ベーム
2023年03月13日
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R.シュトラウスと親交があった往年の巨匠カール・ベームによる《英雄の生涯》を収めたSACD盤。
ベーム晩年の落ち着いた音楽運びが描く雄大なスケールと、一昔前のウィーン・フィルらしいふくよかなサウンド、そしてヴァイオリニスト、ゲルハルト・ヘッツェルが添える色どり等、古き良き時代の音がする名演。
かつて筆者は、本盤の《英雄の生涯》を1980年代に発売された初期西独プレスのCDで聴いたことがあるが、あまりのつまらなさに途中で聴くのをやめたのを思い出す。
というのも、いかにも晩年のベームの欠点が露呈した硬直化したテンポによる鈍重な印象を受けたからであり、それ以降、筆者のCD棚に眠ったままであった。
ベームの《英雄の生涯》については、本盤の3年前にバイエルン放送響とライヴ録音したオルフェオ盤があり、ライヴならではの熱気もあって、筆者はそちらの方を愛聴してきた。
しかし、先般SACD化され、飛躍的に音質が向上した本盤を聴いて大変驚いた。
そこには鈍重さなど微塵もなく、堂々たるインテンポによる巨匠の至芸を大いに感じたからである。
全体にテンポは遅めであり、《英雄の生涯》を得意としたカラヤンの名演のように、ドラマティックとか華麗さとは全く無縁であるが、一聴すると何らの変哲もない曲想の中に、晩年のベームならではのスパイスの効いた至芸を垣間見ることができる。
深々と暖かく柔らかな響き、そして貫祿を備えた滑らかな堂々たる音楽の進行、完熟期ベーム&ウィーン・フィルならではの《英雄の生涯》である。
ベームは分厚いオーケストレーションを丁寧に捌きながら音楽を重層的に響かせているが、それがオケの美質を最大限に生かす結果に繋がっている。
よく聴かれるこれみよがしの大げさな表現は無く、なんとなく聴いていると地味だし冷静すぎると思う人もいるかもしれない。
しかし、繰り返しと聴く度に実に素晴らしく、音楽の流れに自然に従っているように聴こえるのはまさに練達の演奏ぶりと言えるだろう。
派手になりすぎないところがベームのR.シュトラウス演奏の極意であり、自己顕示欲の塊のようなこの曲のいやらしさが感じられないくらいで、だからこそこの演奏は古びないのであろう。
ベームの的確な解釈と重厚な演奏は、作曲家と親交のあった彼ならではの作品となっている。
一例をあげると「英雄の業績」。
ここは、R.シュトラウスの過去の楽曲のテーマが回想されるが、ベームはここで大きくテンポを落とし、主旋律を十分に歌わせながら、《ティル》や《死と変容》、《ドン・ファン》などの名旋律を巧みに浮かび上がらせており、この老獪ささえ感じる巧みな至芸は、他のどの演奏よりも素晴らしいと言えるだろう。
ベームの晩年において、自分の友人であったR.シュトラウスの作品を用いて過去を振り返るという懐古的雰囲気をあえて表現した、というべきであろう。
さらにこの時代のウィーン・フィルの音色も魅力的で、特に朗々たるホルンの響きは今や聴くことができないものと言える。
ベームが最も信頼した名コンサートマスターのヘッツェルのソロが聴けるのも、本盤の価値を大いに高めることに貢献している。
音質は前述のように従来盤とは段違いに素晴らしく、鮮明さ、音場の幅広さ、音圧などのどれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためて本演奏の素晴らしさとSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。
いずれにしても、ベーム&ウィーン・フィルによる名演を現在望みうる最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2023年03月11日
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清冽な活気と優美な楽想を備えた珠玉の名作第13番、駅馬車用のポストホルンが巧みに用いられているところから標題が付された第9番、モーツァルトのセレナードの中でも特に人気の高い、美しい旋律が次々と流れてくる2曲を、カール・ベーム指揮による2大オーケストラで、音楽の本質をしっかりと捉えた瑞々しい演奏が繰り広げられている1枚。
ベームが晩年に残した、モーツァルトのセレナードやシュトラウスのワルツなどは本来の喜遊性が後退していて、よりスケールの大きな管弦楽曲としての高い完成度を目指した「志」の高い作品となっている。
全曲を通じて中庸の美を頑固なまでにわきまえ、整然とした秩序の中に表現されたセレナード集で、遊びを許さないベームの生真面目な性格が良く表れている。
「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」のように、ごくポピュラーなレパートリーにおいてもウィーン・フィルの自然発生的な歌心の流出はやや抑えられて、洗練された音楽性と古典派特有の形式美の表出のほうが勝っているが、こうした解釈が聴き古された名曲にかえって新鮮な印象を与えているのは指揮者の力量の示すところだろう。
この曲をベームとウィーン・フィルは楽しく、慈しむように演奏しており、その一糸乱れぬ演奏から、指揮者とオーケストラの一体感も伝わってくる。
そしてベームはこの作品を自分の最も身近なところに引き寄せ、最大の愛情をもって暖かく可愛がるように指揮しており、まさに心を開いた音楽を聴くかのようである。
ウィーン・フィルがベームと心をひとつにした演奏を聴かせており、優雅でしかも洗練された美しい音色に心もあらわれる。
ライナーノートによれば、この曲が録音されたのは、ベームとウィーン・フィルがモーツァルトの管楽器のための協奏曲集やベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」を録音した後、その仕事をなし終えた満足感のなかで、「さらに音楽したい」という気持ちがこの演奏となり、「音楽する喜びにあふれている」とあるが、優しさのこもった名演奏だと思う。
枯れたといった形容は全く当てはまらない、格調高く、かつ音楽への愛・創作活動に携わることへの喜びに満ちている。
ただ、1974年というベームの演奏のリズムにやや硬直化が見られ始めた時期の録音でもあり、やや生硬さが感じられるのが唯一の難点と言えるだろう。
無いものねだりながら、これがベームの壮年期に録音されていれば、溌剌とした運びに、ウィーン・フィルの魅力がブレンドされ、さらに魅力的だったろう。
一方「ポストホルン」は1970年という録音時期もあり、モーツァルトの多彩でシンフォニックなオーケストレーションを遺憾なく再現した精緻で、しかも力強い指揮ぶりが冴えている。
ベームならではの厳しい造型の下、ベルリン・フィルならではの重厚さを生かしつつ、モーツァルトならではの高貴な優美さを兼ね備えた稀有の名演だと思う。
細部まで厳しく仕上げるベームの指揮、一流ソリストの集団のようなベルリン・フィルの演奏、クリアにして重厚な音質のグラモフォンの録音、どれをとっても極上だ。
ベームとベルリン・フィルの息の合った演奏が聴けて、ベルリン・フィルの弦の響きがいつもより柔らかに聴こえるのは、ベームの指揮によるものかと思ってしまう。
これも聴きどころいっぱいの曲であるが、第3楽章と第4楽章のフルートとオーボエの掛け合い、第6楽章のポストホルン(郵便馬車のホルン)の演奏などがハイライトと言えようか。
ゴールウェイとコッホという当時のベルリン・フィルのスター・プレイヤー同士の華麗な掛け合いや、アイヒラーによる艶のある朗々たるポストホルンの吹奏も実に素晴らしく、ソロの美しさと巧妙なアンサンブルが本名演により一層の華を添えている。
ベームのモーツァルト指揮者としての真価を知るには格好の1枚であり、モダン楽器による演奏の代表として今後も愛聴されるだろう。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2023年02月24日
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1977年3月2日 NHKホールに於けるベーム&ウィーン・フィルによるオール・ベートーヴェン・プログラムのコンサートの記録である。
「田園」が白眉だ。
当コンビは1971年にスタジオ録音しており、既に定評のあるものだったが、こちらでは、さらに音楽に余裕がある。
第1楽章が端正なのは前述の録音と変わらないが、第2楽章が驚くほど陶酔的になっている。
1971年録音が楷書なら、こちらはやや草書に傾いたという感じであり、弦楽器も木管楽器も心ゆくまで歌っていながら崩れず、弱音の陰った響きも実にいい。
第3楽章から第4楽章「嵐」への音楽の急変も、まったく乱暴ではないのに半端でない迫力があって、立派そのもの、雄大そのものだ。
全体が自然に流れつつ、怠惰でも無関心でもなく、姿勢がよく、幸福感があり、オーケストラはひとつの楽器のように鳴っている。
本当によいワインは若いときに飲むと、苦くて、硬くて、愛想が悪いが、適切な熟成を経ると、別物のように柔らかく、やさしく、陶酔的になる。
これはベームとウィーン・フィルの熟成のピークに位置する演奏だったのだろう、完全に熟成を経たワインのように甘みも苦みも香りも渾然一体となっているこんな演奏は、ベームとウィーン・フィルでもなかなかできなかった。
この演奏の魅力のひとつは、闊達に歌うヴァイオリン群にあり、著しく耽美的でありながら気品があって、まさにこれでこそウィーン・フィルという演奏をしている。
当時、ゲルハルト・ヘッツェルという名コンサートマスターがいたからだ。
初心者のために説明すると、コンサートマスターとは、客席から見て、指揮者のすぐ左、最前列に座っているヴァイオリニストで、オーケストラ演奏において非常に重要な役割をしている。
世界で一番うまいと言われるベルリン・フィルですらコンサートマスターが交代するとミスが増えたり、音楽全体の緊張感が落ちてしまったりするのだ。
指揮者との相性も重要で、彼は「ウィーン・フィルにヘッツェルあり」とまで言われた名コンサートマスターであり、ベームとの相性も抜群だった。
彼あってこそ、このあまりに豊穣なヴァイオリン群、否、オーケストラ全体の歌が成立したのである。
残念ながらヘッツェルは山岳事故で急死してしまい、それ以来、ウィーン・フィルは凋落やむなきに至ったのである。
ちなみに同じ時代、カラヤンのベルリン・フィルにはミシェル・シュヴァルベというやはり稀代のコンサートマスターがいて、東西両横綱という感じだった。
もし、この録音にひとつだけ文句を言うとしたら、演奏終了後の拍手があまりにも早すぎるということだ。
まだ最後の音が響いているのに、ひとりのお客が気が狂ったように下品な拍手を始めるので、せっかくの音楽の美しさが台無しだ。
幸いなことに、現在では、日本の聴衆もここまでせっかちでなくなり、演奏後の静寂を味わえる機会も増えた。
いずれにしても、ベーム&ウィーン・フィルによる至高の超名演を、良好な音質で味わうことができるのを喜びたい。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2023年01月29日
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本盤に収められたシューベルトの交響曲全集は、ベームのいくつか存在している様々な作曲家による交響曲全集の中でも、モーツァルトの交響曲全集と並ぶ最高傑作と言ってもいいのではないだろうか。
そして、シューベルトの交響曲全集については、現在に至るまで様々な指揮者が録音を行ってきたが、ベームによる本全集こそはそれらの中でトップの座に君臨する至高の名全集と高く評価したい。
ベームは、交響曲第8番「未完成」及び第9番「ザ・グレート」については、本盤の演奏以外にも複数の録音を遺している。
交響曲第8番「未完成」についてはウィーン・フィルとの演奏(1977年)、第9番「ザ・グレート」についてはウィーン・フィルとの演奏(1975年東京ライヴ録音)やシュターツカペレ・ドレスデンとの演奏(1979年ライヴ録音)の方をより上位の名演に掲げたい。
むろん本盤の演奏もそれらに肉薄する名演であり、本全集の価値を減ずることにはいささかもならないと考える。
なお、LPの全集では収録されていた劇音楽「ロザムンデ」からの抜粋が収められていないのはいささか残念であるという点は敢えて指摘しておきたい。
本盤の演奏におけるベームのアプローチは、例によって重厚でシンフォニックなものだ。
全体の造型はきわめて堅固であるが、その中で、ベームはオーケストラを存分に鳴らして濃厚さの極みと言うべき内容豊かな音楽を展開している。
もっとも、ベームの演奏は必ずしも剛毅さ一辺倒ではなく、むしろ堅固な造型の中にも豊かな情感が満ち溢れており、いい意味での剛柔併せ持つバランスのとれた演奏と言えるだろう。
私見ではあるが、ベームによるシューベルトの演奏は、ウィーン風の抒情に満ち溢れた名演の数々を成し遂げたワルターによる演奏と、剛毅で古武士のような風格のあるクレンペラーの演奏を足して2で割ったような演奏様式と言えるのかもしれない。
そして、ベームのしっかりとした統率の下、素晴らしい名演奏を披露しているベルリン・フィルについても言及しておかないといけないだろう。
本演奏は、1963〜1971年のスタジオ録音であるが、この当時のベルリン・フィルは、終身の芸術監督カラヤンの下で、いわゆるカラヤン・サウンドに満ち溢れた重厚でなおかつ華麗な名演奏の数々を成し遂げるなど、徐々にカラヤン色に染まりつつあったところだ。
しかしながら、本演奏では、いささかもカラヤン色を感じさせることなく、ベームならではのドイツ風の重厚な音色で満たされている。
かかる点に、ベルリン・フィルの卓越した技量と柔軟性を大いに感じることが可能であり、本名全集に大きく貢献しているのを忘れてはならない。
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2023年01月28日
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本盤にはベーム&ウィーン・フィルによるブラームスの交響曲全集が収められている。
ベームは、本演奏以外にもブラームスの交響曲を単独でウィーン・フィルのほかベルリン・フィルやバイエルン放送交響楽団などと録音しており、全集という纏まった形でのスタジオ録音としては、本全集が唯一のものと言えるところだ。
本全集に収められた楽曲のうち、第1番についてはベルリン・フィルとの演奏(1959年)に一歩譲るが、その他の楽曲については、ベームによる最高の名演と言っても過言ではあるまい。
本全集を聴いていて思うのは、ベームの芸風とブラームスの楽曲は抜群の相性を誇っているということである。
ベームは、本全集のほかにも、前述の第1番の1959年の演奏や、バックハウスと組んでスタジオ録音したピアノ協奏曲第2番の演奏(1967年)など、圧倒的な名演の数々を遺しているのは、ベームとブラームスの相性の良さに起因すると考えられるところだ。
ベームの本盤の各楽曲の演奏におけるアプローチは、例によって重厚でシンフォニックなものだ。
全体の造型はきわめて堅固であるが、スケールも雄渾の極みであり、テンポは全体として非常にゆったりとしたものである。
そして、ベームは、各楽器セクションを力の限り最強奏させているが、その引き締まった隙間風の吹かない分厚い響きには強靭さが漲っており、濃厚さの極みと言うべき内容豊かな音楽を展開している。
かかる充実した隙間風の吹かない重厚な響きをベースとした質実剛健たる演奏が、ブラームスの各楽曲の性格と見事に符号すると言えるのではないだろうか。
演奏は、1975〜1977年のスタジオ録音であり、この当時のベームによる一部の演奏には、持ち味であった躍動感溢れるリズムに硬直化が見られるなど、音楽の滔々とした淀みない流れが阻害されるケースも散見されるようになる。
本演奏には、そうした最晩年のベームが陥ったリズムの硬直化がいささかも見られず、音楽が滔々と淀みなく流れていくのも素晴らしい。
また、各曲の緩徐楽章や、第2番及び第4番の緩徐箇所における各旋律の端々から漂ってくる幾分憂いに満ちた奥深い情感には抗し難い魅力に満ち溢れている。
これはベームが最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の清澄な境地をあらわしていると言えるのかもしれない。
併録のハイドンの主題による変奏曲における、各変奏曲の描き分けの巧みさは老巨匠ならではの圧巻の至芸と言える。
アルト・ラプソディにおいては、クリスタ・ルートヴィヒやウィーン楽友協会合唱団による渾身の名唱も相俟って、スケール雄大な圧倒的な名演に仕上がっていると評価したい。
そして、特筆すべきは、ウィーン・フィルによる美しさの極みとも言うべき名演奏である。
とりわけ、第1番第2楽章におけるゲアハルト・ヘッツェルによる甘美なヴァイオリン・ソロのあまりの美しさには身も心も蕩けてしまいそうだ。
いずれにしても、かかるウィーン・フィルによる美演が、ベームの重厚でシンフォニック、そして剛毅とも言える演奏に適度な潤いと深みを与えているのを忘れてはならない。
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2023年01月13日
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これは名演だ。
例えばバレンボイムのベルリン・フィル弾き振りによる演奏は、ソロとオーケストラが緊密に結びついたいわば高度の同質性が貫かれた名盤だが、この若きポリーニと最晩年のベームによる共演は、ソロとオーケストラの個性の違いが興味深い成果をあげた名演奏と言えよう。
ポリーニは、本盤から10年以上経って、アバド&ベルリン・フィルをバックに、2度目のベートーヴェンのピアノ協奏曲全集を録音したが、全く問題にならない。
2度目の録音は、アバド&ベルリン・フィルのいささか底の浅いとも言える軽い演奏と、ポリーニの無機的とも評すべき鋭利なタッチが、お互いに場違いな印象を与えるなど、豪華な布陣に相応しい演奏とは必ずしも言い難い凡演に成り下がっていた。
しかし1度目の録音におけるポリーニは、若々しく溌剌とした演奏でダイナミックに弾いており、聴いていて心地良い。
それに本盤の場合は、先ず何よりもバックが素晴らしい。
特に、この2曲は、ベーム&ウィーン・フィルという最高の組み合わせであり、その重厚なドイツ風の演奏は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲演奏の理想像の具現化と言えるだろう。
造型を重要視するアプローチは相変わらずであるが、それでいて、最晩年のベームならではのスケールの雄大さにもいささかの不足はない。
ポリーニのピアノも、ここではバックのせいも多分にあるとは思うが、無機的な音は皆無であり、情感溢れるニュアンスの豊かさが見事である。
第4番のポリーニは胸のすくようなテクニックで華麗に弾いており、透明なリリシズムが美しい。
ベームの指揮とともに、よく整い、よく磨かれ、やるべきことをきちんとやっていて、さらにそれを超えて迫ってくる個性の輝きがある。
「皇帝」のポリーニも同様だが、ベームの指揮はこの方が一段と充実しており、密度が高い。
ベームの指揮は決してテンポが遅いわけではないが、時に滑らかさに欠けると感じられるところもあるが、そこをウィーン・フィルの優美な音色が巧みに補完し、格調の高いオーケストラ演奏を生み出している。
その上に個々の音がクリスタルの輝きを放つポリーニのピアノが自由に泳ぎ回る。
