ワイセンベルク
2020年06月13日
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ラテン系作曲家の作品でコンドラシンが殆んど唯一頻繁に採り上げたのがラヴェルであった。
このディスクには1971年1月4日の『スペイン奇想曲』、1980年11月30日の『ラ・ヴァルス』、1979年3月11日の左手のためのピアノ協奏曲、1978年6月17日のソロ・ヴァイオリンとオーケストラのための『ツィガーヌ』及びガーシュウィンの『パリのアメリカ人』が収録されている。
ラヴェルでは流石に滾るようなラテン気質の表出というわけにはいかないが、どちらかと言えばクールながら芯のある演奏で、新古典主義らしい形式感の中に綾模様のように織り込まれたオーケストレーションの妙味を聴かせている。
ここでのソリスト、ピアノのダニエル・ワイエンベルクとヴァイオリンのヘルマン・クレバースはどちらもオランダ人で、前者はフランス物に造詣が深いだけあってラヴェルの音楽的センス、粋なジャズのリズムや陰翳、またスペクタクルな効果を熟知した演奏が冴えている。
一方『ツィガーヌ』では著名なソリストを外部から招聘するのではなく、コンセルトヘボウの当時のコンサート・マスター、ヘルマン・クレバースを起用している。
自前のメンバーで総てのプログラムをカバーできるオーケストラの水準の高さが示されているが、この難曲を鮮やかなボウイングと豊かな表現力で弾き切るクレバースの実力も聴きどころだ。
彼は同メンバーによる唯一のセッション『シェエラザード』でも印象的なソロを披露している。
最後の『パリのアメリカ人』は言ってみればアンコール用の小品で、彼らにとっては際物だ。
コンセルトヘボウ管弦楽団はこうした砕けたレパートリーではやや乗り切れない生真面目さが常にあって、もう少し羽目を外す遊び心が欲しいところだ。
コンドラシンの纏め方もかなりスコアに律儀で、中間部のカンタービレは良く歌わせている。
例えばクラクションの音などは突出しないように抑制され、あくまでもオーケストラのサウンドの一部として扱われている。
このあたりは意見が分かれるところかも知れない。
音質はいずれも良好なステレオ・ライヴで、会場になったコンセルトヘボウの雰囲気を良く伝えている。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2017年02月01日
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アレクシス・ワイセンベルク演奏集のセット物はEMIに続いて昨年ユニヴァーサル・イタリーからグラモフォン盤がリリースされたばかりだが、こちらはRCAのコンプリート・レコーディング集で7枚組のバジェット・ボックスになり、彼のそれぞれのメーカーへの正規録音が出揃った感がある。
ワイセンベルクは1929年にブルガリアの首都ソフィアに生まれ、同地の音楽院で教育を受けた後、アメリカに渡り、1946年にはジュリアード音楽院で学んだ。
1947年のリーヴェントリット国際コンクールで優勝し、その後、活発な演奏活動を開始したが、考えるところあって、1956年から10年間演奏活動を中断、その時期は自省と自己研鑽にあてていたという。
やがて、1966年パリでの再デビューが成功し、大いなる話題となって、それ以降は、コンサートに、レコーディングにと、冴えたテクニックと、洗練された音楽性を兼ね備えたピアニストとして第一線で活動を続けた。
CD1は唯一彼が演奏活動から一度退く前の1949年の録音で、勿論モノラルだがこの時期の彼のロシア物へのフレッシュな解釈が聴ける貴重な1枚だ。
その他はカムバック以降の総てが1960年代後半のステレオ録音で、リマスタリングの効果もあって音質は鮮明で、フォルテがやや再現し切れない箇所があるにせよ概ね良好だ。
1枚ごとに初出時LPの曲目をそのままカップリングしているので、枚数の割には収録時間が少ないがオリジナル・ジャケットがプリントされたコレクション仕様になっている。
ライナー・ノーツは35ページあり、前半にニューヨークの作曲家ジェド・ディストラーによるスナップ写真入りワイセンベルクのキャリアが英、独、仏語で掲載され、後半では総てのジャケット写真付トラックリストが参照できる。
7枚のうち2枚がオーケストラとの協演になる協奏曲集で、CD3はジョルジュ・プレートル指揮、シカゴ交響楽団によるラフマニノフのピアノ協奏曲第3番、CD6がユージン・オーマンディ指揮、フィラデルフィア管弦楽団とのバルトークの第2番で、前者が1967年、後者が69年の録音だが、ラフマニノフは第1楽章から速めのテンポでワイセンベルクの研ぎ澄まされた感性とピアニスティックなテクニックがひときわ冴えた演奏だ。
