ったバルシャイと比べても格段にスケールが大きく、大きな構えのなかに鳥肌の立つような緊張がいっぱいに詰まっている。

特に感動したのは、第3楽章のラスト。

遅いテンポで怒りのこぶしを突き上げるような終楽章最後のクライマックスの壮大さでは、これを凌ぐものはない。

そして、全オーケストラによる大強奏が終わった後の静寂さ、清澄さは、ゲルギエフらの3大名演をも凌ぐ同曲の最高の聴かせどころであると言えよう。

今まで聴いた同曲盤の中で最も説得力のある演奏の一つで、本盤は、ライヴの経験を活かしてのスタジオ録音ということで、演奏に更なる完成度を誇る名盤の誕生と言えよう。

SACDマルチチャンネルによる高音質も素晴らしい。

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2012年08月21日


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ショスタコーヴィチの「第11」は、傑作が多い彼の交響曲の中では、必ずしも上位に置かれる曲ではなく、一般の人気もさほど高くはない。

それに合わせるかのように、同曲の名演もこれまで初演者ムラヴィンスキー盤以外にはほとんど生まれていないように思われる。

その中で、筆者は、このビシュコフ盤を今回初めて聴いたが、大変な感動を味わった。

というか、筆者としては、「第11」という曲の持つ魅力を堪能できたのはこれが初めての経験である。

ビシュコフ&ケルン放送響のショスタコーヴィチは、力強い、鮮烈なサウンドを聴かせてくれる。

第1楽章の王宮広場での静寂を経て、第2楽章の血の日曜日事件をこれほどまでに劇的に表現した例があったであろうか。

第3楽章の追憶を経て、第4楽章が実際に警鐘に聴こえるのには恐れ入った。

ビショコフは、マーラーでは必ずしも成功していたとは言いがたかったが、ショスタコーヴィチは素晴らしい。

鮮烈なリズム感と熱いテンションのもと、洗練された演奏を繰り広げている。

そこには、ロシア的な荒々しさよりは、あくまで純音楽的なセンスがきらめいていて、とても魅力的である。

ヤンソンスのアプローチの仕方とやや似ているが、ピショコフにはどこかしら品格が感じられる、稀な演奏と思う。

ビシュコフはやはり激しい曲をやらせたら現役で最高の指揮者の一人であろう。

ビシュコフの圧倒的な統率力と演出巧者ぶりには大変驚かされたところであり、特に、SACDマルチチャンネルで聴くと、特に第2楽章など、あまりのド迫力にぶっ飛ばされそうになる。

彼には是非、ショスタコーヴィチの交響曲全集完成に取り組んでもらいたい。

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2012年07月28日


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パーヴォ・ヤルヴィの最近の好調ぶりをあらわした大変美しい名演だと思う。

もちろん、表面だけを繕った美演は他にも多くあるが、パーヴォ・ヤルヴィの素晴らしさは、内容においても彫りの深い精緻な演奏を行っているという点にある。

第1楽章冒頭の低弦の響かせ方からして、ただならぬ雰囲気を感じる。

その後は、決して絶叫したりはせず、ひたすら精緻に丁寧に曲想を描いてゆくが、それでいて安全運転の印象を与えることは全くない。

ショスタコーヴィチならではの透明感溢れるオーケストレーションを透徹したアプローチで丁寧に表現していく。

第2楽章は一転して劇的な表現であり、その迫力はなかなかのものであるが、ここでも金管がわめくという印象はいささかも受けない。

第3楽章は更に精緻な表現を徹底しており、ホルンなど決して割れた音を出させず、抒情溢れる美しさには比類がないものがある。

終楽章は、テンポがめまぐるしく変化するなど、なかなかまとめるのに難渋する楽章であるが、パーヴォ・ヤルヴィは決して雑には陥らず、ここでも精緻で丁寧な表現に徹し、全曲の締めくくりに相応しい見事な演奏を行っている。

トルミスは、ショスタコーヴィチを崇敬していた、同郷のエストニアの作曲家であるとのことだが、このような意外性のあるカップリングを行ったのも、パーヴォ・ヤルヴィの抜群のセンスを証明するものと言えるだろう。

録音は、テラークならではの鮮明な名録音と評価したいが、できれば、SACDマルチチャンネル盤を出して欲しいと思ったのは、筆者だけではあるまい。

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2012年03月21日


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ブロドスキーSQによるショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲全集は1989年に一気に録音完成されている。

イギリスの若手による当四重奏団の演奏の素晴らしさは、個人的な感情移入による過剰な抒情表現を捨て切っている点にある。

ショスタコーヴィチの作品を一定の距離をおいて客観的に見据え、それぞれの持味を純音楽的にありのまま引き出そうと努めているように思われる。

もちろんこの作曲家特有の強弱や緩急といったメリハリ、そこから生まれる緊張感は確実に表現されており、時として思い切った感情の爆発も見られるのだが、そうした場合でも彼らの音楽は決してエキセントリックに傾くことがない。

そして集中度が高く、練り上げられたアンサンブルと、コントロールの行き届いた均質な4声部から生まれるしっとりとした響きもこの団体の大きな魅力といえよう。

ショスタコーヴィチが書き記したテクスチャーを精確に再現することに努め、作品がもつ多彩な語法や音楽構成要素に光を当てることで、何よりもショスタコーヴィチらしい響きを獲得している。

