ケーゲル

2015年06月08日


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鬼才ケーゲルが解き明かしてみせたシェーンベルクの奥義。

ケーゲルは、現代音楽に造詣が深く、数多くの名演を遺しているが、それらの中でも、シェーンベルクの「モーゼとアロン」は、過去のあらゆる演奏の中でも最高の出来映えを示している。

ケーゲルの演奏は、スコアに記された音符の背後にあるものに徹底してメスを入れ、楽曲の心眼とも言うべき精神的な深みに鋭く切り込んでいくとともに、それらを現代人の持つ感覚を持って、一切の情感を排して冷徹に描き出すという途轍もない凄みを有している。

ひとたびこのCDを再生するや、シェーンベルクの音楽の真剣で凄まじい気迫に圧倒され、溢れ出る豊かな音楽性と計算されつくした見事な構築美、それにこの上なく高潔な魂の存在に胸を打たれ、たちまちその虜になってしまうだろう。

「モーゼとアロン」はそのような途方もない作品であり、その偉大さを曇らせることなくわれわれに伝えてくれるのが、このケーゲルによる演奏なのである。

ケーゲルは、いわば現代音楽のプロとも呼べるような存在であったが、この難しい音の構成物を正確に技術的に処理し、再現する能力の優秀さはもちろんのこと、シェーンベルクの音楽特有の精神の高さ、厳しさ、純正さを演奏の隅々まで浸透させていく音楽家としての資質には、頭の下がるものがある。

この作品は、モーゼは神の声にしたがい、エジプトに囚われているイスラエル人たちを連れ出し、約束の地へ向かわせるというのが話の大筋だが、エジプトを出た一行はシナイ山の麓に駐留し、モーゼはひとりで神の啓示を受けに山に登って行く。

しかし40日経っても戻ってくる気配がないので、不満を抱いた民衆が反乱を起こす。

この場面は、とりわけ作曲に力が込められていて凄い。

第2幕第3場面の「金の仔牛のロンド」は有名だが、第2場の3曲の合唱のほうが、もっと音楽的に上だ。

なかでも2番目の合唱「神々が彼を殺したのだ!」は、音を扱う作曲技術の信じられないほどの巧みさ、凄まじいばかりの表出力、そして研ぎ澄まされた音感覚と比類ない音楽性の高さ、白熱的に高揚した精神状態をケーゲルは余すところなく伝えている。

この後の3番目の合唱「歓声を上げよ、イスラエル!」も力が籠り、しかも少しも俗に堕することがない。

清く、強く、熱く、そして柔軟な変化を思うままに駆使して、灼熱的な盛り上がりを形成して行くさまには、もうただただ恐れ入ってしまうほかない。

ケーゲルは、決して表面の劇的効果を作ろうとせず、対位法の妙味である線と線とが織りなす緊張とその微妙な変化を表現の中心に据え、きわめて質の高い品位ある演奏を行っている。

歌手陣も、集中力の高い歌唱で、何より徹底的にトレーニングされたことがありありとわかる合唱団の迫力たるや、聴いていてゾクゾクする。

同曲の名盤の誉れ高いブーレーズの演奏と聴き比べてみたが、フランス系の音楽家の感覚の洗練という美点を武器に迫ってみても、この大音楽は如何ともしがたいのだ。

その精神の強さ、深さにおいて、どうしても演奏に物足りなさを感じさせてしまう。

この長所あるいは短所は、作曲家としてのブーレーズについても同様であり、見る角度によって魅力ともなり弱点ともなっているのだ。

新ウィーン楽派の音楽は、長らくブーレーズによる録音が高く評価されてきたが、こうしてケーゲルの録音を聴き比べてみると、ひょっとするとブーレーズの演奏は、少なくともシェーンベルクが求めていたものとは違う音で演奏されてきたのではないかと思い始めてくる。

むしろ、ドイツ圏ではケーゲルやロスバウトのような演奏が本流であって、ブーレーズは傍流なのではないかという疑問も持ち始めているところだ。

ケーゲルは冷静時代の東独という目立たない所で活動していたので、生前ついぞ脚光を浴びることはなかったが、これから大いに再評価されて欲しいものだ。

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2015年06月03日


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旧東独の鬼才、ヘルベルト・ケーゲルの最晩年、1987年7月31日に演奏されたステレオ・ライヴ録音。

曲開始早々、ケーゲルの気合いの入ったと思われる床に足を踏み込む音がドンドンと響く。

旋律といい、間のとり方といい、楽器の使い方といい、今まで聴けたことのない音がとにかくいろいろと聴こえてくるのである。

ティンパニの打音が、雷鳴のごとく響いて前面に出てくることといい、他楽器のパートもメリハリの利いた歌い方をしているのもやたら耳に届くが、これが不思議と異和感もなく楽しみながら鑑賞できるのである。

その後も明暗が入れ替わり立ち替わり現れる曲想の、暗の部分を、テンポを落としてじっくりと聴かせるところは、大変に充実感があり、また、そういうところの、弱音に素晴らしい味わいがあるわけだ。

対するに明の部分は決して燦然たる白熱の演奏ではないのだが、残念ながら、それに不満を感じるほど、私たちは能天気な時代に生きてもいない。

ベートーヴェンも政治の反動のなかでこの曲を書いたのだし、安倍政権の今日を生きる私たちもしかり。

もっと驚くのは、終楽章の最初のバリトンのソロが伸びやかで長く、ストレスを感じさせず何ともおおらかに開放的に歌われ出すことである。

これは、「第9」では初めての経験で非常に新鮮な展開であり、これはいい、と即座に納得した。

その後、合唱が意表をつくスローテンポで制御され、せかせかした感じがなくて非常に聴き易い。

この終楽章の演奏を、カンタータ的と評する人もいて、確かに、従来の型に全くはまらない合唱であるが、妙に説得力を感じさせる演奏となっている。

ともかく、筆者はこのフィナーレを聴きながら随所で驚きに打たれ、巻き戻しては聴き直した。

「第9」を食傷するほど聴いた私たちに、これほどまでに不意打ちを食わせる演奏はなかなかないことは確実だ。

曲が終わって、筆者の心配をよそに聴衆にも理解された様子で、拍手は盛大だ。

ケーゲルは、「お祭り騒ぎ的な『第9』が嫌いだ」と言っていたらしいが、なるほど、この「第9」は、彼が長い間構想を暖め考え抜いたあげくの「第9」の演奏と印象する。

出来上がりすぎてしまった大堂伽藍ではなく、生身で宇宙の嵐に身をさらす趣きがあり、宮澤賢治が魔物が現れてくると表現し、ミハイル・バクーニンが、全世界が滅ぶとも第9交響曲だけは救い出さなければならないと言ったものが、ここに感じられるようだ。

そして、筆者自身も、この演奏に大いに共感を覚えるようになった。

これは、従来の「第9」が、見え透いて軽く聴えてしまうようになる恐るベきチャレンジ演奏であると言っていい。

この演奏のユニークさ、あえて言うなら奇異は、ケーゲルが作品の内容を追いつめていった結果生まれたものに他ならない。

一見奇妙な解釈には合理的な訳があり、なぜこのような演奏になったのか、それをじっくり考えれば、私たちの「第9」理解はいっそう深まるに違いない。

べートーヴェンがどういう「第9」の演奏を求めていたかについて、従来の、フルトヴェングラーを筆頭に固定観念化されたスタイルについて、深く考え直させる機会を与える意義深い内容の演奏だ。

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2015年03月16日


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1987年12月30、31日 ベルリン・コンツェルトハウス(シャウシュピールハウス)に於けるステレオ・ライヴ録音。

この1987年12月は、レーガン、ゴルバチョフによるINF(中距離核戦力)全廃条約締結があり、世界は冷戦の終結に向けて歴史的な前進を遂げた年であるが、古巣のライプツィヒ放送響に戻ってきたケーゲルは一時の強烈なアプローチを排し、かなり遅めのテンポを採用し、慈愛に満ちた優しい微笑みをもってこの大曲の真髄に迫っている。

「ミサ・ソレムニス」は、数多い楽聖の傑作群のなかでも一頭地を抜く存在であって、「第9」を凌ぐ作品とも評されている。

とは言え、毎年2度や3度は通しで聴いている「第9」に較べれば、ライヴやCD等での視聴の機会も圧倒的に少ないというのが実際のところであって、それは多くの人に当てはまるのではないか。

筆者は、コンサートで聴いたことは1度もないが、それなりの点数のディスクを聴いてみたところ、どれも満足出来るものは殆どなく、やはりクレンペラー盤に戻って来てしまうのであるが、その中で、このケーゲル盤は本当に珍しく素晴らしいと思える演奏であった。

ケーゲルのアプローチは、飾ったところのない素朴な「祈り」の気持ちが根本にあり、これがこの曲の本質とよく調和していると思う。

難解極まる曲であるが、晦渋さがほとんどない鷹揚な演奏であり、なおかつ冒頭曲の『キリエ』からベートーヴェン独特の肯定的な明るさが現われている。

響きが硬くならず、伸びやかであり、開放的な風通しのよさが普段のケーゲルとは異なる。

これほど聴いていて心がほぐされ、癒されるような「ミサ・ソレムニス」は実に珍しく、「晦渋生硬」という作品に対する通念を破る開放的な演奏と言えるだろう。

極度の集中力や悲劇性を持つ音楽をたびたび奏でたケーゲルが、こんな穏和な演奏をしたこともあったのだ。

しかし、何度も聴いてゆくうちに、最初に聴いたときの印象と大分変わってきたところである。

鑑賞が数回目となってくると、晩年の凄みのある厳しいアプローチのケーゲルが顔を覗かせるのである。

歌手陣がのびのびと、しかも真摯に取り組んでいるのが凄みを伴って迫ってきて、この曲を全ての演奏者が心を込めて取り組んでいるのがヒシヒシと伝わってくるのである。

それにしても合唱には酷な作品であり、職人技よりは芸術家の理想を追究したベートーヴェンの面目躍如、素人合唱団には手に負えない作品であろう。

ケーゲルは合唱指揮者からキャリアをスタートしただけに、合唱の扱いに長けた指揮者であることが明らかであり、合唱の取扱いも厳格なだけに留まらず、分厚いハーモニーを紡ぎだすことに成功している。

