フリッチャイ

2017年01月06日


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フリッチャイ&ベルリン放送交響楽団によって1958年にステレオ録音されたモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』全曲盤。

彼の劇場作品への自在に変化する柔軟な指揮法が素晴らしく、歌手達に充分に演じさせながらオーケストラには劇的なアクセントを与えて、テンションを最後まで落とすことのない引き締まったオペラに仕上げている。

フリッチャイがこの作品にどのような構想を持っていたかは知る由もない。

確かにイタリア語で書かれたリブレットはセリフのない叙唱とアリア及び重唱で織り成し、モーツァルト自身ドランマ・ジョコーソと記しているが、牧歌的な愛憎劇というより、むしろ『後宮』や『魔笛』と同一線上に置かれたジングシュピール的な明確な縁取りを持った、個性的な音楽劇に仕上がっている。

それだけにイタリア式の流麗なカンタービレを強調するよりも役柄を的確に描き分けて、それぞれの場面を迅速に活写するスタイルが印象的だ。

いずれにしても他のどの指揮者にも真似のできない独自の『ドン・ジョヴァンニ』を開拓していて、一聴の価値を持っていることは認めざるを得ない。

タイトルロールにはフリッチャイからその才能を見出されたフィッシャー=ディースカウを起用しているところも聴きどころだが、放埓なプレイボーイのスペイン貴族が学者肌の優等生に感じられなくもない。

彼の歌唱は非の打ちどころがないほど演劇的な裏付けがあるし、音楽的にも完璧にコントロールされていることは納得できる。

しかし一方でドン・オッターヴィオ役のへフリガーの宗教曲の権威としてのイメージと、いくらか軽佻浮薄なやさ男ドン・オッターヴィオの性格がマッチせず、勿論真摯な熱演なのだが甘美な軽さが望めないのがいささか残念だと言えなくもない。

女声陣も豪華メンバーによるキャスティングで、モーツァルトによって見事に描き出された役柄をそれぞれが巧みに演じている。

ドンナ・エルヴィーラ役のシュターダーはその強くも脆い性格を良く掴んでいるし、ドンナ・アンナを演じるユリナッチの毅然とした歌唱は騎士長の娘としての存在感を高めた好演だが、ゼーフリートの歌うツェルリーナには世間知らずの純粋さよりも、もう少しちゃっかりしたセクシュアルな表現があっても良かったと思う。

分離状態の極めて良いステレオ録音で、臨場感にも不足していない。

特に歌手陣の声の生々しさに当時のエンジニア達のレコーディングに賭けた意気込みが感じられる。

尚このセッションはフリッチャイのコンプリート・エディション第2巻声楽作品集にも組み込まれていて、その短かった音楽活動において驚異的とも言える質と量の劇場作品を録音し、オペラ指揮者としても面目躍如の能力と手際の良さを示している。

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2016年12月31日


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1996年4月、本CDが初出されたときには少なからぬ衝撃を受けた。

こんな凄い名演が指揮者の許可を得られないまま、37年間もオクラになっていたというのだから…。

フェレンツ・フリッチャイは、第2次世界大戦後の混迷したヨーロッパ楽界に彗星のように登場し、モノラル録音の時代からステレオの初期に活動し、数多くのレパートリーを次々と録音してきた。

フリッチャイは1953年にベルリン・フィルと第1回目の『悲愴』をセッション録音していて、そちらでは彼のストレートな解釈と覇気が否応なく伝わってくるが、臨場感にやや乏しいモノラル録音なのが惜しまれる。

一方この演奏はその6年後に手兵ベルリン放送交響楽団(旧RIAS)を振った、極めて良好なステレオ録音で、スコアのテクスチュアを明確に描く手法とアンサンブルの手堅さ、見せ掛けの迫力や感傷性を嫌った真摯な音楽作りは変わっていないが、オーケストラのダイナミズムの多様さや柔軟なテンポの変化によって更に深みが増している。

このセッションは彼が白血病による闘病生活の後、一時的な小康状態を得て演奏活動を再開した頃のもので、病を境にその芸術が一変し、中でもこの『悲愴』は2度目の手術後の再起第1作として、またドイツ・グラモフォン初の『悲愴』ステレオ録音(ムラヴィンスキー盤より前)として意義深いものだ。

2年後には再び活動の中断を余儀なくされ1963年に49歳の若さで早世したが、晩年まで彼の演奏には病的な脆弱さは微塵もなく、バイタリティー溢れる指揮ぶりはこの『悲愴』でも決して衰えをみせていない。

最近はこんな演奏は皆無であるが、とにかく『悲愴』という音楽が最も雄弁に、劇的に、抒情的に、内容的に、かつ音楽的、芸術的に語りかけてくるのだ。

全体的に清澄な雰囲気があり、第1楽章の主部がフォルテで出るところから、フリッチャイの指揮は共感に溢れ、展開部のクライマックスでも濁りのないくっきりとしたオーケストラの総奏が印象的だ。

