書物

2022年05月19日


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著者阿部氏によれば、ドイツを中心とするヨーロッパでの人と人との、そして人と物との新しい関わり方は、集落が都市として発展し始める中世時代に端を発している。

農村地帯とは切り離されて城塞によって取り囲まれた都市は、それまでの人同士の関係を必然的に変化させていく。

最初に例を挙げているのが都市の最小単位になる住居で、その集合体である街は社会的共同体を形成するので当然安全で円滑な社会を維持するために新しい法律が必要になり、結果的に都市住民は既得権益維持のために余所者を排除しようとする差別も表面化してくる。

また貯蓄や分配が容易く、商業活動に圧倒的に有利な貨幣の価値がそれまでの物に代わって貨幣経済が成立するが、また一方で貧富の差を拡大させたことも理解できる。

阿部氏はユダヤ人への差別が決定的になったのは、ヨーロッパの人々が古いタイプの人と物との関係をまだ手放せないでいる時、彼らが逸早く貨幣価値を認識し蓄財に成功したことへの反発としている。

カトリック教会は喜捨や寄進を奨励し、死後の世界を保証するという元手のかからない莫大な富の貯蓄が可能になり、大聖堂の建築が始まる。

それは以前の奉仕に対する贈答という主従関係を根本的に変えることになるが、大規模な教会建築にはヨーロッパ中の高い建築技術を持った専門職人が必要になり、国境を超えた文化や芸術の伝播が始まるのも貨幣経済の優位があって可能になったようだ。

それだけに中世には職人の専門技術の向上と、その洗練が着実に進んでいた。

こうしたヨーロッパの大都市での人々の生活に、著者が現代社会の萌芽を見ているのは興味深いし、文化も技術も停滞して社会的な発展が途絶えた暗黒の中世では決してなかったことが理解できる。

むしろ現代の我々の人間関係の仕組みを良く知り、またそれを活かすためには、意外にも中世時代の価値観の変化を見極める必要があるだろう。

随所にイラストを掲載してイメージを助けてくれるので、中世の世界をバーチャルに体験できるが、そこには私達が抱いている中世に対する印象からは随分違ったものが見えてくる。

むしろ難解なのはこの時代に生きていた人々のスピリットをつぶさに理解することだろう。

それにはより深い読書が求められるし、勿論これ一冊では充分とは言えない。

幸い阿部氏の中世シリーズの作品集は次々と文庫本化され、具体的なテーマによって詳述されているので、中世に興味のある方はてはじめに本書を読まれることをお薦めしたい。

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2022年05月18日


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和解と寛容の精神が謳われる中で、とにかく私自身を懐疑論に沈ませる迷著になってしまった。

恨み節のようだが、私が物心がついた時、両者ともそれぞれの分野で甚大な影響力を持つ世界的巨匠には違いなかった。

私が初めて小澤の音楽を聴いたのは、小学生の頃で、我が家に音の出るものと言えばテレビしかなかったので、その番組は消滅して久しいが、貴重な時間ではあった。

記憶に残っているのは《第9》で、高熱を出してステージにも上がれないくらいの体調だったことを後で知ることになるが、第1楽章と第2楽章は手塚幸紀さんが代役に立ち、小澤は後半の2つの楽章を指揮していた。

何と!食道癌という病に冒された現在も同じようなことを繰り返していて、一切指揮者として信頼をなくしていることをご本人は知る由がないのであろうか。

私の興味の対象が音楽よりも文学(村上主義者)や哲学(大学の専攻)のほうに移っていくにつれ、自然と小澤の音楽に接する機会も減っていった。

とにかく小澤はオペラとセッション録音が苦手で、意地の悪い者からすると実演の半分も伝わってこない。

生演奏に接して、小澤の音楽からは音楽に対する熱意は伝わってきても、それ以上のものは伝わってこなかった。

伝家の宝刀、サイトウ・メソッドを片手に日本の音楽家が西洋音楽の分野に充分に通用することを証明してみせただけでも、大変な業績だとは思う。

春樹さんはサイトウ・メソッドは、西洋音楽に内在するリズムを形にするための普遍的な技術を獲得するための方法論だったのだと解釈している。

なので、小澤のフランスものやストラヴィンスキーなどのロシアものは西洋人にも高い評価を得ているのだと認めている。

(閑話休題)

ところで、私には小澤の世界的な活躍と戦後日本の経済復興と失速の状況が重なって見えてしまう。

しかしその母胎である経済構造が、世界規模で考えた経済の発展を支えるには構造的な矛盾であることを村上氏の著作で露呈してしまっている今日、もはやジャパン・ドメスティックではどうにも乗り切っていけないのだ。

かつて世界を股にかけて飛び回っていたビジネスマン第一世代と小澤の姿が重なってしまう自分が悲しい。

つまり小澤が音楽に情熱を傾けるほどに、優秀なメイド・イン・ジャパンの方法論の弱さが露呈してしまうようなのだ。

「カラヤン先生」「レニー」と呼び、カラヤンにはカラヤンのやり方があり、バーンスタインがよい音楽家で、加えてよい人間でもあったらしいことを春樹さんは引き出している(ように思える)。

私が彼らをかわいそうに思うのは、音楽家を育てたかったため、下らない弟子を大勢作ってしまったことだ。

しかもそいつらが臆面もなく自分はカラヤン、バーンスタインの弟子だと得意気に吹聴し、師の栄光を汚して平然としていることだ。

本著で、小澤が師の知的な面を何も学ばなかったことが露呈しているようで、情けなくて仕方がない。

既に師が広めたレパートリーで、しかもベルリン・フィルの指揮台に登場する直前、師のショスタコ5のライヴ録音(オルフェオ)をなぞり、馬鹿みたいに大げさな身振りで陶酔している佐渡裕にはもう呆れ果てて言葉もない。

ゆえに既に指揮者が虚業と化し、演奏家の時代が終焉してしまった現在、カラヤン、バーンスタインを考えるときは、そうした愚かな弟子たちを極力無視し、あいつらは両巨匠の音楽を何も受け継いでいないことを肝に銘じなければならない。

そうでないと、彼らの多面性を見失ってしまい、単なるイケイケ指揮者だと誤解してしまうのだ。

その小澤の社会的存在について、本著においてすばらしい文章が載っているので、そちらをご覧いただきたい。

最後になるが、春樹さんは「スコアなんて簡単に読めるようになるよ」という小澤の勧誘を拒絶している。

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映画はほとんどの方がご存じだろうが、この本(試し読み可能)は主人公マリアとフォン・トラップ・ファミリーの自叙伝に当たる。

前半はオーストリアを中心としたヨーロッパでの体験談とアメリカ亡命前夜までが記されている。

渡米以降の家族の生活については続編になるもう一冊に収められている。

谷口由美子氏の訳は常に平明で文面にマリアの敬虔だが、機知に富んだ明るく積極的な人柄が滲み出ている。

また専門用語については注釈が見開きごとに設けられ、読者が読んでいるページですぐに理解できるように工夫されているのも特徴だ。

ここでは修道院で慎ましく生涯を過ごすことに何の疑問も持っていなかったマリアが、トラップ男爵の7人の子供達の家庭教師から男爵夫人となり金融恐慌による破産、男爵の反ナチ思想からの苦悩と亡命に至る不穏な出来事が回想される。

そうした時期を通じて、彼らのささやかな楽しみだった趣味のファミリー・コーラスがヴァスナー神父と名歌手ロッテ・レーマンの協力を得た。

そして奇しくもザルツブルク音楽祭で優勝してからはプロの合唱団として全ヨーロッパでの演奏活動を始める事になる。

またオーストリアのクリスマスや復活祭、そして夏のバカンスなどの歳時記についても詳しく描写されていて、当時の彼らの生活を余すところなく伝えている。

最後の章で男爵は軍人としてドイツに貢献することを拒み、家族も全員一致でヒットラーの前で歌わない決意をする。

危険を冒してさえも自分達の尊厳を貫くことを選んだ固い意志が、その後の彼らの運命を方向付けることになったのだ。

後半では10人の子供達とアメリカでのゼロからの再出発と成功を勝ち得るまでの家族の奮闘がマリア特有のユーモアを交えて綴られている。

フォン・トラップ・ファミリーの前には氷山のような障害も少しずつ溶け去っていく。

激動の時代にあって、彼らは常に前向きに考え、行動した。

いやむしろ体当たり的に生きざるを得なかったというべきだろうか。

しかし稀にみる家族の結束と行動力によって降りかかる難関を次々に切り抜けていくストーリーには興味が尽きない。

家族合唱団を結成して以来、精神的にも、また経済的にも彼らを常に支えたものは彼ら自身のコーラスだった。

トラップ家の絆は音楽によって強く結ばれ、彼らの歌が多くの人々の心を惹きつけ、行動に移した。

アメリカの入国管理の検閲に引っかかり、難民抑留所に何日も軟禁状態になったり、客の入らない演奏会が続いて興行主に契約を打ち切られたり、波乱に満ちた日々の生活の中でも彼らは果敢に歌い続けた。

ここには映画に描かれた美しくロマンティックなエピソードだけではない、彼らの真実の人生が正直に記録されている。

終わりに近い『手紙』の章はそれまで決して弱音を吐かなかったマリアが、常に苦労を共にし励ましてくれた夫、ゲオルク・フォン・トラップ男爵の病に蝕まれていく姿に狼狽し、困惑する。

全編の中で唯一彼女の悲痛な心情が吐露され、彼の臨終に際しては女性らしい暖かで細やかな思いやりがひときわ美しい。

余談ながら次男ヴェルナーの4人の孫が現在でもザ・フォン・トラップ・チルドレンとしてモダンだが繊細で美しいコーラスを世界中で披露している。

曾祖母マリア以来のトラディションが見事に受け継がれているのだ。

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2022年05月15日


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下巻は文庫本としての便宜的な配慮から分けられた部分なので、上巻の後半で始まったネオ・プラトニズムの観念について引き続き詳しい解説がされている。

フィレンツェ・メディチ家のサークル、プラトン・アカデミーでは、本来のプラトンの哲学とキリスト教神学の要素を一体化する必要から、その整合性への試みとして2人のアプロディーテ(ウェヌス)と2人のエロス(アモルあるいはクピド)を生み出すことになる。

つまり瞑想的な至高の愛と、より低次元の物質的な愛の具現で、ティツィアーノはこれを『聖愛と俗愛』で独自の解釈を示した。

パノフスキーはここに描かれた2人を「双子のウェヌス」の対立ではなく、知的な美と視覚的な美の調和と解いている。

現世的な欲望を捨て去った姿としての裸体表現はミケランジェロの作品でも常套的に使われているのは明らかだ。

少年時代にロレンツォ・マニフィコにその才能を見出されてから、メディチ家の一員としての待遇を受け、彼らと食住を共にしたミケランジェロであれば、彼が如何にネオ・プラトニズムの影響下に育ったか想像に難くない。

しかしプラトンの言うイデアの世界が不可視であるがゆえに、その想起にまた彼ほど限りなく近付こうと苦闘した人も稀だろう。

下巻の後半部分はミケランジェロの哲学とその作品についてパノフスキーの詳しい考察が開陳されている。

フィレンツェ聖ロレンツォ教会のメディチ家礼拝堂のイコノロジー的な解釈は彼の面目躍如たる部分で、ロレンツォとジュリアーノのためにミケランジェロが製作した4体の像『朝』『昼』『夕』『夜』がそれぞれ冥界を流れる四つの河、つまりアケロン、フレゲトン、ステュクス、コキュトスに一致し、更にそのひとつひとつが中世の四大元素、大気、火、土及び水を表し、それを「多血質、春」「胆汁質、夏」「憂鬱質、秋」「粘液質、冬」に該当させている。

そしてロレンツォの像を瞑想を表すサトゥルヌスに、ジュリアーノを行動を示すユピテルに見立てている。

そう考えるとこれはもはや2人の公爵の墓というより、ミケランジェロ自身の哲学堂のようなものでだ。

彼が同じような構想で創る筈だったローマのユリウス二世墓廟が再三の計画変更を余儀なくされ、彼の手で完成しなかったのは芸術的な損失だったというべきだろう。

最後にパノフスキーはこの著書を終えるに当たって「天才たちの象徴的な創造物というものは、遺憾ながら、二流の芸術家たちの寓意的な作品に比べその主題を釘付けにすることは難しい」と結んでる。

この言葉にはミケランジェロのような人物の作品から、その一種近付き難い高邁な精神を感じ取り、それを哲学的、あるいは芸術的に解釈することが決して容易でないという率直な気持ちが滲み出ている。

何故ならそれは理論というものを遥かに超えた、本人自身にしか理解することができないような独自の信仰があったからに違いない。

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2022年05月14日


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本書では第一章で沖縄戦で少年ゲリラ兵として戦った、当時の少年兵達の証言がインタビュー形式で掲載されている。

現在高齢者となった彼等だが記憶は鮮明で、淡々と事実を語る正直な態度がかえってあの戦いの悲惨さを表現し得ている。

著者三上氏は、はじめに「軍隊が来れば必ず情報機関が入り込み、住民を巻き込んだ秘密戦が始まる」と書いている。

沖縄戦では陸軍中野学校出身の工作員が42人も配置され、沖縄住民は上陸してきた米軍との戦いではなく、味方である筈の日本軍によって多くがスパイ視され無実の罪で虐殺された。

住民達も自分の命を守るために軍に加担してしまうという悪循環も起きた。

著者は県民の四人に一人が亡くなった中で、戦死ではない死者の数が何故これほどまでに多いのかという問題を解かねばならなかった。

集団死に追い込まれた人々、作為的にマラリアに感染させられた人、日本軍によるスパイ嫌疑での虐殺などは、戦争が原因になる餓死や病死を除いても数千人に上る。

サイパン島玉砕に際して、陸軍中枢部では「住民には命令で死なせるわけにはいかないが、最後の一兵が尽きた時には自害してくれれば良い」という方針を固めていたようだ。

それが沖縄でも更に徹底した形で実現された。

沖縄の基地問題を訴える県民に「強い米軍に守って欲しいが県民が反対している」「中国に占領されないと彼らは目が覚めない」「自衛隊にまで反対していて我が儘すぎる」などのバッシングが全国から来るというが、沖縄は既に充分過ぎるほど身をもって体験してきたのだ。

三上氏は、命の犠牲と引き換えに得た教訓を無力化する片棒を担がないで欲しい、強い軍隊がいれば守ってもらえるという旗を掲げた泥舟に二度と再び乗り込まないために、と強く訴えている。

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2022年05月13日


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ルネサンスやマニエリズムの時代には教養人の間で当然のように理解されていた共通の見識があり、アーティスト達も言ってみれば暗黙の了解のもとにさまざまな技巧を凝らして作品に深みを与えた。

それはキリスト教世界にも共通することだが、またこの時期にはユダヤ教や多神教などの研究も盛んに行われたために、作品にも一通りでない複雑な要素が入り込む結果になった。

しかし美術鑑賞が一般化した現代では、そうした限られたサークルの外にいる人達にとって、あるいはその伝統を受け継がない別の社会に生活する者にとっては西洋美術鑑賞の視野を広げるための相応の学習が望まれる。

それがまさに絵解きを必要とする理由で、パノフスキーはこの著書で一般読者向けに説明しているが、後半にまとめられた原注だけでも89ページほどあり、ある程度の難解さは覚悟しなければならない。

それは作品の奥深さを知る上で、これまでとは全く異なった鑑賞の世界を開くための鍵になってくれるだろう。

上巻では序論に説明されている、男の首を持つ若い女性の絵画についての考察が興味深い。

通常こうした場面は、ヘロデ王にヨカナーンの首を要求したサロメか、アッシリアの将軍ホロフェルネスを討ち取った寡婦ユディトのどちらかだが、判断がつかない時は彼女の持ち物を観察することでその謎が解ける。

過去の類型を調べた著者の記述には「盆を持つユディトの類型はあったが、剣を持つサロメの類型はない...剣はユディトや多くの殉教者の、また正義や剛毅などの美徳の広く一般に認められた名誉ある持ち物であったから、剣が淫奔な女性(サロメ)に移されなかったのは当然」とある。

つまり登場人物の判定は剣がそこに描かれているか否かにかかっている。

第三章「時の翁」では、バロック期の墓廟にしばしば描かれた鎌を持つ骸骨が、ギリシャの農耕神クロノス(羅サトゥルヌス)に由来し、それ故に鎌を携えるが、それはまた父神ウラノスを去勢した道具でもあり、同じ発音の「時」と結合して時間の擬人化に繋がると説明されている。

それが往々にして砂時計や翼を伴っている理由だろう。

そしてそれは時の経過、つまり生きるものの宿命である死を意味する。

この章ではブロンヅィーノの『寓意』についての解説が白眉だ。あたかもイコノロジーの手本のようなこの作品は、観る者の裏の裏をかいた画家の老獪な趣向が凝らされていて、多くの美術書が格好のサンプルとして採り上げているが、パノフスキーの解釈は決定的で、オリジナリティーに富んだ強い説得力がある。