ことに急速楽章のリズミカルな動きは何というみずみずしさと躍動感だろう。

快適な運びのなかに適度の思い入れを込め、ゆとりすら感じさせる演奏は、作品への心からの共感なしにできうるものではない。

この全集を聴いていると、彼らの世代にとってショスタコーヴィチももはや古典だ、という印象を強くする。

フィッツウィリアムSQの解散で生じた空白を埋めるような、英国の音楽家による質の高いショスタコーヴィチである。

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2011年12月22日


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1969年5月29日、モスクワ音楽院大ホールに於けるライヴ録音。

カラヤン&ベルリン・フィルの史上最高の名演奏の一つとされるモスクワでのショスタコ10番が、今やこうして手軽に聴けるのは喜ばしい限りである。

再録音も含めあれほど夥しい録音を残したカラヤンが、なぜかショスタコーヴィチだけはこの曲しか録音していない。

しかも不思議なことに、この曲だけを2回スタジオ録音している。

その理由は不明だが、どこかこの謎めいた暗鬱な曲に共感する点があったのかもしれない。

そのためだろうか、カラヤンにしては異例なほど沈鬱な表現や、劇的という範疇を越え、何かに取り憑かれたような切迫した表現が目立つ。

ベルリン・フィルの超絶的な巧さには凄みすらある。

カラヤンがモスクワの聴衆に対してこの曲を取り上げたのは、ベルリン・フィルの表現力を誇示するためではなかったかと思えるほどで、今でもこれほど完璧な演奏はもはや望めないのではないかと思わせるほど見事で効果満点である。

緊張感に満ちた集中力と燃焼度が高い演奏で、ここには舞台に生きる演奏家たちの止むにやまれぬ魂の燃焼がある。

また会場の雰囲気は「ピン」と張り詰めたもので、西欧の誇る最高の指揮者とオケが、モスクワの聴衆に立ち向かうかのような緊迫感がある。

作曲者であるショスタコーヴィチ自身が聴いていたライヴでもあり、その作曲者自身が満足したと言われるこの演奏は、ショスタコーヴィチ「交響曲第10番」の一つのスタイルが確立した記念すべきライヴでもあったようだ。

カップリングされているバッハはカラヤンらしくこってりとした仕上がりで、古楽器によるバッハを聴いた耳からはちょっと胃もたれしそうな演奏だ。

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2011年12月21日


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1981年盤は演奏・録音とも圧倒的優秀CDである。

カラヤンはここではわずかなデュナーミクの変更を除けば楽譜に忠実に従っており、確信にあふれた表情で練りに練られた音楽を展開している。

ベルリン・フィルの、特にフルートやクラリネットのソロの見事さも印象的。

金管も卓越しており、フォルティッシモの盛り上がりの凄さ、壮大な起伏の効果はすばらしいの一語につきる。

この頃はベルリン・フィルが完全にカラヤンの理想の楽器になりきっており、有無を言わさぬ演奏能力の高さとサウンドの強力さに圧倒される。

どんなに世評が高い作曲家でも、カラヤンはたった1曲しか取り上げていない作品が意外に多い。

ショスタコーヴィチもそうした部類に入る。

この第10番には3種類の録音があるが、本盤は最後のもので、カラヤンのアプローチは明解で美しい。

ここには"謎解き"的な解釈や表現の誇張は皆無で、ベルリン・フィルの絶大な機動力や表現力、オーケストラの持つ極上のソノリティを駆使するのみ。

意味深な解釈以上にカラヤンの関心は、曲を絶対視し音楽としての造型美や構築美を探究することにある。

しかしそれがかえって同作品の意味深な内容を際立たせているから皮肉だ。

凄絶な第2楽章のアレグロはもとより、各楽章が深遠かつ壮麗に描き出されることこの上ない。

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2011年12月20日


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カラヤンのショスタコーヴィチのレパートリーは交響曲第10番に限られていた。

奇妙といえば奇妙だ。

ショスタコーヴィチの作品は、直接あるいは裏に何かの意味が込められているとみなされている。

そしてカラヤンは、たとえオペラでさえも、意味など眼中にない演奏をする指揮者だった。

そのカラヤンが、この曲にはご執心だった。

なるほど、ここには意味などない。

"証言"がどうしたといった騒ぎが収まり、ソ連がなくなり、ショスタコーヴィチもとっくに過去の人ということになると、カラヤンこそ王道を行っていたのか、という気になる。

カラヤンの巧さ、ベルリン・フィルの巧さは際立ち、演奏効果満点。

この演奏効果をこそ、言葉を持たない交響曲第10番は求めている。

この1966年盤は、手慣れた感じのまったくしない初々しいアプローチに好感が持てる。

楽想の豊かな表情、雄大な構築、驚異的な演奏技術は感嘆すべきものだが、後の1981年の録音はさらに成熟し、彫りが深い。

もし1981年の録音がなければ、これがこの曲の最高の演奏といえるだろう。

彫琢された輝かしい音色と洗練の極致ともいうべき響きによる演奏が魅力の1枚といえよう。

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2011年11月14日


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ムラヴィンスキーはショスタコーヴィチの交響曲第5番を初演して、この作曲家との深い結び付きが生まれ、この作曲家の最も良き理解者となった指揮者である。