第2楽章の変拍子のワルツでは鮮やかな回想をイメージさせるし、最初のチェロから他の演奏とは別次元にある。

第3楽章の狂想を叫ぶようなマーチにもすべての音に意味があり、コーダの加速はフルトヴェングラーを彷彿とさせる。

一変する終楽章の雄弁な沈潜、銅鑼の音が響き、弦は全員夢中になっての体当たりで、ブラスのコラールからコーダまでは臓腑を抉るような寂寥感を残している。

この曲だけを聴いていてもフリッチャイが枯渇することのない溢れんばかりのアイデアを着々と実現していたことが理解できるし、その余りにも早過ぎた死が悔やまれてならない。

フリッチャイが1音1音を慈しみ、万感を胸に抱き演奏されたこの『悲愴』は彼の時代を明確に刻む記念碑と言えるところであり、当時のベルリン放送交響楽団の巧さも特筆される。

フリッチャイは改名以前のRIAS交響楽団の初代首席指揮者であり、彼によって鍛えられた精緻なアンサンブルや揺るぎない機動力はこの頃ほぼ全盛期に達していたと言えるだろう。

尚1993年に彼らは2度目の改称でベルリン・ドイツ交響楽団として現在まで演奏活動を続けている。

ベルリンには10団体を下らないオーケストラがひしめいていて、ヨーロッパではロンドンに優るとも劣らないオーケストラ王国だが、この1959年の『悲愴』はベルリン放送交響楽団の最も輝かしかった時代の記録としての高い価値を持っている。

当ディスクはSHM−CDで、その他にSACD及びマニアックなファンのためのLP盤の3種類のバージョンがリリースされているが、勿論フリッチャイ・グラモフォン・コンプリート・レコーディング集の第1巻にもレギュラー・フォーマットで収録されている。

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2015年11月01日


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昨年の第1集45枚のボックスではフリッチャイのオーケストラル・ワークを堪能させてくれたが、今回のオペラ及び声楽作品篇は37枚のCDに更にデュカスの交響詩「魔法使いの弟子」とコダーイの『ハーリ・ヤーノシュ組曲』のリハーサルとその本番を収録したDVDが1961年のモノラル録音ながらボーナスとして加わって、2巻合わせると網羅的なコレクションに相応しい内容になっている。

フリッチャイが音楽監督に就任したバイエルン国立歌劇場管弦楽団及びベルリン・ドイツ・オペラでの活動が期待されていたにも拘らず、不治の病のためにごく短期間でそれらのポストからの降板を余儀なくされたが、個々に収録されたオペラはバルトーク『青髭公の城』(独語歌唱)、ベートーヴェン『フィデリオ』、グルック『オルフェオとエウリディーチェ』(独語歌唱)、モーツァルト『後宮からの誘拐』『魔笛』『ドン・ジョヴァンニ』『イドメネオ』『フィガロの結婚』、J.シュトラウス『こうもり』、ストラヴィンスキー『エディプス王』(独語歌唱)、ワーグナー『さまよえるオランダ人』の合計11曲に上り、更にビゼーの『カルメン』が独語歌唱ながらハイライトで入っている。

この時期のドイツのオペラ劇場ではまだ訳詞上演が一般的だったのである程度は致し方ないが、1人の指揮者によるオペラ全曲盤のセッション録音がまだ限られていた時代に、フリッチャイが如何に情熱を注いでこうした作品に取り組んでいたか想像に難くない。

オペラ以外の声楽作品ではコダーイの『ハンガリー詩篇』(独語歌唱)、ハイドンのオラトリオ『四季』とヴェルディの『レクイエム』がそれぞれ2種類ずつ組み込まれていて、数年の間のフリッチャイの解釈の変化を聴き比べることができる。

CD11『ハンガリー詩篇』は1959年のステレオ・ライヴ録音の方が全体的な完成度が高い。

演奏時間も1954年のセッションに比べて5分ほど長くなっているが、ドラマティックで彫りの深い表現に加えてへフリガーの熱唱が称賛に値する。

CD1バルトークの世俗カンタータ『9匹の不思議な牡鹿』も独語歌唱だが、フリッチャイにその才能を見出されたフィッシャー=ディースカウの歌う、9人の息子の父親役は、フリッチャイのごく初期のレパートリーとしても貴重だ。

フリッチャイによって起用された歌手もソプラノのシュターダー、シュトライヒ、ゼーフリート、グリュンマー、アルトのテッパー、テノールのヴィントガッセン、へフリガー、バリトンのフィッシャー=ディースカウ、バスではホッター、グラインドルなど一流どころが顔を揃えているのも頼もしい。

廃盤の復活にも注目すべきものが多く、例えばCD15−16モーツァルトの『後宮』は、語りの部分は役者を当てているが、ジングシュピールの伝統に則った闊達なセリフのやり取りによる劇の運びや絵画的なシーンをイメージさせながら登場人物を描き分けるフリッチャイの音楽空間が絶妙で、このセッションは奇しくもパリのクラシック批評誌『ディアパソン』自主制作のCDとしても今月の新譜で復活している。

