書物

2022年08月22日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



プルーストの超大作の三巻目は(私)のジルベルトへの愛の始まりから、純愛の中に昇華される終焉までが書かれている。

巻末の訳者あとがきで吉川一義氏自身が指摘しているように、この章を読み通せるかどうかがこの作品全体を読破できるかの鍵になっているようだ。

確かに四巻目からは遥かに読み易くなる印象がある。

何故ならこの章は健康的で活発な女の子ジルベルトへの思いが、ひたすら(私)の中で分析され、思い悩み、反芻されるという繰り返しが長々と続くからなのだ。

物語にドラマティックな展開はなく、むしろ淡々とした口調で現実と思い出が交錯するというプルースト特有のスタイルに付き合うにはある程度の根気がいる。

まして当時のフランスの富裕層や社交界にそれほど興味を持てない人にとっては、彼のアイロニックな視点や人々に対する細かい観察の価値を見出すことが難しいかもしれない。

しかし文章のいたるところに著者自身の哲学が記されていて、例えば「そもそも人生において、また人生の明暗が分かれる状況において、恋愛にからんで生じるどんな出来事であろうと、その一番いい対処法は理解しようとしないことである」もそのひとつだ。

また彼が愛したベートーヴェンの弦楽四重奏曲に関して「天才の作品が直ちに賞賛されることが少ないのは、書いた人が非凡で、似たような人がほとんど存在しないからである。そこで天才の作品自体が、その天分を理解できる稀有な精神の種をまき、そうした精神を育て増やしていくほかはない」とも言っている。

そして「天才的作品を生み出すのは、この上なく優雅な環境で暮らし、もっとも華々しい話術やきわめて広範な教養を身につけた人たちではなく、自分のためにのみ生きるのを突然やめて、自分の人格に鏡のような働きをさせる能力を獲得した人たちである」と続く。

このあたりはこの章を読むひとつの醍醐味だろう。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 12:36コメント(0) 

2022年08月21日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



中世庶民の社会史に精通していた阿部氏が、本書の前半で賤民差別の実態とその要因を、社会史的見地からの執拗かつ鋭い洞察で解き明かしている。

中世時代の差別意識は都市の形成に深く関わっていることが指摘されている。

つまり同じ地方の同程度のランクの家系の出身であっても、先に都市に入って既得権益を獲得したグループはそれを温存するために後に続こうとするグループを排除しようとする。

そして排除されたほうが賤民としての扱いを受けるわけだが、彼ら特有の職業というのは後からこじつけられたものが多く、著者は職業について当初から貴賤が存在していたわけではないことを説いている。

ギルドやツンフトなどの相互扶助組合は、一方で余所者を排除する機能を組織的に発揮していたのも事実だろう。

本書でも引用されているティル・オイレンシュピーゲルの悪戯話は、不当に扱われていた遍歴職人や賤民達の、閉鎖的社会や権力を笠に着た人々に一泡吹かせる痛烈な風刺と抵抗に他ならない。

ティルの武勇談に頻繁に登場するスカトロジックな戦法は、彼の権威に対する価値観の象徴だ。

中半で興味深いのは「カテドラルの世界」の項で、贈与慣行と売買の価値観を歴史的に考察している。

古代ゲルマンの長は、臣下に獲得した財宝を惜しみなく再分配し、その見返りとして長たる者の権威や兵力を維持できたが、通商の発展や貨幣の流通と共にユダヤ人に代表される商人達による富の蓄積が始まり古来からの再分配の原則に軋轢が生じる。

ここに巧みに取り入ったのがキリスト教会で、有力者からの寄進を受けることによって教会側は彼らの墓所と来世を保証し、現世の罪の償いを免除するという精神的再分配の図式をひねり出した。

教会に莫大な寄進や喜捨が集まる時代と、それを施した人の墓所として大聖堂が建立される時期が一致しているのも納得がいく。

阿部氏の考察はヨーロッパの中でもいきおいドイツを中心とする北側の社会に多くの例を採っているが、それは彼の専門分野というだけでなく、概して気候風土の厳しい条件の下で生活を強いられた北方社会の人々に、より明確な権利の主張や差別の典型が炙り出されてくるように思える。

後半部で著者はあえて中世を離れて日本の大学のあり方、学問への取り組み方について疑問を投げかけている。

日本において大学はエリート養成施設として国家によって設立され、将来の地位や経済的な安定を約束した。

逆に言えば国家に忠実な人を育成する場であり、およそ学問自体を探求する喜びからはほど遠い存在だった。

一方ヨーロッパで市民によって形成された数多くの協会は、文学や音楽、歴史などをお互いに学び合う階級差別のないサークルで、資格や将来の収入には無縁だったが誰にでも入会が許され、何よりも純粋に知的欲求を満たすための場が作られた。

こうした自発的なカルチャー・センターが現在では大学と並ぶ高い専門知識を持った権威ある協会になった例も少なくないようだ。

阿部氏は「学問することが有利な就職や社会的上昇の前提となっているところでは、真の喜びにあふれた知的探求は望むべくもない」と結んでいる。

また近代の歴史研究が科学的な分析によって行われるようになって以来、庶民の精神史が置き去りにされてしまったことも指摘している。

書かれた物に頼っていなかった時代の歴史を記述しようとする時、下層の人々の精神史は無知蒙昧なものとして篩い落とされてしまうからだ。

これについては阿部氏のもうひとつの著書『ハーメルンの笛吹き男』に詳しい。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 23:33コメント(0) 

2022年08月13日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



天武天皇はそれまでに伝えられていた史実に誤りが混入したまま将来に遺すことに危機を感じ、まずは当時28歳の舎人、稗田阿礼に暗記させたようだ。

巻末の解説によれば、彼は生まれつき聡明で、どんな文でも一見しただけで直ちに口に誦むことができた。

またどんなことでも一度聞いただけで心に忘れることがなかったという天才だった。

しかし天武天皇は崩御し、実際に文章化されたのは元明天皇の時代になってからだった。

稗田阿礼の口述をもとに大朝臣安万侶が書き記した原文は後半部の235ページから347ページに全文掲載されている。

ただしこれは漢文なので、前半はその読み下し文になる。

読み下し文は高校程度の古文の知識があれば十分読めるし理解できる。

また同じページの下段が注釈欄になっているので、分かりにくい古語や成句が現代語で説明されているところは親切な配慮だ。

文字が大きく、行間も広く取ってあるので読み易く、メモを記入することも可能だ。

なおこの古事記には偽書説もあるらしいが、現在偽書説を是認する学者は殆どなく、奈良時代初期の成立という事には疑いがないようだ。

日本文化の源泉として時間をかけて古事記に親しみたい。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 01:52コメント(0) 

2022年08月11日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



2009年に講談社から初版が刊行されたときには定価が2300円で、既に単行本の方は絶版になってしまったこともあり今回の文庫本化は歓迎したい。

ただし掲載されている写真や図版に関しては、やや矮小化されたという印象だ。

この著書ではカルタゴが国家として誕生する以前のフェニキア都市国家時代からの歴史を詳述して、一般的な通史では知ることが困難だった古代地中海史の実情を明らかにしている点で非情に興味深い。

また3回の戦役で勝利したローマの歴史家によって美化された戦史を鵜呑みにすることなく、カルタゴ側の内情にも深く食い入っているところが秀逸。

古来からフェニキア人達は筋金入りの海洋民族であり、徹底した商人気質に恵まれた民族であったことが本書で理解できる。

それを端的に示した逸話が本文中に紹介されている。

祖国フェニキアのテュロスを追われた王女エリッサ一行がアフリカ北岸に上陸した時、現地人に『私達に牛の皮一頭分だけが覆う土地を与えて下さい』と懇願し、土地の人は『そんな僅かなことであれば・・・』と快く承諾する。

ところがフェニキア人達は牛の皮を取り出すと、それを細かく切り刻んで細長い紐にして、港の上の丘ひとつを囲んで占領してしまう。

たとえ伝説であったとしても彼らの機転と抜け目のない狡猾さを物語っているエピソードだ。

こうした独自の商才と海運力で大繁栄を遂げたカルタゴは、2回のポエニ戦争でローマへの莫大な負債を抱えながらも、そのたびに不死鳥の如く甦った。

大カトーがローマの元老院でのあらゆる弁論の後の締めくくりに執拗に繰り返した『さて、思うにカルタゴ滅ぼされるべし』のセリフは、近距離にある豊かで強大な勢力を持ったカルタゴへの懸念を如実に表した名言だ。

しかし最後の戦いでスキピオに投降したカルタゴの将軍ハスドゥルバルに向かって彼の妻が『 ローマ人達よ、汝らは勝者の権を持ってこれをなすのであり、神々もお怒りにならないであろう。

しかしそのハスドゥルバルには祖国と神殿とこの私と子供達を裏切ったその者には、カルタゴの神々が復讐されんことを。

汝らはその道具とされんことを』と言い放って子供達を殺し、自らも命を絶つさまは感動的であり、また永久に消え去ったこの国家の数奇な運命を象徴している。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 14:36コメント(0) 

2022年08月09日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ウィーン原典版でのこの曲集が見当たらないので、買ってみたが初心者にはお薦めできない。

バッハの鍵盤音楽を習う人の入門曲集はインヴェンションの15曲だが、一通り弾けるようになったらこの4曲のデュエットに挑戦してみるのも良いだろう。

名前の通り完全な2声部で書かれているが、インヴェンションが見開きの2ページなのに対して、この作品は4ページあり展開部が充実していることと、それに伴う転調が頻繁にあり、両手の指の独立した自由自在な動きが求められている。

この原典版には運指が付いていないので、入門者にとってはかなり指使いに苦労することになる。

最低限の運指番号は必要だ。

楽譜自体は新バッハ全集に準ずる解釈なので、充分信用できる。

ただし自筆譜の写真や詳細な解説は省略されている。

またウィーン原典版やベーレンライターの叢書版に比べるとコストパフォーマンスが高いのが特徴で、ごくわずかにセピア調の紙にプリントされた楽譜は見やすい。

紙質がやや薄く、頻繁にめくったり、折り目を付けると傷みやすいので練習の時にはコピーが不可欠だろう。

この4曲を含めたイタリア協奏曲、フランス風序曲及びゴールトベルク変奏曲を一巻にまとめた運指番号付きのヘンレー版がリリースされている。



これから購入される方にはこちらをお薦めしたい。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 21:25コメント(0) 

2022年08月04日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



クロノロジカルな編集で旧約、新約の両聖書の歴史と内容がコンパクトにまとめられていて、それぞれのエピソードごとに、それにまつわる1点から2点の名画を紹介して、その見どころを説いたガイド・ブック。

この一冊で聖書の成り立ちとその概要を把握することができ、欧米の教会や美術館を飾る絵画の鑑賞に一役かってくれる実用書でもある。

美術作品の写真についてはオール・カラーで掲載されているので、オリジナルの作品をイメージするのに有効だ。

ただしひとつだけ難を言うのであれば、聖書の解説については要点を分かり易く記述してあるので重宝するが、そこからテーマを採った美術作品の説明がそれほど充実しているとは言えない。

作品の数自体は107点で満足のいくものだろう。

また異なった多くのアーティストが選ぶテーマは往々にして共通しているので、例えばひとつの絵画をサンプルとして、扱われている題材と、それぞれの登場人物が誰であるか、あるいは一緒に描かれている物が何を意味しているかを理解するのに応用ができる。

しかし美術作品の紹介としては、質的にどうしても中途半端にならざるを得ない。

その理由は、先ず一冊の簡易な単行本に2つの重要なテーマを盛り込んだことで、聖書と絵画を同等の質と量で解説することに無理があり、入門書の域を出ていない。

更に美術作品の解説には、どうしても作品の成り立ちやオーダー者が誰であったか、どういうテクニックが使われているかなどの分析が不可欠になる。

このあたりは著者自身が美術の専門家ではないという理由もあるかも知れないが、残念ながら作品の芸術的価値を捉えるまで踏み込んでいない。

もし読者が実際に宗教美術に興味を持ち、それらを鑑賞し、その美術的価値を知りたいのであれば、専門の美術書の併読をお勧めする。

ちなみに67ページに紹介されているラファエッロの『エリコの陥落』は著者の言うシスティーナ礼拝堂ではなく、同じバチカンのロッジャ・ディ・ラファエッロの10番目の天井に描かれたフレスコ画になる。

もうひとつの誤りは203ページのマメ知識欄に出ているラオコーン像はルネサンス期のイタリアの代表作ではなく、ギリシャ彫刻をローマ時代、紀元前一世紀にコピーしたものというのが現在の考古学者の見解である。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:40コメント(0) 

2022年08月03日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



おそらく現在の研究成果から言えばキュモンの蒐集した資料には補わなければならないものがあるに違いない。

しかし19世紀末に宗教史の碩学が打ち立てた学説にはそれを補って余りある地道な調査と深い思索が感じられる。またミトラが秘教であり、信仰する者が他言を許されなかった事情から遺された情報が極めて乏しく、一般読者向けのミトラ教についての著書が殆んど見当たらない。

そうした意味からも小川氏の新訳を歓迎したい。

一般に古代ペルシャの宗教と言われているミトラ教の根源は、イランやインドで広く行われていた民間信仰がバビロニア、セム系の高度な占星術によって体系化され、この時にミトラは太陽神シャマシュとなり、彼はペルシャと同様バビロニアの正義の神となったようだ。

ミトラの特徴的な側面である、悪を滅ぼし勝利を与える神という位置付けから、その後のシンクレティズムによって王の保護者、兵士の守護神としてマケドニアの東征以来、逆にアレクサンドロスによって受け入れられ、更にローマへと大進出を遂げたとされる。

ローマ帝国は範図の拡張に伴って属州から直接兵士を調達することになるが、その多くはコマゲネ(アルメニア)やシリアなどの東方から供出された民族で、彼らの反乱を避けるために故郷で軍務に服することができなかったことが、更に布教を広範囲に拡げる結果になった。

つまりミトラ教の布教者は軍隊だった。

ミトラ教は位階を追った入信儀礼を一通り終えた人のみによって構成される秘密結社であり、特に下級兵士には特権意識を持たせ、戦意向上のためにも好都合だったようだ。

しかし排他的な宗教ではなかったために多くの信者を獲得できたし、コモドゥス皇帝自身の入信以降はミトラ教の正当化に拍車がかかった。

ミトラが天上界と地上界の仲介者という占星術のセオリーで洗練され、7つの惑星がそれぞれの週の一日を支配し、ひとつの金属と結び付き、それぞれが信者の入信段階に充当される。

ローマに住んでいる私は、多くのミトラ遺跡を見学してきたが、特に古代ローマの港湾都市だったオスティアの幾つかの神殿に施された床モザイクはこの理論を明確に図象化していて興味深い。

