映画
2022年05月24日
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ブルーレイで鑑賞するとファン・ゴッホの強烈な色彩感とデッサンの力強さが動き始める説得力が印象的だ。
余白に付いているボーナスに制作過程が詳しく映像化されているが、最終的に世界中の100人を超える画家がオーディションの末に、この企画に参加したようだ。
実際に俳優たちが演じるシーンにファン・ゴッホ風の油彩のタッチをオーバーラップさせることにも成功している。
ここでの主人公になるアルマンを始めとして登場人物の殆どの肖像画が遺されているので、彼の絵画を見たことがある人なら一層親しみも湧いてくるに違いない。
バックに流れる「スターリー・スターリ―・ナイト」も孤独の生涯を送った画家と、不器用で喧嘩っ早いアルマンが次第に人間的に成長する様子と、天才と共有する寂しさを表現している。
ファン・ゴッホの死については自殺とも他殺とも断定していない。
この作品を鑑賞する人の判断に任せているのも自然で好感が持てる。
ファン・ゴッホは37年の短い人生の中でも絵を描いたのは後半の10年で、油彩だけでも860点になるが、最後の2年間ほど精力的に描いた時期はなかった。
しかし空と雲の渦巻くような強い色彩からは、言い知れない孤独感が感じられる。
その生涯で売れた絵はわずか1点だが、生活費と画材一式は弟テオが総て負担していた。
20人に宛てて投函した手紙は800通あり、この作品のテーマになる最後の手紙もテオに向けて書かれている。
しかし彼の死後からほぼ半年後にテオは発狂し、精神病院で亡くなった。
33歳の時だった。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2022年04月22日
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このドキュメンタリーで扱っている音楽家達の老人ホーム『音楽家憩いの家』はキャリアを終え、身寄りのなくなったかつてのスター達を収容する施設として作曲家ジュゼッペ・ヴェルディの発案と基金でミラノに設立された。
当時の音楽家の中には豪邸に生活して何の不自由もなく余生を過ごした人もいたが、引退後生活に困窮したり、身寄りのなくなった者は、それまでの華やかなステージとは裏腹の生活を強いられた。
ヴェルディは彼らへの敬意から余生の安泰を願って、決して彼らのプライドを傷つけることのないような心のこもったホームを創設したが、この映画ではダニエル・シュミット監督の温かい愛情に満ちた目によって彼らの日常が活写されている。
ここに登場するキャリアを終えた音楽家達は誰もが過去の素晴らしい思い出の中に生きているのだが、全員が驚くほどポジティヴに生き生きと生活している。
それはこの施設で暮らすことによって過去と現在が決して切り離されることがないからだろう。
登場するのは器楽奏者やオペラ歌手などさまざまで、それぞれが現役時代を忘れてしまうどころか現役さながらに演奏し語り合い、また学習さえ怠らない。
またそうすることが彼らの生き甲斐を満足させ尊厳を失わずに生きていくことに貢献しているのだろう。
ここでは戦中戦後スカラ座のプリマドンナとして活躍したソプラノ、サーラ・スクデーリ(撮影当時78歳)に焦点が当てられている。
自分の歌ったプッチーニの『トスカ』から「歌に生き、愛に生き」のレコード再生で、彼女自身が懐かしみながら一緒に口ずさむ様子といくらか憂愁を帯びた表情が感動的だ。
しかし彼女がその驚異的な声で実際に歌う時の表情は更に晴れやかで輝かしく、常に音楽に寄り添って余生を送ることの大切さが伝わってくる。
この作品に映し出された彼らの生活風景を見ていると、ヴェルディの構想が如何に高邁なものであったかが窺われる。
現に筆者の祖母を施設に入れざるを得なかった時、このドキュメンタリー映画が多くの示唆を与えてくれたことは事実である。
長年この施設の友の会会長で、かつての名メゾ・ソプラノ、ジュリエッタ・シミオナートは、短いコメントの中で音楽家の引退の時期について非常に示唆的な考えを表明している。
つまり1人の音楽家が引退する時期は聴衆から見放される時ではなく、逆にそうなる前にその人が完全なイメージを遺す形で聴衆から去っていくべきだと言っている。
それは全盛期に鮮やかな引き際を見せたシミオナートならではの名言だろう。
『音楽家憩いの家』の概要についてはシミオナートの伝記を綴った武谷なおみ著『カルメンの白いスカーフ』に詳述されている。
それによれば入所資格は60歳以上の年金受給者で、プロの音楽家であったことの証明の他に、年金の80%を施設に寄付しなければならない。
彼らは敬意を持って迎えられ入居後も自由な音楽活動を保証されていて演奏会やオペラ鑑賞などのレクリエーションも企画されている。
しかしヴェルディの楽譜の版権が切れ、印税が当てにできない現在では運営資金を寄付に頼らなければならないようだ。
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2022年04月05日
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2004年に逝去した伝説のカリスマ指揮者、カルロス・クライバーのドキュメンタリー映像作品で、完璧主義であったがゆえに苦悩した天才カルロス・クライバーの実像が克明に描かれている。
カルロス・クライバーは、取り上げるレパートリーを極端に絞り込み、少ない演奏会、決して多くはない録音ではあったが、ひとたび舞台に上がると聴く者すべてを魅了する演奏をした、生きながらにして伝説の指揮者であった。
このDVDの冒頭で『イゾルデの愛の死』を指揮するクライバーの殆んど神々しいまでの姿が非常に印象的で、それは狂気と紙一重のところで成り立っていた彼の芸術を図らずも暗示しているように思える。
ドキュメンタリーの中では父エーリッヒの姿もしばしば登場する。
カルロスにとって指揮者エーリッヒの存在は、永遠に解き放つことができない呪縛でもあった。
そして父とは異なったやり方を見出さなければならないという、一種の恐怖感が生涯彼を苛んでいたのも事実だろう。
また多くの人がインタビューで証言しているように、完璧主義者ゆえに自分の思い通りにならないと、一切を投げ捨ててしまう性癖があった。
ここでは彼が土壇場になってキャンセルしたオペラ公演やコンサートの逸話も少なからず語られている。
ウィーン・フィルとベートーヴェンの交響曲第4番のリハーサル中に楽員たちと衝突してその場を去ってしまう、いわゆる「テレーズ事件」の時の劇的な音声も幾つかのスナップ写真と共に生々しく記録されている。
「どうしてできないんだ、こんなことで長い時間議論しなければならないなんて!」と強い調子で訴えるクライバー。
しかしウィーン・フィルのような古い伝統を引っさげたオーケストラは唯でさえ指揮者の言いなりにはならない。
まして彼らがプライドを傷つけられれば尚更だ。
両者の気まずい緊張の中でクライバーは「10分間休憩」の指示を出してそのまま帰ってこなかったし、定期演奏会もキャンセルしてしまった。
この作品を制作したゲオルク・ヴュープボルトはクライバーの父エーリッヒ、そして母のルース、更にはカルロス自身の自殺説を仄めかしている。
末期の癌患者だった彼が妻を失った後、単身彼女の故郷スロベニアのコンシチャに向かい、病院ではなく彼らの別荘で扉も窓も閉ざしたまま亡くなっているところを発見されたという証言は確かにどこか謎めいている。
真相は分からないが、彼は明らかに死を待っていたし、またその時期も悟っていた。
そして故意に家族から遠ざかって孤独の死を選んだ。
偉大な指揮者の華やかで劇的な生涯の終焉は意外なほど慎ましく寂しいものだった。
インタビューを受けた人達は演出家オットー・シェンク、指揮者ヴォルフガング・サヴァリッシュ、リッカルド・ムーティ、歌手イレアナ・コトルバス等の他に当時のオーケストラの団員、マネージャー等多岐に亘っている。
全体的にみて作品の演出的要素は控えめで、彼らの証言によって視聴者自身がクライバーのバイオグラフィーをイメージできるように構成されている。
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2022年03月20日
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黒澤明監督の映画は、一部の例外を除いて「侍の映画」と言えるのではないか。
「侍」が直接的な表題となった映画は、黒澤映画の最高傑作との呼び声の高い『七人の侍』のみである。
黒澤映画における「侍」とは、我欲には見向きもせず、一定の信念の下に生き、その信念を曲げなければならない時には死をも厭わない者を指すことが多い。
『七人の侍』に登場する「侍」も、もちろん食事にありつけたと言う面もあるが、自分とは全く関わりのない村人たちを守るために命を懸けるという者である。
『七人の侍』が、30本存在している黒澤映画の中でも世界的に最も賞賛されている映画である。
