ジュリーニ

2023年02月27日


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本盤には、パールマンとジュリーニが、1976年に録音したブラームスのヴァイオリン協奏曲が収められている。

ブラームスならではのロマンティックで香り高いこの名曲は、ベートーヴェンやメンデルスゾーンの作品に劣らぬ人気を誇っており、ブラームスのヴァイオリン協奏曲の名盤は数多いが、このディスクは独自の光彩を放っている。

このCDは独奏者の名人芸を楽しむような演奏とは対極の演奏であり、真にブラームスを愛するファンには、曲そのもののもつ美しさを心ゆくまで堪能できる、たまらない魅力を持った演奏と言える。

素晴らしい名演だと思うが、その成功の要因は、まずはジュリーニ&シカゴ交響楽団による名演奏にあると言えよう。

ジュリーニは、イタリア人指揮者でありながら、ブラームスなど独墺系の楽曲を得意とした指揮者であるが、本盤でも、そうした実力を大いに発揮している。

ブラームスの重厚なオーケストレーションを、無理なくならすとともに、そこに、イタリア人ならではの温かみのある音色を加えた味わい深い演奏を行っていると言えるのではないか。

どの箇所をとっても、ヒューマニティ溢れる美しさに満ち溢れている。

ブラームスの他の楽曲では、こうしたアプローチが必ずしも功を奏するわけではないが、ブラームスの楽曲の中でも明るさを基調とするヴァイオリン協奏曲の場合は、こうしたジュリーニのアプローチは見事に符合する。

常々ジュリーニはゆったりとしたテンポで十分歌いつつ、巨大な伽藍のようなスケール感を持ったブラームスを聴かせてくれるが、このパールマンとの共演においてもスタンスは一向に変わっていない。

楽譜に刻まれた1音1音を真摯に読み込み、オーケストラをよく歌わせている。

シカゴ交響楽団もジュリーニの指揮の下、実に楽しげに音楽を奏でているようだ。

シカゴ交響楽団の優秀さは改めて言うまでもないが、ここではジュリーニの指揮のもと、低弦の安定した分厚い、いかにもドイツ的なサウンドをつくり上げていて見事である。

こうした骨太で安定感抜群の伴奏の下、若きパールマン(31歳)の、気迫あふれる演奏が印象的で、変幻自在の素晴らしい名技を披露している。

まさに唖然とする巧さと言うべきであるが、ジュリーニの名指揮によって、技量だけが全面に出ることなく、ロマンティックでスケールの大きなブラームスとなっていて、内容の豊かさが伴っているのも素晴らしい。

そのレパートリーなどから、やや軽く見られてしまうパールマンも、ジュリーニの要求によく応え、ブラームスの音楽への献身的な演奏を実現している。

どんな難曲でもスイスイとこなしてしまうパールマンだが、これは少し違っている。

それはまるで挑戦者のようにもの凄い意気込みで、彼の情熱がじかに感じられる数ないもののひとつだろう。

このディスクが仏ACC,ADFディスク大賞、米グラミー賞など、さまざまな栄誉に浴したことも当然の事だろう。

巨匠ジュリーニの見事なリードとサポートにより、パールマンが伸びやかに、そして緻密に聴かせる演奏は今でも同曲随一の名盤としての地位を譲っていない。

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2023年02月19日


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フィルハーモニア管弦楽団と豪華なソリスト陣の共演を得て実現した若き日のジュリーニならではの壮絶な歴史的名演。

ヴェルディが畏敬した作家マンツォーニの追悼に捧げた大作・レクイエムを、ジュリーニは壮麗な聖堂さながらのスケール感と染み入る静謐さで表現している。

ジュリーニと言えば、最晩年のゆったりとしたテンポ(中には、常識はずれのスローテンポの演奏もあり)による巨匠風の名演の数々のイメージが強いために、温厚篤実な演奏をする指揮者との印象を持たれがちである。

若き日、特に1960年代の演奏は、凄まじいまでの迫力溢れる豪演の数々を行っていた。

本盤は、そうしたジュリーニの若き時代の芸風を端的に表しているものと言えるところであり、録音当時、まだ40代後半だったジュリーニが、ヴェルディのオペラを彷彿とさせるドラマティックな演奏を繰り広げている。

気力の充実しきったジュリーニの指揮は、テンポ、リズムに躍動感があるが、壮大さ、宗教的雰囲気にも欠けておらず、最高のソリスト・オーケストラをよくコントロールし、ヴェルディの「オペラ的なレクイエム」を表現している。

ジュリーニは、数多くのイタリアオペラを指揮・録音しているが、本盤でも、そうしたイタリアオペラを得意としたジュリーニならではの歌謡性豊かな指揮と、若き日の生命力溢れる力強い指揮が見事にマッチングして、いい意味でのバランスのとれた至高の名演を成し遂げるのに成功している。

カラヤンやクレンペラーの薫陶を受けていた、黄金時代のフィルハーモニア管弦楽団や、合唱団や独唱陣も最高のパフォーマンスを示している。

特に、シュヴァルツコップ、ルートヴィヒ、ゲッダ、ギャウロフというオールスター歌手陣の最盛期の歌唱がとても魅力的だ。

「思い給え」以下は、レクイエムとは思えないような、甘美で天上の世界を思わせるアリアが続く。

聖歌四篇も、レクイエムに優るとも劣らない超名演であると高く評価したい。

本盤で惜しいのは録音であった。

大音量の際に音が歪むということで、特に、レクイエムではそうした欠点が著しく、「怒りの日」でオケと合唱の怒濤の場面ではダイナミックレンジを若干割ってしまっていた。

しかしながら、今般のSACDハイブリット盤によって、そうした欠点が改善されたのは、このような芸術的な価値の高い作品だけに、ありがたいことだ。

ヴェルディ生誕150年メモリアル・イヤー当時の熱気が伝わる素晴らしいアルバムである。

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2023年01月18日


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仏ACCディスク大賞とモントルー国際レコードを受賞した名盤。

ジュリーニは必ずしもブルックナーに人一倍積極的というわけではなかったが、ウィーン・フィルを率いた数枚に加えて、シカゴ響とのこの第9番は絶対に見落とせない。

レコーディングは1976年、その時点でマエストロは首席のポストをとうに退いてはいたが、両者の関係はきわめて良好だったに違いない。

と言うのも、シカゴ響という怪物オーケストラが、本当に優れたリーダーシップに出会ったときにしかみせない、桁外れの底力が、ここではフルに発揮されているからだ。

手に取るように明瞭な細部と彫琢された立体的で輝かしい音像が再現されている。

弦楽部のカンタービレを鮮烈に際立たせ、その上にシカゴ響の身上でもあるパワフルな金管楽器群を燦然と煌めかせるジュリー二のバランス技も見事だ。

これほど精緻で無駄がなく、心情の深さと歌に満ちたブルックナーは滅多に聴けるものではない。

決して威圧的にならず、表情は控え目ながらも、堂々とした器量の大きさが伝わってくる。

スコアを忠実に音にしながら、そこに内面の真実が示されており、すべてにバランスのよい純粋な音楽が表現されている。

もはや完璧と表現したい名演であり、第3楽章のコーダは感動的である。

ジュリーニならではの精緻なスコアの読みと強力な構築力、そこに湛えられた豊かな歌と深い内面性が、心からの感動を呼び起こさずにはいられない名演奏である。

ジュリーニがシカゴ響の首席客演指揮者に就任したのは1969年からで、ショルティが同オーケストラの音楽監督になった年でもある。

しかしジュリーニ自身は既にフリッツ・ライナー時代の1955年にシカゴ響とアメリカ・デビューを果たしているので、彼とは相性の良かったオーケストラのひとつだ。

またショルティ時代にシカゴは再びその黄金期を盛り返す時期にあった。

それは一人ショルティの貢献ではなく、イタリア人指揮者ジュリーニによる新風も楽団刷新の機運に繋がったことは間違いない。

ここに聴く彼らの演奏がヨーロッパの列強にも引けを取らない、屈指のオーケストラに成長していたことを証明することにもなったセッションだ。

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2022年10月06日


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フランクの唯一の交響曲二短調は、ジュリーニが非常に愛していた作品で、1958年(フィルハーモニア管弦楽団)、1986年(ベルリン・フィル)、そして1993年ウィーン・フィルとの本作と、3度にわたって録音してきた。

ジュリーニが1986年にベルリン・フィルと録音したフランクも名演だったが、それから7年後の録音では、ジュリーニ&ウィーン・フィルの高い音楽性がフランクのこの畢生の名作を味わい豊かに再現している。

ジュリーニはさらに一段とテンポを遅くとりながら作品の高貴な美しさを鮮明に表現しているのは、ジュリーニがウィーン・フィルの柔らかな響きを見事に生かしているからである。

細部までジュリーニの鋭い眼が光る演奏は、しばしばオルガン的と言われるフランク独特の重厚な響きも重すぎるようなことはなく、微妙な色彩や表情の変化を自然に描き出している。

ウィーン・フィルならではの美音を生かしつつ各楽章の名旋律をよく歌いあげているが、盛り上がりの箇所も、強奏することを避け、オーケストラ全体の音色をオルガンのような響きにマイルドにブレンドしている。

また、かなり遅めのテンポもしなやかさを失わず、透明な響きとみずみずしい叙情の美しさを際立てている。

「音楽は人間とともに生きる唯一の芸術です」という真摯なジュリーニならではの高貴な名演と言えよう。

カップリングはフランクをはじめとするフランスものに名演を聴かせてきたクロスリーを迎えた交響的変奏曲で、こちらも陰影に富んだ重量級の名演である。

交響的変奏曲はジュリーニのこうしたアプローチに適合しており、知られざる名曲に光を与えてくれたことを高く評価したい。

ライヴ録音ならではの即興性も聴きどころと言えよう。

音質も1990年代のウィーンでのライヴ録音だけに、十分に満足できる音質である。

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2022年05月23日


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カルロ・マリア・ジュリーニは1953年に、それまでのヴィクトル・デ・サーバタのアシスタントからスカラ座の音楽監督に就任した。

既に彼はオペラの舞台を何本か手掛けていたが、この『アルジェのイタリア女』は1954年の録音で、若き日の颯爽とした指揮ぶりと歌手、オーケストラの統率が優れている。

歌手陣はイサベッラがシミオナート、リンドーロがヴァレッティ、エルヴィーラはシュッティ、そしてムスタファがペトリという役者ぞろいなので、このオペラの面白さを倍増させてくれるキャスティングだ。

下稽古がしっかりしているために、それぞれのアリアで披露するロッシーニのコロラトゥーラは勿論、きめの細かいアンサンブルにジュリーニらしさが良く表れている。

特に第1幕幕切れの五重唱は抱腹絶倒だが、正確なリズムの中に、早口の言葉を歌い込んで揃えるのは至難の業で、ジュリーニは鮮やかに締めくくっている。

ともすればドタバタ劇に陥りやすい作品を、一歩手前で芸術的にこなす音楽性は流石だ。

歌手達はいずれも芸達者で、シミオナートは広い音域を巧みなアジリタで歌っているし、ヴァレッティのフレッシュで軽快なリンドーロも好感が持てる。

マリオ・ペトリは間抜けなバッソ・ブッフォを見事に演じている。

この作品の台本は、もっぱらばかばかしいお笑いに主眼が置かれたもので、高尚な哲学などひとかけらもない。

ロッシーニの腕にかかると、他の作曲家の間に合わせに書いた速筆とは思えないほど一流の喜劇として蘇る。

モノラル録音なのが残念だが、リマスタリングのためか音質は極めて良好。

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2021年12月07日


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カルロ・マリア・ジュリーニは1978年から81年にかけて、ロサンジェルス・フィルとベートーヴェンの3曲の交響曲、都合CD2枚分を録音した。

第3番変ホ長調『英雄』とシューマンの『マンフレッド序曲』をカップリングしたのが当ディスクで、もう1枚が第5番ハ短調『運命』及び第6番ヘ長調『田園』になる。

いずれもジュリーニ60代の円熟期を迎えた堂々たる演奏で、オーケストラを自在に統制した、細部まで思い通りに仕上げた緻密さ、それでいて息苦しくならない流麗な音楽性が溢れた見事なセッションだ。

ジュリーニの演奏は一言で表現すれば、がっちりとした楷書体の枠組みを旋律を土台としながら滑らかに繋ぎながら歌い込んでいくスタイルである。

その完成度が最も高かったのが1970年代から1980年台の前半であり、このディスクもその時期の代表盤のひとつだろう。

テンポは遅いが緊張感が途切れることは決してなく、この曲の構築性を浮かび上がらせてくる当演奏は深い感銘を与えるもので、20世紀後半の『英雄』の名盤のひとつたりえるものだろう。

若い頃の覇気は影を潜めたが、決して勢いが失われたわけではなく、音楽的な深みが聴く者を引き込んでいく。

テンポの設定は非常に落ち着き払っていて、『英雄』ではほぼ一時間を要している。

しかし音楽設計は手に取るように明らかで、第1楽章の壮観な構成力、第2楽章の葬送行進曲の長さに負けない美しさと緊張感の表出は、如何にもジュリーニらしい。

シューマンの『マンフレッド序曲』は特有の渋さがあり、独立して演奏する管弦楽曲としては、それほど輝かしく効果的でもないが、こうした作品にもジュリーニならではの劇的な手法が生かされている。

こけおどし的なダイナミズムは一切なく、ほの暗い音色の中にも濁りのない独自のシューマン像を描き出している。

彼はロサンジェルス・フィルハーモニックに音楽監督として1978年から84年まで務めている。

オーケストラとの信頼関係も良かったためか、一糸乱れぬ統制と自在な音楽性を紡ぎだすことに成功している。

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2021年03月05日


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音質に潤いと明るさが増したリニューアル盤。

ジュリーニ、ロサンジェルス・フィルのコンビでは、これまでのオーケストラル・ワークを見直すような、独自の音楽性を発見することができる。

2曲の交響曲にはどちらもしっかりした構成感が築かれているが、オーケストラの練り上げられた表現の上手さと音色の美しさも特筆される。

ベートーヴェンではあざといと思われるダイナミズムやテンポの抑揚などは避けて、一見古典的な構成の中に音楽の美しさを湛えていて、かえって斬新な印象を与える。

第2楽章のそれぞれのヴァリエーションの特徴を掴んだ演奏、第3楽章スケルツォでの、幽霊の登場のテーマも逆に明瞭に提示して、過去の慣習に囚われない瑞々しさを強調している。

終楽章のクライマックスも開放的で明るい響きが支配的だが、緊張感は失われていない。

『ライン』は4曲あるシューマンの交響曲の中で、ジュリーニが録音したのはこの第3番のみで、ムーティがウィーン・フィルを振ったものと聴き比べてみた。

ムーティは堰を切ったような流れで、青春の息吹を感じさせるのに対して、ジュリーニのそれは、より成熟した趣を持っている。

それはムーティがウィーン・フィルの自主性にある程度任せているのに対して、ジュリーニは1音たりとも譲らない姿勢を示したからかも知れない。

第2楽章スケルツォではムーティが舟歌のように歌わせるが、ここでは油彩の鄙びた風景画をイメージさせる。

そして第4楽章までに溜めておいた底力を終楽章で一気に噴出させるオーガナイズは流石で、ブラス・セクションのファンファーレも効果的に響かせている。

尚マーラー版に準じているのが本盤のセールス・ポイントで、オーケストレーションの旨さでは群を抜き、響きはいいが、シューマン特有の渋さは保たれている。

ジュリーニの演奏美学と感性にもピタリとはまり、叙情性豊かでスケールの大きい壮麗な『ライン』が出現している。

現在では原譜支持が圧倒的だが、フルトヴェングラーやセルなど20世紀の巨匠たちはスコアに手を入れることを主張し、これを実践した。

この録音が行なわれた1980年まではこうしたシューマン演奏はもてはやされていた。

が、昨今ジュリーニ盤は片隅に追いやられている。

今一度脚光を浴びることはあるのだろうか?

