チェリビダッケ

2016年12月23日


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決して経験がない訳ではないにも関わらず、オペラ・ハウスとは疎遠だった巨匠チェリビダッケであるが、コンサートではしばしばオペラの序曲などを好んで指揮していた。

今回のアルバムは、圧倒的な声量を誇ったビルギット・ニルソンとまさにがっぷり四つの名演集で、ワーグナー作品についてはかつてGALAという海賊盤レーベルから出ていたが、劣悪なモノラル音源で当盤とは比較にならない。

ビルギット・ニルソンはノルウェーの伝説的ワーグナー・ソプラノ、キルステン・フラグスタートの後継者たる強靭な声を持ったスウェーデン出身のソプラノだったが、決して野太い大音声の歌手ではなく、むしろ焦点の定まった輪郭の明瞭な声質を完璧にコントロールした怜悧な歌唱でスケールの大きな舞台を創り上げた。

ニルソンの歌唱芸術はスタイリッシュだが恣意的ではなかったために劇場作品のみならず歌曲や宗教曲に至る広いレパートリーを可能にしたと言えるだろう。

当然彼女のオペラ全曲盤やアリア集は多いが、指揮者がチェリビダッケというのは異例中の異例で、しかも非常に高い演奏水準で彼らの超個性的な協演を堪能することができる演奏集である。

特徴的な精緻を極めた弱音、繊細でいながら大きなうねりも生み出す巧みなオーケストラ・ドライヴ、熱い血を持つチェリビダッケが展開する官能美に余裕たっぷりのニルソンの堂々たる歌唱には深い感動とともに痺れる他ない。

特に『ヴェーゼンドンクの歌』では、曲の性格ゆえ『トリスタン』以上に室内楽的な、細やかな響きへの配慮が窺え、見通しがよい響きは、どこかラヴェルのようでもある。

とりわけ「夢」が絶品で、夜の暗闇の中で若いふたりが抱き合う『トリスタン』第2幕を先取りした音楽だが、彼の棒によってまさに夜の空気が震えるような、色がにじむような繊細な音楽が生み出されたことが、この録音からはよくわかる。

チェリビダッケの要求が曲想の官能性よりも神秘的なサウンドの表出に向けられているのが興味深い。

この翌年の再共演が、イタリア・オペラのアリア3曲で、チェリビダッケの音楽づくりはいつもの通り、ヴェルディも熟練の管弦楽作家として描き尽くしているが、ニルソンの顔を潰すような場面はなく、まさに、龍虎相打つと言ったお互いの尊敬が音楽に込められている。

トラック1−8まではストックホルムに於ける2回のライヴから収録された良好なステレオ録音で、演奏終了後に拍手が入っているが客席からの雑音は無視できる程度のごく僅かなもので、音響はややデッドだがそれだけに声楽には適したすっきりとした音像が得られている。

尚トラック9及び10には『トリスタンとイゾルデ』からのリハーサル風景がモノラル録音で入っている。

通常リハーサルに於いて歌手は声量を抑えたソットヴォーチェで歌うことが許されているが、ここでのニルソンはオーケストラのやり直しの部分でも、繰り返しフルヴォイスで応じてワーグナー・ソプラノの貫禄を示して団員からの拍手喝采を受けている。

チェリビダッケはオペラ畑でキャリアを積んだ指揮者ではなく、オペラ全曲録音はセッション、ライヴ共に全く見当たらないが、かと言って彼が劇場作品への能力を欠いていたわけではないと思われる。

彼が大規模な劇場作品に手を染めなかった理由はライナー・ノーツで許光俊氏も指摘しているように、あらゆる妥協の産物に他ならないオペラ上演は、彼にとって受け入れ難い苦痛だったに違いない。

広範囲のジャンルからのスタッフで成り立つオペラ上演では、時として指揮者は彼ら同士の意見の対立を宥め賺して八方丸く治める手腕が求められる。

相手の欠点に容赦なく斬り込んだり、明け透けに毒舌で中傷するようなことがあれば指揮者の降板か、最悪の場合公演はキャンセルに追い込まれてしまうだろう。

チェリビダッケの隠されたオペラへの情熱と指揮法をこのアルバムで垣間見ることができるのは幸いだ。

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2015年08月30日


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本BOXには、チェリビダッケが得意としたフランス音楽とロシア音楽の数々が収められている。

それにしても、何という圧倒的な音のドラマであろうか。

チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということの証左であったと言える。

楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。

それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢とかなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。

そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのが、本盤の演奏を行っているミュンヘン・フィルであったと言える。

また、チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追求しようというものではない。

むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、まさに音のドラマ。

これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらないと言える。

ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、1音1音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたと言えるが、チェリビダッケの場合は、音の1つ1つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは1つ1つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。

もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であったと言える。

したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであり、本盤に収められたムソルグスキーやチャイコフスキーについては、前述のようなチェリビダッケのアプローチがプラスに働いた素晴らしい名演と言えるだろう。

確かに、テンポは遅い。

しかしながら、とりわけ、組曲「展覧会の絵」は、ラヴェルの光彩陸離たる華麗なオーケストレーションが魅力の楽曲であるが、これをチェリビダッケ以上に完璧に音化した例は他にはないのではなかろうか。

いずれにしても、これらの演奏を演奏時間が遅いとして切り捨てることは容易であるが、聴き終えた後の充足感においては、過去の両曲のいかなる名演にも決して引けを取っていないと考えられるところである。

個人的に気に入っているのは、明晰の極みとも言えるドビュッシーの「海」と「イベリア」で、圧倒的に有機的でいながら、明晰で情報量が多いのである。

その他の楽曲も、チェリビダッケならではのゆったりとしたテンポによる密度の濃い名演と評価したい。

チェリビダッケの徹底した拘りと厳格な統率の下、まさに完全無欠の演奏を行ったミュンヘン・フィルによる圧倒的な名演奏に対しても大きな拍手を送りたい。

本盤に収められた演奏をライヴで聴いていた聴衆は、どれだけ打ちのめされたことだろうか。

演奏が終わってしばらく拍手が起きていないことからも、その感動が伝わろうというものだ。

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2015年07月09日


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全身全霊を傾け作品そのものを根本から揺さぶる、永遠の生命を持った迫真のライヴ盤で、2曲ともが、孤高の境地を示すデュ・プレの芸術の頂点を伝える感動的な名演であり、演奏・録音ともに第一級の価値を持っている。

「遠き山に日は落ちて」「ユモレスク」などで親しまれているように、ドヴォルザークほど、人々の心を一発で魅惑するメロディをたくさん書き残した作曲家はいないかもしれない。

古今のチェロ協奏曲のなかでも筆頭に位置するこの名作には、自然の美しい風景、やるせない望郷の念を想起させる選りすぐりの素晴らしいメロディがいっぱい詰まっている。

デュ・プレの全身全霊を込めた音楽への没入は、このライヴでも素晴らしい。

ここで彼女が使用しているのは、ストラディヴァリウスの名器ダヴィドフ(現在はヨーヨー・マが譲り受けて愛用)だろう。

松やにを飛び散らせながらダイナミックな軋みをたて、痛切に歌うチェロは、凄いの一言に尽きる。

デュ・プレは、きれいごとでない、凄まじいばかりに体を張った大熱演だが、人間の生命力のすべてを具現した朗々たる音色が眼前に激しく飛び出してくる。

冒頭から情熱が迸るような迫力のある表現で圧倒されるところであり、音色の変化、リズムの間、ひそやかな弱音など、その多様な表現力に舌を巻く。

切々たる思いを劇的に語るかのようで、この演奏こそ狷魂の瓩箸いΨ鼠討ふさわしく思える。

聴き手をエキサイティングに熱くさせる演奏はそうザラにはないが、このデュ・プレのドヴォルザークはその筆頭格にあげられる。

グイと鷲づかみにするような発音、どこをとっても熱気のこもった歌いまわし、心憎いまでの剛柔のニュアンスなど、全身全霊を傾け同作品を揺さぶる。

ひとりのチェリストと言うよりも、表現者としての原点を見る思いのする比類のない演奏である。

天真爛漫で、バリバリと弾き進むデュ・プレの圧倒的なチェロに一歩もひるまず、いたずらにわめかずに響きに抑制を効かせながらも気宇壮大な音楽を造形していくチェリビダッケもさすがである。

第3楽章など、むしろデュ・プレがチェリビダッケが木管に託した深遠な歌に同化する瞬間すらある。

2人はまったく別なタイプだが、魂を音楽に必ず込めることのできる数少ない音楽家という点では共通している。

この共演は、指揮者とソリストがお互い刺激し尊重しあう"協奏曲の醍醐味"という点でも、大変おもしろくエキサイティングである。

夫の指揮者バレンボイムと共演した前半のサン=サーンスは、むしろ音楽の天才肌のタイプがぴったりと一致した熱演ぶりが対照的。

サン=サーンスの濃厚と繊細と蠱惑、悩ましいほどの表情の豊かさも見事だ。

どこまでもヴィヴィッドに魅惑的に仕上げられたデュ・プレのチェロであり、聴き手をいつの間にか虜にしてしまうような一種魔力に似た息づきがある。

彼女の曲作りはすべからく流麗と形容すべきものではあるが、そこには常に前向きな初々しい躍動感が息づいており、言い知れぬ魅力を湛えた独特の推進力がある。

ひたむきに歌い、まるで祈り訴えかけてくるかのように純粋な美を織り出してゆくその姿勢が我々の胸を打ってやまない。

表現はきわめてフレキシブル、サン=サーンスのスコアの欲するところに誠に濃やかに対応し、鮮やかに広がった音空間を醸し出している。

彼女全盛期の美質がこのコンパクトな作品の中に余すところなく盛り込まれている観。

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2015年07月01日


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このボックスは、EMIからすでにリリースされている音源を集めたバジェット・ボックスである。