ミトラが牛を屠るプリュギア帽を被るペルシャ人で描かれる理由を、キュモンは神官達によって後付された姿としている。

岩から誕生し、太陽神の祝福を受け、最初の創造物だった荒れ狂う牡牛の肩口にミトラが短剣を突き刺すと、牡牛の体内からあらゆる動植物が現れ地上を満たした。

つまり牛の死によって総ての新しい生命が再生することから生贄には常に牡牛が持ち込まれた。

キリスト教公認後も唯一の庇護者だった皇帝ユリアヌスの客死によって、ミトラ教の最後の砦が陥落する。

しかし冥界、聖餐、肉身の復活や最後の審判などは厳然としてキリスト教の中に受け継がれていることは非常に示唆的だ。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 04:51コメント(0) 

2022年07月31日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



「物語イタリアの歴史」の二冊目に当たり、藤沢氏の没後にまとめられて文庫本化された。

本書の構成は一冊目と同様イタリア史にとっての重要人物を各章ごとに一人ずつとりあげ、彼らの人生と歴史との関わりあいを読み物として興味深く描き出している。

今回はローマ皇帝ハドリアヌスの陵墓、つまり後のカステル・サンタンジェロ建設以降1600年代初頭までに生きた8人の生涯が活写されているが、できれば一冊目との併読をお勧めする。

それによって単独のエピソードがより緊密に繋がり、歴史の狭間をお互いに埋め合わせ、それぞれの時代の動向が一層鮮明に浮かび上がってくるからだ。

イタリアの歴史は常にヨーロッパ近隣諸国との関係の中に成立していて、イタリアのみを切り離して理解することはできない。

またそこに登場する類い稀な能力を持った指導者、軍人、そして宗教家や芸術家は枚挙に暇がない。

こうした人物によって歴史そのものが動かされる場合も少なくないことを考えれば著者の試みは成功している。

勿論藤沢氏がマルコ・ポーロやダ・ヴィンチ、あるいはボルジャ家に関する物語を構想していたなら、更に私達の興味をそそる作品が出来上がったに違いない。

しかし残念ながら彼は続編を準備することなく2001年に亡くなった。

いずれにせよ長大な歴史書を頭から読んでいくよりも、むしろ個々の登場人物の性格やその生き様を知り、歴史の流れを把握することの方が遥かに面白く、また記憶に残るものだ。

尚著者自身が校訂していれば明らかに訂正されていた筈だが、179ページにカラヴァッジョの没した港ポルト・エルコレがナポリ領とあるが、この港はトスカーナ大公国に属していてローマより北側に位置している。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 19:18コメント(0) 

2022年07月20日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



中学生でも充分理解できる内容で、しかも簡潔に現行憲法と自民党の改正草案の違いを明確に示している。

学生から普段憲法についてそれほど考えたことがない大人まで、この著書によって自民党草案がいかに民主主義及び国民主権を脅かす解釈が可能であるかを学んで欲しい。

日本国憲法は非常にコンパクトで国家の方針を端的に示している。

細部に関しては個々の法律に判断を委ねていることが、長年に亘って一度も改憲されたことが無い理由だろう。

その骨子は替える必要が無かったからだ。

ここでご紹介したのは同書の増補版であるが、筆者が読んだのはそのもとになっている初版。

しかし統一教会と政治の癒着の問題が明らかになりつつある現在、本書が一層価値のある憲法ガイドブックの役割を果たすことができるだろう。

著者によって問題が提起され、読者がまず自分なりの回答を試みるわけだが、現行憲法と微妙に文言を変えた草案の違いを比較すると、全く異なった解釈が導き出される例もある。

第一問は憲法は国民が守る義務か、あるいは権力者が守る義務かの設問で、言うまでもなく答えは後者だ。

近代立憲主義での憲法は権力者に歯止めをかけるためにあると明言している。

このことからも改憲を権力者側から積極的に推し進めるという事自体にひとつの疑問を抱かざるを得ない。

また平和主義に関しては平和的生存権『ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利』が草案では削除されている。

天皇制については現行の象徴から元首に替えている。

こうしたひとつひとつの書き換えや削除が明瞭で、その結果どういう解釈が成り立つかを冷静に示した良書だ。

国民の間に改憲の議論やその内容が周知されないうちに強引に改憲に持ち込むことがあってはならない。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 21:50コメント(0) 

2022年07月15日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



この小説を読み始めた時には、カミュの自伝的作品のように考えていた。

何故なら少年時代の生活の描写は、実に生き生きとしていて細部に至るまでが事実通りに詳述されているからだ。

彼は貧民街に住み、世間とは貧しいながらも人種の違いに拘ることなく互いに助け合うものだと身をもって体験していた。

しかしそこには自伝では描き切れないような大きな愛のテーマが流れている。

アルジェリアの夏の強烈な青空、そして夏の終焉を告げる土砂降り、すべてを育む広大な海などの自然に対する美的感覚や畏怖の念は他の作品にも頻繁に表れるカミュの常套手段だ。

また従来の宗教にとらわれない超越した宗教観も彼が生涯持ち続けた哲学だろう。

おそらくは彼の数少ない本当の友人の一人、ロジェ・マルタン・デュ・ガールが書いた大河小説『チボー家の人々』のような作品を構想していたのではないだろうか。

つまりたまたま遺された部分が彼の幼少期の忠実な描写になったに違いないと思わせる。

カミュの小学校時代の担任であり、彼が生涯に亘って交流を続けた教師ルイ・ジェルマンとの逸話は感動的だ。

カミュの家は祖母が総てを取り仕切っていて、彼が小学校を終えた時、当然祖母は一家の稼ぎ手として働かせるつもりだった。

ジェルマンはカミュの能力を見極めて彼女を説得して上級学校リセの試験を受けさせる。

試験当日の朝、他の生徒三人と共にリセに連れて行き、クロワッサンをふたつずつ買ってきて食べさせる先生の姿は微笑ましいだけでなく彼らの信頼関係を物語っている。

カミュは奨学金を受けて食事つき半寄宿生となるが、ジェルマンでさえ彼が将来ノーベル文学賞を授与されるとは夢想だにしなかっただろう。

巻末にカミュとジェルマンがお互いに送った手紙が収録されている。

惜しむらくはこの小説が彼のアイデアを書き留めた草稿段階で断ち切られてしまったことだが、そこには大まかな筋立てと推敲に必要な多くの走り書きが存在する。

確かに同じ登場人物が実名で書かれたり、別の名前で出てきたりするのはややこしいが、読み進むと苦にならない。

『最初の人間』という題名について、この遺作を編纂したカミュの娘カトリーヌは次のように語っている。

「貧乏な人たちは人知れず、忘れ去られていく運命を余儀なくされています。この匿名性によって次の世代を背負う人たちはそれぞれ最初の人間となるのです。この小説では、息子も父親も二人とも最初の人間なのだと思います。父親は孤児院の出身ですし、若死にしたので、息子に何一つ伝えてやれなかったのです。それにこんな言葉もあります。つまりアルジェリアは忘却の土地であり、そこでは誰もが最初の人間であると」

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 14:25コメント(0) 

2022年07月13日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



シューマンは『春』の交響曲や『子供の情景』などの曲で親しまれるドイツ初期ロマン派の作曲家であるが、またすぐれた音楽評論家でもあった。

本書はその論文の大半を収めたもので、ショパン、ベルリオーズ、シューベルト、ベートーヴェン、ブラームスなど多数の音楽家を論じ、ドイツ音楽の伝統を理解する上に貴重な読み物である。

1942年の初版本からの抜粋版で、吉田秀和氏の訳業としては処女作品に当たるためか、後年の穏やかさとは異なった独特の覇気を持った訳文が特徴的だ。

しかし口語体で書かれた文章は明快そのもので、シューマンの鋭い洞察と先見の明に驚かざるを得ない。

シューマンはバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの信奉者であり、こうした作曲家への音楽的な位置付けは彼らの時代に、まさに彼らによって定着したものなのだろう。

しかしバッハの作品群はまだメンデルスゾーンなどによる復興の時期でもあり、その真価を逸早く世に知らしめた功績は大きいと言える。

一方で彼は同時代の作曲家メンデルスゾーン、ショパン、ベルリオーズ等に文筆活動の面でも惜しみない応援を送っている。

この批評集で彼はフロレスタン、オイゼビウス、そしてラローに託してさまざまな音楽批評を試みているが、それは当時のヨーロッパの楽壇の実情を知り得る貴重な証言でもある。

中でもベルリオーズの『幻想』交響曲についてのアナリーゼは素晴らしく、この曲を広くドイツ国内に紹介し、その真価を賛美したシューマンの面目躍如たるものがある。

そこでは彼が同時代の作曲家の作品に対して実に公正かつ冷静な評価を下していることが理解できるだろう。

一方で伝統的な和声楽や様式に固執し、前衛的な手法を少しも認めようとしなかった当時の批評家達をこき下ろしながら、ベルリオーズの交響曲が実は楽理的にも適った音楽であることを分析し、証明しているところがユニークだ。

これは余談になるが79ページにあるベートーヴェンのロンド『銅貨を失くした憤慨』についてはごく短いながら痛快な批評を寄せている。

筆者はこの曲をCDは兎も角として、ライヴのコンサートではたった1度しか聴いたことがない。

それはダン・タイソンがショパン・コンクールに優勝した翌年に行ったツアーでの2曲の協奏曲の夕べのことだったが、彼はその晩のアンコールにこの曲のみを弾いた。

ショパンの小品ではなく何故このロンドを選んだのかは未だに解らないが、その時の彼の演奏の印象はすこぶる強く記憶に残っている。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 18:36コメント(0) 

2022年07月09日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。

 

筆者の実家ではとてつもない雷鳴、雷光、異常気象、そして停電が続いていた。

安倍さんを聖人に喩える気はさらさらないが、あまりにもイエス・キリストが磔刑された時の現象と酷似している。

遺体は東京の自宅に戻るが、報道を見ていると安倍さんが如何にフレンドリーな外交を展開していたのかが、各国首脳のコメントで分かるではないか。

筆者の海外の知人は米国、台湾、ロシア、インドのコメントは心に熱く感じたという。

特にアメリカの市民が銃撃はアメリカでは茶飯事だが、日本で起きたことにが大いにショックだという意見、そしてインドのモディ首相の弔辞も心に浸みた。

彼の教室にはインド人の地球物理家が居るが、彼もどうしてこんな事になるのか理解出来ず、安倍元首相の功績を激賞していたそうだ。

筆者も内政ではアンチ安倍だが、彼をして「正に地球儀を俯瞰する外交は立派でしたね」と言わしめている。

崩壊感がマーラーの音楽にぴったりであるが、だからといってマーラーなど聴ける状況ではないことは百も承知だ。

ショスタコーヴィチ交響曲第7番に続いて、ブラームスの交響曲第4番、シューベルトの後期作品が胸に染み渡る。

プーチン、トランプらが「私の真の友人」と嘆き悲しむ安倍さんは、百歩譲っても外交手腕は飛び抜けていた。

そりゃそうであろう、最近ようやく映像で明らかにしているが、苦しみ悩む人たちに対して、国籍を問わず、正気ではいられない表情を浮かべ、親身に寄り添った人である。

繰り返すが、金や権力、ましてや欲望を刺激する物なぞのためにやっていけないのが政治家なのだ。

それはともかく選挙なんてやっている場合だろうか?

民主主義の根幹が選挙というのなら、国民の大多数を占める老人は、もう選挙に行く体力、気力など残っていない。

読者に(リスペクトの気持ちを忘れたくない)あえて問いかけますが、特に真夏の異常気象にさらされている皆様、結果が見えている選挙なんぞやってる場合ではないのでは?

民主主義が根付いているのであれば、喪に服させてくれと言いたい。

世界のリーダーを失ってしまったのだ(嘘ではありませんよ)。

その証左に民主主義の先進国であり且つ同盟国のホワイトハウスでは半旗を掲げている。

聖書はどのように読もうが自由であり、ヒントを言うこと自体恣意的な気もしないではないが、小説のように、長すぎれば、マタイ受難曲に接してからでも遅くはない。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 13:01コメント(0) 

2022年07月08日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



安倍晋三元首相が銃殺されるという事件を受け、病に倒れている場合ではない(まだ嗅覚がない)と痛感し、心よりご冥福をお祈りする。

かつて田中角栄御殿の近所に住んでいた者として言うが、安倍さんは金、権力、ましてや欲望のために生きた人では断じてない。

政治家はそんな物のためにやっていける仕事ではないし、筆者の母校の創設者は片足を失っている(母校の先輩、岸田総理がこのことを知らないはずがない)。

日本は長い経済のスランプに苦しんできたし、年間の自殺者数の痛ましいデータ、企業倒産も高水準、悲観論者の中には、明日にも日本が沈没してしまうような予測をする方々もいる。

皆様の生活はどうだろう?

お先真っ暗だといいたい方は日本のGDP(国内総生産)を調べてみよう。

選挙が迫っているのでどうしても経済政策に目が行ってしまうが、国民の1400兆円と企業の内部留保あっても、国の借金はもうそれに迫っている。

アベノミクスで格差が拡大してしまった感も有り、外から見ると旨く回っておらず、もはや世界一の資産国ではない。

但しバブルに浮かれて不良債権だらけになった銀行は、米国国債や米国の主要株式を大量に保有している。

あり得ぬ話だが、仮に銀行がこの米国債を叩き売れば、米国経済は大混乱に陥るだろう。

むやみに卑屈になるほど弱い国どころか、そりゃ十分に世界屈指の経済大国ではあり、なるほど不安や不満はあるものの、現在の仕組みをすべて叩き壊すのには程遠い状況だ。

悪事を働き捕まった中国人が「カネはあるし、(捕まっても)罪は軽く、この国は天国だ」と嘯いたそうだが、あながち的外れではない。

そのような豊かな国のシステムがどんでん返しのように変わるわけがない。

今後予測されるのは世の中が自由放任よりも秩序重視へと動いていくというこの流れはしばらく変わらない。

歴史とはつまるところ緊張と弛緩の繰り返しであり、ある程度行き過ぎて、あれこれと弊害が出るまではベクトルは逆には向かないからだ。

現状を見る限りでは、このベクトルが反転しそうな気配は感じられない。

ごく少数の人や、ケチをつけ不平を並べることを日々の生業にしている人々を除けば、誰しも現在のシステムを根こそぎ引っ繰り返そうとするほどの不満は抱いていないに違いない。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 19:55コメント(2) 

2022年07月02日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



モーツァルト書簡集下巻は彼が最後の数年を生きたウィーンでの生活を中心に、膨れ上がる借金に苛まれながらも次々に傑作を生み出していく精力的な作曲活動、そして遂に力尽きて亡くなる50日前までの彼の行動と心情がありのままに吐露されている。

