セル
2016年12月18日
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チェコ・プラガからのレギュラー・フォーマットによるジェニュイン・ステレオ・ラブ・シリーズの1枚で、新規にリマスタリングされた瑞々しい音質が1960年代初期のゼルキン円熟期の至芸を甦らせている。
このシリーズに使われている音原の中でもライヴ録音には保存状態の良好で貴重なものが多く、チェコの最新のリマスタリング技術が活かされて同音源でも他のレーベルのCDと聴き比べると大概こちらの方に分がある。
このディスクでもその音質の艶やかさと臨場感に驚かされるが、これは古い音源でもまだリマスタリングによってグレード・アップの余地があることを証明している。
学者然とした風貌のピアノの大家ルドルフ・ゼルキンは1903年生まれで、同じく米国を拠点として華麗きわまる活動をしたルービンシュタインとは一回り以上も違うが、かのホロヴィッツとは1才上、同年輩である。
モーツァルトの2曲のピアノ協奏曲の演奏は全く自然体だが、一切の無駄を省いた本質的で密度の高い音楽性がモーツァルトの作品に備わっている奇跡的な幸福感を感じさせてくれる。
ゼルキンはボヘミア出身だがウィーンで正式な音楽教育を受けたことから、彼にとってモーツァルトの演奏は故郷へ帰るような親しみがあったのだろう。
このモーツァルトはひとつの典型だが、山っ気、洒落っ気といったものを少しも感じさせず、生真面目で実直な演奏スタイルを貫いている。
特に、第27番は一流ピアニストの新盤が次から次に投入される最激戦区だが、ゼルキン盤は1962年の録音ながら半世紀以上を経て、いまなお根強い支持があるのは、細部へのきちっとした目配り、全体としての整然さに加えて、愚直なまでのひた向きさを感じさせるからではないだろうか。
その高い集中度の一端は、ゼルキンの低い唸り声(グールドばかりではない!)がバックにかすかに聴き取れることからもわかる。
また第12番はマールボロ音楽祭における貴重なライヴ盤であるが、ソロと指揮者の間の打てば響くような巧みなやりとりやオーケストラとの調和と安定感も秀逸だ。
彼は若くしてヴァイオリニスト、アドルフ・ブッシュの伴奏者として、またブッシュ四重奏団の共演者として長く演奏活動を続けたアンサンブル・ピアニストでもあったことから、こうした模範的な合わせ技が鍛えられたのだろう。
バルトークのピアノ協奏曲では、その野趣溢れる曲想から演奏者が渾身の力を振り絞ったような熱演が多い中で、ゼルキンはそうした演奏とは対極的に力ではなく持続する緊張感でこの作品を再現することで、かえってバルトークの音楽から噴出されるエネルギッシュな性格の表出に成功している。
こう言っては失礼だが、ライナー・ノーツの表紙に掲載されている写真のピアニストが演奏しているとは到底想像できないパワーを秘めている。
しかしそれが本来のテクニックというものだろうし、指揮者ジョージ・セルの研ぎ澄まされた感性から導かれる精緻なオーケストラと相俟って、両者が鮮烈なサウンドを創造してこの曲に一層充実感を与えている。
セル&コロンビア響の追走はゼルキンとひたと一致しており整然さがさらに際立つ。
この見事な演奏はハンガリー出身指揮者セルによる故国の作曲家バルトークへの強い思い入れがあるからかも知れない。
ちなみに、セルとゼルキンは、作曲家シェーンベルクでの若き修行時代の相弟子である。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2016年03月29日
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ジョージ・セルと言えばクリーヴランド管弦楽団であるが、他のオーケストラでもいくつか名盤と言われるものを残しており、その1つがこれ。
演奏芸術の世界は、表現の手法も含めて古楽器(オリジナル楽器)というジャンルと、現代楽器というジャンルと二手に分かれてしまった感がある「今」だが、古楽器の時代の音楽を現代の編曲術を駆使し普通の楽器で演奏する、ということの重大な意味を思い知らされた1枚。
ヘンデルのようなバロック音楽を、大オーケストラを指揮して演奏するというのは、もはや随分と過去の時代のもののように思うが、本盤のような名演に接すると、現代の古楽器奏法や古楽器演奏などというものが、実に小賢しく感じる。
弦楽器なんて何プルトあるんだと言いたくなるくらい厚い音であり、古楽器全盛の現代では考えられない録音で、時代考証的には絶対に間違った演奏であろう。
でもたとえば、《王宮の花火の音楽》の「序曲」後半における躍動感、この心弾むような気分こそ、ヘンデルが表現したかったものではないだろうか。
本盤が録音された1960年代前半というのは、セルの全盛時代であり、手兵のクリーヴランド管弦楽団とは、「セルの楽器」とも称されるような精緻な演奏が信条であった。
しかし、ロンドン交響楽団を指揮した本演奏では、むしろ、豊穣にして豪壮華麗なオーケストラの響きをベースとした温もりのある名演と言った趣きがする。
こういう演奏に接すると、セルは、特にクリーヴランド管弦楽団以外のオーケストラを指揮する場合には、冷徹な完全主義者という定評を覆すような、柔軟にして温かい演奏も繰り広げていたことがよくわかる。
音楽を聴く楽しみは、何と言ってもその演奏を聴いて、自分が心から感動するところにあるだろうし、その音楽の流れと自分とが1つになる経験をするということだ。
音楽の様式がどうのこうの、時代考証がああだこうだというのはその次に来るべき問題である。
このセルのヘンデルを様式や時代考証の点から否定するのは簡単であるが、だからといって多くの人から支持されてきたこの名演に対してダメだしすることは短慮である。
専門の音楽学者でもない素人が、しかし本当に心からクラシック音楽を愛する者が、いい音楽だという演奏はやはり素晴らしいものがあるのだろうし、筆者も実際聴いてみて引き込まれた。
これは、偉大な表現であることに間違いはなく、表現もかえって斬新。
録音もオリジナルテープからの復刻で鮮明である。
ただ、バロックを愛する者としては、ガーディナーやピノックなどの古楽器による(パイヤールやマリナーによる現代楽器によるものでもいいが)名演を聴いて、なおかつ余裕があればこういう演奏も聴いてほしいと思う。
そうするほうが、この厳格さの中に人間臭さを漂わせた大指揮者のヘンデルの良さもよりはっきりとわかると思う。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2015年08月09日
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チェコ・フィルを振ったドヴォルザークの交響曲第8番が1969年、ルツェルン祝祭管弦楽団とのブラームスの交響曲第1番が1962年のそれぞれルツェルン音楽祭でのライヴ録音で、どちらもオリジナル・テープからのリマスタリングによる良好な音質が再現されている。
前者は楽章の切れ目ごとの聴衆の雑音や演奏終了後の歓声が入っていなければセッションと思えるほどの完璧さと、演奏中一音も聴き逃すまいとする会場に水を打ったような静けさが印象的だ。
オン・マイクで採音されているために音響がややデッドだが、それだけに細部も明瞭に聴き取ることができる。
一方後者は擬似ステレオで音場がいくらか狭く、音像も多少平面的だが当時のライヴとしては決して悪い音質ではない。
2曲ともセルの非常に厳格な指揮法によってオーケストラが統率されているが、そこから熱く迸るような音楽が流出している。
ドヴォルザークでは一音符たりとも疎かにしない誠実さと、アンサンブルの徹底した合わせの上に築いていくセルの潔癖とも言える音楽作りにチェコ・フィルがその機動力を駆使して演奏に臨んでいるのがひしひしと伝わってくる。
第2楽章ではセル一流の筋を通した抒情と牧歌的な幻想が美しく、ここではブルーノ・ベルチクのソロ・ヴァイオリンも雰囲気を盛り上げている。
終楽章の変奏でのバランスを保ちながら金管楽器を際立たせる手法は模範的で、テンポを巧みに動かして息もつかせずたたみかけるフィナーレに、応える会場のどよめきが一層感動的だ。
ブラームスに関してはこれだけ激情的な解釈もあったかと思えるほど張り詰めた緊張感と鋭い感性が漲った演奏で、第4楽章のテーマに入る前に思い切ってホルンを咆哮させている。
この部分は例えて言うならば、ベームの演奏では雲間から差し込んでくる陽光のようだが、セルのそれは今にも堰を切って一斉に流れ込む大河のようだ。
この頃のルツェルン祝祭管弦楽団は個人的な演奏技術から言えばそれほど高いレベルではなかったにしても、セルによって鍛え上げられた彼らの演奏に賭けたハイ・テンションの意気込みが感じられる。
デジパック入りでファースト・マスター・リリースのシールが貼ってあるアウディーテ・レーベルからの初出音源のひとつになる。
数葉の写真入31ページの独、英、仏語によるライナー・ノーツが挿入されている。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2015年06月25日
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ベートーヴェンの交響曲全集で、最も完成度の高い、かつ癖がなく聴きやすいものの1つではなかろうか。
大編成オーケストラを指揮しながら、引き締まった美学を貫いたセルのベートーヴェン演奏はスタンダードと呼ぶに相応しいものとして定評がある。
だが一方では、セルと言えば練習の鬼、厳格、一分の隙もない、というのが代名詞のようにに言われ逆に言うと面白みに欠けるという評価にもなっていた。
それはおそらくLP時代からの平板的で奥行きがない録音のせいで、今回のりマスタリングを聴いてその評価が一変してしまった。
本セットを改めて聴いてみると過度に力を入れず、洗練された正統派のベートーヴェンで、トスカニーニ並みの完璧なリズムとダイナミクスを備えつつも微妙なニュアンスや即興性にも富んでいることが良く分かった。
強烈な個性や情熱を感じさせる演奏も良いが、セルの堂々と揺るがぬ、かつ絶対だれないテンポと、クリーヴランド管弦楽団の鉄壁のアンサンブルによる引き締まった演奏は、迫力十分でも感情過多ではないので聴き飽きないし耳にもたれない。
セルというと、ドヴォルザークなどのチェコ系の作品やR.シュトラウスが高く評価されているようであるが、最も素晴らしいのはベートーヴェンであり、この全集がその証明である。
例によって、指揮者の特別な個性を際だたせるような表現ではないが、やや速めのテンポで高い合奏能力をもったオーケストラによって誠実に演奏されている。
オーケストラの各楽器が見事に解け合って、まるで1つの楽器のように聴こえ、知情意のバランスのとれた演奏で、曲の素晴らしさが率直に伝わってくる。
また、セルの全集はベートーヴェンの前向きで意志的な音楽世界を極めて直截に表現し、一貫して強い推進力を感じさせる。
妥協を許さない強靭なセルの音楽性とリーダーシップがベートーヴェンの作品における意志的側面を見事に浮き彫りにしている。
その点で現在も新鮮であり、このような全集がステレオで残っており安価に入手できることは有難いことだ。
鉄壁のアンサンブル、クールな表現スタイルと言われたセル&クリーヴランド管弦楽団であるが、パーヴォ・ヤルヴィなどの、近年のソリッドな演奏に慣れた耳からすると、むしろ暖かみ、人間味や、ロマンさえも感じさせる。
時代を考えれば当然であるが、大編成オケによるベートーヴェンがコンサート・レパートリーの主役だった時代の息吹を存分に味わえる。
演奏以上に驚かされたのが音質の良さである。
初期CDの音はあまり良くなく、オリジナル・紙ジャケットのセットは高かった上にすぐ品薄になってしまうなど、なかなか理想的な形で出てこなかったセルのベートーヴェン交響曲全集が、漸く万人が入手しやすい形でリリースされた。
リマスタリングは、かなり高い水準で成功しており、特に、少し録音の古い「エロイカ」が良好な音質に蘇っているのも嬉しい。
「エロイカ」はSACD化もされており、そちらも素晴らしい音質で聴けるが、音の骨太感、全体の密度感は今回のセットの方が上な気がする。
さざ波のような弦、適度な余韻をもたらす心地よいホールトーンなどが見事にとらえられており、従来盤と比較したところその違いに驚いてしまった。
テープヒスも、録音年代から考えると全体に低いレベルで抑えられている。
クリーヴランド管弦楽団のものすごい力量も良く分かり、当時世界一のオーケストラと言われたのが納得できる。
ところどころセルの唸り声のようなものも入っており一層生々しさを感じさせる。
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2015年06月24日
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本盤に収められたセル&クリーヴランド管弦楽団によるドヴォルザークのスラヴ舞曲全集については、既にリマスタリングCDが発売された際に、次のようなレビューを既に投稿済みである。
「全盛時代のセル&クリーヴランド管弦楽団による演奏の凄さを味わうことができる圧倒的な超名演だ。
セル&クリーヴランド管弦楽団は、『セルの楽器』とも呼称されるほどの鉄壁のアンサンブルを誇った名演奏の数々を展開した稀代の黄金コンビであった。
すべての楽器セクションがあたかも1つの楽器のように聴こえるという精緻にしてまさに完璧な演奏の数々を繰り広げていたところである。
もっとも、そうした完全無欠の演奏が、ある種の技量に偏ったメカニックな冷たさを感じさせたのも否めない事実であり、とりわけ1960年代の半ば頃までの演奏にはそうした演奏があまた散見されたところだ。
もっとも、理由はよくわからないが、ドヴォルザークやスメタナなどのチェコ音楽、そして独墺系の作曲家の中ではとりわけシューマンの音楽については、1960年代後半以降の最晩年の演奏において垣間見せた、情感豊かで柔軟性のある円熟の名演の数々を披露していたと言える。
特に、ドヴォルザークやスメタナなどのチェコ音楽には、ハンガリーの隣国の音楽ということもあり、深い愛着と理解を有していたと言えるのかもしれない。
本盤に収められたドヴォルザークのスラヴ舞曲全集も、実に素晴らしい圧倒的な超名演だ。
いずれの楽曲も一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルを駆使した、まさに完全無欠の演奏を展開しており、おそらくはオーケストラ演奏としてパーフェクトなものとさえ言えるだろう。
それでいて、1962〜1965年にかけての演奏であるが、この時期のセルの欠点でもあったある種のメカニックな冷たさなどはいささかも感じさせず、どこをとってもチェコの民族色溢れる豊かな情感に満ち溢れているのが素晴らしい。
ドヴォルザークのスラヴ舞曲全集の名演としては、クーベリック&バイエルン放送交響楽団による演奏(1973〜1974年)や、ノイマン&チェコ・フィルによる2度目の演奏(1985年)などが掲げられるが、本盤のセル&クリーヴランド管弦楽団による演奏も、これらの名演に肉薄する圧倒的な超名演と高く評価したいと考える。」
音質は、1960年代のスタジオ録音であるものの、従来盤でも比較的良好な音質と言えるが、数年前に発売されたシングルレイヤーによるSACD盤は途轍もない鮮明な高音質であったところだ。
セル&クリーヴランド管弦楽団による鉄壁のアンサンブルを駆使した完全無欠の演奏の凄みを味わうには望み得る最高の音質であるとさえ言える。