1曲のミサ曲、5曲のレクイエム、そしてオペラ序曲集と管弦楽曲集で構成されている。

また、「フィンガルの洞窟」や「ジークフリート牧歌」など、オペラではない作品も収められている。

それにしても、何という圧倒的な音のドラマであろうか。

チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということの証左であったと言える。

楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。

それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢とかなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。

そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのが、本盤の演奏を行っているミュンヘン・フィルであったと言える。

また、チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追求しようというものではない。

むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、まさに音のドラマ。

これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらないと言える。

ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、1音1音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたと言えるが、チェリビダッケの場合は、音の1つ1つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは1つ1つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。

もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であったと言える。

Sacred Music & operaというタイトルだが、オペラについては序曲、前奏曲や、管弦楽曲の抜粋があるだけで、全曲が収録されているわけではない。

しかしながら、本ボックスに収められた宗教音楽の演奏については、前述のようなチェリビダッケのアプローチがプラスに働いた素晴らしい名演と言えるだろう。

確かに、テンポは遅い。

しかしながら、これらの宗教音楽をチェリビダッケ以上に完璧に音化した例は他にはないのではなかろうか。

宗教音楽では、チェリビダッケのゆっくりとしたテンポ設定が、真摯な祈りとなって昇華している。

いずれにしても、これら宗教音楽の演奏を演奏時間が遅いとして切り捨てることは容易であるが、聴き終えた後の充足感においては、過去のいかなる名演にも決して引けを取っていないと考えられるところである。

いずれの楽曲も、チェリビダッケならではのゆったりとしたテンポによる密度の濃い名演と評価したい。

チェリビダッケの徹底した拘りと厳格な統率の下、まさに完全無欠の演奏を行ったミュンヘン・フィルによる圧倒的な名演奏に対しても大きな拍手を送りたい。

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2015年06月16日


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生前は原則として一切の録音を拒否し、幻の指揮者と言われていたチェリビダッケであるが、没後、相当数の録音が発売されることになり、その独特の芸風が多くのクラシック音楽ファンにも知られることになった。

チェリビダッケの演奏は、楽曲の精神的な深みを徹底して追求しようというものではなく、むしろ音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、まさに音のドラマ。

チェリビダッケは、音の1つ1つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは1つ1つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。

もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であった。

したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであるが、この東京公演盤に関しては、いずれもチェリビダッケならではの名演揃いであると評価したい。

アプローチとしてはEMI盤と基本的に変わりがないものの、チェリビダッケが愛した日本での公演であること、当日の聴衆の熱気、そして何よりも極上の高音質録音によって、各楽器セクションが明瞭に分離して聴こえることなどが相俟って、スローテンポであってもいささかも間延びがしない充実した音楽になっているのではないかと思われるところだ。

ブルックナーの「第5」と「第8」は、何という圧倒的な音のドラマであろうか。

チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということの証左である。

楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。

それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢とかなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。

そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのが、本盤の演奏を行っているミュンヘン・フィルであった。

確かに、この演奏をブルックナーの交響曲演奏の理想像と評価するには躊躇するが、いわゆる音のドラマとしては究極のものと言えるところであり、良くも悪くもチェリビダッケの指揮芸術の全てが如実にあらわれた演奏と言うことができるだろう。

いずれにしても、聴き手によって好き嫌いが明確に分かれる演奏であり、前述のように、ブルックナーらしさという意味では疑問符が付くが、少なくともEMIに録音された演奏よりは格段に優れており、筆者としては、チェリビダッケの指揮芸術の全てがあらわれた素晴らしい名演と高く評価したい。

シューマンの交響曲第4番やムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」もテンポは遅い。

例えば、組曲「展覧会の絵」について言うと、約42分もかけた演奏は他にも皆無であろうし、シューマンの交響曲第4番についてもきわめてゆったりとしたテンポをとっている。

しかしながら、本盤の両曲の演奏には、こうしたテンポの遅さをものともしない、圧倒的な音のドラマが構築されている。

とりわけ、組曲「展覧会の絵」は、ラヴェルの光彩陸離たる華麗なオーケストレーションが魅力の楽曲であるが、これをチェリビダッケ以上に完璧に音化した例は他にはないのではなかろうか。

ブラームスの交響曲第4番やR.シュトラウスの交響詩「死と変容」についても同様のことが言えるだろう。

その他の小品も、チェリビダッケならではのゆったりとしたテンポによる密度の濃い名演と評価したい。

いずれにしても、これらの演奏を演奏時間が遅いとして切り捨てることは容易であるが、聴き終えた後の充足感においては、過去のいかなる名演にも決して引けを取っていないと考えられるところである。

チェリビダッケの徹底した拘りと厳格な統率の下、まさに完全無欠の演奏を行ったミュンヘン・フィルによる圧倒的な名演奏に対しても大きな拍手を送りたい。

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2015年05月31日


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本盤に収められたチェリビダッケ&ミュンヘン・フィルによるベートーヴェンの交響曲第5番は、ちょっと信じがたい演奏である。

特に第1、4楽章は、比較できるどころか、足下に及ぶものすらないユニークさだ。

もしこれを聴くのなら、フルトヴェングラーやクレンペラーや、さまざまな指揮者たちの仕事を聴いたあとのほうがよい。

なぜなら、最初にこれを聴いてしまうと、おそらくほかのものが受け付けられなくなるからだ。

それだけの強烈な魅力というか、毒があるというか、耳に残留してしまう演奏なのである。

交響曲第5番は、有名なダダダダーンという4つの音で開始されるが、ベートーヴェンはこの4つの音を第1楽章だけでなく、以後の楽章でも用いた。

たとえるなら、事件が起きるときには必ず裏で糸を引いている秘密結社があるとするなら、この秘密結社に相当するのがこの4つの音なのだ。

チェリビダッケが行ったのは、この秘密結社が曲の中でどうあちこちにばらまかれ、隠され、ひそかに活躍しているかを明らかにするという徹底的な調査であり検証であり、もしかすると(筆者は「きっと」だと思うが)摘発だったのである。

この演奏で聴くと、今まで気づかなかったが、曲のあちこちに4つの音が配置されていることがわかる。

4つの音が有機的に絡み合い、そして残りの楽章全体を支配していることが如実に表されている。

第1楽章は、普通音楽を聴く者が求める感動だとか興奮だとか高揚というものからは遠い。

チェリビダッケは、人を興奮させる演説がどのように書かれているか、どのような仕組みでできているのかを指摘しているのだ。

過激なまでの分析である。

4つの音だけでなく、普通の演奏では背景に埋もれ寝ころんでいたもろもろの音が立ち上がって、聴き手のほうに接近してくるのだ。

その様子は初めて聴くとき、薄気味悪ささえするだろう。

そして、ここまで暴露され、裸にされてしまうと、曲がまるで恥ずかしがっているように聞こえなくもない。

そして、それを聴く者の心中にも何か恥ずかしめいたもの、いたたまれなさが生じてくる。

たとえば、私がある女の子を口説きたくて、精一杯工夫したラブレターを書いたとする。

第三者がそれを読んで、「あ、おまえ、感激させるために、ここはこう書いただろう」と手口をいちいち指摘するようなものだ。

恥ずかしいに決まっている。

チェリビダッケがベートーヴェンを指揮すると、意識的か無意識的か、この第5番のように曲から距離を置き、醒めた演奏になるのが常だった。

だからベートーヴェンの作品に感激したい人、酔いたい人にはまったく向かない。

第4番も、ベートーヴェンの交響曲の構築性を明確に示すチェリビダッケの最晩年の名演で、指揮者の理念が徹底的に染み込んだ{どこまでも深い}演奏だ。

ライヴでこの水準、いやライヴだからこその水準と言い直すべきだろう。

オケがチェリビダッケの意を汲み、献身的に寄り添っているのも特筆すべきだ。

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2015年05月18日


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チェリビダッケは生前、自作を除いては自らの演奏のCD化(LP化)を一切禁じていた。

表向きは、実演をCD(LP)では表現尽くすことができないというのがその理由であったとされるが、ベルリン・フィルの芸術監督に係るフルトヴェングラーの後継者争いで敗退したカラヤンに対する対抗意識も多分にあったのかもしれない。

それ故に、チェリビダッケの演奏を聴くことは実演以外には不可能になったことから、あまたの海賊盤が跋扈するとともに、その存在の神秘性が高まっていくことになった。

我が国にも来日し、その際の演奏がFMでも放送されたことから、一部に熱烈なチェリビダッケファンを生み出したのも記憶に新しいところであるが、殆どのクラシックファンにとっては縁遠い幻の指揮者的な存在であったと言える。