それが故に、「侍」のイメージについては、死をものともせずに信念のために生きる者を指すということが今や国際的にも定着していると言える。
そして、黒澤映画の「侍」は、いわゆる時代劇に登場する武士の範疇にはとどまらない。
時には、現代劇における一般市民すら「侍」となり得る。
その最たる例が 『生きる』の主人公である市役所の市民課長、渡邊勘治である。
長男を男手一つで育てあげ、退職間近まで無遅刻無欠勤で市役所の職員を務めていたある日、胃癌を患っていることを知る。
絶望感に苛まれた渡邊市民課長は、死までの短い間に何をすべきか思い悩む。
その過程の中で、健康な時には、市民課長として歯牙にもかけなかった公園の整備に余命を捧げることを決意。
様々な障害を乗り越えて公園を完成した後、雪の降りしきる中、新公園のブランコで「ゴンドラの唄」を口ずさみながら従容と死んでいく。
この渡邊市民課長こそ、「侍」と言わずして何であろうか。
『生きる』には、かかるゴンドラのシーンの他にも、胃癌を患っていることがわかり、病院を後にした時の一時的な無音化(渡邊市民課長の絶望感を絶妙に表現)、誕生日のパーティをバックに渡邊市民課長が公園の整備に命を捧げることを決意するシーンなど、映画史上にも残る名シーンが満載である。
かかる決意の後は、渡邊市民課長の通夜の場面に移り、そこから過去の回想シーンを巧みに織り交ぜながらストーリーが展開していくという脚本の巧みさは殆ど神業の領域。
諸説はあると思うが、筆者は、『生きる』こそは、いわゆる「侍の映画」たる黒澤映画の真骨頂であり、最高傑作と高く評価したいと考えている。
少年オプーの成長を描いた大河ドラマ、『大地のうた』『大河のうた』『大樹のうた』の3部作で世界的にも著名なインドの映画監督の巨匠、サタジット・レイが、最も好きな黒澤映画として『生きる』を掲げたのも十分に頷ける話だ。
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2022年03月06日
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常に世界のベストセラーを保ち続けている聖書全篇の映像化となると、新旧合わせて69書に及ぶ大作であるために時間的な制約もある。
また難解な部分も少なからずあるので総てのシーンをつぶさに再現することは不可能だ。
またそれほど意味があるとも思えないが、視覚的にドラマティックな部分のみが突出すると、安っぽい見世物に成り下がってしまい本来の教書としての宗教観との関連性が稀薄になってしまう。
そのあたりの文学性と劇的な場面とのバランスを比較的巧妙に保ったのが本作品である。
瑣末的と思われる枝葉の部分は一切省き、聖書の本質に関わるエピソードを10話に分けてそれぞれを45分程度に纏めたコンパクトなミニ・シリーズに仕上げているのも秀逸だ。
4枚のブルーレイ・ディスクの視覚的特徴は、この作品に頻繁に映し出される大自然の風景が非常に鮮明に再生されることで、肌理の細かい画像による臨場感が効果的である。
一方で映像化するからにはある程度万人向けに制作しなければならないことが必須になる。
その点でもロマンティックなシーンは最小限に留めて見かけ上の派手な演出を控えている。
キャスティングでも実力派の役者を多く抜擢して地味だが聖書そのものの精神を伝えることを心掛けている。
その意味では一昔前のハリウッド映画とは一線を画している。
この作品を観ていると、信者でなくても聖書に書かれている万物の創造主である神が如何に恐るべき存在であるかが理解できるだろう。
そして神への畏怖が形骸化する度に人々は途方もない災難を自ら招くことになる。
しかしキリストの登場と共にその畏怖が愛に取って代わることを鮮やかに示しているのである。
シリーズの長さから言っても簡潔で要点を掴んでいるので信者以外の人が聖書を理解するための、良い意味での安直な入門編としても佳作だろう。
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2022年02月28日
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2017年亡くなったチェコの女流チェンバリスト、ズザナ・ルージチコヴァーの追悼盤である。
LPに付属したDVDにはゲッツェルズ監督によるドキュメンタリー映画が収録されている。
彼女が晩年のインタビューに応えた過酷な人生が多くのクリップや写真と共に語られていて感動を禁じ得ない。
彼女は一部を除いて殆んど英語で話しているが、日本語の字幕スーパーも付けられている。
この字幕に関してはいくらかやっつけ仕事的なミスも散見されるが、大意は問題なく理解できる。
差別と貧困の中でも彼女が捨てることがなかったのは人間愛と音楽への情熱で、その隠された不屈の闘志とも思われる強さを生涯持ち続けたことは驚異的だ。
彼女はその理由として幸福な家庭に生まれたことを忘れず、そして良き夫に恵まれたことを挙げている。
またルージチコヴァーの薫陶を受けた若い音楽家達がその芸術を受け継いでいるのも頼もしい限りだ。
彼女は同郷の指揮者カレル・アンチェルと同じくアウシュヴィッツから命からがら軌跡的な生還を果たしたが、その幸運も束の間で再びスターリン体制の下で屈辱的な生活を余儀なくされる。
また18歳でのピアノのレッスン再開は、先生からも見捨てられた状態だったと話している。
ユダヤ人差別は決して終わったわけではなく、予定されていたアンチェルとの協演は、ひとつの楽団に2人のユダヤ人は多過ぎると当局に阻止されてしまう事件も象徴的だ。
1968年にはソヴィエト軍のプラハ進行によって再び厳しい統制が敷かれ市民の生活は当局の監視下に置かれ、彼女はまたしても過去の時代の到来を感じずにはいられなかった。
この作品を観ているとアンチェルが亡命を決意した理由も非常に良く理解できる。
こうした状況の中でルージチコヴァーはチェンバリストとしての道を決意し、ミュンヘンのコンクールで優勝して西側からの招聘に応じて演奏活動が始まる頃からようやく音楽家としての運が開けたようだ。
彼女はエラートからの提案でバッハのチェンバロのための全作品の世界初録音を完成させた。
後にスカルラッティのソナタ全曲のオファーも来たが、その大事業に取り掛かるには遅過ぎた、再びチェンバリストに生まれたら是非スカルラッティも全曲録音したいとユーモアを交えて語っている。
時代に翻弄され人生の辛酸を舐め尽くした1人の音楽家として信じられないくらいのバイタリティーと豊かな音楽性、そして何よりも厳しくも温かい人間性を伴った演奏を遺してくれたことを心から感謝したい。
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この作品の冒頭ではドイツが1945年5月に連合国に降伏した後、逸早く進駐してきたソヴィエト側がマテリアル的な復興よりも精神的な文化高揚政策を優先させていたことが述べられている。
敗戦後僅か2週間でベルリン・フィルの最初のコンサートが開かれたことには驚かされた。
勿論それはソヴィエトの周到な政治的目論見があってのことだが、インタビューを受けた人々も打ちひしがれたドイツ国民を新たな希望に向けて士気を高めるためには少なからず貢献したことを認めている。
そして2ヶ月後にアメリカ軍が入ってくる前にソヴィエトの方針は既に徹底されていて、分割された地区によって占領軍同士の政策の相違が次第に鮮明になってくることが理解できるが、悲劇は50年代に入ってからのスターリン体制下での締め付けに始まったようだ。
ペーター・シュライアーによれば旧東ドイツの演奏家が国外で活動できるようになったのは1964年からで、彼らのギャラの20%から50%までが国家に徴収されて重要な財源になっていたが、これに味を占めた国側は外貨獲得のために多くの演奏家を西側に送り出すことになる。
しかし個人的な渡航は一切許可されず、彼らの亡命を防ぐために秘密警察があらゆる監視体制を張り巡らせ、演奏家達にも誓約書へのサインを殆んど強制していたようだ。
ベルリンの壁が築かれたのは西側からの影響を阻むためではなく、東側からの人々の流出を阻止する目的だったことは明白だろう。
演出家クリスティーネ・ミーリッツは『国民全員に国を出る権利がある筈で、それを直ちに許可するか否かは自由だが、壁の前で射殺することは絶対に許されない』と憤りを持って語っている。
国の文化政策の中で最も収益を上げていたのがLPレコードの独占販売だったという事実も興味深い。
レコード製作会社は偶然国営になったようだが、精神的に枯渇していた国民にとってレコード鑑賞は欠かせない趣味に定着して、その影響は皮肉にも西側に及ぶことになる。
制作費が安かったために西側のドイツ・グラモフォンは当初質の高い東側のアーティストの演奏を中心に提携という形で録音したが、国営VEB製作LP第1号がフランツ・コンヴィチュニー指揮、シュターツカペレ・ドレスデンによるベートーヴェンの『英雄』だったことも象徴的だ。