モーツァルトは妻に限りない愛情を注いだ作曲家だった。

彼は湯治のためにバーデンに滞在するコンスタンツェ宛に頻繁に手紙を書き、借金だらけになっても彼女には滞りなく送金を続け、常に体を気遣っている。

その甲斐もあってコンスタンツェは病から快復するが、皮肉にもその前にモーツァルトは亡くなってしまう。

困窮の生活の中で彼が澄み切った青空のように屈託のない作品を作曲し続けることができたのは驚異でしかない。

手紙の中に居酒屋で独りで食事をすることの惨めさも書かれている。

彼は作曲する時以外は誰かが傍らに居てくれないと堪えられない寂しがりやだった一面も興味深い。

最後の年譜で訳者は『モーツァルトは35年10ヶ月9日間生存し、そのうち10年2ヶ月8日間を旅の空で過ごした』と記している。

人生のほぼ1/3を彼はヨーロッパ諸都市でのコンサート、オペラ上演やそれに伴う移動のために費やしたことになる。

筆者は以前ザルツブルクとウィーンでモーツァルトの住んだ3軒の家を訪れたことがある。

現在ではいずれも記念館になっていて、彼に因んださまざまな展示物を見学することができるが、ある一室で彼が生涯に書いた総てのスコアを一列に積み上げてあった光景が思い出される。

それはその部屋の天井まで届くほどの高さがあり、彼が如何に離れ技的な作曲活動をしていたかを証明している。

平均するとモーツァルトは生涯を通じて1日6ページのフル・スコアを毎日書き続けたことになるそうだが、この書簡集でも明らかにされているように度重なる演奏旅行とその準備、生活のための生徒へのレッスンやあらゆる雑事に煩わされていたことを考えれば、今日私達が名曲として鑑賞している作品群が到底信じられないようなスピードで作曲されていたことになる。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 21:58コメント(0) 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



モーツァルトの書簡集上巻は1770年、彼が14歳で父親に連れられて第1回目のイタリア旅行をした時から始まる。

この演奏旅行で彼はどの都市でも大成功を博して神童の名を欲しいままにしたが、母や姉宛に書かれた手紙の端々には既に彼の人間を観察する純真な眼差しが表れている。

モーツァルトはこの時期からイタリア・オペラを盛んに作曲するようになるが、たとえ一人前の作曲家の腕を持っていたとしてもリブレットから登場人物の心情の機微を掴めない者にはオペラを書くことはできない。

それが母国語でない言語であれば尚更だが、彼の短かった生涯に20曲以上の劇場作品を作曲することになる恐るべき才能の萌芽が既に少年時代から確実に培われていたのは事実だ。

また他の作曲家の作品でも優れたものについては称賛を惜しまない、極めて公平かつ正確な判断力が養われていたことも興味深い。

彼がこの時代あらゆる作曲のテクニックを海綿のように吸収して学ぶことを可能にしたのも、こうした謙虚で柔軟な姿勢があったからに違いない。

成人してからのモーツァルトの就職活動の旅は失敗に終わる。

音楽以外の私生活での彼は実社会に適応できない実質的な破綻者だったことは想像に難くない。

彼に英才教育を施した父レオポルトは言ってみれば実利主義者のビジネスマンで、借金までして旅に出させた息子の就職活動がはかばかしくないことを厳しく諌めている。

しかし根っからの芸術家気質のモーツァルトは父への返信では常に慇懃だが、実際の行動はかなり奔放で滞在期日を大幅に延長したり作曲料を取り損なったり、父親のオーガナイズから大脱線してしまっている。

またその事実からは稀有の天才を受け入れるすべを知らなかった当時の上流社会の不条理性も伝わって来る。

要領良く立ち回ればそれなりの地位を獲得することもできた筈だが、モーツァルトはその才に欠けていた。

彼は自分の能力を誰よりも良く自覚していたが、それを切り売りする形で生計を立てる道を選ぶべきでないことも熟知していたし、気の進まない曲は頼まれても1曲も書けなかった。

彼がザルツブルクの宮廷オルガニストの地位をコロレード大司教から解任され、他の如何なる宮廷の地位も得られなかったことは、結果的に言えば悪くなかった。

この書簡集から父レオポルトはモーツァルトの将来の作曲家としての活躍よりも、現在を堅実に生きる道を選ばせたかったことが明らかだからだ。

しかしお仕着せの音楽家としてお定まりの曲を書きながら一生を終えるには、彼の才能は余りにも抜きん出ていたことも事実だろう。

それを考えると短かったとは言え、ウィーンでまがりなりにも独立して作曲活動に明け暮れた生活こそ、彼が望んでいた人生だったに違いない。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 17:20コメント(0) 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



安部公房の作品に感じられるシュールレアリスティックな発想は、学生の頃から惹かれていたが、それがどこから来ているものか、この一冊に示されている。

先ず彼は夢を意識下で書き続けている創作ノートとして、作品を書く時の源泉のひとつとしていた。

見た夢をその場で「生け捕り」にするために枕元には常にテープ・レコーダーを常備していた。

しかしまた「睡りと覚醒は対応する両極だが、覚醒も度を過ぎると過集中の状態に陥り、全部の光量を保持できないものらしい。

あふれた光は、周辺に浸透していき、一種の睡眠に近い状態に接近する」とも書いている。

彼の医学者としての考察だろう。

その例が「藤野君のこと」に表れていると思う。

安部氏は戦後間もない頃、北海道旅行の車中である老人の奇怪な話を聞く。

いま北海道ではいたるところでアムダ狩りが行われている。アムダは戦時中、軍が音頭を取って飼育を農家に強制した人間そっくりの動物で、繁殖力が旺盛で食用その他に利用された。

戦後農家は生き残ったアムダを山に放って逃がした。それが野生化して害を与えるようになった。

この話に興奮した安部氏は是非アムダを見たいと思う。

ところがアムダは彼の聞き違いでハムスター、人間にそっくりというのはネズミにそっくりという訛りからの誤解だった。

しかしその誤解が『どれい狩り』の構想を生み、『ウエー』として完成する。

この時も彼の言う覚醒の度が過ぎた過集中の状態で白昼夢を見ていたのではないだろうか。

安部公房(1924‐1993) 東京生れ。東京大学医学部卒。1951(昭和26)年「壁」で芥川賞を受賞。’62年に発表した『砂の女』は読売文学賞を受賞したほか、フランスでは最優秀外国文学賞を受賞。その他、戯曲「友達」で谷崎潤一郎賞、『緑色のストッキング』で読売文学賞を受賞するなど、受賞多数。’73年より演劇集団「安部公房スタジオ」を結成、独自の演劇活動でも知られる。海外での評価も極めて高く、’92(平成4)年にはアメリカ芸術科学アカデミー名誉会員に。’93年急性心不全で急逝。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 11:06コメント(0) 

2022年06月19日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



一時代前はエドワード・ギボンの著した『ローマ帝国衰亡史』がこの時代を知る上で重要な手掛かりを提供する著書であったことは疑いない。

18世紀に能う限りのギリシャ、ラテン語による古典文書を読破して書き上げられたこの考察が、後の時代に与えた影響を無視することはできないし、現代においてもその価値を決して低く評価すべきではないだろう。

また本書の著者南川氏もそのエピローグの中で、紀元二世紀を帝国の全盛期、皇帝たちの「輝ける世紀」と呼びたいと記している。

ギボンの考察は当時の限られた資料の中で成しえた歴史的な結果としての総括であり、そこには勿論彼の主観が強く反映されている。

そうした既成概念を新しい資料をもとに今一度検証する意味で、本書は多くのローマ史ファンにお薦めしたい一冊だ。

確かにローマはこの時代にその版図を最大に広げ、地中海沿岸全域をその領土に組み入れたが、それには当然多くの犠牲が払われ、また一方為政者たちにとっては大きな幸運が道を開いたと言うべきかも知れない。

ハドリアヌス皇帝は死後、神格化されるどころか元老院によって危うくDAMNATIO MEMORIAEつまりカリグラやネロのように記憶抹消の断罪が下される筈だった。

彼は帝国全土を巡行して領土の状況を把握することに余念がなかったが、元老院に対してはその独裁的な粛清や治世から決定的な対立関係にあったことが本書によって理解できる。

中でも出色は元老院議会と国政の係わり合い、そして皇帝後継者選出や騎士階級の人々の出身地、また彼らの政治的力学関係及びその時代的変遷について詳述されていることだ。

ローマに早くも最初の斜陽が射し始める頃には、皇帝は元老院議員を始めとする国政の中枢部に係わる人員を家系の優劣ではなく、能力主義で抜擢するようになる。

それはローマにとっては大きな改革だったが、当然それだけの軋轢は覚悟しなければならなかっただろう。

それを巧みに乗り切ったのが結果的に五賢帝時代だったということになる。

著者は現代に伝わる史書だけでなく、碑文などをもとにしたプロソポグラフィーの研究成果を取り入れて独自の仮説を立て、生身の皇帝像とその周辺を描くことを試みた。

その手腕と努力を高く評価したい。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 08:43コメント(0) 

2022年06月11日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ギボンのローマ帝国衰亡史の第2巻はローマが軍人皇帝時代に入って起こる混乱と、かつての秩序と平和を取り戻すディオクレティアヌス帝の尽力が著者一流の筆致で活写されている。

三世紀後半の帝国は彼の言う崩壊寸前の窮地に追い込まれていたが、それを持ち前の戦略と軍事力で持ちこたえる何人かの知将が軍隊から推挙される。

しかし結果的にディオクレティアヌス以外は帝国への長期的な展望を持つことなくいわゆる三日天下で終わってしまう。

彼らには将来の帝国存亡の危機を案じた堅牢な国策が欠けていたし、また元老院議会の権威の失墜も見逃せないだろう。

唯一ディオクレティアヌスだけが四分割統治するテトラルキアを実現した。

そこにはもはや広大な領土を一人の皇帝が単独で支配することの限界を認識せざるを得なかった現実がある。

また彼の引き際の良さからもギボンは賢帝と称賛している。

この時代はキリスト教迫害が再び活発化する。

最後の二章で同時期のユダヤ教とキリスト教の展開や迫害についてもかなり詳しく考察されている。

ローマは領土拡張のグローバリゼーションを国策として掲げて以来、宗教に関しては寛容政策を取り、人種差別もしなかった。

勿論それにはローマ皇帝を崇拝し、国策に従うという大前提があってのことだが、一神教たるユダヤ、キリスト教の信者はローマ皇帝を崇拝することができなかった。

しかしネロ、ドミティアヌス両帝の残虐な迫害は国策ではなく、専ら個人的な動機から起こったことが理解できる。

小プリニウスがキリスト教信者の扱いをトライアヌス帝に訪ねた書簡の返書で、帝は罪状に基く判断をプリニウスに任せている。

迫害が最後の頂点に達したディオクレティアヌスの時代も、実は彼の本心からではなかったことが推察される。

また信者自身の創作による殉教者の英雄談が、布教にとって非常に効果のあるエレメントだったことも冷静に分析されているのが興味深い。

対照的にコンスタンティヌス帝によるキリスト教容認は多分に政治的な目論見があったと言えるだろう。

自身カトリックに改宗したにも拘らず、このあたりのギボンの洞察は鋭い。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 23:03コメント(0) 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



18世紀英国の歴史家エドワード・ギボンの業績には、その後の研究成果から疑問を差し挟む歴史家が大半であることは事実だ。

当時入手可能だった能う限りのギリシャ、ラテン語による原典資料を調べ上げて、歴史家達の永遠のテーマでもあるローマ帝国の凋落の原因を逸早く探った。

しかし当初のギボンの構想は、それまでに集積されたローマに関する史書の文献批評を一冊に纏めることだったとしている。

その啓蒙精神もさることながら12年の歳月をかけて全10巻を出版し、当時の教養人の渇を癒しただけでなく、現代の私達にも多くの示唆を与え続ける功績は評価されるべきだろう。

彼は『仮にもし世界史にあって、もっとも人類が幸福であり、また繁栄した時期とはいつか、という選定を求められるならば、おそらくなんの躊躇もなく、ドミティアヌス帝の死からコンモドゥス帝の即位に至るこの一時期を挙げるのではないだろうか』(156ページ)と書き、五賢帝時代を称賛したために、後の時代のより進歩した研究者から異論が出ることになる。

ギボン自身その序文でローマの衰退の第一期はトラヤヌス帝及び両アントニヌス帝に始まると明言しているし、更に遡ってアウグストゥスにまでその遠因を求めている。

それゆえ第1巻第一章はアントニヌス帝時代の帝国版図とその軍事力から解説が始まる。

勿論ローマ建国以来のローマ人の哲学や統治理念、更にはヨーロッパに割拠していた夥しい数の民族の動向などもかなり詳しく述べられている。

現代の解釈では、歴史的な国家衰亡の要因には殆んどと言っていいほど中間層の没落が決定的に関与しているということだ。

ここに至るまでの経緯は一通りではなくその国によってさまざまな状況を説き明かさなければならない。

また原因を探るには逆説的だがその繁栄の理由を見出すことも重要だ。

第二章ではローマが栄枯盛衰を遂げた他の民族、例えばアレクサンドロス大王のマケドニアやチンギス・ハーンの蒙古帝国と決定的に異なっている点を、英知による統治と法による統合としている。

ここでは普遍的慣用の精神と名付けて帝国諸州の民族の伝統的な信仰を容認した例を挙げている。

言語に関してローマ人は共通語の利点を熟知していたためにラテン語とギリシャ語が公用語だった。

テオドシウス皇帝の二人の息子ホノリウスとアルカディオの仲違いによって帝国がふたつに分かれた時、奇しくもその境界線はラテン語圏とギリシャ語圏のそれとほぼ一致している。

120ページからはローマを蝕んでいったいくつかの原因が列挙されている。

初代皇帝アウグストゥスは自ら皇帝であることを否定してプリンケプス(第一の市民)、つまり元首と名乗ったが、巧妙な手段で元老院を巻き込んで権力の掌握に成功する。

しかし聡明なアウグストゥスの場合は良かったが、暗愚な皇帝にとっては取り返しのつかない権力の暴走になり、実際それが後の時代に現実化してしまう。

更に徴兵制度、奴隷制度、市民生活の奢侈やパンとサーカスなどの国策も次第にその負の面を顕在化させてくる。

中野好夫氏の平易でリズミカルな文体による巧みな訳出はギボンの原文を考慮したものだろう。

惜しむらくは図解を欠いていることだが、見開き左側のページごとの小口註の掲載は親切な配慮だ。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 17:52コメント(0) 

2022年06月10日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



安部文学特有の精神医学的な考察が作品の随所に表れていて、難解でありながら読み手を惹きつける魅力を持っている。

この小説の主人公『僕』は、ある朝突然救急車の到来によって、自分の妻を知らない病院へ運ばれていく。

その病院は半分地下に埋もれた、ハチの巣のような構造で、迷路のような通路を必死の思いで抜けたところが、実は袋小路だったという、土壇場の閉塞感も彼の小説の常套手段だ。

