ザンデルリンク
2022年08月03日
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このネット配信は元をたどればDENONレーベルの3枚組で、1971年録音のオイロディスク音源になる。
良質なステレオ音源で鮮明な音質が特徴だが、これより以前にリリースされた同音源のRCA盤2枚組に比較するとやや劣っていると思われる。
日本盤では音質向上のために3枚にリカップリングしたようだが、後者の方がすっきりした印象がある。
ただしこれはリマスタリングを行ったエンジニアと鑑賞する側の好みにもよるので聴き比べてみるのが良いだろう。
とはいってもこの2セットはいずれも既に廃盤の憂き目に遭っていて、プレミアム価格で販売されているので、是非復活を望みたいところだ。
クルト・ザンデルリングは録音にはそれほど恵まれなかった。
旧ソヴィエト時代は音質の貧しいモノラル録音が殆どで、ようやく1960年代にドイツに帰国してからインターナショナルな活動が始まった。
このハイドンでもオイロディスクの録音水準の高さが際立っている。
しかし全曲集のオファーには恵まれず、ベートーヴェン及び2種類のブラームスの交響曲全集とベートーヴェンとラフマニノフのピアノ協奏曲全集は存在する。
残念ながら得意にしていたレパートリーのショスタコーヴィチの交響曲は全曲完成には至らなかったし、ブルックナーやマーラーにも造詣が深かったので、その点は残念だ。
その中で彼のハイドンは生き生きした推進力とベルリン交響楽団に決して硬直感を感じさせない巧さが滲み出ていて秀逸だ。
またハイドンが交響曲に表現した形式感の美しさと嬉遊性を余すところなく表現し得た、傑出した演奏だと思う。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2022年07月27日
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ザンデルリング生誕100周年記念したセットで、その5年前に出た95周年記念盤に続いてベルリン・クラシックからリリースされた。
残念ながら彼は2011年に98歳で鬼籍に入っている。
両親がユダヤ系だったためにドイツの国籍を剥奪され、若い頃からソヴィエトで研鑽を積み、戦後は旧東ドイツを中心に活躍した指揮者としては珍しくマーラーをレパートリーにしていた。
2歳年下のコンドラシンもスラヴ系の指揮者には珍しくマーラーを系統的にレコーディングしたが、ザンデルリングのような経歴を持つ人が世紀末的なウィーンのデカダンスの魅力を伝えるマーラーに情熱を捧げたことには驚かされる。
それは特に最後の未完交響曲第10番に表れている。
交響曲第10番嬰ヘ長調は第一楽章だけが演奏可能な状態でスコアが残されたが、それ以降は加筆する必要があるので、指揮者はオリジナル稿を尊重して第一楽章のみを演奏するか、補筆版を使った完成形で全曲演奏するかの選択に迫られる。
ザンデルリングは後者の立場を取っていて、デリック・クックの第3稿をもとにして独自の解釈を加えて演奏している。
それだけこの作品に懸ける強い情熱が感じられる。
これはリカップリングされた第9番でも言えることだが、彼はフルトヴェングラーのようにマーラーを熟れ切った果実のように演奏するのではなく、より分析的にサウンドを作り上げていく。
第9番のように様々なエレメントが交差する曲では、彼のようなある種の冷徹さがモダンな響きを作り上げていると言っていいだろう。
ベルリン交響楽団も彼らの実力を発揮した優れた演奏で、当時の西側の著名なオーケストラに引けを取らない腕前を示している。
最初には『大地の歌』が収録されているが、ペーター・シュライアーが珍しく感情をあらわにした表現が聴ける。
これもザンデルリングの解釈だろう。
アルトのビルギッド・フィニラは真摯に歌っていて好感が持てるが、ブルーノ・ワルター盤のキャスリーン・フェリアーの歌唱を聴き直してしまった。
それくらいフェリアーの死を予感した歌声は天才的なものを感じざるを得ない。
音質は極めて良好で、オーケストラのそれぞれの楽器の解像度も想像以上に良かった。
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2022年06月26日
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クルト・ザンデルリングがベルリン交響楽団を指揮したシベリウス交響曲全集は、二組のCDセットがリリースされている。
いずれもオランダ・ブリリアント・レーベルからで、同じく5枚組になる。
ここに挙げたCDセットは7曲の交響曲の他に交響詩『フィンランディア』『夜の騎行と夜明け』及び『エン・サーガ』が収録されているが、『悲しきワルツ』と『トゥオネラの白鳥』が除かれている。
さらにワシリー・シナイスキー指揮、モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団による『レンミンカイネン組曲』と『タピオラ』が加わっている。
ご参考までに他のセットには7曲の交響曲が4枚のCDに収録されている。
最後の1枚は交響詩集になっていて、『フィンランディア』『悲しきワルツ』『夜の騎行と夜明け』『トゥオネラの白鳥』及び『エン・サーガ』の5曲。
ただし『トゥオネラの白鳥』のみがパーヴォ・ベルグルンド指揮、ベルリン放送交響楽団の演奏になる。
もしザンデルリングを聴くのが目的なら他のセットをお薦めする。
ただしボックスといっても実際には5枚の個別のジュエル・ケースを纏めただけのもので、多少かさばるのが欠点だし、廃盤になっている。
シベリウスの交響曲はその色彩感やサウンドの物語性から交響詩に近い。
ザンデルリングはことさら音色や標題的な楽想にこだわることなく、堂々たる純粋な交響曲としての存在感を創り上げている。
小手先をきかせることよりも本来のオーケストレーションを聴かせる演奏として最右翼とも言えるだろう。
それだけに脆弱さは全くなく、ベルリン交響楽団にも思い切った力強さと堅牢な響きを要求している。
1970年から77年にかけて当時の東ドイツ側にあったイエス・キリスト教会で録音された音源で、音質は時代相応以上に良好。
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2022年06月25日
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正規盤初出のレパートリーである音源そのものはすでにファンの間では広く知られていたが、Profilが熱いリクエストに応えてリリースに踏み切った1枚。
巨匠クルト・ザンデルリング指揮バイエルン放送交響楽団のブルックナー第4番『ロマンティック』は格別の出来栄え。
巨匠スタイルの圧倒的なアプローチに応える、バイエルン放送響の底知れぬ実力を感知できる。
この音源はSACDバージョンでも既にリリースされているが、こちらはレギュラーフォーマット盤。
ヘンスラーは独自のリマスタリングで定評があり、この演奏も解像度が良好で低音も充分に豊かだ。
また丁寧なサウンド・リストレーションによってブルックナーの分厚いオーケストレーションも破綻なく再生される。
できれば広い空間で音響を解き放つ程度にボリュームを上げて鑑賞することをお薦めする。
そうすることによって本来のスケールの大きなブルックナーのサウンドが蘇る。
ザンデルリングはブルックナーの第3番、第4番そして第7番を録音したが、いずれも幸い良い状態の音質で残されている。
ザンデルリングはバイエルン放送交響楽団の機動力とパワフルな音量を充分に引き出しながら、一方で第2楽章では滔々と溢れる流れのような抒情を歌わせている。
柔らかく繊細に始まり、やがてあたかも木漏れ日が射しこむかのような優しい表情をみせるあたりなど、言葉を失うほどの美しさだ。
全体的なテンポは穏やかだが、構成感はしっかりしていて、71分の交響曲を長く感じさせない。
しかも楽章ごとに緊張感を高めて終楽章でクライマックスを創り上げる力量は流石で、壮大なフィナーレに至ってはこのうえなく感動的だ。
確かに指揮者の派手なアピールは感じられないが、音楽そのものの力学で聴かせる優れたサンプルだ。
その後この音源はヘンスラー・プロフィール・レーベルからリリースされたクルト・ザンデルリング・エディション11枚組に組み込まれ、その第1曲を飾っている。
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ベルリン・クラシックスのリイシュー盤で、ザンデルリングがベルリン交響楽団とセッション録音したショスタコーヴィチの6曲の交響曲のうちの2曲。
彼は1936年からユダヤ人迫害を避けて当時のソヴィエトに亡命した。
1941年からはレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任した。
1960年にベルリン交響楽団の芸術監督になりドイツ帰国を果たした。
レニングラード時代はムラヴィンスキーの薫陶を得たので、当然ショスタコーヴィチとの親交も深めた。
ムラヴィンスキーはショスタコーヴィチの交響曲第5、6、8、9、10、12番を初演している。
ちなみに第4、13番はコンドラシン初演だが、彼らは作曲家と交流のあった最も優れた指揮者だったと言えるだろう。
しかし演奏スタイルはそれぞれに異なった特徴があり、ザンデルリングは恣意的な表現を避けた客観的で、しかし骨太な中に緻密さを備えた几帳面な演奏だ。
第1番ヘ短調の第2楽章のピアノの鮮烈なパッセージとオーケストラとの掛け合いも生気に満ちた表現だし、第3楽章の他の作曲家からの剽窃的な導入も巧みにまとめている。
終楽章はショスタコーヴィチの将来の交響曲を暗示する暗さの中に火花の散るようなドラマティックなフィナーレになっている。
これが彼のレニングラード音楽院での卒業作品とは思えない早熟のオーケストレーションの腕を示している。
第6番ロ短調は3楽章のみの交響曲だが第1楽章ラルゴの渓谷を流れる清冽な水のような弦楽部の神秘な美しさ、第2楽章アレグロのスケルツォ的な快活さ、それは偉大なタランテッラと言えるかも知れない。
そして第3楽章の小気味良いリズム感などは、ザンデルリングに呼応するベルリン交響楽団のアンサンブルの巧さを披露している。
ザンデルリングにいわゆる爆演は求められないが、どんな場合でも度を外すことなく的確な音楽性を繰り広げる指揮者として敬意を表したい。
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2022年05月17日
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ザンデルリンクはムラヴィンスキーに師事するとともに、ショスタコーヴィチと親交があったこともあって、ショスタコーヴィチを得意としており、交響曲第15番については2度にわたってスタジオ録音している。
最初の録音が、本盤に収められたベルリン交響楽団との演奏(1978年)であり、2度目の録音が、クリーヴランド管弦楽団との演奏(1991年)である。
いずれ劣らぬ名演と言えるところであり、特に1991年の演奏については円熟の名演とも言えるが、筆者としては、より引き締まった演奏全体の造型美を味わうことが可能な本演奏の方をより上位に掲げたい。
ザンデルリンクはムラヴィンスキーが音楽監督時代のレニングラード・フィルの客演指揮者として研鑽を積んだ。
ムラヴィンスキーのような全軍水も漏らさぬ指揮官のこわもてのイメージはなく、精緻だがオーケストラの持ち味を生かした柔軟な音楽作りが冴えている。
強引と思われるような牽引や聴き手を疲弊させるようなこともない、豊かな音楽性を引き出すことにかけては第一級の腕を持っていた。
彼は旧ソヴィエト時代にショスタコーヴィチと個人的な交流を持っていたので、作曲家の良き理解者として作品に寄り添った解釈が聴きどころだ。
決してシニカルにならず、いたって真摯な表現力と緻密な統率から表現される繊細なサウンドはザンデルリンクならではのものだ。
本演奏も、さすがに、師匠であるムラヴィンスキーの演奏(1976年)ほどの深みや凄みには達していない。
それでもザンデルリンクによる彫りの深い表現が全体を支配するなど、外面だけを取り繕った薄味な演奏にはいささかも陥っていないと言えるところだ。
加えて、ドイツ人指揮者ならではの堅固な造型美や重厚な音色が演奏全体を支配しており、その意味では、ムラヴィンスキーによる名演の持つ峻厳さを若干緩和するとともに、ドイツ風の重厚さを付加させた演奏と言えるのかもしれない。
いずれにしても、本演奏は、ムラヴィンスキーなどのロシア系の指揮者以外の指揮者による演奏の中では、最右翼に掲げられる素晴らしい名演と高く評価したい。
第1楽章はおもちゃ箱をひっくり返したような無邪気さが特徴だが、荘重なブラスのコラールで始まる第2楽章、十二音技法の第3楽章は音楽的統一性に首を傾げたくなる。
そして終楽章では再び他の作曲家の作品からの剽窃がオンパレードとなり、パッサカリアの古い技法も使われる。
ショスタコーヴィチはそれまでの総ての音楽技法を集大成したような交響曲に仕上げた。
結局彼は他人から何を言われようと、自分の書きたい音楽をこの交響曲に纏めたのではないだろうか。
それが奇しくも彼の最後の交響曲になったのは言うまでもない。
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ドイツの名指揮者クルト・ザンデルリンクは晩年ヨーロッパの名門オーケストラだけでなく、中堅として支える地方の実力派の楽壇に頻繁に客演したが、シュトゥットガルト放送交響楽団とも質の高い演奏を遺してくれた。
そのひとつが1999年12月に行われた地元リーダーハレでのライヴで、演奏終了後の拍手や歓声の他は客席からのノイズは殆ど混入していない。
またブルックナーには不可欠なホールの潤沢な残響にも不足していない。
欲を言えばサウンドの立体感が欲しいところだが、レギュラー・フォーマットのCDでは限界があるのも事実だ。
残念ながら大手メーカーからはザンデルリンクにブルックナー交響曲全集の企画は持ち込まれなかった。
この第7番の他にはベルリン放送交響楽団、コンセルトヘボウ、BBCノーザン、ゲヴァントハウスそれぞれとの第3番とバイエルン放送交響楽団との第4番『ロマンティック』などがレパートリーとして挙げられる程度だ。
第3番、第4番と並んで彼の大曲をまとめ上げる力量と知的なアプローチが作品の重厚な構成感を聴かせるだけでなく、ここではまたライヴならではの白熱した雰囲気も伝わってくる。
全曲を通じて高揚感に溢れており、なかでも第2楽章ではザンデルリンクの持ち味とも言える美しい弦の響きが存分に発揮された、素晴らしい演奏が繰り広げられている。
この作品のハース版を使うところにもザンデルリンクの表面的な派手さを避ける意思が見えている。
特に第2楽章の後半でのクライマックスにシンバルやトライアングルが加わると、往々にしてあざとさが表出されてしまう。
ワーグナーの楽劇のような舞台作品であれば、時には効果的だが純粋な管弦楽曲には慎重でなければならない筈だ。
そうした管弦楽法を熟知している指揮者としてザンデルリンクは第一級の腕を示している。
またシュトゥットガルト放送交響楽団も彼の悠揚迫らぬテンポの中に、広いダイナミズムを巧みにコントロールして高度な合奏力で呼応している。
2012年に統廃合が行われた結果、現在では南西ドイツ放送交響楽団の名称で呼ばれているシュトゥットガルト放送交響楽団だが、確かにオーケストラとしての完成度から言えば彼らを上回る楽団は少なくないだろう。
しかしこのブルックナーではザンデルリンクの悠揚迫らざるテンポの中に、幅広いダイナミズムを巧みにコントロールした采配に呼応する、高度な合奏力を持ったオーケストラであることが証明されている。
むしろ超一流のオーケストラではそれほど顧みられない作曲家の朴訥とした作風を滲み出させているところも秀逸。