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2019年11月02日


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クラウディオ・アラウはピアノという楽器が持っている機能や特性を知り尽くしていた。

曖昧なタッチや衝撃的な打鍵は注意深く避け楽器を完全に響かせる術を熟知していて、ひたすら明確な響きによるダイナミズムで音楽性を表現する奏法は彼の哲学だったと言っても良いだろう。

アラウのブラームスにはあざとさやスリリングな要素がない代わりに、常に正面切った雄弁な語り口と正々堂々たる構成力で聴かせる本来の意味でのロマンティシズムが横溢している。

2曲ともにかなり難解なテクニックが要求され、アラウ自身もまた稀代のヴィルトゥオーゾとしてリストの作品の演奏でも名を馳せたが、むしろ超絶技巧に聴き手の注意が逸らされることを回避できた数少ないピアニストだったのではないだろうか。

逆に言えばそれだけの確固とした解釈の裏付けと表現力に支えられた、まさに巨匠と呼ぶに相応しい演奏家だった。

どちらもオーケストラ・パートが非常に充実したシンフォニックな書法で作曲されているために、ここではジュリーニ、フィルハーモニア管弦楽団の強力なサポートが、アラウのソロを引き立てながらも鮮烈なオーケストレーションを主張していて、ロマン派を代表するピアノ協奏曲としての華麗さと風格を備えている。

フィルハーモニア管弦楽団はジュリーニ自身高く評価していたオーケストラだっただけに、彼らの品の良い知性的な機動力が充分に発揮されている。

確かに張り詰めた緊張感ではクーベリック、バイエルン放送交響楽団との第1番が優っているが、ジュリーニはブラームスのリリシズムを活かし、一方で弦楽部とブラス・セクションのバランスを巧みに采配してオーケストラに独自の精彩を与え、輝かしくスペクタクルな効果を引き出している。

第2番冒頭のホルンの導入にも聴かれるように鷹揚なテンポ設定の中にも弛緩のない精神的な高揚を伴った演奏が、音楽に身を委ねることへの幸福感をもたらしてくれる。

いずれもカルロ=マリア・ジュリーニ指揮、フィルハーモニア管弦楽団との協演になり、ピアノ協奏曲第1番が1960年同第2番が1962年のどちらもセッション録音で、音像がやや平面的な感じはするが、分離状態は良好なステレオ録音だ。

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2019年08月04日


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カルロ・マリア・ジュリーニ(1914-2005)がユニヴァーサル傘下に遺した全音源を42枚のCDに纏めたボックスで、殆んどがウィーン・フィル、ロサンジェルス・フィル及びシカゴ交響楽団時代の、彼の円熟期のレコーディングになる。

ジュリーニはデビュー当時からEMIと契約していたので、ライヴは別として壮年期までのディスクは彼の死後逸早くEMIから全3巻都合30枚に纏められ、また晩年のソニーへの録音集は22枚のセットでリリースされたが、グラモフォンとデッカ盤がようやっと今年になって集大成された。

勿論これらは総て既出音源で、デッカに入れたニュー・フィルハーモニアとのモーツァルトの交響曲2曲とプラシド・ドミンゴとのアリア集を除いて個別に入手可能だ。

ロサンジェルス・フィルとのベートーヴェン及びブラームスの交響曲集は当初からその細部に至る緻密な再現と溢れるようなカンタービレの美しさで評価が高かった。

このセットにはウィーン・フィルとの録音も収録されているので、両オーケストラのサウンドの違いやジュリー二の演奏スタイルの変化を比較することができる。

後年ジュリーニはレパートリーをかなり絞って、自身で納得した曲だけを繰り返して演奏するようになった。

CD13ブリテンの『テノールとホルン及び弦楽のためのセレナード』はCD22フォン・アイネムのカンタータ『あとから生まれる人々に』と並んで彼が採り上げた数少ない20世紀の作曲家の作品だ。

前者では神秘の中に描き出す繊細で映像的な情緒が秀逸で、シカゴの首席デイル・クレヴェンジャーのホルン・ソロとロバート・ティアーのテノールと相俟って名演の名に恥じない演奏だ。

協奏曲ではいわゆるスタンダード・ナンバーが並んでいるが、ホロヴィッツ、ミケランジェリ、ベルマン、ツィマーマンなど錚々たるソリストが協演している。

もうひとつ興味深いのはヴェルディのオペラ『リゴレット』『トロヴァトーレ』で、ジュリーニは晩年オペラから手を引いてしまう。

それは彼自身がインタビューで答えているが、飛行機を使ってオペラハウスを掛け持ちして歌い続ける歌手達は、既に声が疲れている上に、時間がないために指揮者の要求する充実した稽古にも参加せず、またそれぞれのマネージャーも芸術的な仕上がりを重視しなくなってしまったという事実からだ。

大歌手と言われた人達の、言ってみれば最後の時代がジュリー二の晩年と一致していたのは幸いと言う他はない。

ここではカップッチッリやドミンゴ等がその健全な美声を思う存分謳歌していた、声の饗宴が記録されている。

アバドやムーティによって原典主義が唱えられ、歌手達の勝手な表現や華美な装飾音などが一掃され、オペラの上演にとって文学的な追究やストーリーの整合性に重点が置かれるようになると、歌手は指揮者の持ち駒となって必然的に小粒にならざるを得ない。

ジュリーニもまた個性豊かでおおらかな歌唱をある程度許してはいるが、作曲家がスコアに書き記した音符には最大限の敬意を払っていることは言うまでもない。

最後にヴェルディの『レクイエム』に関しては彼の第1回目の素晴らしい録音がEMIに遺されていて、正直言ってこちらのベルリン・フィルとの新録音はいくらか分が悪い。

旧録音には壮絶な覇気があり4人のソリストもシュヴァルツコップ、ルートヴィヒ、ゲッダ、ギャウロフが当時臨むことが出来た最高のメンバーだったこともあって、この演奏は残念ながら彼らには到底及ばない。

中でもバスのサイモン・エステスは癖が強くメフィストフェレスのような歌唱に疑問が残る。

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2019年06月08日


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『シカゴの首席奏者達』とネーミングされたこのCDではシカゴ交響楽団の名手達、オーボエのレイ・スティル、トランペットのアドルフ・ハーセス、ホルンのデイル・クレヴェンジャー、ファゴットのウィラード・エリオット、テューバのアーノルド・ジェイコブスのソロを彼らの古巣シカゴ交響楽団のサポートで愉しめる趣向になっている。

またモーツァルトとハイドンの協奏曲では彼ら自身の手になるオリジナル・カデンツァというボーナス付だ。

そして最後に収録されたラヴェルの『ボレロ』はオーボエ・ダモーレからサクソフォンまでソロ楽器がオンパレードするシカゴの力量を示したデモンストレーション的なアルバムに仕上がっている。

欲を言えばバレンボイムの指揮する2曲はやや精彩を欠いている感が否めない。

デジパック使用の2枚組で、英語のライナー・ノーツには5人の首席奏者の略歴と曲目解説付。

一流どころのオーケストラは外部から優れた演奏家を迎えなくても、楽団のメンバーの中からソリストを立てて様々な楽器のための協奏曲を立派に演奏できるし、実際気取らないコンサートではしばしばこうした方法が採られている。

それが名門オーケストラの矜持でもあるだろう。

アメリカの5大オーケストラの中でもシカゴ交響楽団は特にブラス・セクションが充実していることで群を抜いている。

また首席を占める彼らは殆んど伝説的とも言える名手で、しかもオーケストラという演奏基盤に強い情熱を持って在団キャリア数十年という超ベテラン団員も珍しくない。

一方楽団のレベル・アップにはメンバーの入団試験を厳しくしたり、容赦ない団員の交代を断行するだけでなく、如何に優れた指揮者と契約を交わして音楽監督に就任させるかということが欠かせない。

シカゴには戦後クーベリック、ライナー、マルティノン、ショルティ、バレンボイムそしてムーティがそれぞれ就任し、ショルティ時代には首席客演指揮者としてジュリーニやアバドを招聘している。

こうした経営上の辣腕ぶりも今日のシカゴの基礎を作っていると言えるだろう。

このアルバムでは特にジュリーニ指揮するブリテンの『テノール、ホルンと弦楽のためのセレナード』がティアーの繊細な歌唱に、移り変わる心情や情景をあらゆるテクニックを駆使して映し出すクレヴェンジャーの音楽性が傑出している。

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2018年07月19日


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このセットでは先ずバレエ組曲『三角帽子』をデ・ブルゴス、デ・ロス・アンへレス、フィルハーモニア管弦楽団の名演で聴けるのが嬉しい。

彼らの演奏にはラテン気質特有の明るさが漲っていて、デ・ファリャがこの曲に盛り込んだエキゾチックな曲想を遺憾なく表現している。

指揮者フリューベック・デ・ブルゴスは以前コンサートで何回か聴いたことがあり、その折にやはりデ・ファリャの作品も幾つか取り上げていた。

彼は既にこの作曲家のオーケストラル・ワーク集を完成させていて、言ってみればデ・ファリャは彼にとっては十八番のひとつだ。

デ・ブルゴスのファミリーはドイツ系だが、スペイン生まれのスペイン育ちだけあって、特にこの組曲の終曲「ホタ」の盛り上げ方、血の騒ぐような民族音楽的な燃焼度の高さは流石だ。

またカタルーニャ出身の名ソプラノ、ヴィクトリア・デ・ロス・アンへレスもこの頃全盛期で、情熱的なだけでなく仄かな妖艶さとチャーミングさを併せ持っている。

こうした民族色を前面に出した曲でも決して品格を失うことがない歌唱は万全だ。

このセットには幸い彼女の歌う『恋は魔術師』、『七つのスペイン民謡』、『プシケ』、『コルドバのソネット』も収録されているが、その表現の自然さ、ニュアンスの巧みさ、真似のできない歌いまわしや高音の美しさなどが堪能できる。

2曲目はカルロ・マリア・ジュリーニ指揮、上記のメンバーによるもうひとつの組曲『恋は魔術師』で、これもまたフラメンコを取り入れたアンダルシア風の曲趣が支配的だが、ジュリーニはデ・ブルゴスとは全く異なったアプローチで曲作りをしている。

冷静な譜読みできめ細かいダイナミクスの変化とオーケストレーションの特徴を丁寧に再現して民族的な熱狂は後退している。

中でも『火祭りの踊り』は映画『カーネギー・ホール』でのルービンシュタインのピアノ演奏で名声を上げた曲だが、ジュリーニはしっかりしたテンポ設定でむやみに走らず、緻密な音響設計を試みているようだ。

尚このセットではその他に『ハープシコードと五つの楽器の為の協奏曲』がゴンサロ・ソリアーノのハープシコード、ミシェル・デボストのフルート演奏で収められている。

20世紀に生きたデ・ファリャの新古典主義的な傾向を示す作品として興味深い。

録音は総て1960年代のものだが、音質は極めて良好。

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2017年07月09日


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カルロ・マリア・ジュリーニは1956年にミラノ・スカラ座の芸術監督の職を離れた以降イタリアのオーケストラとは比較的疎遠になったが、それでも彼が客演指揮者として振った興味深い演奏が少なからず遺されている。

このCDに収録された2曲のベートーヴェンは彼の円熟期70歳の1984年にフィレンツェ5月祭管弦楽団を指揮したライヴになる。

彼らはシーズン中にフィレンツェのオペラ劇場テアトロ・コムナーレのピットに入る楽団で、ヨーロッパの伝統的オーケストラの格から言えば二流止まりだが、ジュリーニはそれぞれのオーケストラが持っている個性と長所を巧みに引き出す術を知っていた。

この演奏では劇場作品に精通したオーケストラらしく2曲とも良い意味での劇場的表現力とその融通性が発揮されている。

『エグモント』序曲ではストーリーからイメージされる重圧感よりもシンフォニックなオーケストレーションの思い切った対比の変化で聴かせているし、交響曲第7番ではジュリーニの鷹揚なテンポ感から導き出される豪快なダイナミズムと開放的なパワーが引き出されている。

また第2楽章では、ベートーヴェンにしては意外なほどリリカルで瑞々しいカンタービレが美しい。

終楽章ではエネルギッシュなフィナーレに、イタリアのオペラ・ハウスらしい怒号のような歓声と拍手喝采が浴びせられている。

オーケストラは1928年に指揮者、ヴィットーリオ・グイによって設立され、1933年からは彼が創設したフィレンツェ5月祭の名を冠することになった。

このフェスティバルは現在ヨーロッパの重要な芸術的イヴェントとして古典から新作までの演劇、オペラ、バレエなどの劇場作品を中心に更にコンサートにも多彩なプログラムを組んだ上演期間が定着している。

彼らは当初オペラのレパートリーをデッカやドイツ・グラモフォンに録音していたが、当時のイタリア・オペラ黄金期と重なったためにテバルディ、シミオナート、ビョルリンクやバスティアニーニなどの名歌手との協演でも名盤をものしている。

近年は独自のレーベル「オペラ・ディ・フィレンツェ」を立ち上げてライヴ録音のCDをリリースしている。

オン・マイクで採音された良好な音質で、音場が近いためにかなりの臨場感も得られている。

幸い演奏終了後の拍手と楽章間のごく僅かなノイズ以外には演奏中の客席からの雑音は殆んど聞こえないが、ティンパニがややアンバランスに響き過ぎていて、これはミキシングの問題と思われる。

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2017年06月18日


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独ヘンスラーのプロフィール・レーベルからリリースされているカルロ・マリア・ジュリーニがドイツのオーケストラに客演したラジオ放送用ライヴ録音シリーズのひとつ。

1979年1月26日に収録された質の良いステレオ音源は、大手メーカーのセッション録音に引けを取らない音質が再現されているし、また鑑賞の時に煩わしい聴衆からの雑音は一切混入していないのも幸いだ。

プロフィール・レーベルのリマスタリングには定評があり、それはこれまでにリリースされたジュリーニがドイツの放送局に遺した幾つかの音源でも証明されている。

この録音でも音場が広く分離状態も良くオーケストラのそれぞれの楽器配置も明瞭で、確かにやっつけ仕事ではない良心的で丁寧な仕上がりが感知される。

唯一の弱点を挙げるとすれば収録曲がブラームスの交響曲第1番ハ短調の1曲のみというところだろう。

ジュリーニは若い頃オペラからオーケストラル・ワークに至るかなりのレパートリーを持っていたが、年と共にそれらを厳しく収斂していった指揮者なので、こうした音源の発掘は歓迎したい。

ブラームスはジュリーニが得意としていた作曲家の1人で、交響曲第1番に関しては、フィルハーモニア管弦楽団(1961年)、ロスアンジェルス・フィル(1981年)、ウィーン・フィル(1991年)とそれぞれスタジオ録音している。

ここでのジュリー二の指揮は難解に感じられる部分が全くない明快なもので、冒頭からメリハリを利かせた起伏のあるダイナミズムの中にブラームスの演奏には異例なほどの鮮やかな色彩感を反映させている。

テンポの采配もかなり自由で、第2楽章後半のヴァイオリン・ソロとホルンのユニゾンではカンタービレを充分に奏でる流麗な抒情が美しいし、終楽章のテーマもテンポを抑えて悠々とした歌心を披露している。

ジュリーニは音楽を理詰めで聴かせるタイプの指揮者ではなく、あくまでも作曲家のオーケストレーションの妙を引き出し、それを最大限活かしながら表現する、言ってみれば感性が主導する解釈が支配的だが、その一方で音楽の起承転結を疎かにせず作品を弛緩させることのない巧妙なバランス感覚が彼の美学でもある筈だ。

その結果オーケストラの重厚さやほの暗さによって表されるブラームスの諦観よりも、むしろ平明だがより開放的なサウンドが特徴だろう。

ジュリーニはまた、ブラームスの作品独自の重厚な音構造、和声感覚、ディテールの入念な動きをことごとく表出しながら、伴奏音型、対旋律、普通なら目立たない楽句も手にとるように表現している。

それもバイエルン放送交響楽団がジュリーニの手足の如く自在に力量を発揮し、緻密な演奏をする姿勢がなければ不可能だが、事実、オケは極めて質の高い水準を示している。

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2017年06月06日


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カルロ・マリア・ジュリーニが壮年期にドイツで振った放送用ライヴ音源シリーズからの3曲で、独ヘンスラー・プロフィール・レーベルの良好なリマスタリングによってケルン放送交響楽団との鮮烈な演奏が甦っている。

3曲の中では最も古い録音が最後に収録された1958年のドヴォルザークの交響曲第8番で、この曲のみモノラル録音になる。

オフ・マイクで採音された残響豊かなサウンドが得られているが、やや臨場感に欠けるのが残念だ。

しかし44歳だったジュリーニの一気呵成に燃え上がる高揚感と全く溜めのない奔流のような推進力が数多いこの曲の名演の中でも稀にみる緊迫感を漲らせている。

第1楽章後半からの総奏でのブラス・セクションの咆哮と弦の応酬もジュリー二の手の内にしっかりと統率されていて水も漏らさぬ態勢が維持されている。

また第3楽章の快速のアレグレットではスラヴ的な土臭さとは縁がないが、高潔とも言える瑞々しい弦がメロディーをクールに歌い切っているし、終楽章フィナーレへのアッチェレランドをかけた凄まじい追い込みは爽快なカタルシスを体験させてくれる。