『グローリア』冒頭からの合唱、特にテノールと金管の絡みの素晴らしさは、楽天的ではない、ほんとうに肯定的な力強さが全開しており、筆者はこの『グローリア』に一番感銘を受けた。

聴いていて難しい曲とは感じさせないし、その精妙なつくりにも感嘆させられるが、それはおそらく、演奏の巧みさゆえだろう。

この曲を好きな者にとっては、聴けば聴くほど深みを増してくる名演である。

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2015年03月14日


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第4番は、1969年3月4日、第1番は、1982年4月6日のそれぞれ、ステレオ・ライヴ録音。

第1番は恐らく唯一の演奏機会と思われるが、1980年代のケーゲルらしいスケール雄大でロマン主義色濃厚な名演で、極めて遅いテンポが採用されている。

第4番は、エテルナにもスタジオ録音を遺したレパートリーで、ケーゲルはシベリウスの交響曲の中でもこの曲だけは愛奏していた模様であり、陰陰滅滅で不気味な暗さで透徹した名演として知られていたが、こちらはライヴゆえに緊張感が尋常でない。

ケーゲルの「第4」はきわめて異色なシベリウスと言えるが、最高傑作と評される同曲をこれほど深く読み、全身で受け止めた演奏は珍しい。

シベリウスは指揮者を選ぶとはよく言われることだが、「シベリウスのムード」という共同幻想によって評価されている気がする。

もっとも音楽を楽しむのに幻想は大いに結構であり、何ら非難されるべきではない。

以上を踏まえたうえで、ケーゲルよりもオーソドックスとされる演奏はいくつかある。

世評が高いのはベルグルンド、ネーメ・ヤルヴィ、サラステ、セーゲルスタム、アシュケナージあたりだろうが、ベルグルンドが最もスタンダードかもしれない。

これはその通りだと思うし、いずれのシベリウスも美しく、大いに楽しめる。

ケーゲルの演奏は、確かに聴き方によっては「際物」、あるいは異端的なシベリウスだ。

今まで抱いていた簡潔で軽やかなリズムのシベリウスはここでは全く感じられず、ここにあるのは、きわめて重厚骨大なシべリウスであり、耳が慣れてくるとそれなりに説得力がある。

鑑賞を重ねるうちに次第に、固定観念化されたシべリウス観を抱いていたことを気付かせられる、そういう演奏である。

このシべリウスも、あるいはこのシべリウスが、紛れもなく本物のシベリウスであると考えられてくる。

正直言って、筆者はこの演奏によって初めて聴き応えのあるシべリウスに出会えた。

従来のよどみなく流れる川の流れような美しいシべリウスが遠のいて、岸に大小の荒波が次々と打ち寄せるかのようなゴツゴツとした立体感のあるシべリウスがここにはある。

この「第4」は、シべリウスの悲愴交響曲の趣であり、この曲の作曲時、シべリウスは健康に問題を抱え苦悩の情況にあったと聞く。

全てに暗い演奏のイメージが先行しがちであるが、「第1」の方は「第4」に較べればそれは感じられず、力強い躍動感がある。

「第4」は、曲想の難解さに加えて、演奏自体も一回だけの鑑賞だけでは理解しにくい難解な演奏であるが、両曲の演奏とも何度聴いても手応えを感じさせるものがある。

これはひょっとすると残念なことなのかもしれないが、スタンダードなベルグルンドやサラステでは少し物足りなく感じているのに気付く。

特に「第4」については、この曲が交響曲史上、最高傑作の1つであることの重みをいかんなく示す素晴らしい演奏であり、陰影が深く、異様な妖しさが漂う。

大自然の音楽というよりはおどろおどろしい「因業」な音楽のようにも聴こえる。

そして何故かスタンダードな演奏を沢山聴いた後では、ケーゲル盤が忘れがたいのだ。

これを聴いたため、他の指揮者による演奏が耳に軽く響いて物足りない。

この「第4」は、ファーストチョイスかどうかはともかく、シベリウスを愛する者にとっては聴くべき価値のあるものだと信じている。

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2015年03月12日


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交響曲第8番は、1974年5月14日、交響曲第3番「英雄」は1975年9月2日のライヴ・ステレオ録音。

ケーゲルはドレスデン・フィルとベートーヴェン:交響曲全集を完成しているが、こちらのライヴはケーゲルらしい厳正なリズム運びと躍動感が同居する名演として名高い。

今回の「第8」は、たたみかけるようなリズム満載で、第1楽章の第1主題部分が特に凄い。

初めは大人しく聴こえるが徐々に調子を上げて展開部に至るころにはトスカニーニもびっくりの激しさを持つに至っている。

機械的とすら言ってもいい激しさで、ここまで切れ味鋭いテンポで、なおかつ粗雑にならずにこの部分を演奏した例はおそらく皆無であろう。

筆者はこの演奏を聴いてこの曲が「第7」以上の激しさを持った楽曲であるという認識を持つに至った。

しかしその激しさは第2楽章以降では鳴りを潜め、第3楽章のテンポ・ディ・メヌエットでは緩やかでありながら言い切りの良いテンポで、音楽が緊張感を失わずに前進していく。

細部がよく聴こえる録音と相俟ってケーゲルがこの部分で表現したかったであろうベートーヴェンらしいユーモアや、爽やかな感覚といったものがひしひしと伝わってくる。

筆者はこの部分を聴きながら、春の日差しの中、ゆっくり散歩しながら印象深い思い出(あるいは歴史)を回想しているといったようなイメージが浮かんできてしまった。

そういう意味ではやはりベートーヴェンはいくら激しさを持ち合わせているといっても「田園」を書いた作曲家、自然に範を求めることが多かったのだ。

ある意味ケーゲルらしくないことだが、聴いていてとても心が落ち着いてくる。

そしてなんといってもこの演奏の白眉、クライマックスである第4楽章を聴いて度肝を抜かれた。

第1楽章での激しさが戻ってきて圧倒的な迫力でもって聴き手に迫ってきて素晴らしく、まさしくケーゲルの本気を聴ける。

確かにライプツィヒ放送交響楽団の的確なティンパニ、弦楽器の充実は今に始まったことではないが、ケーゲルの指揮はそれを見事に調和させ、各声部に最大限の仕事をさせている点で素晴らしいのだ。

テンポ設定ひとつとっても筆者にはこれ以上正確な演奏は思いつかない。

こう書くとクールな演奏のようだが、ケーゲルが、作曲者がこの曲で言いたかったと考える要素は余すところなく伝わってくる。

この楽章だけはそれで十分なのだ。

それでも聴く者は否が応でも高揚感を掻き立てられ、生で聴いたら間違いなく曲が終わっても感動でしばらく席から立ち上がれなかっただろう。

音質もライヴとはとても思えないぐらい鮮明で、この演奏の持つ壮大なスケール、感情表現の振り幅の大きさが堪能できる。

「エロイカ」は、直球勝負の大変な推進力のある演奏であるが、繊細なニュアンスにも富んでいる。

古典的スタイルを限界まで堀り下げたような解釈の深さを感じさせ、繰り返し聴いても飽きさせることがなく、同曲に新しい発見をいくつももたらす内容の深さがある。

第2楽章などは、テンポをかなり落して葬送行進曲を、というよりは、聴き手を深いクライマックスへ誘導してゆく。

特に新鮮だったのは、終楽章であり、展開がドラマティックで、この演奏で初めて終楽章の存在意義を感じさせられた。

ライヴであるとはいえ、セッション録音かと錯覚させるほどの構築性を感じさせられる。

朝比奈隆&ベルリン・ドイツ交響楽団の淡々としながら熱気を帯びている「エロイカ」とはまた趣きの全く異なるケーゲルのまことに懐の深い「エロイカ」である。

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2015年01月17日


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「私の交響曲は墓標である」と言ったというショスタコーヴィチの交響曲であるが、この演奏はその中でも注目すべき1枚と言えよう。

ケーゲルは共産主義の正しさを確信し、それでも共産主義体制が崩壊してゆくことに危機感を募らせ、自ら命を絶ったといわれているが、このショスタコーヴィチの交響曲第5番は、そういう指揮者にしかできない演奏であることは間違いない。

ケーゲルはここで本領を発揮、全楽章を通して悲愴感に満ちているが、そういう意味では、この曲の悲劇性を皮肉にも非常に強く表現している。

まるで深い闇の底を覗き込むような音楽であるが、なかでも聴きどころは澄んだ悲しさの第3楽章に続く最終楽章。

冒頭から聴こえてくるのは、「革命の生の高揚」などではない。「恐怖の絶叫」「感情の爆発」だ。

続いてもその先には「勝利の喜び」などはない。その喜びは一種の絶望と諦観とでもいうべきものである。

したがって、文学的メッセージを鑑賞するには、ケーゲルの解釈は一定の評価をされるべきものであると評価したい。

しかしながら、オケの、ステージ上で何か事故が起こっているのではないかと思わせるほどのミス(拍子のカウントのずれやテンポのずれ)が散見される。

それは、ライヴ録音であるという点を考慮しても許容される範囲をはるかに逸脱していると言わざるを得ない。

これでもし、オケが一流だったら、ムラヴィンスキーに追随するかのような凄演になっていたのだろうと悔やまれる。

なお、終楽章のコーダでティンパニの連打に鐘を重ねているのは聴く者の度肝を抜くケーゲル独自の解釈と言えるが、この解釈は成功していると思う。

やはり曲そのものにそういうものを予感させる何かがあるからであろう。

最後は決して勝利の行進ではなく、強制された断頭台への行進なのである。ケーゲルはそれを明らかにしただけなのだ。

「第9」は、スタイリッシュでセンス抜群な古典風の端正な交響曲ではあるが、一聴してそれと判断してはいけない。

その底には恐怖の予兆とでもいった、闇の底から湧きあがる黒いマグマの様なものが流れているのだ。

聴く者を恐怖のどん底に落とすであろうこの1枚は、「癒し」などという言葉とはほど遠いものがあるが、そもそも「感動」とは人の心や価値観を脅かし、一種の恐怖を伴うものなのだ。