ドレスデンのルカ教会が教会としてよりも録音会場として大修復されるのもレコード産業の一役を担うためだったと思われる。
ベルリンの壁の崩壊は東側に次々と起こりつつあった東欧革命の気運が頂点に達した時期に起こるべくして起こった事件であることは疑いない。
東ドイツは経済的な破綻を国民にひた隠しにして事実を全く知らせなかった。
クルト・マズアの立場からも見えてくるように、当時の音楽家達はそれぞれの立場で抵抗し改善を要求したが、彼らが先頭に立って東西の統一運動を進めたわけではなかった。
インタビューの中でも語られているが、一般的に音楽家で積極的に政治に深く介入しようとする人は少なく、しかもオペラ・ハウスやオーケストラでは西側の団員が去った後、メンバーの大幅な補充が余儀なくされたために、彼らが演奏活動によって困窮しないだけの最低限の生活を約束されていたことも要因のひとつだろう。
最後のシーンは1985年に再建を終えたドレスデンのゼンパーオーパーでの杮落としになったベートーヴェンの『フィデリオ』の上演で、この映画のフィナーレとして最も感動的な部分だ。
演出家ミーリッツは囚人のコーラスの後、聴衆が数分間咽び泣いていたことを自らも涙ぐんで思い出している。
そして何よりも国家による国民への精神的な搾取が堪えられなかったという言葉が痛烈だ。
言語は総てドイツ語だが、サブタイトルは日本語も選択できる。
日本語の字幕スーパーは簡潔に要約されているので意味するところは理解できるものの、日本語の文章としては不自然な言い回しや言葉使いが見られるのが残念だ。
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2022年01月25日
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1963年制作でモノクロ作品ながら、皮肉にもそれがこのオペラ(メノッティ自身はミュージカル・ドラマと名付けている)の陰鬱さを助長している。
ルドルフ・カルティエ監督による演出は一見陳腐に見えるかも知れないが、彼の非凡さは随所に取り入れられている心理描写的な手法だろう。
例えば秘書がお役所仕事として人々に応対する時には常に無表情を装うサングラスをかけているがこれは一種の仮面で、彼女の人間的な心情が吐露される後半ではそれが外される。
この映像で見られるセットは必要最低限のシンプルなものだが、人間性とは裏腹な指定された書類だけが重要視される領事館という異質で空虚な空間を具現している。
作品のタイトルである領事は劇中一度も姿を現さないが、彼の演出ではシルエットのみでイメージさせている。
反政府活動家の夫を逮捕され、母も息子も失ったマグダがガス自殺を図る最後のシーンに出てくる幻影では、マジシャン、ニカ・マガドフに率いられてゾンビと化した人々が踊るワルツも独特な印象を与えている。
歌手のキャスティングでは当時着実にキャリアを積んでいたバリトン、エバーハルト・ヴェヒターによる主人公ジョン・ソレルと彼の妻マグダ役のソプラノ、メリッタ・ムゼリーの歌と演技が注目される。
秘書のグロリア・レーン、秘密警察のウィリー・フェレンツ、マジシャンのラスロ・セメレなど芸達者な脇役陣を揃え、更にかつてのプリマ・ドンナ、リューバ・ヴェリチュがイタリア人の女役で登場している。
オリジナル・スコアは英語で書かれているが、この映画はウィーンで制作されたドイツ語版ということでも唯一のサンプルだろう。
画面には出てこないが、オーケストラはフランツ・バウアー=トイスル指揮、ウィーン・フォルクスオーパー管弦楽団が演奏している。
かなりの難曲で音質も時代相応のモノラル録音だが、職人的に手堅くまとめられている。
イタリアからの移民でアメリカを拠点に活動したメノッティの作品は、やはりイタリア・オペラとは切り離せない作風を示している。
この『領事』もモダンで斬新なオーケストレーションにアリア、重唱、アンサンブル・フィナーレなどの伝統的エレメントによって構成されている。
リージョン・フリーで字幕スーパーは英、仏、西、伊、日本語が選択できるが、ドイツ語による作曲者への短いインタビューの字幕は英語のみ。
日本語字幕については一部セリフにつじつまの合わないところがあるが概ね良好。
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2020年07月11日
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『カルーソー、愛の歌声』と題されたこの作品はイタリア放送協会RAIによって2012年に制作され、二晩に亘って放送されたテレビ映画になる。
冒頭でもステファノ・レアーリ監督は「自由な脚色によるフィクション」と断り書きを入れているが、それは現在のカルーソーの家族に対する配慮かも知れない。
世紀のテノールと呼ばれたエンリコ・カルーソーの生涯にまつわるエピソードの殆んどが取り入れられているので、彼の伝記映画として観ることも可能だろう。
彼の人生を物語化した映画としてはマリオ・ランツァ主演の『歌劇王カルーソー』が良く知られたところだが、当作品は2部からなる229分の意欲作で、それだけきめ細かく多くの逸話が盛り込まれている。
また主役カルーソーにはテノール歌手のジャンルーカ・テッラノーヴァを起用したところにも前作のハリウッド映画に対する本家のこだわりが感じられる。
イタリア語以外の言語には翻訳されていないのが残念で、カルーソーの輝かしくも波乱に満ちた人生を知る上でも他国語の字幕スーパーを作る価値のある作品だと思う。
ただし万人向けのメロドラマとしての側面があることは否定できない。
それゆえ彼の最初の妻でソプラノ歌手だったアダ・ジャケッティの姿はかなりセンチメンタルに描かれているし、彼女の妹リーナ像については相当のファンタジーが織り込まれていると思われる。
しかしアダ役のヴァネッサ・インコントラーダの微妙な表情の変化による演技は魅力的だ。
尚劇中のカルーソーの声はテッラノーヴァ自身が歌ったものだが、この映画でも使われているSP録音のカルーソー本人の声とは似ても似つかないのはご愛嬌だ。
ナポリからは歴史的な著名人が多く輩出している。
それは音楽界でも同様で歌手ではカストラートのファリネッリ、作曲家ではドメニコ・スカルラッティ、チマローザ、レオンカヴァッロそして現在活躍中の指揮者ムーティもその一人だ。
ここでの主人公カルーソーは貧しい家庭の出身だったが、自分の才能ひとつでオペラ界の寵児となったサクセス・ストーリーが、何よりもナポリの人々に愛されているのは言うまでもない。
地元のサン・カルロ歌劇場でのデビューは失敗に終わり、彼は二度とナポリで歌わないことを決意して、その意志は生涯貫かれた。
彼はその後ニューヨークのメトロポリタン歌劇場のドル箱スターになったが、晩年自分の死を悟ったかのように故郷に帰って来る。
彼の人生はそれ自体がまさにひとつのドラマだったと言えるだろう。
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2020年06月03日
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BBC放送制作のジョージ・ガーシュウィン(1898-1937)の伝記映画になり、彼の生涯を当時の実写フィルムとインタビューで構成した信頼性の高いドキュメンタリーだ。
一介のユダヤ系移民が自らの才能ひとつで築いた夢のようなサクセス・ストーリーと彼の早世は、それ自体完全なドラマだが、この作品では豊富な資料と証言に基く彼の生涯の忠実な再構成が試みられている。
それを実証しているのがガーシュウィン自身の映像も含めたかなりの量のモノクロ・フィルムで、彼の演奏や日常生活のひとこまを写し撮ったものや、最後の大作オペラ『ポーギーとベス』の初演直前のリハーサル風景は短いながら貴重なクリップだ。
インタビューに応じているのは妹フランシスを始めとしてマイケル・ティルソン・トーマス、バーンスタイン、マイケル・ファインスタイン、『ポーギーとベス』初演の2人の主役アニー・ブラウンとトッド・ダンカンらのミュージシャンだけでなく、ケイ・スウィフト、キティ・ハートなどの女性陣の証言も充実している。
ガーシュウィン・ファミリーのアドヴェンチャーはジョージの父モイシェがロシアからの移民としてニューヨークに着いた時から始まった。
移民船が港に入った時、モイシェは自由の女神像を一目見ようとして船のデッキから身を乗り出した瞬間、風で帽子が飛ばされてしまう。
この帽子の中にしまっておいたアメリカでの唯一の拠り所であった伯父の住所を失った彼は、新天地での身寄りからの援助をも阻まれ孤立してしまう。
しかし彼は持ち前の商才で事業が成功して、長男アイラのためにピアノを買ったが、弾いたのは専ら弟のジョージだった。
音楽家のファミリーとは縁のなかった彼にとって、まさに天性の能力の開眼だったのだろう。
その後ジョージは楽譜出版社のカスタマーのための試奏ピアニストとしてジェローム・レミック商会に就職するが、この頃から始めたミュージック・ライターとしての才能も直ぐに開花する。