ブゾーニとフランクの2曲は1971年のステレオ録音で、マスター・テープの保存状態も良くノイズのない鮮明な音質で鑑賞できるのが幸いだ。

いずれにしても放送用ライヴなので聴衆からの雑音や拍手は一切混入していない。

ブゾーニのサラバンドは一種のパッサカリアになっていて、繰り返される低音の上に対位法を使った変奏が神秘的な雰囲気を醸し出していて、続く華麗なコルテージュとの対比が鮮やかだが、ここでもジュリーニの精緻で隙のない表現力が劇音楽というジャンルを超越した、より普遍的なオーケストラル・ワークとしての価値を与えている。

フランクの交響詩『プシシェ』からは第4部の「プシシェとエロス」のみが演奏されていて、小規模ながら魅力的なピースに仕上げられている。

ジュリー二の解釈は官能性を仄めかす程度で、むしろ特有の透明感の中に物語のシュールレアリズム的な性格を映し出しているのが秀逸だ。

この作品はラテン詩人アプレイウスの『黄金のロバ』の中の挿話「クピードとプシュケー」のエピソードを4つの断章で纏めるという構想で作曲したもので、フランク晩年の巧妙なオーケストレーションが駆使されていて、ジュリーニに従うケルン放送交響楽団の高度な音楽性と実力も十分に発揮されている。

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2017年05月29日


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独ヘンスラーのプロフィール・レーベルはカルロ・マリア・ジュリーニが壮年期に手掛けた演奏を独自のリマスタリングで次々と復活させている。

中でも彼がドイツで客演した放送用ライヴ音源はマスター・テープの保存状態も良く、1960年代以降の音源は総てがステレオ録音であるために音質にも恵まれ、また聴衆からの雑音も一切混入していない。

このディスクに収録された2曲はどちらも1979年1月26日というデータの記載があり、録音会場全体の残響が程好く入ったオフ・マイク気味の採音なので、臨場感に溢れるような音場とは言い難い。

しかしながらオーケストラのバランスは非常に良く、ホールで聴いているような明瞭で自然な奥行きのある音響が得られていて、また繊細な弱音から総奏の時の迫力にも不足していない。

既に定評のあるヘンスラーのリマスタリングも納得できる仕上がりになっている。

ハイドンの『驚愕』でジュリーニは作曲家円熟期のジオメトリックで巧妙なオーケストレーションを整然とした古典的な造形美で聴かせていて、模範的とも言える均衡を保った第1楽章では一切の誇張も感じられないが彼ならではの音楽性の豊かさと情熱が滲み出ている。

また厳格な中に愉悦と愛嬌を示した第2楽章、いくらか鄙びたレントラー風の速めで力強いメヌエットや終楽章のスケールの大きい躍動感までが古典派の交響曲の美学から全く逸脱することなく統合されている。

一方ラヴェルの『マ・メール・ロワ』はジュリーニ一流のデリカシーが反映された、超自然的でメルヘンチックな美しい幻想が描き出されている。

敢えて言えばラテン的な温もりは感じられず、遊び心を抑えたクールな雰囲気を漂わせているが、これはオーケストラがバイエルン放送交響楽団だからかも知れないし、そこには情に溺れないジュリー二の厳しい一面も表れている。

5つの個性的な小品はそれぞれが磨き上げられた小さな宝石のような輝きを放っていて、それらの変化と対比が興味深く、特に終曲のクライマックスに導かれる絢爛たるフィナーレが印象的だ。

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2017年05月25日


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カルロ・マリア・ジュリーニは1948年にヴェルディの『椿姫』で本格的なオペラ指揮者としてのデビューを飾り、1953年からはヴィクトル・デ・サーバタの後を引き継いで39歳の若さでミラノ・スカラ座の音楽監督に迎えられた。

本盤に収録されたケルビーニの『レクイエムハ短調』はその前年1952年の録音になり、かなり珍しいレパートリーだが、彼の宗教曲に対する巧妙な手腕が示された貴重な音源で、作曲家の完璧とも言える精妙な対位法が織り成す高貴で厳粛な雰囲気とラテン的な劇場感覚の双方を見事に表現している。

歴史的にはトスカニーニ以後の2番目の録音で、ジュリーニはその後も再録音の機会を持たなかった。

但し音質に関しては、リマスタリングは良好なものの時代相応のモノラル録音であることが惜しまれる。

オーケストラ及びコーラスはジュリー二の母校、ローマのサンタ・チェチーリア音楽院の演奏で、イタリアらしい明快で屈託のない演奏に貫かれているが、先ず入祭唱のしめやかな「キリエ」に引き込まれる。

全体的にジュリーニはシンプルでストレートな解釈を示していて、第3部のブラス・セクションと銅鑼で告げられる「怒りの日」を聴いていると彼のヴェルディの『レクイエム』を彷彿とさせる。

それはヴェルディがこの作品からインスピレーションを得ているからだろう。

勿論ヴェルディは「怒りの日」で全オーケストラを鳴らし切る壮絶なサウンドを創り上げているが、その原形がここにあるような気がする。

オッフェルトリウムの壮麗な二重フーガでの統率も隙がなく、クライマックスを導くストレッタでの混声合唱の声部の綾も明瞭に再現している。

ルイジ・ケルビーニ(1760-1842)は2曲の『レクイエム』を遺しているが、このハ短調はフランス王政復古後1815年にルイ16世処刑後23年の追悼式典のために作曲されている。

彼はイタリア人だったが後年フランスで重用され王党派の1人として革命も経験している。

特有の厳粛さはおそらく声楽陣のソリストを欠いているからだろう。

と言うかケルビーニはこの『レクイエム』をことさら派手に聴かせるようなアピールは一切していない。

そこには葬儀のための音楽として忠実に奉仕した無欲さが感じられる。

しかし決して地味な作品ではなく、コーラス及びオーケストラの書法は練達を極めていて、全く無駄のない効果的な音響に驚かされるし、ベートーヴェンが称賛したというエピソードも疑いのない事実だろう。

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2017年01月12日


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EMI音源の協奏曲集を9枚のCDにまとめたジュリーニ生誕100周年記念アンソロジーのひとつ。

フィルハーモニア管弦楽団を指揮したヴィヴァルディの『四季』全曲が、このセットでは1955年の唯一のモノラル録音になるが、それとは別にステレオ・テスト・レコーディングとして「秋」の3つの楽章も収録されている。

英テスタメントによってリマスタリングされたジュリーニとしては際物的なレパートリーで、音質も時代相応と言ったところだが、広いダイナミクスを使った独創的でしかもスケールの大きな描写は流石と思わせる演奏だ。

このセットではまたシュタルケルをソロに迎えたボッケリーニ、ハイドン、シューマン及びサン=サーンスの4曲の協奏曲が秀逸だ。

いずれも1957年から翌58年にかけてのセッションで、同じくフィルハーモニア管弦楽団を振ったものだが、若かったシュタルケルのシンプルだが堅牢な音楽作りと爽快な超絶技巧を際立たせるジュリー二の巧妙なサポートが聴きどころだ。

これらは手に入りにくくなっていた録音なのでバジェット盤での復活を評価したい。

尚サン=サーンスの同協奏曲は7枚目にロストロポーヴィチのソロでロンドン・フィルハーモニー管弦楽団と1977年に再録音したものも含まれている。

同様にブラームスのピアノ協奏曲第1番に関してはクラウディオ・アラウ、フィルハーモニア管弦楽団(1960年)とワイセンベルク、ロンドン交響楽団(1972年)の2種類のセッションが収められている。

シュタルケルの剛毅で正確無比、ロストロポーヴィチの柔軟で多彩な奏法を駆使したソロ、アラウの骨太で彫りの深い解釈、ワイセンベルクの陰影に富む華麗なピアニズムと、それぞれの演奏家の聴き比べをするのも一興だ。

ミルシテインとのプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番は、ソロ・ヴァイオリンの高潔とも言える透明感のある音色を活かした、滑らかなレガート奏法が全曲を通じて堪能できる優れた演奏だ。

エスニカルで原始的なパワーを聴かせる部分でも力で押しまくるのではなく、あくまでも楽想表現としての態勢を崩さないミルシテインのテクニックには敬服させられる。

またそれを支えるジュリー二のきめ細かな指示によって作り出される精緻で、極めて機智に富んだフィルハーモニア管弦楽団の音響の面白さも特筆される。

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2016年12月28日


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1959年にカルロ=マリア・ジュリーニが当時全盛期だったフィルハーモニア管弦楽団を振ったモーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』の名盤は、ウィーンのバリトン、エーベルハルト・ヴェヒターをタイトル・ロールに起用し、レポレロにも老巧なところを見せるバリトンのジュゼッペ・タデイを配しているところに特徴がある。

それ以前の全曲録音ではフルトヴェングラー&ウィーン・フィルによる1954年のザルツブルク音楽祭のライヴが、バス歌手による同オペラの最高峰に値する重厚な演奏で、イタリアのバス、チェーザレ・シエピの高貴な歌唱と名演技が忘れ難いが、ジュリーニは敢えてバスは騎士長のフリックだけに留めて、より軽妙洒脱なドラマ・ジョコーサに仕上げている。

勿論女声陣もドンナ・エルヴィーラにシュヴァルツコップ、ドンナ・アンナにサザーランド、ツェルリーナにはシュッティなど芸達者な歌手が揃っているし、ドン・オッターヴィオはルイジ・アルヴァ、マゼットは若き日のカップッチッリという魅力的な顔ぶれによる超豪華キャスティングである。

ヴェヒターの若々しい情熱を持って歌い切って輝かしく、貴族然とした歌唱はスケールこそ大きくないが無難なまとめで、言ってみれば等身大の新派的なドン・ジョヴァンニを演じて好感が持てるし、演技の巧妙さも髣髴とさせる。

円熟の極にあったシュヴァルツコップは文字通りの力演で、女心の複雑な心理をよく歌い分け、流石と納得させられる。

シュッティは透明な声に加え聡明な歌いぶりで魅了し、サザーランドも素晴らしい声で豊かな音楽性を感じさせる。

またジュリー二の指導の成果と思われるイタリア語のレチタティーヴォの発音とそのニュアンスの多様な表現をキャスト全員が巧みにこなしているプロ意識も流石で、快いムードが全篇を包んでいる。

こうした番号制のオペラではストーリーの展開を手際良く進め、それぞれの役柄を明確に表出するために欠かせない唱法だが、イタリア人以外の歌手も完璧に習得して指揮者の要求に見事に応えている。

ジュリーニは1970年代に入るとオペラ界から次第に手を引いていき、メトロポリタン歌劇場からの招聘も断わり続けた。

その理由のひとつは、忙しく世界中のオペラ・ハウスを移動して歌いまくるために声が荒れて質の落ちた歌手と、短時間に制限されたやっつけ仕事で仕上げなければならない稽古では、彼の理想とする舞台を創り上げることが困難だと感じたからだ。

それは辛辣だが真摯に音楽に奉仕する指揮者としてのポリシーを曲げない信念を示した選択だった。

これだけオペラに造詣が深く経験豊かなベテラン指揮者を失ってしまったことは、オペラ界にとっても大きな損失だったに違いない。

既にCD−ROM付のリマスタリング盤がリリースされていたが、こちらはイタリア語リブレットと独、英、仏語対訳を印刷したブックレットをつけたコレクション仕様になっている。

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2016年12月26日


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カルロ=マリア・ジュリーニが彼のロンドン時代にセッション録音した3曲を収録したアルバムで、当時全盛期だったフィルハーモニア管弦楽団との協演をハイブリッドSACD化したものである。

3曲ともジュリー二の追悼盤としてリリースされたEMIの『ロンドン時代のジュリーニ』17枚組セットにも組み込まれている。

シューマンの交響曲第3番変ホ長調『ライン』は、マーラーがオーケストレーションに手を加えたスコアを使用しているのが特徴で、作曲家のオリジナリティーを尊重する現在では稀な演奏と言える。

またそれが妥当かどうかは別として、シューマンのオリジナル・スコアの音響との比較が興味深い。

シューマン自身オーケストレーションの困難さは自覚していたようだが、結果的には独自の分厚く籠ったサウンドを生み出し、曲種によってはかえってそれが効果的に機能しているのも事実だ。

例えば第1曲目の序曲『マンフレッド』は暗雲立ち込めるような重苦しい雰囲気が主人公マンフレッドの数奇な運命を暗示しているし、ジュリーニの指揮もそれを意識している。

一方交響曲『ライン』は曲想の示している解放的な雰囲気から、ジュリーニは敢えてマーラー版を採用したと思われる。

ただ彼はマーラーによってシェイプアップされたサウンドが軽佻浮薄になるのを避けるためか、冒頭は荘重なテンポで開始している。

マーラーにはその独特な音響感覚だけでなく尊大とも思える天才意識があったようで、オーケストレーションだけでなく、それに伴う発想記号まで変えているし、シューマンのみならずベートーヴェンの交響曲にさえも容赦なく手を入れている。

しかしながらこうした改竄は今日では到底許されるべきことではないだろう。

尚シューマンの2曲に関してはライナー・ノーツに1958年オリジナル・コロムビア・グラモフォン・カンパニーによるロンドンでの録音と記載されていて、序曲の方は解像度の高い完璧なステレオ録音だが、交響曲『ライン』は何故か擬似ステレオ化されたモノラル録音で、その理由については言及されていない。

音場に奥行きが出ているのはSACD化の効果だろう。

最後のチャイコフスキーの交響曲第2番ハ短調『小ロシア』は他より2年古い1956年のセッションだが、幸い歴としたステレオ録音で音質も3曲の中では最も良く、SACD化でのリイシューは朗報だ。

EMIのステレオ録音盤の正規リリースは1958年からだが、実際には既に試験録音を始めていたことを証明している。

チャイコフスキーの交響曲としては例外的に明朗な作品で、スラヴ民謡を採り入れた国民楽派的な作風から『小ロシア』のニックネームが付けられたようだ。

ジュリー二の卓越した劇場感覚がバレエ組曲を髣髴とさせる色彩感溢れる気の利いた音響を創造していて、飛びっきり軽快なスケルツォや終楽章の変奏曲でのコサック・ダンスのホーパックさながらの盛り上げが聴きどころだ。

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2016年06月25日


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一昨年2014年5月のカルロ=マリア・ジュリー二の生誕100周年記念として3巻に分けてリリースされたアルバムのひとつで、ロンドンを拠点に行われたEMI音源のセッションを17枚のCDにまとめてある。

1956年から1976年にかけての録音なので理想的な音質とは言えないが、これまでのリマスタリングによってかなり良好な音響が再現されている。

先にユニヴァーサル・イタリーから出たグラモフォン盤ではジュリーニ円熟期の至芸を堪能できるが、このセットでは彼がロンドンのオーケストラを振った壮年期特有のバイタリティーと極めて理知的にコントロールされたカンタービレが傑出した演奏だ。

オーケストラはフィルハーモニア管弦楽団、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、ロンドン交響楽団など首都のオーケストラをフルに活用した、まさに「ザ・ロンドン・イヤーズ」のタイトルに相応しい優れた内容を誇っている。

中でもこの時期ジュリーニが最も高く評価していたのが改名以前のフィルハーモニア管弦楽団で、このアルバムでも大半は彼らとの協演で占められている。

いずれにしても同じ楽団の首席指揮者や音楽監督の地位に長く留まらず、常に一匹狼的な芸術活動を続けた彼のワーク・スタイルは生涯を通じて徹底したものであった。

そこには彼が経年による澱や馴れ合いを嫌った仕事に対する厳格な姿勢と、家族への配慮など人間性を最優先する情愛豊かな側面も見出される。

それは彼の音楽の精巧なディティールと対照的に温かい人間愛に充たされた安らぎに通じるものがある。

演奏曲目を見るとミラノ・スカラ座出身だった当時のイタリア人指揮者としては、彼が既に多彩なレパートリーを開拓していたことが理解できるだろう。

後年彼はむしろレパートリーを限定していく方向に向かうが、アバドが世に出るまではジュリーニがトスカニーニ、デ・サーバタ、カンテッリに続く、オペラ以外のオーケストラル・ワークや声楽曲でも世界に通用する殆んど唯一のイタリア人だったことも象徴的だ。

しかしやはりオペラ畑で鍛えた腕を持っていることがその指揮振りにもよく表れていて、鋭敏な感性でオーケストラを導くカリスマ的統率力と同時に溢れるような歌心を内包した自在な音楽観は彼独自のものだ。

彼がワーグナーやリヒャルト・シュトラウスを振らなかったのは惜しまれるが、この17枚にはお国物のボッケリーニ、ロッシーニ、ヴェルディの他にグラモフォン盤には含まれていない作曲家ストラヴィンスキー、ファリャ、ブリテンなどの作品がいずれもオリジナリティーに富んだ鮮烈な演奏で収録されている。