機能的なアンサンブルで定評のあるセルとクリーヴランド管弦楽団のコンビだが、ここではスラヴ的なメロディを時に粘っこく、リズミカルな曲では熱っぽく演奏している。
セルは、ゆったりとしたテンポを基調に置いているだけに、クーベリックよりも緩急の描き分けが一層大きくなっており、音の強弱の幅、表情付けも大きい。
こうした特徴が1つの曲の中で絶妙にブレンドされており、優美さと、スラヴ舞曲特有の激しく軽快に躍動するリズム感を兼ね備えた、スケールの大きい素晴らしい名演となっているのだ。
もっとも、当該SACD盤は現在では入手可、多少高額であったとしても、当該SACD盤の購入を是非ともお薦めしておきたいと考える。
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2015年06月12日
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セルが遺した録音を俯瞰してみると、やはり古典派の演奏がことに素晴らしく、本盤に収められたモーツァルトも凡百のアルバムとは一線を画す、セルの面目躍如とした好演と言えよう。
セルの芸術が、モーツァルトと実によくフィットしており、無駄のない歯切れのよい演奏で、ウィーン風ではないかもしれないが、オケのバランスが素晴らしい。
そして、実に引き締まった筋肉質の演奏であるとともに、インスピレーションに導かれたクリスタルのような名演だ。
喜びと悲しみが表裏一体となった演奏と言えるところであり、まさに、セル&クリーヴランド管弦楽団の全盛期の演奏の素晴らしさを存分に味わうことができると言えるだろう。
セルは、先輩格である同じハンガリー出身の指揮者であるライナーや、ほぼ同世代でハンガリー出身のオーマンディなどとともに、自らのオーケストラを徹底して鍛え抜いた。
セルの徹底した薫陶もあって、就任時には二流の楽団でしかなかったクリーヴランド管弦楽団もめきめきとその技量を上げ、ついにはすべての楽器セクションがあたかも1つの楽器のように奏でると言われるほどの鉄壁のアンサンブルを構築するまでに至った。
「セルの楽器」との呼称があながち言い過ぎではないような完全無欠の演奏の数々を成し遂げていたところであり、本盤の演奏においてもそれは健在である。
モーツァルトの交響曲第35番、第40番、第41番の名演としては、優美で情感豊かなワルター&コロンビア交響楽団による演奏(第40番についてはウィーン・フィルとの演奏)や、それにシンフォニックな重厚さを付加させたベーム&ベルリン・フィルによる演奏が名高いと言えるが、セルによる本演奏はそれらの演奏とは大きく性格を異にしていると言えるだろう。
3曲ともすみずみまでコントロールされた表現であり、現代的とも言える鋭い感覚がみなぎっている。
きりりと引き締まったアンサンブルがとても魅力的で、演奏の即物性において、演奏全体の造型の堅牢さにおいてはいささかも引けをとるものではない。
テンポといい表情といい、よく整っているその中にセルの情感がテンポの動きやダイナミックな変化の中に浮かび上がってくる。
「ハフナー」交響曲の冒頭、生きのいい音楽がはじまった瞬間から、巨匠セルとクリーヴランド管弦楽団が奏でる演奏に引き込まれる。
特に、ト短調シンフォニーの共感に満ちた歌と悲愴美は音楽を豊かに色どっており、説得力が強い。
いつものセルと比較してテンポの緩急の変化が大きく、時におやっと思えるほど際立った動きをみせ、メリハリのある演奏で聴きごたえがある。
圧巻は、本CD最後に収められた「ジュピター」シンフォニーの演奏で、速いテンポで率直にあっさりと表現していて、情緒というよりは感覚的で明快な表現を志向しているようだ。
両端楽章がリズミックで威風堂々としていて、フレージングや間の取り方のひとつひとつに名人芸とも言うべき味わいがあって魅了される。
全4楽章が厳しく引き締められているが、第2楽章ではほのぼのとした温かさも感じさせる。
とりわけ、第3楽章から終楽章にかけての演奏は素晴らしく、聴いていてまさに天上にいたる心地で、天からの贈り物のようなモーツァルトの音楽を堪能させてくれる。
そして、各フレーズにおける細やかな表情づけも、各旋律の端々からは汲めども尽きぬ豊かな情感が湧き出してきており、決して無慈悲で冷徹な演奏には陥っていない点に留意しておく必要がある。
いささかオーケストラの機能美が全面に出た演奏とも言えなくもないところであり、演奏の味わい深さという点では、特に第40番については、クリーヴランド管弦楽団との来日時のライヴ録音に一歩譲るが、演奏の完成度という意味においては申し分がないレベルに達しており、本盤の演奏を全盛期のこのコンビならではの名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。
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2015年04月16日
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最盛期のギレリスが巨匠セルとともに残した名匠同士によるベートーヴェンで、ギレリスとセルという名手同士ががっぷり四つに組んで作り上げた名演だ。
クリーヴランド管弦楽団をセルの楽器と称されるまでに徹底的に鍛え上げたセル、そして、鋼鉄のピアニストとの評価がなされたギレリスの両者の組み合わせ。
この両者が組んだ協奏曲は、何か血も涙もないような冷徹な演奏に陥ってしまうのではないかとの懸念もあったが、本盤を聴いて、それは杞憂に終わった。
それどころか、燃えたぎる緊張感の中にも精妙で美しい演奏は、ギレリスのピアノとセル&クリーヴランド管弦楽団の特質が見事に合致したもので、その澄み切った音楽は感興に満ちており、実に懐の深い滋味溢れる名演に仕上がっている。
このような名演になった要因は、最晩年のセルの芸風にあると言えるだろう。
確かに、1960年代前半までのセル&クリーヴランド管弦楽団の演奏は、精緻なアンサンブルが売りであった。
オーケストラのすべての楽器の音が1つになるような鉄壁さは脅威とさえ言えるもので、筆者も、セル亡き後のクリーヴランド管弦楽団のレコーディングにおいて、いまだにその残滓があることに唖然とした記憶がある。
そうしたセルも、1960年代後半の最晩年になると、精緻なアンサンブルを維持しつつ、ある種の柔軟性が出てきたように思う。
それが、単なる老化によるものか、それとも、芸風の深化によるものかは定かではないが、いずれにせよ、演奏に滋味豊かさが加わったのは事実である。
そんな滋味溢れる名演の1つが本盤であると考える。
そうしたセルの演奏に、ギレリスも見事に応え、ここでは、鋼鉄のピアニストの看板を投げ捨て、セルとともに、温かみのある演奏を繰り広げているのが素晴らしい。
ギレリスのピアノは、ハッタリや過剰なロマンは皆無、素晴らしい粒立ちのタッチで、1つ1つの音符を慈しむように丁寧に弾き、それが素晴らしい叙情性を生む。
それでいて、ピアノとオケ双方が一切の甘えを排した、解釈も含めておそらく最も厳しいベートーヴェン演奏とも言える。
隅から隅まで表現がシンクロしており、協奏曲表現としては、これを超える演奏は難しいのではないだろうか。
細かい合わせも見事(ピアノ独奏からオケの総奏になだれ込むところを聴くべし!)で、鳥肌が立つ。
セルはやはり上手いし、最高の演奏効果が実現するギレリスの演奏スタイルも、ベートーヴェンにピッタリで、もう何から何まで筋書き通り。
緊張感を伴いながらの精妙で美しい演奏は、ギレリスのピアノとセル&クリーヴランド管弦楽団の特質が見事に合致したことを示すもので、その澄み切った音楽は感興に満ちた素晴らしさに富んでいる。
いわば両者のベートーヴェンの音楽に対する愛着が滲み出て来るような演奏で、力技や効果狙いは皆無、ゆっくり目のテンポ、掌の上で音楽を大切に転がすような取り扱いが、なにか忘れていたものを大切に差し出させれているようだ。
両者が共に1つの世界を作り出すことをここまで徹底して実現したこの記録は、多くの人に賞賛されてしかるべきだと思う。
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2015年04月07日
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管弦楽の魔術師R.シュトラウスの傑作を集めたアルバムで、セルは若い頃R.シュトラウスに可愛がられ、演奏会にも積極的にR.シュトラウスの作品を取り上げ、広く紹介した指揮者である。
ロマン主義から現代音楽への橋渡しをした存在とも言われるR.シュトラウスは、若き日のセルの才能を見出し、指揮者としての活動に導いた存在でもある。
セルは生前にR.シュトラウス本人からの薫陶を受けた数少ない指揮者で、作曲者との親交に裏付けられた説得力にあふれる演奏が手兵・クリーヴランド管弦楽団のもと、縦横に展開されている。
セルは、モーツァルトやハイドンの演奏で評価の高い指揮者であったが、このR.シュトラウスでは、彼の楽器だったクリーヴランド管弦楽団の名手の演奏も相俟って素晴らしく引き締まった演奏を聴かせる。
クリーヴランド管弦楽団は、セルが首席指揮者として君臨していた時代には、「セルの楽器」と評価されるほどの精緻なアンサンブルを誇ったが、本盤を聴くとそれがよくわかる。
良い意味での冷たさがあり、洗練されたシンフォニックな表現は、オーケストラ音楽の楽しみを十二分に味わわせてくれる。
同じく、R.シュトラウスを得意としたベームやカラヤン、ケンペとは異なるすっきりとした魅力があるところなど、この巨匠ならではの芸格と言うべきだろう。
先ずは、「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」を掲げたい。
セルの圧倒的な統率力の下、クリーヴランド管弦楽団をまるで手足のように操り、超凝縮型の圧倒的な名演を成し遂げている。
R.シュトラウスのオーケストレーションは、同曲でも複雑さを極めるが、それをあたかも顕微鏡で解剖するかの如く、精緻に表現していく様は圧巻という他はない。
セルは、あまり濃密な表現はもちこまないが、細部まで配慮の行き届いた的確な表現によって、生き生きと爽やかな緊張感ともって音楽を運んでおり、作品の洒落た味わいをすっきりと打ち出している。
セルの「ティル」は、肥大化する無意識の衝動に動かされた悪戯者ではなく、最初っから計算づくのインテリ政治犯のようで、ユニークである。
次に、「ドン・キホーテ」を掲げたい。
セルのアプローチは、全体が的確に見極められており、どこか1ヶ所だけが突出してしまうようなところがなく、バランスが良いので、総合的にみて、この曲を知る上では格好の名演と言えよう。
施された表情は、いずれもよく吟味されており、過不足なく多彩で、洗練されている。
ここでのチェロのフルニエは垢抜けしており、決して気品を失わない独奏は見事であり、全体のなかに無理なく溶け込んでいる。
そうした名独奏を十分に曲想生かしつつに、セルは、手兵のクリーヴランド管弦楽団を自在にドライブして、各変奏を巧みに描き分けている。
オケの優れた能力をフルに発揮させながら、各変奏を隙なく描き上げていく手腕は、実に見事だ。
これら両曲に対して、「死と変容」は、やや力づくの箇所がないわけでもなく、セルの本領が発揮したとは言えない点が散見され、いささか残念な演奏に終わっている。
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2015年03月24日
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本盤は、ハンガリー出身の名指揮者ジョージ・セルが1962年にロンドン交響楽団を指揮して録音したチャイコフスキーの交響曲第4番ほかを収録したアルバムである。
チャイコフスキーの交響曲第4番は、当時不幸な結婚で悩んでいた作曲者の心境を反映した人生の苦悩と哀愁に関する標題的内容を持った情熱的な曲。
妥協を許さない厳格なアプローチで音楽の本質に迫ることで知られた指揮者、セルが残した名盤中の名盤で、チャイコフスキーが伝えたかったロシアの空気をキッチリ音楽にしている。
セルはこの録音後「私の目の黒いうちは絶対発売させない」と言った逸話が残っている演奏であるが、この逸話を知った時は、とても信じられず、愕然とした覚えがある。
セルとしては、やはり手兵クリーヴランド管弦楽団とは違い、ロンドン交響楽団では自分の思い通り演奏できない不満があったのであろうが、逆説的に言えば、セルとオケが目に見えない火花を散らしながら演奏したが故に、全体を通して、緊張感と気迫溢れる名演となったのかもしれない。
しかしさすがの名門オケ、このテンポ、短い音の連続でも響きの豊かないい音を出しており、何よりチャイコフスキーに欠かせない木管の豊かで輝かしい響きが聴かれる。
センチメンタリズムを極力排したドライで禁欲的なセルの毅然とした音楽づくりに、ロンドン交響楽団は必死で応えながらも、自らの持ち味の音の響きも保ち続け、マエストロの要求との折り合いをつけたようだ。
そのお互いの葛藤に何とか見合う曲としてチャイコフスキーの交響曲第4番は最適だったかも知れない。
セルは過度な感傷を避け、この交響曲特有の重たいイメージをあまり感じさせず、それでいて決して無機的にはならない。
第1楽章の出だしの金管・木管の音に続く弦の音にしてから、非常に大切に音を出しているなと感じさせるものだ。
全体を40分ちょっとで駆け抜けているが、この快速テンポは、かのムラヴィンスキーの1960年代の名演に匹敵するものだ。
全体的な造型や、演奏の性格はムラヴィンスキーの名演に準じるものであり、手兵のクリーヴランド管弦楽団を「セルの楽器」と称されるまでに鍛え上げたセルの片鱗が見られるが、例えば、第1楽章の終結部のテンポの激変や、終楽章のアッチェレランドなど、セルにしては珍しい踏み外しも見られる。
セルに率いられたロンドン交響楽団は、第2楽章で美しい旋律を豊かに奏でたかと思うと、一転、終楽章では一糸乱れぬ超人的なアンサンブルで聴き手を圧倒する。
特に終楽章の気迫溢れる演奏は,ただ単に賑やかな演奏ではなく、緊張感溢れる演奏となっていて、ダイナミックな中にも細やかな味付けもされており、あっという間に聴き終えてしまう。
ロンドン交響楽団の許容力と懐深さによって貴重な「セルのチャイ4」が聴けたことに感謝したい気分だ。
こんな演奏は他に類例がなく、聴き終えたあと適度な興奮と余韻、爽やかな印象が残る、今だに色褪せない名盤である。
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2015年02月27日
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ギレリスとセルという名手同士ががっぷり四つに組んで作り上げた名演だ。
クリーヴランド管弦楽団をセルの楽器と称されるまでに徹底的に鍛え上げたセル、そして、鋼鉄のピアニストとの評価がなされたギレリスの両者の組み合わせ。
この両者が組んだ協奏曲は、何か血も涙もないような冷徹な演奏に陥ってしまうのではないかとの懸念もあったが、本盤を聴いて、それは杞憂に終わった。
それどころか、燃えたぎる緊張感の中にも精妙で美しい演奏は、ギレリスのピアノとセル&クリーヴランド管弦楽団の特質が見事に合致したもので、その澄み切った音楽は感興に満ちており、実に懐の深い滋味溢れる名演に仕上がっている。
このような名演になった要因は、最晩年のセルの芸風にあると言えるだろう。
確かに、1960年代前半までのセル&クリーヴランド管弦楽団の演奏は、精緻なアンサンブルが売りであった。