1919年に発表した『スワニー』はミリオン・セラーを獲得してガーシュウィンは10万ドルの収入を得、その後の音楽活動も順風満帆だった。
1924年2月12日のニューヨークのエオリアン・ホールでの『ラプソディー・イン・ブルー』初演にはハイフェッツ、クライスラー、ラフマニノフやストラヴィンスキーなどクラシック楽壇の重鎮も列席していた。
社交界の寵児となった彼は私生活でも浮名を流す伊達男だったが、家庭を持つには至らなかった。
性格の全く異なる兄アイラとのコラボは生涯を通して常に良好に続き、アイラの詩とジョージの音楽は離れ難く結び付いている。
ある時は最初に音楽が作曲され、後から歌詞が付けられたこともあったようだが、こうした自在な仕事ぶりは仲の良かった兄弟ならではのものだろう。
『ポーギーとベス』のオール黒人キャストによる黒人達の生活を描いたオペラという発想も、斬新であるばかりでなく当時の社会から追いやられた人々の姿をアメリカ独自の音楽語法を使って赤裸々に綴った作品である筈だ。
英語の音声による90分ほどの作品で、残念ながらイタリア語以外の字幕スーパーはないが、現行唯一のバージョンによるDVDで鑑賞する価値は高い。
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2019年11月28日
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ルイ王朝時代の宮廷ガンバ奏者、マレン・マレの回想を描いた映画アラン・コルノー監督『めぐり逢う朝』自体は、フランスの作品らしく深い陰翳に包まれた瞑想的なストーリーが魅力的だ。
それ以上にサヴァルの音楽はそれに自在な空気感を与えて、ある時は更に陰鬱に、またある時は沈みがちなシーンに仄かな幸福感を醸し出しているのが秀逸だ。
作曲家同士の師弟の確執を扱った一種の音楽映画であることは事実だが、それは天才の生涯を美化しただけの一昔前の安っぽい作曲家の伝記映画とは一線を画した、主人公が犯した取り返しのつかない罪への後悔と内なる懺悔が恐ろしいほどのリアリティーで迫ってくる。
サヴァルが映画音楽を手掛けたのはこれが最初かも知れないが、ピリオド・アンサンブルによるサウンド・トラックが過去になかったものだけに、周到な選曲と古色蒼然とした音色が映像と離れ難く結び付いて、この作品には不可欠な一端を担っていることを認めざるを得ない。
このディスクでのそれぞれの曲の配列は映画の中のストーリーの進行とは無関係だが、曲順は決して脈絡のない編集ではなく、1枚のサウンド・トラック盤として完結した構成を考えたものだろう。
それ故第1曲を映画の半ばで、栄誉を極めたマレが演奏するリュリの荘重な『トルコ行進曲』で開始して、最後を映画冒頭で主演のジェラール・ドパルデューの顔のアップとともに流されるマレの『聖ジュヌヴィエーヴ・デュ・モンの鐘』で締めくくっていることで編集者の意図が容易に理解できるだろう。
あとは主にサント=コロンブとマレの作品から選ばれており、とりわけ映画で繰り返し流れるサント=コロンブの「涙」は、聴く者を深い瞑想の世界へ呼び込む。
むろん映画の諸場面を思い出しながら聴くのがよいけれども、まったく映画を知らなくても、フランス・バロック音楽、特にヴィオールの名曲集として楽しめるだろう。
13曲目は、マレのヴィオール曲集第4巻所収の「冗談」である。この虚無的な旋律が、サント=コロンブの娘マドレーヌとマレの愛の場面で使われていることは、ほどなく訪れるふたりの破局を暗示しているようで、なんとも忘れがたい。
素晴らしい音質が体験できるのも特徴で、サヴァルが自主レーベル、アリア・ヴォクスを立ち上げて以来、常にハイブリッドSACD盤をメインにリリースしている。
その理由は、自身ガンビストでもある彼がヴィオールのような繊細な音色を持つ古楽器の音の忠実な再生と臨場感に富むサウンドに逸早く着目したからに他ならない。
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2019年08月06日
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エンニオ・モリコーネの映画音楽ベリー・ベスト盤は10年ほど前に企画された、オリジナル・サウンド・トラック60曲を収録した3枚組『プラチナム』だが、今回のアルバムは彼自身が選曲してチェコ・ナショナル交響楽団を指揮したものだ。
録音会場はプラハ、ダブリン、ロンドン、ケルン、アントワープ、アムステルダム及びロックロウの七箇所に渡り、ミキシングはローマで行いマスタリングはロンドンのアビーロード・スタジオという、まさにヨーロッパ・ツアーでの精力的な音楽活動とその成果が結集されている。
トラック20から23の4曲を除いてその他の総てが新規に録音されたものになる。
収録曲は23曲でCD1枚分に纏めてあるが、レギュラー盤、ボーナスDVD付2枚組、LP仕様と更に日本盤のSHM−CDを加えると実に4種類の選択肢があり、ここではDVD付ヴァージョンの概要を書くことにする。
DVDにはアメリカの映画監督クェンティン・タランティーノの作品のために作曲された音楽の収録風景が映し出されている。
チェコからロンドンのアビー・ロード・スタジオにやって来たオーケストラを指揮するモリコーネの姿を中心に、彼らや録音担当のエンジニア及びスタッフへのインタビューなどで構成されていて、1本の映画を制作するためのコラボへの情熱と矜持が表れている。
ここでは実際の映像シーンをオーバーラップさせながらフル・ヴァージョンのスコアが演奏されているが、最近の彼の作風を知る上で興味深い。
尚ここで演奏されている作品は『エクソシスト』より「リーガンのテーマ」、『ヘイトフル・エイト』より「レッドロックへの最後の駅馬車」、「雪」及び「白の地獄」で、これらの曲はCDの方には組み込まれていない。
言語は英語でサブタイトルも英語のみ。
ごく簡易な紙ジャケットにCDとDVDが挿入されていてトラック・リストが掲載されたパンフレット付。
モリコーネの音楽には庶民の夢や希望、そして哀感が巧みに表現されていて、そうした独自の手法は彼が担当した映画を青春時代から観てきた筆者を強い郷愁に駆り立てる。
勿論筆者だけでなく、それらの作品に共感し励まされ、また涙した人も数限りない筈だ。
彼の音楽は聴衆に媚びるのではなく、心の琴線に触れるような温もりがあって、それがもはや帰ることのない失われた日々へのララバイのように聞こえてくるのは年のせいかもしれない。
映像とサウンドを離れ難く結び付ける彼の手腕は天賦の才と言うべきだろう。
彼がイタリアでは先輩ニーノ・ロータ亡き後の映画音楽の巨匠であることは明らかだが、未だ衰えることのない活動を続けているのは頼もしい限りだ。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2019年07月28日
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このDVDではカルロス・クライバーその人の哲学と人間性、とりわけ彼の音楽に対する創造性、そして彼自身によって編み出された体全体をフルに使った指揮法の妙技についての解析が非常に興味深い。
彼自身は公式のインタビューに殆んど応じなかったが、彼の実姉や仕事で彼と実際に関わった人達の証言はいずれも貴重だ。
この天才指揮者がどのように隣人に接し、またどのようなアプローチで楽曲を捉え、オーケストラを率いていたかに焦点を当てた構成になっている。
尚、日本語の字幕スーパーに関しては、例によっていくらかやっつけ仕事的で、かなり危なっかしい訳だが、許容範囲とすべきだろう。
クライバーは良くも悪くも生涯芸術家であり続けた。
もし仮に彼のために理想的な条件の総てを提示して指揮を依頼したとしても、それが実現するかどうかは甚だ疑わしい。
何故ならそれはひたすら彼の内面に関わる問題だからだ。
もし自分自身を満足させる演奏ができないと判断した時にはいつでも、彼は何の躊躇もなく、また誰に遠慮することなく仕事を放棄した。
周囲がそれを許さなくても彼自身が許した。
それを駄々っ子の気まぐれと言ってしまえばそれまでだが、彼にしてみればそれは自己との葛藤の結果であり、そうした選択しか彼には残されていなかった。
晩年のクライバーは壮年期に比べると、ただでさえ少なかった音楽活動がめっきり減っただけでなく、その質にも変化をきたしていたとされる。
既に末期症状と診断されていた癌の影響は免れなかっただろうし、それに伴う彼の創造力の枯渇が原因かも知れない。
いずれにしても彼が指揮棒を取るまでには、マテリアル的にも心理的にも相応の準備と充電期間が必要であったことは疑いない。
しかし最終的に生涯の音楽活動が、彼の人生にとって何であり得たかについては、死の直前に単身で赴いたスロヴェニアへの道のりのエピソードも含めて一抹の謎を秘めている。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2019年06月24日