プレートルの指揮も気が利いていてシカゴ響から鮮烈なサウンドとスケールの大きいロマンティシズムを引き出している。
一方バルトークではオーマンディ&フィラデルフィア管のサポートによる、大地の叫びとも言える野趣に溢れた力強いソロが圧巻だ。
ソロ・ピースでは個性的なショパンやドビュッシーだけでなく、機知に富んだ疾駆するハイドンのソナタ集も魅力だし、彼自身の迸る情熱と拭い去ることのできない憂愁をぶつけたラフマニノフの前奏曲集も感動的だ。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2016年05月01日
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ユニヴァーサル・イタリーの企画によるアレクシス・ワイセンベルクのドイツ・グラモフォン音源4枚分をまとめたもので、彼の50代の円熟期を代表する演奏が揃っている。
ワイセンベルクの主だったレパートリーの録音はEMIやエラートに行ったもので、ワーナーのイコン・シリーズからは既に10枚組のボックス・セットがリリースされているが、彼の円熟期の芸術性が堪能できる音質に恵まれたグラモフォン盤の廉価盤化は歓迎したい。
尚収録曲目に関しては幸いこのアマゾンのページのイメージ欄に写真がロードアップされているので参考にして頂きたいが、17ページほどのライナー・ノーツにはワイセンベルクのキャリアとそれぞれの曲についての解説が英、伊語で掲載されている。
ワイセンベルクにとって重要な作曲家の1人がバッハで、このセットでの2曲のパルティータと『イタリア協奏曲』は彼の最も充実した時期の演奏だけに興味深い。
楽理的にバッハらしい演奏かというと決してそうではないが、パルティータはバッハの組曲の中では最も後期の作品集で、それまでのオーソドックスな形態に縛られない自由な着想で書かれているために、ワイセンベルクの奔放とも言える音楽性がかえって多彩な魅力を引き出している。
一方でスカルラッティの15曲のソナタではダマスク織に真珠が零れ落ちるような贅沢な音色の美しさと彼の才気煥発な表現力が示されていてこちらも聴き逃せない。
ドビュッシーの小品では驚くほどのデリカシーと機知に溢れた構想が感じられるが、中でも『喜びの島』では豪快なピアニズムを聴かせ、『レントより遅く』ではワイセンベルクの愛したジャズからの影響も窺わせている。
最後のラフマニノフの2曲のソナタでは超一流の名人芸を披露しているだけでなく、作曲家の拭い去り得ないメランコリーの表出も彼の円熟期の面目躍如たる演奏で、ワイセンベルクがラフマニノフにも引けを取らないロマンティストだったことを証明している。
一廉の芸術家の中には望むと望まざるとに拘らず一度その活動を休止して、様々な意味での充電期間を設けるケースがままある。
ピアニストでもホロヴィッツ、ルービンシュタイン、ポリーニ、ガヴリーロフ、ポゴレリチなどそれぞれ期間の長さとその時期や理由は異なっているが一時期完全に演奏活動から離れている。
ワイセンベルクも例外ではなく27歳の頃からおよそ10年に亘って楽壇から姿を消し、壮年期になってパリで返り咲いている。
ワイセンベルクはブルガリアのソフィア出身だがユダヤ人迫害から逃れてニューヨークのジュリアード音楽院で学んだ、極めてインターナショナルなプロフィールと感性を持った異色のピアニストであった。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2015年08月21日
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本盤には、ワイセンベルクのピアノ、カラヤンによる蜜月時代の名演集が収められている。
演奏はいかにも全盛期のカラヤン&ベルリン・フィル(チャイコフスキーはパリ管弦楽団)ならではの圧倒的なものである。
一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブル、唸るような低弦の重量感溢れる力強さ、ブリリアントなブラスセクションの響き、桁外れのテクニックで美音を振りまく木管楽器群、そして雷鳴のように轟きわたるティンパニなど、圧倒的な音のドラマが構築されている。
そして、カラヤンは、これに流麗なレガートを施すことによって、まさに豪華絢爛にして豪奢な演奏を展開しているところであり、少なくとも、オーケストラ演奏としては、本盤に収められたいずれの楽曲の演奏史上でも最も重厚かつ華麗な演奏と言えるのではないだろうか。
