ショルティ

2015年08月29日


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ショルティはマーラーの交響曲の中で特に規模が大きい「第2」を2度にわたってスタジオ録音している。

最初の録音はロンドン交響楽団(1966年)とのスタジオ録音、そして、2度目の録音は、本盤に収められたシカゴ交響楽団との唯一の交響曲全集の一環としてスタジオ録音された演奏(1980年)だ。

ショルティは、バーンスタインやクーベリックなど、一部の限られた指揮者によってしか演奏されていなかったマーラーの交響曲にいち早く注目し、その後のマーラー・ブーム到来の礎を作り上げたという意味では、多大なる功績を遺したと評価できるのではないだろうか。

我が国においては、故吉田秀和氏のように好き嫌いを別にして公平に指揮者を評価できる数少ない音楽評論家は別として、とある著名な某音楽評論家を筆頭に、ショルティに厳しい視線を送る音楽評論家があまりにも多いが、そうした批評を鵜呑みにして、ショルティの指揮する演奏を全く聴かないクラシック音楽ファンがあまりにも多いというのは極めて嘆かわしいことである。

ショルティの各楽曲に対するアプローチは、マーラーの交響曲だけにとどまらずすべての楽曲に共通していると言えるが、切れ味鋭いリズム感とメリハリのある明瞭さであり、それによってスコアに記されたすべての音符を完璧に音化していくということが根底にあったと言える。

マーラーの「第2」について言えば、1966年の演奏はいかにもショルティならではの強烈無比な演奏で、第1楽章冒頭から終楽章の終結部に至るまで、ショルティの個性が全開。

アクセントは鋭く、ブラスセクションは無機的とも言えるほど徹底して鳴らし切るなど、楽想の描き方の明晰さ、切れ味の鋭いシャープさは、他の指揮者によるいかなる演奏よりも(ブーレーズの旧盤が匹敵する可能性あり)、そしてショルティ自身による1970年のマーラーの「第5」の演奏にも比肩するような凄味を有していると言えるだろう。

かかるアプローチは終生変わることがなかったとも言えるが、1980年代以降になると、演奏に円熟の成せる業とも言うべき奥行きの深さ、懐の深さが付加され、大指揮者に相応しい風格が漂うことになったところだ。

その後ショルティは前述のように、「第2」を1980年になって、当時の手兵であるシカゴ交響楽団とともに再録音を行っているが、この1980年の演奏は、1966年の演奏とはかなり様相が異なり、鋭角的な指揮振りは健在であるとは言うものの、聴き手を包み込んでいくような包容力、そして懐の深さのようなものが存在し、聴き手にあまり抵抗感を与えないような演奏に仕上がっている。

したがって、1980年の演奏に抵抗を覚えなかった聴き手の中にさえ、1966年の演奏のような血も涙もない演奏に抵抗感を覚える者も多いのではないかと思われる。

シカゴ交響楽団の光彩陸離たる華麗な演奏ぶりが際立っていることから、このような演奏を内容空虚と批判する音楽評論家も多いようであるが、聴き終えた後の充足感が、例えばバーンスタイン&ニューヨーク・フィル盤(1987年)などの名演に必ずしも引けを取っているわけでもない。

音楽の内面に入り、大きなうねりをもって歌い込むバーンスタイン盤と、音楽を客観的にとらえて、マーラーの音楽がもつ音響的凄さを全面的に出したショルティ盤は対極に位置する演奏である。

改めて本盤を聴くと、まず構築が非常に精微であり、尚且つ知・情・意のバランスが取れている。

それを踏まえた上で全盛期のシカゴ交響楽団は迷い無く豪快に鳴らし切って、器楽部分での不満は本当に全く無く(特にハーセスのトランペットは素晴らしい)、まさに名演だ。

かかる演奏を筆者としては、マーラーの交響曲の演奏様式の1つとして十分存在意義のあるものと考えており、好き嫌いは別として、ショルティの個性が発揮された名演と評価したいと考える。

シカゴ交響楽団も、ショルティのメリハリのある指揮にしっかりと付いていき、持ち得る実力を発揮した見事な演奏を行っているとともに、ソプラノのブキャナンやアルトのザカイをはじめとした声楽陣も最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

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2015年08月18日


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ブラームスの交響曲全集は、現在カタログには40種類以上の現役盤がひしめいているが、結局、魅力度ということにかけては、ショルティ&シカゴ交響楽団が、圧倒的な貫禄であたりを睥睨している。

ショルティは先輩格のカラヤンと同様に、極めて広範なレパートリーを誇っており、数多くのレコーディングを行ったところであるが、意外な有名曲の録音をなかなかしなかったということがあった。

例えば、本盤に収められたブラームスの交響曲全集については、1977年〜1979年になって漸く初録音したところである。

その理由は定かではないが、まさに満を持して録音に臨んだだけに、スケールの大きな巨匠風の表現で、ショルティの名声をいささかも傷つけることがない素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したいと考える。

演奏内容は、1970年代のベートーヴェンの交響曲全集同様、きわめて剛直・骨太で構築的な仕上がりを見せるが、叙情的な場面での気遣いもなかなかのもので、オーケストラのパワーと表現力がフルに生かされたきわめて立派な演奏である。

ブラームスにおけるショルティのアプローチは、例によって強靭なリズム感とメリハリの明瞭さを全面に打ち出したものであり、その鋭角的な指揮ぶりからも明らかなように、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされていると言えるところだ。

ショルティは機能的に優秀なシカゴ交響楽団の名人芸をフルに発揮させて、タカ派とも言えるエネルギッシュで、戦闘的なブラームス像を描き上げている。

それでいて、1970年代後半に入ってショルティの指揮芸術にも円熟の境地とも言うべきある種の懐の深さ、奥行きの深さが付加されてきたところであり、本演奏にもそうした点が如実にあらわれている。

要は、ショルティを貶す識者が欠点と批判してきた力づくとも言うべき無機的な強引さが本演奏においては影を潜め、いかなる最強奏の箇所に至っても、懐の深さ、格調の高さを失っていないのが素晴らしい。

スケールも雄渾の極みと言えるところであり、いい意味での剛柔のバランスのとれたスケール雄大な演奏というのが本演奏の特質と言えるのかもしれない。

更にはブラームスの絶対音楽としての魅力を十分に堪能させてくれる本演奏に対しては、文句は言えないのではないかと考えられるところだ。

いかにもショルティらしい表現で、どの曲も堅固な造形でまとめられ、それが同時にショルティの資質と音楽的な特色を示している。

交響曲ではスコアに指定された反復を全て実行し、しかも各曲それぞれの性格が鮮明に表されているのが素晴らしい。

例えば第1番は妥当なテンポで堅実にまとめられながらも、そこに作品に必須の豪快さや劇性が存分に示されているのだ。

加えて第2番の風格豊かで明朗な歌、第3番の古典的な語法とロマン的内容のバランスのよさ、第4番の精妙にブレンドされた響きなど、現代的なコンセプトによるブラームスの典型的演奏と言って良い。

2曲の序曲とハイドンの主題による変奏曲も精緻な表現である。

そして、本演奏において更に素晴らしいのはシカゴ交響楽団の超絶的な技量であろう。

ショルティの指揮にシカゴ交響楽団が一糸乱れぬアンサンブルを駆使してついていっているところが見事であり、ショルティ統率下のシカゴ交響楽団がいかにスーパー軍団であったのかを認識させるのに十分なヴィルトゥオジティを最大限に発揮している。

かかるシカゴ交響楽団の好パフォーマンスが、本演奏を壮絶な名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

セッションに使用された会場は、ショルティ&シカゴ交響楽団黄金時代のサウンド・イメージを世界に広めたシカゴのメディナ・テンプルで、名エンジニア、ケネス・ウィルキンスンの手腕が奏功してか、30年経った現在聴いても実に素晴らしいサウンドである。

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2015年08月13日


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ショルティのワーグナー・オペラ総集編が、廉価BOXで再発される運びになったことをまずは大いに歓迎したい。

《さまよえるオランダ人》は、シカゴ交響楽団の音の豊麗な威力と、一糸乱れぬアンサンブルが実に壮観で、ショルティの意図が100%体現されて余すところがない。

こうした完全な管理システムのもとに統御されたシカゴの強靭な音は、あるいは「オランダ人」のまだいくぶん平板な音楽にはかえって適しているのかもしれない。

歌手たちはとくにとび抜けた魅力はないがまずまずの出来である。

《タンホイザー》はパリ版による全曲録音で、序曲の途中から豊麗なバッカナールに流れ込む形をとっている。

このことにより、初めてヴェーヌスは類型的な異教的官能の女神としてではなく、純愛の象徴エリーザベトのアンチテーゼとしての劇的実体が得られた。

タンホイザーを歌うコロが初々しいのをはじめ、主役2人の女声がともに魅力的であり、ショルティの指揮もこれ以前の「指環」全曲よりもふくらみを持っている。

《ローエングリン》は、あらゆる点に周到な目配りと配慮の行き届いた表現で、音楽とドラマのデリケートな色調や陰影や情感の明暗を表出し、以前のショルティのようなゴリ押しはなく、音楽は自然に、豊かに流れ出ていく。

主役2人にドミンゴとノーマンを選んでいるのも素晴らしく、その声の豊麗さと肉感的なほどの美しさはとび抜けている。

もちろん、ワーグナー独特の朗唱法をきちんと守りながら、見事な歌唱を聴かせている。

《トリスタンとイゾルデ》は、1960年当時のショルティの、鋭角的な音作りと猪突猛進的な音楽運びが、残念ながら「トリスタン」の壮大な官能の世界を描ききるほどには成熟していなかった。

しかし合奏力の精緻さや音楽の推進力に不足はなく、和声的というより、あまりに構築的な演奏といえよう。

歌手陣は、ニルソン、ウールをはじめとして高水準の歌唱を展開している。

《ニュルンベルクのマイスタージンガー》は、このオペラの成否を決める重要な2つの要素である、明快さとふくよかさを併せ持った演奏だ。

ヴァルターを歌うコロが、若々しく伸びの良い声で力演、ベックメッサーのヴァイクルも、甘美な声と確かな技巧で聴かせ、またハンス・ザックスのベイリーが、淡々としているが必要なものは過不足なく備えた好演だ。

そしてウィーン・フィルの味わい深い演奏が、このオペラに豊かな肉付けをしていることを忘れてはならない。

《ニーベルングの指環》は、1958〜65年にかけて録音された壮大な全集。

ショルティの指揮は、一言でいうと明快強靭なダイナミズムやスリリングな緊張に貫かれており、実に活気に溢れたデュナーミクと、清潔で的確な表現によって、ワーグナーの音楽を生き生きと歌い上げている。

音楽の豊麗さという点でも傑出しており、ここにはショルティの力ずくのダイナミズムや直截さだけでなく、ふくよかなロマンティシズムやたくましい流麗さ、そして壮大な詩とドラマがある。

その精緻で雄弁な音の繰り広げられる壮大なドラマのおもしろさと感動はまったく底知れないものだ。

キャストの面では、全作を通じて同一の歌手で歌われていない配役があるなど、統一感のうえではやや弱い点もあるが、そうした面を越えて不朽の名演であることに変わりはない。

とりわけ、第2次大戦後の最もすぐれたワーグナー歌いの名手がズラリと並んださまは壮観というほかない。

《パルジファル》におけるショルティは、自信に満ちた態度でテンポを悠然と運び、豊かできびしい音の流れを作りだしており、ウィーン・フィルも、他に類がないほど豊麗で、しかも清純な美しい響きを聴かせている。

それに加えて練達の歌手たちが素晴らしく、威厳に満ちたホッター、明晰な歌を聴かせるフリック、そして敬虔さ、妖艶さともに最高の名唱ルートヴィヒなど、まさに最上のキャスティングといえるだろう。

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2015年07月30日


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哀愁を帯びた旋律が古典美の極致を示す、悲愴なパトスを湛えた劇的緊張に満ち溢れる第40番。

晴朗さが横溢し、雄渾な曲想によって記念碑的な高みに立つ、雄大で力強い曲想の『ジュピター』。

モーツァルトの最後の傑作交響曲2曲を収録した1枚で、ショルティとヨーロッパ室内管弦楽団の初共演となった、両曲とも彼にとって初録音にあたる貴重な演奏を収録したアルバムである。

ところで我が国におけるショルティの評価は不当に低いと言わざるを得ない。

現在では、歴史的な名盤と評されているワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」以外の録音は殆ど忘れられた存在になりつつある。

これには、我が国の音楽評論家、とりわけとある影響力の大きい某音楽評論家が自著においてショルティを、ヴェルディのレクイエムなどを除いて事あるごとに酷評していることに大きく起因していると思われるが、かかる酷評を鵜呑みにして、例えば本盤の演奏のような名演を一度も聴かないのはあまりにも勿体ないと言える。

ショルティの様々な楽曲の演奏に際しての基本的アプローチは、強靭なリズム感とメリハリの明瞭さを全面に打ち出したものであり、その鋭角的な指揮ぶりからも明らかなように、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされていると言えるところだ。

こうしたショルティのアプローチは、様相の変化はあっても終生にわたって殆ど変わりがなかった。

したがって、楽曲によっては、力づくの強引さが際立った無機的な演奏も散見され、それがいわゆるアンチ・ショルティの音楽評論家を多く生み出す要因となったことについて否定はできないと思われるが、それでも、1980年代以降になると、演奏に円熟の成せる業とも言うべき奥行きの深さ、懐の深さが付加され、大指揮者に相応しい風格が漂うことになったところだ。

本盤の両曲の演奏においても、そうした聴き手を包み込んでいくような包容力、そして懐の深さには大なるものが存在していると言えるところである。

ショルティは、その芸風との相性があまり良くなかったということもあって、モーツァルトのオペラについては、主要4大オペラのすべてをスタジオ録音するなど、確固たる実績を遺しているが、交響曲については、わずかしか演奏・録音を行っていない。

しかしながら、1980年代に入ると、芸風に円熟味や奥行きの深さが加わってきたとも言えるところであり、その意味においては、本盤の演奏は、ショルティによるモーツァルトの交響曲演奏の1つの到達点とも言うべき名演と言えるのかもしれない。

本盤の演奏は、若者たちのオーケストラと巨匠指揮者の組み合わせの魅力が十分に発揮された演奏である。

こねくりかえした部分が全くない、自然で、率直な、若々しいモーツァルトが実にフレッシュ。

もちろん、本演奏においても、楽想を明晰に描き出していくというショルティならではのアプローチは健在であり、他の指揮者による両曲のいかなる演奏よりも、メリハリのある明瞭な演奏に仕上がっていると言えることは言うまでもないところだ。

第40番は第2版を用いているが、第1楽章冒頭から1つ1つのフレーズに意味があり、感情の陰影も極めて豊か。

第41番も、溌剌とした中にもデリカシーに欠けておらず、数多いこの2曲の録音の中でも注目すべきものとなっている。

もちろん、これら両曲には他に優れた演奏が数多く成し遂げられており、本演奏をベストの演奏と評価することはなかなかに困難であると言わざるを得ないが、一般的な意味における名演と評価するにはいささかも躊躇するものではない。

また、若者たちで構成されているヨーロッパ室内管弦楽団も、ショルティの確かな統率の下、持ち得る実力を十二分に発揮し、清新な名演奏を展開している点も高く評価したい。

音質も、英デッカによる見事な高音質録音であり、1984年のスタジオ録音とは思えないような鮮度を誇っているのも素晴らしい。

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2015年07月07日


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本盤にはショルティがシカゴ交響楽団の音楽監督に就任して初めて録音した、ベートーヴェンの交響曲全集の中でも傑作に数えられる《英雄》他が収められている。

ショルティのこの《英雄》を聴くと、既にシカゴ交響楽団がショルティの意志のままに音を出す楽器になった、という感じを強く受けた。

この録音時において、ショルティはシカゴ交響楽団の音楽監督に就任して、10年もたってない筈である。

しかし、ショルティは、このオーケストラの音質を、おそらく自分の思う通りのものに仕上げたと感じていたに違いない。

ヨーロッパで活躍を続けてきたショルティにとっては、オーケストラの響きというものは、やはりヨーロッパ的なものであってほしいということになろう。

ここでのシカゴ交響楽団の響きは、いわばアメリカ的な響きとされるニューヨーク・フィルハーモニックや、フィラデルフィア管弦楽団のものとは違ってきていて、もっとヨーロッパ的なものに傾斜した、深みのあるものになっている。

こうした音質の点について、ショルティは、音楽監督就任以来意図していたことを、見事に果たしたというべきだろう。

シカゴ交響楽団が、ショルティの意のままの楽器になっているということは、単にこのような音質だけのことによるのではない。

つまり、ショルティの要求したものを一糸乱れずに音として表現しているばかりでなく、ショルティの楽器のように各声部の強弱のバランスが自在になっているのである。

しかし、ショルティが、いわば抑えつけて、無理強いにそのようにしているのではなく、楽員に自発性をもたせ、演奏する楽しみを与えていることも事実である。

その証拠に、ここでの演奏には、楽員の気張ったところや固くなったところがない。

このショルティの《英雄》は、そうしたヨーロッパ風のオーケストラの響きをもっていながら、ヨーロッパのある特定の指揮者のものを模範としているわけではない。

これはまさにショルティ独特の解釈の《英雄》である。

ただし、独特だからといって、《英雄》の伝統から離れたものではないし、ショルティが無謀勝手なことをしているわけでもない。

どういう点で独特かというと、もったいぶったところをおかず、爽快なテンポで明快に音楽を進め、率直な表現をしていることにその大きな特色がある。

たとえばセルよりも、スフォルツァンドやスタッカートを強調しておらず、そうしたことは、ほどほどに行われている(たとえば、第1楽章や第3楽章でそのようなことがはっきりと認められるだろう)。

そして、このような柔軟性も併せ持っていることで、音楽は、固く角ばったものにはならない。

ショルティの《英雄》は、決して大袈裟な演奏になっておらず、スケールの大きさは失われていないのだが、必要以上の大きな身振りをみせないのである。

力性の変化にしても、フォルティッシモにしてもそうで、また旋律に過度の表情もつけていないが、神経の行き届いた陰影に満ちていることは驚くほどである。

このために、この《英雄》は、あっさりと、あるいはぼんやりと聴いてしまうと、意外に淡々とした演奏と受けとられてしまいがちであるが、よく聴き込んでみると、高い質の演奏になっていることが知られよう。

ここに、指揮者としていろいろな体験を重ねてきた人のひとつの姿があるのである。

若い指揮者には、到底このような演奏は望めないだろう。

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2015年07月04日


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ショルティは、ワーグナーの主要なオペラを全て録音し、あの1958年から65年にかけての《ニーベルングの指環》の全曲録音ひとつによっても、他に比肩するもののない業績の豊かさを思わせている。

そこにある完璧ともいえる音楽分析と深い理念に裏付けられたワーグナー観は、ショルティが常に最も信頼し得るワーグナー指揮者のひとりであったことを疑わせる余地はない。

しかし、ショルティのワーグナーの中でも、多くのワグネリアンや評論家に評価の芳しくないのが《トリスタンとイゾルデ》(1960年スタジオ録音)である。

同時期の《ニーベルングの指環》がそのスペクタクルな録音も含めていまだに「最高」評価が多いの比べ、また、《トリスタンとイゾルデ》のディスクの中でもフルトヴェングラー、ベーム、クライバーが常に名盤の上位に置かれるのに比べ、ショルティの《トリスタンとイゾルデ》は高く評価されることがなかった。