同じくモーツァルトでCD13の『大ミサ』はダイレクトで劇的な指揮に沿ったシュターダーの名唱を1959年のステレオ録音で鑑賞できるのは幸いだ。

未完成のまま遺された「クレード」は補筆版を演奏しているが「アニュス・デイ」は省いている。

またCD36のフィッシャー=ディースカウ若き日のオペラ・アリア集はドイツ、フランス、イタリアものを自在に歌った1枚で、イタリア・オペラではいくらか理屈っぽく聞こえるが、表現の多彩さと声楽的なテクニックには流石と思わせるものがある。

このセットでフリッチャイが指揮しているオーケストラはベルリン放送交響楽団とその前身に当たるRIAS交響楽団、バイエルン国立歌劇場管弦楽団、ベルリン・フィル及びウィーン・フィルになるが、中でもRIASは戦後間もなくフリッチャイによって鍛え上げられた手兵楽団で、団員の個人的技術水準の高さもさることながら、歌物では歌手に合わせる柔軟で臨機応変な機動力にも傑出したオーケストラだった。

尚CD37はフリッチャイの死の前年に行われた録音で、それまでの人生を振り返って自身のキャリアや音楽観についてほぼ1時間に亘ってフリッチャイ自身がドイツ語で語っている。

指揮者の父を持ち、ピアノをバルトークに、作曲をコダーイに学ぶという理想的な環境で学習できたフリッチャイは、なるべくして指揮者になったと言えるだろう。

これはDVDにも共通することだがフリッチャイのドイツ語は一昔前の発音で、明瞭で分かり易いのが特徴だ。

また要所要所にフリッチャイの指揮による音楽が挿入されているところをみると、一種のドキュメンタリーとして制作されたようだ。

DVDではフリッチャイのエネルギッシュなリハーサル風景が貴重だ。

フリッチャイの師でもあったコダーイの作品ではユーモアを交えながら楽員達に丁寧な説明を加えている。

また本番では2曲とも暗譜で臨んでいるが、指揮棒を使わない指揮法も見どころだ。

古い動画なので数ヶ所に音揺れがあるが鑑賞には全く差し支えない。

第1集よりCDの枚数は少ないが、組物は初出盤をイメージさせる折りたたみ式の厚手のジャケットに入っているので、ボックスの大きさは前回と同様に統一されている。

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2015年08月09日


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1914年生まれで生誕100周年を迎えた指揮者はフリッチャイを筆頭にジュリーニ、クーベリック、コンドラシンなどの巨匠が揃っていて、彼らは既に全員他界しているが多くの優れた録音も残してくれた。

フリッチャイは4人の中では最も若くして48歳で世を去ったが、その精力的な演奏活動はグラモフォンへの集中的なレコーディングという形で彼の芸術のエッセンスが記録されている。

今回の45枚組コンプリート・エディションは第1巻で、今年リリースが予定されている第2巻にはオペラ及び声楽曲が編集されるようだ。

これらの音源には既に廃盤の憂き目に遭ったものが少なからずあり、今回のバジェット価格での復活を歓迎したい。

とりわけ自国ハンガリーの作曲家の作品の解釈において、フリッチャイは現在でもオールド・ファンには殆んど究極的なサンプルとして聴き継がれている。

こうしたレパートリーで彼は洗練と原初的なパワーを両立させ、1曲1曲を珠玉のように磨き抜いてその力量を示した。

その鋭利な感性はこのセットに含まれる他の20世紀の音楽にも良く表れている。

一方でまたオーケストラを鍛え上げる優れた手腕を発揮した点でも彼の楽壇への貢献は無視できない。

例えば後のベルリン放送交響楽団の原形になるRIAS交響楽団は、戦後の混乱期にあって非常に高い技術水準と指揮者の要求に応える柔軟な機動力を備えていたが、それはフリッチャイの修錬の賜物でもあるだろう。

ちなみにブダペスト音楽院時代のフリッチャイの師であったバルトークとコダーイには計6枚のCDが当てられている。

この集大成に先駆けてプラガ盤においても、フリッチャイによって綿密に考慮された音楽設計と聴き手を呪縛するような恐ろしいほどの緊迫感の持続は尋常ならざるものがあったが、それだけにフリッチャイの余りにも早過ぎた死が今更ながら惜しまれる。

ベルリン・フィルを振ったベートーヴェンの交響曲集では、第1及び第8番のみがモノラルでその他は良好なステレオ録音で残されているが、第2、第4、第6番を欠いている。

音楽の造形を明確に表現し、むやみにスケールを大きくしようとしたり尊大になったりしない真摯で丁寧な音響作りによってそれぞれの作品の持ち味をダイレクトに伝えているのが特徴だ。

個人的にはゼーフリート、フォレスター、へフリガー、フィッシャー=ディースカウをソリストに配した第9番がLP時代に聴き古した名演で、簡潔な中に充分な歌心を織り込んだ密度の濃い仕上がりになっている。

ベートーヴェンでは他にアニー・フィッシャーとのピアノ協奏曲第3番、アンダ、シュナイダーハン、フルニエが加わる『トリプル・コンチェルト』、また『エグモント序曲』などでも音楽性豊かで個性的な演奏を聴かせている。

新しいリマスタリングの記載はなく、古いモノラル録音も多く含まれているので、これまで以上の音質は期待していなかったが、流石に本家ドイツ・グラモフォンのオリジナル・マスターからの復刻だけあって鑑賞には全く不都合のない極めて良好な状態だ。