病院のいたるところに取り付けられた盗聴器、と言うかその町の地区自体が一種の精神病院であるとも考えられる。

『僕』は妻が病院内のオルガスム・コンクール優勝候補者になっていることを目撃するが、最後まで彼女が自分の妻であるか確信が持てない。

もしかしたら総てが夢の中の出来事なのかもしれない。

安部氏は自分の見た夢を事細かに記録し、分析する習慣があった。

そうした夢の巧妙なつなぎ合わせにも見える作品だ。

病院の院長は一回も姿を現さず、副院長のドールと化した娘は、全身が綿になって死んだ母を慕いながらも、自身は全身がゼリーのように溶けていく不治の病にかかっている。

始めは自分だけが正常な感覚を持っていると信じていたが、殆ど粘土になった状態の娘を抱きながら『僕』は患者であることを告白せざるを得ない。

性は人間の活動の根本をなすという考えは、決して否定できるものではないだろう。

それを認めたがらない部分と、なし崩し的に没入する境界線で、主人公の苦悩がある。

この小説は決して時系列的に書かれていない。

読者はかなり後になってから、前の部分に戻るか、記憶を辿ることを強制される。

そうした迂回はあらかじめ安部氏が想定して構成した作品なのだが、このあたりにも巧妙な精神医学的手法が使われている。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 14:34コメント(0) 

2022年06月05日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



本書はJames Hall: "Hall's Dictionary of Subjects and Symbols in Art", 1974の翻訳である。

筆者は大学時代絵画の見方がわからないことが気になり、西欧美術に関する講義を受けていた時がある。

そして昔の美術作品は教会などの特定の階層の人たちのものであり、主題に対して様式が決められていることを知った。

この予備知識があったため、本書の見出し語を見て、「この題名は・・」とか、「作品中にあるこのものの意味は・・」と、本辞典の使い方を容易に理解することができた。

しかし、このような予備知識のない方も本書を読むことが想定される。

本書の最初に高橋達史氏による『「絵の言葉」を読む』で絵画のカラー写真を参照しながら主題と様式の関係について解説されている。

歴史画の見方のわからない方はこの部分を読んだ上、本書を使用することをお勧めしたい。

もう20年ほど前のことだが、ローマのサンタ・マリア・デル・ポーポロ教会でカラヴァッジョの名画[ 聖パウロの回心]を初めて鑑賞した。

何ら予備知識の無かった筆者は、天才画家カラヴァッジョの光と闇を巧妙に使った恐ろしいほどの色彩感覚や異色の美学は理解できたが、聖人パウロが神から天罰を受けなければならなかった理由を知らなかった。

しかし後に本書で当初パウロがキリスト教徒迫害者だったことを知った。

彼は任務遂行の途上で天光を受け、落馬して失明した。

その時あるキリスト教徒に介抱され、視力を回復し、この事件が彼をキリスト教に改宗させることになった。

西洋美術だけでなく、ヨーロッパの歴史や音楽、文化一般を理解するためには、どうしてもこうした予備知識が求められる。

アーティストは自分の作品に持っているものの総てを注ぎ込むので、鑑賞する側にもそれだけのものを要求するし、その人の生まれつきの感性だけで理解しようとしても限界がある。

しかし付加情報を示す属性、アトリビュートなどを少しずつ学習していくことによって、ひとつの芸術作品の鑑賞に際して全く別の扉が開かれるような体験が可能になる。

本書は用語やシンボル、そしてそれらに関する逸話までが、あいうえお順に図解付きで簡潔に網羅されていて、疑問を持った時に即座に役立つ画期的な事典と言えるだろう。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 14:15コメント(0) 

2022年06月03日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。

 

吉川一義氏が巻末の訳者あとがきでも書いているように、この大作の日本語訳に取り組んだ姿勢の最も大切なところは、プルーストの原文を如何にそのまま訳出するかということを常に心がけたことだろう。

しかし異なった言語への移し替えを、構文を変えずに行うのは至難の業だ。

日本語にぴったり符合するような語彙を選び、構文の整合性を追求した吉川氏の訳は自然であり、しかもフランス語でのエスプリのきいた表現を生き生きと写し取っている。

語彙の選択も洗練されているが、日本語として不自然な単語や言い回しはない 。

あくまでもプルーストの語順や文章の特徴を崩さずに貫徹した訳業に敬意を表したい。

プルーストは自分自身の五感を総動員してこの大河小説を書き進めている。

一見すると取り留めもない話が何の脈絡もなく、次から次へと回想されるように見える。  

実はその中に繊細な感性や驚くほどの洞察力が働いていて、決して読み飛ばせる小説ではないことが伝わってくる。

またこれも訳者あとがきで触れられているが、いたるところにさまざまな伏線が張り巡らされていてテクニック的にも圧倒させられる。

さらに文学以外の音楽、美術、演劇、哲学や社交などの知識が混然と表現されていて非常に味わうところが多い作品だと思う。

こうした総合芸術的な手法と作品の長さが敬遠される原因のひとつかも知れないが。プルーストは『スワンの恋』でそれまでのステレオタイプのラヴストーリーを刷新したと言われている。

つまり宿命的な美男美女の悲恋や英雄的な犠牲で結末を迎える物語ではなく、第一級の教養人のブルジョワだ。

一見風采の上がらないスワンと、その場を取り繕うために常習的に噓をつく、それほど美人でもない高級娼婦オデットの恋愛をプルーストは滑稽なまでに描写している。

それを目に見えるように訳出した吉川氏の力量も流石だ。

貢ぐスワンと男達の間をしおらしく、しかししたたかに立ち回るオデットのコンビは興味深い。

スワン自身も彼女の嘘には気付いているが、彼女が自分自身には嘘がつけない女だということも知っていて、彼女を芸術作品に喩えて美点を模索し追想する恋に飢えた男の姿は確かに滑稽だ。

背景になるパリ社交界の複雑怪奇なしきたりと、それに対抗するブルジョワ、ヴェルデュラン夫人の主催する『少数精鋭』の対比も面白い。

それはプルースト自身が身をもって体験した社交界という特殊な世界での出来事が、この小説の中にフィクションとして描かれている。

だから私達が生活している社会とはかけ離れているようで、意外にも他人事とは思えないのだろう。

小説で引用される絵画や劇場作品、カフェなどは多く写真入りで註に掲載されているのも親切な配慮だ。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 21:27コメント(0) 

2022年05月29日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



およそあらゆる伝説と言われるものには何がしかの原体験や史実があり、それを核にした多くの人々の心理的な昇華がその形成に深く関わっているということが本書によって理解できる。

それは著者の言葉「庶民は苦難を無意識のうちに濾過させ、突き放した形でひとつの伝説の中に凝縮させる」に要約されていると思う。

更に伝説の非合理性を暴いてこれを大衆の無知がゆえに信じられた虚構とする啓蒙主義者達に対して、「民衆にとって長い年月の辛苦の中から滴り落ちるようにして生み出されてきた虚構の方が、無味乾燥な史実よりも重い意味を持っている」と述べている。

伝説はまた口述という形で伝えられていく宿命を持っている。

それが筆記され、不特定多数の人に読まれる時点で既に伝説本来の姿は変容せざるを得ない。

何故ならそれによって語り手のスピリットは失われ、往々にして読者は物語の展開にのみ興味をそそられてしまうからだ。

それゆえ研究者も伝説を育んだ社会とその時代の庶民の心情を無視して厳密な事実関係だけを合理的なデータで調査しようとすると、その姿はごく稚拙なものに見えてくるだけでなくストーリーの精神的な支えが雲散霧消してしまう。

それが『ハーメルンの笛吹き男』の研究で著者が最も力を入れて訴えていることではないだろうか。

伝説にはそれを生み出すだけの強いスピリットが宿っていて、その謎を解明するには史実はもとより彼らの精神史を辿る方法が不可欠だと著者は考える。

ここではむしろ130人の子供たちが消え去った時代の社会的な検証と、貧窮に喘いでいた人々の燻ぶるような情念への一種の共感が、過去とは異なった方面からの研究を前進に導いたと信じたい。

それまでとは異なった包括的な究明を試みたのが、最後の章に詳述されているシュパヌートとヴァンの2人だ。

彼らはハーメルンの伝説が示している本質的な部分が本来考察されるべき道筋から逸脱し、安っぽい教訓話に陥っていることを図らずも認識したことから新たな展開をみせる。

しかしそれはようやっと20世紀になってからのことだ。

この著書はこれまで自分自身が漠然と抱いていた伝説解明への明晰な方向を示してくれた研究として高く評価したい。

それは本書の執筆に携わった阿部氏自身の発見でもあり、また彼が痛感した過去のさまざまな解釈に関する歪曲の実態を強く警告しているように思える。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:45コメント(0) 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



著者若桑氏の真摯な姿勢によって書き下ろされた本書は、フィレンツェに残された膨大な歴史的、あるいは芸術的遺産を丁寧に紹介した実用的なガイド・ブックの側面を持っている。

同時に、ルネサンスを生み出した新思想の母胎としての奥深い都市の歴史をまとめあげた労作として高く評価できる著作だ。

ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ボッティチェッリら、天才たちの名と共にルネサンスの栄光に輝く都市・フィレンツェ。

町の起源から、自治都市国家としての繁栄、メディチ家の興亡、さらにウッフィーツィ美術館の歩き方まで、自由と独立を愛する人々に愛され続け、市民の手で守り抜かれた「花の都」の歴史と芸術を、西洋美術史家が案内する決定版体裁を美しく仕上げるよりも、むしろ内容の充実の方に力が注がれている教養書なので、豊富なカラー写真やイラストで彩られたイメージ主体のガイドとは全く別物であることを知っておく必要があるだろう。

掲載されている写真は単行本の時から口絵以外は白黒でサイズも小さいものだったが、それはあくまで実際に実物を見るための目安にすぎない。

しかし今回の文庫本化で携帯の便宜が図られ、フィレンツェの見どころがより身近に、しかも詳細に体験できるようになったことを歓迎したい。

彼女が美術の専門家であることから本書で取り上げて説明している絵画、彫刻、建築物などは非常に豊富で、また比較対象のためにも数多くのサンプルを提供している。

若桑氏の文章はそれほど平易ではなく、読む側にもある程度予備知識が求められる。

随所に特有の鋭い洞察があって美術史家としての主張に貫かれているところが最大の面白みだ。

特に第9章『ウッフィーツィを歩きながら』は、この著書を総括する彼女の研究の面目躍如たる章になっている。

通り一遍の観光旅行から一歩踏み込んだルネサンスの美術巡りをしたい方には、本書と中公文庫から出版されている高階秀爾氏の『フィレンツェ』の併読をお薦めしたい。



ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:24コメント(0) 

2022年05月28日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



この著書で阿部氏は中世の特徴的な幾つかの職業について詳述しながら、庶民のありのままの姿の再構築を試み、その人間性の源流を探っている。

それは通常の歴史書では触れられることなく通過してしまう部分だけに貴重だ。

特にドイツの職人の遍歴制度はこの時代に法律化されたユニークなもののひとつだろう。

親方に弟子入りした職人は修行の仕上げのために他の土地へ赴いて働くことが義務付けられた。

それは外部の世界で自身の技術を練磨し、より広い視野での職業経験が可能になり、結果的にドイツの手工業や工芸、建築技術などの水準を高めることになる。

しかし著者は本来この制度の目的は、小さな町での職人のインフレに歯止めを掛ける手段であったと述べている。

親方になれる人数は限られていて、実質的に世襲制で昇格するために親方になれない職人は他の町での可能性を探すことが要求されたわけだ。

ただし同職組合のメンバーである限り、行く先々の町でも最低限の宿と食事及び路銀が保証されたとある。

ある父親が数年の遍歴に旅立つ十代の息子に寄せた忠告は、自分の若い頃の遍歴経験から学んだ極意が示されていて興味深い。

この遍歴職人の逸話に関連させて最後の項ではティル・オイレンシュピーゲルの悪戯話についてその由来や編纂などのいきさつ、そして物語の解釈に欠かせない知識が幾つかの例を上げて説明されている。

遍歴の途中で起こる親方とティルの笑話集は当時の制度や権威に対する鋭い風刺であり、時代を反映している事象を解明しなければ面白みが半減してしまう。

著者の訳になる同名作品を理解するためにも読んでおきたい部分だ。

一方農民は三圃農制や粉挽き強制など、がんじがらめの制度によって領主から搾取されていたことが明らかにされている。

定められた農地で収穫した穀物は指定された粉挽き所で料金を支払って製粉しなければならず、パンを焼くには専門の職人を呼んで手間賃を現物で支給したとある。

この間にも農民は粉挽きやパン焼き職人に預ける穀物や小麦粉を掠め取られないように常に監視の目を光らせていなければならなかった。

ここでは農民戦争を勃発させた下層民締め付けの構図が良く理解できる。

「ジプシーと放浪者の世界」の章では、インドに源泉を遡るとされているジプシーへの考察が試みられている。

彼らは15世紀にはヨーロッパ全域に現れるが、元来ひとつの土地に定住できない彼らの人生観や哲学は、当然長い間定住者との間に軋轢を生み出してきた。

賤民以下という烙印を押され、虐待され続けてきたジプシー達に向ける著者の眼差しは非常に人道的だ。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 12:37コメント(0) 

2022年05月23日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



カミュの人生観がいたるところに反映された魅力的な作品集で、中でも『転落』は主人公のモノローグで全編を通す小説の設定がかなり個性的だ。

そして前半と後半での彼の半生の吐露とその理由は、驚くほどのコントラストを見せるが、それはカミュによって巧みに計算された構成だろう。

そこにはまたカミュ自身の体験も主人公のセリフを通して見え隠れしている。

例えば恋愛観について、「わたしはもてたし、それを利用していたということ。しかしなんの打算も働いてはいなかった。わたしは誠実、そうほとんど誠実だったのです。女との関係は自然で、自由で、いわば安易なものでした…」女性に対して発展家であった彼自身の反省があるのかもしれない。

『不貞』は砂嵐の厳しい自然環境の中に生きるアラビア人のオアシスに、商売のためにやってきた夫と、気の進まぬままについてきた妻の心境を描いた佳作だが、カミュの情景描写は素晴らしい。

一見なんの魅力もないような街の高台から俯瞰する大地や空の色彩の移り変わり、しかしそれは夫とのそれまでの生活を見直さざるを得ない強烈な印象を妻に与える。

彼女は夜半に一人ホテルを抜け出して、もう一度その高台へ向かう。

この作品はカミュの妻フランシーヌに捧げられている。

『背教者』はカミュの宗教観を扱ったドラマティックな作品で、やはり灼熱の砂漠地帯に舞台が置かれている。

カトリックとは常に一定の距離を保っていた彼の物語の大胆な設定は殆ど究極的だが、難解な中にも肉体的苦痛を超える精神の行き場が模索されているのではないだろうか。

一方『唖者』は貧しく障碍者でもある樽職人の苦悩と家庭でのささやかな幸福を扱ったネオレアリズモ的なペーソスを含んでいる短編。

この話はカミュの実の叔父で聾唖者だが腕の良い樽職人エチエンヌがモデルになっているに違いない。

幼い頃のカミュを我が子のようにかわいがってくれた叔父へのオマージュと言うべきか。

また『客』はアラビア人の犯罪者に対する同情、それは弱い立場の者や貧しさへのカミュの温かい眼差しでもあるのだが、主人公の教師ダリュは憲兵が連れて来た殺人犯が誠実な人間と見るや、食料を持たせて彼の選択に任せて逃がしてしまう。つ