だから彼が指揮したショスタコの交響曲は、どれをとっても聴くに値するものばかりである。

特に第5番は初演以来、何十回、何百回となく演奏会でとりあげているせいか、現在までDVD等を含めると、ムラヴィンスキーとレニングラード・フィルの演奏で、なんと12種類のディスクが発表されている。

そのなかでも、最高の演奏・録音がこの1枚である。

1973年5月3日 レニングラード・フィルハーモニー 大ホールでのライヴだが、彼らの演奏はまさに絶好調で、冒頭からきわめて魅力的な表現である。

一分の隙もない鍛えに鍛え抜かれた音楽ともいえるが、非常に透明度が高く、そこに毅然とした精神性が示されている。

第3楽章などの透徹した表情は、もはや哲学的といってよい。

終楽章の驚くべき生命力の解放も雄渾をきわめた音楽を聴かせる。

アゴーギクも音楽的で、演奏の精度の高さは比類がない。

コーダでは1974年版の改訂を早くも採用して遅いテンポで演奏されているが、そのため終結は感動的に高揚する。

1973年のライヴ録音ながら、レニングラード・フィルの輝かしさを捉え、しかもムラヴィンスキーの気高いまでの表現をしっかりと伝えている。

この曲ではまず聴いてほしい演奏である。

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2011年10月31日


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動感を強調、熱っぽく劇的に演奏しさえすれば、感情を著しく鼓舞された聴き手は、なにがなし他者との連帯が強まった思いに駆られて満足する、そんな一面が、この第5番にはあった。

雄々しさを強調したエネルギッシュな演奏がはやったのも無理はない。

もともとロストロポーヴィチは、チェリストとしても指揮者としても、いったん興に乗ると自身のはやる気持ちを抑え切れなくなる面を残していたような気がする。

だが、ここでの彼はそうではない。

全曲の中心を第3楽章ラルゴに置き、物悲しく息の長い透明なメロディを、しなやかに深々と歌い進めてゆく。

おのずから表出される切なさが、彼の円熟を物語っている。

第1楽章はことさら弱音で表出される主楽想及び副楽想が息づまるような内的緊張に支えられている。

例えば、第1楽章の中間部で、悲痛な主題が現れるところでは、テンポを落とし、弦楽器には、かすかなヴィブラートをかけ、微妙なフレージング処理により、切々と聴き手の胸に迫ってくるのである。

第2楽章も暗鬱に表現し、テンポも各部分に緩急を与えて決して速すぎない。

第3楽章はこの演奏の圧巻で、まさに心にしみ透ってくるような表情。

その抒情の表現は絶妙な陰影を伴っている。

終楽章は劇的で巨大な表現。

全4楽章を通じて、何と暗鬱な音楽を雄大なスケールで歌わせていることか。

どの部分も、作曲者と親しかったロストロポーヴィチの深い理解と共感を感じさせる素晴らしい演奏である。

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2011年08月05日


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これは、ショスタコーヴィチの「第4」の最高の名演であるだけでなく、ラトルのあらゆる録音の中でも、現時点においては最高の超名演であると高く評価したい。

ショスタコーヴィチの「第4」は、実に複雑怪奇な作品である。

冒頭の主題が、終結部などで再現される以外は、様々な異なる主題が長大な貨物列車のように数珠つなぎに連なっており、不協和音や霧のような静寂など、曲想もめまぐるしく変化するなど、とても一筋縄ではいかない。

しかしながら、聴けば聴くほど味わいが出てくるという内容の深さにおいては、間違いなくショスタコーヴィチの交響曲の中でも上位を占める傑作であり、そうしたこともあって、特に、近年においては、数々の名演が生み出されるに至っている。

本盤のラトル以外にも、チョン・ミュンフンやゲルギエフの名演などが掲げられるが、その中でもやはり、ラトル盤こそ最高峰の名演と言える。

ラトルは、切れば血が出るような激しい情念の迸りや思い切ったテンポの激変、ダイナミックレンジの極端な幅広さなどを駆使しており、それでいて、第2楽章や終楽章の終結部の霧のような静寂の表現も完璧である。

切れ味鋭いリズム感も、殆ど神業のレベルに達している。

バーミンガム市響も、ラトルの抜群の統率の下、最高のパフォーマンスを示しており、一流とは決して言えなかったバーミンガム市響をこれだけのレベルに引き上げた才能にも大いに驚かされる。

併録に、ショスタコーヴィチと親交のあったブリテンの「ロシアの葬送」をカップリングしたセンスの良さも、ラトルならではのものであるが、同曲も素晴らしい名演だ。

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2011年07月11日


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旧ソ連国外ではじめて行われた「15番」の録音であり、オーマンディとフィラデルフィア管弦楽団こそは、アメリカ初演の栄誉を担った黄金コンビである。