ライナー・ノーツは107ページほどあり、71ページまでがディスク別の曲目一覧と録音データに費やされていて、続いて英、独、仏語によるトゥリー・ポッター、エルザ・シラー、ユーディ・メニューインのエッセイが掲載されている。

最後の数ページにこのセットに収録された総ての曲のアルファベット順作曲家別の索引が付いているのも親切な配慮だ。

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2015年08月07日


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このSACDのライナー・ノーツ表紙の右側にパリ・シャンゼリゼ劇場、1952年5月25日という表示があり、あたかもフリッチャイがパリ・デビューを飾ったセンセーショナルな凱旋コンサートのライヴ音源がリリースされたかと一瞬思わせる。

しかしケースの裏面を良く読むと、実はその夜のプログラムを同時期の同じメンバーによるセッション録音を集めて再構成したものであることが書かれている。

フリッチャイ・ファン達が早とちりをしてこのディスクを購入し、プラガにクレームをつけたためと思われるが、このサイトのページにはファンの誤解を招かないように日本語で擬似再現と大きく断り書きがしてある。

確かに擬似再現のジャケットとしては随分凝った演出だが、プラガは過去にもこの種の問題で徹底的に叩かれたレーベルなので、珍しい音源については一応疑ってみる必要がある。

しかしながらここに収録された演奏については決して羊頭狗肉的なものではなく、むしろSACD化に相応しい充実した内容を誇っていることを保証したい。

プログラムはバルトークの作品で統一されていて、新しい潮流の芸術の牙城であったパリに乗り込んでお国ものを披露したフリッチャイの自負とその実力のほどは想像に難くないが、そうしたエピソードを全く無視したとしても、この演奏は不滅の価値を持っている。

選曲とその配列にもパフォーマンス的に非の打ちどころがないほど頭脳的な配慮がなされているし、次第に収斂していくアンサンブルの一体感と、フリッチャイの高度な音響構想による眩しいほどの色彩感が刺激的だ。

『舞踏組曲』や最後の『弦楽のためのディヴェルティメント』ではスパイシーなアクセントをつけたエスニカルな躍動感が炸裂して聴き手を完全に自分達の世界に引き込んでしまう。

特に後者は弦楽合奏だけでこれだけのパワーを創造した作曲家の力量にも感嘆するが、それを凄絶を極めた集中力と音響のダイナミズムで描き出したフリッチャイには脱帽せざるを得ない。

『ピアノ協奏曲第2番』でソロを弾くゲザ・アンダもやはりハンガリーの出身で、彼のテクニックは精緻であるにも拘らず、現在ではなかなか聴けない土の薫りが立ち昇るような演奏が興味深い。

彼のブダペスト音楽院時代の師はドホナーニとコダーイで、如何に彼が同時代の自国の俊英作曲家の影響を自己の演奏に色濃く反映させていたかが納得できる。

尚オーケストラのRIAS放送交響楽団は当時としては信じられないほどの腕前を示していて、フリッチャイに鍛え抜かれた先鋭的で触れれば切れるような音色とアンサンブルの連係プレーが縦横無尽に駆使されている。

全曲モノラル録音だが、SACD化による音質向上と解像度の良さも特筆される。

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2015年05月15日


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白血病という不治の病を患い、49歳という若さでこの世を去らなければならなかった悲劇の指揮者フリッチャイであるが、米国において鉄壁のオーケストラトレーナーとして君臨した同じハンガリー人指揮者のライナーやセル、オーマンディ、そしてショルティなどとは一線を画するようなヒューマニティ溢れる情感豊かな演奏を行っていた。

同じハンガリー人指揮者であったケルテスの海水浴中の不慮の死と同様に、そのあまりにも早すぎる死は、クラシック音楽界にとっても一大損失であった。

仮にもう少しフリッチャイが長生きをしていれば、世界の指揮者地図は大きく塗り替えられることになったのではないかとさえ思われるほどだ。

本盤に収められたウィーン交響楽団とのモーツァルトの交響曲集は、フリッチャイの活躍の舞台が国際的になってからの晩年の録音で、既に白血病を発症したフリッチャイが、懸命の闘病生活の中で演奏を行ったものである。

それだけに、本演奏にかけたフリッチャイの気迫と執念には並々ならぬものがあったことは容易に想像がつくところだ。

フリッチャイのモーツァルトへの熱い共感と晩年の芸風が端的に示された演奏のひとつで、特に第40番のゆったりと大きなうねりをもった運びと豊かなロマンを湛えた表現は独特である。

と同時に、その演奏は、美しく引き締まった音楽の流れと推進力を常に失うことがない。

あたかも、間近に迫る死を予見しているかのような不気味さを湛えているところであり、若干のテンポの変化を交えつつ、1音1音を心を込めて歌い抜き、彫りの深い演奏を展開しているところだ。

その尋常ならざる心の込め方は、時には慟哭にさえ聴こえるほどであり、あたかも忍び寄る死に対して必死で贖おうとするフリッチャイ自身を彷彿とさせるように思われてならない。