それ故、ショルティの残したワーグナー・オペラの中では最も「マイナー」な扱いをされているディスクである。

確かに同オペラの官能美の極致をゆく音楽が、ショルティの直情径行的な芸風とマッチするとは思えず、筆者としてもこの全曲録音を長い間無視してきたことを否定するつもりはない。

しかし、その後ショルティが手兵シカゴ交響楽団と《トリスタンとイゾルデ》の「前奏曲と愛の死」を振ったディスクを聴いてみたら、これが非常な名演なのである。

冒頭の哀切なピアニッシモからして心惹かれるが、木管の透明さと弦の粘着力を両方併せ持ち、この曲の世界を的確に描き出していた。

筆者はこれを機会にショルティの《トリスタンとイゾルデ》の全曲盤を入手するに至ったのである。

今回初めて聴いてみて、従来のそういう評価がいかに不当であるかを痛感した次第であり、これは大変良い出来のディスクである。

まず、ショルティの指揮が、《ニーベルングの指環》では正直言って耳をつんざくような響きが随所にあって、デリカシーのなさに辟易することもあり、そういう調子で《トリスタンとイゾルデ》を演奏されたら辟易するのかと思っていたが、さすがにこの作品でショルティはそんな演奏はしていない。

落ち着いたリリシズムが全編を支配し、無駄な煽りもなく、この美しくも哀しいドラマをしっかりと表現している。

そしてウィーン・フィルも若きショルティによって迫力あるサウンドを聴かせており、この作品のオーケストラ・パートとしては異例と言って差し支えない起伏の激しい音楽が今聴くと実に新鮮で、カルショウによる半世紀前の録音とは思えないリアルな録音も冴え渡っている。

それにウィーン・フィルの濃厚な音色も個性的であり魅力十分で、音色の美しさと豊かな表現力は特筆ものであり、合奏力の精緻さや音楽の推進力にも不足はない。

強いて難点を挙げれば、1960年当時のショルティの、鋭角的な音作りと猪突猛進な音楽運びは、残念ながら《トリスタンとイゾルデ》の壮大な官能の世界を描き切るほどに成熟していなかった。

和声的というより、あまりにも構築的な演奏と言えよう。

歌手陣は、意外にも唯一のセッション録音となった希代のドラマティック・ソプラノ、ニルソンをはじめとして高水準の歌唱を展開しており、ニルソンはベーム盤では結構絶叫部分が多かったのだが、ここではセッションということもあり、繊細な表現が際立つとても良い出来栄え。

ウールはさすがにセッションにおいても声の不足が感じられてしまうのだが、もともと難役であるし、十分水準には達している。

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2015年07月02日


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ショルティは偉大なマーラー指揮者の1人であると考えているが、ショルティが録音したマーラーの交響曲の中で、3種類もの録音が遺されているのは、現時点では第1番と第5番しか存在していない。

第5番は、ラスト・レコーディングも同曲であったこともあり、ショルティにとって特別な曲であったことが理解できるが、第1番に対しても、ショルティは第5番に比肩するような愛着を有していたのでないかと考えられるところだ。

3種類の録音のうち、ロンドン交響楽団とのスタジオ録音(1964年)が最初のもの、そして同年のウィーン・フィルとのライヴ録音(オルフェオレーベル)、そして本盤に収められたシカゴ交響楽団とのスタジオ録音(1983年)がこれに続くことになる。

いずれ劣らぬ名演と思うが、シカゴ交響楽団との演奏は、1964年の2種の演奏とはかなり性格が異なっている。

ショルティの各楽曲に対するアプローチは、マーラーの交響曲だけにとどまらずすべての楽曲に共通していると言えるが、切れ味鋭いリズム感とメリハリのある明瞭さであり、それによってスコアに記されたすべての音符を完璧に音化していくということが根底にあったと言える。

かかるアプローチは終生変わることがなかったとも言えるが、1980年代以降になると、演奏に円熟の成せる業とも言うべき奥行きの深さ、懐の深さが付加され、大指揮者に相応しい風格が漂うことになったところだ。

したがって、1983年の演奏は、1964年の2つの演奏とはかなり様相が異なり、鋭角的な指揮振りは健在であるとは言うものの、聴き手を包み込んでいくような包容力、そして懐の深さのようなものが存在し、聴き手にあまり抵抗感を与えないような演奏になっており、仕上がりの美しさと内容の豊かさにおいて、旧盤とは格段の違いを示している。

マーラー独特の憂愁の表現や、この名作特有のテーマである「さすらい」の不安定さ、若者の不安などの文学的要素を多分に蔵したこの曲の、あちこちにちりばめられた突発的に介入するエピソード的素材のすべてを、ショルティはものの見事にとらえ、変幻自在の対応で表現して、素晴らしく面白い。

シカゴ交響楽団の光彩陸離たる華麗な演奏ぶりが際立っていることから、このような演奏を内容空虚と批判する音楽評論家も多いようであるが、聴き終えた後の充足感が、例えばワルター&コロンビア交響楽団盤(1961年)やバーンスタイン&コンセルトへボウ・アムステルダム盤(1987年)などの名演に必ずしも引けを取っているわけでもない。

ショルティは、バーンスタインやクーベリックなど、一部の限られた指揮者によってしか演奏されていなかったマーラーの交響曲にいち早く注目し、その後のマーラー・ブーム到来の礎を作り上げたという意味では、多大なる功績を遺したと言えるのではないだろうか。

我が国においては、故吉田秀和氏のように好き嫌いを別にして公平に指揮者を評価できる数少ない音楽評論家は別として、とある著名な某音楽評論家を筆頭に、ショルティに厳しい視線を送る音楽評論家があまりにも多いが、そうした批評を鵜呑みにして、ショルティの指揮する演奏を全く聴かないクラシック音楽ファンがあまりにも多いというのは極めて嘆かわしいことである。

ショルティとシカゴ交響楽団の美しく、力強く、そして精密な演奏は、マーラーの音楽の持つ耽美的な色彩感と美しさと力強さ、迫力と爽やかさが見事に調和している演奏である。

ワルターやバーンスタインのような厭世観から来る、病的な暗さや思いつめたような絶望感や情熱とは無縁の世界のものであるが、作品の持つ耽美的なまでの美しさと爽やかさ、軍隊的な統制力と力強さが万全に発揮された名演と言えるだろう。

シカゴ交響楽団も、ショルティのメリハリのある指揮にしっかりと付いていき、持ち得る実力を発揮した見事な演奏を行っている。

特に弦楽器の合奏は素晴らしく、まるで春のそよ風が気持ちよく、爽やかに吹き抜けてゆくようだし、トランペットなどの金管楽器の閃光のような輝きは驚く程だ。

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2015年06月17日


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広範なレパートリーを誇ったショルティであるが、英国王室から「サー」の称号を得ただけに、英国音楽、特にエルガーの楽曲を得意としていたことについては意外にもあまり知られていない。

そのレパートリーは、2つの交響曲や行進曲「威風堂々」、チェロ協奏曲、エニグマ変奏曲、その他の管弦楽曲など多岐に渡っている。

ショルティと同様に数多くのレコーディングを遺した先輩格のカラヤンは、エルガーの楽曲を殆ど録音しなかったし、後輩のバーンスタインもエニグマ変奏曲と行進曲「威風堂々」の一部のみの録音にとどまっている。

そして、ハンガリー系の指揮者のライナーやオーマンディ、セルなどの録音歴などを考慮に入れても、ショルティのエルガーへの傾倒ぶりがよく理解できるところだ。

本盤には、エルガーの交響曲第1番及び第2番などが収められているが、いずれもエルガーを得意としたショルティならではの素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

オーケストラは、他のエルガーの楽曲の場合と同様に、シカゴ交響楽団ではなく、ロンドン・フィルを起用しているが、楽曲によってオーケストラを使い分けるというショルティなりの考え方によるものではないかとも思われる。

エルガーの交響曲第1番は、英国の作曲家の手による交響曲の最高峰である。

にもかかわらず、英国出身の指揮者による演奏は頻繁に行われているものの、それ以外の国の指揮者による演奏は驚くほど少ない。

作品の質の高さを考えると、実に惜しい気がする。

そんな数少ない指揮者の中で、ショルティがエルガーの交響曲第1番と第2番の録音を遺してくれたことは、何と素晴らしいことか。

ショルティは、この録音に先立って、エルガーによる自作自演を繰り返し聴いて臨んだということであるが、この点に照らしても、ショルティが単なる余興ではなく、真摯にこの傑作交響曲に取り組んだことがよくわかる。

演奏の性格を大観すると、英国の指揮者による演奏に顕著な哀切漂うイギリスの詩情を全面に打ち出したものではない。

むしろ、ドイツの正統派交響曲を指揮する時と同様のアプローチにより、古典的とも言える解釈を示している。

それでいて決してこじんまりとまとまっているのではなく、いかにもショルティらしいスケールの雄大さを兼ね備えている。

第1楽章冒頭からスコアをよく考究した表現で、非常にこまやかな陰影をもち、中庸なテンポによる造形と洗練された音彩が美しく、4つの楽章の性格も的確に示されている。

もちろん、ショルティの欠点として巷間指摘されている、ヘビーなアクセントや力づくの強奏などもみられないわけではないが、例えば第3楽章など、歌うべきところは心を込めて歌い抜くなど、決して無機的な演奏には陥っていない。

交響曲第2番においてもショルティのアプローチは、例によって強靭なリズム感とメリハリの明瞭さを全面に打ち出したものであり、その鋭角的な指揮ぶりからも明らかなように、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされていると言えるところだ。

したがって、同曲に、英国の詩情に満ち溢れた美しさを期待する聴き手にはいささか不満が残る演奏と言えるかもしれない。

しかし、絶対音楽としての交響曲ならでは堅牢な造型美、そして広範なダイナミックレンジを駆使したスケールの雄大さにおいては、他の英国系の指揮者による演奏においては決して味わうことができない独特の魅力を有している。

他の演奏とは異なったアプローチにより、同曲の知られざる魅力を引き出すことに成功した名演と評価してもいいのではないだろうか。

特に、一部のトゥッティの箇所において、これはロンドン・フィルの必ずしも一流とは言い難い技量にも起因しているとは思われ、いささか力づくの強引さが感じられるきらいもないわけではないが、緩徐楽章においては、ショルティなりに情感豊かに歌い抜いており、演奏全体としては十分に剛柔のバランスがとれているのではないかと考えられる。

ショルティの統率の下、必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルも、随所に粗さは感じさせられるが、演奏全体としては十分に健闘していると言えるところであり、持ち得る実力を存分に発揮した好パフォーマンスを発揮していると評価したい。

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2015年06月04日


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20世紀後半を代表する巨匠指揮者、ゲオルグ・ショルティの生誕100周年(2012年時)記念盤。

 
フランス音楽の粋とも言うべきドビュッシーの夜想曲、交響詩「海」、牧神の午後への前奏曲が収められているが、ショルティにとっては比較的珍しいレパートリーの1つである。

本盤の各楽曲の演奏は、そうしたフランス音楽ならではのエスプリ漂う瀟洒な味わいを期待する聴き手には全くお薦めできない演奏である。

本演奏にあるのは、オーケストラの卓抜した技量と機能美であり、シカゴ交響楽団の鮮やかなサウンドが強烈な印象を与える、まさに、オーケストラ演奏の究極の魅力を兼ね備えているところである。

このような演奏は、とある影響力の大きい某音楽評論家を筆頭に、ショルティを貶す識者からは、演奏が無機的であるとか、無内容であるとの誹りは十分に予測されるところである。

しかしながら、果たしてそのような評価が本演奏において妥当と言えるのであろうか。

ショルティは20世紀後半を代表する指揮者の1人であるが、我が国の音楽評論家の間での評価は実力の割に極めて低いと言わざるを得ない。

現在では、楽劇「ニーベルングの指環」以外の録音は殆ど忘れられた存在になりつつある。

先般、お亡くなりになった吉田秀和氏などは、数々の著作の中で、公平な観点からむしろ積極的な評価をしておられたと記憶するが、ヴェルディのレクイエムなどを除いて事あるごとに酷評しているとある影響力の大きい音楽評論家をはじめ、ショルティを貶すことが一流音楽評論家の証しと言わんばかりに、偏向的な罵詈雑言を書き立てる様相ははっきり言っておぞましいと言うほかはないところだ。

かかる酷評を鵜呑みにして、例えば本演奏のような名演を一度も聴かないのはあまりにも勿体ないと言える。

ニキシュは別格として、ライナーやオーマンディ、セル、ケルテス、フリッチャイなど、綺羅星の如く登場したハンガリー人指揮者の系譜にあって、ショルティの芸風は、強靭で正確無比なリズム感とメリハリの明晰さを旨とするものであった。

そうした芸風でシカゴ交響楽団を鍛え抜いた力量は、先輩格のライナー、オーマンディ、セルをも凌駕するほどであったと言えよう。

もちろん、そうした芸風が、前述のような多くの音楽評論家から、無機的で冷たい演奏との酷評を賜ることになっているのはいささか残念と言わざるを得ない。

確かに、ショルティの芸風に合った楽曲とそうでない楽曲があったことについて否定するつもりは毛頭ないが、少なくともショルティの演奏の全てを凡庸で無内容の冷たい演奏として切って捨てる考え方には全く賛同できない。

本演奏は、前述のようなフランス音楽らしい瀟洒な味わいを醸し出すには全くそぐわないと言えるが、オーケストラの機能性と楽器の組み合わせによる色彩の豊かさをフルに味わえる美点がある。

そして、印象派の大御所として繊細かつ透明感溢れるオーケストレーションを随所に施したドビュッシーが作曲した各楽曲の諸楽想を明瞭に紐解き、それぞれの管弦楽曲の魅力をいささかの恣意性もなく、ダイレクトに聴き手に伝えることに成功している点は高く評価すべきではないかと考えられるところだ。

そして、一部の音楽評論家が指摘しているような無内容、無機的な演奏ではいささかもなく、むしろ、各場面毎の描き分け(特に、交響詩「海」)や表情づけの巧みさにも際立ったものがあり、筆者としては、本演奏を貶す音楽評論家は、多分にショルティへの一方的な先入観と偏見によるのではないかとさえ思われるところである。

本演奏においては、世界最高の性能を誇っていたシカゴ交響楽団の名技が遺憾なく発揮されており、ドビュッシーの精緻なテクスチュアが次々に浮き彫りにされるような快感がある。

いずれにしても、本演奏は、ショルティ&シカゴ交響楽団という20世紀後半を代表する稀代の名コンビによる素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

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2015年05月27日


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歌劇「オテロ」は、ヴァルディの数あるオペラの中でも最もショルティの芸風に合ったものと言えるのではないだろうか。

というのも、ショルティの芸風は切れ味鋭いリズム感とメリハリの明朗さであり、緊迫感にはらんだ劇的な要素を持った歌劇「オテロ」の性格との相性抜群のものがあるのではないかと考えられるからだ。

また、本盤の演奏は1977年のスタジオ録音。

ショルティも晩年の1970年代後半に入ってからは、自らの指揮活動の集大成とも評すべき円熟味溢れる懐の深い演奏を行うようになってきたところであり、本演奏においても、前述のような持ち味の鋭角的かつ明晰な芸風に加えて、かような円熟味溢れる彫りの深い表現を聴くことができるのが素晴らしい。

ショルティと同様に米国を拠点に活躍をした先輩格のハンガリー人指揮者、ライナーやセル、オーマンディなどとは異なり、オペラをレパートリーの中核としていたショルティではあるが、本演奏は、まさにオペラの演奏に自らの半生を捧げ、多大なる情熱を持って取り組んできたショルティの傑作のひとつとも言うべき至高の名演に仕上がっているとも言えるところだ。

それにしても、同オペラの演奏において、これほどまでにドラマティックで、重厚かつ強靭な迫力を有した演奏は、かのカラヤン&ウィーン・フィルほかによる超名演(1961年)に比肩し得るほどであると評し得るところであり、このような演奏を聴いていると、ショルティこそは、20世紀後半における最高のオペラ指揮者であったカラヤンに対抗し得る唯一の存在であったことがよく理解できるところだ。

そして、強靭な迫力と言っても、1960年代後半頃までに時として散見されたショルティの欠点でもあった、力づくの強引さは薬にしたくもなく、どこをとってもその音楽に奥行きのある懐の深さが感じられるのが素晴らしい。

ショルティの指揮するイタリア・オペラには、確固たる造形性に支えられた強い説得力があり、鋭敏な指揮に見事に反応して血肉を与えていくウィーン・フィルも名演だ。

各登場人物の細やかな心理の移ろいの描き方も万全であり、これぞまさしくオペラを知り尽くしたショルティならではの老獪ささえ感じさせる卓越した至芸と言えるだろう。

ショルティはテンポの設定ひとつとっても、声を聴かせる部分では遅めにたっぷりと聴かせ、ドラマティックな場面ではお得意のダイナミズムで一気にたたみこみ引き締める。

本オペラの演奏に際して、ウィーン・フィルを起用したというのも功を奏しており、前述のような重厚にして強靭な迫力は、カラヤンによる超名演にも匹敵するという意味で面目躍如たるものがある。

歌手陣も、ショルティが指揮するオペラならではの豪華な布陣であり、デズデモナ役のM・プライスの情感豊かな力と輝きに満ちた名唱が最も印象的で、オテロ役に定評があったというコッスッタも彼のベストの歌唱を示しており、感情移入の強さが大きな魅力だ。

両者とも歌手としても脂ののった時期の演唱で、安定した歌唱を聴かせてくれるのが魅力だ。

他の諸役も水準の高い歌唱で、ショルティが卓越した統率力で全体を見事にまとめ上げている。

また、ウィーン国立歌劇場合唱団やウィーン少年合唱団も最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

ショルティは後年に手兵シカゴ交響楽団と再録音しており、そちらも名演であるが、オテロ役のパヴァロッティの声質が役柄に必ずしも適していないとも言えるところであり、筆者としては、旧盤の方を採りたい。

そして、今は無きゾフィエンザールの豊かな残響を活かした英デッカによる名録音も、今から40年以上の前とは思えないような極上の高音質を誇っていると言えるところであり、本盤の価値を高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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2015年05月14日


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ショルティは20世紀後半を代表する指揮者の1人であるが、我が国の音楽評論家の間での評価は実力の割に極めて低いと言わざるを得ない。

先般、お亡くなりになった吉田秀和氏などは、数々の著作の中で、公平な観点からむしろ積極的な評価をしておられたと記憶するが、ヴェルディのレクイエムなどを除いて事あるごとに酷評しているとある影響力の大きい音楽評論家をはじめ、ショルティを貶すことが一流音楽評論家の証しと言わんばかりに、偏向的な罵詈雑言を書き立てる様相ははっきり言っておぞましいと言うほかはないところだ。

ニキシュは別格として、ライナーやオーマンディ、セル、ケルテスなど、綺羅星の如く登場したハンガリー人指揮者の系譜にあって、ショルティの芸風は、強靭で正確無比なリズム感とメリハリの明晰さを旨とするもの。