ケーゲルという指揮者を決して侮ってはならない。恐怖は静かな顔でこちらを窺っているのである。

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2014年07月20日


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当演奏は初出当時から極めて評価の高かったものである。

リズム重視で厳格にして快活なテンポ設定で、ケーゲルらしい隅々までレントゲン照射したかのように音形を浮かび上がらせた名演だ。

幻想味を強調せず、どこまでも現実的な演奏と言えるところであり、楽曲を合理的に再構築してしまう手腕はヴァントに通じるものがあるとも言える(思えば、放送オケとの親密な関係、練習狂と言った面も似ている)。

トータル70分という快速テンポの演奏であり、後に録音されたレーグナー盤が68分台、スウィトナー盤も69分台だったので、これが東独では標準的なスタイルだったのかもしれない。

それとも「第8番と並ぶ大曲」とは見なされていなかったということかもしれない。

第1楽章の序奏こそ堂々としたテンポであるが、ホールの残響が少ないせいもあってか、潤いがなくて冷たい感じのまま音楽が進められていく。

ティンパニの打撃と共に、トランペットの切り裂くような音も耳に付く。

ただし、ロシア(旧ソ連)の演奏ほどではないが、アンサンブルの精度は非常に高い。

14分20秒のピーク前後も全く隙がない立派な演奏であるが、ここで感じる息苦しさはヴァント&ベルリン・フィル盤に匹敵する。

それゆえ、14分56秒からテンポを落として2分あまりしみじみ演奏しているのが「私はもうこんな生活には疲れました」とこぼしているように聴こえるが、18分11秒から再びテンポが速くなり、次第に軍隊行進曲調になる。

ここのコーダは堂々としたものだが、予想していたほど激しくはなかった。

その後も厳しい音楽が続き、次の第2楽章も一息吐くどころか、圧制に苦しめられている人の嘆きを聴かされているようだ。

ショスタコーヴィチの交響曲のいくつかの楽章(第5番や第10番の第3楽章など)を思い出した。

要は筆者の考え過ぎなのかもしれないが、テンポと音響のせいで緩徐楽章からもヒンヤリした印象を受けるのは確かである。

続く第3楽章スケルツォでは冒頭の突進に驚かされ、主部は長調部分でも音楽は決して微笑まない。

主部が厳しくともトリオに入るとテンポを落として息抜きをする演奏が一般的だと思うが、ケーゲルはそんなことには全く興味がないかのごとく、ここを早足で通り過ぎてしまう。

労働基準法を全く無視したかのような(途中の休憩10分だけで12時間労働させるかのような)過酷な演奏である。

第4楽章も同様に厳しい音楽が繰り広げられていき、突然激しくなる箇所が途中に何度かあるものの、決して熱くはならない。

ここまで徹底して同じスタイルで演奏しているのだから、全曲を貫く統一感という点では抜群である(聴いていて楽しい音楽ではないが)。

そんなことを思いつつ聴いていたのであるが、10分を過ぎた辺りから次第に演奏に熱がこもってくるのである。

13分38秒の小ピークに持っていくまでは、テンポこそまるで違うけれどもチェリビダッケのような壮絶な盛り上げ方である。

そして仰天したのが17分を過ぎてからで、変わったところでティンパニが鳴る。

クナの第5番は大幅カットされてしまっているので、それとの対応関係が掴まえにくいが、ケーゲルが改訂版を参考にしつつティンパニを付加したのは間違いない。

それまでと異なり、ここのティンパニは音が明るい(まさかとは思うが、違う楽器を使ったのだろうか? なお、クナ盤では音がこもっているせいか、コーダ前のティンパニ付加はそれほど耳に付かない)。

そしてシンバルこそ鳴らないが、コーダでもティンパニはやりたい放題で、シャルクが狙った通りの軍楽調になっている。

マタチッチ盤を上回るドンチャン騒ぎで、またしてもショスタコに例えるが、「森の歌」のラストと同じく、共産主義の明るい未来を予想させるような音楽になっている。

「東側はハース版」という常識が見事に覆されてしまった訳だが、あるいは党のお偉方に改訂版使用を強要されたのだろうか?

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当盤は録音のために十分な日数が確保されていたようで、ここでは何と12日間に渡っており、実際に聴いても非常に丁寧な音楽づくりを心懸けているのが分かる。

特に第1楽章の主題が2度目に出てくるところの美しさには溜息が出てしまった。

マタチッチ&チェコ・フィル盤に匹敵する美しさであり、奏者の録音に対する意気込みは並大抵のものではなかったのであろう、どのパートも積極的に弾き、吹いているのが感じられるし、それでいて決して粗くならないのだから見事だ(やはり指揮者の統率力によるものか)。

当盤では5分30秒頃から加速が入ってしまい興醒めしかけるが、基本テンポからの逸脱は旧盤ほどは酷くないのでホッとする。

16分過ぎのしみじみした部分にも胸が熱くなるものがあり、やはり確固たる基本テンポがあってこそ、そういう表現が生きるのだ。

コーダは基本テンポよりやや遅く(ただし遅すぎない)始め、そのままインテンポで締め括る。

そのため、非常にスケールの大きな演奏となっていて、もはや旧盤とは別人のようである。

第2楽章は、旧盤同様にスロースタートであるが、重苦しくはなく、モノラルとステレオという違いを差し引いても、響きは確かに違う。

主題を弾く弦を柔らかい音で金管が持続音でサポートしている部分など、決して暗くならず、全体的に明るいので心が和むところであり、旧盤が厳冬期の軍隊の行進とするならば、当盤は春か秋の森の散策といえようか。

テンポの変化が抑え気味であるため、劇性ということでは当然ながら後退しているゆえに、クライマックスにシンバルを加えなかったのだろう。

だたし、テンポが粘っこいのと打楽器なしだと十分に解放されないので、ティンパニのみ残したのではないか。

このバランス感覚は見事で、最後のテンポもそれほど遅くしないのは、その必要がないからであり、これも理に適っている。

残り2楽章は、それまで非常に均整の取れた演奏をしてきたのだから、ドラマティックにやっては水の泡になるので、それを指揮者はちゃんと解っている。

あるいは旧盤をノヴァーク版的、新盤を(アダージョでティンパニが入るものの)ハース版的と言っても大間違いではないだろう。

筆者にはこの演奏が旧盤よりも格段に優れているように思われるが、といって枯れてもいない(1960〜70年代といえばケーゲルはまだ壮年期であり、老化現象でテンポが遅くなったりするはずはないのは当然である)。

これを指揮者の10年間の成長の結果と考えることも可能であろうが、それ以上に演奏スタイルをガラッと(第7番向きに)変えたことが当盤で成功を収めた最大の原因ではないかという気がする。

いずれにしても、この指揮者は同一の曲を再録音する際には、敢えて前回とは違うやり方を試みてやろうという気概を持っていたようだ。

もう1人のヘルベルト(フォン・カラヤン)のように。

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2014年07月18日


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このケーゲル盤は、マーラーのモザイク風の作品を断片から1つ1つを吟味し、組み合わせていったような精妙さをもつ演奏だ。

アゴーギクやデュナーミク、管弦のバランスのそれぞれに意味があり、音楽的に彫りが深い。

そのため、いささか分析的ではあるが、晴朗・透明で、マーラーの抒情性を的確に表出している。

しかし、よく聴いてみると極めて異常な世界とでもいうのか、他に例を見ない演奏である。

血の通わない音楽というのか、血は通っているが冷たい血とでもいうのか、こんなパッと聴いたところ楽しくないんなぁという感じのする演奏は稀であろう。

美しいながらも、冷たいナイフを頬に当てられているように感じてしまう。

他の指揮者よりもっと高い見地に立って全体を俯瞰するとこういう演奏になるのであろうか。

マーラーの音楽の美しさを表現できていると思うのであるが、どこかひっかかるものがある。

第3楽章の美しさは素晴らしく雄弁に聴こえるのだが、曲にのめりこまないとでも言うのか、どこか心ここにあらずという感じがするのだ。

ロマンティックで耽美的な音楽を優美に、そしてじっくりと聴かせてくれる演奏なのだけれど、このほっぺたが千切れそうに冷たい体感温度の低さは何なのだろうか。
 
遠くに突き放してみたらこんな感じで見えるとでもいうのか、能でいう離見をすればこうなるのかもしれない。

とは言え、筆者としては、このような演奏もマーラーの解釈としては十分成立すると考えている。

この曲を初めて聴く人にお薦めできる演奏ではないが、このような素晴らしい演奏もあるという感じで聴く分には良いだろう。

もし弱点があるとすれば、終楽章でのカサピエトラの歌唱かとも思うが、彼女は癖のない歌唱で、幾分ぶっきらぼうな表情が、この第4楽章の楽しげで無邪気で残酷なおとぎ話の一面の真理をついている。

ちなみに第2楽章のソロ・ヴァイオリンはジェルジ・ガライが担当している(ケーゲルはガライとは、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲を録音していた)。

ピストル自殺さえしなければ、ケーゲルを語る時『狂気のケーゲル』などという形容詞はおそらく不似合いだっただろう。 

このマーラーには絶頂の幸福感と、興奮すらも俯瞰でみつめる安定感がある。

筆者としては、ワルター、バーンスタイン、テンシュテットに次いで愛聴している。

ケーゲルの『大地の歌』の録音があったならば、さぞかしと思わせる。

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2014年07月13日


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旧東独の鬼才、ヘルベルト・ケーゲルが、ライプツィヒ放送響のメンバーを駆使して行ったスタジオ録音、バッハ「音楽の捧げ物」が初のソフト化。

ケーゲルのバッハ演奏そのものが極めて珍しく、ほぼ10日を費やしてなされた当録音は、ヘルマン・ベルナーによる新版であり、自由に曲順が変更されている上に、パウル・デッサウ編曲のカノンが5曲も含まれ、最後はウェーベルン編曲による大オーケストラのための壮麗な6声のリチェルカーレで締めくくられる。

亡くなってかなり経つというのに次々と未発表録音が現れるケーゲルであるが、「音楽の捧げ物」をオーケストラで録音している演奏というとどうしても興味が引かれる。

多彩な楽器編成で、この曲の最も面白い表現の一つだろうが、それ以上に内容も豊かな演奏。

おそらく「音楽の捧げ物」の演奏史上、最も凝ったものの一つであるこの企画が、アイディアのごった煮にならずに、説得力を獲得できたのは、硬派の雄ケーゲルならではの筋金入りの音楽作りがあったればこそ。

どんな衣装を着せても揺らぐことのないバッハの凄さと、ケーゲルの底力を思い知らされた。

これは、まぁ何とも深くて楽しいJ.S.バッハで、このバッハを聴き始めたときに、機械が壊れたのかと思った。

主題をフリューゲル・ピアノフォルテで演奏されていたのだ!