オーケストラのすべての楽器の音が1つになるような鉄壁さは脅威とさえ言えるもので、筆者も、セル亡き後のクリーヴランド管弦楽団のレコーディングにおいて、いまだにその残滓があることに唖然とした記憶がある。
そうしたセルも、1960年代後半の最晩年になると、精緻なアンサンブルを維持しつつ、ある種の柔軟性が出てきたように思う。
それが、単なる老化によるものか、それとも、芸風の深化によるものかは定かではないが、いずれにせよ、演奏に滋味豊かさが加わったのは事実である。
そんな滋味溢れる名演の1つが本盤であると考える。
そうしたセルの演奏に、ギレリスも見事に応え、ここでは、鋼鉄のピアニストの看板を投げ捨て、セルとともに、温かみのある演奏を繰り広げているのが素晴らしい。
それでいて、ピアノとオケ双方が一切の甘えを排した、解釈も含めておそらく最も厳しい「皇帝」演奏とも言える。
隅から隅まで表現がシンクロしており、協奏曲表現としては、これを超える演奏は難しいのではないだろうか。
細かい合わせも見事(ピアノ独奏からオケの総奏になだれ込むところを聴くべし!)で、鳥肌が立つ。
セルはやはり上手いし、最高の演奏効果が実現するギレリスの演奏スタイルも、この作品にピッタリで、もう何から何まで表題通り。
冒頭のカデンツァ、あまりにも眩しいピアノの響きに心打たれ、胸を高鳴らせたのは筆者だけではないはずだ。
両者が共に1つの世界を作り出すことをここまで徹底して実現したこの記録は、多くの人に賞賛されてしかるべきだと思う。
併録の小品は、鋼鉄のピアニストたるギレリスの面目躍如たる、強靭な打鍵をベースとした重戦車の進軍のようなパワフルな演奏で、やや力づくの嫌いはないではなく、こちらの方は名演とは言い難い。
HQCD化によって、音質がより鮮明になった点は評価したい。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2015年02月11日
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ハンガリーに生まれ、中堅クラスだったクリーヴランド管弦楽団を世界的なオーケストラに育て上げた稀代の名指揮者ジョージ・セル。
そのアンサンブルはまさに「精緻」という言葉が相応しいものであるが、ここで聴くハイドンの交響曲は、そうしたセル&クリーヴランド管弦楽団の特質―引き締まったリズムとスリムな響き―にぴったりであり、今でもこれらの曲の決定的な演奏として聴き継がれるに相応しい内容となっている。
セルの完璧なまでのオーケストラ操舵―透明度の高い完全なアンサンブル、管弦の均衡ある展開、基本的に一定かつ軽快なスピード感―は、デジタル化の時代にあっても違和感なき心地よさで、古さを全く感じさせない。
セルがクリーヴランド管弦楽団を指揮した演奏の数々は、セルの楽器と称されるほどの精緻なアンサンブルを誇るものであったが、演奏によってはやや鋭角的な印象を与えるものもあった。
しかし、晩年には、そうしたいささか欠点といも言うべき角がとれ、精緻な中にも柔軟さを感じさせる名演が繰り広げられる傾向にあった。
EMIに録音したドヴォルザークの「第8」やシューベルトの「第9」などは、そうした傾向にある晩年のセルならではの味わいのある名演であったように思う。
本盤に収められたハイドンの初期ロンドン交響曲集も、セルの死の数年前の晩年の演奏ということもあり、前述した傾向が顕著なセル晩年ならではの至高の名演ということができよう。
セルのような指揮者でハイドンを聴くと、また一段と曲の素晴らしさを認識させられたところであり、久し振りに聴いて懐かしむどころか新しい発見と感動を与えられた。
とにかく、ハイドンは、同じ繰り返しが多い、退屈、単調、保守的、曲が中途半端などの見方があるが、演奏の仕方にも問題がある。
セルは、考え抜かいた演奏を行い、オケのコントロールも当然ながら抜群で、全く退屈しない演奏だ。
フリッツ・ライナー、ジョージ・セル、ユージン・オーマンディ、アンタル・ドラティ、ゲオルグ・ショルティ、クリストフ・フォン・ドホナーニ―彼らはいずれもハンガリーで生まれ(あるいは血縁があり)アメリカのメジャーオケで活躍した大家である。
このハンガリアン・ファミリーは、いずれもハイドンを得意とし名演を残している。
特に交響曲全曲録音を制覇したドラティの偉業が光るが、後期曲に関してセルの高純度の演奏はその双璧にある。
精密機械のように楽曲の輪郭をクリアにしつつ、そこで繰り広げられる超人的な精緻なアンサンブル。
それでいて、決して機械的にはならず、セルの人生を俯瞰させるような何とも言えないぬくもりのある味わいに満ち溢れている。
まさに、セル畢生の名演と評価すべき出来栄えであると言えるだろう。
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2015年02月01日
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オイストラフとセルの両者の晩年の録音であるが、ブラームスのヴァイオリン協奏曲の演奏史上、トップの座を争う名演だ。
オイストラフはその骨太で温かみのある、風格を備えたヴァイオリニストとして評価されたロシアの大ヴァイオリニストである。
この演奏でも力強く、大きな風格を備えたヴァイオリンが聴かれるし、明るすぎず、洗練されすぎない音色と響きはブラームスにぴったりである。
オイストラフのヴァイオリンのソロは、アタックは鋭いが、全体としてのびやかで艶があり、安定したオーケストラ表現にすべてをまかせきったおおらかさも相俟って、この曲の最高の表現といってよい。
そのオーケストラは、20世紀最高レベルのオーケストラと言えるジョージ・セル指揮のクリーヴランド管弦楽団で、厳しくトレーニングされた合奏の見事さと各パートの音色の美しさとで、この曲の交響曲的な魅力を存分に引き出している第一級の演奏である。
セルの指揮も精緻で力強いが、モーツァルトの交響曲の演奏などで見せる洗練された響きはここでは影を潜めており、この曲を演奏する場合はこちらの方がしっくりくる。
オイストラフは、本盤の数年前にクレンペラーとともに同曲を録音しているが、そちらの方は名演ではあるものの、どちらかと言えば老巨匠クレンペラーのゆったりとした巨像の歩みに、いささかではあるが、オイストラフとしても自由で伸びやかな演奏を妨げられた感があった。
それに対して、本盤の演奏は、指揮者と独奏者が互角の演奏を行っている。
ただ、互角と言っても、火花が散るような、いわゆる競奏曲にはなっていない。
セルが最晩年になって漸く到達した枯淡の境地と、オイストラフの伸びやかにして情感豊かなヴァイオリンが、至高・至純のハーモニーを奏でている。
すみずみまで神経が行き届いていて、それでいて全体の構成がしっかりした演奏で、さらに円熟味を増しながら瑞々しい情感にも不足なく、真正面からこの名作に向き合った、さらに精度の高いものであり、この協奏曲の理想的な名演と言って過言ではないだろう。
ただし録音がお世辞にもあまり良いとは言えない。
EMIの録音は総じてあまり良いとは言えないのだが、この録音ではトゥッティの部分などで音が割れてしまっている箇所が幾つかある。
また、オーケストラとヴァイオリンの音量のバランスが若干不安定である。
古い録音であるから仕方ない事であるが、やはり素晴らしい演奏であるから、できればSACD化してもらうなど、良い音質で聴きたいものである。
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2015年01月31日
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幅広いレパートリーを誇っていたセルだが、ドイツ古典〜ロマン派は得意分野の1つだった。
セルの演奏が円熟味を増したといわれる晩年、1968年の、ワーグナーの超大作楽劇から抜粋した名盤。
セルが指揮するクリーヴランド管弦楽団は、セルの楽器と称されるほどの驚異的なアンサンブルを誇った。
本盤もセル率いるクリーヴランド管弦楽団がいかに凄いオーケストラだったかが嫌が上でも圧倒的に伝わる名盤。
悠然として濃厚な往年のクナッパーツブッシュ盤と同様なハイライトと一番対極にある、極度にタイトで洗練の極みを行く演奏スタイルと言えよう。
しかし、時には、凝縮のあまりいささかスケールの小ささが目立つ場合もあった。
本盤は、そうしたセルの演奏の長所と短所が同居している演奏だと思った。
評価したいのは、「ワルハラ城への神々の入場」、「ワルキューレの騎行」、「魔の炎の音楽」、「森のささやき」の4曲。
これらは、セルの精密な指揮と、それにぴったりとついていくクリーヴランド管弦楽団が、ワーグナーがスコアに記した名旋律の数々を感動的に表現していく。
しかし、「夜明けとジークフリートのラインへの旅」、「ジークフリートの葬送行進曲」と終曲の2曲は、凝縮を意識しすぎたせいか、あまりにも演奏のスケールが小さい。
セルは、精密で緻密な指揮を行い、クリーヴランド管弦楽団もそれに見事に合わせているが、やはり、ワーグナーの天才性が発揮されるこの2曲では、演奏が楽曲に負けてしまっている。
『ニーベルングの指環』への入門CDとしては、これで十分なのかもしれないが、本盤を1つの完結した作品として見れば、竜頭蛇尾の誹りを免れないだろう。
しかしながら、「楽劇」というより、「管弦楽曲」としてのあり方を『指環』ハイライト盤でここまで追求した演奏は滅多にないだろう。
音質は、Blu-spec-CD盤はもとより、従来CD盤でも十分に良好な音質であったが、今般、ついに待望のSACD化が図られることになった。
音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。
それでも、前述の短所は払拭されているとは言い難いが、セル&クリーヴランド管弦楽団による完成度の高い演奏を現在望み得る最高の高音質SACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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2014年10月22日
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凄い演奏だ。
セル&クリーヴランド管弦楽団の全盛期の演奏がいかに凄まじいものであったのかがよく理解できるところだ。
セルは、先輩格である同じハンガリー出身の指揮者であるライナーや、ほぼ同世代のオーマンディなどとともに、自らのオーケストラを徹底して鍛え抜いた。
セルの徹底した薫陶もあって、就任時には二流の楽団でしかなかったクリーヴランド管弦楽団もめきめきとその技量を上げ、ついにはすべての楽器セクションがあたかも1つの楽器のように奏でると言われるほどの鉄壁のアンサンブルを構築するまでに至った。
「セルの楽器」との呼称があながち言い過ぎではないような完全無欠の演奏の数々を成し遂げていたところであり、本盤の演奏においてもそれは健在である。
本盤には、メンデルスゾーンの交響曲第4番や、劇音楽「真夏の夜の夢」からの有名曲の抜粋、そして序曲「フィンガルの洞窟」が収められているが、とかく旋律の美しさのみが強調されがちなこれらの楽曲が、セルの手にかかると、引き締まった硬派の音楽に変貌するのが素晴らしい。
メンデルスゾーンの交響曲第4番には、同じく硬派の演奏としてトスカニーニ&NBC交響楽団による超名演(1954年)があり、濃密なカンタービレの魅力もあってとても当該演奏には敵わないが、一糸乱れぬアンサンブルを駆使した演奏の完全無欠さという点においては、本演奏もトスカニーニによる超名演に肉薄していると言えるところだ。
劇音楽「真夏の夜の夢」も、この黄金コンビならではの引き締まった名演である。
とりわけ結婚行進曲など、下手な指揮者の手にかかると外面的で安っぽい音楽に成り下がってしまいがちであるが、セルの場合は、かのクレンペラー&フィルハーモニア管弦楽団による超名演(1960年)と同様に、高踏的で格調の高い音楽に聴こえるのが見事である。
序曲「フィンガルの洞窟」については、もう少し演奏全体にゆとりというか、味わい深さが欲しい気もするが、演奏自体の水準は極めて高いものであり、名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。
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2014年10月06日
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セル&クリーヴランド管弦楽団の演奏は、「セルの楽器」との称されるように、オーケストラの各セクションが一つの楽器のように響くという精緻なアンサンブルを誇っていた。
したがって、その演奏の精密な完璧さという意味では比類のないものであったが、その反面、1980年代半ば以前のショルティの多くの演奏のように呼吸の浅い浅薄さには陥っていないものの、いささか血の通っていないメカニックな響きや、凝縮化の度合いが過ぎることに起因するスケールの小ささなど、様々な欠点が散見されることは否めないところだ。
もっとも、1960年代後半になりセルも晩年に差し掛かると、クリーヴランド管弦楽団の各団員にもある種の自由を与えるなど、より柔軟性のある演奏を心掛けるようになり、前述のような欠点が解消された味わい深い名演を成し遂げるようになるのであるが、本演奏が行われた当時は、一般的には晩年の円熟とは程遠い演奏を繰り広げていた。
ただ、そのようなセルも、シューマンとドヴォルザークの交響曲に関しては、これらの楽曲への深い愛着にも起因すると思われるが、晩年の円熟の芸風に連なるような比較的柔軟性のある演奏を行っていたと言えるのではないだろうか。
本盤に収められたシューマンの交響曲第2番や第4番、そしてウェーバーの「オベロン」序曲においても、いわゆる「セルの楽器」の面目躍如とも言うべき精緻なアンサンブルを駆使して極めて引き締まった演奏を展開しているが、いささかもメカニックな血も涙もない演奏には陥っておらず、各フレーズの端々から滲み出してくる滋味豊かな情感には抗し難い魅力に満ち溢れている。
また、格調の高さにおいても比類のないものがあり、いい意味での知情バランスのとれた素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。
セル独自の改訂もいささかの違和感を感じさせない見事なものである。
もっとも、第2番はシノーポリ&ウィーン・フィルによる演奏(1983年)、第4番はフルトヴェングラー&ベルリン・フィルによる演奏(1953年)がベストの名演であり、「オベロン」序曲は、セルの死の年の来日時のコンサートライヴ(1970年)の方がより優れた名演であることから、本演奏は名演ではあるもののそれぞれの楽曲演奏史上最高の名演とは言い難いが、シューマンの交響曲全集として見た場合においては、サヴァリッシュ&ドレスデン国立管(1972年)やバーンスタイン&ウィーン・フィル(1984、1985年)による全集と同様に、最大公約数的には極めて優れた名全集と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。
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2014年10月05日
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セル&クリーヴランド管弦楽団の演奏は、「セルの楽器」との称されるように、オーケストラの各楽器セクションが一つの楽器のように響くという精緻なアンサンブルを誇っていた。
