ラトル

2017年05月11日


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1曲目の『浄められた夜』はオリジナルの弦楽六重奏版で演奏されている。

メンバーはアルテミス四重奏団にアルバン・ベルク四重奏団のヴィオラ奏者トマス・カクシュカとチェロのヴァレンティン・エルベンが加わった編成で2002年のセッションになる。

全体の印象としていくらか神経質になり過ぎるところが無きにしも非ずだが、この曲のドラマ性は良く表現していると思う。

室内交響曲第2番Op.38はジェフリー・テイト指揮、イギリス室内管弦楽団の1987年の演奏で、入念な表現で聴かせてくれる。

特に第1楽章は、厚みのある弦の響きが見事で、テイトの知性と表現力の豊かさを如実にあらわしている。

リリカルな部分では巧みに歌っているが、ポリフォニックな後半ではもう少し確実なアンサンブルの裏付けが欲しい。

室内交響曲第1番Op.9、5つの管弦楽曲Op.16、モノドラマ『期待』Op.17及び管弦楽のための変奏曲Op.31に関しては総てサイモン・ラトル指揮、バーミンガム市響と同現代音楽グループの演奏になる。

現代音楽を得意とするラトルによって鍛え上げられたバーミンガム市響の技術水準とアンサンブルのチーム・ワークが聴き所だ。

中でも5つの管弦楽曲の『色彩』と題された第3曲目は音響作曲法で作られた最初の音楽と言われ、メロディーや拍打ちのリズムも消失したオーケストラの響きだけで構成された斬新な試みが興味深い。

尚これらの曲目は2010年にEMIからリリースされた「サイモン・ラトル、新ウィーン楽派の音楽」と銘打った5枚組セットにそのまま組み込まれている。

モノドラマの副題が付けられたソプラノ1人が演ずる『期待』は、精神医学者マリー・パッペンハイムの詩に基く事実上のオペラで、主人公の女性が自分が殺した男の亡骸を夜の森で発見し、モノローグに耽るという不気味な設定で、フロイトの深層心理学を舞台に映し出した作品らしい。

ソプラノのフィリス・ブリン=ジュルソンは良く健闘しているが、大編成のオーケストラの前ではドイツ語の発音が聴き辛く、シェーンベルクの考えた世界を充分に描ききっていないように思われる。

おそらくそれは曲自体の性質、つまりイタリア・オペラのように大音声で歌うことができない意識下の表現に壮大なオーケストレーションが施されていることにも起因しているのかも知れない。

実際の舞台であれば離れた席で歌手の言葉を一部始終聴き取ることは更に困難になるだろうからだ。

いずれにしてもこの2枚のCDはシェーンベルクの理論と音響の確執を見る思いがするセットである。

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2016年03月17日


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ワーナー20世紀クラシックス・シリーズのひとつで、この2枚組のCDにはレオシュ・ヤナーチェクの代表作『シンフォニエッタ』、『グラゴル・ミサ』、ピアノと室内楽のための『コンチェルティーノ』、『消えた男の日記』、ヴァイオリン・ソナタ等13曲が収められている。

このシリーズの中では比較的録音が新しく、鮮明な音色でヤナーチェクのエッセンスが鑑賞できるのが特徴だ。

20世紀の作曲家の中には自国の民族的なエレメント、つまり言語やリズム、メロディーを分析して作品に取り入れる例が少なくない。

その最も徹底した手法をとったのがハンガリーのコダーイとバルトークだろう。

しかしまたヤナーチェクもその1人で、彼は出身地のモラヴィア地方の言葉や民謡を熱心に研究した。

同じチェコの先輩ドヴォルザークは民族色溢れる曲想を多く盛り込んだが、ヤナーチェクはロマン派的な洗練という方法を取らず、むしろ土の薫りのするような音楽をそのまま楽曲に映し出した。

それは時として唐突といえるほどダイレクトで泥臭いが、ある時にはまた八方破れの斬新な印象を与えてくれる。

管弦楽のための『シンフォニエッタ』もその例外ではない。

指揮者サイモン・ラトルもそのあたりを良く心得ているようで、細部にこだわり過ぎることなく、大らかでたくましい曲趣を再現している。

ヤナーチェクはラトルにとって、デビュー当時から思い入れの深い重要なレパートリーで、本盤の演奏に見られる切れば血が吹き出てくるような圧倒的な生命力や、切れ味鋭いテンポ設定などには、現在の偉大なラトルを彷彿とさせるような豊かな才能を感じさせる。

フィルハーモニア管弦楽団を起用したのも成功しており、冒頭のファンファーレなど実に輝かしくて巧い。

バーミンガム市交響楽団との協演になる『グラゴル・ミサ』は、そのスラヴ的な厳粛さとスケールの大きさは流石だが、声楽のソリスト陣がいくらか力み過ぎているのが気になるところだ。

声楽曲の中ではイアン・ボストリッジが原語で歌う『消えた男の日記』が圧巻だ。

この曲では、田舎の因習に縛られて生きる若者の逸脱した恋と衝撃的な結末が見事に描き出されている。

筆者はチェコ語もその方言も全く分からないし、このシリーズでは歌詞対訳が省かれているので、訳詩をダウンロードする必要があった。

勿論対訳を読みながら聴いても一言一句の意味を知ることはできないが、ボストリッジの真に迫った歌唱からはヤナーチェクが望んでいた表現が少なからず実現されているように思う。

少なくともポストリッジの発音は明瞭を極めていて、かなり学習したことが窺える。

現代ではあらゆる声楽曲を原語で歌う習慣が定着しているが、それは作曲家が原詩のアクセントやイントネーションを尊重しながら曲を付けていくために、意味を優先せざるを得ない訳詩ではそうした言葉と音楽を密接に繋ぐ特性が失われてしまうからだ。

その意味でボストリッジのチェコ語への挑戦は非常に好感が持てる。

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2015年12月03日


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ヘンツェの作品はどれも人間の深層心理を音楽で具現するような不気味な曲趣を持っているために、心地良い響きに身を委ねたいクラシック・ファンには気の滅入るネクラな作曲家として敬遠されるかも知れない。

しかし彼の曲を注意深く聴いていると、研ぎ澄まされた極めて精妙なオーケストレーションに仕上げられていることに驚かざるをえない。

その入念さは殆んどラヴェルに通じるものがあるように思える。

このCDの第1曲目『大オーケストラのための舟歌』は、唸りを上げて軋むような轟音を響かせるサイモン・ラトルと彼の強力な手兵バーミンガム市響による1992年のライヴが秀逸だ。

皮肉にもバルカローラ特有の、揺れ動くハープの継続的なリズムはいつの間にか消え失せてしまう。

イメージを欲しい方はヘンツェ自身が言う、冥界を流れるステュクス河を渡って死に行く人、あるいは10年の漂流を終えて故郷イタカへの帰還を待つ嵐の晩のオデュッセウスを想像してもいいだろう。

しかしこの曲は表題音楽として捉えるより、むしろ絶対音楽の範疇で鑑賞する方がより自然な気がする。

同じメンバーによるもうひとつのライヴが交響曲第7番で、ブラスやパーカッション・パートが非常に充実した曲だが、ラトルの知性的な采配が音の洪水を避けた繊細で巧みな表現を堪能できる。

2枚目は混声合唱が加わる交響曲第9番は、インゴ・メッツマッハー指揮、ベルリン・フィルとベルリン放送合唱団による1997年のライヴだ。

作曲者の指示に忠実に取り組んだ冷静な演奏に好感が持てるし、第6楽章への頭脳的に導かれるクライマックスも非常に充実感がある。

特別な機会にしか演奏されないこうした曲が、将来オーケストラのレギュラー・レパートリーとして残ることを期待したい。

少年時代のヘンツェには、ヒトラー・ユーゲントとして間接的ではあったにせよ、ナチの大虐殺に手を貸した暗い過去がある。

そのことは彼に贖いきれないほどの深い悔いと悲しみを残した。

この作品は辛辣な自己批判から生まれたものだが、また個人的な理由に留まらず、人類全体に殺戮行為の愚かさと悲惨さを知って欲しいという切実なメッセージが込められている。

ベートーヴェンの「第9」が人類愛への『歓喜の歌』なら、ヘンツェのそれはさしずめ人間のさがへの『絶望の歌』だろう。

このCDではその他にイアン・ボストリッジのテノール、ジュリアス・ドレイクのピアノ伴奏による2000年のセッション『3つのオーデンの歌』がカップリングされている。

尚この曲集はボストリッジ自身によって前年に初演されたものだ。

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2015年09月20日


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ラトル若き日の一大記念碑だ。

このマーラー全集を語る前に指揮者サイモン・ラトルについて一度おさらいしておきたい。

1955年にリヴァプールで生まれたサイモン・ラトルはイギリスを、というより現在のクラシック音楽界を代表する名指揮者と見なされている。

2002年からはベルリン・フィルの芸術監督に就任した。

ラトルはさまざまな意味でカラヤンのうちに先鋭化されたクラシック音楽の商業化に抗っているように見える。

たとえば彼はローカル楽団に過ぎなかったバーミンガム市交響楽団を鍛え上げて、世界級の名声を得た。

むろん、彼のもとにはさまざまな有名オーケストラから常任指揮者や監督にならないかという誘いがあったという。

しかし、彼はそうしたスピーディかつイージーなスターへの道をとりあえず拒むポーズを見せた。

それが、見かけだけの音楽家にうんざりした人たちの圧倒的な支持を受け、結局はベルリン・フィルの芸術監督という黄金の椅子を獲得するに至ったのである。

アーノンクールはカラヤン主義と対決するために挑発的にならざるを得なかったが、ラトルは特に挑発的にならずにすんでいるところに、時代の推移が見て取れる。

ラトルはひとことで言うなら、超弩級の優等生である。

勉強家でもあり、バロックから現代作品まで、他の指揮者が興味を示さない音楽にも積極的で、おまけに、音楽界の風向きを読む賢さも持っている。

もともと頭がよくて能力のある人が人一倍勤勉なのだから、なかなか他の指揮者は太刀打ちできない。

たとえば、彼が1986年、つまり、わずか30歳とちょっとのときに録音したマーラーの交響曲第2番「復活」(バーミンガム市交響楽団)が本セットに収められている。

これは今聴いても、非常に完成度の高い演奏で、ラトルは、驚くべき丁寧さで音楽を進めていく。

曖昧な点を残すのは我慢がならないといった様子で、細部を詰めていくのだ。

カルロス・クライバーのデビュー録音「魔弾の射手」は、まさに天才的としか言いようがないものだったが、ラトルのこれは超秀才と呼ぶのがふさわしい。

しかも丁寧だけでなく、ちょっと普通でないというか、人工的というか、妙に耽美的な部分もある。

ラトルは、特にマーラーを指揮したとき、部分的に非常に遅いテンポを取ることがあるのだが、それがバーンスタインのように心を込めるといったものではなく、作りものめいた耽美性を示すのがおもしろい。

ラトルにとってマーラーは常に最も重要なレパートリーである。

彼のマーラー演奏は「復活」にもよく表れているようにきわめて明快で、見通しのよい響きがする。

そして、音のひとつひとつが演劇的な表現性をもって、つまり心理的なダイナミズムの表現として聞こえてくることはあまりなく、逆に、ラヴェル的とでも言えるほど、意味を剥ぎ取られている。

だから、たとえば交響曲第7番をテンシュテットと比べてみるとよくわかるが、皮肉の色合いはまったく薄く、陰影もあまりない。

それゆえ、音楽にドラマを求める聴き手にとってはあまりに薄味にすぎようが、音楽とは音という絵の具を使った抽象画であると考える人には、実に魅力的だろう。

響きがよく練り上げられ、調和した、洗練された音楽であり、不安なおののきや危険な誘惑はまったくなく、健康的である。

筆者の正直な感想を記すなら、ラトル流はもちろんひとつの解釈あるいは演奏法として、存在してよいと思うし、立派な水準に達しているが、それだけで捉えきれないものがマーラーにはある。

バーンスタインやテンシュテットの強烈で、毒があって、自分の人生を問うているような、そして聴き手である自分の人生も問うているような圧倒的な演奏を知っているがゆえに、不満が消え去らない。

ここまで調和してしまうと、音楽がきれいごとになってしまっていると感じてしまう。

とはいえ、彼のマーラー全集は、現代において聴くことができる最高のマーラーのひとつであることは認めねばならない。

本全集でラトルはバーミンガム市交響楽団を軸に、「第5」「第10」ではベルリン・フィル、「第9」ではウィーン・フィルを起用しているが、目下のところ、バーミンガム市交響楽団との録音のほうが聴く価値があると思う。

さすがの超秀才も、これらの録音当時はベルリン・フィル、ウィーン・フィルのようなくせ者オーケストラを自由自在に操るまでには至っていないからだ。

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2015年09月09日


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本盤は、ラトルがシェーンベルクの『グレの歌』を、音楽監督就任を前にベルリン・フィルと録音したもので、2001年のベルリン芸術週間の目玉となった記念碑的公演のライヴ収録である。

シェーンベルク初期の大作『グレの歌』はロマン派の影響が濃いとされているが、実際、シェーンベルクの作品の中では珍しく存命中に商業的成功を収めた作品であることも納得の、ワーグナーらしさが充満した曲でもある。

演奏は非常にクオリティが高く、ベルリン・フィル初の『グレの歌』にふさわしい強力なサウンドが最大の聴きものとなっている。

このシェーンベルクの大曲には、これまでにも優れた演奏があるが、ラトルのこの演奏は透明度の高さと情感の豊かさが複合的に共存した点で特筆すべきものがある。

この時期は、ラトルが未だベルリン・フィルを掌握し切れていない時期の演奏ではあるが、何よりも、ラトル自身がオペラにおける豊富な指揮の経験により合唱や独唱者の扱いが実に巧みであることも相俟って、素晴らしい名演を成し遂げていると言えるだろう。

指揮者のラトルが打楽器出身で近・現代音楽に造詣が深いということもあってか、特殊奏法への配慮や打楽器パートの強調が実に面白く、「歌曲的な」アプローチとはだいぶ雰囲気の異なるものになっている。

大人数の合唱も凄い迫力で、第3部での幽霊たちの合唱にはまさに鬼気迫るものがある。

5管編成オーバーの巨大オーケストラと十分に渡り合う彼らのパワーは圧倒的であるが、それもラトルの適切な誘導があればこそであろうし、名高い男声12部合唱での仕上がりも完璧だ。

もちろん、静かな部分でのアプローチも優れており、各パートが十分に見通せる透明度の高さは、この作品におけるシェーンベルクのスタンスが、完成までに10年を要したという年月の経過ゆえに微妙に変化していたことさえ窺わせる精妙なもので、さすがはラトルと思わせる。