もっとも、チェリビダッケの没後には、遺族の了解を得て、ミュンヘン・フィル(EMI、来日時の演奏についてはアルトゥスやソニー・クラシカルなど)や、さらにそれ以前のシュトゥットガルト放送交響楽団(DG)などとのライヴ録音が相当点数発売されることになり、一般のクラシック音楽ファンでもチェリビダッケの芸術を味わうことができるようになったところだ。

まさに、幻のベールを没後になって漸く脱いだのである。

チェリビダッケは、カラヤンをはじめ同業者への罵詈雑言を浴びせ続けていたが、これは罵詈雑言の対象となった指揮者のファンならずとも、決して気持ちのいいものではなく、このことが現在におけるチェリビダッケに対する評価が二分されている理由であると言えるのかもしれない。

チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということなのであろう。

楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。

それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢で練習に臨むとともに、かなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。

そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのがミュンヘン・フィルであったと言える。

チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追求しようというものではない。

むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、まさに音のドラマ。

これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらないと言える。

ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、1音1音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたと言えるが、チェリビダッケの場合は、音の1つ1つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは1つ1つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。

もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であったと言える。

したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであり、ブルックナーの交響曲についても、そうしたことが言えるのではないだろうか。

本演奏は、1989年2月、ウィーン・ムジークフェラインザールでの演奏会をソニー・クラシカルが収録したもので、これまで未発表だった幻のライヴ録音である。

因みにEMIから発売されているこのコンビによる通常CD盤では、本演奏の1年前の1988年のライヴ録音であり、高音質SACD化がなされた本盤こそは、チェリビダッケによるブルックナー「第4」の決定盤と言っても過言ではあるまい。

その極大なスケールに圧倒されるところであり、チェリビダッケだけに可能な個性的な名演と評価し得るのではないかとも思われるところである。

これらのことを総合的に勘案すれば、本盤は、ブルックナーの交響曲に深い愛着を持ち続けたチェリビダッケがその晩年に到達し得た自らの指揮芸術の集大成とも言うべき名盤と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。

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2015年05月17日


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本盤には、チェリビダッケ&ミュンヘン・フィルによるハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ブラームスといった独墺系の交響曲集が収められている。

それにしても、何という圧倒的な音のドラマであろうか。

チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということの証左であったと言える。

楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。

それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢とかなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。

そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのが、本盤の演奏を行っているミュンヘン・フィルであったと言える。

チェリビダッケの演奏が他の演奏と決定的に異なる点は、オーケストラの音色の透明性にあり、100人からなるオーケストラをまるで1つの楽器のように演奏するのである。

このようなことが出来たのは、後にも先にもチェリビダッケ&ミュンヘン・フィルのみであろう。

また、チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追求しようというものではない。

むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、まさに音のドラマ。

これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらないと言える。

ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、1音1音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたと言えるが、チェリビダッケの場合は、音の1つ1つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは1つ1つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。

もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であったと言える。

したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであり、本盤に収められたシューマンとブラームスについては、前述のようなチェリビダッケのアプローチがプラスに働いた素晴らしい名演と言えるだろう。

確かに、テンポは遅い。

しかしながら、シューマンやブラームスをチェリビダッケ以上に完璧に音化した例は他にはないのではなかろうか。

いずれにしても、これらの演奏を演奏時間が遅いとして切り捨てることは容易であるが、聴き終えた後の充足感においては、過去のいかなる名演にも決して引けを取っていないと考えられるところである。

個人的に気に入っているのは、ベートーヴェンの「田園」で、このベートーヴェンとしては比較的牧歌的な曲を、信じがたいくらいの美しさで歌い上げており、この美しさは筆舌しがたいものがある。

その他の楽曲も、チェリビダッケならではのゆったりとしたテンポによる密度の濃い名演と評価したい。

チェリビダッケの徹底した拘りと厳格な統率の下、まさに完全無欠の演奏を行ったミュンヘン・フィルによる圧倒的な名演奏に対しても大きな拍手を送りたい。

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2015年03月26日


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チェリビダッケ&ミュンヘン・フィルによるブルックナーの交響曲集のSACD盤がついに発売された。

本セット盤には、ブルックナーの交響曲第4番、第6番、第7番、第8番が収められており、このうち第8番については、先般、アルトゥスレーベルから同一音源のシングルレイヤーによるSACD盤が発売されており、厳密に言うと、初SACD化は第4番、第6番、第7番の3曲ということになる。

もちろん、本セット盤はハイブリッドSACDであるし、ベルリンのスタジオにてDSDマスタリングが行われていることから、第8番についても、同じ音源によるSACDでも音質の性格はかなり異なるものとなっている。

因みに、EMIから発売されているこのコンビによる通常CD盤では、第4番が1年前の1988年のライヴ録音、第6番は同一音源、第7番は4年後の1994年のライヴ録音、第8番は3年後の1993年のライヴ録音であり、第7番及び第8番については来日時の本盤の演奏の方を高く評価する音楽評論家が多いことなどに鑑みれば、高音質SACD化がなされた本セット盤こそは、チェリビダッケによるブルックナーの交響曲選集の決定盤と言っても過言ではあるまい。

チェリビダッケは生前、自作を除いては自らの演奏のCD化(LP化)を一切禁じていた。

表向きは、実演をCD(LP)では表現し尽くすことができないというのがその理由であったとされるが、ベルリン・フィルの芸術監督に係るフルトヴェングラーの後継者争いで敗退したカラヤンに対する対抗意識も多分にあったのかもしれない。

それ故に、チェリビダッケの演奏を聴くことは実演以外には不可能になったことから、あまたの海賊盤が跋扈するとともに、その存在の神秘性が高まっていくことになった。

我が国にも来日し、その際の演奏がFMでも放送されたことから、一部に熱烈なチェリビダッケファンを生み出したのも記憶に新しいところであるが、殆どのクラシックファンにとっては縁遠い幻の指揮者的な存在であった。

もっとも、チェリビダッケの没後には、遺族の了解を得て、ミュンヘン・フィル(EMI、来日時の演奏についてはアルトゥスやソニー・クラシカルなど)や、さらにそれ以前のシュトゥットガルト放送交響楽団(DG)などとのライヴ録音が相当点数発売されることになり、一般のクラシック音楽ファンでもチェリビダッケの芸術を味わうことができるようになったところだ。

まさに、幻のベールを没後になって漸く脱いだのである。

チェリビダッケは、カラヤンをはじめ同業者への罵詈雑言を浴びせ続けていたが、これは罵詈雑言の対象となった指揮者のファンならずとも、決して気持ちのいいものではなく、このことが現在におけるチェリビダッケに対する評価が二分されている理由であると言えるのかもしれない。

チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということなのであろう。

楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。

それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢で練習に臨むとともに、かなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。

そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのがミュンヘン・フィルであった。

チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追求しようというものではない。

むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、まさに音のドラマ。

これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらない。

ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、1音1音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたが、チェリビダッケの場合は、音の1つ1つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは1つ1つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。

もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であった。

したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであり、ブルックナーの交響曲についても、そうしたことが言えるのではないだろうか。

EMIから発売されている通常CD盤で言うと、第5番、第8番、第9番については、超スローテンポによる演奏は、間延びした曲想の進み方に違和感を感じずにはいられないところであり、熱狂的なチェリビダッケのファンはともかくとして、とても付いていけないと思う聴き手も多いと言えるのではないかと考えられる。

これに対して、第3番や第4番、第6番などは、その極大なスケールに圧倒されるところであり、チェリビダッケだけに可能な個性的な名演と評価し得るのではないかとも思われるところである。

もっとも、EMI盤では違和感を感じさせた第8番も、本セット盤に収められた演奏は、チェリビダッケがこよなく愛した日本でのコンサートのライヴ録音ということもあって、同じく超スローテンポであっても、演奏の密度の濃さもあって冗長さを感じさせないと言えるところであり、必ずしも筆者の好みの演奏ではないが、音のドラマとしては十分に合格点を与えることが可能な名演と評価し得るのではないかと考えられる。

これは、第7番についても同様のことが言えるところであり、これらのことを総合的に勘案すれば、本セット盤は、ブルックナーの交響曲に深い愛着を持ち続けたチェリビダッケがその晩年に到達し得た自らの指揮芸術の集大成とも言うべき名セット盤と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。

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2015年02月27日


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チェリビダッケは生前、自作を除いては自らの演奏のCD化(LP化)を一切禁じていた。

表向きは、実演をCD(LP)では表現尽くすことができないというのがその理由であったとされるが、ベルリン・フィルの芸術監督に係るフルトヴェングラーの後継者争いで敗退したカラヤンに対する対抗意識も多分にあったのかもしれない。

それ故に、チェリビダッケの演奏を聴くことは実演以外には不可能になったことから、あまたの海賊盤が跋扈するとともに、その存在の神秘性が高まっていくことになった。

我が国にも来日し、その際の演奏がFMでも放送されたことから、一部に熱烈なチェリビダッケファンを生み出したのも記憶に新しいところであるが、殆どのクラシックファンにとっては縁遠い幻の指揮者的な存在であった。