非常にゆったりとしたテンポによる演奏ではあるが、冗長さを感じさせず、演奏全体の造型もいささかも弛緩することがない。

そして、これだけ思い入れたっぷりの渾身の熱演を展開しているにもかかわらず、同曲のモダン楽器による演奏において時として見られる陳腐なロマンティシズムに陥ることがなく、どこをとっても格調の高さを失っていないのが素晴らしい。

他方「ジュピター」は、健やかで厳しい表現としなやかに強い音楽の変化が印象的で、ここでも緩徐楽章における豊かに澄んだ気宇の大きな歌が味わい深い。

ここでフリッチャイは、初期からの特徴である明快なリズムやフレージングを保ちながら、表情がいっそう豊かになり、それが演奏に奥行きを与えている。

フリッチャイの演奏様式は、彼に先立つ巨匠たちとは違い、力強くはあっても重くなく、「ジュピター」交響曲にふさわしい威厳と爽やかな気分とを調和させ、彼の円熟を示す演奏の1つと言えよう。

晩年のフリッチャイの演奏に共通しているのは、まさにこうして全人格的に音楽を受け止め、厳しく核心を突いたその表現と言うべきだろう。

49歳で世を去ったフリッチャイは、確かに道半ばで倒れた夭逝の音楽家であり、いわゆる巨匠という範疇には入らない指揮者なのかもしれない。

特に晩年の演奏には、病気をおして短期間にそのキャリアを全力で走り抜けたが故の傷があるのも確かである。

しかし、それだけにまたフリッチャイが、その短い晩年に成し遂げたような変貌と円熟ぶりは、他に例がないと言って良いだろう。

そこには通常は何十年という時間と経験がもたらす円熟とはまた違った、極めて人間的な、そして切実なまでの純粋さと美しさをもった世界がある。

ここには肉体的な危機の中でも音楽に対する情熱を失うことのなかったフリッチャイの音楽家としての志の高さが、はっきりと刻印されている。

そして、まさにこのことが、今も聴き手の心を打ち、その個性的な輝きを失わない理由と言って良いだろう。

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2015年04月20日


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白血病という不治の病を患い、49歳という若さでこの世を去らなければならなかった悲劇の指揮者フリッチャイであるが、米国において鉄壁のオーケストラトレーナーとして君臨した同じハンガリー人指揮者のライナーやセル、オーマンディ、そしてショルティなどとは一線を画するようなヒューマニティ溢れる情感豊かな演奏を行っていた。

同じハンガリー人指揮者であったケルテスの海水浴中の不慮の死と同様に、そのあまりにも早すぎる死は、クラシック音楽界にとっても一大損失であった。

仮にもう少しフリッチャイが長生きをしていれば、世界の指揮者地図は大きく塗り替えられることになったのではないかとさえ思われるほどだ。

本盤に収められたチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」は、フリッチャイの死の4年前の演奏だ。

既に白血病を発症したフリッチャイが、懸命の闘病生活の中で演奏を行ったものである。

それだけに、本演奏にかけたフリッチャイの気迫と執念には並々ならぬものがあったことは容易に想像がつくところだ。

本演奏の中に気に入らない箇所(第1楽章の一部)があって、発売自体が録音から30年以上も遅れることになったが、これだけ完成度が高い演奏であるにもかかわらず、更に高みに達した演奏を志向したというところに、フリッチャイという指揮者の偉大さを痛感せざるを得ない。

本演奏においても、第1楽章の冒頭の序奏からしてただならぬ雰囲気が漂う。

あたかも、間近に迫る死を予見しているかのような不気味さを湛えているところであり、その後は、若干のテンポの変化を交えつつ、1音1音を心を込めて歌い抜き、彫りの深い演奏を展開しているところだ。

その尋常ならざる心の込め方は、時には慟哭にさえ聴こえるほどであり、あたかも忍び寄る死に対して必死で贖おうとするフリッチャイ自身を彷彿とさせるように思われてならない。

全体で50分程度を要するというゆったりとしたテンポによる演奏ではあるが、冗長さを感じさせず、演奏全体の造型もいささかも弛緩することがない。

そして、これだけ思い入れたっぷりの渾身の熱演を展開しているにもかかわらず、同曲の演奏において時として見られる陳腐なロマンティシズムに陥ることがなく、どこをとっても格調の高さを失っていないのが素晴らしい。

いずれにしても、本演奏は、フリッチャイによる遺言とも言うべき至高の超名演であり、同曲の他の指揮者による超名演であるムラヴィンスキー&レニングラード・フィルによる演奏(1960年)、カラヤン&ベルリン・フィルによる演奏(1971年)とともに三強の一角を占める超名演と高く評価したい。

音質については、モノラル録音が大半のフリッチャイの演奏の中では希少にして鮮明なステレオ録音であり、音質的には極めて恵まれていると言えよう。

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2013年11月10日


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まず、シューマンのピアノ協奏曲が濃厚さの極みとも言うべき圧倒的な超名演だ。