しかもラトルとベルリン・フィルは、この長大な叙事詩をあたかも室内楽的であると思えるぐらいの透明度の高い精緻さで演奏している。

楽器の数も多く編成も巨大で(この録音では総勢300人以上)、扇情的にド派手にやろうとすると分かり易い曲なのだが、本盤でのラトルの解釈はそういう熱狂からは少し距離を置いて、1音1音緻密にクリアな音を積み上げて音のボリュームを作り出している(勿論、これは演奏者側にも相当な力量が無いと難しい離れ業な訳だが)。

そういった「聴き易さ」も表現しているところに、ラトルの偉大さがあると言えるところであり、その巨大で複雑な管弦楽を見事に再現していくラトルとベルリン・フィルの凄演に感嘆する。

しかも、クールではなく、暖かい情感にみちた音空間を華麗に展開しているのだから、まさに驚きである。

むろん、本演奏においても、ラトルの得意とする合唱曲、そして現代音楽であるということもあって、思い切った表現を随所に聴くことが可能だ。

テンポの効果的な振幅や思い切った強弱の変化などを大胆に駆使するとともに、打楽器の鳴らし方にも効果的な工夫を施すなど、ラトルならではの個性が満載であり、ラトルの個性が演奏の軸足にしっかりとフィットし、指揮芸術の範疇を外れていないのが見事に功を奏している。

そして、ラトルは、合唱や独唱者の扱い方が実に巧いが、本盤の演奏においてもその実力が如何なく発揮されているとも言えるところであり、ベルリン放送合唱団、ライプツィヒ中部ドイツ放送合唱団、エルンスト・ゼンフ合唱団を見事に統率して、最高のパフォーマンスを発揮させている手腕を高く評価したい。

独唱陣では、山鳩役のアンネ・ゾフィー・フォン・オッターが圧巻で、『グレの歌』の内面的なクライマックスでもある「山鳩の歌」における重みと深みのある歌は過去最高と言いたくなる感動的な内容である。

その他では、クヴァストホフの農夫&語り、ラングリッジの道化が見事な仕上がりだ。

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2015年06月28日


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現代を代表する指揮者ラトルが、ベルリン・フィルの芸術監督に就任する頃に、ウィーン・フィルと録音したベートーヴェンの交響曲全集だ。

サー・サイモン・ラトルは1955年生まれのイギリス人の指揮者で、2002年よりベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者であるが、もう若くはないとの彼の申し出で、2018年で去るとのことである。

ベルリンの新聞によれば、ラトルは前任者たちとは異なり、新しい世代の指揮者と言われている。

指導力は前任者たちと同じようにあるものの、とても人付き合いがよく、独裁的ではなく、楽団員たちに対して偏見がなく、寛大である。

ベルリン・フィルの演奏者たちは言わずもがなとてつもない能力のある一匹狼の集まりである。

一旦指揮を始めると、ラトルはオーケストラをしっかりと自分のものとし、練習のときには、問題があると、指揮台を降り、その楽団員のもとに自ら行き、直接話し合い、自分の目的を説明し、全員でともに音楽を作っていき、指揮する場合、スコアを研究し、長い時間をかけていわば料理しているとのことである。

ラトルは、従来の指揮者と異なり、常に新しい作品をベルリン市民に紹介してきた。

楽団員には、指揮者の言いなりに演奏し、あの指揮者ならあの音とわかるような決まりきった演奏をすることは求めず、作曲家にふさわしい様々な演奏ができる能力を育ててきた。

つまり楽団員にとっては常に新しい発見の日々と思われる。

清澄さ、明瞭さ、透明感がラトルの音楽性の特徴であるが、また音楽教育にも熱心で、楽団員を連れて、保育所にも学校にも生の音楽を聴かせに行くが、そこには希望があるという。

完全について彼は次のように言っている。

「完全はこの世には存在しない。楽団員には最高の技術は求めない。車は技術で作る。音楽は別の世界だ。作曲家はだれでも雰囲気を大事にする。そして解釈について話し合うことを好む。作曲家は完璧に楽譜通りに演奏することは最初から求めていない。音楽を通じてコミュニケーションをしたいなら、精緻さに陥らないようにすることだ。音楽家は機械ではない。そしてミスを恐れる音楽には生命がない」と。

このウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のCDは、すべてライヴで、「第5」が2000年12月、その他は2002年4月から5月にかけて演奏されたものである。

この年にラトルはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に選出されているが、ウィーン・フィルを選んだのは、ベートーヴェンの望む雰囲気があると判断したものと思われる。

そしてベートーヴェンがもし生きていたら、演奏に関する解釈を喜んで聴いてくれるに違いないと、楽団員に彼の解釈を説明し、楽団員が彼の意を理解したと思われる。

21世紀の新のベートーヴェン像としてラトルが名門ウィーン・フィルを起用して行った、モダン楽器を用いての古楽的奏法の導入、アーノンクールたちからの影響もあろうが、ラトルはベートーヴェンのスコアに潜んでいる劇性を見事に描いた、非常にバランスのいい演奏と言えよう。

強いて言えば、ライヴではなくスタジオ録音で徹底して録音して欲しかった反面、ライヴならではの臨場感溢れる素晴らしい出来になっているCDであるとも思う。

ウィーン・フィルもとてつもない技量を持った楽団員の集まりであるし、ラトルの音楽には常に、作曲家の世界を大事にする新しい発見がある。

本全集からは、サイモン・ラトルの目指しているものがなにか、彼の世界に触れることができよう。

「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が私を求めた、だからここにいる」との、いつも控えめなラトルが遠慮がちに言った言葉はとても重い。

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2015年05月29日


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ラトルの、意外にも初のR.シュトラウス録音であった。

その曲目として、カラヤン&ベルリン・フィルのDGデビュー盤だった「英雄の生涯」を選んだところがラトルらしい。

アバドの後を追ってベルリン・フィルの第6代芸術監督に2002年に就任したラトルであるが、就任から5年間ほどは、名うての猛者たちを統率することがままならず、新機軸を打ち出そうという気負いだけが空回りした凡庸な演奏を繰り返した。

これは、アバドと同様であり、ベルリン・フィルの芸術監督就任前の方が、よほど素晴らしい演奏を成し遂げていたとも言えるところだ。

しかしながら、マーラーの交響曲第9番あたりから、漸くラトルならではの個性が発揮された素晴らしい名演を成し遂げるようになった。

芸術監督に就任してから5年を経て、漸くベルリン・フィルを統率することができるようになったことであろう。

ラトルは今日でこそベルリン・フィルを完全に掌握し、現代を代表する大指揮者の1人として数々の名演を成し遂げつつあるが、ベルリン・フィルの芸術監督に就任してから数年間は鳴かず飛ばずの状態が続いていたと言える。

先般、SACD化された芸術監督お披露目公演のマーラーの交響曲第5番も、意欲だけが空回りした凡庸な演奏であったし、その後もシューベルトの交響曲第8(9)番「ザ・グレート」、ベルリオーズの幻想交響曲、ブルックナーの交響曲第4番など、箸にも棒にもかからない凡演の山を築いていたと言える。

ラトルも、ベルリン・フィルの芸術監督就任後は、名うての一流奏者たちを掌握するのに相当に苦労したのではないだろうか。

そして、プライドの高い団員の掌握に多大なる労力を要したため、自らの芸術の方向性を見失っていたのではないかとさえ考えられるところだ。

それ故に、必然的に意欲だけが空回りした演奏に終始してしまっていると言える。

本演奏も美しくはあるが根源的な力強さがない。

同曲を精緻に美しく描き出すことにつとめたのかもしれないが、本演奏を聴く限りにおいては、ラトルが同曲をこのように解釈したいという確固たる信念を見出すことが極めて困難である。

そうなった理由はいくつかあるが、やはりラトルの気負いによるところが大きいのではないだろうか。

ベルリン・フィルの芸術監督という、フルトヴェングラーやカラヤンといった歴史的な大指揮者が累代に渡ってつとめてきた最高峰の地位についたラトルにしてみれば、肩に力が入るのは当然であるとは言えるが、それにしてはラトルの意欲だけが空回りしているような気がしてならないのだ。

ベルリン・フィルの猛者たちも、新芸術監督である若きラトルの指揮に必死でついていこうとしているようにも思われるが、ラトルとの息が今一つ合っていないように思われる。

そうした指揮者とオーケストラとの微妙なズレが、本演奏にいささか根源的な力強さを欠いていたり、はたまた内容の濃さを欠いていたりすることに繋がっているのだと考えられるところだ。

もちろん、ベルリン・フィルの芸術監督に就任したばかりの若きラトルに過大なものを要求すること自体が酷であるとも言える。

それでも本盤に収められたR.シュトラウス作品は、ラトルが複雑なスコアを読み解き、壮大さと明晰さを両立させながらベルリン・フィルを巧みに統率して、自らの個性を十二分に発揮し得た素晴らしい快演に仕上がっていると高く評価したいと考える。

音質は、これまでHQCD化が図られることなどによって十分に満足できる良好な音質であると評価したい。

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2015年05月24日


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この演奏ははっきり言って良くない。

アバドの後を追ってベルリン・フィルの第6代芸術監督に2002年に就任したラトルであるが、就任から5年間ほどは、名うての猛者たちを統率することがままならず、新機軸を打ち出そうという気負いだけが空回りした凡庸な演奏を繰り返していた。

これは、アバドと同様であり、ベルリン・フィルの芸術監督就任前の方が、よほど素晴らしい演奏を成し遂げていたとも言えるところだ。

ラトルは今日でこそベルリン・フィルを完全に掌握し、現代を代表する大指揮者の1人として数々の名演を成し遂げつつあるが、ベルリン・フィルの芸術監督に就任してから数年間は鳴かず飛ばずの状態が続いていた。

世界最高峰のオーケストラを手中に収め、それだけに多くのクラシック音楽ファンの視線は厳しいものとならざるを得ないが、そうしたことを過剰に意識したせいか、気負いだけが空回りした凡庸な演奏を繰り返していたと言えるところだ。

個性を発揮しようと躍起になるのは結構なことであるが、自らの指揮芸術の軸足がふらついているようでは、それによって醸成される演奏は、聴き手に対して、あざとさ、わざとらしさしか感じさせないということに繋がりかねない。

しかしながら、2008年のマーラーの交響曲第9番あたりから、漸くラトルならではの個性が発揮された素晴らしい名演を成し遂げるようになった。

芸術監督に就任してから5年を経て、漸くベルリン・フィルを統率することができるようになったことであろう。

先般、SACD化された芸術監督お披露目公演のマーラーの交響曲第5番も、意欲だけが空回りした凡庸な演奏であったし、その後もR.シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」、ベルリオーズの幻想交響曲、ブルックナーの交響曲第4番など、箸にも棒にもかからない凡演の山を築いていたと言える。

ラトルも、ベルリン・フィルの芸術監督就任後は、名うての一流奏者たちを掌握するのに相当に苦労したのではないだろうか。

そして、プライドの高い団員の掌握に多大なる労力を要したため、自らの芸術の方向性を見失っていたのではないかとさえ考えられるところだ。

それ故に、必然的に意欲だけが空回りした演奏に終始してしまっている。

本演奏も美しくはあるが根源的な力強さがない。

同曲を精緻に美しく描き出すことにつとめたのかもしれないが、本演奏を聴く限りにおいては、ラトルがシューベルトの交響曲第9番「ザ・グレイト」をこのように解釈したいという確固たる信念を見出すことが極めて困難である。

そうなった理由はいくつかあるが、やはりラトルの気負いによるところが大きいのではないだろうか。

ベルリン・フィルの芸術監督という、フルトヴェングラーやカラヤンといった歴史的な大指揮者が累代に渡ってつとめてきた最高峰の地位についたラトルにしてみれば、肩に力が入るのは当然であるとは言えるが、それにしてはラトルの意欲だけが空回りしているような気がしてならないのだ。

ベルリン・フィルの猛者たちも、新芸術監督である若きラトルの指揮に必死でついていこうとしているようにも思われるが、ラトルとの息が今一つ合っていないように思われる。

そうした指揮者とオーケストラとの微妙なズレが、本演奏にいささか根源的な力強さを欠いていたり、はたまた内容の濃さを欠いていたりすることに繋がっているのだと考えられるところだ。

もちろん、ベルリン・フィルの芸術監督に就任したばかりの若きラトルに過大なものを要求すること自体が酷であるとも言える。

現代のラトルがシューベルトの交響曲第9番「ザ・グレイト」の録音を行えば、より優れた演奏を行うことができたのではないかと容易に想定できるだけに、ラトルは、同曲の録音を行うのがいささか早過ぎたと言えるのかもしれない。

音質は、これまでHQCD化が図られることなどによって十分に満足できる良好な音質であると評価したい。

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2015年05月13日


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現在では既に引退してしまったブレンデルによる4度目のベートーヴェンのピアノ協奏曲全集であるが、当時、進境著しかったラトル&ウィーン・フィルという豪華なバックを伴って、ブレンデルによる全集中、最高の名演を成し遂げることになった。

まさに、ピアニストに指揮者やオーケストラと役者が揃った名演であると高く評価したい。

本全集より14年前の旧録音も名演であり、その方を高く評価する者もいるが、指揮者やオーケストラの芸格や、ブレンデルの円熟を考慮すれば、筆者としては、やはりこの最新の全集を最上位に置きたいと考える。

先ずは、ブレンデルのピアノを高く評価したい。

この理論派のピアニストの理屈っぽさについては、一部の批評家の間で酷評されているのは承知しているが、本盤では、そのような短所を聴きとることは皆無であり、音楽は実にスムーズに流れている。

それでいて、骨太のテクニックによる強靭にして重厚な打鍵は、怒れる獅子ベートーヴェンを見事なまでに体現しており、他方、緩徐楽章における抒情的表現にもいささかの不足もない。

4度目の全集は、いずれの楽曲も名演の名に値するが、やはり、最高峰の名演に君臨するのは、第5番「皇帝」であると考える。

ここでのブレンデルのピアノは実に模範的だ。

4度目の録音ということもあるのだろう、どこをとっても曖昧模糊な箇所はなく、堂々たるピアニズムで、威風堂々たるベートーヴェンを描いて行く。

とにかく、ブレンデルのピアノが実に堂々たるピアニズムであり、まさに「皇帝」の風格を兼ね備えているのが素晴らしい。

どこをとっても、力強い打鍵、自信に満ち溢れた堂々たるインテンポで一貫しており、それでいて、緩徐楽章の抒情豊かな演奏も、格調の高さを決して失うことはない。

このピアニストに特有の理屈っぽさは微塵もなく、楽曲の魅力だけが我々聴き手にダイレクトに伝わってくる。

加えて、ラトル&ウィーン・フィルの演奏が実に素晴らしい。

ラトルの指揮は、ブレンデルの巨匠風の表現に一歩も引けを取っておらず、ブレンデルのピアノともども重厚さの極みであり、このような巨匠風の表現を聴いていると、ベルリン・フィルの芸術監督として大活躍する現在において大きく開花している偉大な才能の萌芽を随所に感じることが可能である。