そうした芸風でシカゴ交響楽団を鍛え抜いた力量は、先輩格のライナー、オーマンディ、セルをも凌駕するほどであったと言えよう。

もちろん、そうした芸風が、前述のような多くの音楽評論家から、無機的で冷たい演奏との酷評を賜ることになっているのはいささか残念と言わざるを得ない。

確かに、ショルティの芸風に合った楽曲とそうでない楽曲があったことについて否定するつもりは毛頭ないが、少なくともショルティの演奏の全てを凡庸で無内容の冷たい演奏として切って捨てる考え方には全く賛同できない。

ただ、ショルティのそうした芸風からずれば、ウィーン・フィルとの相性が必ずしも良くなかったことはよく理解できるところだ。

フレージングの1つをとっても対立したことは必定であり、歴史的な名演とされる楽劇「ニーベルングの指環」の録音の合間をぬって録音がなされたとされる、本盤に収められたワーグナーの管弦楽曲集にしても、ウィーン・フィルの面々は、ショルティの芸風に反発を感じながらも、プロフェッショナルに徹して演奏していたことは十分に想定できるところだ。

膨大なレコーディングとレパートリーを誇ったショルティであるが、ショルティはワーグナーを数多く手掛けており、ウィーン・フィルとともに本演奏を含め主要な楽劇等をスタジオ録音しているなど、ワーグナーを自らの最も重要なレパートリーの1つとして位置づけていた。

それだけにショルティは、ワーグナー演奏には相当な自信を持っているのであろうが、本盤では、特に最強奏の箇所において力づくのなりふり構わぬ響きが際立っている。

特に、1960年代に録音された「リエンツィ」や「さまよえるオランダ人」、「タンホイザー」、そして「トリスタン」にその傾向が著しい。

それ故、ワーグナーの楽曲がショルティの芸風に必ずしも符号していたかどうかは疑問のあるところであるが、それでもウィーン・フィルとの一連の録音は、ショルティの鋭角的な指揮ぶりを、ウィーン・フィルの美音が演奏全体に潤いを与えるのに大きく貢献しており、いい意味での剛柔のバランスのとれた名演に仕上がっていると言えるのではないだろうか。

多少、無機的な音はするものの、やみくもに楽器を大きく打ち鳴らすだけの“迫力”とは次元を異にする、洗練された“凄み”のようなものが伝わってくる。

華麗で重厚な響きの中にダイナミックなオーケストレーションが展開され、少なからぬ人が「ワーグナー管弦楽曲のCDはこうあってほしい」と思うであろう形の1つ、と言って良いかもしれない。

もちろん、ウィーン・フィルとしてはいささか不本意な演奏であろうが、それでも生み出された音楽は立派な仕上がりであり、聴き手としては文句を言える筋合いではないと言える。

いずれにしても、強靭なリズム感とメリハリの明瞭さにウィーン・フィルならではの美音による潤いが付加された本演奏は、若き日のショルティを代表する名演と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。

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2015年04月08日


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ショルティは、バーンスタインやクーベリックなど、一部の限られた指揮者によってしか演奏されていなかったマーラーの交響曲にいち早く注目し、その後のマーラー・ブーム到来の礎を作り上げたという意味では、多大なる功績を遺したと評価できるのではないだろうか。

それにしても、我が国におけるショルティの評価は不当に低いと言わざるを得ない。

現在では、ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」以外の録音は殆ど忘れられた存在になりつつある。

我が国においては、故吉田秀和氏のように好き嫌いを別にして公平に指揮者を評価できる数少ない音楽評論家は別として、とりわけとある影響力の大きい某音楽評論家が自著においてショルティを、ヴェルディのレクイエムなどを除いて事あるごとに酷評していることに大きく起因していると思われるが、そうした批評を鵜呑みにして、ショルティの指揮する演奏を全く聴かないクラシック音楽ファンがあまりにも多いというのは極めて嘆かわしいことである。

ショルティは、若き日にコンセルトヘボウ・アムステルダムと「第4」の名演を残しており(1961年)、ショルティ自身も、本演奏の出来には相当に満足していたようで、その出来映えに愛着に近い強い自信をもち、再録音の必要はないと公言していた。

後年、1970年の交響曲第5番の録音をはじめとして、シカゴ交響楽団とのマーラーの交響曲全集の録音を開始したが、その際、第4番を再録音するかどうかについて相当に逡巡したとのことであった。

そうした中でのこの新盤(1983年)は22年を経て録音されたものであり、ショルティの円熟をことさら印象づける。

今回のシカゴ交響楽団との演奏ではオケの合奏能力をフルに生かし、緻密で繊細な響きを作り出しており、ショルティはこの曲に合わせて徹底的に室内楽的な表現を施しているが、旧盤よりもさらに角がとれ、表情が自然でありながらも自由で大胆である。

しかし、それはあくまでも自然な流れを損なわず、みごとな造形の均衡をもたらしている。

いずれにしても、ショルティとしても突然変異的な名演と言えるほどで、ショルティの指揮芸術の特徴でもある切れ味鋭いリズム感や明瞭なメリハリが、本演奏においてはあまり全面には出ていないとも言えるところだ。

マーラーの交響曲の中でも、最も楽器編成が小さく、メルヘン的な要素を有する「第4」は、かかるショルティの芸風とは水と油のような関係であったとも言えるが、本演奏では、そうしたショルティらしさが影をひそめ、楽曲の美しさ、魅力だけが我々聴き手に伝わってくるという、いい意味での音楽そのものを語らせる演奏に仕上がっていると言えるだろう。

ショルティも、多分に楽曲の性格を十二分に踏まえた演奏を心がけているのではないかとも考えられるところであり、逆に言えば、円熟期のショルティにはこのような演奏を行うことが可能であったということだ。

これはショルティの指揮芸術の懐の深さを表わすものであり、とある影響力の大きい音楽評論家などを筆頭にいまだ根強い「ショルティ=無機的で浅薄な演奏をする指揮者」という偏向的な見解に一石を投ずる演奏と言えるのではないだろうか。

終楽章のソプラノのキリ・テ・カナワによる独唱の表情豊かな歌もこの作品にふさわしく、そのロマン溢れる歌唱は美しさの極みであり、彼女独特の節まわしで色気のある歌声を聴かせ、最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

シカゴ交響楽団の緻密で繊細な響きは英デッカによる極上の優秀録音によって完全に捉えられており、別の意味で唖然とさせられる。

筆者としては、いまだ未聴のクラシック音楽ファンには是非とも一聴をお薦めしたい名盤と高く評価したい。

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マーラーの交響曲第9番は、マーラーが完成させた最後の交響曲だけに、その内容には途轍もない深みがある。

その本質的なテーマは、諸説はあるとは思うが、忍び寄る死への恐怖と闘い、そして、生への憧憬と妄執であると言えるだろう。

それだけに、他の交響曲では通用するアプローチでも、第9番に限っては、スコアに記された音符の表層だけをなぞっただけの演奏では、到底名演になり得ないとも言えるところだ。

ショルティは、ロンドン交響楽団とのスタジオ録音(1967年)に続いて、手兵シカゴ交響楽団とともに本盤に収められた2度目のスタジオ録音(1982年)を行っている。

旧盤は、スコアに記された音符の背後にあるものへの追求や彫りの深さといった点においては、いささか不足していると言わざるを得なかったが、新盤は、スーパー軍団と称されたシカゴ交響楽団の卓越した技量を見事に統率するとともに、楽曲の心眼にも鋭く踏み込んだ懐の深い円熟の名演である。

ここでのショルティは、客観性と主観性、それに近代的なリリシズムを見事に結びつけており、完成度の高いマーラーを聴かせている。

ショルティは音の威力と鮮やかなメリハリの効果を与えたきわめて明快な表現で、緊張感にあふれた演奏を行っていると同時に、オーケストラの技量が存分に発揮されており、いかにもショルティらしい現代的な感覚の演奏だ。

いずれにしてもシカゴ交響楽団というヴィルトゥオーゾ・オーケストラの機能を遺憾なく発揮させた1つの頂点を示したものとも言えよう。

まさに、本演奏は有名レストランでシカゴ交響楽団が出す豪華料理と高級ワインを味わうような趣きがあり、我々聴き手は、ただただレストランにおいて極上の豪華な料理と高級ワインを堪能するのみである。

もっとも、あまりの料理やワインの豪華さに、聴き手もほろ酔い加減で幻惑されてしまいそうになるが、本演奏は、それほどまでに空前絶後の「燦然たる音の饗宴」に仕上がっている。

ショルティ&シカゴ交響楽団のコンビは、なにを演奏した場合でも生き生きした動感をみなぎらせていたが、このマーラーも例外ではない。

冒頭から意志的な力とコントロールで均衡感の強い音楽を組み上げているが、同時に自在な呼吸に支えられた豊かな表情があり、成熟を感じさせる演奏だ。

かつてのワルターに代表される詩情豊かなゆったりしたマーラーとは別種の現代的な感性に根差したマーラーの出現であり、鮮明にして整然とした世界が生み出されてゆく。

しかしながらショルティは、マーラーを即物的にとらえ、非情に再現しているのではない。

マーラーが奏でた牴劉瓩紡个垢訖瓦らの共感、それが持続低音となってこの演奏を支えている。

精妙に再現されながら豊かな味わいに乏しい演奏に時折接することがあるが、精緻であると同時に動感を失わず、味わいにも富んでいるのがショルティだ。

ショルティのプロフェッショナリズムのもと、ホールの癖を逆手にとって強靭な個性を確立したシカゴ交響楽団。

両者の持ち味が遺憾なく発揮されたマーラーで、驀進するブルレスケばかりでなく、フィナーレの弦も表情豊か、あらためてこのコンビの凄さを感じる。

マーラーを古典として眺め、そこに自然な音楽像を作り出した感動的名演と言えよう。

聴き終えた後の充足感が、例えばバーンスタイン&コンセルトヘボウ・アムステルダム盤(1985年)などの名演に必ずしも引けを取っているわけでもなく、筆者としてはマーラーの演奏様式の一翼を担った名演として高く評価したいと考える。

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2015年03月23日


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1990年5月5,6日、ウィーン・ムジークフェラインザールに於ける、楽曲の珍しい組み合わせによるコンサートの記録である。

一見凡庸な選曲に見えて、凡庸な指揮者では絶対に選択しないカップリングと言えるところだ。

18世紀的な勝利への凱歌と20世紀の勝利への凱歌への懐疑といった戦略的なカップリングにより、ベートーヴェンの「第5」の物語は見事に剥奪され、屈折した構造が白日の元に引きずり出されている。

そこに偶然とはいえウィーン・フィルの美音を重ねるとは、ショルティも相当な策士と言えたところであり、見事なまでに屈折したコンセプトアルバムとなった。

ショスタコーヴィチは、ショルティが最晩年になって漸く取り組みを開始した作曲家であるが、こうしたショルティのあくなき前向きな姿勢には頭を下げざるを得ない。

2曲とも快演だが、特にショスタコーヴィチの「第9」が聴きもので、ショルティの演奏は、今までこの曲に付き纏っていた曲の経緯などを全く顧慮しない典型的なものと言えよう。

この「第9」は、「第8」に次いで録音されたものであるが、全体を20分少々という快速のテンポを取りながら、その中から浮かび上がる造型的な美しさを目指しているようだ。

新古典主義的解釈でこの作品の本質を衝き、ショルティの凄いほどの統率力がウィーン・フィルの音を引き締めると同時に、このオケの柔らかな音色が、より一層、今までの演奏との違いを感じさせる。

この当時、ショルティは既に78歳に達していたはずであるが、とてもそうとは思えない、若き日の鋭角的なショルティを彷彿とさせる力感溢れるアプローチだ。

実にきびきびとして緊張感にあふれていながら色彩感があり、ショスタコーヴィチ特有のダークなアイロニーに富む楽想がつぶさに伝わってくる。

第1楽章からホルンなどの管楽器の響きが冴え渡り表情は明晰そのもので、第2楽章など史上最速の演奏ではあるまいか。

第3楽章の速度指定はプレストであるが、作曲者の指定通りの速度での演奏は、これが初めてであったと記憶している。

ウィーン・フィルらしからぬ荒々しさも感じられるところであり、アンサンブルがあちこちで悲鳴を上げる寸前まで追い込まれつつも、驚異的な機動力で見事に乗り切っている。

ショスタコーヴィチが「第9」に込めた諧謔的な一面を的確に描出しているという点でも、一定の評価をすべき好演であると考える。

ロシア的な色彩感が自然に表されているのも興味深い。

ベートーヴェンの「第5」は、ショルティの4回目にして最後の録音となったものだが、ここには枯れた味わいなど薬にもしたくない。

最晩年を迎えた指揮者とは思えないほどの速めのテンポでエネルギッシュな演奏を繰り広げている。

ただ、さすがにベートーヴェンだけに、ウィーン・フィルのしなやかにして優美な演奏が、全体としての印象を幾分柔和なものとすることに貢献しており、決して無機的な演奏に陥っていない。

ショルティの「第5」は、筆者としてはシカゴ響との1970年代または1980年代のスタジオ録音を採りたいが、本盤については、ウィーン・フィルとの組み合わせという意味で、それなりの存在価値はあると思われる。

全体的に強い緊張感と豊かな風格をもった演奏で、両曲ともライヴ特有の緊迫感を備えた好演である。

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2015年03月22日


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《英雄の生涯》は、カラヤン&ベルリン・フィルによる複数の録音が世評が高いし、筆者も好きでよく聴く。

しかし「《英雄の生涯》のユニークな演奏を1つ選べ」と言われたら、ショルティ&ウィーン・フィル盤なのである。

ショルティとウィーン・フィルは、決して相性のよいコンビでなかったと聞く。

確かに音楽性は相反する感じなので、反目することがあったのは当然と思えるが、ショルティとウィーン・フィルが遺した演奏には、両者の長所が融合し合った幸せな音楽の瞬間が多々ある。

本盤でも、速めのテンポで、アグレッシヴに指揮するショルティだが、そこはさすがにウィーン・フィル、音色には潤いがあり、リズムにもうねるようなしなやかさがある。

ショルティのエネルギッシュなアプローチを見事に受けとめて、素晴らしい音楽に仕上げている。

冒頭の「英雄」は、雄渾さとしなやかさでもって、快速のテンポで突き進み、それは、まさに向かうところ敵なしといった感じ。

ショルティの力んだ棒が見えるような溌剌さがあり、何となくアンサンブルがルーズだが集中力がある。

「英雄の敵」に入っても、テンポにはいささかの緩みも見られず、ウィーン・フィルの木管群が憎々しく卑小な英雄の敵たちを描き出す。

「英雄の妻」では一転してテンポを落とすが、名手ライナー・キュッヒルの美音ソロが聴き所で、ここのキュッヒルのソロの実に美しいこと。

「英雄の戦場」は、いかにもショルティらしく圧倒的な音量でオーケストラを豪快にならすが、その凄まじさには戦懐を覚えるほどで、凄絶な戦いを描くウィーン・フィルの金管群・打楽器群・弦楽器群、バスドラムの刻む変則的な4連符が凄まじい。

「英雄の業績」は、そっけなさを感じるほどの快速のインテンポ。

「英雄の引退と完成」は、再びテンポを落として、演奏全体を雄大に締めくくっている。

この「英雄の業績」から「英雄の引退と完成」にかけての寂寥感に満ちた音楽は、45分程度の曲なのに自分の生涯が終わりを迎えるかのような寂しさに包まれる。

ショルティは、一部批評家から、無機的なインテンポの指揮者と酷評されているが、本盤のような演奏に接すると、決してそうではなく、むしろ緩急自在のテンポを駆使した起伏の激しい演奏をしていることがよくわかる。

本演奏を名演と言えるかどうかは、ウィーン・フィルとの相性などを考慮するといささか躊躇するが、ショルティの個性が溢れたユニークさという点では、一聴の価値は十分にある演奏であると考える。

世評は高くないかも知れないが、剛毅さ・艶麗さ・凄絶さ・そして黄昏の美といった、この曲の持つ魅力を十全に引き出した名演と言えるだろう。

むしろ、併録のワーグナーは、解釈に奥行きが出てきたと評された1980年代後半の録音であり、ショルティ円熟の名演と言ってもいいと思われるが、もう少し大きな音楽の流れを聴きたいような気もする。

SHM−CD化の音質向上効果は、従来CDの音質もかなりのものであったことから、若干のレベルにとどまっている。

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2015年03月11日


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ショルティは、近年のワーグナー指揮者の中では、カラヤンとともに頭抜けた存在であり、他に比肩するもののない業績の豊かさを思わせている。

そこにある完璧とも言える音楽分析と深い理念に裏付けられたワーグナー観は、ショルティが常に最も信頼し得るワーグナー指揮者のひとりであったことを疑わせる余地はない。

特に、1950年代後半から60年代前半に録音した「ニーベルングの指環」の全曲盤は、燦然と輝く歴史的名盤であり、同曲のベスト盤として、圧倒的な評価を受けているが、ショルティの若い時代の悪癖である、やや力づくの演奏も見られるなど、問題点がないわけではなかった。

そんなショルティが、同じオケと同じ録音場所で、1982年、彼が70歳時に、「ニーベルングの指環」4部作のオーケストラ・パートの名曲の抜粋盤として再録音したのが、このCDである。

本盤は、あれから20年後の録音ということもあり、角がすっかりとれた円熟の名演に仕上がっている。

テンポ設定も実に落ち着いたものとなっており、ゆったりとした気持ちで、ワーグナーの音楽の素晴らしさを満喫することができる。

冒頭の「ヴァルキューレの騎行」は、「ジークフリートの葬送行進曲」とともに、所謂ワーグナー管弦楽曲集での定番曲となっているが、最もショルティ向きの曲と言ってもよく、そのドラマティックで切れ味鋭い演奏は圧巻であり、これは、同曲のベストの演奏と言っても過言ではないだろう。

「ジークフリートの葬送行進曲」と「フィナーレ」については、ショルティの前記全曲盤での「神々のたそがれ」の演奏と比較して聴いてみたのだが、まず、「ジークフリートの葬送行進曲」のテンポが、極端に遅くなっているのに驚かされる。

テンポの遅さは、そのまま曲の掘り下げの深さに繋がっており、力で押し切る傾向のあった若き日の演奏と比べると、弱音部での木目細やかな表現力が際立っており、ショルティの変化、円熟を強く感じる。

「フィナーレ」は、ワーグナー管弦楽曲集では滅多に演奏されない曲だと思うが、「ニーベルングの指環」全曲の最後を飾るにふさわしい感動的な名曲であり、ショルティは、円熟の名人芸で、壮大なクライマックスから、美しくも物哀しい弱音部の旋律までを見事に描き分け、最後は、厳かに、全曲を締め括ってみせる。

ここでの曲目は、ショルティにとっては、それらがコンサート・レパートリーであると同時に、完全に手中にしているオペラ・レパートリーの一部であるということが、その演奏の内容をいっそう確かなものとしている。

もちろん、ウィーン・フィルの自発性も充分生かされているが、高い造形性と深い音楽表現に裏付けられた好演と言える。

ショルティはウィーン・フィルとはあまり相性が良くないと言われているが、この演奏に関しては「ニーベルングの指環」の抜粋盤ではあるが、全曲を長いと敬遠している人にとっても全曲を聴いてみたくなるような、力強さと美しさが堪能できるものとなっている。