このフリューゲル・ピアノフォルテは、ポツダムのサンスーシ宮殿にある楽器が使われているそうで、初めて耳にしたピアノともチェンバロともつかないとても心持良い美しい音色である。

しかし再生装置の質によって、壊れたピアノの音に聴える可能性も否定できないと思った。

筆者の装置では、透明感を伴った美しい音が出てきて、その後の展開も聴かせる。

その後、室内楽編成(1曲オルガンもある)による王の主題によるカノン、無限ソナタなどがが続き、フルート、ヴァイオリン、チェロ、チェンバロという普通の編成のトリオ・ソナタが中心に奏される。

ここまでもなかなか緊張感に富んだ演奏なのだが、圧巻はオーケストラによる後半で、デッサウ編曲の王の主題によるカノンが5曲収録されている。

管楽器のソロを中心とした編曲であり、通常聴くバッハの響きからはほど遠いが、各声部の動きは手に取るように分かり、あらためて内容の豊かさに驚かされる。

最後を飾る6声のリチェルカーレはウェーベルン編曲版で、これが物凄い演奏になっている。

このコンビならではの淡々と音を置いているだけのようでありながら、何故か熱くなっていく演奏で、美しく感動的に終える。

特にこのウェーベルン編曲の6声のリチェルカーレの感動的な演奏は是非聴いていただきたい。

現在はピリオド奏法の演奏が多いわけだが、現代の楽器で演奏するバッハとしては、非常に面白い試みを数多く行っている演奏である。

編曲も面白いし、デッサウ、ウェーベルンの曲も自然に繋がっていく非常に面白い演奏
だ。

全身の力が抜け、喜びとも感謝とも悲しさともつかない感情が湧き上ってくる。

それにしてもケーゲルという指揮者は、果敢に新しい表現にチャレンジしていたのだなぁと思わせる録音だ。

これは立派なことには違いないし、彼の活躍した時代背景とキャリアを考えると深い感慨を覚えずにはいられない。

フィギュアスケートのカテリーナ・ビットもそうだったらしいが、ケーゲルもベルリンの壁の崩壊後であっても「社会主義者」であることを誇りにしていたという。

彼の考える社会主義の中身が問題になろうが、非常に倫理的な人間であったことは想像できる。

そんな音楽の周辺をも再考させる、ある意味「際物」寸前、しかし大変真摯なバッハである。

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ケーゲルによるヴィヴァルディの協奏曲集とシンフォニア集という珍しい録音。

協奏曲集は比較的よく見られるが、シンフォニアの録音は思った以上に少なく、当盤では2曲のシンフォニアを収録している。

思わずぎょっとするような(作品/演奏者)組み合わせではあるし、ヴィヴァルディの作品中、あまり著名でないものを集めたというのもマニアック。

ヴィヴァルディは明るく軽快、軽妙な響きが基本なので、これはいったいどうなるのかとかつてはずいぶんと話題になったものだ。

これがやはりケーゲルの手に掛かると少々悲劇度増して、弦は泣き、オーボエは上手いが地味で神妙。

弦の編成は絞り込んでいるようで大編成の違和感はないけれど、両端楽章の雄弁なる切迫感は何とも言えぬ味わいだ。

ライプツィヒ放送室内管弦楽団の演奏は、何よりもまずその透明な響きに魅せられる。

1曲目のシンフォニアのアンダンテでしめやかに歌われる弦の調べは、まさに天上から響き渡るかのようだ。

しかしそれ以上に「聖なる墓にて」の荘厳で、包み込むような深い響きは、聴き手の心の奥深くに染み込んでいく。

とても深刻で静謐な世界から始まって、題名の由来は知らないが、いかにも“それ”らしい神々しい、神妙な囁きである。

「ダリウスの戴冠」は豊かで厚みのある弦楽合奏で、いかにもハ長調らしく親しげな開始なのが、少しずつ暗転するところに緊張感というか、悲劇的な味わいになっていくから不思議だ。

急緩急のイタリア風序曲から「アンダンテ」には纏綿と深刻な味わいになって、ラスト「プレスト」はわずか33秒。

ファゴット協奏曲はイ短調なだけあって、再び弦が悲痛な叫びを上げる。

ファゴットという管楽器はユーモラスな持ち味なのだが、ここでの旋律もやたらと陰影に沈んで、軽快なる味わいにあらずだ。

クレツマーの技巧は文句なしで、ここでも緩徐楽章の嘆きが白眉であり、ヴィヴァルディなのに何と哀しい音楽なのだろう、そう思わせる音楽の力がある。

チェロのオブリガートがいい味を出しており、終楽章の弦(のラッシュ)はバロック音楽として違和感のあるものではないだろう。

協奏曲イ長調にはソロ楽器はないが、第1楽章は朗々とした押し出しの良い「アレグロ」である。

ところが第2楽章「アダージョ」に至ると再び嘆きの音楽となってしまう。

ほんの1分ほどであるが、最終楽章のヴァイオリン・ソロの絡み合いは哀しみに満ち、弦楽合奏がそれを否定して明るく振る舞う、といった不思議な風情。

「ごしきひわ」 はこのCD中唯一の著名作品であり、フグナーの豊かで厚みのある太い音色はいかにもドイツ的だ。

第2楽章「カンタービレ」には悲劇はなくて、悠々と安らぎの風情である。

終楽章はフルートとヴァイオリンのユニゾンが晴れやかな世界を醸し出しており、しっとりとして、華やかではないが、この作品が全曲中一番明るい。

この世の中に不幸な人間のいる限り、このケーゲル盤を愛聴する人間が絶えることはないと筆者は信じている。

前記したケーゲル最晩年の「アルルの女」とともに、録音史上に残る大傑作であることは間違いない。

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これまでは、「アルルの女」第1組曲、第2組曲、そしてオペラ「カルメン」の4つの前奏曲は、クリュイタンスの指揮したものが名盤の誉れ高かったが、この盤を聴いてみて驚いた。

ダイナミックな部分(「アルルの女」第1組曲の〈前奏曲〉の前半、〈カリヨン〉の前半、第2組曲の〈ファランドール〉など)は、他の指揮者の演奏よりもダイナミックに、たゆたうようなしっとりとした情感溢れる部分(「アルルの女」第1組曲の〈アダージェット〉、第2組曲の〈メヌエット〉など)はよりゆったりとしているのである。

「アルルの女」第1組曲の〈前奏曲〉からして、あまりに淡々とした端正な音楽に畏敬の念すら覚える。

まったく何の不足も余分もない、凍りついたような清潔な美しさである。

最初の弦楽器に続いて登場する木管楽器たちの何か寂しげな様子もただごとではない。

そのあともひたすら端正であり、大げさな気配は微塵もないのだが、有無を言わさぬ迫力があるのだ。

そして、まるでシューベルトの「未完成」交響曲第2楽章終結部のような黄昏を経て、恐ろしい後半部がやってくる。

ブルックナー第9番のスケルツォのような〈メヌエット〉も、よく歌いながらまったく楽しさがないという戦慄の音楽だが、ついで流れ出す〈アダージェット〉は、初めて聴く人を間違いなく瞠目させるに違いない。

そう、まさにマーラー第5番のアダージェットのようなのだ。

きわめて遅い、何という美しさ、何という憧れ、何という悲しさ、何という切なさ。

〈カリヨン〉では再び明るく透明な響きが戻ってくるが、これが明るさとは裏腹に、まるで死者が浮かべる微笑のうつろなまなざしのようで怖い。

とりわけ中間部は虚無感そのもので、もはや心はここになしという様子だ。

第2組曲では、〈パストラル〉中間部がまるでブルックナー第4番第2楽章のようだ。

〈間奏曲〉のしみじみとした味といい、〈ファランドール〉の祭の興奮とは正反対の冷えた感触といい、「アルルの女」をこれほどユニークに演奏した例は古今無双であろう。

この演奏全体を通じて、恣意的な臭みのまったくない弱音の表現力の豊かさに圧倒される。

人間のむなしさ、存在の悲しみをここまで表した音楽を筆者は他に知らない。

そして、こういう切実な音楽に対し、語る言葉は無力だ。

しかも録音が素晴らしく、全ての音が驚異的に鮮明に捉えられているのである。

ただ、近年なかなか手に入らなくなったこのディスク、読者諸氏が無事に手に入れていただくことを切に祈るのみである。

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2014年07月12日


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これまで、ヴァンデルノートとコンヴィチュニーのライヴ録音、放送録音をリリースしてきたドイツのヴァイトブリックでは、新たに「ヘルベルト・ケーゲルとライプツィヒ放送響の芸術」というシリーズをリリースすることになったそうで、第1回新譜として3枚のCDが発売になり、これはその中で最初にリリースされたものである。

ケーゲル指揮のハイドンの交響曲第81番は初めて聴いたが、ブラームスの交響曲第1番はオード・クラシックから1961年の録音が発売されていた。

最初に収録されているハイドンの交響曲第81番は,いわゆる「パリ・セット(第82〜87番)」の1つ前の作品で、あまり演奏頻度の高い作品ではないのだが、後年の作品のようなかっちりした構成感はまだないにしても、デリケートでフレッシュな表情があって非常に魅力的だ。

演奏の方も、肩の力を抜いて、旋律の美しさを率直に歌い上げており、特に際立った表情を聴かせているわけではないが、この演奏で特徴的なのは、透明な美しい響きと練達のアンサンブルの中に張りつめた皮膚感覚が同居していて、緊張感を感じながら、感興に満ちた美しい演奏に聴き入るような思いがして、やはりこれはケーゲルならではの表現の世界と言えるのではないだろうか。

続く、ブラームスの交響曲第1番は、第1楽章から大変聴き応えがある新鮮さであり、冒頭のティンパニの連打は控え目で弦の合奏が強く出て、意表を突かれ、その後もなかなか味わい深い。

