アバド

2016年09月28日


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既に巨匠の域に達していたクラウディオ・アバドが2004年に自ら設立した若手演奏家で構成されたオーケストラ、モーツァルト管弦楽団を率いてこの作曲家の交響曲や協奏曲を晩年の数年間に集中的に録音している。

円熟期の彼が若い音楽家を相手にモーツァルトを仕込んでいく仕事は、後進の育成という意味ではひとつの理想的な姿と言えるだろう。

何故なら古典の基本であるモーツァルトの演奏技術の習得が、その他のあらゆる作曲家の作品の演奏に応用できるとされているからだ。

2005年と2006年のライヴからのこの録音では交響曲第35番ニ長調『ハフナー』、同第29番イ長調、同第33番変ロ長調、同第38番ニ長調『プラハ』及び第41番ハ長調『ジュピター』の5曲が2枚のCDに収められている。

尚2008年、2009年録音分の第39番変ホ長調と第40番ト短調も既にリリースされている。

これまでの欧米の名立たるオーケストラとの協演と基本的に異なっている点は、彼がピリオド奏法を取り入れていることだ。

彼自身が組織したこのオーケストラの目的のひとつは先に述べた後進の育成だが、またもうひとつのアバドの構想は音楽の原点に戻ってモーツァルトの作品をもう一度見直すことによって、晩年の彼の音楽観の変化の具体的な集大成を試みることではなかろうか。

それにはウィーン・フィルでもベルリン・フィルでもない、細部まで自分の意向を忠実に追って再現してくれるオーケストラが必要であり、大指揮者や歴史的なオーケストラの権威や慣習とは直接関わり合いの無い新進気鋭の彼らを使って、純粋な音楽の喜びを体現することに腐心できるという彼の矜持がある筈だ。

全体的な印象は、明るく軽快な響きを創造する手法は以前と少しも変わらないが、よりシンプルで言ってみれば風通しの良い音楽作りに徹していることだ。

それを支えているのがピリオド奏法で、ヴィブラートを最小限に抑え、音価を必要以上に引き伸ばさず小気味良い歯切れの良さを活かしている。

特に大作『ジュピター』では厚化粧を捨て去って意外なほど軽妙な感覚が貫かれていて、結果的にモーツァルトのオーケストレーションがガラス張りになって見えてくる。

ことさら重厚でもなければもったいぶったところもないが、アバドのきめ細かな指示が隅々まで行き届いていて、モーツァルトを愛する人にはその明快さゆえに広く受け入れられるに違いない。

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2016年09月24日


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巨匠への道を歩んでいたブレンデルとアバドとの初顔合わせという話題盤であったが、2人の個性がよく結びつき、演奏に大きな風格を与えている。

バッハから20世紀の作品まで幅広いレパートリーをもつブレンデルだが、意外なことにそれまでシューマンはほとんど取り上げていなかった。

そうしたブレンデルが1980年代からシューマンのピアノ曲を次々と録音するようになったのも、この演奏がひとつのきっかけになったのではないだろうか。

そんなことを考えたくなるのも、この演奏がとても瑞々しいロマンをたたえているからである。

ブレンデルは1997年にこの協奏曲をザンデルリンクと再録音しており、それも魅力的な演奏で甲乙つけ難いので好みを分けそうだが、正攻法の演奏を細部まで彫り深く、より引き締まった感覚で展開しているのは壮年期の旧盤だろう。

作品に正面から向き合って巨細に磨き抜かれた表現の充実、さらに繊細でニュアンス美しい表現を強い集中力と豊かな感情の起伏をもって硬軟幅広く、かつのびやかにスケール大きく織りなしたこの演奏は、いっそう充実している。

ブレンデルは、情緒に流れると締まりがなくなるこの曲に、終始くっきりとした輪郭を与え、しかも表情の綾が細かく、スケールの豊かさとこまやかな抒情が両立して、すこぶるバランスの良い奏楽である。

知的で、しかも洗練された音楽性豊かなブレンデルならではのシューマンであり、彫琢された音色で、繊細に表情をつけながら、この曲にひそむ、一抹の不安感や、悲哀の色を見事に引き出している。

ブレンデルは華やかさには目もくれず、きわめて構成的な演奏であり、ロマンティックな曲への沈潜を窺わす、近代的な演奏スタイルで、内面的なシューマンの世界を描き出して余すところがない。

十分ロマン的でありながら、その表情は決して大げさに崩れることのない、制御の利いたブレンデルらしいアプローチが、シューマンの音楽の美しさを次々に明らかにしていく。

アバドの指揮もそうしたソロを充実した演奏によって、実に間然するところなく支えて、ブレンデルのスタイルに追随したもので、明敏な指揮でピアノをくっきりと生かしていて、その一体感がこの演奏のクォリティを高いものにしている。

両者の呼吸の合った演奏が感興豊かであり、幻想的な作品に瑞々しいロマンティシズムを新鮮に表出していて、デリケートな抒情にも不足がない。

この曲があまりすぐれた演奏に恵まれないのは、ソリストと指揮者の協調が難しいためで、ソロはいいけど指揮はもうひとつだったり、その逆も案外多い。

そうした中でアバドの指揮によるブレンデルが傑出しているのは偶然ではなく、アバドが作品を的確にとらえてソリストの個性に鋭く反応しているからで、この演奏においても、呼吸の乱れは少しもなく、ブレンデルの情感豊かな表現を見事に生かしきっている。

また、このCDを推すもうひとつの大きな魅力は、ウェーバーのコンツェルトシュトゥックが収録されていることで、シューマンに劣らぬ名演なので一聴をお薦めしたい。

ロマン派の先駆者と言われるウェーバーのピアノ曲は、豊かな色彩感にあふれ、ロマンティックな表情が前面に満ちているが、ブレンデルはそうしたウェーバーの音楽の特質をよくつかみ、きわめて美しい音色でまとめている。

この曲は録音も少ないのだが、ブレンデルとアバドは、劇的な才能に恵まれたウェーバーが十字軍の騎士と夫人の愛の勝利を描いたという、いかにもロマン的な標題をもつ曲の面白さと魅力を表情豊かに生き生きと表現している。

きわめて充実した演奏で、ブレンデルの明晰なタッチが音楽の本質を明確に伝え、アバドとのコンビネーションもすばらしく、競演の醍醐味を堪能することができる。

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2016年05月24日


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アバドの80歳記念企画としてDVD化された作品だが、奇しくも追悼盤になってしまったことが悔やまれる。

このフィルムは1985年にノルベルト・バイハーツ監督によって制作された、ヴェルディの『レクイエム』からリハーサル風景のみを撮ったもので、イタリアの文豪アレッサンドロ・マンゾーニの生誕200周年記念としてミラノのサン・マルコ教会で催されたコンサートのための音楽稽古が約2時間に亘って編集されている。

同曲はまさにマンゾーニの葬儀のために作曲されたが、その後この曲のオペラティックな曲想や大規模なオーケストラとコーラスの編成が演奏会場を選んでしまうことからオペラ劇場やコンサート・ホールでの上演が多いが、この教会は彼の国葬が行われた『レクイエム』初演ゆかりの地でもある。

撮影の場所は会場となったサン・マルコ教会と、オーケストラとコーラスの本拠地ミラノ・スカラ座及び同劇場のリハーサル・ルームの三箇所で、ピアノ伴奏による4人の歌手の下稽古、オーケストラとコーラス、そしてソリストを含めたゲネプロがバイハーツ監督の手腕で音楽的にも巧みに繋げられているが、演出的な手法は採らず、ドキュメンタリー・タッチでアバドの曲作りを追っている。

アバドは決してうるさいタイプの指揮者ではない。

むしろ楽員や歌手の自主性を尊重しているように見える。

それはこの時期彼がスカラ座の芸術監督の地位にあり、オーケストラもコーラスも彼の手兵であったことも強みだったに違いない。

楽理的な発言は少ないが、とにかく演奏させて曲を構成していくアプローチが明らかで、感覚的な部分とのバランスがとれた人間性に溢れた練習風景が展開する。

この演奏会のためにソプラノとテノールはダブル・キャストが組まれていたらしく、モンセラート・カバリエとチェチリア・ガスディア、ペーター・ドヴォルスキーとクリス・メリットが交替して画面に登場するが、何故かオーケストラ合わせのリハーサルでは常にカバリエとドヴォルスキーのみが歌っている。

しかしアバドが起用した歌手だけに、それぞれが美声を誇っているだけでなくきめ細かい表現力においても優れた力量を発揮している。

今は亡きコントラルトのルチア・ヴァレンティーニ=テッラーニの全盛期の歌唱を聴けるのも有難いし、またバスのサミュエル・ラミーのスタイリッシュで堂々たる歌いぶりも懐かしい。

一方カバリエはこのゲネプロで最後にピアニッシモで伸ばす高音を歌わずに済ませたが、演奏終了後にアバドに笑いながら言い訳をしている。

いつもながら彼女は茶目っ気たっぷりだが、自分の声を安売りしないという狡猾さも歌手にとっては大切なことなのかも知れない。

リハーサル中アバドは勿論イタリア語で指示を出しているが、イタリア語を解さないクリス・メリットには英語で話しかけている。

リージョン・フリーでナレーションはドイツ語だが、字幕スーパーは英、独、仏、スペイン語が選択でき、9ページほどの写真入ライナー・ノーツも付いている。

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2016年03月15日


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アバドはブラームスの楽曲を数多く指揮しており、交響曲や管弦楽曲、協奏曲、声楽曲などあらゆる分野の楽曲の演奏・録音を行っているが、アバドの芸風に符号した楽曲も多いこともあって、少なくともベートーヴェンよりは多くの名演を遺していると言えるのではないだろうか。

そうしたアバドによる数あるブラームスの楽曲の名演の中でもトップの座を争うのは、ブレンデルと組んだピアノ協奏曲第1番(1986年)と本盤に収められたハンガリー舞曲集ではないかと考えている。

本ハンガリー舞曲集については、ブラームスが生誕150年を迎えるのを記念して録音が行われたものであるが、古今東西の指揮者による同曲の多種多様な演奏の中でも、フィッシャー&ブダペスト祝祭管による名演(1998年(旧盤(1985年)も名演であるが、どちらを上位にするかは議論の余地があるところだ。))と双璧を成す至高の超名演と高く評価したい。

本演奏においては、何よりもアバドの指揮が素晴らしい。

この当時のアバドは次代を担う気鋭の指揮者として、ロンドン交響楽団などと素晴らしい名演の数々を行っていた時代である。

ここでも、そのような気鋭の指揮者アバドならではの生命力溢れる力強さとともに、豊かな歌謡性に満ち溢れた快演に仕上がっている。

ハンガリー舞曲はごくごくソフィスティケイトされた形ではあるけれどハンガリー・ジプシー音楽が直接あるいは間接に取り入れられた作品。

そのエキゾチックな雰囲気を、アバドとウィーン・フィルがきびきびした足取りと抜群のアンサンブルでたっぷりと楽しませてくれる。

確かに、本演奏には、前述のフィッシャー盤のような民族色の濃さは感じられないが、豊かな音楽性や歌謡性、そして湧き立つような躍動感においては、ハンガリー舞曲集の演奏としていささかも不足はないと言えるだろう。

このようなアバドとともに、豊穣な美しさを誇る名演奏を繰り広げたウィーン・フィルにも大きな拍手を送りたい。

本名演の成功の半分はアバドの指揮によるものであるが、ウィーン・フィルの優美にして豊麗な響きも、本演奏に独特の魅力や味わい深さを付加していることを忘れてはならない。

録音は、従来盤でも十分に満足し得る音質であったが、今般のSHM−CD化によって音質がより鮮明になるとともに、音場が広がったように思われる。

アバド&ウィーン・フィルによる素晴らしい名演をSHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2015年10月31日


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80歳で挑んだアバド初の録音になる周到無類なシューマン。

これまでにアバドがシューマンの交響曲に手を付けなかった理由は分からないが、このCDに収められた交響曲第2番と2曲の序曲には彼のスコアに対する周到無類の深い読みが実践されている。

試みに手元にあったムーティ&ウィーン・フィルが同じウィーン・ムジークフェラインのグローサー・ザールで1995年に録音したフィリップス盤と聴き比べてみたが、先ずテンポの設定が全体的にムーティの方が速く、ウィーン・フィルの音色自体が鮮烈なこともあって、あたかも明るく解放的な青春の瑞々しさを謳歌しているかのようだ。

一方アバドは表現上のデュナーミクだけでなく、楽器間のバランスのとり方でもムーティより遥かにきめ細かく、あらゆる部分に行き届いた指示を与えている。

モーツァルト管弦楽団も指揮者にぴったり付き添って寸分違わぬ再現に余念がないし、アンサンブルの力量ではウィーン・フィルに逼迫するほど精緻な合奏を聴かせてくれる。

実際ここ数年の彼らの成長振りには目を見張るものがあるし、アバドがこのオーケストラを大切に育ててきた理由も理解できる。

つまり一人歩きをするメジャー・オーケストラではなく、あくまでも自分の音楽性を100パーセント反映できる手作りの楽団のみが、当時のアバドにとっての手兵に成り得たのだろう。

交響曲第2番はアバド自身がその音楽の充実ぶりを賞賛しているが、彼が満を持してこの作曲家の大曲に挑んだのも長期間温めたアイデアを成就させるためだったに違いない。

それだけにやや遅めのテンポをとって、より熟成された内省的な表現があることも聴き逃せない。

金管楽器を巧みに制御して弦楽とのオーケストレーションの絶妙なバランスを保ってシューマン特有の音響を醸し出しているのもその一例だ。

また第3楽章の旋律を歌わせることにかけてはイタリア人指揮者のお家芸だが、ここでは決して晴れやかなカンタービレではなく、どこか憂いに苛まれるような心象を残している。

しかし終楽章のコーダへの集中力は凄まじく、思い切って打ち込ませるティンパニで全曲をカタルシスへと導く手法は感動的だ。

2曲の序曲はその曲趣から言ってもシューマンらしい中世騎士道的なロマンティシズムを湛えていて、荘重で暗雲立ち込めるようなただならぬ雰囲気が特有の渋い響きで表されている。

それはベートーヴェンの『エグモント序曲』にも先例が見られる叙事詩的な音楽への傾倒を更に推し進めたものとも思われる。

シューマンのオーケストレーションについては専門家からも非難の対象になっているのが実状だが、アバドの演奏はシューマンの書法を総て正当化してしまうだけの力量を示している。

つまり作曲家の管弦楽法はその未熟さ故の結果ではなく、ある特定の音響を得るために意識的に行われたものだということを納得させる好例だ。

収録曲は交響曲第2番ハ長調op.61、劇音楽『マンフレッド』序曲op.115及びオペラ『ゲノフェーファ』序曲op.81で、いずれも2012年11月にウィーンで録音された。

尚『マンフレッド』のみがセッションで他の2曲はライヴから採られている。

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2015年10月14日


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クラウディオ・アバド・ザ・デッカ・イヤーズと題された7枚組CDのボックス・セットは、彼がミラノ・スカラ座に就任するまでの1960年代後半に行ったデッカへのセッション録音をまとめている。

アバドは今年80歳を迎えたが、惜しまれつつ亡くなり、その晩年には巨匠風の凄みのある演奏を聴かせてきたが、彼がキャリアを開始した時代はトスカニーニ、カンテッリの後、フリーだったカルロ・マリア=ジュリーニを除けばオペラや声楽曲だけでなく純粋な管弦楽をレパートリーにするイタリア人指揮者が暫し絶えていた。

しかし彼の登場以来ムーティ、シノーポリ、シャイーらが次々と欧米の主要ポストに就いていくことを考えると、結果的とは言えイタリア人指揮者の突破口を開いた貢献者でもある。

この時代のアバドは文字通りフレッシュな演奏をしている。

このセットに収められた曲目はドイツ系が大半を占めているが、ドイツ的な荘重さを一度解体して新鮮な風を吹き込むような爽やかさと、イタリア式カンタービレを縦横に取り入れながらも形式を崩さない独自のスタイルを示している。

その好例が7曲の交響曲で、例えばウィーン・フィルを振ったブルックナーでは構築性はそれほど感じられないが、四肢を伸ばすようなオーケストラの柔軟性と瑞々しい開放感がある。

またアバド唯一のセッションになるブラームスの『リナルド』ではテノールのジェームズ・キングを起用して、決して息苦しくならない、むしろ明るい希望を予感させるオペラティックな表現に特徴がある。

アバドはまた早くから20世紀の音楽のレパートリーを開拓していた。

そのサンプルがCD5及び6のヤナーチェク、ヒンデミット、プロコフィエフの作品集で、いずれも鮮烈でしかも誠実な演奏だ。

最後はヴェルディのアリア集とコーラス・シーンを振ったもので、ニコライ・ギャウロフとの協演になる。

これはイタリア・オペラの流儀に則ったアバド面目躍如の1枚でもある。

総てが良質のステレオ録音でライナー・ノーツは43ページあり、英、仏、独語による簡易なアバドと収録曲についての解説及び声楽曲の全歌詞英語対訳付。

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2015年09月04日


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2014年1月20日に亡くなった巨匠クラウディオ・アバドが、2013年3月にマドリードで行った演奏会から、モーツァルトのオーボエ協奏曲とハイドンの協奏交響曲がディスク化。

常に音楽に真摯に向き合い、明晰でバランスの良い演奏を目指して最善をつくすアバドの指揮は、そのどれもが素晴らしく、協奏曲では独奏者とオーケストラの演奏をコントロールするだけでなく、最良の形で音楽が表現されるように心がけおり、その姿勢は晩年も一切変わることはなかったと言える。

クラウディオ・アバドは晩年手兵のモーツァルト管弦楽団を率いて、ドイツ・グラモフォンからモーツァルトの器楽作品を体系的にリリースし始めた。

特に管楽器のための協奏曲では全曲録音を構想していたようだが、残念ながらそれは彼の死によって達成されなかった。

残された曲はフルート協奏曲第1番ト長調及びオーボエ協奏曲ハ長調の僅か2曲だったが、後者は既に同じメンバーで録音されていた。

それがここに収録された音源で、何故かスイス・クラヴェスからのリリースになる。

録音は2013年3月にスペインのサラゴサとマドリードで行われたもので、ライヴだがこれまでどおり客席からの雑音や拍手は一切なく、また音質も極めて鮮明でグラモフォン盤に優るとも劣らない。

尚カップリングはヴァイオリン、チェロ、オーボエとファゴットが加わるハイドンの協奏交響曲変ロ長調で、こちらもアバド晩年の境地を示した、シンプルな中にも繊細で豊かな音楽性に彩られた演奏が素晴らしい。

アバドは後進の育成にも余念がなかった。

ヨーロッパの各地に新しいオーケストラを創設し、優れた新人に演奏の機会を与え、彼らの才能を伸ばし演奏家として世に送り出すことを自身の仕事の一部として自覚していたようだ。