第四章の「盲目のクピド」も知的興味をそそられる章だ。古代には小さな翼を持った愛らしい幼児として表された愛の神が、愛が人を盲目にするという意味合いから、中世時代には目隠しをしたクピドが登場する。

やがて目を覆ったクピドが俗性の愛、そうでないクピドが聖なる愛を象徴するという分岐の過程もそれぞれの時代の哲学を反映している。

最後にクラナハのプラトンの著書の上に立つ『自ら目隠しを取るクピド』がプラトニック・ラブを絵画化した顕著な例として紹介し、このテーマは更に下巻に続いていく。

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2022年05月10日


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安富氏の満州国への研究が、誰にでも理解できるように平易に述べられている。

満州国は今日の日本の姿を映す鏡のような存在だった。

彼は本書の中で日本人全般の特徴として、原則よりも既成事実に弱いと書いている。

つまり起きてしまったことを云々するよりも、それを受け入れて何とか上手く処理しようとすることが賢明だと考える。

満州国の成立は関東軍の既成事実を当時の日本軍、政府、メディア、国民が何らの疑問を差し挟むことなく容認した結果の産物であることは確かだろう。

そこに精神論が加わると現実から全く乖離した社会を生み出す。

総力戦とは軍事、経済、政治、資源、技術などのリソースが尽きるまで戦うことで、総力を挙げて頑張ることとは違うことを未だに理解していないとも言っている。

これは現在のコロナ禍への取り組みにも一脈通じている。

かつての日本が、天皇が国民を護ってくれる国ではなく、国民がひたすら天皇を護る国だったという論理も納得がいく。

そしてそれぞれが自分の立場を死守することで正当化されることの連鎖の結果、暴走が起き、日本を敗戦に追いやりアメリカの植民地になった。

満州国は傀儡政権で、実質植民地だったのだが、著者の言う植民地根性は確かに現在でも連綿と受け継がれている。

アメリカにすり寄り、こちらから貢物を携えて諂う姿は見苦しいものがある。

安倍元首相が日本を取り戻すために押しつけ憲法を変えよう、自衛隊を外国へ派遣しよう、という発言にも明快に反論している。

根本的な問題は日本人の魂が植民地化されていることから脱することによって、初めて日本を取り戻すことができるという指摘には説得力がある。

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2022年05月07日


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全体的に著者多田氏のイタリアでの豊富な体験が、彼の純粋な思い入れを込めて美しく叙述されていて、紀行文としては情緒に溢れた優れた作品だが、美術鑑賞のためのイタリア観光ガイド・ブックとしては、いくらかマニアックな美術作品や建築物が選ばれている。

免疫学者の目から見た西欧、イタリアをこよなく愛する著者が、科学精神・合理主義と裏腹にある影の部分に、イタリア美術を通して迫っている。

彼はそれぞれの芸術作品の観念的な印象に重きをおいて書いているので、勿論相応の下準備と知識の上で述べているには違いないが、作品の詳しいデータや分析、そして使われているテクニックなどは他書に譲らざるを得ないだろう。

いずれにしても学者が門外漢を自称して、驚くほどロマンティックな感性で捉えたイタリアの美術紀行は、それだけで微笑ましいものがあり、本来科学者たる者は、彼くらい悠々自適に専門分野以外の道にも親しんで欲しいものだと思う。

著者はイタリア語の地名、人名の表記についてかなりアバウトな発音で記しているので、実際にツーリストが目的地や美術作品を探す時、多少注意する必要がある。

本来であれば校訂の際に総てイタリア語読みに統一すべきものだろうが、気軽に読めるエッセイ集としての性格からか、特に注意が払われなかったのかも知れない。

勿論ディレッタントを自覚しての著作なので、その辺は大目に見ることができよう。

しかしローマ法王の名称はラテン語読みかイタリア語読みのどちらか一方に統一すべきだろう。

例えば44ページではアレッサンドロ六世とイタリア語を使っているが、106ページではインノチェント八世と書いている。これはインノケンティウス(羅)あるいはインノチェンツォ(伊)である筈だ。

また116ページのウルバン八世もウルバヌスかウルバーノに統一すべきだ。尚地名のフィエゾーレ、サルジニアはイタリアではフィエーゾレ、サルデンニャのように発音される。

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2022年05月05日


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本書は教養としての読み方シリーズの一冊で、ローマの通史ではないがクロノロジカルに史実を辿りながら、そこから見えてくる初期の指導者達の個人よりも全体を、利益や権力よりも公明正大な権威を尊んだ気風、そしてその後に引き起こされるモラルの低下やグローバリズムなどの社会制度の変遷から人間性の変化の歴史が見えてくるし、後の大英帝国或いは日本やアメリカも奇しくも同じ轍を踏んでいることが理解できる。

序章で丸山真男の『ローマの歴史には、人類の経験のすべてが詰まっている』という言葉が引用されているが、それを活かせるか否かは後世の人々の叡智、つまり謙虚な歴史検証とそれに基く政治的方向付けにかかっていると言える。

しかし読了して、残念ながら私達が歴史から多くを学んでいないことを痛感する。

ローマ時代に語り継がれた武勇伝や美談のエピソードは多分に美化されているが、そこに彼らの理想とした社会のあるべき姿が反映されていることは疑いない。

それはしばしば現代に生きる私達にも少なからず手本として、或いは繰り返してはならない過ちとして学ぶべき事例の宝庫といえる。

例えを挙げれば共和政時代の逸話に、軍規を冒してスタンドプレイをして戦いを勝利に導いた息子を処刑する将軍の例がふたつ紹介されている。

そこには縁故主義も兵卒同士の優劣もなく、勝てばいいという安易な考えを完全に否定して、息子であっても戦場にあって規律に従わないものは容赦なく罰された。

共和制ローマでのグラックス兄弟による急進的改革運動もそのひとつだ。

彼らの理想は高潔かつ高邁だったが、純粋な情熱だけでは政治を根本から改革することが困難であることも示されている。

第二次ポエニ戦争で再びローマに敗れたカルタゴだが、短期間で奇跡的な経済復興を遂げ、莫大な賠償金の前倒し一括払いを申し出てローマを驚かす。

国家予算の70パーセントを軍事費に当てていた国が、軍の解体を余儀なくされれば経済状態は急激に向上する。

日本での戦後の驚異的な経済復興はしばしば日本人の勤勉さや精神論をスパイスにして説明されがちだが、実際にはカルタゴと同様の説明が成り立つ。

またコンスタンティヌス帝による硬貨の金や銀の含有率を厳密に規定し、レートをリセットしてインフレから脱却させた通貨改革なども、『悪貨は良貨を駆逐する』と言ったグレシャムの法則を先取りした経済政策だ。

帝政末期のフン族の圧迫に伴うゲルマン民族の大移動では、当初寛容に受け入れていたローマは次第に不寛容になり、差別意識も芽生えてくる。

それは現在の難民、移民問題と状況が酷似していて、その解決策は一通りでないことも歴史が語っている。

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2022年05月03日


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筆者が初めてこの本を読んだのは学生時代で、まさにイタリアに行こうと決心した時だった。

そして高階氏の文章に魅せられルネサンスの魅力を満喫できたと同時に知り得た事は、ルネサンスを生み出した自由で進取の気風に富んだフィレンツェも、実は他にも増して伝統を重んじ、芸術的な洗練という意味では非常に頑なな趣味に固執していたということだ。

その一例として紹介されているのが、1401年のサン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉のコンクールだ。

同業者組合はドラマティックで当時としては前衛的ともいえる作風のブルネッレスキより繊細なギベルティを好んだ。

しかし結果的にコンクール制度の始まりは実力主義を根付けさせ、批判精神を培い、職人が競ってさまざまな分野に活動を広げる地盤を築いた。

皮肉にもフィレンツェのシンボルとなるサンタ・マリア・デル・フィオーレのドームはブルネッレスキの天才の技が成し遂げた勝利だった。

高階氏はその後フィレンツェ出身の多くの天才達が、この都市から次第に離れてしまうことに目を向けている。

何故ならフィレンツェ共和国の、そして何よりもメディチ家の当主であったロレンツォ・マニフィコは、芸術の庇護者というより、外交手腕に長けた画策家である。

彼らを一種の外交手段として他の都市に送り込み、作品の製作に従事させた。

その良い例が、バチカンのシスティーナ礼拝堂側面のキリスト及びモーゼの生涯だろう。

その理由はパッツィ家の謀反に関与していた法王シクトゥス4世との和解の使者として彼が秘蔵っ子の画家達をローマに送り込んだからに他ならない。

しかしそうした彼の政策は芸術家達のフィレンツェからの流失につながり、当時の社会的情勢と相俟ってフィレンツェに決定的な斜陽と衰退を招いてしまう。

ルネサンスの入門書として是非お勧めしたい一冊だ。

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阿部謹也氏の作品で最初に読んだのが『ハーメルンの笛吹き男』で、それ以来彼の中世ヨーロッパを扱ったシリーズは殆んど読破したが、自伝は今回初めて読んだ。

部分的には他の著作にも顔を出す彼の生涯のエピソードがクロノロジカルに綴られた興味深いもので、確かに阿部氏の記述に全く触れたことのない人は飽きてしまうかも知れない。

しかし戦後カトリック教会の施設で少年期を過ごし、文字通り西欧文化の洗礼を受けた彼が祖国日本と西洋の関わりに否応なく興味を持たざるを得なくなったのは当然だろう。

大学時代の最終研究テーマがヨーロッパ、特にドイツ中世史だったのは偶然ではない。

ドイツ留学は満を持して30歳を過ぎてからになったが、そこでの2年間は水を得た魚のようで、ドイツ語の習得から始まって中世ドイツ語で書かれた古文書まで読みこなすようになる。

素人目から見ると凄まじい勢いで進んだ研究成果は地元からも出版される。

『ハーメルンの笛吹き男』は記録を調査していた時に偶然出くわした実話で、後に訳される『ティル・オイレンシュピーゲル』と共に言ってみれば副産物だったというから驚かされる。

勿論『ハーメルン』の事件は後にゲーテやグリム兄弟によってかなり脚色されて普及するので、1284年6月26日にハーメルンの街から130名の子供達がいなくなったというオリジナルの記録文書を読んだ時の著者の戦慄は想像に難くない。

阿部氏は自分の信念を貫いて誠実に生きた人だと思う。

彼は裕福な家庭に育って不自由なく勉学に勤しんだ御曹司ではない。

幼いながらカトリックの施設に単身寄宿生活しながら勉強したのも、父親を亡くした母子家庭が生きていくために余儀なくされた道だったし、大学時代もアルバイトで生活を支えた苦学生だったが、そうした経験はトラウマではなく生き生きとした体験としてその後の彼の人生に反映されていく。

彼が洋の東西を問わず社会的に弱い立場にある人や、被差別民、賤民などに強い興味をもって、その成立や彼らの真の姿を明らかにしようとした姿勢は、その温かいまなざしに負っている。

それゆえ高い地位にあって学問を振りかざして他人を非難する人や本来の学問の価値を知らない人とは巧くやっていけなかった。

その不器用さが阿部氏の長所でもあることが理解できる。

『ティル・オイレンシュピーゲル』で賤民ティルが身分の高い人々にも一泡吹かせる痛快なスピリットには共通点があるのではないだろうか。

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2022年05月02日


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戦争はある種の社会的倒錯を招く。

安部公房自身満州で少年期を過ごしたために、戦後の中国の混乱を目の当たりにしていた。

また医学を専攻しただけに、作品の中で気味の悪いほど病状や精神的疾患の描写が試みられている。

引揚者の多くが証言しているように、ソヴィエト参戦の直後、関東軍は開拓民に知らせることなく、利用できる武器や交通手段をすべて持ち去る形でそそくさと撤退した。

丸腰で取り残された日本人は、生死を懸けた徒歩での逃避行を始めるわけだが、満州国で生まれ育った主人公、久三は母の看病のために逃げ遅れ、ソヴィエト軍の小間使いとして働いていた。

まだ見ぬ祖国日本への強い憧憬から、ある日脱出を決行する。

彼の計画はいたるところで頓挫するが、最初に彼に援助の手を差し伸べたのは、他でもないソヴィエト軍の将校、アレクサンドロフ中尉だった。

彼は寛大にも久三に通行許可証と金を与えて逃がした。

その後逃避行の相棒に騙されて、身ぐるみ剥がされて放り出されて途方に暮れていた時、彼に日本人居留区の場所を教えたのは、日本人を激しく憎んでいた中国人少年だった。

しかし居留区の日本人達は久三の入場を拒んだ。

彼にとって最も酷い仕打ちをしたのは、皮肉にも日本人だった。アレクサンドロフが久三に言った『おれたちと一緒にいるのが、なんといったって、幸せなのさ』という言葉が妙にこの物語を象徴している。

絶望と息詰まるほどの閉塞感の中で幕を閉じるこの小説は、確かにその後の安部文学の手法にもなっている。

筆者は学生時代に安部公房に嵌った。

奇怪な発想と深層心理に導かれる人間の変容、現実と幻想の交錯に何故か強く惹かれた。

その頃手に入った彼の代表的な作品は読破したが、この『けものたちは故郷をめざす』は当時高価な全集でしか売られていなかったので、今回初めて読むことができ、久々に安部文学を堪能した。

初期の作品だが、「虫になって地図の上をさまよう夢を見た」とか「音の蜃気楼」などの表現は円熟期の彼の作品を予感させている。

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2022年05月01日


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ラジオ講座のために用意された原稿なので、堀米氏の鋭い閃きと確信に貫かれた他の著作に比較すると、特有の話し口調が意外なくらいまわりくどい。

また歴史の見方について非常に慎重に検証しているために石橋を叩いて渡るようにも感じられるが、その中に彼の芯の強い主張が込められているのも確かだ。

しかもこれが半世紀以上も前に執筆されたことを思うと、彼が歴史に対する最も革新的な立場をとった観察者である。

さらに深い洞察とあらゆる科学的手段を駆使して過去の出来事が何を物語っているかを見つけようとした研究者であったかが理解できる。

本文でも述べられているように歴史への関心は、人が危機に立ち向かって決断を迫られた時、過去を振り返ってその回答を得ようとして生まれる。

しかし過去に記述された資料は、むしろ客観的でないものの方が一般的という解釈も納得がいく。

日記に喩えて説明されているように、事実はその書き手によって選択されるからで、書かれなかったことが全くなかったことにはならない。

過去の偉大な歴史家と言える人達でも、彼らは書き始める前に既に自分が何を語りたいか確たるアイデアを構想していて、それを正当化する事実を書き連ねることになるからだ。

それゆえ大袈裟に言うならば偏向的でない歴史書は存在しない。

特に印象に残ったのは、カール・マルクスの生産力と生産関係の間に起こる矛盾が歴史発展の原動力という見解が、奇しくも古代、中世、近世の三区分法に一致していることである。

古代をマルクスは古代奴隷制、中世を封建的農奴制、そして近代を市民的資本制として歴史の三区分法がマルクシズムによっても確実に裏付けられていることだ。

それはマルクスの歴史分析の力量を示していて示唆的だ。

いずれにしても現代の歴史学者が過去の事象から歴史を書こうとする時、考古学、社会学、経済学などの広範囲に亘る科学に如何に精通していなければならないかを痛感させられる。

またそれらは常に更新されるべき宿命を持っている。

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2022年04月26日


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デクラマティオーの様式に則って、愚民の楽園と化した現世を痴愚女神モーリアがスコラ神学者の不毛な論争や王侯貴族達の生き様を鋭い風刺と揶揄を開陳しながら次々と痛快にこき下ろしていくが、その鉾先は高位聖職者やローマ教皇にまで及ぶ。

この作品が出版されたのが1511年だから、その6年後にヴィッテンブルクで掲げられたルターのカトリック教会に対する95箇条の提題がエラスムスに触発されたことは想像に難くない。

その意味でも当時としては画期的で斬新な創作だったに違いない。しかしルターの思惑に反して彼は宗教革命を望まなかった。

随所に挿入されているハンス・ホルバインの挿絵は現代人から見てもひょうきんな味わいがあり、この作品の胡散臭さを醸し出している。

ホルバインはイギリス国王ヘンリー8世の肖像でも知られた宮廷画家だが、エラスムスの肖像画も残している。

エラスムスはオランダが生んだ文学者であり、また神学者でもあったが日本では彼の名やその著作は同時代のトマス・モアやマキャベリあるいは少し後のシェークスピアなどに比べて知名度は低い。