しかも、音の質感の冷たいのが、ひしひしと伝わってくるのもケーゲルらしく、圧倒するものがある。

テンポはいくらか遅めで、ことさら表現を強調することもなく、むしろオーソドックスで端正な演奏と言えるほどなのだが、演奏全体が無機的な緊張感ともいうべき独特の雰囲気に支配されていて、フォルテやピアノ、テンポを落としながらのカンタービレなど、特に奇を衒ったところはなさそうなのに、それが終始無表情に演奏されているので、どこか薄ら寒さを感じてしまうほどである。

これは、人間的なぬくもりや、心からの共感といった演奏とは対極にあり、非常に表現主義的とも言えるのだが、グロテスクさは全くないし、むしろクールで無機的な美しさを感じるのである。

それが研ぎ澄まされた緊張感とともにあるため、聴き手に極度の緊張と集中を強いる演奏になっているところは、この演奏の際立った特色ではないかと考える。

ケーゲルというと独自の緊張感を伴った、時に「猟奇的」といわれる演奏を聴かせたりもするのだが、このCDで聴ける演奏は、いずれもクールビューティな面と曲趣に応じた劇性とを堪能しつつも、ケーゲル独自の研ぎ澄まされた感性と、リアルで非感傷的な視線には恐ろしさすら感じてしまう演奏であった。

全体として、カラヤンのロンドン・ライヴ盤以来のインパクトであった。

筆者自身はこの演奏に強く惹き付けられ、その美しさも、無表情に呵責ない表現を聴かせる激烈さも、存分に堪能したのだが、一般的な意味での「聴いて楽しめる演奏」とは言い難いのは事実であり、これは誰にでもお勧めできる演奏ではないけれども、ぜひともチャレンジ精神を持って聴いてもらいたいCDである。

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ケーゲルという音の匠が創り出した最高のガラス細工のようなラヴェル作品集。

オペラ「子供と魔法」全曲を録音しているくらい、ラヴェルには思い入れが強く、その完璧な作曲を精緻なガラス細工のような演奏で具現化している。

絶美なのはピアノ協奏曲で、ラトルともスタジオ録音しているウーセの魅力的なピアノを得て、夢見るような解釈が楽しめる。

ピアノ協奏曲史上、最高傑作のひとつと言われているラヴェルのこの曲は、ケーゲルの予想以上の生々しい色彩感とエキゾシズムに最後まで耳が離せない。

この曲でオーケストラ・パートをここまで有機的に人間臭く鳴らしきった演奏は他に類例を見ないが、一方のウーセのピアノは、それに比べるとかなり地味に聴こえ、ケーゲルの醸し出す雰囲気とぴったりのニュアンスで、絶妙な味わいを残す。

タッチは硬質で、スタイルも洗練されているが、音の粒立ちから芳醇な香りが立ち込める。

その両者のコントラストと溶け合いの妙こそがこの演奏の醍醐味である。

第1楽章後半、不必要に力まず、音楽を一気に高揚させる両者の連携は完璧。

そして第2楽章が絶品だ。

いかなる感傷をもそぎ落とした氷のように静寂な音楽だが、そこから白い冷気のように哀しみが立ち昇ってくる。

一見淡々としたウーセのフレージングがかえって忘我的な雰囲気を引き出し、聴けば聴くほど内面から湧き出る共感が細やかなアゴーギクとなって現われているのに気付き、味わいもひとしおであり、木管が長いソロを吹く静かなシーンも、他に類例がないほど感動的で、ピアノとオーケストラの相性もよい。

終楽章の機械的な無機質さを感じさせないコクのある表情も、心にしっかり印象づけられる。

この演奏に関して言えば、ピアノの音が冷たいのは確かで、一聴して固い印象だったが、それは、ある意味で間違いだった。

時をおいて聴き直すと、オーケストラの演奏が、まぁ何と表情豊かな演奏をしていることか。

他の演奏が単調に聴こえてしまうほどであり、改めてピアノをオケの一部として捉え直して聴くと、この演奏が別の魅力豊かな表情を有して聴こえてくるのに気付く。

通常協奏曲の名演奏は、ソロの素晴らしさ+伴奏の確かなフォローという形で論じられることが多いのだが、この演奏はそういう図式では収まらない不思議なニュアンスが満ち溢れている。

カップリングの2曲も必聴と言えるものであり、「ボレロ」では、伴奏部分の強調など個性的で、最初のフルート・ソロが不気味なクレッシェンドをするところからただならぬ予感。

管の各奏者の高い技量の素晴らしさに加え、「東独的」とも言うべき独特のアクが自然と顔を覗かせるあたりが何とも味わい深い。

ラヴェルの魔法的な色彩術の象徴と言えるチェレスタが加わる箇所は、精緻さを目指さず、むしろ大掴みな感じであるが、自然とハ−モニーとして溶け合っているのは、オケの技量の賜物であろう。

しかし12分位から、トランペットが主役になって以降のリズムの野暮ったさはメンゲルベルクの同曲の録音を思い起こさせ、思わず吹き出してしまうほどフランス的な洗練とは正反対と言えるものであり、しかもそれを大真面目でやってのけているので、この上なく痛快で「教科書的な名演」に飽きた人は必聴である。

合唱つきの「ダフニスとクロエ」は、克明でたくましく分厚いハーモニーが素晴らしい名演で、 本当にフランス的な良い雰囲気を醸し出した、まさにラヴェルしか書けなかった音楽が存分に堪能できる。

弦楽器が力強くうねっては鎮まるが、特に最後の壮大な盛り上がりが圧巻で、鮮烈かつ痛快、硬派にして官能的、切れのいいリズムで、すべての音がエネルギーの放出を目指して高まっていく。

合唱の存在感も適切で、これでこそわざわざ人声を組み込んだ意味があるというものだ。

ケーゲルはラヴェル作品としては「子供と魔法」を録音していたが、こちらの盤のほうがあらゆる面ですぐれている。

ケーゲルに鍛え上げられたオケの技量も素晴らしく、鳴っている音楽に耳を傾けて欲しい。

これほどまでに暗黒を感じさせるラヴェルは他に無いだろうし、これからも生まれないだろう。

ラヴェル・ファン、ケーゲル・ファンのどちらにも聴いてもらいたいCDである。

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このケーゲル盤の演奏は、オーケストラの表出する熾烈なまでの音響的インパクトが素晴らしく、このオペラならではの破滅的なまでに強烈きわまる音楽の醍醐味を存分に満喫することのできる名演だ。

古典作品の構造引用を睨みながらも、表現主義的なエネルギーを強烈に引き出した凄い演奏であり、「ヴォツェック」の決定盤はこのCDなのではないだろうか?

どう聴いても声楽台詞付き器楽曲のように聴こえるこの歌劇の最も精力にあふれた演奏。

ケーゲル&ライプツィヒ放送響の奏でるオーケストラの響きは、尋常ではない緊迫感を感じさせるものがある。

ケーゲルは冷静時代の東独という目立たない所で活動していたので、ついぞ脚光を浴びることはなかったが、これから大いに再評価されて欲しいものだ。

アバドやバレンボイムを凌駕する圧倒的情報量、鋭すぎるフレージング。

ブーレーズはこの曲を見事に整理したが、ケーゲルはより複雑に、怪奇に、カオスに、まさに今そこにある危機的状態を感じさせるものがある。

この音と音の壮絶なせめぎ合いを破綻させないのだから、やはりこの指揮者の力量は凄い。

これまでに聴いたアバドやバレンボイムの演奏が中途半端で生ぬるい演奏に聴こえるほどホットで、聴いていて耳が火傷しそうなほど熱い最高の「ヴォツェック」である。

冷徹なブーレーズ盤の対極にある演奏と言えるところであり、鋭利な刃物のような切れ味で、耽美的なところもあって、マーラーのようなシニカルなところもありながら、ショスタコーヴィチのような光と影のコントラストを感じさせるところもある。

「パルジファル」全曲やヒンデミットの管弦楽曲も凄かったが、この「ヴォツェック」はこのオペラの心眼に斬り込んでゆくような更なる凄みがある。

ここでのライプツィヒ放送響の最盛期におけるアンサンブルは充実を極めていて、あたかも狂気と耽美とが紙一重で共存するような、ギリギリの領域で音楽が進展し、その強烈ぶりに聴いていて惹き込まれてしまう。

言うなればシナリオの絶望感を、演奏の狂気感が超えていて、完全にとり憑かれている、という感じであろうか。

歌手陣も秀逸で、ライヴ録音ならではの緊張感があり、貫禄充分なアダムの主役を筆頭に、テンション高い歌手陣の頑張りも実演ならでは。

「三大性格テノールコンサート」の1人に入れてもいい、ハウプトマン役のヒースターマンの歌唱は最初から強烈。

マリー役のシュレーターは、ベーレンスやマイヤーよりは弱いかもしれないが、街の片隅に生きる「小市民」のマリー、どこにでもいるような「あばずれ女」のマリーとしてはイメージとして適合している。

どのキャストもまさに迫真の演技で、聴いているうちに自己の精神までも分裂してしまうんではないか、という恐怖感に苛まれてしまう程の凄演だ。

1973年のライヴ録音であるが鑑賞上で何ら問題の無い高音質なのもうれしいところだ。

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2014年07月11日


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ケーゲルは旧東ドイツでは、現代音楽と合唱曲のエキスパートとして著名であった。

彼は1978年から10年にわたってドレスデン・フィルの首席指揮者を務めたが、華々しく脚光を浴びることはついぞなかった。

しかし現代音楽の演奏では、明晰な解釈とある種エキセントリックな表現によって高い評価を受けていたことは間違いない。

当盤は、ヒンデミットの演奏で高い評価を得ていたケーゲルの代表的録音で、最初に聴いたときには衝撃を受けた。

「画家マティス」は、この曲のベスト演奏のひとつと言われているものであるが、筆者は「画家マティス」と「いとも気高き幻想」のどちらも最高の演奏と評価したい。

このヒンデミットの演奏は、ケーゲルの演奏スタイルを知る上では代表的なものとして挙げられよう。

主情的な見方は避け、曲のあるべき姿を正確に見極め、輪郭のはっきりした強靭なタッチでシリアスに描き出している。

「画家マティス」は作品に対するあたたかい共感を伝えるような演奏である。

ヒンデミットの精緻で目の詰んだ書法を重くもいかめしくもせず、柔軟と言えるほどの流動性をもたせて、しっとりと旋律を歌わせている。

自然なアゴーギクで音楽的な起伏をつくる構成もいい。

「いとも気高き幻想」も、のびやかな抒情性を表した好演。

これら両曲の異演盤では、例えば1995年のアバド&ベルリン・フィルの演奏と比べると、金管の音の豊かさが際立っている。

1本1本で聴けばやや不安定に思える所もあり、ベルリン・フィルの方が上に感じるが、オーケストラ全体としては、ドレスデン・フィルの方がまとまり感があって抜群に素晴らしい。