おそらくは、同曲をこれほどまでに濃密に描き出した演奏は他に存在していないと言えるのではないだろうか。

コルトーのピアノはとにかく凄いと言うほかはない。

もちろん、凄いと言っても技量などは大したことはない。

それどころか、ライヴ録音ということもあってミスタッチが随所に聴かれるところであり、各種のコンサートで優勝するなどの数々の栄誉を博した現代の超絶的な技量を誇るピアニストからすれば、技術的には箸にも棒にもかからない演奏とも言える。

しかしながら、その表現力の幅の広さ、濃厚さ、そして芸術性の高さにおいては、現代のいかなるピアニストをも寄せ付けない至高の高みに達していると言っても過言ではあるまい。

本演奏においても、正直ここまでやってもいいのかというほどの大胆な表現を駆使しており、変幻自在のテンポ設定や濃厚で心を込め抜いた歌い方など、殆どやりたい放題とも言えるほどだ。

しかしながら、これだけの大胆にして濃厚な表現を行っているにもかかわらず、シューマンの演奏に不可欠な詩情の豊かさ、そして格調の高さをいささかも失っていないというのは驚異的ですらある。

そして、コルトーの大胆にして濃厚なピアニズムをしっかりと下支えしているのが、フリッチャイ&ベルリン放送交響楽団による稀代の名演奏である。

自由奔放とも言えるコルトーのピアノに合わせるのはさぞかし苦労したことは容易に想像できるところであるが、フリッチャイはその苦労をものともせずに、コルトーのピアノをしっかりと引き立てるとともに、ベルリン放送交響楽団を巧みにドライブして、濃厚かつドラマティックな名演奏を展開しているのが素晴らしい。

他方、チャイコフスキーの交響曲第5番も、濃厚な味わいによる渾身の大熱演であると高く評価したい。

晩年の第6番の超名演のような彫りの深さが存在しているとは言い難いところであるが、それでも白血病を発症する前の演奏ということもあって、随所に聴かれる猛烈なアッチェレランドなど思い切ったテンポの変化を駆使して、切れば血が噴き出してくるような気迫と生命力が演奏全体に漲っているのが素晴らしい。

なお、フリッチャイは、チャイコフスキーの交響曲第5番をウィーン交響楽団とともにライヴ録音(1955年)しているが、オーケストラの力量などを総合的に勘案すれば、本演奏の方をより上位に掲げたい。

音質は、1957年のモノラル録音でもあり、音場がいささか広がらないという欠点はあるものの、1950年代のライヴ録音としては比較的良好な音質であると評価したい。

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2013年09月01日


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本盤に収められたチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」は、録音から長年の間のお蔵入りを経て発売されたベルリン放送交響楽団とのスタジオ録音(1959年)の1年後のライヴ録音である。

1959年盤はフリッチャイによる心を込め抜いた渾身の超名演であり、間近に迫る死を予見しているかのようなただならぬ不気味さや慟哭を感じさせる演奏に仕上がっていたが、本演奏はさらに凄まじい演奏である。

1959年盤はスタジオ録音ということもあって、渾身の熱演ではあるものの、どこかに自我を抑制した安定感が存在していたが、本演奏においてはもはやフリッチャイは自我の抑制などはいささかも行っていない。

自らの感情の赴くままに演奏しているとも言えるところであり、死を目前に控えたフリッチャイの絶望的な心情の吐露とさえ言えるのではないだろうか。

第1楽章冒頭の序奏は、1959年盤以上に恐れおののいているし、その後のテンポの変化も1959年盤以上に凄まじいものがあり、ドラマティックで壮絶の極みとも言うべき演奏である。

展開部の強靭さは我々聴き手の肺腑を打つのに十分な圧巻の迫力を誇っているし、第2主題の切々とした歌わせ方には、フリッチャイの生への妄執と憧憬さえ感じさせるほどだ。

第2楽章も他のどの演奏よりも心を込め抜いて歌い上げているが、中間部などの尋常ならざる暗さは死と隣り合わせのフリッチャイの心境が反映されていると言っても過言ではあるまい。

第3楽章の壮絶さは我々聴き手の度肝を抜くのに十分であるし、終楽章の思い入れたっぷりの慟哭の調べには、もはや涙なしでは聴けないほどの感動を覚えるところだ。

いずれにしても、本演奏はもはや名演といった単純な表現では言い表せない豪演であり、魂の音楽と言ってもいいのではないかと考えられる。

これほどの入魂の音楽に対しては、もはや批評自体が成り立たないのではないかとさえ考えられるところであり、1959年盤との比較などある意味ではナンセンスと言えるのかもしれない。

併録のバルトークのピアノ協奏曲第3番は、フリッチャイの十八番とも言える楽曲だけに、本演奏も彫りの深い超名演に仕上がっていると高く評価したい。

アニー・フィッシャーも、フリッチャイの命がけの指揮に触発されたせいか、持ち得る実力を最大限に発揮した渾身の大熱演を展開しているのが素晴らしい。

録音はモノラル録音ではあるが、1960年のライヴ録音としては比較的良好な音質である。

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2013年05月31日


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凄い超名演だ。

このような超名演をまとめてCD化した独アウディーテに対して敬意の念を表したい。

録音は、マスターテープ音源を使用したのにしては、お世辞にもあまり良いとは言えず、音場は一向に広がらないが、聴いているうちに全く気にならなくなり、演奏自体の魅力に一気に惹きこまれてしまった。