音質も英デッカによるナチュラルな極上の名録音である。

ただ不満を1つ述べるとすれば、もう少し楽曲の収録を増やしてもらいたかったという点。

例えば、「神々のたそがれ」については、「夜明けとジークフリートのラインの旅」をなぜ録音しなかったのだろうか。

収録時間にも余裕があるだけに、やや物足りない気がするのは筆者だけであろうか。

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2015年02月15日


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本盤には、メンデルスゾーンの交響曲第3番及び第4番という人気交響曲がカップリングされているが、いずれもショルティならではの素晴らしい名演と高く評価したい。

我が国におけるショルティの評価は不当に低いと言わざるを得ない。

現在では、歴史的な名盤と評されているワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」以外の録音は殆ど忘れられた存在になりつつある。

これには、我が国の音楽評論家、とりわけとある影響力の大きい某音楽評論家が自著においてショルティを、ヴェルディのレクイエムなどを除いて事あるごとに酷評していることに大きく起因していると思われるが、かかる酷評を鵜呑みにして、例えば本盤の演奏のような名演を1度も聴かないのはあまりにも勿体ない。

ショルティの様々な楽曲の演奏に際しての基本的アプローチは、強靭なリズム感とメリハリの明瞭さを全面に打ち出したものであり、その鋭角的な指揮ぶりからも明らかなように、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされていると言えるところだ。

こうしたショルティのアプローチは、様相の変化はあっても終生にわたって殆ど変わりがなかった。

したがって、楽曲によっては、力づくの強引さが際立った無機的な演奏も散見され、それがいわゆるアンチ・ショルティの音楽評論家を多く生み出す要因となったことについて否定はできないと思われるが、それでも、1980年代以降になると、演奏に円熟の成せる業とも言うべき奥行きの深さ、懐の深さが付加され、大指揮者に相応しい風格が漂うことになったところだ。

本盤の両曲の演奏においても、そうした聴き手を包み込んでいくような包容力、そして懐の深さには大なるものが存在していると言えるところである。

スコットランドやイタリアの情景描写などとは無縁の、あくまでも絶対音楽としての交響曲を意識した演奏ではあるが、それだけに演奏全体の堅牢な造型美、そしてスケールの大きさには絶大なるものがあると言えるだろう。

もちろん、両曲には、例えば第3番について言えばクレンペラー&フィルハーモニア管弦楽団による名演(1961年)、第4番について言えばトスカニーニ&NBC交響楽団による名演(1954年)など、他に優れた演奏が数多く成し遂げられており、本演奏をベストの演奏と評価することはなかなかに困難であると言わざるを得ないが、一般的な意味における名演と評価するにはいささかも躊躇するものではない。

シカゴ交響楽団の巧さも特筆すべきであり、本名演に華を添える結果となっていることを忘れてはならない。

音質も、1985年のスタジオ録音であるのに加えて、英デッカによる超優秀録音であること、そして、今般、ルビジウム・クロック・カッティングがなされたことにより、十分に満足できるものとなっている点についても付記しておきたい。

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2015年01月27日


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ショルティが「ニーベルングの指環」全曲を録音して以降、カラヤンやベームの全曲録音や、過去の演奏では、クナッパーツブッシュの名演、最近では、カイルベルトの名演が発掘されたりしているが、現在においても、トップの座を譲らない永遠の名盤だ。

まぎれもなく、レコード録音史上最高の名盤と評価したい。

本盤は、そのクラシックの録音史上に残る名盤のハイライトである。

熱烈なワグネリアンでも『指環』全曲を聴くのには、相当な覚悟が必要であるが、その点で、このハイライトは有り難い。

筆者としてはショルティの全曲盤のレビューを既に書いたが、あまりに長大な作品なので、通常はこのハイライト盤を聴くことが多い。

何よりも、ホッターやフラグスタート、ロンドン、さらにはヴィントガッセン、キング、ルートヴィヒ、ニルソンといった超豪華歌手陣が素晴らしい。

歴史的なワーグナー歌手の全盛期に録音されたというのが、まずは本盤の成功の要因にあげられると思う。

次いで、ウィーン・フィルの名演が実にすばらしい。

ショルティのいささか力づくの指揮が、ウィーン・フィルの優美な音色が緩衝材になって、非常に調和のとれた演奏になっている点も見逃してはなるまい。

そして、録音の素晴らしさ。

名プロデューサーのカルショウの下、ニーベルハイムに降りていく際の金床の音色や、ニーベルング族が金を天上界に運んでいる際、アルべリヒの一喝によって逃げ惑う際の悲鳴の響かせ方、ワルキューレの騎行の立体音響など、1950年代後半〜60年代前半の録音とは思えないくらいの鮮明さであり、現在に至るまで、これを凌駕する録音が現れていないのは脅威と言うべきであろう。

この演出によって、想像的視覚効果がもたらされ、それこそがスタジオ録音における録音技術のマジックが冴えた瞬間であり、この全曲録音が評価されている決定的要素の1つと言える。

ワーグナーの良くも悪くも絶対に聴いておかなければならない音楽が、最高のスタジオ録音で残されたことを感謝すべきであろう。

これを聴くと、カルショウは歌劇場の再現では無く、映像の無い大作映画を鑑賞しているみたいな錯覚を覚える。

ステレオ初期なのに、今聴いても凄い録音であり、エンターテイメント精神溢れる効果が十二分に味わえる。

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2015年01月16日


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マーラーの交響曲第9番は、マーラーが完成させた最後の交響曲だけに、その内容には途轍もない深みがある。

その本質的なテーマは、諸説はあるとは思うが、忍び寄る死への恐怖と闘い、そして、生への憧憬と妄執であると言えるだろう。

それだけに、他の交響曲では通用するアプローチでも、第9番に限っては、スコアに記された音符の表層だけをなぞっただけの演奏では、到底名演になり得ないとも言えるところだ。

ショルティは、ロンドン交響楽団とのスタジオ録音である本演奏(1967年)に続いて、手兵シカゴ交響楽団とともに2度目のスタジオ録音(1982年)を行っている。

1982年の演奏は、スーパー軍団と称されたシカゴ交響楽団の卓越した技量を見事に統率するとともに、楽曲の心眼にも鋭く踏み込んだ懐の深い円熟の名演であるが、これに対して、本演奏については、今一つの踏み込み不足を感じさせる演奏と言える。

今般の一連のルビジウム・クロック・カッティングシリーズの演奏は、第3番を除いて名演の名に相応しい水準を保っているが、本演奏は第3番と同様に、佳演のレベルにとどまるのではないかとも考えている。

ショルティの指揮芸術の特徴でもある切れ味鋭いリズム感やメリハリの明瞭さは、本演奏においても健在であり、同曲の複雑な曲想を明瞭化するにも大きく貢献しているが、スコアに記された音符の背後にあるものへの追求や彫りの深さと言った点においては、いささか不足していると言わざるを得ない。

演奏の持つ力強さや迫力においては不足がないものの、我々聴き手の肺腑を打つに至るような凄味は感じられないところであり、どうしても、本演奏にはある種の限界を感じずにはいられないところだ。

もっとも、1960年代という、いまだマーラー・ブームが訪れていない時期において、マーラーの交響曲の中でも最も演奏が難しいとされる難曲第9番に果敢に挑戦し、少なくとも水準には十分に達し得た演奏を成し遂げたことについては、一定の評価をしておくことが必要であろう。

いずれにしても、本演奏は、1982年の2度目の演奏と比較すると、今一つの出来と言わざるを得ないが、本演奏当時はショルティがいまだ壮年期であったこと、そしてマーラー・ブームが訪れる前の演奏であることなどを総合的に勘案すれば、少々甘い気もするが、佳演と評価するには躊躇するものではない。

ロンドン交響楽団も、ショルティのメリハリのある指揮にしっかりと付いていき、持ち得る実力を発揮した見事な演奏を行っていると評価したい。

音質は、1967年のスタジオ録音であるが、英デッカによる超優秀録音であること、そして、今般、ルビジウム・クロック・カッティングがなされたことにより、十分に満足できるものとなっている点についても付記しておきたい。

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2015年01月12日


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ショルティのモーツァルト・オペラ初録音であるが、ショルティの芸術性の高さを証明する、彫りの深い優しい「魔笛」で、当オペラ録音を語る上で外せない名盤。

ショルティとウィーン・フィルの関係は決して芳しいものではなかったと言われている。

ウィーン・フィルは、ショルティのように、オーケストラに自由を与えず、自己流のやり方を押し通そうとする指揮者には好意を抱かなかったし、ショルティも晩年はともかく、本盤が録音された1960年代は無機的とも評されるような鋭角的な指揮をしていた頃で、必ずしも自分の思い通りにならないウィーン・フィルに辟易している様子が、ショルティの伝記などからも窺えるからである。

しかしながら、ここでは両者ともに大人の対応で、共感を抱かない関係であっても、なかなかの佳演を成し遂げている。

ショルティの鋭角的な指揮は、決してモーツァルトとの相性がいいとは言えないが、ウィーン・フィルの優美な音色が、その演奏を角の取れたものとし、無機的になる寸前でとどまっているものと考えられる。

ショルティの統率力が、時として息の詰まりそうなほど集中力の強い演奏をつくり出している。

歌手陣も、なかなか豪華な布陣で、クレンペラー以来の脇役に至るまで超・夢のキャストでアンサンブルもぴったり、とりわけ重唱の美しさが印象に残る。

弁者にフィッシャー=ディースカウ、武士にルネ・コロなどいかにも重厚な布陣と言えるが、ザラストロのタルヴィラ、タミーノのバロウズ、パパゲーノのプライ、そしてパミーナのローレンガーの主役4者の歌唱は見事であると評価したい。

そして、やや癖はあるものの圧倒的なテクニックを披露する夜の女王のドイテコムの素晴らしい美声と正確なコロラトゥーラは現在においても少しも色褪せない。

夜の女王を演じた魅力的なソプラノ歌手はたくさんいるが、彼女のコロラトゥーラは群を抜いて凄く、「魔笛」録音史上最高の夜の女王として深く記憶に刻まれるものと言えよう。

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2014年12月22日


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モーツァルトを十八番とした巨匠カール・ベームは、モーツァルトのオペラを指揮することの難しさについて指摘をしていたとのことが、故吉田秀和氏の著作の中に記述されている。

その中でも、最も難しいのは、登場人物の心理を深く掘り下げて描き出すことが必要な歌劇「ドン・ジョヴァンニ」や、最晩年の傑作である歌劇「魔笛」を掲げるクラシック音楽ファンも多いのではないかと考えられる。

筆者も、その説に賛成ではあるが、本盤に収められた歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」も一筋縄ではいかない難しさを秘めていると言えるのではないだろうか。

歌劇「ドン・ジョヴァンニ」のように登場人物は多くなく、むしろ極めて少ないが、それらの各登場人物の洒脱と言ってもいいような絡み合いをいかに巧みに描き出していくのかといった点に、その演奏の成否がかかっていると言っても過言ではあるまい。

要は、オペラの指揮によほど通暁していないと、三流の田舎芝居のような凡演に陥る危険性さえ孕んでいると言えるだろう。

本演奏は、1973年のスタジオ録音であるが、これはショルティがウィーン・フィルとの歴史的な楽劇「ニーベルングの指環」の全曲録音(1958〜1965年)を終え、オペラの録音にますます自信を深めた時期に相当する。

それだけに、ショルティも自信を持って、歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」の録音に臨んだことを窺い知ることができるところだ。

ショルティの芸風は、切れ味鋭いリズム感と明瞭なメリハリが信条と言えるが、ここでは、持ち前の鋭いリズム感を全面に打ち出して、同オペラの洒脱な味わいを描出するのに見事に成功しているのが素晴らしい。

明瞭なメリハリも、本演奏においては見事に功を奏しており、モーツァルトがスコアに記した音符の数々が、他のどの演奏よりも明瞭に再現されているのが素晴らしい。

もちろん、ベームやカラヤンによる、世評も高い同曲の名演と比較して云々することは容易ではあるが、これだけ同オペラの魅力を堪能させてくれれば文句は言えないのではないだろうか。

歌手陣や合唱団も、フィオルディリージ役のピラール・ローレンガー、ドラベッラ役のテレサ・ベルガンサ、フェルランド役のライランド・デイヴィス、グリエルモ役のトム・クラウセ、ドン・アルフォンソ役のガブリエル・バキエ、デスピーナ役のジャーヌ・ベルビエ、そして、コヴェント・ガーデン王立歌劇場合唱団がショルティの巧みな統率の下、圧倒的な名唱を披露しているのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

また、必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルも、ショルティの確かな統率の下、持ち得る実力を十二分に発揮した名演奏を展開している点も高く評価したい。

音質も、英デッカによる見事な高音質録音であり、1973年のスタジオ録音とは思えないような鮮度を誇っているのも素晴らしい。

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2014年12月14日


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R.シュトラウスのアルプス交響曲は、1970年代の半ば頃までは作曲者と個人的な親交があったベームや、史上初めて交響曲・管弦楽曲・協奏曲全集をスタジオ録音したケンぺによる録音に限られていたところである。

ところが、1979年にショルティ、そして1980年にカラヤンによるスタジオ録音が発売されるに及んで、一大人気交響曲の地位を確立した。

演奏に相当の困難を要する交響曲であることから、各地のオーケストラの技量が格段に向上してきたということもあるが、それ以上に、CD1枚に収まる長さであることから、LP時代に存在した中間部での鑑賞の中断が全く不要になったことが極めて大きいと言えるのではないかと考えられるところだ。

このように、ショルティによる本演奏は、今日での人気交響曲に発展成長していく過程での先駆けとなったものであるが、演奏自体は、他の演奏と比較して特異な性格を有している。

おそらくは、本演奏は、同曲演奏史上最速と言ってもいいのではないだろうか。

同曲は、日の出から登山、登頂、下山、夕暮れといった情景描写を中心とした標題音楽であるが、ショルティは、こうした情景描写には特段の配慮を行っていないのではないかとさえ考えられるところだ。

1年後のカラヤンの演奏と比較すると、例えば、嵐の前の描写にしても、カラヤンがゆったりとしたテンポで精緻に描き出しているのに対して、ショルティはそれこそ、嵐の前に既に嵐が来ているようなハイスピードで嵐に突入していく。

したがって、同曲の標題音楽としての魅力を希求するクラシック音楽ファンには全くお薦めすることができない演奏であると言えるだろう。

しかしながら、同曲には、作曲者R・シュトラウスによって「交響曲」という標題が付されているのであり、いわゆる絶対音楽として捉えるという考え方に立つとすれば、ショルティのアプローチは十分に説得力がある演奏であると考えられる。

こうしたショルティのアプローチは、その後、爆発的に増加した同曲の演奏には全く受け継がれていないが、現在においても再評価がなされてもいいのではないかとも考えられる演奏である。

同曲の演奏に際して、シカゴ交響楽団ではなくバイエルン放送交響楽団を起用したというのも、ショルティが同曲を単なるオーケストラ演奏の醍醐味を堪能するだけの楽曲として捉えていなかったことの証左であると考えられるところだ。

また、本盤には、シェーンベルクの管弦楽のための変奏曲が収められている。

同曲は、アルプス交響曲以上に演奏困難な曲であり、同曲の歴史的なスタジオ録音を遺したカラヤンでさえ、ある時期からはコンサートで採り上げるのをやめたほどの楽曲である。

ショルティは、手兵シカゴ交響楽団を統率して、技量面においては完璧とも言うべき演奏を展開している点を高く評価したい。

音質は、いずれも英デッカならではの極めて秀逸なものであり、本盤の価値を高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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2014年11月27日


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本盤には、メンデルスゾーンの交響曲第4番、ベートーヴェンの交響曲第5番という人気交響曲がカップリングされているが、いずれもショルティならではの素晴らしい名演と高く評価したい。

ショルティが1990年代にウィーン・フィルに客演した際に収録されたライヴで、両曲とも彼にとって4回目の録音にあたる。

メンデルスゾーンとベートーヴェン、ともにウィーン・フィルの美質を生かした流麗な響きを味わえる。

ところで、我が国におけるショルティの評価は不当に低いと言わざるを得ない。

現在では、歴史的な名盤と評されているワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」以外の録音は殆ど忘れられた存在になりつつある。

これには、我が国の音楽評論家、とりわけとある影響力の大きい某音楽評論家が自著においてショルティを、ヴェルディのレクイエムなどを除いて事あるごとに酷評していることに大きく起因していると思われるが、かかる酷評を鵜呑みにして、例えば本盤の演奏のような名演を1度も聴かないのはあまりにも勿体ない。

ショルティの様々な楽曲の演奏に際しての基本的アプローチは、強靭なリズム感とメリハリの明瞭さを全面に打ち出したものであり、その鋭角的な指揮ぶりからも明らかなように、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされていると言えるところだ。

こうしたショルティのアプローチは、様相の変化はあっても終生にわたって殆ど変わりがなかった。

したがって、楽曲によっては、力づくの強引さが際立った無機的な演奏も散見され、それがいわゆるアンチ・ショルティの音楽評論家を多く生み出す要因となったことについて否定はできないと思われるが、それでも、1980年代以降になると、演奏に円熟の成せる業とも言うべき奥行きの深さ、懐の深さが付加され、大指揮者に相応しい風格が漂うことになったところだ。

本盤の両曲の演奏においても、そうした聴き手を包み込んでいくような包容力、そして懐の深さには大なるものが存在していると言えるところである。

「イタリア」の情景描写や「運命」の精神性の追求などとは無縁の、あくまでも絶対音楽としての交響曲を意識した演奏ではあるが、それだけに演奏全体の堅牢な造型美、そしてスケールの大きさには絶大なるものがあると言えるだろう。

もちろん、両曲には、例えばメンデルスゾーンについて言えばトスカニーニ&NBC交響楽団による名演(1954年)、ベートーヴェンについて言えばフルトヴェングラー&ベルリン・フィル(1947年)など、他に優れた演奏が数多く成し遂げられており、本演奏をベストの演奏と評価することはなかなかに困難であると言わざるを得ないが、一般的な意味における名演と評価するにはいささかも躊躇するものではない。

ウィーン・フィルの巧さも特筆すべきであり、本名演に華を添える結果となっていることを忘れてはならない。

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2014年11月26日


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録音からすでに40年以上経過したが、今もって、当曲の最右翼に位置する名盤である。

ショルティ&シカゴ響のヨーロッパ公演の際におこなわれた録音で、史上最強といわれる豪華なキャストが話題になった。

ところで、日本のクラシック批評史上最大の汚点として決して忘れてはいけないのが、ショルティを不当に過小評価したことである。

日本のクラシック音楽評論家連中は、ドイツ精神主義を最高のものとして崇め奉るため、楽譜に忠実な指揮をするショルティを「精神性がない」「無機的」「血が通っていない」とことあるごとに貶していた。

クラシックを聴き始めた頃の筆者は、この批評を鵜呑みにしてショルティを無視してしまった。

それが大間違いであったことに気が付いたのが10年近く経った頃であった。

以来、筆者はショルティを貶した評論家連中を信用しないようにしている。

そのように、ショルティは実力の割には過小評価されている大指揮者だと思うが、このマーラーを聴くと、大規模なオーケストラや合唱団を意のままに統率する類稀なるショルティの力量を思い知らされる。