こうした表現に関してはドイツの地方オーケストラがかえってその実力を示しているのは皮肉だ。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2022年05月12日
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ザンデルリンクはこの作品を構成している限りないほどの音楽的あるいは心理的な動機を整然と纏め上げて、ショスタコーヴィチ自身の言葉から発せられていないメッセージを伝えようとしているように思われる。
彼は自分の作品がジダーノフ批判に曝されたことも影響して、芸術を語る時にも当局の監視を常に意識していた筈だ。
第1楽章の後半にみせるドラマティックなサウンドと終楽章の静謐だが不気味な余韻を残す終焉に、作曲者の抑圧された心情が隠されているようにも感じられる。
第4楽章パッサカリアでのヴァリエーションの連なりには音量的なクライマックスがなく深遠に渦巻くような情念が、最後のフルートのフラッタリングまで緊張感を持続させている。
この作品でもショスタコーヴィチはソナタ形式を始めとしてスケルツォ、パッサカリアやフーガなどの伝統的な手法を執拗に繰り返して、交響曲に対する彼の作曲上のコンセプトを明確にしている。
彼がマーラー以降の交響曲作家たる存在感を示す面目躍如の作品に仕上げているが、ザンデルリンクの演奏は至って真摯でスコアの本質を読み取った解釈と言えるのではないだろうか。
ベルリン交響楽団の精緻だが派手になり過ぎない音響もこの曲に相応しい。
録音会場に使用されたベルリンのイエス・キリスト教会はカラヤン、ベルリン・フィルが使った同名の教会ではなく、当時の東ドイツ側に属していて、現在ではエヴァンゲリスト教会と改名されている。
内部はドレスデンのルカ教会に比較するとやや小振りでシンプルだが、ゴシック様式の高い天井と頑健な壁面が影響していると思われるしっかりした明瞭なサウンドが得られ、ショスタコーヴィチの精緻なオーケストレーションを再現するには理想的な会場だったことが想像される。
1976年の収録だが非常に鮮明であることに加えて、UHQCD化による透明度の高い音質で、ドイツ・シャルプラッテンの原音の特徴が良く表れている。
この頃の彼らのアナログ音源が西側に匹敵する音質を誇っていたことも納得できる1枚だ。
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2022年05月05日
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音質的には同音源のUHQCD盤の方をお薦めするが、オリジナルのマスター自体も良い状態なのでコストパフォーマンスではこちらも選択肢として挙げておきたい。
ザンデルリンクはナチスの迫害から逃れて旧ソ連に亡命していたが、1960年にドイツ帰国を果たしてからヨーロッパでもその実力が知られるようになった。
25年に及ぶソヴィエト滞在はショスタコーヴィチとの交流やムラヴィンスキーからの薫陶で、スラヴ系の作曲家の作品を本家で開拓したという大きな収穫の年月だった。
このディスクのショスタコーヴィチの交響曲第5番は、1982年に古巣ベルリン交響楽団を振ったセッション録音でドイツ的で真摯で重厚な演奏の中に緊張感を崩さないオーケストラへの采配が聴きどころだ。
あえて指摘するなら外面的な派手なアピールは皆無なので、玄人受けはするが入門者にとってはいくらか地味に感じるかもしれない。
例えばアンチェル指揮チェコ・フィルの演奏では終楽章で希望を感じさせる色彩を感知させながら壮大なコーダを築き上げている。
それに対して、ザンデルリンクは頑固なまでに色調を変えず黒光りするような最後に仕上げている。
アンチェルの開放性と解釈を違えている理由は、やはり彼のソヴィエト時代の研鑽によるものだろう。
ザンデルリンクは1937年11月21日のムラヴィンスキー、レニングラード・フィルによるこの作品の初演に立ち会った可能性がある。
またショスタコーヴィチ自身から作曲の成り立ちについても聞き出していたのではないだろうか。
以前はプラウダに掲載された体制への反動分子という汚名返上のための回答としての社会主義リアリズムのプロパガンダ、つまり恭順の意を示した作品のイメージが浸透していた。
最近では第4番の初演撤回の後も彼の作曲への理念は根本的に変化していなかったというのが一般的な見方だ。
結果的に初演は大成功に終わり、図らずも彼の当局への名誉回復になったのだが、どうもショスタコーヴィチ自身には彼らの目論見とは別の構想があったように思われる。
その後1948年に今度はジダーノフ批判に曝されてモスクワ及びレニングラード音楽院の教授職を追われることになるのは象徴的な事件だが、この時彼は巧妙に立ち回って迎合的な作品を発表する。
このあたりの複雑な心理状態と行動にショスタコーヴィチの苦悩が秘められている。
録音会場になったイエス・キリスト教会は当時の東ベルリンにあり、現在ではエヴァンゲリスト教会に改名されていて、カラヤン、ベルリン・フィルが使った同名の教会とは異なっている。
こちらも大編成のオーケストラの演奏に対応する優れた音響空間を持っている。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2020年07月07日
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ベルリン交響楽団を離れた後のクルト・ザンデルリンク客演ライヴのひとつ。
ハイドンが1997年、ショスタコーヴィチが99年にそれぞれベルリンで録音され、ベルリン・フィルハーモニーの自主制作によってリリースされた1枚。
音質は良好で客席からの雑音もハイドン演奏終了後の拍手以外は殆んど皆無に近い。
ベルリン・フィル特有の弦楽セクションの統一感と磨き抜かれた音色、またウィンド、ブラス・セクションの余裕のある表現力などが良く捉えられている。
ライヴに付き物の若干の乱れはあるものの、全体的に見れば彼らの実力が発揮された充実した演奏内容になっている。
このディスクにはハイドンの交響曲第82番ハ長調『熊』及びショスタコーヴィチの最後の交響曲第15番の2曲が収録されている。
どちらもザンデルリンクが繰り返し演奏して切磋琢磨した作品だけに、その安定感と確信に満ちた表現が彼の晩年のスタイルを良く表している。
ハイドンではベルリン・フィルの洗練されたテクニックがザンデルリンクによって手際よく纏められている。
ハイドンが最後の交響曲まで第3楽章にメヌエットを置くウィーンのスタイルを捨てなかったように、古典派の音楽から少しも逸脱することのない、しっかりした形式と構成感を示しながら、終楽章では凛としたクライマックスを形成している。
こうした作曲家の様式に対する拘りもザンデルリンクの知的なアプローチによって磐石に示されているところが秀逸。
後者は剽窃の交響曲とも言えるくらい、至るところにショスタコーヴィチ自身や他の作曲家の作品のモチーフが一見何の脈絡もなく使われていて、晩年の作曲家の遊び心とも思える自由闊達な作法に驚かされる。
ショスタコーヴィチと直接交流があったザンデルリンクだけに彼の解釈も、そうしたバーチャルな開放感を自在に描いている。
それは作曲家が抑圧された人生の最後の交響曲で初めて成し得た試みなのかも知れない。
ここでも全楽章を通じて首席奏者達のソロとアンサンブルが聴きどころだが、特にパーカッション群による神秘的な緊張感の中に終えるコーダは象徴的だ。
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2019年05月06日
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ラフマニノフの交響曲第2番は大曲で、クルト・ザンデルリンク指揮フィルハーモニア管弦楽団(1990年)盤は67分を超えるが、圧倒的に素晴らしく、掛け値なしに偉大な演奏である。
他盤では60分以内に収まってしまうので、ザンデルリンクは多分にゆっくりと演奏していると思って差し支えないが、その共感と生命力の強さは驚くべきものである。
ラフマニノフは交響曲の理念に実に忠実に作曲していて、それは形式的な問題だけでは決してなく、西欧的弁証法とでも言うべきか、ともかく色々なことが時間に推移のうちに起こって、最後には或る何らかの境地に至るといった「物語」が大枠としてある。
山あり谷ありの大曲を最後までおよそ1時間に亘って演奏してゆくのは大変なことだ。
もちろんこれよりずっと長い作品は数多いが、ラフマニノフのこの曲には、マーラーの狂気や破綻などなく、もっとずっと単純に「物語」としての交響曲を壮大に作曲しているので、かえって演奏するのはしんどいものがあるだろう。
ザンデルリンクの演奏は、以前のもの(30年前のレニングラード・フィル盤)とは比べものにならないほど円熟しており、しかも個性的である。
叙情と劇性が雄大なスケールで濃厚に表出され、第1楽章冒頭から極めて充実した音楽を聴かせているが、各楽章とも完全に曲を手中に収めた表現で、全てが歌に満ち、アゴーギクとルバートの多用も内奥から溢れ出る感興を表している。
長大な第1楽章をザンデルリンクは25分かけて、殆ど苛々させるくらいにゆったりとしたテンポをとることで、逆に物語のダイナミズムを聴き手に味あわせてくれる。
とりわけ弦楽器群のうねり方が凄く、催眠術にかけられたがごとく、ザンデルリンクの大きな指揮棒の動きに合わせて陶酔の波の上を漂っている。
音楽の収縮は堂に入り、旋律線はぐんぐん彼方へ延びていって果てしがなく、これほど雄大かつ恍惚とした音楽は、他盤からは聴けない。
第2楽章もまたゆっくりめのテンポをとっているが、今度はホルンの咆哮するテーマの後ろで刻まれる弦の、速すぎるとただ粗雑にしか響かない弦のリズムをうまく聴かせている。
また、録音のせいもあるのかもしれないが、他盤ではよくわからなかったグロッケンシュピールの響きも明瞭に聴こえる。
第3、4楽章は前の2楽章ほど他盤とのテンポなどに違いはみられず、全体のなかでは第3楽章の前半が幾分醒めているのが不可解だが、後半は幸いなことに復活し、弦楽器だけでなく、オーケストラ全体の気の入り方が尋常ではない。
第4楽章冒頭など、バレエのエンディングを思わせる華麗な響きを聴かせているが、さすがにここに至って叙情的な部分では多少気のダレがみられないこともない。
もっともそれは聴き手の緊張が緩んできたというのもあるのだろうけれど、これだけ長い作品を聴くためには物理的な時間もさることながら、じっくりと物語に付き合うだけの気構えと余裕も必要だ。
ザンデルリンクはあまり録音に熱心な指揮者ではなかったが、このCDは彼の疑いなく最良のセッションだと思うし、こんな演奏が記録されたことに感謝の念を禁じ得ない。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2018年10月04日
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クルト・ザンデルリンク(1912-2011)は、晩年ヨーロッパの名門オーケストラだけでなく、中堅を支えるいくつかの実力派の楽団にも頻繁に客演したが、シュトゥットガルト放送交響楽団とも質の高い演奏を遺してくれた。
そのひとつが1999年12月に地元リーダーハレで行われたこのディジタル・ライヴになる。
演奏終了後の歓声と拍手の他には幸い客席からの雑音は殆んどなく、またブルックナーには不可欠なホールの潤沢な残響や空気感にも不足しない良好な録音状態にも好感が持てるし、CDの音質や臨場感も極めて良好だ。
独SWRの制作によるディスクのリニューアル盤で、ジャケットの写真を一新して今年再販された。
当時の西側に彼の名が知られたのが遅かったためか、大手メーカーからザンデルリンクにブルックナーの交響曲の全曲録音の企画は持ち込まれなかった。
この他にはベルリン放送交響楽団、コンセルトヘボウ、BBCノーザン、ゲヴァントハウスそれぞれとの第3番とバイエルン放送交響楽団との第4番『ロマンティック』などがレパートリーとして挙げられる程度だ。
いずれも彼の大曲に対する知的なアプローチが作品の構成を堅固に聴かせるだけでなく、同時にライヴならではの白熱した雰囲気も伝わってくる。
この晩年の第7番は、優しく、時に力強いザンデルリンクの良さが十二分に発揮された名演中の名演である。
ザンデルリンクならではの慈愛に満ちたブルックナーで、いつものように丁寧に1つ1つの音を作り上げていくが、そういう音楽に対して謙虚な姿勢が感じられる一方で、音は確固たる自信にあふれている。
とりわけ第2楽章は、人間の奥底にある穏やかな感情を静かに描いているように感じられる。
かつての日本盤解説では「何があってもびくともしない」と評されていたがその通りで、その安定感が聴き手に対し、大樹に寄り添うような安心感を与えてくれるのだろう。
2012年に統廃合が行われた結果、現在では南西ドイツ放送交響楽団の名称で呼ばれているシュトゥットガルト放送交響楽団だが、確かにオーケストラとしての完成度から言えば彼らを上回る楽団は少なくないだろう。
しかしこのブルックナーではザンデルリンクの悠揚迫らざるテンポの中に、幅広いダイナミズムを巧みにコントロールした采配に呼応する、高度な合奏力を持ったオーケストラであることが証明されている。
むしろ超一流のオーケストラではそれほど顧みられない作曲家の朴訥とした作風を滲み出させているところも秀逸で、こうした表現に関してはドイツの地方オーケストラがかえってその実力を示しているのは皮肉だ。
例えば第2楽章後半の壮麗なクライマックスを聴いていると、ノヴァーク版のシンバルが如何にあざとく煩わしいものかが理解できる。
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2018年10月02日
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2015年に独ヘンスラー・プロフィールからクルト・ザンデルリンク・エディション第1集交響曲編11枚がリリースされた時にラフマニノフの交響曲全3曲も組み込まれていた。
第1番及び第2番はレニングラード・フィルとのモノラル録音で、第3番は1994年の北ドイツ放送交響楽団とのステレオ・ライヴだが、当時同曲では彼の唯一の音源という触れ込みだった。
しかし今年になって南西ドイツ放送SWRクラシックから出たこのディスクのデータを見ると前者の翌年にシュトゥットガルト放送交響楽団に客演したセッション録音で、オリジナルSWRテープからのディジタル・リマスタリングと記載されている。
確かに音質は極めて良好で、精緻かつ巧妙なラフマニノフのオーケストレーションを、ザンデルリンクの決して冷淡にならない血の通った指揮と、シュトゥットガルトの手堅い演奏で堪能することができる。
下積み時代をレニングラードで過ごしたザンデルリンクにとって、ロシア物は彼が完璧に手中に収めたレパートリーのひとつであった。
当ディスクではムソルグスキーの歌劇『ホヴァンシチナ』から第1幕への前奏曲「モスクワ河の夜明け」とのカップリングで、ロシアの色濃い抒情で満たされている。
ムソルグスキーはオーケストレーション・スコアを遺さなかったので、コンサートではしばしばリムスキー=コルサコフ版が使われている。
ザンデルリンクはショスタコーヴィチがピアノ譜から忠実に構想した1958年版を採用して、情景描写にも優れた手腕を示したムソルグスキーの骨太で力強い音楽が活かされている。
一方作曲家としてのラフマニノフの作風は先輩マーラーや同世代のシェーンベルク、スクリャービン、少し後のストラヴィンスキー、バルトーク、プロコフィエフなどに比べるとかなりレトロ調で、後期ロマン派の残照の中に拭い去ることのできない憂愁を引き摺ったロマンティックな感性を、彼は終生捨てることがなかった。