まり町へ行って不当な裁判を受けるか、あるいは遠く離れた遊牧民の部落で匿ってもらうかは彼次第というふたつの道を示して、物語は終わっている。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 11:34コメント(0) 

2022年05月22日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



下巻の前半部は、長くしかも深刻な著作の中にあって一番華やいだ、そして読者にとっては息抜きのできる部分だ。

使節派遣の立案者、イエズス会の巡察師ヴァリニァーノはヨーロッパでの彼らの待遇について「あくまでも質素に、しかし心のこもった暖かいもてなし」と指示した。

だが彼の当初の希望とは裏腹に、当時の諸国の権力者達の見栄の張り合いによって少年使節への歓待が野放図にエスカレートしていくところは読んでいて思わず笑いが込み上げて来る。

スペイン国王フェリペ二世が少年達を国賓扱いしたことを知ったイタリアのトスカーナ大公フランチェスコ・デイ・メディチはそれを上回る舞踏会付の大歓迎会を催した。

使節の最終目的であったカトリックの総本山、バチカンのローマ教皇グレゴリウス十三世の謁見に至っては当初非公式の予定だった簡素な式典を反故にして、枢機卿、大司教、貴族や騎士達が勢揃いするローマ全体を巻き込んだ公式の大謁見になってしまう。

彼らのローマ市入場はあたかも凱旋将軍の如く、聖天使城から打ち上げられた160発の祝砲とファンファーレの鳴り響く中で行われたのだ。

少年使節が滞欧中、日本では劇的な政治変遷が続いた。

この本の下巻中間部では本能寺の変を中心に、節操無く常に勝利者側に身を寄せる風見鶏的な朝廷や、その後の秀吉の伴天連追放令から更に徳川幕府の陰湿で徹底したキリシタン迫害に焦点を当て歴史の真相に迫っている。

一縷の希望をも見出せない後半部分を読み通すのは辛いものがある。

著者はその後の四人が辿った足跡を追う。

そこにはかつての少年達の魂の叫び声が聞こえてくるようだ。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 19:29コメント(0) 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



この作品の文庫本化を心から歓迎したい。

如何なる宗教を信仰する者にとっても、また如何なる宗教をも信仰しない者にとっても、夢のように輝かしかった青春時代を忘れることなく信念を貫き通した彼らの余りにも純粋な生き様と友情は感動的である筈だ。

天正十年に長崎を出航した4人の少年は当時まだ11歳から14歳だった。

感受性に富み、ヨーロッパ文化をどの日本人より素早く吸収した少年達は来るべき将来に夢を膨らませた。

だが八年後に帰国した彼らを待っていたものは、そうした希望の一切を否定する執拗な弾圧と迫害だった。

その後の4人は異なった為政者と異なった宗教の狭間にあってもなお真剣に人々の将来を案じ布教を続けたが、当時の日本の権力者には世界情勢を読み取り、国際社会の中での自国の発展を考えるだけの器量に欠けていた。

何故なら当時のイエズス会の布教はアジア植民地化の手段ではなかったという意外な事実が著者によって明らかにされているからだ。

宣教師達は日本の洗練された文化と聡明な国民に敬意を表していた。

そして彼らが真に求めたことは文化、経済交流の上でのキリスト教化だった。

そうでなければ私財を投げ打って日本に学校や病院を建設したルイス・デ・アルメイダや異なった文化圏どうしの軋轢と戦国時代の混乱に挫折して日本を去ったフランシスコ・ザビエルの行動は説明がつかないだろう。

しかし日本は最終的に鎖国という形で、一方的にこの交流を断ち切ってしまった。

若桑みどり氏はプロローグではっきりとこう言い切っている。

「この4人の少年の運命は日本の運命に他ならない」と。

著者の、当時の歴史とそれに関わった膨大な登場人物への綿密な調査と鋭い洞察によって、真実を浮かび上がらせる能力と書法は並大抵のものではない。

例えば織田信長に対する歴史的な位置付けもここでは歴然としている。

彼は西洋文化を称賛し、宣教師達に朱印状を出し正式な布教許可を与えた。

無神論者であった信長の政治的な構想が覇権に根ざしていたことは否定しがたいが、また一方で当時鋭敏に世界情勢を感じ取り、国際社会に目を開いていた殆んど唯一の武将だったことも認めざるを得ない。

この文庫本は上下2巻に分かれ、上巻ではキリスト教伝来と当時の日本の社会状況、そして少年使節の出帆からスペイン国王フェリペ二世の謁見までが描かれている

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 14:48コメント(0) 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



題名の通り、ローマが歴史に登場する前の地中海世界に勃興した国々の覇権争いの状況が最初の二章に説明されていて、世界帝国への原像が示されているのがローマ成立への理解を助けてくれる。

また本書の半分以上がローマ王政から共和制までの時代に費やされているのも特長だが、初代ロムルス以降6人の王が治めた頃の文書としての記録は皆無なので、後の文人達が伝承や伝説から書き起こした物を資料にせざるを得ない。

しかし著者本村氏はこうした伝承は根も葉もない作り話ではなく、その中に真実の核が存在するという立場をとっている。

紀元前509年から始まる共和制時代になると次第にローマの姿が明瞭に現れてくる。

王制による独裁制を徹底して嫌った彼らはギリシャに使節を送って法律を学び、選挙で選ばれた執政官(本書では統領と訳している)二人が任期一年のみで共同統治するという独自の共和体制を作り上げる。

これを著者は共和制ファシズムと呼んでいる。

そこではまたローマ人の父祖の遺風、つまり神々を畏敬し、そして何よりも先人の英雄的あるいは道徳的な名誉が後に続く者の手本であり、その目的は利益や享楽に走るためではなく、ローマ人全体がこの世を最良に生きるための拠り所であったとしている。

そうした気風を考えればグラッスス兄弟のラディカルな政治改革にも理解が深まるだろう。

本書冒頭に引用されている宿敵カルタゴを滅ぼしたスキピオ=アエミリアヌスの言葉もそう考えると一層奥が深い。

炎上するカルタゴを目の前にしてスキピオの脳裏にホメロスの一節がよぎった。

そしてローマにもいつか必ず滅びる日が来る、と涙したという。

カルタゴの歴史とポエニ戦争に関しては同興亡の世界史シリーズの『通商国家カルタゴ』に更に詳しい。

ローマは少なくとも千二百年に亘ってその国体を保った。

その秘訣のひとつに彼らが敗戦や失敗から常に学んでいたことと、異なる文化を持った異民族の宗教や慣習に寛容だったことが挙げられている。

また他の民族から優れた文化やあらゆるテクノロジーを取り入れた。

それらは私達の将来にとっても重要な示唆を与えているように思える。ここでも著者は丸山真男の『ローマ帝国の歴史には人類の経験の総てがつまっている』という言葉を紹介している。

長大なローマ史を400ページ足らずの本で語り尽くすことはできないが、本書はさまざまな視点から考察した多くの著書の中でも、入門者にとって最も分かり易く有意義な一冊としてお薦めしたい。

尚巻末に索引、主要人物略伝及び年表が掲載されているのも親切な配慮だ。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 04:02コメント(0) 

2022年05月19日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



著者阿部氏によれば、ドイツを中心とするヨーロッパでの人と人との、そして人と物との新しい関わり方は、集落が都市として発展し始める中世時代に端を発している。

農村地帯とは切り離されて城塞によって取り囲まれた都市は、それまでの人同士の関係を必然的に変化させていく。

最初に例を挙げているのが都市の最小単位になる住居で、その集合体である街は社会的共同体を形成するので当然安全で円滑な社会を維持するために新しい法律が必要になり、結果的に都市住民は既得権益維持のために余所者を排除しようとする差別も表面化してくる。

また貯蓄や分配が容易く、商業活動に圧倒的に有利な貨幣の価値がそれまでの物に代わって貨幣経済が成立するが、また一方で貧富の差を拡大させたことも理解できる。

阿部氏はユダヤ人への差別が決定的になったのは、ヨーロッパの人々が古いタイプの人と物との関係をまだ手放せないでいる時、彼らが逸早く貨幣価値を認識し蓄財に成功したことへの反発としている。

カトリック教会は喜捨や寄進を奨励し、死後の世界を保証するという元手のかからない莫大な富の貯蓄が可能になり、大聖堂の建築が始まる。

それは以前の奉仕に対する贈答という主従関係を根本的に変えることになるが、大規模な教会建築にはヨーロッパ中の高い建築技術を持った専門職人が必要になり、国境を超えた文化や芸術の伝播が始まるのも貨幣経済の優位があって可能になったようだ。

それだけに中世には職人の専門技術の向上と、その洗練が着実に進んでいた。

こうしたヨーロッパの大都市での人々の生活に、著者が現代社会の萌芽を見ているのは興味深いし、文化も技術も停滞して社会的な発展が途絶えた暗黒の中世では決してなかったことが理解できる。

むしろ現代の我々の人間関係の仕組みを良く知り、またそれを活かすためには、意外にも中世時代の価値観の変化を見極める必要があるだろう。

随所にイラストを掲載してイメージを助けてくれるので、中世の世界をバーチャルに体験できるが、そこには私達が抱いている中世に対する印象からは随分違ったものが見えてくる。

むしろ難解なのはこの時代に生きていた人々のスピリットをつぶさに理解することだろう。

それにはより深い読書が求められるし、勿論これ一冊では充分とは言えない。

幸い阿部氏の中世シリーズの作品集は次々と文庫本化され、具体的なテーマによって詳述されているので、中世に興味のある方はてはじめに本書を読まれることをお薦めしたい。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 12:56コメント(0) 

2022年05月18日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



和解と寛容の精神が謳われる中で、とにかく私自身を懐疑論に沈ませる迷著になってしまった。

恨み節のようだが、私が物心がついた時、両者ともそれぞれの分野で甚大な影響力を持つ世界的巨匠には違いなかった。

私が初めて小澤の音楽を聴いたのは、小学生の頃で、我が家に音の出るものと言えばテレビしかなかったので、その番組は消滅して久しいが、貴重な時間ではあった。

記憶に残っているのは《第9》で、高熱を出してステージにも上がれないくらいの体調だったことを後で知ることになるが、第1楽章と第2楽章は手塚幸紀さんが代役に立ち、小澤は後半の2つの楽章を指揮していた。

何と!食道癌という病に冒された現在も同じようなことを繰り返していて、一切指揮者として信頼をなくしていることをご本人は知る由がないのであろうか。

私の興味の対象が音楽よりも文学(村上主義者)や哲学(大学の専攻)のほうに移っていくにつれ、自然と小澤の音楽に接する機会も減っていった。

とにかく小澤はオペラとセッション録音が苦手で、意地の悪い者からすると実演の半分も伝わってこない。

生演奏に接して、小澤の音楽からは音楽に対する熱意は伝わってきても、それ以上のものは伝わってこなかった。

伝家の宝刀、サイトウ・メソッドを片手に日本の音楽家が西洋音楽の分野に充分に通用することを証明してみせただけでも、大変な業績だとは思う。

春樹さんはサイトウ・メソッドは、西洋音楽に内在するリズムを形にするための普遍的な技術を獲得するための方法論だったのだと解釈している。

なので、小澤のフランスものやストラヴィンスキーなどのロシアものは西洋人にも高い評価を得ているのだと認めている。

(閑話休題)

ところで、私には小澤の世界的な活躍と戦後日本の経済復興と失速の状況が重なって見えてしまう。

しかしその母胎である経済構造が、世界規模で考えた経済の発展を支えるには構造的な矛盾であることを村上氏の著作で露呈してしまっている今日、もはやジャパン・ドメスティックではどうにも乗り切っていけないのだ。

かつて世界を股にかけて飛び回っていたビジネスマン第一世代と小澤の姿が重なってしまう自分が悲しい。

つまり小澤が音楽に情熱を傾けるほどに、優秀なメイド・イン・ジャパンの方法論の弱さが露呈してしまうようなのだ。

「カラヤン先生」「レニー」と呼び、カラヤンにはカラヤンのやり方があり、バーンスタインがよい音楽家で、加えてよい人間でもあったらしいことを春樹さんは引き出している(ように思える)。

私が彼らをかわいそうに思うのは、音楽家を育てたかったため、下らない弟子を大勢作ってしまったことだ。

しかもそいつらが臆面もなく自分はカラヤン、バーンスタインの弟子だと得意気に吹聴し、師の栄光を汚して平然としていることだ。

本著で、小澤が師の知的な面を何も学ばなかったことが露呈しているようで、情けなくて仕方がない。

既に師が広めたレパートリーで、しかもベルリン・フィルの指揮台に登場する直前、師のショスタコ5のライヴ録音(オルフェオ)をなぞり、馬鹿みたいに大げさな身振りで陶酔している佐渡裕にはもう呆れ果てて言葉もない。

ゆえに既に指揮者が虚業と化し、演奏家の時代が終焉してしまった現在、カラヤン、バーンスタインを考えるときは、そうした愚かな弟子たちを極力無視し、あいつらは両巨匠の音楽を何も受け継いでいないことを肝に銘じなければならない。

そうでないと、彼らの多面性を見失ってしまい、単なるイケイケ指揮者だと誤解してしまうのだ。

その小澤の社会的存在について、本著においてすばらしい文章が載っているので、そちらをご覧いただきたい。

最後になるが、春樹さんは「スコアなんて簡単に読めるようになるよ」という小澤の勧誘を拒絶している。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:02コメント(0) 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。

 

映画はほとんどの方がご存知だろうが、この本は主人公マリアとフォン・トラップ・ファミリーの自叙伝に当たる。

前半はオーストリアを中心としたヨーロッパでの体験談とアメリカ亡命前夜までが記されている。

渡米以降の家族の生活については続編になるもう一冊に収められている。

谷口由美子氏の訳は常に平明で文面にマリアの敬虔だが、機知に富んだ明るく積極的な人柄が滲み出ている。

また専門用語については注釈が見開きごとに設けられ、読者が読んでいるページですぐに理解できるように工夫されているのも特徴だ。

ここでは修道院で慎ましく生涯を過ごすことに何の疑問も持っていなかったマリアが、トラップ男爵の7人の子供達の家庭教師から男爵夫人となり金融恐慌による破産、男爵の反ナチ思想からの苦悩と亡命に至る不穏な出来事が回想される。