もっとも、チェリビダッケの没後には、遺族の了解を得て、ミュンヘン・フィル(EMI)や、さらにそれ以前のシュトゥットガルト放送交響楽団(DG)などとのライヴ録音が相当点数発売されることになり、一般のクラシック音楽ファンでもチェリビダッケの芸術を味わうことができるようになったところだ。

まさに、幻のベールを没後になって漸く脱いだのである。

チェリビダッケは、カラヤンをはじめ同業者への罵詈雑言を浴びせ続けていたが、これは罵詈雑言の対象となった指揮者のファンならずとも、決して気持ちのいいものではなく、このことが現在におけるチェリビダッケに対する評価が二分されている理由であると言えるのかもしれない。

チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということなのであろう。

楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。

それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢とかなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。

そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのがミュンヘン・フィルであった。

チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追求しようというものではない。

むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、まさに音のドラマ。

これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらない。

ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、1音1音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたが、チェリビダッケの場合は、音の1つ1つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは1つ1つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。

もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であった。

したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであり、本盤に収められたブルックナーの交響曲集についても、そうしたことが言えるのではないだろうか。

特に、第5番、第8番、第9番の超スローテンポによる演奏は、間延びした曲想の進み方に違和感を感じずにはいられないところであり、熱狂的なチェリビダッケのファンはともかくとして、とても付いていけないと思う聴き手も多いと言えるのではないだろうか。

他方、第3番や第6番などは、その極大なスケールに圧倒されるところであり、チェリビダッケだけに可能な個性的な名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

このように、功罪相半ばする交響曲集であると言えるところであるが、チェリビダッケの最晩年の芸風を満喫することができることや、信じ難いような廉価であることを鑑みれば、充分に推薦に値するBOXではないかと考える。

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2015年02月26日


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はじめに、筆者は、必ずしもチェリビダッケの良い聴き手ではないということを告白しておかなければならない。

同業他者への罵詈雑言の数々、生前に録音を殆ど許可しなかった(海賊盤しか手に入らなかった)という異常なまでのこだわり、そして、あのハリー・ポッターのマルフォイをそのまま大人にしたような傲岸不遜な風貌も相俟って、どうもチェリビダッケには、胡散臭さを感じていたというのが正直なところだ。

チェリビダッケの没後、ようやく少なからぬライヴ録音が発売されたが、正直言って玉石混交。

あの異常なまでのスローテンポに(すべてとは言わないが)、どうしても必然性が感じられなかった。

チェリビダッケのファンからすれば、聴く耳がないと怒られそうだが、人それぞれに好みや感じ方があるので、それはそれで仕方がないのではないかと思っている次第だ。

しかしながら、数年前に発売された、来日時のブルックナーの「第5」を聴いて、歳をとったせいで丸くなったという面も無きにしも非ずだが、ようやく、チェリビダッケの芸術というものへの理解が少し出来たような気がした。

そして聴いた本盤の「第8」。

確かに、常識はずれのスローテンポではあるが、少なくとも、かつて海賊盤で聴いたミュンヘン・フィルとのライヴ録音の時のようにもたれるというようなことはなく、心行くまで演奏を堪能することができた。

チェリビダッケのブルックナー演奏の性格を一言で言えば、光彩陸離たる豊穣さと言えるのではないか。

どこをとっても隙間風の吹かない重厚さ、壮麗さが支配しており、どんなに金管楽器を最強奏させても、無機的には陥らない。

それでいて、抒情的な箇所の最弱音も、いわゆる痩せたりするということは皆無であり、常に意味のある高踏的な音が鳴り切っている。

これぞ、究極のオーケストラ演奏と高く評価したい。

確かに、通例のブルックナーの演奏からすれば異端とも言えるところであり、これは、あくまでもチェリビダッケの個の世界にあるブルックナーということになるのかもしれない。

それ故に、かつての筆者のように抵抗感を示す聴き手もいるとは思うが、これだけ堪能させてくれれば文句は言えまい。

その超スローなテンポにも入りきらないほどにぎっしりと詰まったメッセージがあり、一瞬の輝きが連なってこそ音楽が生命を持っており、だからこそ細部に執着するのだ。

個と汎の有機的な融合、瞬間と連続が繰り返すチェリビダッケ独自の世界に、もう名演かどうかなど関係ない。

ここにはチェリビダッケが引き起こす音と響きの{出来事}に立ち会うことの幸せがあり、ブルックナーという原石を徹底的にチェリの作法で磨いた作品なのだ。

交響曲史の頂点、とチェリビダッケも語る、怒り、神への栄光を掴み取り、獲得してしまうまでの長い道程、そして鍛え抜かれたミュンヘン・フィルのアンサンブルが、見事に応える。

ペーター・ザドロの強烈なティンパニ、本当に人間が吹いているのだろうかと驚かされる金管群のスタミナなど、圧倒的だ。

ブルックナーが完成させた中でも最も長大な曲に対して、それを上回るような高い精神性で挑むチェリビダッケの崇高な姿がここにある。

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2014年12月19日


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本盤には、今や伝説的ともなったチェリビダッケの1986年の来日公演の中から、ブラームスの交響曲第4番、R・シュトラウスの交響詩「死と変容」、そして、ロッシーニの歌劇「どろぼうかささぎ」序曲、ブラームスのハンガリー舞曲第1番ト短調、ヨハン&ヨーゼフ・シュトラウス:ピツィカート・ポルカといった小品が収められている。

特に、ブラームスの交響曲第4番については、チェリビダッケ自身がその演奏の出来に大変満足していただけに、今般CD化され発売される運びとなったことは、チェリビダッケのファンのみならず、多くのクラシック音楽ファンにとっても誠に慶賀に堪えないことであると言えるだろう。

それにしても、何という圧倒的な音のドラマであろうか。

チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということの証左である。

楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。

それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢とかなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。

そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのが、本盤の演奏を行っているミュンヘン・フィルであった。

また、チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追求しようというものではない。むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、まさに音のドラマ。

これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらない。

ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、1音1音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたが、チェリビダッケの場合は、音の1つ1つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは1つ1つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。

もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であった。

したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであり、本盤に収められたブラームスの交響曲第4番やR・シュトラウスの交響詩「死と変容」については、前述のようなチェリビダッケのアプローチがプラスに働いた素晴らしい名演と言えるだろう。

確かに、テンポは遅い。

しかしながら、両曲をチェリビダッケ以上に完璧に音化した例は他にはないのではなかろうか。

いずれにしても、これら両曲の演奏を演奏時間が遅いとして切り捨てることは容易であるが、聴き終えた後の充足感においては、過去の両曲のいかなる名演にも決して引けを取っていないと考えられるところである。

その他の小品も、チェリビダッケならではのゆったりとしたテンポによる密度の濃い名演と評価したい。

チェリビダッケの徹底した拘りと厳格な統率の下、まさに完全無欠の演奏を行ったミュンヘン・フィルによる圧倒的な名演奏に対しても大きな拍手を送りたい。

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2014年12月01日


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来日公演のブルックナーの交響曲第5番及び第8番のSACD化に引き続いて、今般は、チェリビダッケの1986年の来日公演の際に演奏された、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」とシューマンの交響曲第4番(アンコールのドヴォルザークのスラヴ舞曲第8番を含む)のSACD化がなされることになったのは、チェリビダッケの十八番とも言える楽曲だけに、誠に慶賀に堪えないところだ。

それにしても、何という圧倒的な音のドラマであろうか。

チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということの証左である。

楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。

それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢とかなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。

そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのが、本盤の演奏を行っているミュンヘン・フィルであった。

また、チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追求しようというものではない。

むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、まさに音のドラマ。

これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらない。

ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、1音1音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたが、チェリビダッケの場合は、音の1つ1つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは1つ1つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。

もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であった。

したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであり、本盤に収められたシューマンの交響曲第4番やムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」については、前述のようなチェリビダッケのアプローチがプラスに働いた素晴らしい名演と言えるだろう。

確かに、テンポは遅い。

例えば、組曲「展覧会の絵」について言うと、約42分もかけた演奏は他にも皆無であろうし、シューマンの交響曲第4番についてもきわめてゆったりとしたテンポをとっている。

しかしながら、本盤の両曲の演奏には、こうしたテンポの遅さをものともしない、圧倒的な音のドラマが構築されている。

とりわけ、組曲「展覧会の絵」は、ラヴェルの光彩陸離たる華麗なオーケストレーションが魅力の楽曲であるが、これをチェリビダッケ以上に完璧に音化した例は他にはないのではなかろうか。

いずれにしても、これら両曲の演奏を演奏時間が遅いとして切り捨てることは容易であるが、聴き終えた後の充足感においては、過去の両曲のいかなる名演にも決して引けを取っていないと考える。

チェリビダッケの徹底した拘りと厳格な統率の下、まさに完全無欠の演奏を行ったミュンヘン・フィルによる圧倒的な名演奏に対しても大きな拍手を送りたい。

音質は、今般のシングルレイヤーSACD化によって、圧倒的な超高音質に生まれ変わった。

チェリビダッケが構築した圧倒的な音のドラマが、鮮明かつ高音質なSACD盤で再現される意義は極めて大きいものと言えるところだ。

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2014年09月13日


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巨匠チェリビダッケがベルリン・フィルを指揮した唯一の映像として知られるブルックナーの交響曲第7番がようやく登場した。