彼の最後の交響曲も時代遅れと言ってしまえばそれまでだが、起伏に富んだ曲想が華麗なオーケストレーションで装飾されたロマン派最後を締めくくる作品のひとつだろう。
曲中には彼がスコアに遺したサインのようにグレゴリウス聖歌の『怒りの日』の旋律が断片的なモチーフとして記されている。
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2018年09月24日
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クルト・ザンデルリンクは1960年にベルリン交響楽団の首席指揮者としてドイツ帰国を果たして以来、ヨーロッパの楽壇でもその実力が認められるようになった。
ナチスの迫害を避けるための亡命だったが、25年に及ぶソヴィエト滞在はショスタコーヴィチとの交流やムラヴィンスキーからの薫陶でスラヴ系の作曲家の作品をレパートリーとして開拓することになった。
このディスクに収録されたショスタコーヴィチの交響曲第5番は、1982年に古巣ベルリン交響楽団を振ったセッション録音で、ドイツ的な真摯で重厚な演奏の中に緊張感を崩さないオーケストラへの采配が見事だ。
敢えて指摘するならば外面的な派手なアピールは皆無なので、玄人受けはするが入門者にとっては多少地味に映るかもしれない。
例えばアンチェル、チェコ・フィルの演奏では終楽章は希望を感じさせる色彩を放ちながら壮大に終わるのに対して、彼らは頑固なまでに色調を変えず、黒光りするようなコーダを形成している。
アンチェルの開放性と解釈を違えている理由は、やはり彼のソヴィエト時代の研鑽によるものだろう。
ザンデルリンクは1937年11月21日のムラヴィンスキー、レニングラード・フィルによるこの作品の初演に立ち会った可能性がある。
またショスタコーヴィチ自身から作曲の成り立ちについても聞き出していたのではないだろうか。
以前はプラウダに掲載された態勢への反動分子という汚名返上のための回答としての社会主義リアリズムのプロパガンダ、つまり恭順の意を示した作品のイメージが浸透していたが、最近では第4番の初演撤回の後も彼の作曲への理念は根本的に変化していなかったというのが一般的な見方だ。
結果的に初演は大成功に終わり、図らずも彼の当局への名誉回復になったのだが、どうもショスタコーヴィチ自身には彼らの目論見とは別の構想があったように思われる。
その後1948年に今度はジダーノフ批判に曝されてモスクワ及びレニングラード音楽院の教授職を追われることになるのは象徴的な事件だが、この時彼は巧妙に立ち回って迎合的な作品を発表する。
このあたりの複雑な心理状態と行動にショスタコーヴィチの苦悩が秘められている。
録音会場になったイエス・キリスト教会は当時の東ベルリンにあり、現在ではエヴァンゲリスト教会に改名されていて、カラヤン、ベルリン・フィルが使った同名の教会とは異なっているが、こちらも大編成のオーケストラの演奏に対応する優れた音響空間を持っている。
このディスクは旧東独ドイツ・シャルプラッテン音源を新規リマスタリングしたバージョンで、従来盤より滑らかでクリアーな音質が再生される。
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2018年08月19日
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クルト・ザンデルリンクはナチスのユダヤ人迫害から逃れてソヴィエトに亡命し、ムラヴィンスキー音楽監督時代のレニングラード・フィルの客演指揮者として研鑽を積んだ。
尤もムラヴィンスキーのような全軍水も漏らさず統率する強面の指揮官というイメージはない。
ここでも緻密だがオーケストラの持ち味を活かした柔軟な音楽作りが冴えていて、決して強引と思われるような牽引もなければ聴き手を疲弊させることもない豊かな音楽性を発揮させることができた指揮者だった。
彼は録音活動にはそれほど恵まれなかったが、その実力はゲルマン、スラヴ系の作品に示された楽曲に対する手際の良い采配と音響力学の巧みな配分やあざとさのない歌心、クライマックスでの自然な、しかし力強い高揚感などに表れている。
特にザンデルリンクはショスタコーヴィチとはソヴィエト時代に個人的な交流があったために、作曲家の良き理解者でもあった彼が情熱的に取り組んだ重要なレパートリーだ。
交響曲第15番はロッシーニを始めとする他の作曲家や自作のパロディーの応酬が聴きどころだが、それはショスタコーヴィチの人生の走馬燈だったのかも知れない。
彼らの演奏はシニカルというよりスコアからのダイレクトな表現で、かえってこの作品の構想を真摯に捉えたものだと思う。
ベルリン交響楽団(現在のベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団)は旧東ドイツではシュターツカペレ・ドレスデン、シュターツカペレ・ベルリンやライプツィヒ・ゲヴァントハウスなどに続く典型的な質実剛健なオーケストラで、ザンデルリンクの下でその実力を培ってヨーロッパを代表する名門になるまでに至った。
それはこのディスクに収録されたショスタコーヴィチの最後の交響曲でも明瞭に聴き取ることができる。
この作品のいたるところにソロや複雑なアンサンブルがちりばめられていて、彼らの高い水準の合奏力とメンバー1人1人のテクニックが示されているし、勿論総奏の時の迫力も申し分のないものだ。
1978年に当時の東ベルリン・イエス・キリスト教会で収録されたドイツ・シャルプラッテン音源だが、西側と全く変わらない良好な音質で残されていて、今回のUHQCD化によって雑味の払拭されたサウンドが再生される。
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2015年08月03日
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凄い演奏だ。
このような凄い演奏が遺されていたということは、ザンデルリンクのファンのみならず、クラシック音楽ファンにとっても大朗報と言えるのではないだろうか。
東独出身のザンデルリンクは、旧ソヴィエト連邦においてムラヴィンスキーにも師事し、ショスタコーヴィチと親交があったこともあって、ショスタコーヴィチの交響曲を得意としていた。
すべての交響曲を演奏・録音したわけではないが、第1番、第5番、第6番、第8番、第10番、第15番の6曲についてはスタジオ録音を行っており、いずれ劣らぬ名演に仕上がっている。
ショスタコーヴィチの15ある交響曲の中で、どれを最高傑作とするのかは諸説あると思われるが、盟友であったムラヴィンスキーに献呈された第8番を最高傑作と評価する者も多いのではないかとも思われるところだ。
ザンデルリンクも、前述のようにムラヴィンスキーに師事していたこともあり、同曲にも特別な気持ちを持って演奏に臨んでいたのではないか。
前述のベルリン交響楽団とのスタジオ録音(1976年)もそうしたことを窺い知ることが可能な名演に仕上がっていたが、本盤の演奏は、当該演奏をはるかに凌駕する圧倒的な超名演に仕上がっていると高く評価したい。
ザンデルリンクによる本演奏は、師匠であるムラヴィンスキーの演奏とはかなり様相が異なるものとなっている。
ムラヴィンスキーによる同曲最高の名演とされる1982年のライヴ録音と比較すればその違いは顕著であり、そもそもテンポ設定が随分とゆったりとしたものとなっている(ザンデルリンクによる1976年のスタジオ録音よりもさらに遅いテンポをとっている)。
もっとも、スコア・リーディングの厳正さ、演奏全体の堅牢な造型美、そして楽想の彫りの深い描き方などは、ムラヴィンスキーの演奏に通底するものと言えるところだ。
その意味では、ショスタコーヴィチの本質をしっかりと鷲掴みにした演奏とも言えるだろう。
ムラヴィンスキーの演奏がダイレクトに演奏の凄みが伝わってくるのに対して、ザンデルリンクによる本演奏は、じわじわと凄みが伝わってくるようなタイプの演奏と言えるのかもしれない。
ショスタコーヴィチの交響曲は、最近では数多くの指揮者が演奏を行うようになってきているが、その本質を的確に描き出している演奏はあまりにも少ないと言えるのではないだろうか。
ショスタコーヴィチは、旧ソヴィエト連邦という、今で言えば北朝鮮のような独裁者が支配する政治体制の中で、絶えず死と隣り合わせの粛清の恐怖などにさらされながらしたたかに生き抜いてきたところだ。
かつて一世を風靡した「ショスタコーヴィチの証言」は現在では偽書とされているが、それでも、ショスタコーヴィチの交響曲(とりわけ第4番以降の交響曲)には、死への恐怖や独裁者への怒り、そして、粛清された者への鎮魂の気持ちが込められていると言っても過言ではあるまい。
したがって、ショスタコーヴィチと親交があるとともに、同時代を生き抜いてきたムラヴィンスキーの演奏が感動的な名演であるのは当然のことであり、かかる恐怖などと無縁に平和裏に生きてきた指揮者には、ショスタコーヴィチの交響曲の本質を的確に捉えて演奏することなど到底不可能とも言えるだろう。
一般に評判の高いバーンスタインによる演奏など、雄弁ではあるが内容は空虚で能天気な演奏であり、かかる大言壮語だけが取り柄の演奏のどこがいいのかよくわからないところだ。
かつてマーラー・ブームが訪れた際に、次はショスタコーヴィチの時代などと言われたところであるが、ショスタコーヴィチ・ブームなどは現在でもなお一向に訪れていないと言える。
マーラーの交響曲は、それなりの統率力のある指揮者と、スコアを完璧に音化し得る優秀なオーケストラが揃っていれば、それだけでも十分に名演を成し遂げることが可能とも言えるが、ショスタコーヴィチの交響曲の場合は、それだけでは到底不十分であり、楽曲の本質への深い理解や内容への徹底した追求が必要不可欠である。
こうした点が、ショスタコーヴィチ・ブームが一向に訪れない要因と言えるのかもしれない。
旧ソヴィエト連邦と同様の警察国家であった東独出身であるだけに、ザンデルリンクの演奏も、前述のようにショスタコーヴィチの本質をしっかりと鷲掴みにしたものであり、とりわけ最晩年にも相当する本演奏は、数あるザンデルリンクによるショスタコーヴィチの交響曲の名演の中でも最高峰の名演であり、同曲の数ある名演の中でも、ムラヴィンスキーによる1982年の名演と並び立つ至高の超名演と高く評価したいと考える。
音質についても、1994年のライヴ録音であるが、文句の付けようのない見事な音質に仕上がっていると評価したい。
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2015年06月26日
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クルト・ザンデルリンクは、2011年9月18日、ベルリンにて98歳の生涯を終えた。
2002年に引退をしてからは指揮活動から遠ざかってはいたが、現役時代に行った演奏の数々の中には素晴らしい名演も数多く存在しており、その死は誠に残念至極であり、この場を借りて、改めてザンデルリンクの冥福を心からお祈りしたい。
ザンデルリンクはムラヴィンスキーに師事するとともに、ショスタコーヴィチと親交があったこともあって、ショスタコーヴィチを得意としており、交響曲第15番については2度にわたってスタジオ録音している。
最初の録音が、ベルリン交響楽団との演奏(1978年)であり、2度目の録音が、クリーヴランド管弦楽団との演奏(1991年)である。
いずれ劣らぬ名演と言えるところであり、1978年盤はより引き締まった演奏全体の造型美を味わうことが可能と言えるが、特に1991年の演奏については懐の深い円熟の名演とも言えるところであり、筆者としては、本演奏の方を僅かに上位に掲げたいと考える。
ショスタコーヴィチの交響曲は、最近では数多くの指揮者が演奏を行うようになってきているが、その本質を的確に描き出している演奏はあまりにも少ないと言えるのではないだろうか。
ショスタコーヴィチは、旧ソヴィエト連邦という、今で言えば北朝鮮のような独裁者が支配する政治体制の中で、絶えず死と隣り合わせの粛清の恐怖などにさらされながらしたたかに生き抜いてきたところだ。
かつて一世を風靡した「ショスタコーヴィチの証言」は現在では偽書とされているが、それでも、ショスタコーヴィチの交響曲(とりわけ第4番以降の交響曲)には、死への恐怖や独裁者への怒り、そして、粛清された者への鎮魂の気持ちが込められていると言っても過言ではあるまい。
したがって、ショスタコーヴィチと親交があるとともに、同時代を生き抜いてきたムラヴィンスキーの演奏が感動的な名演であるのは当然のことであり、かかる恐怖などと無縁に平和裏に生きてきた指揮者には、ショスタコーヴィチの交響曲の本質を的確に捉えて演奏することなど到底不可能とも言えるだろう。
ザンデルリンクの場合は、東独という、旧ソヴィエト連邦と同様の警察国家の出身であること、そしてムラヴィンスキーに師事していたこともあって、ショスタコーヴィチの交響曲の本質への深い理解については、人後に落ちないものがあったと言える。
本演奏も、さすがに、師匠であるムラヴィンスキーの演奏(1976年)ほどの深みや凄みには達していないと言えるが、それでもザンデルリンクによる彫りの深い表現が全体を支配するなど、外面だけを取り繕った薄味な演奏にはいささかも陥っていないと言えるところだ。
加えて、ドイツ人指揮者ならではの堅固な造型美や重厚な音色が演奏全体を支配しており、その意味では、ムラヴィンスキーによる名演の持つ峻厳さを若干緩和するとともに、ドイツ風の重厚さを付加させた演奏と言えるのかもしれない。
いずれにしても、本演奏は、ムラヴィンスキーなどのロシア系の指揮者以外の指揮者による演奏の中では、最右翼に掲げられる素晴らしい名演と高く評価したいと考える。
マーラーもまったくただものではなく、ザンデルリンクの凄さを思い知らされる演奏である。
ザンデルリンクが創り出す音楽は、さしずめブロンズ像のようなもので、細部の再現性ではなく、全体の大づかみな構築を問うている。
だから、作品が逞しく聴こえるところであり、この逞しいとは、もちろん他人よりも大きな音を出すとか響きが分厚いということではない。
たとえば両端楽章は大きな振幅でうねるが、そのうねりに神経質なところがなく、実に自信があるのだ。
このザンデルリンク流が細部ほじくり型より容易な演奏法だということはまったくない。
単にうるさいところは強く弾き、メロディは歌いまくればこういう演奏になるかと言えば、そんなことはないのである。
フレージングの力学に通じ、どうすれば音楽が自然に流れるように聞こえるのかを知らなければならない。
ザンデルリンクはその技のきわめつきの名手であり、彼の手にかかると、複雑なこの交響曲もじつにやすやすと流れていくのである。
たとえば第4楽章は、誰もが心をこめて歌う楽章だが、感情移入という点では、バーンスタインのほうがザンデルリンクよりもよほど熱烈だ。
ザンデルリンクの演奏では感情の力学ではなく、響きの力学に従って音楽が先へ進む。
だから、この楽章がことさら嘆きとか悲しみを訴えることはなく、美的なものとして現れてくるのだ。
筆者は、この太い名木を組み合わせて作ったような感触のフィナーレが大好きである。
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2015年03月04日
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東独出身のザンデルリンクは、旧ソヴィエト連邦においてムラヴィンスキーにも師事し、ショスタコーヴィチと親交があったこともあって、ショスタコーヴィチの交響曲を得意としていた。
すべての交響曲を演奏・録音したわけではないが、第1番、第5番、第6番、第8番、第10番、第15番の6曲についてはスタジオ録音を行っており、いずれ劣らぬ名演に仕上がっている。