これは、演奏自体が素晴らしいからに他ならない。

フリッチャイは、20世紀において綺羅星のごとく誕生したハンガリー人の偉大な指揮者の一人であるが、ニキシュのような伝説的な大指揮者は別格として、フリッチャイの前後の世代の指揮者とは全く異なる芸風を有していた。

その前後の指揮者とは、アメリカで大きな成功をおさめたライナー、オーマンディ、セル、ショルティのことを言っているのだが、これらの指揮者に聴かれるような、いわゆるオーケストラの機能性や音色美に重点を置いた芸風は薬にしたくもない。

むしろ、同じく早世したケルテスや、現代のフィッシャーに連なっていくような、音楽の内容の追求に重点を置いた芸風と言えるだろう。

本盤に収められた演奏は、いずれも、フリッチャイが白血病を発症する前の録音ではあるが、いずれも、各作品の本質を抉り出していくような鋭さと、作品の核心に向かって畳み掛けていくような気迫に満ち溢れている。

例えば、有名な「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」においては、バルトークの絶望感に苛まれた心の深淵から湧き上がってくるような情念のようなものも感じられるなど、尋常ならざる音楽が描出されているのが素晴らしい。

また、「2つの肖像」の第1部に聴かれるように、情感の豊かさにおいてもいささかの不足もなく、カンタータのオペラ的な壮麗さは圧巻の迫力を誇っている。

「舞踏組曲」の民族色溢れる自由闊達な音楽も痛快さの極みであり、フリッチャイの桁外れの表現力の幅の広さを大いに痛感させられる。

ピアノのゲーザ・アンダ、ルイス・ケントナー、ヴァイオリンのティホル・ヴァルガを配したピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲においても、ソリストの名技を際立たせつつも、作品の本質を鋭く追求した気迫溢れる豪演を披露している。

いずれにしても、音質面におけるハンディを除けば、本盤は、現在における最も優れたバルトーク作品集であり、フリッチャイの畢生の大傑作と言えるだろう。

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2011年03月08日


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フリッチャイは、ハンガリー出身の指揮者で、実力者となるとともに、モーツァルトの録音も多くなった。

彼のモーツァルトへのこよなき愛は、作り出す音楽の調べの中に、絶えることのない泉のようにあふれ出ている。

フリッチャイの《魔笛》は、彼の他のモーツァルトのオペラと基本的には同じである。

見通しのよい、混濁感の少ない響きを特徴としている。

テンポも決して急がず、足取りも軽く颯爽としていて、決して重すぎることはない。

一音一音慈しむように、大切なものを取り扱うように大事にして、音楽はつくられていく。

内に秘めるあふれるようなモーツァルトへの愛も、演奏に際しては必要以上に情に流されるものではなく、また抑えすぎることもなく、うまくバランスされている。

フリッチャイの選ぶ歌手は、歌唱力に不安がなく、自己流の歌いまわしが少ない人、つまり癖の少ない人である。

音程がしっかりし、歌に柔軟性のある、しなやかな歌いぶりのできる人が選ばれている。

タミーノのヘフリガーは、モーツァルトが考え望んでいたと思われるほど、すばらしい声の持ち主。誠実でまざりけのない、しかも透明で強い声は、高貴な王子に適役である。

夜の女王の娘パミーナは、デビュー間もないシュターダー。タミーノの相手役として、これ以上の声はいないのではないか。汚れを知らない、気高き乙女を想像させる澄んだ声、世界中にシュターダーの名を広め、人気の的となったのもうなずける。

夜の女王はシュトライヒ。難しい曲に懸命に立ち向かう姿勢にほだされる。第1幕のレシタティーヴォとアリア。最初のレシタティーヴォをシュトライヒは、冷静に諭すように歌って、後半との対比で激情と怒りの心情をうまく表出している。

パパゲーノのフィッシャー=ディースカウも、好演である。あのフィッシャー=ディースカウがパパゲーノをやっていたことがあるのかと思うくらい若いときの録音なのだが、上手に鳥刺しを演じ、本能のおもむくままに生きる男を、おかしく面白くこなしている。

すべての役者、オーケストラ、合唱隊もフリッチャイの意図を理解し、フリーメイソン風にも傾きすぎず、かといって娯楽性、メルヘンの世界を無視するでもなく、自前のバランス感覚で、演出の難しい《魔笛》をうまくまとめている。

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2011年03月06日


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モーツァルトを振るときのフリッチャイは、ひと味ちがうような気がする。

モーツァルトを畏敬してやまない気持ち、モーツァルトへの憧憬の念がそうさせるのかと考えたりする。

旧東ドイツの手兵、ベルリン放送Oから、軽く弾むリズム、細部まで見通せる透明な音、しなやかな旋律を引き出したフリッチャイの感性と手腕に驚かされる。

《後宮》というオペラじたいが青春そのものの作品である。フリッチャイに選ばれた歌手たちは、若手ばかりで、青春がはち切れそうなガンバリを見せる。

シュターダーのコンスタンツェは、やや細身ながら独特の魅力をもつ声で、力強くはっきりとした意思を示す。

第2幕第10曲「わが幸福が消えた日から」は、自分の悲しい運命、哀愁感を嘆き歌い、次の第11曲「たとえどんな苦難が待ち受けていようとも」では、強い意志をこめてドラマティックに絶唱。