スペイン人のオーボエ奏者ルーカス・マルシアス・ナバッロもその1人で、個性派ではないがしっかりした音楽性と精緻で揺るぎないテクニックを備えている。

急速楽章で聴かせる鮮やかなヴィルトゥオジティにも幅広いダイナミズムが駆使されているし、第2楽章アダージョ・マ・ノン・トロッポではモーツァルトが書いた恒久的な安らぎを感じさせるカンタービレが極めて美しい。

アバドの指揮はオーケストラから重厚な響きを避けて、軽快で透明感のある音色にきめ細かい指示を徹底させた、この時期特有の彼の哲学が反映されている。

一方ハイドンの協奏交響曲ではフレッシュで息の合ったアンサンブルが傑出している。

ソリストはナバッロの他にヴァイオリンのグレゴリー・アース、チェロのコンスタンティン・プフィッツそしてファゴットのギヨーム・サンターナが受け持っているが、彼らはそれぞれがアバドの薫陶を受けたモーツァルト管弦楽団の首席奏者であり、オーケストラの質の高さを示している。

モーツァルト管弦楽団はアバドが2004年に創設した若い演奏家を集めて創設したオーケストラ。

アバドと2011年8月よりモーツァルトの管楽協奏曲の演奏会&ライヴ録音を行ってきたが、この演奏会でもアバドが絶大なる信頼を寄せていた若手実力派をソリストに起用し、新鮮さ溌剌さをもった演奏を披露。

アバドに見出された若手演奏者たちが全身全霊をこめて演奏した、アバドの忘れ形見的な記念碑的ライヴ録音と言えるだろう。

3面折りたたみデジパック入りで、31ページほどの仏、独、英語による綴じ込みライナー・ノーツ付。

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2015年09月03日


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昨年惜しまれて亡くなったクラウディオ・アバドと、彼と長きに亘って親密なパートナー・シップを続けて名演を残したマルタ・アルゲリッチとの協奏曲集5枚組セットで、デビュー当時から名録音を生み出してきたアルゲリッチ&アバドによる、どれもが作品の核心を鋭く抉る永遠の名演集。

5枚とも現行で個別に入手できるが、プライス・ダウンされているので新規に購入したい方にとっては朗報に違いない。

筆者は本セットに収められた全てのディスクを既に購入しており、ショパン、リスト、チャイコフスキー、ラヴェルの演奏については本ブログでレビューを投稿済みである(それ故本セットを購入しているわけではないことを予めお断りしておきたい)。

データを見ると、初出時にカップリングされていた協奏曲以外の曲目は今回除外されている。

尚後半の3枚は総てライヴ録音になるが、音質はいずれも極めて良好。

彼らのコラボの始まりを飾っているのがプロコフィエフで、両者が得意にしていた20世紀の作品の演奏として流石に隙のない鮮やかな手腕を見せている。

ショパン、リスト、そしてチャイコフスキーと続くレパートリーではスピリットに突き動かされて疾駆するアルゲリッチを、しなやかで緻密なオーケストレーションでフォローし、充分に歌わせることも忘れないアバドの十全な采配が秀逸だ。

一方ラヴェルはベルリン・フィル及びロンドン交響楽団との2種類の音源が入っていて、古い方はより新古典主義的な整然とした形式美を感知させているが、新盤では彼女がファンタジーの翼を広げてラヴェルの妖艶な魅力を醸し出している。

ベートーヴェンでは第3番がいくらかロマンティックになり過ぎる傾向があって、作品の構造美の表現が二の次になっているのは否めないだろう。

室内楽はともかくとして、彼女がベートーヴェンのソナタに取り組まない理由はそのあたりにあるのかも知れない。

モーツァルトに関してはアバドはこの2曲を過去にグルダやゼルキンとも協演しているし、第20番ではピリスとの新しいレコーディングが話題を呼んだ、彼にとっては経験豊かなレパートリーだったが、奇しくもアルゲリッチとの演奏が最後になってしまった。

どちらも彼女のメリハリを効かせたソロが清冽で、いまだに衰えない才気煥発な奏法が印象的だ。

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2015年08月31日


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ここ数ヶ月クラウディオ・アバドの追悼盤が目白押しにリリースされているが、ソリストを迎えた協演盤としてはこのセットが先般のアルゲリッチとの5枚組に続く、ポリーニとのグラモフォンへのコンプリート録音集になる。

本BOXに収められたそれぞれの演奏については、既に当ブログでもレビューを書いたものばかりで、既に語り尽くされた感のある名盤の集成である(それ故筆者はこのセットを購入していないことを予めお断りしておく)。

ベートーヴェンのピアノ協奏曲に関しては、ポリーニにはベーム、ウィーン・フィルとの第3、第4、第5番とベームの死後ヨッフムが第1、第2番を補った旧全集が存在するし、ブラームスも第1番はベームの振ったセッションが聴き逃せない。

ベームはポリーニ、ウィーン・フィルとこれらの協奏曲集を完成させる願望があったに違いないが、奇しくもそれはアバド、ベルリン・フィルによって実現された。

同じイタリア人同士でもアバドとポリーニは、ジュリーニとミケランジェリのような関係ではなく相性が極めて良かったことから、彼らのコラボを一層堅固なものにしている。

録音では常にマイペースの姿勢を崩さなかったポリーにが、彼とCD8枚分の協演を残しているのは殆んど例外的と言えるだろう。

一方ベルリン・フィルはアバドを首席指揮者に迎えてからオーケストラのカラーも一新された。

カラヤン時代に練り上げられた絢爛豪華な響きはアバドによって一度解体され、より自発的で風通しの良い軽快なものになった。

帝王と呼ばれたカラヤンの呪縛から解き放たれたと言ったらカラヤン・ファンからお叱りを受けるかも知れないが、アバドがベルリン・フィルに新風を吹き込んだことは間違いない。

彼らの協演は1969年にプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番で始まって以来、現代物を得意とした2人だけに、多くの20世紀の音楽を採り上げたが、残念ながらプロコフィエフは録音として残されていないようだ。

一流どころのピアニストでも売れ筋のポピュラーな曲目ばかりを録音する傾向にあって、幸いこのセットはシェーンベルク、バルトーク、ノーノの都合4曲が入っている。

新時代の音楽を率先して採り上げ、常に高い水準の演奏を心掛けた彼らの啓蒙的な活動には敬服せざるを得ない。

バルトークについては当然彼らの解釈は民族主義的ではない。

だからハンガリー特有の舞踏やその音楽語法から生み出される原初的パワーを期待することはできないが、シカゴ交響楽団と共に斬新な音響を創造しながらオリジナリティーに富んだ解釈を示した録音に価値が認められるのではないだろうか。

こうした作品群では彼らの怜悧なアプローチが傑出していて音楽に全く隙が無い。

中でもノーノの作品『力と光の波のように』はアバドとポリーニのために制作された1972年の新作で、電子音とソプラノ、ピアノ、オーケストラを組み合わせた凄まじいばかりのサウンドとヴァーチャルだが目を眩ませるような強烈な光線さえ感じられ、ノーノのイデオロギーの世界を象徴している、一度は聴いておきたい作品だ。

ベートーヴェンではライヴから採られた5曲の協奏曲の他に交響曲第9番の終楽章をイメージさせる独唱陣と混声合唱が加わる『合唱幻想曲』も組み込まれている。

現在では稀にしか演奏されない曲だが、第9に収斂していく楽想の準備段階が興味深い。

ブラームスのピアノ協奏曲第2番は1976年のウィーン・フィル及び95年のベルリン・フィルとの2種類が収録されている。

シューマンの協奏曲と並んで深く彫琢されたポリーニの圧倒的なピアニズムが聴きどころだ。

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2015年08月28日


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2014年1月20日に惜しまれつつ亡くなった巨匠クラウディオ・アバドの追悼盤として、彼が残した数多くの名演の中から、アウディーテ・レーベルよりリリースされた初出ライヴ音源を収めた1枚。

ウィーン・フィルを振ったシューベルトの『未完成』が1978年、ヨーロッパ室内管弦楽団とのベートーヴェンの交響曲第2番及びワーグナーの『ジークフリートの牧歌』が1988年の、いずれも彼が常連だったルツェルン音楽祭からクンストハウスでの録音になる。

先ず音質についてだが、オリジナル・アナログ・テープの保存状態が良く、今回のリマスタリングによって良質の音響が再現されている。

勿論ふたつのコンサートの間には10年の隔たりがあるので後者のほうが音場の広がりと臨場感においてやや優っているが、どちらも鮮明な音質で破綻もない。

またルツェルン音楽祭の聴衆はマナーが良く、会場の雑音も極めて少ないのが特筆される。

尚拍手の部分は巧妙にカットされている。

シューベルトとの相性が抜群なウィーン・フィルとの『未完成』は第1楽章第2主題のテンポの遅さが意外だったが、オーケストラの瑞々しい音色の魅力を充分に引き出している。

第2楽章の微妙なダイナミクスの変化と対比で描き出す天上的な穏やかさと情熱的な世界は彼一流の指揮法だ。

後にアバドはヨーロッパ室内管弦楽団を指揮して、シューベルトの自筆譜を採用した形でも交響曲全集録音を完成させているが、そちらとの聴き比べも興味深いところだ。

またベートーヴェンにも共通して言えることだが、緩徐楽章での流麗なカンタービレの美しさはたとえようがないほどだ。

特に交響曲第2番ではドイツ音楽の重厚さや深刻さから解き放たれた、あっけらかんとするほどの屈託のなさが支配していて、確かに構築的な音楽ではないが、聴く者を疲労させない開放感と気前良く大音響を発散させるような輝かしい歓喜がある。

しかしそれは決して感性だけに頼った手法ではなく、音響力学の対比を考え抜いた極めて頭脳的なものであるに違いない。

『ジークフリートの牧歌』では森林の曙と小鳥達の囀りと言うよりは、青空の下の大自然をイメージさせるようなアバドらしい平明さの中に、伸びやかな歌心が活かされていてあたかもイタリア・オペラの間奏曲のようだ。

アバドは最晩年まで、若い音楽家たちとの活動にたいへん熱心であったことでも知られ、オーケストラの設立マニアで、ヨーロッパで幾つもの管弦楽団を新しく組織した。

彼らとの顔合わせでは、実に活き活きとした音楽を聴かせていたが、アバド自らが設立に関わったヨーロッパ室内管弦楽団を指揮したベートーヴェンとワーグナーもそうした部分が良く出た内容。

それはとりわけ若い演奏家達に公開演奏のチャンスを与え、また一流のアーティストと共演させることによって音楽家としての経験を積ませるためで、後進の育成という面でもクラシック音楽界に大きな貢献をした指揮者だが、そのひとつがヨーロッパ室内管弦楽団で、このCDでもそのフレッシュな演奏が聴きどころだ。

技術的にも統制された機動力を発揮するオケで、アバドの要求にも良く応えている。

アバドを心から慕う若いメンバーたちの高い表現意欲と緻密なアンサンブルに、アバドもまた触発されて、透明なまでの美しさも印象的な、きわめて洗練された演奏が繰り広げられている。

尚写真入31ページのライナー・ノーツには独、英、仏語によるアバドへの追悼と、彼のルツェルン音楽祭における演奏活動についてのコメントが掲載されている。

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2015年08月25日


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これは素晴らしい名演だ。

マーラーの交響曲第1番には、ワルター&コロンビア交響楽団(1961年)、バーンスタイン&コンセルトへボウ・アムステルダム(1987年)、テンシュテット&シカゴ交響楽団(1990年)といった至高の超名演があるが、本演奏はこれらの横綱クラスに次ぐ大関クラスの名演と言えるのではないだろうか。

マーラーの交響曲第1番はマーラーの青雲の志を描いた作品であり、円熟がそのまま名演に繋がるとは必ずしも言えないという難しさがある。

実際に、アバドは後年、ベルリン・フィルの芸術監督に就任後まもなく同曲をベルリン・フィルとともにライヴ録音(1989年)しており、それも当時低迷期にあったアバドとしては名演であると言えなくもないが、本演奏の持つ独特の魅力には到底敵わないと言えるのではないだろうか。

これは、小澤が同曲を3度にわたって録音しているにもかかわらず、最初の録音(1977年)を凌駕する演奏が出来ていないこととも通暁するのではないかと考えられる。

いずれにしても、ベルリン・フィルの芸術監督に就任するまでのアバドの演奏は素晴らしい。

本演奏でも、随所に漲っている圧倒的な生命力とエネルギッシュな力感は健在だ。

アバドは、作品全体の構造を綿密に分析したうえで、各要素を絶妙のバランス感覚をもって表現している。

細部までアバドの的確な眼差しが行き届き、精緻に仕上げられたマーラーで、シャープな感覚でとらえられ、描き上げられた演奏と言うこともできる。

アバドはこの作品の微細な部分を精緻な視点で掘り下げるとともに、大局的な観点からの構造把握も忘れておらず、ここまで明晰なマーラーを聴くのは、筆者としても初めての体験であった。

それでいて、アバドならではの歌謡性豊かな歌心が全曲を支配しており、とりわけ第2楽章や第3楽章の美しさには出色のものがある。

終楽章のトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と力強さには圧巻の凄みがあると言えるところであり、壮麗な圧倒的迫力のうちに全曲を締めくくっている。

いずれにしても、本演奏は、強靭な力感と豊かな歌謡性を併せ持った、いわゆる剛柔バランスのとれたアバドならではの名演に仕上がっていると高く評価したい。

また、シカゴ交響楽団の超絶的な技量にも一言触れておかなければならない。

当時のシカゴ交響楽団は、ショルティの統率の下、スーパー軍団の異名をとるほどのオーケストラであったが、本演奏でも若きアバドの指揮の下、これ以上は求め得ないような最高のパフォーマンスを発揮しているのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

音質は、ダイナミックレンジが異常なほど幅広い録音であることも大きな特徴で、オーディオファンにも関心を持たれていた名盤であり、従来盤でも比較的満足できる音質ではあったものの、前述のベルリン・フィル盤がSHM−CD化されていることもあって、その陰に隠れた存在に甘んじていたと言える。

しかしながら、今般、同じくSHM−CD化による高音質化が図られたというのは、本演奏の素晴らしさに鑑みても大いに歓迎したいと考える。

SHM−CD盤であらためて聴いてみると、強靭なパフォーマンス一点張りのなかに、アバドの温かい人間味を感じることができるのである。

このSHM−CD盤で、今までヴェールに包まれていてわからなかった当演奏の新たな側面を提示してくれたことはとても素晴らしいことだ。

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アバドの追悼盤の中でもその充実した内容が特筆されるセットである。

39枚のCDにはドイツ及びロシア系の音楽への造詣が深かったアバドらしく、バッハの『ブランデンブルク協奏曲』全6曲を始めとするドイツ系の作曲家の作品には17枚、そしてチャイコフスキーの交響曲全集やムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』全曲を含むロシア物に15枚のCDが割り振られている。

中でもCD4枚強をカバーするムソルグスキー作品集では『展覧会の絵』こそないが、純管弦楽版とコーラス付の異なった2種類のヴァージョンによる『禿山の一夜』や『ホヴァンシチーナ』からセレクトされた幾つかのシーンを加え、ロシア人指揮者顔負けのレパートリーを披露している。

また歌物では誰にも引けを取らなかったアバドだけに、ここでも都合3曲のオペラ全曲盤と独唱やコーラス入りの作品にその資質が縦横に発揮されているのが注目される。

また量的に一番少ないのは皮肉にもイタリアの作品群だが、ロッシーニ序曲集及び彼自身による150年ぶりの蘇演後完全に手中に収めた『ランスへの旅』や、ヴェルディ序曲集と『シモン・ボッカネグラ』などが収録されている。

一方アバドが得意とした現代音楽からは曲数こそ少ないが、彼が力を注いだジャンルだけに際立った演奏を聴くことができる。

例えばルイジ・ノーノの『断ち切られた歌』はファシズムの犠牲者となったレジスタンスの死刑囚の手紙を扱った作品で、アバドの精緻なアプローチと柔軟な感性が鮮烈な音響と結びついたセッションだ。

その他にも五嶋みどりとの協演になるショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番、アイザック・スターンとピーター・ゼルキンを迎えたベルクの『室内協奏曲』、更にレーガーやリームの作品を採り上げてその真価を改めて問い直している。

最後の2枚はミラノ・スカラ座管弦楽団のピックアップ・メンバーによるバッハの『ブランデンブルク協奏曲』全曲で、1975年から76年にかけてのリコルディ・レーベルへの録音になる。

この時期スカラ座管弦楽団はまだ劇場から独立したオーケストラではなかったが、彼らの手腕と豊富な音楽経験に着目したアバドによって1982年にスカラ座フィルハーモニーとして劇場以外でも自主公演する団体に再組織される。

その頃既にローマのサンタ・チェチーリア音楽院の卒業生によって結成されたアンサンブル、イ・ムジチ合奏団がヴィヴァルディの『四季』で大ヒットを飛ばしていたが、スカラ座はミラノのヴェルディ音楽院の出身者が多く、アバド自身も、そして第5番でチェンバロ・ソロを弾いているブルーノ・カニーノも例外ではない。

それゆえ我々にも第一級のバロック音楽が演奏できるという自負と対抗意識がなかったとは言えないだろう。

中庸を得た整然とした解釈にカンタービレを欠かすことのないアバド特有の美学が象徴的だ。

尚楽譜出版社リコルディの録音状態も上々で、鮮明な音質だけでなく、左右の分離状態、臨場感も極めて良好だ。

ライナー・ノーツは87ページあり、英、独、仏語による簡易なアバドについてのコメントと全オリジナル・ジャケットの写真付曲目一覧の他にも、アバドのスナップも多数掲載されている。

ボックス・サイズは縦13X横13,5X奥行き11cmでシンプルだがしっかりした装丁。

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2015年08月24日


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アバドのベートーヴェンの交響曲旧全集には、彼が振る以前のウィーン・フィルでは聴くことのできなかった明るく流麗で、しかも四肢を自由に広げたような奔放とも言える表現がある。

ここではかつての名指揮者が執拗に繰り返した、ベートーヴェンの音楽の深刻さは影を潜め、どちらかと言えば楽天的な趣きさえ感じられるが、その華麗な演奏スタイルとスペクタクルなスケール感はアバドの身上とするところだろう。