訳者沓掛氏によれば、それは彼が生涯に亘ってラテン語で書き続けたためで、その後死語になった言語は市民に溶け込む機会を失ってしまったようだ。

確かにダンテは早くからイタリア語で『神曲』を書いていたし、シェークスピアが盛んに上演されるのは庶民にも理解できる英語だったからだろう。

当時ヨーロッパでの教養人の共通語はまだラテン語だったが、格調は高いかもしれないが込み入った文法を持ったラテン語より、一般人には当然話し言葉として地方に定着した言語を好んだ。

それゆえエラスムスを読むには原典を一度翻訳する作業が不可欠になり、取っつきにくい理由になっていることは疑いない。

沓掛氏が原典訳を決心した経緯が訳者あとがきに詳しい。

大学で『痴愚神礼讃』を講義するに当たって、当時唯一のラテン語原典訳だった大出晃訳出の同書を参考までに調べると、荒唐無稽な誤訳が露呈されていて、古典に関する知識も疑われるような無残な状態だったと書いている。

その後誰も原典訳に取り組まないので自らこの難役を買って出て、作品の誤解を解くことに余生を懸けたようだ。

それだけに沓掛訳は日本語としても非常に流暢で平易に訳されている。

筆者は以前彼の『ホメーロスの諸神讃歌』を読んで訳業に対するプロフェッショナルな姿勢に感服したが、この『痴愚神礼讃』も周到な準備のもとに訳出された作品であることが理解できる。

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2022年04月24日


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北フランスで建設が始まったゴシック様式の教会は、著者がプロローグで述べているようにゲルマン民族のゴート人が創り上げたものではなく、むしろその地の先住民族たるケルト人に関係が深い。

パリやシャルトルの大聖堂の地下を掘っていくと、ケルト信仰の聖所が出て来るというのも象徴的だ。

フランスの山村では中世時代になっても多くの農民達は、異教である大地母神の信仰を頑なに持ち続けていたようで、カトリックの布教者は彼らに違和感を与えることなく改宗させるべく実に老獪な策を敷いた。

彼らの信仰の場所であった森林をイメージさせる広い空間と高い天井、木々の枝が上昇していくようなリブや尖ったアーチ、そして執拗とも言える樹葉のモチーフを使った装飾、更に木漏れ日はステンドグラスに取って代わり、古代の生贄の観念は苦悩するキリスト像にオーバー・ラップさせる。

こうして大地母神信仰が鮮やかに聖母マリア信仰にすり替えられていく。

また著者はゴシック教会の装飾としてしばしば使われる魑魅魍魎の彫刻やレリーフについて、グロテスクなものを好む感性は異教の感性と断言している。

ルネサンス時代にゴシック様式は均整と調和を欠くものとしてラファエッロやヴァサーリによって糾弾された。

確かにフランス、スペイン、ドイツに比較してイタリアには純粋なゴシック様式の建築物は数えるほどしかない。

しかし著者はルネサンスでは許されなかった未完了のアンバランスな姿こそ終わることのない時間の流動性の表現であり、ゴシックの本質と結論付けている。

ゴシックの大聖堂が異種のものに身を開いているように見えるのは、異教から流用された精神的、物質的なあらゆるエレメントが今もってそこに息づいているからだろう。

この著書では酒井氏が建築学の立場に立ったゴシックの特性だけでなく、それが導かれた宗教文化や精神面から筆を起こしているところに価値があり、日本語で書かれた類書の中でも優れた内容が特筆される。

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2022年03月31日


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マタイ受難曲はJ.S.バッハの最高傑作、そして磯山雅(いそやま ただし、1946年4月30日 - 2018年2月22日)氏は日本におけるJ.S.バッハ研究の第一人者であった。

その磯山氏がマタイ受難曲と真っ正面から取り組んで、長大な受難曲のテキストを新しく訳出し、ひとつひとつの場面、ことば、フレーズに解説を付した成果が本書になる。

礒山氏のライフワークに相応しい高度な研究書であり、バッハのマタイ受難曲鑑賞の為のガイドブックとしても計り知れない理解と助言を与えてくれる。

文章は難解な術語もなく、一般向けに理解しやすく読みやすいものになっており、理解に難渋することのないのが特徴でもある。

しかも平易そのものの文章に盛り込まれた高度な内容は、愛好家から専門家まで幅広い読者を満足させるものだ。

礒山氏はマタイを構成する全68曲に自らの訳と解説、そして可能な限りの解釈を示し、参照楽譜の断片も多数掲載している。

本書を読み進めていくとバッハが如何に心血を注いでこの曲を作曲していったかという事を思い知らされる。

著者がバッハの最高傑作と言ってはばからない理由がそこにあり、またその説明にも説得力がある。

特に残された自筆譜から読み取る各場面の心理描写における調性の選択、そして形象や表象、数象徴については作曲家の天才的な、あるいは殆ど病的なまでの技巧が凝らされている事実には感動を禁じえない。

何故なら私達が実際の音楽を聴いてそれを総て感知できる為には相当の学習が必要だからだ。

つまりバッハは聴衆はともかくとして自分自身の為にこの曲を書いていたのではないか、という疑問さえ生じてくる。

興味深い逸話としては、当時のパート譜から判断される楽器奏者の持ち替え演奏だ。

経済的にオーケストラの人員を増やすことがままならなかった事情から、彼らもフルに活用されていた。

第1ヴァイオリンの奏者は持ち替えでブロックフレーテも吹いていたのだ。

尚最後に置かれた同曲のCD批評には、彼の正直で忌憚の無い意見が述べられていて、どの演奏を聴くべきか迷っている方には最良の手引きとなるだろう。

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2022年03月20日


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ロマン・ロランは実に数多くの作品を書いたが、世界に広く読まれているものは、なんといっても『ジャン・クリストフ』であろう。

ロマン・ロランは当作品でノーベル文学賞を受賞したが、まさに彼の代表作であり、世界文学史上の不滅の傑作である。

この作品は、どんな逆境にあってもひるまずに、人間完成を目指して苦闘する一つの魂の生成史である。

主人公ジャン・クリストフの幼少時代は、ロマン・ロランが終生私淑してやまなかったベートーヴェンがモデルになっていることは周知の通りであるが、彼自身の現実の思い出も少なからず取り入れられている。

また、成人後のジャン・クリストフにも、作者自身の生活体験が豊富に取り入れられている。

しかしジャン・クリストフは、あくまでも、作者が理想の人間像として描き出した人物である。

もちろん、ジャン・クリストフの人生観、社会観、また芸術観などは、作者のそれであることに間違いはないが、ジャン・クリストフの個性なり気質なりは、作者のそれとはかなりかけ離れたものと考えなければなるまい。

むしろ、オリヴィエ・ジャナンの中にこそ、作者の面影が多く射し言っているといっても差し支えないであろう。

ロマン・ロランは、ベートーヴェンこそは一生を通じて彼の魂の師であった。

彼がいく度か生の虚無感におそわれた危機に、彼の心の内部に無限の生の火をともしてくれたものは、実にベートーヴェンの音楽であった。

ロマン・ロランのベートーヴェンに対する尊敬と傾倒とは、また、中年及び晩年において、大規模なベートーヴェン研究となって結実している。

これは音楽研究家としてのロマン・ロランの、専門的な学究的著作ではあるが、ここに分析されたベートーヴェンの自然観、宗教観、女性観は、ロマン・ロラン自身のそれらと非常に似かよったところがある。

われわれはここに、相寄る魂の実に美しい一つの実例を見ることができる。

ロマン・ロランは、19世紀の末から20世紀の前半を誠実に生き抜いた一人の偉大なヒューマニストの、信仰の告白であり、人間信頼の賛歌であり、時代の生きた良心的な証言である。

晩年ロマン・ロランは「私はずいぶん読まれているが理解されていない」と嘆いているが、果たしてそうであろうか?

多くの人々は、彼の幾多の作品を通して、彼の魂の奥深い深淵をのぞきこんで、そこから彼の魂の秘密をくみとろうと努力している。

特に『ジャン・クリストフ』を読むことは、われわれにそうした努力を強いるのである。

そうしたところに、彼の作品のはかり知れぬ魅力と偉大さがあるといえるであろう。

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2022年03月18日


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この歴史的著作はアッシジのフランシスとローマ法王イノセント3世の会見で始められ、最終章で再びこの2人の出会いの場面に戻って閉じられている。

それだけにこの機会が著者堀米氏の研究テーマであったカトリック教会の正統と異端のせめぎあいを象徴する事件として描き出されている。

ここで言う正統と異端には私達の通常のイメージを一新するほどかなり異なった実情があったことが明らかにされている。

著者は正統とは宗教的客観主義であり、異端は主観主義であると定義している。

平たく言えばカトリック教会では聖書に権威による解釈というクッションを置いて布教に努めるが、異端はより近視眼的に聖書に書かれた通りの生活を人々に強要し、それ以外の行為を認めない。

しかし実際には世捨て人にでもならない限りその実行は不可能で、教会側としてはいくら聖書に忠実であっても教会の権威や社会構造を根本的に揺るがしかねない主観主義は退けた。

しかしながら時の権力者と常にギブアンドテイクの関係で繁栄を享受してきた教会内部には腐敗が蔓延っていたことも厳然とした事実だったために、グレゴリウス改革を頂点とした異端追放と同時に彼らとの折り合いを見出さなければならず、その一大軌道修正であり、歴史的決断が法王イノセントと異端である筈のフランシスへの布教の承認だったと言えるだろう。

カトリック教会が常に世俗の権力と離れ難く結び付いていたことは王権神授を実行してみせたカール大帝以来紛れもない事実だが、それにはまた権力側からの教会への土地の寄進や財産の喜捨も大きく影響している。

これについて阿部謹也氏が何冊かの中世シリーズで述べているのは、伝統的なゲルマンの主従関係を支えていた贈答関係を、教会は来世を保証する精神的な担保に巧妙にすり替えることに成功したとしているが、ここではまた修道院への土地の寄進は、国王や豪族達が最も効果的な一種の投資として行っていたことも理解できる。

何故なら農業生産向上を支えた技術の進歩は修道院からおこり、人が唯一学業に専念できる文化の中心でもあったからだ。

つまり世俗からの教会への寄進、喜捨はひとつの重要な政治的ストラテジーという解釈にも説得力がある。

こうした事実からも教会は世俗との縁を切ることは不可能だった。

一方この著作の佳境は第4章『グレゴリウス改革と秘蹟論争』の部分で、堀米氏はカノッサの屈辱の立役者グレゴリウス7世による、教会からの堕落した聖職者の徹底追放に至るまでに、こうした動向がカトリック教会内部で進み、それが着実に準備されていたことを詳細に説明している。

それは厳格な宗教観を持っていた神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ3世下のローマ法王レオ世に始まる。

しかしこの急進的改革は伝統的なアウグスティヌス、グレゴリウス一世の客観路線を踏み外すことになる。

第5章以降ではカタリ派やワルド派などの異端が生まれた必然性と、それらがこうした動向に連動した背景が解説されている。

1184年のヴェロナ公会議では教会の明示付託によらない一切の説教や秘蹟論への批判は異端と決定し、正式な異端審問が制度化された。

これによって惹き起こされた正統と異端の妥協の余地のない対立、教会分裂の危機をイノセント三世は驚異的な洞察力と、寛大と慎重さを持って彼らの一部を吸収することで巧みに回避することになる。

先ずフミリアーティに、そしてワルドには条件付和解という形で承認を与えるが、その最後の試みであり総仕上げがフランシスを取り込むことだったようだ。

それは決して映画で再現されたようなフランシスの福音書への忠誠や清貧への情熱だけから認可されたものではなく、イノセントによって綿密に青写真化されたポリシーに基くものとしている。

しかし堀米氏はイノセント自身、フランシスコ修道会がカトリック教会の屋台骨になるような大組織に成長するとは夢想だにしていなかっただろうと書いている。

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2022年03月17日


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始めの部分では聖書の『たとえ』話法について詳述されているが、中でも『ぶどう園の悪しき農夫たち』の解説は秀逸だ。

また最後の晩餐に象徴されるユダヤ人の晩餐の意味合いと形態についての説明から、意外にも私達がイメージする夕食とはかなり異なっていたことが理解できる。

古い慣習では、彼らはあらゆる契約を結ぶ時に自分自身の体の一部を傷つけて血を滲ませることで、その契約履行をお互いに確認し合った。

契約の際に流される血が最後の晩餐でイエスが弟子達に注ぐ赤ワインであることも頷ける。

ちなみに本書では扱っていないが、ユダヤ教においての神との契約が割礼という形で信者に遵守されているのは象徴的だ。

また彼らにとって一緒に食事をすることが、契約成立に伴う締めくくりの儀式だとすれば、最後の晩餐は自ずと重要な意味を持ってくる筈だ。

136ページに示されているようにユダヤ教外典には殉教者が死後復活することや、『ソロモンの知恵』のようにプラトンに由来する魂の不死性について言及した部分もあるようだ。

こうした思想はキリスト教では後に失われる輪廻の考え方にも相通じるものがあって興味深い。

しかし一方でこれを否定したコヘレト書も紹介されている。

つまり創世記に綴られているように、神は地上の塵芥から人を創造されたので、総ては塵芥に帰するというサドカイ派に支持された思想だが、イエスは最後の審判という終末思想と、その後の義人の復活を唱えている。

そこには明らかに天上と冥府のふたつの世界が識別されている。

このラジオ講座は抹香臭くないのが特長で、福音書も冷静に読み解かれているので信者でなくても抵抗なくユダヤ教やキリスト教の哲学に触れることができる。

註は同ページの下欄に設けられているが、また要所要所に簡潔に整理された図表が理解を助けてくれる。

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NHKラジオ講座『宗教の時間』で2018年放送された旧約聖書の世界に引き続いて、2019年は新約が取り上げられた。

本書は同様に纏められた2巻のうち4月から9月分放送用のテキスト上巻になる。

口絵としてカラー写真及び簡単な図解、また本文の同ページ下欄に注釈が設けられているので、音声を通して聴く時の参考になるが、勿論テキストを読むだけでも講座の内容は充分理解できるだろう。

講師でもある著者の廣石氏は、自身プロテスタントの宗教者でありながら、教義化された現在のキリスト教やイエス像を信仰という名の下に鵜呑みにするのではない。

彼の出生から福音書の成り立ちを広範な歴史的資料に基いて検証し、その真実の姿を探り出すことを試みている。

だから彼の文章にはいわゆる宗教臭さは皆無で一般教養としてもかなり高度な内容を持っている。

それだけに聖書に書かれた創造主の技や奇跡を文字通り信じて疑わない熱心な信者にとってはむしろやっかいな、あるいは受け入れ難い考察もあるかも知れない。

先ずキリストの実在性についてだが、これはキリスト教側だけでなくローマ側の証言、つまり元老院議員であったタキトゥスの『年代記』にクリストゥスがティベリウス皇帝治世下にユダヤ長官ピラトゥスによって処刑されたという記述があることで、その蓋然性を主張している。

一方でイエスに関するキリスト教側の記録は処刑から少なくとも20年経過してから書かれたもので、最も古いマルコ福音書と語録資料Q文書からマタイ、ルカの両福音書が成立したとしている。

その中で洗礼者ヨハネによって洗礼を受けたイエスの姿も動かし難い事実として浮かび上がってくるが、後の布教者はヨハネをイエスの上に置かないための矯正作業も行っているのが興味深い。

イエス自身は何一つ書いたものを残さなかった。

福音は総て彼から口述され、それを聞いた人が解釈を施しながら4つの福音書として成り立つ。

それは丁度ソクラテスの言行をプラトンを始めとする弟子達が書き記したことに類似している。

そのあたりにも彼のカリスマ性が感じられるのも当然だろう。

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2022年03月16日


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NHKラジオ講座で放送された『物語としての旧約聖書』シリーズの下巻になり、本書は2018年10月から2019年3月までのテキストでもある。

聖書に全く縁のない人でもラジオを聞きながら読み進めることによって、象徴的に書かれている事柄やその元になった歴史的な事件の意味合いを平易に理解できるだろう。

ただし旧約はヘブライ語で記された39書に及ぶ一種の歴史書で筆者も複数であるため、お互いの間での齟齬や異なった解釈も少なからずある。

そうした問題を簡潔に説明するのは決して容易なことではないが、著者の月本氏は要点を注意深く検証して、歴史的事実や発掘調査などによる最新のデータを精査しその精神性を引き出し、イスラエルの民族が悲願し継承してきたものの根底を探っている。

この下巻では奴隷に身を窶していたイスラエルの民がモーセに率いられて、約束の地カナンへ向かう『出エジプト』から始まる。

彼らの土地所有に関する興味深い指摘が本文中にある。

大地は神の所有物であって、人は寄留者という観念だ。

つまり生活の場である土地は神からの賜り物なので、人々の共有の財産として個人的に利用し尽くすことは許されない。

それは彼らが本来遊牧民だったことに由来しているようだ。

貸借関係が一切ご破算になり土地が開放される50年に一度のヨベルの年の制定も、それまでに得たもの総てを神に返すという象徴的な年だ。

ちなみにカトリック教会では期間を半減させた巡礼年ユビレウムをここから採り入れている。

イスラエルが王国になってからの神との契約について著者は、王を神から選ばれた存在として、その支配権を宗教的に正当化することは権力を手中に収めた者の常套手段であり、王権神授説だとしている。