典雅な趣きをたたえた第4番、古典的な側面をくっきりと描き出した「皇帝」といずれも傾聴に値する演奏だ。
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2022年12月24日
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これは素晴らしい名演だ。
30代半ばの若き日のポリーニと、80歳を超えた巨匠ベーム、そしてウィーン・フィルとの絶妙な組み合わせであり、演奏が悪かろうはずがない。
モーツァルトの楽曲の演奏については、近年では現代楽器を使用した古楽器奏法による演奏や、ピリオド楽器を使用した演奏が主流となっており、本演奏のような重厚にしてシンフォニックな演奏は稀少なものとなってしまった。
しかしながら、モーツァルトの存命していた時代の演奏の再現に無常の喜びを感じる音楽学者は別として、芸術的な感動という観点からすれば、そうした時代考証学的な演奏が一体どれほどの価値があると言えるのだろうか。
確かに、一部の指揮者による芸術性の高い演奏は存在はしているものの、その殆どは軽佻浮薄な演奏にとどまっていると言わざるを得ない。
そうした演奏の中にあって、本演奏がむしろ時代遅れなどではなく、むしろどれほどの光彩を放っているのかは計り知れないものがあるとも言えるところだ。
演奏自体は、年功から言っても巨匠ベームのペースで行われているというのは致し方ない。
モーツァルトを心から愛し、モーツァルトの交響曲、管弦楽曲、協奏曲、オペラの様々なジャンルにおいて名演の数々を成し遂げてきたベームだけに、本演奏においても、そうしたモーツァルトの楽曲との抜群の相性の良さが発揮されていると言えるだろう。
そのアプローチは、前述のように重厚にしてシンフォニック、演奏全体の造型は例によって堅固そのものであるが、スケールは雄大。
近年主流の軽佻浮薄なモーツァルトの演奏とは一線を画する壮麗さを誇っているとさえ言える。
それでいて、モーツァルトの演奏に必要不可欠な優美さや、時としてあらわれる寂寥感を感じさせる憂いに満ちた旋律もいささかの格調を失うことなく的確に表現し得ており、まさに、かつてのモーツァルト演奏の王道を行くものであると言っても過言ではあるまい。
ポリーニも、こうしたベームの偉大な演奏にただただ従っているだけにはとどまっていない。
卓越したテクニックや研ぎ澄まされた音の美しさは相変わらずであり、そうしたポリーニのピアニズムは随所に発揮されているとも言えるところだ。
それでいて、ベームの懐の深い指揮芸術に触発されたせいか、情感の豊かさにも不足はないと言えるところであり、一部の評論家が指摘しているような無機的な演奏にはいささかも陥っていない。
加えて、ウィーン・フィルによる極上の美演が、演奏に華を添える結果となっていることを忘れてはならない。
いずれにしても、本盤の演奏は、巨匠ベームと当時上げ潮にあったポリーニ、そしてウィーン・フィルによる絶妙の組み合わせが見事に功を奏した素晴らしい名演と高く評価したい。
そして、本盤で素晴らしいのはシングルレイヤーによるSACD&SHM−CDによる極上の高音質録音である。
音質の鮮明さ、臨場感、音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、とりわけ冒頭の繊細な美しさはこの世のものとは思えないような抗し難い魅力を有した響きである。
あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。
いずれにしても、素晴らしい名演をシングルレイヤーによるSACD&SHM−CDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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2022年12月10日
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ベームは、いわゆるブルックナー指揮者とは言い難いのではないだろうか。
シュターツカペレ・ドレスデンとともに「第4」及び「第5」、ウィーン・フィルとともに「第3」、「第4」、「第7」及び「第8」をスタジオ録音しており、これ以外にも若干のライブ録音が存在しているが、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスの各交響曲全集を録音した指揮者としては、必ずしも数多いとは言えないのではないかと考えられる。
しかしながら、遺された録音はいずれも決して凡演の類ではなく、特に、ウィーン・フィルと録音した「第3」及び「第4」は、他の指揮者による名演と比較しても、今なお上位にランキングされる素晴らしい名演と高く評価したい。
ところで、この「第3」(1970年)と「第4」(1973年)についてであるが、よりベームらしさがあらわれているのは、「第3」と言えるのではないだろうか。
ベームの演奏の特色は、堅固な造型、隙間風の吹かないオーケストラの分厚い響き、峻厳たるリズム感などが掲げられると思うが、1970年代初頭までは、こうしたベームの特色が存分に発揮された名演が数多く繰り広げられていた。
しかしながら、1970年代後半になると、リズムが硬直化し、テンポが遅くなるのに併せて造型も肥大化することになっていった。
したがって、スケールは非常に大きくはなったものの、凝縮度が薄くなり、それこそ歯応えのない干物のような演奏が多くなったことは否めない事実である(シュターツカペレ・ドレスデンを指揮したシューベルトの「ザ・グレイト」のような例外もあり)。
「第4」は、そうした硬直化にはまだまだ陥っているとは言えないものの、どちらかと言えば、ウィーン・フィルによる美演を極力生かした演奏と言うことができるところであり、名演ではあるが、ベームらしさが発揮された演奏とは言い難い面があるのではないだろうか。
これに対して、本盤の「第3」は、徹頭徹尾ベームらしさが発揮された演奏ということが可能だ。
堅固な造型、隙間風の吹かないオーケストラの分厚い響きは相変わらずであり、峻厳たるリズムで着実に進行していく音楽は、素晴らしいの一言。
全体のスケールはさほど大きいとは言えないが、ヴァント&ケルン放送交響楽団盤(1981年)よりははるかに雄渾と言えるところであり、これだけの凝縮化された密度の濃い音楽は他にもあまり例はみられない。
金管楽器がいささか強すぎるきらいもないわけではないが、全体の演奏の評価に瑕疵を与えるほどのものではないと考える。
ブルックナーの「第3」の他の名演としては、1990年代に入って、朝比奈&大阪フィル盤(1993年)が登場するが、それまでは本演奏はダントツの名演という存在であった。
朝比奈盤に次ぐのが、ヴァント&北ドイツ放送交響楽団盤(1992年)であると考えるが、本演奏は、現在でもこれら両名演に次ぐ名演の地位をいささかも譲っていないと考える。
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ベームは、ブルックナーの交響曲をすべて演奏しているわけではなく、遺された録音などを勘案すると、演奏を行ったのは第3番、第4番、第5番、第7番及び第8番の5曲に限られているものと思われる。
この中でも、文句なしに素晴らしい名演は1970年代前半にウィーン・フィルを指揮して英デッカにスタジオ録音を行った第3番(1970年)及び第4番(1973年)である。
これに対して本盤に収められた第8番については、少なくとも従来盤やその後に発売されたSHM−CD盤を聴く限りにおいては、筆者としてはこれまでのところ感銘を受けたことは一度もないところだ。
というのも、最大の欠点は、金管楽器がいささか無機的に響くということであろう。
ベームは、例によって、本演奏においても各金管楽器を最強奏させているのであるが、いずれも耳に突き刺さるようなきついサウンドであり、聴いていてとても疲れるというのが正直なところなのだ。
また、ベームの全盛時代の代名詞でもあった躍動感溢れるリズムが、本演奏ではいささか硬直化してきているところであり、音楽の自然な流れにおいても若干の淀みが生じていると言わざるを得ない。
したがって、ベームによる遺された同曲のライヴ録音に鑑みれば、本演奏はベームのベストフォームとは到底言い難いものである。
演奏自体としては凡演とまでは言わないが、佳演との評価すらなかなかに厳しいものがあったと言える。
しかしながら、今般のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤を聴いて驚いた。
これまでの従来盤やSHM−CD盤とはそもそも次元が異なる圧倒的な超高音質に生まれ変わったところである。
これによって、これまでは無機的できついと思っていたブラスセクションの音色に温もりと潤いが付加され、これまでよりも格段に聴きやすい音色に改善されたと言えるところである。
加えて、音場が幅広くなったことにもよると思うが、音楽の流れも、万全とは言えないもののかなり自然体で流れるように聴こえるように生まれ変わったとも言える。
したがって、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化によって本演奏の欠点がほぼ解消されたとも言えるところであり、筆者としても本シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤ではじめて本演奏に深い感銘を受けたところだ。
いずれにしても、本シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤に限っては、本演奏を名演と高く評価したい。
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2022年12月08日
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モーツァルトのレクイエムは、数々の指揮者の下で演奏されているが、どれもアップテンポで“レクイエム”の意味を表現しているとは思えない。
その点、このCDに収録されているのは、カール・ベームの晩年の指揮によるもので、“モーツァルトのレクイエム”を見事に表現している。
安息を表現する所では、スローテンポで、哀れみを請う所では、静かなテンポで、主を讃える所では、力強いテンポで、罪を許し給える所では、優しいテンポで。
全体的には実にゆったりとしたテンポ、壮大で重厚な音楽が最後まで貫かれている。
アーノンクールの演奏とは対照的でどちらが正しい、どちらが優れているということは考えこまずに、このベームの晩年のモーツァルトの世界に浸るのが良いのであろう。
現代の演奏ではまず聴くことのできない「重さ」と「凄み」が如実に伝わる演奏である。
合唱団員の意気込みも鋭く、「怒りの日」の合唱の咆えること、他の盤では聴けない荒々しさである。
「呪われし者」の類をみないテンポの遅さと男声パートの劇的な表現がかえって今では新鮮に聴こえるし、それに続く女声のソットヴォーチェの箇所が実に生きている。
「涙の日」へ接続し、続くヴァイオリンの前奏が涙を誘い、緊張感あふれる合唱によって絶筆部分が歌われる。
これほど慄き、嘆き、咆哮する「涙の日」の演奏は少ないのではないだろうか。
エディット・マティス(ソプラノ)、ユリア・ハマリ(アルト)、ヴィエスワフ・オフマン(テノール)、カール・リッダーブッシュ(バス)というビッグ・ネームのソリストもまたベームの音楽観に添った歌唱をしている。
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の統一がとれた演奏と、ウィーン国立歌劇場合唱連盟(合唱指揮:ノルベルト・バラッチュ)のメンバーの音楽性の高さが、このアルバムの価値を高めている。
ベームのレクイエムを聴くと、モーツァルトがバッハの宗教曲などのバロック音楽を自分の音楽素養として持ち、続くベートーヴェンやブラームスの音楽に影響を与えたのが分かる解釈である。
そこには軽やかで華やかな天才モーツァルトの姿はなく、人生の儚さに恐れ慄く人間モーツァルトが立っているかのようだ。
カール・ベームは、“モーツァルトのレクイエム”を指揮するために、この世に生を授けたのではないか、とさえ思わせる逸品である。
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2022年12月05日
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我が国においては今もなお熱心なベームファンは存在しているが、本場ヨーロッパでは殆ど忘れられた存在であると聞いている。
生前はオーストリアの音楽総監督やウィーン・フィルの名誉指揮者の称号が与えられ、世代はかなり違うものの当時のスーパースターであったカラヤンのライバルとも目された大指揮者であったにしては、今日の知る人ぞ知る存在に甘んじている状況は極めて不当で残念と言わざるを得ない。
このように、ベームの存在がますます忘れられつつある中においても、おそらく今後とも未来永劫、その価値を失うことがないと思われるCDが存在する。
それこそはまさに、本盤に収められたベルリン・フィルとともにスタジオ録音(1959〜1968年)を行ったモーツァルトの交響曲全集であると考える。
ベームは、モーツァルトを得意とし、生涯にわたって様々なジャンルの楽曲の演奏・録音を行い、そのいずれも名演の誉れが高いが、その中でも本全集は金字塔と言っても過言ではない存在である。
近年では、モーツァルトの交響曲演奏は、小編成の室内オーケストラによる古楽器奏法や、はたまたピリオド楽器の使用による演奏が主流であり、本演奏のようないわゆる古典的なスタイルによる全集は、今後とも2度とあらわれないのではないかとも考えられるところだ。
同様の古典的スタイルの演奏としても、ベーム以外にはウィーン・フィルを指揮してスタジオ録音を行ったレヴァインによる全集しか存在しておらず、演奏内容の観点からしても、本ベーム盤の牙城はいささかも揺らぎがないものと考える。
本全集におけるベームのアプローチは、まさに質実剛健そのものであり、重厚かつシンフォニックな、そして堅牢な造型の下でいささかも隙間風の吹かない充実した演奏を聴かせてくれていると言えるだろう。
ベームの指揮は、1970年代後半に入ると、持ち味であるリズム感に硬直が見られ、テンポが極端に遅い重々しい演奏が増えてくるのであるが(最晩年にウィーン・フィルと録音したモーツァルトの後期交響曲集はこうした芸風が顕著にあらわれている)。
本演奏においてはいまだ全盛期のベームならではの躍動的なリズム感が支配しており、テンポも中庸でいささかも違和感を感じさせないのが素晴らしい。
ベルリン・フィルも、この当時はいまだカラヤン色に染まり切っておらず、フルトヴェングラー時代の名うての奏者が数多く在籍していたこともあって、ドイツ風の音色の残滓が存在した時代でもある。
したがって、ベームの統率の下、ドイツ風の重心の低い名演奏を展開しているというのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。
このような充実した重厚でシンフォニックな演奏を聴いていると、現代の古楽器奏法やピリオド楽器を使用したこじんまりとした軽妙なモーツァルトの交響曲の演奏が何と小賢しく聴こえることであろうか。
本演奏を、昨今のモーツァルトの交響曲の演奏様式から外れるとして、大時代的で時代遅れの演奏などと批判する音楽評論家もいるようであるが、我々聴き手は芸術的な感動さえ得られればそれでいいのである。
むしろ、軽佻浮薄な演奏がとかくもてはやされる現代においてこそ、本演奏のような真に芸術的な重厚な演奏は十分に存在価値があると言えるのではないだろうか。
いずれにしても、本全集は、モーツァルトの交響曲全集の最高の超名演であるとともに、今後とも未来永劫、その存在価値をいささかも失うことがない歴史的な遺産であると高く評価したい。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2022年10月23日
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1955年11月5日 ウィーン国立歌劇場こけら落としの上演のライヴ(モノラル)録音であるが、最初に音質の驚異的改善から報告しなくてはならない。
この時代のライヴ録音としては最上級の出来栄えではなかろうか。
丁寧な作業から鮮明に浮かび上がったのは、まず歴史的公演の恐るべきテンションの高さ。
この演奏にはライヴならではのおよそ比較を絶した熱気と高揚があり、そのことが指揮者、歌手、オケ、合唱の気迫が音からひしひしと伝わってくる。
『フィデリオ』に思い入れのあるベームは、残された『フィデリオ』の録音すべてが名演であるが、中でもこの1955年の再建記念公演は気合の入り方が違っている。
ベーム特有の芯のある音を要所要所に立て、それを柱としてがっちりと音楽を組み立てている。
ベームが低音を抉りつつ、弦に高音を輝かしく強奏させ、立体的、かつ美しくも強靭な響きで音楽を構築していく様子は、今回のCD化で初めて明らかになった。
解釈の基本はベルリンやドレスデンでの録音と同じ路線にあるが、しなやかさ、美しさを増した当盤の魅力は大きいものがある。
長いベームの音楽歴においても、特筆すべき名演である。
歌手がまた大物揃い。
フルトヴェングラーのお気に入りのドラマティック・ソプラノで、彼がEMI録音でもレオノーレ役に起用したマルタ・メードルがここでもレオノーレ。
ウィーンのモーツァルト・テノールとして名高いアントン・デルモータがフロレスタン。
偉大なバリトン、パウル・シェフラーが凄みのあるピツァロ。
ワーグナー・バスとして一世を風靡したルートヴィヒ・ヴェーバーが味のあるロッコ。
そして名花イルムガルト・ゼーフリートがマルツェリーネ。
ウィーンの人々に愛されたテノール、ヴァルデマール・クメントがヤキーノと、まさに1950年代のウィーンを代表する歌手ばかりで、まさにオールスター・キャストと言えよう。
当時のベスト・メンバーを集めた歌手陣が、1人1人熱演しているのはもちろんだが、アンサンブル・オペラとしての行き方を堅持していた時代のウィーンらしい、密度の高いチーム・ワークを聴かせる。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2022年10月07日
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極めてドイツ的な『フィガロ』であり、それは収録年に起因するが、1957年当時のカール・ベームは、男性的な筋肉質の演奏スタイルだった。
巨匠ベームは相手がモーツァルトであっても姿勢を変える事なく取り組んでいて、当然この演奏はウイーン風とは無縁である。
しかし巨匠ならではの美点ももちろんあり、それは歌手に歌い崩しを許さない厳格な姿勢であるが、その為、作品の美点を見失わない忠実な演奏となる。
これはひとつの理想であり、作品に対して忠実であるのもひとつの解釈である。
それは巨匠の音楽環境がそうさせたと見るのが順当で、これが若き日に影響を受けた新即物主義に対する証しである。
しかしこの演奏はウィーン・フィルの音色に助けられ特有の厳しい表情が和らいでいるのが救いかも知れない。
歌手達のアンサンブルはこれといって特に不満はなく、むしろ絶妙と言って良い。
エーリッヒ・クンツのフィガロも良いが、やや控えめなのが惜しく、イルムガルト・ゼーフリートのスザンナも同様だが、騒ぎ過ぎないのは作品に対してバランスを保っていると言えるだろう。