尚最後の1枚はボーナスCDで、彼の人生とそのキャリアについて2003年にミラノで行われたインタビューに答える形でジュリーニが英語でコメントしている。

8トラック76分に亘る会話のバックには、その話題に因んだ録音が使われていて興味深い。

ライナー・ノーツは27ページで曲目データ及び彼のロンドン時代のレコーディングについて英、独、仏語の解説付。

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2016年06月11日


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巨匠カルロ=マリア・ジュリーニがロンドンを中心に活動していた時期の録音から1959年のラヴェル及び1962年のドビュッシーの作品を収録している。

正式なステレオ録音を開始して間もない頃のEMIとしては良好な音源でプロデューサー、ウォルター・レッグの意気込みを感じさせるが、DSDリマスタリングによって更に高音部や楽器ごとの分離状態、音場の奥行き等が改善されている。

多彩な響きと推進力に満ちたリズム感覚、ドビュッシーとラヴェルという近代フランス音楽を代表する傑作の本質を見事に描き出した名演。

特にさまざまなパーカッションの強調やブラス・セクションの咆哮で、それまでとは異なった斬新で華麗なサウンドを引き出したドビュッシーの『海』や『夜想曲』からの「祭」、ラヴェルでは『鏡』から「道化師の朝の歌」などにジュリー二の非凡でシンフォニックな管弦楽法の手腕が発揮されている。

また『ダフニスとクロエ』の終曲では勇壮でスペクタクルなシーンが一層鮮やかに甦っている。

オーケストラはどちらもフィルハーモニア管弦楽団で、彼らも全盛期を築いた時代であり、ジュリーニが協演したロンドンのオーケストラの中でも彼自身最も高く評価していた楽団だけに、その実力を充分に堪能させてくれる。

今回のSACD化では4曲のみの収録だが、ジュリーニはスカラ座を辞した後、一時期ロンドンを本拠地に置いてオペラ以外の曲種にも本格的に取り組んでいる。

同時期にやはりフィルハーモニア管弦楽団とラヴェルの『マ・メール・ロワ』『亡き王女のためのパヴァーヌ』『スペイン狂詩曲』など一連のフランス音楽を録音するだけでなく、その他にもドイツ、スペイン、ロシア物など多彩なレパートリーを開拓していた。

その後彼には逆にレパートリーを狭めていく傾向が見られるが、その頃のジュリーニのエネルギッシュで溌剌とした指揮法の全貌を知るための選択肢としては、ワーナーが網羅した16枚組の『ザ・ロンドン・イヤーズ』がある。

このSACDもそのセットのCD14をそのままリマスタリングしたもので、他の音源のSACD化も期待したいところだ。

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2016年05月03日


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今回ワーナーからSACD化されたカルロ=マリア・ジュリーニ演奏集の1組で、中でもヴェルディの『レクイエム』の音源は演奏水準が極めて高い上に当時のEMIとしては録音状態が抜きん出て素晴らしいが、レギュラー・フォーマットのCDでは音質がいくらか持て余し気味だった。

特に「怒りの日」ではパーカッションの爆音とともにフィルハーモニアの総奏が凄まじいばかりの音響効果を上げているが、再現の方が殆んど限界に達していて音場に余裕がなかった。

このSACDでは伸びの良い拡がりのある奥行きと細部まで鮮明に聴き取れる音質が確保されていることを評価したい。

ジュリー二の同シリーズではラヴェル作品集がやはりSACDで同時にリリースされている。

尚演奏については、通常盤に書き込んだレビューを以下に再掲載させて頂くことにする。

録音は1963年から64年にかけて行われ、当時の実力派4人のソリストを従えた演奏はその音楽的な水準の高さと、音響の生々しさでグラン・プリ・デュ・ディスクやエディソン・プライスを受賞している。

「怒りの日」での最後の審判を体現させるような激情的な表現はジュリーニが遺したあらゆるセッションの中でも最もラテン的な情熱を発散させたもので、彼の創造した音響効果だけではなく、一方で緻密に計算された弛むことのない緊張感と、それを維持する集中力が聴きどころだ。

ソロ歌手のキャスティングでは実力重視の抜擢が功を奏している。

それは4人の歌唱力に限ったことではなく、重唱部分では和声の微妙なモジュレーションの連続があり、正確な音程の維持と和声の移行という高度なアンサンブルのテクニックが要求されるが、その意味でもこのメンバーは万全だったと言えるだろう。

シュヴァルツコップは1952年のデ・サーバタ盤でもその驚異的な歌唱を披露したが、ここではやや翳りが出てきた声質を巧みな表現力でカバーして、よりドラマティックな名唱を遺すことになった。

クリスタ・ルートヴィヒとのオクターヴ・ユニゾンのア・カペラで始まる「アニュス・デイ」の天上的な美しさや、最後のコーラス「リベラ・メ」に入る前の「レクイエム・エテルナム」の神々しさは唯一無二のものだ。

ヴェルディの『レクイエム』はミラノ出身の文豪アレッサンドロ・マンゾーニ追悼のために作曲されたもので、現在では宗教曲として実際に教会内で演奏されることはそれほど多くない。

それはこの曲が如何にもヴェルディらしい劇場空間に相応しい華麗なオーケストレーションの音響とともに、ベルカントの泣き節とも言える曲想を持った声楽部分があたかも1曲のオペラのように展開するからで、それだけにオペラ劇場とその専属の演奏者によるセッションも少なくない。

このジュリー二の旧盤は古いデ・サーバタ、ミラノ・スカラ座盤と並んで個人的に最も気に入っている演奏で、その理由はオーケストラとコーラスが厳格に統制されているにも拘らず、外側に向かって放出される解放的なエネルギーに充ちていて、異例のカタルシスを体験できるからだ。

フィルハーモニア管弦楽団はロンドン時代のジュリーニが最も高く評価していたオーケストラで、この演奏にも彼らの信頼関係が良く表れている。

このCDには同じくヴェルディの『聖歌四篇』が1962年の録音で同メンバーとジャネット・ベイカーのメゾ・ソプラノでカップリングされている。

フィルハーモニア合唱団も流石にコーラス王国イギリスの合唱団だけあってその表現力と機動性でも卓越している。

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2015年12月04日


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ジュリーニ生誕100周年記念としてリリースされた3巻のセット物のひとつで、彼のシカゴ時代に録音されたオーケストラル・ワークを4枚のCDに収録してある。

このセットは2004年にリリースされたものと全く同一内容で、演奏の水準の高さは勿論、ジュリー二の個性的だが、決して我儘な解釈にならない高踏的な印象を残す交響曲群と、ベルリオーズとストラヴィンスキーで見せる魔術師のような、諧謔と神秘、幻想とメルヘンの世界をカラフルな音色を駆使して変幻自在に表現するテクニックが聴き逃せない。

交響曲ではシカゴ十八番のブルックナーとマーラーが1曲ずつだが組み込まれている。

中でも白眉はブルックナーの第9番で、手に取るように明瞭な細部と彫琢された立体的で輝かしい音像が再現されている。

これはマーラーにも共通して言えることだが、弦楽部のカンタービレを鮮烈に際立たせ、その上にシカゴの身上でもあるパワフルな金管楽器群を燦然と煌めかせるジュリー二のバランス技も見事だ。

またベートーヴェンの交響曲第7番第2楽章の高貴で瑞々しいアレグレットやブラームス第4番終楽章パッサカリアの構築性などにも優れた手腕を示している。

ジュリーニがシカゴ交響楽団の首席客演指揮者に就任したのは1969年からで、ショルティが同オーケストラの音楽監督になった年でもある。

しかしジュリーニ自身は既にフリッツ・ライナー時代の1955年にシカゴ交響楽団とアメリカ・デビューを果たしているので、彼とは相性の良かったオーケストラのひとつだ。

またショルティ時代にシカゴは再びその黄金期を盛り返す時期にあった。

それは一人ショルティの貢献ではなく、イタリア人指揮者ジュリーニによる新風も楽団刷新の機運に繋がったことは間違いない。

ここに聴く彼らの演奏がヨーロッパの列強にも引けを取らない、屈指のオーケストラに成長していたことを証明することにもなったセッションだ。

バジェット価格によるリイシュー盤なので多くを望むべくもないが、前回と同様4枚のCDへの各曲目の割り当てを密集させているために、ベルリオーズの『ロメオとジュリエット』からの抜粋及びブラームスの交響曲第4番が2枚のCDに跨った泣き別れ編集になっているのが残念だ。

音質は2004年までのリマスタリングで改善されていてかなり良好な状態で鑑賞できる。

ライナー・ノーツは23ページで曲目データの他に英、独、仏語によるジュリー二のシカゴ時代のキャリアが掲載されている。

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2015年08月24日


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昨年2014年は奇しくもカルロ・マリア・ジュリーニとラファエル・クーベリックの生誕100周年に当たる。

既に2人の指揮者のリイシュー・アルバムやセット物が矢継ぎ早にリリースされているが、この22枚の演奏集は、ジュリーニが1989年から95年までにソニーに録音したバロックから20世紀に至る13人の作曲家の作品を、ヨーロッパを代表する6つのオーケストラで演奏した彼の円熟期の至芸が堪能できるコレクションだ。

晩年のジュリー二のテンポはやや遅めだが、じっくり鑑賞すれば決して弛緩した表現でないことが理解できるだろう。

むしろ作品のディティールを曖昧にすることなく、常に明快なアプローチでありながらオリジナリティーに富んだファンタジーを横溢させる手腕は、まさに巨匠の名に相応しいものではないだろうか。

また総てのセッション及びライヴがデジタル録音ということもあって音質の点でも他のセットを凌駕している。

企画ではグラモフォン音源と合体させたコリア盤に先を越されているが、単価的にはかなり割安になっているのも事実だ。

ベートーヴェンではイタリア勢を揃えたセッションが興味深い。

ミラノ・スカラ座フィルはいくらか線の細い明るい音色を持ったオケなので、重厚なベートーヴェンを好む方には意見が分かれるところだが、トスカニーニ時代から鍛えられた外国の作品に対する彼らの柔軟な姿勢が示されている。

コンセルトヘボウを振ったドヴォルザークでは大きなスケールの中に託した燃えるような情熱と抒情が良い意味でスペクタクルな効果を上げている一方で、色彩感溢れる『火の鳥』、限りない繊細さと幻想で極上のメルヘンの世界を描いた『マ・メール・ロワ』や『パヴァーヌ』、予想外にドラマティックな光彩を放つ『海』などのフランス物も注目される。

フランクの2曲はどちらもライヴで聴衆の拍手と歓声が入っているが、特に交響的変奏曲はそれほど演奏の機会に恵まれない珍しいレパートリーだけに、このメンバーでの演奏は貴重だ。

またベルリン・フィルとの金管楽器を惜しげもなく前面に出した壮麗な『展覧会の絵』も聴き応えのある仕上がりをみせている。

声楽曲が充実しているのもこのセットの魅力で、バッハの『ミサ曲ロ短調』を始めとする宗教曲のきわめて流麗だが知的なセンスを持った真摯な解釈もジュリーニらしい。

尚ラヴェルの『マ・メール・ロワ』は同音源が2回収録されている。

これは過去の2度のリリースによるだぶりだが、オリジナルのカップリングで両方とも入ることになったようだ。

パッケージはクラムシェル・スタイルではなく、縦型ボックスで蓋を上から完全に取り外すタイプ。

それぞれのジャケットは紙製だが折り返しのある丁寧な装丁で、取り出し口が下向きの収納になるのでディスクが抜け出ないように工夫されている。

ライナー・ノーツは上質紙で47ページあり英、独、仏語によるジュリー二の演奏についての簡易なコメントと、全オリジナル・ジャケット写真入の曲目一覧及び録音データを掲載しているが、歌詞対訳は省略されている。

ボックス・サイズは縦13、横13,5、奥行き8,5cmの大きめのコレクション仕様。

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2015年08月22日


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昨年2014年はカルロ・マリア・ジュリーニ生誕100周年に当たり、一昨年ワーナーからはジュリーニ初期の録音になる全3巻計30枚のCDセットがリリースされたが、これに含まれていないのが同EMI音源による多くのオペラ全曲盤や宗教曲で、このモーツァルトの『レクイエム』はフィルハーモニア管弦楽団と同合唱団を振った1978年の第1回目のセッションになる。

ジュリーニはほぼ10年後に同メンバーとソリストを入れ替えた形で再録音を果たしているが、この演奏ではテンポが比較的速めであるために、曲のしめやかさよりもむしろ流麗で鮮烈な音響に特徴がある。

オーケストラ、コーラス共にその完成度は高い。

4人のソリストに実力派のヘレン・ドナート、クリスタ・ルートヴィヒ、ロバート・ティアー、ロバート・ロイドを起用していることも緻密なアンサンブルを支える上で最良の効果を上げている。

ただ、テノールのティアーの発声が他の3人と溶け合わないのが惜しまれる。

ジュリーニはこの曲の成立にまつわるデモーニッシュなエピソードやあざといロマンティシズムを払拭して、独唱陣だけでなくコーラス・パートへのきめ細かい指示やオーケストラのバランスを巧みにコントロールすることによって、かえってモーツァルトの曲想をフレッシュでダイレクトに再現している。

しかしその一方で、ジュリーニの描き出すモーツァルトはあまりに重く、この荘重さがジュリーニの特質かもしれない。

モーツァルトの未完の宿命的作品の中から、彼は何ものにも替えがたい“荘重さ”を選びとった。

尚このセッションでは要所要所にオルガンの低音を重ねているが、これは今は無きロンドン・キングスウェイ・ホールのオルガンの響きと思われる。

カップリングはモテット『エクスルターテ、ユビラーテ』で、ソプラノ・ソロがバーバラ・ヘンドリックス、ネヴィル・マリナー指揮、アカデミー室内管弦楽団の演奏に替わる。

この作品はわずか16歳のモーツァルトがイタリアのカストラート、ヴェナンツィオ・ラウッツィーニのために作曲したもので、当然カンタービレと敏捷なアジリタのテクニックが欠かせないが、ヘンドリックスの声はやや重くアカデミアの軽快なオーケストラに乗り切れない恨みがある。

コロラトゥーラの切れもいまひとつだし、最高音のc'''も突出気味でこの曲に関してはキャスティング・ミスではないだろうか。

こちらは1987年の録音で、一方『レクイエム』の方も1998年にデジタル・リマスタリングされているので音質はどちらも極めて良好だ。

CD内にPDFフォーマットによるラテン語典礼文及びモテットの全歌詞に独、英、仏語の対訳が掲載されている。

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2015年08月04日


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洗練を極めたジュリー二の『ドン・ジョヴァンニ』である。

バス歌手によって歌われたタイトル・ロールとしては1954年のフルトヴェングラー、シエピによるザルツブルク・ライヴが個人的には圧倒的な名演として思い出されるが、一方バリトンが歌ったものではこの1959年のセッションを最も優れた『ドン・ジョヴァンニ』として挙げたい。

それは主役のヴェヒターだけではなく、タッデイ、シュヴァルツコップ、サザーランド、シュッティ、アルヴァ、カプッチッリのキャスティングが万全で、全体的に見通しの良い、また重厚になり過ぎないイタリア趣味の音楽に仕上げてあるのが特徴だ。

歌手もオーケストラもインターナショナルな混成メンバーであるにも拘らず、ジュリー二の統率が素晴らしくモーツァルト特有の瑞々しさ、シンプルな美しさ、そして終幕のデモーニッシュな翳りはやや控えめにして、むしろ作品の快活さを前面に出している。

エヴァーハルト・ヴェヒターの颯爽たるドン・ジョヴァンニは、若々しく品のある貴族然とした歌唱で、この役柄を劇中で突出させることのない等身大の人物に描いてみせている。

ヴェヒターだけではないが、ジュリー二の指導の成果と思われるイタリア語のレチタティーヴォの発音とそのニュアンスの多様な表現を誰もが巧妙にこなしていることにも感心した。

こうした番号制のオペラではストーリーの展開を手際良く進め、それぞれの役柄を明確にするために欠かせない唱法だが、イタリア人以外の歌手達も流石に巧い。

またこの演奏でジュリーニは狂言回し的なレポレッロ役にもバスではなく、バリトンのタッデイを配して軽妙なドラマ・ジョコーソの味を出している。

バスとバリトンの明確な区別がなかった時代の作品なので、ここでも声質の特徴を見極めた歌手の抜擢が功を奏している。

ジュリーニはオペラ指揮者としての手腕を高く評価された人だが、現在では彼の振ったオペラは管弦楽に比べるとそれほど話題に上らないのが残念だ。

確かにジュリーニは1970年代に入るとオペラ界から次第に手を引いていき、メトロポリタンからの招聘も断わり続けた。

その理由は忙しく世界中の劇場を移動して歌いまくる質の落ちた歌手と、短時間のやっつけ仕事で仕上げなければならない制限された稽古では、ジュリーニの理想とする舞台作品を創造することが困難だと考えたからだ。