確かに後の時代にフランク王国のシャルル大帝が神の代理人たるローマ法王から戴冠を受けたことが、神からの権威の承認としてその後長く続くことになるし、日本においては将軍が常に天皇を後ろ盾にしていた事実も同様の理由だろう。

後半のイスラエルの預言者についての、その特殊性の分析も非常に示唆的だ。

聖書は世界のベストセラーに君臨し続ける書物だが、それは読者がユダヤ教やキリスト教信者の数に比例していることは否定し難いとしても、現代の私達が窮地に立たされたり困難な状況に遭遇した時の、人としての生き方の選択肢や指針が示されているためだろう。

あるいは政治やビジネスのためのストラテジー的な利用方法もあるかも知れない。

何故なら旧約は美談をちりばめた自画自賛の書ではなく、数千年に亘ってイスラエルが失態を繰り返してきた赤裸々な告白録でもあるからだ。

著者も述べているように、バトシェバ事件に始まるダビデ王朝での出来事は、イスラエルの民族にとっては『不都合な真実』ばかりだが、サムエル記から列王記まではその『不都合な真実』を改竄することなく、むしろ詳らかに記している。

旧約聖書の創世記から9書が、彼らのバビロニア捕囚期に纏められた理由について、月本氏は民族存亡の危機にあった彼らの過去に対する徹底した反省によって自分達の未来を展望せざるを得なかったからだとしている。

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本書はラジオ放送用の講義を纏めたもので、2018年の4月から9月に放送された部分がテキストの上巻として出版された。

勿論クリスチャンに限定された読本ではなく、それ以外の宗教を信仰している人、あるいは全く信仰する宗教のない人にとっても興味深く読める一般教養書としての価値が高い。

39書のヘブライ語による旧約聖書にはそれが成り立つ以前の時代の人々の宗教観や彼らが暮らしていた地方の慣習などが色濃く反映されていて、それだけに字面だけで解釈することには無理があるし、今もって解き明かされていない謎めいたストーリーの展開も少なくない。

著者は古代の資料に基いた理路整然とした考察でむやみな帰結を避け、聖書が沈黙している部分にも多様な解釈の可能性を認めながら、数々の教義的逸話に説得力のある見解を示しているところが秀逸。

先ず神の手になる世界の創造が記された創世記にかなりの比重が置かれている。

そこでは創造主と人間、そして人間と自然の関係が問われていて、自然や他のあらゆる動物達を支配する側と逆に自然に従うべき存在としての相対する人間の立場が読み取れる。

この矛盾は神とは違う人という存在自体が抱えている宿命なのかも知れない。

名詞のエティモロジーを簡潔に示した説明も理解を深めてくれる。

例えば大地の塵から創られた最初の人間アダムはヘブライ語のアダマー(大地)に由来しているようだ。

エデンの園で禁断の果実を蛇にそそのかされて最初に食べるのは女性のエバだが、アダムが神から問いただされた時、彼がエバに責任転嫁するところも象徴的だ。

旧約に登場する人物にはこの2人を始めとしてカイン、ノア、アブラハム、ヤコブやダビデなど、誰一人としてキリストのような完璧な者はいない。

そればかりか彼らイスラエル人の先祖の不完全性を臆面もなく暴いている。

最初の夫婦となったアダムとエバの子、カインによる弟アベルの殺害は2人が神に捧げた供物、つまりカインの農作物ではなくアベルの子羊を神が好んだことによる嫉妬から起きた事件だが、聖書には神が子羊を選んだ理由が書かれていない。

著者はこれを定住民族と遊牧民の比較で捉えている。

それはその後の旧約に綴られるイスラエルの王の系譜が羊飼いなどの流浪をイメージさせる民族だからで、良い牧草を求めて移動を繰り返す彼らはある特定の場所に定住することは全く念頭にない。

そこに大地は神の所有であり、人はそれを一時的に借りて生きているのであって所有者ではないという意味合いが取れる。

新約の時代に移ってからもキリストが降誕したのは旅先の家畜小屋で、先ず最初に祝福にやって来るのも牧夫達だ。

創造を逞しくすれば現在までのユダヤ民族の永遠に定住先を得ることができない放浪の宿命を暗示しているとも考えられる。

バビロンの遺跡から発見された巨塔ジックラトゥが大都市文明と中央集権国家の驕りの象徴でもあり、諸民族の強制的な統一をも意味しているところから、聖書のバベルの塔譚では逆に神によって言葉を乱された人々は八方に散逸して諸国民になるという旧約の喩えも納得のいくものだ。

ノアの箱舟の逸話も古いメソポタミア伝承をベースにイスラエル民族によってリメイクされたものであることが理解できるが、神による世界のリセットという作業は人類の堕落からもたらされるカタストロフィの浄化であり、それが新約での最後の審判に繰り返されているのではないだろうか。

また食事を共にするという行為が彼らの慣習だった契約確認のための象徴的儀式だったことも興味深い。

これも後のイエスと十二使徒の最後の晩餐やエマオの晩餐に再現されている。

尚この講座の上巻はイスラエル十二部族の祖ヤコブの息子ヨセフと兄弟達の感動的な和解で終わる。

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2022年03月06日


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常に世界のベストセラーを保ち続けている聖書全篇の映像化となると、新旧合わせて69書に及ぶ大作であるために時間的な制約もある。

また難解な部分も少なからずあるので総てのシーンをつぶさに再現することは不可能だ。

またそれほど意味があるとも思えないが、視覚的にドラマティックな部分のみが突出すると、安っぽい見世物に成り下がってしまい本来の教書としての宗教観との関連性が稀薄になってしまう。

そのあたりの文学性と劇的な場面とのバランスを比較的巧妙に保ったのが本作品である。

瑣末的と思われる枝葉の部分は一切省き、聖書の本質に関わるエピソードを10話に分けてそれぞれを45分程度に纏めたコンパクトなミニ・シリーズに仕上げているのも秀逸だ。

4枚のブルーレイ・ディスクの視覚的特徴は、この作品に頻繁に映し出される大自然の風景が非常に鮮明に再生されることで、肌理の細かい画像による臨場感が効果的である。

一方で映像化するからにはある程度万人向けに制作しなければならないことが必須になる。

その点でもロマンティックなシーンは最小限に留めて見かけ上の派手な演出を控えている。

キャスティングでも実力派の役者を多く抜擢して地味だが聖書そのものの精神を伝えることを心掛けている。

その意味では一昔前のハリウッド映画とは一線を画している。

この作品を観ていると、信者でなくても聖書に書かれている万物の創造主である神が如何に恐るべき存在であるかが理解できるだろう。

そして神への畏怖が形骸化する度に人々は途方もない災難を自ら招くことになる。

しかしキリストの登場と共にその畏怖が愛に取って代わることを鮮やかに示しているのである。

シリーズの長さから言っても簡潔で要点を掴んでいるので信者以外の人が聖書を理解するための、良い意味での安直な入門編としても佳作だろう。

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2022年03月05日


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フルトヴェングラーの戦時中の行動は、抵抗する「国内亡命」といえるか、それとも政治的無知として断罪されるべきかは、高度な政治問題である。

この点について、リースの本の中でフルトヴェングラーが戦争勃発寸前の1937年の夏、ザルツブルグ音楽祭でトスカニーニとであったくだりにお互いの思想をぶつけあった記述がある。

リースによれば、この時二人が対面して交わした話には、幾通りかの記述があるのだが、その中で筆者に最も真実らしく考えられる一節が次に述べる通りである。

「フルトヴェングラーが数回の客演演奏会のためにザルツブルグにやって来た時、彼は同僚たちから暖かく迎えられた。ただトスカニーニのみは、彼がナチ政府の代表者であることに我慢ができず会うことを避けた。この二人が、よぎない事情で顔を合わせることになった時、フルトヴェングラーがトスカニーニに、彼の『ニュルンベルクの名歌手』の素晴らしい演奏を心からほめたたえた。」

「これに対し、トスカニーニはまったく冷たい返答をかえした。『御挨拶をそっくりおかえし申したいところです。私は、自由な考えをもつすべての人間を迫害する恐ろしいシステムに甘んじられるような者が、ベートーヴェンをまっとうに演奏できるものではないとつねづね考えています。あなた方ナチスの人びとは、精神の自由な表明を全部おさえつけ、許したものといえば、力のゆがめられたリズムと、これ見よがしのお芝居だったではありませんか。「第9」は同胞愛のシンフォニーであることを考えてください。「百万の友よ、相抱いて」の言葉を書きおろしたのも、この言葉を音楽にしたのもドイツ人であったことを忘れないで下さい。この人類に向かっての力強い呼びかけを本当に指揮した人なら、どうしてナチスであることに甘んじておられましょうか。今日の情勢下で、奴隷化された国と自由な国の両方で同時にタクトをとることは芸術家にとり許されません。』と言ったというのである。

これに対しフルトヴェングラーは『もしそうすることによってあなたがザルツブルグ音楽祭のための活動を続けて下さるなら、私は喜んでもう二度とここへ来ないつもりです。しかし私自身は、音楽家にとっては自由な国も奴隷化された国もないと考えています。ヴァーグナーやベートーヴェンが演奏される場所では、人間はいたるところで自由です。もしそうでないとしても、これらの音楽を聴くことによって自由な人間になれるでしょう。音楽はゲシュタポも何ら手出しできない広野へと人間を連れ出してくれるのですから。偉大な音楽は、ナチの無思慮と非情とに対し、真向から対立するものですから、むしろ私はそれによってヒトラーの敵になるのではないでしょうか。』

トスカニーニは頭をふって、『第三帝国で指揮するものはすべてナチです!』」

リースはこれに続けて、自分の見解をこう付け加えている。

「大切なのは、ここでは主観的見解の違いだけが問題なのであって、どちらが実際に正しかったかは別問題だということは忘れないことだ。実際において正しかったのは、もちろん、トスカニーニであった。そしてそののち数年間にわたり、彼の正しさを証明することとなった。なぜなら、独裁政治の内部には現実を超越した自由などありえないのだから。しかし、より高い意味で、いや最高の意味でどちらが正しかったかということについて、果たして疑問の余地があっただろうか?フルトヴェングラーは、実際に自由でいることのできなかった独裁の中にあってさえ、自己の自由を感じることができたのである。なぜなら、彼の真実の世界、内面の世界には、ヒトラーもいなければ、ムッソリーニもいなかったのだから。」

このようにリースの言葉をたどってみて、まず、どうやらリースは最初に述べたことを後段になって忘れてしまっているようである。

さらに筆者が思い起こすのは、前述したドイツ的内面性の神話である。

それは「精神」「内面性」といったフラーゼをつらねながら一個の自足した文化空間をつくり上げる一方で、近代文明やそれに帰属する実証的、実践的運営のための統治技術といったものを程度の低いものとして斥け、自らの世界の「崇高さ」を誇る、というドイツ的内面性の神話である。

ドイツ人は文明と文化を厳格に区別することをはじめた人種である。

文明、すなわち経済も政治も便益の手段にすぎず、リースが「真実の世界、内面の世界」とつづけて書いているように、真実の世界は内面の世界であり、内面の世界は真実の世界なのである。

それはまた、さらに芸術が実現しようとしている自由の世界でもある。それゆえ、ドイツ人にとっては政治、つまり便益の世界で自分たちの意にそぐわないことが起こっていても、それが自らの精神、文化の世界に侵入し、冒してきさえしなければ、それを見逃すか、政治的不可避の悪として許容される。

だから世界に誇る頭脳と教養の士、知識人と芸術家のいたドイツで短期間に、しかもきわめて低級で野蛮な手段でナチスが政権を奪取できたのである。

フルトヴェングラーもドイツ人の例にもれず、政治がどれほどデモーニッシュな権力を持ちうるかということに対して全く気がつかなかったのである。

これに対し、イタリアのルネサンスとヒューマニズムの伝統のもとに育ったトスカニーニは、それをいちはやく見通した。それだけでなく、全力をつくして抵抗し、自らの行動がファッショのもとでは許されないとなると即座にアメリカに出て行った。

フルトヴェングラーの二重で、他者からみると理解に苦しむ曖昧な態度は、連合国すなわち、イギリス、フランス、オランダなどでなら、許される余地があったのかもしれない。

だが現実的にはナチス・ドイツには、トスカニーニがフルトヴェングラーに言った通り、精神の自由などあるはずもなく、権力の奴隷にされた国民の塊しかなかった。

フルトヴェングラーは世界の多くの人々がナチに奴隷化された国で指揮棒をとるものは許されないと考えていて、友人の多くでさえ、なぜ彼がドイツに留まるのかを理解できないでいることを承知していた。

「『個人的利益のためだと真向から非難する人々も少なくなかった。もちろん、それが事実無根であることは、私自身が誰よりもよく知っていた。しかし、私がドイツにあくまでも踏みとどまらなければならぬということは、あらゆる理由をこえ、あらゆる有罪無罪の問題をこえて、揺るがぬ私の信条であった。かつては、キリスト教がわれわれの共通の故郷であった。だが、この信仰の問題が背後に退いた後、あとに残るのは国家だけである。なぜといって、音楽家にとっては、やはり一つの故郷は必要なのだ。たとえヒトラーに共感するところがどんなに少なかろうと、私は、ドイツと最後まで運命を共にしようと思ったのだ。世界における、または世界に対しての私の立場などは、決して、そして最も決定的な問題ではなかった。』

したがって、フルトヴェングラーは『音楽家にとって故郷は必要であり、亡命などは逃避にすぎない。』と考え、行動した。」とリースは記述している。

「芸術と政治とは何の関係もないと、人びとは口癖のように言う。何と間違った考えだろう。芸術も政治も、真空では存在できないということがわかっていないのです。双方とも働きかける人間が必要です。公衆が必要です。音楽は何よりも共有体験でなければならない。公衆のない音楽とは、存在不能でしょう。音楽は、聴衆と芸術家との間にある流動体です。音楽は、構築物でも、抽象的発展でもなく、生きた人間の間に浮動する要素です。そしてこの運動により意味をもつのです。」

とフルトヴェングラーはリースに語っている。

この彼の言葉と、彼のトスカニーニに対する返事とが矛盾するのかしないのか、トスカニーニは矛盾していると考え、フルトヴェングラーは矛盾しないと考えていた。

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2022年03月04日


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我が国においては、故吉田秀和氏のように好き嫌いを別にして公平に指揮者を評価できる音楽評論家は数少なかった。

本著には、1954年のパリ・オペラ座でのフルトヴェングラー指揮の演奏を聴いた感動を語る「荘厳な熱狂」、ベートーヴェン「エロイカ」のフルトヴェングラー指揮の演奏を徹底分析したその名も「フルトヴェングラーの『エロイカ』」、ナチス・ドイツに残ったフルトヴェングラーの芸術観(たとえドイツがナチスに牛耳られていようと故郷、祖国に踏みとどまり、民衆を見捨てなかった)を考察する「フルトヴェングラーのケース」、トスカニーニとの1937年、ザルツブルク音楽祭での対面と短い会話が紹介されていて興味深い。

吉田氏はフルトヴェングラー生前中から既に彼の指揮が時代遅れのスタイルであることを指摘していた批評家が少なからずいたことを書いているが、筆者自身そう感じたことがあった。

それは26歳のフィッシャー=ディースカウが抜擢された1951年ザルツブルクでのマーラーの『さすらう若人の歌』のライヴ録音を初めて聴いた時で、ウィーン・フィルから官能と陶酔、そして破滅の予感さえも描き出した演奏が世紀末のウィーンの空気感をイメージさせて素晴らしかったが、それが一種の懐古趣味に思えたからだ。

だが吉田氏が力説しているフルトヴェングラーの優れたところは、彼が生きた時代の音楽的趣味や傾向を演奏に反映させていることを認めながら、なおかつより普遍的な楽理的要素を深く読み取って精神的に昇華させ、聴き手に感知させる術を知っていた稀な指揮者だったと回想している。

例を挙げれば作曲家が曲想を変化させる時、それが前後に何の脈絡もなく起こるのではなく、変化に至る必然性を曲の中で刻々と予告しているのだと主張する。

実際ベートーヴェンを始めとするドイツ系の作曲家の作品ではそうした変化の兆しが周到に用意されている場合が多い。

こうした手法によってたとえテンポをかなり自由に動かしていても、聴衆にはその有機的な繋がりが効果的に聴き取れることになる。

これについてはベートーヴェンの交響曲第3番及びブラームス同第4番におけるアナリーゼに詳しい。

ここ数十年のクラシック演奏の傾向として、先ず楽譜に忠実であることが求められる。

しかし楽譜は音楽を伝えるための媒体に過ぎないので、こう書いてあるからそのように演奏するというのは如何にも短絡的な発想であり、聴き手を説得することはできないだろう。