オーマンディといえば、特に日本において、外面的で精神性の薄い音楽家だと評価されがちだが、ここに聴く演奏は掛け値なし、真摯で素晴らしいものである。

この盤にあってムラヴィンスキー盤にないもの、それは、ずばり「色彩」である。

特に第1楽章の多様性は、モノトーンのムラヴィンスキー式よりもオーマンディ流によって表現されるのだと思う。

第2楽章も、まるで水平線に沈みゆく夕日のような美しさであり、はじめから精神世界を彷徨するムラヴィンスキーとは別世界で美を奏でる。

後半ふたつの楽章も、フィラデルフィア管の卓抜な技術と美しい音色で、ショスタコーヴィチの遺言を内面的に彩っていく。

弦の豊かさは類例がないほどだが、その豊かさは決して外面的ではなく、卓越した弓遣いは、作品の内面へと斬り込んでゆく鋭さを持つ。

オーマンディとフィラデルフィア管の恐るべき実力を実感させられるCDである。

録音も美しく、このコンビの実情を生々しく伝えている。

多くの方に推奨したいCDだ。

ご存じのように、この米国の名門オーケストラ、フィラデルフィア管弦楽団は4月16日、破産宣告を申し立てると発表した。米経済が低迷する中、大規模なオーケストラの破産は同国で初めてだった。

まことに悲しい限りである。

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2011年07月10日


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以前紹介したザンデルリンク指揮ベルリン交響楽団のスタジオ録音は、「10番」のスタンダード盤として、真っ先に推薦するものである。

一方、このフランス国立管弦楽団とのライヴも素晴らしい。

オーケストラの色彩感やサウンドの豊穣さにおいては、こちらの方が上で、ザンデルリンクの至芸を贅沢な音響で堪能できるのはありがたい。

両ディスクとも揃えておきたいものだ。

ムラヴィンスキー盤より録音も良く、演奏にも慈父のような暖かさ、懐の深さがある。

音楽が、どんなに悲痛になろうとも、凶暴になろうとも、徹底的に追いつめない心の大きさ、天から下界を見下ろすような眼差しの透徹がある。

第1楽章は遅いテンポで格調高く、じっくりと攻めており、スケールが大きい。

展開部における、立体的という言葉では追いつけない、多層的な音空間はまことに見事であるし、クライマックスにおける音の洪水には体が流されそうだ。

第2楽章の爆発ぶりも凄まじい。

この楽章に連続する内容いっぱいの音楽は、どれほどの最強音になっても美感を失わず、しかも味わいは濃厚、強靭なリズムとアンサンブルも聴きものだ。

第3楽章も冒頭部から美しく瞑想的であり、コーダの感慨深さも特筆すべきだ。

第4楽章のアダージョからアレグロに移る際の空気の変わり方には閃きがある。

ムラヴィンスキー盤とともに持っていたい。

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2011年07月08日


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第1番は1964年4月、第5番は1961年11月の録音。

素の音だ。

なんの飾り気もなく、ただただ作品の本質に迫る音。

これは、どんな能弁よりも、心に強く、深く迫ってくる。

素で勝負できるなら、これほどの強みはない。

アンチェルの現代的感覚の冴えを思い知らされるショスタコーヴィチで、作品がまるで生き物のように再生される臨場感が素晴らしい。

アンチェルの演奏には技術的にデリケートな側面とおおらかな気分が同居しているのが興味深い。

ことに第1番は、作品が自ら動き出すような快い躍動感があり、オーケストラとの絶妙なコンビネーションに驚かされる。

第5番はさらに劇的気迫とスケールの大きい演奏だが、音楽が瞬時として乾いた感じになることがないのはアンチェルならではだ。

全篇を支配しているのは、胸を締め付けられるような寂寥である。

第1楽章では、草木ひとつない荒れ果てた地球に、ただひとり佇むような極限の淋しさがある。

第3楽章の慟哭も、心の奥深くから絞り出される涙のようではないか。

実直に音を重ねていくだけなのに、そこに傷ついた心からの血の滲みが見てとれる。

終楽章も質実剛健な音楽づくりであり、いたずらに興奮を煽る要素は皆無だが、クライマックスを盛り上げているのは現代の先駆を成す演奏だ。

全体にゆとりのあるテンポで作品の悲劇性を素朴に表現しており、そこに西欧やアメリカとは異なるスラヴ的気質が表されているようだ。

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2011年06月18日


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以前、マリス・ヤンソンスがオスロ・フィルを振ってのEMIデビュー録音、ショスタコーヴィチ「第5」を聴いて、それは新時代のロシアの指揮者の登場を鮮やかに印象づける演奏だったので、ぜひともこの人で交響曲全集が欲しい、と思っていたら、それが実現した。

あたかも、ロシアをそのままに響かせたような演奏で、音楽的な推進力も力強く感じさせる説得力に富む力演集となっている。

ヤンソンスは8つものオーケストラの特色を存分に活用して、「今、ショスタコーヴィチはこういう曲だ」と言わんばかりの実に入念な演奏を繰り広げている。

贅肉のないクリアな演奏で、現代的なスマートさを随所に感じさせる。

全曲を通じてテンポがよく、そこには適度の内的緊張感もあり、デュナーミクも力強く、音楽のスケールが大きい。

とはいえ、一昔前の"英雄的"解釈はここには微塵もなく、曲の重くダイナミックな側面よりも、叙情や優しさや哀しみが心に広がるページも多い。

派手な演出を避け、純音楽的な節度と洗練を聴かせるヤンソンスのセンスはなかなかのものだ。

ヤンソンスは豊満な抒情性と緊張感を交錯させ、言うべきことを言い尽くした説得力が生まれている。

鮮烈な効果に富んでいる作品では、スリムに肉付けした上、その中に彼自身の思いを注ぎ込んで聴き手を納得させ、魅了する。

音楽を歌い上げる息の長さが、やはりロシアの指揮者ならではのスケールを感じさせる。

ショスタコーヴィチ先生も、ちょっと苦笑しながらもこういう演奏が好きなんじゃないかと思う。

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2011年05月25日


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この曲は、ムラヴィンスキーとレニングラード・フィルが初演して以来、ショスタコーヴィチの代表作となった。