ザンデルリンクは、前述のようにムラヴィンスキーに師事していたこともあり、ショスタコーヴィチの交響曲を指揮するに際しては特別な気持ちを持って臨んでいたことを窺い知ることが可能な名演に仕上がっている。
ザンデルリンクによる本演奏は、師匠であるムラヴィンスキーの演奏とはかなり様相が異なるものとなっており、そもそもテンポ設定が全体的に随分とゆったりとしたものとなっている。
もっとも、スコア・リーディングの厳正さ、演奏全体の堅牢な造型美、そして楽想の彫りの深い描き方などは、ムラヴィンスキーの演奏に通底するものと言えるところだ。
その意味では、ショスタコーヴィチの本質をしっかりと鷲掴みにした演奏とも言えるだろう。
ムラヴィンスキーの演奏がダイレクトに演奏の凄みが伝わってくるのに対して、ザンデルリンクによる本演奏は、じわじわと凄みが伝わってくるようなタイプの演奏と言えるのかもしれない。
ショスタコーヴィチの交響曲は、最近では数多くの指揮者が演奏を行うようになってきているが、その本質を的確に描き出している演奏はあまりにも少ないと言えるのではないだろうか。
ショスタコーヴィチは、旧ソヴィエト連邦という、今で言えば北朝鮮のような独裁者が支配する政治体制の中で、絶えず死と隣り合わせの粛清の恐怖などにさらされながらしたたかに生き抜いてきたところだ。
かつて一世を風靡した「ショスタコーヴィチの証言」は現在では偽書とされているが、それでも、ショスタコーヴィチの交響曲(とりわけ第4番以降の交響曲)には、死への恐怖や独裁者への怒り、そして、粛清された者への鎮魂の気持ちが込められていると言っても過言ではあるまい。
したがって、ショスタコーヴィチと親交があるとともに、同時代を生き抜いてきたムラヴィンスキーの演奏が感動的な名演であるのは当然のことであり、かかる恐怖などと無縁に平和裏に生きてきた指揮者には、ショスタコーヴィチの交響曲の本質を的確に捉えて演奏することなど到底不可能とも言えるだろう。
一般に評判の高いバーンスタインによる演奏など、雄弁ではあるが内容は空虚で能天気な演奏であり、かかる大言壮語だけが取り柄の演奏のどこがいいのかよくわからないところだ。
かつてマーラー・ブームが訪れた際に、次はショスタコーヴィチの時代などと言われたところであるが、ショスタコーヴィチ・ブームなどは現在でもなお一向に訪れていないと言える。
マーラーの交響曲は、それなりの統率力のある指揮者と、スコアを完璧に音化し得る優秀なオーケストラが揃っていれば、それだけでも十分に名演を成し遂げることが可能とも言えるが、ショスタコーヴィチの交響曲の場合は、それだけでは到底不十分であり、楽曲の本質への深い理解や内容への徹底した追求が必要不可欠である。
こうした点が、ショスタコーヴィチ・ブームが一向に訪れない要因と言えるのかもしれない。
旧ソヴィエト連邦と同様の警察国家であった東独出身であるだけに、ザンデルリンクの演奏も、前述のようにショスタコーヴィチの本質をしっかりと鷲掴みにしたものであり、数あるショスタコーヴィチの交響曲の録音の中でも、かなり上位にランキングされる名演として高く評価したいと考える。
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2015年01月25日
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シベリウスの交響曲は、初期の第1番及び第2番と、第3番以降の交響曲では、作風が全く異なる。
まるで別人が作曲したかのようであり、シベリウスの真の魅力は、第3番以降の交響曲にある。
したがって、シベリウス指揮者としては、第3番以降の作品をいかに巧く演奏できるかに、その真価が問われていると言えるだろう。
そんなシベリウスの7つある交響曲(クレルヴォ交響曲を除く)のうち、最高傑作は、衆目の一致するところ、第4番と言えるのではないだろうか。
もちろん、第7番も傑作ではあり、筆者としては、両者劣らぬ傑作であると考えるが、楽曲の深みという点においては、第4番の方に軍配があがるのではないかと考えている。
この傑作交響曲は、必要最小限の音符で書かれているだけあって、オーケストラの扱いもきわめて控えめで、トゥッティの箇所はわずか。
したがって、指揮をするに際しても、オーケストラに対する圧倒的な統率力と表現力を要求される難曲と言えるだろう。
もちろん、自信がある指揮者しか同曲を採り上げることはないが故に、これまでに遺された演奏は、名演であることが多かった。
そうした数々の名演の中でも、ザンデルリンクの演奏は、ドイツ風の重厚なものだ。
これはザンデルリンクの65歳時の演奏で、長らく常任を務めたベルリン交響楽団の地位を辞する年の録音でもあるが、指揮者の構成力が音楽を晦渋から救い、オケの音色も曲にふさわしい。
内省的な第4番は、虚飾を排した芸風のザンデルリンクにふさわしく、シベリウスの真の姿が浮かび上がってくる。
この第4番は、シベリウスの作品の中でも最も虚飾を排し純粋に絶対音楽的な無愛想なものだが、ザンデルリンクは一層しかめっつらで曲に対峙しているところがとてもいい。
いかにも独墺系の指揮者の手による、造型美と重厚さを誇る演奏であるが、木管楽器などの響かせ方など新鮮な箇所も多くあり、異色の名演として高く評価したい。
しかしながら、オーケストラに対する統率力は抜群のものがあり、簡潔なスコアから、実に豊かなハーモニーを作り上げることに成功している。
これほどまでに全体の造型を意識した演奏は、珍しいとも言えるが、同曲はカラヤンが何度も録音するなど得意とした楽曲で、いずれも名演であることもあり、ザンデルリンクのドイツ風の重厚なアプローチも珍しいものではない。
併録の「夜の騎行と日の出」も名演で、傑作でありながら、なかなか録音される機会の少ない同曲の魅力を、これまた重厚なアプローチで完璧に表現し尽くしている。
本盤には、かつてハイパー・リマスタリング盤が出ており、それもかなりの高音質であったが、今般のSACD盤も、それに優るとも劣らない素晴らしい音質だ。
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2014年11月28日
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2011年9月18日に惜しくも逝去したクルト・ザンデルリンクは、2002年には既に指揮活動から引退していたところであるが、特に晩年の1990年代においては、ヴァントやジュリーニなどとともに数少ない巨匠指揮者の1人として、至高の名演の数々を披露してくれたところである。
その中でも最良の遺産は、何と言っても本盤に収められたベルリン交響楽団とともにスタジオ録音(1990年)を行ったブラームスの交響曲全集ということになるのではないだろうか。
東独出身ということもあって、東西冷戦の終結までは鉄のカーテンの向こう側に主たる活動拠点を有していたことから、同じく独墺系の指揮者で4年年長のカラヤンと比較すると、その活動は地味で必ずしも華々しいものとは言えなかったところである。
もっとも、西側で活躍していたカラヤンが、重厚ではあるもののより国際色を強めた華麗な演奏に傾斜していく中で、質実剛健とも言うべきドイツ風の重厚な演奏の数々を行う貴重な存在であったと言えるところだ。
ザンデルリンクは、本全集のほかにも、ライヴ録音を含め、数々のブラームスの交響曲の録音を遺しているが、その中でも最も名高いのは、シュターツカペレ・ドレスデンとともに1971〜1972年に行ったスタジオ録音と言えるのではないだろうか。
当該全集は今でもその存在価値を失うことがない名演であるが、それは、ザンデルリンクの指揮の素晴らしさもさることながら、何と言っても、ホルンのペーター・ダムなどをはじめ多くのスタープレイヤーを擁していた全盛期のシュターツカペレ・ドレスデンのいぶし銀の音色の魅力によるところが大きい。
それに対して、本盤の全集は、スタジオ録音としてはザンデルリンクによる2度目のものとなるが、演奏自体は、旧全集よりも数段優れているのではないだろうか。
ザンデルリンクによる本演奏は、旧全集の演奏よりもよりかなりゆったりとしたテンポをとっているのが特徴だ。
そして、演奏全体の造型は堅固であり、スケールの雄大さも特筆すべき素晴らしさであると言えるのではないか。
もっとも、かかるテンポの遅さを除けば、何か特別な個性を発揮して奇を衒った解釈を施すなどということはなく、むしろ曲想を精緻に、そして丁寧に描き出して行くと言うオーソドックスな自然体のアプローチに徹しているとさえ言えるが、よく聴くと、各旋律には独特の細やかな表情づけが行われるとともに、その端々からは、晩年を迎えたザンデルリンクならではの枯淡の境地を感じさせる夕映えのような情感が滲み出していると言えるところであり、その味わい深さには抗し難い魅力が満ち溢れている。
かかる味わい深さ、懐の深さにおいて、本盤の演奏は旧全集の演奏を大きく引き離していると言えるところであり、とりわけ楽曲の性格からしても、第4番の奥行きの深さは圧巻であると言えるところだ。
その人生の諦観のようなものを感じさせる汲めども尽きぬ奥深い情感は、神々しいまでの崇高さを湛えていると言っても過言ではあるまい。
ハイドンの主題による変奏曲も、まさに巨匠ならではの老獪な至芸を堪能できる名演であるし、アルト・ラプソディも、アンネッテ・マルケルトやベルリン放送合唱団の名唱も相俟って、素晴らしい名演に仕上がっている。
ベルリン交響楽団も、その音色には、さすがに全盛期のシュターツカペレ・ドレスデンほどの魅力はないが、それでもドイツ風の重厚さにはいささかも欠けるところはなく、ザンデルリンクの指揮によく応えた素晴らしい名演奏を行っていると言ってもいいのではないだろうか。
いずれにしても、本全集は、ブラームスの交響曲を数多く演奏してきたザンデルリンクによる決定盤とも言うべき至高の名全集と高く評価したいと考える。
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2014年11月04日
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ザンデルリンクによるブラームスの交響曲全集と言えば、後年にベルリン交響楽団とともにスタジオ録音(1990年)を行った名演が誉れ高い。
当該全集の各交響曲はいずれ劣らぬ名演であったが、それは悠揚迫らぬゆったりとしたテンポをベースとしたまさに巨匠風の風格ある演奏であり、一昨年、惜しくも逝去されたザンデルリンクの代表盤にも掲げられる永遠の名全集とも言える存在であると言えるところだ。
ザンデルリンクは、当該全集の約20年前にもブラームスの交響曲全集をスタジオ録音している。
それこそが、本盤に収められた交響曲第1番を含む、シュターツカペレ・ドレスデンとの全集である。
前述のベルリン交響楽団との全集が、押しも押されぬ巨匠指揮者になったザンデルリンクの指揮芸術を堪能させてくれるのに対して、本全集は、何と言っても当時のシュターツカペレ・ドレスデンの有していた独特のいぶし銀とも言うべき音色と、それを十二分に体現しえた力量に最大の魅力があるのではないだろうか。
昨今のドイツ系のオーケストラも、国際化の波には勝てず、かつて顕著であったいわゆるジャーマン・サウンドが廃れつつあるとも言われている。
奏者の技量が最重要視される状況が続いており、なおかつベルリンの壁が崩壊し、東西の行き来が自由になった後、その流れが更に顕著になったが、それ故に、かつてのように、各オーケストラ固有の音色というもの、個性というものが失われつつあるとも言えるのではないか。
そのような中で、本盤のスタジオ録音がなされた1970年代のシュターツカペレ・ドレスデンには、現代のオーケストラには失われてしまった独特のいぶし銀の音色、まさに独特のジャーマン・サウンドが随所に息づいていると言えるだろう。
こうしたオーケストラの音色や演奏において抗し難い魅力が存在しているのに加えて、ザンデルリンクの指揮は、奇を衒うことのない正統派のアプローチを示している。
前述の後年の全集と比較すると、テンポなども極めてノーマルなものに落ち着いているが、どこをとっても薄味な個所はなく、全体の堅牢な造型を保ちつつ、重厚かつ力強い演奏で一貫していると評しても過言ではあるまい。
むしろ、このような正統派のアプローチを行っているからこそ、当時のシュターツカペレ・ドレスデンの魅力的な音色、技量が演奏の全面に描出されていると言えるところであり、本演奏こそはまさに、ザンデルリンク、そしてシュターツカペレ・ドレスデンによる共同歩調によった見事な名演と高く評価したいと考える。
Blu-spec-CD化によって、音質にさらに鮮明さが加わったことも大いに歓迎したい。
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2014年08月16日
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ザンデルリンクによるブラームスの交響曲全集と言えば、後年にベルリン交響楽団とともにスタジオ録音(1990年)を行った名演が誉れ高い。
当該全集の各交響曲はいずれ劣らぬ名演であったが、それは悠揚迫らぬゆったりとしたテンポをベースとしたまさに巨匠風の風格ある演奏であり、昨年、惜しくも逝去されたザンデルリンクの代表盤にも掲げられる永遠の名全集とも言える存在であると言えるところだ。
ザンデルリンクは、当該全集の約20年前にもブラームスの交響曲全集をスタジオ録音している。それこそが、本盤に収められた交響曲第3番を含む、シュターツカペレ・ドレスデンとの全集である。
前述のベルリン交響楽団との全集が、押しも押されぬ巨匠指揮者になったザンデルリンクの指揮芸術を堪能させてくれるのに対して、本全集は、何と言っても当時のシュターツカペレ・ドレスデンの有していた独特のいぶし銀とも言うべき音色と、それを十二分に体現しえた力量に最大の魅力があると言えるのではないだろうか。
昨今のドイツ系のオーケストラも、国際化の波には勝てず、かつて顕著であったいわゆるジャーマン・サウンドが廃れつつあるとも言われている。
奏者の技量が最重要視される状況が続いており、なおかつベルリンの壁が崩壊し、東西の行き来が自由になった後、その流れが更に顕著になったと言えるが、それ故に、かつてのように、各オーケストラ固有の音色というもの、個性というものが失われつつあるとも言えるのではないか。
そのような中で、本盤のスタジオ録音がなされた1970年代のシュターツカペレ・ドレスデンには、現代のオーケストラには失われてしまった独特のいぶし銀の音色、まさに独特のジャーマン・サウンドが随所に息づいていると言えるだろう。
こうしたオーケストラの音色や演奏において抗し難い魅力が存在しているのに加えて、ザンデルリンクの指揮は、奇を衒うことのない正統派のアプローチを示している。
前述の後年の全集と比較すると、テンポなども極めてノーマルなものに落ち着いているが、どこをとっても薄味な個所はなく、全体の堅牢な造型を保ちつつ、重厚かつ力強い演奏で一貫していると評しても過言ではあるまい。
むしろ、このような正統派のアプローチを行っているからこそ、当時のシュターツカペレ・ドレスデンの魅力的な音色、技量が演奏の全面に描出されていると言えるところであり、本演奏こそはまさに、ザンデルリンク、そしてシュターツカペレ・ドレスデンによる共同歩調によった見事な名演と高く評価したい。
併録のハイドンの主題による変奏曲も、この黄金コンビならではの素晴らしい名演だ。
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2014年07月21日
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ザンデルリンクによるブラームスの交響曲全集と言えば、後年にベルリン交響楽団とともにスタジオ録音(1990年)を行った名演が誉れ高い。