この2曲は《後宮》のハイライトであり、シュターダーも絶品なのだ。

もう1人の女性ブロントヒェン役は、リタ・シュトライヒ。

フリッチャイの《後宮》で成長したシュトライヒは、やがて《フィガロ》のスザンナ役で大成する。

ここでは若さでピチピチのブロントヒェンを演じ、文句のつけようがない。

ベルモンテのヘフリガーは、声も役柄も、青春のモーツァルトを歌う最適な声、純粋で実直な若者を描き出している。

オスミンのグラインドルは、役を十分に理解して好演、ブッファを盛り上げている。

歌手は、合唱団を含め、申し分のない出来である。

また、ジングシュピール独特のドイツ語による会話は、歌手全員がドイツ語圏の人のためか、これもまた美しく響き、オペラを成功させた一因として見逃せない。

録音はモノラルだが当時としてはすばらしく、現在でも十分観賞に堪えるものである。

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2010年01月15日


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フリッチャイ・エディションがひととおり揃い、さらに最近発売された練習風景のDVDのおかげで、この指揮者の株が徐々に上がりつつある。

もちろん、全部が全部折り紙つきの名演ではないけれど、出色物はいくつもあって、その中のひとつがこれだ。

3曲ともフリッチャイの優れた音楽性と強靭な統率力を遺憾なく表した演奏。

特に《新世界より》は歌うべき部分をたっぷりと歌わせた好演。

このように自在に表情を作っているのは、フリッチャイとしては珍しいともいえる。

これはかつてフルトヴェングラーのような演奏(以前フルトヴェングラーの《新世界》として発売された演奏は別人のものと判明)として評判になったが、確かにフルトヴェングラーが振ったらさぞやと思われるほど濃厚なロマン溢れる演奏である。

録音も驚くほど鮮明であるし、それ以上に当時のベルリン・フィルの音色の何と素晴らしいことか。

なお、フリッチャイはモノーラルでも《新世界》を録音している。

「モルダウ」は音楽の内奥から美しい詩情が湧き出してくるような表現だ。

「前奏曲」ではフリッチャイ独特のさわやかな抒情性を感じさせる。

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2010年01月14日


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フリッチャイ盤はいくぶん録音は古くなったが、モダン楽器による代表盤として、やはり忘れ難い名演である。

1957年から白血病に苦しめられるようになったフリッチャイの音楽は、その後大きな変貌をとげることになる。

1959年に録音されたこのモーツァルトのミサ曲には、まだそうした最晩年のフリッチャイの演奏がもつ自在なスケールは少ないが、真摯に厳しく研ぎ澄まされた表現によって、この未完の大作をキリリと引き締まった造形力をもって彫りなし、その魅力と威容をくっきりと明らかにしている。

フリッチャイは余分な思い入れのないモーツァルトそのものの音の中から、鋭い直観力をもって音楽を構築している。

真摯にしていかにもセンシティヴな表現が大変に美しく、モーツァルトの音楽を深く愛したフリッチャイの作品への傾倒を静かに強い感動をもって伝えずにはいないだろう。

歌手陣もそうしたフリッチャイの志の高い表現に見事に応えており、シュターダーの清澄な歌唱、テッパーの香気あふれるフレージングの豊かさ、ヘフリガーの妥協のない音楽づくりなど、いずれも素晴らしい。

聖ヘトヴィヒ大聖堂聖歌隊のオーソドックスな歌唱も見事で、身の引き締まる思いのする名演だ。

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2009年05月27日


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フリッチャイが、日々肉体を蝕む白血病と闘いながら録音したのが、この「悲愴」である。

初リリースされたのは、録音から37年後の1996年。第1楽章の一部の再録音を望みつつ逝ってしまったため、お蔵入りになっていたからである。

1996年4月、本CDが初出されたときには少なからぬ衝撃を受けた。こんな凄い名演が指揮者の許可を得られないまま、37年間もオクラになっていたというのだから……。

こじつけではなく、まさに命の炎を燃やしながらの凄演だ。

個性的には違いないのだが、個性的というにはあまりにも曲と一体化していて、とにかく《悲愴》という音楽が最も雄弁に、劇的に、抒情的に、内容的に、かつ音楽的、芸術的に語りかけてくるのだ。

リパッティのラスト・コンサート同様、真正面から真剣に向き合いたい。

第1楽章は、まるで病魔に肉体と魂がおかされていくような音が恐ろしいが、それに敢然と立ち向かう崇高な生き方にこそ心動かされる。

第2楽章は、美しかった生への回顧であり、叶わぬ夢である。

第3楽章は、人生は所詮一場の夢に過ぎないという諦観から生まれた音の祭りだ。

そして、第4楽章こそは、まさに告別の歌だ。生きることへの執念、魂の慟哭が、途轍もない音響体となって、聴く者に襲いかかる。

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