そのためか、現在までビデオを含めると、彼らの演奏で、なんと12種類のディスクが発表されている。

そのなかでも、最高の演奏・録音がこの1枚である。

1973年5月の東京文化会館でのライヴだが、彼らの演奏はまさに絶好調で、冒頭からきわめて魅力的な表現である。

一分の隙もない鍛えに鍛え抜かれた音楽ともいえるが、非情に透明度が高く、そこに毅然とした精神性が示されている。

第3楽章などの透徹した表情は、もはや哲学的といってよい。

終楽章の驚くべき生命力の解放も雄渾をきわめた音楽を聴かせる。

アゴーギクも音楽的で、演奏の精度の高さは比類がない。

コーダでは1974年版の改訂をはやくも採用して遅いテンポで演奏されているが、そのため終結は感動的に高揚する。

この曲ではまず聴いてほしい演奏である。

冷徹、凄絶でありながら、芯に人間的な血の温もりの通っていることを教えてくれたNHKの録音とCD制作スタッフに感謝したい。

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2011年04月09日


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ショスタコーヴィチの15曲の交響曲うち、第2次世界大戦の間に作曲された第7番から第9番までを《戦争交響曲》と呼ぶことがある。

ゲルギエフはその概念を拡大し、ショスタコーヴィチの自由への戦いが始まる第4番から第9番までを《戦争交響曲》と呼び、その録音を完成している。

第5番はなかでも屈指の出来を示すもの。

初演者ムラヴィンスキーをはじめとして名演を残してきた指揮者は数多い。

ゲルギエフはショスタコーヴィチが独自の交響曲を確立したこの名作に新たな生命を与えているが、小奇麗に纏め上げることはしない。

作品をいったん完全に咀嚼し、その後、自らの個性と一体になった形で新たな有機体を創造する。

そこでは彼自身のソヴィエト時代の経験も大きく生かされていることだろう。

それにしてもなんという真実の音楽であろうか。

曲が盛り上がれば血がしたたり、リズムはめくるめくばかりの雄弁さでものをいい、心の大波が押し寄せる。

ゲルギエフの表現にウソは一つもなく、まさに作品の本質を衝いた名演といえよう。

現代の音楽界でただ一人カリスマ的魅力を放つゲルギエフ。破格の求心力で作品を生きたドラマとして再現する。

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2010年09月24日


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ショスタコーヴィチはジャズの語法で《ジャズ組曲》や《ピアノ協奏曲》を作曲しているが、ジャズは若きショスタコーヴィチの創作意欲を大いに刺激したようである。

ジャズの精神に乗っかると自然に作品が陽光の光を帯びてくるから、聴き手もすぐに楽しくなってくる。

しかもこれはオーケストラのための作品なのだが、いささかも重く、大げさにならないし、確かにオーケストラ・ジャズという魅力的な音楽が存在する、そんな実感に浸らせてくれる。

若き作曲家のアイディアと遊び心の賜というべきであろう。

28歳のときに書かれた《ピアノ協奏曲》もその心は20世紀のディヴェルティメントだし、余白に添えられた《二人でお茶を》は無邪気に遊ぶ青年の笑顔すら感じさせて心憎い。

シャイーが名門コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮して録音しているが、あの風格を誇る名門オーケストラが実に柔軟に、また可愛らしくショスタコーヴィチ作品を再現して、秀逸この上ない。

名門オーケストラをこんな遊び心を持つオーケストラに変えてしまったあたりに、シャイーの素晴らしさを再認識させる魅力あふれるアルバムである。

クラシックとは思えないカジュアルな作品。ショスタコーヴィチのもう一つの顔を知って嬉しくなる。

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2010年07月29日


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現代ロシアの楽壇を牽引するゲルギエフは、そのあふれるばかりの表現意欲と一分の曖昧さをも残さない徹底した解釈とで作品を雄弁かつ鋭角的に再現、この交響曲が秘め持つインパクトをまさに裸になって披歴している。

前例を見ない壮麗さ、大胆というべき表現の劇的起伏、そして原色的色彩感とリズムの鮮やかさが無類であり、圧倒的である。

それは確かにショスタコーヴィチの戦争交響曲の一つとしての位置づけの中で再現した熱演に他ならないが、ゲルギエフの指揮で聴くとき、その戦争はスペクタクルなどでは毛頭なく、苦悩する人間の姿が描かれた深刻なメッセージが噴出してのた打ち回っているかのようだ。