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ダヴィッド・フレーとの前作『Swing Sing and Think』でも監修を担当したブリューノ・モンサンジョン監督が、今回はモーツァルトの2曲の協奏曲での彼らのリハーサル及びレコーディングの模様を163分の作品にまとめあげたDVDになる。
これらはいずれもCD制作時の副産物的なドキュメンタリーである為に、目立った演出効果を狙ったものではない。
むしろフレーと指揮者ヴァン・ズヴェーデンそしてフィルハーモニア管弦楽団のありのままの録音風景が、独特のカメラ・ワークで捉えられている。
しかし彼らがあたかもひとつのドラマの中の役柄を演じているように見えるのは、監督の手馴れた手腕によって凝縮された各人の個性と、巧みなカットで編集された結果だろう。
こうしたドキュメンタリーは、彼らがキャリアの出発点に立っている若手のアーティストであるがゆえに可能な作品だ。
もし巨匠クラスの指揮者やピアニストであれば、決して舞台裏の姿などは公開しないだろうし、音楽稽古についても同様で、忌憚の無い意見の交換でお互いの音楽の接点を探っていく過程が映像を介して理解できるのが魅力だ。
この作品は大きく2つの部分に分けられる。
前半は2曲の協奏曲の間にそれぞれ2つのディスカッションを挟んだもので、後半は全曲通しのレコーディング風景になる。
中でも興味深いのはフレーと指揮者の音楽稽古で、こうした試行錯誤は彼らの将来の演奏活動にとっても重要なプロセスであるに違いない。
この映像を見るとフレーの演奏姿と顔の表情は、やはり風変わりな印象を与える。
それがモンサンジョン監督の創作意欲を刺激するところなのかもしれないが、どこにでもあるようなパイプ椅子に腰掛け、長身の体を折り曲げて上半身を鍵盤にかぶせるようにして弾く奏法は、かつてのグレン・グールドを彷彿とさせる。
その音楽はモーツァルトにしてはかなり感性になびいたものであり、古典的な均衡からは幾分離れたファンタジーの世界に翼を広げる彼のユニークな解釈が特徴的だ。
フレーはいくらか耽美的になる傾向を持っているので、モーツァルトの様式感や形式美を感知させるという点ではシュタットフェルトに一歩譲るとしても、あくまでもデリケートなシルキー・タッチで仕上げた流麗で品の良い表現は、モーツァルトの音楽自体が持つ限りない美しさと幻想を巧みに引き出している。
元来モーツァルトの音楽のスタイルはインターナショナルな性格を持っているので、そうした意味では彼らのように全く異なる解釈があっても当然のことだろう。
フレーは自己のフランス的な感性を、一見対立するようにみえるドイツの音楽に最大限活かすことに挑戦して、異なった音楽上の趣味の融合を試みている。
指揮者ヴァン・ズヴェーデンも完全に彼に肩入れして、調和のとれたきめ細かい指示でサポートしているところに好感が持てる。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2019年06月18日
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フランスの若手ピアニスト、ダヴィッド・フレーは既にこの時点でバッハとブーレーズ、そしてシューベルトとリストを組み合わせた魅力的なCDを出している。
先般バッハの4曲のキーボードの為の協奏曲を弾き振りしたCDは勿論同時にリリースされた。
そのうちの3曲、BWV1055、1056及び1058のリハーサル風景とインタビュー、そして本番を撮ったものがこのDVDだ。
フレーはグレン・グールドのファンであり、しかもそれにとらわれることなく、あくまで自分の音楽性を打ち出していこうとしていることにも感動させられる。
彼の仕事はブレーメン・ドイツ室内フィルハーモニーというまだ駆出しのオーケストラを手なづけていくところから始まる。
彼が要求するのはメロディーを巧く歌うこととスウィングするような感性の柔軟さで、オーケストラがどのように彼についていくかが見どころだ。
リハーサルは和気あいあいとしたものだが、時折フレーのうるさい注文に首をかしげたり、また茶化したりする団員の姿も正直に撮影されている。
面白いのは彼のピアノ演奏について多くの人が指摘するように、かつてのグールドを彷彿とさせるような特殊なゼスチュアと顔の表情だ。
鍵盤に顔をかぶせるようにして自己の世界に浸る奏法は確かに独特のアピールがある。
この映画でのフレーは、ある意味でグールドを「演じきって」おり、また最初はこの「グールドまがい」のピアニストにどう対応しようかと手探り状態であったドイツ・カンマーフィルの楽員たちが、次第にフレーのスイングする音楽をどうせなら徹底的に演じてやろうと、役になりきっていく過程も興味深い。
しかし同時に溢れるほどの音楽性もその演奏から滲み出ていて、バッハから殆ど無限ともいえる音楽表現の可能性を引き出してみせる。
特に緩徐楽章に於ける感性豊かで繊細な歌いまわしは感動的だ。
冷静で感性よりも理性が先行するという意味で傾向が全く違うドイツの同世代のピアニスト、マルティン・シュタットフェルトに挑戦するかのような企画も興味深い。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2018年11月12日
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2007年にエンニオ・モリコーネがアカデミー賞・名誉賞受賞記念を祝したCD(3枚組・全60曲)。
音楽だけを聴いていると、これが1人の作曲家が手掛けた作品群とは思えないほど、1曲1曲が個性的で多様な音楽的要素が含まれている。
それだけでなく、おそらく殆んど総てのジャンルのミュージックをそれぞれの映画監督の映像的構想の中に昇華させていく変幻自在のモリコーネ独自の世界が繰り広げられていることに驚かざるを得ない。
しかしながらそれらが映画のシーンと切り離すことができないほど渾然一体となって脳裏に焼き付いているために、BGMとしてなら気にならないかも知れないが、このディスクのように次から次へと並べられるといくらか忙しい編集という感じは否めない。
例えば同じ映画のために作曲された音楽はトラックを一箇所に纏めることができた筈だし、曲数を減らしても作品ごとのストーリーを追った、よりコンプリートな編集を望みたいところだ。
映画は大衆の娯楽として誕生したが、次第にドキュメンタリーとして、あるいは文学作品の領域にも深く進展して独自のアートとしてのジャンルを確立してきた。
特にトーキーの時代を迎えてからは映像の背景を演出するには欠かすことのできないエレメントになって、ショスタコーヴィチやオネゲルなどのクラシックの作曲家達の映像のための創作意欲を高めたことも事実だ。
しかしモリコーネの音楽は大衆の好みを決して手放すことはない。
勿論レベルを下げるのではなく、むしろ啓発してきたのだと思う。
彼は映像と音楽がどんな関係にあって、自分の曲がどの場面で最大の効果をもたらすかも狡猾なくらい熟知している。
それは彼の映画音楽制作への才能や情熱だけでなく、これまでに彼が参画してきた作品からの豊富な経験から会得した能力でもあるだろう。
だから音楽だけを良く聴いていると、いくらかあざといと思われる部分が無きにしも非ずだが、映像を伴った時に観衆を強力に引き込んでいく老獪とも言えるサウンドは忘れることができない。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2017年04月11日
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ジャーナリスト、エンツォ・ビアージとRAIイタリア放送協会のコラボによって制作されたテレビ番組『スカラ座の黄金期』を3巻に分けてリリースしたシリーズ最終巻の舞台は日本に移る。
ミラノ・スカラ座は1981年に東京で引越し公演を行ったが、このDVDは当時上演されたヴェルディの作品3曲、カルロス・クライバーの振った『オテロ』、クラウディオ・アバドの『シモン・ボッカネグラ』及び同じくアバド指揮による『レクイエム』の上演風景と舞台裏での取材やスタッフ達へのインタビューによって構成されている。
今でこそヨーロッパのオペラ劇場を日本に招聘することは珍しくないが、イタリア・オペラに関しては1976年が最後になったイタリア歌劇団来日公演以来のビッグ・イベントだった。
イタリア歌劇団はいわゆる引越し公演ではなく、コーラス、バレエ、オーケストラは総て日本勢が協演していたが、この時ばかりはスタッフ総勢450名がイタリアからジャンボ・ジェット2機を借り切って東京に向かい、スカラ座から海路で運ばれた大道具、小道具その他諸々はコンテナーにして40台が東京湾に上陸することになる。
日本側からの16年に亘る交渉の末実現に漕ぎ着けた公演だけあって、日本人スタッフ達の意気込みもその仕事ぶりを通して強く感じられる。
『オテロ』を指揮したクライバーへのインタビューがないのは少々残念だが、ライナー・ノーツに暗示されているように彼自身が承諾しなかった可能性が強い。