マーラーの交響曲の中でも、「第8」は個人的な主観に左右されにくい作品なので、ショルティの客観的なアプローチに一番しっくりくるのかもしれない。

もちろん、演奏のほうも素晴らしいもので、大作とはいえ、流動的な構造の第2部、がっちりと構造的に仕上げるなど、いつもながらのショルティの造型志向はここでも健在。

第2部とは対照的に構造的求心性の強い第1部では、持ち前のダイナミックなアプローチが好を奏し、いたるところに爽快な山場がつくられていてとにかく快適。

ショルティはバーンスタインのように感情移入やテンポの激変することはしないで楽譜に忠実に指揮している。

しかし、ショルティの凄いところは1音も無駄にすることなくしっかりと明瞭な音を鳴らしているところである。

しかも、音に色彩感があり彫りが深く、オーケストラ、ソリスト、合唱を見事にコントロールして最高の音楽を引き出している。

独唱者は見事に粒よりで、女声は完璧、男声では、何といってもコロの絶唱!力強い美声を惜しみなく披露し、第2部ではテキストのとおり、陶酔した最高のマリア崇拝の博士が聴ける。

ショルティは実に力強くオケとコーラスを引っ張り、遅滞も乱れもなく完璧な音響表現を成し遂げた。

第1部よりも第2部が一層鮮やかで、全演奏者が本当に1つになって頂点を目指すような、セッションレコーディングにおいても稀有な成果と言えよう。

ただ演奏するだけでも人手も経費の面でも大変な曲なのだが、録音、オケの技術、歌手陣、音、全部考えうる最高の演奏だと思う。

録音も極上で、最初のオルガンの音1つにしても神秘の合唱の銅鑼一発にしても最高、オーディオ的満足度の高さも相当なものがある。

聴き手は、今は無きゾフィエンザールの広大な空間に、全盛期のショルティ&シカゴ響がその超絶的なパワーを注いで鳴り響いたゴージャスな音響を、これも円熟期のK・ウィルキンソンが世界最高の録音技術をもってホールの空間ごと切り取ったスペクタクルサウンドにただ唖然とすることしか許されない。

現在でもあらゆる要素において、最高水準のスタンダードと言えるところであり、マーラーの「第8」の数々のCDの中でもトップを争う名盤だと思う。

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2014年10月22日


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ショルティほど、実力の割に過小評価されている指揮者はいないのではないか。

カラヤンに匹敵するほどの膨大なレコーディングを行ったショルティであるが、現在では、楽劇「ニーベルングの指環」以外の録音は殆ど忘れられた存在になりつつある。

これには、我が国の音楽評論家、とりわけとある影響力の大きい某音楽評論家が自著においてショルティを、ヴェルディのレクイエムなどを除いて事あるごとに酷評していることに大きく起因していると思われるが、かかる酷評を鵜呑みにして、ショルティの演奏を全く聴かないのはあまりにも勿体ない。

特に、ショルティによるマーラーの交響曲の演奏は、いずれも一聴の価値のある名演揃いであり、今般、ルビジウム・クロック・カッティングによる高音質かつ廉価で、一連の録音が発売されることから、いまだ未聴のクラシック音楽ファンにも是非とも聴いていただきたいと考えている。

それはさておき、本盤には、ショルティが完成させた唯一のマーラーの交響曲全集を構成する交響曲第7番が収められている。

中期の交響曲として同様に分類される第5番をショルティは3度にわたって録音しているのに対して、第7番は、第6番と同様に本盤が唯一の録音であるが、これは、ショルティが本演奏に満足していたのか、それとも第5番ほどに愛着を持っていなかったのか、その理由は定かではない。

それはさておき、演奏は凄まじい。

これは、同じく1970年に録音された第5番や第6番と共通していると言えるが、まさに強烈無比と言っても過言ではないほどの壮絶な演奏と言えるのではないだろうか。

ショルティのマーラーの交響曲演奏に際しての基本的アプローチは、強靭なリズム感とメリハリの明瞭さを全面に打ち出したものであり、その鋭角的な指揮ぶりからも明らかなように、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされていると言えるところだ。

こうしたショルティのアプローチは、様相の変化はあっても終生にわたって殆ど変わりがなかったが、かかるショルティの芸風が最も如実にあらわれた演奏こそは、本盤に収められた第7番を含む1970年に録音された第5番〜第7番のマーラーの中期の交響曲の演奏であると考えられる。

それにしても、第5番のレビューにおいても記したところであるが、筆者はこれほど強烈無比な演奏を聴いたことがない。

耳を劈くような強烈な音響が終始炸裂しており、血も涙もない音楽が連続している。

まさに、音の暴力と言ってもいい無慈悲な演奏であるが、聴き終えた後の不思議な充足感は、同曲の超名演であるインバル&フランクフルト放送交響楽団盤(1986年)又はインバル&チェコ・フィル盤(2011年)、そして、テンシュテット&ロンドン・フィル盤(1993年ライヴ盤)などにいささかも引けを取っていない。

あまりにも強烈無比な演奏であるため、本演奏は、ショルティを好きになるか嫌いになるかの試金石になる演奏とも言えるのかもしれない。

加えて、本演奏の素晴らしさはシカゴ交響楽団の超絶的な技量であろう。

いかにショルティが凄いと言っても、その強烈無比な指揮にシカゴ交響楽団が一糸乱れぬアンサンブルを駆使してついていっているところが見事であり、ショルティ統率下のシカゴ交響楽団がいかにスーパー軍団であったのかを認識させるのに十分なヴィルトゥオジティを最大限に発揮している。

かかるシカゴ交響楽団の好パフォーマンスが、本演奏を壮絶な名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

音質も英デッカによる1970年の録音当時としては総体として優秀なものである。

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2014年09月17日


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本盤に収められた歌劇「ローエングリン」は、ワーグナーの主要オペラをすべて録音したショルティによる一連の録音の掉尾を飾るもの(その他には、晩年の楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のコンサート形式による録音が存在している)である。

ショルティのワーグナーについては、最初期の楽劇「ニーベルングの指環」は別格の名演であるが、その他のオペラの中には呼吸の浅い浅薄な演奏もいくつか存在している。

これはワーグナーのオペラに限らず他の諸曲にも共通していると言えるが(マーラーの交響曲第5番のように、成功した名演もあることに留意しておく必要がある)、そのようなショルティも1980年代半ばになると円熟の境地に達したせいか、奥行きの深い演奏を繰り広げるようになってきたように思われる。

例えば、ブルックナーの交響曲第9番の名演(1985年)などが掲げられるところであり、ショルティもこの頃になって漸く名実ともに真の円熟の大指揮者となったと言っても過言ではあるまい。

本演奏も、そうした円熟のショルティの至芸を味わうことができるスケール雄大な名演と言えるところであり、前述の楽劇「ニーベルングの指環」を除けば、ショルティのワーグナーのオペラの中では最も素晴らしい名演と高く評価したい。

円熟のスケール雄大な名演と言っても、本演奏においても、例によって拍が明瞭でアクセントがやや強めであることや、第2幕におけるブラスセクションによる最強奏など、いわゆるショルティらしい迫力満点の正確無比な演奏を繰り広げているのであるが、ウィーン・フィルによる美演が演奏全体に適度の潤いと温もりを付加させているのを忘れてはならない。

ショルティとウィーン・フィルの関係は微妙なものがあり、必ずしも良好とは言えなかったとのことであるが、少なくとも遺された録音を聴く限りにおいては、両者が互いに協調し合った名演奏を繰り広げていると言えるのではないだろうか。

また、歌手陣も極めて豪華な布陣と言える。

ジェシー・ノーマンのエルザ役には若干の疑問符を付けざるを得ないが、ドミンゴのローエングリン役は意表をついたキャスティングながら見事なはまり役。

ゾーンティンの国王ハインリッヒ役は威厳があって素晴らしい歌唱を披露している。

加えて、軍令使役にフィッシャー=ディースカウを起用するという何とも贅沢なキャスティングは、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

なお、本盤は英デッカによる今はなきゾフィエンザールにおける最後の録音であるという意味においても貴重であり、その鮮明な極上の高音質録音についても高く評価したい。

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2014年09月01日


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ショルティはマーラーの交響曲を得意としていたが、意外にもシカゴ交響楽団との全集を完成させた1983年以降は、殆どマーラーの交響曲を録音していない。

その後、10年以上にもわたって、様々な楽曲のレコーディングを行ったショルティにしては、実に意外なことと言わざるを得ない。

しかしながら、そのようなショルティにも例外があり、交響曲第5番だけは、全集の一環としてスタジオ録音(1970年)を行った後、シカゴ交響楽団とのライヴ録音(1990年(本盤))、そしてショルティのラスト・レコーディングとなったチューリヒ・トーンハレ管弦楽団とのライヴ録音(1997年)の2度にわたって録音を行っている。

ショルティが同一の楽曲を3度に渡って録音するというのは、ベートーヴェンの一部の交響曲、そして、マーラーの交響曲で言えば第1番のみであることから、今後、新たなライヴ録音が発掘されることが想定されるものの、ショルティがいかに同曲を深く愛していたのかを窺い知ることができるところだ。

ショルティの遺したマーラーの交響曲第5番の3つの演奏のうち、最もショルティの個性が発揮された名演は、何と言っても1970年の演奏である。

シカゴ交響楽団の音楽監督に就任したばかりであるにもかかわらず、シカゴ交響楽団を見事に統率し、耳を劈くような強烈な音響が終始炸裂するなど、強烈無比とも言うべき圧倒的な音のドラマの構築に成功していた。

血も涙もない音楽が連続するなど、まさに、音の暴力と言ってもいい無慈悲な演奏であるが、聴き終えた後の不思議な充足感は、かのバーンスタインや&ウィーン・フィル盤(1988年)やテンシュテット&ロンドン・フィル盤(1991年)の名演にいささかも引けを取っていないと言えるものであった。

これに対して、本盤の演奏は、1970年の演奏ほどの強烈さは存在しない。

切れ味鋭いリズム感とメリハリのある明瞭さはショルティの指揮芸術の特徴であり、そうした特徴は本演奏の随所に感じられるのであるが、演奏全体としては角が取れたある種の懐の深さが支配していると言えるところであり、1970年の演奏を聴いた者からすると、やや物足りない気がしないわけでもない。

もっとも、本演奏の有する前述のような懐の深さ、そして安定感は、ショルティの円熟の成せる業とも言えるところであり、1970年の演奏さえ度外視すれば、十分に素晴らしい名演と評価してもいいのではないかと考えられるところだ。

シカゴ交響楽団は、相変わらずスーパー軍団の名に相応しい圧倒的な名演奏を展開しており、当時もいまだ健在であったトランペットのハーセスやホルンのクレヴェンジャーなどのスタープレイヤーたちが、最高のパフォーマンスを発揮しているのも、本演奏を聴く醍醐味と言えるだろう。

ショルティは、前述のように、1997年にも同曲を録音しているが、ラスト・レコーディングということに食指は動くが、オーケストラの統率力に陰りがみられること、トーンハレ管弦楽団にもある種の戸惑いが感じられることなどもあって、筆者としては、1970年の演奏を除けば、本盤の1990年の演奏の方を名演として高く評価したいと考える。

音質は英デッカによる1990年の録音でもあり極めて優秀なものである。

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ビゼーの最高傑作でもある歌劇「カルメン」は、舞台となったスペインのエキゾチックとも言うべき名旋律に溢れた作品であるだけに、そうしたスペイン風の雰囲気を十分に生かした演奏が多い。

そして、そのようなスタイルの演奏こそが、歌劇「カルメン」を演奏する際のアプローチの王道ともなっているが、ショルティによる本盤の演奏は、それとは一線を画するタイプのものと言えるだろう。

ショルティは、もちろん、同曲の随所に散りばめられたスペイン風の情緒溢れる旋律の数々を情感豊かに歌わせることを全く行っていないわけではない。

ただ、そうした旋律を歌わせることよりもむしろ、同オペラを一つの壮大な交響曲と見做して、絶対音楽として描き出しているような趣きがあると言えるだろう。

ショルティの演奏の特徴でもある切れ味鋭いリズム感と明瞭なメリハリは、本演奏においても最大限に発揮されていると言えるところであり、後世の様々な作曲家にオーケストレーションを激賞されたとされるビゼーがスコアに記した音符の数々、そして旋律の数々を、他のどの演奏よりも明晰に描き出すのに成功している。

したがって、前述のように、スペイン風の情緒溢れる旋律の数々の歌わせ方が若干犠牲になっているという側面も否定できないところであり、このあたりが、本演奏に対するクラシック音楽ファンの好悪を分ける最大の分岐点であるとも思われるところだ。

なお、ショルティは、同オペラを録音するに当たっては、当時音楽監督をつとめていたシカゴ交響楽団ではなくロンドン・フィルを起用しており、その分だけ1970年代のショルティの演奏において時として聴かれ、そして欠点ともされている力づくの強引さが薄められているとも言えるが、それでも前述のようなリズムの鋭さやメリハリの明晰さは健在である。

このように、クラシック音楽ファンにとっては、好悪が大きく分かれる演奏とは思われるが、筆者としては、あまりにも有名過ぎて手垢にまみれているとも言える歌劇「カルメン」の演奏に対して、ある種の清新さを付加したという意味において、十分に存在意義のある名演と評価したいと考える。

歌手陣も、ショルティならではの考え抜かれたキャスティングであり、何と言ってもカルメン役のタティアナ・トロヤヌスの迫真の絶唱が圧倒的な存在感を示している。

また、ドン・ホセ役のプラシド・ドミンゴ、エスカミーリョ役のヨセ・ヴァン・ダム、そして、ミカエラ役のキリ・テ・カナワなど、録音当時全盛期を迎えた超一流の歌手陣が一同に会するというこれ以上は求め得ないような超豪華な布陣であり、それらの布陣が最高のパフォーマンスを発揮しているというのは、本演奏の価値を高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

音質も、英デッカによる見事な高音質録音であり、1975年のスタジオ録音とは思えないような鮮度を誇っているのも素晴らしい。

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2014年08月31日


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ショルティは、マーラーの交響曲を得意としており、数多くの録音を遺しているが、その中でも最良の遺産とされているのは、シカゴ交響楽団との全集(1970〜1983年)であるというのは論を待たないところだ。

ところが、既に発売されている全集(輸入盤)には、何故か「大地の歌」が含まれていない。

本盤に収められた演奏は、ショルティにとってシカゴ交響楽団とともに行ったスタジオ録音(1972年)以来、2度目の録音である。

本盤の演奏は1992年のライヴ録音であることから、ショルティにとって何と20年ぶりの録音ということになる。

第1番〜第4番と第9番については、1980年代前半に再録音を行ったのに対して、「大地の歌」を同時期に再録音しなかった理由は定かではない。

最初の録音によほど満足していたのか、それとも「大地の歌」を録音する時間がなかったのかはわからないが、それはさておき、本演奏はそうした長年の渇きを癒すのに十分な素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

まさに満を持しての録音と言えるものであり、あたかもショルティが録音の絶好のタイミングを窺っていたのではないかとさえ思えるほどだ。

ショルティのマーラーの交響曲演奏に際しての基本的アプローチは、強靭なリズム感とメリハリの明瞭さを全面に打ち出したものであり、その鋭角的な指揮ぶりからも明らかなように、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされていると言えるところだ。

こうしたショルティのアプローチは、様相の変化はあっても終生にわたって殆ど変わりがなかったが、1980年代、特にその後半以降になると、演奏に円熟の成せる業とも言うべき奥行きの深さ、懐の深さが付加され、大指揮者に相応しい風格が漂うことになったところだ。

したがって、1992年の演奏は、より一層円熟味と風格が高くなったとも言えるところであり、ショルティならではの鋭角的な指揮振りは健在であるとは言うものの、旧演奏と比較して、前述のような聴き手を包み込んでいくような包容力、そして懐の深さには大なるものが存在している。

加えて、オーケストラにシカゴ交響楽団ではなく、コンセルトへボウ・アムステルダムを起用したのも功を奏しており、同オーケストラの北ヨーロッパならではの幾分くすんだ響きが、本演奏に適度の潤いと温もりを付加させていることを忘れてはならない。

アルトのリポヴシェクやテノールのモーザーも見事な歌唱を披露しており、ショルティの確かな統率の下のコンセルトへボウ・アムステルダムともども、最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

いずれにしても、本演奏は、ショルティの円熟を大いに感じさせる素晴らしい名演と高く評価したい。

音質は、1992年のライヴ録音であるのに加えて、英デッカによる超優秀録音であること、そして、今般、ルビジウム・クロック・カッティングがなされたことにより、十分に満足できるものとなっている点についても付記しておきたい。

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2014年08月15日


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ショルティは先輩格のカラヤンと同様に、極めて広範なレパートリーを誇っており、数多くのレコーディングを行ったところであるが、意外な有名曲の録音をなかなかしなかったということがあった。

例えば、ブラームスの交響曲全集については、1977年〜1979年になって漸く初録音したところであるし、本盤に収められたドヴォルザークの交響曲第9番に至っては、70歳を過ぎた1983年になって初めて録音を行ったところだ。

その理由は定かではないが、ブラームスの交響曲全集と同様に、まさに満を持して録音に臨んだだけに、ショルティの名声をいささかも傷つけることがない素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

同曲におけるショルティのアプローチは、例によって強靭なリズム感とメリハリの明瞭さを全面に打ち出したものであり、その鋭角的な指揮ぶりからも明らかなように、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされていると言えるところだ。

それでいて、1980年代に入ってショルティの指揮芸術にも円熟の境地とも言うべきある種の懐の深さ、奥行きの深さが付加されてきたところであり、本演奏にもそうした点が如実にあらわれている。

要は、ショルティを貶す識者が欠点と批判してきた力づくとも言うべき無機的な強引さが本演奏においては影を潜め、いかなる最強奏の箇所に至っても、懐の深さ、格調の高さを失っていないのが素晴らしい。

スケールも雄渾の極みと言えるところであり、いい意味での剛柔のバランスのとれたスケール雄大な演奏というのが本演奏の特質と言えるのかもしれない。

同曲の演奏において、チェコの民族色に満ち溢れた情感豊かさを希求する聴き手にとっては、いささか期待外れとの批判も寄せられるのではないかとも思われるが、例えば第1楽章の呈示部の繰り返しなども忠実に行うなど、同曲の絶対音楽としての魅力を十分に堪能させてくれる本演奏に対しては、文句は言えないのではないかと考えられるところだ。

そして、本演奏においてさらに素晴らしいのはシカゴ交響楽団の超絶的な技量であろう。

ショルティの指揮にシカゴ交響楽団が一糸乱れぬアンサンブルを駆使してついていっているところが見事であり、ショルティ統率下のシカゴ交響楽団がいかにスーパー軍団であったのかを認識させるのに十分なヴィルトゥオジティを最大限に発揮している。

かかるシカゴ交響楽団の好パフォーマンスが、本演奏を壮絶な名演たらしめるのに大きく貢献していることを忘れてはならない。

音質も英デッカによる極めて優秀なものであり、ルビジウム・クロック・カッティングによって更に鮮明さが増したと言える。

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2014年08月02日


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本盤には、ショルティが完成させた唯一のマーラーの交響曲全集が収められている。