他方、ワイセンベルクのピアノ演奏は、カラヤン&ベルリン・フィルの中の1つの楽器と化していたと言えるところであり、その意味では、カラヤン&ベルリン・フィルによる圧倒的な音のドラマの構築の最も忠実な奉仕者であったとさえ言えるが、よくよく耳を傾けてみると、ワイセンベルクの強靭にして繊細なピアノタッチが、実はカラヤン&ベルリン・フィルの忠実な僕ではなく、むしろ十二分にその個性を発揮していることがわかる。
カラヤンは、今を時めくピアニストとともにチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を録音する傾向があるようだ。
リヒテル、ワイセンベルク、ベルマン、そして最晩年のキーシンの4度に渡って同曲を録音しているが、そのいずれもが、これから世に羽ばたこうとしていた偉大なピアニストばかりであるという点においては共通している。
実に充実したスケールを備えた演奏で、パリ管弦楽団の抒情的な美しさを持つ魅力を生かしたカラヤンの演奏に対し、ワイセンベルクも、カラヤン設定のテンポと表現の中で、冴えた技によって明確な演奏をきかせてくれる。
美しい憂愁をたゆたうように歌いつぐ第2楽章は特に印象的で、デリケートなピアノにも注目される。
もちろん、カラヤン&パリ管弦楽団の演奏は凄いものであり、ベルリン・フィルとの間で流麗なレガートを駆使して豪壮華麗な演奏の数々を成し遂げていたカラヤンにしてみれば、パリ管弦楽団との本演奏では若干の戸惑い(特に、パリ管弦楽団において)なども見られないわけではないが、そこはカラヤンの圧倒的な統率力によって、さすがにベルリン・フィルとの演奏のレベルに達しているとは言えないものの、十分に優れた名演奏を行っていると言えるところだ。
ラフマニノフは、ワイセンベルクとカラヤンが残したレコーディングの中でもトップを争う素晴らしい出来栄え。
まずはカラヤン&ベルリン・フィルによる同曲史上最高と言いたくなる壮麗な伴奏には驚くほかはなく、その圧倒的な勢力に対峙するワイセンベルクの一種「クリスタル・ビューティー」とでも形容すべきピアニズムが、濃厚かつ華麗な抒情美の世界を展開する。
もっとも、流麗なレガートを駆使して豪壮華麗な演奏の数々を成し遂げていたカラヤンの芸風からすれば、ラフマニノフの楽曲との相性は抜群であると考えられるところであるが、カラヤンは意外にもラフマニノフの楽曲を殆ど録音していない。
カラヤンの伝記を紐解くと、交響曲第2番の録音も計画されていたようではあるが、結局は実現しなかったところだ。
したがって、カラヤンによるラフマニノフの楽曲の録音は、本盤に収められたピアノ協奏曲第2番のみということになり、その意味でも、本盤の演奏は極めて貴重なものと言えるだろう。
ベートーヴェンは、ワイセンベルクならではの研ぎ澄まされた技量と抒情を味わうことができる名演だ。
しかしここでもゴージャスなカラヤンサウンドが全体を支配していて、ピアノ協奏曲ではなく、あたかも一大交響曲を指揮しているような圧倒的な迫力を誇っている。
その重戦車の進軍するかのような重量感においては、古今東西のあらゆる演奏をわきに追いやるような圧巻のド迫力を誇っている。
このような演奏では、ワイセンベルクのピアノは単なる脇役に過ぎず、要は、いわゆるピアノ協奏曲ではなく、ピアノ付きの交響曲になっている。
それ故に、カラヤンのファンを自認する高名な評論家でさえ、「仲が良い者どうしの気ままな演奏」(リチャード・オズボーン氏)などとの酷評を下しているほどだ。
しかしながら、筆者は、そこまでは不寛容ではなく、本演奏は、やはり全盛期のカラヤン、そしてベルリン・フィルでないと成し得ないような異色の名演であると高く評価したい。
いわゆるピアノ協奏曲に相応しい演奏とは言えないかもしれないが、少なくとも、ベートーヴェンの楽曲の演奏に相応しい力強さと重厚さを兼ね備えていると思われるからである。
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2015年04月23日
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ワイセンベルクが1966年に復帰して約10年後、彼とカラヤンの絆が実を結んだ全盛期の頃の演奏。
リハーサルなしで録り上げた第4番をはじめ、すべての楽章、旋律、どれもが聴き応え充分な内容の1枚。
しかしながら、そもそもカラヤンが、協奏曲の指揮者として果たして模範的であったかどうかは議論の余地があるところだ。
カラヤンは、才能ある気鋭の若手奏者にいち早く着目して、何某かの協奏曲を録音するという試みを何度も行っているが、ピアニストで言えばワイセンベルク、ヴァイオリニストで言えばフェラスやムター以外には、その関係が長続きしたことは殆どなかったと言えるのではないだろうか。
ソリストを引き立てるというよりは、ソリストを自分流に教育しようという姿勢があったとも考えられるところであり、遺された協奏曲録音の殆どは、ソリストが目立つのではなく、全体にカラヤン色の濃い演奏になっているとさえ感じられる。