辛辣だが真摯に音楽に奉仕する指揮者としてのポリシーを貫いた見解で、ジュリーニの芸術家としての固い信念が窺える。

これだけオペラに造詣が深く、経験豊富なベテラン指揮者を失ってしまったことは、オペラ界にとっても大きな損失だったに違いない。

尚4枚目はボーナスCD−ROMになっていて、CD初出時のライナー・ノーツ及びイタリア語の全歌詞と独、英、仏の三ヶ国語の対訳が掲載されており、バジェット価格盤にしては親切な配慮だ。

1959年の録音だが、リマスタリングされた音質は極めて良好。

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2015年07月09日


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2012年にユニヴァーサル・イタリーからリリースされた『カルロ・マリア・ジュリー二の芸術』16枚組とはグラモフォンの同音源であるために、ブラームスとブルックナーの交響曲に関してはだぶっているが、彼の音楽的な構想を実現し得た充実した時期の録音だけにファンには欠かせないコレクションになるだろう。

ジュリーニがヨゼフ・クリップスの後を継いでウィーン交響楽団の首席指揮者の地位に留まったのはわずか3年間だったが、その後も同交響楽団とウィーン・フィルには客演を続けて常に良好な関係を保っていた。

彼らの演奏の魅力のひとつにオーケストラの音色の瑞々しさが挙げられる。

特にウィーンはヨーロッパのどの都市とも異なった頑固なまでの流儀を持っていて、それが音楽の表現や音色に濃厚に反映されているからだ。

ジュリーニは緻密な音楽設計の上にウィーン流のしなやかな弦の響きとマイルドな管楽器のアンサンブルを活かしながら、明快でシンプルなイタリア趣味の新風を随所に感じさせている。

ベートーヴェンの3曲のピアノ協奏曲では、クリスタリックな響きを駆使したスタイリッシュなミケランジェリのソロを抱擁するようなおおらかさがあり、中でも第5番『皇帝』第2楽章のリリカルな美しさは特筆される。

またベルマンと組んだリストでは両者の豪快なダイナミズムの応酬と、ロマンティックな幻想性が秀逸だ。

声楽陣に豪華メンバーを抜擢した『ドイツレクイエム』『リゴレット』及び『後から生まれ来る人々に』は、ジュリーニの得意とする歌物だけに卓越した棒さばきが聴きどころだ。

このセットではヴェルディの『リゴレット』を除く他の総てのレパートリーがゲルマン系の作曲家の作品で占められていることを考えれば、ジュリー二のドイツ物への造詣の深さとそれに賭けた情熱は想像に難くない。

『ドイツレクイエム』ではブラームスの作品にまとわりつく諦観は払拭され、重苦しさを解放すべく明るい光りが差し込んでくるような希望を感じさせる数少ない演奏で、そこにオペラティックな手法が発揮されているのも事実だろう。

フォン・アイネムのカンタータの白眉は第5曲で、ここには劇作家ブレヒトが未来の人々に贈る痛烈な反戦歌が挿入されている。

自身共産主義者でユダヤ系の妻を持ったブレヒト一家の逃避行は戦中戦後を含めて15年に及んだ。

ジュリー二の解釈は精緻でありながら平明で、鮮烈な色彩感の中に作品への深い理解を示した厳しさと、一方で慈愛に満ちた温もりも感じられる。

ジュリーニは後年やっつけ仕事的な稽古事情を嫌ってオペラ界から手を引いてしまう。

それはスカラ座出身のイタリア人指揮者としては異例のことだが、演奏に対する自身のポリシーを曲げなかった彼の信念を証明している。

ここでの『リゴレット』も声の饗宴という意味では既に大歌手時代の終焉を告げる演奏記録であり、歌手達の力量を認めながらもスコアに忠実で、それぞれが良くコントロールされた等身大の役柄を演じさせている。

ジュリーニが歌い手の勝手気ままを許容しなかった新しいタイプのマエストロだったことを改めて実感する演奏だ。

尚CD1-2のベートーヴェンのピアノ協奏曲集、CD6ブラームスの交響曲第4番並びに『悲劇的序曲』、CD7同『ドイツレクイエム』及びCD11ブルックナーの交響曲第9番はライヴ・レコーディングだが音質は極めて良好。

『リゴレット』についてはシノプシスのみの紹介でリブレットは省略されているが、他の2曲はライナー・ノーツに全歌詞の英語対訳が掲載されている。

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2015年07月07日


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本作は、ジュリーニが1978年から1984年まで音楽監督を務めたロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団との名演揃いの録音の中から、このオーケストラを見事に統率した密度の濃い演奏を展開するベートーヴェンの「第5」とシューマンの「第3」を収めたアルバム。

ジュリーニの溢れんばかりの歌心とロサンゼルス・フィルの力強さが相俟った、いずれ劣らぬ素晴らしい名演だ。

先ず、ベートーヴェンの「第5」であるが、ジュリーニは、後年にもミラノ・スカラ座フィルハーモニー管弦楽団とともに同曲を再録音しているが、断然、本盤の方が骨太な名演である。

演奏はドラマティックさは、さほどなく、あくまでも正攻法な演奏であり、カンタービレが効き歌心があるのが特色だ。

いかにもジュリーニならではの粘着質とも言うべき重厚さと厳しい造形美を兼ね備えた演奏ではあるが、情感の豊かさにおいてもいささかも不足はない。

その意味では硬軟併せ持つ、いい意味でのバランスのとれた名演に仕上がっている。

極めて密度の濃い、真正な精神性を持ち得る人間のみが到達することのできる素晴らしい演奏だ。

ポピュラーな「第5」をこれ程までに磨き上げられた音楽に造り上げたジュリーニの功績にただただ脱帽するのみある。

他方、シューマンの「第3」も名演で、LPで聴いて以来、ジュリーニの指揮の素晴らしさに、深く感銘を受けた。

シューリヒトの名演もあるが、録音の良さを含めると、本盤のジュリーニによる2度目の録音の方を随一の名演と高く評価したい。

出だしからして重厚壮大で、冒頭から芯があり、高貴なるカンタービレが響きわたり、豊饒にして雄渾な音色に引き込まれる。

そして奇を衒わず、ひたすらに音楽に奉仕するジュリーニの敬謙で清々しい姿が浮き上がる。

メータ時代、よく鳴るがちょっと粗いと感じたロサンゼルス・フィルも、精度の高い密度の濃い演奏を展開している。

明朗で雄大な演奏であり、所々に同曲のマーラー編曲版のアイディアが生かされている。

確かに、本盤以外の演奏を聴くと、楽器全体の響きが聴き取りにくく、どこかにアンバランスが生じているように感じる。

筆者には、ジュリーニの才覚をもって、ようやくシューマンのオーケストラ曲の全体構造が見渡された感がする。

マーラー版の使用により、全体としては、ベートーヴェンの「第5」と同様に重厚で粘着質の演奏とも言えるが、それでいて、ジュリーニ特有の優美なフレージングが随所に効果的に聴かれるなど、いい意味でのバランスのとれた温かみのある演奏に仕上がっている。

美しいライン川周辺の自然が眼前に飛び込んでくるかのような光景を彷彿とさせるような悠然とした趣と優美な抒情や、シューマンの最晩年の絶望感に苛まれた心象風景の描出にもいささかの不足はない。

両曲ともに、ロサンゼルス・フィルは見事な演奏を行っているが、必ずしも一流とは言えない同楽団に、これだけの名演奏をさせたジュリーニの類稀なる統率力にも大いに拍手を送りたい。

この2曲を癖を感じさせず、しかも、ジュリーニの解釈が良い方向に向いており、それぞれの曲の価値を高めているという点で、大いに推薦したいディスクである。

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2015年06月20日


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ジュリーニは、イタリア人指揮者であるが、独墺系の作曲家による楽曲も数多く演奏した大指揮者であった。

ブラームスの交響曲全集は2度も録音しているのに対して、意外にもベートーヴェンの交響曲全集は1度も録音していないところだ。

これほどの大指揮者にしては実に不思議と言わざるを得ないと言えるだろう。

ジュリーニは、最晩年に、ミラノ・スカラ座歌劇場フィルとともに、ベートーヴェンの交響曲第1番〜第8番を1991〜1993年にかけてスタジオ録音を行った(ソニー・クラシカル)ところであり、残すは第9番のみとなったところであるが、1989年にベルリン・フィルとともに同曲を既にスタジオ録音していた(DG)ことから、かつて在籍していたDGへの義理立てもあって、同曲の録音を行わなかったとのことである。

このあたりは、いかにもジュリーニの誠実さを物語る事実であると言えるが、我々クラシック音楽ファンとしては、いささか残念と言わざるを得ないところだ。

それはさておき、本盤に収められているのは、1972年にロンドン交響楽団他とともにスタジオ録音を行った交響曲第9番である。

他にライヴ録音が遺されているのかもしれないが、前述のようにベルリン・フィル(1989年)と録音することになることから、その演奏の約20年前のものとなる。

1972年と言えば、ジュリーニの全盛期であるだけに、演奏は、諸説はあると思うが、後年の演奏よりも数段優れた素晴らしい名演と高く評価したい。

1976年にDGに移籍したジュリーニがマーラーの「第9」で一気にスターダムにのし上がる4年前の録音であるが、指揮者の円熟は誰の耳にも明らかで、余裕をもったテンポで内声部をおろそかにせず全ての楽器が伸びやかに歌う流麗な音楽は名前を伏せてもジュリーニだと確信させられる。

ジュリーニの演奏スタイルはテンポを遅めにとり、ズッシリとスケール感のあるベートーヴェンが魅力的で、この最初のEMI録音はその原点とも言えるだろう。

何よりも、テンポ設定が、後年の演奏ではかなり遅めとなっており、演奏自体に往年のキレが失われているきらいがあることから、筆者としては、ジュリーニによる「第9」の代表盤としては、本盤を掲げたいと考えているところだ。

演奏の様相はオーソドックスなもので、後年の演奏とは異なり、ノーマルなテンポで風格豊かな楽想を紡ぎ出している。

細部にまで行き届いた眼力、明確な構成力と美しい音色、ゆっくりとしたテンポによる、あくまで音の明晰さを追求した、ジュリーニならではの「第9」で、音の運びにも停滞感がなく、明確な構成力がきっちりと聴き手に伝わってくる。

落ち着いたテンポ設定によるスケールの大きなアプローチをベースに、ノーブルなカンタービレと、ジュリーニならではのこだわりをみせている点がとても印象的で、重量感に富むフレージング、細部まで考え抜かれた凝った演奏は、ファンにはたまらないところだ。

そして、ジュリーニならではいささかの隙間風の吹かない、粘着質とも言うべき重量感溢れる重厚な響きも健在であるが、いささかの重苦しさを感じさせることはなく、歌謡性溢れる豊かな情感が随所に漂っているのは、イタリア人指揮者ならではの面目躍如たるものと言えるだろう。

いわゆる押しつけがましさがどこにも感じられず、まさにいい意味での剛柔のバランスがとれた演奏と言えるところであり、これは、ジュリーニの指揮芸術の懐の深さの証左と言っても過言ではあるまい。

ロンドン交響楽団もジュリーニの統率の下、名演奏を展開しており、シーラ・アームストロング(ソプラノ)、アンナ・レイノルズ(アルト)、ロバート・ティアー(テノール)、ジョン・シャーリー=カーク(バス)といった独唱陣やロンドン交響合唱団も最高のパフォーマンスを発揮している。

いずれにしても、本演奏は、ジュリーニならではの素晴らしい名演であるとともに、ジュリーニによる同曲の演奏の代表的な名演と高く評価したいと考える。

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2015年05月22日


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本盤に収められたブラームスの交響曲全集はジュリーニによる2度目の全集に相当する。

最初の全集が、フィルハーモニア管弦楽団との1960年代の録音(1960、1962、1968年)であったことから、本演奏はそれから約30年後の録音である。

もっとも、ジュリーニは、その間にもロサンゼルス・フィルとともに第1番(1981年)及び第2番(1980年)をスタジオ録音するとともに、バイエルン放送交響楽団とともに第1番をライヴ録音(1979年)していることから、ジュリーニはブラームスを得意中の得意としていたと言っても過言ではあるまい。

また、本盤の演奏は、今後ライヴ録音などが発売されれば事情が変わる可能性もあるが、現時点ではジュリーニによる最後のブラームスの交響曲の演奏ということでもあり、ある意味ではブラームスを得意としたジュリーニによる最終的な解釈が刻印されていると言えるのではないだろうか。

本演奏は、これまでの演奏と異なって、実にゆったりとしたテンポをとっている。

また、反復も原則として行っており、演奏時間もこれらの楽曲の演奏の中ではきわめて長い部類に入るものと考えられる。

テンポもあまり動かさずに悠揚迫らぬインテンポで曲想が進んでいくが、これだけの遅いテンポだと、場合によっては冗長さを感じさせたり、全体の造型が弛緩する危険性も孕んでいる。

しかしながら、ジュリーニの場合は、全体の造型が弛緩することはいささかもなく、各フレーズには独特のニュアンスや豊かな歌心が込められるなど、常にコクのある情感豊かな充実した音楽が構築されているのが素晴らしい。

ここぞという時の強靭な迫力や重厚さにおいてもいささかも欠けることがなく、例えば第1番や第2番の終楽章における圧倒的な高揚感には我々聴き手の度肝を抜くのに十分な迫力を誇っている。

また、第1番の第2楽章、第2番の第2楽章、第3番の第2楽章及び第3楽章、そして第4番の第1楽章及び第2楽章の濃厚で心を込めた情感豊かな歌い方には抗し難い魅力に満ち溢れている。

第4番の終楽章においても、パッサカリアによる表情が目まぐるしく各変奏を巧みに描き分け、巨匠ならではの老獪な至芸を感じさせるのが見事である。

そして、何よりもジュリーニが素晴らしいのは、いかなるトゥッティに差し掛かろうと、はたまた緩徐楽章などにおいて心を込めて歌い上げていようと、格調の高さをいささかも失っていない点である。

とかく重厚で仰々しいブラームスの演奏が数多く行われている中で、ジュリーニによる本演奏が含有する気品と風格は際立っている言えるところであり、ゆったりとしたテンポによるスケール雄大な演奏であることも相俟って、本演奏はまさに巨匠ならではの大人(たいじん)の至芸と言っても過言ではあるまい。

また、ジュリーニの統率の下、これ以上は求め得ないような美しい演奏を展開したウィーン・フィルによる好パフォーマンスも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

併録のハイドンの主題による変奏曲や悲劇的序曲も、晩年のジュリーニならではのスケール雄大で、重厚さと優美さを兼ね備えた素晴らしい名演に仕上がっていると評価したい。

とりわけ、ハイドンの主題による変奏曲における第7変奏の筆舌には尽くし難い美しさは、ジュリーニとしても空前にして絶後の名演奏と言えるのではないだろうか。

録音は、従来盤でもムジークフェラインザールの豊かな残響を活かした十分に満足できる音質であったが、数年前に第1番及び第4番のみSHM−CD盤で発売され、現在では当該SHM−CD盤がベストの音質である。

もっとも、ジュリーニによる遺産とも言うべき至高の名演でもあり、今後は第2番及び第3番のSHM−CD化、そして可能であれば本全集全体についてシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。

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2015年05月07日


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1979年ステレオ・ライヴ録音。

大ピアニストのミケランジェリと大指揮者のジュリーニ。

お互いにイタリア人であるが、その芸風は全く異なるところであり、加えて、ミケランジェリの録音が限られていることに鑑みれば、テレビ放送とは言え、このような形で両者の競演が録音の形で遺されているということは殆ど奇跡的と言っても過言ではあるまい。

20世紀のピアニスト中、最も美しい音を持つと言われるミケランジェリと、雄大なスケールでモニュメンタルな名演を次々打ち建てるジュリーニの組み合わせであるが、実演ならではの迫力と、カンタービレの美感が凄い演奏だ。

このように両者の芸風は全く異なると記したが、この両者に共通することがあるとも言える。

それは、両者ともに完全主義者であったと言えることだ。

ミケランジェリについては、あまりにも完全主義が高じて完璧主義者とも言える存在だけに、それが自らの芸風にも表れており、スコアに記された1音たりとも蔑ろにしないという、圧倒的なテクニックをベースとした即物的とも言うべきアプローチを旨としていたと言える。

それだけに、聴きようによっては、ある種の冷たさを感じさせるのも否めないところであり、楽曲によっては相性の悪さを感じさせることも多々あったと言える。

これに対して、ジュリーニも完全主義者であり、とりわけレコーディングに対しては、レパートリーをある程度絞り込むとともに、徹底して何度も演奏を繰り返し、自分の納得する演奏を成し遂げることが出来た後に行うという方針で臨んでいた。