伯爵夫人は、エリザベート・シュヴァルツコップで、この頃が全盛期と言えるが、ここでは何故か艶っぽさが今ひとつなのが残念だ。
ケルビーノは、クリスタ・ルートヴィヒで、表現力が素晴らしく、アリアでは聴かせる。
アルマヴィーヴァ伯爵は、ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウで、流石に上手く風格がある。
何よりも伯爵のフィッシャー=ディースカウと伯爵夫人のシュヴァルツコップ、この2人がザルツブルクで同じオペラの舞台に立っていることを想像するだけでワクワクしてしまう。
そしてベームの作り出す音楽が、晩年のそれとは違い、とにかく躍動感に溢れている。
そのことが、この『フィガロ』というオペラにおいて、どれだけ重要なことか…。
進行に合わせて、歌手にそっと寄り添い、またあるときは歌手をリードしながら、聴衆をどんどん核心に引き込んでいくその指揮ぶりは、最良の意味での「職人」。
また、ウィーン・フィルも、随所でその妙技を聴かせてくれている。
まったくこれ見よがしの表現はとらないのに、ベームの棒を信じて生み出されるその表情は、「あー、やっぱりウィーン・フィル!」と実感させてくれる。
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2022年10月04日
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ベームのブラームスの第1番と言えば、1959年のベルリン・フィルとの録音がSACD化されて再評価されているし、そのレビューにも書いたようにこの曲の筆頭に挙げても良い感動を呼ぶ名演であった。
また、1975年にウィーン・フィルと来日した時の印象も強烈だが、当時の解釈はすでに晩年様式に入ったものだった。
それらに対し、この演奏は、1969年にバイエルン放送交響楽団のシーズン幕開けの演奏会で収録されたもの。
ライヴで本領を発揮するタイプのベームが、ここでは完全燃焼を見せている。
そのスケールの大きさ、張り詰めた緊張感は類例がないほどで、造型も堅固そのもの。
バイエルン放送響はベームが頻繁に客演したオーケストラのひとつで、この演奏を聴いただけでも両者の良好な関係が窺われよう。
機能性と力強さ、そしてのびのびとした豊かな響きがベームの音楽の骨格に見事な肉付けを行なっている。
カップリングのグルダの《ジュノーム》は、まずグルダのピアノに驚嘆し、ついでモーツァルトの音楽の奥深さに打たれて、あまりの美しさに陶然とする。
全曲を通して聴いてもたかだか30分のこの曲は、聴いているととても儚い。
ずっと聴いていたいのに、どの楽章も10分程度で終わってしまう。
短調で書かれた第2楽章も、その儚さゆえにとても短く感じられる。
グルダは一音一音が情に流されて弾いているというのではなく、「こうでなければ」と確信を持って弾いているように感じられる。
「木を見て森を見ず」という表現があるが、この演奏の場合、グルダのタッチが洗練の極みに達しているので、その「木」を一つ一つ見るだけでも価値があり、しかも倦むことがない。
さらに、森として見た場合も、その繊細な美しさは比類がないのである。
ベーム指揮のバイエルン放送響はグルダのピアノを全く邪魔しない見事な伴奏。
オケのバランスといい、品の良さといい、申し分がない。
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2022年09月29日
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これはハンブルク国立歌劇場で新演出の『サロメ』が上演された際の初日のライヴである。
恐らくベームと付き合いのある演出家のアウグスト・エファーディングの招きに応じたのか、この大指揮者にとって1933年以来のハンブルク国立歌劇場との公演という意味においても記念碑的な意味を持つ。
時折この都市でコンサートは指揮していたものの、ベームにとっては嘗ての手兵、歌劇場にとっては“おらがマエストロ”の久々のオペラ公演ということで、共に気合が入ったであろうことは疑いようがない。
ハンブルクの聴衆にしても、この都市で音楽監督を務めたベームが、ウィーン国立歌劇場総監督に上り詰め、その後、カラヤンやバーンスタインらと世界の演奏界の頂点に君臨する存在になったことは誇りであったことであろう。
往年のマーラーがやはりこの地の歌劇場総監督からウィーン宮廷歌劇場へ進出したように。
しかも、ベームが監督を務めていた時代のメンバーは先ず在籍していなかったであろうし、聴衆の中にもハンブルク時代のベームを知る人も少なかったであろうが、久々にコンビを組んだとは思えない程に指揮者も管弦楽も一つにまとまっている。
北ドイツ気質というか、まさに共に質実剛健で、音楽の本質に真っ向から切り込んでいく。
しかも、ライヴならではの破壊力が随所に感じられて、息をつく暇はなく、コーダまで息詰るような緊張感が支配している。
その為、この楽劇に美少女サロメの妖艶さや情感の豊かさを求める向きには禁欲的な演奏と言える。
ただ、ベームは師であったシュトラウスの意図や指揮ぶりも熟知しており、恐らくこの演出こそが本来この楽劇に求められたものであろうと思わせるだけの説得力がある。
歌手陣ではF=ディースカウとオフマンが素晴らしい。
サロメ役のジョーンズは恐らく舞台では凄く映えたであろうが、歌だけを聴く限り、時折ヒステリックになり、演技の限界を露呈している。
ヨカナーン役のF=ディースカウに関しては、ベストパフォーマンスだと思う。
無比の燃焼を示した不朽の歴史的名盤と称するべきである。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2022年08月23日
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1960年1月9日、ニューヨーク、メトロポリタン歌劇場に於けるライヴ録音で、モノラルのライヴながら良い音質である。
2011年1月に陽の目を見たメトロポリタン歌劇場でのライヴで、個人所有のエア・チェック音源からディスク化された。
ワーグナー自身が自画自賛した作品だけに、“聖地”バイロイトだけでなく、世界中の歌劇場においても屈指の人気作として幾多の名舞台が繰り広げられてきた。
録音も数多く存在するが、ベームは自らが語るように「バッハとモーツァルトによって浄化された様式的ワーグナー像」を確立している。
それは「終局迄突き進む唯一のクレッシェンド」であり、まさに音楽的に見て隙がない。
強固な芯が全体を貫いていて、その推進力は物凄いエネルギーを秘めている。
「私は『トリスタンとイゾルデ』のイゾルデ役を33人の指揮者の下で歌ってきたが、ベームに匹敵する人は誰もいなかった」という旨の事を語ったというニルソンを始め、歌手陣の声は1960年のエア・チェックという事を考えると、それなりの鑑賞度の高さを具え、当時の会場の空気を伝えてくれる。
しかし、管弦楽は遠い。
その為、高揚感という点ではやや物足りない。
管弦楽がもっとましな録音だったら……と思わずにはいられない。
とはいえ、全体的に高い水準でまとめられているところは流石にベームならではであり、物足りない個所を割引いてもなお余りある魅力があり、決して史料的価値だけの録音ではない。
そうした意味において当盤が発掘された事はベーム・ファン、そしてワグネリアンにとって誠に喜ばしい限りである。
因みにキャストの紹介など演奏開始を伝える放送局のナレーションが冒頭に入っている。
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2022年07月23日
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ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の名首席奏者達が織り成す自在な独奏と、モーツァルト指揮者として定評のあったベームの指揮が美しく調和した演奏で聴く、モーツァルトの2曲の協奏交響曲集。
モーツァルトの2曲ある協奏交響曲を1つに収めたCDは、意外にも本盤くらいしか見当たらないが、間違いなく本盤はその決定盤とも言うべき永遠の名盤である。
何よりも、全盛期のベーム、そして、名うての名プレーヤーが数多く在籍していた黄金時代のベルリン・フィル、そして、当時、最も脂が乗っていたベルリン・フィルの名プレーヤーの三者がそろい踏みである点が大きい。
ベームの指揮は、厳しい造型を重視した緻密なものであるが、モーツァルトに深い愛着を持っていただけに、どこをとっても気品のある美しさに満ち溢れている。
しっとりとした情感を帯びたしなやかな表情と優雅な感覚、正確無比なテンポ感と確信に満ちた造型によるこの演奏は、古楽器演奏が全盛となった現代でも全く色褪せることはなく、逆にますますその輝きを増しているかのようだ。
各ソロ奏者も最高のパフォーマンスを示しており、無理なく、無駄なく、職人芸に徹したソロが実に清々しく、ベルリン・フィルも極上のアンサンブルでそれに応えている。
個性や名人芸の披露ではなく、ベームを核に繰り広げられていく演奏という名の対話であり、それが音楽の流れとともに絆をより強くしていく、そんな奥ゆかしい至芸である。
まだ20代の若さだったブランディスやライスターは初々しさを、40代であったカッポーネやシュタインスやピースクらは経験の豊かさに物を言わせた奥ゆかしいソロを披露、最愛のモーツァルトの花園に聴き手を招き入れる。
音楽ファンに残された心の故郷のようなアルバムである。
SHM-CD化によって音質もさらに鮮明さが増したところであり、これにより、本盤の価値は一段とアップしたと言えるだろう。
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2022年07月03日
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拙ブログの読者Josh様より、先ほど以下の通りメールをいただきました。
「残されたバックハウスのベートーヴェンのコンチェルト録音の白眉は、ベーム、ウィーン交響楽団との第4番の演奏だと思います。
カラー動画、ステレオ録音で残された映像で、ここにはベーム、バックハウス、ウィーン交響楽団メンバーへのインタビューも含まれており、演奏の完成度だけでなく、ドキュメントとしても極めて高い価値があります。
是非、このライブラリーにも記録して頂きたいと思います。」
存じ上げております。もしご覧の方がいらっしゃらなければ、強力にお薦めします。
まさに長年ベートーヴェンを弾き込んできたバックハウスの、巨人的な演奏の一面を知ることのできる映像で、すこぶる雄渾な演奏である。
内容の彫りの深さ、ドイツ的ながっしりとした構成力の素晴らしさは、見事の一語に尽きる。
まさに本演奏こそは、例えばベートーヴェンの交響曲などでのフルトヴェングラーによる演奏と同様に、ドイツ音楽の精神的な神髄を描出するフラッグシップの役割を担っているとさえ言えるだろう。
バックハウスのピアノはいささかも奇を衒うことなく、悠揚迫らぬテンポで曲想を描き出していくというものだ。
飾り気など薬にしたくもなく、聴き手に微笑みかけることなど皆無であることから、聴きようによっては素っ気なささえ感じさせるきらいがないわけではない。
しかしながら、かかる古武士のような演奏には独特の風格があり、各フレーズの端々から滲み出してくる滋味豊かなニュアンスは、奥深い情感に満ち溢れている。
全体の造型はきわめて堅固であり、スケールは雄渾の極み。
その演奏の威容には峻厳たるものがあると言えるところであり、聴き手もただただ居住まいを正さずにはいられないほどだ。
したがって、本演奏を聴く際には、聴く側も相当の気構えを要すると言える。
バックハウスと覇を争ったケンプの名演には、万人に微笑みかけるある種の親しみやすさがあることから、少々体調が悪くてもその魅力を堪能することが可能であるが、バックハウスの場合は、よほど体調が良くないとその魅力を味わうことは困難であるという、容易に人を寄せ付けないような厳しい側面があり、まさに孤高の至芸と言っても過言ではないのではないかとさえ考えられる。
バックハウスとケンプについてはそれぞれに熱烈な信者が存在し、その優劣について論争が続いているが、筆者としてはいずれもベートーヴェンの至高の名演であり、容易に優劣を付けられるものではないと考えている。
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2022年06月13日
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往年の2大女流ピアニストの超貴重演奏を収録した好企画ディスクである。
女帝エリー・ナイと若きべームによるベートーヴェン『皇帝』、日本でも絶大な人気を誇った、モーツァルト、シューベルト弾きとして名高いリリー・クラウスによるソナタ第30番というカップリングの現役盤だ。
輸入盤で一連の録音が発売され、近年注目を浴びている名女流ピアニストのエリー・ナイはその活躍の割には録音が少ない部類であるが、ベートーヴェン『皇帝』のナイの貴重な演奏を堪能することができる。
まず出だしのカデンツァからして豪快な弾きっぷりに驚かされる。
まだ若いべームがついていくのがやっとのように、自由奔放、自己流の『皇帝』なので、現代のピアニストが聴いたら少し呆然とするかもしれない。
ペダルは踏みっぱなし、多少のミスもお構いなし、「私はエリー・ナイよ!」と音が言っているかの如く、皇帝ならぬ女帝ぶりが聴いていて大変面白いところだ。
べームも若いといいながらも既にウィーン・フィルをバックにナイに挑んでいる事を考えれば、当時は中堅でその実力を認められていた存在だったにも関わらず、完全に主導権はナイが握っていると言える。
一説によると、この演奏はマグネトフォン録音だったとも言われ、確かに当時としては録音は良い方であり、ナイのピアノの音の強弱・表情付けは非常によくわかる。
マイクの場所が制限されていたのか、オケについては弦楽器が強く、木管、金管はやや遠めに聴こえ、鋭いがキンキンした音ではないのが幸いして迫力は十二分に伝わるものである。
もう一人の名女流ピアニストは、日本でも人気が高いリリー・クラウス。
クラウスといえばモーツァルト、シューベルトといった録音が知られ、その演奏についての評価も高く、評論家宇野功芳氏も愛してやまないピアニストだ。
そのクラウスのベートーヴェンの第30番の演奏を聴いてまた驚いた。
第30番の内容は変奏曲風で、下手なピアニストの演奏では退屈極まりない駄曲になってしまいがち。
クラウスの紡ぎ出す一音一音が非常に清楚でチャーミングで、力強さの中に見せるベートーヴェン後期の柔らかい楽想が良くわかる演奏と言える。
個性豊かな2人の名女流ピアニストによる、珠玉のベートーヴェンを是非この機会に聴いてみて欲しい。
両曲ともLPからの復刻の為、それに伴うノイズ、歪みなどがあるが、観賞の妨げになるほどではない。
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2022年04月13日
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ルツェルン音楽祭からのライヴ録音で、ヒンデミットの『木管楽器とハープのための協奏曲』は文句なく秀逸な演奏だ。
伊Affettoからのライセンス盤でセブンシーズがリリース (廃盤) したことがあるが、この度ルツェルン音楽祭が保管しているマスター音源からの正規初出となる。
現代音楽にも興味を持っていたベームは、同時代を生きたパウル・ヒンデミット (1895-1963) の作品も大切にしてきた。
ここに収めた『木管とハープのための協奏曲』はベーム唯一の録音。
ウィーン・フィルの首席奏者の巧みな演奏はもちろんのこと、ピタリと合わせるベームのタクトにも脱帽。
この作品はメンデルスゾーンの結婚行進曲が随所に現れる実に楽しくして練りこまれた協奏曲だが、ベームと黄金時代のウィーン・フィルが奏でる演奏に改めて驚かされる。
1970年の収録で多少客席からの咳払いなどの雑音が聴こえるが、ソリスト達とオーケストラの音は鮮明に捉えられていて臨場感にも不足していない。
第一級のオーケストラは協奏曲を演奏する時でも、外部からソリストを呼ばなくても総て自前の楽団員でカバーできるものだ。
当時のウィーン・フィルにはスタープレイヤーがひしめいていて、彼らの腕前と優れた音楽性を充分に満喫できるのが嬉しい。
ベームの指揮は精緻な中にも絶妙な遊び心が感じられて、決して堅物の律義な演奏に留まらないところは流石だ。
このレパートリーに関しては公式のセッション録音が存在しないので、これだけでもこのディスクの価値は俄然高いと言えるだろう。
本演奏でも楽譜に忠実にすべてのアーティキュレーションの細部にまで気を配り、ベームとウィーン・フィルとの強い結びつきを感じさせる。
緊張感を常に持ちながらこの作品を演奏するベームの姿勢、そして絶大な信頼を寄せるウィーン・フィルが一体となりこの上なく美しい響きを生み出している。
問題はブルックナーの交響曲第7番で、ヒンデミットに比較して音質が劣っている。
データを見ると1964年の録音だが、当時既に殆どすべての大手レコード・メーカーがステレオ録音を取り入れていたにも拘らず、ルツェルンではまだモノラルから脱皮していなかった。
また音質もややデッドで潤いに欠けているのも欠点だ。
ブルックナーを鑑賞するにはせめて潤沢な残響が欲しいところだが、ライヴという制限もあって全体的に言って貧しいサウンドと言える。
ベームがライヴに懸ける情熱は伝わってくるし、第2楽章のブラス・セクションで導入される『ワーグナーのための葬送』も聴きどころなので残念だ。
幸い1976年のグラモフォンへの良好なセッション録音が残されているので、この曲に関してはそちらをお薦めしたい。
また、ブックレットには音楽祭のアーカイヴから多くの写真も掲載している。
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2022年03月21日
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ベートーヴェンが作曲した唯一のオペラである《フィデリオ》は、様式的な不統一も目立つし、見る者をオペラの鑑賞というよりも、宗教的な儀式に参列したような思いにさせて終わるオペラ史上特異な名作である。
というのは、オペラ・ブッファとジングシュピールとを混ぜ合わせたような始まり方からシーリアスなオペラへと移行し、最後の場ではオラトリオに近い性格なものになるからだ。
その間の男女間の愛情の描き方も他の多くのオペラとは違っていて、形而下的な官能性を排除して形而上的な愛の追究に終始している。
だが、それでいてすぐれた上演に接したときの感動は他に比べるものがないほど大きいと思われる。
ここにご紹介する1963年10月、東京・日比谷の日生劇場のこけら落としに初来日したベルリン・ドイツ・オペラの《フィデリオ》がそうであろう。
ベルリン・ドイツ・オペラの4つの演目の中でも、最高の凝集度と説得力を発揮していたゼルナーの演出を伝えられないのは、音だけのCDゆえしかたない。
それでも、当時まだ69歳で、老け込む前のベームの指揮、ときの総監督ゼルナーの象徴主義的名演出による熱気をはらんだこの公演のライヴが、予想を上回るいい音でCDに収められているのは幸いだ。
指揮者として全盛期の絶頂にあった指揮の下で、名歌手たちがオケ・合唱と一丸となって盛り上げるアンサンブルの素晴らしさに圧倒される。