特にこの第3番ではそうした彼の長所が遺憾なく発揮されている。

ライヴ特有の熱気が満ち溢れ、凄いほどの活力がみなぎっている。

しかも響きがのびやかで、この両方を満足させることができたのは、ウィーン・フィルの威力と考えてよい。

そのため冒頭から目の覚めるような鮮度があり、音が明るくつややかだ。

この美しさは言語に絶する素晴らしさであり、そこにはやさしさと緊張が交錯している。

『葬送』では辛気臭さは全く感じられず、むしろ流暢なカンタービレの横溢が特徴的だ。

また終楽章での飛翔するようなオーケストラの躍動感とウィーン・フィル特有の練り上げられた音色の美しさが、決定的にこの大曲の性格を一新している。

曲中の随所で大活躍するウィンナ・ホルンの特有の渋みを含んだ味のある響きとそのアンサンブルは他のオーケストラでは聴くことができない。

実に誠実で若々しく、このうえなく音楽的な『英雄』である。

尚カップリングは『コリオラン序曲』で、こちらも作曲家の音楽性を瑞々しく歌い上げた、しかも威風堂々たる演奏が秀逸。

どちらも1985年の録音で音質は極めて良好。

クラウディオ・アバドはウィーン・シュターツオーパーの音楽監督への就任前夜からウィーン・フィルとベートーヴェンの作品を集中的にドイツ・グラモフォンに録音している。

カップリングはライヴの交響曲を中心に、余白を序曲等で満たした6枚の個別のCDとそれらをまとめたセット物もリリースされたが、このシリーズはアバドの80歳誕生記念として先般日本で復活したものだ。

彼はその後ベルリン・フィルと映像付の再録音を果たし、現在ではそちらの方が良く知られているし、先頃出された41枚組の箱物『ザ・シンフォニー・エディション』でも第2回目の全集がリイシューされている。

一方ウィーン・フィルとの旧全集については外盤は既に製造中止で、交響曲のみを5枚のCDにまとめたユニヴァーサル・イタリー盤も入手困難になっているという事情もあり、今回の復活はアバド・ファンには朗報に違いない。

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2015年08月13日


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アバドお気に入りのルツェルン祝祭管弦楽団やモーツァルト管弦楽団のメンバーも兼任するソリストたちとの愉悦に満ちた、現代最高と評されるモーツァルト演奏である。

本盤に収められたアバド&モーツァルト管弦楽団のメンバーによるクラリネット協奏曲、ファゴット協奏曲、フルート協奏曲第2番は、第1弾のホルン協奏曲全集、第2弾の協奏交響曲、フルートとハープのための協奏曲に続くモーツァルトの管楽器のための協奏曲集の第3弾である。

アバドは、今般の管楽器のための協奏曲集の録音開始以前にも、若手の才能ある音楽家で構成されているモーツァルト管弦楽団とともに、モーツァルトの主要な交響曲集やヴァイオリン協奏曲全集などの録音を行っており、お互いに気心の知れた関係であるとも言える。

それだけに、本演奏においても息の合った名コンビぶりを如何なく発揮していると言えるところであり、名演であった第1弾や第2弾に優るとも劣らない素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

3曲とも速めのテンポでのびのびとした爽快な演奏で、アバドとモーツァルト管弦楽団のメンバーがモーツァルトの名曲を演奏する喜びが伝わってくる。

本演奏でソロをつとめたのは、いずれもモーツァルト管弦楽団の首席奏者をつとめるなど、アバドの芸風を最も理解している気鋭の若手奏者であり、アバドとともにこれらの協奏曲を演奏するには申し分のない逸材である。

クラリネットのアレッサンドロ・カルボナーレ、ファゴットのギヨーム・サンタナ、 フルートのジャック・ズーンは、来日公演や指導を重ね、木管好きの人々や、若い音楽学生にはおなじみの面々で、妙な癖も強い灰汁もなく、技術的には折り紙付きだ。

いずれの演奏も、卓越した技量をベースとしつつ、アバドによる薫陶の成果も多分にあると思われるところであるが、あたかも南国イタリアを思わせるような明朗で解放感に溢れたナチュラルな音色が持ち味である。

そして、その表現は意外にも濃密で、歌謡性豊かでロマンティシズムの香りさえ漂っているところであり、いわゆる古楽器奏法を旨とする演奏としては異例と思われるほどの豊かな情感に満ち溢れていると言っても過言ではあるまい。

また、アバドの指揮についても指摘しておかなければならないだろう。

アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督の退任間近に大病を患い、その大病を克服した後は彫りの深い凄みのある表現をするようになり、晩年は現代を代表する大指揮者であったと言えるが、気心の知れたモーツァルト管弦楽団を指揮する時は、若き才能のある各奏者を慈しむような滋味豊かな指揮に徹している。

本演奏でも、かかるアバドによる滋味豊かな指揮ぶりは健在であり、これらの気鋭の各若手奏者の演奏をしっかりと下支えするとともに、演奏全体に適度の潤いと温もり、そして清新さを付加するのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

これらの演奏には、自分よりずっと若い演奏家たちと音楽を楽しむアバドの晩年の心境が伝わってくる。

筆者が最も感銘を受けたのはクラリネット協奏曲で、晩年のアバドの一連のモーツァルト録音で、一際印象的なものに思える。

第1,3楽章は、速めのテンポで一切の感傷と無縁、むしろ急ぎ過ぎるのではと思える程に音楽が流れて行き、時折現れる劇的な部分も作為的な強調が全くなく、すべてが心からの明るい日差しの中に解決して行く。

しかしながら、おそらくこの世で一番、何らかの思惑から解き放たれた音楽は、故吉田秀和氏が「あまりにも美しく明るい故に、その背後にある悲しみを感じさせないではいられない」という言葉を実感させる、本当に数少ない瞬間にまで自分たちを連れて行く。

ことに第3楽章の天上を走っているとしか思えない音楽は、それが故に知らず知らず抑えきれないものがこみ上がってくる。

そして第2楽章のアダージョは、誰が演奏しても美しいけれど、ここに聴かれる程に(決してもたれたり感傷的でないのに)生との別れ、を実感させることは稀ではないだろうか。

これは、ソリスト、オーケストラ、指揮者が結び合った名演であり、他の2曲も、最上の美しさを湛えており、あまり目立たないけれど、心からお薦め出来る盤ではないかと思われる。

音質も、特にSHM−CD仕様などが施されているわけではないが、十分に満足できる鮮明な高音質であると高く評価したい。

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2015年08月12日


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アバドによるマーラーの交響曲第2番と言えば、いの一番にルツェルン祝祭管弦楽団との超名演(2003年ライヴ)が思い浮かぶ。

当該演奏は、大病を克服したアバドならではの深みと凄みを増した指揮とアバドと深い関係にあるルツェルン祝祭管弦楽団が、ともに音楽を創造していくことの楽しみを共有し合いつつ渾身の力を発揮した稀有の超名演に仕上がっていた。

したがって、このルツェルン盤の存在があまりにも大きいために、そしてウィーン・フィルとのライヴ録音(1992年)も存在しているため、更に約20年も前のスタジオ録音である本盤の演奏の影はいささか薄いと言わざるを得ないが、筆者としては、若き日のアバドならではの独特の魅力がある素晴らしい名演と高く評価したい。

本演奏におけるアバドのエネルギッシュな指揮ぶりは実に凄まじい。

とりわけ第1楽章や終楽章におけるトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と力感は、圧倒的な迫力を誇っていると言えるところであり、ベルリン・フィルの芸術監督に就任後、借りてきた猫のように大人しくなってしまったアバドとは別人のような力強い生命力に満ち溢れた熱い指揮ぶりである(アバドは芸術監督退任間近に胃がんにかかるが、胃がん克服後は、彫りの深い名演を成し遂げるようになったことを忘れてはならない。)。

それでいて、とりわけ第2楽章や第3楽章などにおいて顕著であるが、アバドならではの歌謡性豊かな表現には汲めども尽きぬ情感が満ち満ちており、その歌心溢れる柔和な美しさには抗し難い魅力がある。

終楽章の終結部の壮麗さも、雄渾なスケールと圧巻の迫力に満ち溢れており、圧倒的な感動のうちに全曲を締めくくっている。

シカゴ交響楽団も持ち前の超絶的な技量を如何なく発揮しており、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

また、キャロル・ネブレットとマリリン・ホーンによる独唱、そしてシカゴ交響合唱団による壮麗な合唱も最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

他方、マーラーの交響曲第4番は、アバドによる2度にわたる同曲の録音のうちの最初のもの(スタジオ録音)に該当する。

2度目の録音は、本演奏の約30年後にベルリン・フィルを指揮したライヴ録音(2005年)であり、それはベルリン・フィルの卓越した技量と、大病を克服したことによって音楽に深みと凄みを増したアバドによる彫りの深い表現、そしてルネ・フレミングによる名唱も相俟って、至高の超名演に仕上がっていたと言える。

したがって、ベルリン・フィル盤が燦然と輝いているために本演奏の旗色は若干悪いと言わざるを得ないが、それでも、本盤には若き日のアバドならではの独特の魅力があり、名演との評価をするのにいささかの躊躇をするものではないと考える。

交響曲第4番は、他の重厚長大な交響曲とは異なり、オーケストラの編成も小さく、むしろ軽妙な美しさが際立った作品であるが、このような作品になるとアバドの歌謡性豊かな指揮は、俄然その実力を発揮することになる。

本演奏は、どこをとっても歌心に満ち溢れた柔和な美しさに満ち溢れており、汲めども尽きぬ流麗で、なおかつ淀みのない情感の豊かさには抗し難い魅力がある。

それでいて、ここぞという時の力奏には気迫と強靭な生命力が漲っており、この当時のアバドならではのいい意味での剛柔バランスのとれた素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

オーケストラにウィーン・フィルを起用したのも功を奏しており、アバドの歌謡性の豊かな演奏に、更なる潤いと温もりを与えている点を忘れてはならない。

ゲルハルト・ヘッツェルのヴァイオリンソロも極上の美しさを誇っており、終楽章におけるフレデリカ・フォン・シュターデによる独唱も、最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

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2013年夏のルツェルン音楽祭で撮影された、アバドが亡くなる数ヶ月前の貴重な映像である。

さすがに指揮台に登場する彼の姿はやつれて痛々しいものがあるが、派手なジェスチャーのないゆるやかなタクトから生み出される音楽は驚くほど瑞々しく流麗で、オーケストラの自主性を尊重しながらも幅広いダイナミズムを駆使した、全くツボを外さない的確な指示が見どころだ。

プログラムの第1曲目はブラームスの『悲劇的序曲』で、音楽的なバランスが絶妙にとれた抒情性が特筆される。

2曲目はアバドが得意とする歌が入ったシェーンベルクの『グレの歌』から間奏曲と「山鳩の歌」で、彼がオーケストラから導き出すカンタービレが極めて美しく、「山鳩の歌」に入るとメゾ・ソプラノ藤村実穂子の堅実で真摯な歌唱が、この作品の緊張感を緩めることなくクライマックスへと向かう。

その高まりへの持続は図らずも死の告知で、余命いくばくも残されていなかったアバドの姿がオーバーラップして印象的だ。

最後に置かれたベートーヴェンの『英雄』にしても、これは彼の若い頃からのポリシーだろうが、スコアを忠実に追いながら重厚でもなければ構築的でもない、音響としての美しさと迸り出るような自然発生的な音楽美学が冴え渡っていて、それはここに収録された他の2曲にも共通している。

音楽を鑑賞するものに常に喜びを与えてくれた指揮者がまた一人去ってしまったことへの追悼と、アバドへの感謝の気持ちを改めて表したい。

ルツェルン祝祭管弦楽団はアバドが芸術監督に就任して以来、主要ポストに彼と親しかった奏者を置いて流動的なメンバーの編成と音楽的な高い水準を保っているが、この映像でもフルートのジャック・ズーンやクラリネットのザビーネ・マイヤーの姿が見られる。

演奏会当日のカラー写真入りの15ページほどのライナー・ノーツが付いていて、彼のルツェルンでのラスト・オープニング・コンサートについてのコメントが英、独、仏語で掲載され、オーケストラ全員の編成リストが明記されている。

またシェーンベルクに関しては歌詞対訳は付いていないが、サブ・タイトルに日本語が選択できるのは親切な配慮だ。

尚このコンサートの映像はブルーレイ・ヴァージョンでもリリースされている。

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2015年08月11日


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アバドによるマーラーの交響曲第3番には、ウィーン・フィルとのスタジオ録音(1980年)もあり、それは若き日のアバドならではの魅力のある素晴らしい名演と今でも高く評価したい。

しかしながら、1999年ベルリン・フィルとのロンドン公演に於けるライヴ録音が、旧盤と比べてもより緻密で精巧に仕上がっていると言えるところであり、筆者としては、新盤の方を至高の超名演として更なる上位に置きたい。

それどころか、バーンスタイン&ニューヨーク・フィル(1987年ライヴ録音)やテンシュテット&ロンドン・フィル(1986年ライヴ録音)などと並んで、数ある同曲の録音の中でも最高の名盤と絶賛したい。

本演奏は、アバドが大病にかかる直前のベルリン・フィルとの演奏であるが、アバドも、そしてベルリン・フィルもともに渾身の力を発揮した圧倒的な超名演に仕上がっている。

アバドによるベルリン・フィルの様々な改革の成果がはっきりと出てきた頃の充実ぶりを実感できる、新たな境地に到達した演奏と言えるだろう。

ライヴ録音ということもあって、アバドの、そしてベルリン・フィルのコンディションもかなり良かったのではないかとも思われる。

ベルリン・フィルとの他のマーラー録音もそうであったが、「第3」においても、アバドのエネルギッシュな指揮ぶりは実に凄まじい。

大胆でダイナミックな表現の演奏で、ライヴゆえのオーヴァー・アクションもあるだろうが、そうしたうわべだけに終わらず見通しの良いガッシリとした構成力やオケの性能の高さは一目瞭然であり、品のいいマーラーだ。

とりわけ、第1楽章におけるトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と力感は、圧倒的な迫力を誇っている。

また、第2楽章以降におけるアバドならではの歌謡性豊かな表現には汲めども尽きぬ情感が満ち満ちており、その歌心溢れる柔和な美しさには抗し難い魅力がある。

このアバド&ベルリン・フィルの演奏には温かみがあり、ウィーン・フィルとの演奏とは違う柔らかみのある響きが特徴で、約20年を経てアバドが余裕でオーケストラをコントロールしている様子が窺える。

もっとも、全体にバランスを重視するあまりピアニッシモがいささか弱過ぎるきらいがあるが、壮麗な美しさは非常に魅力的であり、第1楽章や終楽章終結部で強靭な迫力が漲っているところなど、旧盤を遥かに凌駕している。

そして何よりも特筆すべきはベルリン・フィルによる極上の美しい音色であり、弦も管も音色が美しく透明感があり、アンサンブルも見事。

とりわけ第1楽章におけるジャーマン・ホルンやトロンボーンソロの朗々たる響きや、第1楽章及び第4楽章におけるヴァイオリンソロ、そして第3楽章におけるポストホルンソロは圧巻の美しさを誇っており、本名演に大きく貢献している点を忘れてはならない。

全編を通じて柔らかい小春日和を思わせる、こけおどしのマーラーとは真反対の正統派マーラーと言えよう。

若き日のアンナ・ラーションによる歌唱も、本名演に華を添えていると評価したい。

ロンドン交響合唱団やバーミンガム市交響ユース合唱団も最高のパフォーマンスを発揮している。

録音については、従来盤では全体としてやや雲がかかったような雰囲気とやや音圧レベルが低くマイクが遠い感じがあり、録音が楽器の微細なニュアンスを拾いきれていないようなもどかしさがあった。

しかしながら、今般、SHM−CD化による高音質化が図られたというのは、本演奏の価値を高めることに貢献しており、大いに歓迎したいと考える。

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2015年07月27日


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クラウディオ・アバドが1985年から90年にかけてウィーン・フィルと録音したベートーヴェン序曲集は、当初2枚組のCDで91年にリリースされたが、その後製造中止になっていた。

2011年にリイシューされた日本盤では、このうち『アテネの廃墟』『シュテファン王』『聖名祝日』を除いた8曲を1枚のSHM−CDにまとめていたが、今年になってようやく全曲が2枚のSHM−CDで復活した。

いずれの演奏も当時から評判の高かったセッション録音で、このうち『コリオラン』及び『聖名祝日』は既に廃盤になったグラモフォンのベートーヴェン・コンプリート・エディション第3巻オーケストラル・ワークスにも加えられていた。

ちなみにアバドはベルリン・フィルとも一連の劇音楽集『エグモント』『アテネの廃墟』『献堂式』『レオノーレ・プロハスカ』の全曲版を録音していて、それらはコンプリート・エディションの方に組み込まれている。

アバドの演奏は、ややイタリア的な熱狂と明るさが強く出すぎている面もあるが、オケがウィーン・フィルのためもあってか響きがなめらかで流麗だ。

ウィーン・フィルの持ち味でもあるシックで瑞々しい響きを最大限に活かし、しかもそれに決して溺れることなく堂々とした自己主張を行っている。

流れるようなカンタービレでベートーヴェンに対する新たな美学を描いてみせた秀演で、音楽の内部から湧き出るような歌心を表出させることによって、滞ることのない奔流のような推進力でそれぞれの曲に生命感が与えられている。

また音楽の設計も緻密で、説得力があり、この指揮者の豊かなオペラ経験がベートーヴェンの作品に内在する生命力を解き放つのに大きく役立っているようである。

それはかつての質実剛健で重厚なベートーヴェンのイメージからすれば、意外なくらい明るく軽快な趣を持っているが、かえってスケールの大きさと劇音楽としてのドラマ性の獲得にも成功している。

かなり個人的な解釈が強く、表情にややオーヴァーなところが無くはないが、序曲であるがゆえにドラマティックな音楽に仕立てあげるということも一理ある。

その成否はともかく、少なくともアバドに微塵の迷いも曖昧さもなく、エネルギッシュな音楽の推進力とウィーン・フィルの厚みと奥行きのある響きがひとつの象徴的なベートーヴェンらしさを醸し出している。

特に堂々として骨格の太い『献堂式』、悲劇色を強く打ち出した『コリオラン』『エグモント』、生き生きとして力強い『フィデリオ』、演出のうまさが光る『レオノーレ』第1番、壮大で最後に激情的に盛り上げる『レオノーレ』第3番では、アバドの長所が遺憾なく発揮されている。

録音会場となったウィーン・ムジークフェライン・グローサーザールの潤沢な残響も決して煩わしいものではない。

ベートーヴェンの交響曲全集と同様、ウィーン・フィルがアバドによってイタリア趣味の洗礼を受けた時期のセッションとして興味深い。

序曲集にはカラヤン&ベルリン・フィルのものもあるが、ウィーン・フィルの響きのほうが序曲の表情としては生彩がある。

音質確認のために古い1991年盤と今回のSHM−CDルビジウム・カッティング仕様を改めて聴き比べてみたが、やはり後者が俄然優っている。

楽器の定位がより明瞭で、雑味が払拭され磨きをかけたような音質が得られている。

ただし1曲目の『プロメテウスの創造物』冒頭アダージョの導入部でのごく小さな傷のような音飛びは改善されていないが、これはおそらくオリジナル・マスターに由来するものと思われる。