膨大なレコーディングとレパートリーを誇ったショルティであるが、マーラーの交響曲についても比較的早くから取り組んでおり、1960年代というマーラーが知る人ぞ知る存在であった時代にも、ロンドン交響楽団と第1番、第2番、第3番、第9番、そしてコンセルトへボウ・アムステルダムとともに第4番のスタジオ録音を行っている。

また、第1番についてはウィーン・フィルとのライヴ録音(1964年)が遺されており、既に1960年代にはマーラーの交響曲はショルティのレパートリーの一角を占めていたのではないかと考えられる。

本盤に収められた全集は、ショルティが1970年以降に行ったシカゴ交響楽団とのスタジオ録音のみで構成されているが、このうち1970年及び1971年に録音された第5番〜第8番は、前述の1960年代の各スタジオ録音やライヴ録音と共通する演奏様式であり、他方、1980年〜1983年にかけてスタジオ録音された第1番〜第4番と第9番は、1980年代に入って演奏に若干の奥行きが出てきた円熟の演奏様式であり、演奏傾向に若干の違いがあることに留意しておく必要がある。

もっとも、ショルティのマーラーの交響曲演奏に際しての基本的アプローチは何ら変わりがない。

強靭なリズム感とメリハリの明瞭さは、ショルティの鋭角的な指揮ぶりからも明らかであり、これは、最晩年になっても変わりがないものであった。

したがって、ショルティのマーラーには、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされている。

ただ、第5番〜第8番については、全体に引き締まったシャープな響きが支配しているのに対して、第1番〜第4番と第9番には、若干ではあるが、響きに柔和さと奥行きが出てきているように思われる。

いずれにしても、どの曲もショルティの個性が発揮された名演であるが、筆者としては特に第3番、第5番、そして第8番を高く評価したい。

第5番は、本全集の第1弾となったものであるが、筆者はこれほど強烈無比な演奏を聴いたことがない。

耳を劈くような強烈な音響が終始炸裂しており、血も涙もない音楽が連続している。

まさに、音の暴力と言ってもいい無慈悲な演奏であるが、聴き終えた後の不思議な充足感は、同曲の超名演であるバーンスタイン&ウィーン・フィル盤(1987年)やテンシュテット&ロンドン・フィル盤(1988年)にいささかも引けを取っていない。

第8番は、ショルティがシカゴ交響楽団を引き連れてヨーロッパを訪問中にウィーンで録音されたものであるが、精密機械のような豪演を繰り広げるシカゴ交響楽団と圧倒的な名唱を繰り広げる合唱団等が融合した稀有の名演であり、同曲をこれほど壮麗かつスケール雄大に響かせた演奏は他にも類例を見ないのではないかと考えられる。

第3番は、故柴田南雄氏が「燦然たる音の饗宴」と評した演奏であるが(氏は、それ故に内容空虚であることを指摘して、本演奏を酷評している)、これほど本演奏を評した的確な表現はあるまい。

まさに、本演奏は有名レストランでシカゴ交響楽団が出す豪華料理と高級ワインを味わうような趣きがあり、我々聴き手は、ただただレストランにおいて極上の豪華な料理と高級ワインを堪能するのみである。

もっとも、あまりの料理やワインの豪華さに、聴き手もほろ酔い加減で幻惑されてしまいそうになるが、本演奏は、それほどまでに空前絶後の「燦然たる音の饗宴」に仕上がっている。

確かに、故柴田南雄氏が指摘されているように、楽曲の心眼に鋭く切り込んで行くような奥深さには欠けている演奏であるが、聴き終えた後の充足感が、例えばバーンスタイン&ニューヨーク・フィル盤(1988年)などの名演に必ずしも引けを取っているわけでもなく、筆者としてはマーラーの演奏様式の一翼を担った名演として高く評価したいと考える。

そして、これまでにも若干触れてはきたが、本全集の最大のメリットはシカゴ交響楽団の超絶的な技量であろう。

いずれの演奏も、ショルティ統率下のシカゴ交響楽団がいかにスーパー軍団であったのかを認識させるのに十分なヴィルトゥオジティを最大限に発揮しており、各演奏を名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

それにしても、我が国におけるショルティの評価は不当に低いと言わざるを得ない。

現在では、楽劇「ニーベルングの指環」以外の録音は殆ど忘れられた存在になりつつある。

これには、我が国の音楽評論家、とりわけとある影響力の大きい某音楽評論家が自著においてショルティを、ヴェルディのレクイエムなどを除いて事あるごとに酷評していることに大きく起因していると思われるが、かかる酷評を鵜呑みにして、例えば本全集のような名演を一度も聴かないのはあまりにも勿体ない。

筆者としては、本全集を楽劇「ニーベルングの指環」に次ぐショルティの偉大な遺産であると考えており、英デッカによる極上の優秀録音であることに鑑みても、いまだ未聴のクラシック音楽ファンには是非とも一聴をお薦めしたい名全集と高く評価したい。

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2014年07月21日


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これは素晴らしい名演だ。

ショルティは、ライナーやオーマンディ、セルなどと言った綺羅星の如く輝くハンガリー系の累代の指揮者の系譜に連なる大指揮者であるだけに、こうした偉大なる先達と同様にバルトークの最晩年の傑作である管弦楽のための協奏曲を十八番としていた。

ショルティは、本盤の演奏の前にも、ロンドン交響楽団とともにスタジオ録音(1963年)しており、当該演奏は既にシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤として発売されるなど、圧倒的な名演と高く評価されているところだ。

本盤の演奏は、当該演奏から17年の時を経てスタジオ録音されたものであるが、再録音の成果が十二分にある素晴らしい名演と高く評価したい。

ショルティのアプローチは、これは管弦楽のための協奏曲だけでなく、併録の舞踏組曲についても言えるところであるが、強靭なリズム感とメリハリの明瞭さを全面に打ち出したものであり、その鋭角的な指揮ぶりからも明らかなように、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされていると言えるところだ。

こうしたショルティのアプローチは、様相の変化はあっても終生にわたって殆ど変わりがなく、それ故に演奏全体的な様相は1963年の旧録音にも共通しているが、1980年代に入ってショルティの指揮芸術にも円熟の境地とも言うべきある種の懐の深さ、奥行きの深さが付加されてきたところであり、1981年の本演奏にもそうした点が如実にあらわれている。

要は、ショルティを貶す識者が欠点と批判してきた力づくとも言うべき無機的な強引さが本演奏においては影を潜め、いかなる最強奏の箇所に至っても、懐の深さ、格調の高さを失っていないのが素晴らしい。

楽曲によっては、ショルティらしい力強さ、強靭な迫力が損なわれたとの問題点も生じかねないが(例えば、マーラーの交響曲第5番)、本盤に収められたバルトークによる両曲の場合は、そうした問題点はいささかも顕在化していない。

そして、本演奏においてさらに素晴らしいのはシカゴ交響楽団の超絶的な技量であろう。

ショルティの指揮にシカゴ交響楽団が一糸乱れぬアンサンブルを駆使してしっかりとついていっているところが見事であり、ショルティ統率下のシカゴ交響楽団がいかにスーパー軍団であったのかを認識させるのに十分なヴィルトゥオジティを最大限に発揮(特に終楽章)している。

かかるシカゴ交響楽団の好パフォーマンスが、本演奏を壮絶な名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

音質も英デッカによる極めて優秀なものであり、ルビジウム・クロック・カッティングによって更に鮮明さが増している。

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2014年07月17日


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歌劇「オテロ」は、ヴァルディの数あるオペラの中でも最もショルティの芸風に合ったものと言えるのではないだろうか。

というのも、ショルティの芸風は切れ味鋭いリズム感とメリハリの明朗さであり、緊迫感にはらんだ劇的な要素を持った歌劇「オテロ」の性格との相性抜群のものがあるのではないかと考えられるからだ。

また、本盤の演奏は1991年のライヴ録音。

ショルティも最晩年の1990年代に入ってからは、自らの指揮活動の集大成とも評すべき円熟味溢れる懐の深い演奏を行うようになってきたところであり、本演奏においても、前述のような持ち味の鋭角的かつ明晰な芸風に加えて、かような円熟味溢れる彫の深い表現を聴くことができるのが素晴らしい。

ショルティと同様に米国を拠点に活躍をした先輩格のハンガリー人指揮者、ライナーやセル、オーマンディなどとは異なり、オペラをレパートリーの中核としていたショルティではあるが、本演奏は、まさにオペラの演奏に自らの半生を捧げ、多大なる情熱を持って取り組んできたショルティの集大成とも言うべき至高の名演に仕上がっているとも言えるところだ。

それにしても、同オペラの演奏において、これほどまでにドラマティックで、重厚かつ強靭な迫力を有した演奏は、かのカラヤン&ウィーン・フィルほかによる超名演(1961年)に比肩し得るほどであると評し得るところであり、このような演奏を聴いていると、ショルティこそは、20世紀後半における最高のオペラ指揮者であったカラヤンに対抗し得る唯一の存在であったことがよく理解できるところだ。

そして、強靭な迫力と言っても、1970年代頃までに時として散見されたショルティの欠点でもあった、力づくの強引さは薬にしたくもなく、どこをとってもその音楽に奥行きのある懐の深さが感じられるのが素晴らしい。

各登場人物の細やかな心理の移ろいの描き方も万全であり、これぞまさしくオペラを知り尽くしたショルティならではの老獪ささえ感じさせる卓越した至芸と言えるだろう。

本オペラの演奏に際して、手兵のシカゴ交響楽団を起用したというのも功を奏しており、前述のような重厚にして強靭な迫力は、本演奏の当時スーパー軍団とも称されたシカゴ交響楽団の面目躍如たるものがある。

歌手陣も、ショルティが指揮するオペラならではの豪華な布陣であり、特に、ルチアーノ・パヴァロッティがオテロ役をつとめているというのが本演奏の最大の魅力であるとも言える。

また、デズデモーナ役のキリ・テ・カナワやイアーゴ役のレオ・ヌッチ、そしてカッシオ役のアントニー・ロルフ・ジョンソンなどの歌手陣、そして、シカゴ・シンフォニー・コーラスやメトロポリタン歌劇場少年合唱団も最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

音質も、英デッカによる見事な高音質録音であるのも素晴らしい。

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歌劇「ドン・ジョヴァンニ」は、モーツァルトのオペラという限定付きではあるが、その主要4大オペラの中でも最も劇的な要素を有した作品。

ショルティの芸風は切れ味鋭いリズム感とメリハリの明晰さを特徴としているが、主要オペラの中では最もショルティの芸風に適合した作品と言えるのではないだろうか。

同曲には、フルトヴェングラーなどによる名演なども存在しており、それと比較して、音楽の内容に深みがないなどと言った批判を行うことは容易ではあるが、本演奏のように、楽想を明晰に描き出していくというアプローチによって、他の指揮者による同オペラのいかなる演奏よりも、メリハリのある明瞭な演奏に仕上がっているという点については、公平な目で評価しなければならないのではないかと思われるところだ。

要は、モーツァルトのオペラの場合、音符の数が比較的少なくて様々な解釈を施したくなるものであるが、ショルティのように、特別な解釈を施すことなく、モーツァルトがスコアに記した音符の数々を、一点の曇りもなく明瞭に描き出すことのみに全力を傾注した演奏は、同オペラの演奏としては大変に珍しいとも言えるところだ。

それは、特に歌手陣への配慮によるところも大きいと言えるところであり、オペラを熟知したショルティの深謀遠慮と言った側面もあるのではないかと考えられるところである。

ショルティは、後年にも同じロンドン・フィルほかとともに同曲を再録音(1996年)するところであり、円熟味や奥行きの深さにおいては後年の演奏の方がはるかに上と言えるが、演奏の持つ明晰さという点においては、本演奏の方に軍配があがると言えるのではないだろうか。

もちろん、前述のような音楽の内容の深みへの追求度は著しく低い演奏であると言えることから、同オペラの演奏において、例えばフルトヴェングラーの演奏などのように、各登場人物の心理を徹底して抉り出すなどの彫りの深さを希求するクラシック音楽ファンには物足りなさを感じさせることは想定し得るところである。

しかしながら、モーツァルトの音楽そのものの美しさを味わうという点においては、十二分にその魅力を堪能することが可能な名演と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。

そして、本盤で素晴らしいのは、何と言っても歌手陣である。

さすがはオペラを熟知したショルティならではの考え抜かれた的確なキャスティングと言えるところでであり、ドン・ジョヴァンニ役のベルント・ヴァイクル、ドンナ・アンナ役のマーガレット・プライス、ツェルリーナ役のルチア・ポップ、騎士長役のクルト・モルなど、当代一流の豪華歌手陣が最高の歌唱を披露しているのが素晴らしい。

また、必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルも、ショルティの確かな統率の下、持ち得る実力を十二分に発揮した名演奏を展開している点も高く評価したい。

音質も、英デッカによる見事な高音質録音であり、1978年のスタジオ録音とは思えないような鮮度を誇っているのも素晴らしい。

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2014年07月15日


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1997年9月5日に亡くなったショルティ2度目の『ドン・ジョヴァンニ』。

死の前年のライヴ録音であるが、そんなことを感じさせない、速くて溌剌とした演奏である。

いくぶん、静かな伴奏部分に、繊細さが聴きとれるような気がする。

歌手陣の中では、題名役のブリン・ターフェルがとても素晴らしい。

アバドの『ファルスタッフ』でも主役を歌っていたが、なかなか難しい役をよくこなしている。

ほとんどのモーツァルトのバス役も歌っていたような気がするけれど、残念ながら、まだ筆者の印象は弱い。

エルヴィーラ役のアン・マーレイも、あまり馴染みはないが、先般のムーティ指揮の『フィガロの結婚』ではケルビーノを歌っていた。

歴代のエルヴィーラはかなりの名歌手が歌っているが、アン・マーレイもなかなか聴きやすい歌唱で、それなりにいいのだが、やはり他の名盤の演唱よりは少し弱い。

驚いたのは、意外にもドン・オッターヴィオで、ヘルベルト・リッペルトというテノール歌手は聞いた覚えがないが、こんなオッターヴィオは初めてである。

いつもはオッターヴィオを、ほとんど意識することはなく聴いているのだが、特にあの2つのアリアでこの歌に感動したことはほとんどなく、フルトヴェングラー、カラヤン、ベームの盤でもそう思う。

これまで特に素晴らしいと思ったのはクレンペラーの指揮のもので、これはクレンペラーの演奏が凄いのであって、おそらく歌手の問題ではない。

ショルティの指揮もかすかに繊細になっているような気もするが、今度は明らかに歌手を配慮したためだ。

『ドン・ジョヴァンニ』というオペラは、2幕構成で、CD3枚に収められる。

したがって2枚目には、1幕の終わりと2幕の始まりが入るという、居心地の悪い状態になっている。

『フィガロの結婚』『コジ・ファン・トゥッテ』も同じようなものだが、この盤では、CDの2枚目がツェルリーナのアリアで終わる。

その後の6重唱が3枚目の頭に入っているが、特に時間が押しているわけではない。

この第2幕始めの6重唱は、もともとモーツァルトは3幕構成で考えていたのではという説があるのかないのか、完全にフィナーレの音楽になっている。

通常CDは(あるいはLPでも)ここで2枚目が終わる。

終わるのにちょうど良い音楽で、ここで区切らなくてどこで区切るというのか、なぜなのか、少し気になるところだ。

さてショルティの指揮と全体の印象であるが、半分くらいはいつものショルティで、特にエルヴィーラとドンナ・アンナの情念あふれる場面での、感情の高まりが若干乏しい。

深刻な場面での、大見得を切るようなところがさっぱり盛り上がらない。

ところがドン・ジョヴァンニがツェルリーナを誘惑する2重唱の場面は、実にチャーミングに仕上がっている。

全体的に、サッパリとした速めの演奏なのだが、各幕の始めと終わりの切れが良く、トスカニーニの強靱な指揮を思わせる。

筆者が理想とするのは『ファルスタッフ』のトスカニーニなのだが、特に第1幕のフィナーレのたたみかけが速くて興奮させられる。

こんな印象は、他のどの指揮者からも受けたことはない。

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本盤に収められたヴェルディの歌劇「椿姫」は、ショルティの最晩年のコヴェント・ガーデン王立歌劇場での公演の歴史的なライヴ録音(1994年)である。

同オペラには、トスカニーニなどのイタリア系の指揮者以外の名演が殆ど遺されていない。

クライバー&バイエルン国立歌劇場管弦楽団ほかによる名演(1976〜1977年)が掲げられる程度であり、ヴェルディやプッチーニなどのイタリア・オペラを得意としていたカラヤンも、歌劇「椿姫」を苦手にしていた。

それだけに、カラヤンと並ぶ20世紀後半の偉大なオペラ指揮者であったショルティの双肩にかかる重責は極めて大きいものがあったと言えるところであり、本盤の演奏によって、ショルティはその重責を見事に果たした言えるだろう。

半世紀近くにもわたって様々なオペラを演奏・録音してきたショルティの事績の総決算とも言うべき至高の名演に仕上がっていると高く評価したい。

ショルティの指揮は、切れ味鋭いリズム感とメリハリの明朗さが信条と言えるが、1990年代に入って最晩年にもなると、その指揮芸術にも円熟味が加わり、懐の深さが演奏にもあらわれてくるようになった。

マーラーの交響曲の演奏においては、そうした円熟は、かつてのショルティの演奏にあった強烈無比な凄味を失わせることになり、一般的な意味においては名演ではあるものの、今一つの喰い足りなさを感じさせることになったが、その他の楽曲、とりわけオペラの演奏においては、円熟が見事にプラスに作用することになっていると言えるだろう。

ヴェルディのあらゆるオペラの中でも、最も美しい抒情的な旋律に満たされた同曲を、ショルティは明朗に描き出している。

かつてのショルティのように、力づくの強引さは皆無であり、音楽そのものの美しさをそのまま語らせるような演奏に徹している。

まさに、人生の辛酸を舐め尽くしてきた巨匠ならではの大人(たいじん)の至芸と言った趣きがあると言えるところであり、これぞ数々のオペラ演奏を成し遂げてきたショルティの老獪とも言える熟達の至芸が刻印されているとも言えるだろう。

歌手陣も、オペラを知り尽くしたショルティならではの絶妙なキャスティングであり、主役のヴィオレッタ・ヴァレリー役にルーマニアの新鋭アンジェラ・ゲオルギューを抜擢したのが何よりも大きい。

そして、アンジェラ・ゲオルギューも、ショルティの期待に応え、迫真の名唱を披露しているのが本名演の大きなアドバンテージの一つである。

また、アルフレード役のフランク・ロパード、ジェルモン役のレオ・ヌッチ、フローラ役のリー=マリアン・ジョーンズなどの豪華な歌手陣、そしてコヴェント・ガーデン王立歌劇場合唱団がショルティの熟達した統率の下、圧倒的な名唱を披露しているのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

音質も、英デッカによる見事な高音質録音であるのも素晴らしい。

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2014年07月14日


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本盤に収められたR.シュトラウスの楽劇「アラベラ」は、ショルティがウィーン・フィルとともにワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」の歴史的な初のスタジオ録音(1958〜1965年)を開始する直前の演奏である。