レオノーレとフロレスタンには当時30代で声の充実度が絶頂に達していたルートヴィヒとキング、また、ロッコとピツァロにはともにオペラ役者として円熟境に達したところだったグラインドルとナイトリンガーを起用した配役も理想に近い。
これらの名歌手を、絶頂期にあったベームが強い統率力と推進力に溢れた指揮で、力強くまとめ上げている。
ベートーヴェンが真に求めたであろうその本来の姿が堂々と浮かび上がってくる感動的な名演である。
ホールは残響が皆無なので、序曲はこちこちに固まった色気のない音で、全盛期のベームの凝縮し切った迫力が強調されて表われる。
幕が上がってからも演奏の緊張力は半端ではない。
速いテンポの「囚人の合唱」など、ときに乱暴、ときに下手くそに思われるほど表情が強調されており、迫真のドラマとはこのことだ。
第14番の四重唱ではオケが怒り、凄いスピードで猛烈にたたみこむ。
「レオノーレ序曲第3番」もなりふり構わぬ怒濤の迫力で、テンポの動きが激しい。
ベームはこの序曲を第2幕のフィナーレの直前に演奏しているが、最初の和音が鳴ったとき、本当に鳥肌が立った。
前述の歌手はレオノーレ役のルートヴィヒ、フロレスタン役のキング、いずれも感情移入がすごく、スタイルの古さを感じさせるが、ドラマが比類なく生きていることは確かであり、とくにピサロ役のナイトリンガーの邪悪さは格別だ。
指揮も申し分なく、歌の出来もこれだけムラのない全曲盤は他にあるまい。
人間にとっての自由の尊さを訴えたこの祭儀的な音楽劇のCDのまず筆頭にこれを挙げたい。
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本ベーム盤は1963年に初来日したベルリン・ドイツ・オペラの日生劇場で上演されたもののライヴで、68年盤とは違う。
舞台の雑音が入るとはいえ、音質は鮮明、なによりも純音楽的なスタジオ録音に対し、きわめてドラマティックな超名演なのだ。
《フィガロの結婚》の数多い名演盤の中で、クレンペラー盤と同じく指揮者(オーケストラ)を中心に聴くことができるただ2つのディスクである。
当時69歳のベームもテンポが速く、モーツァルトの生き生きした世界を見事に再現、全体に燃焼度の高い、一期一会の公演の貴重な記録となっている。
序曲から腰の強いカロリー満点のフォルテに驚かされ、そのきれいごとでないひびきやたたきつけるようなアタックに嬉しくなる。
迫力も最高、前進性も最高である。
幕が上がってもオーケストラの厚みと緊張感は変わらない。
典雅さ、優雅さ、デリカシーなどはクレンペラー盤にやや譲るが、それは劣るというよりもベームの音楽の特徴であり、むしろそのことが愉しい。
しかも第2幕の伯爵夫人のアリアなどに見せる優しい共感や心の震えはさすがベームといえよう。
同じくケルビーノが部屋の窓からとび下りるときのスザンナとの二重唱の絶妙な最弱音もこれがベストだと思う。
しかし彼の真骨頂は人間味たっぷりで雄弁をきわめたドラマの進行であろう。
どの一部をとっても今まさにそこで劇が行なわれている、その醍醐味がこのライヴにはある。
第2幕フィナーレのアッチェレランドがかかった終結の高揚感など、ベームならではだ。
歌手ではデビュー当時のマティスが聴きものである。
まだ25歳の彼女の初々しいケルビーノは場内の全聴衆をとりこにしたそうだが、第1幕のアリアはクライバー盤のダンコと並んでベストといえよう。
他の歌手もみな芸達者だが、グリュンマーの伯爵夫人は声も表現も重すぎ、ベリーのフィガロはいかにも庶民的で、気品や立派さに欠ける。
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2022年01月23日
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もう長らく読んでいないレコード芸術誌だが、2021年度レコ芸アカデミー賞特別部門歴史的録音にブーレーズ&N響の《バイロイト引越/大阪1967》が輝いたことを知り冷静でいられなくなったので、いつもよりとりとめのない書き方になるのをお許しいただきたい。
ここで紹介するボックスは4年前ビルギット・ニルソンの生誕100周年に発売されたもので、熱狂的なニルソン・ファン目線で見ても収録内容のセレクトは、それなりに妥当で大体納得の行くものだ。
中でもニルソンの相手役としての「“3大ヘルデン”の〈トリスタン〉聴き比べ」は企画としても聴きごたえがある。
普段メジャー商業録音にしか接しないような聴き手には、無理が祟り深刻に声を痛めてしまう前、美声とパワーの両立を目指した万能ヘルデン・テノール、ジェス・トーマスの〈トリスタン〉を再評価する良い機会にもなると思う。
しかし、ヴィッカーズ+ニルソンの場合、映像版であればこそ独自の価値もあった本セットのオランジュ・ライヴに限らず他にも複数種存在するホルスト・シュタインやラインスドルフ指揮の選択肢もある。
プリマドンナを立てるサポート上手で互いに一番ウマが合ったヴィントガッセン+ニルソンの中から選ぶなら、生粋のワーグナー指揮者なのにキャリアを通して何故か《トリスタン》だけは芳しくなかったサヴァリッシュの《バイロイト1957》の代わりに、ニルソン=ベーム・トリスタンのベストと考えている《バイロイト1964》か、あるいはブーレーズ&N響も“聴き物”の《バイロイト引越/大阪1967》を、また、《サロメ》も幕切れのニルソンの超人的歌唱で選んで、収録のベーム《メト1962》より実を取って、商業録音での知名度など関係なく同郷同世代のショルティに比べ遥かに現場経験豊富な「腕利きワグネリアン/シュトラウシアン」だったジョルジュ・セバスティアン指揮《ブエノスアイレス・テアトロコロン1965》のほうが良かったのではないか。
さらに、メト・ライヴにしたってニルソンのパワーもピーク期60年代で指揮も元気なシッパースの素晴らしい《エレクトラ》もあったのに。
本BOXのコンセプトは大前提としてニルソン・トリビュートで歌手陣の出来を第一義とすべきものを、リマスタリングの方向性も含め妥協の産物というかビギナー向きな配慮というか、パフォーマンスの実質より“カタログ映え”する「スター指揮者のネームヴァリュー優先」といった安直で不誠実なマーケティングの“ウケ狙い”にちょっと走り過ぎてはしないだろうか。
などと内容に踏み込んであれこれ考え始めると際限なく結局延々と恨み節になってしまうが、思いつくまま取り留めなく上に書いたようなことも、再生機器を調整したり新しい音質に耳が慣れてしまうかも知れない。
いずれにしても、子供だった筆者が心ときめかせながらオペラに目覚めた頃、キャリア末期とは言えまだ現役だったニルソンの生誕100周年をこうして迎えるのは…色んな意味で感慨深い。
ニルソン級のパフォーマンスが完全消滅した今日、また、そういうBest of Bestsの誰もが知る一握りのスーパースターに限らず、劇場では名実共に大成功を収めながら商業録音に縁がなかったというだけで不当に過小評価され今では歴史に埋もれるがまま忘れられつつある偉大な歌手たち、さらに、致命的に人材不足の現在ならば各地の主要劇場からオファー殺到でスター待遇が当然であろうような才能豊かな中堅実力者たち…。
そういった次々と現れては消えていった有名無名の大勢の名歌手たちに支えられ繁栄が長く続いた黄金期にはむしろそれがスタンダードだった所謂「Great Singing」は急速に衰退し、その右肩下がりに歯止めも掛からず、オペラは音楽的に低迷してマンネリなシロモノになり果て、今日の上演において洞察や批評精神、創造性の“最後の砦”として気を吐いてきた演出の領域も行き詰まりを見せ始め、それでもどうにか小手先のマーケティングで無理無理体裁を保っている。
そんな時代(他にも多様で豊かだった古き佳き物事が消え去り異質で違和感あるものにどんどん“上書き”されて行く時代)に巡り合わせた世代には申し訳ないけれど、この分野に関しては自分は多少は運が良かったのかなとも思う。
都合よく美化されたノスタルジックな想い出云々の話でなく、今と違って「正真正銘の名歌手」就中「本物のドラマティック・ソプラノたち」が本気で歌うオペラ・ライヴは、商業録音を上質なオーディオを駆使していくら聴いたところで決して代替しえない人生を揺るがす“衝撃と畏怖”の物凄い体験で、幼く無知な聴き手に過ぎなかったとは言え、オペラ後進国である極東の一角に居ながら、そういう水準のオペラ公演が滅びる前に実際にこの目でチラッと垣間見ることが出来たのは本当に幸いだった。
所詮、貧弱音質で真価のごく一部しか伝わらないにせよ、このBOXには「人類から失われた偉大さ」がぎっしり詰まっている。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2021年11月02日
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このプロジェクトは1962年にヴィーラント・ワーグナーの演出で制作されたもので、指揮を担当したカール・ベームは主役の2人にビルギット・ニルソンとヴォルフガング・ヴィントガッセンの起用を求めたという。
この2人は初年度から高い評価を得て、幸いなことにその演奏の収録が行なわれていたが、本盤に収められた最後の1966年盤が言うまでもなく1967年度レコード・アカデミー大賞を受賞した伝説的な名盤である。
主役2人の演唱も圧倒的だが、演奏もすばらしい。
ベームによる贅肉をそぎ落とした引き締まった響きと速めのテンポは、この作品の内包するエロティシズムとは無縁のものながら、聴くたびに圧倒される白熱的な名演奏である。
ベームは、バイロイトにもたびたび登場し、ワーグナーのツボを心得た指揮者である。
一世代前の、フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュのような重厚壮大な「重さ」とは一線を画するものであるが、ワーグナー演奏としてけっして場違いな印象はなく、むしろ戦後のバイロイトが築いた頂点のひとつであり、「ヴィーラントによるバイロイト様式の完成」ではないかと思われる。
そして、フルトヴェングラーが深沈とした奥行きの深さ、クライバーがオーケストラのいぶし銀の音色を活かした重厚さを特色とした名演であったのに対して、ベームによる本演奏は、実演ならではのドラマティックで劇的な演奏と言えるのではないだろうか。
そして、学者風でにこりともしない堅物の風貌のベームが、同曲をこれほどまでに官能的に描き出すことができるとは殆ど信じられないほどである。
ベームは、実演でこそ本領を発揮する指揮者と言われたが、本演奏ではその実力を如何なく発揮しており、冒頭の前奏曲からして官能的で熱き歌心が全開だ。
その後も、トゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫や緊張感、そして切れば血が吹き出してくるような強靭な生命力に満ち溢れており、全盛期のベームならではのリズミカルな躍動感も健在だ。
テンポは若干速めであるが、隙間風が吹くような箇所は皆無であり、どこをとっても造型の堅固さと充実した響きが支配しているのが素晴らしい。
とりわけ、第2幕のイゾルデ役のニルソンとトリスタン役のヴィントガッセンによる愛の熱唱は、ベームの心を込め抜いた指揮も相俟って、おそらくは同曲演奏史上でも最高峰の名演奏に仕上がっていると言えるところであり、その官能的な美しさといい、はたまたドラマティックな迫力といい、聴いていてただただ圧倒されるのみである。
ニルソンの、イゾルデにふさわしい威容と禁断の愛に苦悩する表現の豊かさは見事なもの。
そして、第3幕終結部の愛と死におけるニルソンによる絶唱は、もはや筆舌には尽くし難い感動を覚えるところだ。
第2幕ではニルソンのスケールの大きさにのみこまれそうなヴィントガッセンも、第3幕で死を目前にしての鬼気迫る熱唱は凄絶というほかない。
これらの主役2人のほか、歌手も総じてすぐれた出来映えで、1960年代に全盛期を迎えた名歌手の饗宴は真に感動的だ。
リマスタリングは24bit/96kHzでおこなわれ、さらにそのハイレゾ音源を収録したBlu-ray-Audioディスクも同梱されているが、できればCDとの抱き合わせではなくブルーレイ単独でリリースして欲しかった。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2021年10月21日
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これまでにEMI系の録音集19枚がワーナーからリリースされ、ドイツ・グラモフォンからも70枚のオペラを中心とすコンプリート・ヴォーカル・ワーク集が纏められ、唯一残されていた協奏曲やアンサンブルを含むオーケストラル・ワークの集大成が今回成就した。
勿論ベームは旧フィリップスやデッカにも音源を遺していて、それは38枚+ブルーレイオーディオでユニヴァーサルから別途リリースされている。
ライヴは別としても、これによって彼の仕事の最も重要な部分がカバーされ、彼の芸術が網羅的に俯瞰されることになる。
このセットは67枚のCDに以前単独で出ていたベルリン・フィルとのモーツァルト交響曲全集のブルーレイオーディオを再度加えたボックスで、仕様はラファエル・クーベリック全集に準ずる大きさになっている。
ジャケットはオリジナル・デザインを使用。
曲目に関しては初出音源はなく、ライナーノーツにも新規リマスターの表示はないので従来のマスターを使った収録と思われるが、音質は良好だ。
カール・ベームは14歳ほど年下のカラヤンに比較してレコーディング量がかなり少ない。
1997年に刊行された最初のベートーヴェン・エディションにも交響曲全曲はカラヤン、ベルリン・フィルの録音が採用された。
当時帝王と呼ばれたカラヤンのディスクは超売れ筋だったので、致し方なかったのかも知れないが、指揮に何のはったりもなく、音楽にこれ見よがしのアピールもないベームからは、愚直なまでにひたすら作品に真摯に向かい、常に音楽の原点に立ち返る潔い姿勢が感じられる。
それが言ってみれば彼の個性であり、彼の音楽が長く愛される理由だろう。
尚最後の3枚はボーナス・ディスクで、CD65がベルリン・フィルとのシューベルトの交響曲『ザ・グレート』のリハーサル風景、CD66は彼が語るモーツァルトの音楽について及びウィーン・フィルとのリレーションシップ、そしてCD67はベーム自身の音楽的な人生観とキャリアを語っている。
ライナーノーツの巻末にはアルファベット順による作曲家別のCD索引が掲載されている。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2021年10月05日
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ベームは晩年にウィーン・フィルの気の置けないメンバーとモーツァルトの管楽器のための協奏曲や室内楽を集中的に録音した。
この7枚組のセットには編曲物のフルート協奏曲第2番ニ長調を除いた管楽器が加わる総ての協奏曲と室内楽のための代表的なセレナーデ及びディヴェルティメントが収められている。
尚このうちセレナーデ第6番『セレナータ・ノットゥルナ』、同第7番『ハフナー』、同第9番『ポストホルン』と同第10番『グラン・パルティータ』の4曲に関してはベルリン・フィルとの協演になる。
協奏曲の独奏者はそれぞれがウィーン・フィルの首席奏者を務めたメンバーばかりで、総てオーケストラの団員でカバーしてしまうところにウィーン・フィルの実力が窺われる。
元来ベームはモーツァルトを得意としていたが、また彼らに対する注文の煩さ、細部への要求の頑固さなどでも良く知られていた。
全曲を通じて中庸の美を頑固なまでにわきまえ、整然とした秩序の中に表現された演奏集で、遊びを許さないベームの生真面目な性格が良く表れている。
しかし彼らには強い仲間意識があって、とりわけ指揮者、ソリスト、オーケストラが家庭的な和やかさ、親密さで演奏を楽しんでいる雰囲気さえ伝わってくるのも特徴的だ。
ここに収められた協奏曲集の中でもフルートのヴェルナー・トリップ、オーボエのゲルハルト・トゥレチェク、クラリネットのアルフレート・プリンツ、ファゴットのディトマー・ツェーマン、そしてホルンのギュンター・ヘーグナーが、各自会心の出来と言うべき自由闊達でしかもウィーン流にこだわった見事な演奏を披露している。
特に4曲のホルン協奏曲はヘーグナーがソロにウィンナー・ホルンを使用した数少ない録音になる。
音が割れやすい上に音色が渋く、奏法が難しいウィンナー・ホルンは、しかし彼のような名人の手にかかると如何にもモーツァルトに相応しい情緒と趣を醸し出してくれる。
特有のくすんだ音色の魅力もさることながら、控えめながら上品で巧みな表現が秀逸だ。
セレナーデでは、第13番『アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク』1曲目のト長調のように、ごくポピュラーなレパートリーにおいてもウィーン・フィルの自然発生的な歌心の流出はやや抑えられて、洗練された音楽性と古典派特有の形式美の表出のほうが勝っている。
こうした解釈が聴き古された名曲にかえって新鮮な印象を与えているのは指揮者の力量の示すところだろう。
一方『ポストホルン』ではモーツァルトの多彩でシンフォニックなオーケストレーションを遺憾なく再現した精緻で、しかも力強い指揮ぶりが冴えている。
また当時のベルリン・フィルのスター・プレイヤー達、ジェイムズ・ゴールウェイやローター・コッホのソロの美しさと巧妙なアンサンブルが花を添えた魅力に溢れる演奏だ。
尚メヌエットで活躍するポストホルンのソロはホルスト・アイヒラーが担当している。
1970年から79年にかけての録音で、音質は極めて良好。尚この7枚組のボックス・セットはSHM−CD仕様の日本盤でも再リリースされている。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2020年11月05日
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フリッチャイの『フィガロ』が人間劇を見せるオペラとすれば、ベームのそれはグランド・マナーで聴かせる洗練された手法が際立っている。
それゆえ実際の舞台での上演を比較するなら、前者はとんとん拍子に進む喜劇としての側面が最大限に生かされているし、後者は芝居の面白みよりも、むしろ音楽をじっくり聴かせる玄人向けの演奏だろう。
ベームはモーツァルトが書き記した音符を忠実に再現することに腐心していて、そのために習慣的に省略される第4幕のマルチェッリーナとドン・バジリオそれぞれのアリアも収録している。
マルチェッリーナのアリアの後半はコロラトゥーラの技巧がちりばめられた難曲なので、単なる脇役としてのキャスティングでは済まされない。
確かにモーツァルトの時代は総ての登場人物に最低1曲のアリアが与えられていたのも事実だ。
だから最終幕はバルバリーナの短いアリアから始まってマルチェッリーナ、ドン・バジリオ、フィガロそしてスザンナとアリアが連なっていて壮観だが、舞台での芝居の展開は緩慢になる。
しかしベームはとにかく音楽自体に語らせることに神経を集中させているようだ。
それだけに表現を歌手の自主性に任せることは避けているように思われる。
彼にとって『フィガロ』はそれほど思い入れのある、また熟練を要する作品として厳しく取り組んでいる姿が想像される。
1968年の録音で会場はベルリンのイエス・キリスト教会だが、音質はリマスタリングの効果もあってクリアーだ。
ベルリン・ドイツ・オペラの決して重くならない伴奏も舞台作品で鍛えた実力を示している。