むしろ演奏家は音符に表すことができなかった作曲家のメッセージがどこに、どのようにして存在するかを解明し、それを実際に音にして伝達しなければならない。

その意味でフルトヴェングラーは多くの人が誤解しているように、恣意的な解釈、あるいは即興で人々を熱狂させたカリスマ的指揮者とは一線を画している。

逆説的だが彼の手法は現代の指揮者が目指すべき方向にも相通じる課題の示唆的な解決策を含んではいないだろうか。

最後の章は政治学者、丸山眞男氏との対談で、クルト・リース著『フルトヴェングラー、音楽と政治』をベースにフルトヴェングラーとトスカニーニを対峙させて、両者を育んだ異なったふたつの文化や思想基盤を根拠に彼らの言動の究明を試みている。

フルトヴェングラーが政治に関して意外に無知だったこと、政治が芸術に及ぼす影響力を見くびっていたことなども考察されているが、彼は芸術が政治によって関与されるべきものでないという信念を貫いていたことは確かだろう。

ここではトスカニーニによるニューヨーク招聘を断わって、ナチス政権真っ只中のドイツに留まった理由を、彼の芸術の真の理解者は先ずドイツ人達である筈だと信じていたことなどが論じられていて興味深い。

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2022年03月01日


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フルトヴェングラーの一生は俗世界から超越した、音楽だけの生活であったが、舞台人である以上、俗世間との交渉は不可避のものであった。

不器用で処世術に疎く、謙虚で控え目な性格を持つ彼は、議論好きではあったが、世間のことには無知だった。

ソプラノ歌手のマリア・シュターダーは、フルトヴェングラーを「世事に疎い愚人」と呼んでいるが、そんな愚人がナチスと渡り合ったのだから、そもそも結果は見えている。

彼は政治などというものを頭から馬鹿にしていたが、実はそれがどれほどデモーニッシュな権力を持ち得るか、ということに対しては全く気がつかなかったのである。

このフルトヴェングラーの第二次世界大戦中の行動は、抵抗する「国内亡命」といえるか、それとも政治的無知として断罪されるべきかは高度な政治問題である。

そしていま、我々が改めて認識されなければならないのは、こうしたフルトヴェングラーのナチスへの加担が、本人の意識如何にかかわらず、彼の保持し続けようとしたドイツ教養市民文化の反啓蒙的な精神伝統に、そしてその核をなしている「内面性の神話」に由来しているということである。

1945年5月7日、ナチス・ドイツは崩壊し、46年、フルトヴェングラーはナチスに協力した罪で国民裁判の法廷に立たされた。

純粋な芸術家である彼にとって、この間の精神的苦痛はいかばかりであったろう。

初め周囲の証言は彼に不利であったが、次第にその正しさが立証され、彼を尊敬するメニューインなどの力もあって無罪が宣せられたのである。

ここに残念なことが一つある。

それは戦後初めてシカゴ交響楽団が彼をアメリカに招こうと試みた時、トスカニーニを始めとして、ホロヴィッツ、ルービンシュタイン、ブライロフスキー、ハイフェッツ、ミルシテイン、ピアティゴルスキーなどの大音楽家がこぞって反対したことである。

すでに裁判でナチスに反対こそすれ、協力した罪はないということになっていたフルトヴェングラーに対するこの仕打ちは、芸術家としてはなはだ心の狭いことと言わねばならない。

彼らの潔癖さもわからぬではない。

しかしナチスとフルトヴェングラーの音楽に何の関係があるというのだろう。

それではフルトヴェングラーの言う通り「ドイツが共産主義になれば自分も共産主義となり、デモクラシーの下では民主主義者となってしまうのか」ということになる。

フルトヴェングラーへのアメリカの招請に対して、一言も反対しなかったたった一人の愛の音楽家ブルーノ・ワルターと、積極的に彼を迎えるべく努力した正義派のメニューインに、トスカニーニやホロヴィッツを始めとする反対者たちには見られない温かい人間味を発見するのである。

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2022年02月16日


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以前はバッハの楽譜を選択する際、ウィーン原典版の赤表紙が最も信頼のおける楽譜だった。

勿論その価値は現在でも変わっていないが、ベーレンライターから新バッハ全集の叢書楽譜が刊行されてからは、ヘンレーも原典版を出版するようになった。

したがってこれら3社のものはいずれもほぼ共通した校訂版になる。

ただしベーレンライターの叢書版は、大部の研究書なので演奏にはコピーが必要になるし、価格的にもかなり高くつく。

ヘンレー版は曲集として何曲かをまとめたアルバムで、比較的廉価で購入できるが、紙質がやや劣る。

一方このウィーン原典版Urtextは『平均律』のような一連の曲集や『パルティータ』などの組曲物を除いて基本的に単独の曲目で個別売りしている。

価格そこ多少高めだが解説が充実している。

『半音階的幻想曲とフーガ』には異稿譜も存在するので、それらも一応目を通しておいた方が良い。

このウィーン原典版にはこうした異稿譜もサンプルの楽譜を挙げて言及している。

1ページのみだが1735年の写本の写真も掲載している。

原典にないものとしては運指番号が記されていることだが、これは学習者の助けになる。

また巻末に装飾音、アルペッジョなどの妥当な奏法を纏めて練習者の便宜を図っている。

プロの演奏家でなくてもバッハの音楽とその当時の奏法を知るには最低限ウィーン原典版での学習は必須と思える。

いずれにしてもバッハは最高の教材は最高の芸術作品でなければならないと言っていた。

この楽譜からは単に基礎的な演奏技術だけでなく、対位法と楽曲の展開の基礎を学ぶことができる。

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2021年12月01日


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村上春樹氏は自己の内面と世界との関わり方についての指針を常に現在進行形で示唆を与えてくれる存在である。

そして彼が小説家としての生き方、世界との関わり方、モノゴトに対する姿勢の在り方たるや既成の価値観を常に打破し、進取の精神が感じ取れるのは今も昔も変わりがない。

もはや彼にとって必要なのは勲章ではなく、自らの内面世界の豊穣さを実り豊かな果実として後世に遺すことに腐心されているように思われるのは筆者だけであろうか。

拙ブログで個人的な読書の体験を余り書くことは余りないが、村上さんの著作から感知し得る音楽性、例えば小澤征爾氏との対談記事や文藝春秋誌にバイロイト初体験レポートなど身近な存在になったのは比較的最近のことだ。

現在では筆者も村上さんの全著書、更には翻訳家としての知られざる(特に米文学)を読まずにはいられないほどの村上主義者(かれはハルキストと呼ばれるのを嫌う)の一人となる。

村上さんがジャズのみではなく、かなりのクラシック音楽に造詣の深いひとだということが彼の長編小説全体にモチーフとして散りばめられていることは有名で、次々と発売されてきた長編小説作品が全く他人事とは思えなくなり、内面の王国を築く上で欠かせぬ滋養であったことをもう疑いの余地がない。

そんな村上さんが『意味がなければスウィングはない』で、当時誰も注目していなかったシューベルトのピアノ・ソナタ第17番に的を絞って同曲異演盤を独自の視点で徹底的に深掘りしていたのも今思えば懐かしい。

さらにはプーランクについてかなり高度なクラシック音楽鑑賞をされているのを読み、それが何とも言えないノスタルジアを覚えたものだ。

常に次第の先端を自らトップランナーとして走り続けた彼ももはや(何と時の流れるのがはやいことか!)、年齢的に自らの歩みを振り返ってもおかしくはない。

そんな村上さんが初めてクラシック音楽のみのガイドブックを最近発表されたのには思わず快哉を叫びたくなる。

ここではもはやLPでしか音楽を聴かないという今日的な姿勢からは作曲家の時代もとうに終焉し、演奏芸術が虚業となり果てた現状に鑑み、もう一度不滅の巨匠に新たな豊饒の海を見出そうというスタンスに何だか運命の絆に結ばれているかのような夢のような話だ。

既に音楽評論自体が壊滅し、現代人としての視点からクラシック音楽への愛着の源泉を自らの豊かなディスコグラフィーに絞り込まれ過去のLPからはむしろ自明の理というか音楽業界全体の確実に衰退を自覚されておられるかのようですらある。

筆者自身も拙ブログで既に現在のクラシック音楽を取り巻く状況に限界を感じ、過去の巨匠にばかり目を向けてしまう。

懐かしいとしか言いようのない村上さん所有のLPのジャケットが掲載された外装からしてノスタルジックな雰囲気が漂い、かつてポスト・モダンと称された村上ワールド全開。

その円熟した語り口に接するに現在の筆者自身と世代は違うにせよ同じ土俵で究極のオアシスと癒しの場を提供された本著に感謝の念しかない。

ともかく20世紀録音芸術の真髄を知る者にとっては欠かせない総括的書物となると言えるが、村上さんの現在到達された境地に同時代人として共感させられずにはおかない内容だ。

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2021年10月15日


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バッハの鍵盤音楽の入門曲と言えば、15曲ずつのインヴェンションとシンフォニアだが、既に異なる版の楽譜を持っている方にもお勧めしたいのが、ウィーン原典版の赤表紙だ。

バッハの自筆譜に忠実で、楽譜として最も信頼がおけるし、運指も妥当な表示でチェンバロ演奏にもそのまま応用できる。

最近はあまり見かけなくなったが、版によってはテンポの指示があったり、スラーがいたるところにつけられていたり、およそバッハの書いたものとは思えない楽譜が横行していた。

初めてこの曲集にトライするのであれば、この版以外には考えられない。

装飾音に関してはどの版もクラヴィーア・ビューヒラインのバッハ自身の奏法を掲載するようになったが、ピアノ教師の中にはいまだに古典派以降の装飾法を教えている先生も少なくない。

この楽譜の運指の表記に従って練習を進めていくのが理想的で、古楽の奏法にも馴染むことができる。

ただしシンフォニアの第3番、第7番、第14番などでは、バッハの書いた通りに弾くにはそれなりの工夫がいる。

勿論参考として巻末に解決策も掲載されているが、演奏者の手の大きさの個人差などで、自分で指使いを開拓しなければならない曲もある筈だ。

そうした経験は更に高度なテクニックを要する平均律や組曲などに必ず役立つ。

いずれにしてもバッハは最高の教材は最高の芸術作品でなければならないと言ったが、この楽譜からは単に基礎的な演奏技術だけでなく、対位法と楽曲の展開の基礎を学ぶことができる。

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2021年09月08日


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本書の前半は過去に書き残された能う限りの古い文献からの死生観についての言い伝えや経験談が豊富に紹介されていて、現代人の感覚ではなく中世に生きた人々の赤裸々な思考回路に直面するように構成した阿部氏の試みが読み取れる。

しかもこれらのサンプルは興味深いものばかりが採り上げられているので、暗く重いテーマを扱った著書のわりには読み易い。

ヨーロッパでの罪と罰の意識の大きな変革はキリスト教の布教によって訪れている。

当初のキリスト教では、人は死後生前の行ないによって天国か地獄へ行くことになるが、後になって祈ることで救済可能な中間界の煉獄が捻り出される。

しかしそれ以前の北欧やゲルマン或いはギリシャ、ローマの世界では冥界はあってもそうした区分けは存在せず、死後の世界が決して悍ましい苦痛を与えるところでもなかったようだ。

死は彼岸ヘの移動という感覚で現世とそれほど変わらないところとして捉えられているのが興味深いし、人間が生まれながらにして罪を背負って生きているという意識も当然皆無だった。

一方キリスト教ではアダムとイヴが楽園での全被造物に対する特権的支配権を委ねられていたにも拘らず、二人は悪魔の誘惑に負けて禁断の果実を食べたために楽園から追放される。

当初二人は愛と相互の信頼によって生きていたが、神の罰で世界は牢獄化し、霊は肉体の奴隷となった。

従って人間の本質は悪だが、神から与えられた善も残されている。

こうして不完全になった人間はアウグスティヌスによれば自分自身の欲望の奴隷になると同時に他人の奴隷にもなる二重の奴隷化に苛まれる。

本来国家という体制は人間にとって相応しくないが、罪を背負った人間同士が生きるためには甘んじて服従しなければならない。

著者はキリスト教的国家の成立に多大な貢献をしたのがフランク王国のカール大帝だったとしている。

ゲルマンの統一と一貫した宗教を通した統治は彼の野望だったが、それは当時のローマ教皇の目論見とある点で図らずも一致していた。

カールは国政に携わる要職から下部組織に至るまで僧侶を起用して、ゲルマン人のキリスト教化を徹底した。

それが自らの国体を堅持するものと信じて疑わなかったからだが、教会側としては世界の教化に利用できる絶好の人物であった筈だ。

信者には司祭の前で告解することが義務付けられたが、その時教会が個人を強制し服従させるために最大限利用した武器が罪であったとしている。

阿部氏はそれをヨーロッパでの個人の形成の萌芽と見ている。

つまり告解は司祭との間で秘密が厳守されたので、個人の権利が保護されることも意味する。

従って教会からの強制という形であっても、ヨーロッパで個人の人格が認められ、共同体と個人の間に一線が設けられたと締めくくっている。

しかしながらキリスト教会の個人への厳しい介入によって、古いゲルマンの伝統的な精神がすっかり淘汰されてしまったわけではなく、それが古い民話集やグリムやアンデルセンのメルヘンの中に確実に残って現代にも生き続けているという指摘は、伝統や慣習が如何に根強いものかを物語っている。

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2020年09月10日


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著者ヒュー・トレヴァー=ローパー氏は美術評論家ではなく歴史家なので、本書はハプスブルク家がコレクションした美術作品の鑑定的ないわゆる美術書ではなく、ヨーロッパに君臨した一大名家がその歴史的位置付けの中で如何に芸術と関わったかというところに中心を置いて書いている。

言及している作品の写真等は総てモノクロで最低限しか掲載されていないが、それぞれの時代の当主のヨーロッパに於ける政治的スタンスと彼らの性格やその趣味が浮き彫りにされていて非常に興味深い。

神聖ローマ帝国皇帝の座を長期間に亘って受け継いだハプスブルク家が率先してその時代の芸術家達を庇護して作品を製作させたというより、当初は自分達の肖像を描かせ、彼らの功績を誇示するための手段として利用した結果、当時を時めくアーティスト達に名作を生み出させたという実用本位の指向が理解できるが、後のルドルフの時代になるとそれが本末転倒してあらゆる手段を講じてコレクションに躍起になる姿が明らかにされている。

ハプスブルク・スペイン系では保守的な堅物で、いくらか時代遅れの壮大な陵墓エル・エスコリアルを建設させたフェリペ二世が、フランドルの画家ヒエロニムス・ボスの殆んどシュールレアリズム的な絵画を虱潰しにコレクションしていたという逸話は面白い。

敬虔なカトリック教徒だった彼はボスの作品の奇怪な斬新さにある種の宗教的な崇高さと同時に現世に対する空蝉的幻想を見出していたのかも知れない。

しかし一方でフェリペは新進気鋭のエル・グレコの作風を退けた。

その選択がエル・グレコの画家としての創作活動の明暗を分けたとも言えるだろう。

後半では実質的にルドルフの後を継いだ弟アルベルト大公とルーベンスについての考察が秀逸だ。

大公妃イサベラはルーベンスに外交官の肩書きを与えてヨーロッパ各地に送り込んでいる。

著者はハプスブルクの政治手腕について高く評価しているとは言えないにしても、最後に「彼らの審美的なプロパガンダは首尾一貫してその時代の芸術家達に刺激とチャンスを与え、彼らの天才を認識させるのに十分な自由を与えた。

この芸術保護がなかったらあの百年間の芸術は如何に違っていたものになっていたであろうか」と結んでいる。

この作品が発表されたのが1976年のことなので、もはや続編を望むことはできないが、ハプスブルク家が芸術家達の庇護者として君臨する時代はその後も女帝マリア・テレージアの庇護を求めて多くのアーティストがウィーンに集まってくる18世紀後半まで続くことになる。

しかもこの時代はそれが功を奏したか否かは別としても、彼女の更に徹底した政略結婚政策が執拗に実施されたハプスブルク爛熟期を迎えたことを考えるならば、著者の研究がフェリペ二世の統治下とルドルフ二世及びアルベルト大公の時代で終わっているのが残念だ。

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2020年08月06日


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登場人物1人1人のセリフと行動から、彼らの思想的タイプをパターン化して描き分けたカミュの巧妙な手腕を改めて知ることができる。

『ペスト』本文を読んでいる時には気が付かなかったいくつかの事柄も発見できるし、深読みにはNHKテキスト『アルベール・カミュ・ペスト』と並んで格好の解説書だろう。

ただしあくまでも読後にお薦めしたい一冊で、本書を先に読むことは、ある意味で読者に作品の印象をあらかじめ方向づけてしまうので、先ずは自分なりの読後感を味わうことが大切だと思う。