1992年3月31日と4月1日の2日間、ベルリンのシャウシュピールハウスで行われたコンサートは、当時のヴァイツゼッカー大統領直々の計らいで実現したもので、1954年以来38年ぶりにチェリビダッケが、この間関係が決裂していたベルリン・フィルの指揮台に復帰するという意味で特別な出来事であった。

こうした背景もあって会場が異様な空気に包まれるなか、やがて演奏が開始されてゆくのであるが、ここでの全曲86分を超える演奏時間は、数あるチェリビダッケによるブルックナーの7番のなかでも破格に長大な部類に入るもので、アダージョに至っては30分を超える時間をかけてたっぷりと歌い抜かれており、まさに耽美的というほかないその美観はあらためて稀有の巨匠の個性的な芸風を強く印象づける形となっている。

38年ぶりにベルリン・フィルを振ったチェリビダッケの指揮と、それに食らいついて行っているという雰囲気のベルリン・フィルの演奏で、なんとなく両者の間に、しっくりいっていないようなニュアンスは見られるものの、さすがにその演奏は圧倒的である。

筆者は特にチェリビダッケのファンというわけではないが、それでもこの演奏を見ると(聴くと)『これがチェリビダッケのブルックナーなのだ』と納得させられてしまう。

あのゆっくりとしたテンポとセンチメンタルになることを嫌う演奏は、最初のトレモロから聴く側の心を捉えて離さない、終始、緊張感みなぎる素晴らしい演奏である。

これを見て(聴いて)筆者がまだ高校生の頃、NHKで放送されたチェリビダッケとミュンヘン・フィルの組み合わせの来日公演の模様を思い出した。

他の指揮者に比べると、確かにテンポは非常にゆっくりしているが、映像で見るとそれが1つ1つの音をしっかりと歌わせているのがわかり、感動した覚えがある。

久しぶりに、どっしりとしたブルックナーを聴くことが出来た。

また、ドキュメンタリーでリハーサル風景が映し出されているが、チェリビダッケの傲慢な態度にちょっと曳いてしまった。

彼は楽団員から畏敬の念は抱かれているかもしれないが、必ずしも愛されてはいないのではないか、そんな思いがした。

楽団員から愛される小澤征爾やアバドの謙虚さとは対照的なリハーサル風景であった。

いずれにしても、貴重な映像であり、チェリビダッケの若い頃の様子を知ることもできる興味深いDVDである。

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2014年09月12日


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ルーマニア出身の巨匠指揮者セルジュ・チェリビダッケ(1912〜1996)の生誕100年を記念し、彼が最も得意としたブルックナーの交響曲をSACDハイブリッド化したボックスセットからの同時分売。

交響曲第4番「ロマンティック」は1989年2月、ウィーン・ムジークフェラインザールでの演奏会をソニー・クラシカルが収録したもので、生前からその存在は知られながら、これまで未発表だった幻のライヴ録音である。

トータルで84:08(拍手込み)という演奏時間は、EMIから正規盤として1996年に発売された1988年10月のライヴよりも長く、それゆえ収録にディスク2枚分を要している。

残響の豊かなムジークフェラインの音響効果を考慮してのテンポ配分と思われ、30分を超える巨大な造形によるフィナーレでは、極遅のコーダで管のコラールを支えるチェリビダッケ独特の弦の刻みに施されたアクセントが未曽有の感動を呼び起こす。

結果的には素晴らしい演奏で、筆者としてはこれまでEMI盤を普段から愛聴してきたのであるが、今回のソニー・クラシカル盤も、大いに心を揺さぶられる名演であること間違いない。

特に普段はチェビダッケはガスタイク・フィルハーモニーでの録音を聴く機会が多く、ムジークフェラインザールの豊かで華麗な響きにも改めて魅了された。

余すところ無くミュンヘン・フィルのハーモニーが味わえ、ガスタイク・フィルハーモニーの
EMI盤とは違った魅力が放たれている。

終楽章フィナーレの偉大さは相変わらずで、EMI盤は終演後の拍手がカットされているが、ソニー・クラシカル盤は拍手が収録されており、終演後直後の静寂から、まばらに拍手が始まり…、聴衆の『何か凄いものを聴いてしまった』という心の代弁が筆者にはヒシヒシと感じ取れるのである。

録音は、ソニー・クラシカル所蔵のオリジナル・マスターからの初のDSDマスタリングによるSACDハイブリッド化し、マスタリングはベルリンのb-sharpスタジオで行われたもので、音質は鮮明であるとともに、各楽器セクションが明瞭に分離して聴こえるなど、音場が幅広いように感じられるところである。

そのことは、ムジークフェラインザールの残響の豊かさが生かされた臨場感溢れる音質であることも一躍買っていることを忘れてはならない。

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2014年09月11日


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周知の通りセルジウ・チェリビダッケは「録音嫌い」で知られたマエストロである。

その理由を訊かれたとき、彼がよく引き合いに出していたのはフルトヴェングラーの言葉だった。

録音した演奏のプレイバックを聴いて、フルトヴェングラーはこう叫んだという。

「何もかもが変わってしまった!」と。

もちろん1950年代以前と現代とではすでに録音技術にも大きな差があるし、再現度は格段に高まっているはずなのだが、それでもオーケストラが響く空間のアコースティックや聴衆の醸し出す雰囲気といった、何気に重要なパラメータを含むアンビエント――参加意識も含めた「共時体験」としての――は、排除されないまでも、少なくとも圧縮され薄まらざるを得ない。

各々の演奏会場の音の響き方によって採るべきテンポも当然変わってくると考えるタイプのマエストロは、生演奏に接することしか音楽の真実に迫るすべはないと主張する。

それは確かにその通りだろう。

一期一会の演奏会は、突き詰めれば一瞬たりとて同じ音がなく「時間とともに消えてゆく」現象の集積なのだから。

しかし、フルトヴェングラーにせよチェリビダッケにせよ、我々は過去に偉大な演奏があり得たことを「知って」しまっている。

その記録がいかに(彼らにとって)不完全なものだとしても、現に音楽として「追体験」できる音源が存在する以上、聴いてみたくなるのが人情というものだ。

ライヴ体験と切り離され録音された演奏だけで評価を下す危険性は常に意識しておかなくてはならないが、次々に発掘される名演の「記録」は、一種の文化的世界遺産ともいうべき価値を有している。

生きて飛んでいる蝶を間近に見るのが最上の観察だとしても、絶滅した蝶の姿は標本から類推するしかないのだから。

チェリビダッケの偉大さは、彼のそうした哲学的な音楽の捉え方が単なる観念論でなく、きわめて高度な職人技の上に成り立っていたということである。

たとえば交響曲第7番の第1楽章、冒頭に姿を現す弦のさざめきを表現する際、一人一人のトレモロに関し微妙に弓幅を変えることでムラのないヴェールのような広がりを醸し出すテクニック。

また交響曲第4番のフィナーレにおけるコーダでは、ユニゾンで奏される弦の刻みの拍の頭に楔を打ち込むがごとく短いアクセントを施し、最後に回帰してくる凱歌を気宇壮大に迎え入れる素地がつくられる。

こうした処理はスコアの“改変”ではなく、現場主義的な発想のもとに楽譜の意図する効果を最大限発揮させるための熟練された方法論に他ならない。

緻密に練られた解釈と、それを実現するのに必要な「楽器」とが揃った1980年代後半から90年代初めこそが、チェリビダッケとミュンヘン・フィルの最盛期だったと言っていいだろう。

さらにチェリビダッケの最晩年、亡くなる数年間はまた一層深化した異形の境地が訪れるのだが、より均整のとれたフォルムという意味でもその前の時期のほうが一般的な評価は高いはずである。

このDVDセットに所収されているのは何れもその実り多い時期のライヴで、交響曲第6番は彼らの本拠ミュンヘンのガスタイク、交響曲第7番と第8番は来日公演時のサントリーホールにおける収録。

すでに稀代の名演として定評のある演奏だが、今回は幻ともいうべき1989年のムジークフェラインザールでのライヴが入っているのが貴重だ。

前述の通り演奏会場の音響やアンビエントも演奏の大きな構成要素と捉えるチェリビダッケにとって、ムジークフェラインはいささか荒ぶる音楽への志向を誘われるホールだったのかも知れない。

特に両端楽章での激しいアゴーギクを伴った凄みのある音楽運びは、他に残された演奏にはあまりみられないほどの変動幅を含んでいる。

完全かどうかという見方をすれば粗もあり、これがチェリビダッケの〈ロマンティック〉の代表盤だとは言えないが、彼らの垣間見せた意外な「貌」という意味では非常に貴重な音源と言って間違いない。

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2014年09月10日


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生前は原則として一切の録音を拒否し、幻の指揮者と言われていたチェリビダッケであるが、没後、相当数の録音が発売されることになり、その独特の芸風が多くのクラシック音楽ファンにも知られることになった。

数年前にブルックナーの交響曲第5番とともに、本盤に収められた交響曲第8番の来日時(1990年)のコンサートのライヴ録音のCD化が行われたのは記憶に新しいところである。