そのオーケストラのハーモニーを聴いていると、自分の耳の充実感がとても心地よく、思わずヒンデミット好きになったと感じてしまうほどである。

ケーゲルはこうした逸材であったにもかかわらず、東西ドイツ統一後、ブリテンの〈戦争レクイエム〉の録音を遺言のように残して自殺した。

ハイブリッドSACDの高音質録音も本盤の価値を高めるのに大きく貢献しており、各楽器の音が全体になじんでいて、オーケストラとしての一体感がある。

アナログレコーダーが編集に使用されているからであろうか、最近のSACDほどの透明感はないのだが、音のきつさは殆ど感じられなくなったと言ってよい。

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シューマンは、1980年10月、ブラームスは1988年11月、いずれもライプツィヒに於けるステレオ・ライヴ録音。

旧東独の鬼才、ヘルベルト・ケーゲルは前記のように近・現代音楽を得意としていたが、これはドイツ・ロマン派音楽の傑作を並べた名演集である。

ケーゲルのシューマンの交響曲第4番は手兵ドレスデン・フィルとのディスクは初めてで、シューマンの交響曲では何故か第4番のみを偏愛していた模様である。

わが国でもドレスデン・フィルとの伝説の来日公演で取り上げ、またNHK交響楽団とも至高の演奏を繰り広げた。

こんなに味の濃い第4番も珍しく、それは音楽が進むにつれてますます強まり、内燃の迫力は荒び、内容重視のドイツ人の魂の歌がほとばしる。

このシューマンの演奏は、N響のものよりはるかに受け入れやすく、自然な流れが感じられる。

ブラームスは、ケーゲルが特に愛情を注いだ交響曲第2番で、最晩年のライヴだけに、メロディを強調した個性的な遅いテンポが採用され、第2楽章の官能的な歌と熱情には驚かされる。

この第2楽章に関しては、和音部の管や低弦の響きに、他に味わえない幽玄な響きがあり、非常に深みのある味わい深い演奏になっていて、よく歌うだけでなくとても表情豊かだ。

この曲はケーゲルが愛奏した傑作で、既にライプツィヒ放送響との2種類の演奏が知られているが、最晩年の1988年、最後の手兵ドレスデン・フィルとの当演奏はロマン主義者ケーゲルの面目躍如たる粘るテンポとうねりを伴った超名演になっている。

ときには往年のクナッパーツブッシュを想起させる凄いテヌートも出現、コーダに至ってやっとアッチェレランドがかかるが、このトロンボーンの最強奏の威力は、オーケストラ全体の分厚さとともに体ごとぶっとばされそうな勢いである。

それまでのケーゲルとは一風変わった演奏であり、いずれも音色の美しいドレスデン・フィルだけに、素晴らしい仕上がりになっており、その引き締まった造形と情熱的なメロディ展開が素晴らしい。

テンポをゆったりととっていて重厚に歌わせていることは両曲ともに共通している。

両曲とも終演後の聴衆の拍手は盛大である。

録音も秀逸で、奥行きがあり、立体的かつ有機的、そしてパワフルなサウンドを味わえる。

ケーゲルを最も深く理解し分析して、世に広めてきた音楽評論家、許光俊氏による日本語解説も興味深い。

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近・現代の作品の演奏を得意としていたケーゲルのベスト・レコーディングのひとつ。

大方のケーゲルへの評価がそうであるが、ケーゲルは、20世紀前半の音楽が一番面白いようである。

この音盤は、そうしたケーゲルの演奏のなかでも、最も代表的なもののひとつで、ウェーベルンの主要な作品がほとんど網羅されている。

5曲とも大変素晴らしい演奏であり、ケーゲルの指揮ぶりは自信に満ち、どの曲を聴いても感性豊かな表現力に魅了される。

例えば、「弦楽合奏のための5つの楽章」は緊密な合奏力と艶のある美しい音の響きに強く惹かれるし、「大オーケストラのための6つの小品」もケーゲルならではの鋭角的に冴えた音の作り方も見事。

また、「オーケストラのための5つの小品」も打楽器の扱い方の巧さに彼独自の味がある。

他の2曲も文句のつけようがなく、ここにはケーゲルの真価が遺憾なく発揮されている。

やはりケーゲルは古典より近・現代の作品を振ってその真価を発揮できる指揮者であり、その中でも特に新ウィーン楽派の作品はケーゲルに合っていた。

独特の厳しさをたたえた演奏で、また、気迫というか妖気せまるものがある。

アントン・ウェーベルン、あるいはウェーベルン=ケーゲルというべきか、創造のひとつの極致であるウェーベルンの音楽が、ケーゲルの手によって、まさに創造の極限として露わにされている。

音楽という日本語が含んでいる、どこか甘い雰囲気をたたえた言葉を遥かに越えて、いや、それとは別の次元に立ってというべきかもしれない、ここでは創造の現実が我々の日常的現実性を突き破って超然としているのだ。

前世紀の音楽で異彩を放つケーゲルを鬼才と呼ぶかどうかは聴き手次第とも言えるが、ケーゲルがこうした音楽で見せる作品の透視術のようなものは、彼独特のものである。

それは、2つの大きな大戦を引き起こした大きな時代の波の動きもさることながら、技術や経済の急速な発展、国境や民族の境を超えた価値観の多様性と急激な変化、そして、そうしたものが瞬時にして世界の隅々まで波及することによる、我々のごくごく普通の人々の日常生活への影響、精神的な苦痛のような前世紀の時代の特徴をケーゲルがその肌で感じ取ったままを演奏に込めているように思う。

演奏する作品群と同じ時代に生まれ、生きた指揮者だからこそ、こうした作品群を最も赤裸々に表現できたというのが筆者のこの音盤でのケーゲル評である。

終始どこか不安定さを感じる演奏、それまでの穏やかを瞬断して何の前触れもなく突如現れる強奏、誰かが物陰からこちらをずっと覗き見ていることに気づいたときのような気持ち悪さに似た相容れないものの同時進行性のようなものを感じる。

期待感を持ってどんな演奏か想像はしてみるが、やはり聴いてみないと実像・結果がわからないといった一種のスリリングさを感じるところにケーゲル演奏の醍醐味がある。

そういったケーゲルの指揮するウェーベルンの作品どれも面白く興味が尽きない演奏で、これらの作曲家の作品を避けていた人には真っ先にお薦めしたいディスクだ。

ドイツ・シャルプラッテンの音源からハイブリッドSACD化した高音質録音も、本名演の価値を高めるのに大いに貢献していることを忘れてはならない。

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2014年07月09日


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第7番「レニングラード」の凄演で知られるケーゲルのショスタコーヴィチを7曲収めたBOXセットで、ムラヴィンスキー以外の最重要解釈者、ケーゲルのショスタコーヴィチ完結編。

このセットは1958年から1986年までのライヴ録音をまとめたもので、第4番と第11番はモノラルであるが、他の5曲はステレオ録音で、特に1986年の第5番は良い状態となっている。

東独の指揮者だったケーゲルは、同盟国ソ連の作曲家ショスタコーヴィチの作品をよく演奏していた。

現代音楽を積極的に取り上げる合理主義、理知的な音楽作りを一面として、本来はロマンティックな嗜好が強い指揮者であり、思い入れの強かったマーラー、ショスタコーヴィチでは、憧憬を隠そうともしない蠱惑的な演奏を繰り広げることでも知られる。

演奏記録からもケーゲルのショスタコーヴィチへの偏愛は窺われるが、特に演奏年代に注目していただきたい。

第11番に至ってはラクリンによる世界初演、ムラヴィンスキーによるレニングラード初演から半年も経たぬ1958年の演奏である。

モノラルとはいえムラヴィンスキー盤を上回る良好な音質で、その切実な音楽表現はトーンクラスターに陥らぬ、ケーゲルの個人的思い入れすら感じられる、熱く魅力的な超名演だ。

第4番はコンドラシン初演の2年後の録音も存在するが、演奏内容はフィナーレに一工夫も二工夫もある1969年ライヴを採りたい。

元来ステレオ録音されたもののトラックダウンで(ステレオ録音は残念ながら廃棄された模様)、分離の良い素晴らしい録音である。

現代では、大規模大音量交響曲として、多くの指揮者が取り上げているが、この時代に2回もの演奏に固執したケーゲルの先見性には頭が下がる。

壮年期のケーゲルならではの異常なまでの切れ味が作品の持ち味と合致して痛烈な仕上がりになっている。

ベルリン芸術週間(もちろん東ドイツの)における高揚したエッジの効いた強烈な表現に、ケーゲル晩年の特徴である虚無的な雰囲気も感じさせる独特の音楽づくりが印象的な第5番は、東のベルリン芸術週間での演奏ということもあってか、終楽章のコーダになぜか鐘が加えられていることもポイントで、『ボリス・ゴドノフ』を彷彿とさせるその巨大な響きは実にユニーク。

この第5番を聴くだけでも購入の価値ありと言いたいところであるが、他の6曲も聴き応え充分な内容だ。

オペラティックな趣のある第6番、スタイリッシュでセンス抜群な第9番(第6番と第9番は作品のパロディ的性格をシニカルに表している)、ドイツ語版ゆえにクールな感触が際立ち、「大地の歌」を想起せずにはいられない第14番「死者の歌」、緊迫感みなぎる冷徹演奏が作品の真価をシリアスに示しザンデルリンクの独壇場を脅かす恐怖演奏の第15番と、どれも高水準な内容となっている。

西側では知られていないだけで、実は最重要ショスタコーヴィッチ解釈者であった、巨匠の遺産である。

隅々まで注ぎ込まれた英知があり、聴き込んだファンほど納得することは間違いなしと言える。

ケーゲルも草葉の陰でこのリリースをさぞかし喜んでいることであろう。

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2013年07月03日


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ユニバーサルやEMIが揃ってSACD盤の発売に積極的になってからというもの、一時は瀕死の状態にあったSACDが急速に脚光を浴びるようになったというのは、パッケージメディアの良さをあらためて認識させるという意味において、大変喜ばしいことである。