本盤の録音当時は、未だベルリン・フィルの芸術監督就任前であるが、こうした堂々たる指揮ぶりに、その後のラトルの前途洋々たる豊かな将来性が感じられる。

例えば、「第4」の第2楽章の重厚さ。

他の演奏だと、緩徐楽章であることを意識して、やたら軟弱な表現に終始してしまうケースも散見されるが、さすがにラトルはそのような落とし穴に陥ることは全くない。

終楽章における圧倒的な迫力もラトルならではのものであり、こういったところに、今日のラトルを予見させる才能があらわれていると言えよう。

ウィーン・フィルの美しい演奏も特筆すべきであり、ブレンデルのピアノやラトルの指揮に独特の潤いを付加し、この名演の価値を更に高めることに大きく貢献していることを見逃してはなるまい。

録音も通常CDでありながら、鮮明な音質であり、本盤の名演の価値を更に高める結果となっている。

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2015年04月26日


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ラトル&ベルリン・フィルの近年の充実ぶりを示す素晴らしい名演だ。

今後、本演奏を皮切りとしてマーラーチクルスを開始するようであるが、今後の録音に大いに期待できる名演である。

ラトルのベルリン・フィルへのデビューは、マーラーの「第5」であったが、意欲だけが空回りしたイマイチの演奏であったと記憶する。

その後の数年間は、ラトルもベルリン・フィルを掌握するのに苦労したせいか、凡演の数々を生み出すなど、大変苦しんだようである。

しかしながら、数年前のマーラーの「第9」あたりから、ベルリン・フィルを見事に統率した素晴らしい名演の数々を聴かせてくれるようになった。

本盤も、そうした一連の流れの中での圧倒的な名演だ。

第1楽章の冒頭から、ゆったりとしたテンポで重厚な深みのある音色を出している。

ここには、ラトルの「復活」に対する深い理解に基づく自信と風格が感じられる。

トゥッティにおいてもいささかも力むことがなく、力任せの箇所は皆無、テンポの緩急やダイナミックレンジの幅の広さは桁外れであり、随所にアッチェレランドをかけるなど、劇的な要素にもいささかの不足はない。

弦楽器のつややかな響きや、金管楽器の巧さも特筆すべきものであり、ベルリン・フィルも、アバド時代から続いた世代交代が、ラトル時代に入って、漸く安定期に入ったことを大いに感じることができる。

終結部の大見得を切った演出は実にユニークであるが、あざとさをいささかも感じさせないのは、ラトルの「復活」への深い共感と理解の賜物であると考える。

第2楽章は一転して速いテンポであるが、情感の豊かさにおいては人後に落ちるものではなく、決して薄味な演奏には陥っていない。

中間部の猛烈なアッチェレランドは実に個性的な解釈。

第3楽章は、冒頭のティンパ二の強烈な一撃が凄まじく、その後の主部との対比は実に巧妙なものがあり、ラトルの演出巧者ぶりを大いに感じることが可能だ。

それにしても、この楽章の管楽器の技量は超絶的であり、あまりの巧さに唖然としてしまうほどだ。

後半の金管楽器によるファンファーレは、凄まじい迫力を誇っているが、ここでも力みはいささかも感じられず、内容の濃さを感じさせるのが素晴らしい。

低弦の踏みしめるような肉厚の重厚な響きは、カラヤン時代を彷彿とさせるような充実ぶりだ。

第4楽章は、ゆったりとしたテンポで進行し、静寂さが漂うが、ここでのメゾ・ソプラノのコジェナーは、素晴らしい歌唱を披露している。

ベルリン・フィルも、コジェナーの歌唱と一体となった雰囲気満点の美演を披露している。

特に、木管楽器の美麗な響きは、カラヤン時代にも優るとも劣らない美しさであり、聴いていて思わず溜息が漏れるほどだ。

終楽章は、壮麗にして圧倒的な迫力で開始され、低弦による合いの手の強調が実にユニークで、ゲネラルパウゼの活用も効果的だ。

主部は堂々たる進軍であるが、随所に猛烈なアッチェレランドを駆使するなど、ドラマティックな要素にもいささかも不足はない。

合唱が入った後は、ゆったりとした荘重なインテンポで曲想を丁寧に描き出していく。

ソプラノのロイヤルや、メゾ・ソプラノのコジェナーも実に見事な歌唱を披露しており、ベルリン放送合唱団も最高のパフォーマンスを示している。

そして、壮大なスケールと圧倒的な迫力の下に、この至高の名演を締めくくるのである。

SACDによる音質の鮮明さや音場の幅広さも本盤の価値を高めるのに大きく貢献している点も忘れてはならない。

木幡一誠氏によるライナーノーツの充実した解説は、実に読みごたえがあり、スカスカのライナーノーツが氾濫するという嘆かわしい傾向にある中で、画期的なものとして高く評価したいと考える。

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2014年12月22日


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ドヴォルザークの4つの交響詩集は、その題材の残忍さ、異常さから俗に殺人交響詩集とも称されている。

同交響詩集は、交響曲第9番「新世界より」やチェロ協奏曲ロ短調、そして弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」などの、ドヴォルザークのあらゆる作品の中でも最高峰の傑作が生みだされた後に作曲された晩年の作品であるだけに、更に優れた作品であるかのように思いきや、なかなかそうはいっていないと言わざるを得ない。

音楽評論家や学者の意見も、創作力が、交響曲第9番やチェロ協奏曲ロ短調などにおいてピークに達した後、減退しているというのが太宗を占めている。

交響詩集の各楽曲のオーケストレーションについては、ドヴォルザークが恩師であるブラームスを尊敬し、その作品から深い影響を受けているものの、自らがワグネリアンであることを公言していたとも伝えられているところであり、これらの各楽曲には、そうしたドヴォルザークのワグネリアン的な資質が見事に反映されていると言っても過言ではあるまい。

ただ、題材も含めた楽曲の芸術性と言った点に鑑みれば、ドヴォルザークの晩年の傑作と評価するには躊躇せざるを得ないところであり、そのせいか、4つの交響詩すべての録音も、チェコの指揮者による演奏にほぼ限定されていたとも言えるところだ。

このような中で、ラトル&ベルリン・フィルによる本盤が登場したというのは、これらの楽曲の魅力を世に知らしめるという意味において、極めて画期的なことであると考えられるところである。

演奏自体は、チェコの指揮者のように、ボヘミアの民族色など薬にしたくもない演奏と言える。

同曲のオーケストレーションの面白さ、巧みさを、ベルリン・フィルという世界最高峰のオーケストラを用いて見事に紐解くことに成功した演奏と言えるのではないだろうか。

当時のラトルの欠点でもある表現意欲の空回りを感じさせないわけではないが、それでも一般的にはあまり知られていないドヴォルザークの交響詩集のいわゆるオーケストラ曲としての魅力をこれほどまでに堪能させてくれれば文句は言えまい。

いずれにしても、本盤の演奏は、ドヴォルザークの交響詩集のオーケストラ曲としての魅力を多くのクラシックファンに認知させるのに成功した素晴らしい名演と高く評価したい。

音質は、従来CD盤でも十分に良好な音質であったが、今般、ついに待望のSACD化が図られることになった。

音質の鮮明さ、音場の拡がりなど、どれをとっても既発の従来CD盤とは比較にならないほどの極上の素晴らしい高音質であり、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、ラトル&ベルリン・フィルによる素晴らしい名演を、高音質のSACD盤で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2014年12月20日


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シマノフスキは、ショパン亡き後のポーランドを代表する作曲家であり、本盤の作品番号を見てもわかるように、各ジャンルに渡って相当数の楽曲を作曲した。

しかしながら、シマノフスキの楽曲は、演奏されること自体が稀であり、その作品の質の高さに鑑みると、きわめて不当な評価しかされていないと言えるだろう。

そんなシマノフスキに、ラトルという現代最高の指揮者の1人が、数々の録音を行っているというのは、何と言う幸福と言えることだろうか。

本盤に収められた歌劇「ロジェ王」などは、素晴らしい傑作オペラだ。

音楽の素晴らしさや作品の内容の意味深さといい、同時代の隣国ヤナーチェクのオペラにも匹敵する稀有の作品と言える。

録音自体が殆どないだけに、本盤のラトル盤は、そのまま同曲演奏の玉座を占める至高の名演ということになる。

ラトルの彫りの深い表現は、シマノフスキに対する敬意と愛着に満ち溢れて素晴らしいの一言であるし、ロジェ王役のハンプソンを始めとする独唱陣や少年合唱団を含むバーミンガム市合唱団もきわめて優秀だ。

ラトルは1999年録音時に「シマノフスキは、私が面倒を見ようと思った作曲家の1人です。その素晴らしさのわりにはポーランド以外の国で演奏される事がきわめて少ない。ロジェ王は、本当に珍しい、今まで顧みられる事のなかった、真のマスターピースです」と語っていた。

ラトルの薫陶の下、鍛え抜かれたバーミンガム市響も最高のパフォーマンスを示している。

交響曲第4番も、アンスネスのピアノともども同曲最高の名演と言える。

HQCD化によって、音質がさらに鮮明になったことも、本盤の価値を大いに高めている。

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2014年12月19日


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この演奏ははっきり言って良くない。

ラトルは、2008年のマーラーの交響曲第9番の録音あたりから、猛者揃いのベルリン・フィルを漸く掌握して、自らの個性を発揮した素晴らしい名演の数々を成し遂げるようになったが、2002年の芸術監督就任後の数年間は、それこそ鳴かず飛ばずの状態が続いていた。

世界最高峰のオーケストラを手中に収め、それだけに多くのクラシック音楽ファンの視線は厳しいものとならざるを得ないが、そうしたことを過剰に意識したせいか、気負いだけが空回りした凡庸な演奏を繰り返していたと言えるところだ。

個性を発揮しようと躍起になるのは結構なことであるが、自らの指揮芸術の軸足がふらついているようでは、それによって醸成される演奏は、聴き手に対して、あざとさ、わざとらしさしか感じさせないということに繋がりかねない。

ラトルは、ヴァントが、その最晩年にベルリン・フィルとともに行ったブルックナーの交響曲のコンサートを聴き、実際に楽屋を訪ねたこともあったようである(ヴァントの自伝にその旨が記述されている)。

しかしながら、本演奏を聴く限りにおいては、ヴァントから学んだものなど微塵もないと言わざるを得ない。

いや、むしろ、ヴァントの神々しいまでの崇高な名演を過剰に意識するあまり、しゃかりきになって、独自のスタイルを打ち出そうともがいているような印象さえ受ける。

これは、ブルックナーの交響曲を演奏するに際しては、危険信号であると言えるだろう。

ベルリン・フィルも、そうしたラトルの指揮に戸惑いを見せているような雰囲気も感じられるところであり、もちろん重量感溢れる演奏は行っているものの、今一つ音楽に根源的な迫力が感じられない。

ラトルも、無用なテンポの振幅は最小限に抑えているようではあるが、独自のスタイルを打ち出そうというあせりのせいか、時として無用な表情づけがなされているのが問題だ。

ラトルは、昨年、ブルックナーの交響曲第9番(終楽章の補筆版付き)の名演を成し遂げたが、かかる演奏との格差は歴然としており、現代のラトルがブルックナーの交響曲第4番の録音を行えば、より優れた演奏を行うことができたのではないかと容易に想定できるだけに、ラトルは、同曲の録音を行うのがいささか早過ぎたと言えるのかもしれない。

それ故、ラトルには今後、ブルックナーの交響曲第4番の再録音を大いに望んでおきたいと考える。

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本盤は、ラトルとベルリン・フィルの一流奏者、そしてベルリン・フィルと因縁のあるザビーネ・マイヤーが成し遂げた傑作であると言えるだろう。

ニールセンは、グリーグやシベリウスなどと並んで北欧を代表する大作曲家の1人であるが、グリーグやシベリウスなどと比較すると録音点数や人気度において、かなり遅れをとっている。

近年では、交響曲全集の録音点数が急速に増えつつあるのは好ましい傾向にあるが、それでも、本盤に収められたフルート協奏曲やクラリネット協奏曲、そして管楽五重奏曲の録音など、国内盤はおろか、輸入盤さえ殆ど存在しないという嘆かわしい状況にあると言えるところだ。

このような中で、ラトル&ベルリン・フィル、そしてその超一流の首席奏者、ザビーネ・マイヤーが集結した本盤の演奏は、おそらくはこれら3曲の演奏史上でも最も豪華な布陣による演奏であり、それによって生み出された演奏も、おそらくはそれぞれの楽曲の演奏史上最高の名演に仕上がっていると高く評価したい。

このような超豪華な布陣による演奏は、ジャンルは全く異なるが、カラヤンがロストロポーヴィチ、オイストラフ、リヒテルとともにベートーヴェンの三重協奏曲をスタジオ録音した時と印象が重なると言えるところであり、ラトルが現代最高の指揮者であるということを名実ともに知らしめた演奏ということもできるであろう。

フルート協奏曲にしても、クラリネット協奏曲にしても、ニールセンならではの華麗なオーケストレーションが施された交響曲第1番〜第5番までの諸曲とは異なり、むしろ、シンプルシンフォニーとの愛称が付けられた交響曲第6番の世界にも繋がる慎ましやかな作品であるが、ラトルは、ベルリン・フィルを巧みに統率して、清澄さの中にも実にコクのある音楽の醸成に成功しているのが素晴らしい。

エマニュエル・パユのフルート演奏は、もはや表現する言葉が追い付かないほどの美しさを誇っており、これほどの名演奏を聴くと、他のフルート奏者が同曲を演奏することさえ断念せざるを得ないのではないかとさえ思われるほどである。

ザビーネ・マイヤーのクラリネットソロも、女流奏者でありながら線の細さがなく、骨太の音楽が構築されているのが素晴らしい。

カラヤン時代の末期には、失意のうちにベルリン・フィルと物別れしたマイヤーであったが、本演奏を持って名誉の帰還(実際に帰還したわけではない)を果たしたと言っても過言ではあるまい。