当該全集の各交響曲はいずれ劣らぬ名演であったが、それは悠揚迫らぬゆったりとしたテンポをベースとした正に巨匠風の風格ある演奏であり、昨年、惜しくも逝去されたザンデルリンクの代表盤にも掲げられる永遠の名全集とも言える存在であると言えるところだ。
ザンデルリンクは、当該全集の約20年前にもブラームスの交響曲全集をスタジオ録音している。
それこそが、本盤におさめられた交響曲第2番を含む、シュターツカペレ・ドレスデンとの全集である。
前述のベルリン交響楽団との全集が、押しも押されぬ巨匠指揮者になったザンデルリンクの指揮芸術を堪能させてくれるのに対して、本全集は、何と言っても当時のシュターツカペレ・ドレスデンの有していた独特のいぶし銀とも言うべき音色と、それを十二分に体現しえた力量に最大の魅力があると言えるのではないだろうか。
昨今のドイツ系のオーケストラも、国際化の波には勝てず、かつて顕著であったいわゆるジャーマン・サウンドが廃れつつあるとも言われている。
奏者の技量が最重要視される状況が続いており、なおかつベルリンの壁が崩壊し、東西の行き来が自由になった後、その流れが更に顕著になったと言えるが、それ故に、かつてのように、各オーケストラ固有の音色というもの、個性というものが失われつつあるとも言えるのではないか。
そのような中で、本盤のスタジオ録音がなされた1970年代のシュターツカペレ・ドレスデンには、現代のオーケストラには失われてしまった独特のいぶし銀の音色、まさに独特のジャーマン・サウンドが随所に息づいていると言えるだろう。
こうしたオーケストラの音色や演奏において抗し難い魅力が存在しているのに加えて、ザンデルリンクの指揮は、奇を衒うことのない正統派のアプローチを示している。
前述の後年の全集と比較すると、テンポなども極めてノーマルなものに落ち着いているが、どこをとっても薄味な個所はなく、全体の堅牢な造型を保ちつつ、重厚かつ力強い演奏で一貫していると評しても過言ではあるまい。
むしろ、このような正統派のアプローチを行っているからこそ、当時のシュターツカペレ・ドレスデンの魅力的な音色、技量が演奏の全面に描出されていると言えるところであり、本演奏こそはまさに、ザンデルリンク、そしてシュターツカペレ・ドレスデンによる共同歩調によった見事な名演と高く評価したい。
併録の悲劇的序曲もこの黄金コンビならではの素晴らしい名演だ。
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2014年06月19日
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東独出身のザンデルリンクは、旧ソヴィエト連邦においてムラヴィンスキーにも師事し、ショスタコーヴィチと親交があったこともあって、ショスタコーヴィチの交響曲を得意としていた。
すべての交響曲を演奏・録音したわけではないが、第1番、第5番、第6番、第8番、第10番、第15番の6曲についてはスタジオ録音を行っており、いずれ劣らぬ名演に仕上がっている。
ショスタコーヴィチの交響曲は、最近では数多くの指揮者が演奏を行うようになってきているが、その本質を的確に描き出している演奏はあまりにも少ないと言えるのではないだろうか。
ショスタコーヴィチは、旧ソヴィエト連邦という、今で言えば北朝鮮のような独裁者が支配する政治体制の中で、絶えず死と隣り合わせの粛清の恐怖などにさらされながらしたたかに生き抜いてきたところだ。
かつて一世を風靡した「ショスタコーヴィチの証言」は現在では偽書とされているが、それでも、ショスタコーヴィチの交響曲(とりわけ第4番以降の交響曲)には、死への恐怖や独裁者への怒り、そして、粛清された者への鎮魂の気持ちが込められていると言っても過言ではあるまい。
したがって、ショスタコーヴィチと親交があるとともに、同時代を生き抜いてきたムラヴィンスキーの演奏が感動的な名演であるのは当然のことであり、かかる恐怖などと無縁に平和裏に生きてきた指揮者には、ショスタコーヴィチの交響曲の本質を的確に捉えて演奏することなど到底不可能とも言えるだろう。
かつてマーラー・ブームが訪れた際に、次はショスタコーヴィチの時代などと言われたところであるが、ショスタコーヴィチ・ブームなどは現在でもなお一向に訪れていない。
マーラーの交響曲は、それなりの統率力のある指揮者と、スコアを完璧に音化し得る優秀なオーケストラが揃っていれば、それだけでも十分に名演を成し遂げることが可能とも言えるが、ショスタコーヴィチの交響曲の場合は、それだけでは到底不十分であり、楽曲の本質への深い理解や内容への徹底した追求が必要不可欠である。
こうした点が、ショスタコーヴィチ・ブームが一向に訪れない要因と言えるのかもしれない。
それはさておき、本盤のザンデルリンクの演奏は素晴らしい。
さすがに、師匠であるムラヴィンスキーの演奏ほどの深みや凄みには達していないが、旧ソヴィエト連邦と同様の警察国家であった東独出身のザンデルリンクだけに、ショスタコーヴィチの交響曲の本質への深い理解については、人後に落ちないものがあった。
加えて、ドイツ人指揮者ならではの堅固な造型美や重厚な音色が演奏全体を支配しており、その意味では、ムラヴィンスキーによる名演の持つ峻厳さを若干緩和するとともに、ドイツ風の重厚さを付加させた演奏と言えるのかもしれない。
いずれにしても、本演奏は、ムラヴィンスキーなどのロシア系の指揮者以外の指揮者による演奏の中では、最右翼に掲げられる素晴らしい名演と高く評価したい。
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2014年06月16日
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ザンデルリンク、ベルリン交響楽団とのベスト・コンビネーションが評判のシベリウス・シリーズからの1枚。
独墺系の指揮者によるシベリウスの交響曲は大変珍しい。
シベリウスの交響曲を頻繁に採り上げた指揮者としては、ザンデルリンクのほか、カラヤンしかいないと思われるが、カラヤンは、録音予定はあったものの第3番をついに録音することなく世を去ったこともあり、今のところ、ザンデルリンクは、シベリウスの交響曲全集を完成させた独墺系のただ一人の指揮者と言える。
ザンデルリンクのシベリウスは、いかにもドイツ風の重厚な性格の演奏だ。
落ち着いた音色、程良い力感、程良い歌い込み、ザンデルリンクの持ち味がシベリウスの音楽とマッチした演奏。
シベリウスを得意とする北欧や英国系の指揮者とは、一線を画するユニークなものであり、シベリウスを得意とした同じ独墺系のカラヤンの耽美的な(楽曲によっては劇的な)演奏とも大きく異なる。
前述のように、野暮ったいほどドイツ的な性格を帯びており、あたかもブラームスの交響曲を指揮するかのように、造型美と重厚さを全面に打ち出した演奏である。
しかしながら、よく聴くと、旋律の歌い込みであるとか、節度ある情感の豊かさであるとか、はたまた、無機的には決して陥らない力感であるとか、非常に考え抜かれた解釈された表現であることがよくわかる。
要は、巧言令色とは薬にしたくもなく、噛めば噛むほど味わいが出てくる内容豊かな演奏ということができる。
したがって、シベリウスの交響曲演奏としては、前述のようにユニークとも言えると考えるが、シベリウスの本質をしっかりと捉えた演奏ということができるところであり、名演と評価しても過言ではないものと考える。
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2014年06月15日
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ザンデルリンク盤は1977年のスタジオ録音で音質が良く、ムラヴィンスキーとともに持っていたい。
ドイツ風の重厚な名演だ。
ザンデルリンクは、旧東ドイツ出身の指揮者ではあるが、旧ソヴィエト連邦において、ムラヴィンスキーの下、レニングラード・フィルの客演指揮者をつとめていたこともあり、ショスタコーヴィチの演奏について、ムラヴィンスキーの薫陶を得ていたものと思われる。
もちろん、ムラヴィンスキーの演奏とはその性格を異にするが、それでも、その演奏に通低する精神性においては、共通するものがあるのではないかと考える。
ショスタコーヴィチは、現在の北朝鮮のような国において、粛清の恐怖に耐えながら、したたかに生き抜いてきた。
そうした死と隣り合わせの恐怖が、各交響曲の根底にあると考えられる。
だからこそ、ムラヴィンスキーの演奏には、単に、初演者であるからというのにとどまらない、強い説得力があるものと言える。
ザンデルリンクも、前述のように社会主義政権下にあった東独出身であり、こうした恐怖には強く共感するものがあったと考える。
本演奏には、前述のような、厳しい造型美を旨とするドイツ風の重厚な佇まいに加えて、ショスタコーヴィチの交響曲の本質を鷲掴みにした凄みのある深い共感に満ち溢れている。
第1楽章は遅いテンポで格調高く、じっくりと攻めており、スケールが大きい。
閃きや鋭さはムラヴィンスキーの方が上だが、クライマックスにおける音の洪水には体が流されそうだし、(12:01)からのスタッカート指定を強調し、弦のリズムでものをいう表現は、前者とはまったく違うスタイルで、音彩もすばらしい。
この直後に連続する内容いっぱいの音楽は、どれほどの最強音になっても美感を失わず、しかも味わいは濃厚、ここだけはムラヴィンスキーを大きく超えている。
第2楽章の強靭なリズムとアンサンブルも聴きものだが、強音部になるととかく金管の音色の単調さが目立つのはどういうわけだろうか。
第3楽章は表現を整理しすぎ、整然とした佇まいがマイナスに作用しているが、冒頭部は美しいし、コーダの感慨深さも特筆すべきだ。
終楽章も、単なる苦悩から歓喜へというようなお祭り騒ぎにはなっておらず、ムラヴィンスキーの演奏と同様に、テンポを落とした幾分控えめな終結が印象的である。
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2014年06月13日
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両曲ともに名演だ。
ザンデルリンクは、シベリウスの交響曲全集を完成させた唯一の独墺系の指揮者であるが、いずれの交響曲も、造型美を重視したドイツ風の重厚なものであり、イギリスや北欧の指揮者の手による演奏とは性格が大きく異なるが、シベリウスの交響曲の知られざる魅力を知らしめた異色の名演として高く評価したい。
本盤の両曲も、そうしたザンデルリンクならではの重厚なアプローチを見せてくれているが、特に、ゆったりとしたテンポで、シベリウスがスコアに記した数々の美しい旋律を精緻に演奏している点が素晴らしい。
弦楽器のトレモロや、金管・木管の響かせ方にもユニークなものがあり、初めて耳にするような場面が散見されるなど、演奏に新鮮なみずみずしささえも感じさせるのには大変驚かされた。
こうした点に、ザンデルリンクのシベリウスに対する深い理解と愛着を感じさせられる。
特に「第7」はシベリウスの個性にあまりしっくり来ないはずのスタイルなのに、聴きこむと納得してしまう。
文句のつけようのない名演だと思う。
録音は、今回のハイパー・リマスタリングによって、見違えるような高音質に蘇った。
重量感にはいささか欠ける面はあるが、鮮明さが飛躍的に増しており、シベリウスの交響曲には理想的な音質になった。
かつて本演奏にはSACD盤が発売されていたが、本盤は、SACD盤に優るとも劣らない音質であると言えるだろう。
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2014年06月12日
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ザンデルリンクはムラヴィンスキーに師事するとともに、ショスタコーヴィチと親交があったこともあって、ショスタコーヴィチを得意としており、交響曲第15番については2度にわたってスタジオ録音している。
最初の録音が、本盤に収められたベルリン交響楽団との演奏(1978年)であり、2度目の録音が、クリーヴランド管弦楽団との演奏(1991年)である。
いずれ劣らぬ名演と言えるところであり、特に1991年の演奏については円熟の名演とも言えるが、筆者としては、より引き締まった演奏全体の造型美を味わうことが可能な本演奏の方をより上位に掲げたい。
ショスタコーヴィチの交響曲は、最近では数多くの指揮者が演奏を行うようになってきているが、その本質を的確に描き出している演奏はあまりにも少ないと言えるのではないだろうか。
ショスタコーヴィチは、旧ソヴィエト連邦という、今で言えば北朝鮮のような独裁者が支配する政治体制の中で、絶えず死と隣り合わせの粛清の恐怖などにさらされながらしたたかに生き抜いてきたところだ。
かつて一世を風靡した「ショスタコーヴィチの証言」は現在では偽書とされているが、それでも、ショスタコーヴィチの交響曲(とりわけ第4番以降の交響曲)には、死への恐怖や独裁者への怒り、そして、粛清された者への鎮魂の気持ちが込められていると言っても過言ではあるまい。
したがって、ショスタコーヴィチと親交があるとともに、同時代を生き抜いてきたムラヴィンスキーの演奏が感動的な名演であるのは当然のことであり、かかる恐怖などと無縁に平和裏に生きてきた指揮者には、ショスタコーヴィチの交響曲の本質を的確に捉えて演奏することなど到底不可能とも言えるだろう。
ザンデルリンクの場合は、東独という、旧ソヴィエト連邦と同様の警察国家の出身であること、そしてムラヴィンスキーに師事していたこともあって、ショスタコーヴィチの交響曲の本質への深い理解については、人後に落ちないものがあった。
本演奏も、さすがに、師匠であるムラヴィンスキーの演奏(1976年)ほどの深みや凄みには達していないが、それでもザンデルリンクによる彫りの深い表現が全体を支配するなど、外面だけを取り繕った薄味な演奏にはいささかも陥っていないと言えるところだ。
加えて、ドイツ人指揮者ならではの堅固な造型美や重厚な音色が演奏全体を支配しており、その意味では、ムラヴィンスキーによる名演の持つ峻厳さを若干緩和するとともに、ドイツ風の重厚さを付加させた演奏と言えるのかもしれない。
いずれにしても、本演奏は、ムラヴィンスキーなどのロシア系の指揮者以外の指揮者による演奏の中では、最右翼に掲げられる素晴らしい名演と高く評価したい。
音質は、ハイブリッドSACD盤とハイパーマスタリング盤がほぼ同格の音質であると言えるだろう。
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2014年05月15日
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ショスタコーヴィチの15曲ある交響曲のうち、どの曲を最高傑作とするかについては、様々な意見があることと思うが、第8番を中期を代表する傑作と評することについては異論はないものと考える。
第8番は、ショスタコーヴィチの盟友であるムラヴィンスキーに献呈され、なおかつ初演を行った楽曲でもあり、ムラヴィンスキーの遺した演奏(特に、1982年盤(フィリップス))こそがダントツの名演である。
その他にも、ゲルギエフやショルティなどの名演もあるが、筆者としては、ムラヴィンスキーの別格の演奏には、とても太刀打ちできないのではないかと考えている。
本盤のザンデルリンクの演奏も、師匠ムラヴィンスキーの名演と比較すると、随分と焦点の甘い箇所が散見されるが、それでも、十分に名演の名に値すると考える。
テンポは、ムラヴィンスキーの演奏と比較するとかなりゆったりとしたもので、その緩急のつけ方、弦の表情にも説得力がある。
あたかも、楽想をいとおしむかのようなアプローチであるが、それでも、柔和な印象をいささかも与えることはなく、全体として、厳しい造型を損なっていないのは、いかにも、東独出身の指揮者ならではの真骨頂と言えるだろう。