そうしたSACD復活の流れの中で、大指揮者による数々の来日公演のCD化で定評のあるアルトゥスレーベルが、先日のムラヴィンスキーの来日公演(1973年)のCD2点を皮切りとして、シングルレイヤーによるSACD盤の発売に踏み切ったのは、何という素晴らしいことであろうか。

アルトゥスレーベルによるSACD化第2弾として、何を発売するのか筆者としても非常に興味を抱いていたところであるが、今般選ばれた音源は、いずれも文句のない歴史的な名演揃いである。

第2弾の2点のSACD盤のうち、もう一つのSACD盤に収められた、ヨッフムの死の半年前の来日公演のブルックナーの交響曲第7番及びモーツァルトの交響曲第33番も、歴史的とも言うべき超名演であるが、本盤に収められたケーゲルによるベートーヴェンの交響曲第5番及び第6番についても素晴らしい名演であり、その価値においてはいささかも引けを取るものではない。

そして、本演奏もケーゲルの死の1年前の来日公演の貴重な記録であり、アルトゥスレーベルによる第2弾の音源の選び方にも、なかなかの工夫がなされているという好印象を受けたところだ。

ケーゲルは、独カプリッチョレーベル(現在は解散)に、手兵ドレスデン・フィルとともにベートーヴェンの交響曲全集をスタジオ録音(1982〜1983年)しており、それもケーゲルの名を辱めることのない名演であると言えるが、本盤の演奏とは比べ物にならないと言えるだろう。

それにしても、本盤の演奏はとてつもなく凄い演奏だ。

筆舌には尽くし難い演奏というのは、本演奏のようなことを言うのであろう。

本演奏には、生きるための希望も、そして絶望も、人間が持ち得るすべての感情が込められていると思われる。

「田園」の第1楽章の超スローテンポや、第5番の終楽章の大見得を切った表現など、個性的な解釈が随所に聴くことができるものの、全体としては、表向きは淡々と音楽が流れており、加えて平静ささえ漂っているだけに、嵐の前の静けさのような不気味さを感じさせる演奏とも言えるところだ。

翌年には自殺を図るケーゲルが、どのような気持ちで本演奏を行ったのかは不明であるが、そうしたケーゲルの悲劇的な死を我々聴き手が知っているだけに、余計に本演奏にとてつもない凄みを感じさせるのかもしれない。

併録の「エグモント」序曲やバッハのG線上のアリアも名演であるが、特に、凄いのはG線上のアリアであろう。

一聴すると淡々と流れていく各旋律の端々には、ケーゲルの救いようのない絶望感を聴き取る(というか感じ取る)ことが可能であり、まさに我々聴き手の心胆を寒かしめる演奏と言っても過言ではあるまい。

いずれにしても、本盤は、演奏の素晴らしさ(というよりも凄さ)、そして極上の高音質という、望み得る要素をすべて併せ持った至高の名SACDと高く評価したい。

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2013年04月12日


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ハイドシェックとケーゲル、一見水と油のように思われるかもしれないが、経験豊富なケーゲルゆえに上品で的を得た伴奏振りで奇才ハイドシェックをサポートしている。

ハイドシェックの個性豊かな表現にぴったり寄り添うさまは、暴君ケーゲルのもうひとつの特徴でもある。

ハイドシェックの演奏は個性的というか癖があるので、筆者もハイドシェックの演奏全てが好きという訳ではないが、この第22番は素晴らしいと思う。

モノーラルなのが残念だが、ピアノの音は綺麗で、所々で夢心地にさせられる。

ハイドシェックのモーツァルトのピアノ協奏曲では、ヴァンデルノート指揮の第23番と共に筆者の愛聴盤である。

第40番はPILZ盤より、ずっと年代の新しい演奏で別人のような仕上がりのよさを見せている。

筆者もさまざまな第40番を聴きあさったが、それらの中にあって、このケーゲル盤も耳にする価値の十分ある1枚と言える。

基本的にはクールで、音のタッチは冷たいが、その中に一本キリリと通った意思の強さに襟を正されるような重みがある。

テンポは普通かやや速めで、切り詰められたオケを自在に操り、研ぎ澄まされた演奏を聴かせる。

特にメヌエットの独創的解釈は故ヴァントと並ぶもので、ケーゲルが自殺を思いとどまり、今なお健在ならばと悔恨を新たにさせられる。

モーツァルトの音楽の即興性とか微笑みとかを期待する向きには薦められないかもしれないが、他では聴けない独特の味わいがあるのは確か。

是非一聴を薦めたい。

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2012年11月22日


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このような超個性的な名演を発掘した東武レコーディングズの快挙である。

マーラーの「第7」は、場面の変遷が激しく、大変音符の多い楽曲だけに、うまく纏めるのが難しい交響曲である。

ケーゲルは、全体として、各旋律の輪郭をはっきりさせ、幾何学的に計算され尽くしたアプローチを行っているが、それでいて劇的な迫力や情感の豊かさにもいささかの不足はなく、相反する要素を高次元でコラボさせた稀有の名演と言うことができるだろう。

第1楽章は、粘るようなテンポ、アッチェレランドの駆使、そして効果的なゲネラルパウゼが実に印象的である。

特に、中間部のゆったりとしたテンポによる抒情豊かな演奏は、これこそ「夜の歌」というべき深沈たる雰囲気に満ち溢れている。

第2楽章は、実に生真面目な演奏だ。

しかしながら、そこから漂ってくる何と言う不気味さ。

これは夜想曲ではなく、まるで死神のワルツだ。

各楽器の響かせ方は、カウベルの力強さも相まって、独特の不気味な雰囲気を醸し出すのに大きく貢献している。

第3楽章は速めのテンポで、一聴すると何でもないように演奏しているが、スパイスの効いた各楽器の生かし方は超個性的だ。

特に、中間部のテンポ設定は独特で、終結部のトロンボーンの力奏や、ラストのティンパニの一撃の凄まじさなど、初めて聴くような場面が連続する。

第4楽章は、それまでのシリアスな雰囲気とは一転して、官能的な夜の世界が出現する。

冒頭の独奏ヴァイオリンの極端なグリッサンドや、ホルンの甘いヴィブラートなど、情感過多な妖しい世界に聴き手を導いていく。

この過激とも言える濃厚な表現こそ、世紀末芸術家マーラー演奏の醍醐味と言うべきである。

終楽章は、ここにきてケーゲルの秘められたパッションが大爆発。

中途でのテンポの激変や猛烈なアッチェレランドなど個性的な解釈をふんだんに駆使して、圧倒的な迫力のうちに大団円を迎えるのである。

東京都交響楽団は、若杉やインバル、ベルティー二に鍛え抜かれた我が国最高のマーラー・オーケストラと言えるが、本演奏でもケーゲルの個性的な棒にしっかりと応えている点を高く評価したい。

演奏終了後の熱狂も当然で、演奏会場にいた聴衆に羨望の念を禁じえない。

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2011年07月28日


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ケーゲルは近頃いろいろなライヴが発掘された。日本での最晩年の演奏とか、ショスタコーヴィチとか、魅力的なものが陽の目を見た。

けれども、今なお、「パルジファル」はケーゲルの最高の演奏のひとつであり続ける。

ともかく、オーケストラの響きが明晰をきわめ、かつ美しい。ほのかに青がかかったガラスのような響きだ。まったく曖昧なところがない。バス声部はもったいぶらず、いきいきと動き、響きはたっぷりしたままに軽快ですらある。

だから、全体が精悍で引き締まった印象になる。CD3枚になっているが、とても快適なテンポである。鈍くならない。押しつけがましい和音で威圧したりしない。アンフォルタスの苦しみを表す場面など、しばしば引きずるような演奏になりがちだが、全然そうではない。ひとことで言えば、自分の視力がよくなった気がする。

1970年代の脂がのった名歌手の競演もすごい。若々しい美声で全体を歌い通すコルトのグルネマンツ。コロの凛としたパルジファル。このふたりの力によって、「パルジファル」がまるでベルカント・オペラのように快楽的なものになる。

第1幕など、事実上、グルネマンツのための音楽だが、惚れ惚れと聴ける。おいしい水のように楽々と体の中に入ってくる。

それに合唱もすばらしく鍛錬されていて、黄金のハーモニーを聞かせるのだ。

極端な話、ストーリー、思想を知らずともよい。ただただ音楽の見事さに身を浸すだけで満足感を得られる演奏だ。オーケストラ、ソロ歌手、合唱、ここまでの水準で揃った録音は他にない。音質もいい。

つまり、ケーゲルの「パルジファル」は、重々しさに欠けていないのに躍動感があり、感覚的に磨かれているのに皮相ではなく、明晰でありながら味気なくならず、・・・そういう妙なるバランスを持っている。

驚いたことにライヴ録音だが、おそらくこの演奏会のためにたいへんな準備がなされたことであろう。

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2011年04月10日


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ケーゲルは東独の指揮者には珍しくレパートリーが広く、ストラヴィンスキーをはじめ、ヒンデミット、ヴェーベルン、ノーノなども録音しているが、フランスものはこれが初レパートリー。

典型的なドイツ風な演奏でも、この曲が充分説得力のあるものであることを立証した1枚。

ベルリオーズは、リスト、ワーグナーに通じるロマン主義音楽の始祖であって、後世への影響を考えれば、このような解釈があっても不思議はない。

全体に重く、暗い印象が伴うのはその1つの表れだ。

ともかく暗い音楽を聴いてのたうちまわりたい人にはあの世に脚を一本つっこんでいるかのような演奏が超印象的なこの録音を推薦。

ベルリオーズをフランス音楽のアングルからばかり捉えてきた考え方に対しては警鐘となる演奏であり、幻想交響曲の1つの在り方を示唆した録音だ。

ケーゲルは、ロマン的情熱のかけらもなく、常ながらの死体的音楽を展開する。

死体的音楽とは有機的連関を欠いた音楽ということ。

死体は、生の有機性を失い、無機物と化しているゆえ死体であり、ケーゲルの《幻想》も、音楽をタテにもヨコにも細分化し、個々の響きを扱いぬこうとする姿勢に於いて、まぎれもなく死体的である。

おまけにこの録音、終楽章の鐘の音が怪しい。錆びついた大鐘を無理やりぶっ叩いたような感じの響きがする。とにかく澱んで濁った大きな音だ。

というわけで、ケーゲルの《幻想》は結局、死体のように無機的に鳴り続ける管弦楽と怪奇な大鐘の響きの織り成す、この上なく猟奇的な一編となる。

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2011年04月05日


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この《戦争レクイエム》の録音からほどなくして、ヘルベルト・ケーゲル(1920-90)は自殺した。

旧東独にあって果敢にも前衛作品を擁護したケーゲルが、旧東独の崩壊直後、自らの命を絶ったのは今では謎である。

小説家で自ら命を絶つのは数多けれど、指揮者でピストル自殺なんて本当に珍しいのは、おそらくこの職業が人をも恐れぬ鉄面皮でなくてはやっていけないからだと思うが、ともかくケーゲルはひどい躁鬱だったらしい。

いわば芸術的遺言となってしまったこの録音は、何らかの暗示なのだろうか?