今般、ついに、そのライヴ録音CDが、第5番とともに、シングルレイヤーによるSACD化が図られることになったのは、チェリビダッケの芸術を更に広く知らしめる意味においても、極めて意義の大きいことと言わざるを得ない。

チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということなのであろう。

楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。

それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢とかなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。

そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿り着いたのがミュンヘン・フィルであった。

チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追求しようというものではない。

むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、まさに音のドラマ。

これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらないと言える。

ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、一音一音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたが、チェリビダッケの場合は、音の一つ一つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは一つ一つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。

もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であった。

したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであり、それはブルックナーの交響曲についても言えるところだ。

EMIから発売されているブルックナーの交響曲集についても、第3番や第6番は素晴らしい名演であったが、第5番や第8番については、超スローテンポによる演奏で、間延びした曲想の進み方に違和感を感じずにはいられないところであり、熱狂的なチェリビダッケのファンはともかくとして、とても付いていけないと思う聴き手も多いのではないだろうか。

ところが、1990年の来日時の演奏である本盤に収められた第8番、そして同時発売の第5番については、アプローチとしては基本的に変わりがないものの、チェリビダッケが愛した日本での公演であること、当日の聴衆の熱気、そして何よりも極上の高音質録音によって、各楽器セクションが明瞭に分離して聴こえることなどが相俟って、スローテンポであってもいささかも間延びがしない充実した音楽になっているのではないかと思われるところだ。

確かに、この演奏をブルックナーの交響曲演奏の理想像と評価するには躊躇するが、いわゆる音のドラマとしては究極のものと言えるところであり、良くも悪くもチェリビダッケの指揮芸術の全てが如実にあらわれた演奏と言うことができるだろう。

いずれにしても、聴き手によって好き嫌いが明確に分かれる演奏であり、前述のように、ブルックナーらしさという意味では疑問符が付くが、少なくともEMIに録音された演奏よりは格段に優れており、筆者としては、チェリビダッケの指揮芸術の全てがあらわれた素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

そして、前述のように、各楽器セクションが明瞭に分離して聴こえるのは、シングルレイヤーによるSACD化によって、音質が更に鮮明になり、なおかつサントリーホールの残響の豊かさが生かされた臨場感溢れる音質であることも一躍買っていることを忘れてはならない。

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2014年04月18日


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生前は原則として一切の録音を拒否し、幻の指揮者と言われていたチェリビダッケであるが、没後、相当数の録音が発売されることになり、その独特の芸風が多くのクラシック音楽ファンにも知られることになった。

数年前にブルックナーの交響曲第8番とともに、本盤に収められた交響曲第5番の来日時(1986年)のコンサートのライヴ録音のCD化が行われたのは記憶に新しいところである。

今般、ついに、そのライヴ録音CDが、第8番とともに、シングルレイヤーによるSACD化が図られることになったのは、チェリビダッケの芸術を更に広く知らしめる意味においても、極めて意義の大きいことと言わざるを得ない。

チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということなのであろう。

楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。

それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢とかなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。

そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのがミュンヘン・フィルであった。

チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追求しようというものではない。

むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、まさに音のドラマ。

これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらない。

ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、一音一音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたが、チェリビダッケの場合は、音の一つ一つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは一つ一つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。

もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であった。

したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであり、それはブルックナーの交響曲についても言えるところだ。

EMIから発売されているブルックナーの交響曲集についても、第3番や第6番は素晴らしい名演であったが、第5番や第8番については、超スローテンポによる演奏で、間延びした曲想の進み方に違和感を感じずにはいられないところであり、熱狂的なチェリビダッケのファンはともかくとして、とても付いていけないと思う聴き手も多いと言えるのではないだろうか。

ところが、1986年の来日時の演奏である本盤に収められた第5番、そして同時発売の第8番については、アプローチとしては基本的に変わりがないものの、チェリビダッケが愛した日本での公演であること、当日の聴衆の熱気、そして何よりも極上の高音質録音によって、各楽器セクションが明瞭に分離して聴こえることなどが相俟って、スローテンポであってもいささかも間延びがしない充実した音楽になっているのではないかと思われるところだ。

確かに、この演奏をブルックナーの交響曲演奏の理想像と評価するには躊躇するが、いわゆる音のドラマとしては究極のものと言えるところであり、良くも悪くもチェリビダッケの指揮芸術の全てが如実にあらわれた演奏と言うことができるだろう。

いずれにしても、聴き手によって好き嫌いが明確に分かれる演奏であり、前述のように、ブルックナーらしさという意味では疑問符が付くが、少なくともEMIに録音された演奏よりは格段に優れており、筆者としては、チェリビダッケの指揮芸術の全てがあらわれた素晴らしい名演と高く評価したい。

そして、前述のように、各楽器セクションが明瞭に分離して聴こえるのは、シングルレイヤーによるSACD化によって、音質が更に鮮明になり、なおかつサントリーホールの残響の豊かさが活かされた臨場感溢れる音質であることも一躍買っていることを忘れてはならない。

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2013年10月19日


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チェリビダッケは生前、自作を除いては自らの演奏のCD化(LP化)を一切禁じていた。

表向きは、実演をCD(LP)では表現尽くすことができないというのがその理由であったとされるが、ベルリン・フィルの芸術監督に係るフルトヴェングラーの後継者争いで敗退したカラヤンに対する対抗意識も多分にあったのかもしれない。

それ故に、チェリビダッケの演奏を聴くことは実演以外には不可能になったことから、あまたの海賊盤が跋扈するとともに、その存在の神秘性が高まっていくことになった。

我が国にも来日し、その際の演奏がFMでも放送されたことから、一部に熱烈なチェリビダッケファンを生み出したのも記憶に新しいところであるが、殆どのクラシックファンにとっては縁遠い幻の指揮者的な存在であった。

もっとも、チェリビダッケの没後には、遺族の了解を得て、ミュンヘン・フィル(EMI)や、さらにそれ以前のシュトゥットガルト放送交響楽団(DG)などとのライヴ録音が相当点数発売されることになり、一般のクラシック音楽ファンでもチェリビダッケの芸術を味わうことができるようになったところだ。

まさに、幻のベールを没後になって漸く脱いだのである。

チェリビダッケは、カラヤンをはじめ同業者への罵詈雑言を浴びせ続けていたが、これは罵詈雑言の対象となった指揮者のファンならずとも、決して気持ちのいいものではなく、このことが現在におけるチェリビダッケに対する評価が二分されている理由であると言えるのかもしれない。

チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということなのであろう。

楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。

それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢とかなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。

そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのがミュンヘン・フィルであった。

チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追求しようというものではない。

むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、まさに音のドラマ。

これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらない。

ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、一音一音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたが、チェリビダッケの場合は、音の一つ一つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは一つ一つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。

もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であったと言えよう。

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2013年02月13日


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はじめに、筆者は、必ずしもチェリビダッケの良い聴き手ではないということを告白しておかなければならない。

同業他者への罵詈雑言の数々、生前に録音を殆ど許可しなかった(海賊盤しか手に入らなかった)という異常なまでのこだわり、そして、あのハリー・ポッターのマルフォイをそのまま大人にしたような傲岸不遜な風貌も相まって、どうもチェリビダッケには、胡散臭さを感じていたというのが正直なところだ。

チェリビダッケの没後、漸く少なからぬライヴ録音が発売されたが、玉石混交。

あの異常なまでのスローテンポに(すべてとは言わないが)、どうしても必然性が感じられなかった。

チェリビダッケのファンからすれば、聴く耳がないと怒られそうだが、人それぞれに好みや感じ方があるので、それは仕方がないのではないかと思っている次第だ。

しかしながら、数年前に発売された、来日時のブルックナーの「第5」を聴いて、歳をとったせいで丸くなったという面も無きにしも非ずだが、漸く、チェリビダッケの芸術というものへの理解が少し出来たような気がした。

そして聴いた本盤の「第4」。

確かに、常識はずれのスローテンポではあるが、少なくとも、かつて聴いたミュンヘン・フィルとのライヴ録音の時のようにもたれるというようなことはなく、心ゆくまで演奏を堪能することができた。

チェリビダッケのブルックナー演奏の性格を一言で言えば、光彩陸離たる豊穣さと言えるのではないか。

どこをとっても隙間風の吹かない重厚さ、壮麗さが支配しており、どんなに金管楽器を最強奏させても、無機的には陥らない。

それでいて、抒情的な箇所の最弱音も、いわゆる痩せたりするということは皆無であり、常に意味のある高踏的な音が鳴り切っている。

これぞ、究極のオーケストラ演奏と高く評価したい。

確かに、通例のブルックナーの演奏からすれば異端とも言えるところであり、これは、あくまでもチェリビダッケの個の世界にあるブルックナーということになるのかもしれない。

それ故に、かつての筆者のように抵抗感を示す聴き手もいるとは思うが、これだけ堪能させてくれれば文句は言えまい。

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2011年11月01日


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敬虔なカトリックの信徒であったブルックナーの曲は全て信仰告白である。