したがって、その演奏の精密な完璧さという意味では比類のないものであったが、その反面、1980年代半ば以前のショルティの多くの演奏のように呼吸の浅い浅薄さには陥っていないものの、いささか血の通っていないメカニックな響きや、凝縮化の度合いが過ぎることに起因するスケールの小ささなど、様々な欠点が散見されることは否めないところだ。
もっとも、1960年代後半になりセルも晩年に差し掛かると、クリーヴランド管弦楽団の各団員にもある種の自由を与えるなど、より柔軟性のある演奏を心掛けるようになり、前述のような欠点が解消された味わい深い名演を成し遂げるようになるのであるが、本演奏が行われた当時は、一般的には晩年の円熟とは程遠い演奏を繰り広げていた。
ただ、そのようなセルも、シューマンとドヴォルザークの交響曲に関しては、これらの楽曲への深い愛着にも起因すると思われるが、晩年の円熟の芸風に連なるような比較的柔軟性のある演奏を行っていたと言えるのではないだろうか。
本盤に収められたシューマンの交響曲第1番や第3番、「マンフレッド」序曲においても、いわゆる「セルの楽器」の面目躍如とも言うべき精緻なアンサンブルを駆使して極めて引き締まった演奏を展開しているが、いささかもメカニックな血も涙もない演奏には陥っておらず、各フレーズの端々から滲み出してくる滋味豊かな情感には抗し難い魅力に満ち溢れている。
また、格調の高さにおいても比類のないものがあり、いい意味での知情バランスのとれた素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。
セル独自の改訂もいささかの違和感を感じさせない見事なものである。
もっとも、第1番はクレンペラー&フィルハーモニア管による演奏(1966年)、第3番はシューリヒト&パリ音楽院管による演奏(1953年)又はジュリーニ&ロサンゼルス・フィルによる演奏(1980年)、「マンフレッド」序曲はフルトヴェングラー&ベルリン・フィルによる演奏(1949年)がそれぞれベストの名演であり、本演奏は名演ではあるもののそれぞれの楽曲演奏史上最高の名演とは言い難いが、シューマンの交響曲全集として見た場合においては、サヴァリッシュ&ドレスデン国立管(1972年)やバーンスタイン&ウィーン・フィル(1984、1985年)による全集と同様に、最大公約数的には極めて優れた名全集と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。
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2014年09月29日
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セル&クリーヴランド管弦楽団による演奏がいかに凄まじいものであったのかが理解できる1枚だ。
このコンビによる全盛時代の演奏は、オーケストラの各楽器セクションが1つの楽器が奏でるように聴こえるという、「セルの楽器」との呼称をされるほどの鉄壁のアンサンブルを誇っていた。
米国においては、先輩格であるライナーを筆頭に、オーマンディやセル、そして後輩のショルティなど、オーケストラを徹底して鍛え抜いたハンガリー人指揮者が活躍していたが、オーケストラの精緻な響きという意味においては、セルは群を抜いた存在であったと言っても過言ではあるまい。
もっとも、そのようなセルも、オーケストラの機能性を高めることに傾斜した結果、とりわけ1960年代半ば頃までの多くの演奏に顕著であるが、演奏にある種の冷たさというか、技巧臭のようなものが感じられなくもないところだ。
本盤に収められた演奏も、そうしたセルの欠点が顕著であった時期の演奏ではあるが、楽曲がマーラーやウォルトン、そしてストラヴィンスキーといった近現代の作曲家によるものだけに、セルの欠点が際立つことなく、むしろセルの美質でもある鉄壁のアンサンブルを駆使した精緻な演奏が見事に功を奏している。
特に、冒頭におさめられたマーラーの交響曲第10番は二重の意味で貴重なものだ。
セルはそもそもマーラーの交響曲を殆ど録音しておらず、本演奏のほかは、第4番(1965年スタジオ録音)と第6番(1967年ライヴ録音)しか存在していない(その他、歌曲集「子供の不思議な角笛」の録音(1969年)が存在している)。
加えて、第10番については、定番のクック版ではなく、現在では殆ど採り上げられることがないクレネク版が採用されているところである。
アダージョのみならず第3楽章に相当するプルガトリオを収録しているのも貴重であり、加えて演奏が精緻にして緻密な名演であることに鑑みれば、セルは、録音の数は少なくても、マーラーに対して一定の理解と愛着を抱いていたと言えるのではないだろうか。
ウォルトンのオーケストラのためのパルティータやストラヴィンスキーの組曲「火の鳥」は、いずれも非の打ちどころがない名演であり、クリーヴランド管弦楽団による一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルを駆使して、複雑なスコアを明晰に音化することに成功し、精緻にして華麗な演奏を展開している。
とりわけ、組曲「火の鳥」の「カスチェイ王の凶暴な踊り」においては、セルの猛スピードによる指揮に喰らいつき、アンサンブルにいささかも綻びを見せない完璧な演奏を展開したクリーヴランド管弦楽団の超絶的な技量には、ただただ舌を巻くのみである。
いずれにしても、本盤に収められた演奏は、全盛期にあったセル&クリーヴランド管弦楽団による完全無欠の圧倒的な名演と高く評価したい。
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2014年09月15日
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セル&クリーヴランド管弦楽団によるドヴォルザークやスメタナの楽曲の演奏はいずれも素晴らしい。
古典派とならんで、民族色の強い作品もセルは得意としていたが、本盤はチェコ音楽の父と言われるスメタナと、彼と並んで同国を代表するドヴォルザークという組み合わせで、その持ち味を堪能できる。
全盛時代のセル&クリーヴランド管弦楽団は、各楽器セクションが一つの楽器のように聴こえるような一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルを誇ったことから、「セルの楽器」とも称された完全無欠の演奏を展開していたところであるが、1960年代半ば頃までの演奏は、そうした完全無欠の演奏が、ある種の技量に偏ったメカニックな冷たさを感じさせたのも否めない事実であるところだ。
そのようなセルも1960年代後半の最晩年に差し掛かると、クリーヴランド管弦楽団の各奏者にも一定の自由を与え、芸風により柔軟性が垣間見られるようになったところであり、円熟の味わい深い名演奏を成し遂げるようになった。
もっとも、ドヴォルザークやスメタナなどのチェコ音楽については、何故か1960年代半ば以前の演奏においても、そうした晩年の演奏にも比肩し得るような情感豊かな味わい深い演奏を行っていたところである。
これは、ドヴォルザークやスメタナなどのチェコ音楽には、セルの母国であるハンガリーの隣国の音楽ということもあり、セル自身が深い愛着と理解を有していた証左と言えるのかもしれない。
本盤に収められたドヴォルザークの交響曲第7番や序曲「謝肉祭」、そしてスメタナの歌劇「売られた花嫁」からの抜粋である序曲、フリリアント、ポルカの各演奏においてもそれは健在であり、表面上は鉄壁のアンサンブルを駆使した完全無欠の演奏でありつつも、各フレーズの端々には、前述のようなチェコ音楽への深い愛着と理解に根差した豊かな情感が込められていると言えるところであり、いずれも味わい深い素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。
特にドヴォルザークの第7番では、堂々たる重厚な響きの両端楽章と、優美で味わい深い緩徐楽章や民族色溢れる軽快な舞曲の楽章を見事に描き分け、壮大に全曲を締め括る貫禄の名演を披露している。
ちなみに、セルは、この第7番を1度しか録音しておらず、この演奏は、1960年というかなり古い音源のものであるが、本盤は最新の「マスター・サウンド」技術で作られており、弱音部での若干のノイズを除けば、音質は明らかに大幅に改善されており、ほとんど古さを感じないまでになっている。
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2014年09月07日
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4つの最後の歌は、R・シュトラウスの最晩年の傑作であるが、本盤に収められた演奏こそは、ヤノヴィッツとカラヤン&ベルリン・フィルによる演奏(1969年)と並んで、同曲の演奏史上最高の名演と言っても過言ではあるまい。
特に、歌手の個性という意味においては、本盤の演奏の方をより上位に置く聴き手も多いと言えるところだ。
本演奏を名演たらしめているのは、何と言ってもシュヴァルツコップによる圧倒的な名唱にあると言えるのではないだろうか。
確かに、あまりにも上手過ぎるために、とある影響力の大きい某音楽評論家が評しておられるように、音楽そのものの美しさよりも歌手の個性が全面に出てくるきらいがないわけではないが、これだけ堪能させてくれれば文句は言えまい。
各4つの歌曲に込められた、人生の諦観を感じさせるような奥行きのある音楽を、シュヴァルツコップほど巧みに表現し得た歌手はこれまで存在したと言えるだろうか。
シュヴァルツコップは、歌曲やオペラなどにおいて数々の名演を成し遂げた不世出の大歌手と言えるが、そうしたシュヴァルツコップが遺した数々の名演の中でも、本演奏は、その深沈たる深みにおいて最上位の部類に入ると言っても過言ではあるまい。
その他の歌曲についても、シュヴァルツコップの巧さが際立った素晴らしい名演と高く評価したい。
シュヴァルツコップの素晴らしい歌唱を下支えしているのが、セル&ベルリン放送交響楽団、そしてロンドン交響楽団による至高の名演奏である。
セルと言えば、クリーヴランド管弦楽団との鉄壁のアンサンブルを駆使した精緻な演奏の数々が念頭に浮かぶが、1960年代も半ばが過ぎ、そして、ベルリン放送交響楽団やロンドン交響楽団などと成し遂げた演奏においては、むしろ各奏者に自由を与え、より柔軟性のある情感豊かな演奏を行うことが多かったと言えるところだ。
本盤の演奏もその最たるものと言えるところであり、シュヴァルツコップの名唱をしっかりと下支えしつつ、情感豊かな味わい深い名演奏を展開している点を高く評価したい。
音質は、従来CD盤ではやや鮮明さに欠ける音質であったが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。
従来CD盤とは次元が異なる見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった。
シュヴァルツコップの息遣いが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。
いずれにしても、シュヴァルツコップ、そしてセル&ベルリン放送交響楽団、ロンドン交響楽団による至高の超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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2014年09月04日
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セル&クリーヴランド管弦楽団によるドヴォルザークの楽曲の演奏はいずれも素晴らしい。
全盛時代のセル&クリーヴランド管弦楽団は、各楽器セクションが一つの楽器のように聴こえるような一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルを誇ったことから、「セルの楽器」とも称された完全無欠の演奏を展開していたところであるが、1960年代半ば頃までの演奏は、そうした完全無欠の演奏が、ある種の技量に偏ったメカニックな冷たさを感じさせたのも否めない事実であるところだ。
そのようなセルも1960年代後半の最晩年に差し掛かると、クリーヴランド管弦楽団の各奏者にも一定の自由を与え、芸風により柔軟性が垣間見られるようになったところであり、円熟の味わい深い名演奏を成し遂げるようになった。
もっとも、ドヴォルザークやスメタナなどのチェコ音楽については、何故か1960年代半ば以前の演奏においても、そうした晩年の演奏にも比肩し得るような情感豊かな味わい深い演奏を行っていたところである。
これは、ドヴォルザークやスメタナなどのチェコ音楽には、ハンガリーの隣国の音楽ということもあり、セル自身が深い愛着と理解を有していた証左と言えるのかもしれない。
本盤に収められたドヴォルザークの交響曲第8番や第9番の各演奏においてもそれは健在であり、表面上は鉄壁のアンサンブルを駆使した完全無欠の演奏でありつつも、各フレーズの端々には、前述のようなチェコ音楽への深い愛着と理解に根差した豊かな情感が込められていると言えるところであり、いずれも味わい深い素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。
もっとも、交響曲第8番については、1970年にEMIにスタジオ録音した同曲演奏史上でもトップの座を争う至高の超名演が存在しており、最晩年の演奏ならではの味わい深さと言った点において本演奏はいささか分が悪いと言えるが、それでも本演奏を名演と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。
音質は1958年(第8番)、1959年(第9番)のステレオ初期のスタジオ録音であり、従来盤では今一つの音質であったが、数年前に発売されたBlu-spec-CD盤は、従来盤を遥かに凌駕する鮮明な音質に生まれ変わった。
セル&クリーヴランド管弦楽団による完全無欠な名演を高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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2014年08月23日
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本盤に収められたドヴォルザークの交響曲第8番の演奏は、セルが亡くなる直前の録音であり、セル&クリーヴランド管弦楽団による2度目のスタジオ録音ということにもなる。
本演奏は、前回の演奏(1958年盤)を上回るのみならず、一世を風靡したこのコンビによる最高の名演の一つであり、古今東西の同曲の数ある名演の中でもトップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。
私見ではあるが、本名演に比肩できるのは、クーベリック&ベルリン・フィル盤(1966年)とカラヤン&ウィーン・フィル盤(1985年)だけではないかと考えている。
セルは、クリーヴランド管弦楽団を徹底的に鍛え抜き、セルの楽器と称されるほどの超一流の楽団に仕立て上げたことで知られている。
したがって、このコンビによる全盛時代の演奏は、特定の楽器が目立つということは殆どなく(これは、セルが最も嫌ったことであった)、オーケストラ全体が一つの楽器のように聴こえるような精密なアンサンブルによる精緻な演奏を誇っていた。