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2015年07月04日


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アバドはマーラーの交響曲第7番を2度録音しているが、1984年のシカゴ響とのスタジオ録音に続き、本盤には、2001年のベルリン・フィルとのライヴ録音が収められている。

1984年盤も、アバドがある意味では最も輝いていた時期の演奏でもあり、強靱な気迫と力強い生命力、そして豊かな歌謡性がマッチングした、いい意味での剛柔バランスのとれた名演に仕上がっていたと言える。

1970年代から1980年代にかけてのアバドの演奏には、このような名演が数多く成し遂げられていたと言えるが、1990年にベルリン・フィルの芸術監督に就任して以降は、借りてきた猫のような大人しい演奏に終始するようになってしまった。

もちろん、メンデルスゾーンの交響曲第4番やヤナーチェクのシンフォニエッタなど、例外的な名演もいくつか存在しているが、その殆どは大物揃いのベルリン・フィルに気後れしたかのような今一つ覇気のない演奏が多かったと言わざるを得ない。

その後アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督の任が重すぎたせいか、ベルリン・フィルの芸術監督を退任する少し前の2000年には癌に倒れることになってしまった。

そして、アバドはその癌を克服するのであるが、それは皮肉にもベルリン・フィルの芸術監督の退任直前。

そして、アバドはその大病を見事に克服するのであるが、死と隣り合わせの苛烈な体験を経たことによって、アバドの芸風には、それまでの演奏にはなかった凄みと底知れぬ彫りの深さが加わったと言えるのではないだろうか。

ベルリン・フィルの芸術監督に就任して以降は、借りてきた猫のように大人しい演奏に終始していただけに、その変貌ぶりには驚くべきものがあったとも言える。

その意味では、2000年以降のアバドは真の大指揮者となったと言っても過言ではあるまい。

本盤の演奏も、真の大指揮者アバドによるものであり、ベルリン・フィルの卓越した名技を活かしつつ、胃癌を発表した後の明鏡止水にも似たような境地が漂う何とも言えない深い味わいがあり、至高の名演に仕上がっていると高く評価したい。

本演奏の最大の優位点は、演奏全体を支配する奥行きの深さであり、アバドの音楽が表現する内容も凄絶な変貌を遂げており、そんな時期の情熱あふれる名演と言えるのではないか。

それだけに、本演奏においては、この時期のアバドとしては劇的な迫力を有するとともに、雄大なスケールを誇る名演に仕上がっていると言えるのではないかと考えられる。

したがって、本演奏には、シカゴ響との演奏には存在しなかった楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような彫りの深さが存在しているというのはある意味では当然であり、まさにアバドによる円熟の名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

もっとも、トゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫や強靭な迫力という意味においては、シカゴ響との録音と比較するといささか見劣りするとも言えなくもないが、むしろ、このように決して喚いたり叫んだりしない、そして奥行きの深い演奏の中にも持ち前の豊かな歌謡性をより一層際立たせたいい意味での剛柔バランスのとれた演奏こそが、アバドが目指す究極のマーラー演奏の理想像とも言えるのかもしれない。

各楽器セクションのバランスを重要視した精緻な美しさにも出色のものがあるが、ここぞという時の力奏にも強靭な迫力が漲っており、各フレーズの歌心溢れる徹底した歌い抜きにおいてもいささかも不足はない。

ベルリン・フィルも、このような深みと凄みを増したアバドによる確かな統率の下、持ち得る実力を十二分に発揮した最高のパフォーマンスを示していると評価したい。

音質は、本従来CD盤でも十分に満足できる高音質であると評価したい。

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2015年06月28日


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これはアバド最良の遺産のひとつである。

本盤に収められたマーラーの交響曲第4番は、アバドによる2度にわたる同曲の録音のうち最初のものに該当する。

最新の演奏は2005年にベルリン・フィルを指揮したものであるが、それは近年のアバドの円熟ぶりを窺い知ることが可能な至高の名演であった。

したがって、それより四半世紀以上も前の本演奏の影はどうしても薄いと言わざるを得ないが、筆者としては、若きアバドならではのファンタジーと幸福感に溢れた独特の魅力がある素晴らしい名演と高く評価したい。

アバドが最も輝いていた時期はベルリン・フィルの芸術監督就任前であり、この時期(とりわけ1970年代後半から1980年代にかけて)のアバドは、楽曲の頂点に向けて畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力、そして持ち前の豊かな歌謡性が付加された、いい意味での剛柔バランスのとれた名演の数々を成し遂げていた。

本演奏は、そうしたアバドのかつての長所が大きく功を奏し、ウィーン・フィルのふくよかでいぶし銀のような響きと、アバドの緻密さとさわやかな歌謡性がマッチした素晴らしい名演に仕上がっている。

マーラーの交響曲第4番は、他の重厚長大な交響曲とは異なり、オーケストラの編成も小さく、むしろ軽妙な美しさが際立った作品であるが、このような作品になるとアバドの歌謡性豊かな指揮は、俄然その実力を発揮することになる。

本演奏は、どこをとっても歌心に満ち溢れた柔和な美しさに満ち溢れており、汲めども尽きぬ流麗で、なおかつ淀みのない情感の豊かさには抗し難い魅力がある。

しなやかでふくよかなウィーン・フィルの音色が十分に生かされ、すべてが美しく歌っているからである。

それでいて、流麗なだけでなく充分に劇的で、生命力の躍動にも富んでおり、ここぞという時の力奏には気迫と強靭な生命力が漲っており、この当時のアバドならではのいい意味での剛柔バランスのとれた素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

オーケストラにウィーン・フィルを起用したのも功を奏しており(ウィーン・フィルがステレオで録音した初めての第4番)、アバドの歌謡性の豊かな演奏に、更なる潤いと温もりを与えている点を忘れてはならない。

ゲルハルト・ヘッツェルのヴァイオリンソロも極上の美しさを誇っており、終楽章におけるフレデリカ・フォン・シュターデによる独唱も、最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

とはいえ、ここではアバドがかなり自己主張しており、ウィーン・フィルの美演を聴くというよりはアバドの指揮に耳を傾ける演奏となった。

特に第1楽章は若々しく新鮮で、大変スマートなマーラーであり、また極めて分析的で、曲想の移り変わりに神経を使っている。

第2楽章のクラリネットにつけられたルバートの巧みさなど息もつかせぬ面白さである。

音質は、1970年代のアナログ録音であるものの、従来CD盤でも比較的良好な音質であり、数年前にはSHM−CD盤も発売されるなど、比較的満足できるものであった。

ところが、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化が行われるに及んで大変驚いた。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、アバド&ウィーン・フィルによる素晴らしい名演を、現在望み得る最高の高音質であるシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2015年06月21日


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音楽の偉大な革命家シェーンベルク。

しかし革命以前の彼には、後期ロマン派の手法による名作がある。

1つが《浄められた夜》、もう1つが《グレの歌》。

3部から成る《グレの歌》は、演奏に2時間を要する大作で、後期ロマン派の最大傑作といわれるだけあって、スケールの大きさと濃厚な内容を兼ね備えている。

男声四部合唱三組、混声八部合唱、それに大編成のオーケストラを使ったこの曲は、音楽における1つの時代の終わりを告げているが、同時に、シュプレヒゲザングの手法の導入などにより、新しい世界に向かっての出発点にもなっている。

シェーンベルクは死の翳りにどっぷり浸かったマーラーの《嘆きの歌》の強い影響と、世紀末的な耽美趣味のなかでこの曲を生み落とした。

一方、爛熟し肥大化したロマン主義を脱皮して、知的で新鮮な音楽の創造に向かう道も模索していた。

この曲はまさにダンテの「暗い森」のなかの彷徨をあらわしており、死への惑溺から抜け出し、生への道を模索する願望を濃厚に映している。

演奏はその過程をどうとらえるか、アバドの録音は死への気だるい耽美に浸るよりは、その冷たい感触のなかに生の新鮮な息吹を見出そうとしている。

腐った果実の芯に宿る固く冷たい種から新しい芽が吹くような、そんな「新生」の期待のこもった清々しさがここに聴きとれる。

マーラーの録音が一段落すると、指揮者たちは次の階梯とも言える《グレの歌》に取り組み始めた。

しかも心のロマンをかき立てられるような内容だから、これを見事に振れば指揮者冥利につきるだろう。

やりがいのある作品だけに録音は多く、知的なもの、パワフルなもの、野心的なものなど大指揮者たちのさまざまなアプローチがある。

1980年代後半から2000年代に立て続けにリリースされたインバル、シャイー、メータ、ラトルといった同曲の録音のなかでも、アバドのものは、大編成にもかかわらず、全体のバランスと声部の輻輳を多元的に整理しながら、シェーンベルクの膨大なスコアをくまなくクリアに立ち上げた点で特筆すべきであろう。

アバドは持てる力のすべてを投入して立ち向かい、ロマン的要素を浮かび上がらせて、親しみのもてる豊かな音楽として再現していて見事だ。

複雑なスコアから無類に明快で美しい音の流れを浮かび上がらせるアバドの手腕はここで最高度に発揮され、音々が細部まで息づき、個々に色彩を得、いとも見通しのよい超ロマンティックな織物へと姿を変えている。

埋もれがちな声部を前に出した、わかりやすい演奏なので、さぞかしこまやかなミキシング操作が施されたのだろうと思っていたら、実演でもそれが達成されていて驚いた経験がある。

印象派の洗練を全身に受けた後期ロマン主義といった感さえある《グレの歌》の世界。

この演奏を聴いていると、この曲の中にひそむ「トリスタン」的ないし「パルジファル」的な要素とは別の、さらに実り豊かな美質がみえてくるような気がしてくる。

配役も強力な布陣で、王の苦悩を表現するイェルザレム、王が魅了されたトーヴェを美しく歌うスウィート、人気のある山鳩の曲を深みのある声で歌い上げたリポヴシェク、道化クラウスのきわどい歌を性格表現に長けたラングリッジが雰囲気豊かに表現するなど、その歌唱は高水準な仕上がりとなっている。

ウィーン国立歌劇場合唱団の他、響きの純度の高さでは定評のあるアルノルト・シェーンベルク合唱団とスロヴァキア・フィルハーモニー合唱団を起用した合唱パートも秀逸で、場面に応じた巧みな表現力で演奏の大きな牽引力ともなっている。

《グレの歌》演奏の現在の到達点を示した録音だ。

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2015年06月16日


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本盤に収められているのは、カルミニョーラが、同じイタリア人の大指揮者アバドと組んでスタジオ録音を行ったモーツァルトのヴァイオリンのための協奏曲全集からの有名な楽曲の抜粋である。

因襲的なスタイルから脱皮し交響的協奏曲へ一歩踏み出した第3番、青年期の最高傑作のひとつである洗練度と深みを増した第5番、中間楽章での憂いを帯びた感情の表出が印象的な協奏交響曲といったモーツァルトのヴァイオリンのための協奏曲集。

独奏はモダンとバロック両方のヴァイオリン演奏法を修得し、きわめて幅広いレパートリーを擁するカルミニョーラ。

指揮のアバドが若い演奏家を集めて創設したモーツァルト管弦楽団との共演であるが、いずれも素晴らしい名演と高く評価したい。

本演奏の特徴を一言で言えば、ソロ奏者、指揮者、オーケストラの全員が実に楽しげに音楽を奏でているということではないかと考えられる。

カルミニョーラのヴァイオリンは、モーツァルトの若い時代の作品であるということもあってもともと卓越した技量を要するような楽曲ではないという側面もあるが、自らの技量をいささかも誇示することなく、あたかも南国イタリアの燦々と降り注ぐ陽光のような明瞭で伸びやかな演奏を披露してくれているのが素晴らしい。

カルミニョーラは既に1997年にイル・クァルテットーネとの弾き振りでこの曲集をリリースしているが、この新録音の方がテンポの設定が速めで、10年前の方がかえって落ち着いた古典的な優雅さを保っている。

例えば第5番の名高いテンポ・ディ・メヌエットでの目の覚めるようなダイナミックな対比が以前より一層徹底されている。

こうした劇的な生命力に漲ったシュトゥルム・ウント・ドラング的な曲作りはカルミニョーラ自身がアバドに要求した意向のようで、全曲ともピッチはやや低めのa'=430を採用している。

カデンツァは彼の師になるフランコ・グッリの手になるもので、音楽的にも技巧的にもかなり充実した内容を持っている。

またソロ・ヴィオラが加わる協奏交響曲では若手の女流ヴィオラ奏者、ダニューシャ・ヴァスキエヴィチが起用されている。

カルミニョーラの使用楽器はストラディヴァリウス(BAILLOT,1732年)で数年前にボローニャ貯蓄銀行財団から貸与された名器だ。

彼は1951年生まれだから、この録音があった2007年は55歳の円熟期にあり、現在でもイタリアのヴァイオリニストの中では最も充実した演奏活動を行っている。

彼のレパートリーはバロックから古典派にかけてが中心で、ピリオド奏法を駆使したメリハリのある表現と凝り過ぎないストレートなカンタービレ、それに名器ストラディヴァリウスの明るく艶やかな響きが特徴だ。

アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督退任の少し前に大病を患ったが、大病克服後は音楽に深みと鋭さを増すことになり、現代を代表する大指揮者と言える偉大な存在であったが、本演奏においては、親交あるカルミニューラやヴィオラのヴァスキエヴィチ、そしてモーツァルト管弦楽団などの若い音楽家たちを温かく包み込むような滋味溢れる指揮ぶりが見事である。

若手の才能ある演奏家で構成されているモーツァルト管弦楽団も、いわゆる古楽器奏法を駆使した演奏ではあるがいささかも薄味には陥っておらず、フレッシュな息吹を感じさせるような躍動感溢れる名演奏を展開しており、演奏全体に清新さを与えるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

ヴィブラートを最小限に抑えた歯切れの良いリズム感や軽快なテンポの運び方は晩年のアバドの音楽観の変化とモーツァルトの作品に対する新しい解釈を試みているようで、老いて益々意欲的な活動が頼もしい。

録音については、従来盤でも十分に満足し得る高音質であったが、今般のSHM−CD化によって若干ではあるが音質がより鮮明になるとともに、音場が幅広くなったように感じられるところだ。

このような新鮮味溢れる名演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2015年06月05日


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今は亡きアバドの提唱で1988年から始まった現代音楽祭《ウィーン・モデルン》、DGに遺した3つのライヴ録音が本盤に収められている。

モデルンという言葉はご存じのとおり、近代ないし現代を意味するドイツ語(英語のモダンと同じ)で、おそらく芸術について使われるときには「斬新な感覚を持っている」といったニュアンスが込められている。

ところが、この言葉がウィーンという名前で結びつくと、たちまち、懐かしいノスタルジックな響きにかわってしまうから不思議だ。

もっともこの10年あまり、ポスト・モダンを模索する動き、つまり近代を乗り越えて新しい時代を切り開こうとする動きが活発だったので、モデルン=近代という言葉そのものに「終わった時代」という印象があることも確かだ。

「近代は過ぎ去った良き時代」というわけである。

だが、《ウィーン・モデルン》という言葉に対する思いは、実はもっと具体的な、ある一時期への憧れと重なりあっている。

それは中世からハプスブルグ家の都市として栄えてきたウィーンが、真の意味で「現代音楽」と呼ぶことのできる最初の作品を書いた革命的な音楽家たちを擁していた時代、つまり19世紀末から20世紀にかけての、新ウィーン楽派の時代なのである。

その頃から、ウィーンには、古い伝統を守っていこうとするあまり、新奇なものに懐疑の目を向ける気質が根づいていた。

だから、シェーンベルクも現世的な成功には恵まれず、生涯、貧しく孤独な人生を送っている。

しかし、世紀末の爛熟を映したクリムトらのウィーン工房から、オスカー・ココシュカが巣立ったように、シェーンベルクは後期ロマン派のマーラーやツェムリンスキーらとの交流の中から、きたるべき時代の新しい語法を模索していった。

つまり古い伝統の中からモダンが生まれ、両者が同居しつつも火花を散らしている、そんな幅広い文化を懐に抱えていたのが、この時代のウィーンだったのである。

クラウディオ・アバドはあるインタビューの中で、ウィーンの町全体を現代の文化(モデルン)で満たそうという考えから《ウィーン・モデルン》を企画したと述べている。

そして、それが第2の故郷であり、古い音楽の伝統を持つ町だからこそ、あえてやってみたかったのだという。

とすれば、この現代音楽祭によってアバドがもくろんだのは、実はあの時代、シェーンベルクの時代のウィーンを、いまに再現することだったのではないだろうか。

そんな期待を窺わせるかのように、第2回の《ウィーン・モデルン》(1989年)では、ウィーンの若い世代の作曲家から3つの作品を紹介して「新しいウィーン」を印象づけているほか、音楽という枠を越えて、文学から絵画、演劇にも新しい作品を求め、それらの芸術に胎動している傾向を探ろうとしている。

ところで、私たちはこれまで、アバドが現代の前衛作品を指揮している演奏を聴く機会には恵まれていなかった。

アバドのレコーディングではスカラ座とのヴェルディのオペラ、ウィーン・フィル、シカゴ交響楽団とのマーラーの交響曲全集、あるいはルドルフ・ゼルキンとの数々のモーツァルトのピアノ協奏曲といった、古典派・ロマン派の作品の演奏がおなじみだろう。

また、シューベルトの自筆譜によるヨーロッパ室内管弦楽団との交響曲全集が話題になった。

アバドのディスコグラフィをたどってみると、約40人の作曲家の名前が並んでいるが、そのほとんどは18世紀から19世紀に活躍した人たちで、20世紀と言ってもせいぜい、ストラヴィンスキー、ベルク、バルトーク、プロコフィエフといったところ。

こうしたオーソドックスな作品で説得力のある演奏を聴かせることができるところに、アバドの底力があるのは言うまでもない。

ただ、その中で1枚だけ、ノーノの《力と光の波のように》をポリーニ、タスコーヴァ、そしてバイエルン放送交響楽団と録音しているのが目をひく。

その演奏を聴いてみると、アバドの柔軟な感性が前衛作品の中にもロマンティックなニュアンスを感じ取っているのがわかる。

それにしても本盤のように戦後の前衛作品を集めたディスクは画期的であり、その演奏には「現代音楽」に対する無味乾燥とした音楽をあっさりと払拭してしまう芳醇な響きと情感のうねりがある。

そして選ばれている作品もまた、ウィーンという都市の面影が浮かんでくる、どこかロマンティックで人肌のぬくもりを感じさせる音楽なのである。

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ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番及び第3番を収録したCDは非常に多く出回っているが、近年の録音ではジルベルシュテインがアバドの指揮でベルリン・フィルと共演したアルバムが溌剌として爽やか、一陣の薫風が駆け抜けていったかのような演奏は、最近の筆者の嗜好に合っている。

ピアノを弾いているジルベルシュテインの、妙なけれんがなく、メロディーラインを素直に歌い上げているところが好ましく、アバド指揮ベルリン・フィルのオケとのバランスもよい。