管楽五重奏曲に至っては、凄いの一言。

現代を代表する超一流奏者による演奏が悪いはずがなく、まさに非の打ちどころのない圧倒的な名演に仕上がっていると高く評価したい。

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2014年12月03日


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本盤の演奏は、ラトルがベルリン・フィルの芸術監督に就任後、2008年のマーラーの交響曲第9番の登場までの間、鳴かず飛ばずの状態にあった中では、最高峰の名演と言えるのではないだろうか。

ラトルも、世界最高峰のオーケストラを手中におさめた後は、当然、クラシック音楽ファンの厳しい視線にさらされたこともあって、それを過剰に意識したせいか、演奏に気負いが見られたところである。

その気負いが、自らの指揮芸術の軸足にフィットしたもの(最近のラトルはそうである)であれば、いわゆるラトルの個性が全面的に発揮した名演ということになるのであろうが、そうでない場合には、奇を衒ったわざとらしさ、あざとさだけを感じさせる凡庸な演奏に陥ってしまうことになる。

ラトルの当時の演奏は、まさにそれに該当するところであって、芸術監督就任お披露目公演のマーラーの交響曲第5番、ブルックナーの交響曲第4番、シューベルトの交響曲第9番など、死屍累々の山。

どうなることかと心配していたところ、前述のマーラーの交響曲第9番で奇跡的な逆転満塁ホームランを放つのであるが、本盤のハイドンの交響曲集は、不調をかこっていた時代にまぐれであたったクリーンヒットのような趣きがある。

そうなった理由は、楽曲がハイドンの交響曲であったということにあると思われる。

ハイドンの交響曲は極めてシンプルに書かれているが、それだけに様々な演奏スタイルに堪え得るだけの懐の深さを湛えている。

モーツァルトの交響曲との違いは、まさにその点にあるのであって、仮に、ラトルがモーツァルトの交響曲集の録音を行っていたとすれば、間違いなく凡打をもう1本打ったことになったであろう。

それにしても、これほどまでにハイドンの交響曲を面白く、そして楽しく聴かせてくれる演奏は他にあったであろうか。

もちろん、ピリオドオーケストラを起用しての演奏には、インマゼールやノリントン、ブリュッヘンなどの名演が存在しているが、大オーケストラを起用しての演奏としては、他にあまり類例を見ないものと思われる。

そして、本演奏の場合は、ラトルの思い切った解釈がいささかもあざとさを感じさせず、気高い芸術性に裏打ちされているというのが素晴らしい。

ベルリン・フィルの首席奏者とともに演奏した協奏交響曲も見事であり、いずれにしても、本演奏は、ハイドンの交響曲を得意としてきたラトルならではの素晴らしい名演と高く評価したい。

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2014年11月22日


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ジュリアン・ブリームとサイモン・ラトルの、年齢差を超越したイギリスの巨匠2人による、極めつけのギター協奏曲を収録した作品。

ブリームとラトルという、20歳もの年の差がある世代の異なる者どうしの演奏であるが、まさに、現代と古典が融合した見事な名演に仕上がっている。

特に、メインのアランフェス協奏曲において、その特徴が大きく出ている。

ブリームは、本盤が4度目の録音ということだが、それだけにアランフェス協奏曲を自家薬籠中のものとしているのであろう、随所に目が行き届いた情感溢れる演奏を行っている。

それに対して、若きラトルはきわめて現代的なアプローチを試みている。

例えば、第1楽章の冒頭の鋭いリズムなどにも表れており、感動的な第2楽章も、決して甘い情緒に流されることはない。

このようにいささか異なるアプローチでありながら、なぜこのような名演が生まれたのであろうか。

それは、察するに、両者が同曲への深い理解を持ち合わせているからにほかならないだろう。

テンポをゆったりとり、楽曲の隅々にまで目が行き届いたブリーム、それに全く独自のアプローチで迫るラトルの指揮、まさに新時代の《アランフェス》がここにあると言えよう。

武満の「夢の縁へ」は超現実の世界へと誘う楽曲だが、本盤が世界初録音とのことであり、その意味でも貴重。

現代曲で、いかにもラトルが得意とする曲だけにラトルに主導権があるような印象を受けたが、ブリームもラトルの解釈に沿うようなアプローチで見事な演奏を繰り広げている。

アーノルドのギター協奏曲も、両者の絶妙の組み合わせが成功したノリの良い演奏を楽しめる名演である。

いずれにしても、カップリングにおいてもきわめてセンスの良さを感じさせる名盤と高く評価したい。

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2014年11月15日


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アバドの後を追ってベルリン・フィルの第6代芸術監督に2002年に就任したラトルであるが、就任から5年間ほどは、名うての猛者たちを統率することがままならず、新機軸を打ち出そうという気負いだけが空回りした凡庸な演奏を繰り返した。

これは、アバドと同様であり、ベルリン・フィルの芸術監督就任前の方が、よほど素晴らしい演奏を成し遂げていたとも言えるところだ。

しかしながら、本盤の1つ前の録音であるマーラーの交響曲第9番あたりから、漸くラトルならではの個性が発揮された素晴らしい名演を成し遂げるようになった。

芸術監督に就任してから5年を経て、漸くベルリン・フィルを統率することができるようになったことであろう。

本盤に収められたベルリオーズの幻想交響曲、そしてカンタータ「クレオパトラの死」も、ラトルがベルリン・フィルを巧みに統率して、自らの個性を十二分に発揮し得た素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

幻想交響曲については、第1楽章冒頭から途轍もない気迫が漲っている。

主部に入ってからも、テンポの振幅や強弱の変化を大胆に駆使して、熱き生命力に満ち溢れたドラマティックな演奏を行っている。

ベルリン・フィルの管楽器奏者の巧さにはただただ舌を巻くのみである。

第2楽章の格調の高い音楽は、ラトルが単なる勢い一辺倒の無内容な演奏をしていない証左とも言える。

第3楽章は、静寂が漂う音楽であるだけに、全楽章の中での存在感を発揮させるのが難しい楽章であるが、ラトルの場合は、ベルリン・フィルの卓越した奏者たちを見事に統率して、実にコクのある音楽を醸成させている。

第4楽章は、冒頭はあまり調子が出ない(反復も忠実に実施)が、徐々に調子を上げていき、終結部においては、ベルリン・フィルの圧倒的な合奏力に物を言わせて、途轍もない迫力に満ち溢れた豪演を成し遂げている。

終楽章は、ベルリン・フィルの猛者たちの技量は筆舌には尽くし難いところであり、これらの手綱を引き締めて見事な音のドラマを構築し得たラトルの指揮者としての円熟ぶりも特筆すべきであろう。

カンタータ「クレオパトラの死」も、ベルリン・フィルを巧みに統率した名演であるが、ソプラノのスーザン・グラハムの名唱も、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

音質は、初回生産限定ではあるがHQCD化が図られることによって十分に良好な音質であり、いずれにしても、ラトル&ベルリン・フィルの名コンビが漸く軌道に乗った素晴らしい名演を高音質HQCD盤で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2014年11月14日


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ラトルが、ベルリン・フィルの芸術監督に就任する頃に、ウィーン・フィルと録音したベートーヴェンの交響曲全集からの1枚だ。

筆者は、どうもこの当時のラトルをあまり評価できずに今日に至っている。

バーミンガム市響(一部はフィルハーモニア管)と数々の録音を行っていた若き日のラトルは、生命力に満ち溢れた名演の数々を生み出して素晴らしいし、ここ数年のラトルも、大指揮者の風格を漂わせた円熟の名演を聴かせるようになっており、これまた高く評価している。

しかしながら、ベルリン・フィル就任後数年間は、気負いもあったのだとは思うが、意欲が空回りするケースが多く、数々の凡打を繰り返していたのではないかと思う。

このベートーヴェンの全集も、筆者は、筋の通っていない演奏であると考えている。

各交響曲によってアプローチの仕方が全く変わるのだ。

とある音楽評論家は「ラトルの鋭い読みとともに、深く豊かな想念が随所にあらわれている。みずみずしい感性による創造的な解釈と演奏である」と評価されている。

確かにそうしたやり方もあるのかもしれないが、筆者に言わせれば、ラトルのベートーヴェンの交響曲に対する考え方、見解が固まっていないのではないかと思われる。

本盤の「第9」も、総体としては巨匠風のアプローチだ。

しかしながら、終楽章の合唱(特に終結部)に見られるような不自然なアクセントなど、見方によっては個性的とも言えるが、筆者に言わせれば、単なる恣意的なあざとさしか感じさせず、伴奏のオーケストラともども脂っこい力唱、力奏が目立つ。

新機軸を打ち出そうという焦りなのかもしれないが、少なくとも芸術性からは程遠いと言える。

もちろん、筆者は、ラトルの才能など微塵も疑っていない。

もし、現在、ベルリン・フィルとベートーヴェンの交響曲全集を録音すれば、間違いなく素晴らしい名演を成し遂げるものと固く信じている。

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2014年11月04日


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2002年よりベルリン・フィルの芸術監督に就任したラトルであるが、就任後の数年間は、オーケストラへの気後れもあったとは思うが、気合だけが空回りした凡演が多かった。

そのようなラトルも、2008年のマーラーの交響曲第9番において、猛者揃いのベルリン・フィルを巧みに統率した奇跡的な名演を成し遂げ、その後は、殆ど例外もなく、素晴らしい名演の数々を聴かせてくれるようになった。

本盤に収められたオルフのカルミナ・ブラーナの演奏は、2004年の大晦日のジルヴェスター・コンサートでのライヴ録音である。

この時期は、前述のように、ラトルが未だベルリン・フィルを掌握し切れていない時期の演奏ではあるが、かかるジルヴェスター・コンサートという独特の雰囲気、そして何よりも、ラトル自身がオペラにおける豊富な指揮の経験により合唱や独唱者の扱いが実に巧みであることも相俟って、当時のラトルとしては、例外的に素晴らしい名演を成し遂げていると言えるのではないかと考えられるところである。

もちろん、本演奏においても、気合は十分であり、ラトルの得意とする合唱曲、そして現代音楽であるということもあって、思い切った表現を随所に聴くことが可能だ。

テンポの効果的な振幅や思い切った強弱の変化などを大胆に駆使するとともに、打楽器の鳴らし方にも効果的な工夫を施すなど、ラトルならではの個性が満載であると言えるところである。

要は、当時のラトルの演奏の欠点でもあったいわゆる表現意欲だけが空回りするということはいささかもなく、ラトルの個性が演奏の軸足にしっかりとフィットし、指揮芸術の範疇を外れていないのが見事に功を奏している。

そして、ラトルは、前述のように合唱や独唱者の扱い方が実に巧いが、本盤の演奏においてもその実力が如何なく発揮されているとも言えるところであり、ベルリン放送合唱団、ベルリン大聖堂国立合唱団少年合唱団員を見事に統率して、最高のパフォーマンスを発揮させている手腕を高く評価したい。

ソプラノのサリー・マシューズ、テノールのローレンス・ブラウンリー、そしてバリトンのクリスティアン・ゲルハーヘルによる名唱も、本演奏に華を添える結果となっているのを忘れてはならない。

いずれにしても、本演奏は、ベルリン・フィルを完全掌握して、水準の高い名演の数々を成し遂げるようになった、名実ともに世界最高の指揮者である近年のラトルを十分に予見させるような圧倒的な名演に仕上がっていると高く評価したい。

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2014年07月16日


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かつてのCD全盛時代においては、膨大な数の新譜CDの発売が毎月のようになされていたが、近年においては殆ど数えるほど。

かつての名演の高音質化や大指揮者のライヴ録音の発掘などが大半(それも素晴らしいことではあるが)で、ネット配信が隆盛期を極める中で、CDにとっては極めて厳しい時代が続いていると言えるだろう。

そのような中で、膨大な投資を必要とするオペラの新譜が激減しているのは必然的とも言えるところであり、ましてや国内盤の新譜にオペラCDが登場すること自体が、もはや奇跡に近い状況にあるとさえ言えるだろう。

その意味では、本盤に収められた歌劇「カルメン」全曲の登場はにわかには信じ難い出来事。

ましてや、現代最高の黄金コンビとも言えるラトル&ベルリン・フィルによる演奏という豪華な布陣にはただただ驚くばかりだ。

前述のような厳しい時代だけに、この黄金コンビとしてもオペラの録音は何と10年ぶり2度目。

かつてのカラヤンやアバドが、自らの膨大なオペラ・レパートリーをベルリン・フィルとともに録音していたことを考えると、まさに隔世の感があるとも言えるだろう。

それだけに、この黄金コンビにとっても満を持してのオペラ録音ということになるのであろうが、演奏も素晴らしい。

何よりも、ラトルが芸術監督に就任してから10年を経て、いよいよベルリン・フィルを完全掌握している好調ぶりが如実にあらわれている。

カラヤン時代のような重厚さはないが、少なくともアバド時代と比較するとオーケストラの力感は十分に圧倒的であり、何よりも卓越した技量に裏打ちされた、各場面毎のいい意味での柔軟性に富んだ機能性の凄さは、かのカラヤン時代さえ凌いでいるとさえ言えるのではないだろうか。

ラトルの現代的な感覚の鋭さ、そしてベルリン・フィルの伝統に卓越した技量と伝統に裏打ちされた柔軟性と機能性が見事にマッチングして、まさに清新な歌劇「カルメン」像の確立に成功しているとも言える。

ベルリン・フィルやウィーン・フィルとともに同曲の超名演を遺したカラヤン、そしてロンドン交響楽団とともに強靭な生命力と豊かな歌謡性を併せ持った稀有の名演を成し遂げたアバドによる演奏とはひと味もふた味も異なる演奏と言えるが、あざとさをいささかも感じさせない現代的なセンスに溢れた本演奏は、まさにラトル&ベルリン・フィルという稀代の名コンビぶりとともに、21世紀における新しい歌劇「カルメン」像を確立したという意味において、偉大な両先輩による名演にも比肩しうるだけの素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

歌手陣も、いわゆるラトルの旗本とも言えるコジェナーやカウフマンなどが圧倒的な名唱を披露しており、ベルリン国立歌劇場合唱団の秀逸さも相俟って、最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

そして、音質はSACDによる圧倒的な超高音質だ。

歌手陣の細やかな息遣い、そして独唱、合唱、オーケストラ演奏のそれぞれが明瞭に分離して聴こえるのはさすがはSACDと言うべきであり、音質の鮮明さ、音場の拡がり、音圧の凄さのどれ一つをとっても超一級品の仕上がりになっている。

いずれにしても、現代最高の黄金コンビであるラトル&ベルリン・フィル等による歌劇「カルメン」の圧倒的な名演を、最高の高音質SACDで味わうことができる喜びを大いに噛みしめたい。