ただ、あまりの演奏の精密さ故に、スケールもやや小型であり、いささか融通の利かないメカニックとも言うべき演奏も多々見られたと言わざるを得ないところだ。
そのようなセルも最晩年になると、鉄壁のアンサンブルを維持しつつも、クリーヴランド管弦楽団の各団員により自由を与え、伸びやかな演奏を行うようになってきたところであり、それに併せて演奏のスケールも大きくなっていった。
本名演は、そのような一連の流れの頂点にある演奏と言えるのではないかと考えられる。
セルは本演奏においても曲想を精緻に描いてはいるが、フレージングが実に伸びやかである。
そして、どこをとっても情感の豊かさに満ち溢れており、スケールも雄渾の極みと言える。
これはまさに、ドヴォルザークやスメタナ、ヤナーチェクなどのチェコ音楽を心から愛した巨匠が最晩年になって漸く到達し得た至高、至純の境地であると言えるのではないだろうか。
併録のスラヴ舞曲第3番及び第10番も、ドヴォルザークの「第8」と同様の素晴らしい完熟の名演だ。
音質は、従来盤が今一つ冴えない音質で問題があり、リマスタリングを施してもさほどの改善が図られているとは言い難かった。
ところが、今般、シングルレイヤーによるSACD盤が発売されるに及んで大変驚いた。
音質の鮮明さ、音圧、音場の幅広さのどれをとっても、これまでの既発CDとは段違いの素晴らしさであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。
いずれにしても、セルによる至高の超名演を超高音質のシングルレイヤーによるSACD盤で味わえることを大いに歓迎したい。
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2014年08月22日
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本盤にはブラームスのヴァイオリン協奏曲と二重協奏曲が収められているが、いずれも素晴らしい超名演だ。
ヴァイオリン協奏曲については、海千山千のヴァイオリニストと指揮者、オーケストラが圧倒的な超名演をあまた成し遂げていることから、ベストの名演と評価するのにはいささか躊躇せざるを得ないが、他方、二重協奏曲については、もちろん様々な見解はあるとは思うが、筆者としては、同曲の様々な演奏に冠絶する至高の超名演と高く評価したいと考える。
本演奏において、何と言っても素晴らしいのはロストロポーヴィチによるチェロ演奏である。
ロストロポーヴィチの渾身のチェロ演奏は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な圧巻の迫力を誇っていると言えるところであり、ブラームスの最晩年の傑作に込められた枯淡の境地とも言うべき奥行きのある情感を徹底して抉り出すのに成功したと言っても過言ではあるまい。
オイストラフのヴァイオリン演奏も、ロストロポーヴィチのチェロ演奏にいささかも引けを取っていない凄みのあるものと言えるところであり、この両者による重厚にして力感溢れる演奏は、切れば血が噴き出てくるような圧倒的な生命力に満ち溢れている。
そして、この両雄による圧倒的な演奏を立派に下支えしているのが、セル&クリーヴランド管弦楽団による至高の名演奏であると言えるだろう。
セル&クリーヴランド管弦楽団による全盛期の演奏は、巷間「セルの楽器」と称されるほどの鉄壁なアンサンブルを誇っているが、それだけにいささかメカニックなある種の冷たさを感じさせるとも言えなくもなかったところだ。
しかしながら、1960年代も後半になると、セルもクリーヴランド管弦楽団の各奏者に自由を与え、より柔軟性のある伸びやかな演奏を心がけるようになったとも言える。
本演奏などもその最たるものと言えるところであり、ロストロポーヴィチやオイストラフによる気迫溢れる演奏にも触発されたこともあって、一糸乱れぬアンサンブルの中にも、人生の諦観を感じさせるような味わい深い名演奏を繰り広げているとも言えるのではないだろうか。
いずれにしても、本演奏は、ソリスト、指揮者、オーケストラの3拍子が揃った、同曲演奏史上最高の超名演と高く評価したいと考える。
音質は、従来CD盤ではやや鮮明さに欠ける音質であったが、今般、ついに待望のSACD化がなされるに及んで大変驚いた。
従来CD盤とは次元が異なる見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった。
ロストロポーヴィチのチェロやオイストラフのヴァイオリンの弓使いが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。
いずれにしても、とりわけ二重協奏曲について、ロストロポーヴィチ、オイストラフ、そしてセル&クリーヴランド管弦楽団による至高の超名演を、SACDによる高音質で味わうことができることを大いに歓迎したい。
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2014年08月11日
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本盤に収められたシューベルトの交響曲第9番「ザ・グレイト」は、セル&クリーヴランド管弦楽団による2度目のスタジオ録音に相当する。
最初の録音は1957年のものであり、本演奏よりも13年前であることもあり、全体の引き締まった堅固な造型が印象的な硬派の演奏であった。
セルは、先輩格のライナーや、ほぼ同時期に活躍したオーマンディなどと同様に徹底したオーケストラトレーナーとして知られており、そうして鍛え抜いた全盛期のクリーヴランド管弦楽団は、「セルの楽器」とも称されるほどの鉄壁のアンサンブルを誇っていたところだ。
あらゆる楽器セクションがあたかも一つの楽器のように聴こえるという驚異的なアンサンブルは、聴き手に衝撃を与えるほどの精緻さを誇るという反面で、メカニックとも言うべき冷たさを感じさせることも否めない事実であった。
したがって、演奏としては名演の名に値する凄さを感じるものの、感動的かというとややコメントに窮するという演奏が多いというのも、セル&クリーヴランド管弦楽団の演奏に共通する特色と言えなくもないところである。
もっとも、セルも1960年代後半になると、クリーヴランド管弦楽団の各団員に自由を与え、より柔軟性に富んだ味わい深い演奏を行うようになってきたところだ。
とりわけ、死の年である1970年代に録音されたドヴォルザークの交響曲第8番と本盤に収められたシューベルトの交響曲第9番「ザ・グレイト」には、そうした円熟のセルの味わい深い至芸を堪能することが可能な、素晴らしい名演に仕上がっていると言えるだろう。
本演奏においても、クリーヴランド管弦楽団の「セルの楽器」とも称される鉄壁のアンサンブルは健在であるが、1957年の旧盤の演奏とは異なり、各フレーズの端々からは豊かな情感に満ち溢れた独特の味わい深さが滲み出している。
これは、人生の辛酸を舐め尽くしてきた老巨匠だけが描出することが可能な崇高な至芸と言えるところであり、同曲において時折聴くことが可能な寂寥感に満ちた旋律の数々の清澄な美しさは、セルも最晩年に至って漸く到達した至高・至純の境地と言っても過言ではあるまい。
シューベルトの交響曲第9番「ザ・グレイト」の演奏は、どの指揮者にとっても難しいものと言えるが、セルによる本演奏は、演奏全体の造型の堅固さ、鉄壁のアンサンブル、そして演奏全体に漲っている情感の籠った味わい深さを兼ね備えた、同曲演奏の一つの理想像の具現化として、普遍的な価値を有する名演と評価してもいいのではないかとも考えられるところだ。
音質は、従来盤が今一つ冴えない音質で問題があり、リマスタリングを施してもさほどの改善が図られているとは言い難かった。
同時期の名演であるドヴォルザークの交響曲第8番については既にHQCD化が行われ、かなり満足できる音質に蘇ったのにもかかわらず、本演奏についてはHQCD化すら図られないのは実に不思議な気がしていたところだ。
ところが、今般、シングルレイヤーによるSACD盤が発売されるに及んで大変驚いた。
音質の鮮明さ、音圧、音場の幅広さのどれをとっても、これまでの既発CDとは段違いの素晴らしさであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。
いずれにしても、セルによる至高の超名演を超高音質のシングルレイヤーによるSACD盤で味わえることを大いに歓迎したい。
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2014年07月28日
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セル&クリーヴランド管弦楽団の演奏は、「セルの楽器」との称されるように、オーケストラの各楽器セクションが一つの楽器のように響くという精緻なアンサンブルを誇っていた。
したがって、その演奏の精密な完璧さという意味では比類のないものであったが、その反面、1980年代半ば以前のショルティの多くの演奏のように呼吸の浅い浅薄さには陥っていないものの、いささか血の通っていないメカニックな響きや、凝縮化の度合いが過ぎることに起因するスケールの小ささなど、様々な欠点が散見されることは否めないところだ。
もっとも、1960年代後半になりセルも晩年に差し掛かると、クリーヴランド管弦楽団の各団員にもある種の自由を与えるなど、より柔軟性のある演奏を心掛けるようになり、前述のような欠点が解消された味わい深い名演を成し遂げるようになるのであるが、本演奏が行われた当時は、一般的には晩年の円熟とは程遠い演奏を繰り広げていた。
ただ、そのようなセルも、シューマンとドヴォルザークの交響曲に関しては、これらの楽曲への深い愛着にも起因すると思われるが、晩年の円熟の芸風に連なるような比較的柔軟性のある演奏を行っていたと言えるのではないだろうか。
本シューマンの交響曲全集における各交響曲や「マンフレッド」序曲の演奏においても、いわゆる「セルの楽器」の面目躍如とも言うべき精緻なアンサンブルを駆使して極めて引き締まった演奏を展開しているが、いささかもメカニックな血も涙もない演奏には陥っておらず、各フレーズの端々から滲み出してくる滋味豊かな情感には抗し難い魅力に満ち溢れている。
また、格調の高さにおいても比類のないものがあり、いい意味での知情バランスのとれた素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。
セル独自の改訂もいささかの違和感を感じさせない見事なものである。
もっとも、第1番はクレンペラー&フィルハーモニア管による演奏(1966年)、第2番はシノーポリ&ウィーン・フィルによる演奏(1983年)、第3番はシューリヒト&パリ音楽院管による演奏(1953年)又はジュリーニ&ロサンゼルス・フィルによる演奏(1980年)、第4番はフルトヴェングラー&ベルリン・フィルによる演奏(1953年)、「マンフレッド」序曲はフルトヴェングラー&ベルリン・フィルによる演奏(1949年)がそれぞれベストの名演と言えるところであり、本演奏は名演ではあるもののそれぞれの楽曲演奏史上最高の名演とは言い難い。
とはいえ、シューマンの交響曲全集として見た場合においては、サヴァリッシュ&シュターツカペレ・ドレスデン(1972年)やバーンスタイン&ウィーン・フィル(1984、1985年)による全集と同様に、最大公約数的には極めて優れた名全集と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。
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2014年07月27日
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至高の名演として名高い「セル、ルガノ・ライヴ」の歴史的な録音がここに復活した。
このCDに収められた演奏は、アメリカでメジャーになったセル&クリーヴランド管弦楽団のコンビ初の欧州公演ということもあって、力の入りようがよく分かる内容になっている。
特にシューマンの第2番がライヴならではの強烈な名演奏で、セル&クリーヴランド管は、まったく一糸乱れぬ演奏を繰り広げるのだが、スタジオ収録と違い、演奏の熱気が次第にあがっていくのがよく分かる。
響きが分厚すぎるとかオーケストレーションに問題があると指摘を受けがちなシューマンの交響曲も、セルに手にかかれば響きはスッキリ整えられ、古典的な構成感も揺るぎがない。
このライヴではよほど興がのったのか、クールと言われがちなセルの指揮も非常に瑞々しく、即興的で驚異的なテンポと物凄い精度の高さの両立が成し遂げられている。
この翌年のステレオによる正規録音があるが、白熱した緊張感を孕むこの演奏は聴き逃せない。
古典的に引き締まったフォルムで磨き上げられた筋肉美を見るような演奏はステレオ盤と変わらないが、ここでは冷たい熱を帯びている。
第1楽章は絶妙なバランスとアンサンブルでスタイリッシュに仕上げている。
第2楽章のスケルツォは躍動感が素晴らしく、終結に至る弦の刻みの正確な動きはサーカスのようだ。
カーブでも一切減速なしに突っ走るから遠心力で吹き飛ばされそうな緊張が走る。
第3楽章は一転落ち着いた抒情が歌われ、ここでもロマン的に拡大するのでなく音は凝縮している。
終楽章もアクセル全開で燃えまくっているが、それでもセルの鍛えあげたクリーヴランド管はアンサンブルが乱れず、バランスの良い端正な演奏ぶりは大したものであり、均整のとれた後半ではトランペットが輝かしく咆哮する。
ドビュッシーの「海」も見通しの良いクリアーな響きが見事で、セルにしては緩急自在にテンポを動かしており、やはりスタジオ録音のクールな印象とは異なる血の通った熱い演奏だ。
ライヴならではの勢いで押し切ったような演奏とも言えるところであり、細部には全く拘らない、厳しく躍動的なセルの芸術を心行くまで堪能できる。
なお、このCDには同日のアンコールのベルリオーズの「ラコッツィ行進曲」が収められている。
これも速めのテンポで折り目正しく演奏されているようだなと聴いていたら、最後の1分ではものすごい加速が始まりオケが歯を食いしばり必死に棒についていく壮絶な展開になり、当然聴衆は興奮状態になってしまう。
音質は海賊盤と聴き比べてみると、当盤では付加されたエコーを取り除いており、クリアそのもので、真性モノラルながらステレオではないかと思うほど、音場の拡がりなどの録音状態が良好である。
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2014年06月08日
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1959年のザルツブルク音楽祭でのライヴ録音。
タミーノ役のシモノーが時に情に走った歌唱を示すのが残念だが、全体的には、ベリーの自然児パパゲーノにふさわしい歌いぶり、第2幕のアリアで本領発揮のケートの夜の女王、デラ・カーザのパミーナの叙情的な美しさ、出番は少ないながらも重厚な存在感を感じさせるホッターの弁者など、まさに適材適所のキャストである。
そして何よりも注目したいのがセルの冴えた指揮で、ウィーン・フィルの美質を生かしつつも彼らしい厳しい統率力で精緻なアンサンブルを作りながら、血の通ったドラマを生み出している。
1950年代のウィーンの(良い意味で)ローカルなアンサンブルとキビキビしたセルの指揮がいい感じの演奏。
それにしてもなんて楽しく、素敵な「魔笛」だろう!