そのような帝王に敢えて逆らおうとしたポゴレリチが練習の際に衝突し、コンサートを前にキャンセルされたのは有名な話である。
本盤に収められた演奏も、どちらかと言えばカラヤン主導による演奏と言える。
カラヤンにとっては、当時蜜月関係のピアニストであったワイセンベルクをあたたかく包み込むような姿勢で演奏に臨んだのかもしれない。
特に、オーケストラのみの箇所においては、例によってカラヤンサウンドが満載。
鉄壁のアンサンブルを駆使しつつ、朗々と響きわたる金管楽器の咆哮や分厚い弦楽合奏、そしてティンパニの重量感溢れる轟きなど、これら両曲にはいささか重厚に過ぎるきらいもないわけではないが、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマの構築に成功している。
カラヤンの代名詞でもある流麗なレガートも好調であり、音楽が自然体で滔々と流れていくのも素晴らしい。
ワイセンベルクのピアノも明朗で透明感溢れる美しい音色を出しており、詩情の豊かさにおいてもいささかの不足はなく、とりわけ両曲のカデンツァは秀逸な出来栄えであるが、オーケストラが鳴る箇所においては、どうしてもカラヤンペースになっているのは致し方がないと言えるところである。
それ故ワイセンベルクによるピアノ演奏は、カラヤン&ベルリン・フィルの中の1つの楽器と化しており、カラヤン&ベルリン・フィルによる圧倒的な音のドラマの構築の最も忠実な奉仕者であると言えるところであり、このような演奏では、ワイセンベルクのピアノは単なる脇役に過ぎない。
要は、いわゆるピアノ協奏曲ではなく、ピアノ付きの交響曲になっていると言える。
それ故に、カラヤンのファンを自認する高名な評論家でさえ、「仲が良い者どうしの気ままな演奏」(リチャード・オズボーン氏)などとの酷評を下しているほどだ。
しかしながら、筆者は、そこまでは不寛容ではなく、本演奏は、やはり全盛期のカラヤン、そしてベルリン・フィルでないと成し得ないような異色の名演であると高く評価したい。
たとえば、第3番冒頭の、ピアノが入ってくるところの美しさなど絶品で、オーケストラもピアノもこんなに美しい演奏は、そうそうない。
いわゆるピアノ協奏曲に相応しい演奏とは言えないかもしれないが、少なくとも、ベートーヴェンの楽曲の演奏に相応しい力強さと重厚さを兼ね備えていると思われるからだ。
筆者としては本演奏を両曲のあらゆる演奏の中でも最もスケールが雄渾で、壮麗な名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。
特に、ベートーヴェンの音楽に“精神”でなく“美”を求める人には、お薦めの1枚である。
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2015年04月19日
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巨匠カラヤンと技巧派ワイセンベルク蜜月時代の遺産のひとつが復刻された。
カラヤン初にして唯一のベートーヴェンのピアノ協奏曲全集録音として大きな注目を集めた作品でもある。
しかしながら、そもそもカラヤンが、協奏曲の指揮者として果たして模範的であったかどうかは議論の余地があるところだ。
カラヤンは、才能ある気鋭の若手奏者にいち早く着目して、何某かの協奏曲を録音するという試みを何度も行っているが、ピアニストで言えばワイセンベルク、ヴァイオリニストで言えばフェラスやムター以外には、その関係が長続きしたことは殆どなかったと言えるのではないだろうか。
ソリストを引き立てるというよりは、ソリストを自分流に教育しようという姿勢があったとも考えられるところであり、遺された協奏曲録音の殆どは、ソリストが目立つのではなく、全体にカラヤン色の濃い演奏になっているとさえ感じられる。
そのような帝王に敢えて逆らおうとしたポゴレリチが練習の際に衝突し、コンサートを前にキャンセルされたのは有名な話である。
本盤に収められた演奏も、どちらかと言えばカラヤン主導による演奏と言える。
カラヤンにとっては、当時蜜月関係のピアニストであったワイセンベルクをあたたかく包み込むような姿勢で演奏に臨んだのかもしれない。
特に、オーケストラのみの箇所においては、例によってカラヤンサウンドが満載。
鉄壁のアンサンブルを駆使しつつ、朗々と響きわたる金管楽器の咆哮や分厚い弦楽合奏、そしてティンパニの重量感溢れる轟きなど、これら両曲にはいささか重厚に過ぎるきらいもないわけではないが、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマの構築に成功している。