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2014年01月07日


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はじめに断っておくが、ブルックナー演奏に一家言をもつブルックナー・マニア、とりわけ朝比奈やチェリビダッケやヴァントを神のごとくに思っている人には、この演奏は受けが悪いだろう。

逆に、「ベートーヴェンやシューベルトはいいけど、ブルックナーはどうも…」という人には、この演奏の方が受け入れやすいだろうと思う。

一言で言えば、「バランスの取れた」ブルックナーというところだろうか。

ラトルのブルックナーは、以前の交響曲第7番もそうだったが、やたらに重々しくて音も割れんばかりに(あるいは実際に割れていたりするほどに)金管ががなりたてるドラマティックなブルックナー演奏とは異なり、ときに優雅な美しささえ感じさせるものである。

とりわけこの第4番は、4楽章のうち3つにまで「躍動して」と「速すぎず」という指示があり、「ゆったりと」とか「厳かに」という指示は一つもない。

その意味では、やたらに重々しい足取りで厳粛な表情をしたスローすぎる演奏は合わないだろう。

このCDでのラトルの演奏は、「ブルックナーとはこういうもの」という先入観でいたずらに劇化することはせず、小気味良いところは小気味よく、美しいところは美しく、堂々たるところは堂々と、その音楽そのものを提示している。

その一方で、先入観に挑戦する演奏の代表格のようなアーノンクールの演奏よりも、豊かな響きを持っている。

「バランスの取れた」と言ったのはそういうことだ。

これを聴いていると、ブルックナーはシューベルトとマーラーをつなぐオーストリアの作曲家であるというついつい忘れがちな事実を思い出させられる感じがする。

前述のようにブルックナー・マニアにはお薦めしないが、「ブルックナーはどうも…」という人には、前述のラトル&バーミンガム市響による第7番と今回のベルリン・フィルとのこの第4番を聴いてみてほしい。

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2014年01月01日


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「『ザ・グレイト』は音楽の頂点を極めた楽曲の1つです」ラトル自身がそう語り、この曲との長い歴史を持つベルリン・フィルとともに取り組んだ、ラトル初のシューベルト録音。

ここでのラトルのアプローチには、かのフルトヴェングラーと相通ずるものを感じる。

とはいえ、音楽作品あるいは音楽演奏もまた文化であり、文化とは時代の空気を敏感に読み取って文化それ自体のなかに投影する性質を有するものであるからには、演奏スタイルにかつての巨匠の面影を求めることなど不可能なことは、歴史の証明するように、自明の理であろう。

ラトルとフルトヴェングラーに通ずるのは「アプローチの方法論」に過ぎないのだから。

そもそもシューベルトその人もまた世代が異なるとはいえ、ベートーヴェンと同じ時代に同じ街の空のもとで音楽活動をしていながら、世代が異なるがゆえにシューベルトの作品内容の核心にはベートーヴェンとは相容れない要素があることこそ、文化と時代の空気感との関係をよく物語っているのではあるまいか。

それらに思いを致してみると、この演奏に対する多くの酷評を読む限り、あまりにも表面的にしか聴いていない聴き手が多いことに危惧の念を抱いてしまう。

かつての巨匠がそうであったように、ラトルもまた時代の「新しい」空気を、鋭敏な感覚と指揮者としての類い稀なる手腕によって「新しい」シューベルト像として結実させることに成功していると言えよう。

確かにここではスケール感も重厚さも聴けはしない。

しかしシューベルトの音楽が、ピリオド楽器やピリオド・アプローチなど珍しくもなくなった今日にあって、果たしてスケールの大きい重厚な音楽であったのだろうか。

筆者に限らずそこに疑問を抱く聴き手は少なくないはずだ。

ここでのラトルとベルリン・フィルの演奏の真の価値は、テンポだのリズムの刻みだのといった極々表面の部分ではなくて、「大ハ長調」という呼称に代表されるような既成の概念にとらわれず、アグレッシヴなまでにこの音楽が本来持っている新たな生命を引き出したところにあるのではないだろうか。

音質もHQCD化により極めて鮮明となり、本名演の特徴を一層くっきりと際立たせているように感じられるところだ。

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いつもラトル&ベルリン・フィルが録音するベルリンのコンサートホールの火事で仕事場をカラヤンがよく使ったイエス・キリスト教会に変えての収録。

『幻想交響曲』という作品自体が描写音楽であることは重々承知のうえで、これほど純音楽的に美しい演奏は珍しい。

本ディスクでラトルの演奏は厳格なスコアリーディングに基づきながらも、ごく自然な表出になっているように思う。

アナリーゼの緻密さと余裕のある流れが合致した好演である。

管弦楽曲としての作品の天才性をこれだけ満喫させてくれるディスクはこれまでなかったのではないか。

初めて聴くような印象も与えてくれる。

その成功は、多分にゆったりしたテンポにある。

その代償として、作品の狂気やグロテスクさは後退しているものの、ラトルのアプローチがそもそもそういうものではないという気がする。

ヴァントの『展覧会の絵』などと似て、あくまで管弦楽曲に対するアプローチなのである。

確かにミュンシュのような爆演型を求める人にはピンとこない演奏かもしれないが、そうそう熱演ばかり何度も繰り返して聴けるものではない。

作品の内包する斬新さ・ユニークさを抽出してみせたラトルの手腕と、それに見事な反応をみせるベルリン・フィルには好悪は兎も角、素直に認めざるを得ないだろう。

このような他では聴けない、誰にも真似できない音世界を作れることは、ラトルがやはり優れた演奏家であることを示しているのではないかと思う。

「ラトルとベルリン・フィルは聴衆に息つく間を与えない」(英国グラモフォン誌)。

HQCD化による音質の向上も目覚ましく、本名演に大きく貢献している。

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2013年12月11日


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ラトル&ベルリン・フィルの近年の好調ぶりを窺い知ることが可能な素晴らしい名演だ。

ラトルと言えば、マーラーの交響曲を得意のレパートリーとしており、既にベルリン・フィルとともに複数の録音を行っているところであるが、ブルックナーの交響曲については、ベルリン・フィルとの間では、未だ第4番の録音(2006年)を行っているのみにとどまっている。

当該第4番の演奏が、気負いだけが際立った当時のラトルの欠点が露わになった凡庸な演奏であり、その意味では、ラトルはこの6年間の間に、長足の進歩を遂げていると言っても過言ではあるまい。

とにかく、ラトルがこれだけの進歩を遂げた要因として掲げられるのは、ラトルがベルリン・フィルを完全に掌握し、自らの意のままに統率することが可能になったことであると考えられる。

したがって、ベルリン・フィルの芸術監督の就任後、数年間にわたって、意欲だけが空回りして凡庸な演奏を繰り返すという悪循環から抜け出し、自らの才能を、ベルリン・フィルという世界最高のオーケストラを完全に掌握して全面的に発揮することが可能になったと言えるのではないだろうか。

本盤に収められた演奏においても、そうしたラトルの類稀なる才能が全開である。

ベルリン・フィルによるブルックナーの交響曲演奏と言えば、最晩年のヴァントによる至高の超名演が名高いが、ラトルは、さすがにヴァントの至高の芸術の高峰には到達し得ていないものの、ベルリン・フィルの重厚な弦楽合奏や強靭なブラスセクションなどを効果的に生かした、圧倒的な名演を成し遂げていると評価したい。

テンポの振幅なども最小限に抑えるなど、近年のブルックナーの交響曲演奏の王道を行くアプローチに徹しているのも素晴らしい。

また、ラトルらしいのは、従来の第1楽章から第3楽章に加えて、最新の研究成果に基づく第4楽章補筆完成版を付加して録音している点である。

筆者としても、これまで様々な第4楽章の補筆版を聴いてきたところであるが、本盤に収められた版は初めて聴く版ではある。

ライナー・ノーツにも詳細な解説が記載されているが、当該版は、ブルックナーが死の直前まで格闘して作曲をしていた原譜に限りなく近いものとして評価することも可能である。

このような第4楽章補筆版を付加すると、第1楽章から第3楽章の演奏がややなおざりになる可能性も無きにしも非ずであるが、第3楽章までの演奏も前述のように圧倒的な名演であり、第4楽章補筆版を付加したことによる演奏の綻びなども微塵も感じさせないのが見事である。

いずれにしても、本演奏は、前述のように、ラトル&ベルリン・フィルの近年の充実ぶりを示すとともに、今後のブルックナーの他の交響曲の録音にも大いに期待を持つことが可能な素晴らしい名演と高く評価したい。

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2013年09月12日


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ラトルは若き頃より近現代の作曲家による作品を数多く採り上げてきており、シェーンベルクの管弦楽作品についてもその例外ではない。

本盤に収められたシェーンベルクによる作品(編曲を含む)も、「映画の一場面への伴奏音楽」は初めての録音になるが、その他の2曲(ブラームスのピアノ四重奏曲第1番のオーケストラ編曲バージョン及び室内交響曲第1番)については既に録音等を行った、ラトルにとっても自己薬籠中の作品であると言えるだろう。

冒頭のブラームスのピアノ四重奏曲第1番は、シェーンベルクによって編曲されたオーケストラバージョンによるものであるが、ラトルは1972年にも同曲を既に録音しており、DVD作品を除くと本演奏は2度目の録音に該当するところだ。

本演奏の特徴は、何と言ってもベルリン・フィルによる卓抜した技量を駆使した演奏の素晴らしさ、そして重厚で豊穣たる響きの美しさである。

終結部の強靭さも圧倒的な迫力を誇っており、我々聴き手の度肝を抜くのに十分である。

ラトルも、ベルリン・フィルの芸術監督就任後数年間は、プライドの高い団員の掌握にも相当に苦労し、凡演の山を築いていたが、数年前にマーラーの交響曲第9番を演奏・録音(2007年)して以降は、現代を代表する指揮者の名に相応しい名演の数々を成し遂げるようになった。

アバド時代に、カラヤン時代以前に特徴的であった重厚な音色が影をひそめ、音の重心が軽やかになっていたベルリン・フィルも、ラトルが数年の苦節を経て漸く掌握するようになってからは、再びかつての重厚さを取り戻してきたような印象を受けるところである。

本演奏においてもそれが顕著にあらわれており、まさにベルリン・フィルであるからこそ可能な豊麗な名演に仕上がっているとさえ言っても過言ではあるまい。

「映画の一場面への伴奏音楽」は、前述のようにラトルにとっては初録音となり、不協和音がさく裂する楽曲ではあるが、シェーンベルクを得意としてきたラトルならではの聴かせどころのツボを心得た見事な名演に仕上がっていると高く評価したい。

そして、本盤のトリを飾るシェーンベルクの室内交響曲第1番であるが、ラトルは同曲を原典版(15のソロ楽器による小編成によるもの)により、バーミンガム現代音楽グループとともに録音(1993年)しているが、本演奏では、シェーンベルクが同曲を作曲してから8年後にオーケストラ用に編曲したいわゆる管弦楽版によるものである。

それだけに、本演奏でもベルリン・フィルの重厚で豊穣な響きが見事にプラスに作用しており、おそらくは同曲の演奏史上でも重厚さと美しさの両方を兼ね備えた稀有の名演に仕上がっていると高く評価したい。

こうして、シェーンベルクに関わる3曲を聴いてあらためて感じたのは、ラトルとベルリン・フィルの関係がますます深まり、いよいよこのコンビの黄金時代に入ったということである。

この黄金コンビは、最近ではマーラーの交響曲第2番(2010年)など、圧倒的な名演の数々を生み出しつつあるが、今後ともラトル&ベルリン・フィルの更なる発展・飛躍を大いに期待したいところだ。

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2013年06月06日


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EMIがフルトヴェングラーの一連の歴史的な名演やアルゲリッチの名演のSACD化を相次いで行っているのは、今年のクラシック音楽界における大きな快挙の一つであると言えるが、EMIはついにラトルの一連の録音のSACD化を開始することになったのは実に素晴らしいことである。

SACD化を行うにあたって選ばれた演奏については首をかしげざるを得ないものも含まれてはいるが、ネット配信によってパッケージメディアの権威が大きく揺らいでいる中でのEMIのこのような果敢なSACD化への取組は、SACDの生みの親でありながら近年では消極的な姿勢に終始しているソニー・クラシカルの体たらくを考えると、高く評価したいと考える。

本盤に収められたマーラーの交響曲第5番は、ラトルがベルリン・フィルの芸術監督就任を記念して行ったコンサートのライヴ録音である。

筆者は、本演奏について、ラトルの他の演奏のレビューを投稿する際に芳しくない評価を記し続けてきたが、今般のSACD盤を聴いてもその印象はさほど変わらなかったと言わざるを得ない。

そうなった理由はいくつかあるが、やはりラトルの気負いによるところが大きいのではないだろうか。

ベルリン・フィルの芸術監督という、フルトヴェングラーやカラヤンと言った歴史的な大指揮者が累代に渡ってつとめてきた最高峰の地位についたラトルにしてみれば、肩に力が入るのは当然であるが、それにしてはラトルの意欲だけが空回りしているような気がしてならないのだ。

ベルリン・フィルの猛者たちも、新芸術監督である若きラトルの指揮に必死でついていこうとしているようにも思われるが、ラトルとの息が今一つ合っていないように思われる。

そうした指揮者とオーケストラとの微妙なズレが、本演奏にいささか根源的な力強さを欠いていたり、はたまた内容の濃さを欠いていたりすることに繋がっているのだと考えられるところだ。

もちろん、ベルリン・フィルの芸術監督に就任したばかりの若きラトルに過大なものを要求すること自体が酷であるとも言える。

ラトルは現在、マーラーイヤーを記念してマーラーチクルスを開始しており、昨年2月に発売された交響曲第2番など圧倒的な名演を成し遂げているところである。

したがって、現在の円熟のラトルが、ベルリン・フィルを指揮して交響曲第5番を再録音すれば、おそらくは本演奏を凌駕する圧倒的な名演を期待できるのではないかと考えられるところであり、今後はそれを大いに期待したいと考える。

それにしても、本SACD盤の音質はとてつもなく鮮明なものだ。

本盤については、既にHQCD盤が発売されているが全く問題にならない。

あらためて、SACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第だ。

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ラトルは今日でこそベルリン・フィルを完全に掌握し、現代を代表する大指揮者の一人として数々の名演を成し遂げつつあるが、ベルリン・フィルの芸術監督に就任してから数年間は鳴かず飛ばずの状態が続いていた。