そうした時期を通じて、彼らのささやかな楽しみだった趣味のファミリー・コーラスがヴァスナー神父と名歌手ロッテ・レーマンの協力を得た。

そして奇しくもザルツブルク音楽祭で優勝してからはプロの合唱団として全ヨーロッパでの演奏活動を始める事になる。

またオーストリアのクリスマスや復活祭、そして夏のバカンスなどの歳時記についても詳しく描写されていて、当時の彼らの生活を余すところなく伝えている。

最後の章で男爵は軍人としてドイツに貢献することを拒み、家族も全員一致でヒットラーの前で歌わない決意をする。

危険を冒してさえも自分達の尊厳を貫くことを選んだ固い意志が、その後の彼らの運命を方向付けることになったのだ。

後半では10人の子供達とアメリカでのゼロからの再出発と成功を勝ち得るまでの家族の奮闘がマリア特有のユーモアを交えて綴られている。

フォン・トラップ・ファミリーの前には氷山のような障害も少しずつ溶け去っていく。

激動の時代にあって、彼らは常に前向きに考え、行動した。

いやむしろ体当たり的に生きざるを得なかったというべきだろうか。

しかし稀にみる家族の結束と行動力によって降りかかる難関を次々に切り抜けていくストーリーには興味が尽きない。

家族合唱団を結成して以来、精神的にも、また経済的にも彼らを常に支えたものは彼ら自身のコーラスだった。

トラップ家の絆は音楽によって強く結ばれ、彼らの歌が多くの人々の心を惹きつけ、行動に移した。

アメリカの入国管理の検閲に引っかかり、難民抑留所に何日も軟禁状態になったり、客の入らない演奏会が続いて興行主に契約を打ち切られたり、波乱に満ちた日々の生活の中でも彼らは果敢に歌い続けた。

ここには映画に描かれた美しくロマンティックなエピソードだけではない、彼らの真実の人生が正直に記録されている。

終わりに近い『手紙』の章はそれまで決して弱音を吐かなかったマリアが、常に苦労を共にし励ましてくれた夫、ゲオルク・フォン・トラップ男爵の病に蝕まれていく姿に狼狽し、困惑する。

全編の中で唯一彼女の悲痛な心情が吐露され、彼の臨終に際しては女性らしい暖かで細やかな思いやりがひときわ美しい。

余談ながら次男ヴェルナーの4人の孫が現在でもザ・フォン・トラップ・チルドレンとしてモダンだが繊細で美しいコーラスを世界中で披露している。

曾祖母マリア以来のトラディションが見事に受け継がれているのだ。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 17:53コメント(0) 

2022年05月15日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



下巻は文庫本としての便宜的な配慮から分けられた部分なので、上巻の後半で始まったネオ・プラトニズムの観念について引き続き詳しい解説がされている。

フィレンツェ・メディチ家のサークル、プラトン・アカデミーでは、本来のプラトンの哲学とキリスト教神学の要素を一体化する必要から、その整合性への試みとして2人のアプロディーテ(ウェヌス)と2人のエロス(アモルあるいはクピド)を生み出すことになる。

つまり瞑想的な至高の愛と、より低次元の物質的な愛の具現で、ティツィアーノはこれを『聖愛と俗愛』で独自の解釈を示した。

パノフスキーはここに描かれた2人を「双子のウェヌス」の対立ではなく、知的な美と視覚的な美の調和と解いている。

現世的な欲望を捨て去った姿としての裸体表現はミケランジェロの作品でも常套的に使われているのは明らかだ。

少年時代にロレンツォ・マニフィコにその才能を見出されてから、メディチ家の一員としての待遇を受け、彼らと食住を共にしたミケランジェロであれば、彼が如何にネオ・プラトニズムの影響下に育ったか想像に難くない。

しかしプラトンの言うイデアの世界が不可視であるがゆえに、その想起にまた彼ほど限りなく近付こうと苦闘した人も稀だろう。

下巻の後半部分はミケランジェロの哲学とその作品についてパノフスキーの詳しい考察が開陳されている。

フィレンツェ聖ロレンツォ教会のメディチ家礼拝堂のイコノロジー的な解釈は彼の面目躍如たる部分で、ロレンツォとジュリアーノのためにミケランジェロが製作した4体の像『朝』『昼』『夕』『夜』がそれぞれ冥界を流れる四つの河、つまりアケロン、フレゲトン、ステュクス、コキュトスに一致し、更にそのひとつひとつが中世の四大元素、大気、火、土及び水を表し、それを「多血質、春」「胆汁質、夏」「憂鬱質、秋」「粘液質、冬」に該当させている。

そしてロレンツォの像を瞑想を表すサトゥルヌスに、ジュリアーノを行動を示すユピテルに見立てている。

そう考えるとこれはもはや2人の公爵の墓というより、ミケランジェロ自身の哲学堂のようなものでだ。

彼が同じような構想で創る筈だったローマのユリウス二世墓廟が再三の計画変更を余儀なくされ、彼の手で完成しなかったのは芸術的な損失だったというべきだろう。

最後にパノフスキーはこの著書を終えるに当たって「天才たちの象徴的な創造物というものは、遺憾ながら、二流の芸術家たちの寓意的な作品に比べその主題を釘付けにすることは難しい」と結んでる。

この言葉にはミケランジェロのような人物の作品から、その一種近付き難い高邁な精神を感じ取り、それを哲学的、あるいは芸術的に解釈することが決して容易でないという率直な気持ちが滲み出ている。

何故ならそれは理論というものを遥かに超えた、本人自身にしか理解することができないような独自の信仰があったからに違いない。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 14:35コメント(0) 

2022年05月14日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



本書では第一章で沖縄戦で少年ゲリラ兵として戦った、当時の少年兵達の証言がインタビュー形式で掲載されている。

現在高齢者となった彼等だが記憶は鮮明で、淡々と事実を語る正直な態度がかえってあの戦いの悲惨さを表現し得ている。

著者三上氏は、はじめに「軍隊が来れば必ず情報機関が入り込み、住民を巻き込んだ秘密戦が始まる」と書いている。

沖縄戦では陸軍中野学校出身の工作員が42人も配置され、沖縄住民は上陸してきた米軍との戦いではなく、味方である筈の日本軍によって多くがスパイ視され無実の罪で虐殺された。

住民達も自分の命を守るために軍に加担してしまうという悪循環も起きた。

著者は県民の四人に一人が亡くなった中で、戦死ではない死者の数が何故これほどまでに多いのかという問題を解かねばならなかった。

集団死に追い込まれた人々、作為的にマラリアに感染させられた人、日本軍によるスパイ嫌疑での虐殺などは、戦争が原因になる餓死や病死を除いても数千人に上る。

サイパン島玉砕に際して、陸軍中枢部では「住民には命令で死なせるわけにはいかないが、最後の一兵が尽きた時には自害してくれれば良い」という方針を固めていたようだ。

それが沖縄でも更に徹底した形で実現された。

沖縄の基地問題を訴える県民に「強い米軍に守って欲しいが県民が反対している」「中国に占領されないと彼らは目が覚めない」「自衛隊にまで反対していて我が儘すぎる」などのバッシングが全国から来るというが、沖縄は既に充分過ぎるほど身をもって体験してきたのだ。

三上氏は、命の犠牲と引き換えに得た教訓を無力化する片棒を担がないで欲しい、強い軍隊がいれば守ってもらえるという旗を掲げた泥舟に二度と再び乗り込まないために、と強く訴えている。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 19:11コメント(0) 

2022年05月13日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ルネサンスやマニエリズムの時代には教養人の間で当然のように理解されていた共通の見識があり、アーティスト達も言ってみれば暗黙の了解のもとにさまざまな技巧を凝らして作品に深みを与えた。

それはキリスト教世界にも共通することだが、またこの時期にはユダヤ教や多神教などの研究も盛んに行われたために、作品にも一通りでない複雑な要素が入り込む結果になった。

しかし美術鑑賞が一般化した現代では、そうした限られたサークルの外にいる人達にとって、あるいはその伝統を受け継がない別の社会に生活する者にとっては西洋美術鑑賞の視野を広げるための相応の学習が望まれる。

それがまさに絵解きを必要とする理由で、パノフスキーはこの著書で一般読者向けに説明しているが、後半にまとめられた原注だけでも89ページほどあり、ある程度の難解さは覚悟しなければならない。

それは作品の奥深さを知る上で、これまでとは全く異なった鑑賞の世界を開くための鍵になってくれるだろう。

上巻では序論に説明されている、男の首を持つ若い女性の絵画についての考察が興味深い。

通常こうした場面は、ヘロデ王にヨカナーンの首を要求したサロメか、アッシリアの将軍ホロフェルネスを討ち取った寡婦ユディトのどちらかだが、判断がつかない時は彼女の持ち物を観察することでその謎が解ける。

過去の類型を調べた著者の記述には「盆を持つユディトの類型はあったが、剣を持つサロメの類型はない...剣はユディトや多くの殉教者の、また正義や剛毅などの美徳の広く一般に認められた名誉ある持ち物であったから、剣が淫奔な女性(サロメ)に移されなかったのは当然」とある。

つまり登場人物の判定は剣がそこに描かれているか否かにかかっている。

第三章「時の翁」では、バロック期の墓廟にしばしば描かれた鎌を持つ骸骨が、ギリシャの農耕神クロノス(羅サトゥルヌス)に由来し、それ故に鎌を携えるが、それはまた父神ウラノスを去勢した道具でもあり、同じ発音の「時」と結合して時間の擬人化に繋がると説明されている。

それが往々にして砂時計や翼を伴っている理由だろう。

そしてそれは時の経過、つまり生きるものの宿命である死を意味する。

この章ではブロンヅィーノの『寓意』についての解説が白眉だ。あたかもイコノロジーの手本のようなこの作品は、観る者の裏の裏をかいた画家の老獪な趣向が凝らされていて、多くの美術書が格好のサンプルとして採り上げているが、パノフスキーの解釈は決定的で、オリジナリティーに富んだ強い説得力がある。

第四章の「盲目のクピド」も知的興味をそそられる章だ。古代には小さな翼を持った愛らしい幼児として表された愛の神が、愛が人を盲目にするという意味合いから、中世時代には目隠しをしたクピドが登場する。

やがて目を覆ったクピドが俗性の愛、そうでないクピドが聖なる愛を象徴するという分岐の過程もそれぞれの時代の哲学を反映している。

最後にクラナハのプラトンの著書の上に立つ『自ら目隠しを取るクピド』がプラトニック・ラブを絵画化した顕著な例として紹介し、このテーマは更に下巻に続いていく。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 20:17コメント(0) 

2022年05月10日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



安富氏の満州国への研究が、誰にでも理解できるように平易に述べられている。

満州国は今日の日本の姿を映す鏡のような存在だった。

彼は本書の中で日本人全般の特徴として、原則よりも既成事実に弱いと書いている。

つまり起きてしまったことを云々するよりも、それを受け入れて何とか上手く処理しようとすることが賢明だと考える。

満州国の成立は関東軍の既成事実を当時の日本軍、政府、メディア、国民が何らの疑問を差し挟むことなく容認した結果の産物であることは確かだろう。

そこに精神論が加わると現実から全く乖離した社会を生み出す。

総力戦とは軍事、経済、政治、資源、技術などのリソースが尽きるまで戦うことで、総力を挙げて頑張ることとは違うことを未だに理解していないとも言っている。

これは現在のコロナ禍への取り組みにも一脈通じている。

かつての日本が、天皇が国民を護ってくれる国ではなく、国民がひたすら天皇を護る国だったという論理も納得がいく。

そしてそれぞれが自分の立場を死守することで正当化されることの連鎖の結果、暴走が起き、日本を敗戦に追いやりアメリカの植民地になった。

満州国は傀儡政権で、実質植民地だったのだが、著者の言う植民地根性は確かに現在でも連綿と受け継がれている。

アメリカにすり寄り、こちらから貢物を携えて諂う姿は見苦しいものがある。

安倍元首相が日本を取り戻すために押しつけ憲法を変えよう、自衛隊を外国へ派遣しよう、という発言にも明快に反論している。

根本的な問題は日本人の魂が植民地化されていることから脱することによって、初めて日本を取り戻すことができるという指摘には説得力がある。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 11:14コメント(0) 

2022年05月07日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



全体的に著者多田氏のイタリアでの豊富な体験が、彼の純粋な思い入れを込めて美しく叙述されていて、紀行文としては情緒に溢れた優れた作品だが、美術鑑賞のためのイタリア観光ガイド・ブックとしては、いくらかマニアックな美術作品や建築物が選ばれている。

免疫学者の目から見た西欧、イタリアをこよなく愛する著者が、科学精神・合理主義と裏腹にある影の部分に、イタリア美術を通して迫っている。

彼はそれぞれの芸術作品の観念的な印象に重きをおいて書いているので、勿論相応の下準備と知識の上で述べているには違いないが、作品の詳しいデータや分析、そして使われているテクニックなどは他書に譲らざるを得ないだろう。

いずれにしても学者が門外漢を自称して、驚くほどロマンティックな感性で捉えたイタリアの美術紀行は、それだけで微笑ましいものがあり、本来科学者たる者は、彼くらい悠々自適に専門分野以外の道にも親しんで欲しいものだと思う。

著者はイタリア語の地名、人名の表記についてかなりアバウトな発音で記しているので、実際にツーリストが目的地や美術作品を探す時、多少注意する必要がある。

本来であれば校訂の際に総てイタリア語読みに統一すべきものだろうが、気軽に読めるエッセイ集としての性格からか、特に注意が払われなかったのかも知れない。

勿論ディレッタントを自覚しての著作なので、その辺は大目に見ることができよう。

しかしローマ法王の名称はラテン語読みかイタリア語読みのどちらか一方に統一すべきだろう。

例えば44ページではアレッサンドロ六世とイタリア語を使っているが、106ページではインノチェント八世と書いている。これはインノケンティウス(羅)あるいはインノチェンツォ(伊)である筈だ。

また116ページのウルバン八世もウルバヌスかウルバーノに統一すべきだ。尚地名のフィエゾーレ、サルジニアはイタリアではフィエーゾレ、サルデンニャのように発音される。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 11:04コメント(0) 

2022年05月05日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



本書は教養としての読み方シリーズの一冊で、ローマの通史ではないがクロノロジカルに史実を辿りながら、そこから見えてくる初期の指導者達の個人よりも全体を、利益や権力よりも公明正大な権威を尊んだ気風、そしてその後に引き起こされるモラルの低下やグローバリズムなどの社会制度の変遷から人間性の変化の歴史が見えてくるし、後の大英帝国或いは日本やアメリカも奇しくも同じ轍を踏んでいることが理解できる。

序章で丸山真男の『ローマの歴史には、人類の経験のすべてが詰まっている』という言葉が引用されているが、それを活かせるか否かは後世の人々の叡智、つまり謙虚な歴史検証とそれに基く政治的方向付けにかかっていると言える。