実に骨太でありながらも武骨ではなく、シャープな切れ味も持ち合わせている。
ロシア的な暗鬱さではなく、現代的に研ぎ澄まされた重圧感が、ショスタコーヴィチの精神の強靭さを見事に表現している。
第4楽章はこの盤の白眉で、底なしの暗さが良く、第5楽章も丁寧に描ききっており、手抜きがない。
力強い優秀な録音も手伝って、この曲の魅力に充分に浸ることができる演奏である。
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ベルリン交響楽団とのベスト・コンビネーションが評判のシベリウス・シリーズからの1枚。
両曲ともに文句のつけようのない名演だ。
ザンデルリンクは、シベリウスの交響曲全集を完成させた唯一の独墺系の指揮者であるが、いずれの交響曲も、造型美を重視したドイツ風の重厚なものであり、イギリスや北欧の指揮者の手による演奏とは性格が大きく異なるが、シベリウスの交響曲の知られざる魅力を知らしめた異色の名演として高く評価したい。
本盤の両曲も、そうしたザンデルリンクならではの重厚なアプローチを見せてくれているが、特に、ゆったりとしたテンポで、シベリウスがスコアに記した数々の美しい旋律を精緻に演奏している点が素晴らしい。
弦楽器のトレモロや、金管・木管の響かせ方にもユニークなものがあり、初めて耳にするような場面が散見されるなど、演奏に新鮮なみずみずしささえも感じさせるのには大変驚かされた。
こうした点に、ザンデルリンクのシベリウスに対する深い理解と愛着を感じさせられる。
録音は、1974年であり、今回のハイパー・リマスタリングによって、見違えるような高音質に蘇った。
重量感にはいささか欠ける面はあるが、鮮明さが飛躍的に増しており、シベリウスの交響曲には理想的な音質になったと言える。
また、ベルリン、イエス・キリスト教会の豊かな残響をとり入れた録音でもある。
かつて本演奏にはSACD盤が発売されていたが、本盤は、SACD盤に優るとも劣らない音質であると言えるだろう。
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ザンデルリンクは、ショスタコーヴィチのすべての交響曲を録音したわけではないが、録音した交響曲はいずれも素晴らしい名演だ。
本盤の2曲も、ザンデルリンクならではの名演と高く評価したい。
ザンデルリンクは東独出身の指揮者であり、特に独墺系のブラームスなどに数々の名演を遺したが、ムラヴィンスキーの指導の下、レニングラード・フィルにおいて、相当数の演奏を行ったことを忘れてはなるまい。
したがって、ムラヴィンスキーが得意としたショスタコーヴィチやチャイコフスキーにおいても、名演の数々を遺したのは必然の結果と言えるだろう。
前述のように、本盤に収められた第1番、第6番ともに名演であるが、特に、筆者は第6番に感銘を受けた。
同曲の初演者であるムラヴィンスキーの演奏もいくつか遺されており、いずれも名演ではあるが、特に、第1楽章において、スコアリーディングは完璧ではあるものの、いささか物足りない感があるのは否めないところ。
ザンデルリンクは、この第1楽章が感動的だ。
ロシア的な美しい抒情が満載の楽章であり、ザンデルリンクはゆったりとしたテンポで進行させていくが、例えばバーンスタインのように演出過多な大仰さもなく、高踏的な美しさを保っているのが見事だ。
第2楽章や第3楽章になると、師匠ムラヴィンスキーにはさすがにかなわないが、それを除けば、間違いなくトップクラスの演奏であることは否定できない。
東ドイツが気合いを入れて録音したショスタコーヴィチは、アナログ成熟期の優秀録音だ。
ザンデルリンクの広がりある深い演奏が重くずっしり響いてくる。
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2014年05月04日
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1956年、レニングラード・フィル第1回ヨーロッパ公演の際にウィーンで行われたレコーディング。
「第5」と「悲愴」のムラヴィンスキーが特に強烈で、有名なステレオ再録音盤を凌ぐほどの力感と緊張感は見事と言う他なく、オーケストラの卓越した合奏能力が、透明度高くソリッドな音響をつくりあげる様は、このコンビの全盛期の姿を見せつけてまさに圧巻。
ザンデルリンクが指揮する「第4」もディスク大賞受賞の名盤で、深く濃厚な情感表出、雄渾なダイナミズムに魅せられる。
3曲とももうこれ以上何と評価していいのか分からないくらい文句なしに素晴らしい。
ムラヴィンスキーの2曲は、1960年盤よりもさらに精密度が高く、ピンとはりつめた緊張感も堪らない。
録音から若さあふれるムラヴィンスキー、ザンデルリンクの演奏が響き渡っていて、感激を覚える。
若々しいムラヴィンスキーの「第5」「悲愴」もさることながら、瞠目すべきはザンデルリンクの「第4」で、最高の名演の一言。
モノラル録音だが、演奏からいかにもレニングラード・フィルのパワーにただただ圧倒される。
指揮者のドイツ的な骨太なロマンのうねりと野性的なオケの響きの融合が興味深く、後年の演奏よりも遥かに集中力に富み素晴らしい。
ムラヴィンスキーの「第5」「悲愴」も凄まじい。
両曲ともにフィナーレに近づくごとに、「第5」では歓喜に、「悲愴」では戦慄に吸い込まれるといった感じがする。
特に「悲愴」は、聴いていて胸が締め付けられるような感じがして、ムラヴィンスキーのこの作品への強い思い入れを印象づける。
筆者にとって、後の有名なステレオ再録音盤とともにまさに外せない名演集であると同時に、当盤を無視してこられたファンの人にも強力に薦めたい録音だ。
モノラル録音だが、音質は良好で、何より演奏が素晴らしい。
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2014年04月20日
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ザンデルリンクによるブラームスの交響曲の演奏といえば、本盤(1972年)の後にスタジオ録音したベルリン交響楽団との全集(カプリッチョレーベル)(1990年)が名演の誉れ高く、その中でも交響曲第4番がダントツの名演であった。
本盤も、それに優るとも劣らない名演と高く評価したい。
何よりも、オーケストラの力量から言えば、本盤の方が断然上であり、その意味では、新盤とは違った意味での魅力ある名演と言うことができよう。
シュターツカペレ・ドレスデンのくすんだ音色と、ザンデルリンクの愛情あふれるアプローチがすばらしい。
それにしても、東ドイツという国が存在していた時代のシュターツカペレ・ドレスデンの音色には独特のものがあった。
重心の低い、それでいていぶし銀の輝きのある美しいジャーマン・サウンドは、特に、ドイツ音楽を演奏する際に、他では味わうことができない深遠さを醸し出すことになる。
本盤の演奏で言えば、特に、第2楽章の深沈たる抒情は感動的だ。
ザンデルリンクの指揮は、奇を衒うことのない正統派のアプローチで、全体の造型をしっかりと構築した上で、オーソドックスに曲想を描き出していく。
こうした自然体とも言うべきアプローチが、シュターツカペレ・ドレスデンの素晴らしい合奏とその音色の魅力、そしてブラームスの交響曲第4番という楽曲の魅力をダイレクトに聴き手に伝えることに成功したと言える。
ザンデルリンクによるドイツ風の重厚で、なおかつ堅固な造形美を誇る名演奏に、シュターツカペレ・ドレスデンのいぶし銀の音色が付加された極上の名演と言えよう。
本演奏については、前述のようなザンデルリンク&シュターツカペレ・ドレスデンを代表する名演の一つだけに、各種のリマスタリング盤やBlu-spec-CD盤が発売されるなど、数々の高音質化の努力が試みられてきたところだ。
しかしながら、今般発売されたシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤は、これまでの既発のリマスタリングCDやBlu-spec-CD盤とはそもそも次元が異なる極上の高音質であり、音質の鮮明さ、音圧、音場の広さのどれをとっても一級品の仕上がりである。
いずれにしても、ザンデルリンク&シュターツカペレ・ドレスデンによる素晴らしい名演を、このような極上の高音質SACD盤で味わうことができるのを大いに喜びたい。
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2014年03月24日
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1984年11月23日 ミュンヘン・ヘルクレスザールにおけるステレオ・ライヴ録音。
巨匠ザンデルリンクは、1980年代から1990年代にかけてミュンヘン・フィルに頻繁に客演を繰り返した。
このアルバムでは、ベートーヴェンの「エグモント」序曲、そしてJ.S.バッハの2台のヴァイオリンのための協奏曲は、ブラームスの交響曲第4番に比べるとあまり高い評価は評論誌でされてなかったが、耽美的な演奏であることは、収録されている曲全体を通じて感じられた。
「エグモント」序曲からして壮大、重厚な響きに圧倒される。
バッハはもちろん旧スタイルの演奏で、堂々たる押し出しの立派な音楽を作っている。
そして「ブラ4」! これぞ圧倒的な名演奏だ。
尋常ではない遅いテンポが採用され、ロマンティシズム、耽美指向が濃厚に漂う個性的な演奏である。
旧東ドイツの指揮者と言えば、ケンペのブラームスの交響曲全集、そしてザンデルリンクのブラームスの交響曲全集を聴き、いずれも「らしさ」を感じながら、聴き惚れていた頃を懐かしく思い出す。
殊にザンデルリンクがシュターツカペレ・ドレスデンを指揮した交響曲全集は音楽的に古風な体質を持つ独特な名演奏として評されていた。
筆者にとっては、ブラームスはやはりバーンスタインやカラヤンで聴くより何よりザンデルリンクであり、地味ながら男心をそそる細やかなタッチが当時新鮮であった。
ここではチェリビダッケが鍛えたミュンヘン・フィルの明るく、美しいサウンドを時には豪快に、時には繊細に料理したライヴゆえの自在な起伏が最高だ。
逆に、乱調の気配が全くなく、セッション録音のように大人しくきっちりと音楽が進行している内省的な音楽の性格の部分では、美しくあまりに切ない懐かしい響きとリズムの重さがとても心地よく聴こえる。
どうしても聴きたくて仕方が無い、そういう衝動に駆られる男性的な魅力のある音楽と演奏であり、情熱の塊のようなものも時折感じられる箇所も少なくない。
1986年のチェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルによる来日公演との比較も一興。
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巨匠クルト・ザンデルリンクと言えば、2度の交響曲全集を録音しているほどブラームスを得意としていた。
セッション録音のベルリン交響楽団との新全集と同じ年にライヴ録音されたこの第4番は、ザンデルリンクのどの同曲異演よりもいっそう主情的で情熱的というか、私小説的な解釈とも言える。
例によって遅いテンポが採用されているが、その劇性は凄まじく手に汗握る熱演となっている。
また、ロマン主義解釈の大家であることは疑いないザンデルリンクであったが、ここまで耽溺的な一面があったのかと驚かされる。
特に第1楽章はどこもかしこも詠嘆しているような、諦観の涙に濡れた美しい情感に覆われており、祈りにも似た没入を示している。
もともと存在自体がアナクロであったこの作曲者の辿り着いた最後の境地である作品ゆえに、こういうアプローチは正道だと思う。
美しいという点では、チェリビダッケの同曲の演奏も異常なほど耽美的であったが、ある意味で人間界を越えたような抽象的な美だった。
だがザンデルリンクは同じように耽美的でも、もっとずっと濃厚な人間感情に彩られている。
しかしその一方で、速いテンポで鋭角的とさえ評せる第3楽章のように一筋縄にはいかない部分もあって、その裂帛の気合いに身の毛もよだつばかりだ。
フィナーレに至っては奈落の底へ突き落とされるかのようなカタルシスさえ感じさせる。
とはいえ、古典形式に厳格に拘った作曲者に対して、情に溺れ過ぎて形を壊すような背信行為には陥っていないところは流石と言うべきであり、興味深い。
「悲劇的序曲」はベルリン交響楽団との全集では再録音しなかった曲で、第4番の録音から7年後の録音だが、古格を保つ驚愕の名演であり、交響曲と殆ど同じことが言える。
録音状態も良好なので、これら2曲を熱愛する人には心からお薦めしたい。
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ザンデルリンクのディスコグラフィは、実演でのレパートリーに較べるとだいぶ少なめなものとなっており、シューベルトの「ザ・グレート」とハイドンの交響曲第39番という2つの作品もレコーディングがおこなわれていないため、今回、ライヴ音源がリリースされたのは非常に歓迎されるところである。
巨匠ザンデルリンクに「ザ・グレート」のディスクがなかったこと自体驚きだったが、ついに名人集団スウェーデン放送響との名演が発見された。
とても初出レパートリーとは思えぬほど、どこまでも自然体で、柔らかな響きを保ち、ホルンを朗々と吹かすところなど、こうでなくては! と感じさせる。
全体の運びはザンデルリンクならではの重厚長大スタイルながら、情感が非常に豊かでニュアンスに富んでいる。
また、エネルギッシュにオーケストラをドライヴする姿が目に浮かぶようであり、これぞスケール極大の大演奏で、「ビッグではなく、グレートなのだ」と主張しているかのようだ。
スウェーデン放送響の「ザ・グレート」としては、1994年収録の当ザンデルリンク盤と、1990年に同じベルワルド・ホールで収録されたスヴェトラーノフによる「ザ・グレート」があり、両者の比較も興味の尽きないところだ。
ハイドンの交響曲第39番は曲も演奏も気に入った。
正直言って初めてこの曲をまともに聴いたのだが、ザンデルリンクがかつてハイドンの交響曲に集中していた時代にLPでその何枚かを聴いて、この指揮者のハイドンへの並々ならぬ腕前に感心していた事もあって、それを懐かしく思い出した。
ザンデルリンクはしばしばハイドンをコンサートの前プロに置くことが多かったのだが、この第39番は特に彼が愛奏した素晴らしい作品である。
オーケストラの合奏能力は超一流というわけではなくライヴ故に余計アンサンブルも怪しい処もあるのだが、通奏低音としてのハープシコードがとても効果的である。
ハイドンの「短調疾風怒濤期」からの交響曲である第39番の第1楽章からの「処理」は中々聴かせるものがあり、第3楽章のメヌエット等も魅力的で、流石「交響曲の父」と呼ばれるだけの名演を繰り広げている。
音質は1990年代のライヴ録音だけに、鮮明で素晴らしいものであると高く評価したい。
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2013年08月26日
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2011年9月18日に惜しくも逝去したクルト・ザンデルリンクは、2002年には既に指揮活動から引退していたところであるが、特に晩年の1990年代においては、ヴァントやジュリーニなどとともに数少ない巨匠指揮者の一人として、至高の名演の数々を披露してくれたところであり、その死は残念でならないところである。
本盤は、巨匠ザンデルリンクの追悼盤として初めて世に出た音源であるが、いかにも巨匠ならではの素晴らしい名演であると高く評価したい。
このような素晴らしい名演奏を聴いていると、あらためて巨匠の死を悼む聴き手は筆者だけではあるまい。