今般、同様にSACD化された、芸術監督お披露目公演のマーラーの交響曲第5番も、意欲だけが空回りした凡庸な演奏であったし、その後もシューベルトの交響曲第8(9)番「ザ・グレート」、ブルックナーの交響曲第4番、R・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」など、箸にも棒にもかからない凡演の山を築いていた。

本盤には、ホルストの組曲「惑星」と、コリン・マシューズによる「冥王星」、そして、国籍の異なる4人の作曲家による宇宙をテーマとした小品が収められているが、このうち、メインの組曲「惑星」が、イマイチの凡庸な演奏に成り下がっていると言えるところだ。

ラトルも、ベルリン・フィルの芸術監督就任後は、名うての一流奏者たちを掌握するのに相当に苦労したのではないだろうか。

そして、プライドの高い団員の掌握に多大なる労力を要したため、自らの芸術の方向性を見失っていたのではないかとさえ考えられるところだ。

それ故に、必然的に意欲だけが空回りした演奏に終始してしまっていると言える。

本演奏も美しくはあるが根源的な力強さがない。

同曲を精緻に美しく描き出すことにつとめたのかもしれないが、本演奏を聴く限りにおいては、ラトルが同曲をこのように解釈したいという確固たる信念を見出すことが極めて困難である。

ラトルは1980年にも、フィルハーモニア管弦楽団とともに同曲を録音しているが、当該演奏の方が、若干の荒々しさは感じさせるものの、若武者ならではの気迫溢れる力強い熱演に仕上がっていたと言えるところであり、本演奏よりも数段優れた演奏のように思われるところだ。

メインの組曲「惑星」と比較して、コリン・マシューズによる「冥王星」や、国籍の異なる4人の作曲家による宇宙をテーマとした小品については、録音自体がそもそも珍しい楽曲であることや、おそらくはベルリン・フィルも演奏した経験を殆ど有していなかったこともあって、ラトルのペースで演奏が行われているように感じられるところである。

したがって、組曲「惑星」よりもラトルの解釈が演奏にしっかりと刻印されていると言えるところであり、これらの楽曲の演奏に関してはなかなかに優れた演奏ということができるのではないだろうか。

音質は驚天動地の鮮明な高音質である。

本盤については、既にHQCD盤が発売されているが全く問題にならない。

あらためて、SACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第だ。

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2013年04月22日


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ラトル&ベルリン・フィルの好調ぶりがうかがえる素晴らしい名演だ。

ラトルもベルリン・フィルの芸術監督就任後数年間は、ベルリン・フィルの掌握にかなり苦しんだと思われるが、一昨年のマーラーの交響曲第9番あたりから、漸くその掌握に成功し、名演の数々を繰り広げるようになった。

ベルリン・フィルも、アバド時代から続いていた世代交代が漸く一段落し、かつての輝きを取り戻してきたように思われる。

その意味では、今や、ラトル&ベルリン・フィルは最も実り多き黄金時代に突入したと言えるだろう。

歌劇「子供と魔法」は、ラトルの作品の本質に切り込んでいく鋭いアプローチが光る。

当該オペラは、表面上は、あくまでも子供を主人公としたコメディであるが、その内実はとてもコメディには分類し切れない、人の深層心理を様々な動物や物質を活用して風刺するという、心眼を覗きこむが如き奥深い内容を有した作品と言える。

ラトルは、思い切ったテンポの緩急や、幅広いダイナミックレンジの活用などを駆使して、ドラマティックに作品を描出しており、作品に内在する本質を捉えた深みのある濃密な名演に仕立てあげた点を高く評価したい。

ラトルの卓越した統率の下、ベルリン・フィルも圧巻の技量を披露していると言える。

コジェナーやジョセ・ヴァン・ダムなどの一流の歌手陣は圧倒的な歌唱を披露しており、ベルリン放送合唱団も最高のパフォーマンスを示していると言える。

バレエ「マ・メール・ロワ」も素晴らしい名演。

我々聴き手は、どうしてもラヴェルの華麗なオーケストレーションに耳が奪われがちになるが、ラトルは、同曲に内在する憂いの描出にもいささかの抜かりはなく、彫りの深い情感豊かな音楽の構築に成功している点を高く評価したい。

ここでも、ベルリン・フィルは卓越した技量を披露しており、そのあまりの上手さには唖然とするほかはないほどだ。

HQCD化によって、音質は鮮明であるとともに音場に広がりがあるのが実に素晴らしく、本盤の価値を高めるのに大きく貢献していると言える。

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2013年04月11日


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ラトルが、ベルリン・フィルの芸術監督に就任する頃に、ウィーン・フィルと録音したベートーヴェンの交響曲全集からの1枚だ。

筆者は、どうもこの当時のラトルをあまり評価していない。

バーミンガム市響(一部はフィルハーモニア管)と数々の録音を行っていた若き日のラトルは、生命力に満ち溢れた名演の数々を生み出して素晴らしいし、ここ数年のラトルも、大指揮者の風格を漂わせた円熟の名演を聴かせるようになっており、これまた高く評価している。

しかしながら、ベルリン・フィル就任後数年間は、気負いもあったのだとは思うが、意欲が空回りするケースが多く、数々の凡打を繰り返していたのではないかと思う。

このベートーヴェンの全集も、筆者は、筋の通っていない演奏であると考えている。

各交響曲によってアプローチの仕方が全く変わるのだ。

そうしたやり方もあるのかもしれないが、筆者に言わせれば、ラトルのベートーヴェンの交響曲に対する考え方、見解が固まっていないのではないかと思われる。

本盤の「第9」も、総体としては巨匠風のアプローチだ。

しかしながら、終楽章の合唱(特に終結部)に見られるような不自然なアクセントなど、見方によっては個性的とも言えるが、筆者に言わせれば、単なる恣意的なあざとさしか感じさせない。

新機軸を打ち出そうという焦りなのかもしれないが、少なくとも芸術性からは程遠いと言える。

もちろん、筆者は、ラトルの才能を微塵も疑っていない。

もし、現在、ベルリン・フィルとベートーヴェンの交響曲全集を録音すれば、間違いなく素晴らしい名演を成し遂げるものと固く信じている。

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2013年03月15日


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1999年9月24日と25日、ベルリン・フィルの次期芸術監督(2001年〜)に指名されたラトルが、指名後はじめてベルリン・フィルを振って大成功を収めた演奏会のライヴ録音。

未来の手兵との御披露目にあたって十八番の演目を持ってくるあたり、演奏会と曲目は指名を受ける以前から決まっていたとはいえ、何とも幸先の良いスタートを切れたようだ。

このクック版に対するラトルの思い入れは有名で、同版に大幅に手を入れて用いたザンデルリンク盤を聴いてその可能性に開眼、自身も手を加え、EMIへの専属初録音にこの曲を選んでその存在を強くアピール、以後も再三この版を取り上げ、トレードマークとも言うべき得意演目に熟成させたことはよく知られるところ。

ベルリン・フィルとは1996年にも演奏しており、双方まさに満を持しての録音と言え、オケの圧倒的な技量差もあって、旧録音をはるかにしのぐ切れ味鋭い見事な演奏を聴かせてくれる。

イギリスの音楽学者デリック・クックが復元したせいかドイツ系の指揮者は敬遠したがるこのクック版「第10」だが、これはマーラーのオリジナル交響曲を凌駕する点も少なくない感動的な作品だ。

しかもニューヨークでの体験すら盛り込まれているこの未完のスコアには、時代の先端を行く都市生活者の苦悩から、時代遅れの神への信仰にしがみつくロマン主義者の夢までが、引っ越し荷物をほどかないままのトランクのようにビッシリ詰まっている。

そんな汎世界的で汎時代的な“20世紀の音楽”は、イギリス出身で新世代を担う指揮者ラトルにはまさにピッタリの素材。

シベリウスからブリテンまでを視野に入れて感動的に紡がれてゆく名演が聴ける。

個人的な聴き比べについて述べさせてもらうと、ザンデルリンクは明晰過ぎて四角四面、ギーレンは優秀録音でとにかく美しいが学者肌の冷淡さを感じ、ともに「この曲をかなり割り切って考えている節」が馴染めず、筆者には深く心に響かなかった。

それに比べ、ハーディングやこのラトルには、より瞑想的な詩情や寂寥感があると思う。

この曲に込められた生も死も割り切って聴こえる演奏には筆者は合わないようだ。

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2013年03月05日


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若きラトルによる素晴らしい名演だ。

日本でもようやく「次代を担うイギリスの新鋭指揮者」として認識されてきた頃で、当時27歳だった若きラトルのみずみずしい感性がはじけている。

ヤナーチェクはラトルにとって、デビュー当時から思い入れの深い重要なレパートリー。

「シンフォニエッタ」や「タラス・ブーリバ」は、ヤナーチェクの管弦楽曲の2大傑作であり、特に、近年においては、とある小説の影響もあるとは思うが、数々の名演が生み出されるに至っている。

ところが、本盤が録音された1982年当時は、これらの両曲は、せいぜいチェコ出身指揮者が指揮するローカルな作品の域を脱していなかったのではないかと考える。

その後は、アバドやマッケラスなど、チェコ出身の指揮者以外の国際的な大指揮者による名演が数々生み出されるようになったが、それだけに、若きラトルが、両曲に挑戦したというのは、前述のような背景を考えると、並々ならぬ意欲があったものと拝察される。

本盤の演奏に見られる切れば血が吹き出てくるような圧倒的な生命力や、切れ味鋭いテンポ設定などには、現在の偉大なラトルを彷彿とさせるような豊かな才能を感じさせる。

「タラス・ブーリバ」の第1曲のオルガンがいかにも弱過ぎるのが一つだけ残念な気はするが、全体の演奏の評価を下げるほどではなく、当時27歳という若さを考慮すれば、むしろそうした強弱を思い切って行うという表現を褒めるべきであると考える。

フィルハーモニア管弦楽団を起用したのも成功しており、「シンフォニエッタ」の冒頭のファンファーレなど実に輝かしくて巧い。

HQCD化によって、音質により鮮明さを増したのも大いに評価できる。

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2013年02月20日


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ラトルは、マーラーを現在でも得意のレパートリーとしているが、これは、EMIへの鮮烈的なデビューを飾った記念碑的な名演だ。

ラトルは、現在の手兵ベルリン・フィルとも、マーラーの「第10」のクック版を録音している。

同曲については、マーラーが作曲した第1楽章のアダージョしか演奏しない指揮者も数多くいる中で、2度にもわたりクック版を録音したというのは、ラトルの同曲、特にクック版への深い愛着の賜物と言っても過言ではあるまい。

最近でこそ全5楽章の録音が増え、一部に熱狂的なファン(筆者もその一人)もいるマーラーの「第10」であるが、この曲をキャリアの最初期から「伝道師」的に取り上げてきたのがラトル。

彼の原点ともいえる1枚であり、演奏も非常に評価の高いものだ。

ベルリン・フィルとの演奏も名演ではあったが、本盤も新鮮な魅力があり、現在でも十分に通用する名演と高く評価したい。

きりりと引き締まった清潔な表現が音楽的で、それがみずみずしい歌の流れと結ばれている。

第1楽章のアダージョからして、比較的ゆったりとしたテンポで、マーラーの美しい名旋律を情感豊かに歌い抜いてゆく。

その堂々たる指揮ぶりには、今日のラトルを予見させるのに十分な才能に満ち溢れていると言える。

終楽章の、ハンマーが何度も鳴り響き、曲想がめまぐるしく変化する箇所も、全体の造型をいささかも損なうことなく、実に巧みに表現し尽くしている。

決して一流とは言えないボーンマス交響楽団も、ラトルの見事な統率の下、可能な限りのパフォーマンスを示していると言える。

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2013年02月14日


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現在では既に引退してしまったブレンデルによる、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集中、最高の名演は、やはりラトル&ウィーン・フィルと組んだ4度目の全集であると考える。

レヴァイン&シカゴ交響楽団との全集を掲げる人もいるが、指揮者やオーケストラの芸格を考えると、筆者としては4度目の全集の方を上位に置きたい。

現代の指揮界を牽引するラトル指揮のウィーン・フィルという理想的な共演者を得た円熟の巨匠ブレンデルが、作品の威容を十二分に表現し尽くした演奏を聴かせている。

4度目の全集は、いずれの楽曲も名演の名に値するが、やはり、最高峰の名演に君臨するのは、本盤に収められた第5番「皇帝」であると考える。

とにかく、ブレンデルのピアノが実に堂々たるピアニズムであり、まさに皇帝の風格を兼ね備えているのが素晴らしい。

どこをとっても、力強い打鍵、自信に満ち溢れた堂々たるインテンポで一貫しており、それでいて、緩徐楽章の抒情豊かな演奏も、格調の高さを決して失うことはない。

ラトルの指揮も、ブレンデルの巨匠風の表現に一歩も引けを取っていない。

本盤の録音当時は、未だベルリン・フィルの芸術監督就任前であるが、こうした堂々たる指揮ぶりに、その後のラトルの前途洋々たる豊かな将来性が感じられる。

ウィーン・フィルの好演も特筆すべきである。

併録の「熱情」ソナタは、特に中間楽章において、いかにもブレンデルならではの思索的(悪く言えば理屈っぽい)な表現が散見されるが、全体としては円熟の表現であり、佳演というのにやぶさかではない。

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ブレンデル4度目のベートーヴェンのピアノ協奏曲全集からの分売であるが、当時、進境著しかったラトル&ウィーン・フィルという豪華なバックを伴って、ブレンデルによる全集中、最高の名演を成し遂げることになった。

才気溢れるラトルが指揮する名門ウィーン・フィルという望み得る最高の共演者を得て、ブレンデルが磨き抜かれた美音を駆使して彫りの深い卓越した演奏を聴かせている。

一部の批評家の中には、一つ前のレヴァイン&シカゴ交響楽団との全集を評価する人もいるが、指揮者とオーケストラの芸格を考慮すれば、やはり、この最新の全集を最上位に置きたいと考える。

ブレンデルのピアノは実に模範的だ。

4度目の全集ということもあるのだろう、どこをとっても曖昧模糊な箇所はなく、堂々たるピアニズムで、威風堂々たるベートーヴェンを描いていく。

このピアニストに特有の理屈っぽさは微塵もなく、楽曲の魅力だけが我々聴き手にダイレクトに伝わってくる。

ラトルの指揮も、ブレンデルのピアノともども重厚さの極みであり、このような巨匠風の表現を聴いていると、ベルリン・フィルの芸術監督として大活躍する現在において大きく開花している偉大な才能の萌芽を随所に感じることが可能である。