汗びっしょりになってタクトを振るその姿から「燃焼型」のようなイメージを持たれるゲルギエフだが、オペラハウスで鍛えられたドラマティックな面と明晰な楽曲分析による細かいアーティキュレーションをオーケストラに徹底させるクールな面を併せ持つマルチな指揮者である。

通常の倍程度の管楽器プルトを必要とするため、手兵マリインスキー管弦楽団にロッテルダム・フィルを加えた共同オーケストラで録音に臨んだ《レニングラード》は、第1楽章から大人数とは思えないくらいにダイナミックレンジを抑えてドライヴ。

第3楽章は美しくも哀しげなカンタービレが顔を覗かせるが、第4楽章途中まで抑えた演奏は続き、そして、「近づく勝利」を表現する怒涛のフィナーレへ突入。

その迫力たるやまさに鳥肌もの。

作品の核心を衝いた名演というべきだろう。

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2010年07月09日


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第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが入れ替わっても差がほとんどわからない稀有なクヮルテット、エマーソンSQがその技量と知性を惜しむことなく注ぎ込んだ全集である。

ベートーヴェンやメンデルスゾーンでは持て余し気味だった彼らの演奏技巧は、ここでは存分に羽ばたいている。

ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲はベートーヴェンのそれとともに弦楽四重奏団にとっては踏破、征服すべき目標としてそびえ立っている。

1976年に創設されたアメリカのエマーソンSQは作品や演奏の機会に応じて第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンとが入れ替わるという柔軟なスタイルを持つクヮルテットとして知られるが、それ以上に真摯かつ誠実な作品へのアプローチが毎回聴き手を感動させてきた実績を誇っている。

このショスタコーヴィチ録音は1994年から99年にかけてアスペン音楽祭で行なわれたツィクルスをライヴ収録したものだが、作品を気迫と集中力をもって再現しながらも、もう一つ別の視点から作品を俯瞰して見据えていくようなアングルの大きさが特筆され、ショスタコーヴィチ作品の豊かさを聴き手がじっくりと味わっていくことを可能にしている。

柔らかくひそやかな弱音(第1番第1楽章、第10番第1楽章、第14番第3楽章コーダ)から、バリバリと音を割った暴力的な強音(第1番終楽章コーダ、第3番第3楽章、第8番第3楽章)まで、表現の幅が実に広い。

第7番第3楽章や第12番第2楽章冒頭での激情の猛烈な迸りなど、作曲者の想像した音世界をも超えてしまったのではないだろうか。

どの曲の演奏も素晴らしく、感銘は交響曲にも匹敵する。

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2010年02月10日


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ヴェンゲーロフは1974年生まれのロシアのヴァイオリン奏者である。既に10代の頃から演奏活動を繰り広げているが、早くから世界の第一線で活躍してきた実績を持ち、紛れもない天才と言うべきであろう。

ヴァイオリンという楽器をただ単に上手に操るのではない。ヴァイオリンを通して彼自身の心の状態を雄弁かつ柔軟に物語ることのできる音楽家なのであり、そこで繰り広げられるドラマの真実性と詩情の無垢なる美しさに聴き手は魅了されてしまうのである。

もちろんその世界は採り上げる作品次第でいかようにも変化するが、これら4作品では真摯な演奏家としての姿勢が明確に刻印されている。

ヴェンゲーロフのヴァイオリンはただ快くは歌わない。彼のヴァイオリンは聴き手の心に放たれる弾丸であり、そこにある鋭さと求心力がヴェンゲーロフが今、なぜこの作品を採り上げるのかを自ずと語る演奏になっている。

言葉はいらない、説明も不要、音そのもの、音色そのもの、カンタービレそのものが作品の核心を解き明かしていく壮大な旅のような演奏であり、結果的にそれが聴き手と作品とを熱い絆で結びつけていくのである。

サポートするのはロストロポーヴィチ。これら2人の偉大なる作曲者を直接知る音楽家の指揮は、これまた使命感を裏付けとした深い味わいと雄弁なる説得力がある。

もちろんロストロポーヴィチは年齢的にはヴェンゲーロフの祖父のような存在だが、両者は作品にともに魅せられた一音楽家同士として向かい合っている。

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2010年01月18日


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この交響曲は社会主義的リアリズムの曲として喧伝されたが、マーラー(第2楽章のスケルツォ)、ストラヴィンスキー(第3楽章のコラール)といった作曲家の影響がはっきり窺え、彼らの延長線上にある作品として位置づけるのが正しいであろう。

そうした解釈を明確に打ち出しているのが、アンチェルで、例えば、第4楽章冒頭で弦やオーボエにアクセントをつけることによって、「ヴォツェック」の幻影が聴き手にはっきりわかるような演奏をしているのである。