そしてブルックナーを十八番とするチェリビダッケもまた、仏教的感性を有している。

つまり両者とも、超越的で宇宙的な境地に到達する術を心得ている訳だ。

ここに聴く、チェリビダッケ&ミュンヘン・フィルの演奏は、そんな法悦に至る壮絶なプロセスが刻まれている。

ここまで宇宙的な気宇壮大さのあるブルックナーは皆無だ。

一音一音極限まで研ぎ澄まされ、悠久の世界を眼前に表してくれる。

これはチェリビダッケが禅に深い造詣を示したことも影響しているのだろう。

ブルックナーの交響曲に対し、ある評論家は「仏教的な法悦すら感じる」と述べているが、それはそのままチェリビダッケの精神性にも通じると思う。

チェリビダッケの指揮は極端に遅いが、これに慣れてくると他の演奏が忙しく思えてくる。

空"emptiness"の世界に聴き手を誘うような、神秘的色彩をも感じ得る名演である。

音楽は作曲家の手を離れた瞬間から、作曲家の意図とは無関係に歩みだす。

演奏という行為によって、聴衆を失望させることもあれば、時には作曲者さえ予想もしなかった新たなる生命を見出すこともある。

このチェリビダッケの演奏は正に後者のような演奏だ。

この一般的に「遅いテンポ」から禅宗徒のチェリビダッケは天から降り注ぐ眩い神の光を現出させた。

それは意外にも極めて教会的であり、オルガン的である。

これこそ一般的なブルックナーらしくないアプローチにより最もブルックナーらしさを獲得できた数少ない名演のひとつと思う。

なお、ブルックナーの交響曲のファースト・チョイスとしては余りにも強烈な為、他の演奏を耳にしてから改めて本盤を選んでいただければ幸いである。

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2011年09月19日


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1960-80年代のチェリビダッケの放送録音を集めた「チェリビダッケの遺産」シリーズで発売されていたブルックナー集(2セット分)をひとつにまとめたもの。

分売時にカップリングされていたシューベルトの第5番とモーツァルトの『ハフナー』もそのまま収められている。

8曲中、7曲がシュトゥットガルト放送交響楽団とのライヴ。

チェリビダッケがミュンヘンに赴く以前に首席客演指揮者を務め、その名を国際的なものとした同オケとのシュトゥットガルト時代(1971-79年)に収録されたこの録音は、チェリビダッケという他に類のないユニークな個性の変遷をたどるうえでも重要なものといえるだろう。

雄大なテンポで超宇宙的なブルックナーの世界が広がっていて、録音も非常に美しく透明な音の宇宙に浸りきれる素晴らしいCD集である。

チェリビダッケが心身ともに充実しきっている頃の録音だけに、後年のEMI正規録音とは異なる魅力があり、そのあまりにもテンポの遅いEMI盤を敬遠していた人には特にこちらのDG盤を好む人も多いのではないかと思われる。

朝比奈もそうだが、音楽が止まりそうなほどゆっくりした演奏は、いくら指揮者の意図があると言われても、生理的に受け付けない人もかなりいるはず。

これは、まともなテンポでかつ、チェリビダッケの意図が十分感じられる非常に良い演奏と感じた。

無理に曲を盛り上げたりせず、フォルテも歌わせる箇所も楽器やホールを丁寧に鳴らしている感じである。

しかし抑制が効いているというのではなく、集中して気持ちがこもった演奏となっていて、とても充実している。

晩年のミュンヘン時代とはひと味違った、躍動感と生命力あふれるチェリビダッケ壮年期のブルックナー演奏の魅力を堪能させてくれるのである。

ブルックナーの第4番は、そのシュトゥットガルト時代以前、1962-68年にかけて首席指揮者を務めていたスウェーデン放送交響楽団との貴重な共演記録。

チェリとは因縁浅からぬ(?)カラヤン率いるベルリン・フィルの本拠、フィルハーモニーにおけるライヴであることも興味深いところ。

すべて放送局所蔵の音源からCD化された、良好なステレオ録音である。

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2011年09月18日


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1982年11月に収録された『シェエラザード』の本番演奏(カラー)と、1965年1月に収録された『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』のリハーサル(モノクロ)の組み合わせというたいへん興味深い映像作品。

どちらもNHK衛星で放送済みだが、正規のDVD化はありがたい。

『シェエラザード』は放送用の録画で聴衆なしの演奏。

チェリビダッケの『シェエラザード』といえば、雄大なスケールで作品の各場面を濃厚に描きつくした名解釈が、すでにシュトゥットガルト放送響盤(DG)でも、ミュンヘン・フィル盤(EMI)でも広く知られているが、今回そこにカラー映像作品が加わることは何よりの朗報だ。

カメラアングルがやや単調な様に思われるが、じっくりとオーケストラをコントロールするチェリビダッケが見もの。

組み合わせの『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』のリハーサルは、モノクロ映像ながらチェリビダッケがまだ体を激しく動かしていた頃のリハーサルということで、これも興味深い内容。

52歳のチェリビダッケがとにかく派手な動きで活気に満ちたリハーサルをおこなっており、腰を振りながらのノリノリの姿には驚かれる方も多いことであろう。

例によってスコアも無しで鋭い指摘をくり返し、音楽の情景や推移を説明し、凄まじい気迫でオケを引っ張ってゆく。

画質は素晴らしい。音質はモノだが切れ味があり不満はそれほどない。

しかしどうも『シェエラザード』はDGと同じ演奏のように思う(チェリの掛け声も一緒)。

なので、音質で負けるように思われるも、楽器の収録バランスが違うので、案外こちらのほうが迫力やニュアンスの豊かさを聴き取れる部分があることも事実。

個人的にはこちらを取りたい。(映像の印象も含めて。)

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2011年09月05日


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チャイコフスキーの交響曲第5番はトータル55分を超えるという、晩年のチェリビダッケならではの遅いテンポが選ばれている。

冒頭で示される循環主題のブロック(序奏部)だけで3分かかるのだから、これはもう尋常な時間感覚では捉えられないものだが、その後、幾度も変容し再現されることと、主部のテンポ設定を考えれば、十分に理解できるものでもある。

第1楽章主部はアレグロ・コン・アニマの指定で始められるが、ここではどう聴いてもアンダンテ以下の設定であり、チェリビダッケ一流のデフォルメとしか言いようがないが、3つの主題の描き分けの巧みさはさすが。

第1主題の確保部分で、トランペットを強調するあたりなど実に刺激的で、優美な第2主題とのコントラストも極めて明瞭。

前半動機リズムの繊細なデフォルメと、後半動機の憧れに満ちた情感表出が絶妙なバランスをみせる第3主題(結尾主題)も実に見事である。

続く第2楽章の美しさも予想にたがわぬ素晴らしいもので、無用な感傷に流されない表現は立派。

14分付近の危険個所(クサクなりやすい)でも、絶妙な管弦のバランスとザードロのティンパニによる引き締めによって、安手の陶酔に堕さない高揚をみせ、次の循環主題部と終結部の強烈なコントラスト形成を際立たせることに成功している。

第3楽章もハイ・グレード。大交響曲にふさわしい表情豊かで立体的なワルツであり、主部を支配するメランコリーの美しく淡い色彩と、抑制された動感が、音楽にえもいわれぬ気品を付与することに成功し、同様に美しい中間部と共に抜群の聴きごたえが嬉しいところ。

第4楽章は、冒頭循環主題のマエストーソの指示を無視した純粋な美しさがまず深い印象を与える。

3分半ほどの序奏部全体に漂うロシア聖教のコラールのような雰囲気は、遅いテンポでグロテスクに描かれる主部第1主題の関連部分と、循環主題の変形でもある主部第2主題の関連部分との対比効果にも強く影響し、荒ぶる大波が実は周期を持った運動体であることにも似て、巨大で揺るぎのない構造物を打ち立てることに成功しているのである。

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2011年08月30日


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1986年10月22日、チェリビダッケ&ミュンヘン・フィル初来日ライヴで、サントリーホール・オープニング・シリーズの一環としておこなわれたコンサートの貴重な記録。

中でもチェリビダッケの指揮したブルックナー第5番の公演は、雄大なスケール感と繊細を極めた表現手法、そして信じがたいほど細部までコントロールされたオーケストラ・サウンドの見事さによって、熱心な音楽ファンから大きな注目を集めており、1ヶ月前におこなわれたヨッフム&コンセルトヘボウのブルックナーの第7番や、5月のクライバーの一連の公演と共に伝説的な名演奏として語り継がれてきたものである。

今回、ヨッフムの演奏と同じくALTUSレーベルから登場することになったチェリビダッケの公演録音は、FM東京が収録したもののなぜか未放送だったというもので、20年間梶本音楽事務所の保管室に封印されていたというオリジナルの音源だそうだ。

なお、解説書にはチェリビダッケの息子でその録音資産について管理する立場にあるイオアン氏が、父のテンポに言及した興味深い文章を寄せている。

また、音楽評論家の岡本稔氏も「これほど再現性の高いチェリビダッケの録音は数少ないというのが率直な印象だ。ここに真のチェリビダッケの芸術と呼ぶにふさわしい音の記録が残されている」と賛意を表明していた。