ウィーン・フィルの美しい演奏も特筆すべきであり、ブレンデルのピアノやラトルの指揮に、独特の潤いを付加していることを見逃してはなるまい。

録音も通常CDでありながら、鮮明な音質であり、本盤の名演の価値を更に高める結果となっている。

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現在では既に引退してしまったブレンデルによる4度目のベートーヴェンのピアノ協奏曲全集からの分売であるが、ピアニストに指揮者やオーケストラと役者が揃った名演であると評価したい。

14年前の旧録音も名演であり、その方を高く評価する人もいるが、指揮者やオーケストラの芸格や、ブレンデルの円熟を考慮すれば、筆者としては本盤の方をより上位に置きたいと考える。

ラトル率いるウィーン・フィルという最高の共演者を得て、円熟期を迎えた巨匠ブレンデルが興趣溢れる含蓄のある表現を聴かせている。

先ずは、ブレンデルのピアノを高く評価したい。

この理論派のピアニストの理屈っぽさについては、一部の批評家の間で酷評されているのは承知しているが、本盤では、そのような短所を聴きとることは皆無。

音楽は実にスムーズに流れている。

それでいて、骨太のテクニックによる強靭にして重厚な打鍵は、怒れる獅子ベートーヴェンを見事なまでに体現しており、他方、緩徐楽章における抒情的表現にもいささかの不足もない。

加えて、ラトル&ウィーン・フィルの演奏が実に素晴らしい。

例えば、「第4」の第2楽章の重厚さ。

他の演奏だと、緩徐楽章であることを意識して、やたら軟弱な表現に終始してしまうケースも散見されるが、さすがにラトルはそのような落とし穴に陥ることは全くない。

終楽章における圧倒的な迫力もラトルならではのものであり、こういったところに、今日のラトルを予見させる才能があらわれていると言えよう。

ウィーン・フィルは、いつものように美しい音色を奏でており、この名演の価値を更に高めることに大きく貢献している。

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2013年02月11日


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若き日のラトルならではの生命力溢れる凄みのある快演だ。

進境著しい手兵を率いて、「ラトル&バーミンガム市交響楽団」が世界の一流ブランドに駆け上がっていく時期の録音である。

まずは、「ミューズの神を率いるアポロ」は、その重量感溢れる音色に驚かされる。

特に、「アポロの踊り」における低弦の滴るような響きは、まさに未来の巨匠とも言うべき堂々たる風格に満ち溢れている。

ストラヴィンスキーが新古典主義に傾斜した時期の作品であるが、ラトルは、前述のような重厚さをも加味しつつ、得意のレパートリーであるハイドンを指揮する時のように、生き生きとした軽快さにも事欠くことはない。

同曲を得意としたムラヴィンスキーなどとは全く異なるタイプの解釈ではあるが、本盤も若武者ならではの名演と評価したい。

「春の祭典」も凄演。

ラトルは、聴き手を驚かすような個性的な解釈を行っているわけではない。

むしろ、ストラヴィンスキーが記した複雑なスコアをしっかりと踏まえつつ、その中で、鋭いリズムや音の強弱のダイナミズムなどを非常に強調した演奏に仕上げている。

緩急自在のテンポも思い切って駆使しており、まさに純音楽的な若武者の快演と言えるだろう。

ラトルは、近年にベルリン・フィルと同曲を録音したが、本盤には、それとは違った若々しい魅力に満ち溢れていると言える。

ラトルが音楽界に新しいページを投げかけてきた意義のあるアルバムと言えよう。

HQCD化によって、非常に鮮明な音質に生まれ変わったのも素晴らしいことだ。

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2013年01月24日


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「古典派」に慎重な態度で取り組み始めたラトルの姿を伝える1枚。

ラトルとハイドンの交響曲との相性は抜群だ。

現在でもモーツァルトよりもハイドンのほうに適性を示すラトルだが、この録音からもその資質は如実にうかがえる。

数年前に発売された、ベルリン・フィルと組んで録音した第88〜92番のCDも名演であったが、本盤も素晴らしい名演である。

ラトルは、ベルリン・フィルとの名演でもそうであったが、現代楽器に古楽器的な奏法をさせている。

そうすることによって、全体として非常にきびきびした軽快な装いを示すことになる。

その上で、ラトルは、極端とも言えるようなテンポの変化や音の強弱を付すことによって、かつてのハイドンの交響曲でも主流であった重厚な演奏とは一線を画し、非常にリズミカルな21世紀の新しいハイドン像を創造した点が素晴らしい。

古楽器奏法やピリオド楽器を活用したハイドンの交響曲の演奏ならば、近年ではいくらでもあるが、ラトルの演奏は、前述のように、テンポや強弱の変化に極端とも言えるような濃厚な味付けを施すことによって、学者の研究素材のレベルではなく、一流の芸術作品に高めている点が、他の指揮者とは大きく異なる長所だと考える。

本盤は、カップリングのセンスも見事。

途中にチューニングをし直す場面が入ったり(第60番)、終わったと見せかけては次に続いたり(第90番)、そんな突拍子もないユーモアを含む曲を取り上げているのがラトルらしいところ。

それぞれにユーモアの仕掛けのある交響曲を、演出豊かに描き出していく点は、若き日にも既に才能が全開であったラトルの前途洋々たる将来性を感じさせる。

HQCD化によって、音場がより豊かになった点も高く評価できる。

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2013年01月19日


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ラトルの若き日の録音であるが、圧倒的な感銘を与えるラトルの面目躍如たるラフマニノフで、今日の世界的な大指揮者への成長を予見させるのに十分な素晴らしい名演と高く評価したい。

ことさらな演出を施さなくても音楽自体に充分に語らせることができるというラトルの自信がうかがえる清新そのものの演奏。

ラフマニノフの交響曲第2番は、今でこそ多くの指揮者がレパートリーとする超有名曲であるが、本盤の録音当時は、知る人ぞ知るという地位に甘んじていた。

当時、新進気鋭の指揮者であったラトルも、おそらくは未知の名曲に挑戦するような気持ちで、この曲の指揮に臨んだものと思われる。

確かに、そうした意欲も相まって、若さ故の粗削りなところが随所に見られる。

特に、第2楽章や終楽章のトゥッティのいささか力づくとも言える力奏は、無機的な響きで、浅薄な印象を与える危険性もはらんではいる。

しかしながら、抒情的な箇所での情感豊かな表現は、そうした欠点を補って余りあるような、未来の巨匠を予見させるのに十分な堂々たる指揮ぶりであると言える。

特に、第3楽章など、かのスヴェトラーノフや新盤でのプレヴィンのようなゆったりとしたテンポで、ラフマニノフ最高の美しい名旋律を心を込めて歌い抜いていく。

それでいて、この曲のもつ高度に対位法的な構成感がよく見渡され、それまでの情趣過多な演奏とは一線を画している。

全曲ノーカット、61分20秒をたっぷりとみずみずしく歌っており、じっくりとしたメロディーを聴きたい派の人には大きな満足感が得られるように思う。

ロスアンジェルス・フィルも、こうした若きラトルの指揮によくついていっており、まさに快演とも言ってもいい名演であると言える。

今のラトルならもっと深みのある演奏をするだろうが、若さが故の魅力もある演奏だ。

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2013年01月16日


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ラトルが1985年3月にフィルハーモニア管と初来日を果たしたときのメインの曲目(来日公演を耳にし、感慨深い思い出を持つ人も多いことだろう)。

シベリウスはラトルにとって重要なレパートリーで、2009/10のシーズンでもBPOと全交響曲を演奏。

1980年から手塩にかけたCBSOとのレコーディングでも、1984-86年に完成させたシベリウス交響曲全集は、初期の傑作と呼ぶにふさわしい出来栄えで、第2番も競合盤ひしめく中で独自の価値を誇る名演である。

ラトルは、他のイギリス出身の指揮者と同様に、若き時代にはシベリウスを得意のレパートリーとしていた。

当時の手兵のバーミンガム市交響楽団と全集を録音するとともに、フィルハーモニア管弦楽団との交響曲第5番や、昨年テスタメントから発売されたイダ・ヘンデルと組んだヴァイオリン協奏曲など、録音の点数も相当数存在している。

本盤は、そうした交響曲全集からの1枚であるが、いかにも新進気鋭の指揮者らしい快演と高く評価したい。

いわゆる北欧の雰囲気を彷彿とさせる演奏というよりも、むしろ勢いに溢れた力強い演奏といった表現が相応しいと思うが、シベリウスの個性が全開になる前の、他の国民楽派の作曲家の影響が強く見られる作品であるだけに、こうしたラトルのアプローチも、いささかの違和感を感じさせない。

前述のように、勢いに溢れたと表現したが、だからといって、繊細な抒情的表現にも不足はない。

併録の「鶴のいる情景」も、あまり演奏されない曲だけに貴重な録音であるが、演奏内容もなかなかのものがある。

ラトルは、最近ではシベリウスをほとんど演奏していないように思うが、是非ともBPOと組んで2度目の全集を完成してほしいと思っている聴き手は筆者だけではあるまい。

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2013年01月11日


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非常に色彩感溢れる素晴らしい名演だ。

まさに、ラトルとかつての手兵バーミンガム市交響楽団の最高の結実の一つと言えるのではないか。

息の長いフレーズの歌わせ方や、手作りの味といえるほど丁寧な音の扱いなど、聴き込むほどに味わいの深まる類の演奏だろう。

『ダフニスとクロエ』では、ラトルは、各場面毎の描き分けを巧みに行い、ラヴェルが作曲した魔法のような華麗な管弦楽の世界を、これ以上は求め得ないような色彩感で描き出していく。

綿密に計算された演奏で、とかく冗長になりがちな第1部では、「序奏と宗教的な踊り」の神秘的ムードにの作り方からして聴き手を引きつける魅力を持っている。

第3部の「日の出」から「全員の踊り」にかけては、合唱団とのバランスもよく、「全員の踊り」での迫力に圧倒される。

音の強弱や緩急自在のテンポ設定も思い切って行っているが、この当時はまだまだ若手指揮者に過ぎなかったにもかかわらず、勢いに任せたいわゆる青臭さなど微塵も感じられない。

このあたりは、さすがはラトルのその後の成長・発展を予見させる類稀なる才能の証左と言えるだろう。

『ダフニスとクロエ』では、合唱も重要な働きを示すが、バーミンガム市交響楽団合唱団も、最高のパフォーマンスを示していると言える。

『ボレロ』も丹念に仕上げた名演。

こちらの方は、比較的ゆったりとしたテンポで、おなじみの旋律を必要以上にきらびやかにせず、じっくりと豊かに歌いあげていく。

こうした落ち着きさえ見せるような堂々たる指揮は、既に若くして未来の大指揮者の貫録十分である。

音質は、従来のCDでは極端に小さな音や、霞のかかったような細部を聴き取るのが少々つらい面もあったが、HQCD化によって、音場の奥行きが広くなり、音質にも若干ではあるが鮮明さを増した点は素晴らしい。

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2012年08月15日


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2007年12月29-31日、ベルリン、フィルハーモニーに於けるライヴ録音。

『展覧会の絵』は、カラヤン以来、『ボレロ』と並んでベルリン・フィルが得意とするレパートリーで、重厚かつ繊細なこのオーケストラの実力を最大限発揮できる曲。

聴き慣れた名曲から新しい魅力を引き出し、新鮮に聴かせることにかけては他の追随を許さないラトルの棒さばきにも注目。

ラトルは特別好きな指揮者ではないが、ベルリン・フィルの新譜が聴きたい以上避けて通れない現実でもある、という前提で聴いたところ、この盤は文句なく素晴らしいと思う。

音色のパレットの豊富さ、配合の妙、弱音とフォルティッシモのダイナミクス等々、ベルリン・フィルとラトルのコンビが練れてきた感じだ。

新世代ベルリン・フィルの風のようなさわやかなサウンドを思う存分堪能できるし、ラトルの智に偏った解釈に眉をひそめず名作を「楽」に聴くことができる。

これからクラシックを聴こうという人に『展覧会の絵』のCDを1枚勧めるとしたら、筆者ならこれを薦めるだろう。

冒頭のテンポも、場面転換の鮮やかさも、「ゴールデンベルクとシュミイレ」のやり取りのテンポのよさも、「キエフの大門」の祝砲を思わせる音も、申し分ない。

ベルリン・フィルのシェフになって以降のラトルの演奏傾向に感心しない者の耳で聴いてもオケはマーラー「第9」同様、とにかく上手い。

どのパートも凄いが、「キエフの大門」の終結部で、大音響の中からしっかり聴こえてくるパユのフルートの凄さは人間業とは思えない。

ボロディンも素晴らしく、おそらくはファーストチョイスかもしれない。

「第2」はクライバーの別格的名演があり、「だったん人」はスヴェトラーノフやフェドセーエフが良いと思うが、それらとは一味違う高機能オケの醍醐味に酔いしれることができる。

筆者は、ラトルにはその将来を期待するあまり辛口の内容を書くことが多いが、この演奏に関しては、比較的高い評価したいと思う。

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2012年08月02日


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ラトルの大逆転ホームランだった。

この録音(2007年)までのベルリン・フィルを指揮したラトルは没個性的な演奏、凡打の連続であったが、久々に彼の類い稀なる才能を思い知らされる名演が登場した。

絶品。言葉もないほど。凄いの一言だ。

世界最高の美麗な音色と演奏テクニックを兼ね備えているベルリン・フィルの素晴らしいオーケストラ・サウンドがぎっしり詰まったこのCDは、近年購入した中ではベスト。

音の情報量が多いためか、聴くたびに新しい発見があり全然飽きない。

ここでのマーラーは、感情の発露がむしろ内へ内へと向けられ抑えた表情に凝縮されて、最後には明鏡止水とも言うべき静謐な世界のもとへと音楽が収斂してゆくといった趣き。

感情を声高に叫ぶこともなければ、大仰な身振りもない。

読譜の視座に「新しい眼差し」を感じ、マーラー演奏の在り方が新しい時代にふさわしいものへと変わったと痛感する。

深く彫り込まれ美しく磨き上げられたディテールが全体の自然な流れと融合する構築性も見事な音楽には、フレージングやアーティキュレーション、そしてテクスチュアへの配慮をゆるがせにしないラトルの基本に忠実な姿を見る思いだ。

この彫琢も念入りな、しかし穏やかで静かな自然の流れに身を委ねているとやがて穏やかで清澄な心持ちになる。

音楽を聴くこれ以上の悦びがあるだろうか。

音楽には音楽でなければ表せない何ものかがあり、それを心得た音楽家の演奏はいたって基本に忠実なのではないか。

そんな感慨を抱かずにはいられない。

ラトルとベルリン・フィルの蜜月を思わせるこの演奏には、少なくともこの音楽が内包するひとつの実相が投影されていることだけは確かであろう。

ベルリン・フィルは、バルビローリ、カラヤン、バーンスタイン、アバドと「第9」の名演を残してきたが、ラトルのこの名演は、これら過去の綺羅星のような名演の列に連なる十分な資格があると思われる。