ジルベルシュテインの演奏を聴いていつも感じるのは、ラフマニノフの曲に霊感を与えるのは弦楽器の音だということである。

ピアノは、弦楽器によって作られた霊的な音の熱狂・興奮をより高める役割を担っている。

筆者は、ジルベルシュテインのピアノに印象を受けないと言うつもりはなく、むしろ逆で、彼女は、弦楽器によって作り出された音響の世界をピアノ1台で突き破ろうとし、ピアノの限界に挑むのである。

すみずみまで感興を行き渡らせ、その力強いピアノのタッチから感じられるエネルギーは、聴き手に大きな印象を与える物凄い音楽である。

ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番及び第3番はメジャーな作品だけにとても思い入れのこもった演奏が多く、そのため、ピアノやオケのどちらかが前面に出すぎてしまうことが多かったりするのであるが、この演奏はピアノとオケのハーモニーやピアノの問いかけに対するオーケストラの受け答えなどバランスが絶妙である。

おそらく綿密に計算された演奏であるためであろうが、適度な緊張感や綺麗な音の響きと相俟ってとても美しい演奏になっている。

この演奏のバックを務めるアバドは、私見であるが、これまでの様々な名指揮者の中でも、最高の協奏曲指揮者と言えるのではなかろうか。

ベルリン・フィルの芸術監督に就任する前には、ロンドン交響楽団とともに圧倒的な名演奏を成し遂げていた気鋭の指揮者であったアバド。

そのアバドは、ベルリン・フィルの芸術監督就任後、借りてきた猫のような大人しい演奏に終始するようになってしまった。

カラヤン時代に、力の限り豪演を繰り広げてきたベルリン・フィルも、前任者と正反対のアバドの民主的な手法には好感を覚えたであろうが、演奏については、大半の奏者が各楽器セクションのバランスを重視するアバドのやり方に戸惑いと欲求不満を感じたのではないか。

それでも協奏曲の演奏に限ってみれば、ベルリン・フィルの芸術監督就任以前と寸分も変わらぬ名演を成し遂げていたと言える。

チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番におけるアルゲリッチとの競演(1994年)、そして、レコード・アカデミー賞を受賞したブラームスのピアノ協奏曲第2番におけるブレンデルとの競演(1991年)など、それぞれの各楽曲におけるトップの座を争う名演の指揮者は、このアバドなのである。

本盤に収められたロシア出身のピアニストであるリーリャ・ジルベルシュテインと組んで録音を行ったラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、第3番についても、こうした名演に系譜に連なるものとして高く評価したいと考える。

協奏曲の演奏に際してのアバドの基本的アプローチは、ソリストの演奏の引き立て役に徹するというものであり、本演奏においても御多分にも漏れないが、オーケストラのみの演奏箇所においては、アバドならでは歌謡性豊かな情感に満ち溢れており、格調の高さも相俟った美しさは、抗し難い魅力に満ち溢れている。

ここぞという時の力感溢れる演奏は、同時期のアバドによる交響曲の演奏には聴くことができないような生命力に満ち溢れており、これぞ協奏曲演奏の理想像の具現化と評しても過言ではあるまい。

ラフマニノフのピアノ協奏曲に特有のロシア風のメランコリックな抒情を強調した演奏にはなっておらず、両曲にロシア風の民族色豊かな味わいを求める聴き手にはいささか物足りなさを感じさせるきらいもないわけではないが、ジルベルシュテインのピアノ演奏の素晴らしさ、両曲の持つ根源的な美しさを見事に描出し得たといういわゆる音楽の完成度という意味においては、まさに非の打ちどころのない素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したいと考える。

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2015年05月18日


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アバドが初めて録音したモーツァルトの交響曲がこの第40番と第41番「ジュピター」であった。

アバドの指揮する独墺系の作曲家による楽曲については、そのすべてが名演とされているわけではないが、本演奏の当時のアバドは最も輝いていた時期である。

ベルリン・フィルの芸術監督就任後は、借りてきた猫のように大人しい演奏に終始するアバドではあるが、この時期(1970年代後半から1980年代にかけて)に、ロンドン交響楽団やシカゴ交響楽団、そしてウィーン・フィルなどと行った演奏には、音楽をひたすら前に進めていこうとする強靭な気迫と圧倒的な生命力、そして持ち前の豊かな歌謡性が融合した比類のない名演が数多く存在していた。

本盤の演奏においてもそれは健在であり、どこをとっても畳み掛けていくような気迫と力強い生命力に満ち溢れているとともに、モーツァルト一流の美しい旋律の数々を徹底して情感豊かに歌い抜いていて、その瑞々しいまでの美しさには抗し難い魅力に満ち溢れている。

アバドは2曲共、ゆとりあるテンポを自由に設定しており、管弦に独特のバランスを与えて、モーツァルトの音楽の陰影を拡大してみせるような演奏を聴かせる。

半面、デュナーミクには振幅の大きさと独自の厳しさがあるため、ユニークな表現が生まれている。

その意味では、極めて複雑な演奏様式をもったモーツァルトと言えるが、緩徐楽章にも工夫がこらされており、アバドの自己主張が強く感じられる。

作品を冷静な視線でとらえながら、十分なる歌心でじっくりと歌い込んでいくいかにもアバドらしい仕事ぶりだ。

緻密でありながら推進力にとみ、客観的でありながら冷たくなることのないバランスのとれたモーツァルトであり、作品そのもののすがすがしさがかつてない新鮮さで浮き彫りになっている。

ワルターとカザルスが旧世代を代表する名演だとすれば、アバドは新世代による洗練されたモーツァルトだが、第40番は充実した音楽美のなかから詠嘆の情がそくそくと胸に迫る。

第1楽章のテーマの孤独感はそのレガート奏法とともに上品な哀しみを伝え、アタックはつねに柔らかく、再現部の第1主題(5:40)など、少しも歌っていないのにあふれるような心の表現となるのである。

第2楽章とメヌエットも強調のない寂しさが流れ、後者の中間部ではホルンのソフトな音色が聴く者を慰めてくれる(2:45)。

そしてフィナーレでは素晴らしいアンサンブルとリズム、デリケートな感受性が快く、第2主題(1:03)におけるテンポの変化は現今の指揮者には珍しいケースと言えよう。

「ジュピター」はさらに出来が良く、まことにしなやかで柔軟な棒さばきであり、デリケートなニュアンスに満ち、音楽性満点だ。

指揮者の鋭敏な耳は最高に瑞々しい音色と楽器のバランスを創り出し、第2楽章など、少しも歌っていないのに余情があふれてくる。

弱音に何とも言えぬ香りがあり、かすかな愁いさえ湛えているからであろう。

フィナーレも強靭な構築と内部の燃焼を、表面はいかにもスムーズに流麗に成し遂げたもので、微妙な色合いとアンサンブルの見事さは特筆に価する。

アバドの演奏でやや物足りないのは第1楽章で、美しいことは無類だが、今一つの壮麗な迫力がほしい。

しかし、モダン楽器による演奏で、ワルター、カザルス、バーンスタインなどの表現を好まない人には、最優秀の録音とともに、モーツァルティアンな耳の悦びを与えてくれるはずだ。

ロンドン交響楽団がこれまた素晴らしく、重厚さにはいささか欠けているきらいがないわけではないが、これだけ楽曲の美しさを艶やかに堪能させてくれれば文句は言えまい。

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2015年05月11日


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アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督に就任するまでの間は、持ち味である豊かな歌謡性と気迫溢れる圧倒的な生命力によって素晴らしい名演の数々を成し遂げていた。

しかしながら、ベルリン・フィルの芸術監督に就任後は、なぜかそれまでとは別人のような借りてきた猫のように大人しい演奏に終始するようになってしまった。

前任者であるカラヤンを意識し過ぎたせいか、はたまたプライドが高いベルリン・フィルを統御するには荷が重すぎたのかはよくわからないが、そうした心労が重なったせいか、大病を患うことになってしまった。

ところが、皮肉なことに、大病を克服し芸術監督退任間近になってからは、凄味のある素晴らしい名演の数々を聴かせてくれるようになった。

アバドの晩年に発売されたCDは、いずれも円熟の名演であり、紛れもなく現代最高の指揮者と言える偉大な存在であった。

それはさておきアバドは、ベルリン・フィルとともにベートーヴェンの交響曲全集を2度完成させている。

正確に言うと、「第9」だけは重複しているのだが、第1〜8番の8曲については別の演奏であり、1度目は前述の大病を患う直前のスタジオ録音、そして2度目は大病を克服した直後のローマでのライヴ録音(DVD作品)となっている。

要は、第9番だけは最初の全集に収められたライヴ録音をそのまま採用しているということであり、アバドはベルリン・フィルとの最初の全集の中でも、第9番だけには自信を持っていたということを窺い知ることが出来るところだ。

本盤に収められたベートーヴェンの交響曲全集は、アバド&ベルリン・フィルによる2度目の全集である。

最初の全集については、前述のような低調なアバドによるものであり、2度目の録音を大病克服直後に行ったことからしても、アバド自身もあまり満足していなかったのではないかと考えられる。

最新の研究成果を盛り込んだペーレンライター版を使用したところは、いかにもアバドならではと言えるが、記者の質問に対して版の問題は他に聞いてくれと答えたという芳しからざる噂もあり、実際のところ、アバドが自らの演奏に版の問題をどのように反映させたのかはよくわからないところだ。

いずれにしても、本全集はアバド色の濃いベートーヴェンと言えるだろう。

フルトヴェングラーやカラヤン時代の特徴であった重量感溢れる重厚な音色がベルリン・フィルから完全に消え失せ、いかにも軽やかな音色が全体を支配していると言ったところだ。

かつて、とある影響力の大きい某音楽評論家が自著において、旧全集のエロイカの演奏を「朝シャンをして香水までつけたエロイカ」と酷評しておられたが、かかる評価が正しいかどうかは別として、少なくとも古くからのクラシック音楽ファンには許しがたい演奏であり、それこそ「珍品」に聴こえるのかもしれない。

筆者としても、さすがに許しがたい演奏とまでは考えていないが、好き嫌いで言えば決して好きになれない軽妙浮薄な演奏と言わざるを得ない。

もっとも、前述のように、近年のピリオド楽器や古楽器奏法による演奏を先取りするものと言えるが、天下のベルリン・フィルを指揮してのこのような軽妙な演奏には、いささか失望せざるを得ないというのが正直なところである。

前々任者フルトヴェングラーや前任者カラヤンなどによる重厚な名演と比較すると、長いトンネルを抜けたような爽快でスポーティな演奏と言えるが、好みの問題は別として、新時代のベートーヴェンの演奏様式の先駆けとなったことは否定し得ないと言える。

もっとも、本全集では、アバドならではの豊かな歌謡性が演奏全体に独特の艶やかさを付加しており、アバド&ベルリン・フィルによるベートーヴェンの交響曲の演奏としては、佳演と評価するのが至当なところではないかと考える。

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2015年05月03日


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ゼルキン&アバド/ロンドン交響楽団によるモーツァルトのピアノ協奏曲シリーズは、全集録音を予定していたが、ゼルキンの死によって中断されてしまった。

とりわけ優れているのは第9番「ジュノーム」、第15番、第25番の3曲で、いずれもゼルキンは作曲者の深い哀しみや人生の夕暮れを描きつくしてあますところがない。

続くのが第8番、第17番、第18番、第22番の4曲で、楽章によってムラがあるが、上出来の部分は前記3曲に匹敵しよう。

どの曲ともやや遅めのテンポで演奏され、ゼルキンのソロも落ち着いた情感を基調にしている。

タッチは明確で表情に富み、特にピアニッシモからは香しさが漂ってくるようにさえ感じられる。

何よりもアーティキュレーションが美しく、感情の細かな動きが音色と表情に反映されて、豊かなニュアンスをもたらしている。

何の気負いもなく、ごく自然に音楽の流れに身を任せているような演奏は、巨匠の晩年だからこそ許される、神々しい遊びとでも言えよう。

モーツァルトはこういう演奏で聴きたいもの、と思わせる名演だ。

第9番「ジュノーム」でまず印象的なのが、アバドの解釈である。

冒頭からきわめて遅いテンポで導入し、続く経過句ではテンポを速め、第2主題を優美・艶麗に歌わせる。

その間の呼吸は実に見事で、このような解釈はそうできるものではない。

ゼルキンの左手にみせる決然たる表情は彼の意志が確固たるものであることを示し、フレージングは真摯な感情を反映する。

第17番ではゼルキン、アバドとも洗練されたニュアンスを示している。

第15番が殊に素晴らしく、ゼルキンのタッチは弱音のときに美しい余韻を残す。

それは澄み切った精神性を強く感じさせるもので、演奏に天国的な美しさを与えている。

第22番でもゼルキンのタッチは明確で、響きは軽やか、彼はモーツァルトの音楽のもつ微妙な陰影を実に美しく生かしている。

アバドの指揮も魅力的で、表情豊かにオーケストラを歌わせ、弦の響かせ方も本当に見事だ。

第18番では、アバドが冒頭から明るい弦の音色を生かし、すっきりとしたフレージングで第1主題を導入する。

ゼルキンの表情と音色は細かく変化するが、解釈は強い意志で貫かれている。

第24番は遅めのテンポで演奏が始まられ、冒頭の第1主題に強い緊張感を与え、その後のトゥッティとの対照を強調する。

しかし第23番と第27番はゼルキン一流の内容主義のモーツァルトだが、あるいはやり過ぎ、あるいは徹底不足で、もうひとつ感銘を与えないままに終わっている。

前者の例は第23番で、こんなにスロー・テンポの演奏も珍しい。

リズムも重く、絶えず思索しながら進めてゆくが、多用されるルバートに必要性がない。

後者の例は第27番でインスピレーションに乏しいオールド・スタイルとでも言うべきか。

このように出来不出来のある選集と言えるが、特筆すべきは全14曲を通じてのアバドの素晴らしいサポートで、ゼルキンの個性にぴったり合わせ、まるで自分自身の表現のように聴かせるとともに、音楽的な香りの点でも申し分ない。

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2015年04月27日


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クラウディオ・アバド死去とのニュースが報道され、愕然としているところだ。

享年80、少し早い気もする。

ベルリン・フィルの芸術監督時代、胃がんを患い、一時は回復して、ポストを降りた後、ルツェルン祝祭の復興やモーツァルト管弦楽団を創設し、充実した演奏活動をしていたアバド。

アバドの業績と録音については、筆者もレビューを書いているので、そちらを参考にしていただきたい。

ご冥福を心よりお祈り致します。

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2015年04月20日


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アバドはレパートリーがきわめて広範であるために、一般的にはそのような認識がなされているとは必ずしも言い難いが、いわゆるマーラー指揮者と評しても過言ではないのではないだろうか。

マーラーの交響曲全集を1度、オーケストラや録音時期が異なるなど不完全な形ではあるが完成させているし、その後も継続して様々な交響曲の録音を繰り返しているからである。

ライバルのムーティが第1番しか録音していないのと比べると、その録音の多さには際立ったものがあり、こうした点にもアバドのマーラーに対する深い愛着と理解のほどが感じられるところである。

アバドのマーラー演奏の特徴を一言で言えば、持ち味の豊かな歌謡性ということになるのではないか。

マーラーの長大な交響曲を演奏するに当たって、アバドの演奏はどこをとっても豊かな歌心に満ち溢れている。

したがって、マーラー特有の随所に炸裂する不協和音や劇的な箇所においても歌謡性を失うことがいささかもなく、踏み外しを行ったりするなど極端な表現を避けているように思われるところである。

もっとも、アバドもベルリン・フィルの芸術監督に就任するまでの間にシカゴ交響楽団などと録音された演奏では、持ち前の豊かな歌謡性に加えて、生命力溢れる力感と気迫に満ち溢れた名演の数々を成し遂げていた。

しかしながら、ベルリン・フィルの芸術監督就任後は借りてきた猫のように大人しい演奏が多くなり、とりわけ大病を克服するまでの間に演奏された本盤の第5番は、物足りなさ、踏み込み不足を感じさせる演奏であったとも言える。

アバドはその後、大病にかかる直前、そして大病降伏後の演奏では、豊かな歌謡性に加えて、楽曲の心眼に鋭く踏み込んでいくような彫りの深さが加わったと言えるところであり、特に、ベルリン・フィルとの第3番、第4番、第6番、第7番及び第9番、ルツェルン祝祭管との第2番は圧倒的な名演に仕上がっている。

しかしながら本演奏も、彫りの深さといった側面ではいささか物足りないという気がしないでもないが、今日の耳で改めて聴いてみると、かかる欠点は殆ど目立つことなく、持ち前の豊かな歌謡性が十分に活かされた素晴らしい名演に仕上がっていると評価したい。

これほどまでに、歌心に満ち溢れるとともに情感の豊かさを湛えている同曲の演奏は類例を見ないところであり、バーンスタインやテンシュテットなどの劇的な演奏に食傷気味の聴き手には、清新な印象を与える名演であると言っても過言ではあるまい。

もっとも、こうした細やかな配慮の行き届いた演奏であっても、根源的な音楽の力感ともいうべきものがいささかも失われていないのである。

アバドの意図を汲み最高の演奏で応えたベルリン・フィルに対しても大いに拍手を送りたい。

欲を言えば、現在のアバドなら、さらに楽曲の心眼に鋭く踏み込んでいくような彫りの深い演奏が可能であると思われるところであり、出来得ることならば再録音を望みたいと考える。

録音は従来盤でも十分に満足できる音質であったが、今般のSHM−CD化によってさらに鮮明な音質に生まれ変わった。

アバドによるこのような名演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2015年04月02日


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本盤には、アバド&ベルリン・フィルによるブラームスの交響曲全集等が収められているが、全曲ともに若干甘い気はするものの名演と評価したい。

アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督就任間もない頃に、本盤に収められたブラームスの交響曲全集を完成させた。

ちなみにアバドは、4つのオーケストラを振り分けた旧全集(1970〜72年)でも明るくのびやかな響きによって、溌剌と新鮮な表現を聴かせてくれたが、本全集の演奏には、いっそう美しい余裕と確かな構成感がある。

細部の琢磨にも一段と精緻であると同時に、きわめてバランスの良い表現は、常に豊かな歌を湛えており、しかものびやかに洗練され格調が高い。

もっとも、カラヤン時代の猛者がいまだ数多く在籍していたベルリン・フィルを掌握し得た時期の録音ではないことから、第1番などは名演の名には恥じない演奏であるとは言えるが、アバドの個性が必ずしも発揮された演奏とは言い難いものであった。

他方、楽曲の性格とのマッチングや録音時期(芸術監督就任前の1988年)の問題もあって、第2番はアバドならではの豊かな歌謡性が発揮された素晴らしい名演であった。

このようにベルリン・フィルの掌握の有無なども演奏の出来に作用する重要な要素であるとは思うが、根本的には、アバドの芸風に符号する楽曲かどうかというのが演奏の出来不出来の大きな分かれ目になっていると言えるのではないだろうか。