ただクライバーはこの来日を機に日本贔屓になったのは確かで、TOKYOのネーム入りのTシャツを着て稽古をしている風景も映し出されている。
若き日のアバドはドイツ系作品の偉大な指揮者としてフルトヴェングラーを先ず挙げ、またクライバーに対しても称賛を惜しまない。
カラヤンの名が出ないところが興味深いが、また優れたイタリア人指揮者としてはライバル視されていたムーティを始め、ジュリーニやシャイー、シノーポリなどの仕事を評価して、公明正大な見解を披露している。
歌手ではドミンゴがかなり長いインタビューを受けていて、少年時代の家族とのメキシコやイスラエルでの遍歴の演奏旅行や経験談が語られている。
最後にテノール馬鹿という表現について聞かれると、「私は先ず音楽家であり芸術を志す者でその範疇には属さない」ときっぱり言い切っている。
一方カップッチッリは楽屋で化粧をしている最中にビアージの質問に応えて、建築家になるつもりでいたが、進路変更をして6年のキャリアの後に初めてスカラ座の舞台に立ったと話している。
また『ファヴォリータ』で失敗した時の感覚を公衆の面前で裸にされたような気分だったと回想して、彼のような大歌手でも図らずも不成功に終わった公演があったことを告白している。
もう1人がミレッラ・フレーニで、床屋の父とタバコ工場で働く母との貧しかったが幸福だった幼い頃の思い出や、伯父に美声を認められてオペラ歌手を目指すようになったことなど、気さくで庶民的な話しぶりはかつてのプリマドンナのような近付き難い印象は皆無だ。
8ページほどのライナー・ノーツにはインタビュアーのジャーナリスト、エンツォ・ビアージの略歴とこのDVDに収録されている当時の東京公演の指揮者及び歌手達のエピソードが伊、英語で総括されている。
尚3巻に亘ったスカラ座シリーズのDVDをリリースしているダイナミック・レーベルでは更に『ラ・グランデ・スカラ』と題したもう1枚も準備中のようだ。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2017年04月09日
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『スカラ座の黄金期』第2集はミラノ・スカラ座に附属するバレエ・スクールの稽古風景から始まる。
ヨーロッパの伝統的なオペラ劇場の殆んどが、専属のバレエ団を抱えているが、スカラ座にはダンサーを育成するバレエ・スクールも併設されていてクラシック・バレエを志す少年少女に全く無料で門戸を開いている。
しかし入学試験は難関を極めている上に、その後も彼らは多くの犠牲を払って厳しい稽古に耐えなければならない。
その中でもスカラ座のバレエ・チームに残れるのは限られた人達だし、大先輩カルラ・フラッチやルチアーナ・サヴィニャーノのようなプリマやエトワールと呼ばれるダンサーは数えるほどしかいない。
サヴィニャーノへのインタビューで、彼女は幼い頃父親とスカラ座で観た『白鳥の湖』での感動がバレエを始めるきっかけになったと話している。
一方オペラでは1981年に『フィガロの結婚』でスカラ座デビューを飾った指揮者、リッカルド・ムーティと演出家ジョルジョ・シュトレーラーの舞台稽古風景が興味深い。
芝居としての見せ場を徹底して創り上げるシュトレーラーの演技指導が印象的だが、若い頃からムーティが演出についても非常に積極的に関与していたことが理解できる。
冒頭でムーティがオーケストラの団員に脚を組んで演奏しないようにと注意する場面がある。
言われた団員は無視しようとするが、コンサート・マスターから厳しく注意されている。
この頃まだムーティが駆け出しの指揮者だったことを垣間見せている一場面だ。
この第2集で最も長いインタビューを受けているのは、往年のプリマ・ドンナ、レナータ・テバルディで、ピアノ伴奏による『ボエーム』からの短いシーンも収録されている。
彼女がマリア・カラスの歌唱に感動して楽屋を訪れた思い出や2人の間が気まずくなった原因についても冷静に記憶していて、彼女の死には真摯な哀悼の意を表している。
「天使の声」と形容したトスカニーニの助言と指導によって、それまで避けていた『アイーダ』をレパートリーに加えたエピソードも語られている。
後半ではスカラ座の観客で結成されている『天井桟敷の友人達』というアソシエーションの会食時に交される議論が面白い。
彼らは音楽の専門家ではなく、言ってみればオペラの熱狂的な愛好家集団だが、素人がスカラ座の公演の質や演目あるいは歌手について、口から泡を飛ばして言いたい放題で論争する場面は流石オペラの国イタリアといった風景だ。
またこうした広い層の根強い地元ファンに支えられてこそ、スカラ座が成り立っていることが想像される。
彼らはインタビューに答えるという形式ではなく、自由気ままに自説をまくし立てて怪気炎を上げているのだが、その中で彼らが求めているオペラと実際の上演演目との乖離を浮き彫りにしたジャーナリスト、エンツォ・ビアージの面目躍如たる企画だ。
最後の部分は前回のシミオナートへのインタビューの後半部で、彼女の尊敬してやまなかった歌手はメゾ・ソプラノ、エベ・スティニャーニだったと語っている。
確かに2人の発声やテクニック、歌唱スタイルには一脈通じるものがあると思う。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2017年04月07日
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イタリアのジャーナリスト、エンツォ・ビアージのインタビューによる、黄金期のスカラ座を支えた人々の回想で構成されている。
回想と言っても、例えば冒頭に扱われているワーグナーの『ローエングリン』上演を準備するアバドと演出家シュトレーラーは、1981年当時のリアルタイムのインタビューで、この頃盛んになったドイツ物の上演への情熱と意気込みを伝えるエピソードが興味深い。
イタリア物ではヴェルディの『シモン・ボッカネグラ』もアバドの時代にスカラ座でのレパートリーとして定着するが、ここにはカップッチッリやギャウロフとの下稽古も収録されている。
また対象を決して有名人ばかりに限定しないビアージの眼力は流石で、本番の舞台には現われることのなかった縁の下の力持ちとしての合唱指揮者ロマーノ・ガンドルフォなど歌手だけでなくスタッフ一同が持っているスカラ座への強い誇りと愛着を伝える作品に仕上がっている。
後半は更に一世代前の歌手達、カラス、シミオナート、デル・モナコ、ディ・ステファノなどの回想録になる。
マリア・カラスへの短いインタビューで、彼女はスカラ座でのオペラ上演について、多くの人々がそれぞれの主張を通しながらひとつのオペラを創り上げる過程では衝突も避けられないと語りながら、誰を攻撃することもなく、また自分自身の正当性の強調もしていない。
指揮者アントニオ・ヴォットーの回想によればテバルディとカラス間の激しいライバル意識は実際あったにしても、世間によって大袈裟にされてしまったようだ。
しかし彼女と親しかったディ・ステファノへのかなり長いインタビューの中で、彼はカラスが周到な策謀家であったことを証言している。
つまり自分が利用できると思える人物には、ディプロマティックな手段を巧みに使って取り入ったということで、その1人が『椿姫』を演出したルキーノ・ヴィスコンティだった。
動画で貴重なシーンはシミオナートとフランコ・コレッリの『カヴァレリア・ルスティカーナ』のピアノ伴奏による舞台稽古が入っている。
彼女はサントゥッツァを得意の役柄としていたが、トスカニーニからはつまらない作品で声を台無しにするから歌わないように忠告されていたというエピソードは初めて聞いた。
イタリア・ダイナミックからリリース予定の『スカラ座の黄金期』と題された3巻のDVDの第1集になり、リージョン・フリーで言語はイタリア語のみだが、サブ・タイトルは伊、英、独、仏及び日本語が選択できる。
日本語の字幕スーパーはいくらかぶっきらぼうで決してインタビューの総てを逐一訳出したものではなく、もう少し丁寧な訳が望まれる。
全体の収録時間は87分ほどで、イタリア語と英語のライナー・ノーツ付。
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2016年09月17日
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リヒテルが他界した翌年1998年に制作されたドキュメンタリーで、晩年のリヒテル自身と夫人へのインタビューを中心に、彼の貴重な映像がモンサンジョン独特の手法で繋ぎ合わされている。
作品は2部に分かれていて、合わせて154分の見ごたえある伝記映画でもある。
映像に関しては良くこれだけ集めたと思われるくらい彼の私生活から公のコンサート、またプライベートな演奏画像までがちりばめられた唯一無二の作品としての価値を持っているし、その演奏では驚くほど豊かで多彩なニュアンスを聴かせてくれる。
インタビューの中で彼は日記を読みながら回想している。