カミュの他の作品との繋がりも明確に見えてきて面白い。

例えば『ペスト』の前作になる『異邦人』に共通する表現として「泣くこと」の意味合いがある。

『異邦人』の主人公ムルソーは母が亡くなった時、泣かなかった。

その事実が後の裁判における人々からの非難の的になるが、一方『ペスト』では医師リウーも妻の訃報を受け取った時泣かなかった。

あるいは泣けなかったと言うべきだろうか。

そして傍らにいた母にも「泣かないでください」と言っている。

勿論この二つの小説の主人公のおかれた状況や感情的立場は異なっている。

しかし泣くことが悲しみを表現する最良の手段ではなく、むしろ場合によっては陳腐で安っぽい行為に陥ることをカミュは熟知していた。

それは作家としてだけではなく、若い頃から俳優や演出家として演劇活動に情熱を傾けていたカミュらしい。

『異邦人』冒頭の「きょう、ママンが死んだ」にはあっけらかんとしたドライな若者の感情が表現し尽くされているが、そこにはまた一抹のやるせなさとその日を迎えてしまった覚悟が隠されているのも事実だろう。

死刑に関してもリウーの友人タルーのプロフィールにその深い意味合いが含まれている。

彼は次席検事だった父が、とある裁判で1人の若者に死刑を求刑するのを目の当たりにして心を病み、家出して革命運動に加わるが、そこにも存在した処罰や死刑によって挫折した。

『異邦人』の最後はムルソーが死刑執行を独房で待つやりきれないシーンで終わっている。

彼ら2人を通して、不条理のひとつの典型としての死刑が示されている。

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2020年07月10日


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地中海に面した仏領アルジェリアの都市・オラン。

おびただしい数の鼠の死骸が発見され、人々は熱病に冒され始める。

ペストという「不条理な厄災」に見舞われた街で、人々はいかに生きてゆくのか。

ノーベル賞作家アルベール・カミュ(1913~60)の傑作小説『ペスト』を、現代的視点で読み解いたのが本書である。

カミュ代表作の長編小説『ペスト』は、現在私たちが立ち向かっているパンデミック、コロナウィルスへの対策と事情が酷似していることもあって、予備知識なしでも興味を持って読み進めることができる作品だ。

実際には一連の前作『カリギュラ』『異邦人』及び『シーシュポスの神話」のいわゆる不条理の三部作の後に来る作品で、『ペスト』によって彼の不条理への哲学を推し進めていくことになる。

人間である以上不条理な世界での共存は避けられない。

その中で個人がどういう人生を選ぶかの可能性がここに示されている。

つまりカミュが『ペスト』で巧みに描き出したそれぞれの登場人物にその選択肢が託されている。

このテキストを学習することで人物に託されたメッセージを探り、彼の思想のより深い部分を認識しておくことは、他の作品を読む時にも好都合だろう。

またカミュの生い立ちや人となりを知っておくことは、こうした作品群に対する理解を一層深めてくれる。

父親はカミュがまだ一歳だった頃、第一次世界大戦で戦死し、殆ど無学文盲で障碍者だった母とともに貧困の中で成長する。

『ペスト』の中で医師リウーがペストとはあなたにとってどういうものかと問われた時、彼に『果てしなき敗北です』と言わせている。

そこにはカミュ自身が体験した生まれながらの敗北者のイメージが二重写しになっている。

パヌルー神父の説教ではペストのような災厄は神からの天罰として甘んじて受け入れよと力説させているが、リウーは懐疑的だ。

この小説にはヒーローは存在しない。

親友のタルーの死を看取り、リウーは妻を失いながらも、現実を真摯に見つめてベターと思われる道を模索することでしか不条理を乗り越えることはできないと感じる。

ウィルスが変異を続ける限りワクチンが開発できないのと同様そこには特効薬はない。

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2020年06月25日


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ペストの蔓延によって完全にロックダウンされたアルジェリア、オランの街に閉じ込められた人々の閉塞感と、暗中模索の中で地道な治療活動で対応せざるを得ない医師リウー達の苦悩、そして殆ど偶然に疫病の終焉を迎える時の彼らの心境が、現代のコロナ禍に生きる私達にも共有できるだけに感動的な作品だ。

彼らは保健隊という独自の救助班を打ち立て、日ごとに猛威を振るい始めたペストの感染者やその家族の隔離、血清の開発や患者への治療や手術だけでなく厳密な統計を取る。

これもまさに現在必要不可欠な対策であり、状況は何一つ変わっていないが、疫病の名称やデータの公表を渋る上層部の方針は、どこぞの国の政府の政策と皮肉にも酷似している。

オランの街からペストが去りつつあったある日の夜に、リウーと親友タルーは仕事の後、海へ向かい、無言で海水浴をするシーンが印象的に描かれている。

それは2人にとって束の間の平穏であったが、リウーの後ろ姿にはカミュの言う永遠の敗北者の影が付きまとっている。

やがてタルーもペストの最後の犠牲者の1人になってしまうし、リウーには療養先から妻の訃報が知らされる。

この物語には若い記者ランベールの心境の変化が重要なアクセントを与えている。

彼はオランに仕事で訪れたが、都市封鎖によってパリにいる彼女のもとへ帰れなくなってしまう。

最初はどんな手立てを使ってでも街からの脱出を試みようとするが、ようやく金で買収した兵隊が都市の門を開けてくれるという日に、ランベールは街に留まることを決意し保健隊に入って救助活動を始める。

その他にもある少年の無惨な死を目の当たりにして揺れ動くパヌルー神父の宗教観や、ペストが過ぎ去った後、人々が再び街に繰り出して歓喜の声を上げている中で、発狂してしまう犯罪者コタールなど登場人物1人1人に語らせるカミュの文学的手腕は圧巻だ。

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2020年04月14日


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2009年5月に亡くなった音楽評論家、黒田恭一氏への追悼出版となった。

幅広いジャンルの音楽を聴き、そして書いた著者だったが、中でも最も愛着をもって接していたのがオペラの世界で、99年から3年間に亘って『レコード芸術』誌に連載されたものを再編纂した単行本だ。

尚巻末には友人の浅里公三氏が本書で紹介されているCD、DVDの一覧を付け加えている。

オペラの登場人物中35人の役柄には誰が最適かという興味深い課題をもとに、それを『源氏物語』の雨夜の品定めになぞらえて考察している。

しかしベスト・キャストに選ばれるのは勿論女性歌手ばかりではなく男性も、また時としてはカウンター・テナーにも話題が及んでいる。

黒田氏は通常ビギナーのための推薦盤としては、比較的新しい録音で手に入りやすい優良盤を挙げることを鉄則としていたようだが、本書では一時代を画した、いわゆる往年の名歌手達が続々と登場する。

その理由は、オペラ歌手は役者として、しかも如何に声で演技ができるかという高度な問題を抱えているために、それぞれの役柄を理想的に歌える歌手はそれほど多くなく、時代を広げた考察が必要になるからだろう。

それだけにここに紹介されたメディアは初心者だけでなく、オペラに精通したコレクターも満足させる内容になっている。

文章は彼らしく平易で独特のユーモアが感じられるが、登場人物の役柄への観察は鋭く、また歌手に対して要求する条件もかなり厳しい。

例えばカルメンやトスカに求められているのは歌唱技術ではなく、女優としての表現力だとしている。

いくら美声に恵まれた歌手でも、そうした条件を満たすのは並大抵ではないが、当然そこにはマリア・カラスの名前が挙がる。

一方ヴォータンの理想はハンス・ホッターで、軽く明るいバス・バリトンで歌われる最近の風潮をからかって「わからずや親父の癇癪」にしか聞こえないと皮肉っているのは痛快だ。

またドン・ジョヴァンニでは個人的な出会いを認めながらチェーザレ・シエピに軍配を上げている。

いずれにしても、どれほど優れた歌手を主役に据えても、指揮者、オーケストラ及び脇役が手薄ではオペラは盛り上がらないし、また役によってはその人物の解釈の仕方が一通りでない場合もある。

そうした事情もあって、過去に録音されたものから一曲のオペラにつきベスト・キャスト盤を一組だけ選考するのは実際困難で、本書でも複数のCDが考慮されている。

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2020年02月27日


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本書は吉田秀和氏が書き下ろしたものではなく、機会あるごとに書いたバッハの作品への分析や演奏批評、レコード解説などを一冊に纏めたものである。

取り上げているサンプルは20年以上前の録音だが、現在私達がバッハを鑑賞する時の明快な手引きとして活用できる点が優れている。

これを読んでいると彼が如何に音楽の本質を捉えて語っているかが理解できる。

また決して対位法や和声の楽理に固執した偏狭な聴き方ではなく、バッハの書いたスコアが実際の音として再現されることへのほとんど無限の可能性と聴くことへの感動を伝えている。

それだけにカール・リヒターの『ブランデンブルク協奏曲』をまず解説して、それとは対照的なネヴィル・マリナーの同曲集も挙げている。

また『ゴ−ルドベルク変奏曲』に関してはグレン・グ−ルドとトレヴァ−・ピノックを推薦し、同様に『平均律』にはリヒテルとグルダの演奏が比較されている。

吉田氏のバッハ鑑賞への指標は明確で、19世紀の恣意的な表現の流れを汲む演奏はバッハには相応しくないとしている。

その中にハイフェッツの無伴奏も含まれているのは手厳しい。

しかし正確なリズムと的確なダイナミズムによる、生き生きとしたポリフォニーの再現が示される演奏には視野を大きく拡げている。

以下彼の書いた本文の一部を紹介しておく。

『私は、いつも「最高」のバッハのものばっかり好んで聴く趣味はないし、それを特に探そうと考えているものでもない。バッハには、まだ、別のバッハがいくつもある。そういう中で、リヒターのバッハと著しく違っていて、しかも、私を魅惑してやまないのは、グレン・グ−ルドのバッハである。リヒターとグ−ルドと、私は、そのどちらも捨てたくはないし、捨てる必要を少しも感じない。音楽は、それを許すのである。Gott sei Dank.(神が感謝されんことを)』

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2020年01月15日


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著者ハンス=マルティン・リンデはリコ−ダ−の名手として、また古楽器を現代音楽に生かした作曲家としても知られている。

彼のリコ−ダ−奏者としての活動期間は、友人でもあるフランス・ブリュッヘンと重なっていて、70年代から80年代にかけて互いにその技を競った仲だが、また一方で音楽学者としての仕事も見逃せない。

ショット社から出版された古楽の装飾に関する小ガイドは、古楽器演奏を志す学習者はもとより、アマチュアの愛好家にも、また古楽をより高度に鑑賞したい方にとっても、基礎的な一通りの内容を最低限網羅していて、簡易なだけでなく演奏にもすぐ役立つ実用性にも配慮されている。

本書は大きく分けて二部分から構成されている。

前半が解説で古楽の装飾、本質的、あるいはフランス風マニュアル、任意的、イタリア風マニュアル、通奏低音における即興演奏、緩徐楽章でのアドリブ、そして後半部が実際の演奏例になる。

解説はドイツ人らしく理路整然として無駄なく簡潔にまとまっていて、演奏譜例もコレッリ、オットテ−ル、テレマン、バッハ、ヘンデルなどの作品から広くサンプルが採られている。

参考までにドイツの古楽器メ−カ−、メック社から出版されている木管楽器のための季刊誌『TIBIA』2013年第一号の付録としてリンデのドキュメンタリーがDVDで付いている。

彼は1957年以来スイスのバ−ゼルに本拠を置いて演奏活動をし、現在でもスコラ・カントルムで後進の指導に当たっている。

彼のこれまでの音楽家としての活動や趣味の絵画についてインタビューに答える形で約一時間二十分に亘る映像とそれに因んだ音楽が収録されている。

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2020年01月07日


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本書ではスヴャトスラフ・リヒテルと友人達との交流を中心に彼のキャリアの後半に焦点を当てて、ユ−リ−・ボリソフが回想した対話形式の作品になるが、話しているのは大部分リヒテルで、ユニ−クなリヒテル語録といった印象がある。

日常的な会話の中に彼の演奏に対する哲学や、一種謎めいたファンタジーを垣間見ることができる魅力的な会話録だ。

リヒテルは少年時代からオペラや演劇の出前伴奏をすることで家計を助けていたが、その影響もあって早くから文学や絵画の素養も身につけていたので、本書に表れる文学的、あるいは美術的な幅広い教養と実践で鍛えた即興性が彼の演奏に深みを与えていたと言えるだろう。

自身述べているが、リヒテルは円熟期に絶対音感を失っただけでなく、音が1全音ずれて聞こえる現象に悩まされた。

それは音楽家にとってかなり致命的で、頭で考えている音と実際ピアノから鳴り響く音にずれが生じると、暗譜での演奏が困難になる。

彼が後年楽譜を見ながらコンサートに臨むようになったのはこうした事情だ。

本書ではリヒテルが演奏する作品1曲1曲に音楽の範疇を超えるかなり強烈なイメージを抱いて弾いていたことが明らかにされている。

それが純粋にスピリチュアルなものであろうと、具体的な視覚に訴えるものであろうと彼の演奏上のほぼ決定的な解釈になったようだ。

逆にそうしたイメージが枯渇したり、全く湧かない場合は演奏しない。

彼が全集物の体系的な演奏や録音にそれほど興味を示さなかったのも、それぞれの曲に通り一遍の性格を与えることを拒んだからだろう。

また演奏にはム−サ(ギリシャの芸術を司る女神)の降臨が欠かせなかったらしく、ボリソフに「君にはム−サの女神がついているかね?必ず手に入れたまえ、、、はっきりと思い描くことだ、力を込めて。守ってもらえるように」と言い、「私のム−サはもう疲れ果てているよ。かなりの年だな。息をするのもやっとで」などと自嘲的な冗談にも事欠かない。

リヒテルの会話にはボリソフもたじろぐほどの多くの比喩や他の分野からの引用が溢れていて、読み進めるには章ごとの訳注が欠かせないが、慣れてくると非常に面白く、思わず吹き出したり、苦笑せずにいられないような部分も多々ある。

それはコンサートで笑顔ひとつ見せなかった彼の意外なプロフィールを窺わせていてなおさら滑稽だ。

カラヤンとのべ−ト−ヴェンのトリプル・コンチェルトのセッションはよほど根に持っていたらしく、演奏内容よりも写真撮影を優先したカラヤンを至るところで槍玉に挙げているが、ここでもリヒテルは明け透けに批判している。

同業者でもホロヴィッツ、グ−ルド、ガブリ−ロフ、ギレリス、ポリ−二などが引き合いに出されているが、感動した演奏には称賛を惜しまない姿勢は流石だ。

指揮者ではムラヴィンスキーとコンドラシンが彼にとっては別格的な存在だったようだが、基本的に彼の判断は曲目に関する演奏者の解釈と表現力に集中していて、名演奏家でも往々にして失敗があることを示唆している。勿論自分の演奏にも手厳しく、録音したレコードは10枚くらい残して後は全部廃棄できたらどんなに幸せかとも言っている。

周期的な鬱状態に苦しんだリヒテルの精神状態がそれに特有のアクセントを与えている。

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2019年10月08日


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日本人によって書かれた殆ど唯一のマニエリスムに関する本格的な論述である。

マニエリスムとは危機の時代の文化である。

世界調和と秩序の理念が支配した15世紀は、黄金のルネサンスを生み出した。

だが、その根本を支えてきたキリスト教的世界像が崩れ、古き中世が解体する16世紀は、秩序と均衡の美学を喪失する。

不安と葛藤と矛盾の中で16世紀人は「危機の芸術様式」を創造する。

古典主義的価値をもつ美術史により退廃と衰退のレッテルを貼られてきたこの時代の芸術の創造に光を当て、現代におけるマニエリスムの復権を試みた先駆的な書である。

ルネサンスとバロックの狭間に咲いたあだ花のように蔑視されてきた芸術が開花した歴史的背景とその再評価が若桑氏の深い洞察と広範囲に渡る研究によって明らかにされていく。

プラトンによって唱えられた現世における人間の姿、つまり肉体という牢獄に閉じ込められた精神の苦悶とそこから解き放たれる自由への渇望をこの危機の時代にミケランジェロは身を持って体験し、それを自分の作品に具現化させようと試みた。