アバドのアプローチは、前任者のカラヤンのような独特の重厚なサウンドを有していたわけでもない。

むしろ、各楽器間のバランスを重視するとともに、イタリア人ならではの豊かな歌謡性を全面に打ち出した明朗な演奏を繰り広げている。

このようなアプローチの場合、第1番ではいささか物足りない演奏(もっとも、第1番はカラヤン時代の重厚な音色の残滓が付加されたことによって、怪我の功名的な名演に仕上がった)になる危険性があり、他方、第2番については、楽曲の明朗で抒情的な性格から名演を成し遂げることが可能であったと考えられる。

一方、第3番及び第4番も、楽曲の心眼に踏み込んでいくような彫りの深さ(とりわけ第3番の両端楽章や第4番の終楽章)といった面においてはいささか生ぬるい気がしないでもないが、とりわけ第3番の第2楽章及び第3楽章や第4番の第1楽章及び第2楽章などの情感豊かな歌い方には抗し難い魅力があり、第2番ほどではないものの、比較的アバドの芸風に符号した作品と言えるのではないだろうか。

また、第3番については、第2番と同様にアバドが芸術監督に就任する前の録音でもあり、ウィーン・フィルに軸足を移したカラヤンへの対抗意識もあって、ポストカラヤンの候補者と目される指揮者とは渾身の名演を繰り広げていたベルリン・フィルの途轍もない名演奏が、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

もっとも、大病を克服した後のアバドは、凄みのある名演を成し遂げる大指揮者に変貌していると言えるところであり、仮に現時点で、ブラームスの交響曲全集を録音すれば、より優れた名演を成し遂げる可能性が高いのではないかと考えられるところだ。

いずれにしても、アバドはベルリン・フィルの芸術監督就任直後にブラームスの交響曲全集を完成させるのではなく、芸術監督退任直前に録音を行うべきであったと言えるのではないか。

録音は従来盤でも十分に満足できる高音質である。

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2015年03月28日


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アバドの指揮する独墺系の作曲家による楽曲については、そのすべてが名演とされているわけではないが、その中で、メンデルスゾーンについては、既に録音された演奏のすべてが名演との評価を得ている数少ない作曲家である。

本盤には、アバドが1980年代にロンドン交響楽団とともに録音(1984、1985年)したメンデルスゾーンの交響曲全集が収められている。

どの曲も、ロマン派ながらバッハに傾倒してもいたメンデルスゾーンにふさわしい、ロマン的な抒情性と端正な造形を兼ね備えた演奏で、第一級の全集と言って良いだろう。

アバドは、本演奏の約20年前の1967年にも、ロンドン交響楽団とともに交響曲第3番及び第4番を録音(英デッカ)しており、それも当時気鋭の指揮者として人気上昇中であった若きアバドによる快演であったが、本演奏の方が円熟味など様々な点からしてもより素晴らしい名演と言えるだろう。

また、アバドは1995年にも、ベルリン・フィルとともに交響曲第4番をライヴ録音(ソニークラシカル)しており、それは実演ならではの熱気溢れる豪演に仕上がっていることから、第4番に限っては、1995年盤の方をより上位に置きたいと考える。

それはさておき本演奏についてであるが、本演奏の当時のアバドは最も輝いていた時期である。

ベルリン・フィルの芸術監督就任後は、借りてきた猫のように大人しい演奏に終始するアバドではあるが、この時期(1970年代後半から1980年代にかけて)に、ロンドン交響楽団やシカゴ交響楽団、そしてウィーン・フィルなどと行った演奏には、音楽をひたすら前に進めていこうとする強靭な気迫と圧倒的な生命力、そして持ち前の豊かな歌謡性が融合した比類のない名演が数多く存在していたと言える。

本盤の演奏においてもそれは健在であり、どこをとっても畳み掛けていくような気迫と力強い生命力に満ち溢れているとともに、メンデルスゾーン一流の美しい旋律の数々を徹底して情感豊かに歌い抜いていると言えるところであり、その瑞々しいまでの美しさには抗し難い魅力に満ち溢れている。

重厚さにはいささか欠けているきらいがないわけではないが、これだけ楽曲の美しさを堪能させてくれれば文句は言えまい。

アバドは欧米のオーケストラにイタリア的な新風を吹き込んだ指揮者であることは誰しも認めるところだが、それは先輩ジュリーニの孤高の至芸に比べれば更に徹底したものだった。

この傾向は図らずもムーティによって受け継がれることになるが、そのテクニックには先ずオーケストラからの音のベクトルの転換というストラテジーがある。

端的に言えば、伝統的なオーケストラには特有の個性や芸風が培われていて、それが長所にも、また場合によっては枷にもなるわけだが、その枷の部分を取り払うことによってオーケストラを一度解放し、楽員の自発性を発揮させながら新たに全体をまとめていくというのがアバドの手法だ。

特にメンデルスゾーンのように天性の平明さを持った屈託の無い音楽には理詰めの厚化粧は禁物で、むしろ風通しの良いフレッシュな感性と開放感の表出がより適しているだろう。

そうした意味でこのメンデルスゾーンの交響曲全集では彼らによって最良の効果が発揮されているように思う。

少なくともオーケストラの自主性がよく表れた演奏で、ロンドン交響楽団の音色もアバドの指揮の下では何時になく明るく軽快になっているのも偶然ではないだろう。

しかも彼らが伝統的に持っている凛とした気品は少しも失われていない。

いずれにしても、本盤の演奏は、アバドが指揮した独墺系の音楽の演奏の中では最高峰の1つに位置づけられる素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

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2015年03月27日


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ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、名人揃いの世界最高峰のオーケストラだけに、芸術監督に就任する指揮者も、各奏者を掌握するための苦労は並大抵のものではない。

カラヤンも、就任当初はフルトヴェングラー時代の重鎮奏者に手を焼き、自分の理想の演奏を行えるようになったのは、芸術監督に就任して約10年後の1960年代に入ってからであると言われている。

それだけ、ベルリン・フィルという稀代のオーケストラを掌握するのに相当の時間がかかるということであるが、これは、現在の芸術監督のラトルにも言えることであり、ラトルがベルリン・フィルとともに名演奏の数々を行うようになったのも、2010年代に入ってからで、2002年の就任後、約10年の期間を要している。

ラトルも、ベルリン・フィルの芸術監督として長期政権が予測されることから、今後はベルリン・フィルとの間で理想の演奏を成し遂げていくことは想像するに難くない。

その前任者のアバドは、カラヤンを失ったベルリン・フィルが楽団員の投票により首席指揮者に任命され、一時は世界楽団の頂点に立つマエストロであった。

しかしながら、アバドがベルリン・フィルの芸術監督をつとめていたのは1990年〜2002年のわずか12年間。

これでは、カラヤンのオーケストラを自らのオーケストラとして掌握するにはあまりにも時間がなさ過ぎたと言えるだろう。

ベルリン・フィルの芸術監督に就任する前には、ロンドン交響楽団とともに圧倒的な名演奏を成し遂げていた気鋭の指揮者であったアバド。

そのアバドは、ベルリン・フィルの芸術監督就任後、鳴かず飛ばずの低迷期に陥り、借りてきた猫のような大人しい演奏に終始するようになってしまった。

多くの音楽評論家から民主的とは名ばかりの「甘ちゃん指揮者」などといった芳しからざる綽名を付けられたものである。

カラヤン時代に、力の限り豪演を繰り広げてきたベルリン・フィルも、前任者と正反対のアバドの民主的な手法には好感を覚えたであろうが、演奏については、大半の奏者が各楽器セクションのバランスを重視するアバドのやり方に戸惑いと欲求不満を感じたのではないか。

そのようなアバドが、大役の心労から胃癌にかかり、それを克服した後は、それまでとは打って変わったような深みのある名演奏を成し遂げるようになった。

ベルリン・フィルを掌握して、いかにもアバドならではの名演を繰り広げるようになったのは、皮肉にも胃癌を克服した2000年代に入ってからで、まさに、ベルリン・フィルの芸術監督退任直前のことであった。

退任後に、ベルリン・フィルとともに時として行われる演奏の数々が見事な名演であることに鑑みれば、アバドももう少しベルリン・フィルの芸術監督にとどまるべきであったのではないかとも思われるが、このあたりも、いかにもポストに固執しないアバドらしいとも言える。

いずれにしても、歴代の芸術監督の中でも、必ずしもベルリン・フィルとの関係が順風満帆とはいかなかったアバドではあるが、それでも、いくつかの演奏では、さすがはアバドとも賞賛されるべき名演を成し遂げていたと言える。

本盤には、アバドのベルリン・フィル時代を象徴する名演が収められており、イタリア人指揮者ならではの熱いカンタービレと細部に至るまで徹底して読み込まれた緻密な設計、聴き手を興奮させずにおかない劇場的な華やかさと輝き、そして演奏を貫く緊張感、とまぶしいばかりの光にあふれ、磁力にも似た強い力で聴き手を虜にするのである。

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2015年02月25日


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実に素晴らしいCDが発売された。

アバドとピリスは若い頃から長年にわたって共演を行ってきたお互いを知り尽くした名コンビであるが、その関係の更なる深化を十分に窺い知ることができる演奏になっていると言えるだろう。

先ずは、アバドの近年の充実ぶり、そして円熟ぶりに目を見張らされる。

ベルリン・フィルの芸術監督に就任後は、鳴かず飛ばずの低迷期に陥り、多くの音楽評論家から民主的とは名ばかりの「甘ちゃん指揮者」などといった芳しからざる綽名を付けられたものであるが、大役の心労から胃癌にかかり、それを克服した後は、それまでとは打って変わったような深みのある名演奏を成し遂げるようになった。

ベルリン・フィルの芸術監督退任後は、主として若くて才能のある奏者とともに、それこそ自らが志向していた「民主的」という名の共に演奏を行うという基本的なスタンスが見事に花を咲かせたと言えるだろう。

本盤においてオーケストラ演奏をつとめているモーツァルト管弦楽団も、2004年にアバドが設立した18歳から26歳までの若手奏者のみで構成される団体であり、アバドを心から慕う奏者とともに、実に楽しげに、そして時には真摯かつ緊張感を持って、モーツァルトの素晴らしい音楽を共に演奏を行っていることが素晴らしい。

そして、ピリスのピアノ演奏も見事。

かつては、女流ピアニストならではの繊細が全面に出たピアニストであり、線の細さを感じさせたものであるが、近年のピリスには線の細さなどいささかも感じさせられることはない。

それどころか、第20番におけるテンポの効果的な振幅を駆使したドラマティックな表現は、強靭な迫力を誇っており、演奏の持つ根源的な力強さは、かつての若きピリスとは別人のような堂々たるピアニズムであると評価し得る。

第27番の澄み切った音楽も、ピリスは持ち前の表現力の幅の広さを活かし、センス満点の細やかなニュアンスを随所に織り込みつつ、きわめて濃密な表現を持って曲想を描き出すのに成功している。

そして、このように真摯かつ彫りの深い演奏を行いつつも、アバド&モーツァルト管弦楽団の演奏とともに楽しげに演奏をするという姿勢も失うことがないのである。

いずれにしても、本盤の演奏は、円熟の境地を迎えたアバド、そしてピリス、そして若き才能のある音楽家が集まったモーツァルト管弦楽団が一体となって、音楽を奏でる楽しさを常に保ちつつ、共に良き音楽を作り上げようと協調し合ったことによって生み出された、珠玉の名演であると高く評価したい。

アバドが生涯に渡って追求し続けた演奏とは、まさに本演奏のようなものであったであろうし、ピリスとしても、会心の出来ではないかと思われるところだ。

音質も、ピアノ曲との相性抜群のSHM−CD盤であり、十分に満足し得るものであると評価したい。

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2015年02月06日


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交響曲的な傾向が色濃い重厚かつ雄大な曲想の、技巧的に至難な部分も多いブラームスのピアノ協奏曲第2番。

現代のピアニストにとって最も重要なレパートリーのひとつであるこの大作を、巨匠ブレンデルとアバド率いるベルリン・フィルが気宇広大なスケールで見事に再現、ピアノと管弦楽とが渾然一体となったピアノ付き交響曲と譬えられるような演奏を展開している。

ブレンデルとアバド&ベルリン・フィルには、1986年に録音したブラームスのピアノ協奏曲第1番があり、同曲史上最高峰の1つに位置づけられる名演であった。

「第1」は、カラヤンが1度も録音しなかった協奏曲でもあって、カラヤン在任中のベルリン・フィルでも録音が可能であったと考えるが、当時のカラヤンとベルリン・フィルの関係は最悪。

それだけに、ブレンデルのピアノやアバドの指揮もさることながら、ベルリン・フィルの壮絶な演奏が光った名演でもあった。

本盤の「第2」の録音は1991年で、既にカラヤンは鬼籍に入り、アバドが芸術監督に就任後の演奏である。

それだけに、楽曲の性格にもよるとは思うが、ここには「第1」の時のような壮絶さはない。

演奏の特徴を一言で言えば、ブラームスのピアノ協奏曲第2番という楽曲の魅力をゆったりとした安定した気持ちで満喫することができる名演と言うことができるだろう。

ポリーニ盤よりは深みのある表現で、バックハウス&ベーム盤ほど枯れ過ぎる事なく退屈しない、ギレリス盤のように「これってブラームス?」って違和感も感じない、全てのバランスが、きちんと取れていて、尚且つ、これぞというフレーズはオーケストラもピアノもよく歌っていて、無機質な冷たい感じなど一切しない。

つまりは、指揮者や独奏者、オーケストラの個性よりも、曲自体の美しさが全面に出た演奏ということだ。

例えば、冒頭のホルンの何という美しさ。

同曲最高の名演とされるバックハウスとベーム&ウィーン・フィルの冒頭のウィンナ・ホルンの美しさとは異なった魅力のあるジャーマン・ホルンの粋と言える。

その後のテンポも実にゆったりとした自然体のものであり、曲自体の魅力がダイレクトに我々聴き手に伝わってくる。

ブレンデルのピアノも、巷間言われるような理屈っぽさは微塵もなく、ブラームスがスコアに記した音符を力強く、そして情感豊かに弾き抜いて行く。

録音も鮮明であり、本名演に華を添えている。

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2015年01月10日


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この録音は、若きアバドが「チェネレントラ」に続いてロッシーニの代表作に挑戦したこと、プライのフィガロ、それにロッシーニの想定どおりメゾ・ソプラノのベルガンサが歌っていることが評判になって、このオペラの定盤的存在として知られている。

アバドは評価の難しい指揮者である。

それは、ベルリン・フィルの芸術監督就任後の停滞によるところが大きい。

偉大な指揮者の後任は誰でも苦労が多いが、カラヤンとは異なり、自分の個性や考え方を、退任に至るまでベルリン・フィルに徹底することが出来なかったことが大きい。

アバドは、分不相応の地位での心労が祟ったせいか、退任の少し前に大病を患ったが、大病の克服後は、彫りの深い凄みのある表現を垣間見せるようになったのだから、実に皮肉なものだ。

しかしながら、筆者は、アバドが最も輝いていたのは、ベルリン・フィルの芸術監督就任前のロンドン交響楽団時代ではないかと考えている。

特に、この時期に手掛けたイタリア・オぺラには、若さ故の生命力と、アバド得意のイタリア風の歌心溢れた名演が非常に多い。

そのような中にあって、この「セビリャの理髪師」は燦然と輝くアバドの傑作の1つとして評価してもいいのではないかと思われる。

ロッシーニのオペラは、後年のヴェルディやプッチーニのオペラなどに比べると、録音の点数も著しく少なく、同時代に生きたベートーヴェンが警戒をするほどの才能があった作曲家にしては、不当に評価が低いと言わざるを得ない。

そのようなロッシーニのオペラの魅力を、卓越した名演で世に知らしめることに成功したアバドの功績は大いに讃えざるを得ないだろう。

アバドはゼッダによる校訂版を用い、歯切れの良いリズムで全体を引き締まらせ、人間の肌のぬくもりを感じさせながら、そのオペラ・ブッファの本質を見事に再現している。

独唱陣も、ベルガンサ、プライなど一流の歌手陣を揃えており、ドイツっぽいと言われるものの、愛嬌のあるプライのフィガロは、今聴いても魅力的。

ベルガンサは、ロジーナそのもののようであるし、伯爵を演じるアルヴァの上手さは、芸術的レベルに達している。

パターネ盤も評価が高いが、ロッシーニらしいテンポ感と速度を堪能したい時はまさにこの盤が最高であり、同曲随一の名演の地位は、今後とも揺るぎそうにない。

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2015年01月08日


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素晴らしい名演で、CD時代になって古い名盤の復刻がなされるようになる直前、LP末期には最高の名盤とされていたものである。

筆者としては、アバドが最も輝いていた時代はロンドン交響楽団時代ではないかと考えている。

特に、このロンドン交響楽団時代に録音されたいわゆるラテン系のオペラは、いずれ劣らぬ名演と高く評価したい。

そうした中で、本盤の「カルメン」も、こうした席に連なる資格を有する名演で、アバドが明快な指揮で等身大の「カルメン」を描いていく。

当時のアバド&ロンドン響は、構えが大きいアンサンブルとアバドの鋭い棒さばきによる、ある意味で刺激的な演奏が特徴であったが、このオペラではそうした印象は少なく、むしろ、オペラに通じたアバドが各幕、全曲の見通しを良くつけて、ストーリーを遮ることなく、コンパクトなアンサンブルで演奏をスムーズに運んでいる。

「カルメン」の名演には、カラヤン&ウィーン・フィルという超弩級の名演があるが、カラヤン盤は、4幕形式のグランドオペラ版を使用していることもあり、ウィーン・フィルを使用したことも相俟って、シンフォニックな重厚さを旨とするもの。

これに対して、アバド盤は、スペイン風ともフランス風とも言えないイタリア人アバドのラテン人としての血を感じさせるラテン系の情緒溢れるものであると言えよう。

アバドの解釈は音像が硬質で贅肉がなく、構成が協調されており、アンサンブルなども緻密であるが、いささかも杓子定規には陥らず、どこをとってもラテン系の音楽の情緒が満載である。

歌手陣も、カラヤン盤に優るとも劣らない豪華さであり、特に、カルメン役のベルガンサ、ドン・ホセ役のドミンゴは見事なはまり役である。

ベルガンサの、“魔性の女”というよりは、アクのないお嬢さん風の“コケット”でユニークなカルメン、ドミンゴの上手さが光るドン・ホセなどキャストが大変に魅力的だ。

また、エスカミーリョ役のミルンズも大健闘であり、ミカエラ役に可愛らしいコトルバスとは何という贅沢なことであろうか。

合唱陣も、少年合唱も含めて大変優秀であり、本名演に華を添える結果となっている点を見過ごしてはならない。

アナログ録音末期の録音で、今日のデジタル録音のように、ダイナミック・レンジも広くなく、音の分解能も高くないが、聴く分には何らの問題もなく、むしろ、アナログらしい優しい音作りとなっている。