さすが、アロイス・ハーバのもとで微分音の作曲を学び、シェルヘンの弟子を務めただけある。

アンチェルの新即物主義的な指揮がこの作品にフォルムを与え、潤いのあるチェコ・フィルのアンサンブルが生彩を放っている。

作品の劇性を誇大に強調することのない純音楽的な表現だが、歌うべき部分は豊かな感興をもって表現され、いささかも皮相な印象を与えないのは見事というほかはない。

それはアンチェルが誠実に作品に対し、その内奥にひそむものを把握しているからだろう。

新古典主義的な様式が録音の頃の"時代"を示しているが、作品の原像を再現したといえる好演である。

この「レニングラード」は、1957年の録音であるから、チェコ・フィルが完全にアンチェルの楽器として機能していた黄金時代の記録ということになる。

後年のチェコ・フィルと比較しても、弦の厚みといい、アンサンブルの精度といい、オーケストラの実力は、断然上であることが分かるだろう。

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2009年12月05日


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ムラヴィンスキーのおそらく最後の録音となるもの。

彼はこの後一切の録音を拒絶したとも言われる。

ムラヴィンスキーは、ショスタコーヴィチの作品の多くの初演を手がけてきた人で(この曲も)、ショスタコーヴィチの音楽に対する理解が深い。

これは、そうしたこの巨匠ならではの、堅固そのものの目のつんだ表現で、そのみずみずしい表情は、たとえようもない。

演奏は第1楽章冒頭のチェロ、バスからまさに豪壮な力に満ちあふれている。

音楽には驚異的な精確さと精気があり、重量物が突進するような推進力があるのが楽想にふさわしい。

圧倒的で巨大な表現ともいえるが、ことさら作品の標題的な性格を強調せず、むしろ純音楽的な表出をしながら、器量の大きいスラヴ的力感をもった、西欧の演奏には望めないものを示している。

トゥッティの響きにも独自のコクがあり、随所にムラヴィンスキーの大きな風格が示された作品を手中に収めた劇的な表現だ。

金管はもとより、木管も弦と明らかにロシアの響きを感じさせる。

ショスタコーヴィチの作品の求めていた響きが、まさにここにある。

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2009年08月20日


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指揮者の円熟を物語る秀演だ。

冒頭から明晰この上なく、しかも弦のアンサンブルの充実とニュアンスの豊かさは特筆すべきものだ。

第2楽章は弦の清澄な表情がかけがえのない魅力となっており、第3楽章の緊張力をもった表現も美しい。

終楽章では洗練された音調と整頓された造形で演奏しているが、それが音楽的に純粋な光彩を放射する。

結果として純音楽的な演奏が、標題性や劇性の誇示よりもかえって説得力を持つことになったのである。

ショスタコーヴィチの交響曲は政治色の強いものが多く、この《レニングラード》もヒトラー率いるドイツ軍によって包囲されたレニングラード市内で着想されたのもといわれていた。

しかし、ロストロポーヴィチは「第7交響曲は、いわゆるファシズムの"悪"が第1楽章で表現されています。しかしその"悪"は単にファシズムばかりではありません。たとえばスターリンも"悪"です」と語り、作曲者と親交のあった音楽家として新しい解釈を示した。

27分弱にも及ぶ第1楽章は不気味にも力強く、第3楽章の穏やかな美しさはときに痛々しくもある。

そして「近づく勝利」が表現された迫力ある第4楽章。

大編成のオーケストラを意のままにドライヴして見せ、指揮者としての力量をはっきり示した名演である。

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2009年08月11日


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1993年の録音で、まだ新録音の部類だが、このショスタコーヴィチは、すでに不滅の歴史的名盤の地位が約束されているといってよい。

このアルゲリッチの独奏を上回る演奏がおいそれと出まいと思われるからだ。

なんと冴えわたったピアニズムだろう。しかも変幻自在。強烈なアタックと繊細なリリシズム、自由自在な即興性と確固とした構成意志、交響精神と室内楽精神。

ここには対立するすべての要素が、本能的ともいうべきセンスによって、楽想の変転に応じてストレートに曲中に示され、しかもそれが大きな全体で融合して、作品の魅力をくまなく表出することに貢献している。

「真面目なクラシック音楽のなかに現れるユーモアとウィットを前面に押し出した」と作曲家が語ったこの協奏曲を、アルゲリッチはいかにも生き生きと闊達自在に再現している。

コケティッシュなまでのユーモアと澄んだ詩情、そして美しい歌をたたえた演奏は、アルゲリッチならではの爽やかに引き締まった生命感にあふれており、スリリングな力の発露と抒情的な表現のしなやかな沈潜を絶妙な感覚で織りなしている。

この協奏曲の最も生彩にとんだ演奏というべきだろう。

フェルバーとヴュルテンベルク室内管弦楽団も引き締まった演奏でアルゲリッチのピアノをくっきりと支えており、名手トゥーヴロンの柔軟なトランペット・ソロも見事である。

むろんカップリングのハイドンも秀逸。

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2009年06月13日


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ヴォルコフ編の『ショスタコーヴィチの証言』はそれまでのショスタコーヴィチのイメージを大きく覆した。

舞台作品にも、室内楽にもその影響はすぐに現れたが、交響曲の解釈にもそれこそ革命的な変化が生じた。

その第一歩を印したのがこのハイティンク盤だ。

しかしロストロポーヴィチに代表されるような「証言」的解釈といえるわけではない。

むしろどんな立場にせよ思想によった解釈ではなく、音楽におのずと思想を語らせた点で、その後の幾多の演奏とも一線を画していると思う。

その透明感と堅実さは他の演奏では聴けないものだ。

その透徹したハイティンクの解釈を通して、全15曲の交響曲はショスタコーヴィチの人生と思想の遍歴を伝えている。

ここにはハイティンクの誠実をきわめた姿勢と、純音楽的演奏様式が一貫してある。

スコアを真摯に見つめることで作品の音楽的な意味を追求しながら曲の内面を掘り下げ、密度の高い音楽と均衡感の強い造形が表現されている。

作品に共通した悲劇的な感情や内部の隠された鋭いまなざしが、装飾や皮相感を伴わずに表出され、本質と美と思想を率直に聴き手に伝えてくれる。

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2009年03月16日


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ザンデルリンクのショスタコーヴィチには一種特有の抒情感がある。