それはもはや現実的な実態とはかけ離れた精神的な実在に迫る表現であり、ルネサンスの物理的に精緻な物差しを使って彼の作品を計り、理解しようとすることは無謀だろう。

更にブロンヅィーノに至ってはミケランジェロの三次元的な形態は受け継がれたものの、その精神は寓意によってすり替えられた。

彼は自分の作品を病的なまでに寓意で満たし、後の時代の人々が解読不可能になるほどの技巧を凝らせた。

一方パルミジャニーノは既成の空間を反故にして見る者の視線から焦点を逸らし、なかば強制的に思考の迂回を図った。

そうした方法がヴァサーリの言うマニエーラ、つまり作品の背後にある作者の思索を感知させる手段として追求されたのがこの時代の芸術だろう。

そうした意味で本書はミケランジェロとその時代を画したアーティスト達の作品を理解するうえで非常に有益な示唆を与えてくれる。

また後半部に置かれたマニエリスト達の作品の宝庫、フランチェスコ・デイ・メディチのストゥディオーロについての詳述も圧巻だ。

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2019年09月19日


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なぜ心にこれほど深い慰めをもたらすのか、人生への力強い肯定を語るのか、「神の秩序の似姿」に血肉をかよわせるオルガン曲、聖の中の俗、俗の中の聖を歌い上げるカンタータ、胸いっぱいに慈愛しみ渡る≪マタイ受難曲≫……。

300年の時を超え人々の魂に福音を与え続ける楽聖の生涯をたどり、その音楽の本質と魅力を解き明かした名著。

1985年に出版された同名の単行本からの文庫版で、その後の最新の資料を基にかなりの部分に亘って改訂を施し、面目を一新した形で刊行された。

バッハの評伝、あるいは彼の音楽を理解するための入門書として最適であるばかりでなく、彼の人生観、宗教観や作曲技法に至るまで、ある程度専門的な部分にまで踏み込んだ著者の考察が簡潔に、また親しみ易く書かれているのが特徴だ。

本文の構成はバッハの経歴とその作品の成立過程、彼を取り巻いていた人間関係やその当時の社会的な背景などをクロノロジカルに追って進めていくものだ。

彼は生涯ドイツから一歩も外へ出る機会を持つことがなかったにも拘らず、如何に多方面から勤勉に学び、それを完全に自分の音楽として昇華していったかが理解できる。

また当時の音楽家としては稀に見るレジスタンス精神で上司と闘った、不屈の闘志家としての側面も興味深い。

最後に置かれた補章「20世紀におけるバッハ演奏の四段階」では、バッハ復興時代から現在に至るまでの演奏家による演奏史について著者礒山氏の忌憚のない意見と将来への展望が述べられている。

尚単行本の巻末に掲載されていた作品総覧は、現在のバッハ研究の現状にそぐわないものとして割愛され、楽曲索引にとって替えられた。

勿論そこでバッハの作品大系を俯瞰することができる。

「人間の小ささ、人生の空しさをバッハはわれわれ以上によく知っているが、だからといってバッハは人間に絶望するのではなく、現実を超えてより良いものをめざそうとする人間の可能性への信頼を、音楽に盛りこんだ。

その意味でバッハの音楽は、切実であると同時に、きわめて楽天的でもある。

バッハの音楽を聴くとき、われわれは、人間の中にもそうした可能性があることを教えられて、幸福になるのである。」――<本書より>

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2019年09月11日


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下巻ではイタリア・ルネサンスが生んだ綺羅星のような多くのアーティスト達の活躍が詳述されているにも拘らず、その時代のイタリアの政治的あるいは文化的な凋落がまざまざと明らかにされている。

先ずルネサンス発祥の地とも言えるフィレンツェから次々に有能な職人が離れていく。

高階秀爾氏の『フィレンツェ』によればロレンツォ・デ・メディチの外交政策によって彼らがイタリア各地に派遣されるが、職人たちは祖国に帰らなかった。

条件の良い土地で働くことを望んだのだが、その理由のひとつにサヴォナローラの事実上のフィレンツェ共和国統治にあるだろう。

サヴォナローラについては本書第2章が捧げられている。

『虚栄の焼却』によって貴重な芸術作品の多くがシニョリーア広場で焼き尽くされた。

こうして人間的な自由で開放的な芸術活動は一切否定されることになる。

彼の息の詰まるような行き過ぎた政策は反感を買うが、ついに彼は教皇アレクサンデル六世への痛烈な批判によって『虚栄の焼却』と同じ場所で火炙りの刑で処刑された。

サヴォナローラが登場したのはメディチ家の牽引した高い文化と同時に享楽社会の絶頂期にあった。

その意味ではこのドメニコ派の僧侶も時代の子と言えるのではないか。

第69章はミケランジェロで、彼はルネサンスから次の時代に芸術活動を切り拓いた巨星だが、彼も少年時代にメディチ家の当主ロレンツォ・イル・マニーフィコとの偶然の出逢いがなければその驚異的な才能を開花できただろうか。

ロレンツォはミケランジェロの才能に驚き、彼をメディチ家に招いて食住を共にさせ教育させる。

当時最高の知識人から受けたあらゆる教養がミケランジェロの作品に滲み出ていることは明らかだ。

教皇ユリウス二世とは腐れ縁で、喧嘩ばかりしていたが何故か最も重要な仕事の幾つか成し遂げている。

彼のオーダーで描いたシスティーナ礼拝堂の天井画はミケランジェロ処女作のフレスコ画だった。

完成直後にダ・ヴィンチが法王庁にやってきて二年間の滞在をしているが、この時期ローマはまたラファエッロ全盛期で、膨大な仕事を請け負って代表作を生み出していた。

こうした切磋琢磨ができたのはやはり時代の成せる偶然だったのだろうか。

この頃がヨーロッパにとってもイタリアが最も輝かしい芸術の都であり、しかし一方で斜陽が射し始めていた時期だった。

ドイツ・ルネサンスの担い手、デューラーも二度のイタリア旅行でジョヴァンニ・ベッリーニなどから多くの影響を受けている。

第68章では斜陽のイタリアと題して16世紀末のイタリアがヨーロッパの文化の主導権から離れていった実情が説明されている。

実質上イタリアには宗教改革は及ばなかったために個人の権利義務の意識も稀薄だったとしている。

国内にスペインの覇権が確立しても大きな抵抗はなかった。

著者はローマ教皇庁の反宗教改革が勝利する中で、イタリア人の気骨は失われ、そのために彼らのサーヴィス業に対する適正がこの頃から顕在化したとしている。

現在のイタリア人が世界最良の給仕であり、ドアボーイであり、また世界最良の靴磨きなのは四百年前から始まったと皮肉を込めて書いているが、これは少し言い過ぎかもしれない。

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2019年09月04日


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イタリアのジャーナリスト、モンタネッリとジェルヴァーゾの共著による『ルネサンスの歴史』文庫版の上巻になり、ルネサンス黎明期のイタリア小国家同士の紛争と教皇庁対神聖ローマ帝国、そして領土拡張を狙う近隣諸国の四つ巴の確執やヨーロッパを波状攻撃で襲うペストの流行の中で何故ルネサンスが起こったかが前半に説明されている。

そのひとつの理由として著者はイタリアには国家統一構想の観念も気運もなく、それぞれの領主がそのエネルギーを宮廷文化に注ぐことができたからだとしている。

一見独断と偏見に満ちた解説のようだが、実はそこに事実を見極める冷徹な眼がある。

例えば教皇庁の以夷制夷はお家芸とこき下ろす。

つまり敵対する国には他国を戦わせて自己の保身を図り、常に風見鶏的な政策を取って権威と利権にしがみつくだけの存在に堕していた。

そして歴代のローマ教皇の失態とそれに続くアヴィニョン捕囚への歴史が暴きだされている。

ルネサンス黎明期を担った文豪としてイタリア語という俗語で高度な詩のスタイルを完成させたダンテ、俗語によるヨーロッパ初の小説を書いたボッカチオ、そしてラテン文学の健在を示しながら実はイタリア語の達人だったペトラルカを詳細に解説しているが、ダンテは文人であるより先ず政治家であり、生涯政治闘争に巻き込まれ翻弄された。

そこにはまた大商人の興隆が無視できない。

モンタネッリは近代的商人の鏡としてフィレンツェのフランチェスコ・ダティーニの章を設けている。

彼は如何に多くの利潤を引き出し、損失を出さないかを徹底した記録と統計によって取り引きした。

勿論そこに天才的な勘を働かせていたことも事実だろう。

政治には全く関与しなかったので、相手が見方であろうが敵であろうが武器を売って一大財産を築き上げた完璧な商人気質だった。

彼より更に老獪だったのが銀行家コジモ・デ・メディチだ。

彼は金銭の力を誰よりも信じていたし、世の中に金で動かないものはないという哲学を持っていたが、またそれを使う術も熟知していた。コジモは驚くべき寛容さで画家、彫刻家、建築家を起用してフィレンツェ共和国を飾り、私設のアカデミーを創設してヨーロッパ最高の知識人を集めたサークルを開いた。

潔い性格でも知られていて、ライバルのアルビッツィ家の陰謀で国家反逆罪の逮捕状が出た時、コジモは逃げも隠れもせず死刑を覚悟で出頭した。

ただし裁判官に金を送って死刑は十年の流刑に減刑され、更にそれは一年に短縮された。

彼がフィレンツェに返り咲いた時には庶民から凱旋将軍のように受け入れられたという。

常に庶民を味方に付けるのもメディチ家のストラテジーだ。

ここではまた建築家ブルネッレスキ、彫刻家ドナテッロそして画家マサッチョなどが説明されている。

コジモから直接人生訓を受け継いだのが孫のロレンツォで、彼は教皇領イモラを強引に統合したことで教皇シクトゥス四世の恨みを買い、教皇にそそのかされた宿敵パッツィ家の謀反によって弟ジュリアーノを殺されただけでなく、教皇庁とナポリ王国から宣戦布告を受けるが、果敢にもロレンツォは単身ナポリに乗り込んでフェルディナンド王との直談判によって和平協定を結ぶという離れ技をやってのける。

メディチ家の治世に真っ向から反対の説教を繰り返したドメニコ派の僧サヴォナローラには常に寛容の態度を示し、死の床にあってサヴォナローラを呼び寄せ告解をして世を去った。

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2019年08月12日


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高階氏は先ずルネサンスを育む土壌となったフィレンツェ共和国という都市国家の特異性を説くことから始めている。

引用されているヴァサーリの言葉は確かにこの国の体質を象徴している。

コジモ・デ・メディチによって創設されたアカデミアでネオ・プラトニズムや新しい科学に感化されて育った文化人や芸術家達は、彼らの才能を先進的な創作活動に注ぎ込むが、フィレンツェがその爛熟と凋落の狭間にさしかかった時、メディチ家の当主ロレンツォ・マニフィコは外交的な政略手段として多くのアーティストの外部派遣を敢行する。

しかしその後彼らは故郷での仕事に再び就くことは稀だった。

何故なら因習的なフィレンツェの人々の趣味は洗練に敏感であっても革新的なものには常に懐疑的だったからだ。

そしてロレンツォのサヴォナローラとの確執と敗北、更にサヴォナローラの火刑に至る時空をフィレンツェで生き続けたボッティチェッリの作風が第七章までの中心的なテーマになる。

これについては同著者の『フィレンツェ』に詳しいが、以降の考察に欠かすことができないプロローグとなっている。

ルネサンス以降のアーティスト達は作品に彼らの哲学や宗教的、あるいは歴史的事象を意識的に盛り込むので、ヨーロッパ文化から離れた世界の人にとっては、個人の美学的センスに頼るだけでは充分ではなく、いわゆる絵解きが不可欠になってくる。

後半では三美神や目隠しされたキューピッドの意味するところが詳述されているが、ボッティチェッリの『春』ひとつを鑑賞するのに最低限知っておくべきことが如何に多いかという事実も、彼が当時を代表する第一級の教養人だったことを証明している。

こうした絵解きをしていくことによって初めてそれぞれの作品の深みに接することが可能になるだろう。

しかしある程度のルールを理解するのであれば、それは他の作品にも応用できる。

そうした重要なヒントが満載されているのが本書だ。

その意味では学術書であると同時に芸術作品鑑賞のための最良のガイド・ブックになり得る優れた解説書でもある。

確かに掲載された写真は総て白黒でサイズも充分な大きさとは言えないが、現在インターネットを通じてたやすく作品のイメージを閲覧できることを考えれば、それらの欠点を補って余りある価値の高い著作だ。

アカデミアのネオ・プラトニズムはプラトン哲学とキリスト教の整合性を観念的に理想化しているが、そうした複雑な考察がさまざまな名画にも映し出されている。

第四部2人のヴィーナスではボッティチェッリの『ヴィーナス誕生』からティツィアーノの『聖愛と俗愛』、ラファエッロの『騎士の夢』、更にはティツィアーノの『フローラ』や『聖女マグダレーナ』と続いて女神ヴィーナスの持つ二面性を説いている。

美の象徴であるヴィーナスには、その背後に快楽をもたらす娼婦のイメージが二重写しになるのは宿命と言えるだろう。

第五部ではジョヴァンニ・ベッリーニの『神々の祝祭』の謎めいた登場人物についての詳細な考察が興味深い。

カトリック宗教画の権威だったベッリーニがイサベッラ・デステとの長い交渉の末にようやく承諾した異教の神々の宴に寄せた作品は、実は1502年に結婚した弟のアルフォンソ・デステとルクレツィア・ボルジャのために描かれたと結論付けている。

神々のそれぞれの顔は新郎新婦やこの絵画制作を仲介したピエトロ・ベンボ、またベッリーニ自身の自画像になっているが、弟子のティツィアーノによってかなり大胆な手直しがされた事情も解き明かされている。

それはアルフォンソの趣味に合わせた改変だが、新しい絵画様式の到来をも告げていて象徴的だ。

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2019年07月24日


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本書のタイトル『自分のなかに歴史をよむ』は著者阿部氏の歴史を理解する上での、自分自身の接し方を解説したもので、彼にとって歴史を理解することは事件の流れをクロノロジカルに記憶することではなく、その根底に潜んでいる自分の内面と呼応する関係を発見し、納得した時初めて理解できたと言えるとしている。

前半では自伝的な記述が多く、彼が少年時代に預けられた修道院での生活が思い出されているが、それは彼とヨーロッパを繋いだ鮮烈な体験であり、その後の彼の生涯を決定づける経験になっていることが理解できる。

しかし体験を活かすには、それを対象化する自己の意識と幼い頃の感受性を忘れないことが重要だとしている。

苦学生だった頃、優れた教師に恵まれ、借金をしながらも自分の進むべき道を模索し続けたことで、彼は35歳でドイツ留学を果たすが、ドイツでの古文書研究から想像していなかった副産物を得ることになる。

それが中世の差別意識の萌芽で、この研究は帰国してから『ハーメルンの笛吹き男』として実を結ぶ。

彼が調査の課題としたドイツ騎士修道会の古文書を読んでいる中で、偶然1284年6月26日にハーメルンの町から130人の子供達が行方不明になったという記録を見つけた時、体に電流が走るような戦慄を覚えたと書いている。

それは幼い頃に読んだ不思議なネズミ捕りのメルヘンが根拠を持つ実話だったことへの衝撃だった。

しかしこの笛吹き男が当時忌み嫌われ、差別されていた賤民だったことから彼の興味は俄然差別意識の原因とその成立の解明に向かう。

ただしこの男は実際には笛吹ではなく、当時貧困層の外部への入植を世話する斡旋人であったと考えている。

そこで阿部氏は何故彼らが賤視されるようになったかを調べるに至ったようだ。

実はそれがキリスト教の布教に大きく影響を受けていることに気付く。

中世に生きた人々の宇宙観は人間が制御し得る小宇宙とそれが不可能な大宇宙という関係にあったようだが、キリスト教はそれを否定し、総ては全能の神が創造した唯一の宇宙という教えが定着する。

それによってそれまでふたつの宇宙の狭間で生業を営んでいた死刑執行人、墓掘り、放浪職人や旅芸人などは、その神秘性を暴かれ職業的権威が失墜し、必要な職業であるにも拘らず彼らは単なる汚れ仕事に携わる人、あるいは河原乞食としての賤視が始まる。

この現象を理解することは容易ではないと著者自身書いているが、特殊な能力を持つ者が公の立場から一度排除されると、かえって周りからやっかみを買うだけでなく、彼らに抱いていた畏怖の念が歪められて差別の対象になるという説には、人間にそもそも備わっている差別意識を解明しているようで重みがある。

だからハーメルンの町では多くの子供達を連れ出した張本人として辻芸人の笛吹き男に責任転嫁したメルヘンが形成されていったというのが事実らしい。

勿論メルヘンでは約束したネズミ捕りへの支払いを拒否した町の裏切りというスパイスも巧みに加えて教訓にしているのだが。

世界宗教を標榜するキリスト教では1人でも多くの信者を獲得するために、民族、文化や言語の隔たりを超越した合理性が求められるようになる。

ヨーロッパと日本の間に存在する隔たりを説明する時、産業革命をその根拠の裏付けにする学者もいるようだが、確かに物質的あるいは時間的な合理性には頷けるとしても、より精神的な合理性は阿部氏の言うように中世を通して定着するキリスト教の影響が大であるとする考察には説得力がある。