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2014年12月22日


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ポリーニのピアノの評価の前に、アバドについて言及しておきたい。

アバドは、私見であるが、これまでの様々な名指揮者の中でも、最高の協奏曲指揮者と言えるのではなかろうか。

これは、指揮者としては必ずしも芳しい評価とは言い難いが、これまでのアバドの協奏曲演奏における実績に鑑みれば、そうした評価が至当であることがわかろうというものである。

例えば、チャイコフスキーやラヴェル(旧盤)におけるアルゲリッチとの共演、ブラームスの第1番、第2番におけるブレンデルとの共演など、各楽曲におけるトップの座を争う名演の指揮者は、このアバドなのである。

この他にもポゴレリチなど、様々なピアニストと名演を成し遂げてきているが、共演の数からすれば、本盤のポリーニが群を抜いていると言えよう。

ただ、ポリーニとの共演が、すべて名演になっているかと言うと、必ずしもそうではないと考える。

同じイタリア人でもあり、共感する部分もあるかとも思うし、ポリーニの詩情に乏しいピアノのせいも多分にあるとは思うが、ベートーヴェンやブラームスの全集など、イマイチの出来と言わざるを得ない。

しかしながら、本盤は名演だ。

その第一の要因は、アバドの気迫溢れる指揮と言わざるを得ない。

本盤の録音は、ベルリン・フィルの首席指揮者選出直前の指揮でもあり、アバド、そしてベルリン・フィルの演奏にかける情熱や生命力の強さが尋常ではないのだ。

アバドは、ベルリン・フィル着任後、大病を患うまでの間は、生ぬるい浅薄な演奏に終始してしまうが、本盤の指揮で見せたような気迫を就任後も持ち続けていれば、カラヤン時代に優るとも劣らない実績を作ることができたのにと、大変残念に思わざるを得ない。

指揮やオーケストラがこれだけ凄いと、ポリーニのピアノも断然素晴らしくなる。

シューマンにおいては、ポリーニの根源的な欠点である技術偏重の無機的な響きは皆無であり、アバドの指揮の下、詩情溢れる実に情感豊かなピアノを披露している。

シェーンベルクにおける強靭な打鍵も、技術的な裏打ちと、ポリーニには珍しい深い精神性がマッチして、珠玉の名演に仕上がっている点を高く評価したい。

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2014年11月28日


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本盤には、当時気鋭の女流ピアニストとして頭角をあらわしつつあったアルゲリッチと、同じく次代を担う気鋭の指揮者として急速に人気が高まりつつあったアバドが組んで行った、19世紀の偉大なピアニスト兼作曲家であったショパンとリストのピアノ協奏曲第1番の演奏が収められている。

いずれも演奏も、録音から40年以上が経過した現在においても、両曲の演奏史上トップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。

アルゲリッチは、両曲ともに後年に、一時は夫君となったデュトワ(オーケストラはモントリオール交響楽団)と組んでスタジオ録音(ショパンは1988年、リストは1998年)を行っている。

いずれも超名演であるが、本盤の演奏にはそれら後年の演奏にはない若さ故の独特の瑞々しさがある。

したがって、本盤の演奏との優劣の比較は困難を極めるが、いずれもハイレベルの超名演であることは疑いようがなく、結局は好みの問題なのかもしれない。

アルゲリッチにとっては、本盤が初の協奏曲録音となったものであるが、そのようなことを微塵も感じさせないような圧倒的なピアニズムを展開している。

アルゲリッチの場合は、実演であってもスタジオ録音であっても、灼熱のように燃え上がる圧倒的な豪演を展開するが、本盤の演奏においてもその豪演ぶりは健在である。

変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、そしてアッチェレランドの駆使など、これ以上は求め得ないような幅広い表現力を駆使して、両曲の魅力を最大限に表現し尽くしているのが素晴らしい。

こうしたアルゲリッチの自由奔放とも言うべき圧倒的なピアニズムに決して引けを取っていないのが、若きアバドによる生命力に満ち溢れた演奏である。

アバドは、ロンドン交響楽団を巧みに統率して、気迫と力強さが漲るとともに、持ち前の豊かな歌謡性をも織り込んだ、いい意味での剛柔バランスのとれた名演奏を展開していると評価したい。

音質については、これまで何度もリマスタリングを繰り返してきたこともあって、従来盤でも十分に良好な音質である。

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2014年11月06日


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交響曲第1番は素晴らしい名演だ。

同曲には、ワルター&コロンビア響(1961年)やバーンスタイン&コンセルトへボウ・アムステルダム(1987年)と言った至高の超名演があるが、本演奏はこれら両横綱に次ぐ大関クラスの名演と言えるのではないだろうか。

マーラーの交響曲第1番はマーラーの青雲の志を描いた作品であり、円熟がそのまま名演に繋がるとは必ずしも言えないという難しさがある。

実際に、アバドは後年、ベルリン・フィルの芸術監督に就任後まもなく同曲をベルリン・フィルとともにライヴ録音(1989年)しており、それも当時低迷期にあったアバドとしては名演であると言えなくもないが、本演奏の持つ独特の魅力には到底敵わないと言えるのではないだろうか。

これは、小澤が同曲を3度にわたって録音しているにもかかわらず、最初の録音(1977年)を凌駕する演奏が出来ていないこととも通暁するのではないかと考えられる。

いずれにしても、ベルリン・フィルの芸術監督に就任するまでのアバドの演奏は素晴らしい。

本演奏でも、随所に漲っている圧倒的な生命力とエネルギッシュな力感は健在だ。

それでいて、アバドならではの歌謡性豊かな歌心が全曲を支配しており、とりわけ第2楽章や第3楽章の美しさには出色のものがある。

終楽章のトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と力強さには圧巻の凄みがあると言えるところであり、壮麗な圧倒的迫力のうちに全曲を締めくくっている。

いずれにしても、本演奏は、強靭な力感と豊かな歌謡性を併せ持った、いわゆる剛柔バランスのとれたアバドならではの名演に仕上がっていると高く評価したい。

また、シカゴ交響楽団の超絶的な技量にも一言触れておかなければならない。

当時のシカゴ交響楽団は、ショルティの統率の下、スーパー軍団の異名をとるほどのオーケストラであったが、本演奏でも若きアバドの指揮の下、これ以上は求め得ないような最高のパフォーマンスを発揮しているのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

他方、交響曲第10番は、この後の録音がなされていないことから本演奏が現時点でのアバドによる最新の演奏ということになるが、その演奏内容の評価については美しくはあるが、かと言って他の演奏を圧するような絶対美の世界を構築し得ているわけではない。

楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような凄みはないが、他方、歌謡性豊かな情感には満ち溢れるなど魅力的な箇所も多々存在しており、ウィーン・フィルによる美演も併せて考慮すれば、佳演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

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2014年09月26日


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アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督就任後は低迷期にあったと言えるのではないだろうか。

というのも、それ以前にはロンドン交響楽団やシカゴ交響楽団などと豊かな歌謡性と力強い生命力が融合した素晴らしい名演の数々を成し遂げていたにもかかわらず、ベルリン・フィルの芸術監督に就任してからは借りてきた猫のように大人しい演奏に終始するようになってしまったからである。

アバドも、さすがにベルリン・フィルの芸術監督の荷が重かったせいか病に倒れてしまった。

しかしながら、それが皮肉にもけがの功名となり、大病の克服後は、彫りの深い凄味のある演奏の数々を聴かせてくれるようになった。

そのようなアバドであるが、本盤はベルリン・フィルの芸術監督就任前の絶好調時代のアバドによる演奏だ。

当然のことながら演奏が悪いわけがなく、これは前述のような豊かな歌謡性と力強い生命力が融合したアバドならではのアプローチによる至高の超名演と高く評価したい。

両曲のうち「シンフォニエッタ」については、アバドは1966年にロンドン交響楽団とともにスタジオ録音しているが、本演奏の方がはるかに上出来と言えるだろう。

そうなった理由は、もちろんアバドの円熟もあるが、それと同時にベルリン・フィルの好演によるところも大きいと考えられる。

というのも、本演奏が録音された1987年当時のベルリン・フィルは、ザビーネ・マイヤー事件勃発以降不仲となりウィーン・フィルに軸足を移したカラヤンに対抗するため、ポストカラヤンと目される指揮者とは、圧倒的な名演奏を成し遂げていた。

本演奏も、そうした一連の流れの中での名演奏であり、シンフォニエッタにおける金管楽器のブリリアントな響きなどでカラヤン色をあまり感じさせないのも、当時のベルリン・フィルの団員の心意気を窺い知ることができて大変興味深い。

「消えた男の日記」におけるラングリッジやバリーズの歌唱も見事であり、RIAS室内合唱団も最高のパフォーマンスを示している。

なお、本盤には、ガーディナー指揮の「タラス・ブーリバ」が収められている。

演奏自体は優れたものであると言えるが、筆者としては、ベスト100を構成するCDとは言えども芸格があまりにも違いすぎる指揮者(もちろんアバドの方が格上)の演奏とのカップリングについては感心するものではなく、メーカーにもこのような安易なカップリングについてこの場を借りて再考を求めておきたい。

録音は従来盤でも十分に満足できる音質であったが、今般のSHM−CD化によって音質が鮮明になるとともに音場がかなり広くなった。

アバドによる至高の超名演をSHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2014年09月08日


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本盤には、アバドによるマーラーの交響曲全集が収められているが、その内容からすると、果たして交響曲全集と称することが可能か疑問である。

アバドは、若き頃からマーラーを得意としており、DVD作品を含め数多くの演奏・録音を行ってきている。

ところが、その録音の経緯をつぶさに見てみると、必ずしも全集の完成を目的として行われたものではないことがよく理解できるところだ。

それは、本全集に収められた各交響曲の録音時期を見てもよく理解できるところであり、第1番はシカゴ交響楽団との演奏(1981年)に次ぐ2度目のベルリン・フィルとの録音(1989年)、第2番はシカゴ交響楽団との演奏(1976年)に次ぐ2度目のウィーン・フィルとの録音(1992年)、第3番はウィーン・フィルとの最初の録音(1980年)、第4番はウィーン・フィルとの最初の録音(1977年)、第5番はシカゴ交響楽団との演奏(1980年)に次ぐ2度目のベルリン・フィルとの録音(1993年)、第6番はウィーン交響楽団(1967年)に次ぐ2度目のシカゴ交響楽団との録音(1979年)、第7番はシカゴ交響楽団との最初の録音(1984年)、第8番はベルリン・フィルとの最初の録音(1994年)、第9番はウィーン・フィルとの最初の録音(1987年)、第10番はウィーン・フィルとの最初の録音(1985年)となっている。

要は、録音年代やオーケストラに何らの統一性がなく、とりあえず交響曲全集に纏めてみたといった類ものとも言えるところだ。

特に、アバドの芸風は1990年のベルリン・フィルの芸術監督就任後、そして2000年の大病の克服後にそれぞれ大きく変化してきており、本盤の全集であれば、第8番については録音自体がなかったということで致し方なかったとしても、第1番、第2番、第5番についてはそれぞれ旧録音を収録すれば、より統一性のとれた全集に仕上がったのではないかとも考えられるところだ。

アバドが最も輝いていた時期はベルリン・フィルの芸術監督就任前であり、この時期のアバドは、楽曲の頂点に向けて畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力、そして持ち前の豊かな歌謡性が付加された、いい意味での剛柔バランスのとれた名演の数々を成し遂げていた。

本盤の全集で言えば、第1番、第3番、第4番、第6番、第7番については、そうしたアバドのかつての長所が大きく功を奏した素晴らしい名演に仕上がっている。

もっとも、第9番及び第10番については、マーラーの交響曲の中でも最も奥の深い内容を有した楽曲であり、アバドのこのようなアプローチでは、いささか楽曲の心眼への踏み込み不足の感は否めないところだ。

また、アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督就任後は借りてきた猫のように大人しい演奏に終始するようになり、各楽器セクション間のバランスに執拗に拘るアバドと、カラヤン時代の名うての奏者がいまだ在籍していたベルリン・フィルとの間に少なからず軋轢も生じていたように思われる。

そのマイナス要素が顕著にあらわれた演奏が本盤に収められた第5番であり、これはもしかしたらアバドによるマーラーの交響曲のあらゆる演奏・録音の中でも最も出来の悪いものと言えるのかもしれない。

第2番は、ウィーン・フィルとの演奏であることもあって、本演奏の後に録音されたルツェルン祝祭管弦楽団との演奏(2003年)にはさすがにかなわないが、本演奏に先立つシカゴ交響楽団との録音(1976年)と比較すると、アバドの円熟が感じされる素晴らしい名演に仕上がっている。

第8番は、合唱付きの壮麗な迫力が持ち味であり、オペラを得意とするアバドにとってはむしろ得意とする楽曲である。

それだけに、本演奏においては、この時期のアバドとしては劇的な迫力を有するとともに、雄大なスケールを誇る名演に仕上がっていると言えるのではないかと考えられる。

いずれにしても、このように録音時期が異なることに起因するアバドの芸風の変化、また、それによる演奏の出来不出来など、全集としてはかなりの問題を有しているとも言えるが、大半の交響曲については名演と評価しても過言ではあるまい。

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2014年09月07日


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これは素晴らしい超名演だ。

アバドは、今では特定のオーケストラに縛られることなく、世界最高の指揮者として、特に若手の音楽家の育成を中心に活動を続けているが、ベルリン・フィルの芸術監督(1990〜2002年)を務めていた時代、とりわけ癌により指揮活動の中止を余儀なくされた2000年頃までは、一部の例外はあるものの、鳴かず飛ばずの低迷期にあったと言えるだろう。

前任のカラヤンの存在があまりにも大きかったということ、そして、カラヤン時代の旗本を務めてきたスター・プレイヤーの代替わりの時期に重なったことなど、不利な状況に置かれたということもあるが、アバド自身も、レパートリーを広げるという高邁な理想を掲げたものの、王道とも言うべき独墺系の音楽において名演を成し遂げることができず、ただでさえ厳しい監視の目に晒されているベルリン・フィルの芸術監督としては、とても大方のクラシック音楽ファンを唸らせるような成果を上げることが出来なかったと言えるところだ(癌を克服した後のベルリン・フィルの芸術監督の離任間近の頃から、演奏に凄味と彫りの深さが加わったことは何とも皮肉なことだ)。

しかしながら、ベルリン・フィルの芸術監督就任前の、特に1970年代から1980年代前半にかけてのロンドン交響楽団を主として指揮していた時代のアバドは、実に素晴らしかった。

この時代の演奏のいずれも、殆ど例外なく、切れば血が噴き出してくるような凄まじいまでの圧倒的な生命力が随所のおいて漲っており、これにイタリア人ならではの歌謡性豊かな情感が込められた、いい意味での剛柔のバランスのとれた圧倒的な名演であった。

本盤に収められたストラヴィンスキーの3つのバレエ音楽(春の祭典、火の鳥、カルタ遊び)も、そうしたアバドの全盛時代の超名演であり、前述のような剛柔のバランスに加えて、独特のシャープさを兼ね備えた稀有の名演に仕上がっていると高く評価したい。

アバドは、ベルリン・フィルとはこの3曲を録音することは現在に至るまで行っていないが、それは本盤の演奏の出来に満足していたからに他ならないだろう。

音質は、1970年代のアナログ録音であるものの、従来CD盤でも比較的良好な音質であり、数年前にはSHM−CD盤も発売されるなど、比較的満足できるものであった。

ところが、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化が行われるに及んで大変驚いた。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、全盛期のアバド&ロンドン交響楽団による圧倒的な名演を、現在望みうる最高の高音質であるシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

そして、可能であれば、このコンビによるストラヴィンスキーによる他のバレエ音楽、例えば、ペトルーシュカやプルチネッラなどについてもシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を行っていただくことを大いに期待したい。

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2014年08月29日


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ウィーン出身のピアニストであるにもかかわらず、ジャズ音楽に裾野を広げたりするなど、自由奔放な活動が目立つグルダであるが、そのようなグルダが、ベートーヴェンのピアノ・ソナタなどの独墺系の音楽を演奏する際には、自由奔放なグルダはすっかりと影をひそめ、真摯なピアニストに変貌する。

実際に、グルダによるベートーヴェンの2度目ピアノソナタ全集(アマデオ)は、現在においてもなお誉れ高き名演と高く評価されている。

また、ホルスト・シュタインと組んで録音したベートーヴェンのピアノ協奏曲全集(英デッカ)も重厚な名演であったが、モーツァルトのピアノ協奏曲においても、そのような真摯な姿勢は変わりがないと言えるのではないか。

実際に、本演奏におけるグルダのピアノも、曲想を心を込めて描き出して行くという真摯なものだ。

そのアプローチは、いささかも気を衒うことがなく、楽曲の魅力をダイレクトに聴き手に伝えていこうという自然体の姿勢そのものであり、モーツァルトの音楽特有の優美さをいささかも損なっていないのが素晴らしい。

それでいて、時として見られる寂寥感の描出についても抜かりはなく、全体として、いかにもドイツ風の重厚かつシンフォニックな演奏を行っている点を高く評価したい。

第21番の第3楽章においては、グルダならではの自作のカデンツァを聴くことができるが、ここでは、常々の自由奔放なグルダを垣間見ることが可能であり、演奏全体に新鮮さを与えている点も見過ごしてはならない。

このようなグルダを下支えするのが、アバド&ウィーン・フィルの素晴らしい好演ということになるであろう。

本演奏は1974年であるが、この当時のアバドは、イタリア人指揮者ならではの豊かな歌謡性と、音楽の核心にひた向きに切り込んでいこうという生命力溢れる気迫がマッチングした素晴らしい名演の数々を生み出していたが、本演奏においても、そうしたアバドの指揮は健在である。

若きアバドの指揮の下、ウィーン・フィルが素晴らしい演奏を繰り広げている点も特筆すべきであり、演奏全体に適度な潤いと奥行きの深さを与えているのを見過ごしてはならない。

録音は1970年代のものとは思えないような鮮明さである。

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2014年08月25日


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これは素晴らしい超名演だ。

アバドが最も輝いていたのは、ベルリン・フィルの芸術監督就任前の1970年代〜1980年代にかけて、ロンドン交響楽団やシカゴ交響楽団とともに数々の演奏を繰り広げていた時期というのが大方の見方であるが、本盤の演奏はその頂点にも位置づけてもいいくらいの至高の超名演と高く評価したい。