歌手陣も当時のオール・スター・キャストを実現したもので、タイトル・ロールのヘルマン・プライ、フィッシャー=ディースカウの伯爵、ヤノヴィッツの伯爵夫人、エディット・マティスのスザンナ、トロヤノスのケルビーノなど現在では望めないような豪華な顔ぶれを揃えているのも魅力だ。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2020年06月29日
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ブルーレイ・オーディオとしての音質改善への期待が大き過ぎたためか、思ったほどではなかった。
デッカの音源自体に劣化が生じているのかも知れない。
確かに全体の音像も細密画的になり解像度も向上しているが、ウィーン・フィルのおおらかな空気感が少しばかり後退して、例えばオーボエの音色がやや鋭く痩せたように聴こえる。
マスターの保存状態やその消耗によっても変わってしまうだろうが、最近聴き込んでいる同時代のスプラフォン音源の方が優っているものが多い。
演奏内容については既に過去に投稿した名演なので今更云々しないことにする。
尚このディスクでは同音源の3種類のリマスタリングを聴き比べることが可能だが、それらの中での大差は感じられなかった。
このディスクの場合これまでSACDを始めとするさまざまなバージョンでリリースされてきた。
今回は粗製乱造とまでは言わないがブルーレイ・オーディオ化する場合先ず音源の吟味は必須だろう。
LP盤やレギュラー・フォーマットのCDと大差ない音質しか確保できないのであれば、改めてブルーレイでリニューアルする必然性はない。
廉価盤にしたのはそうした理由かも知れない。
理想的には最初からDSD録音された専用の音源から制作することが求められるので、このブルックナーのような歴史的名演は音質の改善という点に関しては当たり外れがあることも念頭に置かなければならないだろう。
1973年11月にウィーン・ゾフィエンザールで行われたセッション録音で、大編成のオーケストラの収容能力には限界があるムジークフェラインに代わって、デッカがその録音に頻繁に使ったプールの上に板を渡した仮設舞台でしかないが、音響空間が広いためか意外にもブルックナーなどの豊麗なサウンドを拾わなければならないレコーディングには向いていた。
このために全楽器が鳴り響くクライマックスではひとつの音塊になることが避けられて音の進展も良好だ。
また二手に分かれたブラス・セクションも力技ではなく、あくまでも音楽の推進力が伝わってくる録音であることも確かだ。
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2018年10月19日
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言わずと知れた不朽の名盤で幾度となくリイシューを繰り返しているベーム、ベルリン・フィルのモーツァルト交響曲集だが、最近の箱物ではハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン及びブラームスの交響曲を纏めた22枚がユニヴァーサル・イタリーから出ている。
事実上そのうち10枚のモーツァルトを抜き出したセットにブルーレイ・オーディオ1枚を加え、音質をグレードアップしたリニューアル盤ということになる。
個人的にはレギュラー・フォーマット盤10枚は割愛しても良かったと思うが、これからベーム演奏集のコレクションを始めたいという入門者にとってはリマスター盤のリリースは朗報だろう。
いずれにしても過去の名演奏家の記念碑的なコレクションは、ハイレゾによる音源のみの配信よりも、形として残るハード・メディアの方がまだ支持されることを熟知した企画と思われる。
同音源による従来盤CDとブルーレイ・オーディオを抱き合わせにするアイデアは専用の再生機器の普及状況に合わせたストラテジーだろう。
ただここで注目されるのは当然音質の変化なので、ブルーレイ・オーディオを聴き比べた感想を書いてみることにする。
同セットに組まれているCDと聴き比べると歴然としているが、DSDリマスタリングによるブルーレイ盤では解像度が俄然アップした。
そのために弦楽部は勿論フルートやオーボエなどのオーケストラのそれぞれの楽器の音像のディティールの違いが明瞭に感知できる。
レギュラー・フォーマット盤では音量が嵩上げされているが雑味も混入している。
ブルーレイではその点がすっきりして濁りや余計な音場の拡がりがなく、圧倒的な情報量のためか滑らかでより自然な音色が得られている。
同じ音量で鑑賞するとブルーレイの方が僅かにコンパクトに聞こえるが、ボリュームを上げると精緻な音質が破綻なく拡大される。
この差は明らかだ。
ブックレットは55ページで収録曲目リストの他に、ペーター・コッセのベームに関するエッセイとハインツ・ベッカーのモーツァルトの交響曲についての解説が欧文と共に日本語訳でも掲載されているのは親切な配慮だ。
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2018年06月04日
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これまでにユニヴァーサルからリリースされたベームのバジェット・ボックスは3組あり、ユニヴァーサル・イタリーのベートーヴェン、ブラームス、モーツァルト、シューベルトの交響曲全集22枚と、ドイツ・グラモフォンからの後期録音集23枚及び『カール・ベーム・ア・ライフ・イン・ミュージック』の29枚だが、更に今回グレイト・レコーディング集17枚が加わった。
収録曲目がだぶらないように効率良くコレクションするには、これら4セットのうちだぶリの多い『ア・ライフ・イン・ミュージック』を除いた3セットの購入が理想的で、協奏曲やオペラは別として入手困難なディスクを含むオーケストラル・ワークが正規グラモフォン音源で一挙に揃うことになる。
この17枚にはベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』、ハイドンのオラトリオ『四季』などの声楽曲も含まれている。
それらはモーツァルトの『レクイエム』と並ぶベームの宗教曲に対する造詣の深さと真摯かつ情熱的な解釈を示した貴重なサンプルでもあり、ひとつの模範的な演奏である筈だ。
リヒャルト・シュトラウスの『アルプス交響曲』を始めとする数曲のモノラル録音もあるが、いずれも本家の音源だけに音質自体は高度な鑑賞にも充分堪え得る破綻のない良好な状態に保たれている。
尚最後の2枚はボーナスCDになり、ベーム自信の語る音楽観とキャリアの回想及びシューベルトの交響曲『グレイト』の計40分以上に及ぶリハーサル風景とその後の全曲通しのセッションが収録されている。
ベームは筆者にとってドイツ・オーストリア音楽のスタンダードであり続けているが、同時代に活躍したカラヤンがベルリン・フィルの芸術監督であったこともあり、ベームと言えばウィーン・フィルの指揮者というイメージが強かった。
しかし、実際にはベームは1950年代から60年代にかけて、ベルリン・フィルやシュターツカペレ・ドレスデンとも多くの録音を残しており、それらをこのボックスでまとめて聴けることはありがたい。
その中には、かつてLPで所有していたベートーヴェン『エロイカ』やブラームス交響曲第1番の懐かしい名演だけでなく、その存在は知っていても耳にする機会がなかった一連のモノラル録音も含まれている。
ベームの音楽に対する姿勢や曲の基本的な解釈は当時から一貫しているが、その演奏全体から筆者が受けた印象は後年のウィーン・フィルの演奏とは大きく異なった。
このボックスに収められた一連の録音は、ベームという指揮者を改めて再発見させてくれるのではないだろうか。
75ページほどのライナー・ノーツには収録曲目と録音データの他にヘルゲ・グリューネヴァルトのエッセイが珍しく日本語訳で掲載されているのは親切な配慮だ。
また声楽曲に関しては全曲英語対訳歌詞付。
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2018年04月25日
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カール・ベームがウィーン・フィル及びベルリン・フィルを振ったセッション録音の中から、複数の作曲家の交響曲を網羅したセット物のリリースは今回が初めてになる。
ベートーヴェン、ブラームス、モーツァルトとシューベルトの交響曲全曲を22枚のCDにまとめたユニヴァーサル・イタリーの意欲的な企画のひとつと言える。
尚ブラームスでは『ハイドンの主題による変奏曲』、『アルト・ラプソディー』及び『悲劇的序曲』が含まれているが、ベートーヴェンでは序曲は除外されている。
またこのセットにハイドンが組み込まれなかったのは残念だが、とにかくこれでベームの古典派からロマン派にかけての交響曲の世界とその至芸が理想的に俯瞰できることになる。
既にベーム・ファンであれば説明は要らないが、ベートーヴェン(1970-72年録音)とブラームス(1975-77)がウィーン・フィル、モーツァルト(1959-68)とシューベルト(1963-71)がベルリン・フィルとの協演で幸い音質も良好だ。
ベームの目指した演奏は、一言で言えば音楽作品の聴衆へのダイレクトな伝達で、それを阻むような恣意的な要素や不必要と見做される一切の仲介手段を退けたことだろう。
他の指揮者に感じられるようなカリスマ性や、魅力的な外見などとはそれほど縁の無い職人気質の芸術家だった。
指揮法も体全体を使った派手な身振りやこれ見よがしのアピールなどはしなかった。
それにも拘らずオーケストラから溢れ出るような高い音楽性が引き出され、作曲家がイメージしていたのはこうした音楽だったのかと納得させられる音響が最短距離で再現された。
そこには喜びも悲しみも、また甘美な抒情や静謐も、そして英雄的な力強さも硬直することなく総てが自在に、しかも絶妙な中庸を持って表現されている。
しかしそのためにはオーケストラとの厳格な下稽古やリハーサルが欠かせなかったことは周知の通りだ。
だからこそ彼の音楽からは一朝一夕には成就できない、作品に対する徹底した見識と磨きぬかれたセンスが感じられるのだろう。
ブックレットは30ページほどで、曲目データの他にベームのキャリアが英、伊語で簡潔に掲載されている。
ボックス・サイズは13X13X6cmで装丁はしっかりしているが、それぞれの紙ジャケットは白地に曲目がプリントされたシンプルそのもののデザイン。
このページのタイトルには当初リミテッド・エディションと書かれていたが、実際にはボックスにもライナー・ノーツにもその表示はない。
確かにこうしたバジェット価格のセット物は通常1回限りのリリースになるので再版が望めないという意味だろう。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2018年01月30日
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カール・ベーム(1894-1981)のドイツ・グラモフォン音源の中からオペラ及び声楽曲を集大成した70枚のセットで、オペラ23曲中ヘンデルの『ジュリオ・チェーザレ』のみがハイライトでその他はセッションとライヴからの全曲盤になる。
しかもCD68のメトロポリタン歌劇場ガラ・コンサートでのただ1曲のヴェルディを除いて総てが独墺系作曲家の作品群で、その意味でも彼の真骨頂とも言える演奏が一同に会しているのが圧巻だ。
収録作品をパノラミックに概観すると声楽曲はベートーヴェン:『ミサ・ソレムニス』(1955年モノラル録音及び74年ステレオ録音の2種) ハイドン:オラトリオ『四季』(1967年ステレオ録音) マーラー:1)『亡き子を偲ぶ歌』 2)『リュッケルト歌曲集』バリトン/ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ(以上1963年ステレオ録音) ブラームス:『アルト・ラプソディー』コントラルト/クリスタ・ルートヴィヒ(1976年ステレオ録音) モーツァルト:『レクイエム』(1971年ステレオ録音)
一方オペラはベートーヴェン:『フィデリオ』(1969年ステレオ録音) ベルク:1)『ヴォツェック』(1965年ステレオ録音) 2)『ルル』(1968年ステレオ録音) ヘンデル:『ジュリオ・チェーザレ』ハイライト(1960年ステレオ録音) モーツァルト:1)『イドメネオ』(1977年ステレオ録音) 2)『後宮からの逃走』(1973年ステレオ録音) 3)『フィガロの結婚』(1968年ステレオ録音) 4)『ドン・ジョヴァンニ』(1967年及び77年ステレオ録音の2種) 5)『コシ・ファン・トゥッテ』(1974年ステレオ録音) 6)『魔笛』(1964年ステレオ録音) 7)『劇場支配人』(1973年ステレオ録音) 8)『皇帝ティトの慈悲』(1979年ステレオ録音) R.シュトラウス:1)『サロメ』(1970年ハンブルク・ステレオ・ライヴ) 2)『エレクトラ』(1960年ステレオ録音) 3)『ばらの騎士』(1958年ステレオ録音及び1969ザルツブルク・ステレオ・ライヴの2種) 4)『ナクソスのアリアドネ』(1944年ウィーン・モノラル・ライヴ、1954ザルツブルク・モノラル・ライヴ及び1969年ステレオ録音の3種) 5)『影のない女』(1977年ウィーン・ステレオ・ライヴ) 6)『アラベラ』(1947年ザルツブルク・モノラル・ライヴ) 7)『無口な女』(1959年ザルツブルク・モノラル・ライヴ) 8)『ダフネ』(1964年ウィーン・ステレオ・ライヴ) 9)『カプリッチョ』(1971年ステレオ録音) ワーグナー:1)『さまよえるオランダ人』(1971年バイロイト・ステレオ・ライヴ) 2)『トリスタンとイゾルデ』(1966年バイロイト・ステレオ・ライヴ)
こうしたラインナップを見るとベームの凄さを改めて実感できる。
ワーグナーは、バイロイトで『指環』をふくめ破格の名演を多く紡ぎだしたが、本集ではそれはごく一部にとどめている。
また、モーツァルトとベートーヴェンでも抜群の成果ながら、ここはテイストの違いもあって競合盤も多い。
しかし、R.シュトラウス、ベルクでは作曲家からの信認をえていたベームの「君臨」はまさに独壇場で、そこを集中的に収録しているのが本集の最大の特色だろう。
尚CD68の後半からCD70までは1960年から73年に行われたベームへのインタビュー集で、モーツァルト、R.シュトラウス、ウィーン・フィルについての所感や自身のキャリアへの回想録になる。
縦20.4X横20.5X高さ14.5cmの大型カートン・ボックスで、内側に更に4つのラックに分けてそれぞれのディスクがオリジナル・デザイン・ジャケットに収納されている。
ブックレットは19X19cmで143ページの単行本仕様。
殆んどがトラック・リストに費やされていて歌詞対訳もないが、リチャード・オズボーンの書き下ろしエッセイの日本語訳を掲載。
幾つかのスナップの中ではリハーサル風景の数葉とリヒャルト・シュトラウスと共にデッキチェアを並べて寛ぐ写真が印象的。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2017年06月14日
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ここ数年間でカール・ベーム円熟期を代表する演奏のバジェット・ボックスが次々とリリースされている。
ユニヴァーサル・イタリーからの交響曲集22枚、ドイツ・グラモフォンからの後期録音集23枚及びグレイト・レコーディングス17枚の3セットを揃えると、オペラ全曲盤は別としても彼のオーケストラル・ワークでの公式セッション録音の殆んどを網羅することが可能だ。
それらは比較的録音状態にも恵まれているが、オールド・ファンやコレクターにとってはその前の着々とキャリアを積んでいた壮年期の演奏も聴き逃せない。
確かにノイズに塗れた録音も多く入門者にはお薦めできないが、ベームの解釈や指揮法の変遷を知りたい方にとっては非常に貴重なサンプルだろう。
彼はフリッツ・ブッシュの後を継いで1934年にシュターツカペレ・ドレスデンのカペルマイスターに就任するが、この時代のエレクトローラへの全音源がCD1から14までに収録されている。
その後ベームはウィーン・シュターツオーパーに活動を移し、彼らとのエレクトローラ、HMVへの録音が後半の4枚に、そしてベルリン・フィル及びフィルハーモニアへの客演が1枚強という内訳になっている。
この時代既にベームはリヒャルト・シュトラウスからも絶大な信頼を得ていて、彼がドレスデンで初演した年の『ダフネ』の抜粋や交響詩『ティル』『ドン・ファン』、オペラでは『サロメ』『薔薇の騎士』などでその片鱗を窺うことができる。
戦前から戦後にかけてオーケストラル・ワークを中心にしたレパートリーだけでもこれだけの録音を遺しているという事実は、如何に彼の手腕が買われていたかという証明でもある。
このセットの中で最も古い演奏は彼がドレスデンに就任した直後1935年のベートーヴェンの『エグモント序曲』とロルツィングの喜歌劇からの2曲で、一番新しいものでもセットの後半に収録されている1949年のウィーン・フィルとのモーツァルトを中心としたプログラムになる。
ここでのオペラや声楽曲はごく一部だが、爆撃で瓦礫の山に帰す前のゼンパーオーパーが如何に精彩に富んだレパートリーの上演を敢行していたか想像に難くない。
ライナー・ノーツ巻末にはこのセットに使用されたオリジナル音源の出典一覧表がオーケストラごとに掲載されている。
尚総てがモノラル録音で、オペラはドイツ語及びドイツ語訳詞による歌唱。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2017年02月05日
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円熟の極みにあったベームの指揮と、ウィーン・フィルの伝統のある響きと卓越した表現力が一体化した名盤。
男性的ともいえる雄渾な楽想とともに、限りない憧憬を秘めた第3楽章が映画音楽に使われた交響曲第3番と、哀愁感や情感を存分に湛え内省的で諦観に満ちた、作曲家晩年の枯淡の境地を示す交響曲第4番を収録。
ベームのブラームスと言えば、「第1」にはベルリン・フィルとの旧盤(1959年スタジオ録音)、ウィーン・フィルとの来日公演のライヴ録音(1975年)があり、「第2」にもベルリン・フィルとの旧盤(1956年スタジオ録音)、ウィーン・フィルとの来日公演のライヴ(1977年)が存在する。
しかし「第3」と「第4」にはそのような競合盤が存在せず、本盤がそれぞれのベームの代表盤と言うことができる。
遅いテンポで悠然と進むなかにも緊張感がみなぎっていて、ベームの録音のなかでも高い評価を得ているもののひとつ。
ブラームスとベームの相性は抜群だと思う。
ブラームスの渋い芸風が、これまたベームの華やかさと無縁の芸風と見事に符合し、ブラームス演奏のひとつの規範とも言えるオーソドックスな演奏に仕上がっている。
近年のブラームスの交響曲で、最も規範とされているに違いない充実の名演と言えるところであり、月並みな言い方だが、まさに両曲とも最高の意味でのオーソドックスという言葉が相応しい。
十分に力強くありながら、同時に柔軟でもあり、情に流されることがなく、構造美への志向が高い。
それは、ただ見事というだけでなく、ここに暖かな人間の血が通っているのであり、晩年のベームと伝統のウィーン・フィルの美質がしっかり刻まれていて、全体としてブラームスの交響曲の魅力を大いに味わわせてくれる。