多弁な人ではなく、その言葉は朴訥としているが、歯に絹を着せない痛烈なリヒテル語録も含まれている。
例えば教師としての情熱を持つことは演奏家には致命的だ、とも語っている。
しかもそれは彼の師であったネイガウスに向けられている。
またリヒテルがピアノ・ソナタ第7番を初演したプロコフィエフを、何をしでかすか分からない危険人物と言って憚らない。
彼は当時のソヴィエト連邦のアーティストの中では最後に国外での演奏を許された人だった。
父親がドイツ人で彼が銃殺された後、母もドイツに去ったことから当局では亡命を懸念して渡航を妨げていたようだ。
しかし本人自身はアメリカ行きを嫌っていたという証言も興味深い。
また彼自身に関する数々の神話的なエピソードも概ね否定している。
キャンセル魔の汚名も已むに已まれぬ事情からそうせざるを得なかったための結果のようだ。
他の演奏家のインタビューで興味深いのはルービンシュタインやグールドなどで、彼らはリヒテルを絶賛しているにも拘らず本人はちっとも嬉しそうでない。
一方協演者との貴重な映像はブリテンと連弾をしたモーツァルト、フィッシャー=ディースカウとの歌曲や、ヴァイオリンのオイストラフ、カガン、チェロのグートマンなどとの室内楽で、今では名盤として評価されているカラヤンとのベートーヴェンのトリプル・コンチェルトについては全くひどいものだとこき下ろしている。
このモンサンジョンの作品から見えてくるリヒテルは非常に冷静に人物や物事を見極める人で、政治体制や音楽界に対しても常に超然とした精神的自由人の立場をとっていたということである。
スターリンの国葬で演奏したからといって熱烈な共産主義の信望者ではなかったし、楽壇の内情には興味を持たず、ただ出会う人の個人の姿を凝視し真実だけを見続けた。
決して威圧的な態度はとらず、むしろ穏やかだったが、自分の演奏には人一倍厳しかった。
勿論他の演奏家の優れた演奏には賞賛を惜しまなかったが、また欠点もつぶさに見抜いていた。
22歳でモスクワ音楽院に入るまで正式な音楽教育を受けていなかった彼は、一方で少年時代からオペラやバレエの伴奏ピアニストとして奔走し、支払いをジャガイモで受けたこともある人生経験での適応力から、こうした独自の哲学を持つに至ったのかも知れない。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2016年02月20日
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1983年にドナルド・フェザーストーンによって制作されたこの短編のドキュメンタリーは2部分から構成されている。
第1部はポゴレリチの師でありまた妻でもあったピアニスト、アリーザ・ケゼラーゼによるポゴレリチへのレッスン風景と両者へのインタビュー、そして第2部は放送用録画の本番で、ラヴェルの『夜のガスパール』全3曲がレッスンの成果を示す形で演奏されている。
シンプルな作りだがポゴレリチの素顔を捉えた作品として評価したい。
レッスン内容はピアノの技術的な問題を一通り解決したピアニストが初めて臨むことができるような高度なもので、作品のインスピレーションになった詩の解釈から表現上のテクニックまでが総合的に試みられている。
ケゼラーゼはポゴレリチの演奏を初めて聴いた時、彼のテクニック上の弱点、つまり手のポジションに硬さがあることを即座に見抜いて「あなたは才能に恵まれているが、これからハードな努力をしなければならない」と忠告した。
彼女の不躾な指摘に面食らったポゴレリチは「誰ですか、あなたは?」と問いただしたという。
ケゼラーゼは、ピアニストの手は他の身体の部分から完全に独立して自由でなければならないと力説している。
だが彼女は彼の個性を損なうような教え方はしなかった。
むしろ個性が活かされる自由な手のポジションとそれが発揮される能力を確実に養ったことが、彼のその後の急速な上達にも証明されている。
1980年の第10回ショパン・コンクールでの、アルゲリッチがテレビ放送のインタビューに答えて「彼こそ天才、審査員でいることは恥だ」と言って辞任したエピソードも短いながら収録されている。
ここでは政治的な背景には一切触れられていないが、ケゼラーゼは「審査員達はポゴレリチの演奏に異質さを発見すると、彼の表現上のミステイクを躍起になって探し、それがないと分かると、今度は彼の服装やステージ・マナーを批判してコンクールの本選から排除した」と証言している。
ポゴレリチ自身も審査の対象が音楽以外のことに及ぶ奇妙さを、真のアーティストに対する致命的な事態だと冷静に話している。
結果的に、審査員達の罪滅ぼしのためか、彼には特別賞が授与されることになる。
その表彰式にチューインガムを噛みながら現われたポゴレリチは聴衆の大喝采を浴びている。
彼の場違いとも思える宅急便の配達人のような服装と、シニカルな笑顔は明らかにこのコンクールに抗議したものだ。
結婚については、一般に言われていることとは多少異なっていて、彼らが結婚したのはポゴレリチが21歳、ケゼラーゼ37歳の時だったようだ。
また電撃的な結婚ではなく、10回から15回ほどのレッスンに通った後、いつものようにコーヒーを一緒に飲んでいる時にポゴレリチが切り出した。
彼はまだ18歳で、ケゼラーゼには子供もいたし当時の生活に不満はなかったので、彼女は申し出を遮り、取り合わなかった。
彼は怒って「どうあっても結婚するよ」と捨て台詞を吐いてドアに八つ当たりして出て行ったと回想している。
しかし後年彼女が亡くなった時、ポゴレリチが総ての演奏会をキャンセルして入院するほど重度の鬱状態に陥ったことは、妻への一途な愛情の証しだろう。
インタビューはスコットランドの彼らの自宅で行われ、彼女の息子ゲオルギとの家族団欒の微笑ましい風景も映し出されている。
尚レッスンはロシア語で、インタビューにはポゴレリチが英語、ケゼラーゼはロシア語で応じているが、英、独、仏語のサブ・タイトルが選択できる。
リージョン・コードはフリー。
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2015年11月18日
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ブリューノ・モンサンジョンの手掛けた最新のドキュメンタリーで、彼らしい演出的な操作をしない淡々としたインタビューと若い頃から現在までのポリーニの貴重な映像を繋ぎ合わせた手法の中に、稀有のピアニストの偽りのない姿を浮き彫りにしている。
一連のインタビューでポリーニ自身が暗示しているように、彼は自分自身や家族との日常生活については演奏活動とは常に切り離していた寡黙の人だった。
その彼が70歳を過ぎてから初めて語り始めた少年時代から現在に至る半生には、私達が今までに知ることができなかった意外なエピソードも含まれている。
ポリーニが18歳でショパン・コンクールの覇者になった時の映像は流石に初々しく隔世の感が否めないが、この時の審査委員長ルービンシュタインから『彼はテクニック的にはここにいる誰よりも上手い』と言われたことをポリーニ自身は、居並ぶ審査員に対する皮肉だと解釈している。
しかしこの言葉から意図的に『テクニック的には』が削除されて広まってしまったために、如何にも大袈裟な評価として残ってしまったとしている。
彼がその直後演奏活動を休止した理由については、引く手あまたのコンサートを続けるには余りにも若く無知で、更なる音楽の習得とショパンだけではない他のレパートリーを開拓する時間を捻出するためだったと回想する。
つまりルービンシュタインの言葉を誰よりも深刻に受け止めていたのがポリーニ自身だった。
このDVDを見ればポリーニが一般に誤解されているような無味乾燥の機械屋でないことが理解できるだろう。
音楽と政治とは分けて考えるべきものだという彼の主張も興味深い。
その言葉通り彼は演奏の場に政治色は決して持ち込まなかった。
彼のイタリア共産党入党には勿論友人ルイジ・ノーノやアバドの影響もあったに違いないが、直接的な動機はソヴィエトのプラハ侵攻を当時のイタリア共産党が非難したことに共感を得たからのようだ。
ただポリーニは、音楽は総ての人のためにあるというモットーから、友人達と労働者や学生のためのコンサート活動も積極的に行った。
ここでは彼が工場の中でベートーヴェンの『皇帝』を弾くクリップも挿入されている。
筆者自身彼のリサイタルを破格に安い入場料で聴いたことを思い出した。
ポリーニはレパートリーの少なさでも他のピアニストとは一線を画しているが、長年に亘って弾き込んで行く曲目で残ったものは、私が(精神的に)疲弊しない曲だと告白している。
その上でスカルラッティやラヴェルを弾けないのは残念だとも述べている。
最後の質問で『貴方は伝道師のような使命感を持って演奏活動をしているのか』と尋ねられると、ポリーニは『とんでもない、私の個人的な喜びのためだけです』とかわしている。
これは謙遜というより確かに彼の本心かもしれない。