楽劇「ばらの騎士」や「サロメ」などと比較するとあまりにも録音の点数が少ない楽曲、そして、世界で最も掌握しづらいオーケストラであるウィーン・フィルを指揮して、このようなスタジオ録音を行ったという点に、若きショルティの並々ならない意欲とR.シュトラウスに対する深い愛着があらわれていると言えるところだ。

同曲は、R.シュトラウスの楽劇としては、「サロメ」や「エレクトラ」のような革新的、前衛的な要素はあまり存在しておらず、むしろ、「ばらの騎士」などの路線に立った後期ロマン派的な楽劇と言える。

ショルティの楽曲への基本的なアプローチは、切れ味鋭いリズム感とメリハリの明瞭さであるが、このようなアプローチは、「サロメ」や「エレクトラ」には適していたとしても、同曲にはあまり相応しいものとは言えないとも考えられる。

しかしながら、ショルティが「ばらの騎士」でも名演を成し遂げたのと同様に、同曲でも素晴らしい名演を成し遂げることに成功していると言えるだろう。

確かに、随所に聴かれるトゥッティにおいて、ショルティならでは迫力満点の強靭さも存在しているが、この当時のウィーン・フィルが有していた美しさの極みとも言うべき美音が演奏全体を支配し、ショルティのいささか鋭角的な指揮ぶりに適度の潤いと温もりを付加させるのに大きく貢献していると言えるのではないだろうか。

ショルティとウィーン・フィルの関係は、とても良好なものとは言い難かったが、本演奏においては、むしろ、ショルティの方がウィーン・フィルに歩み寄っているような印象も受けるところであり、その結果として、このような素晴らしい名演に仕上がったとも言えるところだ。

同曲には、ベーム盤以外に強力なライバルが存在していないのも本盤にとって大きな追い風になっているとも言えるところであり、本演奏は、同曲演奏の一つの規範として現在でもなお輝きを失うことのない素晴らしい名演と高く評価したい。

歌手陣も豪華であり、特に、リーザ・デラ・カーザのアラベラ役は当時最高の当たり役。ズデンカ役のヒルデ・ギューデンやマンドリーカ役のジョージ・ロンドン、そしてワルトナー伯爵役のオットー・エーデルマンなど、超一流の歌手陣が最高の歌唱を披露しているのも、本演奏を聴く最高の醍醐味である。

そして、今は無きゾフィエンザールの豊かな残響を活かした英デッカによる名録音も、今から50年以上も前とは思えないような極上の高音質を誇っていると言えるところであり、本盤の価値を高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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2014年06月30日


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シェーンベルクの歌劇「モーゼとアロン」については、既にブーレーズやケーゲルによる現代感覚溢れる切れ味鋭い名演が存在している。

ブーレーズの演奏(1974年)は、劇的で晦渋とも称される同曲を徹底したスコア・リーディングの下に解析するとともに、細部に至るまで彫琢の限りを尽くした精緻な演奏を行っていた。

これに対して、ケーゲルの演奏(1976年)は、スコアに記された音符の背後にあるものに徹底してメスを入れ、楽曲の心眼とも言うべき精神的な深みに鋭く切り込んでいくとともに、それらを現代人の持つ感覚を持って、一切の情感を排して冷徹に描き出すというとてつもない凄みを有していた。

これら両演奏に対して、本盤のショルティによる演奏は、十二音技法を徹底して駆使しているとされる同曲の複雑な曲想を、圧倒的な技量を有したスーパー軍団であるシカゴ交響楽団を巧みに統率して、精緻かつ完璧に描き出すことに成功した演奏ということが言えるのではないだろうか。

おそらくは、シェーンベルクが記した複雑な同曲のスコアを完璧に再現し得たという意味においては、オーケストラの技量を含めて考えると、ブーレーズの演奏以上の出来ではないかとも考えられるところだ。

もっとも、新ウィーン派の傑作オペラと評される歌劇「モーゼとアロン」の含蓄のある内容を徹底して突き詰めていく演奏を希求するクラシック音楽ファンにしてみれば、内容空虚で浅薄な演奏との誹りは十分に想定されるところであるが、少なくとも、傑作と評される割には録音の点数があまりにも少ない同曲の魅力、特に、必ずしも広く親しまれているとは言い難いシェーンベルクの十二音技法による楽曲の素晴らしさを、多くのクラシック音楽ファンに知らしめることに成功した演奏という意味においては、本盤の演奏も相応の評価が必要ではないかと考えられるところだ。

とりわけ、シカゴ交響楽団の合奏能力の凄さは、とても人間業とは思えないようなレベルに達しており、複雑で晦渋とも言われる同曲の曲想を明瞭に紐解くことに大きく貢献していることを忘れてはならない。

歌手陣も、ショルティが選び抜いたキャスティングだけに、なかなかの顔ぶれが揃っており、モーゼ役のフランツ・マツーラ、アロン役のフィリップ・ラングリッジの主役2人の歌唱には目覚ましいものがある。

また、祭司役のオーゲ・ハウグランドや少女役のバーバラ・ポニー、そしてシカゴ・シンフォニー・コーラスやグレン・エリン児童合唱団員なども最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

そして、特筆すべきは、英デッカによる極上の高音質録音であり、同曲のシェーンベルクの精緻なオーケストレーションを精緻かつ完璧に再現するというショルティのアプローチをCDを通して貫徹するのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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2014年06月28日


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鍵盤の師子王と呼ばれたバックハウスと若き日に強烈無比な演奏をしていたショルティというとんでもなく衝撃的な顔合わせのケルンでのライヴ録音の登場だ。

バックハウスが残した『皇帝』協奏曲には3種のセッション録音の他にもシューリヒトやクナッパーツブッシュとのライヴ録音があったが、これにまだ少壮であったショルティとの爽快な共演が加わった。

バックハウスが72歳(1884年3月生まれ)、1956年の『皇帝』は、まだ43歳で血気盛んなショルティ(同年ザルツブルク音楽祭にデビュー)との願ってもない顔合わせで、衰え知らずその一歩もゆずらぬやりとりからライヴの醍醐味ここに尽きるといった感で屈指の聴きもの。

ピアノ協奏曲はピアノのためにあるのだとつくづく感じさせる演奏でもあり、バックハウスの巨大な度量は計り知れない。

録音当時バックハウスは年齢的には老年期であったが、最晩年の枯淡の境地に至る前の最円熟期の演奏と言えるものであり、そのピアノの鳴りっぷりの良さは燦然たる素晴らしさだ。

ベートーヴェンを知悉し尽した境涯から生まれる即興性は、なるほどと唸らざるを得ない。

当時頭角をめきめきとあらわしつつあった生気のあるショルティの演奏もさわやかな白熱ぶりで楽しく、その指揮ぶりは、筆者の好む、アシュケナージ、シカゴ響との録音を思い出させる新鮮でエネルギッシュなもの。

バックハウスはこれから3年後に、S=イッセルシュテット&ウィーン・フィルとかの有名なデッカ録音を残すことになるのだが、この時期にかくも立派な演奏が繰り広げられていたとは!

魔性の魅惑を備えた演奏ではないが、王道を行く名演のひとつと言えるものであり、久しぶりに『皇帝』らしい『皇帝』を聴いた満足感に満たされた。

また、2度目のスタジオ盤全集中の録音と同じ年にあたる『ワルトシュタイン』ソナタのライヴでは揺るぎない打鍵が圧倒的に素晴らしく、堅牢な構築美と風格ある技巧で強い感銘を与える名演だ。

バックハウスによる不滅のベートーヴェン演奏が味わえる。

ショパンのエチュードはSP時代に決定的名盤を残したバックハウスの切り札なのだが、実演ではこれが唯一の記録だろう。

演奏は取り立てて評するところはないが、曲間で指慣らしの和音を挿入して、次の曲の調性へ誘うバックハウスならではの余興があるのが乙だ。

ショパンを除くすべて、WDRのオリジナル・マスターからの復刻でやはりこの年代としては驚異的な音質で蘇ったことも大きな収穫である。

これは筆者にとって貴重な1枚となった。

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2014年06月25日


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本盤には、ショルティが完成させた唯一のマーラーの交響曲全集を構成する交響曲第6番が収められている。

中期の交響曲として同様に分類される第5番をショルティは3度にわたって録音しているのに対して、第6番は本盤が唯一の録音であるが、これは、ショルティが本演奏に満足していたのか、それとも第5番ほどに愛着を持っていなかったのか、その理由は定かではない。

それはさておき、演奏は凄まじい。

これは、同じく1970年に録音された第5番や第7番と共通していると言えるが、まさに強烈無比と言っても過言ではないほどの壮絶な演奏と言えるのではないだろうか。

ショルティのマーラーの交響曲演奏に際しての基本的アプローチは、強靭なリズム感とメリハリの明瞭さを全面に打ち出したものであり、その鋭角的な指揮ぶりからも明らかなように、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされていると言えるところだ。

こうしたショルティのアプローチは、様相の変化はあっても終生にわたって殆ど変わりがなかったが、かかるショルティの芸風が最も如実にあらわれた演奏こそは、本盤に収められた第6番を含む1970年に録音された第5番〜第7番のマーラーの中期の交響曲の演奏であると考えられる。

それにしても、第5番のレビューにおいても記したところであるが、筆者はこれほど強烈無比な演奏を聴いたことがない。

耳を劈くような強烈な音響が終始炸裂しており、血も涙もない音楽が連続している。

まさに、音の暴力と言ってもいい無慈悲な演奏であるが、聴き終えた後の不思議な充足感は、同曲の超名演であるバーンスタイン&ウィーン・フィル盤(1988年)やテンシュテット&ロンドン・フィル盤(1991年ライヴ盤)にいささかも引けを取っていない。

あまりにも強烈無比な演奏であるため、本演奏は、ショルティを好きになるか嫌いになるかの試金石になる演奏とも言えるのかもしれない。

加えて、本演奏の素晴らしさはシカゴ交響楽団の超絶的な技量であろう。

いかにショルティが凄いと言っても、その強烈無比な指揮にシカゴ交響楽団が一糸乱れぬアンサンブルを駆使してついていっているところが見事であり、ショルティ統率下のシカゴ交響楽団がいかにスーパー軍団であったのかを認識させるのに十分なヴィルトゥオジティを最大限に発揮している。

かかるシカゴ交響楽団の好パフォーマンスが、本演奏を壮絶な名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

音質も英デッカによる1970年の録音当時としては極めて優秀なものである。

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2014年06月16日


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ショルティは、先輩格のハンガリー人指揮者で同様に米国を舞台に指揮活動を行ったライナーやオーマンディ、セルなどと異なり、オペラの分野において極めて幅の広いレパートリーを有していたことで知られている。

とある影響力の大きい某音楽評論家の酷評によって、その実力の割には不当に貶められているショルティであるが、同時代に活躍した史上最高のレコーディング・アーティストであるカラヤンにも比肩し得るほどの数多くのオペラ演奏・録音を行った功績は、もっと広く知られてもいいのではないかとも考えられるところだ。

ショルティは、その芸風との相性があまり良くなかったということもあって、モーツァルトの交響曲については、わずかしか演奏・録音を行っていないが、オペラについては、主要4大オペラのすべてをスタジオ録音するなど、確固たる実績を遺している。

本盤に収められた歌劇「フィガロの結婚」の演奏は、そうした一連のモーツァルトの主要オペラの録音の頂点に立つものと言えるだろう。

ショルティの芸風は、切れ味鋭いリズム感とメリハリの明晰さであるが、オペラ、とりわけモーツァルトのオペラを演奏する際には、そうした芸風を全面に打ち出すことをやや抑制しているような印象を受ける。

それは、特に歌手陣への配慮によるところも大きいと言えるところであり、オペラを熟知したショルティの深謀遠慮と言った側面もあるのではないかと考えられるところだ。

加えて、1980年代に入ると、前述のような芸風に円熟味や奥行きの深さが加わってきたとも言えるところであり、その意味においては、本盤の演奏は、ショルティによるモーツァルトのオペラ演奏の一つの到達点とも言うべき名演と言えるのかもしれない。

もちろん、本演奏においても、楽想を明晰に描き出していくというショルティならではのアプローチは健在であり、他の指揮者による同曲のいかなる演奏よりも、メリハリのある明瞭な演奏に仕上がっていると言えることは言うまでもないところだ。

そして、本盤で素晴らしいのは、何と言っても歌手陣である。

さすがはオペラを熟知したショルティならではの考え抜かれた的確なキャスティングと言えるところでであり、伯爵夫人役のキリ・テ・カナワ、スザンヌ役のルチア・ホップ、ケルビーノ役のフレデリカ・フォン・シュターデ、フィガロ役のサミュエル・レイミー、伯爵役のトーマス・アレン、バルトロ役のクルト・モルなど、当代一流の豪華歌手陣が最高の歌唱を披露しているのが素晴らしい。

また、必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルも、ショルティの確かな統率の下、持ち得る実力を十二分に発揮した名演奏を展開している点も高く評価したい。

音質も、英デッカによる見事な高音質録音であり、1981年のスタジオ録音とは思えないような鮮度を誇っているのも素晴らしい。

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2014年06月07日


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ショルティは、とある影響力の大きい音楽評論家の罵詈雑言も多分にあると思うが、実力の割に過小評価されている指揮者である。

同じく罵詈雑言を浴びせながらも、フルトヴェングラーと並ぶ大指揮者として評価の高いカラヤンに匹敵するほどの膨大なレコーディングを遺しながら、一部の熱心なクラシック音楽ファンを除いて現在では殆ど忘れられつつある存在と言えるだろう。

ショルティは、もちろん交響曲や管弦楽曲などの分野において名演を遺しているのであるが、カラヤンと同様に、そのレパートリーの中心にはオペラが存在したと言える。

特に、ショルティの名声を決定的にしたのは、ウィーン・フィルとのワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」の初のスタジオ録音(1958〜1965年)であったと言うのは論を待たないところだ。

そして、本盤に収められたR・シュトラウスの楽劇「ばらの騎士」は、前述の歴史的なスタジオ録音を終了させた後に行われたものである。

ショルティとウィーン・フィルの相性は必ずしも芳しいものではなく、ウィーン・フィルの主要な楽団員をして、ショルティとは契約に定められた演奏(録音)以外は好んでともに演奏することはないなどと言わしめたほどである。

しかしながら、実際に録音がなされた演奏の出来が悪いかと言うと、必ずしもそうではない。

前述の楽劇「ニーベルングの指環」にしても、現在でも同曲最高峰の名演としての地位を譲っていないところであり、お互いに反発し合うところはあっても、真のプロフェッショナルとして名演奏を成し遂げようという不断の努力を行なってきたということであろう。

本盤の楽劇「ばらの騎士」も、そうしたショルティとウィーン・フィルによる真のプロフェッショナルとしての偉大な名演奏が刻み込まれていると言えるのではないだろうか。

同曲の名演としては、カラヤンの新旧両盤(フィルハーモニア管弦楽団との1956年盤、ウィーン・フィルとの1982〜1984年盤)が2大名演とされており、それにカルロス・クライバー&バイエルン国立歌劇場管弦楽団ほかによるライヴ録音(1973年)が追う展開となっている。

ウィーン・フィルを起用した名演としてはエーリヒ・クライバーによる録音も存在しているが、本盤のショルティ盤もタイプは異なるが、前述の各名演に次ぐ存在と言えるのではないかと考えられるところだ。

本演奏におけるショルティの指揮には、カラヤンの旧盤やカルロス・クライバーによる演奏が有していた躍動感や、カラヤンの新盤のような老獪な味わい深さは存在していないが、ショルティの特徴とも言える強靭とも言えるリズム感とメリハリのはっきりとした明朗さが、R・シュトラウスが施した華麗なオーケストレーションを細部に至るまで明晰に紐解くのに成功し、スコアに記された音符の数々を忠実に音化したという意味での完成度の高さは天下一品。

まさに、同曲の音楽の素晴らしさをダイレクトに聴き手に伝えることに成功している点を評価したい。

そして、ショルティのややシャープに過ぎるアプローチに適度の潤いと温もりを付加させているのが、ウィーン・フィルの極上の美演であると言えるところであり、その意味ではショルティとウィーン・フィルが表面上の対立を乗り越えて、お互いの相乗効果を発揮させたことが、本名演に繋がったと言えなくもないところだ。

そして、本演奏の場合は歌手陣も素晴らしい。

何と言っても、元帥夫人をレジーヌ・クレスパンが歌っているのが最大のポイント。

元帥夫人役としては、カラヤンの旧盤においておなじみのエリザベート・シュヴァルツコップのイメージが強い役柄ではあるが、巧さはともかくとして味わい深さにおいては、クレスパンはいささかも引けを取っていない。

オックス男爵役のマンフレート・ユングヴィルトやオクタヴィアン役のイヴォンヌ・ミントン、ゾフィー役のヘレン・ドナートなども素晴らしい歌唱を披露していると高く評価したい。

英デッカによる今は無きゾフィエンザールによる名録音も、本盤の価値を高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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2014年05月27日


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ビゼーの最高傑作でもある歌劇「カルメン」は、舞台となったスペインのエキゾチックとも言うべき名旋律に溢れた作品であるだけに、そうしたスペイン風の雰囲気を十分生かした演奏が多い。

そして、そのようなスタイルの演奏こそが、歌劇「カルメン」を演奏する際のアプローチの王道ともなっているが、ショルティによる本盤の演奏は、それとは一線を画するタイプのものと言えるだろう。

ショルティは、もちろん、同曲の随所に散りばめられたスペイン風の情緒溢れる旋律の数々を情感豊かに歌わせることを全く行っていないわけではない。

ただ、そうした旋律を歌わせることよりもむしろ、同オペラを一つの壮大な交響曲と見做して、絶対音楽として描き出しているような趣きがあると言えるだろう。

ショルティの演奏の特徴でもある切れ味鋭いリズム感と明瞭なメリハリは、本演奏においても最大限に発揮されていると言えるところであり、後世の様々な作曲家にオーケストレーションを激賞されたとされるビゼーがスコアに記した音符の数々、そして旋律の数々を、他のどの演奏よりも明晰に描き出すのに成功している。

したがって、前述のように、スペイン風の情緒溢れる旋律の数々の歌わせ方が若干犠牲になっているという側面も否定できないところであり、このあたりが、本演奏に対するクラシック音楽ファンの好悪を分ける最大の分岐点であるとも思われるところだ。

なお、当ライヴ録音ではロイヤルオペラのオケを指揮しているだけあって、1970年代のショルティの演奏において時として聴かれ、そして欠点ともされている力づくの強引さが薄められているとも言えるが、それでも前述のようなリズムの鋭さやメリハリの明晰さは健在である。

このように、クラシック音楽ファンにとっては、好悪が大きく分かれる演奏とは思われるが、筆者としては、あまりにも有名過ぎて手垢にまみれているとも言える歌劇「カルメン」の演奏に対して、ある種の清新さを付加したという意味において、十分に存在意義のある名演と評価したい。