交響曲第40番や「ポストホルン」など、極上のモーツァルトを奏でるセルのこと。
リズム、ピッチ、バランスのよさなどの美点は、このオペラでも全部発揮されている。
そのうえ歌手たちの声が生き生き、伸び伸びしている。
協奏曲でもセルと共演した音楽家は、とてもいい音を出すし、歌曲もそうだ。
歌手が艶やかな声を出すというのは、これはセルの振るオケが、とてもリフレッシュしているからだからだろう。
空気がいいと、人は生き生きする。環境がいいと、心が伸び伸びする。
セルのオペラ指揮者としての手腕とウィーン・フィルとの相性の良さを示す録音だ。
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2014年05月02日
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本盤に収められたシューベルトの交響曲第9番「グレート」は、セル&クリーヴランド管弦楽団による2度にわたる同曲のスタジオ録音のうちの最初のものである。
全盛期のセル&クリーヴランド管弦楽団の演奏はそれは凄いものであった。
セルは、同じくハンガリー出身の先輩であるライナーや、ほぼ同世代のオーマンディなどとともに、自らのオーケストラを徹底して鍛え抜いた。
その結果、オーケストラ史上でも稀にみるような、あらゆる楽器セクションの音色が一つの楽器が奏でるように聴こえるという「セルの楽器」とも称される鉄壁のアンサンブルの構築に成功したところであり、セルは、まさに自らの楽器を用いて数々の演奏を行っていたのである。
そのアンサンブルの精緻さは、聴き手の度肝を抜くのに十分ではあったが、あまりの演奏の緻密さ故に、メカニックとも言うべきある種の冷たさを感じさせたのも否めない事実であり、名演の名には値するものの、感動という点からするといささかコメントに窮する演奏も多々存在したとも言えるところだ。
本盤の演奏も、全体の造型の堅固さ、そして一糸乱れぬアンサンブルを駆使した演奏の緻密さにおいては、同曲の他のいかなる演奏にも引けを取らないハイレベルに達しており、その意味では名演の名に十分に値するが、最晩年の1970年の演奏と比較すると、ゆとりというか、味わい深さにいささか欠けているのではないかとも思われるところである。
したがって、セルによる同曲の代表盤ということになれば、最晩年の1970年盤を掲げることにならざるを得ないが、いわゆるセルの個性が全面的に発揮された演奏ということになれば、本演奏を掲げるのにいささかも躊躇するものではない。
いずれにしても、本演奏は、今一つゆとりというか、鷹揚なところがあってもいいのではないかと思われるところもあるが、セル&クリーヴランド管弦楽団の全盛時代を代表する名演として高く評価したい。
他方、併録の劇音楽「ロザムンデ」からの抜粋については、1967年というセルの死の3年前の演奏ということもあり、交響曲第9番「グレート」よりも懐の深い演奏に仕上がっていると言えるのではないだろうか。
セルも1960年代後半になると、クリーヴランド管弦楽団の各団員に自由を与え、より柔軟性に富んだ味わい深い演奏を行うようになってきたところであり、本演奏においてもそうしたセルの円熟の至芸を存分に味わうことが可能である。
各旋律の端々からは豊かな情感に満ち溢れた独特の味わい深さが滲み出していると言えるところであり、おそらくは同曲の演奏史上でも、ベーム&ベルリン・フィルによる名演とともにトップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。
音質は、録音年代が古いこともあって、従来盤は今一つ冴えないものであったが、Blu-spec-CD盤が発売され、これまでの従来盤のいささか劣悪な音質を一新するような十分に良好な音質に生まれ変わったところである。
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2014年04月09日
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実に引き締まった筋肉質の演奏である。
まさに、セル&クリーヴランド管弦楽団の全盛期の演奏の凄さを味わうことができると言えるだろう。
セルは、先輩格である同じハンガリー出身の指揮者であるライナーや、ほぼ同世代でハンガリー出身のオーマンディなどとともに、自らのオーケストラを徹底して鍛え抜いた。
セルの徹底した薫陶もあって、就任時には二流の楽団でしかなかったクリーヴランド管弦楽団もめきめきとその技量を上げ、ついにはすべての楽器セクションがあたかも一つの楽器のように奏でると言われるほどの鉄壁のアンサンブルを構築するまでに至った。
「セルの楽器」との呼称があながち言い過ぎではないような完全無欠の演奏の数々を成し遂げていたところであり、本盤の演奏においてもそれは健在である。
モーツァルトの交響曲第39番及び第40番の名演としては、優美で情感豊かなワルター&コロンビア交響楽団による演奏(1959、1960年)(第40番についてはウィーン・フィルとの演奏(1952年))や、それにシンフォニックな重厚さを付加させたベーム&ベルリン・フィルによる演奏(1962、1966年)が名高いが、セルによる本演奏はそれらの演奏とは大きく性格を異にしていると言えるだろう。
むしろ、第39番については、即物的な演奏でありながら随所に繊細な表情づけが施されたムラヴィンスキー&レニングラード・フィルによる名演(1973年)にも通じるものがあるのではないかと考えられるところだ。
もっとも、演奏の即物性においては、本演奏はムラヴィンスキーほどに徹底しているとは言い難いが、演奏全体の造型の堅牢さにおいてはいささかも引けをとるものではない。
そして、各フレーズにおける細やかな表情づけも、ムラヴィンスキーのように徹底して行われているわけではないが、それでも各旋律の端々からは汲めども尽きぬ豊かな情感が湧き出してきており、決して無慈悲で冷徹な演奏には陥っていない点に留意しておく必要がある。
いささかオーケストラの機能美が全面に出た演奏とは言えなくもないところであり、演奏の味わい深さという点では、特に第40番については、クリーヴランド管弦楽団との来日時のライヴ録音(1970年)に一歩譲るが、演奏の完成度という意味においては申し分がないレベルに達しており、本盤の演奏を全盛期のこのコンビならではの名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。
併録のモテット「エクスルターテ・イウビラーテ(踊れ、喜べ、幸いなる魂よ)」も、ソプラノのジュディス・ラスキンの名唱も相俟って、素晴らしい名演であると評価したい。
音質は、録音年代が古いこともあって、従来盤は今一つ冴えないものであったが、数年前に発売されたシングルレイヤーによるSACD盤は、これまでの従来盤のいささか劣悪な音質を一新するような、途轍もない鮮明な高音質に生まれ変わった。
Blu-spec-CD盤も発売されており、それも十分に良好な音質であるが、所詮SACD盤の敵ではない。
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2014年04月01日
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本盤は、全盛時代のセル&クリーヴランド管弦楽団による演奏の凄さを味わうことができる名SACDと言える。
本盤には、この黄金コンビによるヨハン・シュトラウス2世やヨゼフ・シュトラウスによるウィンナ・ワルツの演奏(1962年のスタジオ録音。歌劇「こうもり」序曲のみ1958年のスタジオ録音)が収められているが、一般的ないわゆるウィンナ・ワルツ的な演奏とは随分と様相の異なった演奏に仕上がっていると言えるだろう。
セル&クリーヴランド管弦楽団による全盛時代の演奏はそれは凄まじいものであり、オーケストラの各楽器セクションが一つの楽器が奏でるように聴こえるという、「セルの楽器」との呼称をされるほどの一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルを誇っていた。
米国においては、先輩格であるライナーを筆頭に、オーマンディやセル、そして後輩のショルティなど、自らのオーケストラを徹底して鍛え抜いたハンガリー人指揮者が数多く活躍しているが、オーケストラの精緻な響きという意味においては、セルは群を抜いた存在であったと言っても過言ではあるまい。
もっとも、そのようなセルも、オーケストラの機能性を高めることに傾斜した結果、とりわけ1960年代半ば頃までの多くの演奏に顕著であるが、演奏にある種の冷たさというか、技巧臭のようなものが感じられなくもないところだ。
本盤に収められた演奏も、そうしたセルの欠点が顕著であった時期の演奏であるが、楽曲がウィンナ・ワルツという小品であるだけに、技巧臭などは殆ど感じられないところである。
もっとも、前述のように、いわゆるウィンナ・ワルツ的な演奏とは様相が異なっていることから、ウィーン風の抒情に溢れた情感豊かな演奏を期待する聴き手には、いささか不満が残る演奏と言えなくもない。
しかしながら、演奏全体の引き締まった造型美や響きの精緻さにおいては、他の演奏には類例を見ない完全無欠の演奏に仕上がっており、聴き終えた後の充足感には並々ならないものがある。
いずれにしても、本盤に収められた各楽曲の演奏は、全盛期のセル&クリーヴランド管弦楽団によるオーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な名演に仕上がっていると高く評価したい。
音質は、今から約50年前のスタジオ録音だけに、本従来盤はいささか不満の残るものであったが、数年前に発売されたシングルレイヤーによるSACD盤は圧倒的に鮮明な高音質であり、セル&クリーヴランド管弦楽団による演奏の精緻さを味わうには望み得る最高のものである。
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2014年03月19日
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これは凄まじいまでに凝縮化された演奏だ。
セルは、トスカニーニを尊敬していたとのことであるが、かのトスカニーニの演奏を評してフルトヴェングラーが言ったとされる有名な言葉、「無慈悲なまでの透明さ」を見事に具現化した演奏と言えるのではないだろうか。
このような引き締まった筋肉質の演奏は、外見だけに限って言うと、かのムラヴィンスキー&レニングラード・フィルによる名演(1968年)にも比肩し得ると言えるだろう。
巷間「セルの楽器」とも称されたクリーヴランド管弦楽団の一糸乱れぬ精緻なアンサンブルが、かかる演奏の性格を更に助長することに貢献しており、ある意味ではこれほどまでに辛口で微笑まない「エロイカ」は、他にもあまり類例がないのではないかとさえ感じられるほどだ。
本演奏を従来CDで聴くと、1957年のスタジオ録音ということもあって、かなりデッドで色気がない音質であることから、血も涙もない無慈悲な演奏にも聴こえるところであった。
加えて、当時のクリーヴランド管弦楽団の鉄壁の演奏に、ある種の人工的な技巧臭も感じずにはいられなかった。
ところが、数年前に発売されBlu-spec-CD盤で聴くと、DSDリマスタリングがなされたこともあって、人工的な技巧臭などはいささかも感じさせず、演奏全体の凝縮化された堅固な造型には変わりがないものの、各フレーズには豊かな情感が込められているのを聴くことが可能であり、必ずしも無慈悲で血も涙もない演奏には陥っていないことがよく理解できるところである。
セルの芸術の真価を味わうためには、本演奏に限らず、高音質CDで味わうことが必要と言えるのかもしれない。
いずれにしても、こうしたBlu-spec-CD盤で聴く限りにおいては、本演奏は、セル&クリーヴランド管弦楽団という稀代の黄金コンビの全盛期の演奏の凄さを味わうことが可能であるとともに、引き締まった造型美と凝縮化された内容の密度の濃さを感じさせる圧倒的な名演であると高く評価したい。
併録の「エグモント」序曲 、序曲「コリオラン」、「シュテファン王」序曲の3曲についても、「エロイカ」と同様のアプローチによる引き締まった造型美と内容の充実度を感じさせる圧倒的な名演に仕上がっている。
音質は、前述のようにDSDリマスタリングを施した後に、Blu-spec-CD化が図られたことによって、劣悪な音質の従来CDに比して各段に鮮明な高音質に生まれ変わった。
このBlu-spec-CD盤は当サイトで、現在でも入手可能である。
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2014年02月28日
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本盤には、グリーグ、ビゼー、ムソルグスキーによる有名な管弦楽曲が収められているが、セルはこのようないわゆるポピュラー名曲の指揮でも抜群の巧さを発揮している。
本盤の演奏は1958〜1966年のセル&クリーヴランド管弦楽団の全盛時代のものである。
それだけに、このコンビならではの「セルの楽器」とも称された一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルを駆使した演奏の精緻さは健在であり、加えて、曖昧模糊とした箇所がいささかもない明晰な演奏に仕上がっていると言えるだろう。
もっとも、クリーヴランド管弦楽団の抜群の機能性が発揮される反面で、ある種の冷たさというか技巧臭のようなものが感じられなくもないが、楽曲がいわゆるポピュラー名曲だけに演奏全体に瑕疵を与えるほどのものではないと言える。
各楽曲の聴かせどころのツボを心得た演出巧者ぶりも特筆すべきであり、これらの有名曲を指揮者の個性によって歪められることなく、音楽の素晴らしさそのものを味わうことができるという意味においては、オーケストラ演奏の抜群の巧さも相俟って、最も安心しておすすめできる名演と評価することが可能であると考えられる(前述のように、各楽曲のオーケストラ曲としても魅力を全面に打ち出した演奏とも言えるところであり、各楽曲の民族色の描出という点においてはいささか弱いという点を指摘しておきたい)。
グリーグの「ペール・ギュント」組曲やビゼーの「アルルの女」組曲については、いずれも第2組曲を全曲ではなく終曲のみの録音とするとともに、特に「ぺール・ギュント」組曲については第1組曲の中に第2組曲の「ソルヴェイグの歌」を組み込むような構成にしているが、これはセルの独自の解釈によるものとして大変興味深い。
クリーヴランド管弦楽団の卓越した技量も特筆すべきものであり、とりわけムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」におけるブラスセクションのブリリアントな響きの美しさには抗し難い魅力に満ち溢れている。
音質は、今から約50年前のスタジオ録音だけに、従来盤ではいささか不満の残るものであったが、数年前に発売されたシングルレイヤーによるSACD盤は圧倒的な高音質であり、セル&クリーヴランド管弦楽団による演奏の精緻さを味わうには望み得る最高のものである。
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2014年02月19日
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これは、セル&クリーヴランド管弦楽団の全盛期の演奏の凄さを味わうことが可能な圧倒的な名演だ。
セルは、先輩格である同じくハンガリー出身のライナーや、ほぼ同世代のオーマンディとともに、自らのオーケストラを徹底的に鍛え抜き、オーケストラに独特の音色と鉄壁のアンサンブルを構築することに成功した。
ライナーやオーマンディが、シカゴ交響楽団やフィラデルフィア管弦楽団という、もともと一流のオーケストラを鍛え上げていったのに対して、クリーヴランド管弦楽団はセルが就任する前は二流のオーケストラであったことからしても、セルの類稀なる統率力を窺い知ることが可能だ。
セルの薫陶によって鍛え抜かれたクリーヴランド管弦楽団は、すべての楽器セクションがあたかも一つの楽器のように聴こえるほどの精緻なアンサンブルを誇ったことから、「セルの楽器」とも称されるほどであった。
もっとも、演奏があまりにも正確無比であることから、その演奏にある種のメカニックな冷たさを感じさせるという問題点もあったとは言えるが、少なくとも演奏の完成度という意味においては、古今東西の様々な指揮者による演奏の中でもトップの座を争うレベルに達しているのではないかと考えられるところだ。
本盤には、ロッシーニの序曲集やオーベールの歌劇「フラ・ディアヴォロ」序曲、そしてベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」が収められているが、いずれも全盛期のこの黄金コンビの演奏の完全無欠ぶりを味わうことが可能だ。
その演奏の鉄壁さにおいては、かのカラヤン&ベルリン・フィルの演奏をも凌駕するほどであり、聴き手はただただ演奏の凄さに驚嘆するのみである。
交響曲などの大曲であれば、前述のようなある種のメカニックな冷たさなどが露呈するきらいもないわけではないが、本盤のような小品集の場合は、かかるセルの演奏の欠点などは殆ど気になるほどのものではないと言える。
ロッシーニの序曲集の選曲に際して、有名な歌劇「セビリアの理髪師」序曲や歌劇「ウィリアム・テル」序曲を録音しなかったのは残念とも言えるが、それでも本盤に収録されたその他の序曲は圧倒的な名演であり、あまり贅沢は言えないのではないかと考えられる。
音質は、1957〜1967年にかけてのスタジオ録音であり、録音年代がやや古いこともあって、従来盤は今一つ冴えないものであったが、数年前に発売されたシングルレイヤーによるSACD盤(当盤)は、これまでの従来盤のいささか劣悪な音質を一新するような、途轍もない鮮明な高音質に生まれ変わったと言える。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2014年02月15日
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今回初登場となった1963年のザルツブルク音楽祭のライヴ録音で、この年は、チェコ・フィルがザルツブルグ音楽祭に初登場した年でもあった。
チェコ・フィルの全盛時代を振った、セル貴重な記録で、チェコ・フィルとの相性の良さ、セルとチェコ・フィルの同質性を強く感じさせる1枚。
「エロイカ」は、セルの主張を如実にうかがわせる、強烈な求心力を持つ“セルの”ベートーヴェンだが、クリーヴランド管とは違った響きが興味深い。
チェコ・フィルの素朴で力強い響きとセルの構成力が相俟って堅実な演奏に仕上がっている。
非常に生命力が強く、あらゆる部分にセルの人間的な息づきが示されており、強い説得力を持っている。
リズムが決して前のめりになることがなくしっかりと打ち込まれていて、音楽の骨格が太い。
セルはオケの手綱をしっかりとって冷静に音楽を進めており、音楽への没入がやや少ない感じで、これはセルらしいところであるが、もう少し熱くても良いかなという感じがしないでもない。
両端楽章はもう少しリズムの推進力を前に押し出して欲しかったが、4つの楽章の関連はしっかりと緊密に取れていて、第2楽章もその抑制された音楽的表現が好ましい。
セルの指揮で感心するのは足取りがしっかりしていることであり、旋律が深く歌われていて、派手さはないが音楽が着実に進行する。
チェコ・フィルの見事なアンサンブルと緊密な造形、そして渋い響きはベートーヴェンらしさを強く感じさせる。
「エグモント」序曲も秀演で、これを聴くとつくづく当時のチェコ・フィルは上手いなと思ってしまう。
モノラル(ライヴ)録音ながら音質も鮮明で、クリーヴランド管とのスタジオ録音と甲乙つけ難い。
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2014年02月11日
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このCDはどうやら世界各地で非常に売れているらしく、オルフェオのCDとしてもかなり売れた方に入ると思う。
輸入盤で買っても安くはないのに、山積みされたCDがどんどん減ってきている。
クラシックCDが売れない売れないと大騒ぎする中で、この売れ方は珍しい。
売れる理由は簡単で、組み合わせも演奏もとても面白いからだ。
まずはカップリングであるが、あのセルがウィーン・フィルを演奏、しかもザルツブルク音楽祭でのライヴで、ピアノ協奏曲第3番はギレリスが独奏している。
これだけでも十分商品価値があるのに、演奏が凄く、ベートーヴェンの交響曲第5番がまさに白熱のライヴなのだ。