カラヤンの代名詞でもある流麗なレガートも好調であり、音楽が自然体で滔々と流れていくのも素晴らしい。
ワイセンベルクのピアノも明朗で透明感溢れる美しい音色を出しており、詩情の豊かさにおいてもいささかの不足はなく、とりわけ両曲のカデンツァは秀逸な出来栄えであるが、オーケストラが鳴る箇所においては、どうしてもカラヤンペースになっているのは致し方がないと言えるところである。
それ故ワイセンベルクによるピアノ演奏は、カラヤン&ベルリン・フィルの中の1つの楽器と化しており、カラヤン&ベルリン・フィルによる圧倒的な音のドラマの構築の最も忠実な奉仕者であると言えるところであり、このような演奏では、ワイセンベルクのピアノは単なる脇役に過ぎない。
要は、いわゆるピアノ協奏曲ではなく、ピアノ付きの交響曲になっていると言える。
それ故に、カラヤンのファンを自認する高名な評論家でさえ、「仲が良い者どうしの気ままな演奏」(リチャード・オズボーン氏)などとの酷評を下しているほどだ。
しかしながら、筆者は、そこまでは不寛容ではなく、本演奏は、やはり全盛期のカラヤン、そしてベルリン・フィルでないと成し得ないような異色の名演であると高く評価したい。
初咲きの花のように初々しい第1番、精緻なカラヤンの指揮ぶりに対し大胆に振る舞うワイセンベルクのピアノが楽しい第2番、ともにマジックとも呼ばれた一時代を画したサウンドに一体化されたピアノ・ソロと認識していたものが、あらためて聴くとソロを引き立てる見事な伴奏ぶりに驚く。
いわゆるピアノ協奏曲に相応しい演奏とは言えないかもしれないが、少なくとも、ベートーヴェンの楽曲の演奏に相応しい力強さと重厚さを兼ね備えていると思われるからだ。
筆者としては本演奏を両曲のあらゆる演奏の中でも最もスケールが雄渾で、壮麗な名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。
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2015年01月06日
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本盤に収められたラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、そしてフランクのピアノと管弦楽のための交響的変奏曲の演奏についてであるが、かつてはワイセンベルクの個性が、カラヤン&ベルリン・フィルによる豪壮華麗な演奏によって殆ど感じることができない演奏であると酷評されてきたところであるが、先般のSACD化によって、その印象が一掃されることになった意義は極めて大きいと言わざるを得ない(そして、今般のシングルレイヤーによるSACD化によって、その印象はさらに決定的に激変した)。
もちろん、カラヤン&ベルリン・フィルの演奏は凄いものであり、SACD化によって更にその凄みを増したとさえ言える。
もっとも、流麗なレガートを駆使して豪壮華麗な演奏の数々を成し遂げていたカラヤンの芸風からすれば、ラフマニノフの楽曲との相性は抜群であると考えられるところであるが、カラヤンは意外にもラフマニノフの楽曲を殆ど録音していない。
カラヤンの伝記を紐解くと、交響曲第2番の録音も計画されていたようではあるが、結局は実現しなかったところだ。
したがって、カラヤンによるラフマニノフの楽曲の録音は、本盤に収められたピアノ協奏曲第2番のみということになり、その意味でも、本盤の演奏は極めて貴重なものと言えるだろう。
しかしながら、前述のように、演奏はいかにも全盛期のカラヤン&ベルリン・フィルならではの圧倒的なものである。
一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブル、唸るような低弦の重量感溢れる力強さ、ブリリアントなブラスセクションの響き、桁外れのテクニックで美音を振りまく木管楽器群、そして雷鳴のように轟きわたるティンパニなど、圧倒的な音のドラマが構築されている。
そして、カラヤンは、これに流麗なレガートを施すことによって、まさに豪華絢爛にして豪奢な演奏を展開しているところであり、少なくとも、オーケストラ演奏としては、同曲演奏史上でも最も重厚かつ華麗な演奏と言えるのではないだろうか。
他方、ワイセンベルクのピアノ演奏は、従来CD盤やHQCD盤で聴く限りにおいては、カラヤン&ベルリン・フィルの中の1つの楽器と化していたと言えるところであり、その意味では、カラヤン&ベルリン・フィルによる圧倒的な音のドラマの構築の最も忠実な奉仕者であったとさえ言える。