ベームには、この曲をこのように料理してやろうと言う恣意的な解釈は皆無であり、こうしたベームの自然体のアプローチが、ブラームスの芸術の真の魅力を存分に満喫させてくれるのである。
特に「第4」は、この曲の真髄を突いた最高級の表現であり、そのようなベームとブラームスの相性の良さを感じさせる名演だと思う。
こうした構造の精緻な音楽はベームも最も得意とするところだが、録音当時80歳、寂寥感とか哀愁を感じさせるところが少なくない。
中庸のテンポで、決して奇を衒うことなくオーソドックスな演奏をしているが、平板さや冗長さは皆無であり、ブラームスの音楽の素晴らしさ、美しさ、更には、晩年のブラームスならではの人生のわびしさ、諦観などがダイレクトに伝わってくる。
ベームは、その自伝に著しているように、造型を大切にする指揮者であるが、凝縮度は壮年期に比して衰えは見られるものの、全体の造型にはいささかの揺るぎもみられない。
一方、「第3」は、まとめるのがなかなか難しい曲だけに、「第4」ほどの名演ではないと思うが、全篇ゆったりと恰幅の良いテンポに、中身がぎっしり詰まっている。
第2楽章の濃厚な歌はまるで夢うつつの天国的気分、第3楽章には枯れた味わいなど、いかにも晩年のベームならではの至芸を味わうことができるが、それでいて、両端楽章の地を抉るような深いリズムなど一瞬たりとも集中の途切れることがない。
それにしても、この頃(1970年半ば)のウィーン・フィルは音の厚みとともに合奏が途轍もなく強力だ。
1950年代後半から1960年代初頭にかけての絶頂期以来、もうひとつの頂点にあったのではないだろうか。
セッションだけあって盛り上がりはいまひとつとも言えるかもしれないし、ライヴなら全体として、もっと燃え立った表現になっていると思われるが、それを補って余りある緻密で味の濃い演奏は、LP時代から未だに離れられないでいる。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2016年11月01日
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ドイツ・グラモフォンからブラームス・エディション全8巻が刊行されたのは、確か作曲家の没後100周年を前にした1996年だったと思う。
しかしその全集と更に翌年のベートーヴェン全集に組み入れられた交響曲全集はカラヤン&ベルリン・フィルのものだった。
確かに人気、実力ともに彼らの演奏は圧倒的な強みを持っていたので、当然と言えば当然の選択だったのかも知れない。
だがベーム&ウィーン・フィルによる交響曲全集はあくまでもウィーン流美学にこだわったブラームスで、他の指揮者やオーケストラでは替え難い魅力を持っており、このコンビのスタイル全開の演奏を堪能できるものだ。
また随所に聴かれるソロ・パートやアンサンブルの巧みさ、弦の響きの瑞々しさとウィンナ・ホルンの渋い音色などがベーム晩年の鷹揚かつ洗練された手法で絶妙に統合されている。
交響曲第1番の冒頭や終楽章の追い込みでもベームの指揮はことさら個性を強調したものではないし、迫力を誇示するようなハッタリもない自然体が基調だ。
それは音楽自体が内包するエネルギーの開放であり、オーケストラをこれだけ美しく響かせながら律儀に構築されたブラームスも珍しいのではないだろうか。
緩徐部分では秋の日の静かな森の中を散策しているような木の葉のざわめきや木漏れ日をイメージさせる。
第2楽章での官能的なソロ・ヴァイオリンは当時のコンサート・マスター、ゲルハルト・へッツェルが弾いている。
交響曲第2番は第1番の張り詰めた緊張感から開放された、安らぎと機知に富んだ作曲家のアイデアが面目躍如だ。
冒頭のテーマがウィンナ・ホルンの牧歌的な響きを充分に醸し出していて、この曲全体の雰囲気を決定しているのも印象的だ。
また終楽章でも決して羽目を外さない厳格さには、流石にブラームスを知り尽くしているベームの頑固なまでに堅実な指揮ぶりが健在である。
第3番冒頭のブラス・パートの荘厳な響きは決してスペクタクルな効果を狙ったものではないが、このオーケストラの伝統を背負うような重厚なハーモニーだ。
またしばしば現れる管楽器のソロも弦楽器のたゆとうようなメロディーも、ベームの采配によって雄弁にまとめられている。
第3楽章ポコ・アレグレットのひたひたと忍び寄るような諦観も彼ら独自の表現である。
当時のウィーン・フィルはコンサート・マスターのへッツェルを始めとしてフルートのトリップ、クラリネットのプリンツ、ファゴットのツェーマンやホルンのヘーグナーなどの首席奏者達の全盛期で、彼らがウィーン・フィルの音色やウィーンの演奏スタイルを決定していたと言っても過言ではないだろう。
また第4番冒頭の瑞々しい哀愁も、カラヤン&ベルリン・フィルとは全く異なった枯淡の味わいを持っている。
しかしそれは脆弱さとは無縁で、第2楽章の静謐だが溢れんばかりの幸福感に満たされたオーケストレーションの処理や終楽章パッサカリアの造形美の鮮やかさもベームの卓越した指揮法に負っている。
カップリングには、『ハイドンの主題による変奏曲』、クリスタ・ルートヴィヒのメゾ・ソプラノとウィーン楽友協会の男声コーラスが加わる『アルト・ラプソディー』、そして『悲劇的序曲』の3曲が収録されている。
彼らが『大学祝典序曲』を残してくれなかったのは残念だが、これらの作品にもウィーンの演奏者ならではの情緒が滲み出ている。
それは後半生を同地で過ごしたブラームスの作品の解釈において、ひとつの流儀として受け継がれているのではないだろうか。
『ハイドンの主題による変奏曲』は、端正な音楽作りと上品な佇まいで、数多いこの曲の演奏の中では傑出したセッションと言える。
『アルト・ラプソディー』で歌われるゲーテの『冬のハルツ紀行』は、まさに当時のブラームスの心境を反映させた内面的な独白をアルト・ソロに託している。
クリスタ・ルートヴィヒはウィーン出身ではないが、ベームの薫陶を受けた歌手だけあって指揮者のこだわりをわきまえた理知的で、しかもリリカルになり過ぎない手堅い表現が秀逸だ。
『悲劇的序曲』では、ベームはこの作品のタイトルを額面通りに受け止めるのではなく、むしろ古典派的な様式感を感知させることに注意を払っているようで、それだけにドラマティックな表現はいくらか控えめに留めている。
録音場所は総てウィーンの黄金ホールと呼ばれるムジークフェラインのグローサー・ザールで、1870年オープンの歴史的コンサート・ホールだ。
この演奏会場は内部装飾の豪華さもさることながら、残響の潤沢なことでも良く知られている。
因みに残響時間は1680人の満席時で2秒なので、当然聴衆のいないセッションでは更に長くなる。
曲種によってはそれがいくらか煩わしいこともあるが、こうした純粋なオーケストラル・ワークでは最良の効果を発揮できる。
録音は1975年から77年にかけてのベーム最晩年のセッションになるが、音楽的な高揚と充実感は全く衰えておらず、音質はこの時代のものとしては極めて良好で、楽器間の分離状態、高音の伸びや潤いも時代を感じさせず、臨場感にも不足していない。
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2016年10月12日
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ベームは、ワルターと同じく終生に渡ってモーツァルトの音楽に傾倒し、深く敬愛していた指揮者であった。
ベルリン・フィルと成し遂げた交響曲全集(1959〜1968年)や、バックハウスやポリーニと組んで演奏したピアノ協奏曲の数々、ウィーン・フィルやベルリン・フィルのトップ奏者との各種協奏曲、そして様々なオペラなど、その膨大な録音は、ベームのディスコグラフィの枢要を占めるものであると言っても過言ではあるまい。
そのようなベームも晩年になって、ウィーン・フィルとの2度目の交響曲全集の録音を開始することになった。
しかしながら、有名な6曲(第29、35、38〜41番)を録音したところで、この世を去ることになってしまい、結局は2度目の全集完成を果たすことができなかったところである。
ところで、このウィーン・フィルとの演奏の評価が不当に低いというか、今や殆ど顧みられない存在となりつつあるのはいかがなものであろうか。
ベルリン・フィルとの全集、特に主要な6曲(第35、36、38〜41番)については、リマスタリングが何度も繰り返されるとともに、とりわけ第40番及び第41番についてはシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化もされているにもかかわらず、ウィーン・フィルとの録音は、リマスタリングされるどころか、国内盤は一時廃盤の憂き目に陥ったという極めて嘆かわしい現状にある。
確かに、本盤に収められた第40番及び第41番の演奏については、ベルリン・フィルとの演奏(1961年)と比較すると、ベームならではの躍動感溢れるリズムが硬直化し、ひどく重々しい演奏になっている。
ベームの指揮の一大特徴であるリズムの生気は、典雅な柔らか味をこえて、しばしば鋭い鋭さを示していて、モーツァルトの交響曲に存在している高貴にして優美な愉悦性が著しく損なわれているのは事実である。
しかしながら、一聴すると武骨とも言えるような各フレーズから滲み出してくる奥行きのある情感は、人生の辛酸を舐め尽くした老巨匠だけが描出し得る諦観や枯淡の味わいに満たされていると言えるところであり、その神々しいまでの崇高さにおいては、ベルリン・フィルとの演奏をはるかに凌駕している。
感傷的な流れに陥らず、楽曲のもつ構成的な美しさを引き出しているところが見事であり、響きの色彩の具合も単純明快で、情感的世界に結びつき易い色合いを強く制している。
また、かつてのようないかめしさが影をひそめ、しなやかな表情を強く表出しているのが特徴で、長年慣れ親しんだウィーン・フィルを、なごやかに指揮しているといった感じがよく出ていて、両曲ともこのオケ固有のオーボエとホルンの音が有効に使われている。
また、この2曲で特に目立つのはテンポの設定と楽想のリズム的および歌謡的性格とをはっきりと打ち出そうとしていることで、徹底的に美のありかを追究して何かをいつも発見してゆくベームの指揮は、やはり厳しさと鋭さの点で強く打つものがあり、多少流れの自然さを失うところがあってもなおモーツァルトの強靭な楽想発明力に関して納得させるところが大きい。
いずれにしても、総体としてはベルリン・フィル盤の方がより優れた名演と言えるが、本演奏の前述のような奥行きのある味わい深さ、峻厳さ、崇高さにも抗し難い魅力があり、本演奏をベームの最晩年を代表する名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。
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2016年09月07日
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1970年から72年にかけてのセッションだが、今回SHM−CD化されたこともあって音質はきわめて良好になっている。
低音から高音まで無理のない伸展とクリアーな質感が感じられ、ウィーン・フィル特有のシックな音色がより艶やかに響いている。
価格を1枚1500円に抑えていることは評価できるが、ライナー・ノーツは古いものの焼き直しで、24ページほどの曲目解説の中でベームについてはわずか2ページのみしかなく、この企画に当たって改訂しなかったのは残念だ。
筆者は、初めてLPで第2番の終楽章を聴いた時,これは本物だと思った記憶があり、それは第4番の終楽章でも同様に感じた。
あたかもベートーヴェンの音響力学を冷徹に解明したかのような、頑固なまでに真っ正直で作為のない音楽だったからだ。
若い頃は往々にしてエキサイティングで情熱的な演奏に惹かれるものだが、この違いは何だろうという疑問を初めて抱かせてくれたのがベームだった。
彼はベートーヴェンの音楽の中にあえて恣意的な見せ場を作ろうとしない。
むしろ見せ場があるとすれば、それは総てスコアに書き込まれていて、その通りに演奏することによって自ずと明らかになるというポリシーを生涯貫いていたに違いない。
一方でその実現のために彼によって鍛えられ、一糸乱れぬ統一感を与えるウィーン・フィルも相当我慢強いオーケストラであることが想像されるが、奇しくも当時はスター・プレイヤーがひしめいていた、この楽団の黄金期が重なっているのも魅力だった。
それ以来彼らの演奏は欠かさず聴いてきたが、その後1997年にドイツ・グラモフォンからCD20セット計87枚のベートーヴェン全集が刊行された時、期待していたこの全集は選択から外され、カラヤン&ベルリン・フィルのものが組み込まれた。
ポピュラー性から言えば後者は圧倒的な強みを持っていたので、売れ筋から考えれば当然の結果だったかもしれない。
ちなみに先般リリースされたウィーン・フィルの50枚組シンフォニー・エディションでも、ベートーヴェンは第6番と第8番のみがこのメンバーで、他はバーンスタイン、クライバー、アバドの混成になっている。
不運にもベームは他の指揮者に追いやられつつあるが、このセットを聴き込めばそれが不当なものであることが理解できるだろう。
指揮者の中には自己の音楽的表現手段として作品を扱うタイプと、ベームのように作曲家、あるいはその作品にできる限り奉仕してその価値を問うタイプが存在する。
勿論その間のバランスの采配が多かれ少なかれどの指揮者にもあり、一概にその良し悪しを論ずることはできないが、結果的に前者の演奏では聴衆の注意は指揮者個人に払われ、後者ではその興味はより一層作品や作曲家に向けられるだろう。
そうした意味でベームの解釈は、流行り廃れのない、より普遍的な価値を持っているように思う。
またこの一連のセッションの魅力はベームによって統制されたウィーン・フィルの瑞々しいアンサンブルの格調の高さにある。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2016年07月25日
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ベームがベルリン・ドイツ・オペラを指揮した『ヴォツェック』(1965年スタジオ録音)、『ルル』(1968年ライヴ録音)は、今も忘れ難い古典的名盤で、別項に掲げたブーレーズ盤と双璧をなし、現在でも本盤の価値は未だに減じてはいない。
厳しい表現を覆う青白いペシミズムや沈鬱なムードは、表現主義が栄える一歩手前の象徴主義的新ロマン主義の世界に近いけれども、ドラマティックな展開の中に、時代背景をよく描き出し、ベルクの音楽の美しさと力が確固とした表現となって再現された演奏である。
作品としてのリアリティならびにドラマトゥルギーの見事さは、むしろ当盤の方に強く現れていると言ってよい。
『ヴォツェック』はミトロプーロスによる初録音や、1963年のホルライザーによるライヴ録音と比較してみると、改めて、このベーム盤の見事さが理解できる。
ベームは厳格極まりないアンサンブルの緻密さを目指しながらも、ベルクの音楽の美しさと、各場面の心理的描写の綾を見事に描いている。
そしてベームは、このオペラの現代性や構成上の特質を殊更に強調しようとはせず、あたかもR.シュトラウスのオペラの延長上で捉えているかにみえる。
このアプローチの中から、巧まずして作品の緊密な書法と緊迫感溢れる音楽特性が鋭利に抉り出される。
こうしたベームの厳しい音楽作り、ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団の原色的な音の肌触りと抜群のうまさ、フィッシャー=ディースカウやシュトルツェらの自在な役作りの面白さの魅力は、永遠の生命を持っている。
F=ディースカウ演じるヴォツェックはかなり特異で、“疎外された人間”のイメージとは隔たりがあるにせよ、精妙きわまりない歌唱を聴かせており、緻密な、しかも鋭い心理の襞の描出は素晴らしく、やはり超一流である。
主人公の心理の想像を越えた起伏、その激しいゆれをその歌声は克明に綴っていき、「我ら貧しきものたち」の悲劇はこの歌唱のなかでまさに劇的に進展していくと言ってもよいだろう。
更にリアーによる迫真のマリー役、シュトルツェ入神の大尉役、ヴンダーリヒのアンドレス役、ともに大きな聴きどころであり、その存在感と説得力は今も色褪せておらず、最高のキャスティングを生かしきったベームの演出力には凄味すら感じる。
チェルハ3幕完成版が話題を呼んでいる現在も尚、ベームの『ルル』はこの作品の代表盤であろう。
歌手陣の充実はもとより、ベームとベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団の強靭でしかも豊穣な曲運びには感嘆させられる。
ベームの姿勢はあくまで峻厳だが、その根本姿勢に現代音楽への気負いは皆無で、むしろ古典的と言おうか、従来の調性オペラへのアプローチと変わることのない行き方を貫いている感があり、それゆえこの十二音オペラが、少しも十二音的でなく聴こえる。
もちろんベルク後期、調性と十二音列の融和への志向はとみに著しいが、かといってベームは甘美なロマンに微塵も溺れはせず、自然体の構築の中から、作品の複雑な楽曲構成を浮かび上がらせる演奏だ。
ここで『ルル』は過去と決別した20世紀の異様なオペラではなく、伝統の上に立つ傑作として演奏されているが、それがまた凄い。
ただし、ライヴ録音ゆえか、必ずしもベームとしては万全のものとは言えず、もっと時間をかけた丹念な演奏をスタジオ録音して欲しかったと惜しまれる。
とはいえ冷たく妖艶なリアーと、完璧なまでの語り口のF=ディースカウなどの歌手陣の熱演は、まさに壮観そのものだ。
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2016年07月03日
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英テスタメントからの新譜で2枚のベーム初出音源がリリースされた。
こちらは1968年8月11日のザルツブルク音楽祭での祝祭大劇場でのライヴ、もう1枚のブルックナー第8番が1969年のベルリン・ライヴでどちらもベルリン・フィルとの共演になる。
この日のプログラムはベートーヴェンの交響曲第2番ニ長調、モーツァルトの交響曲第34番ハ長調、そしてストラヴィンスキーのバレエ組曲『火の鳥』で、いずれもベームによって磨き抜かれたレパートリーだけにセッションも含めて複数の音源が遺されている。
残響の少ないややデッドなサウンドだが音質は鮮明で、またヒス・ノイズも客席からの雑音も無視できる程度のものなので鑑賞には全く不都合はない。
ベームのベートーヴェンの交響曲第2番にはどの録音でも特有の新鮮さが感じられる。
彼はこの作品の普遍的な価値を知り尽くしていて、それだけに何時でも初心に返って作曲家への敬意とその演奏に迸るような情熱を失うことがなかったからであろう。
作曲家若書きの作品を彼のような大指揮者が繰り返し演奏することはむしろ稀ではないだろうか。
モーツァルトも端正だが生気に溢れた瑞々しい演奏で、第3楽章メヌエットのトリオでは当時のベルリン・フィルの首席奏者達による巧みなやりとりが聴きどころだ。
他の曲にも共通しているが、この時期にはフルートのカールハインツ・ツェラー、オーボエのローター・コッホ、そしてクラリネットのカール・ライスターなどのスター・プレイヤーがその美しい音色と技を競い合っていたベルリン・フィル黄金時代に当たる。