冒頭の「ボレロ」からして、途轍もない気迫と強靭な生命力が漲っている。

加えて、アバドの歌謡性豊かな指揮ぶりは健在であり、主旋律をこれ以上は求め得ないような豊かな情感を込めて歌い抜いている。

そして終盤に向けて畳み掛けていくようなエネルギッシュな高揚感は圧巻の迫力を誇っており、あまりの演奏の壮絶さに終結部にはロンドン交響楽団の団員の絶叫(この表現が適切か否かについては議論の余地があるが、とりあえず本レビューではこの表現を使用させていただくこととする)までが記録されているほどだ。

この自然発生的な絶叫は、アバドの許可を得て敢えてそのままにしたということであり、これはアバド自身が本盤の会心の超名演の出来にいかに満足していたかの証左であると言えるだろう。

「スペイン狂詩曲」も素晴らしい。

同曲特有のむせ返るようなスペイン風の異国情緒満載の各旋律を、アバドは徹底して歌い抜いており、その極上の美しさには抗し難い魅力に満ち溢れている。

各曲の描き分けの巧さも卓抜したものがあり、これはオペラを得意としたアバドの真骨頂とも言えるだろう。

そして、祭りの終結部のトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と強靭な生命力は「ボレロ」と同様であり、あまりのド迫力に完全にノックアウトされてしまうほどだ。

バレエ「マ・メール・ロワ」と「亡き王女のためのパヴァ―ヌ」は一転して繊細な抒情が際立っている。

それでいて、アバドは弱音を重視するあまり演奏が薄味になるというようなことにはいささかも陥っておらず、どこをとっても内容の濃さと持ち前の歌謡性の豊かさを損なっていないのが素晴らしい。

いずれにしても、こうして本盤全体を聴き終えると、この当時のアバドがいかに凄みのある名演奏を繰り広げていたかがよくわかるところであり、ベルリン・フィルの芸術監督にマゼールを差し置いてアバドが選出されたのも十分に理解できるところだ。

アバドの統率の下、ラヴェルの管弦楽曲に相応しいフランス風の洒落た味わいのある名演奏を繰り広げたロンドン交響楽団に対しても大きな拍手を送りたい。

音質については、従来CD盤でも十分に良好なものであったが、今般のSHM−CD化によって、若干ではあるが音質が鮮明になるとともに、音場が幅広くなったように思われる。

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2014年08月16日


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ベルリン・フィルは、名人揃いの世界最高峰のオーケストラだけに、芸術監督に就任する指揮者も、各奏者を掌握するための苦労は並大抵のものではない。

カラヤンも、就任当初はフルトヴェングラー時代の重鎮奏者に手を焼き、自分の理想の演奏を行えるようになったのは、芸術監督に就任して約10年後の1960年代に入ってからであると言われている。

それだけ、ベルリン・フィルという稀代のオーケストラを掌握するのに相当の時間がかかるということであるが、これは、現在の芸術監督のラトルにも言えることであり、ラトルがベルリン・フィルとともに名演奏の数々を行うようになったのも、2010年代に入ってからで、2002年の就任後、約10年の期間を要している。

ラトルも、ベルリン・フィルの芸術監督として長期政権が予測されることから、今後はベルリン・フィルとの間で理想の演奏を成し遂げていくことは想像するに難くない。

しかしながら、アバドがベルリン・フィルの芸術監督をつとめていたのは1990年〜2002年のわずか12年間。

これでは、カラヤンのオーケストラを自らのオーケストラとして掌握するにはあまりにも時間がなさ過ぎたと言えるだろう。

ベルリン・フィルの芸術監督に就任する前には、ロンドン交響楽団とともに圧倒的な名演奏を成し遂げていた気鋭の指揮者であったアバド。

そのアバドは、ベルリン・フィルの芸術監督就任後、借りてきた猫のような大人しい演奏に終始するようになってしまった。

カラヤン時代に、力の限り豪演を繰り広げてきたベルリン・フィルも、前任者と正反対のアバドの民主的な手法には好感を覚えたであろうが、演奏については、大半の奏者が各楽器セクションのバランスを重視するアバドのやり方に戸惑いと欲求不満を感じたのではないか。

そのようなアバドが、ベルリン・フィルを掌握して、いかにもアバドならではの名演を繰り広げるようになったのは、皮肉にも胃癌を克服した2000年代に入ってから。

まさに、ベルリン・フィルの芸術監督退任直前のことであった。

退任後に、ベルリン・フィルとともに時として行われる演奏の数々が見事な名演であることに鑑みれば、アバドももう少しベルリン・フィルの芸術監督にとどまるべきであったのではないかとも思われるが、このあたりも、いかにもポストに固執しないアバドらしいとも言える。

いずれにしても、歴代の芸術監督の中でも、必ずしもベルリン・フィルとの関係が順風満帆とはいかなかったアバドではあるが、それでも、いくつかの演奏では、さすがはアバドとも賞賛されるべき名演を成し遂げていた。

その名演の中でも代表格の一つと言えるのが、本盤に収められたメンデルスゾーンの交響曲第4番と劇音楽「真夏の世の夢」であると言えるだろう。

アバドは、メンデルスゾーンの交響曲第4番をロンドン交響楽団とともに1967年、1984年の2度にわたってスタジオ録音を行うとともに、劇音楽「真夏の夜の夢」序曲を1984年にスタジオ録音しており、それらはいずれも素晴らしい名演であったが、本盤に収められた演奏は、これらの過去の演奏を大きく凌駕していると言っても過言ではあるまい。

1995年のジルヴェスター・コンサートでのライヴ録音でもあり、演奏全体の生命力あふれる燃焼度の違いもあるのかもしれないが、大人しい演奏に終始していた当時のアバドとしても突然変異的な超名演であり、これはアバドが、とりわけ交響曲第4番の表題でもあるイタリア人ということもあると思われるが、いかにメンデルスゾーンのこれらの楽曲に対して深い愛着と理解を示していたことの証左であるとも言える。

さすがに、トスカニーニの交響曲第4番の超名演(1954年)の域には達していないが、演奏全体に流れる歌謡性豊かな情感は、音質の良さも相俟って、トスカニーニの演奏よりも若干上位に掲げられても不思議ではないとも言えるだろう。

劇音楽「真夏の世の夢」も、オペラにおいて数々の名演を成し遂げてきたアバドならではの聴かせどころのツボを心得た名演であり、まさに、本盤の両曲の演奏は、アバドのベルリン・フィル時代を代表する名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

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2014年06月24日


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本盤には、アバド&ベルリン・フィルによるブラームスの交響曲第3番及び第4番が収められているが、両曲ともに若干甘い気はするものの名演と評価したい。

アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督就任間もない頃に、本盤に収められた第3番及び第4番を含めブラームスの交響曲全集を完成させた。

もっとも、カラヤン時代の猛者がいまだ数多く在籍していたベルリン・フィルを掌握し得た時期の録音ではないことから、第1番などは名演の名には恥じない演奏であるとは言えるが、アバドの個性が必ずしも発揮された演奏とは言い難いものであった。

他方、楽曲の性格とのマッチングや録音時期(芸術監督就任前の1988年)の問題もあって、第2番はアバドならではの豊かな歌謡性が発揮された素晴らしい名演であった。

このようにベルリン・フィルの掌握の有無なども演奏の出来に作用する重要な要素であるとは思うが、根本的には、アバドの芸風に符号する楽曲かどうかというのが演奏の出来不出来の大きな分かれ目になっていると言えるのではないだろうか。

アバドのアプローチは、前任者のカラヤンのような独特の重厚なサウンドを有していたわけでもない。

むしろ、各楽器間のバランスを重視するとともに、イタリア人ならではの豊かな歌謡性を全面に打ち出した明朗な演奏を繰り広げている。

このようなアプローチの場合、第1番ではいささか物足りない演奏(もっとも、第1番はカラヤン時代の重厚な音色の残滓が付加されたことによって、けがの功名的な名演に仕上がった)になる危険性があり、他方、第2番については、楽曲の明朗で抒情的な性格から名演を成し遂げることが可能であったと考えられる。

他方、本盤に収められた第3番及び第4番も、楽曲の心眼に踏み込んでいくような彫りの深さ(とりわけ第3番の両端楽章や第4番の終楽章)と言った面においてはいささか生ぬるい気がしないでもないが、とりわけ第3番の第2楽章及び第3楽章や第4番の第1楽章及び第2楽章などの情感豊かな歌い方には抗し難い魅力があり、第2番ほどではないものの、比較的アバドの芸風に符号した作品と言えるのではないだろうか。

また、第3番については、第2番と同様にアバドが芸術監督に就任する前の録音でもあり、ウィーン・フィルに軸足を移したカラヤンへの対抗意識もあって、ポストカラヤンの候補者と目される指揮者とは渾身の名演を繰り広げていたベルリン・フィルのとてつもない名演奏が、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

もっとも、大病を克服した後のアバドは、凄みのある名演を成し遂げる大指揮者に変貌していると言えるところであり、仮に現時点で、ブラームスの交響曲全集を録音すれば、より優れた名演を成し遂げる可能性が高いのではないかと考えられるところだ。

いずれにしても、アバドはベルリン・フィルの芸術監督就任直後にブラームスの交響曲全集を完成させるのではなく、芸術監督退任直前に録音を行うべきであったと言えるのではないか。

録音は従来盤でも十分に満足できる音質ではあったが、今般のSHM−CD化によってやや音質に鮮明さが増すとともに、音場が幅広くなったと言えるところだ。

いずれにしても、アバドによる名演をSHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督就任後間もない頃にブラームスの交響曲全集を完成させたが、筆者としては、アバドがブラームスの交響曲に取り組むのはいささか早過ぎたのではないかと考えているところだ。

というのも、ベルリン・フィルはカラヤンの指揮の下でブラームスの交響曲を何度も演奏しており、本演奏ではアバドの解釈がベルリン・フィルに必ずしも浸透しているとは言い難いからである。

したがって、第1番などは名演ではあるが、それはカラヤン時代の遺産が作用しているという怪我の功名的な側面もあり、アバドの個性が発揮された演奏とは言い難いものであったとも言える。

しかしながら、第2番はむしろ、第1番とは異なりアバドの個性がそれなりに発揮された名演と言えるのではないだろうか。

本盤に収められた第2番がこのようにアバドならではの名演となった理由はいくつかあると考えられるが、先ずは楽曲の性格がアバドの芸風に符号している点が掲げられる。

第2番は、ブラームスの交響曲の中でも最も牧歌的な雰囲気に満ち溢れており、流麗で伸びやかな曲想が特徴的なブラームスの田園とも称される楽曲である。したがって、アバドの純音楽的で歌謡性豊かなアプローチに最も適した交響曲であると言える。

第2の理由としてベルリン・フィルによる名演奏が掲げられる。

本演奏については1988年の録音であり、これはカラヤンが存命でなおかつ芸術監督であった時代のものである。

この当時のベルリン・フィルは、ウィーン・フィルに軸足を移したカラヤンへの対抗意識もあり、ポストカラヤンの候補者と目される指揮者とは渾身の名演を繰り広げていた。

本演奏もその例外ではなく、ここにはアバドの指揮に必死に喰らいついていった(というよりも、アバドを立てた)ベルリン・フィルの猛者たちの圧倒的な名演奏を聴くことが可能だ。

なお、アバドは、1970年代初頭にもベルリン・フィルとともにブラームスの「第2」を録音しており、それも若きアバドによる生命力溢れる素晴らしい名演であったが、本演奏においては、さらに円熟味とスケールの雄渾さが加わっていると評価することも可能であり、筆者としては本演奏の方をより上位に掲げたい。

併録の大学祝典序曲も交響曲第2番と同様のアプローチによる文句の付けようがない名演であり、ハイドンの主題による変奏曲は、アバドならではの豊かな歌謡性を活かした歌心溢れる美演である。

音質については、今般のSHM−CD化によって若干鮮明になるとともに、音場が広くなったように感じた。

いずれにしても、アバドの名演をこのようなSHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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本盤に収められたブラームスの交響曲第1番は、アバドがベルリン・フィルの芸術監督に就任直後に完成させた全集に含まれるものである。

本演奏を聴き終えた感想は、アバドもなかなか健闘しているのではないかと言ったところだ。

というのも、この時期のアバドは低迷期に入っていたと言えるからである。

アバドが最も輝いていたのは、ベルリン・フィルの芸術監督の就任前であり、ロンドン交響楽団やシカゴ交響楽団などと数々の名演を成し遂げていた時期であると考えている。

ところが、アバド自身も全く想定していなかったベルリン・フィルの芸術監督に就任してからは、借りてきた猫のような大人しい演奏に終始し、かつての輝きを失ってしまったように思われる。

そのようなアバドが再び凄みのある演奏を繰り広げるようになったのは、大病を克服した後であり、それは皮肉にもベルリン・フィルの芸術監督退任直前のことであった。

アバドは、前任のカラヤンや前々任のフルトヴェングラーなどとは異なり、カリスマ性など皆無であったことから、プライドの高い楽員で構成され、カラヤン時代に全盛を誇った大物奏者が数多く在籍していたベルリン・フィルを統率するのは、とても荷が重いことであったのかもしれない(アバドのライバルであったムーティもそのことを予見していたと言われている)。

そもそも本演奏では、アバドのやりたい音楽とベルリン・フィルの奏でる音楽に微妙なずれがあるのではないかと考えられる。

というのも、ブラームスの交響曲第1番はカラヤンの代名詞のような楽曲であり、その重厚にして華麗な演奏はカラヤン&ベルリン・フィルの黄金時代の象徴のようなものであったからだ。

カラヤン時代の名うての奏者が数多く在籍していたベルリン・フィルとしても、カラヤンのようにオーケストラを最強奏させるのではなく、各楽器間のバランスの重視に軸足を置いたアバドのやり方には相当手こずったのではないかとも考えられる。

したがって、本演奏は、全体としてはアバド流の歌謡性豊かな演奏にはなっているが、随所にカラヤン時代の重厚さが入り混じると言う、アバドの個性が全開とは言い難い演奏であり、筆者としては、アバドがブラームスの交響曲に取り組むのはいささか早過ぎたのではないかと思われてならないところだ。

もっとも、本演奏も見方を変えれば、カラヤン時代の重厚さとアバドの歌謡性が融合した新時代を象徴する演奏とも評価し得るところであり、アバドの健闘が光る名演との評価をするのにいささかの躊躇をするものではない。

悲劇的序曲は、アバドが芸術監督に就任する直前の演奏ということもあって、アバド、そしてベルリン・フィルによる畳み掛けていくような気迫と力感、そして豊かな歌謡性が漲る豪演であり、交響曲第1番以上の名演と評価したい。

SHM−CD化による若干の高音質化も本盤の価値を高めるのに大きく貢献している。

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2014年06月23日


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アバドはベルリン・フィルとともにベートーヴェンの交響曲全集を2度完成させている。

最初の全集は、芸術監督就任から10年近く経った頃の録音で、アバドが大病に倒れる直前に完成されたものである。

これに対して、2度目の全集は、大病を克服した後、ローマにおいて第1番から第8番をライヴ録音で収録したもの(DVD作品のCD化)であり、第9番だけは最初の全集に収められたライヴ録音をそのまま採用している。

要は、アバドは最初の全集の中でも、第9番だけには自信を持っていたということを窺い知ることが出来るところだ。

このように、アバドが自信を持っていたこともあり、筆者としても、アバドによるベートーヴェンの交響曲全集の中で最も出来がいいのは第8番と第9番であると考えている。

全体を約62分という、第9番としては相当に速いテンポで演奏しているが、せかせかした印象をいささかも与えることがなく、トゥッティに向けて畳み掛けていくような力感溢れる気迫とともに、どこをとっても情感の豊かさと歌謡性を失うことがないのが素晴らしい。

特に、第1番から第6番では軽妙さだけが際立ったベルリン・フィルも、この第9番においては、さすがにフルトヴェングラーやカラヤンなどの往年の指揮者による重厚な演奏にはかなわないものの、倍管にしたことも多分にあるとは思うが、重心の低い奥行きのある音色を出しているのが素晴らしい。

特に、終楽章の合唱の壮麗さは抗し難いほどの美しさを誇っており、これは世界最高峰とも称されるスウェーデン放送合唱団の起用が見事に功を奏している。

独唱陣もいずれも素晴らしい歌唱を披露しており、スウェーデン放送合唱団とともにエリック・エリクソン室内合唱団も最高のパフォーマンスを示していると言えるだろう。

いずれにしても、新しい研究成果に基づくベーレンライター版使用による本演奏は、近年の古楽器奏法やピリオド楽器の使用による演奏の先駆けとなったものであり、アバドによるベートーヴェンの交響曲の演奏としては第8番と並んで最高峰にある名演と高く評価したい。

録音は従来盤でも十分に鮮明な高音質であったが、今般のSHM−CD化によって、若干ではあるが音質がさらに鮮明になるとともに、音場が幅広くなったように思われる。

アバドによる名演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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アバド&ベルリン・フィルによる1度目のベートーヴェンの交響曲全集のうち、第1番から第6番については、少なくとも往年の名指揮者による重厚な名演に聴きなれた耳からすると、天下のベルリン・フィルを指揮したにしてはあまりにも軽妙浮薄な演奏であると言えるところであり、筆者としてもあまり高い評価をして来なかった。

ところが、本盤に収められた第7番については、第6番までとは異なり、アバドによるベートーヴェンとしては少なくとも軽妙浮薄とまでは言い切れないのではないだろうか。

もっとも、同曲の過去の名演、例えばフルトヴェングラー&ウィーン・フィル(1950年)、クレンペラー&ニューフィルハーモニア管(1968年)、さらにはカラヤン&ベルリン・フィル(1978年ライブ(パレクサ))などと比較すると、さすがに音の重心は低いとは言い難い。

もっとも、本演奏では、ベルリン・フィルの音色にもかつての伝統的な重厚な音色の残滓を聴くことが可能であるとともに、アバドならではの豊かな歌謡性が演奏全体に独特の艶やかさを付加しており、アバド&ベルリン・フィルによるベートーヴェンの交響曲の演奏としては、後述の第8番や第9番に次いで、佳演と評価するのにいささかの躊躇もするものではない。

また、新しい研究成果を踏まえたベーレンライター版使用による本演奏は、近年主流となっている古楽器奏法やピリオド楽器の使用による演奏の先駆けとも言えるところであり、その意味においても相当の評価をせざるを得ないとも考えられるところだ。

次いで、第8番については、楽曲の性格も多分にあるとは思うが、アバドの演奏にも第7番以上に違和感を感じるところがない。

フルトヴェングラーなどかつての大指揮者たちが名演を遺していないことも功を奏しているのかもしれないが、それ以上にアバドによる歌謡性豊かな指揮が、往年のワインガルトナーによる名演の如き極上のワインのような味わいを演奏全体に付加するのに成功しており、少なくとも、アバドによるベートーヴェンの交響曲演奏の中では、前述の第7番を凌駕するとともに、第9番と並んで名演と評価してもいいのではないだろうか。

録音については従来盤でも十分に高音質であったが、今般のSHM−CD化によって音質はより鮮明になるとともに音場が幅広くなった。

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