しかしながら、SACD化により、ワイセンベルクの強靭にして繊細なピアノタッチが、オーケストラと見事に分離して聴こえることになったことによって、実はワイセンベルクが、カラヤン&ベルリン・フィルの忠実な僕ではなく、むしろ十二分にその個性を発揮していることが判明した意義は極めて大きいと言わざるを得ない。
いずれにしても、筆者としては、同曲のベストワンの演奏と評価するのにはいささか躊躇せざるを得ないが、全盛期のカラヤン&ベルリン・フィル、そしてワイセンベルクによる演奏の凄さ、素晴らしさ、そして美しさを十二分に味わうことが可能な素晴らしい名演として高く評価したいと考える。
併録のフランクのピアノと管弦楽のための交響的変奏曲は、ワイセンベルクのピアノ演奏の個性がラフマニノフよりも更に発揮されているとも言えるところであり、カラヤン&ベルリン・フィルによる名演奏とも相俟って、同曲の美しさを存分に味わわせてくれるという意味において、さらに素晴らしい名演と高く評価したい。
音質は、1972年のスタジオ録音であり、従来CD盤では今一つ冴えない音質であったが、数年前に発売されたHQCD盤は、若干ではあるが音質が鮮明になるとともに、音場が幅広くなったところである。
しかしながら、先般、ついに待望のSACD化、そして更に今般シングルレイヤーによるSACD化が行われることによって、見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったところだ。
音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。
とりわけ、前述のように、ワイセンベルクのピアノ演奏とカラヤン&ベルリン・フィルの演奏が明瞭に分離して聴こえるのは殆ど驚異的ですらある。
いずれにしても、カラヤン&ベルリン・フィル、そしてワイセンベルクによる素晴らしい名演を、現在望みうる超高音質SACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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2013年10月02日
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カラヤンは、今を時めくピアニストとともにチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を録音する傾向があるようだ。
リヒテル、ワイセンベルク、ベルマン、そして最晩年のキーシンの4度に渡って同曲を録音しているが、そのいずれもが、これから世に羽ばたこうとしていた偉大なピアニストばかりであるという点においては共通している。
ただ、この中で、最も低い評価しか与えられていない演奏こそは、本盤に収められているワイセンベルクとの演奏のようである。
もっとも、こうした評価は、筆者としてはこれまでの音質が今一つの通常CD盤によるものではないかと考えているところだ。
というのも、今般のSACD盤によって、桁外れの音質改善が図られたからである。
これまでの従来CD盤における本演奏の酷評の要因は、ワイセンベルクの個性が、カラヤン&パリ管弦楽団による豪壮華麗な演奏によって殆ど感じることができないとされてきたことにあるが、今般のSACD化によって、その印象が一掃されることになった意義は極めて大きいと言わざるを得ない。
もちろん、カラヤン&パリ管弦楽団の演奏は凄いものであり、今般のSACD化によってさらにその凄みを増したとさえ言える。
もっとも、ベルリン・フィルとの間で流麗なレガートを駆使して豪壮華麗な演奏の数々を成し遂げていたカラヤンにしてみれば、パリ管弦楽団との本演奏では若干の戸惑い(特に、パリ管弦楽団において)なども見られないわけではないが、そこはカラヤンの圧倒的な統率力によって、さすがにベルリン・フィルとの演奏のレベルに達しているとは言えないものの、十分に優れた名演奏を行っていると言えるところだ。
そして、ワイセンベルクのピアノ演奏は、従来CD盤やHQCD盤で聴く限りにおいては、カラヤン&パリ管弦楽団の中の一つの楽器と化していたと言えるところであり、その意味では、カラヤン&パリ管弦楽団による豪壮華麗な演奏の最も忠実な奉仕者であったとさえ言える。
しかしながら、今般のSACD化により、ワイセンベルクの強靭にして繊細なピアノタッチが、オーケストラと見事に分離して聴こえることになったことによって、実はワイセンベルクが、カラヤン&パリ管弦楽団の忠実な僕ではなく、むしろ十二分にその個性を発揮していることが判明した意義は極めて大きいと言わざるを得ない。
いずれにしても、筆者としては、同曲のベストワンの演奏と評価するのにはいささか躊躇せざるを得ないが、全盛期のカラヤン、カラヤンに必死に喰らいついていこうとするパリ管弦楽団、そしてワイセンベルクによる演奏の凄さ、素晴らしさ、そして美しさを十二分に味わうことが可能な素晴らしい名演として高く評価したい。