ポリーニがインタビューで話しているのはイタリア語とフランス語だが、字幕は英、独、仏、中、韓、日本語の選択が可能で、日本語については要点を簡潔に訳出したもので、この手の字幕スーパーの中ではまともな仕上がりになっている。
リージョン・フリーで挿入されたパンフレットには、このDVDに使われた映像での総ての演奏曲目が掲載されているが、それらのデータは記されていない。
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2015年04月01日
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映画『男はつらいよ』については、初めは、低俗な喜劇ぐらいにしか感じていなかった。
寅次郎の筋は意識的なワンパターンである。
まず夢の場面と、寸劇があった後、ヤクザ者の寅が柴又のとやらにひょっこり帰ってくる。
おいちゃん、おばちゃん、妹のさくら、その夫の博と子供の満男、隣の印刷工場のタコ社長など、おなじみのメンバーに大歓迎されるが、それもつかの間、ささいなことからけんかが始まって再び家を飛び出す。
旅の空で美しい女性と知り合い恋心を燃やすが、やがて失恋、という段取りだ。
寅次郎は無学で根気がなく、頭も少し弱いが、驚くほど純情、純粋で人情に厚く、ひょうきんで、彼のまわりには笑いが絶えない。
相手が芸術家だろうと、金持ちであろうと、乞食であろうと、いっさい分けへだてせず、人間対人間として付き合う。
寅次郎にとって相手の肩書とか職業などは一文の値打ちもなく、人間性だけが大切なのである。
だから女性も完全に心を開いて寅次郎の胸の中に飛び込み、自分のすべての悩みを打ち明け、「私は寅さんが大好き」と言う。
その言葉に嘘偽りはないのだが、寅次郎の方は女も自分に恋しているのだ、と誤解してしまい、悲喜劇が起こるのである。
このシリーズが始まった頃、寅次郎は愚かなだけの男で、おいちゃんが「ばかだなぁ」と慨嘆するのが常であった。
寅次郎がばかなことをしでかし、それを監督もばかにし、観客もばかにし、笑い合って日頃のストレスを解消する、というパターンの連続であった。
ところが……、いつの頃からか、おいちゃんの「ばかだなぁ」というセリフが聞かれなくなり、寅次郎に変化が見えてきたのである。
といって、教養がついたわけではないし、頭が良くなったわけでもなく、寅はあくまで寅なのだが、微妙な深みが出てきたのだ。
つまり作品の中で車寅次郎が一人歩きを始め、その寅次郎に監督であり、原作者でもある山田洋次が教えられるようになったのである。
筆者は今では『男はつらいよ』は最高の娯楽作品で、同時に最高の芸術作品だと考えているが、その理由はまさにこの一点にあるのだ。
寅次郎は無教養で常識がなく、礼儀作法もまったく知らないがゆえに、人間の生まれながらの純粋さがほんのわずかも傷つけられることなく残されていて、大自然から与えられた純粋直観が曇らされていない。
人はとかく肩書で他人を判断しがちであり、教養の有無や礼儀作法の有無で価値を決めがちであるが、寅次郎に言わせれば、これほどナンセンスなことはないだろう。
まったくの裸になったときどういう人間なのか、それだけが問題なのであって、むしろ、教養や常識や礼儀作法は人間を堕落させる。
余計なものがべたべたとはりついて、本来の純粋性が失われ、俗っぽくなり、本質が見えなくなり、何よりも裸になれなくなってしまう。
そこへゆくとフーテンの寅は生まれたままの姿でそこに立っていて、自分の正直な気持ちだけで生きている。
笑いたいときに笑い、悲しいときに悲しみ、怒りたいときに怒る、そこにかけひきや偽りはいっさいない。
子供のような人、いや、神様のような人、それが寅次郎である。
映画の中でいろいろな出来事が起こったとき、他の人は常識でしか考えられないが、寅次郎はズバリ真実を見抜き、真実のままに行動する。
そのことに東大出の山田洋次監督は教えられるのであろう。
といっても、『男はつらいよ』はあくまで大衆のための娯楽作品である。
しかし、寅次郎は単なる笑わせ役ではないのであって、人を笑わせ、楽しませながら、人間の真実を教えてくれる存在である。
山田洋次監督の才能は抜群であるが、彼の偉大さは、渥美清という天才俳優を得て、笑わせながら人生の深い味わいを、しかもそれを求めている人にのみ与えてゆく点であろう。
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2014年03月07日
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映画で使われたモーツァルトの曲のコンピレーション・アルバムをご紹介したい。
『アマデウス』や『みじかくも美しく燃え』など有名な作品から、意外な映画での使われ方など、おもしろい発見もできる。
ことに爆発的なブームになって、アカデミー賞まで受賞した映画『アマデウス』。
その音楽の演奏を担当していたのが、ネヴィル・マリナーである。
あの映画によって音楽ファンはもとより、映画ファンまでをとりこにしたわけだが、マリナーのスタイルには、きわめて現代的な歯切れのよさがある。
どの曲も綿密なアンサンブルと見通しの良い構成をもって仕上げられている。
快適なテンポ、溌剌としたリズム、まろやかな響きと克明なディテールの再現によって明快で端正な表現がつくられている。
いくぶんアクセントは強いが、リズム感覚がよく、何よりもスリムで引き締まっているのが特徴だ。
流れるような旋律美を生かしながら、小味を利かせて、さらりと表現したモーツァルトである。
イギリスの指揮者というと、すっきりと爽やかで明快な指揮をする人が多いが、マリナーもまた、そのようなひとりである。
バロック音楽の指揮から出発したマリナーだが、後になればなるほどに、大編成の楽団を指揮する機会が多くなり、音楽的なスタイルも、昔とは随分変わってきている。
スケールが大きくなってはいるが、構築的にがっしりとした演奏ではなく、旋律的な流れを大切にして、キビキビと表現しており、現代風のモーツァルトと言えよう。
ここには、オリジナル楽器とは違った意味で現代感覚があふれており、感覚的に新鮮で開放感に富む演奏となっている。
これだけの作品群をこれほどムラなく、高い水準で演奏することは容易なことではない。
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2008年02月01日
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シアター・ピースとは、舞台の上で、楽譜に書かれた音を演奏するだけでなく、テキストを読み上げたり、場所を移動したり、演奏しながら洋服を脱いだり、あるいはエンジンをふかす音だのクラクションだのといった楽器以外の音や光を発生させたりするなど、視覚的・演劇的なアクションを伴う作品のことで、1950年代後半から70年代前半にかけて盛んに試みられた実験音楽の一つの形態である。
《音楽的な》音だけを居ずまい正しく聴くことに慣れた耳には、ちょっとしたハプニング状態に陥る。
シアター・ピースの多くには予期せぬイヴェントやハプニングが仕掛けられていて、そこで起こることはしばしば偶然に委ねられているから、なかなかお馴染みの《意味》には落ち着いてくれない。
当初は、そうした《常識》との落差を突きつける過激にナンセンスな音楽であったが、1970年代半ば以降は「さまざまな要素を持つ音楽」の一手法として安定活用・安心体験されている。
柴田南雄は、70年代に日本の民謡などを素材にした合唱のための優れたシアター・ピースを遺した。
近年では、中国出身でNYで活動するタン・ドゥンという作曲家が、90年代に至って「オーケストラル・シアター」という作品で、この手法を久々に「安定活用」して話題を呼んだ。
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2008年01月18日
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げきばん、と読む。
劇伴とは、TVドラマや映画や演劇に付けられる音楽のことを指す。
いわば業界用語。
芝居の世界を引き立て雰囲気を演出する、縁の下の力持ち的役割を担っている。
コマ切れの時間枠の中に、演出家や監督の欲しい音世界を実現して埋め込んでいくという、職人的な技術が要求されるため、比較的限られた専門の人たちによって作られている。
それでも、気合いの入った作品などでは、しばしば現代作曲家が起用され、その独自の音世界が映像に食い込んで、観衆に斬新な印象を残す。
映画「ピアノ・レッスン」や「英国式庭園殺人事件」のマイケル・ナイマン、NHK・TV「夢千代日記」や映画「東京裁判」の武満徹などは、音楽の個性が逆に映像作品の質を決定してしまっているほどだ。
ナイマン「グリーナウェイ映画音楽集」、武満徹「写楽」は、映画抜きに、これらの作曲家の単独の作品として充分聴いて楽しめる。
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