ベームは同郷のカラヤンと違ってラテン系の作品には触手を伸ばさず、頑固一徹を地で行くようにゲルマン系の作品に拘った。
そうした中で例外的に採り上げたのがチャイコフスキーからストラヴィンスキーに至るスラヴ系作曲家の幾つかの作品で、『火の鳥』はベームが自分自身で納得して繰り返し演奏できる曲でなければ採り上げなかったレパートリーのひとつとして完全に定着していた。
非常に几帳面な仕上がりで、管弦楽の色彩感や幻想的な雰囲気を強調するのではなく、楽譜から誠実に読み取った作曲家のメッセージをひたすら精緻なアンサンブルと揺るがせにしないリズム感や全オーケストラのダイナミズムで導いていく再現は如何にも彼らしい。
しかし決して肩の凝る演奏ではなく、ベルリン・フィルの実力をフルに発揮させる高揚感には格別なものがある。
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2016年07月01日
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ライナー・ノーツの録音データを見ると1969年11月26日ベルリンのフィルハーモニーでのライヴ録音と記載されていて、共演のオーケストラは勿論ベルリン・フィルなので確かにこれまで正規リリースされていなかった初出音源ということになる。
ドイッチュラント・ラジオによる録音のようだが英テスタメント独自のディジタル・リマスタリングの効果もあってオン・マイクで採った骨太で鮮明な音質が甦っている。
録音レベルが高く臨場感にも不足していないし、またそれだけにベームの音楽的構想と音響空間が手に取るように伝わって来るブルックナーだ。
客席からの雑音は演奏終了後の拍手喝采は別として、楽章間の短いインターバルで僅かに聞こえる程度で、演奏中は皆無なのもこの時代のライヴとしては優秀だ。
この演奏は第2稿、つまり1890年バージョンになり、ベームの覇気と練達の技とも言える構築性がバランス良く表れたライヴではないだろうか。
現行の音源では彼が指揮した第8番は他に1971年のバイエルン放送響とのライヴ及び1976年のウィーン・フィルとのセッションが存在するが、それらの中ではこの録音が最も早い時期のものになり、テンポに関してはウィーン・フィルの壮麗な足取りよりは速く、バイエルンの血気に逸る演奏よりは僅かに遅い。
ブルックナーの霧と呼ばれる冒頭からクライマックスでのブラス・セクションの咆哮、そして執拗なまでのモティーフの反復に至るまで常に地に足の着いた音響が特徴的で、明瞭な輪郭を失うことなく音楽を彫琢していくベームによって、ベルリン・フィルが見事に統率されている。
曲中最も長い第3楽章アダージョも小細工なしの正攻法で、流れを堰き止めたりテンションを落とすことなく終楽章に導いていくベームの手法が面目躍如たる演奏で、音響力学による造形とも言えるブルックナーの作法の真髄に迫った素晴らしい仕上がりを見せている。
また指揮者に付き従いながらその構想を成就させるベルリン・フィルの隙のないアンサンブルと余裕のあるパワフルな音量も特筆される。
ベームは相手がたとえベルリン・フィルであっても妥協を許さなかったことが想像されるが、オーケストラのバランスの保持と細部の合わせにもベーム、ベルリン・フィルのコラボレーションと両者の力量が示された演奏だ。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2016年02月10日
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カール・ベームの指揮したR.シュトラウスのオペラ全曲盤の第2集であるが、先ず音質について述べると、第1集が期待していたほど良いものではなかったので今回も当てにしてはいなかったが、意外にもまともな音が聞こえてきて概ね良好だ。
『エレクトラ』と『影のない女』はいずれも初期のステレオ録音であるにも拘らず、セッションということもあって2巻全8曲を通して最も良い状態で鑑賞できる。
前者はタイトル・ロールのインゲ・ボルクとオレスト役のフィッシャー=ディースカウのいやがうえにも緊張感を高める表現力が圧倒的だし、後者は世界初の全曲録音に輝いた、またR.シュトラウスの良き理解者としての実力を縦横に発揮したベームの意欲的なセッションと言える。
他の2曲はライヴでそれなりのノイズは入っているが破綻もなく、音源は鑑賞に差しつかえない程度に保たれている。
またベーム初演の演目『ダフネ』が1944年のウィーン・ライヴで収められているのも聴き逃せない。
この価格でベームの指揮したオペラ全曲盤が揃うのは朗報に違いない。
ベームの力量は作曲家自身が彼に『ダフネ』を献呈しているように、こうしたオペラ上演にも良く表れている。
高い文学的な素養が要求され、歌手への行き届いたコントロールと同時に大規模で複雑極まりないオーケストレーションを操らなければならない煩雑な作業は、彼が一般的に考えられているような堅物の指揮者のイメージからは想像できない、遥かに柔軟で融通性を持った人であったことを証明している。
また解釈も現在の私たちが聴いても違和感のない新しいもので、例えば『影のない女』での終幕の抒情性は決して耽美的ではなく、来たるべき時代の知性的で洗練された趣味を先取りしている。
10枚目はボーナスCDで、1939年から1944年にかけてのウィーンやドレスデンでの古いライヴからピックアップされた10場面が収録されている。
1曲目の『サロメ』から「7つのヴェールの踊り」は音質が一昔前の海賊盤のようで驚いたが、1939年のライヴから抜き取ったものなのでご愛嬌と言ったところだろうか。
しかしその他のトラックは時代相応の比較的良い状態で残されていて、それぞれの演奏水準も高いのが救いだ。
尚ここからは余談になるが、この時代はウィーンやドレスデンにも爆撃の危機が迫っていたにも拘らず、彼らの文化の灯を死守しようとする執拗とも思える音楽への渇望と執着には敬服せざるを得ない。
ドレスデンは1945年2月に連合軍による無差別爆撃を被ってゼンパー・オーパーは瓦礫と化したが、ウィーン国立歌劇場も爆撃によって大破する同年3月までは平然と公演が組まれていたし、被害を受けた後も拠点をフォルクス・オーパーとアン・デア・ヴィーンに移してその活動を続けた。
10年後に再建された国立歌劇場がベームの指揮によるベートーヴェンの『フィデリオ』で再び幕を開けたことも象徴的である。
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2015年12月30日
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ベーム晩年を特徴づける表現力の懐の深さによって、どの楽曲を幾度耳にしても飽きのこないオーソドックスな音楽づくりを感じさせてくれるのがこのセットのセールス・ポイントだ。
ベームの演奏は、ベートーヴェン、シューベルトからブルックナーなどでも共通し全体構成がしっかりと組み立てられており、厳格なイン・テンポで、かつ弦と管の楽器のバランスと融合が絶妙でどちらかが突出するということがない。
それを可能とするのは、幾度もベーム自身が語っているように、スコアを徹底的に読み込み(新即物主義と言われる場合もある)、オーケストラに周到な練習を課することによって可能となる。
その一方、リスナーにとってどこに連れていかれるかわからないような、ある種のワクワクドキドキ感(たとえばカルロス・クライバー)とは無縁である。
以上の特質から、ベームらしさとは非常な集中力のもと、はじめの1音から作品そのものに導き、演奏の個性よりも作曲家の心象へリスナーの関心が集中することにある。
落ち着きのあるアプローチは、重心の低さを常に意識させるが、磨かれた音は、けっして軽からず重からず、ウィーン・フィルの場合は特に瑞々しくも美しい。
この23枚はベームがドイツ・グラモフォンに録音した演奏集の中でも比較的晩年のセッションからオーケストラル・ワークを中心に収録されている。
そのために録音状態も良好で、またランダムに選曲したようで意外にも先頃ユニヴァーサル・イタリーからリリースされた彼の交響曲集22枚のバジェット・ボックス・セットとの曲目のだぶりが皆無なのが嬉しい。
このセットのモーツァルトの交響曲集とシューベルトの交響曲第9番はウィーン・フィルを振ったものだし、ベートーヴェンの『第9』は1980年の再録音の方が選ばれている。
また前者には収録されていなかったハイドン、シューマン、チャイコフスキー、ブルックナーの交響曲の他にベートーヴェンの序曲集も加わって、事実上ユニヴァーサル・イタリーのセットと対をなしてベームのよりインテグラルなオーケストラル・ワーク集のコレクションになる筈だ。
通常こうしたバジェット・ボックスは、同じ傘下のレーベルでも独自の企画でリリースされるために、先に出たものに飛びつくと、その後更に充実したセットが出る可能性が高く二の足を踏んでしまう。
かと言って両方揃えると同一録音で溢れてしまうという懸念がある。
しかし今回は偶然なのか、あるいは売り上げを見込んだ戦術なのかは分からないが、結果的には入門者にも揃え易い企画になっていることは評価したい。
ライナー・ノーツは55ページあり、『第9』は英語対訳、『ミサ・ソレムニス』及びモーツァルトの『レクイエム』はラテン語のテキストに独、英語の対訳付。
ボックスはクラム・シェルではなく、上下にスライドさせて開閉するタイプでしっかりした装丁。
サイズはやや大きめの12,5X13,5X7cm。
尚最近メンブランからリヒャルト・シュトラウスのオペラ8曲を収めた全曲盤20枚が復活したが、欲を言えばベームの振ったオペラや声楽曲、更に協奏曲や室内楽などのレパートリーのリマスタリング盤での復活が望まれるところだ。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2015年09月13日
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メンブラン/ドキュメンツからリヒャルト・シュトラウス生誕150周年記念としてリリースされたセット物のひとつで、カール・ベーム指揮の『ばらの騎士』『無口な女』『アラベラ』『カプリッチョ』の全曲録音を10枚のCDに収録している。
1958年の『ばらの騎士』のみがシュターツカペレ・ドレスデンとの演奏で、このセットの中では唯一セッションのまがりなりにもステレオ録音なのだが、オーケストラが右側後方に偏りぎみなため声楽とのバランスがいまひとつで、LPから直接起こしたようなカートリッジの共振にも似たノイズを伴っているのが惜しまれる。
それ以外の演目はある程度会場の雑音が混入したモノラル・ライヴになるので音質的には曲によってかなりばらつきがあるが、どの作品もウィーン・フィルとの協演でそれぞれの歌手達も高い水準の歌唱を披露している歴史的上演の貴重な記録なので、この価格であればベーム・ファンには欠かせないコレクションになるだろう。
『ばらの騎士』はシェヒ、ゼーフリート、シュトライヒやフィッシャー=ディースカウを配した瑞々しい歌唱が倦怠やデカダンスを殆んど感じさせない健やかさに特徴があるが、例えば第2幕の幕切れのオックス男爵のワルツなどにベームらしいさりげないウィーン趣味が滲み出た演奏が美しい。
ベームは同オペラを1969年にウィーン・フィルとのライヴで残しているが、どちらも既に廃盤の憂き目に遭っているので今回の廉価盤での復活は歓迎したい。
このセッションが行われたドレスデンはR.シュトラウスのオペラ上演が盛んな都市だけあって『ばらの騎士』の他にも『アラベラ』『無口な女』は当地初演の作品で、特に『無口な女』は1935年にベームの指揮によって初演を飾っている。
このセットに収められている1959年のザルツブルク音楽祭ライヴは音質も良好で、ギューデン、ヴンダーリヒ、プライ、ホッターなど当時のオール・スター・キャストが組まれていて傑出した喜劇に仕上がっているのだが、ベーム自身によるカット版が使用されていて演奏時間がオリジナル・スコアに比較するとかなり短縮されているのも事実だ。
R.シュトラウスの薫陶を受けたベームなので、舞台上の効果を考慮した作曲家承認済みのカットだったことが想像されるが、彼はその後もこのオペラの上演には常にカット版を使ったようだ。
ちなみに『アラベラ』は1947年のザルツブルクにおけるライヴ、また『カプリッチョ』は1960年のウィーン・ライヴになる。
完全節約企画のためライナー・ノーツや歌詞対訳等は一切省略されていて、ボックスもごく実用的で洒落っ気のないデザインと装丁になっている。
アニヴァーサリー・エディションとしてメンブランからは同時にオーケストラル・ワークを中心とする10枚組もリリースされているが、いずれもリマスタリングがされていないので音質を問うか否かで選択肢が分かれるかも知れない。
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2015年07月31日
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ベームは終生に渡ってモーツァルトを深く敬愛していた。
ベルリン・フィルと成し遂げた交響曲全集(1959〜1968年)や、バックハウスやポリーニと組んで演奏したピアノ協奏曲の数々、ウィーン・フィルやベルリン・フィルのトップ奏者との各種協奏曲、そして様々なオペラなど、その膨大な録音は、ベームのディスコグラフィの枢要を占めるものであると言っても過言ではあるまい。
そのようなベームも晩年になって、ウィーン・フィルとの2度目の交響曲全集の録音を開始することになった。
しかしながら、有名な6曲(第29、35、38〜41番)を録音したところで、この世を去ることになってしまい、結局は2度目の全集完成を果たすことができなかったところである。
ところで、このウィーン・フィルとの演奏の評価が不当に低いというか、今や殆ど顧みられない存在となりつつあるのはいかがなものであろうか。
ベルリン・フィルとの全集、特に主要な6曲(第35、36、38〜41番)については、リマスタリングが何度も繰り返されるとともに、とりわけ第40番及び第41番についてはシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化もされているにもかかわらず、ウィーン・フィルとの録音は、リマスタリングされるどころか、国内盤は現在では廃盤の憂き目に陥いろうという極めて嘆かわしい現状にある。
確かに、本盤に収められた第38番及び第39番の演奏については、ベルリン・フィルとの演奏と比較すると、ベームならではの躍動感溢れるリズムが硬直化し、ひどく重々しい演奏になっている。
これによって、モーツァルトの交響曲に存在している高貴にして優美な愉悦性が著しく損なわれているのは事実である。
しかしながら、一聴すると武骨とも言えるような各フレーズから滲み出してくる奥行きのある情感は、人生の辛酸を舐め尽くした老巨匠だけが描出し得る諦観や枯淡の味わいに満たされていると言えるところであり、その神々しいまでの崇高さにおいては、ベルリン・フィルとの演奏をはるかに凌駕していると言えるところである。
モーツァルト指揮者としてのベームは、「どんな相談にものってくれる博学の愛すべき哲学者」といった雰囲気をたたえており、彼の前に立っているだけで嬉しい気分になってしまう。
ウィーン・フィルとの録音は確かに多数残されたが、このモーツァルトはベームが亡くなる前のほぼ5年間に録音されたものである。
絶妙なるテンポを背景とする自然な音の流れ、磨き抜かれているが決して優しさを失わないフレージング、引き締まったアンサンブルを背景に繰り広げられる演奏はまさに生きた至芸と言いたい。
聴き手それぞれに思い入れのある名演であるが、筆者の座右宝はまずは第38番だ。
いずれにしても、総体としてはベルリン・フィル盤の方がより優れた名演と言えるが、本演奏の前述のような奥行きのある味わい深さ、崇高さにも抗し難い魅力があり、本演奏をベームの最晩年を代表する名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。
音質については、従来盤でも十分に満足できる音質であるが、今後は、リマスタリングを施すとともにSHM−CD化、更にはシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなどによって、本名演のより広い認知に繋げていただくことを大いに期待しておきたい。
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2015年07月26日
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最近プラガ・ディジタルスからリリースされたSACDの1枚で、若き日のフリードリヒ・グルダが弾くモーツァルトのピアノ協奏曲第9番変ホ長調『ジュノーム』、ウェーバーのピアノ小協奏曲へ短調及びR.シュトラウスの『ブルレスケ』の3曲が収録されている。
モーツァルトはカール・ベーム指揮、バイエルン放送交響楽団による1969年9月のステレオ・ライヴで、ウェーバーがフォルクマー・アンドレーエ指揮、ウィーン・フィルとの1956年7月のウィーン・ゾフィエンザールでのモノラル・セッションになり、これは米ロンドン音源らしい。
そして最後のR.シュトラウスがベーム&ウィーン・フィルで1957年8月ザルツブルクにおけるモノラル・ライヴということになる。
このうちベームの指揮する2曲は、オルフェオ・レーベルからもレギュラー盤で手に入るが、いずれもSACD化によって更に高音の伸びと艶やかな響きが再現され、音場に奥行きが出ている。
どの曲でもグルダの軽やかで水面に映えて揺らめく光りのような音色が瑞々しい。
モーツァルトでは第2楽章でのウィーン流の屈託のない抒情が、ベームの巧妙なサポートによって可憐に浮かび上がっているし、またそれぞれの楽章の小気味良いカデンツァもいたってフレッシュで、当時39歳だったグルダの柔軟な感性を示している。
一方華麗なソロが展開されるウェーバーでは高踏的でリリカルな歌心とコーダに向かって邁進する推進力がコンパクトに表現されていて心地良い演奏だ。
またR.シュトラウスの『ブルレスケ』ではグルダらしい余裕を見せたパフォーマンスが特徴的で、こうした曲趣には彼のような高度な遊び心も効果的だ。
この時代のライヴとしては比較的音質に恵まれていて、ベーム&ウィーン・フィルの軽妙洒脱なオーケストラに乗ったグルダのウィットに富んだヴィルトゥオジティが聴きどころだろう。
このシリーズではグルダのSACDは1枚のみで、他のレパートリーも聴き比べてみたい気がするが、こうした古い音源のSACD化については、先ずオリジナル・マスターの質自体が問われる。
いくらDSDリマスタリングをしても録音自体の質やその保存状態が悪ければ奇跡的な蘇生は望めない。
プラガは過去にデータや音源の改竄で物議を醸したレーベルなので注意が必要だが、この曲集に関しては充分その価値が認められる。
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2015年07月15日
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ベームの音楽は厳格さの中に暖かな眼差しを感じさせ、押し付けがましいところがなく、いわゆるヴィルトゥオーゾとは違ったタイプの人間味豊かな巨匠であった。
ベームは独墺系の作曲家を中心とした様々な楽曲をレパートリーとしていたが、その中でも中核を成していたのがモーツァルトの楽曲であるということは論を待たないところだ。