歌手陣も、ショルティならではの考え抜かれたキャスティングであり、何と言ってもカルメン役のシャーリー・ヴァーレットの迫真の絶唱が圧倒的な存在感を示している。

また、ドン・ホセ役のプラシド・ドミンゴ、エスカミーリョ役のヨセ・ヴァン・ダム、そして、ミカエラ役のキリ・テ・カナワなど、録音当時全盛期を迎えた超一流の歌手陣が一同に会するというこれ以上は求め得ないような超豪華な布陣であり、それらの布陣が最高のパフォーマンスを発揮しているというのは、本演奏の価値を高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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2014年05月01日


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1991年にシカゴ交響楽団のポストを勇退したショルティが、翌1992年にザルツブルクの聖霊降臨祭コンサートで再びシカゴ交響楽団と行った演奏会の貴重なライヴ録音盤。

ショルティは稀代のオーケストラトレーナーとして、もともと有数の実力を持っていたシカゴ交響楽団を更に超一流の存在に引き上げたが、そうしたショルティだけに、管弦楽の大家と称されたベルリオーズ、中でもその最高傑作とされる幻想交響曲を得意としていたことは十分に理解できるところだ。

ショルティによる同曲の代表盤と言えば、シカゴ交響楽団の音楽監督に就任して間もないころにスタジオ録音を行った演奏(1972年)が念頭に浮かぶ。

強靭なリズム感とメリハリの明瞭さを全面に打ち出したショルティの基本的なアプローチが、同曲の性格に見事に符号しており、シカゴ交響楽団の桁外れの技量も相俟って、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされた圧倒的な名演に仕上がっていたと言えるところだ。

したがって、ショルティとしても会心の出来と考えたのではないかと思われるが、シカゴ交響楽団の音楽監督在任中は、同曲を再録音することはなかった。

そのようなショルティであったが、シカゴ交響楽団の音楽監督退任の翌年(1992年)、ザルツブルク聖霊降臨祭コンサートにおいて、満を持して20年ぶりに再録音を行ったのが本盤収められた演奏である。

本演奏を聴くと明らかであるが、確かにショルティの特色であった強靭なリズム感とメリハリの明瞭さ、そして鉄壁のアンサンブルといった点においては、旧演奏に一歩譲っているというのは否めないところだ。

しかしながら、本演奏においては、晩年を迎えて指揮芸術により一層の懐の深さ、奥行きの深さを増したショルティならではの円熟の至芸を堪能することが可能であり、いわゆる演奏の彫りの深さといった点においては旧演奏よりも上位に掲げられるのではないだろうか。

ショルティ指揮のシカゴ交響楽団は、旧演奏ほどの凄みは感じさせないが、超絶的な技量をベースとして一糸乱れぬアンサンブルを披露しているのが見事であり、ショルティ統率下のシカゴ交響楽団がいかにスーパー軍団であったのかを認識させるのに十分なヴィルトゥオジティを最大限に発揮している。

かかるシカゴ交響楽団の好パフォーマンスが、本演奏を名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

併録のリストの交響詩「前奏曲」は、ロンドン・フィルとの旧録音(1977年)に比して、オーケストラの力量も含めて数段優れた演奏に仕上がっていると言えるところであり、それどころか、フルトヴェングラー&ウィーン・フィルによる演奏(1954年)、カラヤン&ベルリン・フィルによる演奏(1967年)に次ぐ素晴らしい名演と高く評価したい。

音質も英デッカによる極めて優秀なものであり、ルビジウム・クロック・カッティングによって更に鮮明さが増したと言える。

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1964年8月16日、ザルツブルク祝祭大劇場に於けるライヴ(モノラル)録音。

1964年当時のショルティはまだシカゴ響の音楽監督就任前で、ロンドン響やパリ管などを振っていた時期。

若きショルティの溌剌とした指揮振りはまさにマーラーにはピッタリだと思う。

若かりしショルティ、となればさぞかしウィーン・フィルをゴリゴリいわせていたんだろうなぁと容易に想像がつくが、このCDも例外ではない。

気力体力充実し、パワーがみなぎっていた全盛期ショルティがウィーン・フィルをつかまえて、得意のマーラーをもの凄いボルテージで聴かせる。

打楽器の衝撃、金管楽器の異常な咆哮など、モノラルながら凄い激烈な迫力。

終楽章などショルティとウィーン・フィルが一体化して、ほとんど狂気の沙汰としか言いようのない爆発熱狂ぶりで、なにもここまでと唖然とするばかり。

異様なまでのテンションでばく進していくウィーン・フィルが必死になって大音量を炸裂させている様は理屈ぬきで楽しめる。

ウィーン・フィルの「巨人」と言えばクーベリックとマゼール、あとクレツキとこのザルツブルグでのショルティのライヴがあるくらいで意外と少ない。

ここではウィーン・フィルは後期ロマン派を演奏する彼らのいつもの蒸せるような香水の薫りとフェロモンを撒き散らすデカダンスの世界ではなく、ショルティの薫陶で見事なプロレスラーに変身し、鎧をまとった力持ちに変貌している。

聴いていて、そもそもどうしてショルティはマーラーが得意だったんだろうとも感じるが、得意のせかせか節を含め自信満々の演奏に青臭いさすらう若人のデリカシーは求めようもないが、非常な熱演と評価したい。

そういったショルティの演奏に賛否が分かれるのは仕方が無い。

でも、何も主張しない指揮者に比べればこれだけ強烈な個性を惜しげもなくさらけ出して、突きつけてくることができるのが、ショルティという指揮者のすばらしいところだ。

得意のバルトークも、相手が同郷のアニー・フィッシャー女史だけに、単に美しいだけではなく、アクセントが強くホットなアプローチが大変な聴きものである。

録音は、ちょっと音が遠いのが惜しまれるが、ウィーン・フィルの豊潤な響きを感じ取ることができる。

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2014年04月30日


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膨大なレコーディングとレパートリーを誇ったショルティであるが、マーラーの交響曲については特に早くから取り組んでおり、1960年代というマーラーが知る人ぞ知る存在であった時代にも、ロンドン交響楽団と第1番、第2番、第3番、第9番、そしてコンセルトへボウ管弦楽団とともに第4番のスタジオ録音を行っている。

また、第1番についてはウィーン・フィルとのライヴ録音(1964年)が遺されており、既に1960年代にはマーラーの交響曲はショルティのレパートリーの一角を占めていたのではないかと考えられる。

本盤に収められた1970年のスタジオ録音であるマーラーの交響曲第5番は、シカゴ交響楽団との初のマーラーの交響曲の録音。

ショルティは、本演奏を皮切りとして、シカゴ交響楽団とマーラーの交響曲をスタジオ録音することになり、それらをまとめて交響曲全集を完成させることになった。

その意味においては、本盤の演奏は、ショルティにとっても記念碑的な演奏として位置づけられるものと考えられる。

ショルティのマーラーの交響曲演奏に際しての基本的アプローチは、前述のように、強靭なリズム感とメリハリの明瞭さを全面に打ち出したものであり、その鋭角的な指揮ぶりからも明らかなように、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされていると言えるところだ。

こうしたショルティのアプローチは後年の演奏においても殆ど変わりがなかったが、そうしたショルティの芸風が最も如実にあらわれた演奏こそは、本盤の第5番の演奏であると考えられる。

それにしても、筆者は、これほど強烈無比な演奏を聴いたことがない(特に終楽章が凄まじい)。

耳を劈くような強烈な音響が終始炸裂しており、血も涙もない音楽が連続している。

まさに、音の暴力と言ってもいい無慈悲な演奏であるが、聴き終えた後の不思議な充足感は、同曲の超名演との呼び声が高く、本演奏とは正反対の血も涙もあるバーンスタイン&ウィーン・フィル盤(1987年)やテンシュテット&ロンドン・フィル盤(1988年)にいささかも引けを取っていない。

あまりにも強烈無比な演奏であるため、本演奏は、ショルティを好きになるか嫌いになるかの試金石になる演奏とも言えるのかもしれない。

加えて、本演奏の素晴らしさはシカゴ交響楽団の超絶的な技量であろう。

いかにショルティが凄いと言っても、その強烈無比な指揮にシカゴ交響楽団が一糸乱れぬアンサンブルを駆使してついていっているところが見事であり、ショルティ統率下のシカゴ交響楽団がいかにスーパー軍団であったのかを認識させるのに十分なヴィルトゥオジティを最大限に発揮している。

かかるシカゴ交響楽団の好パフォーマンスが、本演奏を名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

なお、ショルティは、同曲をシカゴ交響楽団とともに1990年にライヴ録音するとともに、最晩年の1997年にもトーン・チューリヒハレ管弦楽団とともに録音しており、それらも通常の意味における名演とは言えるが、とても本演奏のような魅力はないと言える。

それにしても、ショルティのマーラーの交響曲演奏の代表盤とも言うべき本演奏を今般シングルレイヤーによるSACD化したユニバーサルに対しては深く感謝の意を表したい。

今般の高音質化によって、ショルティの本演奏へのアプローチがより鮮明に再現されることになったのは極めて意義が大きいと言えるところであり、とりわけ終楽章の二重フーガの各楽器セクションが明瞭に分離して聴こえるのは殆ど驚異的とも言えるところだ。

いずれにしても、ショルティ&シカゴ交響楽団による圧倒的な超名演を、現在望みうる最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2014年04月16日


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本盤の演奏は、ウィーン・フィルとのワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」のスタジオ録音(1958〜1965年)、ロンドン交響楽団とのバルトークの管弦楽のための協奏曲のスタジオ録音(1965年)と並んで、ショルティの初期の録音の中でのベスト3を形成する素晴らしい名演と高く評価したい。

ショルティは、本演奏を皮切りとして、マーラーのすべての交響曲(第10番を除く)の録音を開始することになったが、本演奏の価値はそれでもなお色褪せることなく、現在でもショルティの代表盤の地位を失っているとは言えないのではないかとも考えられるところだ。

ショルティ自身も、本演奏の出来には相当に満足していたようで、後年、1970年の交響曲第5番の録音をはじめとして、シカゴ交響楽団とのマーラーの交響曲全集の録音を開始したが、その際、第4番を再録音するかどうかについて相当に逡巡したとのことであった。

結局、1983年に再録音を行うことになり、当該演奏も一般的な意味における名演ではあるが、とても本演奏のような魅力は存在していないのではないかと考えられるところだ。

いずれにしても、ショルティとしても突然変異的な名演と言えるほどで、ショルティの指揮芸術の特徴でもある切れ味鋭いリズム感や明瞭なメリハリが、本演奏においてはあまり全面には出ていないとも言えるところだ。

マーラーの交響曲の中でも、最も楽器編成が小さく、メルヘン的な要素を有する第4番は、かかるショルティの芸風とは水と油のような関係であったとも言えるが、本演奏では、そうしたショルティらしさが影をひそめ、楽曲の美しさ、魅力だけが我々聴き手に伝わってくるという、いい意味での音楽そのものを語らせる演奏に仕上がっていると言えるだろう。

ショルティも、多分に楽曲の性格を十二分に踏まえた演奏を心がけているのではないかとも考えられるところであり、逆に言えば、若き日のショルティにもこのような演奏を行うことが可能であったということだ。

これはショルティの指揮芸術の懐の深さをあらわすものであり、とある影響力の大きい音楽評論家などを筆頭にいまだ根強いショルティ=無機的で浅薄な演奏をする指揮者という偏向的な見解に一石を投ずる演奏と言えるのではないだろうか。

また、コンセルトへボウ管弦楽団の北ヨーロッパならではの幾分くすんだ響きが、本演奏に適度の潤いと温もりを付加させていることを忘れてはならない。

終楽章のソプラノのシルヴィア・スタールマンによる独唱も美しさの極みであり、最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

音質は、1961年のスタジオ録音であるが、英デッカによる超優秀録音であること、そして、今般、ルビジウム・クロック・カッティングがなされたことにより、十分に満足できるものとなっている点についても付記しておきたい。

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2014年04月05日


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20世紀を代表する巨匠指揮者ゲオルグ・ショルティの生誕100周年(2012年時)記念盤。

全編に厭世的な気分が流れ諦観や死の予感も漂うために「告別の歌」とも称される、マーラーが完成した最後の交響曲である第9番を収録。

当盤はショルティ第1回目(1967年)のロンドン交響楽団との演奏を録音したディスク。

空前絶後の激しいマーラー「第9」で、ショルティの最高の遺産の一つではないだろうか。

マーラーは基本的に非西欧的要素が無視できない、東欧の音楽ではないかとも思うのだが、ショルティにとってはバルトークと同じく血が近いのであろうか。

決して情感や思い入れを強調する型の演奏ではないけれど、マーラー独特のリズム、フレーズ、突発的な場面転換など、演奏者が真にマーラーに共感できてなければできない、きめ細かな表現で細部が埋められている。

マーラーを特に好きでもない指揮者の演奏では、第4楽章へのただの橋渡しにしか聴こえない中間楽章が、ここまで素晴らしい音楽になっているのは、ショルティのマーラーへの共感の証明であろう。

第4楽章も気品に溢れた素晴らしい音楽で、ショルティの世代のマーラー「第9」としては最上の演奏だと思う。

この時代(1960年代)にここまでマーラーのスコアに斬り込めたのはショルティだけだろう。

以前から思っていたが、ショルティは全て旧録音の方が面白く、マーラー然り、オケコン然りである。

ショルティはやはりオーケストラビルダーの第一人者であり、彼の振るオケはいずれも巧く、このロンドン交響楽団も実に巧い。

多数のマーラー「第9」のディスクが存在する現在ではコレクター向けかもしれないが、時代を考えると凄いものがある。

同じく名盤でほぼ同じ時期の録音のバルビローリ盤(EMI)と一緒に聴き比べてみると、いっそう面白いのではないだろうか。

音質は、1967年のスタジオ録音であるが、英デッカによる超優秀録音であること、そして、今般、ルビジウム・クロック・カッティングがなされたことにより、十分に満足できるものとなっている点についても付記しておきたい。

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20世紀を代表する巨匠指揮者ゲオルグ・ショルティの生誕100周年(2012年時)記念盤。

マーラーの交響曲第3番は自然をテーマにした交響曲で、全体を通じてまだ生命のない時代から動植物や人間の誕生を経て、天上の世界に至る発展の過程を段階的に表現している。

作曲当時、毎年夏に静養に訪れていたシュタインバッハの自然が霊感を与えたと言われている。

当盤はショルティ第1回目(1968年)のロンドン交響楽団との演奏を録音したディスク。

ショルティはロンドン交響楽団から鮮やかに冴え渡った響きを導き出して、流動性に富んだ劇的な表現でこの大作を巧みに再現している。

いかにもショルティらしい精緻な表現で、きちっとまとめあげているが、そのなかにも、楽曲のこまやかなニュアンスを巧みに表出している。

ショルティは後年シカゴ交響楽団とも収録しているが、やはり若き日(1960年代)のデッカでの録音がある意味面白く聴けるものだ。

このマーラー交響曲第3番はロンドン響を幾分か強引に鳴らせているが、メリハリを効かせた中に歌わせるところは歌わせ、ロンドン響もよく彼の意図についていっている。

元々ロンドン響は比較的融通性のあるオーケストラで、その辺りの能力は優れたものがあるが、ショルテイの狙ったアゴーギグもきっちり再現して一応の効果を上げてはいるようである。

テンポはやや速いと感じたがトータルでは標準時間で収まっている。

ヘレン・ワッツのアルト独唱をはじめ、声楽陣も万全の歌唱を聴かせている。

ロンドン響との「第1」「第2」「第3」「第9」、コンセルトヘボウ管との「第4」の録音がいずれも完成度が高かったためか、かつてショルティがシカゴ響と全集を再録音する話の時「ショルティが断った」という記事が思い出される。

音質は、1968年のスタジオ録音であるが、英デッカによる超優秀録音であること、そして、今般、ルビジウム・クロック・カッティングがなされたことにより、十分に満足できるものとなっている点についても付記しておきたい。

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2014年03月29日


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ショルティは偉大なマーラー指揮者の一人であると考えているが、ショルティが録音したマーラーの交響曲の中で、4種類もの録音が遺されているのは、現時点では第1番しか存在していない。

これに次ぎ、3種類の録音が遺された第5番は、ラスト・レコーディングも同曲であったこともあり、ショルティにとって特別な曲であったことが理解できるが、第1番に対しても、ショルティは第5番に比肩するような愛着を有していたのでないかと考えられるところだ。

4種類の録音のうち、ケルン放送響とのモノラル録音(1957年)が最初で、本盤がそれに次ぐスタジオ録音(1964年)、そして同年のウィーン・フィルとのライヴ録音(オルフェオレーベル)、そしてシカゴ交響楽団とのスタジオ録音(1983年)がこれに続くことになる。

いずれ劣らぬ名演と思うが、シカゴ交響楽団との演奏は、1964年の2種の演奏とはかなり性格が異なっている。

ショルティの各楽曲に対するアプローチは、マーラーの交響曲だけにとどまらずすべての楽曲に共通しているが、切れ味鋭いリズム感とメリハリのある明瞭さであり、それによってスコアに記されたすべての音符を完璧に音化していくということが根底にあった。

かかるアプローチは終生変わることがなかったとも言えるが、1980年代以降になると、演奏に円熟の成せる業とも言うべき奥行きの深さ、懐の深さが付加され、大指揮者に相応しい風格が漂うことになったところだ。

したがって、1983年の演奏は、本演奏とはかなり様相が異なり、鋭角的な指揮振りは健在であるとは言うものの、聴き手を包み込んでいくような包容力、そして懐の深さのようなものが存在し、聴き手にあまり抵抗感を与えないような演奏に仕上がっていた。

シカゴ交響楽団の光彩陸離たる華麗な演奏ぶりが際立っていることから、このような演奏を内容空虚と批判する音楽評論家も多いようであるが、聴き終えた後の充足感が、例えばワルター&コロンビア交響楽団盤(1961年)やバーンスタイン&コンセルトへボウ管弦楽団盤(1987年)などの名演に必ずしも引けを取っているわけでもない。

これに対して、本演奏は第1楽章冒頭から終楽章の終結部に至るまで、ショルティの個性が全開。

アクセントは鋭く、ブラスセクションは無機的とも言えるほど徹底して鳴らし切るなど、楽想の描き方の明晰さ、切れ味の鋭いシャープさは圧巻の凄味を誇っている。

ショルティは、同年にウィーン・フィルとライヴ録音を行っており、演奏の性格は同様であるとも言えるが、オーケストラの安定性(ウィーン・フィルは、この当時、ショルティにかなりの嫌悪感を抱いていたと言われる)、オルフェオレーベルの今一つ低音が響いてこないもどかしさもあって、本演奏の方をより上位に置きたい。

いずれにしても、1983年の演奏に比して、あくまでも直球勝負の本演奏に抵抗感を覚える人も多いのではないかとも思われるが、筆者としては、マーラーの交響曲の演奏様式の一つとして十分存在意義のあるものと考えており、好き嫌いは別として、ショルティの個性が全開した名演と評価したい。

ロンドン交響楽団も、ショルティのメリハリのある指揮にしっかりと付いていき、持ち得る実力を発揮した見事な演奏を行っていると評価したい。

音質は、1964年のスタジオ録音であるが、英デッカによる超優秀録音であること、そして、今般、ルビジウム・クロック・カッティングがなされたことにより、十分に満足できるものとなっている点についても付記しておきたい。

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