本盤には、モーツァルトの交響曲第39番とベートーヴェンの交響曲第6番「田園」が収められているが、このうち、モーツァルトについてはザンデルリンクにとっても極めて珍しい曲目である。
同曲については、ザンデルリンクが師事したムラヴィンスキーによる素晴らしい名演が遺されているが、ムラヴィンスキーのように絶妙なニュアンスを随所に施した颯爽としたテンポによる演奏とは、その性格を大きく異にしていると言えるだろう。
テンポはゆったりとしたものであり、スケールは雄大の極み。
ザンデルリンクは各旋律を徹底して歌い抜いており、その豊かな情感にはロマンティシズムの香りさえ漂っていると言えるほどだ。
それでいて、演奏全体として格調の高さをいささかも失うことがないというのは、ザンデルリンクの類稀なる音楽性の豊かさの証左と言っても過言ではあるまい。
筆者としては、本演奏を名演と評価するのにいささかも躊躇するものではないが、必ずしもザンデルリンクが得意とした楽曲ではないだけに、聴き手によっては好みが分かれる演奏かもしれない。
他方、ベートーヴェンの「田園」は、文句の付けようのない素晴らしい名演だ。
ザンデルリンクの「田園」の名演としては、数年前に発売されたケルン放送交響楽団とのライヴ録音(1985年)が名高いが、本演奏は当該演奏から6年後のライヴ録音。
演奏全体のスタイルとしては、ゆったりとしたテンポによる悠揚迫らぬ曲想の進行、深沈とした奥行きと格調の高さが支配している点においては共通しており、後はオーケストラの違いと言えるのかもしれない。
本演奏はベルリン・ドイツ交響楽団であるが、巨匠ザンデルリンクとの相性は抜群であり、ケルン放送交響楽団と技量においてはほぼ同格。
音色の重心が、若干ではあるが、北ドイツのオーケストラだけに本演奏の方が低いと言えるところであり、「田園」により重厚な響きを求める聴き手には、本演奏の方を好む聴き手がいても何ら不思議ではない。
音質は1991年のライヴ録音だけに、鮮明で素晴らしいものであると高く評価したい。
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2013年06月28日
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本盤に収められたモーツァルトの交響曲第35番「ハフナー」、チャイコフスキーの交響曲第4番、そしてウェーバーの歌劇「オベロン」序曲は、ザンデルリンクが1973年にシュターツカペレ・ドレスデンを率いて来日した際の記念碑的な名演奏である。
先ず、モーツァルトの交響曲第35番「ハフナー」は、ザンデルリンクとしては極めて珍しいレパートリーと言えるだろう。
そもそも、ザンデルリンクによるモーツァルトの交響曲演奏の録音は、先般発売された交響曲第39番などを除いて殆ど遺されておらず、必ずしも得意のレパートリーではなかったと言えるのかもしれない。
しかしながら、本盤の演奏は、そのようなことをいささかも感じさせないような素晴らしい名演に仕上がっていると評価したい。
近年流行の古楽器奏法やピリオド楽器を使用した軽妙な演奏とは正反対の、いわゆる旧スタイルの演奏と言えるが、シンフォニックにしてスケール雄大な演奏は、いかにもドイツ人指揮者ならではの面目躍如たるものがあると言えるだろう。
次いで、チャイコフスキーの交響曲第4番であるが、ザンデルリンクは、チャイコフスキーの交響曲を得意のレパートリーとし、歴史的な名演の数々を成し遂げたムラヴィンスキーに師事していたわりには、チャイコフスキーの交響曲の録音を必ずしも数多く行っているわけではない。
そのような中で、ザンデルリンクは交響曲第4番だけは得意としているようであり、本演奏の他にも、レニングラード・フィルとのスタジオ録音(1956年)、後期3大交響曲集の一環としてベルリン交響楽団とともに行ったスタジオ録音(1979年)、そしてウィーン交響楽団とのライヴ録音(1998年)が遺されているところである。
いずれも、ムラヴィンスキーのように即物的とも言うべき純音楽的な引き締まった演奏ではないが、演奏全体の堅固な造型美などが光った、いかにもドイツ人指揮者ならではの重厚な名演に仕上がっていた。
同じく独墺系の指揮者であるカラヤンがチャイコフスキーの交響曲の数々の名演を成し遂げているが、カラヤンによる豪華絢爛な演奏とはあらゆる意味で対照的な質実剛健たる演奏と言っても過言ではあるまい。
本演奏は、前述の1979年のスタジオ録音の6年前の演奏ではあるが、基本的なアプローチ自体は、殆ど変りがなく、どちらかと言うと、一切の虚飾を排した地道さを身上としている。
しかしながら、本演奏には実演ならではの畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力が演奏全体に漲っており、演奏の持つ根源的な迫力においては、1998年のウィーン交響楽団との演奏とほぼ同格であり、1979年のスタジオ録音を大きく上回っていると言っても過言ではあるまい。
加えて、シュターツカペレ・ドレスデンのいぶし銀の味わい深い音色が演奏全体に独特の潤いと温もりを付加させており、オーケストラ演奏の魅力においては、1998年のウィーン交響楽団との演奏をはるかに凌駕している。
いずれにしても、本演奏は、ザンデルリンクによるチャイコフスキーの交響曲第4番の演奏としては、随一の名演と高く評価したい。
併録のウェーバーの歌劇「オベロン」序曲も、ドイツ風の重厚さと実演ならではの強靭な迫力を兼ね備えた圧倒的な名演と高く評価したい。
音質は、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤だけに、従来CD盤とはそもそも次元の異なる高音質である。
音質の鮮明さ、音場の幅広さ、音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第だ。
いずれにしても、ザンデルリンクによる至高の超名演を、現在望み得る最高の高音質SACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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2011年9月18日に惜しくも逝去したクルト・ザンデルリンクは、2002年には既に指揮活動から引退していたところであるが、現役時代は我が国にもたびたび来日して、素晴らしい名演の数々を聴かせてくれたのは、我が国のクラシック音楽ファンにとっても実に幸運なことであったと言わざるを得ない。
本盤に収められたベートーヴェンの交響曲第8番、ブラームスの交響曲第1番などは、ザンデルリンクが1973年にシュターツカペレ・ドレスデンを率いて来日した際の記念碑的な名演奏である。
先ず、ベートーヴェンの交響曲第8番は、おそらくはザンデルリンクによるベストの名演と評価したい。
ザンデルリンクは、フィルハーモニア管弦楽団とともにベートーヴェンの交響曲全集をスタジオ録音しているが、全く問題にならない。
中庸のテンポによる本演奏ではあるが、ドイツ風の重厚さが演奏全体を支配しており、加えてシュターツカペレ・ドレスデンのいぶし銀の音色が、演奏に独特の潤いと味わい深さを付加させているのを忘れてはならない。
ブラームスの交響曲第1番は、ザンデルリンクの十八番ともいうべき楽曲であり、本演奏の2年前にもシュターツカペレ・ドレスデンとともにスタジオ録音(1971年)するとともに、ベルリン交響楽団とともにスタジオ録音(1990年)を行っているところだ。
いずれ劣らぬ名演であるが、本演奏は、実演ならではの畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力が全体に漲っており、演奏の持つ根源的な迫力においては、ザンデルリンクの同曲の演奏の中でも頭一つ抜けた存在と言えるかもしれない。
シュターツカペレ・ドレスデンのいぶし銀の味わい深い音色は本演奏でも健在であり、とりわけペーター・ダムによるホルンソロの朗々たる音色には抗し難い魅力が満ち溢れている。
いずれにしても、本演奏は、ザンデルリンクによる至高の名演と高く評価したい。
さらに、ウェーバーの歌劇「オベロン」序曲やワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲も収められているが、いずれもザンデルリンクならではの重厚な素晴らしい名演に仕上がっていると評価したい。
音質は、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤だけに、従来CD盤とはそもそも次元の異なる高音質である。
音質の鮮明さ、音場の幅広さ、音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第だ。
いずれにしても、ザンデルリンクによる至高の超名演を、現在望み得る最高の高音質SACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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2013年02月01日
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ザンデルリンクはプロイセンに生まれたが、ナチスの反ユダヤ政策のためロシアへ亡命、ムラヴィンスキーの下でレニングラード・フィルの指揮者を務めた。
その間、ザンデルリンクは20歳代から40歳代後半まで当時のソ連で演奏活動をしていたので、思いのほか所謂ロシア物は聴かせる場合が多い。
戦後は東ドイツへ戻り、本盤はもうその頃からかなりの年月を経て、手兵としたベルリン交響楽団というドイツ楽団を振ってのチャイコフスキー後期交響曲集である。
本盤はそういったドイツとロシア、2つの祖国をもつザンデルリンクならではのチャイコフスキーである。
ザンデルリンクのチャイコフスキーは、ドイツ的な堅固な造型の中に、第2の祖国とも言えるロシアの感興が織り込まれた独自の世界を生み出している。
ザンデルリンクは、ムラヴィンスキーの薫陶を受けたというが、ムラヴィンスキーのチャイコフスキーのように引き締まった峻厳な超凝縮型の演奏ではない。
かと言って、同じベルリンのイエス・キリスト教会で3大交響曲を録音したカラヤンのように、劇的で華麗な演奏でもない。
その演奏の性格を一言で表現すれば、いかにもドイツ人らしい厳しい造型の下での重厚な演奏ということになるのであろう。
テンポはきわめて遅いが、他のドイツ系の指揮者、たとえばベームのような野暮ったさは全く感じさせない。
したがって、最大公約数的には良い演奏には違いないのだが、こうしたザンデルリンクのオーソドックスなアプローチだと、チャイコフスキーのような曲の場合、「何か」が不足している感は否めない。
中ではカスタマーレビューにもあるように、最も深刻でない「第5」の評判が高く、深みのある演奏。
他の2曲はその「何か」が不足しているように感じられてならない。
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2012年08月28日
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ドイツの名指揮者クルト・ザンデルリンクが2011年の9月18日、ベルリンで亡くなった。98歳だった。1912年生まれ。老衰とみられる。
遅ればせながら、心よりご冥福をお祈りします。
彼はドイツ生まれながらユダヤ系だったため、ナチスが台頭するとソ連へ移住し、レニングラード・フィルの指揮者を務めた。
戦後の1960年に当時の東ドイツに戻りベルリン交響楽団(現ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団)の首席指揮者に就任し、このオーケストラを一流のオーケストラに育て上げた。
本盤に収められた「第2」(1973 Live)と「第5」(1984 Live)もベルリン響を指揮したライヴ録音で、録音年代に10年以上の開きがあるが、両曲ともに、やや遅めのテンポで一貫した剛毅にして重厚な名演だと思う。
「第2」は、ザンデルリンクの愛奏曲とのことであるが、剛毅なたたずまいながら、決して鋭角的な印象を与えることなく、むしろ、旋律を風格豊かに、自然体で歌い抜いている点は、いかにも同曲を自家薬篭中のものとしていることが伺える。
「第5」は、ザンデルリンクが晩年にレパートリーから外した曲とのことであるが、演奏の特徴は「第2」とほぼ同様で、細部まで良く練られた、さすがの仕上がりだと思う。
第3楽章の堂々たる歩みや低弦のうなるような響きなど、音の重心が低く、重厚さがより際立っている。
「第5」で特に興味深かったのは、第1楽章の何度も繰り返される有名な第1主題の動機で、この主題の3連符を抑揚をつけたりせずに、一気呵成の急速テンポで演奏している点。
主部のテンポはやや遅めなので、余計に目立つが、決して違和感を感じさせないのは、ザンデルリンクが、「第5」を完全に掌握していることの証左と言えよう。
録音は、おおむね鮮明であるが、「第2」については、冒頭の音の若干の揺れや、隋所に見られる不自然なエコーなど、録音の古さが目立つ点が惜しまれる。
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2012年07月25日
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『英雄の生涯』も『未完成』も、ザンデルリンクならではの重厚にしてオーソドックスな名演だと思う。
とにかく、安心して楽曲の魅力を心ゆくまで味わうことができるのが素晴らしい。
『英雄の生涯』(rec. 30/09/1975)は、既に1972年のライプツィヒ放送交響楽団とのライヴ録音が発売されており、それとの優劣をつけることはなかなか困難である。
しかしイン・テンポを基調としつつ、楽曲の持つドラマティックな要素をいささかも損なうことないという、ある意味では二律背反することを事もなげに成し遂げている点に、ザンデルリンクの類いまれなる才能と、ドイツ音楽への適性を感じる。
筆者の友人にR.シュトラウスの『英雄の生涯』が苦手な人がいて、どうも相性が悪いのか、あまり好きになれないらしい。
しかしこのザンデルリンクの演奏を耳にすれば、それまでの苦手意識が薄らぐのではないかと思えるほどに雄渾で見事な演奏内容。
『未完成』(rec. 17/04/1978)は、ザンデルリンクの演奏としては、初出ということらしいが、期待に違わぬ素晴らしい名演だ。
『英雄の生涯』と同様に、中庸のテンポを基調とするオーソドックスな演奏であるが、だからと言って平板には陥ることはなく、深沈とした抒情を湛えた何とも言えない深みがあり、『未完成』の持つ魅力を最大限に表現してくれている。
本盤の他に、現時点で録音が遺されていないのが不思議なくらいだ。
録音も、コンサートの雰囲気を見事に捉えており、1970年代のライヴ録音としては優秀な部類に入る。
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2012年01月03日
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まずは追悼ザンデルリンク。心よりご冥福をお祈り致します。
ザンデルリンクの新盤を、「ブラームス全集」の筆頭にあげる人は少なくない。
筆者もザンデルリンクを評価するのにやぶさかではない。
どこを向いても洗練されたものしかお目にかかれない時代だから、重厚なドイツの響きなどというのは昔の演奏でしか聴けないのだと諦めていた。
しかし、1990年にもなって録音されたこの全集は、それまでに見たこともない立派なドイツ風の鎧をかぶって登場し、人々に大きな驚きを与えた。
まず、ベルリン交響楽団の深みのあるくすんだ音色に魅せられる。まるで、タイムスリップして100年前に戻ったような蒼古たる音だ!