これだけの大指揮者としては、さすがにミケランジェリほどではないものの、正規のスタジオ録音が比較的少ないと言えるところだ。

しかしながら、その芸風はミケランジェリとはまるで異なり、堅牢な造型の中にもイタリア風の歌謡性をベースとした、人間的な温もりを感じさせるものであったと言える。

1980年代も後半になると、楽曲によってはテンポが異常に遅くなり、堅牢であった造型があまりにも巨大化し、場合によっては弛緩することも少なからず存在しているのであるが、ロサンゼルス・フィルの音楽監督をつとめていた1970年代半ばから1980年代前半にかけては、ジュリーニが最も充実した演奏を繰り広げていた時期とも言えるところだ。

このように、同じく完全主義者であるものの芸風が全く異なるジュリーニとミケランジェリの組み合わせではあるが、演奏自体はお互いに足りないものを補った見事な名演に仕上がっていると言えるのではないだろうか。

ミケランジェリの1音たりとも蔑ろにしない完璧なピア二ズムが、ジュリーニの歌謡性豊かな指揮によって、ある種の温かみを付加させるのに大きく貢献しており、いい意味での硬軟のバランスがとれた演奏に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

ミケランジェリは時として冷徹にさえ聴こえる音色が魅力であるが、この演奏に関しては全くそれが感じられず、むしろこの曲を慈しむかのようなぬくもりさえ感じられる。

どちらかと言えば、ミケランジェリのペースにジュリーニが合わせていると言えるが、それでも要所においてはジュリーニが演奏全体の手綱をしっかりと引き締めていると言えるところであり、まさに、全盛期の両者だからこそ成し得た珠玉の名演になっているとも言えるのではないかと考える。

これだけの歴史的な名演だけに更なる高音質化への取り組みが期待されるところであるが、このコンビによる同時期に録音された第1番と第3番がシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化が図られたのにもかかわらず、何故か第5番「皇帝」だけが、高音質化されていないのが現状である。

本従来盤でも十分に満足できる音質ではあるが、ミケランジェリの完璧主義とも言うべきピアノタッチが鮮明に表現されるには、やはりシングルレイヤーによるSACD&SHM−CDによる艶やかな鮮明さや臨場感によって再現されるのが望まれる。

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2015年04月21日


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テスタメントによるジュリーニ&ベルリン・フィルシリーズの第3弾の登場だ。

これまでの第1弾や第2弾においても驚くべき名演が揃っていたが、今般の第3弾のラインナップも極めて充実したものであり、そしてその演奏内容も第1弾や第2弾にいささかも引けを取るものではない。

本盤には、ハイドンの交響曲第94番「驚愕」とマーラーの交響曲第1番「巨人」が収められているが、いずれも素晴らしい名演と高く評価したい。

ジュリーニは、レパートリーが広い指揮者とは必ずしも言い難い。

また、レパートリーとした楽曲についても何度も演奏を繰り返すことによって演奏そのものの完成度を高めていき、その出来に満足ができたもののみをスタジオ録音するという完全主義者ぶりが徹底していたと言える。

したがって、これほどの大指揮者にしては録音はさほど多いとは言い難いが、その反面、遺された録音はいずれも極めて完成度の高い名演揃いであると言っても過言ではあるまい。

本盤の両曲については、いずれもジュリーニの限られたレパートリーの1つであり、マーラーの交響曲第1番「巨人」についてはシカゴ交響楽団とのスタジオ録音(1971年EMI)、そしてハイドンの交響曲第94番「驚愕」についてはフィルハーモニア管弦楽団とのスタジオ録音(1956年EMI)、そしてバイエルン放送交響楽団とのライヴ録音(1979年独プロフィール)が存在しており、これらはいずれ劣らぬ名演であった。

本盤の演奏は、いずれもベルリン・フィルとのライヴ録音(1976年)であり、マーラーの交響曲第1番「巨人」はスタジオ録音の5年後、ハイドンの交響曲第94番「驚愕」はスタジオ録音の20年後の演奏に相当することから、ジュリーニとしても楽曲を十二分に知り尽くした上での演奏であったはずである。

もっとも、本演奏が行われた1976年は、カラヤン&ベルリン・フィルの全盛時代に相当するところだ。

したがって、ベルリン・フィルが完全にカラヤン色に染まっていた時期であるとも言えるが、本演奏を聴く限りにおいてはいわゆるカラヤンサウンドを殆ど聴くことができず、あくまでもジュリーニならではの演奏に仕上がっているのが素晴らしい。

ジュリーニの格調が高く、そしてイタリア人指揮者ならではの豊かな歌謡性と気品のある極上の優美なカンタービレに満ち溢れた指揮に、ベルリン・フィルの重厚な音色が見事に融合した剛柔バランスのとれた名演に仕上がっていると言えるのではないだろうか。

そして、ライヴ録音ならではの熱気が演奏全体を更に強靭な気迫のこもったものとしており、その圧倒的な生命力に満ち溢れた迫力においては、ジュリーニによる前述の過去のスタジオ録音を大きく凌駕していると考える。

なお、ハイドンの交響曲第94番「驚愕」については、1979年のライヴ盤との優劣の比較は困難を極めるところであり、これは両者同格の名演としておきたい。

録音も今から30年以上も前のライヴ録音とは思えないような鮮明な高音質であると評価したい。

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2015年04月11日


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ブラームスを得意としたジュリーニであるが、1990年代に録音されたウィーン・フィルとの全集は、いかにも晩年のジュリーニらしいゆったりとしたテンポによる堂々たる名演揃いだ。

ジュリーニは特に晩年、たっぷり時間をかけてじっくりと演奏するタイプの指揮者であったが、ウィーン・フィルも非常に歌わせるタイプのオケで、ジュリーニとの相性もぴったりなので、演奏は哀愁たっぷりの胸にジーンとくるような詩情にあふれている。

ゆったりとしたテンポによる気品のあるブラームスで、鈍重さは微塵もなく、静かな緊張感に貫かれた表現がジュリーニらしい。

本盤に収められた「第1」は、ジュリーニならではのスローなテンポではあっても、緩ませず、ブラームスの憧れたベートーヴェンの交響曲を思い描いたような、重厚さに重きを置いた解釈の演奏である。

重厚さに重きを置くといっても、そこはやはりジュリーニらしい歌うような軽やかさも忘れていない。

ジュリーニは、オケとの調和をはかりつつ、理想とするブラームスの「形」を哀愁と優しさを感じさせながら描く。

非常にゆっくりしたテンポだが、今までの総決算のような気迫に満ち、第1楽章だけでも普通の交響曲を1曲を聴いたような充実感がある。

のっけから、ううむ、と唸ってしまうほど徹底的にテンポが遅いが、決して茫洋と失速しているわけではない。

音楽を運ぶ音の動きが常に克明に捉えられて、耳が鋭敏になった上に豊かな歌がのるために、その遅さが逆にたまらなく強烈に感覚を高ぶらせる。

まさに、熟成したブランデーのような濃密な味わいだ。

冒頭の和音はソフトなフォルティッシモで開始されるが、その後はゆったりとしたテンポによる堂々たる進軍を開始する。

この進軍は主部に入っても微動だにしないが、他方、隋所に現れるブラームスならではの抒情的旋律については、これ以上は不可能なくらい美しく、かつ風格豊かに歌い上げている。

このような優美な旋律のノーブルで風格豊かな歌い方は、第2楽章や第3楽章でも同様であり、これは最晩年のジュリーニが漸く到達した至高・至純の境地と言えるだろう。

第4楽章は、再び巨象の堂々たる進軍が開始されるが、主部の名旋律の演奏の何と歌心に満ち溢れていることか。

スローテンポを基調として、ブラームスが楽譜に書き込んだもの全てを歌い切っているかのようだ。

ジュリーニの演奏を見事に支えるウィーン・フィルの重厚にして優美な演奏も素晴らしいの一言であり、この「第1」は、万人向けではないが、ジュリーニの渾身の超名演と評価したい。

ハイドンの主題による変奏曲にも同様のことが言える名演であるが、ジュリーニの持ち味であるゆっくりとした演奏でじっくり曲を作りこむ点は変わらず、晩年ならではの歌うような演奏は非常に印象に残る。

特に、第7変奏の筆舌には尽くし難い美しさは、空前にして絶後と言えるのではないだろうか。

ジュリーニの持つ明快さとウィーン・フィルのしなやかさとが相俟った、緊張感に満ちた名演だ。

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2015年03月19日


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1984年2月、ベルリン・フィルハーモニーにおけるライヴ録音。

ジュリーニの高潔な音楽性が結晶した趣がある名演奏。

最円熟期のジュリーニの高貴にしてゆたかな芸格を最もよく伝える名演である。

ジュリーニは、特に1980年代のロサンジェルス・フィルの監督を辞めた後からは、非常にテンポの遅い、しかも、粘っこい、いわば粘着質の演奏をすることが多くなったような気がする。

したがって、楽曲の性格によって、こうしたジュリーニのアプローチに符合する曲とそうでない曲が明確に分かれることになった。

ブルックナーの交響曲も、同時期にウィーン・フィルと組んで、「第7」、「第8」及び「第9」をスタジオ録音したが、成功したのは「第9」。

それに対して、「第7」と「第8」は立派な演奏ではあるものの、ジュリーニの遅めのテンポと粘着質の演奏によって、音楽があまり流れない、もたれるような印象を与えることになったのは否めない事実である。

本盤は、1984年の録音であるが、確かに第1楽章など、ウィーン・フィル盤で受けたのと同じようにいささかもたれる印象を受けた。

しかし、第2楽章から少しずつそうした印象が薄れ、そして、素晴らしいのは第3楽章と第4楽章。

ジュリーニの遅めのテンポが決していやではなく、むしろ、深沈とした抒情と重厚な圧倒的な迫力のバランスが見事であり、大変感銘を受けた。

総体として、名演と評価してもいいのではないかと思う。

その要因を突き詰めると、やはり、ベルリン・フィルの超絶的な名演奏ということになるのではなかろうか。

この時期のベルリン・フィルは、カラヤンとの関係が決裂状態にあったが、ベルリン・フィルとしても、カラヤン得意のレパートリーである「第8」で、カラヤンがいなくてもこれだけの演奏が出来るのを天下に示すのだという気迫が、このような鬼気迫るような超絶的名演奏を成し遂げたと言えるのではないか。

そのベルリン・フィルの奥深く澄んだ響きと柔軟で底知れぬ表出力がジュリーニの克明な表現とひとつになって、まことにスケールゆたかな、晴朗な力に漲った演奏を築いている。

最円熟期に差し掛かったこの指揮者が、カラヤン時代の響きと演奏スタイルをとどめていたベルリン・フィルの特質を生かした成果とも言える。

彼らが共通して持っているブルックナー像を基本としながら、それを気高い表現に昇華させたのはジュリーニの手腕に他ならない。

芝居じみた要素は微塵もなく、聴衆の耳に媚びることがないため、とっつきやすい演奏とは言えないが、いったんその世界に入ることが出来ると、その精神世界の虜となるだろう。

北ドイツ的な重厚な響きに陥ることなく、あくまでオーストリアの作曲家ブルックナー本来の音色が守られ、その光が交錯するような色合いもこのうえなく美しい。

しかも、透徹した音楽性と強くしなやかな持続力に貫かれた演奏は、細部まで実に精緻に磨かれており、ベルリン・フィルがそうした表現に絶妙の感覚でこのオーケストラならではの色彩とニュアンスを織りなしている。

この巨大な作品の全体と細部を、明確な光の中に少しの夾雑物も交えることなく、くっきりと表現しつくした、ジュリーニならではの感動的なブルックナーである。

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2014年12月21日


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ジュリーニは、イタリア人指揮者であるが、独墺系の作曲家による楽曲も数多く演奏した大指揮者であった。

ブラームスの交響曲全集は2度も録音しているのに対して、意外にもベートーヴェンの交響曲全集は1度も録音していないところだ。

これほどの大指揮者にしては実に不思議と言わざるを得ないと言えるだろう。

ジュリーニは、最晩年に、ミラノ・スカラ座歌劇場フィルとともに、ベートーヴェンの交響曲第1番〜第8番を1991〜1993年にかけてスタジオ録音を行った(ソニー・クラシカル)ところであり、残すは第9番のみとなったところであるが、1989年にベルリン・フィルとともに同曲を既にスタジオ録音していた(DG)ことから、かつて在籍していたDGへの義理立てもあって、同曲の録音を行わなかったとのことである。

このあたりは、いかにもジュリーニの誠実さを物語る事実であるが、我々クラシック音楽ファンとしては、いささか残念と言わざるを得ないところだ。

それはさておき、本盤に収められたのは、1972年にロンドン交響楽団とともにスタジオ録音を行った交響曲第9番である。

他にライヴ録音が遺されているのかもしれないが、前述のように交響曲第9番はベルリン・フィル(1989年)と録音することになることから、それらの演奏の20年前のものとなる。

1972年と言えば、ジュリーニの全盛期であるだけに、演奏は、諸説はあると思うが、後年の演奏よりも数段優れた素晴らしい名演と高く評価したい。

何よりも、テンポ設定が、後年の演奏ではかなり遅めとなっており、とりわけ交響曲第9番においては、演奏自体に往年のキレが失われているきらいがあることから、筆者としては、これら両曲のジュリーニによる代表盤としては、本盤を掲げたいと考えているところだ。

演奏の様相はオーソドックスなもので、後年の演奏とは異なり、ノーマルなテンポで風格豊かな楽想を紡ぎだしている。

そして、ジュリーニならではいささかの隙間風の吹かない、粘着質とも言うべき重量感溢れる重厚な響きも健在であるが、いささかの重苦しさを感じさせることはなく、歌謡性溢れる豊かな情感が随所に漂っているのは、イタリア人指揮者ならではの面目躍如たるものと言えるだろう。

いわゆる押しつけがましさがどこにも感じられず、まさにいい意味での剛柔のバランスがとれた演奏と言えるところであり、これは、ジュリーニの指揮芸術の懐の深さの証左と言っても過言ではあるまい。

ロンドン交響楽団もジュリーニの統率の下、名演奏を展開しており、独唱陣や合唱団も最高のパフォーマンスを発揮している。

いずれにしても、本盤に収められた両曲の演奏は、ジュリーニならではの素晴らしい名演であるとともに、ジュリーニによるそれぞれの楽曲の演奏の代表的な名演と高く評価したい。

音質も素晴らしく、ジュリーニによる素晴らしい名演を良好な音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2014年12月11日


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20世紀後半を代表する指揮者の1人であったジュリーニであるが、いわゆる完全主義者であったということもあり、そのレパートリーは、これほどの指揮者としては必ずしも幅広いとは言えない。

そのようなレパートリーが広くないジュリーニではあったが、ドヴォルザークの交響曲第7番〜第9番については十八番としており、それぞれ複数の録音を遺している。

これは録音を徹底して絞り込んだジュリーニとしては例外的であり、ジュリーニがいかにドヴォルザークを深く愛していたかの証左であるとも言えるだろう。

本盤に収められたドヴォルザークの交響曲第7番について、ジュリーニは本演奏を含め4種類の録音を遺している。

ニュー・フィルハーモニア管弦楽団とのライヴ録音(1969年)、ベルリン・フィルとのライヴ録音(1973年)、本盤に収められたロンドン・フィルとのスタジオ録音(1976年)、コンセルトへボウ・アムステルダムとのスタジオ録音(1993年)であるが、この中で、最も優れた演奏は、ジュリーニの全盛時代の録音でもあるベルリン・フィルとのライヴ録音と本盤のロンドン・フィルとのスタジオ録音ということになるのではないだろうか。

そして、演奏の安定性という意味においては、本演奏こそはジュリーニによる同曲の代表盤と評しても過言ではあるまい。

ジュリーニによる本演奏のアプローチは、チェコ系の指揮者のように同曲の民族色を強調したものではなく、むしろ楽想を精緻に描き出していくという純音楽に徹したものと言えるが、各旋律の歌謡性豊かな歌わせ方は豊かな情感に満ち溢れたものであり、その格調の高い優美さは、ジュリーニの指揮芸術の最大の美質と評しても過言ではあるまい。

必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルも、ジュリーニの確かな統率の下、持ち得る実力を最大限に発揮した最高のパフォーマンスを示しており、本演奏を名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

いずれにしても、本演奏は、全盛期のジュリーニの指揮芸術の魅力を十分に堪能することが可能な素晴らしい名演と高く評価したい。

音質は、1976年のスタジオ録音であるが、もともと良好な音質と評されていたこともあって、これまでリマスタリングが行われた形跡はないものの、筆者が保有している輸入盤(第8番及び第9番とのセット版)でも比較的満足できる音質ではある。