実際に聴いてみたが、オーケストラの息長く分厚くしかも美しい響きには感嘆した。

チェリビダッケの指揮するミュンヘン・フィルは通常より大きな編成をとることでも知られていたが、その圧倒的なスケール感を思い出させてくれる見事な音質に仕上がっている。

まだ立って指揮していたチェリビダッケの体調も絶好調、完璧なオーケストラ・コントロールに心底驚かされる。

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2011年08月29日


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1990年10月20日 サントリーホールに於けるデジタル/ライヴ録音がついに音質良好なCDで登場。

このときの来日公演は、レパートリーのこともあって空前絶後の評判となり、サントリーホールやオーチャード・ホールでおこなわれた一連のブルックナー演奏はクラシック・ファンのド肝を抜いたものだった。

チェリビダッケとミュンヘン・フィルの響きは、残響豊かなサントリーホールでは実に美しく聴こえる。

明るさと適度の艶っぽさが印象的で、それはこのCDでも十分うかがい知ることができよう。

ミュンヘン・フィルのメンバーも「すばらしい演奏だった」と大満足していたと伝えられている。

3年後に本拠地でおこなわれた公演を収録したEMI盤の演奏に較べると、テンポは若干速めで緊張が途切れることがなく、長めの美しい残響と共に、チェリビダッケのブルックナーの姿を鮮明に伝えてくれる。

特に3分半ほど演奏時間の違う第3楽章アダージョでは、オーケストラのコンディションもよほど良かったのか、精緻をきわめたコントロールが、作品の天上的な魅力をフルに引き出している。

これはまさに神秘の森である。この美しさを味わい尽くすには、96分という時間でさえあまりに短い。

この巨大な演奏を要所要所で見事に引き締めていたのが名物奏者ペーター・ザードロによる強烈なティンパニで、当日、会場にいた聴衆はその視覚的なインパクトと共に、20型105名という巨大オーケストラのトゥッティの上に轟く打撃に心酔したようだ。

以前のLDに較べて大幅に音質向上したこのCDでは、そうしたティンパニの魅力をも十分に味わうことが可能だ。

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2011年08月09日


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晩年のチェリビダッケがもっとも得意とし、また聴衆からもリクエストが多かったのは何と言ってもブルックナーだった。

彼の晩年のブルックナー演奏は、他の指揮者や伝統とは大きく異なる。

まずテンポは遅く、響きは明晰をきわめる。

それぞれの楽器は、比較的同じ強さで、たとえて言うなら混声合唱の各パートの均等な重なり合いのような具合に、ハーモニーする。

これは、チェリビダッケが若い頃ルネサンス音楽を研究していたことにもよるのだろう。

元来、チェリビダッケの演奏においては、どのパートも非常に明瞭に聴こえるのだが、特にブルックナーだとその効果はすばらしい。

特に第8番はそういうチェリビダッケの芸風に合った名演だ。

めいっぱい遅いテンポで曲のロマンティシズムを綿密に歌いあげてゆく。

それゆえ演奏時間は著しく長いが、一つ一つの楽段のテクスチュアを丁寧に解きほくしつつじっくりと確実に進んでゆく。

終楽章の金管も決して咆吼にならず、気品豊かで、作品の巨大な姿を十分な時間をかけて解明した演奏。

私個人はチェリビダッケの晩年の演奏は必ずしも納得していないが、ブルックナーの後期交響曲の演奏は格別としている。

かなりの遅さではあるが、そのテンポによりはじめて可能な微細な表情、細部の綿密な仕上げがここで聴ける。

これはむろんチェリビダッケにしか成し得ない神業であろうが、ミュンヘン・フィルの暖色系の音色とアンサンブルがあってのことでもある。

神秘的であり哲学的であり、そして人間的である第8番と言える。

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2010年11月18日


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私はチェリビダッケのライヴに接したことはないが、多くの海賊盤を所有している。

私がなぜこれまでチェリビダッケの正規盤を採り上げてこなかったかというと、METEORやAUDIORなどのレーベルの海賊盤の方が、実際の生演奏の印象に近いと感じられるからである。

EMIやDGの正規盤は、デリケートなニュアンスにやや欠落が見られ、生前、チェリビダッケがあれだけ録音を嫌いつづけたわけも理解できるというもの。

けれどもディスクに収録された音楽だけといってもやはり傑出した演奏であることは間違いない。

こうして記録が残されたことに心から感謝したい。

チェリビダッケの初回の"公式リリース"のなかでも、このディスクはもっとも注目すべき録音の一つ。

《展覧会の絵》では、冒頭のプロムナードから、チェリならではの強烈な印象を与える。

でも、当初はその遅いテンポに戸惑いを覚えたとしても、この指揮者の精妙で懐の大きな世界にいったん馴染んでしまうと、その豊かさは他の人の演奏では決して体験できないものがある。

《ボレロ》は、小太鼓のpp(限りなくpppに近い)から始まって、ラストの終始にいたる18分11秒という間、聴き手は息をつくことすら許されない。

ぴんと張り詰めた緊張感がその比較的遅いテンポとともに指揮者の不屈の意志をもって堅持される。

その徹底ぶり! ボレロのリズムを軸として次々と様々な楽器を加えてゆく、その作業はあたかもスローモーション画像を見ているかのよう。

それらのすべてが克明で印象深く提示される。

この演奏はチェリビダッケの演奏の特徴の一つである、「繊細な段階づけをもつダイナミズムやオーケストラの響きの室内楽的明晰さと透明性」をはっきりと示している演奏もないだろう。

これもまた、チェリビダッケ伝説の記録の一つ。

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2008年01月08日


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チェリビダッケ&ミュンヘン・フィルの1986年10月15日、東京文化会館伝説のコンサートを完全収録。

尋常ならざる熱気と高揚!ミュンヘン・フィルがチェリビダッケと残した最高のブラームス4番と認定していた壮絶の大演奏!

ミュンヘン・フィルがチェリと残した最高のブラームスと自負する伝説の来日公演ライヴを完全収録。

確かにこのブラームス、大変な熱気と美しさ! 

この世の演奏会とは思えぬ、チェリのかけ声もこだまする壮絶なコーダに至っては聴く側、声も出ぬ、といったところ。

リハーサルも約30分弱収録されており、大変参考になる。

肝心の音質もさすがオリジナルテープの凄みがありレンジも広く素晴らしい品質である。

チェリのブラ4を聴いてると冒頭からあまりの美しさゆえに陶然とするとともに、第2楽章になる頃には、自分の人生を誤ったかなと自省する時がある。

もし、私がより安楽に、より経済的に豊かに、より社会的に愛されて生きる可能性があったとしたら……

そして当然ながら一般論として、人はそのような可能性を選んだほうがいいと思うが、私があえてその可能性を確信をもって選ばなかったのは、クラシック音楽にはまりこみすぎたからという理由が大きい。

いや、そのような可能性を選ばないであろう人間がチェリのブラ4に親和性を見出すのだという言い方が正しいのかもしれないが。

でも決められた安全なレールから逸脱していないひとや挫折した経験のないひとに第3楽章の屈折した情熱や第4楽章の諦観を理解できるとは到底思えない。

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2008年01月07日


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チェリビダッケの転機は、フルトヴェングラー亡き後のベルリン・フィルの指揮台をカラヤンに奪われたことだろう。カラヤンはさまざまな政治力を使って終身指揮者の座を手に入れ、レコード、映像などのメディアを駆使して自らがスターになるだけでなく、クラシック音楽のブームを世界中に広げた。

一方のチェリは、スウェーデン放送交響楽団、デンマーク王立歌劇場管弦楽団、フランス国立放送管弦楽団などヨーロッパのオーケストラを渡り歩き、ドイツに戻るとシュトゥットガルト放送交響楽団、ミュンヘン・フィルなどの指揮台に立った(ようやくベルリン・フィルの指揮台に立ったのは、実に数十年後、カラヤンが亡くなりアバドの時代になってから)。

チェリビダッケは完璧主義者ゆえオーケストラに対して長時間のリハーサルを要求し、一方で「レコードは音楽を破壊する」といってレコードへの録音を拒否した(放送許可も一度だけ)。テンポは晩年になるにつれてますます遅くなり、解釈も恣意的になっていった。

私にはチェリの姿勢は何から何までカラヤンと正反対のことをしなければ気がすまない、とでもいいたげに映る。

そうした立ち振舞いが彼を神格化し、正規レコードがない分海賊盤に群がるファンが増え、いっそうカリスマ指揮者としてのベールは厚くなった。かくして存命中はライヴでしか彼の音楽に触れることができなかったが、没後、息子(映画監督)が彼の録音のCD化を承諾。DGとEMIから、それぞれシュトゥットガルト放送交響楽団とミュンヘン・フィルでの演奏がCD化された。

さて、恣意的な解釈といっても緻密なプロファイリングののちに再構築してみせる力量は並みの指揮者にはない。そのあたりは、上にあげたDVDとCDで計り知ることができる。

彼がレコード録音を否定し続けた理由は「音楽は演奏されるその空間にいてこそ触れることができる《再現芸術》なのだ。」という主張にある。図らずも世界中の家庭で聴かれることになったチェリの録音は、磨き抜かれた美しい弦の響き、厚みのあるアンサンブルもさることながら、ホールの隅々にまで気を配った彼の緻密な音創りを明らかにした。

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