ベームが録音したモーツァルトの楽曲は、交響曲、管弦楽曲、協奏曲、声楽曲そしてオペラに至るまで多岐に渡っているが、その中でも1959年から1960年代後半にかけてベルリン・フィルを指揮してスタジオ録音を行うことにより完成させた交響曲全集は、他に同格の演奏内容の全集が存在しないことに鑑みても、今なお燦然と輝くベームの至高の業績であると考えられる。
現在においてもモーツァルトの交響曲全集の最高峰であり、おそらくは今後とも当該全集を凌駕する全集は出て来ないのではないかとさえ考えられるところだ。
本盤に収められた後期交響曲集は当該全集から抜粋されたものであるが、それぞれの楽曲の演奏史上トップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。
ベームは、モーツァルトを得意とし、生涯にわたって様々なジャンルの楽曲の演奏・録音を行い、そのいずれも名演の誉れが高いが、その中でもこれらは金字塔と言っても過言ではない存在である。
近年では、モーツァルトの交響曲演奏は、小編成の室内オーケストラによる古楽器奏法や、はたまたピリオド楽器の使用による演奏が主流であり、本演奏のようないわゆる古典的なスタイルによる全集は、今後とも2度とあらわれないのではないかとも考えられるところだ。
同様の古典的スタイルの演奏としても、ベーム以外にはウィーン・フィルを指揮してスタジオ録音を行ったレヴァインによる全集しか存在しておらず、演奏内容の観点からしても、本ベーム盤の牙城はいささかも揺らぎがないものと考える。
本全集におけるベームのアプローチは、まさに質実剛健そのものであり、重厚かつシンフォニックな、そして堅牢な造型の下でいささかも隙間風の吹かない充実した演奏を聴かせてくれていると言えるだろう。
この録音の頃のベームには、まだ最晩年ほどテンポの遅さからくる重苦しさがなく、本演奏においてはいまだ全盛期のベームならではの躍動的なリズム感が支配しており、テンポも中庸でいささかも違和感を感じさせないのが素晴らしい。
モーツァルトの音楽のもつ、しなやかな表情や、甘美な情緒よりも、構成的な美しさや、内容的な芯の強さをあらわした演奏で、感傷的な流れに陥らず、きわめて硬質な、しっかりとした表現である。
作品のもつ愉悦的な明るさは、いまひとつ直接的に伝わってこないが、老大家ベーム特有の深い味が滲み出ている。
ベルリン・フィルも、この当時はいまだカラヤン色に染まり切っておらず、フルトヴェングラー時代の名うての奏者が数多く在籍していたこともあって、ドイツ風の音色の残滓が存在した時代でもある。
したがって、ベームの統率の下、ドイツ風の重心の低い名演奏を展開しているというのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。
このような充実した重厚でシンフォニックな演奏を聴いていると、現代の古楽器奏法やピリオド楽器を使用したこじんまりとした軽妙なモーツァルトの交響曲の演奏が何と小賢しく聴こえることであろうか。
本演奏を、昨今のモーツァルトの交響曲の演奏様式から外れるとして、大時代的で時代遅れの演奏などと批判する音楽評論家もいるようであるが、我々聴き手は芸術的な感動さえ得られればそれでいいのであり、むしろ、軽佻浮薄な演奏がとかくもてはやされる現代においてこそ、本演奏のような真に芸術的な重厚な演奏は十分に存在価値があると言えるのではないだろうか。
いずれにしても、本盤は、モダン・オーケストラによるスタンダードな超名演と言えるだけの質を持っており、今後とも未来永劫、その存在価値をいささかも失うことがない歴史的な遺産であると高く評価したい。
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2015年06月15日
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ベートーヴェンを演奏して最高の巨匠であったウィルヘルム・バックハウスは、同時に、ブラームスのピアノ作品においても、比類のないピアニズムを示し、技巧は豪快、深い精神美とストイックな抒情性で、独特の威厳を感じさせる名演をもって有名だった。
ことにブラームスの青春の情熱と円熟の沈潜を代表する力作という2つのピアノ協奏曲にかけては、バックハウスの右に出るピアニストはなかった、と言っても過言ではない。
そのうちの《第2》はシューリヒト指揮のウィーン・フィル(1952年録音、モノーラル)と、ベーム指揮のウィーン・フィル(1967年録音、ステレオ)という新旧2種のスタジオ録音の名演が残されている(他に1930年代のSP録音も存在する)が、《第1》のほうは、1953年にウィーンで録音されたこのCD復刻盤が唯一のものとなった。
同曲は、作品が書かれた当時はもちろんのこと、現代のシンフォニックな作品のレパートリーとしても、管弦楽のパートの激烈で緻密過剰なことで知られる難曲である。
したがってこの曲は、独奏者がよほど力量のあるピアニストでないと、ただでも圧倒的で分厚い管弦楽の響きの中に埋没してしまうだろう。
ピアノがむしろ管弦楽を伴奏しているようなところさえある。
それでいて、これはピアニストにとって物凄く厄介な技巧を要求される難曲でありながら、ほんのいくつかの印象的なソロ以外は、それほどピアニスティックな演奏効果があがらない作品である。
この協奏曲を弾いて聴衆に強烈な印象を与えるのは、並大抵のことではない。
それに加えて、オーケストラの出来も問題となってくるのであって、巨匠的なピアニストに対抗できる大指揮者と名オーケストラが絶対必要なのである。
その点で、バックハウスがカール・ベームの指揮するウィーン・フィルという最高の協演者とともに録音したこの演奏こそ、録音がモノーラル時代のものであることを除けば、あらゆる意味で、この曲の理想的な演奏が聴ける1つの典型と言って良いだろう。
1953年6月という時点でウィルヘルム・バックハウスは69歳、歳をとっても技巧の衰えや造型力の弱まりを見せなかった彼だけに、69歳はまだまだ全盛期のさなかであった。
巨人的スケールの大きさと切れの冴えた技巧、ストイックだが、こまやかな情感のぬくもりを表現の陰翳に隠したバックハウスのピアノは、この曲のピアノ・パートが示す息の長い情感の底流を見事に捉えて、圧倒的な演奏を構築して行く。
筆者がこの演奏でとりわけ好んでいるところを、いくつか書き出してみよう。
まず第1楽章では、長い管弦楽提示部がppで結ばれ、待ちに待ったピアノが、柔らかいタッチに内面の芯の強さを隠して、pでエスプレッシーヴォと指定されたフレーズを奏し始めるところ。
表情をぐっと抑えて、しかも荘重な響きを持続し、次第に表現と響きにふくらみを持たせる、あの出だしである。
だがバックハウスのすばらしさがもっと直接に理解できるのは、ポコ・ピウ・モデラートの第2主題を弾き出す独奏部であり、さらにショッキングなダブル・オクターヴで颯爽と出る展開部の入りの劇的パッセージであろう。
第2主題では再現部のほうがより美しく、提示部では左手のバスの動きに意味を持たせたのに、今度は和声全体の響きを磨くのに耳を吸い寄せられる。
そして、これこそ圧巻と言いたいのは、ポコ・ピウ・アニマートのコーダに入ってからのピアノの威容である。
まだ50代だったベームが全力でウィーン・フィルから絞り出すffの和弦の林立する中を、揺るぎなき大地に両足をしっかりと踏みしめたような安定感を示しながら、あの両手のダブル・オクターヴによるffの音階的パッセージを連続させつつ猛烈なクライマックスにひた走るバックハウスの弾きっぷり!
全軍の先頭に立って堂々進軍する王者の風格といいたい豪壮無類のピアニズムである。
この楽章の再現部からコーダの演奏は、筆者がこれまで聴いてきた数多いこの曲の演奏のどれよりもすばらしい。
バックハウスも偉大なのだが、ベームとウィーン・フィルも凄い。
コーダは全く息もつかさず、結びのffの4つの和音の圧倒的な気力充実ぶりは、ピアノの両手の主和音ともに最後の音が十分に引き伸ばされて終わった瞬間、聴いていて思わず立ち上がって叫びたくなった程の強烈さだった。
第2楽章のバックハウスらしい武骨さの感じられる抒情のたゆたい、ウィーン・フィルの憧れにむせぶような弦、中間部のクラリネットのひとくさり! きっと、これはウラッハが吹いているに相違ない。
そして豪放な終楽章。
録音が、もう少し新しければと思うが、これでも十分だ。
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2015年05月12日
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2011年はベーム没後30年であった。
生前は、とりわけ我が国において、当時絶頂期にあったカラヤンに唯一対抗し得る大指揮者として絶大なる人気を誇っていたが、歳月が経つにつれて、徐々に忘れられた存在になりつつあるというのは残念でならないところである。
そのような状況の中で、本コレクターズ・エディションのような廉価盤が次々と発売される運びとなったことは、ベームの偉大な芸術を再認識させてくれる意味においても極めて意義が大きいと言わざるを得ないだろう。
本盤には、ベートーヴェンの交響曲全集(及び5つの序曲)が収められているが、これはベームによる唯一の全集である。
ベームは、本全集以外にも、ベートーヴェンの交響曲をウィーン・フィルやベルリン・フィル、バイエルン放送交響楽団などと単独で録音を行っているが、全集の形での纏まった録音は本全集が唯一であり、その意味でも本全集の価値は極めて高いと言える。
ベームによる本全集の各交響曲や序曲の演奏は、重厚でシンフォニックなものだ。
全体の造型は例によってきわめて堅固であるが、その中で、ベームはオーケストラを存分に鳴らして濃厚さの極みと言うべき内容豊かな音楽を展開している。
スケールも雄渾の極みであり、テンポは全体として非常にゆったりとしたものである。
演奏は、1970〜1972年のスタジオ録音であり、これはベームが最も輝きを放っていた最後の時期の演奏であるとも言える。
ベームは、とりわけ1970年代半ば過ぎになると、持ち味であった躍動感溢れるリズムに硬直化が見られるなど、音楽の滔々とした淀みない流れが阻害されるケースも散見されるようになるのであるが、本演奏には、そうした最晩年のベームが陥ったリズムの硬直化がいささかも見られず、音楽が滔々と淀みなく流れていくのも素晴らしい。
いずれの楽曲も名演であると言えるが、最も優れた名演は衆目の一致するところ第6番「田園」ということになるであろう。
本演奏は、ワルター&ウィーン・フィルによる演奏(1936年)、ワルター&コロンビア交響楽団による演奏(1958年)と並んで3強の一角を占める至高の超名演と高く評価したい。
本演奏の基本的な性格は前述のとおりであるが、第4楽章の畳み掛けていくような力強さや、終楽章の大自然への畏敬の念を感じさせるような崇高な美しさには出色ものがあり、とりわけウィンナ・ホルンなどの立体的で朗々たる奥行きのある響きには抗し難い魅力がある。
次いで第9番を採りたい。
ベームは、最晩年の1980年にも同曲をウィーン・フィルとともに再録音(ベームによる最後のスタジオ録音)しており、最晩年のベームの至高・至純の境地を感じさせる神々しい名演であるとは言えるが、演奏全体の引き締まった造型美と内容充実度においては本演奏の方がはるかに上。
とりわけ、終楽章の悠揚迫らぬテンポであたりを振り払うように進行していく演奏の威容には凄みがあると言えるところであり、ギネス・ジョーンズ(ソプラノ)、タティアーナ・トロヤノス(アルト)、ジェス・トーマス(テノール)、カール・リッダーブッシュ(バス)による名唱や、ウィーン国立歌劇場合唱団による渾身の合唱も相俟って、圧倒的な名演に仕上がっていると評価したい。
その他の楽曲も優れた名演であるが、これらの名演を成し遂げるにあたっては、ウィーン・フィルによる名演奏も大きく貢献していると言えるのではないだろうか。
その演奏は、まさに美しさの極みであり、ベームの重厚でシンフォニック、そして剛毅とも言える演奏に適度な潤いと深みを与えているのを忘れてはならない。
音質は、1970年代初めの頃のスタジオ録音であるが、従来盤でも十分に満足できるものである。
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2015年05月06日
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ベームは終生に渡ってモーツァルトを深く敬愛していた。
ベルリン・フィルと成し遂げた交響曲全集(1959〜1968年)や、バックハウスやポリーニと組んで演奏したピアノ協奏曲の数々、ウィーン・フィルやベルリン・フィルのトップ奏者との各種協奏曲、そして様々なオペラなど、その膨大な録音は、ベームのディスコグラフィの枢要を占めるものであると言っても過言ではあるまい。
そのようなベームも晩年になって、ウィーン・フィルとの2度目の交響曲全集の録音を開始することになった。
しかしながら、有名な6曲(第29、35、38〜41番)を録音したところで、この世を去ることになってしまい、結局は2度目の全集完成を果たすことができなかったところである。
ところで、このウィーン・フィルとの演奏の評価が不当に低いというか、今や殆ど顧みられない存在となりつつあるのはいかがなものであろうか。
ベルリン・フィルとの全集、特に主要な6曲(第35、36、38〜41番)については、リマスタリングが何度も繰り返されるとともに、とりわけ第40番及び第41番についてはシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化もされているにもかかわらず、ウィーン・フィルとの録音は、リマスタリングされるどころか、国内盤は一時は廃盤の憂き目に陥っていたという極めて嘆かわしい現状にある。
確かに、本盤に収められた第29番及び第35番の演奏については、ベルリン・フィルとの演奏と比較すると、ベームならではの躍動感溢れるリズムが硬直化し、ひどく重々しい演奏になっている。
これによって、モーツァルトの交響曲に存在している高貴にして優美な愉悦性が著しく損なわれているのは事実である。
しかしながら、一聴すると武骨とも言えるような各フレーズから滲み出してくる奥行きのある情感は、人生の辛酸を舐め尽くした老巨匠だけが描出し得る諦観や枯淡の味わいに満たされていると言えるところであり、その神々しいまでの崇高さにおいては、ベルリン・フィルとの演奏を遥かに凌駕していると言えるところである。
モーツァルト指揮者としてのベームは、「どんな相談にものってくれる博学の愛すべき哲学者」といった雰囲気をたたえており、彼の前に立っているだけで嬉しい気分になってしまう。
ウィーン・フィルとの録音は確かに多数残されたが、このモーツァルトはベームが亡くなる前のほぼ5年間に録音されたものである。
絶妙なるテンポを背景とする自然な音の流れ、磨き抜かれているが決して優しさを失わないフレージング、引き締まったアンサンブルを背景に繰り広げられる演奏はまさに生きた至芸と言いたい。
聴き手それぞれに思い入れのある名演であるが、筆者の座右宝はまずは第29番だ。
いずれにしても、総体としてはベルリン・フィル盤の方がより優れた名演と言えるが、本演奏の前述のような奥行きのある味わい深さ、崇高さにも抗し難い魅力があり、本演奏をベームの最晩年を代表する名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。
音質については、従来盤でも十分に満足できる音質であるが、今後は、リマスタリングを施すとともにSHM−CD化、更にはシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなどによって、本名演のより広い認知に繋げていただくことを大いに期待しておきたい。
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2015年05月04日
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本盤の演奏は、1966年のバイロイト音楽祭のライヴ録音である。
名指揮者ベームが最も充実した時代の演奏であると同時に、戦後のバイロイトの最も実り多かった時代の記録でもある。
ベームの遺したワーグナーのオペラの録音には、バイロイト祝祭管との歌劇「さまよえるオランダ人」の演奏(1971年)や、バイロイト祝祭管との楽劇「ニーベルングの指環」の演奏(1966、1967年)など数々の名演を遺しているが、それらの名演にも冠絶する至高の名演は、本盤に収められたバイロイト祝祭管との楽劇「トリスタンとイゾルデ」であると考える。
それどころか、同曲の他の指揮者による名演であるフルトヴェングラー&フィルハーモニア管による演奏(1952年)やクライバー&シュターツカペレ・ドレスデンによる演奏(1980〜1982年)と並んで3強の一角を占める超名演と高く評価したい。
そして、フルトヴェングラーが深沈とした奥行きの深さ、クライバーがオーケストラのいぶし銀の音色を活かした重厚さを特色とした名演であったのに対して、ベームによる本演奏は、実演ならではのドラマティックで劇的な演奏と言えるのではないだろうか。
そして、学者風でにこりともしない堅物の風貌のベームが、同曲をこれほどまでに官能的に描き出すことができるとは殆ど信じられないほどである。
ベームは、実演でこそ本領を発揮する指揮者と言われたが、本演奏ではその実力を如何なく発揮しており、冒頭の前奏曲からして官能的で熱き歌心が全開だ。
その後も、トゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫や緊張感、そして切れば血が吹き出してくるような強靭な生命力に満ち溢れており、全盛期のベームならではのリズミカルな躍動感も健在だ。
テンポは若干速めであるが、隙間風が吹くような箇所は皆無であり、どこをとっても造型の堅固さと充実した響きが支配しているのが素晴らしい。
晩年の老いたベームとは異なる、真の巨匠としてのベームの逞しい音楽が渦巻いている。
バイロイトに集結した名歌手陣の、その感動的な歌唱の魅力は素晴らしく、現在聴いても少しも色褪せていない。
とりわけ、第2幕のイゾルデ役のビルギット・ニルソンとトリスタン役のヴォルフガング・ヴィントガッセンによる愛の熱唱は、ベームの心を込め抜いた指揮も相俟って、おそらくは同曲演奏史上でも最高峰の名演奏に仕上がっていると言えるところであり、その官能的な美しさといい、はたまたドラマティックな迫力といい、聴いていてただただ圧倒されるのみである。
そして、第3幕終結部のイゾルデの愛の死におけるビルギット・ニルソンによる絶唱は、もはや筆舌には尽くし難い感動を覚えるところだ。
これらの主役2人のほか、クルヴェナール役のエーベルハルト・ヴェヒター、ブランゲーネ役のクリスタ・ルートヴィヒ、そして、マルケ王役のマルッティ・タルヴェラによる渾身の熱唱も、本名演に大きく貢献していることを忘れてはならない。
また、その後大歌手に成長することになる、ペーター・シュライヤーが水夫役で登場しているのも、今となっては贅沢な布陣と言える。
録音は、従来盤でもリマスタリングが行われたこともあって十分に満足できる音質であると言えるが、同曲演奏史上トップの座を争うベームによる至高の超名演でもあり、今後はSHM−CD化、そして可能であればシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。
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