それを汲み取れとばかりに演奏は鋭く、厳しい。

怒りに憑かれたようなこの演奏には寒気を感じるが、聴き手を滅多にない音楽体験に浸らせる。

目が血走ったような熱狂と、見るものを石に変えてしまうような冷やかさが同居し、こんな演奏が表す心象風景とはいかなる地獄図だったのかと思って、ケーゲルに共感させられてしまうのだった。

キビキビとした声楽パート、しかしヒタヒタと胸を打つ歌わせ方だ。

声楽を伴った交響作品には見事な手腕を発揮したケーゲル(マーラーやノーノの名演を聴け!)の持ち味と力量が全開した観。

名演の多い同作品だが、この演奏は「オレは命をかけたんだぜ」とばかりにニラミを利かせる。

ケーゲルは不滅だ!!

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2010年12月26日


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ケーゲルは、古典派、ロマン派の作品とともに、20世紀音楽の良き理解者の1人として知られている。

ケーゲルは主に近代・現代音楽の演奏を得意とする人で、こうしたストラヴィンスキーの作品も彼のレパートリーのうちのひとつである。

ここには彼のそうしたキャリアがよく生かされ、リズムのアクセントは明確で、全体にシャープな音楽作りを行っている。

しかも、そうした中に、近代的ロマンティシズムや豊かな色彩も感じさせる。

これら2枚のディスクに収録された曲の中では、協奏曲《ダンバートン・オークス》が、そうした彼の持ち味がよく表れた演奏だ。

ストラヴィンスキーがアメリカに滞在中の1938年に作曲された作品だが、ケーゲルは、バロック時代の様式で書かれたこの曲を、明確かつ精巧に仕上げている。

《プルチネルラ》は小編成による演奏で全体を室内楽風にうまくまとめているし、《うぐいすの歌》にも独特の音色の表現が感じられる。

ストラヴィンスキーの音楽はいつだって機械仕掛けの人工楽園だ。

それは、主情的な思い入れのある音楽、血の通った音楽なんてものの対極にある。

血沸き肉躍るバーバリズムとよく言われる《春の祭典》にしても、ゴジラだと思い一皮めくると実はメカゴジラという種類の音楽だろう。

それは原始風に作られた人工楽園なのであって、原始そのものとは違う。そこを間違え熱血演奏をやると空回りする。

人工楽園はあくまで細密に冷静に再現されねばならない。

そういった点で、やはりケーゲル盤にとどめをさす。この冷血漢にはもっとストラヴィンスキーを録音しておいて貰いたかった。

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2010年01月19日


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酒、女、歌など、中世人の喜怒哀楽を歌っている。簡潔にして雄弁、これぞ作曲家一世一代の天才的な作品だ。

この曲については、一部愛好家の間で、ヘルベルト・ケーゲル指揮(2種類あるが、1960年録音のほう)の演奏が珍重されてきた。

確かに珍重に値する演奏である。

異常な興奮状態で白熱の限りをつくし、まともな精神状態とは思えないほどだ。

普通の演奏家のレッドゾーンをとっくに振りきっている。

ことに「芝生の上で」の諸曲はまさに眼前に中世人の祝祭が見せられるがごとく溌剌としている。

熱狂、滑稽、泥臭さというかイモっぽさ、生々しい欲望……それらが絶妙に配合されている。

演奏者の血が騒いでいるのがはっきりわかるし、子供ならこれに合わせて踊り出すこと間違いなしだ。

歌手が決して超一流でないところも味わい深い。その辺のお兄ちゃんが声をからして大熱演のNHKののど自慢的品のなさが、曲にピッタリ。

しかも、そのような生の歓喜をさんざん謳歌したあとに、思いがけず、あの冒頭の「運命の女神よ」が不気味な恐ろしさで回帰してくる。

いくら楽しくても、運命の采配に対して人間は無力なのだと改めて確認される、その戦慄。

スバリ、ここがこの曲のキモであり、チャイコフスキーやマーラーと共通するところなのだ。

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2008年08月06日


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名曲である。ノーノ屈指の傑作にもかかわらず、現在の評価は芳しくない。

この演奏にしてもしかり。ケーゲルという凄腕の指揮者がかつて存在したことさえ、今は忘れられつつある。しからば、あえてこの演奏を後世に伝えなければならぬ。

「力と光の波のように」は常にポリティカルな主張を内容とし、当時の前衛手法(クラスター及びテープ)を駆使した硬派なつくりである(ピアノとオーケストラにソプラノと電子音が加わる)。

すでにアバドとポリーニによる録音が存在したが、作曲家自身の強い要望により実現したいきさつがある。

ケーゲルのいささか表現主義的な彫りの深い表現と強い推進力を得て、きわめて表出性の高い音楽に練り上げている。

ノーノの作品は政治的な問題をテーマとしたものが多く、「墓碑銘」はスペイン内戦と関わっており、スペインの抵抗詩人ロルカの詩をテクストとしている。

また「力と光の波のように」は、チリの人民連合によるアジェンデ政権の誕生と関わっている。

政権はこの曲の完成した翌年に崩壊したが、これらの作品は、今日でも強い表出力をもって聴き手に迫ってくる。

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2007年12月13日


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マーラー第1番の演奏には、たとえば、ワルター盤、バーンスタイン盤など名盤が目白押しで、初めて聴いたのはアンチェル盤であったが、実は筆者が最もよく聴くのが、このケーゲルのCDである。

ケーゲルは、一部クラシックマニアの間でカルト的な人気を誇っていて、彼らに絶対外せないのが、ビゼーの「アルルの女」組曲とヴィヴァルディの「協奏曲集」、そしてかつて駅で売っていた安売りCDに1曲だけ収録されている「アルビノーニのアダージョ」である。

聴いた人はすべて「なぜ自分は生きているんだろう?」と問いかけ、死を考えるという暗い演奏ばかりで、落ち込んでいるときに聴いたら危険な音楽なのだ。

それ以外にも、マーラーの第4番、ベルリオーズの「幻想交響曲」、ムソルグスキーの「展覧会の絵」、ベルクの救いのないオペラ「ヴォツェック」、ドイツ語版で不思議なビゼーのオペラ「カルメン」などもお薦めだ。

さて、ケーゲルのマーラー第1番だが、彼の演奏はマーラーのスコアをきわめて緻密に再現し、かなり分析的な傾向が強い。

しかし、この演奏には独自の重苦しさや暗さがあり、楷書的といえるもので、このようなマーラーはほかではあまり聴けない。

その意味では興味深いものがあるが、やはり独特の演奏と感じられる。

なによりも第4楽章では、驚異のアインザッツで奏でられる14分前後の演奏は、ブルックナーのアダージョのように、魂が浄化されていく過程を体験できる。

ケーゲルは、東ドイツのライプツィヒ放送響やドレスデン・フィルの首席指揮者に君臨し、膨大なレコーディングを残したが、1990年、ベルリンの壁の崩壊の後、ピストル自殺をした。

70歳であった。

自由化後の仕事に不安を持ち、鬱状態だったともいう。

オーケストラをひとつの楽器のように完全にコントロールする能力はカラヤンに匹敵すると思うし、そこで表現される音楽は、カラヤンよりもずっと深淵で、ときに危ないものだった。

現在の海外ビジネスマンのようなスマートで薄っぺらな指揮者が多い中で、生きていてくれれば貴重な存在になったはずである。

慰めにはならない、死と向き合う音楽だ。

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2007年10月16日


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ヘルベルト・ケーゲルは1990年の自殺を機に発見された指揮者である。

作家の自殺はよくあるが、意外と音楽家の自殺者は少ない。

よって注目せざるをえなかった。

特に日本では、許光俊氏が熱心に紹介していたこともあり、次第に興味を関心を持って良さそうなのを次々と購入していった。

筆者は許氏が絶賛するほどのめりこめないでいるのだが、確かに数枚のCDは瞠目させられるユニークな演奏だった。

この指揮者は躁と鬱のコントラストの激しい音楽作りをするのに、アンサンブルは完璧なのである。

こういう芸風はちょっと珍しい。

第一の推薦盤はショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」。

しかし正直な話、もの凄い曲であり、演奏であるには違いないのだが、こんな酷薄極まりない演奏を人に薦めていいものかどうかというためらいが消せない。

知らないですめば知らない方がその人にとっては幸せかもしれないからだ。

しかし、指揮者は自分の真剣を押し通すのが芸術である。

ここまでやらなければいけないというところまで突き進むのが芸術である。

そういった意味であえて紹介させてもらった。

ちなみに、筆者がF研の友人の結婚式の祝辞を述べる時に、その新郎がある音楽をかけるから、と言って本番まで内緒にされた。

そして本番当日祝辞を述べ始めて流れてきたのが、ケーゲルの「G線上のアリア」だった。

この曲はそれこそ「カラヤン・アダージョ」に入っているように安らぎに満ちた曲のはずだ。

ところが、ケーゲルの演奏は普通では考えられないような憂愁と寂寥の味わいが一貫していた。

酒が入ってたからあまり気にしなかったのだが、家で聴くと悲痛と凄惨を尽くした演奏なのである。

何故友人がよりによってケーゲルの演奏を選んだのか未だ謎である。

かつて筆者はその理由を問い詰めたのだが、笑ってごまかされた。

何か深い意味でもあったのか? 次回会う時はしつこく訊ねてみようと考えている。

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