それにしても、ベルリン・フィルが現在でもこれほどまでの重厚な響きを奏でることができるとは思わなかったが、これはラトルの力によるものであろう。

今後のラトルに大いなる期待をしたい。

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2012年07月23日


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2009年のジルベスターコンサートに、一部スタジオ録音を加えたラトルによる新録音であるが、ラトル&ベルリン・フィルの現在最高の黄金コンビの深化を感じさせる名演である。

これまでの『くるみ割り人形』のイメージを払拭する最高の解釈で最高の演奏家たちがワクワクドキドキしながら新鮮に取り組んだ衝撃的録音。

『くるみ割り人形』の真の魅力を知らしめた世界最高の演奏家たちによる渾身の名演で、ジャンルを超えた美しさを誇り、かつてないセクシーな演奏といえよう。

全体としては実に軽やかな演奏を行っている印象を受ける。

このあたりは、フルトヴェングラーやカラヤン時代のベルリン・フィルの凄みのある重厚な分厚い音色を知っている聴者からすれば、いささか軽妙浮薄の誹りを免れないが、現代の古楽器奏法などが全盛を誇っている演奏傾向にかんがみれば、筆者としては許容範囲ではないかと考える。

むしろ、12時の鐘(これがいかにも弱すぎるが)の後の「クララとくるみ割り人形」、「トレパーク」、「花のワルツ」、「パ・ド・ドゥの導入部」などにおける重量感溢れる演奏は、現代においてもなおベルリン・フィルが底力を失っていないと感じさせるような重心の低い分厚い音色を出しており、その意味では、ラトルは、ベルリン・フィルにおいて、いかなる音色をも自在に引き出すことができる色彩感豊かな音のパレットを会得したと言えるだろう。

ベルリン・フィルの技量も卓抜したものがあり、「スペインの踊り」におけるトランペットの妖しい音色など、幻惑されるような色彩美に満ち溢れている。

HQCDによる鮮明な音質も、本盤の価値を高めることに大きく貢献している。

かかる筆者の論評に関して、演奏内容の評価については現在でも殆ど付け加えることがないが、音質面については、今般、ついにSACD盤が発売されることになったことから、それについて言及しておきたい。

本SACD盤は、これまでの既発の従来CD盤やHQCD盤とはそもそも次元が異なる極上の高音質であり、音質の鮮明さ、音場の広さ、音圧のどれをとっても一級品の素晴らしい仕上がりであり、あらためて、SACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、ラトルによる素晴らしい名演を、このような極上の高音質SACD盤で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2012年07月14日


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ベルリン・フィルは、フルトヴェングラーやカラヤンの時代にあった重心の低い重厚な音色がアバド時代に影をひそめ、明るく軽い音色に変質しつつあった。

そのようなベルリン・フィルを受け継いだラトルも、当初は、独自色を出そうにも空回りすることが多く、軽妙浮薄なベルリン・フィルの音色と相まって浅薄な凡演が目立っていた。

シューベルトの「第9」、ブルックナーの「第4」、R・シュトラウスの「英雄の生涯」など凡打の数々…。

しかし、2007年のマーラーの「第9」あたりから、ベルリン・フィルの重厚な音色が復活し、ラトルも小賢しい技巧に走るのではなく、堂々たる正統派の演奏を行うようになった。

今般のブラームスの交響曲全集も、そうしたラトルの新しい演奏スタイルに沿った演奏であり、一言で言えば、ベルリン・フィルの重厚かつ重量感溢れる演奏をベースにした、ドイツ音楽の伝統に根ざした堂々たる正統派の名演ということになろう。

もちろん、各楽章の描き分けも見事で、ブラームスならではの枯れた抒情の描出にも抜かりはない。

「第4」の第2楽章のように、いささか表現過多な箇所も見られるが、ラトルはまだ50代、前途洋洋たる更なる将来性に期待したい。

それにしてもツィマーマンとの「ピアノ協奏曲第1番」でも垣間見えたが、ラトルとベルリン・フィルのコンビは本当にブラームスと相性が良い。

奇矯な解釈ではないが、イン・テンポ気味の縦型演奏が多いブラームスへの見方に一石を投じる様なテンポ変動を以て、ブラームスの本来重々しかった交響曲に躍動感、生命力を与えている。

それでいて縦の線も一切崩れないのはラトル、ベルリン・フィルも手腕もさながら、やはり相思相愛であるからか、と感じさせてくれるほどオケが献身的である。

20世紀の巨匠たちの時代の名演とは完全に一線を画す演奏で、21世紀のマイルストーンとも言うべき全集だと思う。

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2012年07月10日


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若き39歳のラトルが、初めてベルリン・フィルと録音した1枚。

今や世界をリードする組み合わせとなったラトル&ベルリン・フィルの1994年の初顔合わせであり、ラトル飛躍の原点となった録音。

リストのファウスト交響曲は、名曲とされるわりには録音の数も限定的であり、ポピュラリティーを獲得しているとは言えない。

そのような曲をベルリン・フィルとの最初の録音に選んだラトルの並々ならぬ自信のほどが伺える(数年前にベルリン・フィルの自主レーベルにより、87年のマーラーの「第6」のライヴ盤が発売されたことから、厳密に言うと最初の録音ではない)。

実にクリアなディテール、曖昧さのない響き、シャープなリズムで、音楽の肥大さなどまったく感じさせない見事な演奏だ。

第1楽章と第2楽章は非常に丁寧な演奏というイメージだ。

全く対照的な性格を有する両楽章であるが、ラトルの丁寧なアプローチが、両楽章の描き分けを見事に成し遂げるということに繋がっている。

第3楽章になると、ここでラトルはエンジン全開し、ベルリン・フィルを豪快に鳴らすなど、これまでの鬱憤を全て晴らすかのような圧倒的な迫力で曲想を描いていく。

終結部の合唱も実にうまく、ザイフェルトの独唱とあいまって、感動的にこの大曲を締めくくる。

演奏後の拍手喝采も当然のことと思われる。

ラトルは、その後、ベルリン・フィルの首席に就任し、一時は低迷した時期もあったが、2007年のマーラーの「第9」あたりから、漸く持ち前の才能が開花し、ラトル&ベルリン・フィルの黄金時代の幕開けが始まっている。

本盤の録音当時、ラトルはまだ39歳であるが、現在の栄光を予見させてくれるような名演である。

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2012年07月06日


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ラトルは今日でこそベルリン・フィルを完全に掌握し、現代を代表する大指揮者の1人として数々の名演を成し遂げつつあるが、ベルリン・フィルの芸術監督に就任してから数年間は鳴かず飛ばずの状態が続いていた。

本盤には、ホルストの組曲『惑星』と、コリン・マシューズによる「冥王星」、そして、国籍の異なる4人の作曲家による宇宙をテーマとした小品が収められているが、このうち、メインの組曲『惑星』が、イマイチの凡庸な演奏に成り下がっていると言えるところだ。

ラトルも、ベルリン・フィルの芸術監督就任後は、名うての一流奏者たちを掌握するのに相当に苦労したのではないだろうか。

そして、プライドの高い団員の掌握に多大なる労力を要したため、自らの芸術の方向性を見失っていたのではないかとさえ考えられる。

それ故に、必然的に意欲だけが空回りした演奏に終始してしまっている。

本演奏も美しくはあるが根源的な力強さがない。

同曲を精緻に美しく描き出すことにつとめたのかもしれないが、本演奏を聴く限りにおいては、ラトルが同曲をこのように解釈したいという確固たる信念を見出すことが極めて困難である。

ラトルは1980年にも、フィルハーモニア管弦楽団とともに同曲を録音しているが、当該演奏の方が、若干の荒々しさは感じさせるものの、若武者ならではの気迫溢れる力強い熱演に仕上がっていたところであり、本演奏よりも数段優れた演奏のように思われる。

メインの組曲『惑星』と比較して、コリン・マシューズによる「冥王星」や、国籍の異なる4人の作曲家による宇宙をテーマとした小品については、録音自体がそもそも珍しい楽曲であることや、おそらくはベルリン・フィルも演奏した経験を殆ど有していなかったこともあって、ラトルのペースで演奏が行われているようにも感じられる。

したがって、組曲『惑星』よりもラトルの解釈が演奏にしっかりと刻印されているところであり、これらの楽曲の演奏に関してはなかなかに優れた演奏ということができるのではないだろうか。

音質は驚天動地の鮮明な高音質であり、本盤については、既にHQCD盤が発売されているが全く問題にならない。

あらためて、SACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第だ。

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2011年08月05日


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これは、ショスタコーヴィチの「第4」の最高の名演であるだけでなく、ラトルのあらゆる録音の中でも、現時点においては最高の超名演であると高く評価したい。

ショスタコーヴィチの「第4」は、実に複雑怪奇な作品である。

冒頭の主題が、終結部などで再現される以外は、様々な異なる主題が長大な貨物列車のように数珠つなぎに連なっており、不協和音や霧のような静寂など、曲想もめまぐるしく変化するなど、とても一筋縄ではいかない。

しかしながら、聴けば聴くほど味わいが出てくるという内容の深さにおいては、間違いなくショスタコーヴィチの交響曲の中でも上位を占める傑作であり、そうしたこともあって、特に、近年においては、数々の名演が生み出されるに至っている。

本盤のラトル以外にも、チョン・ミュンフンやゲルギエフの名演などが掲げられるが、その中でもやはり、ラトル盤こそ最高峰の名演と言える。

ラトルは、切れば血が出るような激しい情念の迸りや思い切ったテンポの激変、ダイナミックレンジの極端な幅広さなどを駆使しており、それでいて、第2楽章や終楽章の終結部の霧のような静寂の表現も完璧である。

切れ味鋭いリズム感も、殆ど神業のレベルに達している。

バーミンガム市響も、ラトルの抜群の統率の下、最高のパフォーマンスを示しており、一流とは決して言えなかったバーミンガム市響をこれだけのレベルに引き上げた才能にも大いに驚かされる。

併録に、ショスタコーヴィチと親交のあったブリテンの「ロシアの葬送」をカップリングしたセンスの良さも、ラトルならではのものであるが、同曲も素晴らしい名演だ。

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2010年09月09日


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ブラームスはツィマーマンの2度目の録音であり、その演奏は音も表現も一段と密度高く磨かれている。

ツィマーマンは「思索と研鑽の人」と称されるだけに、同曲についても徹底的に研究を重ねたのだと考えられる。

同曲はブラームスの青雲の志を描いた作品であるが、ツィマーマンはそうした疾風怒濤期にも相当する若きブラームスの心の葛藤のようなものを鋭く抉り出し、奥行きのある演奏を行っているのが素晴らしい。

また、技量においても卓越したものがあるとともに、強靭な打鍵から繊細な抒情に至るまで表現の幅は桁外れに幅広く、スケールも雄渾の極みであり、情感の豊かさにおいてもいささかの不足もない。

1音1音まで確かな意志が通った演奏は、まことに彫りが深く、スケールが大きいし、こまやかに磨かれた表現と音彩の美しさも傑出している。

まさに、技量においても内容の深みにおいても完璧なピアニズムを展開していると言えるところであり、ツィマーマンとしても会心の名演奏と言えるのではないだろうか。

若々しい情熱とリリシズムにとんだ前作の演奏も魅力的であるが、どちらかというと、バーンスタインに合わせた感があったのに対して、ここでのツィマーマンは、揺るぎない自信をもって存分に自分の演奏を展開している。

ラトルもベルリン・フィルを存分にドライヴして、いきいきと劇性ゆたかな演奏を築くとともに、細部まで曖昧さを残すことなく鋭敏にソロと呼応している。

注目の顔合わせにふさわしい新鮮な名演である。

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2007年12月04日


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ラトルのマーラー交響曲全集を聴いたが、比較的初期に録音された第2番「復活」と第6番「悲劇的」が印象に残った。

壮麗かつ豪快な「復活」だ。マニエリスム的とさえいえるようなデフォルメが施され、ラトルのマーラー解釈が存分に発揮されている。

第2楽章は若々しい表現で、柔軟な響き、第3楽章ではきめの細かい起伏、オーケストレーションの色彩の変化が鋭く表出され、ラトルの才能をうかがわせる。

独唱者2人も素晴らしい選択で、特にベイカーの第4楽章でのソロが印象深い。合唱団もまたよく歌っている。

「悲劇的」も推進力が強く、すこぶる若々しい演奏だ。

第1楽章は表情が開放的でなめらかで、第2楽章も素晴らしく抒情的でみずみずしく、柔らかい表情である。

第3楽章は快適なテンポとその変転にラトルの創造性を感じさせるが、終楽章がことに素晴らしく、驚異的な名演と感じられる。

ラトルの鋭敏な感性は、マーラーの楽想を深い理解をもって豊かに表現しており、すべてに説得力が強い。

この作品の注目すべき個性的な秀演である。

ちなみにラトルは通常の第2楽章と第3楽章を逆に配置している。

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2007年11月15日


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私はサイモン・ラトルのマーラーの交響曲は第7番と第10番を持っていて、なかなか感心して聴いていたのだが、タワーレコードでラトルのマーラー交響曲全集が廉価で発売されてたので、思い切って買った。

ラトルのマーラーは、例えば上記の第7番をテンシュテットと比べてみるとよくわかるが、皮肉の色合いはまったく薄い。陰影もあまりない。

それゆえ、音楽にドラマを求める聴き手にとってはあまりに薄味に過ぎようが、音楽とは音という絵の具を使った抽象画であると考える人には、実に魅力的だろう。

響きがよく練り上げられ、調和した、洗練された音楽なのだ。不安なおののき、危険な誘惑はまったくなく、健康的である。

私の正直な感想を記すなら、ラトル流はもちろんひとつの解釈あるいは演奏法として、存在してよいと思うし、立派な水準に達している。

しかし、それだけで捉えきれないものがマーラーにはある。

私はバーンスタインやテンシュテットの強烈で、毒があって、自分の人生を問うているような、そして聴き手である自分の人生も問うているような圧倒的な演奏を知っているがゆえに、不満が消え去らない。

ここまで調和してしまうと、音楽がきれいごとになってしまうと感じてしまう。

とはいえ、彼のマーラー第7、10番のCDは現代において聴くことができる最高のマーラーのひとつであることは認めねばならない。

全集を聴くのが楽しみだ。

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