それはドイツ的とも形容したい濃厚な陰影にみたされており、様式的には堅固で緊張力が強い。

ロシアの演奏にあるようなスケールの大きさはないが、それに代わる端正な魅力をもった演奏ともいえる。

東ベルリンの交響楽団がこのように整ったアンサンブルを聴かせるのもザンデルリンクの手腕といえるだろう。

第1番はドイツ的堅実さというか、各楽器のディティールまで確実に処理され、はつらつとした生命力を感じさせる。

第8番は冒頭から驚くほどの緊張感をもった表現である。合奏の精度も非常に高く、このオーケストラの最盛期の状態を示しているといえる。

ザンデルリンクは、スコアを精確に音にしながら、そこにロシア的な暗い情緒をよく表現している。

しかもドイツ人らしく、構成力が強く、後半の連続する3つの楽章は堅固そのもの。

そのため、ロシアの演奏家によるものや、他の西欧のオーケストラの演奏などとはかなり異なった趣がある。

第10番は最近演奏される機会が増え、カラヤンは2度も録音している。しかしこのザンデルリンク盤を聴くと、このように精巧に書かれた楽譜の再現にも、驚くほどの民族性が反映することがよくわかる。

この演奏は、他のどれよりも重厚・堅固で、そしてブラームスのような深く沈んだ響きがする。ショスタコーヴィチがまるでドイツの作曲者であるかのようにきこえるのだ。

管と弦もしっとり溶け合い、全曲の造形も見事。

ザンデルリンクがほとんど真面目一徹に構えた第15番の演奏は、この曲のもつ寂寥感をいっそう強め、さらに一歩進めて音楽そのものへの冷ややかな観念を物語っているように思われる。

オーケストラもまた一分の隙も油断もない室内楽のようなアンサンブルで曲を見つめている。

この曲を論じるためには1度は聴くべき演奏といってよいだろう。

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ザンデルリンクの誠実さには頭が下がる。

曲の外的効果に頼らず音符の一つ一つを丁寧に音化していく中から、作品の真の姿が浮かび上がってくる。

ドイツ的ともいえる几帳面な構成、緻密な設計でまとめた演奏であり、響きが豊かで力強く堂々とした風格を感じさせるのも、ザンデルリンクの自信を示している。

リズミカルな部分はどことなく重々しいが、これもドイツ風といえるかもしれない。

全体にスコアに忠実だが、無用に神経質にならないことにも好感がもてるし、作品の内部に秘められた作曲家の思想を着実に表出している。

特に第1楽章第2主題や第3楽章でのしみじみとした哀感は心に迫る。

興味深いのは、3楽章までのテンポは完全にスコアと一致させながら、終楽章だけは指定よりもかなり速く始め、最後をかなり遅くする点。

注目すべきことにこれはムラヴィンスキーの演奏とほぼ一致する。

この楽章のテンポ指定には疑問が多いが、初演者ムラヴィンスキーと、一時期彼のもとにいたザンデルリンクに共通するこの解釈には、一つの「正統」があると考えてよいかもしれない。

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2009年03月06日


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贅肉をすべて削ぎ落としたような明確さで一貫した、非常に強靭な演奏である。

その半面、生真面目にすぎ、第1楽章に示された独特のウィットやユーモア、ペーソスとシニシズムの混合した味わいにやや欠ける。

この演奏では悲劇的な終楽章が強い説得力をもつが、それも冒頭の弱点がなければ、さらに重く深い意味をもったに違いない。

とはいえ、このきびしさは尋常ではない。

例えば、打楽器の充溢といった、最もショスタコーヴィチらしい第1楽章の冒頭のトライアングルの音からはっきりと、どの打楽器の音にも決して曖昧さを残さず、望みうる最高の強度で音そのものを光の中に投げ入れてみせる。

その意味で、例えば、ヤルヴィによる「15番」のように淡い音調とコケティッシュなきらめきが、ちょうどショスタコーヴィチが子供のころ最初に好きになったという「ウィリアム・テル」序曲の引用を介して、作曲家の幼年時代への回想を我々に促す、といったことも、ここではありえない。

第1楽章の中盤に聞こえるヴァイオリンのソロによる旋律も遠い遠い彼方から風に乗ってやってくるようなヤルヴィとは違って、あくまで、強く、明快で、一点の曇りもない。

本来ショスタコーヴィチにあるはずの笑いも、そしてその笑いの最も完成した表現の一つであるこの「15番」においてすら、ムラヴィンスキーは笑わない。

そんな冒頭からエンディングまで、狂いのないリズムで、あまりにもまぶしすぎる程の光の中を一気に駆け抜けていく。

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classicalmusic

早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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