音質は、1970年のスタジオ録音であり、前述のように従来CD盤では今一つ冴えない音質であったが、数年前に発売されたHQCD盤は、若干ではあるが音質が鮮明になるとともに、音場が幅広くなったところである。
しかしながら、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって、見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった。
音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。
とりわけ、前述のように、ワイセンベルクのピアノ演奏とカラヤン&パリ管弦楽団の演奏が明瞭に分離して聴こえるのは殆ど驚異的ですらある。
いずれにしても、カラヤン&パリ管弦楽団、そしてワイセンベルクによる素晴らしい名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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2013年02月27日
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ピアノ協奏曲第5番「皇帝」の冒頭からして、まぎれもない全盛期のカラヤンサウンドがさく裂する。
こうしたゴージャスなカラヤンサウンドは、冒頭のみならず全曲を支配していて、ピアノ協奏曲ではなく、あたかも一大交響曲を指揮しているような圧倒的な迫力を誇っている。
その重戦車の進軍するかのような重量感においては、古今東西の同曲のあらゆる演奏をわきに追いやるような圧巻のド迫力を誇っていると言える。
このような演奏では、ワイセンベルクのピアノは単なる脇役に過ぎない。
カラヤンとベルリン・フィルによる豪華なバックに支えられて、ワイセンベルクが、カラヤンの意図に従って独奏を展開している。
いってみれば名だたる技巧家ワイセンベルクがおとなしい演奏をしているといったところ。
要は、いわゆるピアノ協奏曲ではなく、ピアノ付きの交響曲になっていると言える。
それ故に、カラヤンのファンを自認する高名な評論家でさえ、「仲が良い者どうしの気ままな演奏」(リチャード・オズボーン氏)などとの酷評を下しているほどだ。
しかしながら、筆者は、そこまでは不寛容ではなく、本演奏は、やはり全盛期のカラヤン、そしてベルリン・フィルでないと成し得ないような異色の名演であると高く評価したい。
いわゆるピアノ協奏曲に相応しい演奏とは言えないかもしれないが、少なくとも、ベートーヴェンの楽曲の演奏に相応しい力強さと重厚さを兼ね備えていると思われるからだ。
併録の小品は、いずれも、ワイセンベルクならではの研ぎ澄まされた技量と抒情を味わうことができる名演揃いだ。
なかでも「エリーゼのために」と「32の変奏曲」が出色で、ワイセンベルクの長所が万全に発揮されている。
HQCD化によって、音質がかなり鮮明になっているのは素晴らしい。
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2013年02月16日
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ブルガリア出身のフランスのピアニスト、ワイセンベルク40歳の頃の録音。
LPのときは独自の曲順となっていたが、ここでは21曲の夜想曲から、13曲を抜きだして作品番号順に収めている。
若き日のワイセンベルクによるショパンのノクターン集であるが、いかにもワイセンベルクらしい明晰でなおかつ耽美的なアプローチを示している。
正確で極めてオーソドックスな解釈であり、過剰な表情づけを排した端正な演奏と言える。
もちろん、例えば第7番など、力強い打鍵も時折垣間見せはするが、全体的に見れば、重厚さとは殆ど無縁の柔和で繊細なイメージが支配していると言える。
したがって、一部の音楽評論家によっては、女々しいとか不健康な官能美などと言った、ピアニストとしては決して有り難くない酷評をされているのも、あながち言い過ぎではないものと思われる。
確かに、ノクターンは、ショパンのあまたのピアノ曲の中でも優美かつロマンティックな要素を持った楽曲ではあるが、それをそのまま等身大に演奏してしまうと、単なる陳腐なサロン音楽と化してしまう危険性がある。
ショパンの音楽に、こうしたサロン的な要素があることを否定するものでは全くないが、むしろ、ショパンは、仮にノクターンのような小曲であったとしても、より高踏的な芸術作品を志向して作曲されたものと考えるべきではなかろうか。