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2014年11月10日


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ジュリーニは完全主義者として知られ、録音にはとりわけ厳しい姿勢で臨んだことから、これだけのキャリアのある大指揮者にしては、録音の点数は必ずしも多いとは言い難い。

そうした中にあって、ブラームスの交響曲全集を2度にわたってスタジオ録音しているというのは特筆すべきことであり、これは、ジュリーニがいかにブラームスに対して愛着を有していたかの証左とも言えるところだ。

協奏曲についても、ヴァイオリン協奏曲やピアノ協奏曲のスタジオ録音を行っており、とりわけピアノ協奏曲第1番については、アラウと組んだ演奏(1960年)、ワイセンベルクと組んだ演奏(1972年)の2つの録音を遺している。

これに対して、筆者の記憶が正しければ、ピアノ協奏曲第2番については、本盤に収められたアラウとの演奏(1962年)のみしかスタジオ録音を行っていない。

ジュリーニの芸風に鑑みれば、同曲の録音をもう少し行ってもいいのではないかとも思われるが、何故かワイセンベルクとは第2番の録音を行わなかったところである。

いずれにしても、本演奏は素晴らしい。

それは、何よりもジュリーニの指揮によるところが大きいと思われる。

1962年という壮年期の演奏ではあるが、いささかの隙間風の吹かない、粘着質とも言うべき重量感溢れる重厚な演奏の中にも、イタリア人指揮者ならではの歌謡性溢れる豊かな情感が随所に込められており、まさに同曲演奏の理想像を見事に具現化していると評しても過言ではあるまい。

アラウのピアノ演奏は、第1番の演奏と同様に、卓越した技量を発揮しつつも、派手さや華麗さとは無縁であり、武骨とも言えるような古武士の風格を有した演奏を展開している。

かかるアプローチは、第1番には適合しても、第2番では味わい深さにおいていささか不足しているきらいもないわけではないが、ジュリーニによる指揮が、そうしたアラウのピアノ演奏の武骨さを多少なりとも和らげ、演奏全体に適度の温もりを与えている点を忘れてはならない。

いずれにしても、本演奏は、アラウのピアノ演奏にいささか足りないものをジュリーニの指揮芸術が組み合わさることによって、いい意味での剛柔のバランスのとれた名演に仕上がっていると評価したい。

この両者が、例えば1980年代の前半に同曲を再録音すれば、更に素晴らしい名演に仕上がったのではないかとも考えられるが、それは残念ながら叶えられることはなかったのはいささか残念とも言える。

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20世紀後半を代表する指揮者の1人であったジュリーニであるが、いわゆる完全主義者であったということもあり、そのレパートリーは、これほどの指揮者としては必ずしも幅広いとは言えない。

そのようなレパートリーが広くないジュリーニではあったが、それでも独墺系の作曲家による楽曲も比較的多く演奏しており、とりわけブラームスについては交響曲全集を2度に渡って録音するなど、得意のレパートリーとしていたところだ。

協奏曲についても、複数の録音が遺されており、本盤に収められたピアノ協奏曲第1番についても、2度にわたってスタジオ録音を行っている。

レコーディングには慎重な姿勢で臨んだジュリーニとしては数少ない例と言えるところであり、これはジュリーニがいかに同曲を愛していたかの証左とも言えるだろう。

同曲の最初の録音は本盤に収められたアラウと組んで行った演奏(1960年)、そして2度目の録音はワイセンベルクと組んで行った演奏(1972年)であるが、この両者の比較は難しい。

いずれ劣らぬ名演であると考えるが、ピアニストの本演奏時の力量も互角であり、容易には優劣を付けることが困難である。

本演奏は、録音年代が1960年ということもあり、ジュリーニ、アラウともども壮年期の演奏。

後年の円熟の大指揮者、大ピアニストとは全く違った畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力を有しており、ブラームスの青雲の志を描いたともされる同曲には、そうした当時の芸風が見事にマッチングしていると評しても過言ではあるまい。

アラウのピアノ演奏は、卓越した技量は当然であるが、派手さや華麗さとは無縁であり、武骨とも言えるような古武士の風格を有している。

他方、ジュリーニの指揮は、いささかの隙間風の吹かない、粘着質とも言うべき重量感溢れる重厚な演奏の中にも、イタリア人指揮者ならではの歌謡性溢れる豊かな情感が随所に込められており、アラウの武骨とも言うべきピアノ演奏に若干なりとも潤いを与えるのに成功しているのではないだろうか。

いずれにしても、本演奏は、ジュリーニ、アラウともに、後年の演奏のようにその芸術性が完熟しているとは言い難いが、後年の円熟の至芸を彷彿とさせるような演奏は十分に行っているところであり、両者がそれぞれ足りないものを補い合うことによって、いい意味での剛柔のバランスのとれた名演に仕上がっていると評価したい。

この両者が、例えば1980年代の前半に同曲を再録音すれば、更に素晴らしい名演に仕上がったのではないかとも考えられるが、それは残念ながら叶えられることはなかったのはいささか残念とも言える。

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2014年09月20日


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1999年2月13日、フィレンツェで行われたイタリアのユース・オーケストラ“オルケストラ・ジョヴァニーレ・イタリアーナ”とのライヴ録音の登場だ。

ジュリーニは1998年に引退を公式に表明していたということもあり、この公演は「公開総練習」という形で行われたということである。

なお、ジュリーニはこの2ヵ月後の4月30日にも、ミラノでジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団を指揮して同じく「田園」を指揮しているので、よほどこの作品が気に入っていたものと思われる。

実際、CDでも前項で掲げたニュー・フィルハーモニア管(1968 EMI)、ロサンゼルス・フィル(1979 DG)、ミラノ・スカラ座フィル(1991 SONY)と3つのセッション録音を残していてどれも見事な仕上がりを示していたし、実演でも1990年にベルリン・フィルを指揮して演奏していた。

今回のCDでは、オーケストラがユース・オーケストラということで、若い音楽家たちが見せる熱意が演奏を非常に瑞々しく感動的なものとしており、演奏終了後にはジュリーニから思わず「ブラーヴォ」の声が漏れているとか。

若い音楽家たちは、すっかりジュリーニのペースに巻き込まれている。

第1楽章の最初からして、いったいこれが若者たちの奏でる音楽かと驚くほかないような穏やかな表情で始まる。

イタリアらしい明るく柔らかい弦楽器のハーモニーも印象的だが、それにもまして、ゆったりと甘美に歌う第2楽章と言ったら。

単にきれいなだけではない。

音楽は深い平和と幸福を感じさせつつ静かに進んでいく、まるで天上のしらべのようだ。

あらゆる楽器がひとつの大きな流れの上に身を委ねて、ゆっくりと通り過ぎていく、完璧にジュリーニの最晩年の音楽である。

そして知らず知らずのうちに、聴き手も演奏家たちと同じくこの静謐な楽園の空気を呼吸する。

さかのぼること8年前、ジュリーニはミラノ・スカラ座フィルと「田園」を録音していた。

そちらもまた魅力的な演奏ではあるが、趣の深さという点では、若者たちの奏でる音楽はそれすらを凌駕しているのだ。

これには驚くほかないではないか。

知らなかったことを教わり、それを音にして、自らが出した音=表現に心揺さぶられる。

自分で音を作る行為を勉強している人にとっては最高の録音だと思う。

このような喜びの記録はプロの録音からは聴けない、音楽を作り深めていく瞬間の貴重な記録。

完成途上の音楽を批判することはたやすいが、この根源的な発見の驚きと喜び音として聴けるだけで、わかる人には何物にも変えがたいだろう。

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ジュリーニは、イタリア人指揮者であるが、独墺系の作曲家による楽曲も数多く演奏した大指揮者であった。

ブラームスの交響曲全集は2度も録音しているのに対して、意外にもベートーヴェンの交響曲全集は1度も録音していないところだ。

これほどの大指揮者にしては実に不思議と言わざるを得ないと言えるだろう。

ジュリーニは、最晩年に、ミラノ・スカラ座歌劇場フィルとともに、ベートーヴェンの交響曲第1番〜第8番を1991〜1993年にかけてスタジオ録音を行った(ソニー・クラシカル)ところであり、残すは第9番のみとなったところであるが、1989年にベルリン・フィルとともに同曲を既にスタジオ録音していた(DG)ことから、かつて在籍していたDGへの義理立てもあって、同曲の録音を行わなかったとのことである。

このあたりは、いかにもジュリーニの誠実さを物語る事実であるが、我々クラシック音楽ファンとしては、いささか残念と言わざるを得ないところだ。

それはさておき、本盤に収められたのは、1968年にニュー・フィルハーモニア管弦楽団とともにスタジオ録音を行った交響曲第6番、1972年にロンドン交響楽団とともにスタジオ録音を行った第8番及び第9番である。

1970年前後と言えば、ジュリーニの全盛期であるだけに、演奏は、諸説はあると思うが、後年の演奏よりも数段優れた素晴らしい名演と高く評価したい。

何よりも、テンポ設定が、後年の演奏ではかなり遅めとなっており、とりわけ交響曲第9番においては、演奏自体に往年のキレが失われているきらいがあることから、筆者としては、これら両曲のジュリーニによる代表盤としては、本盤を掲げたいと考えているところだ。

演奏の様相はオーソドックスなもので、後年の演奏とは異なり、ノーマルなテンポで風格豊かな楽想を紡ぎだしている。

そして、ジュリーニならではのいささかも隙間風の吹かない、粘着質とも言うべき重量感溢れる重厚な響きも健在であるが、いささかの重苦しさを感じさせることはなく、歌謡性溢れる豊かな情感が随所に漂っているのは、イタリア人指揮者ならではの面目躍如たるものと言えるだろう。

いわゆる押しつけがましさがどこにも感じられず、まさにいい意味での剛柔のバランスがとれた演奏と言えるところであり、これは、ジュリーニの指揮芸術の懐の深さの証左と言っても過言ではあるまい。

ニュー・フィルハーモニア管弦楽団とロンドン交響楽団もジュリーニの統率の下、名演奏を展開しており、独唱陣や合唱団も最高のパフォーマンスを発揮している。

いずれにしても、本盤に収められた3曲の演奏は、ジュリーニならではの素晴らしい名演であるとともに、ジュリーニによるそれぞれの楽曲の演奏の代表的な名演と高く評価したいと考える。

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2014年08月30日


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20世紀後半を代表する指揮者の1人であったジュリーニは、いわゆる完全主義者であったということもあり、そのレパートリーは、これだけのキャリアのある大指揮者にしては必ずしも幅広いとは言えず、しかも録音にはとりわけ厳しい姿勢で臨んだことから、録音の点数は必ずしも多いとは言い難い。

そうした中にあって、ブラームスの交響曲全集を2度にわたってスタジオ録音しているというのは特筆すべきことであり、これは、ジュリーニがいかにブラームスに対して愛着を有していたかの証左とも言えるところだ。

協奏曲についても、ヴァイオリン協奏曲やピアノ協奏曲のスタジオ録音を行っており、とりわけピアノ協奏曲第1番については、アラウと組んだ演奏(1960年)、ワイセンベルクと組んだ演奏(1972年)の2つの録音を遺している。

これに対して、筆者の記憶が正しければ、ピアノ協奏曲第2番については、本盤に収められたアラウとの演奏(1962年)のみしかスタジオ録音を行っていない。

ジュリーニの芸風に鑑みれば、同曲の録音をもう少し行ってもいいのではないかとも思われるが、何故かワイセンベルクとは第2番の録音を行わなかったところである。

いずれにしても、本演奏は素晴らしい。

それは、何よりもジュリーニの指揮によるところが大きいと思われる。

第1番は、録音年代が1960年ということもあり、ジュリーニ、アラウともども壮年期の演奏。

後年の円熟の大指揮者、大ピアニストとは全く違った畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力を有しており、ブラームスの青雲の志を描いたともされる同曲には、そうした当時の芸風が見事にマッチングしていると評しても過言ではあるまい。

第2番も1962年という壮年期の演奏ではあるが、いささかの隙間風の吹かない、粘着質とも言うべき重量感溢れる重厚な演奏の中にも、イタリア人指揮者ならではの歌謡性溢れる豊かな情感が随所に込められており、まさに同曲演奏の理想像を見事に具現化していると評しても過言ではあるまい。

アラウのピアノ演奏は、卓越した技量を発揮しつつも、派手さや華麗さとは無縁であり、武骨とも言えるような古武士の風格を有した演奏を展開している。

かかるアプローチは、第1番には適合しても、第2番では味わい深さにおいていささか不足しているきらいもないわけではないが、ジュリーニによる指揮が、そうしたアラウのピアノ演奏の武骨さを多少なりとも和らげ、演奏全体に適度の温もりを与えている点を忘れてはならない。

いずれにしても、本演奏は、ジュリーニ、アラウともに、後年の演奏のようにその芸術性が完熟しているとは言い難いが、後年の円熟の至芸を彷彿とさせるような演奏は十分に行っているところであり、アラウのピアノ演奏にいささか足りないものをジュリーニの指揮芸術が組み合わさることによって、いい意味での剛柔のバランスのとれた名演に仕上がっていると評価したい。

この両者が、例えば1980年代の前半に両曲を再録音すれば、更に素晴らしい名演に仕上がったのではないかとも考えられるが、それは残念ながら叶えられることはなかったのはいささか残念とも言える。

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2014年07月04日


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同じオーケストラ(フィルハーモニア管弦楽団)を指揮しての2度目の録音であるが、重苦しい1度目の演奏とは全く趣を異にしている。

ゆっくりとしたテンポながら、重さを生まず、流麗なカンタービレや緻密なアンサンブルが透明度を高めている。

モーツァルトに限らず、レクイエムは葬送の曲であるから、どうしても重苦しいのだが、この演奏には重苦しいはずの曲も重苦しくないものにしてしまう不思議さがある。

明澄で透明感があり、ゆったりとしたテンポながら、独特のテンションでフレーズラインを維持していくスタイル。

荘厳なドラマを繰り広げるわけでもなく、悲痛な悲しみを訴えるわけでもない。

しかし聴き進むほどに、深く心に沁み入り、優しく心を癒してくれるので、これこそがモーツァルトの音楽ではないかとすら思うほどだ。

聴いている途中、テンポが遅くて、こちらが息切れしてしまいそうなところが所々あるが、このこと以外は申し分がない。

筆者はこのCDを初めて聴いたとき、最初は非常に遅いテンポという印象だけが残った(それが晩年のジュリーニの特徴なのだが)。

しかし、何とはなしに繰り返し聴き返してみると、ふと「このレクイエムは何と美麗なのだろう」と強い印象を受けるようになった。

それ以来、ワルターやベーム、カラヤンらの名盤と並ぶ、筆者の愛聴盤の1つとなっている。

もちろん他にもジュリーニの様々な演奏を聴いてきたが、やはりイタリア人指揮者というべきか、声楽曲を本当に美しく演奏する(バッハのミサ曲ロ短調の名演を想起させる)。

とはいえ、オリジナル楽器による演奏が普及した今日、こういったスタイルではやはり前時代的な印象は否めない。

しかしこの演奏は、それはそれとしてかなりの完成度に達しており、所々年齢ゆえの衰えを感じさせはするものの、この名指揮者ならではの世界を作り出しているのはさすがである。

フレッシュな歌唱陣の活躍にも注目で、ソリストは旧録音よりもこちらの方が声質がマッチしており、コーラスもとても巧く、フレーズラインをきちっと支えていく技量は見事。

少し不用意に聴くと「白痴美」ととられかねない危うさがあるものの(晩年のジュリーニ全般に言えることであるが)、このゆったりとしたテンポと、軽やかな透明感で、なおかつこのフレーズラインの持続感は、誰にも真似ができないものだ。

暖かさと慈愛の感じられる素晴らしいジュリーニのレクイエムで、何度聴いても飽きがこない。

録音は残響を多めにとり入れたものだが、オケと声部のバランスが絶妙に捉えられており、声部がよく聴き取れるのが嬉しい。

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2014年06月18日


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ジュリーニは、レパートリーが広い指揮者とは必ずしも言い難く、また、レパートリーとした楽曲についても何度も演奏を繰り返すことによって演奏そのものの完成度を高めていき、その出来に満足ができたもののみをスタジオ録音するという完全主義者ぶりが徹底していたと言える。

したがって、これほどの大指揮者にしては録音はさほど多いとは言い難いが、その反面、遺された録音はいずれも極めて完成度の高い名演揃いであると言っても過言ではあるまい。

これは、1971年、ジュリーニがシカゴ交響楽団の首席客演指揮者を務めていた時代の、このオケとのつながりがいちだんと密になり始めたころ、ジュリーニ50代半ば過ぎのレコーディングで、彼にとって初めてのマーラー録音であったと記憶する。