もちろん、「エグモント」もピアノ協奏曲第3番も面白いのだが、「第5」があまりにも燃える演奏なので驚いてしまう。
そもそもこの曲は構成が堅固であるし、盛り上がるようにできているので、よほど凡庸な演奏を聴かない限り結構興奮するものだが、セルの演奏は破天荒とも言うべき豪快さだ。
クリーヴランドで緻密な演奏を重ねてヨーロッパに負けないオケを作り上げたセルはひとたびヨーロッパに戻るや普段の鬱憤みたいなものを爆発させてしまったのではないだろうか。
アメリカでの演奏活動ではここまでの燃え方はしないし、ここでのセルは一体どうしたのかと訝ってしまう。
しかし、それはリスナーにとってはいいことだ。
別にパッチワークでできた大人しい演奏を聴きたいなんて考えている人はそうそういないはずだ。
筆者もこの曲を聴いてこんなに興奮してしまったのは久しぶりだった。
余りにも面白くて、度々聴いていたのだが、その度ごとに興奮してしまった。
これほど耳にタコができるくらい聴き慣れた曲を演奏して、かくも熱狂させるセル&ウィーン・フィルは凄まじい。
指揮者が燃えただけではこうはならないはずで、ウィーン・フィルもこの大指揮者の放つオーラに触発されてしまったのだろう。
第4楽章の後半は手に汗握ること間違いなしだ。
なお、オルフェオのCDはモノラルが多いが、これは立派なステレオで、音質はライヴ録音としては最上だろう。
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2014年02月02日
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全盛時代のセル&クリーヴランド管弦楽団による演奏の凄さを味わうことができる圧倒的な超名演だ。
セル&クリーヴランド管弦楽団は、「セルの楽器」とも呼称されるほどの鉄壁のアンサンブルを誇った名演奏の数々を展開した稀代の黄金コンビであった。
すべての楽器セクションがあたかも一つの楽器のように聴こえるという精緻にしてまさに完璧な演奏の数々を繰り広げていたのである。
もっとも、そうした完全無欠の演奏が、ある種の技量に偏ったメカニックな冷たさを感じさせたのも否めない事実であり、とりわけ1960年代の半ば頃までの演奏にはそうした演奏があまた散見されていた。
もっとも、理由はよくわからないが、ドヴォルザークやスメタナなどのチェコ音楽、そして独墺系の作曲家の中ではとりわけシューマンの音楽については、1960年代後半以降の最晩年の演奏において垣間見せた、情感豊かで柔軟性のある円熟の名演の数々を披露していた。
特に、ドヴォルザークやスメタナなどのチェコ音楽には、ハンガリーの隣国の音楽ということもあり、深い愛着と理解を有していたと言えるのかもしれない。
本盤に収められたドヴォルザークのスラヴ舞曲全集も、実に素晴らしい圧倒的な超名演だ。
いずれの楽曲も一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルを駆使した、まさに完全無欠の演奏を展開しており、おそらくはオーケストラ演奏としてパーフェクトなものとさえ言えるだろう。
それでいて、1962〜1965年にかけての演奏であるが、この時期のセルの欠点でもあったある種のメカニックな冷たさなどはいささかも感じさせず、どこをとってもチェコの民族色溢れる豊かな情感に満ち溢れているのが素晴らしい。
ドヴォルザークのスラヴ舞曲全集の名演としては、クーベリック&バイエルン放送交響楽団による演奏(1973〜1974年)や、ノイマン&チェコ・フィルによる2度目の演奏(1985年)などが掲げられるが、本盤のセル&クリーヴランド管弦楽団による演奏も、これらの名演に肉薄する圧倒的な超名演と高く評価したい。
音質は、1960年代のスタジオ録音であるものの、従来盤でも比較的良好な音質であり、セル&クリーヴランド管弦楽団による鉄壁のアンサンブルを駆使した完全無欠の演奏の凄みを味わうには十分な音質である。
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2014年02月01日
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セル&クリーヴランド管弦楽団によるドヴォルザークの楽曲の演奏はいずれも素晴らしい。
全盛時代のセル&クリーヴランド管弦楽団は、各楽器セクションが一つの楽器のように聴こえるような一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルを誇ったことから、「セルの楽器」とも称された完全無欠の演奏を展開していたが、1960年代半ば頃までの演奏は、そうした完全無欠の演奏が、ある種の技量に偏ったメカニックな冷たさを感じさせたのも否めない事実である。
そのようなセルも1960年代後半の最晩年に差し掛かると、クリーヴランド管弦楽団の各奏者にも一定の自由を与え、芸風により柔軟性が垣間見られるようになり、円熟の味わい深い名演奏を成し遂げるようになった。
もっとも、ドヴォルザークやスメタナなどのチェコ音楽については、何故か1960年代半ば以前の演奏においても、そうした晩年の演奏にも比肩し得るような情感豊かな味わい深い演奏を行っていており、これは、ドヴォルザークやスメタナなどのチェコ音楽には、ハンガリーの隣国の音楽ということもあり、セル自身が深い愛着と理解を有していた証左なのかもしれない。
本盤に収められたドヴォルザークの後期交響曲集(第7〜第9番)やドヴォルザーク及びスメタナの管弦楽曲(弦楽四重奏曲第1番のセルによるオーケストラバージョンを含む)の各演奏においてもそれは健在であり、表面上は鉄壁のアンサンブルを駆使した完全無欠の演奏でありつつも、各フレーズの端々には、前述のようなチェコ音楽への深い愛着と理解に根差した豊かな情感が込められていて、いずれも味わい深い素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。
もっとも、ドヴォルザークの交響曲第8番については、1970年にEMIにスタジオ録音した同曲演奏史上でもトップの座を争う至高の超名演が存在しており、最晩年の演奏ならではの味わい深さと言った点において本演奏はいささか分が悪いが、それでも本盤に収められた演奏を名演と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。
音質は1949〜1963年のスタジオ録音であり、従来盤では今一つの音質であったが、セルによるドヴォルザークやスメタナの楽曲の演奏はいずれ劣らぬ名演揃いであり、今後はすべての楽曲について、最低でもBlu-spec-CD化、そして可能であればSACD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたい。
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2013年12月31日
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セル&クリーヴランド管弦楽団による数々の演奏は、鉄壁のアンサンブルをベースに、あたかもすべての楽器が室内楽的に融合したかのように聴こえるきわめて精緻なものであった。
このような演奏を称して、「セルの楽器」と言われたのも十分に納得できるところだ。
しかしながら、そのような鉄壁のアンサンブルを誇る演奏がある種のメカニックな冷たさを感じさせたのも否めない事実であり、1960年代半ば頃までの演奏にはそのようなものが散見されたところであった。
しかしそれも1960年代後半になると、セルも最晩年になり円熟の境地に達したせいもあると思うが、かかる鉄壁のアンサンブルを維持しつつも、クリーヴランド管弦楽団の各奏者にある種の自由を与え、より伸びやかな演奏を行うようになったように思われる。
特に、EMIに録音したシューベルトの交響曲第9番「ザ・グレイト」(1970年)やドヴォルザークの交響曲第8番(1970年)はその最たる例であり、旧盤に比較して、随分と柔軟さを増した情感豊かな演奏に仕上がっている。
本盤に収められた演奏は、セルの死の2か月前の来日時のコンサートのライヴ録音であるが、いずれも前述のようなセルの最晩年の円熟の至芸を味わうことができる素晴らしい名演と高く評価したい。
モーツァルトの交響曲第40番については、セル&クリーヴランド交響楽団によるスタジオ録音(1967年)が存在しているが、演奏の差は歴然。
当該スタジオ録音盤では、オーケストラの機能美を全面に打ち出した非常に引き締まった演奏であったのに対して、本演奏では、もちろんクリーヴランド管弦楽団の桁外れの合奏能力を聴くことは可能であるが、一聴すると何でもないような演奏の各フレーズの端々から漂ってくる豊かな情感には抗し難い魅力があり、セルの円熟を感じることが可能な素晴らしい名演に仕上がっている。
また、シベリウスの交響曲第2番については、コンセルトへボウ管弦楽団とのスタジオ録音(1964年)が存在し、オーケストラの違いもあるせいか、セルとしては情感豊かな名演であったことから、本演奏との差異はモーツァルトの場合ほどは大きくない。
しかしながら、手兵クリーヴランド管弦楽団の圧倒的な合奏力は、本演奏に独特の緊張感を生み出すとともに、実演ならではの熱気やセル自身の円熟味も加わり、至高の超名演に仕上がっていると高く評価したい。
併録のウェーバーの歌劇「オベロン」序曲やアンコールのベルリオーズのラコッツイ行進曲も、セル&クリーヴランド管弦楽団の黄金コンビによる卓越した至芸を味わうことが可能な超名演だ。
録音は、従来盤ではややメカニックな音質であり、満足できる音質とは言い難い面があったが、その後、DSDマスタリングを施した盤が発売され、見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった。
これによって、最円熟期のセル&クリーヴランド管弦楽団の演奏の凄みが漸く鮮明に再現されることになったことを大いに喜びたい。
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2013年10月23日
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セル&クリーヴランド管弦楽団による演奏がいかに凄まじいものであったのかということを理解できる一枚だ。
このコンビによる全盛時代の演奏は、オーケストラの各楽器セクションが一つの楽器が奏でるように聴こえるという、「セルの楽器」との呼称をされるほどの鉄壁のアンサンブルを誇っていた。
米国においては、先輩格であるライナーを筆頭に、オーマンディやセル、そして後輩のショルティなど、オーケストラを徹底して鍛え抜いたハンガリー人指揮者が活躍しているが、オーケストラの精緻な響きという意味においては、セルは群を抜いた存在であったと言っても過言ではあるまい。
マーラーの第6番は、筆者がある時期嵌り込んだ作品でもあるので、随分と多くの録音を聴いたのを思い出す。
その中でいまだに素晴らしいと思うのはバルビローリ盤、次いでこのセル盤の解晰的演奏の精気である。
これらかつての愛聴二盤は、後にテンシュテットの驚異的なアプローチが現れるまで続いたが、それでも当セル盤は今なお啓発的であり続けている。
ともかく、ここまで冷静沈着にマーラーの音の群れを把握し、客観的視座から交響形態へと組み直している例は稀であろう。
確かに当世風の演奏指向とはいささか異質だろう。
けれども尚且つマーラーの音楽の複雑な本質を正面から解き明かしている重要な演奏のひとつのように感じてならない。
第10番については、定番のクック版ではなく、現在では殆ど採り上げられることがないクレネク版が採用されているところである。
アダージョのみならず第3楽章に相当するプルガトリオを収録しているのも貴重であり、加えて演奏が精緻にして緻密な名演であることに鑑みれば、セルは、録音の数は少なくとも、マーラーに対して一定の理解と愛着を抱いていたと言えるのではないだろうか。
いずれにしても、本盤に収められた演奏は、全盛期にあったセル&クリーヴランド管弦楽団による完全無欠の圧倒的な名演と高く評価したい。
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2013年04月04日
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SHM−CD仕様のSACDシングルレイヤー盤は、2010年の夏頃よりシリーズ化され、既に相当の点数が発売されてきた。
長らくSACDから撤退していたユニバーサルが、このようなシリーズを開催したのは、当年のレコード業界の最高の快挙と言ってもいいところであり、発売されたいずれのCDも、従来発売のCDを凌駕する素晴らしい高音質CDに仕上がっていた。
その中でも、最も音質向上効果が著しいのは、本盤ではないだろうか。
それくらい、従来盤とは次元が異なる素晴らしい音場が展開される。
かつて発売されていたSACDハイブリッド盤は、録音の古さが目立ち、とてもSACDの実力を発揮したものには仕上がっていないだけに、その音質の差は歴然としたものがある。
これが1960年代の録音とは信じられないほどであり、あたかも最新の録音であるかのように感じられるほどだ。
セルは、デッドな録音のCDで聴くと、その解釈も相俟って、血も涙もない冷徹な指揮をするかのように考えられてしまうが、本盤のような高音質CDで聴くと、確かに全体的な造型構築への厳しい姿勢は当然のことであるが、その構築された造型の中で、緩急自在のテンポ設定を行うなど、きわめてフレキシブルに曲想を展開し、まさに血も涙もある非常に情感豊かな指揮をする指揮者であったことを再認識させられる。
ことにシベリウスは素晴らしく、セルの構成と明確な指揮は、この曲をきわめてシンフォニックなスケールの大きなものにしている。
特に、北欧的な深い響きをもった金管の威力には、さすがコンセルトヘボウであると思わせる。
この深い北欧の音があって初めてシベリウスは生きる。
主題の結び合わせとその発展のシンメトリーがシベリウスの生命であるが、セルの演奏はそれが実に緊密であり力強い。
指揮者の実力を再認識させるという意味においても、このような高音質CDの企画は大きな意義があると考える。
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2013年02月18日
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1970年にセルが来日する直前に録音されたもので、セルは日本公演の直後に急逝した。
セルがクリーヴランド管弦楽団を指揮した演奏の数々は、セルの楽器と称されるほどの精緻なアンサンブルを誇るものであったが、演奏によってはやや鋭角的な印象を与えるものもあった。
しかし、晩年には、そうしたいささか欠点といも言うべき角がとれ、精緻な中にも柔軟さを感じさせる名演が繰り広げられる傾向にあった。
EMIに録音したドヴォルザークの「第8」やこのシューベルトの「第9」などは、そうした傾向にある晩年のセルならではの味わいのある名演であったように思う。
セルの死の年の演奏ということもあり、前述した傾向が顕著なセル最晩年ならではの至高の名演ということができよう。
この指揮者としては温かい音楽を歌わせており、しかもスケールが大きく、仕上げの美しさも比類ない。
この曲はシューマンが讃えた言葉通り、楽想とリズムの繰り返しを重ねて作り上げられた「天国的」な長大さを持つ交響曲であり、指揮者の資質が大きく問われてくる。
聴き手に面白く、しかも充実して聴かせるのは困難だろうが、セルの魔法にかかるとこの曲が素晴らしい構成に基づいたまさに「天国的」なシンフォニーである事に眼を開かされる。
精密機械のように楽曲の輪郭をクリアにしつつ、そこで繰り広げられる超人的な精緻なアンサンブル。
それでいて、決して機械的にはならず、セルの人生を俯瞰させるような何とも言えない温もりのある味わいに満ち溢れている。
まさに、セル畢生の名演と評価すべき出来映えであると言えるだろう。
全く作為がなく、聴いた後に清々しい充実した気持ちにさせてくれるこの「第9」を遺してくれたセルの偉大さを改めて思うとともに、それに対して筆者は感謝の念を捧げたい。
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2011年10月17日
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ジョージ・セルは、クリーヴランド管弦楽団の音楽監督としてアメリカへ移ってからも、ヨーロッパでの客演活動も盛んにおこなっていた。
ザルツブルク音楽祭には1949年以降たびたび参加、様々なオケと共演していた。
その中でも、当時の東ドイツを代表する名門オケ、シュターツカペレ・ドレスデンとの組み合わせは見逃せない。
ここでも、ライヴならではの熱気をはらんだ演奏を聴かせている。
シュターツカペレ・ドレスデンを指揮したザルツブルク音楽祭でのライヴだからというのではないだろうが、第1楽章冒頭から窺える非常に緊迫した音楽表情、そして圧倒的な高揚感は一聴に値する。
ブルックナーの音楽解釈の多様性の一面を示している。
表情が率直で明晰この上なく、弦の響きに意外なほどふくよかな美しさがあるのもよい。
なによりもオケの響きとアンサンブルが磨き抜かれ、中欧風の陰影の深い音楽を歌う。
しかも端正な表情の中に強い感興を注入し、堂々とした構築で長大な曲を綿密にまとめている。
シュターツカペレ・ドレスデンのアンサンブルがすぐれていることもあり、精細で雄大な表現である。
セルは細部にまで神経を行きわたらせ、デリケートに力を伸ばし、そして迫力をもって指揮している。
弦セクション、特にヴァイオリン群のきめこまかな美しさは、聴く者の心を打たずにはおかない。
これはセルの主張を貫きながら緻密で慎重に仕上げ、ブルックナーの本質を明らかにした表現である。
セルの鮮明で直截な表現が成功した一例である。
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2011年06月08日
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ヘンデルの「大きさ」が「巨大さ」の域にまで達しているのが、このジョージ・セル指揮の《ヘンデル管弦楽曲集》。
とりわけ《王宮の花火の音楽》がすさまじい。
ハーティ版を用いているが、とてつもなくゆったりとした速度、磨き抜かれたレガート、打楽器の突撃するような連打など、まったくいつの時代の曲なのか不明になるほど、ゴージャスなオーケストラ・サウンドの世界を繰り広げている。
こういうパフォーマンスに対する批判的研究から、古楽器の演奏が登場してきたわけで、その理由もよくわかる。
ひとえに当時のセルと、すばらしいロンドン交響楽団との組み合わせでのみ成立した、稀有な名演奏。
いろいろな意味で、失われたものの大きさを知る絶好の盤といえよう。
《水上の音楽》も、セルが楽譜に手を入れているようで、オケの決然とした響き、深いリズムに圧倒される。
最後に収録された例の《ラルゴ》が、また超名演だ。
悲しみですら透明だった時代の、幻のような1ページ。
たいへんな演奏であり、「汚らわしいこの世の中はキライ、美の人工楽園の中で陶然としていたい」という人には最高に薦められる音楽だ。
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2011年04月13日
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カーゾンが遺した名演ぞろいの協奏曲録音の中でも断然の金字塔。
カーゾンのタッチの美しさは称賛され尽くしたと言っても過言ではないが、ここには加えて情熱の輝きと力強さがある。
第1楽章での和音の純度の高さと逞しさには惚れ惚れとさせられるし、一転して第2楽章の弾き始めからの柔らかな響きには繊細だが豊麗なイマジネーションにあふれている。
セル=ロンドン響の演奏がこれまた稀有の高みに達した大変なもの。
私はセルの録音を体系的に隈なく聴いてきたわけではないけれど、どうして彼は、クリーヴランド以外のオケを振るとこんなに良いのだろう。
驚くほど充実した響きで、表現にはいささかの弛緩はなく、深々とした美しい歌はスケールが大きい。
この曲で成功するか否かは、オーケストラの連中がどれだけ「この曲の主役は俺たちだ!」と思うかにかかっているのではないか。
この演奏を聴いていると、いつもそう思う。それくらい、このオケパートの充実ぶりは凄いのだ。
そしてその分厚いオケに対抗する、カーゾンのタッチが強靭で、なおかつ澄みきっていることと言ったら!