くすんだ色の油絵の具を幾重にも重ねたように分厚いブラームスのオーケストレーションが、ますます底光りをする独自の魅力に魅了される。
特に、即席ではなく長い時間をかけて練り上げたような弦楽器の渋い音色は、それこそ卒倒するほど美しい。
それをまことに堂々たる建築物に仕上げているが、細部にわたって細かな仕上げには暖かい愛情さえ感じさせる。
東西ドイツの壁が崩れ、旧東側に残されていた固有の文化も国際化の波にさらされており、こうした音色の失われる日も近いことだろう。
また多くの全集が出ている中で、4曲がこれほど均一して出来がいいという点でも、この全集は最右翼ではなかろうか。
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2011年07月10日
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以前紹介したザンデルリンク指揮ベルリン交響楽団のスタジオ録音は、「10番」のスタンダード盤として、真っ先に推薦するものである。
一方、このフランス国立管弦楽団とのライヴも素晴らしい。
オーケストラの色彩感やサウンドの豊穣さにおいては、こちらの方が上で、ザンデルリンクの至芸を贅沢な音響で堪能できるのはありがたい。
両ディスクとも揃えておきたいものだ。
ムラヴィンスキー盤より録音も良く、演奏にも慈父のような暖かさ、懐の深さがある。
音楽が、どんなに悲痛になろうとも、凶暴になろうとも、徹底的に追いつめない心の大きさ、天から下界を見下ろすような眼差しの透徹がある。
第1楽章は遅いテンポで格調高く、じっくりと攻めており、スケールが大きい。
展開部における、立体的という言葉では追いつけない、多層的な音空間はまことに見事であるし、クライマックスにおける音の洪水には体が流されそうだ。
第2楽章の爆発ぶりも凄まじい。
この楽章に連続する内容いっぱいの音楽は、どれほどの最強音になっても美感を失わず、しかも味わいは濃厚、強靭なリズムとアンサンブルも聴きものだ。
第3楽章も冒頭部から美しく瞑想的であり、コーダの感慨深さも特筆すべきだ。
第4楽章のアダージョからアレグロに移る際の空気の変わり方には閃きがある。
ムラヴィンスキー盤とともに持っていたい。
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2010年09月22日
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この曲にはテンシュテットとかベルティーニとか、注目すべき演奏がいくつもある。が、ここでは意表を突いてザンデルリンクの録音を挙げよう。
ザンデルリンクが作り出す音楽は、さしずめブロンズ像のようなもので、細部の再現性ではなく、全体の大づかみな構築を問うている。
だから、作品がたくましく聴こえる。
このたくましいとは、もちろん他人よりも大きな音を出すとか、響きが分厚いといったことではない。
例えば、両端楽章は大きな振幅でうねる。そのうねりに神経質なところがなく、実に自信があるのだ。
これで聴くと、ザンデルリンクが超一流オーケストラばかりでなく、二級楽団も頻繁に指揮していた理由がわかる。
こうした音楽作りなら、技量が超一流でなくても、指揮者の言いたい要点を実現できるのだ。
このザンデルリンク流が細部ほじくり型よりも容易な演奏法だということはまったくない。
単にうるさいところは強く弾き、メロディは歌いまくればこういう演奏になるかと言えば、そんなことはないのである。
フレージングの力学に通じ、どうすれば音楽が自然に流れるように聴こえるのかを知らなければならない。
ザンデルリンクはその技の極め付きの名手であり、彼の手にかかると、複雑なこの交響曲もじつにやすやすと流れていくのである。
例えば、第4楽章は誰もが心をこめて歌う楽章だが、感情移入という点ではバーンスタインらのほうがザンデルリンクよりもよほど熱烈だ。
ザンデルリンクの演奏では感情の力学ではなく、響きの力学に従って音楽が先に進む。
だから、この楽章がことさら嘆きとか悲しみを訴えることはなく、美的なものとして現れてくるのだ。
この太い名木を組み合わせて作ったような感触のフィナーレが私は大好きである。
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2010年01月06日
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ラフマニノフの交響曲第2番はザンデルリンクとフィルハーモニア管のCDが圧倒的に素晴らしい。大柄な音楽作りが堪能できる、掛け値なしに偉大な演奏だ。
彼方にまで伸びていくかのような旋律線がとても美しく、ロマンティックな音楽に酔わせてくれる素晴らしい演奏だ。
ザンデルリンクの演奏は、以前のものとは比べものにならないほど円熟しており、しかも個性的である。
抒情と劇性が雄大なスケールで濃厚に表出され、第1楽章冒頭からきわめて充実した音楽を聴かせている。
各楽章とも完全に曲を手中に収めた表現で、すべてが歌に満ち、アゴーギクとルバートの多用も内奥から溢れ出る感興を表している。
その共感と生命力の強さは驚くべきものである。
私は常々イギリスのオーケストラは、整ったこぎれいな音は出すけれども、踏み込みが足りない、いや踏み込もうとしない点に不満を覚えていた。
礼儀正しいが本心が見えないと喩えたらよいだろうか。リアルに見えすぎるのを嫌うと言ったらいいか。上手でお行儀がよいだけではすまない作品がたくさんあるにもかかわらず。
けれども、この盤、とりわけ第1楽章での弦楽器群のうねり方は凄い。催眠術にかけられたがごとく、ザンデルリンクの大きな指揮棒の動きに合わせて陶酔の波を漂っている。
弦楽器だけでなく、オーケストラ全体の気の入り方が尋常ではない。
音楽の収縮は堂に入り、旋律線はぐんぐん途方に延びていって果てしがない。
こんな雄大かつ恍惚とした音楽は、この曲の他の演奏からは聴けない。
これほどの名演を聴くと更なる欲が出てくる。
ベルリン・フィルとの超絶的名演のライヴ録音(かつて石丸電気で売られていたCD−R)の再発はならないのだろうか。
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2009年10月28日
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録音年(1979年)からすると、D・クック最終決定版の先陣を切ったものだ。
この版は周知の通り、マーラーが残した草稿を元にクックがオーケストレーションを施し完成させた労作(1972年)で全5楽章から成る。
ザンデルリンクはクック版を基本とし、適宜、手を加えるという形でおこなわれている。
ザンデルリンクの切り口は峻厳にして彫りが深い。
かつてない表情の素朴さとドイツ風の構築性があり、堅実な音楽を聴かせる。
あたかも徹頭徹尾ドイツ的であることを眼目にしたかのような趣がある。
形だけを整えたような冷たさはなく、それどころか十分に情熱的である。
誇示誇張の表現がなく、じっくりと腰を据えて丁寧に描き出していくのが手に取るようにわかる。
アダージョは言うに及ばず、終わりの2楽章が素晴らしい。
一音一音丁寧に咀嚼し、何を言わんとしているかを明解に浮かび上がらせる。
第5楽章の後半が感動的に高揚するのもすごい。
いぶし銀にも似たオーケストラの音色と相まって、実に滋味深い演奏だ。
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2009年06月10日
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引退をはさんで、その風格と渋味を湛えた音楽がますます注目され、熱狂的に支持されるようになった巨匠、ザンデルリンク。
シュターツカペレ・ドレスデンを指揮したブラームス全集は、もはや望んでも得られない貴重な記録で、その渋い造形美と温もりを感じさせる肌合いは「総檜造りのような音」と形容された。
内からわき起こるような力感と堂々とした偉容を湛えた、これぞブラームスといえる演奏。
ザンデルリンクのブラームスの交響曲といえば、本盤の後に録音したベルリン交響楽団との全集(カプリッチョレーベル)が名演の誉れ高いが、本盤も、それに勝るとも劣らない名演と高く評価したい。
何よりも、オーケストラの力量から言えば、本盤の方が断然上であり、その意味では、新盤とは違った意味での魅力ある名演と言うことができよう。
本盤の成功は、もちろん、ザンデルリンクの巨匠風の堂々たる指揮ぶりにあるが、何よりも、シュターツカペレ・ドレスデンの重厚な音色をベースとした素晴らしい好演にあると言える。
東ドイツという国が存在していた時代のシュターツカペレ・ドレスデンの音色には独特のものがあった。
重心の低い、それでいていぶし銀の輝きのある美しいジャーマン・サウンドは、特に、ドイツ音楽を演奏する際に、他では味わうことができない深遠さを醸し出すことになる。
それにしても、何と言う深みのある響きであろうか。
録音場所となったドレスデンの聖ルカ教会の残響も見事なものがあるのであろうが、シュターツカペレ・ドレスデンのいぶし銀の音色には、現代のオーケストラにはもはや求め得ないような至高・至純の輝きがある。
したたるような弦楽器の音色や重量感溢れる打楽器も見事であるほか、金管楽器や木管楽器も素晴らしいが、特に、ダムが吹いているであろうホルンの朗々たる響きには、ただただ感動するのみ。
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2009年03月17日
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ザンデルリンクの指揮はまさに堅実そのものである。しかしこの演奏ではその中に、作られた効果抜きで、美しいニュアンスを盛っている。
このひとの音楽の中には、どこか身をこわばらせながら内側で熱い風を吹かせているようなところがあり、それが情にのめり込むまいと心に決しながら、しかも足もとは断崖に立って辛抱しているような姿であるところが大変面白い。
弦や木管はもちろん、金管までも美しくつや消しされて、色彩の沈んだ北欧的感性の固有の美しさが大変よく出ている。
全体をまとめる構想も堅固なもの。
ひたひたと押してゆく着実な足どりはザンデルリンクに特有のもので、第2番では最後を大見栄きってわめき散らすような児戯的な盛り上げ方をしない。
それでいて、緊張感は静かに高まっている。
地味ながら好演である。
堅実さと素朴さが密着し、徹底的な合奏美を目指した、いかにもドイツ的な演奏だ。
第6番がひときわ素晴らしく、あらゆる細部が見事に統率され、しかもアンサンブルがきめ細かく、すべてが磨きぬかれている。
透明度の高い音にはヒューマンなぬくもりがあり、それがシベリウス特有の旋律を歌っているのも好ましい。
第7番も同様の演奏だが、この曲ではいっそう幻想的な情緒の広がりが欲しい。
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2009年03月16日
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ザンデルリンクのショスタコーヴィチには一種特有の抒情感がある。
それはドイツ的とも形容したい濃厚な陰影にみたされており、様式的には堅固で緊張力が強い。
ロシアの演奏にあるようなスケールの大きさはないが、それに代わる端正な魅力をもった演奏ともいえる。
東ベルリンの交響楽団がこのように整ったアンサンブルを聴かせるのもザンデルリンクの手腕といえるだろう。
第1番はドイツ的堅実さというか、各楽器のディティールまで確実に処理され、はつらつとした生命力を感じさせる。
第8番は冒頭から驚くほどの緊張感をもった表現である。合奏の精度も非常に高く、このオーケストラの最盛期の状態を示しているといえる。
ザンデルリンクは、スコアを精確に音にしながら、そこにロシア的な暗い情緒をよく表現している。
しかもドイツ人らしく、構成力が強く、後半の連続する3つの楽章は堅固そのもの。
そのため、ロシアの演奏家によるものや、他の西欧のオーケストラの演奏などとはかなり異なった趣がある。
第10番は最近演奏される機会が増え、カラヤンは2度も録音している。しかしこのザンデルリンク盤を聴くと、このように精巧に書かれた楽譜の再現にも、驚くほどの民族性が反映することがよくわかる。
この演奏は、他のどれよりも重厚・堅固で、そしてブラームスのような深く沈んだ響きがする。ショスタコーヴィチがまるでドイツの作曲者であるかのようにきこえるのだ。
管と弦もしっとり溶け合い、全曲の造形も見事。
ザンデルリンクがほとんど真面目一徹に構えた第15番の演奏は、この曲のもつ寂寥感をいっそう強め、さらに一歩進めて音楽そのものへの冷ややかな観念を物語っているように思われる。
オーケストラもまた一分の隙も油断もない室内楽のようなアンサンブルで曲を見つめている。
この曲を論じるためには1度は聴くべき演奏といってよいだろう。
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