ここからは日本の負の部分が語られている。

つまり合理性に欠けることが閉鎖性を促すという考えで、欧米では能力次第でアジア人が大学教授やオーケストラの指揮者、バレエのプリマにもなれるが、日本の伝統芸能の世界では完全に門戸が閉ざされているということだ。

近年大相撲で横綱になる外国籍の力士も出てきたが、それは相撲部屋という因習を甘んじて受け入れるという大前提があり、相撲協会でも力士不足を解決する已むに已まれぬ事情があることも事実だろう。

西洋人が能や歌舞伎役者になることは著者の言葉を借りれば絶望的だ。

阿部氏は別の著書で、日本の旧帝国大学は西洋からその制度を取り入れたものの、実際には国家のために尽くす官吏や上級役人を養成する施設で、学生が自主的な研究で成果を上げる場ではないと書いている。

こうした現状からは高度な学術の研究や発展は望むべくもないとしている。

確かに優秀な能力を持つ者が、国にへつらうことを学生時代から鍛えられているというのは耳の痛い話だ。

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2019年06月25日


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この笑話集を読み解くにはある程度の予習が必要であることを断っておかなければならない。

先ずここに集められた話の主人公ティル・オイレンシュピーゲルが中世時代に差別を被っていた賤民だったことに注目すべきだろう。

これについては非常に奥の深い歴史的事情が関わっているので、阿部氏の中世シリーズの著作を読むに越したことはないが、ティルは階級社会から見捨てられた放浪者で市民たりえない下層のランクに位置付けられていた人間だった。

しかし賤視されるに至った職業は元来人間の制御できない世界との仲介となる、例えば死刑執行人、動物の皮剥人や放浪芸人などで、彼らは意外にもキリスト教の徹底した布教によって世の中の片隅に追いやられてしまう。

そしてティルに一杯食わされるのは領主やカトリックの高位聖職者、あるいは富裕な商人達は勿論、庶民にもその鉾先が向けられる。

しかもその手段にはスカトロジックな戦法が容赦なく続出する。

それはティルの権力への価値観を見事に表明していると同時に、権力におもねる者や階級社会に隷属する人々への痛烈な反感を示しているが、また著者は非常に注意深くこのことを『中世賤民の世界』のなかでも言及している。

阿部氏によれば中世の人々は人間によって制御できる小宇宙と制御不可能な大宇宙との係わり合いで生きていた。

そして大宇宙をも制御できると思い上がった者は、それによって翻弄される結果を招く。

ここでティルに振り回される人々は、自分自身自覚していないにせよ、まさにそうした連中なのだ。

中世時代には、人の体に空いている穴は小宇宙たる人間が大宇宙と結び付く場所として捉えられていた。

それゆえ人は口から大宇宙からのものを体に取り込み、肛門から大宇宙に戻すという営みを続ける。

ティルのストラテジーも単に人々に汚物をぶちまけて仕返しをするという意味の他に、それが最後に返るべき大宇宙に返す行為であることにも気付かなければならないだろう。

また言葉の遊びも随所に現れる。

ドイツ語の方言による行き違いや、名詞の意味の取り違いなどでもティルは意気揚々と相手をへこませる。

第60話ではワインをくすねたかどで絞首刑を宣告されたティルがやすやすと解放されるが、ここでもこの時代特有の風俗習慣を理解していないと落ちが分からない。

いずれにせよ注釈がかなり丁寧に付けられているので、短い話でもその都度理解しながら読み進めていくことが望ましい。

この訳出ではティルの誕生からその死に至るまでのエピソードが阿部氏によってクロノロジカルに整理され、話の進行が分かり易くその前後関係も明らかにされている。

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2019年06月17日


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文庫本化された吉田秀和氏の文章をまとめて読むことによって、音楽批評家の役割について改めて考えさせられた。

批評家の仕事は自己の感動や思い入れをできる限り平易な言葉、あるいは文章で表現し、対象となる楽曲のあるべき姿を一般の人々に伝え、鑑賞者を啓蒙することにあると思う。

彼はその能力においてひときわ優れている。

しかし吉田氏のような批評家でも自分の考えていることを文章にできないもどかしさもはっきり表明している。

それが芸術の持つ特性であり、筆舌に尽くしがたいという形容を素直に認めていた真摯で正直な人でもあった。

また彼は読者に決して自分の意見を強制しなかった。

音楽を鑑賞する一人ひとりはそれぞれ異なった感性を持っていて、それはさまざまな音楽を聴き、経験を積むことによって洗練されることはあっても、統一することは不可能だからだ。

それがまた幅広い音楽の選択肢を供給し、私たちを勧誘する喜びでもあるわけだ。

しかしだからといって批評家は最大公約数的な発言をすることは許されない。

吉田氏は批評の力量に優れているだけでなく、そのバランスということにかけて絶妙だ。

彼の洞察は非常に鋭く、演奏者全体の姿を見極めた上でなければその人の音楽を評価しない。

どんな天才が現れても、その人が将来どのような努力を課せられるか、そしてどういう方向に向かうべきかを見定めなければ気が済まないし、手放しで賞賛するようなことはしない。

また彼らの欠点も逐一見逃さないし、それを書くことにもやぶさかでない。

レコード会社から金を貰って、売り出し中のアーティストを誉めそやす文章などは書かなかったし、またできもしなかったに違いない。

そうした厳しい姿勢も自ずと文章に滲み出ている。

それだけに彼の批評は常に人間的であり、しかも極めて信頼性が高い。

それが多くの人の賛同を得ている理由でもあるだろう。

筆者自身彼の遺した批評を貴重な資料として高く評価している。

鑑賞の経験が豊かになればなるほど、自然に彼の言葉に共感し、その批評を抵抗なく受け入れられるようになるというのが筆者自身の体験だ。

この本に登場する指揮者の多くは既に他界しているが、彼らの芸術が現在でも生き続けているのと同様に、吉田氏の評価が次の世代への示唆として受け継がれることを期待したい。

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2019年05月21日


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阿部謹也氏が他の著書でも繰り返して説明しているヨーロッパ賤民の成立とその経緯が、かなり詳しくまた広範囲の研究によって述べられている。

ヨーロッパという地域の文化にもう一歩深入りしたい方にお薦めしたい一冊だ。

八回に亘るレクチャーから起こされた文章なので、分かり易く丁寧に進められているのが特長で、彼の到達した結論とも言うべきヨーロッパに住む人々の根底にある宗教観や人間観が詳らかにされている。

著者はドイツから帰国した後『ハーメルンの笛吹き男』を発表したが、その時にはまだ賤民について充分な観察が為されていなかったと書いている。

留学中の古文書の閲覧の中で偶然見つけた1284年6月26日にハーメルンの町から130人の子供達が忽然といなくなったという記録自体ショッキングなものだったが、この記録には派手な衣装を纏った笛吹き男の姿は全く出てこない。

それは後の時代のメルヘン作家達によって作り上げられた象徴的な主人公だった。

ここでも繰り返し説明されているが、中世の人々の宇宙観は家や集落を中心として人間が制御できる小宇宙と大自然や森羅万象、病や死など人間が介入できない大宇宙のふたつだった。

その中間で生業を営む死刑執行人、墓掘り、定住しない放浪芸人などは特殊な能力を持った人として当初畏怖の念を持って見られていたが、キリスト教の徹底した布教によって、宇宙は全能の神が創造した唯一のものだという教えが広められ、これによって彼らの職業の権威が失墜してしまう。

その時彼らの仕事はただの汚れ仕事やうらぶれた旅芸人として畏怖が蔑みに変わり、差別の対象となったとしている。

だからこの時代には放浪芸人や辻音楽師などは賤視された差別民で、多くの子供達を連れ去った犯人を魔法を使う笛吹き男として表すのは都合の良いことだったに違いない。

ただし童話には教訓が必要なので、ハーメルンの町が鼠退治に雇った男に約束した謝礼を拒否したために、今度は子供達が笛の音につられて着いて行ってしまったという筋立てになっているのだが。

シャルル・マーニュ大帝はローマ法王から戴冠を受けた後、最も崇高な音楽は単旋律で斉唱されるグレゴリオ聖歌だとしてその他の庶民の間で演奏される、いわゆる世俗の音楽を退けた。

これも辻音楽師の差別に一役買っている。

村落の人々が祭りや宴会の時に呼ぶ放浪芸人の奏でる歌や踊りのため音楽は、魂を掻き立て興奮をもたらす悪魔の音楽だということになったからだ。

これはヒエロニムス・ボスの描いた幾つかの絵画にも表されていて、彼の大作『悦楽の園』の地獄ではハープやリュート、太鼓やクランクなどの周りで責め苛まれる群集が描かれている。

彼が後半でアルブレヒト・デューラーの項を設けて解説しているのも、阿部氏のこれまでの社会学的な視点で得られた成果と見做すことができるし、絵画の解釈にも新しい側面を拓いていると言えるだろう。

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2019年03月09日


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チェコが生んだ非凡にして偉大な指揮者、カレル・アンチェルの伝記や記念ディスクはチェコを中心とするヨーロッパからはそれなりのものがリリースされているが、最初から日本語で書かれた彼の評伝は全く初めての試みで、著者のひたむきな取材と研究、そして熱意に感謝したい。

伝記部分は第1章『誕生からプラハ音楽院入学まで』 第2章『学生時代からプラハ放送交響楽団指揮者就任までの歩み』 第3章『暗黒の時代 テレジーンからアウシュヴィッツへ』 第四章『楽壇復帰からチェコ・フィル音楽監督時代』 第5章『トロント交響楽団の音楽監督として』までの123ページで、貴重な写真と共に要領を得た簡潔な文章でアンチェルの生涯が綴られているが、最後に補章『アンチェル再評価の動向・CD一覧』が設けられていて、巻末には70ページに及ぶ壮観な作曲家別ディスコグラフィーが掲載されている。

これで彼の全集盤は勿論総ての音源を検索することができる。

僅か21歳の時にヘルマン・シェルヘンのアシスタントとしてハーバの微分音オペラ初演の下稽古を行った逸話は貴重だ。

シェルヘンが事実上彼に殆んど総ての仕事を任せていたことが、その後の現代音楽演奏のための修行にもなっている。

アンチェル一家がアウシュヴィッツに収容されて家族全員が殺され、奇跡的に彼1人生還を果たしたことは良く知られているが、一般にあまり知られていないエピソードも数多く紹介されている。

例えば最初の強制収容所テレジーンでは仲間達とかなり本格的な音楽活動ができたことが興味深い。

しかし実際にはナチスのプロパガンダ映画『総統はユダヤ人にひとつの街を贈った』の撮影に利用され、国際赤十字団の視察に当たってヒットラーの政策を正当化するための手段に使われた。

だからナチスは彼らがオーケストラを組織し、収容所の中にコンサート・ホールまで新設されるのを黙認していた。

この間アンチェルは足りない楽器や人員のためにスコアの編曲やその練習、コンサートのオーガナイズや本番の指揮も受け持っていた。

しかしそれが1日12時間の強制労働の余暇に行われたことを考えれば、彼らの音楽への飽き足らない情熱と意志がひしひしと伝わってくる。

戦後の楽壇への復帰も決して順調な道筋ではなかった。

ナチスから解放された後もチェコではユダヤ人への差別意識は変わらなかったからだ。

チェコ・フィルの首席指揮者はアンチェルの恩師ターリヒの後クーベリックが就任していたが、チェコの共産主義化を嫌って亡命する。

首席の選任に当たってはアンチェルとスメターチェクが候補にあがり、両者の演奏後に団員達の投票で決定することになったが、以前協演したオイストラフからの賞賛が文化大臣を動かし、投票なしで彼が首席の地位を得た。

ただ当初団員達の眼は冷たく、彼らの信頼を得るためにも尽力しなければならなかったが、最終的にはチェコ・フィルにターリヒ以来の黄金時代をもたらしたのはまさにアンチェルだった。

参考までに本家チェコ・スプラフォンからはアンチェル生誕100周年盤として2008年にDVDがリリースされている。

この中ではアンチェル自身がインタビューに応えている場面を挿入した約30分の伝記や、プラハの春音楽祭でのチェコ・フィルを指揮する勇姿も収録されている。

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2018年09月22日


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中世ドイツの研究では第一人者だった阿部謹也氏によるドイツ史の専門的な俯瞰で、ドイツの誕生から今日にいたる歴史に、「ドイツ的」とは何かを思索する、通史とは一味も二味も異なった魅力を持った一冊。

この作品を読んでいると現在のドイツ的国民性や彼らの思考回路を理解するためには、彼らの辿ったかなり複雑な歴史的経過を知らなければならないことを痛感する。

ヨーロッパの中央に位置し古来からゲルマンの他にもケルト、ユダヤ、スラヴ、ラテン系などの民族がひしめいていたドイツでは、ナチスのアーリア人優越論も実際には存在しない唯一のドイツ民族というでっち上げだったことも容易に理解できる。

大洋に開けた港を持っていなかった宿命的な地理的条件から大航海時代に海外に植民地を得ることも逸したし、彼らが現在に至るまで連邦という統治形式を残している理由も自ずと見えてくる。

1815年にドイツ連邦が成立した時にはオーストリア、プロイセンの他4王国、1選挙侯国、7大公国、10候国、10公国、1方伯国、4自由都市の実に39の主権国と都市の連合で、それぞれが異なった貨幣と関税制度を持って頑固なまでにお互いの利害関係に固執していたことから、対外通商においても困難を極めていたようだ。

また戦後分かれた東西ドイツも単にソヴィエトと西側の戦勝国の間での線引きではなかったことも象徴的だ。

その国境線は中世以来社会的にも経済的にも対立していた地域で、東側の社会主義体制も敗戦後に突然生まれたものではなく、西欧の歴史に根ざして育っていったという著者の説明には説得力がある。

ベルリンの壁が偶発的に崩壊したのとは裏腹に、東西両ドイツの実質的かつ完全な統一が困難であったということは当然だろうし、いまだに多くの問題を抱えているのも事実だ。

また本書は1998年に初版が出ているが、阿部氏はアジールの研究から、既に将来移民や難民が重要な社会問題になることを指摘している。

本論の間に挿入されている間奏曲と題したコラムの部分では通史では学習できない、歴史という結果に至るまでのさまざまな経緯やエピソードが解説されていて、更に教養を深めてくれる。

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2018年08月15日


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本書は2001年に出版された単行本の文庫版で、ルネサンス、マニエリズム、ロココそしてバロックという美術史の流れを通して、バロック芸術の占める位置関係を明らかにしながら数多くの作品例を引用してその特徴や傾向、並びに意義が読み解かれていく。

パリのポンピドゥー・センターの建築から始まる本書は、西洋美術史研究の第一人者が、音楽や建築にとどまらず、美術、演劇、文学にまで及ぶ多彩な分野を、さまざまな時代にわたって縦横無尽に駆けめぐりながら、バロックの本質に迫っていく魅惑の旅の記録である。

もともと「歪んだ真珠」、「いびつな真珠」を意味する形容詞として生まれた「バロック」という言葉は、「粗野な」、「劣った」、「価値の低い」というニュアンスを帯びて使われるようになった。

しかし、その一方で、バッハに代表される「バロック音楽」や、サン・ピエトロ大聖堂前の広場に見られる列柱廊に代表される「バロック建築」など、雄大にして壮麗な作品群が「バロック」の名で呼ばれてもいる。

ジャンルとしての「バロック」でもなく、時代区分としての「バロック」でもなく、現代にまで至る全時代に見て取られるものとしての「バロック」を、無数の作品を渉猟しながら求めていった先には、現代こそバロックの時代である、という事実が浮かび上がる。

勿論著者は当時の政治的、また社会的な背景も疎かにしていない。

特にバロック時代の始まりは、マルティン・ルターによってもたらされたプロテスタント側の宗教改革と、逆にカトリック側が巻き返しを図った対抗宗教改革の時代とまさに一致している。

カトリック教会は自らの権威を誇示するような壮麗な芸術を奨励し、より多くの信者の獲得とその支持を得んがためアーティストに万人が理解できる平易な作品を要求した。

冒頭に書かれている現代のハリウッド映画とバロック芸術の類似性の比喩は言い得て妙だ。

つまり大金をかけ、スターを起用して派手な演出だが誰にでも理解できる単純な勧善懲悪の筋立ての映画を作り、不特定多数の観客を魅了し、感化させる。

確かにそうした大衆性がこの時代の芸術の性格を端的に物語っていると言えるだろう。

その意味では著者が書いているように、バロックの思想は歴史を追って現代まで何度も繰り返されている。

だがこの時代の多くの天才達がそのような思想的な枷やジャンルを遥かに超越した総合芸術を創造することに成功したのも紛れもない事実だ。

高階氏の文章は常に平明で、要領を得た無理のない表現が特徴だが、欲を言えば掲載写真をカラーにして欲しかった。

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Profile

classicalmusic

早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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