CDを聴いているのに、まるで音楽が生まれているその場に立ち会っているような緊張感があるのも素晴らしい。
そしてフィナーレで両者はどこまでも凛々しく、ついには白熱の光芒を放つ。
全曲通じてまったく間然とするところがない奇跡的な名演だ。
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2011年01月30日
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この協奏曲のディスクとして、まず最初に指折られるべきもののひとつがギレリス&セル盤である。
というと先日書いた記事の内容と矛盾するかもしれないが、以前発売されていた盤は1968年の録音にしては録音状態がパッとせず、なにかヴェールをかぶったようなモコモコした音に不満があったからである。
しかし、ここに再発されたディスクは、最新のテクノロジーを駆使して音質が改善され、ギレリスとセルの格調高く卓越した演奏が聴けるようになった。旧盤と甲乙つけがたい。
この演奏は、ピアノ独奏者の傑出した力量、指揮者の透徹したセンス、オーケストラの卓越した能力などが相まって「名盤」の名に恥じないような充実した出来ばえになっている。
もともとギレリスというピアニストは図抜けた底力をもっているのだが、ここではじつに洗練された抑制が効いており、強と弱、剛と柔、急と緩、濃と淡などの対比が鮮やかで、全体のバランスがよい。
押して出るべきところは堂々と押して出てくるし、逆に、ひくべきところは的確にひいている。
整然とした抒情的な美しさと、ベートーヴェンの音楽ならではの強靭さとが、少しも無理なく共存しているピアノといえよう。
加えて、クリーヴランド管を指揮するセルの音楽づくりが極めて緻密、かつ精密。
独奏者をときに支えたり、ときに彼と対抗したりしながら、隙のない音楽をつくりあげていく様子がなんとも見事である。
筋肉質の、ひきしまった伴奏をつけながら、そこには大輪の花が咲き出しているかのようだ。
弱奏を多用し極めて繊細・緻密にピアノを響かせるギレリス。緻密なアンサンブルで細部までキリリと見通しのよい響きを作るセル。
この《皇帝》は、過剰な身振りを削ぎ落としてちょっと室内楽的な趣がある。
ともに力量のある独奏者、指揮者、それにオーケストラが、それぞれ自分のよさをいかしながら、共通の目標である"ベートーヴェン"に向かって力を合わせようとしている。
その力の合わせ方が、ほどよく抑制がきき、確信に満ちており、とてもよい。
「壮大」に辟易した耳にはこの演奏はよく効く。
いかにも風格ある者同士(オーケストラも含めて)の共同作業という感じだ。
強靭な構成力に貫かれた造型的演奏内容である。
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2010年10月12日
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実に端然としたチャイコフスキーだ。
音楽的には端正・清潔、そして意外なほどに目立つ素朴な部分が、チャイコフスキーのスラヴ的な憂愁の感情と結び付いており、控え目だが気分的異質感はまったくない。
この曲の録音は数え切れないほどあるが、これほどまでに美しい演奏は他にない。
柔らかでデリケートな響きから、明るく開放的な響きまで、響きは常に透明で、そのうえ、各楽器の溶け合いが素晴らしい。
冒頭からしばらくは、木管楽器がメロディを吹き、弦楽器が伴奏するというシーンが続くのだが、その息のあった絶妙なバランスには恍惚としてしまう。
すべての楽器が聴こえるかのような見通しのよい響きは、まるでモーツァルトのようだ。
第2楽章も、弦楽器がきれいに歌いながらも、決して下品な感情爆発路線に走らず、高級感がある。
もちろんアンサンブルやオケの技巧についてはいうまでもなく、そこに巨匠的な風格も示されている。
セルはこの演奏でかなり大胆にテンポを動かすが、合奏は恐ろしいほど見事に揃っている。
あまりに揃っているがゆえに、テンポを速めてもフルトヴェングラーのような危険なヒヤヒヤ感が希薄なほどである。
もしこの演奏に欠点があるとするなら、作曲家の生々しい心理や苦闘がまったく伝わって来ないことだろう。
それほどまでに耽美と洗練を尽くした音楽なのだ。
録音はやや古くなったが、シンフォニックな美感だけでも聴き手を納得させる好演である。
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2010年07月20日
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ハンガリー出身のセルが、故郷の尊敬する作曲家バルトークと、モラヴィアのヤナーチェクの作品を演奏した興味あるアルバム。
セルはこうした曲目では抜群の腕を発揮する。
バルトークと同国人のセルはバルトークがこの世の名残りに遺した彼としては初めて広い音楽公衆にアピールしたこの名曲のハンガリー的な分子に鋭敏な反応を示しているのがユニークだ。
フィナーレにカットがあるのと、音楽の流れが少しギクシャクしているのが惜しいが、磨き上げられたオーケストラ美は今もって圧倒的。
オーケストラの卓抜な合奏力に驚かされ、特に第1,2楽章が傑出している。
そしていつものクールな仮面を投げ捨てたようなセルの姿は、この作品やハンガリーの音楽に対する深く熱い共感を示している。
《シンフォニエッタ》は、セルが録音した唯一のヤナーチェクの作品だが、彼の卓越した指揮能力が凝縮された素晴らしい演奏である。
セルの密度のある棒の力に圧倒された演奏で、リズムが生き物のように動く第4楽章は出色だ。
彼の解釈は厳しい精神に立脚しているが、同時にのびやかな情感に裏付けられており、音楽の民族性を昇華させて高度に純粋な美感を生み出している。
冒頭のファンファーレの輝かしい、澄んだ響きは少しも威圧感を与えないし、どのセクションも明快で、同時に精緻なアンサンブルを形づくっている。
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2010年04月07日
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いずれも見事なアンサンブルと緊密な造形で、セルの主張を如実にうかがわせる。
アンサンブルの精密さと透明な響きがあり、また音楽の流れに停滞感がない。
テンポも全般に速めであるが、せきこんだり、リズムが前のめりになったりすることがなく、ほとんど完璧といってよいアンサンブルの精妙さと爽やかな響きの美しさも見事である。
第2番はセルの合理的解釈というものの典型を見せている。
曲想をくっきりと浮かびあがらせ、この演奏を通してベートーヴェンの想念を確実に伝えることに成功している。
第2楽章のリズム、クラリネットの節回しとそのバランス一つをとっても、ほぼ理想的といえる。
また、しなやかに歌われる旋律も魅力的であり、この曲の晴朗な美しさをみずみずしく表現している。
第5番は劇性が強く、細部まで完璧に練り上げた白熱の秀演。
第5番ではテンポの微妙な緩急と楽器の精妙なバランスが、演奏の成果を決定する決定的要素の一つになっている。
セルは曲の要素を徹底的に尊重し、その意味ではきわめて地味な態度を貫きとおす。
このレコードは、ベートーヴェンの交響曲に対するセルの考え方が、最も端的に示された代表盤である。
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2010年04月03日
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セルのブラームスは現代管弦楽演奏のひとつの極致である。
ブラームスの一面であるロマン主義的な暗い淀みはあまり感じられないが、首尾一貫してセルの理想と個性を鮮明に表している。
総体的に最も適切なテンポで、スコアの求めているところを忠実に表現している演奏である。
一曲一曲実に緻密に演奏されて、弦セクションはじめすべての楽器にわたって申し分のない出来である。
カラヤンの聴かせ上手とは対極にあると言えるようなのが、セルの演奏である。
厳しい姿勢で客観的に、そして古典的に楽譜を忠実に音にしているようで、ほとんど飾り気は感じられないが、オーケストラの優れた合奏力に支えられた端正な表現の中に、男性的な力強さと格調の高さに洗練された感覚が備わり、聴き返すたびに味わいが濃くなるといった演奏である。
第1番は強固な構成力と重量感があり、主題の表出が明快で、細部の音が確実に生かされている。
第2番と第4番が特に素晴らしい出来で、技術的にも精神的にも洗練され、豊かな経験をもった演奏だ。
管弦楽曲も名演といってよい。
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2010年03月03日
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男性的な堂々としたゼルキンのピアノと、精緻なセルの指揮による演奏。
押しても引いてもビクともしない強固な造型を備えており、それはセルの強い統率力とゼルキンの厳しい意志の力が生み出した結果である。
ゼルキンは含みのない武骨さと力いっぱいの打鍵によって、男性的で堂々たるブラームス像を奏でており、音楽を細部まで鮮明に満喫できる。
しかもどこかゆとりがあり、豊かな情感や寂しさなども頻出して、表現をいっそう多彩なものにしている。
セルの指揮は緻密なニュアンスが美しい。
ブラームスの2曲のピアノ協奏曲はオーケストラが重要な役割を担っていて、指揮者とオーケストラがうまくないと映えない曲になってしまう。
その点ではバックハウスとベーム=ウィーン・フィルが名演とされているが、このブラームスの作品としてはあまりにも重厚すぎる。
その点、R.ゼルキンのまさに誠実で、しかも逞しい熱演と、セルとクリーヴランドの、これも飾らない北ドイツ風の重い演奏は、この作品の真実の姿を響きにしている名演である。
バックハウスやツィマーマンの演奏は最初に聴いたときは驚くが、2度、3度と聴く気になれない。
ゼルキン&セルの演奏は聴くたびごとに演奏の巧みさを発見する。
ブラームスにしてはキッパリ物を言い過ぎると思う人もいようが、この頑固オヤジ同士の一徹さもまた尊い。
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2010年01月30日
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細部までコントロールされた切れ味の鋭いR.シュトラウスである。
このスタイルが最も成功したのが「死と変容」で、ここではひとつひとつの音への追求が凄まじく、それが曲想とマッチしているため、すさまじい緊迫感を生み出している。
「ドン・キホーテ」は、この曲の代表的名盤。
明快率直、まさに青竹をすっぱりと割ったような表現である。
しかし、単に外面的な効果をねらったものではなく、楽譜の読みは実に鋭く、深い。
セルのアプローチは、全体が的確に見極められており、どこか一ヶ所だけが突出してしまうようなことなく、バランスがよい。
施された表情は、いずれもよく吟味されており、過不足なく多彩で、洗練されている。
クリーヴランド管弦楽団のすぐれた能力をフルに発揮させながら、各変奏を隙なく描きあげていく手腕は、実に見事だ。
各変奏の変化のつけ方も節度があり、ともすれば演出過剰になりがちな各変奏(特に第1,7変奏)をキリリと引き締めながら、ドン・キホーテの愉快なエピソードを巧みに描いている。
チェロ独奏にフルニエを起用したのも成功であり、傑出した演奏を聴かせる。
フルニエのチェロは実に巧く、垢ぬけしており、全体のなかに無理なく溶け込んでいる。
これはいかにもセルらしい、そして作曲家の弟子でもあった指揮者らしい精妙な演奏である。
「ティル」も同様で、明快な棒さばきできびきび運んでいく。
オーケストラのバランスがよく、ソロもうまい。オーケストラの力量にも舌を巻く。
もう少し遊びや余裕がほしいと思うのは無い物ねだりだろう。
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