その悠揚迫らざる棒さばきのもと、どちらかと言えば現代風の鋭利な解釈ではなく、音楽的な美しさの優先する健康体のマーラーを聴かせている。

音楽のスケールの豊かさ、いたるところにちりばめられた美しい歌、それにいきいきした生命力はいつもながらのものだが、ここではとくに、ジュリーニの知的な能力の高さを改めて痛感させられる。

何しろスコアの読みが精細かつシャープ、そしてそれが全曲を実に見通しよく、きっちりと組み上げているのだ。

シカゴ交響楽団も持ち前のパワーだけでなく、むしろ室内楽的とさえ言える繊細なアンサンブルを展開して、指揮者のめざすところに応えている。

あのパワフルなモンスター・オーケストラが、むしろ一貫して精妙なアンサンブルを確保しつつ、息の長い歌の美しさを、見事な流動感とともに描き尽くしているところがすばらしい。

ジュリーニの格調が高く、そしてイタリア人指揮者ならではの豊かな歌謡性と気品のある極上の優美なカンタービレに満ち溢れた指揮に、シカゴ響の美しい音色が見事に融合した剛柔バランスのとれた名演に仕上がっていると言えるのではないだろうか。

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2014年01月12日


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本盤にはムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」とウェーベルンの「6つの小品」が収められているが、これは極めて珍しい組み合わせと言える。

ジュリーニは組曲「展覧会の絵」については十八番としており、シカゴ交響楽団(1976年)及びベルリン・フィル(1990年)とともに2度にわたってスタジオ録音を行っている。

他方、「6つの小品」については、スタジオ録音を一度も行っていないが、記録によればジュリーニは1970年代には実演において時として演奏を行っていたとのことである。

もっとも、より重要な点は、これら両曲が、当時のベルリン・フィルの芸術監督であったカラヤンによる得意中の得意のレパートリーであったということである。

カラヤンは、組曲「展覧会の絵」についてベルリン・フィルとともに2度録音(ライヴ録音を除く)を行っている(1965年、1986年)し、「6つの小品」に至っては、本演奏の3年前にスタジオ録音(1974年)を行っているところだ。

この当時ベルリン・フィルを完全掌握していたカラヤンにとって、自らのレパートリーをベルリン・フィルとともに演奏する指揮者には当然のことながら目を光らせていたはずであり、このような演目による演奏会が実現したということは、カラヤンがジュリーニを信頼するとともに高く評価していたことの証左であると考えられる。

また、同時に、ベルリン・フィルがカラヤン色に染まっていた時代に、敢えてそのベルリン・フィルにおいてカラヤン得意のレパートリーである楽曲を演奏したというのは、ジュリーニの並々ならない自信を感じることも可能だ。

そして、その演奏内容も我々の期待をいささかも裏切ることがない素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

そもそも、本演奏において、いわゆるカラヤンサウンドを聴くことができないのが何よりも素晴らしい。

両曲ともにジュリーニならではの格調が高く、そしてイタリア人指揮者ならではの豊かな歌謡性と気品のある優美な極上のカンタービレに満ち溢れた指揮に、ベルリン・フィルの重厚な音色が見事に融合した剛柔バランスのとれた名演に仕上がっていると評価したい。

そして、ライヴ録音ならではの熱気が演奏全体を更に強靭な気迫のこもったものとしており、とりわけ組曲「展覧会の絵」における圧倒的な生命力に満ち溢れた壮麗な迫力においては、ジュリーニによる前述の1976年盤や1990年盤などのスタジオ録音を大きく凌駕している。

ベルリン・フィルの卓抜した技量も本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

録音も今から約35年も前のライヴ録音とは思えないような鮮明な高音質であると評価したい。

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2014年01月06日


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この信じられないような2枚組CDは必聴だ。

ブルックナーの「第8」は、ウィーン・フィルやベルリン・フィル以外のオケを用いた録音の中では、特筆すべきライヴ録音(1983年)である。

ジュリーニならではの耽美的な構築により、整然として伸びやか、壮大にして麗しい演奏になっている。

全体的にゆったりとしたテンポで、丹念に旋律を歌わせ、情緒を漂わせている。

全曲を通じて同じモードで貫かれており、殊に白眉のアダージョは絶美で、この世のものとは思えぬ至福の時がゆっくりと流れていく。

細やかでスムーズなテンポの揺れや音の強弱を伴いながら歌わせてゆき、移行句や休止も歌の一部となる。

特にアダージョからフィナーレへの恐るべき盛り上がりは凄く、90分弱という演奏時間が全く埒外になるほどに、この演奏の底深き感動が湧き上がってくる。

勿論ジュリーニの演奏にはヴァントの厳しさはなく、強烈なアゴーギクを伴うフルトヴェングラーの観念性とも異なり、盲人が象を触れるが如きごつごつした巨大性を持つクナッパーツブッシュとも異なる。

しかし聴き終えた時、脱力感と共に深い感動に心を満たされるが、それこそがこの作曲家、黙示録的な交響曲なのであり、演奏スタイルは決してひとつではない。

ジュリーニ若き頃(1963年)のドヴォルザーク「第8」も素晴らしい。

後年の録音と較べて、音が緊密で締まっているが、窮屈かというとそうではなく、随所にジュリーニ特有の「歌」が聴かれる。

ジュリーニ芸術の集大成であり、ジュリーニ・ファン必聴の名盤と言えよう。

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2013年12月19日


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1980年11月30日 ロスアンジェルスのシュライン・オーディトリアムに於けるスタジオ録音。

ロス・フィル時代のジュリーニは「全盛期」で、数は少ないながらも名演を残している。

「運命」「ブラ1」「ブラ2」そして「ライン」(是は圧倒的名演)など、旋律を徹底的に歌うことで作品の魅力を十全に発揮させていた。

ジュリーニが手兵ロス・フィルと収めたブラームスの「第2」は、堂々の貫禄ともいうべき器量の大きさをもった演奏だ。

作品の目指した古典主義とロマン性の併存が明らかにされた名演である。

冒頭から遅めのテンポで細部を彫琢しており、悠揚とした呼吸で旋律美を大きく歌わせている。

重厚さと懐深さを兼ね備えており、ゆったりとした旋律の歌わせ方に特有のノーブルさが漂う。

全体にふくらみと厚みのある音楽だが、ジュリーニはそれに高貴な気品を与えており、外部と内面が完全に密着した表現が生まれている。

ジュリーニは、ブラームスの作品独自の重厚な音構造、和声感覚、ディテールの入念な動きをことごとく表出している。

例えば伴奏音型、対旋律、ふつうなら目立たない楽句も手にとるように表現している。

それもロス・フィルがジュリーニの手足の如く自在に力量を発揮し、緻密な演奏をする姿勢がなければ不可能だが、事実、オケは極めて質の高い水準を示している。

後年のウィーン・フィルとの録音よりも緊張感や推進力があるので、こちらを好む人が意外と多いかもしれない。

ジュリーニ&ロス・フィルのブラームスは「第1」の名演も録音されているが、残念ながら現在廃盤である。

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2013年12月02日


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レコード芸術誌で、イギリスの批評家グレアム・ケイ氏が

「今月わたしはBBCレジェンズ・レーベルのある新譜に目を奪われました。1982年ロイヤル・アルバート・ホールで行われたBBCプロムスのコンサートをライヴ収録したうちの一つ、ジュリーニ指揮フィルハーモニア管の演奏するブルックナー交響曲第7番です。これぞまさしく、わたしが絶対に入手しなければならない一枚だったからです。...(中略)...このブルックナーの交響曲第7番には、ロイヤル・アルバート・ホールのたっぷりとした音響と、聴衆の手放しの熱狂、金管の2,3のミスが忠実に再現されています。しかし重要なことは、霊感の翼に乗って飛翔しているジュリーニを聴くことができる点にあるのです。」 

と賛意を呈するジュリーニのブルックナーの第7番。

さらに文中でグレアム・ケイ氏は、グラモフォン誌に掲載されたデリック・クック(マーラー10番補筆完成で有名)による以下のような評も引用していた。

「ジュリーニにはブルックナーの美徳のすべてがある。気品、ゆったりとした雄大さ、リズムのパンチ、感傷抜きの雄弁さ、そしてとりわけあの名状しがたい“精神性”」

このブルックナーは、1982年7月19日のステレオ・ライヴ録音で、音質は非常に良好。

遅めのテンポを基調に陶酔的なまでの旋律美を追求したジュリーニの様式に、ブルックナーの作品中でも飛びぬけた「美旋律の宝庫」というべき第7交響曲は、まさにうってつけのレパートリーだったのあろう。

耽美的なまでの“美”はいたるところに存在するが、やはり絶品は絶世絶美のアダージョ。

この美しくも哀しい情感に身も心もゆだねてしまったかのようなアダージョの美的音響は、他に例を思い浮かべることができない。

確かにウィーン・フィルを振ったDG盤(1986年)も名演だったが、カンタービレ表現に独自の様式を持つウィーン・フィルとは異なり、当盤は高性能ながらクセの少ないフィルハーモニア管弦楽団が相手だけに、ジュリーニの中空に雄大な弧を描くかのような旋律形成が100%生かされたものと思われる。

また、フィルハーモニア管弦楽団の明るい音色が、この美的世界に明朗なカラーを付与していることも事実で、これらすべての要素が実演ならではの熱をしだいに帯びて、ついに爛熟のきわみといいたい大音響に結実するあたりは、もう筆舌に尽くし難い。

ジュリーニ晩年の旋律耽溺とも言うべき解釈が、明るい日差しを受けて壮麗に開花した唯美的ブルックナーと言えるだろう。

余白に、40代だったジュリーニによるファリャ《三角帽子》からの2つの舞曲(1963年)と、ムソルグスキー《ホヴァンシチナ》前奏曲(1961年)を収録している。

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2013年11月07日


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大指揮者のジュリーニと大ピアニストのミケランジェリ。

お互いにイタリア人であるが、その芸風は全く異なるところであり、加えて、ミケランジェリの録音が限られていることに鑑みれば、テレビ放送とはいえ、このような形で両者の競演が録音の形で遺されているということは殆ど奇跡的と言っても過言ではあるまい。

このように両者の芸風は全く異なると記したが、この両者に共通することがあるとも言える。

それは、両者ともに完全主義者であったことだ。

ミケランジェリについては、あまりにも完全主義が高じて完璧主義者とも言える存在だけに、それが自らの芸風にも表れており、スコアに記された一音たりとも蔑ろにしないという、圧倒的なテクニックをベースとした即物的とも言うべきアプローチを旨としていた。

それだけに、聴きようによっては、ある種の冷たさを感じさせるのも否めないところであり、楽曲によっては相性の悪さを感じさせることも多々あった。

これに対して、ジュリーニも完全主義者であり、とりわけレコーディングに対しては、レパートリーをある程度絞り込むとともに、徹底して何度も演奏を繰り返し、自分の納得する演奏を成し遂げることが出来た後に行うという方針で臨んでいた。

これだけの大指揮者としては、さすがにミケランジェリほどではないものの、正規のスタジオ録音が比較的少ない。

しかしながら、その芸風はミケランジェリとはまるで異なり、堅牢な造型の中にもイタリア風の歌謡性をベースとした、人間的な温もりを感じさせるものであった。

1980年代も後半になると、楽曲によってはテンポが異常に遅くなり、堅牢であった造型があまりにも巨大化し、場合によっては弛緩することも少なからず存在しているのであるが、ロサンゼルス・フィルの音楽監督をつとめていた1970年代半ばから1980年代前半にかけては、ジュリーニが最も充実した演奏を繰り広げていた時期だった。

このように、同じく完全主義者であるものの芸風が全く異なるジュリーニとミケランジェリの組み合わせではあるが、演奏自体はお互いに足りないものを補った見事な名演に仕上がっているのではないだろうか。

ミケランジェリの一音たりとも蔑ろにしない完璧なピア二ズムが、ジュリーニの歌謡性豊かな指揮によって、ある種の温かみを付加させるのに大きく貢献しており、いい意味での硬軟のバランスがとれた演奏に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

どちらかと言えば、ミケランジェリのペースにジュリーニが合わせているが、それでも要所においてはジュリーニが演奏全体の手綱をしっかりと引き締めていると言えるところであり、まさに、全盛期の両者だからこそ成し得た珠玉の名演になっているのではないか。

これだけの歴史的な名演だけに、今般のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化された意義は極めて大きい。

シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化が行われることによって、従来CD盤を遥かに凌駕するおよそ信じ難いような圧倒的な高音質に生まれ変わったところだ。

ミケランジェリの完璧主義とも言うべきピアノタッチが鮮明に表現されるなど、本シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤の艶やかな鮮明さや臨場感にはただただ驚愕するばかりであり、あらためて当該シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、ミケランジェリ、そしてジュリーニ&ウィーン交響楽団による至高の超名演を、現在望み得る最高の高音質を誇るシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2013年07月21日


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ジュリーニの旧盤は録音は古いが、それでも演奏の質という点では捨て難い魅力がある。

ヴェルディの『レクイエム』は、ともすると作品の質そのものにオペラティックな性格の部分が多く含まれるために、単に盛り上げるだけの外面的な効果を狙った演奏もある。

ジュリーニは、そんな中にあって美しい歌のカンタービレの魅力と、劇的な高揚感を失うことなく宗教的な情感をも見事に表出している点で、きわめて優れた表現を成し遂げていると言える。

例えば、「ディエス・イレ(怒りの日)」の最後の審判を恐れる嵐のような激情も決して浮き足立つことなく内面的に描かれる。

続く「トゥーバ・ミルム(奇すしきラッパの音)」の最後の審判を告げるトランペットのファンファーレも静かな緊張感に満ちているために、その後の次第に増幅され爆発的なトゥッティに至る最後の審判のドラマがまさにリアリティを持って表現される。

この部分は若きギャウロフの深いバスの声も印象的。

最後の「リベラ・メ(我を救いたまえ)」の壮大なフーガの切れ味の良い進行と消え入るように静かに歌われる終結の対比も見事で聴くものを強く引き付ける。

このように旧録音でのジュリーニは、フィルハーモニア管と合唱団を見事にコントロールし、この作品の多彩な魅力を余すところなく伝えてくれる。

また、前述したギャウロフをはじめとするソリスト陣のジュリーニの意図を見事に汲みとった歌唱もすばらしい。

特にシュヴァルツコップの真摯な歌唱は、イタリア系のソプラノにはない、まるでリートを聴くようなユニークな魅力を持っており、宗教的な敬虔な雰囲気を引き出す大きな要因となっている。

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2013年04月30日


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ジュリーニは、シューベルトの交響曲第8番「未完成」と第9番「ザ・グレート」を得意としており、「未完成」については、フィルハーモニア管弦楽団(1961年)、シカゴ交響楽団(1978年)、そしてバイエルン放送交響楽団(1993年ライヴ)との演奏、「ザ・グレート」については、ロンドン・フィル(1975年ライヴ)、シカゴ交響楽団(1977年)、そしてバイエルン放送交響楽団(1993年ライヴ)との演奏といった数多くの録音が遺されており、いずれ劣らぬ名演と言えるところだ。

若き日のフィルハーモニア管弦楽団との演奏やオーケストラの力量にいささか難があるロンドン・フィルとの演奏は別として、本盤のベルリン・フィルとの両曲の演奏は、シカゴ交響楽団との録音とほぼ同じ時期のものである。

そして、スタジオ録音とライヴ録音の違いはあるものの、演奏内容としてはほぼ酷似していると言えるのではないだろうか。

ジュリーニのこれらの演奏におけるアプローチはきわめて格調が高いものであり、そしてイタリア人指揮者ならではの豊かな歌謡性と気品のある優美な極上のカンタービレに満ち溢れた指揮に、堅固な造型と重厚さを兼ね備えたものである。

そして、シカゴ交響楽団との演奏と比較して、本演奏の方は、ライヴ録音ならではの熱気が演奏全体を更に強靭な気迫のこもったものとしており、その圧倒的な生命力に満ち溢れた迫力においては、そしてベルリン・フィルのドイツ風の重厚な音色の魅力も相俟って、シカゴ交響楽団とのスタジオ録音を大きく凌駕していると言える。

また、ジュリーニは前述のように、晩年になってバイエルン放送交響楽団とともに両曲を録音しており、テンポがゆったりとした分だけスケールは大きくなっているが、全体の造型にいささか綻びが見られるとともに、若干ではあるが重厚さよりも優美さに傾斜し過ぎている傾向があることから、筆者としては、本演奏の方をより上位に掲げたい。

いずれにしても、本演奏は、ジュリーニによる両曲の数ある演奏の中でも最高の名演と高く評価したいと考える。

音質についても、今から35年程も前のライヴ録音とは思えないような鮮明な高音質であると評価したい。

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classicalmusic

早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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