そのような観点からすれば、やはりワイセンベルクのような軟弱とも言えるアプローチにはいささか疑問を感じざるを得ない。
いずれにしても、ノクターンというショパンの芸術作品に内包するエッセンスである詩的な情緒や情感を我々聴き手に伝えるには到底至っておらず、うわべだけを取り繕ったなよなよとした浅薄な演奏に陥ってしまっているのは、はなはだ残念な限りだ。
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2010年08月16日
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カラヤンはチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を何度も録音しているが、どれを聴いてもそれぞれのピアニストの特徴を生かしつつ、最終的には彼の音楽の中に納められている。
カラヤンの器の大きさを改めて知ることになるが、このワイセンベルク盤はこの曲のピアノ協奏曲としての一側面である名技性や華麗さをたっぷりと聴かせる方向にあるようで、オケもここではベルリン・フィルではなく当時カラヤンが音楽監督をしていたパリ管を使い、このオケの鮮やかな色彩感なども加わって、まさに絢爛豪華な演奏を展開している。
外的効果云々が取り沙汰される演奏かもしれないが、元来この曲の名技性が作曲者の若い情熱的な部分からの発露である限り、この演奏も充分に納得のいくものだ。
ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の演奏は、ワイセンベルク、カラヤン共に絶頂期にあった頃の録音で、火花を散らすような凄まじい演奏である。
ワイセンベルクは鋼鉄のようなタッチによって豪快でダイナミックに、打鍵楽器としてのピアノ機能をフルに示し、カラヤンとベルリン・フィルの奔流のようなスケールの大きいオケの表現と対等に渡り合っている。
カラヤンはこの曲からシンフォニックで幅広い、そして奥深い表現を聴かせ、単なるオケのバックとはしていない。
第2楽章ではベルリン・フィルの瑞々しい木管や弦によって耽美的な境地にまで到達している。
さらには、ワイセンベルクがともすれば無機的になる何気ないパッセージも、カラヤンが音楽的に強くサポートしている部分も多い。
ベートーヴェンは、カラヤンとベルリン・フィルの豪華なバックに支えられて、ワイセンベルクがカラヤンの意図に従って独奏を展開している。
いってみれば名だたる技巧家ワイセンベルクが大人しい演奏をしているといったところ。
ワイセンベルクのピアノは、抹消神経をくすぐるような不健康な官能美を持ち、特に《皇帝》は、彼のファンには受けるだろう。
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2008年02月12日
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ワイセンベルクらしからぬコクのあるラフマニノフで、ユニークな美学に支えられたハード・ボイルドでありながら、ロマンティックな快演となっている。
ワイセンベルクはありあまるテクニックを駆使し、わずらわしいほど手練手管のかぎりを尽くして雰囲気満点に弾いている。
強弱と音色変化の幅の広さは驚くほどであり、なだめたり、すかしたりといった自在なエスプレッシーヴォを見せる。
バーンスタインの指揮も同様だ。
思わせぶりな甘いセンチメンタリズムとスケールの大きい迫力の対比がユニークな演奏である。
ワイセンベルクは少年時代からラフマニノフのピアノ協奏曲第3番の演奏を夢見てピアニストになったと伝えられるが、彼が残したこの協奏曲の録音は、万感の思いを胸に秘めながらそれに溺れることなく、スマートに作品を語り継いでいった演奏である。
ダイナミックで雄渾な快演と言えるスケールの大きい演奏であり、壮麗な彫刻を想わせるようなその彫りの深い表現が圧倒的なアピールを放っている。
第1楽章では遅いテンポがムードと情感を最高に生かし、クリアーなピアニズムを駆使しながら、曲の粘りや哀感を存分に描きつくしている。
第2楽章のあふれんばかりの感情と燃え立つ心、フィナーレのリズム感、いずれもこれぞラフマニノフといいたいほどだ。
全楽章が抜き差しならぬ人間感情を伝え、彼の外面性がすべてプラスに作用している。
ワイセンベルクは好調を維持していた時期は非常に短かったが、その頃の彼の演奏はなかなか言葉で表現しにくいまったく独自の魅力をもっていたことも確かだろう。
一見クールに見受けられる無表情な語り口の中に、ナイーヴでロマンティックな自己の内面をほのかに覗かせているのだ。
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