しかし読了して、残念ながら私達が歴史から多くを学んでいないことを痛感する。

ローマ時代に語り継がれた武勇伝や美談のエピソードは多分に美化されているが、そこに彼らの理想とした社会のあるべき姿が反映されていることは疑いない。

それはしばしば現代に生きる私達にも少なからず手本として、或いは繰り返してはならない過ちとして学ぶべき事例の宝庫といえる。

例えを挙げれば共和政時代の逸話に、軍規を冒してスタンドプレイをして戦いを勝利に導いた息子を処刑する将軍の例がふたつ紹介されている。

そこには縁故主義も兵卒同士の優劣もなく、勝てばいいという安易な考えを完全に否定して、息子であっても戦場にあって規律に従わないものは容赦なく罰された。

共和制ローマでのグラックス兄弟による急進的改革運動もそのひとつだ。

彼らの理想は高潔かつ高邁だったが、純粋な情熱だけでは政治を根本から改革することが困難であることも示されている。

第二次ポエニ戦争で再びローマに敗れたカルタゴだが、短期間で奇跡的な経済復興を遂げ、莫大な賠償金の前倒し一括払いを申し出てローマを驚かす。

国家予算の70パーセントを軍事費に当てていた国が、軍の解体を余儀なくされれば経済状態は急激に向上する。

日本での戦後の驚異的な経済復興はしばしば日本人の勤勉さや精神論をスパイスにして説明されがちだが、実際にはカルタゴと同様の説明が成り立つ。

またコンスタンティヌス帝による硬貨の金や銀の含有率を厳密に規定し、レートをリセットしてインフレから脱却させた通貨改革なども、『悪貨は良貨を駆逐する』と言ったグレシャムの法則を先取りした経済政策だ。

帝政末期のフン族の圧迫に伴うゲルマン民族の大移動では、当初寛容に受け入れていたローマは次第に不寛容になり、差別意識も芽生えてくる。

それは現在の難民、移民問題と状況が酷似していて、その解決策は一通りでないことも歴史が語っている。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 08:57コメント(0) 

2022年05月03日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



筆者が初めてこの本を読んだのは学生時代で、まさにイタリアに行こうと決心した時だった。

そして高階氏の文章に魅せられルネサンスの魅力を満喫できたと同時に知り得た事は、ルネサンスを生み出した自由で進取の気風に富んだフィレンツェも、実は他にも増して伝統を重んじ、芸術的な洗練という意味では非常に頑なな趣味に固執していたということだ。

その一例として紹介されているのが、1401年のサン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉のコンクールだ。

同業者組合はドラマティックで当時としては前衛的ともいえる作風のブルネッレスキより繊細なギベルティを好んだ。

しかし結果的にコンクール制度の始まりは実力主義を根付けさせ、批判精神を培い、職人が競ってさまざまな分野に活動を広げる地盤を築いた。

皮肉にもフィレンツェのシンボルとなるサンタ・マリア・デル・フィオーレのドームはブルネッレスキの天才の技が成し遂げた勝利だった。

高階氏はその後フィレンツェ出身の多くの天才達が、この都市から次第に離れてしまうことに目を向けている。

何故ならフィレンツェ共和国の、そして何よりもメディチ家の当主であったロレンツォ・マニフィコは、芸術の庇護者というより、外交手腕に長けた画策家である。

彼らを一種の外交手段として他の都市に送り込み、作品の製作に従事させた。

その良い例が、バチカンのシスティーナ礼拝堂側面のキリスト及びモーゼの生涯だろう。

その理由はパッツィ家の謀反に関与していた法王シクトゥス4世との和解の使者として彼が秘蔵っ子の画家達をローマに送り込んだからに他ならない。

しかしそうした彼の政策は芸術家達のフィレンツェからの流失につながり、当時の社会的情勢と相俟ってフィレンツェに決定的な斜陽と衰退を招いてしまう。

ルネサンスの入門書として是非お勧めしたい一冊だ。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 17:26コメント(0) 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



阿部謹也氏の作品で最初に読んだのが『ハーメルンの笛吹き男』で、それ以来彼の中世ヨーロッパを扱ったシリーズは殆んど読破したが、自伝は今回初めて読んだ。

部分的には他の著作にも顔を出す彼の生涯のエピソードがクロノロジカルに綴られた興味深いもので、確かに阿部氏の記述に全く触れたことのない人は飽きてしまうかも知れない。

しかし戦後カトリック教会の施設で少年期を過ごし、文字通り西欧文化の洗礼を受けた彼が祖国日本と西洋の関わりに否応なく興味を持たざるを得なくなったのは当然だろう。

大学時代の最終研究テーマがヨーロッパ、特にドイツ中世史だったのは偶然ではない。

ドイツ留学は満を持して30歳を過ぎてからになったが、そこでの2年間は水を得た魚のようで、ドイツ語の習得から始まって中世ドイツ語で書かれた古文書まで読みこなすようになる。

素人目から見ると凄まじい勢いで進んだ研究成果は地元からも出版される。

『ハーメルンの笛吹き男』は記録を調査していた時に偶然出くわした実話で、後に訳される『ティル・オイレンシュピーゲル』と共に言ってみれば副産物だったというから驚かされる。

勿論『ハーメルン』の事件は後にゲーテやグリム兄弟によってかなり脚色されて普及するので、1284年6月26日にハーメルンの街から130名の子供達がいなくなったというオリジナルの記録文書を読んだ時の著者の戦慄は想像に難くない。

阿部氏は自分の信念を貫いて誠実に生きた人だと思う。

彼は裕福な家庭に育って不自由なく勉学に勤しんだ御曹司ではない。

幼いながらカトリックの施設に単身寄宿生活しながら勉強したのも、父親を亡くした母子家庭が生きていくために余儀なくされた道だったし、大学時代もアルバイトで生活を支えた苦学生だったが、そうした経験はトラウマではなく生き生きとした体験としてその後の彼の人生に反映されていく。

彼が洋の東西を問わず社会的に弱い立場にある人や、被差別民、賤民などに強い興味をもって、その成立や彼らの真の姿を明らかにしようとした姿勢は、その温かいまなざしに負っている。

それゆえ高い地位にあって学問を振りかざして他人を非難する人や本来の学問の価値を知らない人とは巧くやっていけなかった。

その不器用さが阿部氏の長所でもあることが理解できる。

『ティル・オイレンシュピーゲル』で賤民ティルが身分の高い人々にも一泡吹かせる痛快なスピリットには共通点があるのではないだろうか。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 05:23コメント(0) 

2022年05月02日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



戦争はある種の社会的倒錯を招く。

安部公房自身満州で少年期を過ごしたために、戦後の中国の混乱を目の当たりにしていた。

また医学を専攻しただけに、作品の中で気味の悪いほど病状や精神的疾患の描写が試みられている。

引揚者の多くが証言しているように、ソヴィエト参戦の直後、関東軍は開拓民に知らせることなく、利用できる武器や交通手段をすべて持ち去る形でそそくさと撤退した。

丸腰で取り残された日本人は、生死を懸けた徒歩での逃避行を始めるわけだが、満州国で生まれ育った主人公、久三は母の看病のために逃げ遅れ、ソヴィエト軍の小間使いとして働いていた。

まだ見ぬ祖国日本への強い憧憬から、ある日脱出を決行する。

彼の計画はいたるところで頓挫するが、最初に彼に援助の手を差し伸べたのは、他でもないソヴィエト軍の将校、アレクサンドロフ中尉だった。

彼は寛大にも久三に通行許可証と金を与えて逃がした。

その後逃避行の相棒に騙されて、身ぐるみ剥がされて放り出されて途方に暮れていた時、彼に日本人居留区の場所を教えたのは、日本人を激しく憎んでいた中国人少年だった。

しかし居留区の日本人達は久三の入場を拒んだ。

彼にとって最も酷い仕打ちをしたのは、皮肉にも日本人だった。アレクサンドロフが久三に言った『おれたちと一緒にいるのが、なんといったって、幸せなのさ』という言葉が妙にこの物語を象徴している。

絶望と息詰まるほどの閉塞感の中で幕を閉じるこの小説は、確かにその後の安部文学の手法にもなっている。

筆者は学生時代に安部公房に嵌った。

奇怪な発想と深層心理に導かれる人間の変容、現実と幻想の交錯に何故か強く惹かれた。

その頃手に入った彼の代表的な作品は読破したが、この『けものたちは故郷をめざす』は当時高価な全集でしか売られていなかったので、今回初めて読むことができ、久々に安部文学を堪能した。

初期の作品だが、「虫になって地図の上をさまよう夢を見た」とか「音の蜃気楼」などの表現は円熟期の彼の作品を予感させている。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 10:23コメント(0) 

2022年05月01日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ラジオ講座のために用意された原稿なので、堀米氏の鋭い閃きと確信に貫かれた他の著作に比較すると、特有の話し口調が意外なくらいまわりくどい。

また歴史の見方について非常に慎重に検証しているために石橋を叩いて渡るようにも感じられるが、その中に彼の芯の強い主張が込められているのも確かだ。

しかもこれが半世紀以上も前に執筆されたことを思うと、彼が歴史に対する最も革新的な立場をとった観察者である。

さらに深い洞察とあらゆる科学的手段を駆使して過去の出来事が何を物語っているかを見つけようとした研究者であったかが理解できる。

本文でも述べられているように歴史への関心は、人が危機に立ち向かって決断を迫られた時、過去を振り返ってその回答を得ようとして生まれる。

しかし過去に記述された資料は、むしろ客観的でないものの方が一般的という解釈も納得がいく。

日記に喩えて説明されているように、事実はその書き手によって選択されるからで、書かれなかったことが全くなかったことにはならない。

過去の偉大な歴史家と言える人達でも、彼らは書き始める前に既に自分が何を語りたいか確たるアイデアを構想していて、それを正当化する事実を書き連ねることになるからだ。

それゆえ大袈裟に言うならば偏向的でない歴史書は存在しない。

特に印象に残ったのは、カール・マルクスの生産力と生産関係の間に起こる矛盾が歴史発展の原動力という見解が、奇しくも古代、中世、近世の三区分法に一致していることである。

古代をマルクスは古代奴隷制、中世を封建的農奴制、そして近代を市民的資本制として歴史の三区分法がマルクシズムによっても確実に裏付けられていることだ。

それはマルクスの歴史分析の力量を示していて示唆的だ。

いずれにしても現代の歴史学者が過去の事象から歴史を書こうとする時、考古学、社会学、経済学などの広範囲に亘る科学に如何に精通していなければならないかを痛感させられる。

またそれらは常に更新されるべき宿命を持っている。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 17:22コメント(0) 

2022年04月26日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



デクラマティオーの様式に則って、愚民の楽園と化した現世を痴愚女神モーリアがスコラ神学者の不毛な論争や王侯貴族達の生き様を鋭い風刺と揶揄を開陳しながら次々と痛快にこき下ろしていくが、その鉾先は高位聖職者やローマ教皇にまで及ぶ。

この作品が出版されたのが1511年だから、その6年後にヴィッテンブルクで掲げられたルターのカトリック教会に対する95箇条の提題がエラスムスに触発されたことは想像に難くない。

その意味でも当時としては画期的で斬新な創作だったに違いない。しかしルターの思惑に反して彼は宗教革命を望まなかった。

随所に挿入されているハンス・ホルバインの挿絵は現代人から見てもひょうきんな味わいがあり、この作品の胡散臭さを醸し出している。

ホルバインはイギリス国王ヘンリー8世の肖像でも知られた宮廷画家だが、エラスムスの肖像画も残している。

エラスムスはオランダが生んだ文学者であり、また神学者でもあったが日本では彼の名やその著作は同時代のトマス・モアやマキャベリあるいは少し後のシェークスピアなどに比べて知名度は低い。

訳者沓掛氏によれば、それは彼が生涯に亘ってラテン語で書き続けたためで、その後死語になった言語は市民に溶け込む機会を失ってしまったようだ。

確かにダンテは早くからイタリア語で『神曲』を書いていたし、シェークスピアが盛んに上演されるのは庶民にも理解できる英語だったからだろう。

当時ヨーロッパでの教養人の共通語はまだラテン語だったが、格調は高いかもしれないが込み入った文法を持ったラテン語より、一般人には当然話し言葉として地方に定着した言語を好んだ。

それゆえエラスムスを読むには原典を一度翻訳する作業が不可欠になり、取っつきにくい理由になっていることは疑いない。

沓掛氏が原典訳を決心した経緯が訳者あとがきに詳しい。

大学で『痴愚神礼讃』を講義するに当たって、当時唯一のラテン語原典訳だった大出晃訳出の同書を参考までに調べると、荒唐無稽な誤訳が露呈されていて、古典に関する知識も疑われるような無残な状態だったと書いている。

その後誰も原典訳に取り組まないので自らこの難役を買って出て、作品の誤解を解くことに余生を懸けたようだ。

それだけに沓掛訳は日本語としても非常に流暢で平易に訳されている。

筆者は以前彼の『ホメーロスの諸神讃歌』を読んで訳業に対するプロフェッショナルな姿勢に感服したが、この『痴愚神礼讃』も周到な準備のもとに訳出された作品であることが理解できる。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 14:28コメント(0) 

2022年04月24日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



北フランスで建設が始まったゴシック様式の教会は、著者がプロローグで述べているようにゲルマン民族のゴート人が創り上げたものではなく、むしろその地の先住民族たるケルト人に関係が深い。

パリやシャルトルの大聖堂の地下を掘っていくと、ケルト信仰の聖所が出て来るというのも象徴的だ。

フランスの山村では中世時代になっても多くの農民達は、異教である大地母神の信仰を頑なに持ち続けていたようで、カトリックの布教者は彼らに違和感を与えることなく改宗させるべく実に老獪な策を敷いた。

彼らの信仰の場所であった森林をイメージさせる広い空間と高い天井、木々の枝が上昇していくようなリブや尖ったアーチ、そして執拗とも言える樹葉のモチーフを使った装飾、更に木漏れ日はステンドグラスに取って代わり、古代の生贄の観念は苦悩するキリスト像にオーバー・ラップさせる。

こうして大地母神信仰が鮮やかに聖母マリア信仰にすり替えられていく。

また著者はゴシック教会の装飾としてしばしば使われる魑魅魍魎の彫刻やレリーフについて、グロテスクなものを好む感性は異教の感性と断言している。

ルネサンス時代にゴシック様式は均整と調和を欠くものとしてラファエッロやヴァサーリによって糾弾された。

確かにフランス、スペイン、ドイツに比較してイタリアには純粋なゴシック様式の建築物は数えるほどしかない。

しかし著者はルネサンスでは許されなかった未完了のアンバランスな姿こそ終わることのない時間の流動性の表現であり、ゴシックの本質と結論付けている。

ゴシックの大聖堂が異種のものに身を開いているように見えるのは、異教から流用された精神的、物質的なあらゆるエレメントが今もってそこに息づいているからだろう。

この著書では酒井氏が建築学の立場に立ったゴシックの特性だけでなく、それが導かれた宗教文化や精神面から筆を起こしているところに価値があり、日本語で書かれた類書の中でも優れた内容が特筆される。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 13:26コメント(0) 

2022年03月31日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



マタイ受難曲はJ.S.バッハの最高傑作、そして磯山雅(いそやま ただし、1946年4月30日 - 2018年2月22日)氏は日本におけるJ.S.バッハ研究の第一人者であった。

その磯山氏がマタイ受難曲と真っ正面から取り組んで、長大な受難曲のテキストを新しく訳出し、ひとつひとつの場面、ことば、フレーズに解説を付した成果が本書になる。

礒山氏のライフワークに相応しい高度な研究書であり、バッハのマタイ受難曲鑑賞の為のガイドブックとしても計り知れない理解と助言を与えてくれる。

文章は難解な術語もなく、一般向けに理解しやすく読みやすいものになっており、理解に難渋することのないのが特徴でもある。

しかも平易そのものの文章に盛り込まれた高度な内容は、愛好家から専門家まで幅広い読者を満足させるものだ。

礒山氏はマタイを構成する全68曲に自らの訳と解説、そして可能な限りの解釈を示し、参照楽譜の断片も多数掲載している。

本書を読み進めていくとバッハが如何に心血を注いでこの曲を作曲していったかという事を思い知らされる。

著者がバッハの最高傑作と言ってはばからない理由がそこにあり、またその説明にも説得力がある。

特に残された自筆譜から読み取る各場面の心理描写における調性の選択、そして形象や表象、数象徴については作曲家の天才的な、あるいは殆ど病的なまでの技巧が凝らされている事実には感動を禁じえない。

何故なら私達が実際の音楽を聴いてそれを総て感知できる為には相当の学習が必要だからだ。

つまりバッハは聴衆はともかくとして自分自身の為にこの曲を書いていたのではないか、という疑問さえ生じてくる。

興味深い逸話としては、当時のパート譜から判断される楽器奏者の持ち替え演奏だ。

経済的にオーケストラの人員を増やすことがままならなかった事情から、彼らもフルに活用されていた。

第1ヴァイオリンの奏者は持ち替えでブロックフレーテも吹いていたのだ。

尚最後に置かれた同曲のCD批評には、彼の正直で忌憚の無い意見が述べられていて、どの演奏を聴くべきか迷っている方には最良の手引きとなるだろう。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 13:25コメント(0) 

2022年03月20日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ロマン・ロランは実に数多くの作品を書いたが、世界に広く読まれているものは、なんといっても『ジャン・クリストフ』であろう。

ロマン・ロランは当作品でノーベル文学賞を受賞したが、まさに彼の代表作であり、世界文学史上の不滅の傑作である。

この作品は、どんな逆境にあってもひるまずに、人間完成を目指して苦闘する一つの魂の生成史である。

主人公ジャン・クリストフの幼少時代は、ロマン・ロランが終生私淑してやまなかったベートーヴェンがモデルになっていることは周知の通りであるが、彼自身の現実の思い出も少なからず取り入れられている。

また、成人後のジャン・クリストフにも、作者自身の生活体験が豊富に取り入れられている。

しかしジャン・クリストフは、あくまでも、作者が理想の人間像として描き出した人物である。

もちろん、ジャン・クリストフの人生観、社会観、また芸術観などは、作者のそれであることに間違いはないが、ジャン・クリストフの個性なり気質なりは、作者のそれとはかなりかけ離れたものと考えなければなるまい。

むしろ、オリヴィエ・ジャナンの中にこそ、作者の面影が多く射し言っているといっても差し支えないであろう。

ロマン・ロランは、ベートーヴェンこそは一生を通じて彼の魂の師であった。

彼がいく度か生の虚無感におそわれた危機に、彼の心の内部に無限の生の火をともしてくれたものは、実にベートーヴェンの音楽であった。

ロマン・ロランのベートーヴェンに対する尊敬と傾倒とは、また、中年及び晩年において、大規模なベートーヴェン研究となって結実している。

これは音楽研究家としてのロマン・ロランの、専門的な学究的著作ではあるが、ここに分析されたベートーヴェンの自然観、宗教観、女性観は、ロマン・ロラン自身のそれらと非常に似かよったところがある。

われわれはここに、相寄る魂の実に美しい一つの実例を見ることができる。

ロマン・ロランは、19世紀の末から20世紀の前半を誠実に生き抜いた一人の偉大なヒューマニストの、信仰の告白であり、人間信頼の賛歌であり、時代の生きた良心的な証言である。

晩年ロマン・ロランは「私はずいぶん読まれているが理解されていない」と嘆いているが、果たしてそうであろうか?

多くの人々は、彼の幾多の作品を通して、彼の魂の奥深い深淵をのぞきこんで、そこから彼の魂の秘密をくみとろうと努力している。

特に『ジャン・クリストフ』を読むことは、われわれにそうした努力を強いるのである。

そうしたところに、彼の作品のはかり知れぬ魅力と偉大さがあるといえるであろう。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 23:21コメント(0) 

2022年03月18日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



この歴史的著作はアッシジのフランシスとローマ法王イノセント3世の会見で始められ、最終章で再びこの2人の出会いの場面に戻って閉じられている。

それだけにこの機会が著者堀米氏の研究テーマであったカトリック教会の正統と異端のせめぎあいを象徴する事件として描き出されている。

ここで言う正統と異端には私達の通常のイメージを一新するほどかなり異なった実情があったことが明らかにされている。

著者は正統とは宗教的客観主義であり、異端は主観主義であると定義している。

平たく言えばカトリック教会では聖書に権威による解釈というクッションを置いて布教に努めるが、異端はより近視眼的に聖書に書かれた通りの生活を人々に強要し、それ以外の行為を認めない。

しかし実際には世捨て人にでもならない限りその実行は不可能で、教会側としてはいくら聖書に忠実であっても教会の権威や社会構造を根本的に揺るがしかねない主観主義は退けた。

しかしながら時の権力者と常にギブアンドテイクの関係で繁栄を享受してきた教会内部には腐敗が蔓延っていたことも厳然とした事実だったために、グレゴリウス改革を頂点とした異端追放と同時に彼らとの折り合いを見出さなければならず、その一大軌道修正であり、歴史的決断が法王イノセントと異端である筈のフランシスへの布教の承認だったと言えるだろう。

カトリック教会が常に世俗の権力と離れ難く結び付いていたことは王権神授を実行してみせたカール大帝以来紛れもない事実だが、それにはまた権力側からの教会への土地の寄進や財産の喜捨も大きく影響している。

これについて阿部謹也氏が何冊かの中世シリーズで述べているのは、伝統的なゲルマンの主従関係を支えていた贈答関係を、教会は来世を保証する精神的な担保に巧妙にすり替えることに成功したとしているが、ここではまた修道院への土地の寄進は、国王や豪族達が最も効果的な一種の投資として行っていたことも理解できる。

何故なら農業生産向上を支えた技術の進歩は修道院からおこり、人が唯一学業に専念できる文化の中心でもあったからだ。

つまり世俗からの教会への寄進、喜捨はひとつの重要な政治的ストラテジーという解釈にも説得力がある。

こうした事実からも教会は世俗との縁を切ることは不可能だった。

一方この著作の佳境は第4章『グレゴリウス改革と秘蹟論争』の部分で、堀米氏はカノッサの屈辱の立役者グレゴリウス7世による、教会からの堕落した聖職者の徹底追放に至るまでに、こうした動向がカトリック教会内部で進み、それが着実に準備されていたことを詳細に説明している。

それは厳格な宗教観を持っていた神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ3世下のローマ法王レオ世に始まる。

しかしこの急進的改革は伝統的なアウグスティヌス、グレゴリウス一世の客観路線を踏み外すことになる。

第5章以降ではカタリ派やワルド派などの異端が生まれた必然性と、それらがこうした動向に連動した背景が解説されている。

1184年のヴェロナ公会議では教会の明示付託によらない一切の説教や秘蹟論への批判は異端と決定し、正式な異端審問が制度化された。

これによって惹き起こされた正統と異端の妥協の余地のない対立、教会分裂の危機をイノセント三世は驚異的な洞察力と、寛大と慎重さを持って彼らの一部を吸収することで巧みに回避することになる。

先ずフミリアーティに、そしてワルドには条件付和解という形で承認を与えるが、その最後の試みであり総仕上げがフランシスを取り込むことだったようだ。

それは決して映画で再現されたようなフランシスの福音書への忠誠や清貧への情熱だけから認可されたものではなく、イノセントによって綿密に青写真化されたポリシーに基くものとしている。

しかし堀米氏はイノセント自身、フランシスコ修道会がカトリック教会の屋台骨になるような大組織に成長するとは夢想だにしていなかっただろうと書いている。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 10:26コメント(0) 

2022年03月17日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



始めの部分では聖書の『たとえ』話法について詳述されているが、中でも『ぶどう園の悪しき農夫たち』の解説は秀逸だ。

また最後の晩餐に象徴されるユダヤ人の晩餐の意味合いと形態についての説明から、意外にも私達がイメージする夕食とはかなり異なっていたことが理解できる。

古い慣習では、彼らはあらゆる契約を結ぶ時に自分自身の体の一部を傷つけて血を滲ませることで、その契約履行をお互いに確認し合った。

契約の際に流される血が最後の晩餐でイエスが弟子達に注ぐ赤ワインであることも頷ける。

ちなみに本書では扱っていないが、ユダヤ教においての神との契約が割礼という形で信者に遵守されているのは象徴的だ。

また彼らにとって一緒に食事をすることが、契約成立に伴う締めくくりの儀式だとすれば、最後の晩餐は自ずと重要な意味を持ってくる筈だ。

136ページに示されているようにユダヤ教外典には殉教者が死後復活することや、『ソロモンの知恵』のようにプラトンに由来する魂の不死性について言及した部分もあるようだ。

こうした思想はキリスト教では後に失われる輪廻の考え方にも相通じるものがあって興味深い。

しかし一方でこれを否定したコヘレト書も紹介されている。

つまり創世記に綴られているように、神は地上の塵芥から人を創造されたので、総ては塵芥に帰するというサドカイ派に支持された思想だが、イエスは最後の審判という終末思想と、その後の義人の復活を唱えている。

そこには明らかに天上と冥府のふたつの世界が識別されている。

このラジオ講座は抹香臭くないのが特長で、福音書も冷静に読み解かれているので信者でなくても抵抗なくユダヤ教やキリスト教の哲学に触れることができる。

註は同ページの下欄に設けられているが、また要所要所に簡潔に整理された図表が理解を助けてくれる。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 15:27コメント(0) 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



NHKラジオ講座『宗教の時間』で2018年放送された旧約聖書の世界に引き続いて、2019年は新約が取り上げられた。

本書は同様に纏められた2巻のうち4月から9月分放送用のテキスト上巻になる。

口絵としてカラー写真及び簡単な図解、また本文の同ページ下欄に注釈が設けられているので、音声を通して聴く時の参考になるが、勿論テキストを読むだけでも講座の内容は充分理解できるだろう。

講師でもある著者の廣石氏は、自身プロテスタントの宗教者でありながら、教義化された現在のキリスト教やイエス像を信仰という名の下に鵜呑みにするのではない。

彼の出生から福音書の成り立ちを広範な歴史的資料に基いて検証し、その真実の姿を探り出すことを試みている。

だから彼の文章にはいわゆる宗教臭さは皆無で一般教養としてもかなり高度な内容を持っている。

それだけに聖書に書かれた創造主の技や奇跡を文字通り信じて疑わない熱心な信者にとってはむしろやっかいな、あるいは受け入れ難い考察もあるかも知れない。

先ずキリストの実在性についてだが、これはキリスト教側だけでなくローマ側の証言、つまり元老院議員であったタキトゥスの『年代記』にクリストゥスがティベリウス皇帝治世下にユダヤ長官ピラトゥスによって処刑されたという記述があることで、その蓋然性を主張している。

一方でイエスに関するキリスト教側の記録は処刑から少なくとも20年経過してから書かれたもので、最も古いマルコ福音書と語録資料Q文書からマタイ、ルカの両福音書が成立したとしている。

その中で洗礼者ヨハネによって洗礼を受けたイエスの姿も動かし難い事実として浮かび上がってくるが、後の布教者はヨハネをイエスの上に置かないための矯正作業も行っているのが興味深い。

イエス自身は何一つ書いたものを残さなかった。

福音は総て彼から口述され、それを聞いた人が解釈を施しながら4つの福音書として成り立つ。

それは丁度ソクラテスの言行をプラトンを始めとする弟子達が書き記したことに類似している。

そのあたりにも彼のカリスマ性が感じられるのも当然だろう。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 11:13コメント(0) 

2022年03月16日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



NHKラジオ講座で放送された『物語としての旧約聖書』シリーズの下巻になり、本書は2018年10月から2019年3月までのテキストでもある。

聖書に全く縁のない人でもラジオを聞きながら読み進めることによって、象徴的に書かれている事柄やその元になった歴史的な事件の意味合いを平易に理解できるだろう。

ただし旧約はヘブライ語で記された39書に及ぶ一種の歴史書で筆者も複数であるため、お互いの間での齟齬や異なった解釈も少なからずある。

そうした問題を簡潔に説明するのは決して容易なことではないが、著者の月本氏は要点を注意深く検証して、歴史的事実や発掘調査などによる最新のデータを精査しその精神性を引き出し、イスラエルの民族が悲願し継承してきたものの根底を探っている。

この下巻では奴隷に身を窶していたイスラエルの民がモーセに率いられて、約束の地カナンへ向かう『出エジプト』から始まる。

彼らの土地所有に関する興味深い指摘が本文中にある。

大地は神の所有物であって、人は寄留者という観念だ。

つまり生活の場である土地は神からの賜り物なので、人々の共有の財産として個人的に利用し尽くすことは許されない。

それは彼らが本来遊牧民だったことに由来しているようだ。

貸借関係が一切ご破算になり土地が開放される50年に一度のヨベルの年の制定も、それまでに得たもの総てを神に返すという象徴的な年だ。

ちなみにカトリック教会では期間を半減させた巡礼年ユビレウムをここから採り入れている。

イスラエルが王国になってからの神との契約について著者は、王を神から選ばれた存在として、その支配権を宗教的に正当化することは権力を手中に収めた者の常套手段であり、王権神授説だとしている。

確かに後の時代にフランク王国のシャルル大帝が神の代理人たるローマ法王から戴冠を受けたことが、神からの権威の承認としてその後長く続くことになるし、日本においては将軍が常に天皇を後ろ盾にしていた事実も同様の理由だろう。

後半のイスラエルの預言者についての、その特殊性の分析も非常に示唆的だ。

聖書は世界のベストセラーに君臨し続ける書物だが、それは読者がユダヤ教やキリスト教信者の数に比例していることは否定し難いとしても、現代の私達が窮地に立たされたり困難な状況に遭遇した時の、人としての生き方の選択肢や指針が示されているためだろう。

あるいは政治やビジネスのためのストラテジー的な利用方法もあるかも知れない。

何故なら旧約は美談をちりばめた自画自賛の書ではなく、数千年に亘ってイスラエルが失態を繰り返してきた赤裸々な告白録でもあるからだ。

著者も述べているように、バトシェバ事件に始まるダビデ王朝での出来事は、イスラエルの民族にとっては『不都合な真実』ばかりだが、サムエル記から列王記まではその『不都合な真実』を改竄することなく、むしろ詳らかに記している。

旧約聖書の創世記から9書が、彼らのバビロニア捕囚期に纏められた理由について、月本氏は民族存亡の危機にあった彼らの過去に対する徹底した反省によって自分達の未来を展望せざるを得なかったからだとしている。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 21:02コメント(0) 
メルマガ登録・解除
 

Profile

classicalmusic

早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

Categories
Archives
Recent Comments
記事検索
  • ライブドアブログ